輪廻さまの祈り
わたしたちの故郷で、争わないで。
輪廻さまが跪き、祈っているあいだにも、星は、静かに腐っているし、ぼくらの肉体も、にんげん、という枠からすこしずつ、はみだしていっている。
こわいから、いつも、しろくまといっしょにいる。
にんげん、ではなくなり、じゃあ、しろくまに、なれるわけでもなく、ただの、生きているもの、というものになりかけている感覚を、こわい、という以外に、どう説明すればいいのか。わからないから、しろくまと、はなれたくなかった。しろくまは、やさしいから、ぼくのあたまや、せなかをなでなでしながら、だいじょうぶだよ、と言ってくれる。なにものになっても、きみは、きみなんだから。どんなきみでも、ぼくはあいしているから。しろくまは、まだ、どこかおぼつかない、おぼえたばかりの人語で、はげましてくれる。おちこんでいるときは、ごはんをつくってくれるし、となりで眠ってくれる。お風呂ではシャンプーをしてくれるし、おしごとの帰りにケーキを買ってきてくれる。なによりも、おしごとや、ぼくの学校があるとき以外、しろくまはずっと、四六時中、ぼくといっしょにいてくれるのだ。かたわらに。かならず、からだのどこかで、おたがいの体温を交わせる、距離に。
そもそも、ぼくも、きみも、おおきな括りでいえばおなじ哺乳類で、にんげん、というのとはすこしちがう生きものになったとしても、根幹が揺るがなければ、いままでとなにも変わらない。
あたたかい声色で、しろくまは云う。ぼくは、しろくまのうでに抱きついて、うん、と頷く。
輪廻さまは、ぼくよりもからだのちいさい、かわいらしい神さまである。女の子である。宇宙の彼方の、うんと遠くの星からやってきた者たちが、ぼくらの星で好き勝手にあばれているのを、輪廻さまは祈りで、治めようとしている。テレビ画面のなかの輪廻さまは、だれよりもきれいだ。異星の種がまじった、ぼくらのようなものが二度と生まれないよう、奮起しているという。でも、しろくまは、輪廻さまのことを、あまりよくは思っていないようだ。価値観のちがい、というやつだろうか。祈るだけで世界が変わるのならば、みんなやっている。温厚なしろくまがそう吐き捨てたとき、ちょっとだけ、不安になった。信じているものが異なると、ぼくらのかんけいも、あっけなくおわってしまうのではないかと思って、ぼくは、それがおそろしくて、輪廻さまのこととなると、しろくまの意見に同調している。
こんやも、しろくまのつくったオムライスを、ふたりでたべている。
輪廻さまは、いつ休んでいるのだろう。テレビのニュースを観ながら、ぼんやり考えている。
輪廻さまの祈り