優しい笑顔で見送って

彦田礼人

 南無阿弥陀仏のお経が、心地よい子守唄のようでついつい船を漕ぐ。数珠を持ったまま合掌していれば、目の前の写真がふと表情を変えたような気がした。夢現の世界は此の世と彼の世を繋いでいるとかいないとか。
「やあ」
 懐かしく、聞き馴染みのある優しい声。そこにいたのは生前の恩師だった。
「先生――」
 今見えている姿が現実なのか幻なのか、頭の中が混乱していて考えることができない。次第に思い出が蘇り、連動して瞼が熱くなり、涙が込み上げてくる。
「まさか君が最期に会いに来てくれるなんてね。嬉しいよ」
 御年八十八歳の笑い皺は、これまで多くの生徒や学生を見送ってきたことだろう。
「ご無沙汰です。こんな形でお会いするのは残念ですが」
「そうだね。私の肉体はもうすぐ灰となって自然界に還り、魂は輪廻転生に則って生まれ変わるだろうけど、その時はもう私ではないからね。これが本当の最期だ」
 大学で教わった先生の倫理。今でも覚えている。
「先生は、この世界で生きて、幸せでしたか?」
「幸せだったよ。これだけ多くの人に見守られて、最期の旅路が良いものであるようにと願ってくれているんだから」
 恩師は下を見る。薄い雲の隙間から見える、嘆き悲しむ参列者。その中に混じって船を漕いでいる自分が恥ずかしく思えて顔が熱い。
「みんな真面目に告別式に参加しているのに、君だけは歳を取っても相変わらずだな。ははは」
 笑い皺の彫りが深くなる度に、これから亡くなってしまうという事実に悲しみも深くなる。
「さあ、そろそろ経が唱え終わる頃合いだ。君もずっとここにいると、私が君の魂を持って行ってしまうかもしれない。戻りなさい」
「またまた、そんなご冗談を」
「いいや。死者は離れ難い気持ちが強くなると、生者を道連れにしてしまうからね」
 突然、体が激しく揺れる。体そのものを揺らしている隣人が起こそうと揺さぶっているのだ。すると意識は遠のいていき、無理やり現実に引き戻された。
「ねえ、大丈夫?」
 かつての大学同期でゼミも一緒だった妻が、心配そうに見つめていた。
「ああ……。寝て、しまったのか」
「ふふ、あなたって昔から変わらないね。大事な時でも船漕ぐの」
「そうかな」
「そうよ。先生もきっと、あなたのこと笑って見ていたんじゃない?」
「先生――。そうかもな」

 告別式が終われば、火葬場には向かわずに愛車で帰路を探す。慣れない道はナビを頼っても迷ってしまう。
「先生、最後は良い笑顔だったね」
「ああ。皆に見守られて、幸せだったと思うよ」
「そうね」
 赤信号の待ちぼうけの間、急に視界が眩しくなる。空は雲の隙間から神々しい光のカーテンが降りていた。
「もう、居ないのね、先生……」
 実感を肌に感じるほど強くなると、妻は涙を止められなかった。
「ああ――」
 あの夢現の世界で、先生は「幸せだ」と言っていた。だからきっと笑顔で、彼の世の世界に歩いていくのだろう。
 ありがとう、そして、さよなら。人生の先生。

優しい笑顔で見送って

優しい笑顔で見送って

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-04

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