彼を食む

サーモンハンバーグ

 その日僕は、彼の一部を食べました。

 もし彼がそのことを知ったら、きっと彼は僕のことを気持ちが悪いと思い、嫌いになるでしょう。

 僕は、彼に恋をしていました。当時私は、まだ未成熟で透明な子供でした。ゆえに、友情と愛情を履き違えていたのです。

 それが恋愛感情ではないと気がついたのは、随分と後の話になります。

 六十を過ぎた今でも彼との親交は続いており、僕は何もないような顔をして、彼と話しています。

 生涯、このことを人に言うことはないでしょう。いわば、墓まで持っていく秘密です。

 でも、秘密をずっと抱えているというのは辛いものです。ですから、この手帳にその時の出来事を書いていこうと思います。

 これは、僕が中学校二年生、十四歳の夏の話です。

 その日、僕と彼は数学の先生が出した、沢山の課題を解いていました。夏休みも半ばに差し掛かった頃で、一番暑さが体に堪える時期です。

 その日は非常に暑い日であり、クーラーのない彼の部屋で、僕ら二人は額に汗が滲ませながら、シャープペンシルを動かしました。

 扇風機が回ってはいましたが、高い湿度と気温のために生ぬるい風が起こるだけで、涼しくも何ともありません。

 からからという古い扇風機が回る音がします。アブラゼミの嬌声も気にならないほどに、僕は課題に集中していました。

「問の二十、わからないな。國彦君、わかるかい?」

 彼が僕に聞きました。文武両道、背も高く顔も整った彼の唯一苦手だったのが数学です。そんな彼に教えを乞われたことが嬉しくて、僕は思わずにやり、と笑いました。

「和博君、これはだね……」

 僕は数学が大の得意でしたから、調子に乗って、まるで先生のような物言いで彼に公式の応用方法を教えてやりました。

 そんな偉ぶった態度だったにも関わらず、彼は笑顔で

「ありがとう」

 と、僕に礼を言ったのです。僕は、彼のそんなところが大好きでした。

 彼は剣道部に所属し、毎日稽古に明け暮れていました。女子生徒からも人気があり、大会に出るとあれば、大勢のファンが体育館へ詰め掛けました。

 しかし彼は、彼女たちにでれでれとした態度を取るでもなく、ただただ竹刀を振るうのです。

 僕は彼の親友という、なんとも良いポジションを手に入れました。ですから、一緒に帰るから、と言って練習が終わるまで彼をじっと眺めていることができたのです。

 僕は彼と一緒にいる間、よくできた彫刻のように美しい彼の横顔をよく盗み見ていました。少し癖のある漆黒の髪からは、当時の女の子の間で流行りのシャンプーの匂い。

 今思えば、彼には姉がいましたから、彼女が使っているものを一緒に使っていたと推測されます。当時の僕にそこまで考える頭はなく、ただただ良い匂いがするな、なぜ彼は男だというのにこんなに良い匂いがするのだろう、と思っていました。

 当時は制汗剤などなく、クラスの他の男子たちは皆、汗に塗れて嫌な臭いをさせていたものでしたから。

 課題を早々に済ませた僕は、彼の綺麗な手をじっと眺めていました。細すぎない指と関節。ほんの少しだけ見える青い血管。

筋ばり具合も絶妙で、しなやかだけれども、けして女の手ではない。そんな手です。

 文字を書くたびに手首の骨が僅かに浮き出たり、また引っ込んだり。その様子を僕は夢中で見つめていました。

 そして、気がつきました。

「和博君、指の爪が伸びているよ」

 いつも深爪の彼の爪が伸びていました。

「ああ、本当だ。切らないと」

 うちの学校は校則が厳しく、少し爪が伸びていただけでも注意を受けます。

 彼は夏休みで気が緩んでいたのか、爪を切るのを忘れていたようでした。

 彼は座卓の前から立ち上がると、部屋の角にある勉強机の三番目の引き出しから、少し錆びた古い爪切りを取り出しました。

 左手の小指から順に、ぱちん、ぱちんと彼は爪を切っていきました。

 彼は右利きでしたから、右手の爪切るときには手が震えて、断面が少しがたついてしまっていました。切った爪も粉々で、オフホワイトの細かな破片が机に散っていました。

 それとは対照的に、切られた左手の爪はみな三日月型で、爪の形をそのまま残しています。

 彼は爪を全て切り終わると、それを手で集めて屑籠へ捨てました。

 僕は、その様子をただじっ……と眺めていました。

 そして、彼はまた課題を解き始めました。いつのまにか日は沈みかけていて、窓からはオレンジ色の光が差し込んでいます。

 やがて彼の課題も終わり、僕らは他愛もない会話を始めました。内容は嫌な教師の悪口から、将来の希望まで。僕らはさまざまな話をしました。

「ちょっと、お手洗いに行ってくるよ」

 そう言って彼は立ち上がり、部屋を出ました。

 僕は、座卓のすぐそばに置いてあるくず籠を見ました。

 そこに入っている、彼の爪を。

 僕は手を伸ばし、彼の体の一部であった爪を、手に取りました。そして僕は、彼の爪をそっとポケットに忍ばせたのです。

 先ほどいた位置に戻り、彼の帰りを待ちました。

「待たせたね。どうする? 今日はこのままうちで夕食をとっていくかい?」

「いいや、僕はもう帰るよ。お誘いありがとう」

 こうして僕は、家に帰りました。母が夕食を進めましたが、僕はまだいらない、と言って二階の自室へと向かいます。

 そして、勉強机に向かい、母や妹が部屋に入ってきていないのを確認するとポケットから彼の爪を取り出しました。

 かつて彼の一部だった、彼の体から生成された白いかけら。鼻に近づけ、匂いを嗅いでみるも、なんの匂いもしません。

 僕は、もしかしたら彼は爪まで良い匂いなのでは、なんて思っていたのです。

 何を思ったか、僕はその爪を一つ、そっと口に入れました。彼を自分の中に取り込みたい、と思ってしまったのです。

 口の中のそれはまるで、魚の骨のような感覚でした。

「これが、彼の味」

 何の味もしませんでしたが、僕は確かに彼の味を感じました。

 そして、それをゆっくりと噛み締めました。彼の体から生成された物質を、僕は今口に含んで飲み込もうとしている。

 その事実だけで、僕はとても幸せな気持ちになりました。一部ではあるものの、大好きな彼を、食べることができたのです。

 こうして僕は、彼の一部を食べました。彼の爪は僕の中で消化され、やがて排泄されていったのです。

 しばらく経って、僕はとてつもない罪悪感に襲われました。親友の爪を持ち帰り、食べてしまうなんて。

 いくら彼のことが好きでも、そんなことをしてはいけない。このことを知れば、彼はきっと僕を嫌う。

 こうして僕は、決して人には言えない秘密を抱えることになりました。

 来週、僕は彼とのお酒を飲む約束をしています。実に一年ぶりの再会です。僕は、あんなことをしておいて、親友として彼に会いに行くのです。

 僕たちはきっと、自分の家族の話や仕事の話に花を咲かせるでしょう。

 時折僕は、もしかしたら、僕の体の中にはまだ彼の爪が残っているのかもしれない、と思います。

 このことを思い出すたびに、胃がちくり、と痛むのですから。

彼を食む

彼を食む

純文学系のBLを目指して書きました。 十四歳の夏。大好きな親友の体の一部を食べてしまう。そんな男の子の話です。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-13

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