けやき通りの水曜亭で

笹森かあい

この物語の舞台は北国の都会ですが、故郷の仙台をモデルにしています。時はまだ懐かしい昭和の時代。
初雪が降る頃、この街はとても美しくなります。雪と都会。とても幻想的な組み合わせです。
今はあまり雪は積もりませんが、雪が舞う直前の不可思議な緊張感は、未だに色濃く残っています。
そこで起こることは、通常の世界ではありえないことばかり。
夢物語の一言で片づけてしまうこともできますが、その世界で体験し学んだことは、心の底に深く刻み込まれています。
たとえ、体が大きく成長しても、どんなに年をとっても、記憶が薄れていったとしても、刻み込まれた印象は魂の奥深くにまで浸みこみ、その人の魂を成長させ続けるでしょう。
生きている印象とは、魂の原動力であり、形はなくとも実に確かなものです。
この現実の世界の中で、いかに生きている印象を受け取れるのか。
未来はきっとその先にあります。

1 冬のはじまりと影の声

   ― 童話やおとぎ話は、北の国で生まれることが多いんだよ
 浩太は、寒空の下でふと思い出した。学校の用務員のおじいさんが、以前、そんな話をしてくれたっけ。おじいさんの着古した、よれよれの作業服が懐かしい。土のにおいと草のにおいと、ほこりのにおいがほんのちょっぴり混ざった作業服。その作業服の上には、作業服のシワと同じくらい多くのシワでいっぱいの笑顔が乗っかっている。
 誰かがすかさず、童話やおとぎ話が生まれるのはどうして北の国なのかと尋ねた。
   ― そりゃあ、北国には何もないからさあ
 用務員さんは、きらり光る入れ歯を見せながら、大きく笑った。それからいつものように、ふっと横を向く。
 その独特な横顔に、浩太をはじめ生徒たちはたちまち引き込まれた。おじいさんが言うことは、どういうわけか、学校の先生が教えてくれることより、ずっと正しいと思われるのだ。きっと清潔できれいな教科書よりも、ごっつい用務員さんの手の方がずっと年数が古いので、生きた教科書のように見えたのかもしれない。
よくは覚えていないが、話の続きは、確かこんな風だった。
冬になると北国は雪で覆われ、何一つ見えなくなってしまう。だからまっ白な画用紙に、思いきり絵を描くように、そこから童話やおとぎ話が、次々生まれてくるのだと。
   ― それから、あんまり知られちゃいないがね。冬の始まりにも、童話やおとぎ話が生まれるんだよ。秋の終わりと冬の始まりのすき間から、雲がもくもく湧くように、不思議な世界がやってくるんだ。だから、そら、木の葉が全て落ちたら、いつもよりよく目をこらして耳を澄ませてごらん
 どうして秋と冬の間なの?
浩太は、そう聞いた記憶があるが、用務員さんの答えは、覚えていない。懐かしい思い出は、そこで、ありふれた公園の景色の中に消えていった。
 浩太は、十一月の薄い青空を見上げた。柔らかな雲の衣は、遠い夕日に向かって、細長く引き伸ばされている。きれいに透き通った空気は、ピリッと辛い冷たさをはらみ、すぐそばまで来ている漆黒の夜を予感させた。
公園の入り口からは、噴水のある公園の広場や今は枯れている芝生の丘、そして公園を囲む家々が、遠くには地平線と重なった黒い森たちが見渡せる。黒い森の上から先は空がのびのびと自由に広がっている。
浩太は空に向かって、息を強く吐いた。白い息が勢いよく空に踊り上がっては、まだ明るい空と公園を一瞬だけ曇らせた。
「おーい浩太、こっちに雪虫がいるぞ」
 亮平のはずんだ声が、冷えきってカチンカチンになった鉄棒の向こうから、響いてきた。亮平は浩太のクラスメートであり、一番の親友だ。亮平の家族は、浩太の家族とは恐ろしく違っている。
一人っ子の浩太には想像できないが、亮平には女ばかりの姉妹が三人もいる。しかもその三人は姉であり、亮平の上に君臨しているのだ。夜遅く帰ってくる父親を除くと、母親も含めて女ばかりなので、たいてい不利な立場にいる亮平は、いつもグチをこぼしていた。
「まったく女ってやつは…」
これが亮平の口ぐせだった。今日も、二番目の姉のお下がりを、むりやり着せられそうになったので、朝から母・姉大連合と喧嘩になったらしい。それでも亮平は何とか、その場を切り抜け、リボンのついたクマのTシャツを着ないですんだらしい。
 浩太はそんな亮平の話をいつも楽しそうに聞いていた。女の兄弟はおろか、男の兄弟すらいない浩太にしてみれば、亮平はいつだって、不思議な世界の住人なのだ。
 その亮平は、楽しげに、寒々とした公園の花壇の中に入っていった。花壇といっても、この季節に咲いている花はなく、立ち枯れた草木がぽつぽつと、恨めしそうに、風に揺れているだけだった。
「浩太、やっぱり雪虫だ。雪虫を見つけたぞ」
 亮平の声が更に大きくなった。
「本当?今、そっちへ行くよ」
 浩太の声も自然にはずんだ。緩んで垂れ下がった青いマフラーを、浩太はきっちりと巻き直し、公園の入り口から早足で花壇へ向かった。奥まったところにある鉄棒の横を通り過ぎ、花壇の中へ入ろうとしたとき、浩太はふと地面が気になった。地面には、鉄棒の影とともに、自分の影が映り込んでいる。この季節、この時間、影は長く斜めに引き伸ばされる。鉄棒の影は、ひしゃげた四角形の門のようになり、浩太の影と交差した。浩太はなぜか自分の影から目を離せず、歩きながら顔だけを横に向け、暗い地面をまじまじと見つめた。
 影の自分は、本物の浩太より背は倍も高く、歪んで細長い。どこを見つめているのか、まるでわからない、まっ黒な少年。浩太が死ぬまで、向かい合わせにぴったりと寄り添い、浩太の秘密を全て知る少年。そして、彼らの仲間は、光のあるところなら、それこそ世界中に大勢いる。彼ら影どうしなら、自由に、くっつき、分かれ、また合体し、いくらでも巨大になれるのだ。彼らがもし、生き物だったら、本物の人間はとうてい、たち打ちできないだろう。
 その時、考えてもみないことが起こった。鉄棒の影は止まったままなのに、自分の影だけが大きく震え、あるはずのない目が浩太を見つめ返した。いや、目が見えたわけではないが、浩太は自分が見つめられているという恐ろしい感覚に襲われ背筋が氷りついた。
   ……マンジをあけろ……
 突然、低く絞り出すような大声が影から響いてきた。そう聞こえたような気がしたが、後で考えると幻だったかもしれないと思った。しかし、そのうめきにも似た声は、浩太の立っている地面を震わせ、一瞬ではあったが頑丈な鉄棒までも小刻みに揺らした。
浩太は、その場から、思わず飛びのいた。
声らしきものは確かに、地面に横たわる自分の影から聞こえてきた。しかもそれは、とても人間の声とは思えないほど低く、重苦しく、どこか遠い世界の振動のようだった。荒い息づかい、そして言いようのない苦痛。そんな風にも感じられた。
浩太は緊張したままその場に固まってしまい、自分の影から目を離せなくなった。しかし、声がそれ以上聞こえることはなかった。自分や鉄棒の影もピタリと静止している。
その時、ふと誰かの視線を背中に感じた。浩太はぎょっとして振り向いた。鉄棒から少し離れた公園の真ん中に、背の高い少年が立ちすくんでいる。同じクラスの翔だ。翔は、バイオリンケースを抱えたまま、ものすごい形相で浩太の方を見つめている。いつもは、自信たっぷりすぎて鼻につく翔も、この時ばかりは珍しく不安の色を見せていた。
「今のは、おれじゃないぞ」
 翔は、吐き捨てるようにそう言うと、急に忘れ物を思い出したかのように、そそくさとその場を立ち去り、公園を抜けて住宅街の方へと出て行った。
浩太は再度、影に異常がないのを確かめ、ふっと息をついた。おそらく翔もあの声らしきものを、聞いたに違いない。それでも、見栄っ張りな翔のことだから、一生懸命何でもないふりをしていたのだろう。翔が言うように、あの低い唸り声はどう考えても翔の声ではない。だいたい、翔がそんな、子どもっぽいいたずらをするとは、とうてい考えられない。なにしろ翔は、浩太たちが普段学校でする、ちょっとしたいたずらにさえ、幼稚だとバカにしているくらいだ。確かめようにも、翔は公園からいなくなってしまい、浩太はぽつんと寒空の中に取り残されてしまった。
浩太は恐々と、再び自分の黒い影に目を落とした。見たくないけれどどうしても目がいってしまう。
「浩太、どうしたんだ?」
 なかなかやって来ない浩太に、花壇の中から亮平が大声で叫んだ。浩太はその声に、死ぬほど驚いたが、その反面ほっとした。浩太はできるだけ、平静を装った。
「ああ、何でもないよ。今そっちに行くから」
平静を装っていううちに、いつもの冷静さをとり戻した浩太は、歩きながら、酷くばかばかしいと思うようになった。地面はいつもどおり、鉄棒や噴水や浩太の影を仲良く映し出している。地面から変な声がすることもないし、影も揺らぐことがない。もはや不気味さは、みじんも感じられない。いつもの公園だ。すべてが健全で順調じゃないか。
あれは、やはり手の込んだ、翔のいたずらだったに違いない。翔は自分も驚くふりをして、浩太を怖がらせようとしたのだ。いつもどこかライバル心を自分にちらつかせている翔のことだから、そんなこともやりかねない。
浩太は自分にそう言い聞かせ、しつこく地面を横目で見てみたが、何も変化がないことを悟り、足もとにあった小さな石ころを蹴り上げた。小石は音をたてて垣根の方へ飛んで行った。それでもまだ横目でちらちら自分の影を見ながら、浩太は鉄棒と砂場を後にした。
そんなことに全く気づかない亮平は、寂しげな花壇の奥で、ひとりはしゃいで楽しそうだった。
「ほら、見てよ、これ」
 亮平は、大事そうに囲った両手を、浩太の前でそっと開いてみせた。手のひらには、白い綿毛をつけた小さな羽虫がいる。お尻についているまっ白な綿毛は、ふわふわとして、できたての綿菓子のようだ。そのとたん、浩太の顔がほころんだ。小さなその虫は、亮平の手の中をゆっくりと、這い廻っている。
「ほんとだ、ほんとに雪虫だ。あっ、あっちにもいる」
 浩太の目が輝いた。
 浩太は、花壇のさらに奥にある金網のところへ、踏み込んでいった。外の道路との境にある金網だ。そこには粉雪のような雪虫が数匹、優雅に舞っている。浩太の両手が、雪虫をそっと包み込んだ。雪虫はふわりと、浩太の手のひらに着地した。
「雪虫の季節か。ということは、今日から冬ってことだな」
 浩太は手の中でもぞもぞしている雪虫を、しみじみと眺めて言った。
「なんだよ、それ。年よりくさいぞ」
 亮平は笑った。ところが大きく笑った瞬間、亮平の手の中から雪虫がふわりと飛び出した。亮平は逃げた雪虫を捕まえようと、慌てて両手を空中で振り回し、宙をつかんだ。だが運が悪いことに、雪虫は力が入り過ぎた亮平の右手に押しつぶされ、あっけなく死んでしまった。亮平はあっと声をもらすと、動かなくなった雪虫を長いこと見つめた。
「こんなことするつもりじゃなかったのに」
 亮平の小さな肩ががっくりと下がり、弱々しい声が聞こえた。
「仕方ないよ。わざとやったわけじゃないし」
 浩太はそう言うと、囲っていた自分の両手を軽く開いた。浩太の雪虫は、小さな羽を広げ、のんびりと寒空に上っていった。亮平は動かなくなった雪虫を、植え込まれている椿(つばき)の葉の上に、そっと置いた。
「ところで亮平、さっき変な声が聞こえなかったか?」
 浩太が言いにくそうに、聞いた。
「声?声だって?いったい誰の声?」
 亮平はとたんに好奇の目を輝かすと、あたりをきょろきょろと見回し始めた。早くも死んでしまった雪虫のことは忘れてしまったようだった。しかし、夕暮れどきの公園には、誰の姿も見えず、しいんとしている。
浩太はとたんに自分が恥ずかしくなり、言わなければよかったと、すぐさま後悔した。それを覆い隠すように、浩太はポケットに手をつっ込み、緑の手袋を取り出してから、何でもないことのように言った。
「いや、いいんだ。きっと、風の音か何かだろう。最近この辺でも、ぶっそうな事件が多いだろう?そんな話を耳にしたから、余計にね」
 亮平は、丸い目をさらにぱっちりさせたまま、ちょっとだけ首をかしげた。
「ああ、ぶっそうな事件ね。確かにここんところ、多いな。ついこの間も、この近くで、妙なことがあったらしいよ。その家にひとりで住んでいる、足の悪いおばあさんの悲鳴が聞こえたので、近所の人たちが、慌てて駆けつけたんだ。で、みんなでいっせいに家の中に踏み込んでみたものの、誰の姿もなかったそうだ。あれ以来、おばあさんは消えたままだそうだよ。奇妙なのは、近所の人たちがその家に踏み込んだ時に、ひやっとした黒い霧が、さあーっと玄関から出て行ったんだって。で、黒い幽霊が出たってしばらく大騒ぎだったらしいよ。翔の家の、すぐ近くらしい」
「気味悪い話だなあ」浩太は嫌そうな顔をした。「そう言えば、ついさっき翔を見かけたよ」
 翔の名前があがったとたん、亮平の眉が顔の中央でぴくりと動いた。
「翔が?公園に?あいつ、こんなところで何してんだ?」
「バイオリンのケースを抱えていたから、お稽古に行くところじゃないかな」
「なーんだ。この寒空の公園で、ジャングルジーム相手に、演奏会でもはじめるのかと思ったよ」
 亮平は、ジャングルジームに駆け上がると、寒さで赤くなった鼻先を指できゅっとつまみ、大げさにヴァイオリンを弾くまねをした。浩太は吹き出した。亮平は、翔が苦手なのだ。浩太も亮平ほどではないが、くせのある翔が少々苦手だった。
翔は浩太たちと同い年なのに、何故か、ずっと大人びて見える。単に、背が高いだけではない。頭も切れ、やることなすこと、テキパキと全て首尾よくこなしてしまう。その上、ヴァイオリンの演奏は一流ときている。
 なのに、クラスでの人気は最低もいいところだ。あんなによくできるのに、いや、あんなによくできるからこそ、クラスメートたちが、子どもっぽく見え、我慢がならないに違いない。翔は、そんな態度をあからさまに取るし、時には、先生にすらバカしたような物言いをするので、みんなからは遠慮がちに煙たがられているのだ。
もっとも本人は、そんなことはまるで気にもかけていない。人気者になりたいなんて思ってもないし、たった一人でいても平気な性分らしい。おまけに腕っぷしも相当強いので、翔をやり込めようとする、無謀な者は手痛い目にあうのが落ちだった。そういうわけで、今のところ翔はさしずめ、クラスの一匹おおかみといった感じだ。
「あんな奴のこと考えるだけ、ばからしいよ。日も暮れたし、そろそろ帰ろう」
 亮平はそう言い捨てると、ジャングルジームからさっと飛び降り、足早に歩き出した。その後を追う浩太は、公園を出る時、一度だけ振り返ってちらりと鉄棒のある地面を確かめた。もちろん、なんの代わり映えもない、いたって普通の地面だった。
 二人は寒々しい公園を後にして家路についた。浩太はまだ、自分の影が気になっていたが、そのうち完全に陽が沈むと、暗さに吸い込まれるように影は見えなくなった。その代わり街灯が灯され、家々の暖かい明かりが、暗い街を彩った。至るところに灯された街灯のせいで、今度は新たな影が出てきたが、その影は薄っぺらいし、街灯によっていろんな方向に分かれ、先細って弱々しい姿になっている。そのためか、しまいには影のことが気にならなくなった。
 二人は街角の小さな路地の入口で立ち止まった。そこからさらに細いうら路地に入ったところに、古い一軒家である亮平の家がある。浩太の家は、すぐ先の、けやき通りの角にあるマンションだ。二人の家は互いに近かった。
「明日はきっと雪だろうな」
 突然、亮平が空を見つめながら、口ごもるようにつぶやいた。亮平は、さっき殺してしまった雪虫のことをまだ気にしているようだ。浩太はそうだね、とだけ答え、二人はいつものように、路地の入口で別れた。
「ただいま」
 浩太は、ぶ厚い玄関のドアをあけた。そのとたん、白い大きなムク犬が猛烈な勢いで、浩太に突進してきた。
「ただいま、ムク!」
 ムクはその勢いのまま浩太に飛びつき、浩太の顔をなめまわした。これが、毎日恒例の嬉しい出迎えだ。浩太の両親は共働きのため、たいてい一番先に帰ってくるのは浩太だった。
浩太は、初めに玄関の明りをつけた。
浩太には兄弟はいない。弟がいたらしいが、生まれてすぐ亡くなっている。弟になるはずだった男の子は、コウジと名づけられたそうだ。もしそのコウジが今もいたら、浩太は両親が帰ってくるまでのこのやるせない時間を一緒にゲームでもやりながら、楽しく過ごしたに違いない。
浩太はテレビをつけて、用意されていたお菓子を食べた。テレビの中の世界はいつだって明るいのに、窓の外はどんどん闇でおおわれていく。
 突然、ソファの下で寝そべっていたムクの耳が、ピンと立ちあがった。それから頭が上がった。浩太もムクの変化に気がついた。浩太とムクはほぼ同時に、ソファから立ち上がると、競争でもするように急いで廊下をかけ抜けた。二人はおそろいで、玄関に到着した。それから玄関のチャイムが鳴った。チャイムがまだなり終わらないうちに、浩太は玄関のドアを開けていた。
「お帰りなさい」
 外に冷たい外気の中から、クリーム色のコートを着た母親が現れた。母親は寒さで、頬が赤くなっている。ムクがまた、派手なお迎えの挨拶をした。するとそこへ、父親が続けて滑り込んできた。偶然、両親がほぼ同時に帰ってきたのだ。狭い玄関はとたんに混雑した。
「おーい、わが家はこんなに狭かったのか?」
 それから、家の中はたちまち、いろんな物音や声やにおいで騒々しくなった。部屋が息を吹き返したのだ。
 居間の窓はどれもこれも、幸せそうな水蒸気で潤い、寂しかったテーブルの上には、料理の盛りつけられた食器が並んだ。湯気がそろって腰ふりダンスをしている。外の暗い通りとは、まるで正反対の世界だ。曇った窓を通して見るけやき通りは、葉がすっかり落ち、裸になったけやきの細枝が、寒そうに震えている。たぶん風が吹いているのだろう。舗道にいる人々も身を縮こませたまま、足早に歩いている。
「雪、降りそうだね」浩太は舗道をちらりと見ながらつぶやいた。「そうだ。今日公園で、雪虫を見たよ」
「ほう、雪虫か」父親が、テレビから目を離し、ビールの注がれたコップを白いテーブルにコツンと置いた。
「それなら、今夜の初雪は確実だな。昔から、雪虫が飛んだら雪が降るって言うからなあ」
浩太は嬉しかった。公園で雪虫を見つけ、父親に報告できたことが、とても誇らしい事のように思えてきた。まるで一足先に、冬を先取りしたような気分だ。
父親は、天気予報の番組を真剣に見ながら、風船でも膨らませそうなほど大きなため息をついた。
「ああ、今年もとうとう、冬将軍到来ってわけか」
 父親が何気なく言った言葉に、浩太はぎくりとした。
冬将軍の到来。学校の用務員さんから聞いた冬将軍についての話を思い出した。もう何年も前の事だ。その頃の幼い浩太には、用務員さんの話から、冬将軍というものが、とてつもなく恐ろしい魔物にしか思えなかった。
冬将軍は、冬の寒波にまぎれてやってくる。その姿を見たものは、誰もいない。なぜなら、姿を見たものは、氷の炎で焼き尽くされるからだ。そして心の隙間に入り込み、人の体と心を暗く冷たくしてしまう。取りつかれた人は春になっても、体と心は暗く冷たいままだ。夏の暑いときにも決して暖かくはならない。やがて秋が訪れ、次の冬を迎えると、その人は、身も心も魂までもが氷りつき、冬将軍のものとなってしまうのだ。
もちろん、あの頃より成長した浩太には、冬将軍がどんなものか、よくわかっているつもりだ。冬将軍なる人物や怪物がいるわけではない。単に、冬の厳しい寒さのことなのだと。しかし、用務員さんがとつとつと語った冬将軍の姿は、浩太の心に根深く息づいていた。その時の用務員さんの白く濁った瞳が、今でもはっきり脳裏に浮かんでいる。
その用務員のおじいさんだが、近ごろは全く姿を見かけない。どうやら重い病気を患い、ずっと入院しているという噂だ。
 午後九時。緑のパジャマに着がえた浩太は、部屋の電気を消して、ぶ厚い羽根ぶとんにもぐりこんだ。電気を消したとたん、窓の外の物音が急に迫ってきた。外は、木枯らしが吹き荒れている。風がびゅんびゅんと、小さな窓をむち打ち、中にいる者たちをたたき出そうとしているかのようだ。窓とほとんど同じ高さにある街灯は、けやきの枯れ枝の影を、窓に映し出していた。
 なかなか寝つけない浩太は、何度も寝返りをうって、そのたびに、羽根ぶとんにくるまりなおした。
 目を閉じると、いろんな考えが頭の中を足早によぎっていく。勝手に思い出されるのか、それとも自分で考えているのかさえ、いつの間にか、わからなくなってきた。自分の影と亮平とムクと雪虫が、ぼやけたまま重なりあった。けやきの枯れ枝が幾重もの円を作って、ぐるぐる廻っている。
(…マンジをあけろ…)
 その声を思い出した浩太は、はっとして、暗闇の中で目を見開いた。マンジをあけろ。気のせいだと思いたいが、浩太にはあの時、確かにそう聞こえていた。不気味で苦しげな、切ない声。夕暮れの公園で聞いたあの声を、浩太は忘れることができなかった。思い出せば思い出すほど、心臓の鼓動がどんどん早くなり、頭が冴えてくる。翔のいたずらでなければ、いったい何者の声なのだろう。いくら考えても、浩太にはわからなかった。
 窓には相変わらず、無情な風が吹きつけていた。けやきの枯れ枝は、狂ったように、身をよじっている。
   ― こんな夜には絶対、外を歩いちゃいけないよ。秋の最後と冬の始まりの狭いすき間から、冬将軍はやって来るんだからね
 今度は用務員のおじいさんの話が、また少しずつ、頭の中に浮かんできた。
冬将軍に氷の炎で焼かれるとは、いったいどういうことなのだろう。怖いながらも浩太は、あれこれ想像しようとしたが、そのうちどんどん睡魔に引き込まれていった。
うとうとするのは、なんて気持ちがいいのだろう。ムクはいつもこんな感じで、みんなの帰りを待っているのだろうか。浩太はムクが羨ましいとさえ思った。
 冬将軍なんているはずはないさ。ばかばかしい。夢うつつの中で、浩太は自分に決着をつけようとした。あれは大人が、子どもを怖がらせるために作った、でまかせだ。子どもが寒い夜に、出歩かないようにするための作り話だ。そんな子どもだましに、僕は引っかからない。冬将軍なんて、いるわけがない。僕は怖がらないぞ、絶対に、絶対に…
窓に映るけやきの枯れ枝は、ゆっくりと手まねきしている。まるで浩太に、外へ出て来いと言っているようだ。
そんな、今にもへし折れそうな細腕で呼んだって、出て行くもんか。
浩太は、心の中で断固として拒否した。それから、睡魔に身を任せようと目を閉じかけた時、何かにハッとした。
 突然、けやきの枯れ枝の影が変化したのだ。細い枯れ枝は、わさわさと重い葉をたっぷり茂らせ、今度は丁寧にお辞儀をしている。これもきっと夢に違いないと、浩太が決めつけにかかったとき、ふと少年の声を聞いたような気がした。それも夢だろうと、浩太が無視し、再び眠りの底に落ちようとしたところ、またしても、その声が邪魔をした。
「浩太」
 誰かが、自分の名前を呼んでいる。霧がかかっていた景色が、少しずつ晴れていくように、浩太は目を覚ました。
「浩太」
 やっぱり誰かが、自分を呼んでいる。今度は浩太もすっかり目を覚ました。声が聞こえてきた窓の方を見ると、けやきの枝が影となって、ゆらゆらと揺れている。だが、けやきの枝がおかしい。けやきの葉は全て落ち葉となってなくなり、幹と枝しか残っていなかったはずだ。それなのに、夏のように、豊かに葉を茂らせ、枝がたわんでいるではないか。影を映し出すオレンジの街灯も、いつになくピカピカ光ってえらくまぶしい。いったい何が起こったんだ?
浩太はベッドから飛び起きると、窓際へかけ寄った。その声は下からまだ叫び続けている。
「おーい、浩太!」
 外を見ると、舗道に並んでいるけやきは、どれもこれもみんな青い葉をつけ、重そうに、風に揺られていた。オレンジの街灯は、いつもより何倍も明るく、舗道やあたりのビルを照らし出している。外はやけに暖かそうで、とても十一月とは思えない景色だ。
それなのに、道路は氷が張ったように、ピカピカ輝いている。まるで鏡のようだ。けやき並木や建物が、きれいに映りこんでいる。浩太は、舗道に目を落とした。
 舗道のまん中で、浩太に向かって、狂ったように手を振っているのは、あれは、亮平だ。

2 氷砂糖の街

 オレンジ色の街灯が舗道にいる少年をくっきりと照らし出していた。
 浩太は目を見はった。あれは間違いなく亮平だ。こんな寒い季節の真夜中に、亮平がパジャマ一枚で、舗道につっ立っている。浩太はまたしても、寝ぼけて幻を見ているのではないかと、自分の目を疑った。
しかし、舗道にいる亮平は、余裕たっぷりの笑顔をこっちに向けて、しきりに手を振っている。
「浩太、何してんだよ、早く降りて来いって。ぐずぐずしてると、置いていくぞ」
 オレンジ色の光に染まった亮平がじれったそうに叫んだ。あの声、あの言い方、あの仕草は、どこをどう見ても亮平だ。パジャマ姿なのはおかしいけれど、消えてなくなる幻なんかじゃない。確かに、大通りとけやき通りの交差点に立っている。
眠気がいっぺんに吹き飛んだ浩太は、慌てて窓を開けた。そのとたん、南国のように暖かい風が、一気に、部屋の中になだれ込んできた。熱い空気の塊が浩太と浩太のいる部屋を羽根布団のように包み込む。さっきまではあんなに寒かった外は、今はまるで初夏のようだ。
浩太は、突然、大はしゃぎたいような気持ちになり、真夜中だということもすっかり忘れ、舗道に向かって大声で叫び返した。
「亮平、こんな夜中にどうしたんだ?」
 すると亮平は、意気揚々と両手をあげて大きく広げてみせた。
「まだ、夜中なんかじゃないよ。夜は始まったばかりさ。それにほら、ちっとも寒くなんかないだろう?いいから、早く外に出て来いよ」
 亮平の言うとおりだ。外は妙に明るいし、寒くもない。おまけに眠くもない。こんなことが、ありえるのだろうかと思いながらも、気持ちはすっかり舗道へ駆け出している。
それでも慎重な浩太は、まだ自分が信じられず、外へ出ていくのをいく分ためらっていた。その時、何気なくベッドの上にある置時計が目に入った。時計の針はいつの間にかなくなって、数字だけがやたら目立っている。まるで、間の抜けた置物のようだ。
(何かが変わろうとしているんだ…)
浩太は大きく息を吸い込むと、まだ正体のわからない何かを待った。何かが自分の中に満ちていくのを、期待を込めて待っていた。
開け放たれた窓からは暖かい風が次々と吹き込み、カーテンをはためかせた。部屋の中は熱気で満ちて、いまや南国のようだ。窓際に立ちつくす浩太は、自分に起こっている変化を全身で受け止めた。
暖かい風が浩太の体の奥に隠れていた熱い宝物を見つけ、表へ引っ張り出そうとしている。そして、体中の血を呼び覚まし、どこか別のところへと、自分を強く引っぱっていこうとしている。心は熱気球のように膨らんだ。
外へ向かう気持ちが、体の内側から泉のように次から次へと湧き出し、浩太はいても立ってもいられない気分になった。しまいには疑いも、不安も慎重さもすべて吹き飛ばしていた。
次の瞬間、浩太は部屋を飛び出し、サンダルを引っかけると、玄関のドアを開けた。まだ暗いマンションの廊下に飛び出し、何かに駆り立てられるように階段を駆け下りていた。

 外の通りからマンションの薄暗い出入り口には、鈍い光が差し込んでいた。その頼りなげな光を信じて、マンションから大通りの舗道に出ると、そこはまるで、別世界だった。
目の前の大通りには、車一台走っていない。いつもは夜でも車がひっきりなしに行きかっているほこりっぽい道路が、今は死んだように眠っている。そして誰一人いない。
通りに面したビルの窓やドアはぴったりと閉じられ、ねずみ一匹入り込めないほど、隙間が接着剤のようなものでぴったりと塗り固められている。色鮮やかだったドアやビルの壁はすっかり色あせ、おそろいのようにほとんど灰色一色に染められている。どういうわけか、今まではなかった厚い鋼のような壁や石垣が、通り沿いに力強くそそり立ち、道路や舗道以外は近づきがたい雰囲気になっている。いったいいつの間に、通り沿いがこんな風になったんだろうと浩太は怪しんだが、何よりも、ものすごく静かで、まるで空気さえ存在しないかのような、輝く大通りに目を奪われた。
右手に数十歩も歩くと、大通りとけやき通りの交差点だ。浩太は、立ち止まらず、交差点の角へと急いだ。
 広いけやき通りの両側の舗道や、道路の真ん中には大きなけやきの木が一列に並んでいる。とっくに葉が落ちたはずなのに、枝には肉厚な青い葉がおい茂り、風もないのに、大きくゆっくりと揺れていた。まるで、浩太に挨拶でもしているかのようだ。
 しかし何より浩太が驚いたのは、けやき通りの道路だった。
しいんとした道路には、氷のようなものが一面に張りつめられ、ピカピカに輝いている。オレンジ色を放つ街灯の下は、そのままオレンジ色に丸く大きく染められ、光を照り返し、うっとりするほど美しい光景になっている。どう考えても氷が張っているようにしか見えないのに、道路からは冷気が、全く伝わってこないのだ。氷のかわりに、ガラスか、甘い氷砂糖が敷きつめられているのではないかと、浩太は疑った。
「遅いぞ、浩太。みんなとっくに行っちゃったよ」大通りとけやき通りの角には、亮平がじれったそうに立っていた。亮平は、驚いている浩太を尻目に、不満顔だ。
「どうやらおれたちが、一番最後らしい」
 亮平は黄色く色あせたパジャマのすそを、むやみに何度も引っぱっては、落ち着かない素振りだ。浩太はまだ、いくらかぼう然としながらも、舗道の端にいる亮平のもとへ駆け寄った。
「ねえ、これは、いったいどういうことなの?けやき通りはどうなっちゃったんだ?それに、みんなって?みんな、どこへ行ったんだって?」
 いつもは落ちついている浩太が、慌てふためいているのが、よほどおかしかったのか、亮平は急ににやにやし出した。今回は自分の方が先輩なのだと、少しだけ得意になった。
「どうもこうもないや。目が覚めたら、こうなっていたってだけさ。わけなんて知らないよ。いや、わけなんて、この際どうでもいいんだよ」
亮平は意外にも冷静だった。あるいは、ただ無頓着なのかもしれない。
「けやき通りだけじゃないさ。ほら、大通りだってこの通り」
 浩太が振り返って見ると、さっきまでは死んだように眠っていた大通りが、このけやき通りと同じように、ピカピカに輝いている。
「それで、さっきそこで誠と真一、それに一郎と健吾に会ったんだ。あいつらは大慌てで、けやき通りを市役所の方にすっ飛んでいった。急がないと間にあわないぞ、って言い残してね。どこに行くのかは、よくわかってないみたいだったけど、とにかくあっちの方角らしい。あっちにいったい何があるって言うんだ?」
 亮平は、舗道の角からその方向を指さした。まっすぐなけやき通りは、ずいぶん先まで見通せるが、今はもう誰の姿も見つけられない。
浩太はますます、わけがわからなくなった。こんな時間に、子どもだけでどこかへ行くなんて、どういうことだろう。何か特別な催し物でもあるのだろうか。だけどそんな連絡は、学校で何一つ聞いていないし、地区の行事があるとも聞いていない。だいいち、父も母も何も言ってなかったし、知っているような素振りすらなかった。
本当に、何がなんだかわからない。浩太は眉を寄せた。
すると、亮平が急に先輩風を吹かせて言った。
「おまえの考えていることは、よくわかるさ。おれも、何が何だかわからない。でもこれは、学校の行事なんかじゃないんだ。学校も、地区も、子ども会も関係ない。そんなものより、きっと、もっと大切なことなんだよ。ひょっとしたら夢の中にいるのかもしれないけれど、夢なら夢でいいんじゃないかな?夢の中で楽しめれば」
 日ごろは少々頼りない亮平だが、こんなに異常な状況なのに、今回はえらく落ち着いている。親友がしっかりしていることで、浩太は少しだけ安心した。それに、あれこれ心配しすぎている自分の方が、妙にばかばかしくなってきた。これが夢かどうかなんてどうでもいいことで、亮平のように、何も考えずこの不思議な状況を楽しめばいいだけだ。浩太の口もとが、ようやく緩んだ。
「うん、そうだね。夜中にパジャマのまま街を自由に歩き廻れるなんて、こんなチャンスはめったにないし。ところで亮平、どうして女物のパジャマなんて着ているんだ?」
 浩太が亮平のパジャマに目を向けると、とたんに、亮平の顔がまっ赤に染まった。パジャマの黄色い布地には、はでなピンク色をした桃が、前面にでかでかと映しだされている。しかも、巨大な桃には、それに見合うような大きなピンクのリボンが描かれていた。
「うわっ、そうだ、おれすっかり忘れていた。自分のパジャマが洗濯中だったので、姉貴のを失敬したんだ。うわあ、今さらながら恥ずかしいな」
 亮平は照れながらパジャマのすそを不器用に引っぱったが、大柄で、はでな桃は、どうやっても隠しきれない。
「そう悪くもないさ。通りには誰もいないんだから、気にする必要もないだろう?」
 浩太は亮平の肩を軽くたたいた。亮平の肩に触れた浩太は、いつもどおりの暖かい手ごたえに、なおさら安心した。そこにいる亮平は確かに生きている。決して幻ではない。
 亮平は亮平で、あたりをさっと見回して、落ち着いた。
「慌ててすっ飛んでいった四人は、気づかなかったかもしれないな。だいぶ暗かったし。ああ、一刻も早く着がえたんだけど、どういうわけか、家の中には入れないんだ。一度外に出ると、玄関のドアも窓も、あんなふうに、すき間なくびっしり閉じられてしまうからね。おれたちは、みんな、家から閉め出されたんだよ。子どもは、みんな外に出て、夜遊びしなさいってことかな」
 亮平は特大のため息をついたが、次の瞬間、何かを思いついたように顔を上げた。その大きな、いたずらっぽい目がきらりと光った。
「…だけど、こっちは上等さ!」
 亮平はいきなり浩太の手をつかむと、舗道から外れて道路の方へと引っぱっていった。
「おい、亮平」
 浩太は少し戸惑ったが、自信たっぷりの亮平に抵抗する気はなかった。
「もう、うちの玄関なんて一生開かなくてもかまわないさ。こんなことができるんだから!」
 亮平は浩太の手をつかんだまま、透明でぴかぴか光る道路へと降りていった。道路の表面に足が触れた瞬間、浩太の体はふわっと持ち上げられ、信じられないほど軽くなった。
「浮かんでいるみたいだ!」
「そうだろう、そうだろう?」
やたら嬉しそうな亮平に引っぱられながら、浩太は道路の上を滑りだした。二人ともサンダル履きなのに、まるで羽のスケート靴をはいたように、軽く、すいすいと滑っている。しかも、すごい安定感だ。足もとがふらつくこともなく、思ったとおりに、どんな風にだって滑れるのだ。
浩太は亮平の手を放すと、舞台に躍り出るように一人でそう快に滑りだした。舗道の街灯が作り出すオレンジの輪がスポットライトのようだ。その輪を中心に、巨大な星型やひし形、もっと複雑な形を描くように滑ってみた。あまりの心地よさに、浩太は早くも酔いしれた。
亮平は、思いっきりスピードを上げて滑っている。普段は運動が苦手で、逆上がりすら満足にできないのに、今はまるでプロのスケート選手のようだ。アイススケートだって去年は全く滑れず、転んでばかりいたはずだ。その亮平が通りの端から端まですごいスピードで滑り切り、満足気な顔で浩太に遠くから手を振っているではないか。
あきれかえった浩太は、軽く手を振り返すと、今度はまさかと思いながら、空中にジャンプをしてみた。この時ばかりは、何だってできる気がしたのだ。すると、浩太の体はゆっくりと宙高く舞い上がり、ふわりと着地した。信じられないことだが、本当に成功できたのだ。浩太は、そんな自分に心底驚いた。
遠くからその様子を見ていた亮平も、相当あきれた顔をしている。
浩太は、もう一度ジャンプし、空中ででんぐり返しをするように、一回転してみた。少しの不安もなく、体はしなやかに回転し、ゆっくりと丁ねいに着地した。
遠くから亮平が大げさな拍手を送っている。
「僕らは、今なら何だってできるんだね!」浩太が叫んだ。
すると亮平も、浩太の方へ滑りながら手を挙げて叫んだ。
「そうさ、おれたちは何だってできるんだ。今なら何をしたっていいんだよ。これが、本当の自由ってやつさ」
 パジャマ姿の二人は、奇声をあげながら、けやき通りから大通り、青葉通りを抜けて、若葉通りを滑走した。どの通りも、自動車はおろか、人影さえ見当たらない。そして、路面はどこもかしこも、磨かれたようにピカピカに輝いている。街は完全に二人だけのものだった。
 いいかげん滑り疲れた二人は、けやき通りの角に戻ると、息をきらせながら舗道に上がった。とたんに体がずっしりと重くなった。舗道もまた、物音ひとつせず、静かすぎるほど静かだ。大きなけやきの木たちですら、今は揺れておらず、静かに立ちつくしている。
「でもこの氷は、どうして冷たくないんだろう。それに、いつまでたっても溶けないな」
 浩太が不思議そうに道路を見つめた。すると亮平は、にやりとした。
「大切なのは、考えるより、実際にやってみることだよ。なめてみればわかるさ」
 浩太は、からかわれているのかもしれないと疑いながらも、道路に膝をついて、キラキラに光る路面に顔を近づけてみた。すると、微かに甘い香りがするではないか。浩太は路面をそっとなめてみた。
「甘い」
 浩太は思わず立ち上がって、亮平の方を振り返った。
 ほら見たことかと、亮平が満足そうに笑った。路面は、間違いなく氷砂糖でできている。しかも、ほんのりイチゴの味がする。
「おれなんか、とっくの昔にあちこちなめて確かめたよ。このけやき通りはイチゴ味、南北通りはバニラ味だった。けやき通りの裏にある路地は、酢こんぶみたいな味がしたな」
 亮平の好奇心には、本当に感心させられる。浩太は、路面をあちらこちらなめて歩く、亮平の姿を想像し、一人で吹き出した。
 その時、南北通りの北の方角から、誰かがさっそうと滑っている姿が、ちらりと見えた。それは、翔だった。青い縦じまのパジャマを着て、機嫌よく軽快に滑っている。しかし、翔の方は浩太たちに気づくことなく、二つ先の角を曲がり、あっという間に見えなくなった。
「あいつ、いつになく、ご機嫌だな」
 亮平のひねたような言い方に、今度は浩太がにやりとした。
「そうだね、いつもクールな翔にしては、珍しいな。だけど、バイオリンひきのお坊ちゃんも、やっぱりパジャマ姿にサンダルだったね」
 二人は顔を見あわせて笑った。
 翔の姿が見えなくなると、通りは再び恐ろしいほど静まりかえった。気のせいか、だんだん冷えてきたようだ。空気がぴりぴりする。それに、あたりの風景もさっきよりさらにぐっと、色あせて見える。まるで、古くなった写真のように、時間がたてばたつほど、どんどん色がぬけボロボロになっていく、あんな感じなのだ。
「なんか、こう、さっきとは感じが違っているな。なんだろう」亮平の顔から余裕のある笑いが消えた。亮平もこの変化に気づいたようだ。
「うん、道路の氷砂糖もさっきより暗くなった気がする」
浩太は、外に出たはじめの頃ほど、楽しいと感じられないのにも気がついた。あたりの静寂も、今ではむしろ、不気味にすら思えてきた。
しかし、その静けさもつかの間、今度は、けやき通りの先から、少女たちのにぎやかな笑い声が響いてきた。とても楽しそうな弾んだ声だ。その声に続くように、すぐさま声の主たちが姿を現した。浩太たちに気づいているかどうかはわからないが、こちらの方へ向かってきているようだ。少女たちはなぜか、ぼんやりとした緑色のかたまりに見える。目が変になったんだろうか。浩太が口にするより早く、亮平が騒ぎだした。
「あれ、緑の霧がかかっている。変な霧だなあ。でもあの声は確かに綾香だよ。変だけど、行ってみよう」
 二人はけやき通りの先の方へ滑っていった。少女たちもこちらへ向かって来たので、通りの途中で対面した。が、そこにたどり着く前に、浩太たちはあ然として、思わず足が止まってしまった。亮平は驚きのあまり、桃柄のパジャマを隠すことすら、すっかり忘れている。
 緑のかたまりと思えたのは、やはり同じクラスの綾香たち四人の少女だった。それにしても、信じがたい光景だ。四人の少女は、エメラルド色の炎に包まれ、四人が一体となってメラメラと燃えているのだ。エメラルドの炎は美しい微光を周囲に放ち、舗道の木々を緑色に染めている。四人全員がエメラルド色のベールに覆われている。それなのに、自分たちに身に起こっていることに気づいていないのか、楽しそうに話をしながら足早に歩いている。とても非常事態のようには見えない。
 浩太たちは何がどうなっているのかわからず、戸惑った。
 すると、そこで綾香たちが舗道に突っ立っている浩太たちに気づいた。
 綾香が浩太たちに向かって、自然に手を軽く挙げ、何かをしゃべった。しゃべったようだが、声は聞き取れず、口がパクパクと開閉するのが見えただけだった。他の三人の少女も浩太たちに気がつき、それぞれが声をかけようとしたが、やはり声は聞こえない。その時、それは起こった。
氷砂糖の通りの下から、突然、強い光の帯がせり上がり、あたり一面が、瞬時に黄金色に染まった。あまりのまぶしさに、浩太たちは顔の前に自分の腕をかざした。
その小道ほどの幅がある光の帯は、道路を下から突き破ると、噴水のように、頭上高く噴きあがった。あっという間に背の高いけやきの木を越え、光の長い帯は宙を舞った。帯は何度か身をくねらせると、示し合わせたようにくるりと向きを変え、上から襲いかかるように四人の少女を包み込んだ。
黄金の光は、綾香たち四人をのみ込むと、そのまま地下へ、もぐり込んでしまった。浩太と亮平はあたふたしながら、舗道の奥にある建物の壁際へと退却した。
綾香たちは光の化け物に食べられたのだろうか。大蛇のような光の帯は、得体のしれない生き物かもしれない。浩太は、激しく打ちつけてくる心臓に、体全体が脈打って揺れていた。
ただ、光の帯が地下へもぐり込む直前、浩太は綾香と一瞬だけ目が合った。綾香は浩太に何かを伝えたかったようだが、決して恐怖でゆがんだ顔ではなく、むしろどこか楽しそうだった。いったい何が起こったのだろう。浩太は半信半疑のまま、事の成り行きを見守った。
相変わらず心臓はドキドキしていたが、地上からは光の帯が消えたので、浩太と亮平は、道路の脇から恐る恐る下をのぞき込んででみた。すると地下には、上を走る道路と並ぶように、金色の川が流れているではないか。今さっき、地上にせり上がった、あの光の帯だ。綾香たちの笑い声が、ずっと深いところから響いている。
二人は、目を合わせたが、言葉がでなかった。何をどう考えていいのか、ますますわからない。
 黄金の川は、地下で上下左右、自由自在に、大きく、小さくうねり、そのたびに光が脈うって、あたりに光の粉をまき散らしている。そして黄金の流れの中には、赤や青、黄色や紫色をした、小さな光がたくさん動いている。よく見るとそれは、魚たちの目の色だった。宝石の目をもった魚たちが、黄金の川の中を、ゆうゆうと泳いでいるのだ。そして、魚たちとともに、綾香たち四人も、楽しそうに泳いでいるではないか。
なんて、すばらしい川なんだろう。浩太は先ほどの恐怖も吹き飛び、今や強烈な憧れで一杯になった。その魚たちといっしょに、自分も自由に泳いでみたい。金色の光に包まれて、この魚たちと一緒に泳げたら、どんなに幸せだろう。
亮平もうっとりした顔で、地下に広がる素晴らしい世界を見つめている。
浩太と亮平は、地下の川にのめりこみそうな勢いで、道路に顔をはりつけていた。
しかし悲しいかな、黄金の川は少しずつ地下深くに沈んでいき、浩太たちからどんどん遠ざかっていく。二人は諦めきれず、最後の最後まで光の川を見ようと、路面に顔を押しつけた。光の川は、残り香のような弱々しい輝きを残して、地下の暗闇に溶け込もうとしているところだった。それでも残ったきらめきと共に、綾香の声が下から微かに響いてきた。
(…急がないと間に合わないわよ。いいこと、四人一組で、いっしょに行くのよ。水曜亭はこの先、けやき通りのはずれにあるから。とにかく、急いで…門がしまっちゃう…)
 浩太と亮平は互いに顔を見合わせた。亮平にも綾香の声がしっかり聞こえたようだった。
 綾香の声はさらに小さくなり、最後の方はよく聞こえず、やがて地下にのみこまれていった。
そして、底に沈んだ黄金の川も最後に小さくうねり、わずかにきらめくと、それきり完全に姿が見えなくなった。
 気がつくと、そこは、静かで何もない通りに戻っていた。浩太たちは冷たい道路からようやく顔を離し、舗道へと戻った。あたりはますます冷えて、吐く息が白くなってきた。とり残された気分になった浩太たちは、しばし立ちすくんでいたが、やっと気をとり直した。
「とにかく、この先にある水曜亭というところへ四人で行かなきゃならないってことだな」浩太は自分で自分を納得させるように、独り言のように言って、うなずいた。「ふらふら滑っている翔を捕まえるにしても、あと一人、必要だ」
 亮平が、パジャマの袖で目をこすりながら、ぶつぶつとつぶやいた。
「翔か。あんまり気が進まないけど、この際、ぜいたくは言っていられないな。だけど、残りの一人は、絶望的だな」
「どうして?」と浩太。
「だっておれたち、あれだけ滑りまわっても、出会ったのは翔だけだろう?」
 浩太はうなった。確かに、この広い街で出会ったのは、地下に消えていった綾香たちを除いて、翔だけだ。しかも、その翔も、今どこにいるのかわからない。
浩太は気を取り直して、道路へ降りていった。
「待っていても仕方がない。翔と、四人目を探しに行こう」
二人はキョロキョロとあたりを見まわしながら、けやき通りの角へと滑り戻っていった。
 その時、けやき通りと交差する大通りの北方から、誰かが滑ってくるのが見えた。見覚えのある、高い背の少年は、翔だった。そして翔の背後には、背の低い少年がピッタリと翔のま後ろについている。二人は、大通りの広い道路をゆっくり滑りながら、浩太たちの方へとやってきた。
「おおい」
 翔は浩太たちを見つけると、遠くから大きく手を振った。
いっしょに連れている少年は、浩太たちと同い年ぐらいだが、その顔に、見覚えはない。少なくとも浩太は、その少年を知らなかった。少年は、灰色の古くさい、だぶだぶのパジャマを着て、見たこともない、ぶかぶかのサンダルを履いている。まじめそうだが、スケートは得意ではなさそうで、翔の後ろを、ぎこちなく、くっついてきた。体も妙に細く、関節は節くれだって、とがった肘や膝が、だぶだぶのパジャマの上からでも、見てとれる。何よりも、顔色がよくない。細く柔らかい前がみの下には、青白く幼い顔が隠れている。ぶ厚いメガネの奥に引っ込んだ目は、浩太が街でよく見かける、仕事や人生に疲れきった、大人のようだった。
 亮平が肘で浩太をつついて耳打ちした。
「誰かな?見たことない奴だ。あれ、いや、どこかで会ったことがあるかな?隣町の奴だったかな」
 亮平の自信なげな声に、浩太も動揺した。知らない少年のはずなのに、どこかで見たような気がしてならないのだ。
「ああ、知らない子だと思うけど…たぶん、でも…」
 そうしているうちに、翔と少年は、浩太たちのところへ到着した。浩太は間近で少年を見たが、やはり知らない少年だ。翔はあちらこちらを滑り廻っていたせいか、顔にうっすらと汗をかいている。
「やあ、もう誰もいないのかと思っていたよ。途中でばったり、オー君に会ってね。聞いたよ。四人一組じゃないと、水曜亭に行けないんだって?でも、これでめでたく、四人そろったな」
 興奮して一方的にしゃべる翔に、浩太と亮平は、複雑な顔をしたまま突っ立っていた。
「オー君?」
 浩太と亮平はほぼ同時に、頼りなげな声をあげ、メガネの少年をじろじろと見つめた。翔は二人の様子に気づいたのか、いぶかしげに、浩太と亮平の顔を見くらべて言った。
「なんだい?このとおり正真正銘のオー君だよ。本人を目の前にして、まさかオー君を知らないなんて、言わないよな?」
 それでも、あいまいな態度をとる二人に、翔はあきれ顔に変わった。
 だが、翔になんと言われても、本当に、このオー君なる子どもを知らないのだ。いくら思い出そうとしても、オー君の顔に見覚えがない。浩太たちの学校はそう大きくはないので、クラスメートはもちろんのこと、学校中の生徒の顔くらいなら、全員知っているはずだ。もちろん、近所の子どもでも、親戚の子どもでもない。
浩太は一瞬、翔が自分たちをからかっているのかと思ったが、翔のあきれかえって小ばかにしたような態度は、決してそうではないことを物語っている。
オー君と呼ばれた少年は、何か言おうと口をもごもごさせたが、きまりが悪いのか、メガネの奥から、居心地悪そうにじっと成り行きを見守っている。四人の間に、沈黙が流れた。翔はついにいら立ち、顔つきが険しくなった。
「おいおい、二人ともいい加減にしてくれないか。二学期が始まる時に、転校生がひとり、やって来ただろう?その時は確か、浩太はオー君と同じ班になったじゃないか。それに運動会では、亮平はオー君と一緒に組んで、障害物競走に出たのを忘れたのか?あんな派手に転んでおいて」
 浩太の頭の中で、風船がパチンとはじけるような音がした。翔が声を荒げたせいかもしれない。浩太は急に、記憶がどっとあふれ出してくるのを感じた。そうだ、二学期の始まったその日、小柄でまじめそうな転校生が、自分の斜め後ろの席に座ったっけ。彼はソロバンが得意で、いつだったか、ソロバンを教えてくれたことがあった。そして体が弱いせいか、体育が大の苦手で、走るのが遅く、先生によく怒られていた…次から次へと、せきを切るように、ものすごい勢いで記憶がよみがえった。
「オー君!」
 浩太が思わず口走った。
「オー君、そうだ、オー君だ、オー君だ!」
 亮平もほぼ同時に叫んだ。浩太と同じように、オー君のことを思い出したらしい。すると、オー君の青白かった顔色にさっと血の気が戻った。
「ああ、思い出してくれてよかった。忘れられたままだったら、どうしようかと、本気で悩んだよ」
 すっかり笑顔になったオー君に、浩太と亮平は照れながら謝った。翔だけがまだ、むっつりとしている。
「まったく二人ともどうかしてるよ。クラスメートを忘れるなんて」
「ごめん。ぼくら、本当にどうかしてたんだ。この見なれない風景のせいで、おかしくなったのかもしれないな。それにほら、ぼくらみんな、普段とは違う格好しているからさ…」
 浩太は言いわけをしながら、自分の着ているパジャマに視線を移した。すると、後の三人もそれぞれ、自分のパジャマをしげしげと見つめ、自分たちが、普段とは違う状態であることを、改めて思い出した。
初冬の真夜中に、パジャマ姿でサンダル履き。しかも、その格好のまま道路を滑っているのだ。
すると翔が、亮平の着ている桃柄のパジャマに気づき、ひとり大げさに吹き出した。
「亮平、なんだい、それ。おまえ、いつも女物を着て寝ているのか?まあ、おまえにはお似合いだけどな」
 亮平の顔がみるみるこわばった。それから全身の血が頭にのぼり、たちまち顔がまっ赤になった。亮平は翔にバカにされるのが、何よりがまんならないのだ。しかし亮平は何も言い返せず、口をきゅっとむすぶと、ほぼ直角にきゅっと横をむいた。大して悪気があったわけではないが、亮平の心を傷つけたことに、翔は全く気づいていない。浩太がかわりに言い返そうとした時、オー君がかけているメガネを少しずらし、メガネの底から目を輝かせた。
「桃柄のパジャマって、それを着て寝ると夢が叶うって話を、ばあちゃんから聞いたことがあるよ。特に、黄色く大きな桃は、金運がよくて、大金持ちになれるんだってさ」
 オー君の無邪気な声で、気まずい空気がたちまち一掃された。意外なことを言われた亮平は、見るからに嬉しそうな顔に変わった。
「へーえ、それなら、みんなに笑われてもいいや。だって、大金持ちになった方がずっと、得だもんね」
オー君につられて、浩太も笑った。すると、翔の口もとが、少しだけ緩んだ。
ややあって、四人はぶるっと身ぶるいし、あらためて周囲を見まわした。
「なんだか、えらく冷えてきたな」と、翔。
オー君は、両手を合わせてさすり、暖かい息を吹きかけていた。
 確かに、あたりはますます冷え込み、パジャマ姿の四人はその場に立っているのさえ、辛く感じられるようになってきた。
いつの間にか、周りの風景は、ほとんど色を失い、廃墟のような街並みになっている。けやきの木々も、葉は生い茂っているものの、造花のように硬そうだ。枝や葉が揺れると、キシキシと嫌な音をたてるようになっていた。冷たく不吉な風も、どこからか吹きこんでいた。四人は身を震わせた。
キキョケ、キキョケ、キキョキキョキキョケ…
 四人の頭上から、奇妙な鳴き声が響いてきた。鳥の鳴き声のようだが、見上げても、おい茂ったけやきの葉っぱ以外は、何も見えない。
「何だろう…」
 オー君が不安そうにメガネをかけなおし、よく見ようとした。すると翔が、右上に大きくせり出しているけやきの枝を指さしてみせた。
「あれは、夜鳴鳥だよ。きっとぼくらに早く行けって、言ってるんだ」
 そう言われた三人は首が痛くなるほど顔をあげて探してみたが、やはり何も見えない。
「翔、何も見えないよ。それに、夜鳴鳥なんて名まえの鳥、聞いたこともないけど」
 浩太たちが不思議そうな顔を向けると、翔は、まるで、誰でも知っている昔話のように、すらすらと語り出した。
「夜中じゅう、太陽を追いかけ、東へ向かっている鳥なんだ。だけど、太陽には決して追いつけない。だから、夜の世界から永遠に出られないのさ。で、その姿は、夜に溶け込んでいるから普段は見えないけれど、夜明けの女神に出会うと呪いが解かれ、結晶するように、その姿が現れるんだよ」
 浩太も亮平も目を丸くしたまま、穴のあくほど、翔の顔を見つめた。なんと答えていいのか、わからなかったのだ。
「それ、翔の作った空想話なの?」亮平が思わず本音をぶつけた。
 翔はむっとして亮平をにらんだが、すぐさまオー君が間に入った。
「空想なんかじゃないよ。翔はこの不思議な世界のことに、本当に詳しいんだ」
 オー君だけが、尊敬の眼差しだ。そう言われても翔は照ることなく、急に黙り込み、じっと何かを考え始めた。
亮平は、ついさっき、バカにされたことも忘れ、翔に答えを求めた。
「不思議な世界って、ここはおれたちの街じゃないか」
 すると、考え込んでいた翔が、ぼそぼそと言った。
「おれたちの街にそっくりだけど、ここは全く別の世界だよ。道路や建物、眠っている大人たちでさえ、本物じゃないんだ。もちろん、ただの夢ではないけれど、本物でもない」
「夢の中でもない、本当の世界でもないとしたら、ここはいったいどこなんだ?」今度は浩太が声を荒げた。
 翔は、考え込むのを諦めたように、深いため息をついた。
「浩太、答えたいけど、おれにだってわからないよ。わからないんだ」
 翔の答えに、浩太は少しいらだった。夢でもない、本当でもない世界なんて、あるわけがない。そんな話は、幽霊が出たとか、UFOを見たとか、宇宙人と遭遇したとか、そんな類のものにしか、思えない。なのに、翔は、いつもにも増して、断言するように言ってのけたのだ。
「そんなの、信じられるか」亮平が陰でこっそりつぶやいた。
 浩太は、鋭い疑問を翔に投げかけた。
「君の空想でないなら、どうしてこの不思議な世界のことに詳しいんだ?」
 翔は初めてたじろいだ。困ったように、手を頭にもっていくと、自分の髪の毛をくしゃくしゃとつかんだ。
「ああ、それ答えるのが難しいや。自分でもわからないんだ。なぜ、こんなことを知っているのか。本で読んだ記憶もないし、もちろん自分の空想でもない。誰かに聞いたような気はするけれど、それが誰なのか、全く思い出せない。だけど、今夜この世界に入った瞬間、おれはもう知っていたんだよ。いや、知っていたのを思い出したんだ」
 少しの沈黙の後、浩太は諦めたように言った。
「それじゃあ、答えになってないよ。君の空想じゃないって証拠が何もないじゃないか」
 いつもの翔なら、きっと浩太に食ってかかっていただろう。翔はプライドが高く、自分に自信があるし、もとからケンカっ早い気性なのだ。それでも翔は何も反論せず、ただ黙って気まずいままでいる。あえて、そうしているようだった。そのため、他の三人もことさら気まずくなり、四人そろって沈黙した。
浩太は、翔がでたらめを言っているのではないと思いつつ、一方で疑問を感じていた。翔は何か重大なことを隠しているのではないかと、そう疑ったのだ。
しかし、翔が言っていることは本当なのかもしれないとも思っている。単に、誰かから聞いた話を思い出せないだけなのかもしれない。親しくはないとはいえ、翔が、自分たちクラスメートをだますなんてことは、考えたくもない。
「あの、そろそろ…」
 キキョケ、キキョケ、キキョキキョキキョケ…
 オー君が言いかけた時、翔の言う夜鳴鳥が、またうるさく鳴きはじめた。今度はさっきよりも、鋭く甲高い鳴き声だ。すると、どこからか、冷たくぞっとするような風が、吹き込んできた。四人はあまりの寒さに震え上がった。
「うわっ、おれたちこんなところで、のんびり立ち話している場合じゃないよ。早く、その水曜亭に行かなくちゃ」
 亮平が、急に慌てだした。
 四人は舗道を降りると、ほとんど横一列になって、けやき通りの道路を滑り出した。風を切るように進んでいくと、頬や耳が氷のように冷たくなった。けやき通りはどこまで行っても、ビルのドアがぴったり閉じられ、灰色の壁が立ち並び、暗さと静けさに閉ざされている。
その中で動いているのは、白い息を吐く四人だけだった。その証のように、滑っているサンダルの音だけが、シャーシャーと聞こえる。聞こえるが、その音すら、冷たい静寂の中に次々と吸い込まれていく。
 すると、暗く沈んだ通りの先に、場違いに明るい一角が、目に飛び込んできた。けやき通りが公園通りと交わる、交差点のところだ。四人は誰も何も言わず、夢中でその光を目指した。
 四人は進むしかなかった。背後から、横から、上から、あらゆるところから、闇と寒さが四人に迫っている。誰も何も言わないが、何か恐ろしい気配を、四人は背中で感じとっていた。後ろを振り向くのすら恐ろしい。だから、たとえ通りの先に見えるあれが、目当ての水曜亭でなくても、四人は明るさと温かさを求めて、そこへ吸い寄せられていっただろう。
より近づくにつれて、光の正体が明らかになった。明るい一角はどうやら、たった一軒の店のようだ。店の内外には、けっこうな数の人影がうごめいている。明るいその店は、喫茶店だろうか、レストランだろうか。
ここまで来ると、四人は少しほっとした。自分たちは、背後から迫る闇の中にいるのではなく、前から差し込んでくる明るい光の中にいるのだと、そう強く感じたからだ。心なしか、少し暖かくなったような気がする。
だが、あんなところに、店なんてなかったはずだと、浩太はひとり冷静に思い出していた。あの場所には確か、小さな交番があって、左右は公園の森だったはずだ。しかし交番は、どこにも見あたらない。交番がいつの間に、大繁盛の店になったんだろう。
「喫茶店か?いや、居酒屋かな?ううん、ちょっと違うな」
 興奮気味につぶやく亮平に、翔はまじめな顔でつぶやいた。
「何ものでもないよ。あれこそ、おれたちの目ざしている水曜亭さ」

けやき通りの水曜亭で

けやき通りの水曜亭で

工事中⚠

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1 冬のはじまりと影の声
  2. 2 氷砂糖の街