無実の男

自分が書いたミステリ小説の中で、最初に完結した、要は書き終わった作品です。
元々、自分で適当に書くのでなく、友人たちと一緒にテーマを決めてそのテーマで作品を書こう、となったのが発端です。
この時のテーマは「闇」です。
まぁ、このテーマをどこまで表現できたかはわかりません。ただ一応僕の作品としてはこれが「長男」なので、これからこの愚息を暖かく見守っていこうかな、と思ってる次第でございます。
ではではもし興味がおわりの物好きのかたは、短いですが楽しめていただけたけたら幸いです。

「久しぶりだな佐倉。最近見ないから大人しくしてるのかと思ってたよ。」
安い金属製のテーブルを挟んで、パイプ椅子に座っている男に声をかけた。男は俯いたまま返事もしない。
男の名は佐倉剛輔。今回の事件の被疑…、ではなく重要参考人だ。
この第三取調室に来てもらったは良いが大切なことは喋らないので、しょうがなく私が呼ばれたのだった。
常々思う。どうしてこう取調室と言うやつは、こう辛気臭いのだろう。これであること無いこと何でも話せと言う方が無茶である。まぁいいと呟きながら、私も同様のパイプ椅子に腰かける。
「で、今回は何をしたんだ。まだ誰かを殴ったのか?」
その問いに応えたのは、目の前の佐倉ではなく、背後に立っていた後輩の鈴原であった。
「いえ警部。今回の被疑者の容疑は傷害ではありません。殺人容疑です。」
「殺人?」
「はい。まず事件があったのが、二日前の十月二十日です。N**市内のアパート富士見荘203号室で、被害者の遠野美樹二十六歳が遺体となって発見されました。第一発見者はアパートの大家です。毎朝顔を合わせるはずの被害者が出てこないのを不審に思い、部屋を訪ねてみると遺体となった被害者を発見したそうです。死因は頸部圧迫による窒息死です。首の周りには、部屋の電気コードで首を絞めた跡がくっきり残っていました。死亡推定時刻は同日の午後九時から十一時の二時間と断定されました。
また、アパートの隣人が同時刻に言い争う声や激しい物音を聞いており、犯行があったものとみてまず間違いないと思われます。
被疑者は当時、被害者の遠野美樹と同棲しておりましたが、犯行時直後から姿を消していました。しかし昨日の夕方、JRのE**駅付近の公園に居る所を付近をパトロールしていた巡査が発見、任意で同行してもらって今に至ると言う訳です。何か質問はありますか?」
「それだけの理由で、彼が犯人だと?」
「いえ、そうでもないのです。実は…」
「僕はやって無い。本当です黒河さん! 信じてください。」
鈴原の言葉を遮るように佐倉が吠えた。力を込めた両拳でテーブルを殴りつける。
テーブルに置かれていたアルミの灰皿が、丸ごと床に落ちた。
乾いた音がした。私がやれやれと拾い上げる。
「うん、私も信じてるよ。お前は人を殴ることはあっても、殺しなんかする様な人間じゃない。お前の疑いを晴らすためにも通報前日、つまり十九日の九時から十一時の間、何処で何をしていたか教えてくれないか。その裏が取れれば、お前は無実と言う事が証明されるんだがね。」
私は諭すように言った。だが、佐倉は表情を曇らせる。
「……言えません。」
「うん? 言えない?」
「はい。言えません。」
「言えないってお前な、こんなところで駄々をこねてる場合じゃないんだぞ。解ってるのか、お前は今、殺人犯として疑われてるんだぞ。」
佐倉はかぶりを振る。
「以前から黒河さんにはお世話になってきました。感謝してもしきれません。ですが、これだけは言えません。」
開いた口が塞がらなかった。自分がどう言う立場に置かれているか解っているのだろうかと本気で疑ってしまう。鈴原に眼を配ると、彼も口をへの字に曲げていた。
「そうなんです警部。実は彼、事件当日のアリバイを聞こうと思っても『言えない』の一点張りなんです。ここで証言しなければどんどん不利な方向に捜査が進んでしまうぞと言っても聞かないんです。」
「なるほど、それで私が呼ばれた訳か」
視線の先の男は、額をテーブルに擦り付けるように頭を下げ、「僕はやってない。信じてください。」とまるで呪詛の様に繰り返し呟いているだけだった。
警視庁捜査一課。主に殺人事件を扱うのがこの部署であり、私の職場でもある。
所謂、キャリア組の連中はあっという間に私を追い抜いていき、気がつけば自分よりも若い上司に頭を下げる日々も慣れて来た。私も今年で四十代半ば。世間ではアラフォーと呼ばれる年代になってきたと痛感する。
自分のデスクに頬杖を突きながら、捜査資料の文面に眼を走らせた。
「絶対怪しいですよ。あの佐倉って奴。まず間違いありません。」
後輩の鈴原は鼻息を荒くしながら訴えてくる。
「もし自分が犯人でないなら、堂々と犯行時刻のアリバイを宣言すれば良いはずですよ。それが出来ないって事は、すなわち彼自身に後ろめたいことがある何よりの証拠。それに被害者の友人の証言では、二人は最近浮気が原因でよく口論をしていて、別れ話にも発展していたとか。これが動機にもなります。」


佐倉剛輔。二十八歳。無職。
過去に逮捕補導歴が八回ある。そのうち七回が傷害事件、一回が窃盗事件であり、いずれもそれ相応の刑罰を受けている。定職には就かず今現在でも日雇いを転々としているとのことだ。
ここまで書くと典型的な札付きに見えるかもしれないが、少なくとも私にはそうは見えなかった。七回の傷害事件と記録の上ではなっているがその全てがチンピラに絡まれての正当防衛、或いは巻き込まれた友人たちを守るための暴力行為であった。自分から誰かに暴力を振るったと言う事は一件も無かった。また窃盗と言うのも、まだ小学生の頃、親にろくな食事を与えてもらえ無かったと言う。世に言うネグレクトと言う児童虐待の一種だ。空腹を紛らわせる為、やむを得ず行った万引きであった。しかも万引きした後、彼は私のいた交番に「僕は万引きしました」と名乗り出て来たのだ。そう、彼とはその頃からの馴れ初めになる。それから彼が警察の御用になる度に、私が彼の話を聞いてやった。職を世話してあげたことも一度や二度ではなかった。まぁその都度、職場で嫌味を言ってきた上司と喧嘩するなど、問題を起こしてその職場を追い出されたこともある。
血の気こそ多いが、根っからの悪党では無いと思っていた。
そこへ今回の事件だった。
「先輩聞いてますか!?」
「うんうん、聞いてるぞ。この佐倉が犯人に違いないって言うんだろ。」
「そうです。誰が見ても一目瞭然です。」
「ならさっさと逮捕状を請求すれば良いだろ。」
そう言われると、鈴原はとたんに口を閉じた。その表情は大層渋面に満ちていることだろう。見なくても想像できる。
「できないんだろ。そりゃそうだ、あの説明この説明どれもこれも後付けだ。
佐倉が犯人だから、直前に喧嘩したことが動機になり、アリバイが無いことが怪しく見える。恋人同士なんだから喧嘩だってするだろうし、普通の一般市民が毎日毎日アリバイがある訳が無い。」
「だからと言って奴が犯人で無いと言う根拠にはなりません。どうして先輩はそこまで奴を庇い立てるんですか。」
「あいつの事を昔から知っているがあいつは今回の事件の犯人なんかじゃない。根は真面目で少々臆病なだけだ。それだけ人からは誤解されやすいがな。」
鈴原は無言だ。恐らく呆れているのだろう。当然だ。
「ただあいつが何かを隠していることは確かだな。何か人には言えない秘密がある。それのせいであいつは口を閉ざしているに違いない。それを探らにゃいかん。」


「なら先輩、どうしますか。」

最近の若者は上からの指示を待つだけの受け身の人間が増えたな。これもゆとり教育と言う時代の闇のせいなのか……
なんてな。
そんな世代の土台を築いたのは、何を隠そう我々の世代だ。こうやって『時代』と言う曖昧な対象のせいにして責任から逃れようとするのは、我々の世代の悪い癖だ。そしてそれに気付いているのに、何もしようとしないのは個人の責任なのさ。

ハンガーに掛けてあるヨレヨレなグレーのコートを手に取る。
「決まってる。現場百篇、私が直接見に行ってみる。」
「え、でも部長に提出する報告書はどうするんです。」
「適当にでっち上げてろ。

北風が一陣、私のすぐ横を通り過ぎた。お前は通り魔か、と言うくらい強力な突風だった。
ポケットから残り少ない煙草の箱を取り出す。乱暴に取り出し火を点ける。
紫煙がゆっくり杯に充満する。全身にニコチンが駆け巡り、脳も徐々にギアを上げに掛かる。最近では署内だけでなく取調室でも健康増進を目的とした禁煙化が進んでいる。だがしかし、歯をタールで真っ黄色に染めた輩を見ると、一体誰のための禁煙化なのだろうと不思議になる。だからあの時の床に転がった灰皿は、ささやかな抵抗なのだ。
暫くすると目的地に到着した。看板には『富士見荘』と書かれていた。
見るからにオンボロなアパートだ。壁のペンキは剥がれ、側面に設置された階段や二階の通路は、雨ざらしになっていて錆び放題だ。
そのアパートの前には、一人の老婆がせっせと落ち葉をかき集めていた。
大家の富士見静子だ。頭髪は白髪で染まっており、腰も大きく曲がっている。確か捜査資料では年齢は六十五歳くらいだったはず。私よりも一回りほど人生の先輩と言う訳だ。
「お忙しいところ申し訳ありません。このアパートの大家さんの富士見さんですか?」
私の問いに、老婆はゆっくりと顔を上げる。
「私、警視庁一課の黒河と申します。少しお時間よろしいですか。」




部屋に通された。富士見荘の101号室だった。富士見静子は自分のアパートのこの部屋に、今現在暮らしているそうだ。三年前に伴侶を病気で失い、それ以来女手一つでこのアパートを守ってきたそうだ。しかしこのご時世、不景気だし何より建物の老朽化で入居希望者は年々減ってきていると言う話を聞かされた。
「そうそう、つい先日の事件の事でしたね。」
「えぇ。事件当日の話をもう少し詳しく聞きたいんです。例えば佐倉剛輔氏を最後に見たのはいつごろですか。」
「ええっと、確か事件の起こった前日です。確か時間は夕方の六時頃だったと思います。」
「確かですか?」
「はい、もうすっかり日も暮れていましたし、まず間違いないと思います。仕事から帰ってきて、二階に昇る階段で見ました。ほら部屋が二階なものですから。」
「なるほど、ではそれ以降は見てない訳ですね。例えば、彼がアパートから出ていく姿とか。」
「見ていませんねぇ…。ただ気がつかなかったと言う可能性もありますけどね。」
「では遠野さんのほうはどうです。彼女は何時頃こちらに帰ってきたかはお分かりですか?」
「確か、七時過ぎでしたね。テレビのニュース番組を見ていたので、恐らく七時三十分前後のはずです。申し訳ないんですが遠野さんの方もそれっきり見てません。」
「すると、翌日の朝、203号室で遺体として発見するまで遠野さんは見てない訳ですね。
富士見さんは夜中、203号室の方から物音を聞いてはいなんですか?」
「あぁ、そのことですか。いえ、正確には気がつかなかったんです。と言うのももうこんな年でしょ、寝るのは早いんです。」
「しかし、部屋はそうとう争った形跡がありました。恐らくかなりの物音があったと予想されます。現に、隣の202号室の方は大きな物音でびっくりしたと証言されていましたよ。」
「えぇ。たぶん慣れてしまったのだと。確かに夜中に大きな音を聞いた気もしますが、特に目を覚ますことも無く、また眠りについてしまいました。と言いますのも以前は結構な音が漏れていましたよ。『別れよう!』とか『殺すぞ!』とか。それはそれはびっくりしました。ただそう言う日が何日も続くと、人間って不思議なものですね、慣れが来てしまうのです。その日も、もしかしたら大きな物音や叫び声がしたのかもしれませんが、あぁいつものことだろうとおもってしまったのかもしれません。そのことがショックでショックで…。」
メモ帳に眼を落とす。鈴原の持ってきた調書とさして目新しいことが得られなかった。取り敢えず調書に間違いが無かったと言う事が解っただけ僥倖か。
「もう一度お聞きします。良く思い出してください。あいつを、佐倉剛輔を御覧になっていませんか。後ろ姿を見たとか、階段を下りる音を聞いたとか、外から話声が聞こえたとか。本当に何でも良いんです。あなたの記憶一つで、あいつを無実の罪から救いだすことが出来るかもしれないんです。」
老婆は狼狽していた。いきなりそんな事を言われても、と言った表情であった。
私も無理を言っていることは重々承知であった。もしここで思い出せるものなら、とっくに鈴原が聞きだしていることだろう。富士見静子は、何もありませんと首を横に振るだけだった。
「いやいや、すいません。急に押しかけて来た上に、訳の解らないことを言ってしまって。」
私は自らの無礼を詫びるように、速やかにその部屋を後にする。
ドアノブに手を掛け外に出ようと言う時、私は最後に振り返った。
「最後にお聞きしたいんですが、富士見さん。富士見さんから見て『佐倉剛輔』ってどんな人物でした?」
「えぇ、とっても良い子でしたよ。」
その言葉に嘘偽りは無いように見えた。私は、ですよねと漏らし、改めて富士見荘を後にした。





「只今桃内を呼んで参ります。」
受付係の女性が、目の前にコーヒーを置いて、応接室から出ていった。
私は受付の女性が部屋を出るのを見送ると、周囲のものに眼を配った。御世辞にも綺麗とは言えない建物だった。壁の漆喰はひび割れ、雨漏りの痕が痛々しかった。事務室も狭く小学校の教室を思わせるものだ。従業員も十人にも満たなく、日本の中小企業のモデルであった。そこからすぐに桃内沙紀が応接室に入ってきた。
「警視庁の黒河です。お仕事中なのにお忙しいところ申し訳ありません。」
「いえ、そうでもないですよ。最近は不景気で寧ろ仕事が欲しいくらいですから。」
いきなりの先制パンチに、私の方が面食らった。ソファに座る際に、私は目の前の証言者に視線を送るのを怠らなかった。
濃い目の化粧に、毒々しいまでの口紅。爪はネイルアートと言うのだろうか、白、黒、黄色と様々な色で彩られている。第一印象では、少々遊んでいそうな女性であった。
桃内沙紀。二十六歳。市内のKH印刷株式会社と言う会社に勤務。被害者の遠野美樹とは会社の数少ない同期。配偶者は無。その程度しか頭に入っていない。
「今回お邪魔したのは他でもありません。先日起こった遠野さん殺害事件についてです。」
「えぇ。知っています。でもあの犯人は逮捕されたって新聞やテレビで報道されていますけど。」
「はは、それはマスコミが先走ったに過ぎませんよ。確かに遠野さんの同棲相手の佐倉氏が現に署内におりますが、あくまで重要参考人として任意同行してもらっているだけです。」
「彼がやったの?」
急に桃内の眼が変わる。その視線は獲物を前にした猛禽類を思わせる。この女、ただの遊び好きな女性では無い。
「それは解りません。実はそれについて聞こうと思い、今日はこうして訪れた訳です。
桃内さんは、佐倉氏の事を良くご存じなんですか?」
「良くって程じゃないわね。せいぜい二、三回逢ったって言うくらいかしら。面識はあるけどね。…私は彼がやったと思うわ。」
ポーチから煙草を取り出し、無遠慮に火を点けながらそう言い切った。
煙が宙を舞い、拡散し、そして消える。
「…そうお思いになる理由は?」
「一週間くらい前から美樹言ってたわね。私たち別れるかもしれないって。」
「原因は何ですか。もしかして浮気が原因とか。」
「あら刑事さん、耳が早いんですね。そうよ浮気よ。それも一度や二度じゃないから、今回は本気かなって思ってたわ。」
「佐倉剛輔氏の、ですか?」
「まさか。美樹の浮気に決まってるじゃない。」
初耳だった。確かに鈴原から浮気が原因で口論をしていた、とは聞いていたが、まさか浮気をしていたのが男性側では無く、女性側だったとは。
しかしこれで状況は悪化した。あいつのことだ、ずっと信頼していた同棲相手の度重なる浮気で、かっと頭にきて衝動的に相手を殺害してしまう姿が容易に想像できる。その後、我に返った佐倉剛輔が、茫然自失でフラフラと彷徨い、公園に辿りつく。
第三者を納得させるには持って来いの動機だ。
くそっ、まさか、本当にあいつが…。
いやそれはない。断じてない。あいつがよりによって自分の身近な人間に手を掛けるなんて、絶対に考えられない。
私の只ならぬ表情を感じ取ったのか、桃内が声を掛けてくる。
「あの刑事さん、大丈夫ですか。」
「え、あぁ、大丈夫です。最近寝不足が続いてまして。」
見え透いた嘘だと言う事は百も承知だ。彼女の方も、口から煙を吐き出すがそれ以上は言及してこなかった。
「そうねぇ。もしかしたら…。刑事さん、あそこに行ってみたら?」
「…はい? あそこ?」
「N**駅の高架下のバーよ。私と美樹と、それにその佐倉って彼と三人で飲んだ事があるわ。確か店の名前は『アラビク』だったかしら。」
「『アラビク』…」
「美樹曰く、二人で結構足しげく通って立って聞いてたわ。客も少なくて、もし出入りしてたらマスターも顔を覚えてるかもよ。」
「なるほど。早速向かってみます。ご協力感謝します。」
折りたたんだコートを拾い上げてようとすると、桃内は灰皿に短くなった煙草を押しつけこう続けた。
「私もね、こんなナリしてるけど美樹は数少ない友達だったんだから。あいつが死んで協力しない訳無いでしょ。」
彼女の横顔に、ブラインド越しのほの暗い夕陽が影を落とした。
私は改めて深々とお辞儀をして部屋を出た。




あたりはかなりうす暗くなってきた。太陽の光はとうに消え、代わりにビル街のネオンがアスファルト上にケチャップをぶちまけた様に紅く滲んでいる。
ビルとビルに挟まれたように、そこは存在した。
―――アラビク
ドアを開けてみる。確かに客は多くは無いようだ。フロア自体も広くなく、せいぜい十人程度が限度と言ったところか。
「いらっしゃいませ。」
マスターだろう。ブラックのスリーピースを着こなし、口元には髭を蓄え、中年の威厳を感じさせた。
「お飲み物は?」
「いやいや、客じゃないんですよ。警察の者でしてね。実は今、人探しをしているところなんですよ。この人なんですがね。」
私は胸ポケットから、佐倉剛輔の顔写真を出した。
「見覚えありませんかね?」
「…知ってますよ。」
「なに知ってる? それはいつの事で!」
「そうですね。確か三日前ですよ。最後こちらにいらっしゃったのは。」
「三日前って事は、十月十九日ってことか?」
「えぇ間違いありませんよ。確かその日は御一人でいらっしゃったはずです。お店にいらっしゃったのが、八時過ぎでしたね。いつもは女性と一緒だったのに、この日ばかりは彼一人でしたね。そうそう、代金の方もツケになってましたよ。ええっと少々お待ちください。」
そう言うとマスターは、レジの隣の棚からファイルの様なものを取り出してきた。
私の目の前でページを捲りだすと、とあるページでその手を止めた。
「これです。お名前は……、佐倉様、佐倉剛輔様です。日付も入っていますね。はやり今月の十九日です。」
「ちょっと失礼。」
私はそのファイルを引っ手繰った。マスターの指さす場所には、確かに『ご飲食代:五千五百円。十月十九日』と入っていた。ご丁寧に『佐倉剛輔』と直筆の署名まで残っている。
間違いない。あいつの肉筆だ。
「マスター。先ほど、こいつが店に顔を出したのが八時過ぎって仰いましたね。では店を出たのは何時頃か覚えてませんか。」
「十一時過ぎです。お店の他のお客さんと、ちょっとした口論になりましたからね。しっかりと覚えてますよ。」
「間違いないんですね!?」
「えぇ。間違いありませんよ。何ならその口論したお客さんに聞いて見ますか。こちらもうちの常連さんですから。」
私はその場でマスターから連絡先を聞いた。その場で確認を取ったが、常連客は確かに佐倉剛輔と口論になって店を後にしたと証言していた。またその時刻もマスターの言うように十一時頃であったとも証言した。
事件のあった富士見荘からこのアラビクまでは、電車を使っても三十分から四十分は必ず掛かる。地下鉄もなければ、ましてやバスや自動車では一時間は掛かる。被害者の遠野美樹の死亡推定時刻は九時から十一時、その間には絶対に移動できない。
「完璧なアリバイだ。」
私は小さくガッツポーズを決める。

気がつけば路地裏だった。数十メートルおきに設置されているライトだけが足元を照らしてくれる状態だった。それ以外は一面の闇だった。
本当ならその足で捜査一課に戻らなくてはいけなかった。しかしわざと正反対の方向にゆっくりと歩を進めていたのだ。
どうやら雨も降り始めたようだ。くそ、こんなときに限って。小さく舌打ちをする。
どてっ腹の下辺りに違和感の塊が引っかかっていた。理由は簡単だった。
「―――こんなバカなことってあるか!?」
私は先ほどのアラビクのマスターとの話を思い出す。
『店を出たのは何時頃か覚えてませんか。』
『十一時過ぎです。』
奥歯がギリっと音を立てたのが解る。

―――そんな訳あるか!

私は改めてその証言の不可解な事実を顧みた。何が不可解なのか。
決まっている。その後の佐倉剛輔の行動そのものだ。
① 何故、佐倉剛輔はそのことを証言をしなかったのか。
佐倉剛輔には確かなアリバイが存在する。犯行推定時刻の午後九時から十一時、奴は確かに先ほどのバーにいたのだ。では何故、あいつはこの事を喋らなかったのだ。忘れていたのではない、あいつは「言えない」と言っているのだ。これは何故だ。
② 佐倉剛輔は十一時過ぎまではあのバーにいたのは解ったが、ではそれ以降は何処で何をしていたのか。
これが解らない。あのバーから富士見荘まで電車を使えば四十分、駅からアパートまでの移動距離があったとしても遅くとも午前一時までには富士見荘に帰ることが出来たはずである。でもそれはあり得ない。何故か。もし本当に自室に帰ったのならば、その時点で遠野美樹の遺体を発見していたはずなのである。もしそうならばその時点で警察に電話していただろうし、気が動転していたとしても騒ぎの一つでも起こしたはずである。だがしかしだ、鈴原は、近隣住民は犯行時の物音を聞いている、と報告しかしていない。これは逆を返せば佐倉剛輔の騒ぎは何一つ聞いていないと言う事なのだ。それに奴が発見されたのは一昨日の夕方。ほぼ丸一日奴は何をしていたのか。


佐倉剛輔は何故、証言を拒み続けるのか?

佐倉剛輔はあの夜、何処で何をしていたのか?

遠野美樹は、本当に佐倉剛輔に殺されたのか?

あの夜、一体何が起こったのか?


「なぁ、良いかげん教えてくれよ…」

誰も教えてくれなかった。
何も教えてくれなかった。
眼の前の闇は、せせら笑う様に寡黙だった。

ゆっくりと眼を瞑る。
何も見えなくなる。次第に何も聞こえなくなる。そして何も感じなくなる。
脳に全身の血流を集中させる。
今回の事件を最初から思い返してみる。
ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと……


―――最初から解っていたくせに


何処からか、声が聞こえた気がした。
何も聞こえない気もした。
もしかしたら、もう一人の自分からのメッセージだったのかもしれない、そんな気もした。

私は踵を返し、闇の中にその身を溶かして行った。






第三取調室。
佐倉剛輔はまだそこにいた。鈴原警部補と対峙している彼は、未だ黙秘を続けていた。
「もうさ、いい加減本当の事を言いなさいよ。」
「……」
「事件のあった前日の夜、つまり今月の十九日の夜、お前は何処で何をしていたんだ。」
「…言えません。」
「これだもんな。」
鈴原が椅子の背もたれに体重を預けていると、すぐ後ろの扉が開いた。
黒河准警部だった。
全身びしょ濡れで、しかも良く見ればこの数時間で頬がこけていた。
その様子に鈴原は最初、声をかけることもできなかった。
「えっと…あの、黒河警部、一体どうしたんですか?」
「あぁ、ちょっとな。さっきまで今回の事件について調べててな。ようやく分ったよ。」
「え! そ、それは本当ですか。」
ゆっくりと佐倉剛輔に近づく。
「あぁ。今回の遠野美樹殺害事件、その犯人は、お前じゃない。」
佐倉剛輔は、硬直していた全身の筋肉が一瞬にして弛緩したかのように、立ち上がる。
「そう、お前は恋人を決して殺してなんかいない。」
一番驚いているのは鈴原であった。鳩が豆鉄砲をくらったどころの騒ぎではなかった。
まるで顎が外れた様にあんぐりと開けられた口から、縺れながら質問を切り出す。
「…ええっと、黒河警部、それは本当なんですか。本当に、こいつは犯人じゃないんですか?」
「あぁそうだ。こいつは遠野美樹を殺してはいない。」
その表情は驚きと、そして満面の笑みだ。佐倉は黒河の皺々の両手を力強く握りしめる。
「黒河さん……、本当にありがとうございます。信じてくれて、本当にありがとうございます。」

次の瞬間、黒河は佐倉剛輔の両腕に鉄の輪を喰らいつかせた。
「しかし佐倉剛輔、お前を、喜島日出雄殺害の容疑で逮捕する。」





西の空は明日の朝まで逢えない太陽の燃えカスでいっぱいだった。焼けつくようなオレンジ、雲もない。明日も一日中快晴の様だ。
私は、警視庁内の喫煙ルームで、ガラス越しに明日の天気を考えていた。
背後からひと組の足音がする。
「黒河先輩、調書が出来ました。」
どうやら鈴原の様だ。
「遠野美樹の浮気相手、喜島日出雄殺害の容疑で、佐倉剛輔氏を刑事告訴する書類もできました。」
私は何も応えない。ただ煙草を無意味にふかすだけだ。
「先輩の言うとおりでした。被害者の遠野美樹は、佐倉剛輔に殺害されたのでは無かったんです。彼女は浮気相手の喜島日出雄に殺害されたんですね。
いつものように同棲相手と喧嘩し部屋を飛び出した佐倉剛輔。そしてその後、浮気相手を部屋に呼び込む遠野美樹、そして自分が本命ではなく浮気の相手であると言う事を知ってしまい殺人事件を犯してしまった喜島日出雄。この三人が引き起こした悲劇だったんですね。恐らく十月十九日の午後九時から十一時の間に聞こえた203号室の物音は遠野氏と喜島氏二名による争いであり、そのときに遠野美樹は殺害されてしまった。殺害した張本人の喜島は、気が動転し、蘇生活動もせずに自分の身の回りのもの、証拠品、指紋などを処理する。佐倉氏はこの間、N **駅付近のバー『アラビク』でお酒を飲んでいた。喜島氏が全ての証拠の除去が終わり203号室を出た。しかしそこを帰ってきた佐倉氏に見つかる。その後、二人は口論になる。佐倉氏はお酒も入っており、力加減が上手くいかず喜島氏を殺害してしまった。今度は佐倉氏が喜島氏の死体の処理を行うはめになった。自分と喜島氏が出会った証拠を消し、死体を川に捨てる。先ほど鑑識から報告がありましたが、黒河警部が見つけたS**川の河川敷でビニール袋に包まっていた変死体は歯型の照合から喜島日出雄本人であると確認できました。その後、正気に戻った佐倉氏は、酔っていたとは言え自分のしてしまったことに対し、自責の念でいっぱいになり、部屋に戻ること無く警察に発見される、と言う事です。
これで佐倉剛輔が取り調べでアリバイを『言えない』と答え続けた理由も解りましたね。だって言えるはずがありませんものね。十九日の午後十一時までのアリバイは言えても、それ以降のアリバイは無い、何故なら人を殺していたから。自分の最愛の人を殺していないと証明するには、自分が誰かを殺したことを認めなくてはいけなかったんですから。言えるはずもありません。流石先輩ですね。
………。どうして先輩は、黒河警部はこんな解答に辿りつけたんですか。」
私は答えない。答えようとも思えない。
何しろ、その答えは明白だからだ。

―――そう。最後の最後に彼を、佐倉剛輔を疑ってしまったのだから。

『佐倉剛輔は人殺しをするような人間じゃない。』
『うん、私は信じているよ。』
その言葉に嘘偽りなど無かったはずだ。
無かったはずなのに、どうして彼を疑ってしまったのだろうか。
どうして彼が人を殺したのではないか、と考えてしまったのだろうか。
『彼が人を殺した』と信じていれば、今回の解答には辿りつけなかっただろう。
逆を言えば、彼を信じなかったからこそ、今回の事件を無事解決できたのだ。
そう、私は最初から佐倉剛輔を疑っていた。
そう言う事になる。
だからこそあの時、声が聞こえたのだろう。

『―――最初から解っていたくせに』

あれは本当は解答に辿りついているくせに、それを無意識のうちに否定していた、自分から自分への揶揄だったのだろう。

私は「ごくろうさま」とだけ応えた。
鈴原も、それ以上言及してくることも無く、持ってきた書類をテーブルの上に乗せると、無言で一礼し、そして去って行った。


あぁ、煙草はまずい。
肺に、頭に、身体全体に鉛が蓄積していくようだ。

あぁ、もうすぐ陽が沈む。
またやって来る。
寡黙で、優しい闇が――――――

無実の男

いかがだったでしょうか?
僕の「長男」にして、初の短編ものミステリです。
正直、見返してみて『アリかナシか』と聞かれれば、『ナシ』と答えるでしょう。
それは「情報が全て提供されてない」からもあります。だって最後になっていきなり出てくる人名とかありますもんね。
でもそれ以上に、この作品の出来は自己採点で大甘に見ても15点くらいでしょう。
ストーリも稚拙すぎる、トリックもさほどインパクトがない、人物だってかけてない、なによりこのネタ・・・概出なんです。
どの作品からの概出か、これは言えませんが、その作品を少しいじって友人と共に出した作品です。
ですので、これを読んで「○○のパクリじゃん!」と思った方、その通りです。おそらくその通りです。
また、ところどころ他のミステリ作品から参考にさせていただいてる部分もあります。
例えばバーの「アラビク」、これはミステリをかじっている人ならすぐに気がつきますね?
そうです、「黄バラ」のあれです。
ほかにも内容と関係ない部分で自分が影響を受けた作家さんを参考にしている表現があります。
それらを探すのも、良いかと存じます。
何はともあれ、僕の処女作いかがだったでしょうか。楽しめた人楽しめなかった人、色々いると思います。
これから自分の自己満足でまだ作品を出していきたいと思いますので、もし良かったら引き続きよろしくお願いします

無実の男

逮捕された『佐倉剛輔』。彼には恋人殺しの殺人容疑がかかっている。彼はどんなにアリバイを聞いても『言えない』と頑なに証言を拒む。 彼を古くから知る『黒川』警部。黒川は佐倉が今回の犯人ではないと思い、彼の無実を証明するために奔走する。 佐倉はなぜアリバイを答えないのか、佐倉は本当に人を殺したのか、黒川警部がたどり着いた真相は?

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted