階梯

 頭上で黒い鳥が一羽鳴いた。烏や八哥鳥ともまた違う様子で、その姿をどうにか捉えようとするが、さっきからしょぼしょぼと目が霞んでいてうまく見えない。そのくせ体がやけに軽い。これはもしや夢なのではなかろうかと思い頬を抓ってみると、確かに鈍い痛みを感じる。どうやら現実らしい。周りは恐ろしいほどに静かで人っ子一人立っていなかった。建物も街灯も見当たらない。ひとえに砂でできた地面とそこから生える緑が少々あるばかりである。
 どうして己がこんな所にいるのか、どれだけ頭を掻いても浮かばないが、ただひとつわかるのは、ここに至るまでずいぶんと長い距離を歩いてきたということだ。いつのまにか足の裏が熱を帯びている。
 上を見ると月は出ていなかった。先程の鳥ももう消えていた。ただ暗く寂しい世界だけが、見渡す限り続く。ついに歩き疲れて、僕は衣服が汚れるのもかまわず腰を下ろした。突如として砂が舞い、丈の長い草をゆりゆりと撫でる。砂の一粒が右の眼に侵入する。強く瞼を閉じると、しばらく真の闇を抜け出せなくなった。抜け出したとて、やはり景色は代り映えしない。
 長い間ぼーっとただ体を休めるよう遠くを眺め、そろそろ行こうと立ち上がったとき、背の高い男が向かってくるのが見えた。やけに首が長く、縒れてぼろぼろになった黒装束に身を包んでいる。俯きがちで顔の造形がよく見えない。そのまま目の前にぴたりと足を止める。おもむろに首を右に左にと動かし、
「私の行くべき道はどこだろうか」とこちらに尋ねた。
 下から仰ぐ形になるが、視線は一向に交わらない。残念だがわからないと答えた。
「ただ、この先には何もありませんでしたよ」
「そうか。それは都合がいい」
男はそう呟いたまま、流れるように去ってしまった。

 僕もまた歩みを進めた。どこに向かうでもなく、何を探すでもなく、ただ男とは反対の方に行く。もはや自分の意思すらそこに関与していないかのように思える。
 そのとき、遠くで何かの千切れる音がした。音の大きさから想像するに、たいそう立派な御神木か岩石でも捻じり回したに違いない。だがここで想像力は尽きた。もしそうだとすれば一体何者がそれをやってのけたというのか。その先の推理は立てようがなかった。そちらの方角に目をやると、手前に小さな明かりが灯っているのが見える。僕は嬉々として先を急いだ。
やがて足元は勾配が強くなり、そのうちごつごつした岩肌が剥き出しになった。明かりはその先にあるのだが、地に足を取られてなかなか思うように動けない。

 もうすぐそこ、声の届く距離だ。

 やっとの思いで辿り着くと、その正体はランタンを持った老人だった。すこぶる大きな岩が二つ聳える間に入り、手元の一点を見つめている。長く縮れた髪は軽薄な灰の色をしていて、性別は判然としない。これまで生きた歳月を讃えるように、顔一面びっしりと刻まれた皺のせいだろうか。老人は右手に持った淡い灯火を言い訳程度に揺らすのみで、じっと動かずに佇んでいた。
「あのう——」
 僕は何かを訊こうと試みたが、そういえば自分に用意した質問などないことを思い出す。この明かりを見たときはあれほど喜んだはずなのだが、今となってはその理由もわからない。一時呆然と立ち尽くし、奇しくも二体の石像が見つめ合うような位置関係となった。僕の存在を認識していないのか、それでも老人の体は無反応のままである。ひどく腰の曲がった体に、今にも折れてしまいそうなほど細い腕が伸びている。
静寂が十分に馴染んだ頃、やっと一つかろうじて思い当たった。
「さっき、こっちで何やら凄い音がしませんでしたか」
 老人はやはり返答をしない。耳が遠いらしい。よく見ると、目に白内障を患っていることがわかる。なるほど、どこかおかしなこの態度にも合点がいった。つまり僕は石像と向かい合っていたも同然だった。
「いえ、やはりもう大丈夫。ありがとう」
 なんとなく会話を途中のまま残して行きたくなくて、自ら完了させる。
跟を返そうとする間際、真っ白の瞳孔がぬるりとこちらに動いた。その動きは、水上の浮標を連想させた。そうして唇を微かに震わせる。感情の機微に触れた気がした。脹脛に力が入るのを自覚する。だがいつまで待っても老人にそれ以上の動きは確認できなかった。もう行かなければならない。特にあてがあるはずもないのに、大事な使命を受けているみたいにそう考える。僕は南を目指すことにした。
 体の向きを変え、足を踏み出して数秒後、背中で老人がケタケタと笑い出した。振り返ると、しかし格好は先程と少しも変わらない。ただ奇妙な笑い声だけが耳に届く。時間が経つにつれて、ケタケタがケケケと転じ、最後は喉に封をしたように掠れる。僕はその様子に恐れおののいた。けれど同時に、たまらず目が離せないでいた。老人はもう長くはもたない。それが今はっきりとわかる。
命が尽きることはすなわち恐怖に値する。誰にも等しく訪れる死は、誰もその本質を知り得ないものでもある。目の前のそれは、いつまでも僕の頭を離れなかった。


「危なかったですねえ。あと一歩近づいていたら、あなたはただじゃ済まなかった」
 声をかけられて初めて、側に一人の男が立っていることに気づく。曰く一部始終を物陰から見ていたらしい。僕は足を止めて応じる。
中年とおぼしき男は顔を背けたくなるくらい醜い姿をしていた。鼻は大きく腫れて、口は頬のあたりまで裂けている。髪の毛は一本も残っていないし、おまけに顔面全体の皮膚が爛れて目が半分塞がれている始末だ。
 背筋がすうっと冷える感覚があった。しかし何が原因か断定ができないでいた。突然誰かが目の前に現れたことからなのか、その男の容姿からなのか、あるいはあの老人のせいなのか。そのすべてが該当する気もするし、まったく的外れの気もする。
「僕を道連れにしようとしていたのですか」
「道連れとは違う。むしろあなたを糧に自分だけ生き長らえようとしていたのでしょう」
「あの老人を知っているのですか」
「いいや、なんにも。ただおっかない婆さんということだけは言える」
 ということはあの者の性別は女だったようだ。とはいえそれを知ったところで満たされるものは何もなかった。そんな情報は今となっては取るに足らない。
 僕が求めているものは、もっと重大なもの、いわば真実といえるものだ。ここはどこなのか、何が起こっているのか、自分はなぜここにいるのか。だがその答えを提示してくれる者などいるはずもないのだった。
 男の口調は妙に期待を抱かせる。何もかもを知っている雰囲気を醸し出している。それがために色々と問いかけるが、のらりくらりとかわすだけで、核心となる答えは何一つ得られなかった。一種の腹立たしさを覚える。僕は長居を無用と判断し、すぐ男を後にした。


 またずいぶん長い道のりを歩いた頃、東に三本の赤い筋がかかった。流れ星だろうか。しかしその光はずいぶんと濃い赤色をしている。しかも妙なことに、なかなか消えずにどこまでも流れて行く。ずきんと頭が痛む。僕はこれと似た景色を見たことがある。星の流れる夜。記憶の引き出しに手がかかる。引っぱり出そうと両手を強く握ったとき、目の前に勢いよく何かが降ってきた。
 砂煙が舞う。はっと息を吞む。
 降ってきたものは、流れ星ではなかった。子どもだ。歳は十にも満たない男の子。目が宝石のようにくりくりしており、丸みを帯びた顔立ちにはあどけなさが残る。いたたた、と腰に手を当てている。
「大丈夫か? おい。立てるか」
「ちょっと打っちゃっただけ。平気だよ」
 周りには登れそうなものは何もない。相変わらずの景色が続く。この子はどこから落ちたのだろうか。ともかく大きな怪我はなさそうだ。けれど後になって酷くなることも考えられる。早いうちに医者に見てもらうのが賢明だろう。
「お母さんはどこにいる?」
「ぼく、お母さんをしらないんだ」
「そうか。ではお父さんは?」
「お父さんもいない」
「すると、祖父母がどこかにいるのか」
 少年はそれも違うと答えた。どうやらこんな場所を一人で出歩いていたらしい。孤児ではないかと心配になったが、帰れば兄弟が何人もいて、普段は皆で助け合って暮らしていると言う。近頃の子どもはなんと逞しいことか。僕はうんうんと感心してしまった。
 痛むところを訊くと、もうどこも痛くないとあっけらかんとした顔を作る。とてもやせ我慢には見えない。
「なぁ、君は一体どこから落ちたのだ」
「うーんとね。ほら、あそこらへん」
 少年の指差した先、落下地点の真上に視線をやるが、墨汁のような黒が広がるばかりで何も見えない。凝視すると、風に何かが揺れる。目を細める。あれは、気球か? 僕たちの遥か高く、白の気球らしきものが夜に染まって、鉛色に浮いている。
「おい、あそこから落ちたというのか。何故それで無事なのだ」
「あんなところから落ちるくらい、皆なんともないでしょ」
 僕は呆気にとられた。返す言葉が見つからなかった。
「えー、もしかしてお兄ちゃん。そんなんで死んじゃうの?」
 茶目っ気を多分に含んだ言い方だ。馬鹿にしているのとはてんで違う。子ども特有の純真からくる言葉の柔らかさ。けれど僕はそれを愛でる余裕を失いつつあった。心臓が大きく弾む。鼓動が乱れる。それは血液をあるべき器官へ送れているのか心配になるほどだった。頭痛は先程よりさらにその激しさを増して襲ってくる。
「死ぬさ。死ぬだろう。あんなに高い場所から落ちたら誰だって命を落とす」
 少年は眼前にいるはずなのだが、あの気球より遥か彼方にいる感覚があった。僕の意識がどこか遠くへ漂い始める。
「実際、僕は——」
 何かを言いかける。だが何を言おうとしたのか、自分でもわからない。厚い磨り硝子の向こうにあるように、その形はぼやけてしまっている。しかしそこには間違いなく何かが存在していた。
 しまいに僕はそこいらに座り込んでしまった。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「……ああ、失礼した。すまない。少し頭が痛むようだ」

 二人は小高く盛り上がった丘の上で休むことにした。冷静さを失った情けない姿を責めることもなく、少年は僕に気遣いを見せた。隣にちょこんと座り、時折、会ったばかりの男の背中をさする。
「もう大丈夫だからね」
 本来であれば反対の立場であるべきところ、これではどちらが大人かわからない。長いこと歩いて、久しぶりに誰かとまともな会話をした気がする。少年は兄弟についていろいろと教えてくれた。この子は何番目の子だろう。長男には見えないが、かといって末っ子も似つかわしくない。こんな小さな子どもに僕はすっかりと心を許してしまって、時間の経つのも忘れて話した。しばらくすると少年はうとうとと寝息を立てだす。その寝格好は胎児を連想させる。安心しきったその格好に警戒心などまるで感じられなかった。
 知らぬ間に頭の痛みは癒え、心臓の暴走も落ち着いていた。きっとこの子のおかげだ。


 頬を三度叩かれた。叩かれたには叩かれたが、その言様は適切ではないかもしれない。強弱を表すなら、むしろ撫でられたに近いものだった。艶やかな指は僕の不格好な耳に当たり、しかし不快感などはこれっぽっちも感じられなかった。慎ましい手の平は乾きかけの汗に引っ付き、ぺたぺたぺたと音が鳴る。少年の寝顔を眺めているうち、自分も眠りに落ちたらしい。
 ぼやけた視界がその手の主の輪郭を捉え始める。妙齢と見える女が片膝をついてしゃがんでいた。美しい女だった。目鼻立ちはくっきりとしており、凛とした雰囲気を纏っている。入眠前と変わらぬ闇が、女をより妖艶に演出する。何より僕にはっきりと印象を与えた特徴がある。
女は透き通っていた。比喩表現ではなく、裾からのぞく足が、袖から伸びる手が、襟から見える首がうっすらと透明なのだ。はじめは目を疑った。しかし、ものの綺麗であることを透明度で例えるならわしに当て嵌めてみたとき、女の美しさとそれを並べれば、だんだんおさまりが良いと思えてくる。その体を通して見ると、何もないこのぶっきらぼうな暗闇でさえ、わずかばかり明度が上がる気がした。ここでは不思議なことばかりが起こる。もっと不思議なことに、自分は無意識のうちにそれを受け入れようとしていた。
「この子のお知り合いですか?」
 透けた喉から発せられた声は、想像よりも低く耳に届いた。
 少年ももうすっかり眠りから覚めており、目のくりくりには先程よりもたくさんの光が集まっている。
「いえ、ついさっき出逢ったばかりです」
 どういうわけかを知りたがったため、僕は経緯を説明した。ひとしきり説明が終わると、女は少年と家族と親しい間柄であると自称した。少年もそれを認める。口ぶりから察するに、家族と言って差し支えない関係、いわば親代りであることは想像に難くなかった。「この子がお世話になりました」と頭を下げる。少年には両親がいない。にもかかわらず彼から寂しさのようなものを感じなかったのは、この女の存在があるからに違いない。
 だがよく見ると、少年の様子がおかしい。僕と話していた時の天真爛漫はどこへやら。さっきから蚊の鳴くように声が小さく、もじもじとしている。おまけに顔は夏場の林檎を思わせるくらい真っ赤だ。僕はこの仕草に見覚えがあった。少年はこの女に恋をしている。
 ひょっとすると女の方でもそれに気づいているのかもしれない。だが未熟な男の子の心の移り変わりを女もわかっているから、表立って対峙をしないのだ。親代わりの身からすれば、そんな恋心の変遷すら愛おしく思えるものなのだろう。なんと甘酸っぱいことか。少年を林檎に例えたのは、我ながら言い得て妙である。
 もう兄弟のところへ戻ると言う少年に、女はこれから遠くへ出かけるため、長いこと帰ることができないと告げた。
「わかった。気をつけてね」
 少年は依然として真っ赤の顔で了承するが、「なるべく早く帰るからね」という言葉を返されると、今度は耳まで赤く染めた。
こんな暗がりを女一人で歩かせるのも気が引けるし、どうせ行く当てもない。僕は同行を申し出た。用心棒にくらいはなれるだろうと思ったからだ。
「ですが、そんじょそこらに行くわけではないのです。よろしいのですか」
 一向にかまわない。むしろこれまで一人で歩いてきたことを鑑みれば好都合だ。
二人は少年に別れを告げた。
 僕らは目的地を目指した。聞くところによると、それは大勢を祀った墓なのだそうだ。女との間にまとまった会話は多くなかったが、いやな心地はしなかった。


「あれは何ですか」
「ごみ溜めです。最初に誰かが捨てて、それ以来日に日に溜まっていくのです。今はもうあのとおり辺り一面覆われてしまいまして」

「あれは何ですか」
「あれは昔からある船です。砂に埋もれてずいぶんと風化してしまっているでしょう。なぜこんなところにあるのか、今では誰もわからないのです」
 こんな問答をしながら僕らは三日三晩歩いた。その間、太陽が昇ることは一度もなかった。


 女がもうそろそろだと言ったとき、森が見えた。近づくとそれは雄大で一種の圧力さえ感じられる。森というからには無数の木が生えていて、ところがどの木を見ても葉は一枚もついていない。枯れているようにも見えない。そのうちの一本のてっぺんに濃紺の塊があった。
 あれは鳥だろうかと尋ねる。女は首を傾げ、こちらを覗き込んだ。何か困ったような、今にも笑い出しそうなまとまりのない顔をつくる。
「鳥? こんなところに鳥などいるはずがありません」
 いつか頭上で鳴いた黒い鳥の声を思い返す。確かに事実として記憶にあるのだが、何故だろう。カアカアと鳴いたか、ピイと鳴いたか、まるきりその声を思い出すことができないのだ。
 その表情には、この人は何を言っているのだろうかと怪異の意味合いが見受けられた。かまわず反論に出る。
「そんなことはないでしょう。ここに至る前、烏か八哥鳥の声を聞いたんです」
「からす? はっかちょう?」
 うーんと考え、今度は困惑の色を強めた。
「それは一体何でしょう? 聞いたこともありません」
 おかしな話だ。八哥鳥はともかく烏を知らないなどありえない。あいつらはどこにでも現れ、ごみを漁り死肉を突く。巧妙に世を渡る。その存在と交わらずに生活を営めるとは到底考えられなかった。
 もう一度森を見上げる。もう飛び立ってしまったのか、それとも女の言うとおり、そもそも元からいなかったのか、いずれにせよそこには空虚のみが見えた。
「確かにあの木にいたんだが……」
 呟くと、女はさらにこの地に植物など生えないと断言した。僕はいよいよ何もわからなくなった。ではあの森は何なのだ。これまでに見た草は何だというのだ。女がでたらめを吹いているに違いないが、その言葉は妙な説得力を孕んでいる。
 視線は森(と僕が信じているもの)と女を交互に二度ずつ行き来する。ああ、と僕の疑問を汲み取り女が声を上げる。
「あれは死骸ですよ」
「死骸?」
「ええ。骨です」
「骨?」
 僕はただ鸚鵡返しをする間抜けと化す。毛ほども意味が呑み込めずに、言葉を反芻する。女はなんということはない、当たり前の口ぶりをしている。人を騙す意図などこれっぽっちも感じ取れない。僕はただ口をぱくぱくと開閉することしかできないでいた。かろうじて何の骨かを尋ねると、「鯨です」との返答があった。
 その時だった。二人の立つ場所の真上で、大きな音がした。いつか聞いた何かを引き千切る音。あまりの大きさに地面が揺れ、立っていることができなくなった。たまらず耳を塞ぐ。目をきつく閉じ、眉間にあるだけの力を入れる。少しでもそれを緩めれば体が張り裂けてしまいそうだった。五感すべてが聴覚に集約されてしまうような恐怖を覚える。
 音が止み、恐る恐る上を向くと、暗い空に何もかもを飲み込んでしまうほどの巨大な影が浮かんでいた。雲が空を覆うとき、まるで世界全体が覆われているのではないかと思うときがある。これに似た錯覚がこの時も発生した。
 女は先程の続きを平々たる口調で話す。
「あそこに見える骨は、あれの成れの果てです」
 この言葉で気づく。視線は相変わらず上空にあった。巨大な影、あれは鯨だ。無数の筋の流れる大きな腹が、呼吸に合わせて収縮を繰り返す。生命活動自体に、圧倒的な力を帯びている。もしこれが神様だと言われれば、今すぐにでも手を合わせ膝をついただろう。たった今獲物を捕食したのだ。

 僕が森だと信じたものは、鯨の亡骸が形成した集落だった。てっぺんにいたものは、ここの住民だ。それだけじゃない。首の長い男も、老婆も、醜い男も、あの少年も、そしてこの女もそうだ。
 僕は今、深海にいるのだ。太陽の光さえ届かぬ海の底。僕はここを延々と歩いてきた。


 いつかの夜のことを鮮明に思い出す。それは真ん丸の月が出ていて、すべての星が十字に滲む日だった。僕はこの世にほとほと嫌気が差して、とある崖の上に仰向けで寝転がっていた。そこは僕のお気に入りの場所で、良いことでも悪いことでも、何かあるたびに足を運んだ。人里離れた場所にあるため歩けば相当の時間がかかるが、建物も街灯もない。ここから見上げる夜空は格別だった。なにせ遮るものがないのだから、景色をすべて独り占めにできるのだ。自分の生涯を終わらせるには申し分ないところである。
 その日、僕は崖を飛んだ。
 この世に未練など何もなかった。しかし強いて言えば——本当は何もないのだが、誰かに頼まれてどうしても一つだけ挙げなければならないとするならば——この広い海を何も知らないことだろう。この海には想像するに余りある生命が、神秘が、残酷さが存在するはずだ。この世界の源とも呼ぶべきそれを、僕は知らないまま死んでいく。
 落ちながら、美しい星を見ていた。そのうちの一つがひと際強く煌めき、横に流れる。
唐突に幼い頃に見た魚の図鑑、最後の一頁に載せられたある写真が強烈に頭をよぎる。生きた化石と呼ばれるその魚は、僕の心を打った。そしていつまでも消えなかった。海に強い憧れを抱いているのは、それが起因となっている。僕はどうしてもその魚と、彼の暮らす海をこの目で見たかったが、もはや叶わなかった。
 最後に願いをかけてみようにも、三度唱える時間も気力も残っていない。
 死を受け入れかけた時、天が動いたのだ。もう一つの星が流れ、さらに当夜最後の星が流れた。夜空に三つの星の筋が浮かぶ。僕は目を閉じ、手を合わせ願った。


 頭上で賛美歌が聞こえた。海の住民たちの美しい声だ。意識が引き込まれそうになる。鯨もそれに呼応する。ここは天国とは真反対に位置するはずだが、本質はもしかすると同じなのかもしれない。現世では考えられない光景が、今目の前に広がっている。ただひとつ決定的に違うことがあるとすれば、そこに立つ僕はこうして生きている。
 歌が終わると、鯨はその荘厳たる尾鰭で世界を扇ぎ、浮上していった。僕は目的を得た。正確に言うならば、もともと持っていた目的を再度拾い上げたのだ。
「どうしても会いたいものがいるのだが——」
 女に告げると、その方のところへ共に行くことはできないと断るかわりに、経路を教えてくれた。

 僕は歩いた。女のいう場所へといつまでも歩いた。地上では太陽が何度も昇り、また沈んでいく。僕は深淵を目指した。
 何億年と変わらぬ姿で、彼はそこに存在しているという。死ぬのは彼に会ったあとでも問題ないだろう。しかしながら死に方はどうしよう。もう飛び降りる崖など頼りない。いっそ僕も暗い深海でいつまでもひっそりと生き続けるのはどうだろう。途方もない時間が経ったとき、また誰かが会いに来てくれるのなら、それも悪くないと少しだけ思えた。

階梯

階梯

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-13

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