夜明けに街は白く染まる

随時一話ごとに更新していく予定です。

序章

柔らかいソファに座ってテレビのニュースを眺めていた。画面では、何かの専門家らしき人が難しい話を披露している。内容はいまいち理解できなかった。ただ、一つだけ気になるフレーズがあった。
「もはや、治せない病は無くなったと言っても過言ではありません」
その言葉を鵜呑みにすることは出来なかった。この言葉がずっと引っかかってしまって、後のニュースで何が語られていたかは覚えていない。
「治せない病は無い」?そんなわけがない。それなら、母さんの病は何だと言うのか。
母さんの病を医者は「よくある風邪」と診断した。確かに咳や熱が主でさほど重い症状は無い。それだけならよかった。
母さんの病は一ヶ月近く続いている。処方された薬を決まった分飲んでも一向に治らない。
「風邪が長引いている」だけのはずがない。明らかにおかしい。
このことを伝えると母さんは「お医者さんを信じましょう」と言うばかり。きっとこの病がおかしいことを誰よりも分かっているはずなのに。
絶対に何かがおかしい。それを訴えられるだけの根拠はほとんど無いのだが。
治せない病が、人間の力ではどうしようも出来ないことが、あるような気がした。
自分の心が警鐘を鳴らしていた。

「不治の病」が世間を騒がせたのはその二週間後のことだった。

第一話 一人の朝

無機質な音が陽の頭を起こす。ぼんやりと瞼を開くと清潔な白い壁が鼻の先に見えた。掛け布団を掛けなおしながら寝返りをうつ。耳まで被っているのにアラーム音がうるさい。嫌になって渋々目を開くと白く眩しい光に顔を照らされて目が痛くなった。
「ああ、もう!」
陽は観念して体を起こした。弾みで掛け布団がぱさりと裏返る。
脚を掛け布団から抜いて、ベッドに座る体勢に切り替えた。ベッドの足元にはきっちり揃えられたスリッパ。陽はいつものように無造作にスリッパを履いて立ち上がる。
アラーム音がぴたりと止まった。

朝を知らせる眩しい光に包まれながら陽は着替えを始めた。着替えといっても簡単で、中に着ているインナーを取り換えるだけだ。クローゼットを開き、畳んだインナーを広げる。洗濯したばかりの心地よい香りがする。着替えが終わると、先ほどまで着ていた簡略化した浴衣のような衣服を上に羽織った。袖に腕を通し、脇の紐を蝶の形に結ぶ。
陽は一通り朝の身支度を終え、キッチンへ向かう。必要最低限の調味料や調理器具が、それぞれあるべき場所に整頓されている。コンロに置かれた鍋が目立つくらいにキッチン周りは閑散としていた。
鍋の中では、昨日残したシチューが丁度いいくらいに温まっている。食器棚の中に沢山積まれた食器類のうち、一つの椀を取り出してシチューをよそった。
「いただきます」
うつむきながら小さく呟く。温かいシチューに味はしない。食べやすいようなるべく細かく切った野菜をたいして噛むことなく飲み込んだ。
「ごちそうさまでした」
シチューの残りはあと二食分くらいか、と陽は一人分の食器を片付けながら考えた。
牛乳を使った温かい手作りのシチュー、好きになったのはいつ頃だったか。夕食に出される度に喜んでいたことを思い出す。大雑把に切られた大きな具も食べごたえがあって好きだった。
「……あっ……!」
パリンッ
陽は反射的に足を下げた。
手元が滑ってマグカップを落としてしまった。幸い、破片は足に刺さらなかった。
「怪我はないけど……やっちゃったな……」
特別絵柄が気に入っていたわけでもないが、昔から自分用のマグカップとして使用していただけにショックも大きい。十数年の付き合いだった。
「はあ、本当にバカ」
陽は自分を責めつつ割れた破片を集めた。集めきったところで処分するか考えたが、思い入れがあるためとっておくことにした。
厚手の布製の袋を自室から持ってきて破片を一かけらも残さずに入れ、口を閉じた。巾着袋と言うそうで、幼い頃に母が手作りしてくれたものだった。母は古風なことが好きな人だった。布地の柄も古めかしい花柄である。
「これでよし」
袋の口を紐で結んだ。陽は改めて自分の不注意さに落胆するが、今更だなと思いなおす。自分にいくら欠点があろうと、何も関係なくなる日がやってくる。
「もう、死んじゃうんだし」
陽は自分の命が長くないことを自覚していた。いつまでもつか分からない。明日急死するかもしれないし、来たる死に向けて病状が徐々に悪くなっていくかもしれない。いつどうなるかは明確には分からない。しかし、近い将来に死を迎えることだけは確かだった。陽の家族がそうだったのだから。
同じ病気で母と兄は死んだ。最初に母が、次に兄が死んだ。兄がいなくなってすぐ自分も同じ病を患っているのだと知った。
世間を混乱の渦に陥れた流行り病。大勢の人々が病に苦しみ、病に苦しんだ者は例外なくこの世を去った。病にかからなかった者も親しい者の死を悼み、明日は我が身と恐怖に震えた。「治せない病はない」と大人たちは口々に言っていた。事実、現代ではあらゆる病が治療可能だった。新しい病が発生しても、瞬く間に治療薬が完成していた。人類が恐れるものはほとんど無いに等しかった。
だが、覆された。
人類を恐怖に陥れた流行り病は「不治の病」と呼ばれるようになった。
自分もじきに病の餌食となる。治療はすでに諦められた。見放された。だから、自分がどんな人間であろうと今更関係ない。家族はいないし数少ない友人も地下へ逃げた。周りに誰もいないのなら自分の不注意に迷惑する人はいないし、死んでしまうのなら尚更困ることなどない。
陽は破片を入れた巾着を、棚に飾ってある家族写真の隣に置いた。自然と写真に意識が向く。父と母と兄と陽。その写真一枚に陽にとってのすべての幸せが収められていた。
陽は写真からそっと目を離し、背を向けて再びキッチンへ向かった。
もう僕は一人なのだから。
兄の死から数年経った今、陽は諦めることを覚えていた。

陽は食事の片付けを終え、一息つく。紅茶を淹れようと思ったが、ついさっきマグカップを壊してしまったためしばらく食器は触りたくない気分だった。
何もすることがない。
頬杖をついて部屋の壁を眺めてみるが、さすがにこれは暇つぶしにならない。かといって本を読む気分ではないしゲームも飽きてしまって味気が無くなってきた。掃除はついこの間したばかりで必要ないし、これといった趣味もない。作る予定も無い。
陽はため息をついてテーブルに伏せた。何もしたくないが、何かしないと気がおかしくなりそうで不安になる。矛盾した気持ちを抱え悩んでいるとますます苦しくなってくる。ううう、と小さいうなり声を上げて陽は目を閉じた。その瞬間だった。
「た、た、たすけて!!」
大きな物音と人の叫び声が響いた。

第二話 傷跡

陽は即座に体を起こし、音と声がどこから聞こえたか思考を巡らせた。リビングのドアの向こう、玄関の方向だ。
家の中には誰も入れないはずなのにどうして、と跳ね上がった心臓を抑えながら陽は立ち上がった。
風が陽の肌を撫でて行く。間違いない、玄関のドアが開かれている。
陽が驚きと恐怖に固まっている間も「たすけて」という叫び声が絶えることはない。
泣いているような叫び声だった。声の主の姿は見えないがきっと涙を流している。
そう気づいた瞬間、陽はハッとして玄関へ駆けて行った。
廊下へ繋がるドアを勢いよく開け放ち、玄関に顔を向ける。人が横たわっている!
陽は足がもつれながらも、すぐそばまで駆け寄った。そこには横たわった二人の子供がいた。玄関のドアは開いたままになっている。
「た、すけて!」
息を切らして一人の子供が陽を見上げた。作り物のような透き通った瞳が潤んでいる。ずっと叫び続けていたのはこの子だろうと陽は直観した。
「たす、け、い、たく、て」
子供の声がかすれてきてしまっている。声を出すことすら苦しそうなのに訴えることをやめようとはしない。叫び続けている子供は、もう一人の子供を守るような姿勢を崩さずに陽を必死の眼差しで見つめた。二人の子供はお互いの手をぎゅう、と握っている。
「分かった。大丈夫、大丈夫だから落ち着いて」
陽はまず叫ぶ子供を落ち着かせようと試みる。このまま叫び続けていたら喉が潰れてしまう。ただでさえ顔や髪は泥にまみれて、何か所か出血もしている。転んで擦りむいた跡もあった。なりふり構わずずっと走って来たことは一目瞭然であった。これ以上体力を消耗させてはいけない。
陽が反応したことで子供は叫ぶのをやめた。しかし、呼吸は荒く嗚咽が漏れている。
陽は「ちょっと待ってね」と出来るだけ冷静を装って子供に声をかけ、玄関のドアを閉めた。
すぐに二人のもとに戻ると、叫んでいた子供はもう一人の子供のことを心配そうに窺っていた。陽からすれば、叫んでいた子の方が傷をたくさん作っていて心配である。
「……ゆ、ユウを、目が、熱くて」
叫んでいた子供はもう一人の子供を「ユウ」と呼んだ。息が整っていない上にひどく取り乱しているせいでうまく話せないようだった。
「落ち着いて、大丈夫だから。何があったの?」
陽だって突然の状況に落ち着いてはいられなかった。しかし、この子供からちゃんと説明をしてもらわないとどう対処すればいいかも分からない。子供を落ち着かせるためにまずは自分が落ち着いてみせるしかなかった。
片方の子供が息を整えている間に、陽はこれまでずっとうつむいていたもう一人に目をやった。繋いでいない方の片手で目元を抑えている。こちらの子供もひどく息が荒れている。しかし、叫んでいた子供とは違って声ひとつ漏らさない上に、呼吸音が浅い。
陽は、先ほどの「目が熱くて」という言葉がまず気になって、子供の顔を覗き込んだ。
「……っ」
思わず息が詰まった。手で目元を覆ってうつむいているためすべてが見えたわけではないがわずかに見えた。それだけでも何が起こっているか理解するには充分だった。子供の、目とその周りがひどいやけどを負ったようにただれている。
見るに堪えない姿だった。陽は寸のところで声を上げるのを我慢した。
咄嗟に陽はもう一人の子供に視線を戻す。子供はまた泣き出しそうな顔でこちらを見つめていた。
「ユウ、目が熱くて、痛いの。喉も熱くて、痛くて、しゃべれない」
子供は途切れ途切れに説明をした。先ほどよりは多少落ち着いた様子であった。
子供の説明で、ユウと呼ばれた子供がこれまで一言も発さなかったことに合点がいった。目はただれて見えず、喉も何らかの理由でひどく痛めてしまっているのだ。
一体どうしてこんな目に合ってしまった?見かけだけで言えばまだ幼い子供たちだ。
否、今はそれ以上に陽の頭をよぎる不安があった。
助けられるだろうか?
切り傷程度の治療ならともかく、この状態をどうにかしてあげられる技術も知識も陽にはない。病院が機能していれば救急車を呼んで専門家に任せることもできるが、地上の病院はどこももぬけの殻であった。
しかし、この二人を前にして何もしないわけにはいかない。出来ることがあるのならしてあげたい。
せめて、痛みを和らげるだけなら出来るかもしれない。
陽は二人の子供をリビングまで連れて行き、ソファに座らせた。玄関では勢い余って倒れ込んでしまっていたようだが、まだ少しだけ歩くことはできた。
二人を座らせると陽はキッチンに行って冷蔵庫から保冷剤を取り出す。棚からタオルを出して水に濡らし、保冷剤をくるんだ。陽の手のひらの熱が奪われていく。子供のもとに急いだ。
「これ、痛いところにあててみて」
陽は出来るだけ目を伏せながらユウの手に保冷剤を握らせた。ユウは訝しげな様子を見せたが「大丈夫だから」と声を掛けるとゆっくりとした手つきで目元に保冷剤を当てた。もう一人の子供はその様子をじっと見つめている。
ユウは保冷剤を目元に当て続けた。陽もそろそろと目線を上げてユウの顔を見てみるが、表情が変わらないので、効果があったかが分からない。保冷剤を包んだタオルの端から見える火傷跡のようなものが変わらず痛々しい。熱を帯びて痛いのなら冷やしてみる、という素人知識に基づいたアイデアだったため陽自身も本当に冷やして正解か不安であった。逆効果だったらどうしようかと緊張する。
「……どう?」
陽は恐る恐る聞いてみる。少しでもいいから効果があってくれと願う。
床に膝立ちになってソファの上の二人の表情を窺った。
「……すごい!痛いの楽になった!」
そうはしゃいだのは本人ではなく、隣で見守っていた子供だった。子供は自分のことのように声をあげた。ユウが声を出せないのは承知しているが、なぜ隣の子供がここまで元気になるのだろうか。陽は不思議に思いながらも、ユウが隣でこくんと頷くのを見て安堵した。
「よ、よかった……」
決して治ったわけではないため解決にはならないが、応急処置にはなっただろうか。痛みに苦しみ続けるよりはましだろう、と陽は自分を納得させた。
片方の子供は泥と傷だらけの顔をきらきらと輝かせている。まるで同じ感覚を共有しているようである。ユウの口元もわずかに緩んだ。
「あの、この冷たいの、もう一個もらっても……?」
顔をきらきらさせてた子供が遠慮がちに陽に頼んだ。痛みがあるのは目だけではない。喉に当てる分も必要ということだろう。
子供の意図を汲み取った陽はすぐさま立ち上がった。
「もう一つね、すぐ用意する!」
陽が保冷剤を二人のところへ持っていくと、今度はユウでない方が保冷剤を受け取ってユウの喉元にあてていた。
ずいぶん仲が良いんだな、兄弟か姉妹だろうか。ソファに座った姿が瓜二つなので双子かもしれない。陽は二人を見てそう思った。
遠い記憶がよみがえる。
幼い頃、兄と外で遊んだ時に陽は怪我をした。転んで膝を擦りむいてしまった。幼い陽は痛みに泣きじゃくった。見慣れない血が出ているのも怖くてずっと泣いていた。
こういうことは一回きりじゃなかった。陽はよく転んでは怪我をして、その度に泣いていた。
そういう時にはだいたい兄が面倒を見てくれた。パニックになった陽を家まで連れて帰って怪我の手当てをしてくれていた。しみるから、と消毒を嫌がる陽の傷口に無理矢理消毒液を垂らす強引さはあったが。しかしそれも心配故の行動だったのだと、陽にも今なら分かる。
じっと目と喉を冷やし続ける二人を見て陽は懐かしい思い出に耽っていた。いや、今は過去を思い出しているべきではない、傷の手当てをしてあげなければ、と陽は我に返る。足早に救急箱を取りにリビングの端の棚に向かった。
ガタンッ、と大きな音がしてリビングのドアが開いたのはその時だった。
陽は驚きと警戒ですぐに振り向いた。確実に誰かいる。二人の子供以外の誰か。
子供たちは身を寄せて体を震わせていた。二人の顔には恐怖の表情が滲んでいる。その場から動けそうにない。
自分が二人を守らなければ、と陽はとっさに子供たちの側に駆けて行ってかばうように前に出た。
「……誰ですか」
ドアの向こうには一人の青年の姿があった。陽と年齢は近いように見える。彼が乱雑にドアを開けた張本人だということはすぐに理解した。驚くべきは、ドアが床に放り投げられていることだった。
青年は陽と後ろの子供を黙って見つめている。鋭い眼光に、陽はたじろいでしまう。彼と目が合った子供は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
冷たく、鋭い眼は怒っているようにも見えた。長く伸ばしたままの前髪の隙間から赤い瞳がギラギラと輝く。顔を覆う髪は現実かどうか疑うほど真っ白で肌も作り物のように白い。以前、アルビノについて知る機会があったが、それとは違うと直感的に分かった。
陽はひどく狼狽えた。目の前の見知らぬ青年が急に家に侵入してきたこと、あり得ないくらいの力を持っていること、その容姿や雰囲気が異様であること、彼から感じるこちらへの敵意、恐らく良からぬことが起こるだろうという不安感。どれもが陽の頭を掻きまわした。しかし、一番の理由は別にあった。
青年によって沈黙が破られる。
「そいつらを、連れに来た」
青年の声で陽は目を見開いた。その瞬間、全身の力が抜けて膝と手を床についた。うつむきながら覆いかぶさる髪の中で一人呟く。
「嘘だ……そんなはずあるわけない……」
だって兄は確かに死んだのだから。自分の目の前に現れるはずがない。
二度と会うことは出来ない。何度も自分に言い聞かせて、ようやく現実を受け止められたんだ。兄はいない。この世のどこにも。いないはずなのに。
「……どうして……」
陽は、激しい目眩に襲われた。床が大きくぐらついて陽を振り落とそうとする。
何かを吐き出しそうになって、力の入らない手で喉を抑えた。
視界の隅が暗くなって、頭は真っ白になる。
自分は今、息をしているのだろうか、止めているのだろうか。
「…………陽……っ!」
自分を呼ぶ懐かしい兄の声が意識の遠くで聞こえた。

青年は、数年前に死んだ兄の姿だった。

第三話 背く

目の前に突き付けられた現実を陽は受け止められなかった。兄がいなくなって数年間、特にわずかに気持ちが和らいだ頃には、陽は兄がどこかでまだ生きている気がしていた。それはほとんど願いに近かった。陽の希望だった。
陽はそれがただの望みでしかないことを自覚していた。しかし、「兄が生きている」と思わずにはいられなかった。そう思うだけで一瞬心は軽くなるのだ。
もう少し時間が経ったころ、ようやく「兄はこの世にいないのだ」と冷静になることが出来た。二度と会えるはずのない人間を「いる」と思い続けることの方が苦しくなってきた。兄の存在を捏造することがどれだけ不毛な妄想かということも理解出来ていた。
陽は毎日、兄は死んだのだと自身に言い聞かせてきた。家中をまめに掃除し、すべての部屋に誰もいないことを確認した。窓を開け放ち、淀んだ空気と世界が終わったかのような静けさに包まれる外に身体を浸した。棚に積まれた食器が、陽のもの以外昨日と寸分も変化ない様子を目に焼き付けた。
それなのに、どうして、今。
朦朧とする意識の中、懐かしい兄の声がする。
誰かが陽の身体を揺すっている。
聞き慣れた子供の声が聞こえた。
そうだ、兄さんは死んだはずだ。生きていて、僕の目の前に現れるなんて絶対にありえない。何度も、何度も言い聞かせてきた。実際そうだ。兄さんが死んだのは事実なんだ。母さんも死んでしまって、父さんはどこかへ行ってしまって、兄さんと二人で過ごして、そして兄さんも。
うっすらと目を開くと、真白い髪がきらきらと明かりを反射しているのが見えた。
兄さんは死んでしまって、この世にはいなくて、僕の前に姿を現すことはない。例え姿かたちが酷似していたとして、それが兄さんであるはずはないのだ。
「……じゃない……」
うわごとのように陽はつぶやく。青年も子供たちも、様子のおかしい陽に注目していた。そして陽ははっきりとした意識で、叫んだ。
「貴方は、僕の兄さんじゃない!」
その言葉はほとんど目の前の青年に対してではなく、己の思考に対して向けたものだった。いつの間にか青年は自分の近くまで来ていたようだ。顔を勢いよく上げ、青年をキッと睨む。
彼は子供たちを「連れに来た」と言っていた。対して、傷だらけでこの家へ逃げ込んできた子供たち。陽の中で点と点が繋がった。子供たちはこの青年に追いかけられていたのだ。あんなにぼろぼろになりながら必死に逃げてきた。加えて、ただならぬユウの姿。
この青年と子供たちの関係性は陽には皆目見当もつかない。しかし、今すべきことは一つだと決心していた。陽は床につきっぱなしだった掌を爪が皮膚に刺さる程に力強く握りしめる。自分が二人を守らなければ。
「……お引き取りください」
陽は青年を睨みつけながら、唇を震わせながら言った。守るといえど、何も持たない陽にはこれしか出来ない。威嚇するような眼差しで見つめ、今度はもっとはっきりと声を出した。
「お引き取りください。どこのだれか知りませんが、ここは僕の家です。勝手に入ってこられては困ります。……出て行ってください」
陽にとってこれが精一杯だった。子供たちは、二人を守るように手を広げた陽の背中と不機嫌そうな青年の顔を見比べていた。
「…………ちっ」
青年は舌打ちをして立ち上がった。殴られるか、蹴られるか、力ずくで陽を払いのけ子供たちを連れていくか。今までの様子を見る限り、どれも有り得る話であり、そうなった場合陽には成す術がない。青年に恐れを感じつつも、陽は身構えた。頼りない細い腕に力を込める。気を抜けばまた乱れてしまいそうな呼吸を必死に抑えつけ、青年の眼を見つめつづけた。
しかし、青年は立ち上がったかと思えば陽と子供を見下ろしてから背中を向けて去っていった。予想外の行動に陽は呆気にとられる。彼の凄まじい威圧感は何だったのだろうか。部屋は静まり返っていた。
陽がやっと事態を呑み込めた時にはもうすでに青年の姿は無く、玄関のドアが閉まる音が響いた。
随分あっさりと追い払えたものだった。
張りつめていた緊張の糸が切れて、陽は再び両手を床についてうつむいた。
「……っはああ……」
かつてないほど大きなため息が出る。息を吐き切ると、急に心臓の音が聞こえ出して耳の奥がうるさい。何だったんだ、今のは。
陽は呼吸を整えるが、また目眩に襲われて倒れそうになった。床に打ち付けられる、そう思った時、咄嗟に陽の身体を支えたのは子供たちだった。
「大丈夫……?」
陽の右側から声が聞こえた。
「ああ、うん、大丈夫……ありがとね」
身体が倒れる方向にまわって支えてくれたのはユウじゃない方の子供だった。目元に火傷の跡がない。反対を振り向けば、目元に火傷跡がある子供、ユウがいる。ユウはそっと陽の腕を掴んでいる。目が見えないはずなのによく腕の場所が分かったなと陽は感心した。
二人に身体を起こしてもらい、ソファの足元に背中を預ける。まだ身体に力が入らない。足を伸ばしきって両腕も垂らしたままで天井を見上げた。白い天井に、どこからともなく溢れる優しい光。今や外に差さなくなった自然光を模した、穏やかな光。
両側に佇む子供が、同時に陽の袖を小さく引っ張る。両側から同時に引っ張られたのでどちらに振り向けばよいものか、陽は焦り気味に子供たちを交互に見た。ソファに預けた首を起こす。
「ありがとう。あの人……怖いから、すごく助かった」
陽を支えた子供はまっすぐ目を見て言った。先ほどの青年を追い返したことへの礼のようだ。反対側を振り向くと、何かを言いたげなユウ。恐らく同じことを言いたかったのだろう。陽は正直自分が何かした感覚は無かったのだが、二人の礼は素直に受け取っておくことにした。短い言葉と共に頷いて返事をする。二人はまた元のようにぴったりくっついてソファに腰かけた。
陽はあの場面で咄嗟に子供たちを庇った自分に驚いていた。もっと臆病な性格で、いざという時行動が出来ないタイプかと思っていたが、それは過小評価だったのかもしれない。どうにも昔から、自己を低く捉える癖があるようだ。日頃から兄と自身を比べてきたからだろう。兄は陽の憧れだった。
陽は二人の手当てが途中であることをはたと思い出した。座る二人を見上げると、玄関に転がり込んできた時と姿は変わらないが、だいぶ元気そうである。それでも傷口の処置はしなければ、と立ち上がるために膝を立てて足元に力を入れた。ソファの肘置きに手を着き、ゆっくりと腰を上げる。「いくらなんでも、情けなさすぎでしょ……」と陽は心の中で呟く。元々体力はない方だった。
弱弱しく立ち上がる陽の様子に、子供は「大丈夫…?」と心底心配そうな声色で呟いている。大けがの子供を前にしてずっと座り込んでいるのは陽のわずかな矜恃が許さなかった。
「大丈夫、救急箱取ってくるから待っててね」
実際大丈夫ではなかった。貧血を起こしたか、息は切れ切れだしまっすぐ歩ける気がしない。肘置きからテーブルへ、テーブルの端を辿って椅子の背もたれへ、そこからさらに棚の縁へ、と家具を手で掴みながら支えにして何とか歩いて行った。子供たちの心配する視線を背中に感じる。
しゃがみこんで、棚の下から二段目にしまわれている救急箱を取り出す。しばらく怪我をすることが無かったため、透明のプラスチックケースを引っ張り出しながら懐かしい気持ちになる。
棚から取り出してみると、想像以上に重量があって陽は体勢を崩しかけた。片手で床を跳ね返してなんとか留まる。救急箱を両膝の上に預け、棚のドアを閉めた。
「それ、持っていく?」
「うわっ」
突然声を掛けられて陽は小さく跳ね上がった。隣にはいつの間に寄ってきたのか、目の見えている子供がちょこんと陽の真似をしてしゃがんでいる。子供が裸足だからか、陽の体調が優れないからか、原因はどちらか分からないが足音も聞こえなければ気配もしなかった。
「じゃあ、お願いしていい?あっちの……ユウがいるところまでね」
陽は長らく人の名前を呼ばない生活が続いたからか、子供の名前を呼ぶのが何となく照れくさく、不自然な間を作ってしまった。
名前を呼ばれた当人といえば、ソファの上で小首を傾げている。自分が話題に上がったことに反応したようだ。
陽の傍にいる子供は「わかった」と頷くと、軽やかに立ち上がってユウのもとへ小走りで向かう。陽はその後姿を羨ましい気持ちで眺める。自分も立ち上がろうと膝に手をついて「よいしょ」と声を漏らす。
「つかまる?」
「うわっ」
陽はまたもや突然現れた子供に驚かされる。いつの間にかまた戻っていたようだ。ユウの居場所から陽の所まではすぐ駆けつけられる距離なので不思議に思うことはひとつもないが、この子供がまた陽のもとに戻ってくるとは思っていなかったのだ。
陽は子供が差し出した手を取る。傷と泥にまみれた、華奢で真っ白な手。血や土で赤やら黒やら色が混じっていたので気づかなかったが、間近で見ると肌の色や質感があの青年のものと似ていると陽は思った。
「ごめんね、助かる」
陽は子供の提案に甘えることにした。人の肌に触れるのも、いつ以来のことだろう。子供の手は泥が少し乾いてざらついているし、体温は低く冷たかった。陽の体温よりも低い温度で、冷たい。
「わ。あったかいね」
子供は陽の手に触れて感嘆の声を上げた。
「そう、かもね」
陽が温かいというよりは、子供の手が冷たすぎた。陽も普段の体温は高くない。それでも確かにこの子供よりは温かい。
陽の手から体温が奪われ、自分の指先の温度が低くなる。しかしそんな右手とは対照的に陽は胸の奥がじんわりと温まるのを感じた。
「それじゃあ随分遅くなっちゃったけど、傷の手当てしよっか」
陽を迎えに来た子供をユウの隣に座らせて、陽は救急箱から消毒液と綿、そして包帯を取り出した。

夜明けに街は白く染まる

夜明けに街は白く染まる

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. 第一話 一人の朝
  3. 第二話 傷跡
  4. 第三話 背く