霧の島

楽園

霧の島は貝楼諸島を構成する島のひとつである

 先生、前回の手紙から間が空いてしまってすみません。
 私は今、貝楼諸島のある島に来ているのですが、少し変わった面白い島なので、その様子を先生にお知らせしようと思います。いつか一緒に来られたらいいですね。

 私が滞在しているのは、霧の島と呼ばれている島です。貝楼諸島を構成する島のひとつで、半日もあれば徒歩で島を一周回れてしまうほどの小さな島です。信号機は無く、自動車も走っていません。漁業が盛んで、なかでも素潜り漁を行っている人が多く、名産はサザエやアワビなどの貝類です。旅行者は少なく、貝楼諸島の大きな島から一週間に一便だけ船が出ます。前回の手紙はもう読まれましたか。私はその手紙に書いた島から、この霧の島に船で渡りました。その島も面白かったので、いつか先生と一緒に来られたら、今回と同じルートを案内しますね。きっと先生と一緒なら何倍も楽しくなるはずです。
 さて、この島には、観光施設やアクティビティを楽しむイベントなどはありませんが、人も穏やかで、食べ物も美味しい素敵なところです。のんびりとした滞在が目的なら、ぴったりの旅行先でしょう。
そんな霧の島ですが、この島には一つだけ不思議なことがあります。それは、この島では霧が晴れないことです。霧の島周辺の海や島は雲一つ無くよく晴れていても、島に上陸した途端、濃い霧に包まれてしまいます。この島はまるで海に浮かぶ霧の塊です。霧は島の中心に近づくほどに濃くなり、島の中心辺りではすぐ隣に立つ人の姿さえはっきりとは見えません。霧の島という名の通り、この島が発見された大昔から今日まで、霧が晴れたことは一度もないそうです。
 晴れない霧の原因は、地形、海流、海水温など様々な要因が絡み合っているようなのですが、はっきりとしたことは分かっていないそうです。島の待合所に島の歴史や霧についてまとめられた冊子が置いてありますが、詳しいことは書かれていませんでした。また、靄という文字が一回も冊子の中に出てこなかったことが印象的でした。これだけ特徴的な島なら、メディアで特集を組まれていてもおかしくないと思うのですが、私は聞いたことがありませんでした。先生は物知りなのでご存知かもしれませんね。

 島には小さな民宿が一軒ありました。私が滞在中、宿泊者はずっと私一人だけでした。そこの女将さんが親切な方で、島のことを色々と教えてくれました。
 島に着いた初日、私は島の中心辺りにあるエンノカの群生地を見に行きました。エンノカは小さな白い花を咲かせる植物で、花の色以外はネモフィラによく似ています。ちょうど見ごろらしいので歩いて向かっていると、濃霧の中、声を掛けられました。辺りを見回しても誰もいません。目を凝らしてじっと動かないでいると、前方からゆっくりとおばあさんが歩いてきて、この先はぬかるみが多いことを教えてくれました。この他にも、霧の中で声を掛けられることが何度もありました。濃い霧の中で私にはまったく姿が見えないのに、島の人には私の姿が見えているようなのです。
このことを女将さんに話すと、女将さんは明るく笑いながら、島民は霧になれているから、濃霧の中でも人を見分けられると言いました。特にあなたみたいな旅行者は霧の漂い方が違うから見分けやすいとも言われました。女将さんによれば、この島の霧は風に流されているのではなく、自分の意思で移動しているそうです。そして、人の近くにいる時はその人に寄り添っているような、隣を歩いているような感じに島民には見えるそうです。旅行者の私の周りにはきっとよそよそしく、物珍しい様子の霧がいたのでしょう。話を聞いた後に、目を凝らして霧を見てみましたが、私にはただの霧にしか見えませんでした。きっと、この島で毎日霧と共に過ごしている人だけが知っている感覚なのだと思います。

 霧について女将さんが話してくれたなかで最も興味深かったのは、霧が人の真似をするという話でした。なんでもこの島の霧は人好きらしく、たまに人の姿を真似して現れては島をふらついているそうです。人を真似た霧は姿こそ人ですが、話すことはできないそうです。民宿にも旅行者の振りをした霧が度々訪れては帳簿を眺めたり、女将さんを観察したり、お土産のお饅頭を試食したりして楽しんでいるそうです。島の人は霧が人の姿で現れることに慣れているようで、相手が霧だとわかっていても、人と同じように接しているそうです。
 東京には人の姿を真似る雪がいますが、同じような霧がいるのは初めて知りました。人の姿をした雪はよく話し、いたずらをしたりしますが、霧は雪に比べると穏やかで、すこし幼いような印象を受けました。というのも、私も霧に会ったのです。
 島に来て三日目の夕方に宿に戻ると、若い女性と女将さんが話していました。話していると言っても、女将さんの話を女性が聞いているという感じで、女性は一言も話していませんでした。相槌も曖昧で、問いかけに答えることもないけれど、とにかく楽しそうにしていました。女将さんがお饅頭の試食を女性に一つ渡し、玄関に突っ立っていた私を呼んで、私にもお饅頭をくれました。渡されたお饅頭を食べる私を見て、女性もお饅頭を食べ始めました。口をもごもごと動かしている女性に、美味しいですねと声を掛けると、ぱっと笑顔を向けられました。まるで幼い子供のような、明るくて無垢な笑顔でした。それからしばらく経つと、いつの間にか女性はいなくなっていました。その日の晩に、女将さんから人を真似る霧のことを教えてもらい、私はあの女性が霧だったのだと知りました。姿かたちも仕草も見事に真似ていました。きっと長い間、人のことをよく見ていたのだと思います。

 先生、霧から見て、私はどう見えていたでしょうか。人に見えていたでしょうか。
 東京でオリンピックが開催された年に、先生は私を造りましたね。私は東京に降るただの雪で、ほかの雪と同じように溶けるまでの一瞬を人の姿で駆け回っていました。人に話しかけて、笑って、踊って、触れられたところから溶け出して。雪の命は短い。それが当たり前でした。だけど、先生は私を家に連れて帰り、なんだかよくわからない機械で圧縮だか冷却だかして、私を永遠に溶けない雪にしてくれました。
東京でオリンピックが開かれた年、なんて今ではぱっと思い出せない人が増えました。それだけ長い間、私は溶けることのない雪として生きています。それは雪の私にとっては途方もない時間、永遠とも感じられる時なのです。この島の霧は晴れません。この島から出ない限り、彼らも私と同じように永遠のなかにいます。もし、彼らが話すことができたら、私がどう見えているのか聞いてみたかったです。私は雪と人、どちらにより近くなったのかを。
 今思えば、人間の体も雪や霧と同じように期限が決められていて、いつかは消えてしまいます。先生はまず、自分の体を圧縮だか冷却だかするべきだったと思います。そして、この島の人々もみんな先生と同じようにいつかは消えて、霧を置いていきます。この島では霧だけが永遠だからです。
 先生、霧の晴れない島があるのなら、雪の止まない、雪の溶けない島もあるのかもしれませんね。そして、もしかしたら、人が長い永い眠りから醒める島もあるのかもしれません。
 私が世界中を巡って、そんな島を見つけたら、また一緒に先生が大好きだった旅行に行きましょう。

 これからは、貝楼諸島のまだ行っていない島を巡って、また次の旅先へと向かいます。近いうちに手紙も書きますね。それでは。

霧の島

霧の島

犬と街頭様主催『島アンソロジー』参加作品 公式ハッシュタグ「#貝楼諸島より」

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-11

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