姿



一 
 スザンヌ・レイシーさんの映像作品、『玄関と通りのあいだ』から伝わって来るのはまず彼女たちは個人として尊重されることをただ望んでいるということであった。
 かかる個人の尊重は彼女たちの周囲の人たちとの対話で限定的ながらも実現し得る。同様の状態が拡がっていけば、結果として社会状況が良くなることも考えられる。しかし彼女たちの誰もがこの結果には納得しないだろう。なぜなら、彼女たちは自分を含めた未来の「彼女たち」のために一所懸命に考え行動しているから。現在から延びる先を見据えて今を動かそうと努めている。その意思と気持ちのベクトルが背中を押し、「自分以上のもの」のために行動できる核心と動機に変換される。この過程が様々な形で表現の柄を大きくし、また多様な色を備えていく。
 『アナザーエナジー展』のテーマに深く関係するジェンダー論は既存の社会システムの中で分配される利益や評価を得る機会の拡大を目指すのか、または価値基準自体の変革を目指すのか。前者の視点は、例えば経済的格差に関連する社会構造に問題意識を向けるとき、実生活を送るために必要な早急に思える政治的主張という形を取るのもやむを得ない。他方で後者の視点を持つとき、ジェンダー論の主張は事実的差異に対して人が抱き得る差別意識の構造自体を把握しようとする。言葉の意味で世界を把握する「人」の認識に関わる難しい問題だからこそ、その要因をできる限り丁寧に腑分けし、多角的に論じることが望ましい。情報による統一的な世界の把握のために人の脳機能は「同一」の意味認識を堅く手放さない。常に同じを日々心がけることで今も昔も断絶されることなく、同じように生きていける。したがって、注視すれば差別的な意味内容を見出せる世界はその人がそれまで、そしてこれからも同じように生きようとする世界観とも言える。だから、それを根本的に変えられるのは本人だけになり、ジェンダー論はある意味でその人たちの世界観を揺さぶる。そういう意味で感情的な反応を招き易いとも考えられる。しかしながら例えば賃金等の労働条件だけが整えられ、一方で実質的な腫れ物扱いされるだけではジェンダー論が目指す差別の解消ひいては個々人が思うまま、望むままに生きられる状況が実現したとはとてもいえない。相互理解はジェンダー論に必須だろう。したがって、長期的な視点をもってその主張を展開するのが肝要となるのでないか。
 このように、私の足りない知識と理解で考えてみてもジェンダー論は「時間的にとても幅のある主張」として行わざるを得ない面があるのでないかと思う。そのために主張内容がどこか玉虫色に見え、要求の主張から理想を掲げる主張へと激しく移行する様をもって、ただただ相手を黙らせる主張と表面的に揶揄することができるかもしれず、あるいは、あらゆる差異を埋めてこちらの口を閉ざそうとする平等至上の主張にしか見えないことがあるのかもしれない。そこに加えて、対面し合う当事者の感情面の衝突から対立の悪化へと事態が展開するに連れて主張内容が攪拌されて、気付くべき大切なものが見えなくなる。その内に「ジェンダー論」という括弧書きの外側に余計な誤解が生まれ、その内容に踏み込むことなく、角が立たない対応を相手が便宜的に選択するという現実の対応が取られ…というループが生まれるとすれば、失うものが多い。
 ドキュメンタリーとしての『玄関と通りのあいだ』は、この点の靄を晴らしてくれると私は感じた。このドキュメンタリーで各参加者は黄色のストールを巻き、議論の場となる街の通りに並ぶ家々の玄関先に座って、個々人としての顔が見える形でそれぞれの意見を交わす。通りかかった人はその様子を近くで拝見できるので興味の赴くままに各参加者の議論をリアルタイムで追え、またそれぞれの主張に込められた思いの切実さを直に感じ取れる。結果、主張される問題に対して覚える肌実感がまるで違う。確かに問題の解決には説得力を与える理論と政治力が必要であると私も考えるが、しかしどんなに正しい主張内容もそれを真正面から受け止められる社会が存在しなければ具体的に結実することがない。何をどこまで許し又は許さないのか。受け止める側の感じ方はこの点で極めて重要となる。
 その人は何に対して、どのように感じているのか。顔を合わせて分かることは時に言葉以上である。三分割された画面上、数珠繋ぎに展開される映像記録は思いを知ってできる議論のあり方を仄めかす。観ている者をその気にさせるのもドキュメンタリーの狙いであると理性をもって意地悪く反省したところで『玄関と通りのあいだ』は画角に収めた事実を表現者の編集意図に従って最後まで映し、それを何度も繰り返す。
 展示室の一つで作品という変わらないものと、それを観る者という変われるものが向き合う形が既に実現していることに意味はあるか。今も尊重されることを大切だと感じられる私たちであるのなら「向かい合わせでも椅子を並べられる可能性は存在する」と言い合い、それを試すことができるかもしれない。



 もう一つ、として比較される対象の間に優劣はない。
 大変な手間と人手を必要とするトンガの伝統的なタパという樹皮布を紡ぎ、勝利を巡る歴史の両面(人為的な栄光と還らない命を奪う暴力)をシンプルな図形の繰り返しにより長大に、そして見上げるほど巨大に描き上げたロビン・ホワイトさんの『大通り沿いで目にしたもの』。
 蚕が吐く糸を紡いで人が加工した絹、これを上等な商品として売るために諸外国へ繋がる道として古来から用いられてきたシルクロード、そこを中心にして影響を受け合った文化や知識などに見られる精神的交流。その始まりにある労働は明治時代に採られた富国強兵の下、過酷極まりないものとなった。その歴史に視点を向けるアンナ・ボギギアンさんの『シルクロード』は糸に吊るされた絵画に近づけば揺れ動き、覗き込めば見返して来る。
 キム・スンギさんの『森林浴』も三分割された画面を用いるが、ここで語られることは少ない。各映像から看取できるもののイメージが緩やかに繋がり、この繋がりを観る側の感覚で締めたり緩めたりできる。いわば作品の完成を表現者から託された事実に鑑賞者が感じることは少なくない。
 一見してもの派のような雰囲気が漂うリリ・デュジュリーさんの『無題(均衡)』。しかし、その空間に足を踏み入れると観る側が自由に出来る余白の少なさに気付く。ここ、と決められたオブジェクトの配置とバランスは、その展示空間を特徴付けるガラス張りの一面から俯瞰できるビル群の秩序にまで及ぶよう。隙間を縫うように歩けば、手で千切られた色紙が細い針で壁に留まり(『風景』)、寄せては返す波の様子が音もなく白黒の映像として流れるだけ(『海辺の日曜日』)。空間に入り込む前に出逢う靴の形をした『手の記憶』も表現者の捏ねた形が経過した時間をすっかり停めている。主張の少ない静止の中、床に設置されその一部が浮き上がった『無題(切断)』の声が段々と大きくなる。そこを中心にして再度気を付けて歩いた空間で拾い集める声により総合的に変成されたことだけがはっきりと分かるその場所は『アナザーエナジー展』で最もユニークであり、表現の可能性を詰めていると感じた。
 信仰する宗教の教義で禁止される偶像崇拝を犯すことなくヌヌンWSさんが色彩のみで見事に表現した『Verzon 2番』や『門』といった抽象表現、計算に基づき、壁と床のそれぞれの位置に刺した釘に結び付けた黒と白の糸が立体として生み出す幾何学模様の美しさを表現した宮本和子さんの『黒い芥子』のように独自性が強く打ち出された作品が多いのも、『アナザーエナジー展』について記すべきことだろう。私の中で慎重に使いたいオリジナリティという言葉を引き出しの奥から取り出しては展示室の其処彼処に置きたくなる。
 『アナザー』と記されるとき、比較される対象の間に優劣はない。湧き出る場所、流れた所が違うだけ。では、『アナザー』と口にするときの私は何処に立っているのだろう。
 事実として存在する差異に対し個々人がする判断及び行動がある。その内容を、例えば私は徹頭徹尾、私の意思のみで決定していると思っている。しかし私は生まれた時から様々な振舞いで営まれ、通底する価値観が息づく特殊の文化圏で育ってきた。だから、私は既にある特殊なフィルターを通してものを見聞きしてきたし、今もしている。したがって私が意識せずに採用し、その内容を規定している特殊な基準がある(はずだ)。そしてそれは私自身を決定的に構成している。
 それを否定するのか。いや、こんな私のままで触れた表現の数々から受ける感動を私がどう信じていくか。提起する角度を変えるだけで思い付く答えも変わっていく問題意識。言葉を操る人が見る景色の不思議と、底の無さがここにある。
 私は私を止められないのに、私以上を想像できる。言葉の意味によって可能になる分節だろうが、その内側で生まれる存在感を私は否定できない。だから、存在することが力を得る(「存在する」はメッセージ性が乏しいと思えたリリ・デュジュリーさんの作品に最も似合う言葉かもしれない)。
 その表現は制約の中から吐き出されたのか、それとも内側の自由で豊かに育まれたのか。感銘を覚えた後では心情として後者に傾き、梨木香歩さんがエッセイで書かれた場面を思い出す。肌を見せない民族衣装に身を包んだ女性は私の肌を誰に見せるのかを私が決めると言ったのだ、と。
 『アナザーエナジー展』を構成する各作品の表現者は社会的な評価を受けて、現に展示されている。この事実すら様々な文脈に乗せて肯定的にも、また否定的にも論じ得る。だから政治的に語れない問題はないのだろう。
 紹介される彼女たちが答えるインタビュー映像には、しかし今も精力的に活動する姿と意思が見て取れる。八十九歳で初めて作品を販売し、高い評価を得てから現在数々の美術館で作品が収蔵されるようになったカルメン・へレラさんは、原色とエッジの効いた絵画作品を生み出す映像と共に笑いながらこう答えていたのだから。
「評価されるのに半世紀以上かかったのよ。」
 紡ぐ、繋ぐ、変える、そして手間をかける。辿り着いたと言わない表現者が生きる時間は、こうしている今も滔々と流れ続けている。

姿

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  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-13

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