正義、他事無し

・「連載群像劇のプロローグ編」を想定した試作(約51万字)から、冒頭と序盤の一話を抜粋。
・A:一人称a 3,308字、B:一人称b 9,700字、C:三人称a 17,928字、D:三人称b 8,389字
※作中の歴史的事象と社会状況等を諸々削除し書き換え、説明文を多々加筆しています。
※フリガナは振っていません。読む人が読みやすくあてるものが多分正解です。
※A+Bが初話です。Bは三人称で書いたほうが無難だったかと考えています。
※現実世界と違っていて当然の空想物語です。ゆーまでもないことですが。

「マルマルゴォナナ、被疑者の身柄を確保。操機信号断、拘束完了。回収願う。オーバー」
 俺は型通りに呟いた。
〈確認した。オールクリア。鳥を飛ばす。アウト〉
 歯切れのいい男声が即応し内耳に返った。これもいつもと同じだ。
 音声は明瞭だった。頭部装具は気密性と遮音性を維持している。めまいもとっくに消えていた。モンジュの見立て通り頭に異状は無いようだ。兜の損傷は外層数枚といったところだろう。
〈我慢したんだな〉
「何を?」
 雑談に応じながら周囲に目をやる。もう事は済んだから気を張る必要は無い。今夜の周辺環境監視はピットの連中に任せてあるし、何より異状発見はモンジュの御箱だ。三つの機眼はまばたきもしない。
 当然ながら集配タワーの広い屋上に動きは無かった。千切れたエセ頭部装具と緩衝材のはみ出た安っぽい兜が転がり、降りつづく激しい雨に打たれているだけだ。排雨に伴う空輸休止は継続中だし、この時間の全自動倉庫に人はいない。十数秒に及んだ殴り合いの衝撃もビル管理G-AI+の気を惹く性質のものではなかった。
〈『“対象”の身柄を確保、蘇生不能』、だと思ってた〉
 にやついた顔が目に浮かぶ口調だ。
「ああ……」
 皮肉めかしたジョークを受け流し、俺は小さく鼻で笑った。視線を落とす。
「被疑者じゃなかったか」
 足元で腹這いになっているコーカソイドの男はまだ失神中だ。離着ポートを構成する躯体プレートに毛量の乏しい左側頭部を押しつけ、頬のこけた生っ白い横顔を見せている。雨に濡れ常夜灯の冷光に晒された肌はまるで牛の脂身だ。三十代後半の見掛けは十中八九実齢だろう。抗老化処置に手を出せるような金持ちには見えない。手甲モドキもろとも砕けた両腕には後ろ手にがっちりと対機カフが食い込んでいる。青黒い軽甲冑を合わせたエセ強化装具姿が傍ら痛い、ヒーローになれなかった残念なおっさんだ。
 俺は装具の倍力レベルをニュートラルに入れ、プロテクターが削れたブーツの先を男の右肩の下にねじ込んだ。そのまま足の甲で持ち上げ、見た目より重い体を横向きに起こす。つづけてかかとで肩を押すとソールに微かな軋みが伝わってきた。エセ装具と鎧との結束部が鳴いたんだろう。所詮は仕立てという言葉に縁の無い大陸製模倣品だ。素人目には俺と並んでも遜色無いんだろうが、こいつの鎧の塗りなぞお粗末な一般工業塗装に過ぎない。
 男の体が仰向けに引っ繰り返った。固定された両腕が下敷きになって腰と背中が浮き、ネックサポーターに支えられた頭が軽くのけ反る。無数の水滴が閃く常夜灯の光に裂けて腫れ上がった唇が浮かんだ。まだ止まらない血が弾け、しぶきが激しく散る。
 木を主材とする複合躯体プレート表層は突き刺さる大粒の雨を瞬時に吸い込む。見た目は湿ったまな板で、その上に転がっている男はマグロだ。そんなイメージに反応して自分の表情が変わるのを意識する。薄笑いだ。これについてモンジュは不謹慎だと言うが、何がどう不謹慎なのか俺にはわからない。誰かから小言をもらったことも無い。一体何を気にしているのやら、だ。なんにせよ、足元の光景がこれからさばかれる者にお似合いのザマであることは確かだ。
 マグロ男の顔を正面から覗き込むと、顎から首に至る線が体格に比してやけに貧相だった。なるほど、エセ装具の人工筋を目一杯盛ってるというわけだ。重かったのはそのせいか。
 ガイトって奴らはカネは掛けるくせに調整も最適化もまるで疎かにする。単純なボアアップだけで伝達系の応力対策もしないから、当然動作にムラが出る。それでも奴らはほったらかしだ。大味な性質で鈍感だから運動阻害率が上がっても気にならないんだろう。パワー至上のガイトに相応しい雑さ無粋さだ。馴化という言葉は奴らの母語には存在しないに違いない。もっとも、強電起力な上に筋電操機の古臭いソフトシェルにそれが必要かどうか知らないが……要らないか。
 しかしまあ、よくもこんな恥知らずな猿真似を。馬力優先なら機動隊の鉄チンスーツでもパクればいいのに、まったく、この、ガイトが。こんな奴キックバック食らって肩か肘でも潰せばいいんだ。手首でもいい。ああクソ、とにかく腹が立つ。こんな奴らが入って来るからこの国が――。
 頭の中で罵りはじめた途端、目の前に『CHILL OUT』の青い文字と黄色いスマイリーフェイスが浮かんだ。視界を遮り明滅する。モンジュだ。最近はオフタイムになると声を掛けずにこれをやる。行動中には余計なことまで喋るくせに。テキストトークにでも凝ってるんだろうか。
 俺は歯軋り寸前だった顎の力を抜き、鼻から短く息を噴いた。ディスプレイ・バイザーの表示をリセットし、顔を起こして口を開く。
「こんなガイト野郎でもくたばったら親父が困るらしいから。『おいおい、手心も仕事のうちだぞ? HA! HA!』ってこないだ言われたし」
 張りのある父ちゃんの声色を大袈裟に真似てみせると、楽しげな笑い声が耳の奥をくすぐった。
〈よくやったな。鳥はおよそ二分で現着。じゃあな〉
 ねぎらいの言葉に頬がゆるむ。もう苛立ちは感じない。俺は交信を終了した。
 サウンド・オミッターを停止すると雨音が勢いを盛り返した。頭と肩を叩く砂利のような雨粒を意識する。駆動馴化を終えて二か月ほど経つが、新調した装具を濡らしたのは今回が初めてだった。
 ふと手入れの段取りが頭をよぎり、手数を要する兜の修復工程を思いやる。無意識に漏れた溜息が我ながら意外だった。甲冑師に投げるという考えまで浮かんだのは気疲れのせいだろう。本来は楽しむ作業だ。
 味のしなくなったガムを舌の上で丸めながら、改めて足下に広がる風景を眺める。
 長大な海岸線は全天候型荷役プラントに隈無く覆われている。白やオレンジの照明を浴びて映えるそれは、暗い海と明るい陸を仕切る防壁でもある。湾内を静々と往来する複数の黒い影は航海灯だけを示した大型自律貨物船だ。肉眼で見ると真っ黒だが、機眼なら各種航行用機器が発する電磁波で華やかに彩られているのがわかる。プラントの陸側辺縁には地上連絡路が幾筋も交差し、地下ルートの集配ベースへ向かう自律トレーラーヘッドの光が絶え間無く流れている。そのすべてが水煙をまとい、激しい雨の向こうで淡く霞んでいる。じっと目を凝らしてみても、幼い頃の風景はもうどこにも見当たらなかった。
 ブリーザーを調整して生の外気を導入してみる。木に沁みた雨の匂いと共に微かなオゾン臭を感じた。ついさっき展開された争闘の名残だ。遠い記憶の中にある潮と油のニオイなぞ、すっかり様変わりしたこの港町に感じられるわけも無かった。
 轟々と鳴る雨音が全身を包む。耳孔から雪崩れ込んで頭の芯を小突き回し、俺の意識を荒々しくあの夜に押し戻そうとする。この先こいつから解放されることは無いのかもしれない。一年前の雨の夜、強烈に焼きつけられた胸糞の悪い記憶だ。父ちゃんは俺の仏頂面を見るたびに抑制処置を勧めてくれるが、それをしたら何かを失くしそうで首を縦に振れない。
 暗い空に顔を向ける。アイガードの除水性能が音を上げて視界が歪んだ。
「モンジュ」
〈なんだい?〉
 落ち着いたバリトンが内耳に応える。俺のパートナーS-xAI++に成りすました他人のT-T。アーキタイプとのつながりを失った、考えるモノ。
「セン……あぁ、いや、いい」
 喉から出そうになった言葉を咄嗟に呑み込み、俺は結んだ唇をひん曲げた。
〈ほんとにいいのかい?〉
 うるさいな。
「いい」
〈……そうかい、わかった〉
 終話前の“間”が気になったが無視した。口の減らないT-Tを相手に問い質す気にはなれない。
 この数週間、モンジュとは意見のぶつかることが多い。以前はそうでもなかったはずだ。何か理由があるのかもしれないが、それを考えることすらいまは煩わしく思えた。
 視界の歪みが目まぐるしく変化する。一瞬復帰の兆しがちらつくが、結局は絶え間無い水勢に圧倒されて先を見通すことはできなかった。真夜中の豪雨は衰える気配も無い。
 俺はもう一度溜息をついて身を屈め、激しく咳き込んでいる男の胸ぐらを引っ掴んだ。



命運必定

 三月中旬の関東南部は暑かった。高温期にはまだ早いというのに、埠頭を渡る油じみた潮風はむっとする熱気を孕んでいた。
 田舎町の廃漁港に喚声を響かせ、ワルガキたちは走っていた。右横に連なる金属フェンスが頬を炙り、中天の太陽が頭のてっぺんとコンクリート舗装を満遍無く灼く。
 五歳の俺は十人ほどの仲間を追って最後尾に食らいつく。顔面の汗を両手で払い飛ばし、手のひらを湿ったTシャツの胸になすりつける。遠くからゆるい風に乗って聞こえていた超級重機の唸りはいつの間にか途絶えていた。
 昼休みになると倉庫区画の作業は停止する。倉庫はいつも昼休みみたいに暇そうなんだが。俺たちはフェンスを離れ、解体を待つ冷蔵倉庫の脇を走り抜け、過去長年に渡る海面上昇に応じてかさ上げされた岸壁へ向かった。いまなら倉庫区画の奥まで行ける。
 行く手にはなだらかな階段状のコンクリート構造壁が灰白色の砂丘となって海へと広がり、遠く陽炎が躍っていた。熱対策されていないコンクリートは馬鹿みたいに熱く、汗が落ちたら音を立てて蒸発しそうだった。埠頭からつづく壁は神話に出てくる大蛇のように町を囲み、海抜四十メーターほどの高台まで延びている。気候安定化技術が実用化されるまで行われていた防潮対策の名残だ。もう壁が増設されることは無いと言われているが、件の技術はその名称とは裏腹に不安定で知られている。
 逃げ水を踏んで行く仲間たちの百五十メーターほど先に、一隻だけ紺色の船が接岸していた。最近よく見掛ける、ロボティッククレーンを備えた小型の半自律型多目的貨物船だ。岸壁に吊るされた急場しのぎの防舷用古タイヤに鮫肌の横腹を押しつけ、左舷の係留アーム二本で古めかしいボラードに掴まってじっとしている。監督する人間が昼食を終えるのを待っているのだろう。
 港湾設備が改修されて小規模な貨物が扱われるようになったのは、つい先月からだった。老朽化した建物が潰されて更地が増え基礎工事も進んでいるが、新しく建ったのは当座の有人物流倉庫ひとつと小さな仮設事務所、そして工事関係者が寝泊まりするふたつの飯場だけだ。工事を管制する大きな飯場は幹線道路沿い、小さな飯場は海側にある。フェンスは岸壁手前で右にゆるくカーブして延びており、その向こうの工区は将来の巨大プラント建設を見据えた拡張部分だ。
 フェンスに設けられているメッシュ部分を透かし、遠くに俺たち馴染みの小さな飯場が見えた。当面の倉庫区画と工区を分ける関所みたいなものだ。飯場の工区側建屋横には重機操作用の近接テレポッドを積んだトレーラーが停まっている。強力な通信テロが起こる地域にしか来ないから、これを見られる俺はラッキーだった。埋め立てが進む敷地の最前線に目をやると、小山のようにデカい三体の超級重機がオイルの汗にまみれ、疲れた怪獣みたいにうずくまっていた。残りの二体は少し沖の海中だ。工区各所に散らばる普通自律重機は静々と休み無く働いている。
 先を行く仲間たちが貨物船を目指して速度を増した。岸壁へつづく船首側搬入出路のゆるやかなスロープを駆け上がっていく。彼らは十歳前後のアフリカ系移民とその形質が強いマルチ――混血者を好意的に言い表す和製英語――の不良少年たちだ。ギャングと呼ばれるほど悪質な集団ではない。俺が幼年保護施設を脱け出すたびに相手をしてくれる仲間だ。俺との遊びは彼らにとって軽いエクササイズ代わりだっただろう。
「貴様の力はそんなものか!」
 滑らかな黒い肌を汗で光らせ、上半身裸のリーダーがフランス語訛り――多分そうだった――の日本語で俺を挑発した。真っ白な歯を見せて笑う。
 俺は走るのは好きだが、いかんせん同年代と比べても体が小さかった。年上で身体能力の高い彼らに追いつけるはずも無い。懸命に走るが互いの距離は徐々に開いていく。それでも、主役は俺だ。
 手足の回転をゆるめないまま左手の有人物流倉庫に顔を向ける。大きな庇が張り出した貨物搬入口に顔見知りの作業員を見つけた。自身が“イーヴン”であることを告白してくれた二十歳の北欧系移民だ。その言葉通り、男とも女とも異なる端整なルックスをしている。いつも頭文字だけで『B』と呼んでいたせいか、一度だけ聞いた本名は難しくて忘れてしまった。
 イーヴンとは、総合生命工学を用いた技術手法により同性ペア――基本的に配偶者――間の子として生み出された者の俗称だ。ペアそれぞれの遺伝子を再設計した細胞を結合し、それを胚へと成長させて誕生する。標準的な設計かつ意図的に性スペクトラムに手を加えなかった場合は、肉体的にも精神的にも明白な性差を顕さない。双方の血を引く子を望む同性ペアからは福音とも言われているが、イーヴンには生殖能力が無く、現時点ではDNAの複製も再設計も不可能とされている。その先の子孫を残すことはできないのだ。また、極端な短命や修正不能の遺伝子関連障害を発症する例もあるため、合法化されている国は限られている。日本は未認可だ。
 Bは“オムニホイール付きロボット骸骨”といった趣きの中型トランスローダー――人体運動追随式荷役運搬機械――の横であぐらをかいていた。弁当片手にもぐもぐと口を動かしている。俺を見て目を細め、箸を持つ左手を煽るように振った。イーヴンは大抵が左利きだそうだ。
 走りながら手を振り返して空腹と喉の渇きを意識する。先日『全自動倉庫が動きだしたら別の町に行く』と言われたことを思い出した。そうなったらもうジュースを奢ってもらえない。いや、そんなことはどうでもいい。機械の話をしてくれる穏やかな声を聞けなくなることが残念だった。
 脇見の俺が船首側のスロープに入った直後、はやし立てる声が高まり口笛が鳴った。はっとして視線を戻す。仲間たちは早くも船尾側のスロープを下っていた。その先にある貨物の仮置場を抜けてしばらく行くと飯場がある。
「おのれ待てい!」
 そう叫んでも悪者どもは聞く耳など持たない。積み込み待ちの小型コンテナの迷路に次々と消えていく。
 Bの応援も虚しく、俺は置いてけぼりを食らってしまった。だが俺は不良少年たちのそんなところが好きだった。彼らは年齢差があっても仲間同士で馴れ合い手心を加えるようなことはしない。施設で一緒に暮らしている陰気な連中と絡むよりずっと気分が良かった。
 貨物船の横を走る俺の頭に、施設の奴らの生っ白い顔が浮かんだ。親が恋しいと言ってめそめそ泣く気持ちが理解できなかった。そんなに自分専用の大人が欲しいんだろうか。身のまわりの世話をする大人は多いほうがいいじゃないか。施設では子供に不快な思いをさせる職員がいれば、すぐに新しい人間かロボットと入れ替わる。親というものはそうはいかないらしいじゃないか――この頃の俺が可愛げの無いガキだったことは確かだ。
 汗の沁みる目をこすり、息を弾ませて方向を転じる。貨物船から離れ、仲間たちの足音と笑い声を追う。
「坊主!」
 突然、背後で声が弾けた。太く通りのいい男声だ。
 後頭部を小突かれたように感じた俺はタタラを踏んで足を止め振り返った。岸壁に素早く視線を走らせる。貨物船の横腹から船尾に近いタラップを伝い登り、舷側で声の主を捉えた。
 明るい銀灰色のビジネススーツを着た男だった。タラップ架設部横の手すりに両ひじをつき、右手の指先にサングラスを引っ掛けてこちらを見ていた。
 見覚えがあった。年明けから港に現れるようになった中年外見のモンゴロイド――幼い俺にとって三十代半ばは“中年”で一括りとなる。額の左側を縦に走る傷痕、左眼窩を覆う銀色のストラップレス・アイパッチ――好奇心旺盛な子供には忘れようの無い目印だ。工事関係者や貨物オペレーターと話している姿を何度か遠目にしたことがあった。
 この男にはサングラスを掛けた黒スーツが常にひとり張りついている。港で見るたびに人は替わっていたが、その恰好はいずれも漫画に出てくるボディーガードそのままのステレオタイプだ。この日はポリネシア系らしきずんぐりした男がブリッジウィングに立ち、周囲に視線を放っていた。
 中年男が手すりからひじを離し上体を起こした。サングラスを胸ポケットに挿す。スーツが強烈な陽光を反射し、それ自体が銀色に発光しているかのように見えた。
 見下ろす男と見上げる俺。互いの眼から見えない糸が真っ直ぐに伸び、空中で突き当たって固く結び合わされた――そんな感慨が浮かぶほど、この瞬間は俺の心に深く刻まれて残った。
 俺の関心を引き寄せ掴んだ男はその強度を確かめるように数秒間黙り、そして、にやりと笑った。
「“ヒーロー”になりたいか?」
 ごっこ遊びに興じる俺たちの芝居掛かったセリフを聞いていたらしい。
 質問に興味はあったが、俺は何も言わなかった。互いの距離が四十メーターほど離れている上に相手は得体の知れない人物だ。声を張ってまで答える義理は無い。何より大声は神経に障る。遊び以外では聞くのも発するのも嫌いだった。
 俺に無視された男はもう一度笑顔を見せ、両手をズボンのポケットに突っ込んだ。のんびりとタラップを降りはじめる。そのとき、ブリッジの中からひとりのグレースーツが現れた。坊主頭にサングラスを掛けている。初めて見る人物だ。中年男を追ってタラップに向かう。なぜかボディーガードはその場を動かなかった。
 男たちを観察する俺の頭に『俺が言うのもなんだけど、“ガイト”には気をつけろよ。日本語で優しそうに話しかけて、子供をさらって食うんだぞ』という仲間の言葉が再生された。胸の真ん中に冷たい緊張が走る。『さらって食う』は無論冗談だが、この頃の俺にとっては聞き捨てならないニュースだった。
 ガイトとは古来から不穏当な言葉として扱われる『外人』の読み替えで、移民を含めた外国人全般に対する蔑称に近い呼び方だ。日本国民の大多数が移民とマルチで構成される現代では、多分に差別的な呼称として認知されている。
 俺は口を結んで気を引き締め、鼻だけで荒い呼吸をつづけた。近づいてくる男たちを首をかしげて斜めに見る。すり減った靴底から伝わるコンクリートの熱で足裏がじんじんしていた。靴の中で指を動かしながら相手の動きを注視する。少しでも身の危険を感じたら走るのだ。食われるわけにはいかない。
 ところが、皺の少ない俺の脳は急速に態度を変えはじめていた。コンクリートの熱さが些事となり、次第に勢力を増す好奇心がじわじわと成長し警戒心が隅に押し退けられていく。間近に迫る中年男が凄く強そうでかっこよく見えたからだ。俺の倍以上もありそうな長身、上半身は逞しく、脚が長い。まるで銀色の光暈をまとったヒーローみたいだった。
 男は俺と一メーター半ほどの距離を置いて立ち止まった。口を開く。
「坊主、お前“ニーズ”だよな?」
 いまから百年近く前の二十一世紀末葉、日本を中心とする地域は一年間に二度の超連鎖型磁界潰裂に襲われた。現象後五年間で国民人口の六割強が失われた、人類史上類を見ない甚大な災害だった。ニーズとは、その壊滅的打撃から立ち直ろうとする日本人を称して当時の海外メディアが使いはじめたワードだ。
 鼻息荒い俺の様子に、男は苦笑を浮かべて首をかしげた。
「そんな不審者見るような目ぇするなよ」
 子供というものは犬猫と同じだ。心を開いていない相手には懐かない。相手が本当に笑っているかどうかが、ちゃんとわかるのだ。微かな表情の変化を読み取る動物じみた鋭敏さを備えている。上っ面の笑顔には騙されない。加えて俺は知らない大人に愛想笑いを見せない子供であり、このときは目の前の不審者を値踏みしている最中だった。
 とは言え、幼い俺の人種に関する鑑識眼がまるで未熟だったのは確かだった。ふたりとも髪と瞳は黒いが日本人とは限らない。見聞の乏しい子供には、異国のモンゴロイド民族をわずかな外見の違いで見分けるなど無理な話だ。結局俺は、人さらいではないという“安心”を大人が提示してくれるのを待っていただけだったのだろう。
 男は俺の懸念を理解している様子で説得にかかってきた。いや、懐柔だったか。
「俺らがガイトに見えるか? どうだ? 見えないだろ? マルチでもないぞ?」
 ガイトという言葉をさらりと口にする大人を見たのは初めてだった。そしてこの瞬間、俺はこの男から何か良からぬものを感じ取っていた。はっきりとではない。自分で意識しないほど、ほんの微かに、だ。相手の口調、表情、身振りの奥に、他の大人とは違うナノテク的な差異を見たのだ。このときの俺がもっと大きかったなら、この男に対する印象バランスは幾分悪い方に傾いていたかもしれない。
 無言の俺に向かって男が話しつづける。
「そんなに警戒するなって。俺もこいつもニーズだから」
 そう言って右手の親指を斜め後ろに振った。
 紹介された坊主頭のグレースーツがサングラスを外した。薄い眉の下の丸い目が無表情に俺を見つめる。ほっそりとした顔の十代半ばとおぼしき少年だった。中年男より頭半分ほど背が低い。この暑いのに首を覆い隠すハイカラーシャツを着ている上に、ややダブついて見えるスーツが一種の精神的欠落を感じさせて薄気味悪かった。さらに両手には手袋を着けている。執事が使うような白いやつだ。感情を読み取りにくいその顔は以前捕まえたトカゲを連想させた。汗をかいている様子が無いこともそのイメージを助長していた。
 と、少年が表情を変えた。高々と口角を持ち上げる。歯は見せないが、細めた目が山なりで口がUの字になる落書きみたいな笑顔だ。軽く手を振ってきた。
 第一印象は良くなかったが愛想が悪いというわけでもないらしい。釣られた俺は思わず笑みを返したが、顔の筋肉がぎごちなく強張っているのが自分でもわかった。
「なあ、坊主……」
 中年男が俺に一歩近づき、しゃがみ込んだ。背を丸めて小さな俺と目線を合わせる。ふわりといい香りがした。土埃と潮気の効いた汗まみれの俺とは正反対のニオイだった。この男も汗をかいていない。この日の陽気では有り得ないことだった。となると、着ているスーツには調温機能が備わっていることになる。それもかなり高性能なやつだ。
 男の髪の毛は短く刈られ、角張った顎先のひげも同様に短く整えられている。人目を惹くほど見映えのする顔立ちではないが、ひとつだけ男の個性を際立たせるものがあった。金持ちであろう人間にはまったくそぐわないもの――傷痕だ。額の左上、髪の生え際から垂直に眉を断ちアイパッチの中へとつづいている。白っぽくなった肉がわずかにへこんで周縁部が細かいケロイド状になっており、眉の部分の骨がほんの少し歪んでいる。幅二センチに迫るそれは間近で見るとなかなかの迫力だった。外見に無頓着な文化圏ならいざ知らず、一般的には借金してでも修正したいレベルの瑕疵だ。
 人目をはばからず残す傷痕、そして重傷を負った過去もその結果の隻眼も他人をたじろがせる要因になるのだろうが、このときの俺は怖れなど感じなかった。仲間うちで怪我をする者も多かったから傷には慣れていたし、何よりこの男のアイパッチには俺の心を惹きつける魅力があった。精緻な龍の意匠を施した艶の無い銀細工を、単純にかっこいいと思ったのだ。
「お前もそうだろ?」
 男は浅黒い顔に清潔な白い歯を見せ、垂れ気味の右目尻に皺を寄せた。俺がニーズか否かをどうしても確認したいらしい。
 人種の混交が進んだ日本では、見ず知らずの子供に声をかける変人はまずいない。文化風習の違いにより、どんな人間からどんな目を向けられるかわからないからだ。また、子供に危害を加えようとする輩も少なくないため、一部の民族コミュニティーでは集団リンチに発展する可能性すらある。この男がやっているのはそれほど危なっかしく、いかがわしい行為だった。
 とは言え、まだ毛も生えそろっていない子供など単純なものだ。異国語訛りの無い親しげな口調と笑顔に手懐けられ、俺は徐々に気を許しはじめていた。この国の公用語は日本語と英語だが、違和感の無い日本語を操る外国人は滅多にいないからだ。
 俺は男と少年の顔を交互に見やった。だが、警戒心がゆるんできたとは言え初対面の大人と会話することには気後れしていた。たとえ相手が外国人でなくても、トラブルに巻き込まれる懸念を拭いきれなかったのだ。
 後ろを振り返ってみる。男の声は仲間たちにまでは届かなかったようだ。仮置き場に動きは無い。コンテナの陰からこちらの様子を窺う黒い顔は見当たらなかった。彼らは過保護という言葉とは無縁の生活を送っている。俺を捜しに来るのは飯場でひと息ついてからだ。それは問題無い。べつに俺は援護を期待して後ろを振り返ったわけではないのだから。
 小さく息を吐いて男に向き直る。男は右手の親指と人差し指で顎先をつまみ、答えを促すように小首をかしげた。
 俺は男の瞳の奥にある硬く透明な核のようなものに気づいていた。意志の強さを感じる。眼力というやつだ。俺の周りの大人の目には存在しない類の光だった。無論、それが何に根差すものかはわかるわけも無かったが、その目に浮かぶ笑みは本物であり、こちらに向けられているものが好意であろうことも感じ取っていた。
 もう充分だった。これ以上黙って突っ立っていても無意味だ。脳みそが茹だってしまう。飯場に行って水を飲みたかった。腹も減った。
 ねばつく唾を呑み込んで口を開く。
「そうだよ」
 自分が希少なニーズであるということは周囲から散々聞かされていた。
「おうおう、やっぱりそうか」
 男が声を高めた。短い笑い声を響かせて満足げに手を打つ。望みの答えだったわけだ。
 小さな子供の言葉であっても、男はそれを真っ向から受け容れていた。左手を持ち上げ、大きな手のひらで俺の肩をぽんぽんと叩く。俺は体をぐらつかせながら、なんとなくほっとして口の端をひくつかせた。
 第二次極東大磁界潰裂後に大規模移民が開始されて以降、日本国籍を持つ“法律上の日本人”は増えたが、ニーズの減少はとどまるどころか加速することとなった。マルチも含めて異人種との交雑が急激に進んだせいだ。二十三世紀も近い現在、ニーズの数は国民人口の一パーセントにも満たず、そのほとんどは“超”がいくつも付く高齢者だ。大昔の日本とは違い、海外の多民族国家以上に血統が混みあっている現代日本では、好奇の目を向けられるのはむしろトラディショナルな日本人であるニーズのほうだった。
 いまや世界中が絶滅危惧種と認めるニーズの純血種は、シミュレート予測により数世代後に国内から消滅すると宣告されている。無論、数値の上でのことだ。国外居住者数やその出入りを考慮したものではない。だが、この事実は年端も行かない少年少女までもが意識するほどのインパクトを持って世の中に浸透していた。不良仲間が俺とつるむようになったきっかけも、滅びゆく種族に対するロマンティックな好奇心に起因するものだった。
 だからだろうか。このときの俺は同じニーズとしてこの男に同志の絆めいたものを感じていたのかもしれない。それとも、不良仲間と共にこすっからい野良猫のような日々を送るうちに、自分にとって都合のいい人間を見分ける能力を身につけていたのか――おそらく後者だろう。俺は男の態度と口調から、人生の転機が放つニオイを無意識に嗅ぎ取っていたのだ。
「なあ坊主、“ヒーロー”になりたいか?」
 またこの質問だ。俺はもう返事を躊躇しない。早く話を済ませたかった。喉が渇いて堪らなかった。
「なりたい」
 答えながら引っ張ったTシャツの裾で顔の汗をぬぐった。小さい子供なら答えはイエスしかない。きらきらと瞳を光らせて『ヒーローになる』と口にする。将来の夢ナンバーワンだ。女の子はどうか知らないが。ついでに言うと、“ヒーロー”は世の親が我が子に関わってほしくない存在ナンバーワンでもある。
「そうかそうか、だったら一生懸命働け。そうすりゃきっと“ヒーロー”になれるぞ」
 男は俺に板ガムを一枚くれ、手荒く頭を撫でてきた。俺は眼球が揺れてブレる視界を珍しい現象として味わった。大人からこれほど荒々しい扱いを受けたのは初めてだった。分厚い手のひらがえらく頼もしく、慕わしく感じられた。俺が生まれてすぐに捨てられた親無しだったからだろうか。
「じゃあさ、おじさんの仕事さ、手伝うから」
 俺は手元に意識を集中し、ぴったり貼り付いたガムの包み紙に爪を立てながらそう宣言した。なんの不安も無く口にした。深謀遠慮という言葉とは無縁の歳だ。
「おうおう、すごいな。もう働くのか?」
 ワントーン上がった声に顔を起こすと、男は右目を丸くして眉を持ち上げていた。幼い子供の申し出を受け、感に堪えないといった唸りを漏らしている。その大仰なジェスチャーは俺の小さな自尊心をじつに心地好く刺激した。
「働く!」
 勢い込んで答えると、男は弾けるように笑った。
 俺は自分の顔が笑みに崩れるのを意識しながらガムを口に放り込んだ。数回歯を立てると口内に唾液が噴き出しぴりぴりと刺激が広がる。ミント味だった。喉の渇きは誤魔化せそうだったが、ガキの俺にはひどくカラかった。愛想のいい男の手前、少々顔をしかめながらも笑顔を保ち、吐き出すことだけは思いとどまった。
 言葉を交わしたことで俺はかなりリラックスしていた。穏和な施設職員と比べれば暴力的ともいえるほど気さくなボディーランゲージも影響していただろう。勿論、食べ物をもらったことも、だ。口に合うかどうかは別にして。
 目尻の皺を深めた男が、俺の捨てた包み紙を潮風より先につまみ上げた。太い指で小さな紙きれを折りたたみながら、首を曲げて背後を見やる。
 少年が例の笑顔を返した。男はうなずき、俺に向き直った。
「名前は?」
「信真」
「何シンマだ?」
「鈴木信真」
 俺の名は産着に縫い付けられていたそうだ。姓は行政によって与えられた。
「そうかそうか。ようし、助けが要るときはすぐ呼ぶからな」
 たたんだ包み紙を指先で胸ポケットに押し込み、また頭を撫でてきた。俺の髪は汗と潮風でべとべとだったが、男は気にする素振りも見せない。
 男はうれしそうだった。とても。浅黒い顔が皺くちゃになっている。その様子を見ていると、なんだか俺もうれしくなってきた。自分が誰かをよろこばせた、誰かの役に立った――そんな、初めての充足感らしきものを意識し味わっていた。温かいものが俺の胸をいっぱいに満たし、全身をむず痒く刺激した。勢いよく跳ね飛びたくなった。なんでもできる“力”を手に入れたような気がした。
「よろしくな」
 男が右の拳を持ち上げて俺に向けた。すかさず俺もそれにならう。
 俺たちは拳を合わせ、笑った。
 片目の中年男――平良将仁が俺の父親になったのは、それからすぐのことだった。手続きが早かった理由は、すでに下調べと根回しが済まされていたからだ。つまり港でのこの出会いは最終面接だったというわけだ。経緯を知る施設職員は俺を出世頭だとからかった。養父の名声と財力を羨んだ下衆な冗談だ。もっとも、当時の俺には意味がわからなかったし、わかったとしても文句なんか無かっただろう。
「平良将仁! 天誅を受けろ!」
 突然、港に蛮声が轟いた。外国語訛りのある男の狂気じみた叫びだった。
 父ちゃんが小さく笑う。
「テレビの見過ぎだな」
 合わせていた拳を離し、胸ポケットのサングラスを抜き出して掛けた。俺を抱えて立ち上がる。分厚い胸に身を預けた俺はスーツの襟をぎゅっと握り、声の発生源を探して視線を泳がせた。
 坊主頭の少年――のちに俺の兄となるヒカリが移動した。声がした方角と俺たちとの間に立つ。
「追っ払うだけでいいぞ」
「はい」
 答えたヒカリがサングラスを掛けた。ネクタイを外し、手袋と一緒にズボンの尻ポケットにねじ込む。上着を脱ぎ、シャツを脱いだ。
 俺が初めて見た実物の強化装具だった。

つづく



超人仮象 2-1

 一瞬で漂白されそうなほど強い陽光に照りつけられ、落葉した木々の寒々しさが誤魔化されている。ゆるやかに起伏する林の中をレンガ敷きの遊歩道がうねり、広大な都市公園を南北に分ける大池へとつづく。
 年も暮れる冬晴れの正午過ぎ。東アジア系マルチの若い母親が、もうすぐ二歳になる息子と共に買い物帰りの散策を楽しんでいた。大型のトートバッグを左肩に掛け、赤いミトンの手袋をした我が子と右手をつないでいる。
 のんびりと歩くふたりの前方からテレ観光用アバターの集団が近づいてきた。異国語で賑やかに会話している。マニピュレーターを伸ばして手をつないでいる者もいた。当の観光客同士の見た目は各々の姿に変換されているが、第三者の目には装輪四脚の細長いポールの集まりだ。母親は息子を道の端に寄せて彼らを避け、大きな木製の案内板を廻り込んで分岐点を右折した。
 ベンチが並ぶ幅広い直線エリアに入るのと同時だった。母親は十五メーターほど前方に黒ずくめの人影を発見した。遊歩道に面した右側のベンチにひとりで座り空を見上げている。不審者を警戒した彼女は微かに眉をひそめたが、すぐに表情を和らげた。ベンチに座る人物の覆面――複数のレンズを装備した気密型ヘッドギア――が、マスメディアで見たことのある画像と一致していたからだ。
 素顔を隠したその人物は実際に目の前にするとかなり怪しげだが、社会安全に貢献している集団の一員であることは広く知られている。また、何者かが彼等の恰好を模倣したとしても、公共の場では市街警保システムが速やかに同定を行う。法規に反する場合――つまり偽者ならば自律機械による監視が開始され、警告に従わなければ警察官が出動し拘束となる。このプロセスは容姿の類似度合いに係わらず実行される。ゆえに彼女は前方の人物を安全と判断したのだ。
 得心のいった母親が息子の顔を覗いてみる。時折りすれ違うアバターや飛び過ぎる鳥など、あちこちに好奇心を向けていた我が子がまばたきもせずその人物を見つめていた。特異な装備に身を包む彼らの姿は、子供にとってはテレビ番組のキャラクターと同列だ。当然の反応だった。
 微笑を浮かべた母親は何も言わず前方に視線を戻し、息子の小さな歩幅に合わせて歩きつづけた。トートバッグを揺すり上げ、五日後に迫った年越しの予定を反芻する。
 母子がベンチの前を通り過ぎ、数メーターを進んだときだった。つないだ左手で母の指を強く握り、男児が息を吸い込んだ。たどたどしく歩を運びながら上半身をひねり、赤いマフラーに埋もれた首を懸命に背後へと向けている。小さな右手を一杯に伸ばし、ミトンの中で指をさす。
「ヒーヨ!」

 その人物は公園のベンチに深く腰掛けていた。黒いタクティカルベストと同色のアサルトパンツを着けた姿は物々しく、のどかな公園にあるまじき異彩を放っている。
 一見すると前時代における警察の特殊部隊員とも取れた。だが、頭部装具と呼ばれる気密型ヘッドギアの意匠、さらには両肩から指先までを覆う人工筋デバイスが、明確に別の存在であることを主張していた。国家公認の特別民間正常化執行員――俗に言う自警士だ。
 スタンドカラーのベストの左胸に貼られた吸着パッチには、二輪草をモチーフとしたエンブレムが金糸主体の色糸できらびやかに刺繍されている。右胸の黒いパッチに片仮名とローマ字綴りで記されているのはコードネームだ。刺繍ではなく白のペンで書き殴られたそれは、辛うじて『センジュ』と読めた。
 ベンチでくつろぐセンジュは長い脚を高く組み、これも長い両腕で我が身を抱くようにして天を仰いでいた。だが、見ていたのは快晴の冬空ではない。遊歩道を近づいてくる母子の姿だった。
 ふたりが現れてすぐ、センジュは子供が自分に注目したことに気づいた。顔つきは東洋人だが、はっとするほど白い肌が印象的な男の子だった。長い睫毛に囲われた驚くほど薄い茶色の瞳が見開かれ、ベンチでくつろぐ自分に向けられていた。母親に手を引かれて歩き過ぎる間も小さな白い顔は微塵も揺らがない。センジュは空を見上げたまま、その様子を興味深げに眺めていたのだった。
「ほんとだねえ、“ヒーロー”かっこいいねえ」
 母親は幼い我が子の声に優しく答え、その顔を覗き込んだ。足は止めず、ベンチに座る自警士を見ることもしない。若干つれない態度とも取れたがセンジュは気にも留めなかった。強化装具と通称される凶器を着込んだ自分の姿が、良識ある大人の目に好ましく映るとは思っていない。
 果たしてセンジュの強化装具――心身同期式強装機操具足は黒と言って差し支えないほど暗く艶の無い墨色であり、自警士たちが甲冑と呼ぶ派手な防護装備も身に着けていない。剥き出しの強化装具にベストとパンツを合わせる自警士など他に類を見ないのだ。怪しまれて然るべき恰好と言える。何より異様なのはセンジュ専用に誂えられた頭部装具だった。大小八つの丸いレンズが組み込まれたそれは、見る者に“蜘蛛の怪物”という印象を高確率で抱かせる。甲冑を自身の象徴とし、華美を誇示するように意匠を競うことで知られる自警士にあって、じつに異質な存在なのだった。
 世の子供たちから親しみを込めて“ヒーロー”とあだ名される自警士のひとりでありながら、センジュはその外見の影響もあり注目されることは滅多に無かった。少なくとも本人の記憶には残っていない。いまは驚くべき熱意をもって注がれる幼い視線を独占するという状況を、いささか他人事のように感じながら経過観察しているところだった。
 大池に至る遊歩道は植裁間隔の広い林を通り、起伏を曲がり下って見えなくなる。その林の手前で男児が再び右手を伸ばした。空を見上げたままのヒーローに向かって振りはじめる。母親に手を引かれながらひたすらに振る。ただでさえおぼつかない歩みがさらに危うくなるほど夢中になっていた。つまずき崩れる足取りを、つないだ母の手が立て直す。
 センジュが組んでいた脚を下ろした。ゆらりと身を起こす。体を右に向け、小さなヒーローファンに正対する。ベストの背中には『自警』の二文字が白抜きされていた。
 全備身長百九十八センチの体は、強化装具を身に着けていても痩身であることがわかる。ソフトシェルに分類される全身被覆型増力機械の中でも、強化装具は最も薄く軽く柔軟だからだ。コートでも羽織れば、頭以外は装着していることすら他人に気づかれない。
 センジュの強化装具の両腕部には機操手甲と総称される特殊装備が合着されている。数種類存在するなかの“弾機”という型だ。手腕部の瞬発力増強を意図した設計と補機の内蔵により特殊な人工筋配置がなされている。そのため、薄いことが特色の強化装具でありながら指の背と手の甲は通常の倍近い厚みになっていた。
 その厳めしい右手を腰に当て、左手を顔の横でひらひらと振って熱き無言のエールに応える。頭部装具の下は笑顔だ。笑うことの少ないセンジュにとっては“満面の笑み”と形容してもいい。しかし、対する男の子は笑っていなかった。手を振りながら真剣な眼差しをヒーローに送っていた。
 男の子を見つめるセンジュの脳裏に幼い頃の記憶が薄い靄となって立ち昇った。自身も手を振ったことがあったのだ。大きくて強そうな自警士に。だが、その自警士がどんな恰好だったのか、そのときの自分がどこにいてどんな気持ちで手を振っていたのか、それを思い出すことはできなかった。
 遠ざかる母子の睦まじい姿が木々の間を見え隠れする。徐々に起伏の向こうへ下って行き、やがて消えた。スイッチを切ったようにセンジュの笑顔も消える。
 振っていた左手を下ろし、わずかな空白が生まれた瞬間だった。右腕が動いた。素早く横に伸び、手のひらがベンチ後方の林を向く。
 激しい破裂音が園内を突き抜けた。枯枝で身を寄せ合っていた小鳥たちが一斉に散る。
 センジュが右手首をゆっくりと返す。軽く握った手の中に、褪せた赤褐色のボールが収まっていた。およそ二十メーター先の樹間からほぼ一直線に飛来したものだった。
 視界の隅でアイキャッチャーの光点が点滅していた。頭部装具内面のディスプレイ・バイザーに球速が表示されている。要求したデータではないが、センジュの脳と感官リンクされているパートナーT-Tが“気を利かせ”たのだ。強化装具の人工神経系と感通可能なT-Tは、腕部装具を操作して捕球位置の微調整もおこなっていた。
 自警士は活動支援用に高次コンピューターを使用している。自警士の独自カスタムにも対応するS-xAI++が主流だが、センジュは三日前からBE――Brain Emulator――を併用していた。機脳と呼ばれる人工中枢神経システムにアーキタイプ――BE使用者――の脳構造を転写し、それを基体として高次コンピューター群の高速演算能力を具備させたAI族のひとつだ。T-T――Thinking-Thisness――は老舗人工知能メーカーが手掛けるBEの商標で、アーキタイプとT-T間におけるnBIOS――neuro Basic Input/Output System――を上回る高精度な思考応答を売りとしている。
 映像解析により球速は時速二百四十六キロと割り出されていた。衝撃を吸収したイントラフレームの負荷数値が赤色表示されていることにエネルギーの凄まじさが表れている。現にセンジュは流体装甲を瞬間集中させた手のひらに軽い痺れを感じていた。腕部装具の体表感覚レベルを落としていなければ、痛覚許容限界に達する激痛を味わっていただろう。
 もし生身の頭部に激突していたなら頭蓋骨が陥没するか頸椎が砕けたかもしれない。センジュの頭部装具は標準仕様よりも頑丈だが、それでも重大な損傷を受けたであろうことは確実だった。軍や警察の全身被覆型増力機械とは異なり、強化装具は防御力を差し置き人体との調和を追求している。装着後の人体運動の自由度と同期率を最優先しているのだ。とりわけ頭部装具の造りは薄く軽く、装着者への負担軽減が優先されている。自警士が甲冑と称する防護装備を身に着けるのは、それが理由のひとつでもあった。
 右手のボールを左手に持ち替えたセンジュが動きを止めた。右手の指を何度か動かすと眉根を寄せて舌打ちし、ボールのチェックに入る。直径約六センチで表面は硬質の革製、百五十グラム前後の重量があった。何に使う物なのかが気になり、ひどくすり減った表面に印刷文字の痕跡を求めて目を凝らす。そうしながらもベンチ後方の林を注視し、下生えに身を隠したふたりの男の動向を窺っていた。
 センジュの頭部装具には全周機眼システムと呼ばれる拡張視覚デバイスが組み込まれている。八基の機眼レンズで一時に得た全方位の映像データを、高次コンピューターによる常時監視等に利用するものだ。センジュはその映像データを自身の脳にも取り込んでいる。高次コンピューター群にしか認知運用できないとされているリアルタイムの全周映像データを、科学的常識を覆して使いこなしているのだ。頭部インプラントであるnBIOSと頭部装具の高度な機械性能に依るのも無論だが、何よりセンジュ生来の卓絶した空間情報認識力と視覚情報処理能力が、この人間離れした全周観測を可能にしていた。
 林に潜む男たちについては、あらかじめ市街警保システムが注意を促してきていた。いわゆる警戒対象者だ。自警士であるセンジュの周辺で不審とされる特定の行動パターンを示していたためにマークされた。昼の星空を眺めていたセンジュは母子の微笑ましいやり取りを観賞する以前から、その怪しいふたり組をずっと凝視していたのだった。
 磨滅の激しい印刷文字の解読を断念し、センジュが顔を上げた。林へと歩きながらボールに指を食い込ませて強度を探る。
 市街警保システムから警告を受けた時点で彼らの身元は確認していた。当該システムは公務員でなければID検出結果の要求に即応しないので、容姿を元に自警士専用ルートでID検索をかけたのだ。
 得られた情報には特に注目すべき点は見当たらなかった。どちらもヒスパニック系アメリカ人の十七歳で、奇妙な道具を使ってボールを投げたのはペドロ・ペレス、その横で指示していたのはリカルド・ロドリゲス。ペドロに検挙履歴は無いが、リカルドには第三級傷害を筆頭にいくつかの軽い前歴があった。数日前に観光目的で入国とのことだが、わざわざ外国まで出張ってくるのはロクでもない奴だけだとセンジュは心得ている。
 ターゲットまであと七メーターに迫ったときだった。下生えに潜んでいた男たちが跳ね起きてセンジュに背を向けた。ふた手に分かれて走り出す。ボールの投擲に使用した道具は当然の如くその場に放棄していた。大きさは人の腕ほどで鉤型をしており、引き伸ばした籐カゴに見えた。
 センジュが嘆声を漏らす。
「どこの国でも餓鬼ってのは……」
 自警士相手に悪さをするとどうなるか、手土産代わりに教えてやると決めていた。足を止めて歌うように呟く。
「Run,Run,Run.走れ走れ」
 二時方向を行くペドロと十時方向のリカルドを同時に見ていた。左ひじを引いて右足を小さく踏み出し、強化装具の倍力レベルを上げる。鼻で嗤った。人工筋が隆起する。
 ついで見せた動作は鋭く弾けたバネだった。二時方向にボールを放ち、瞬時に返した腕を十時方向へ振る。
 ボールには強化装具の倍力効果と弾機手甲のアシストによって凄まじい加速が与えられていた。冷たい空気を一瞬で貫き、ペドロのダウンジャケットの背面、右肩に突き刺さる。激しくつんのめったペドロが転倒し回転するたび、ジャケットの裂け目からフェイクダウンが噴き出した。陽に照らされた林の一角に真っ白な綿毛と枯葉が乱れ舞い、そこに切れ切れの悲鳴が混じる。
 ペドロよりわずかに遅れて反応を見せたリカルドは静かだった。左足を跳ね上げて一瞬宙に浮いた直後、避けきれず木の幹に突っ込んだ。額を打って跳ね飛ばされ、コマのように回転して仰向けに倒れた。動かない。センジュによる阻止行動の結果ではあるが、実際に何をしたかは目撃者がいても判然としなかっただろう。
 急ぐ素振りも見せず歩き出したセンジュが右手を腰にやった。ベルトに装着した小さなポーチのフラップを開け、中の装置に指先を触れる。センサーに周辺のニオイを嗅がせ、火薬類やガスをはじめとする各種化学物質の反応を探っていた。街区には市街警保システムと連動した環境監視用マイクロマシンが常時飛んでいるが、化学物質に関してのみセンジュは自身で確認することにしている。
 バイザーに表示される数値を読みながら歩きつづけ、微動もしないリカルドの呼吸状態と顔色を機眼で観察する。T-Tに分析させて即応の必要が無いことを確認すると、意識を保っているペドロへと足を向けた。枯葉を踏む音を心地好く感じながら長い脚を運び、途中で左手を伸ばして黒いニットキャップをすくい上げる。ペドロの頭から飛んだものだ。
 ニットキャップのチェックを終えたセンジュは、失神中のリカルドを四時方向に見ながら、仰向けになったペドロの左横に立った。痛みに呻く顔を見下ろす。
「Ah……Shit……My arm……Shit……」
 ペドロは絶命寸前の芋虫のように弱々しく身をよじり、苦痛を訴えていた。右腕が妙な角度にねじれて体の下敷きになっている。
 センジュは小さな溜息を漏らしてしゃがみ込んだ。ニットキャップでペドロの体に付着した枯葉とフェイクダウンを払い除ける。なんの警告も発さず拘束バンドも使わない。
 全身被覆型増力機械を着けた相手に立ち向かってくる人間は、相応の備えがあるか正気を失っているかのどちらかだ。無論、“相応の備え”は市街警保システムが見逃さない。この若造の肩甲骨が砕けていることは確実であり、見ての通りその痛みに抗して逃走を図る根性など持ち合わせていない。そんな相手を縛り上げるのは臆病で融通の利かない警察官だけだ――鼻で笑ったセンジュはニットキャップを傍らに放り、おもむろに身体検索を開始した。
 無抵抗のペドロの体を念入りに探る。体の前面を済ませるとジャケットのジッパーを閉じ、うつ伏せに引っ繰り返して悲鳴を上げさせる。ポケットや靴の中、下着の中まですべて確認したが、針一本とて危険な物は所持していなかった。体内にも仕掛けは無い。最後の仕上げとして、枯葉の屑とフェイクダウンの綿毛にまみれたニットキャップを乱暴に頭に被せてやった。合成繊維製ダウンジャケットの背中に開いた裂け目からボールを取り出し、綿毛を払って右手に握る。
 強化装具の最外層はバイアス・スキンと呼ばれる柔軟性の高い複合デバイスで覆われている。緻密に織られた高強度繊維を基材とする流体装甲は防刃防弾性能の要だ。強化装具の仕様は各自警士によって異なるためその性能にも高低があるが、高レベルのものを突破できるのは手練れが扱う上等な日本刀か軍用の大型インパクトナイフくらいであり、それらが市街警保システムのセンシングを免れることはまず有り得ない。銃火器に関しては言うに及ばずだ。
 センジュの流体装甲はごく“薄い”部類だが、常人による一般的なナイフ攻撃なら貫くことは不可能とされている。ゆえに、重犯罪に関わる事案でなければ身体検索を軽視し手を抜くことが習慣となっていた。それにも関わらず念入りに凶器を探っていた理由は、あとから来る警察官へのサービスが一割、残りの九割が普段は一顧だにしない“自警士ブランド”への配慮だった。ヒーロー好きな男の子との出逢いと明るい陽射しが、この風変わりな自警士の心中に珍しく“親切”を生じさせていたのだった。
 作業を終えたセンジュは、しゃがんだまま左腕をペドロの背中に伸ばした。ダウンジャケットに指を突き立て、中に着ているシャツまでまとめて掴んだ。無造作に上体を吊り上げる。がっしりした若者の体が浮いて膝立ちになり、肩から外れた右腕ががくんと落ちた。砕けた骨が嫌な音を立てたと感じたのはセンジュの思い過ごしだろう。
 目の前で噴出した絶叫にセンジュは思わず顔をしかめた。声の大きさではなく、その醜態に対する反応だ。体内外の音響を選択調整するサウンド・オミッターは正常に稼働している。悲鳴が収まるのを気長に待って口を開く。
「おい、イカレてるのかラリってるのか、どっちか言ってみろ」
 頭部装具の発音機から出た声は変調されていた。わずかにビブラートの効いた低音だ。口調は友人と話すような気安さを感じさせたが、音質からは年齢も性別も判じ難い。
 時折り歯を食い縛りながら、ペドロが呻きと共に声を絞り出す。必死に伸ばした左手で右腕を支えている。
「I……I don't……I don't know what you……スニナ、スニマ、センンヌ」
 センジュが舌打ちした。
「いまのは日本語か?」
 英語に切り替えてスラング交じりに話しかける。
「おい、もう充分だ。それ以上、腹を減らした犬っころみたいな情けない泣き声をあたしに聞かせるな。わかったか? ん? 聞こえるか?」
 絶え入りそうな声で『Yes』を繰り返し、ペドロが了承の意を表した。固く目をつむっている。
「よし、聞け。お前はふたつのくそったれな間違いを犯した。ひとつめ。この公園のこのエリアでは、くそったれなボール遊びをすることはできない。大人も子供も、誰もだ。もしお前のくそボールが子供にでも当たってたら? どうなった? お前は自分のママを人殺しの母親にしたいのか? ん?」
「俺は手加減して……誰も……いないのを確認――」
 痛みに呻くペドロの恨めしげな声をセンジュの嘆声が遮った。
「おいおい口答えするのかよ、大したもんだ。あれのどこが手加減だ馬鹿。いいか、お前の住んでるくそったれな世界にはルールってものがある。ここにも、あそこにも、どこにでもだ。何かするなら、まずはくそルールを確認しろ。様子を見ろ。初めての場所なら尚更だ。そうすりゃくそったれに痛い目も見ないだろうさ。そうだろう? 違うか? あたしはおかしなことを言ってるのか? ええ? おい」
 荒々しく体を揺すられ、右腕を抱えたペドロが息を詰まらせた。吐き出しそうになる悲鳴をこらえて歯を食い縛る。首を絞められたような呻きが漏れ出た。
 センジュがつづける。
「ふたつめ。自警士はお前のくそったれトモダチじゃない。もしお前が立派な悪党なら遊んでやるけど、くそみたいに退屈な一般人じゃ駄目だ。遠くから見てるだけにしろ。ただし、小さな子供だけは特別だ。子供たちなら歓迎する。わかったか? ん?」
「わかった。もう、充分――」
 ペドロが喘ぐように答えたとき、唐突にセンジュの右手が閃いた。一瞬後、木々の向こうで短い悲鳴が弾けた。枯葉をかき散らす音につづいて吠えるような罵声が上がる。
「Oh my……fuckin' god……dammit!」
 失神から醒めたリカルドだった。筋肉の盛り上がった太い左脚を抱え、枯葉にまみれて激痛に身悶えている。センジュの放ったボールに強打されて大腿筋が麻痺していた。相棒を見捨てて再び逃げようとしたのだが、それを見られていることには気づいていなかったのだ。
「次は膝が砕けるぞ」
 センジュが静かに一喝した。発音機から狙い定めて飛ばした高デシベルの単指向音声だ。リカルドの耳には大音声となっている。
 ペドロが目を丸くして周囲を見回していた。近くに誰もいないことを確認する。
「何が起きた? あんた銃を持ってるのか? でも自警士は銃を使わないって……」
 束の間痛みを忘れて口走った。すぐ横の自警士が何かしたことは感じたが、驚異的に鋭い腕の挙動には気づいていなかった。
「お前の相棒は仕事仲間か?」
 センジュは相手の疑問を無視して訊き返した。
「あぁ、いや、あいつは幼馴染みだよ。何をするにも一緒さ」
 ペドロは毒気を抜かれたように素直に返答した。すぐに痛みを思い出して顔をしかめる。
「そうは思えないね。いまの見てなかったのかい?……見えないか」
 口調を和らげたセンジュは小さく溜息をつき唇を歪めた。若者のお人好しぶりに呆れていた。体つきは立派だが頭はそうではないと断じる。その一方で、友情を疑わないことは美徳かもしれず、それを有する若さを好ましいとも思っていた。
「まあいいさ。話を戻すよ。どうしてこんなことをした?」
 察してはいたが、センジュはそう訊いた。状況データとして一連の映像と音声は記録されている。
 この頃には数人の野次馬が遠巻きに見物していたが、騒ぎにはなっていなかった。自警士が事に対処すれば速やかに収束するものと理解しているからだ。テレ観光用アバターは何事も無いかのように移動している。ツアー会社が事件関連の映像音声を遮蔽し擬装しているからだ。警察のLE-AI++は市街警保システムによって事態を把握しているが、この程度の事案では出動を指示しない。警察官が出て来るのは自警士の要請を受けてからだ。
「俺たちは、日本のスーパーヒーローが――」
「待て待て待て」
 センジュが遮った。右手の人差し指を立てて振ってみせる。
「いい機会だから憶えときな。自警士はお前と同じただの人間でね、くそったれのスーパーヒーローなんかじゃないんだよ。弾よりも速くないし、眼からくそビームも出ない。着てるコレも空飛ぶとんでもアーマーなんかじゃない。ぴかっと光って変身するとでも思ったか? 空想世界にうつつを抜かすのは構わないけどね、それを許可無く公共の場に持ち込んで周りを巻き込むな。家の外に出たらしっかり目を開いてくそったれな現実世界を直視しろ。いいか?」
 軽く揺すられたペドロが慌ててうなずいた。
「よし。それから、“ヒーロー”ってのはくそったれに安直な俗称なんだよ。見た目がそうだからね。トクサツやマンガに登場しそうだろう? あたし以外のきらびやかな連中はさ。あたしはくそ怪奇なカイジンみたいだけどね。そう思うだろう、え? まあ、とにかく大人が使う呼び名じゃないんだよ。じゃあ使っていいのは? ん?」
「こ、子供たち?」
「そうだ。いいねえ、お前はあたしの話を注意深く聴いてるねえ。つづけな」
 変調音声でも猫撫で声とわかる口調だった。ペドロがへつらうように愛想笑いを浮かべる。
「俺たちは、自警士が不死身かどうか……痛てえ」
「自警士が不死身かどうか確かめたくて、あのくそボールをくそったれスピードでくそったれ投げしたんだね?『おい、脳ミソがはみ出しても生きてるかどうか確かめてみようぜ!』って。ん?」
 セリフに合わせてペドロの体を揺すった。
「そうだよ。馬鹿なことをしたよ。頼むからもう勘弁してくれよ」
 許しを乞うペドロの顔は青ざめていた。長いもみあげの中を脂汗が伝い流れる。センジュはそれを無表情に見つめ、軽く頭を揺らしながら口調を真似る。
「そうだよ。馬鹿な殺人未遂だよ。ブタ箱にぶち込んでくれよ」
 ペドロが目を丸くする。
「殺人未遂? そんな大袈裟な」
「うるさい。お前が“MODs”なら問答無用でそうなるんだよ」
 MODsとは身体強化処置を行っている者の総称だ。市街警保システムは未登録の遺伝子改変や有機系改造を検知することができないが、入国管理局のボディーチェッカーを誤魔化すことはできない。センジュはこのふたりが改造者でないことはすでにID照会時に確認していた。
「俺はノーマルだよ」
「知ってるさ。それにしちゃ球が速かったね。まあいいさ。で、誰がこのイカした馬鹿遊びを思いついた?」
 ペドロが目を閉じて小さく呻く。
「は? なんだって? 聞こえないね」
「……救急車」
 センジュは答えを渋るペドロを見つめ、その無意味な行為に舌打ちした。
「もうすぐ来るさ」
 緊急車両のサイレンが遠くを移動していた。身柄確保に動く前に、パートナーS-xAI++の助言を受けたT-Tがコールを入れておいたのだった。導入されたばかりのT-Tは現在、実地学習と思考応答の摺り合わせ中だ。
 センジュがペドロを掴んだまま腰を上げた。痛みに呻きよろめく若者を容赦無く立たせる。
「ついて来い」
 言い捨てて背を向け、T-Tに観察を指示した。リカルドの元へと歩く。
「なんてことしやがんだ! お前イカレてんのか!“ヒーロー”だろ! 正義の味方だろうが! くそっ!」
 センジュが口を開くより早く、枯葉にまみれて転がっているリカルドが毒づいた。左のふくらはぎに当てていた手のひらをセンジュに突きつける。小さく薄く血の痕がついていた。最初の逃走を阻まれた際に受けた傷だ。
「見ろ! 血だ! 畜生! 撃ちやがった!」
 浅黒い顔に青痣とすり傷をつくり、鼻翼をふくらませ目玉を剥き出してまくし立てる。
 センジュの見立てによると、リカルドは不遜さが見事に顔に表れた小賢しい若造だった。鼻先で相手に狙いをつけて見下す尊大で傲慢、手下にも慕われないギャングの幹部になりそうな顔つきだ。いまも自警士の違法行為を弾劾してやろうという勢いだが、生憎それは勘違いであり御門違いだと、センジュは頭部装具の下で唇を歪めていた。
 喚きつづけるリカルドに向かってセンジュが素早く両手を伸ばした。黒い革製のボマージャケットの胸元に強力な指を食い込ませ、小犬のように軽々と持ち上げる。投げ飛ばされそうな勢いで宙に浮いたリカルドは思わず口を閉じた。
 センジュは百キロに迫るであろう若者の逞しい体を左右に傾け、品定めするように眺め回して動きを止めた。顔の左半分に視線を据える。
 電磁波走査によって肉眼では見えない紋様が捉えられていた。左こめかみから喉にかけてイバラが這い、顎部分で三桁のアラビア数字に絡みついている。ルミタトゥーと呼ばれる入れ墨だ。特定の電磁波パターンを照射することによって発色発光を制御する。身体印刷技術の延長ではあるが、Pフォンなどの体表印刷電話機などとは違い、施術と除去の際には侵襲が生じる。その痛みに耐えることでガッツを示せると信じる若者のステイタス・シンボルだ。
 T-Tにタトゥーの素性調査を命じたセンジュは、リカルドを地面に降ろして押し倒した。抵抗したら痛い目を見る旨の警告を発して大きな体を跨ぎ、手早く身体検索を開始する。問題が無いことを確認すると拘束はせず、その場に座るよう指示した。パートナーS-xAI++ではなくT-Tが拘束を進言してきたが、センジュはそれを拒み、背筋を伸ばして腕組みをした。軽く頭を揺らしながらお道化た調子で話しはじめる。
「で、なんだって? 足が痛いって? 転んだ拍子に木の枝でも刺さったんだろうさ。くそったれの銃なんか持ってるわけ無いだろう。ここは日本だぞ。世界一飛び道具にうるさい国だ。銃声が聞こえたか? なんなら確かめてみるか? ほら、もう一回走ってみろ。走れ走れ。ええ? 小僧」
 自警士は銃砲刀剣類の所持を認められていないが、規制対象外の機操手甲を使用することができる。だがセンジュには装備品の解説は元より弁明するつもりすら毛頭無かった。しかめ面で横を向くリカルドをじっと見下ろす。
「さてと。お前の今後のために教えといてやるから、よく聞け。自警士は……」
 言葉を切ったセンジュは浮かんだ苦笑を消し、つづけた。
「お前の言うナントカの味方じゃない。警察官みたいな公僕でもない。ただの民間人だ。だけど警察官とほとんど変わらない権限を国から正式に与えられてる。しかも省庁間の垣根や管轄の縛りも無い。いつでもどこでも――」
「Fuck off」
 リカルドが呟いた瞬間、その胸ぐらをセンジュが再び掴んだ。長い両腕をまっすぐ伸ばして高々と差し上げる。センジュと変わらない身長の若者の足が宙を掻く。
「自警士自身が妥当と判断すれば、ルールを破った馬鹿に警告を与える必要も、悪事を企む怪しい輩に同意を求める必要も無い。令状も何も要らないんだよ、くそったれな犯罪を阻止するためなら、くそったれな被疑者を逮捕するためなら。大抵のことは自警士の裁量に任されるってわけだ。もちろん行動と結果に責任はついて回るけどね。ああ、あと、警察の服務規程みたいなものも無いんだよ。これがどういうことか、わかるかい? 大事なポイントだよ? ほら、どうした、黙ってないでなんとか言いな。ええ? おい」
 リカルドは呻き声も出せなかった。ジャケットの厚い革で首を絞められて息が詰まり、充血した顔が破裂しそうだった。頭蓋内で拍動が木霊し、視界が急激に翳ってくる。苦し紛れに掴んだ自警士の腕はブロンズ像のそれのようにびくともしなかった。
「日本の警察官が優しいからってナメるのは自由だけどね、自警士もそうだと思うのは大間違いだってことだ。ものが違うんだよものが。自警士やってる奴らは国から給料なんかもらってないし、“規律”って言葉を知らないんだからね。もう言わないから忘れるな、ジケイシはね……」
 センジュは『自警士』を日本語で強調し、唸るように言を継いだ。
「警察にはできないこと、警察がしないことをするんだよ。他人様に迷惑をかけようとしてる無自覚な馬鹿がいれば、あたしは、いつ、どこででも、そいつを――」
〈対象の意識レベル――〉
 センジュはT-Tが言い終えるのを待たなかった。足をばたつかせるリカルドを枯葉の溜まりに放り出し、素早く身を翻して背後に左手を伸ばす。
 長く厳つい指がペドロのジャケットの胸を鷲掴みにした。その瞬間、首が折れそうな勢いでペドロの頭がのけ反り、脱力した体が雑巾のようにセンジュの手から垂れ下がった。
「根性無しが」
 呟いたセンジュは失神しているペドロを地面に横たわらせた。ジーンズ一枚の下半身を枯葉で埋めてやる。
 手を叩いて枯葉の屑を払い、咳き込み喘いでいるリカルドに向き直った。四つん這いの体を勢いよく引っ繰り返して仰向けにし、片膝をついて再び胸ぐらを掴む。乱暴に上体を引き起こすが今度は絞めつけない。
「憶えとけ小僧。この国にはジケイシにちょっかい掛ける馬鹿はいない。くそったれのマフィアやギャングもだ。大昔に絶滅したヤクザだって目を逸らしたらしいよ、カタワになりたくないからね。そんなジケイシに、馬鹿みたいに図体だけ立派に育ったくそ餓鬼のチンピラが手を出したらどうなると思う?」
 リカルドの体を強く素早く二度揺さぶった。少し間を置いてつづける。
「いいかい? お前は運がいいんだよ? ええ? おい。ジケイシに手を出したにもかかわらず、すっ転んで膝すり剥いただけなんだからね。ほんとならお前もペドロみたいに大怪我したかもしれないんだよ? まったく……要再生レベルEまでの怪我なら食らう可能性があったってのに……日頃の行いがよっぽどいいんだろうねえ。ええ? おい」
 そう言いながら、金縛りのようになっているリカルドの顔にゆっくりと自分の顔を近づける。若者の吐く荒い息が掛かっても特殊コーティングされた機眼レンズは曇らない。無反射全集光の主機眼はふたつの黒く深い穴だった。
 世間から“不気味”とも評されるセンジュの頭部装具は標準品とは仕様が異なり、それ自体が頭部防護装備のような形体になっている。全周機眼システムの内蔵による容積の増大と機器保護のため、基本形状の変更とプロテクターの増加が実施されたのだ。その結果、外殻形状がやや後方に伸び、八つの機眼レンズの影響で巨大な蜘蛛の頭胸部のようになった。口元に位置するブリーザーの鋏角に似た形状も、その印象を強める一因だった。顔面部に並ぶ主機眼の両脇、こめかみに相当する位置には親指大の尖形装飾が前方に向かって突き出している。暗い墨色で仕立てられた装具の中で、その湾曲したツノのような部分だけが唯一、真朱の漆で鮮やかに彩られていた。
 およそ十秒間、たっぷりと無表情な蜘蛛の目玉を拝ませてから、匂いを嗅ぐように鼻息を立ててみせる。
「ところでさあ、リカルド。これはなんのニオイだろうねえ……ああ、そうだ、“混ぜるなキケン”のニオイだ……そうだ」
 そう呟いて言葉を切った。先のセンシングでリカルドの体に特定化学物質の痕跡を確認していたのだ。最近の活動中によく目にするものだが、禁制物ではない。ペドロとボールにも反応があったが、発生元がリカルドであることはその強度から明らかだった。そしてまた、この若者がギャングのメンバーであることも判明していた。左頬のルミタトゥーがアメリカの或るギャングのシンボルマークであることをT-Tが確認したのだ。
 リカルドは荒い呼吸をつづけていた。冷たい脂汗で光る顔を枯葉のかけらまみれにし、見開いた焦げ茶色の瞳に怯えを滲ませている。素顔を現さない“ヒーロー”と呼ばれる日本人を、まとわりつく白い呼気の中で首をすくめて見つめていた。
 禍々しさすら感じさせる蜘蛛の顔から、低くおどろおどろしい変調音声が漏れ出る。
「ああ、世界はなんて狭いんだろうねえ。お前、あたしのくそったれニックネームを知ってるんだろう……この国に店を出す下見のついでにくそったれ好奇心を発揮したんだろう……そうだろう? んん?」
 リカルドが痙攣するように小刻みに首を振った。唾を呑み込み、囁き声を漏らす。
「知ら、知らない」
 センジュがゆっくりと首を振る。
「あたしを、誤魔化せると、思うかい?」
 ジャケットを握る手に力を籠める。革を絞る音が小さく鳴る。
〈ボス、本当に知らないと思われる〉
 リカルドの表情と音声の変化に顔面部の生理分析を加味した結果だった。対人真偽判定は高次コンピューターが得意とするところであり、的中率は九十九パーセント以上と認められている。
 センジュが素早くリカルドから顔を離した。口調を元に戻す。
「そうかい? あたしの勘違いかい? まあいいさ。とにかく自分の選択が間違ってたことはわかったろう? ん? 国に帰ったら仲間に伝えな。くそったれ薬局は間に合ってるってね」
 掴んでいた胸ぐらを突き放し、片膝をついたまま話をつづける。
「それともうひとつ。お前のママのために忠告しといてやるよ。幼馴染みを悪い遊びに誘うんじゃない。くそ友だちはくそ家族の次に大事にするもんだ。これからはジケイシとくそったれなツラを突き合わせるようなマネはしないこった。特にあたしとはね。次の木の枝がどこに突き刺さるか、少しは想像してみな……ああ、あともうひとつ。あたしのやり方が違法だと思うなら警察でも大使館でも好きなところに告げ口しな。藪から蛇が出るかもしれないけどね」
 言い終えると一挙動でリカルドをうつ伏せに転がし、その両腕を腰の後ろで交差させた。重ねた両手首を左手で押さえつけ、右手でタクティカルベストのディスペンサーから拘束バンドを抜き出す。
 ふと手を止めた。
「ああ、そうだ。あの投げやすいボール、あれ、なんだい?」
 リカルドが悪事露見した飼い犬のように目を剥く。
「ペロータ?」
 かすれ声で呟き、唾を呑み込んで答える。
「ハイアライ」
「ナンダソレ」
 センジュは日本語で素っ気無く応え、黙り込んだ若者の両手首を強めに締め上げた。

 本交番から出向いてきた警察官たちにあとを任せたセンジュは、公園の東側にある乗用車専用プラットフォームへ向かった。公園を出る予定の時刻より早かったが、またベンチに戻る気分ではなかった。歩きながら先刻の光景を思い返す。
 若者二名を引き受けた警察官のひとりが、担架に固定されたペドロの怪我を知って鼻白み細い眉をひそめていた。別の警察官に状況データを渡していたセンジュは彼女が自分の背に非難めいた目を向けていることに気づいていたが、何も言わずその表情を“後ろの眼”で眺めていた。
 彼女の気持ちを理解できなくもなかった。日本の警察官は善人も悪人も平等に扱う。どちらも傷つけてはならないと厳しく仕付けられているからだ。これは警察官自身の性差人種には左右されない。日本警察の教育プログラムはそれほど徹底されている。結果、その教えは信念となり、それを軽んじるような行動を取る自警士を毛嫌いする警察官も生まれる。自警士との共同活動を重ねてもその思いは変わらないだろう。
 彼らの抱く思いが傍若無人と映る自警士への嫌悪だろうと、規律に縛られている自身への歯痒さだろうと、センジュにとってはどうでもいいことだった。人それぞれに役回りがあり、与えられた役割がある。善人が割を食うほどに法律が悪党を容認している限り、センジュは社会の裏側の住人を威嚇し、力尽くで頭を押さえつけ、可能な限り表の世界への影響を和らげることに専念するだけだった。裏社会に接する暗がりで発生した自警士という存在には似合いだと納得していた。
 世間では自警士制度を時代錯誤の野蛮な慣習だとする声が絶えない。自分に向けられる白い目にも事欠かない。だがセンジュは意に介さない。第二次極東大磁界潰裂直後の混乱期に生まれ、のちに確立された国民による自力救済の“力”は、たとえ斜陽の勇と揶揄されようとも偽善や体裁によって存続を左右されるものではない――そんな言葉が心の隅に残っている。世間には自警士を必要とする人々が確固として存在し、限度こそあれ超法規の力は必需となり社会に浸透しているのだ。
 そのことにセンジュは異論無い。そしてまた、たとえ自警士制度が廃止されることになっても構わないとも思っている。いや、正確に言えば、自身が自警士資格を失ってもいいと思っている。望まず自警士となり他聞をはばかる役割を担う己を、人々が求める自警士像とは懸け離れた存在だと認識しているからだった。

 バンタイプの大型自律車はすでに待機スペースに到着していた。可変外装のテクスチャーは艶消しの黒、車両IDプレートは自警士専用ナンバーを表示中だ。車内を覗かれないよう、車窓は遮蔽モードになっている。センジュが接近するとスライドドアが開いた。
「お疲れ様」
 T-Tがセンジュを迎えた。声は天井中央部に装着されたEEMと呼ばれる小型機械から発せられている。高次コンピューターの眼、耳、口として使われる、直径四センチほどの円盤型コミュニケーション端末だ。EEMには高次コンピューターの表情や情報を表示するためのディスプレイを付属するのが一般的だが、センジュが使うそれには“顔”が無かった。
 センジュはクリーム色基調の車内後方にひとつだけ設置された大型シートに腰を落ち着けた。天井全面の発光素子と車窓内面の結像素子が外光に近い光度で車内の明るさを保っている。アームレスト付きシートの前にはインフォ・ディスプレイや簡易シート等を内蔵した可動式多機能デスクが備えられている。完全自律型車両なのでフロントコンソールに常用操縦装置は無い。
「装具屋」
 頭部装具のロックを解除したセンジュが、ネックサポーターのシーリングを開放しながらぶっきらぼうに呟いた。担当のBE技術者から、T-Tが無言の単純指示を理解するには一週間ほど掛かると言われていた。
「『モリタキ機操具足工房』に向かう」
 アーキタイプであるセンジュの意図を汲み取り、T-Tが律儀に応じた。車両運行用P-AI+を操って車を発進させ、半地下式の自律走行専用レーンに向かわせる。T-Tは一部のAI類に対するドミネイター機能を有している。
 センジュは頭部装具のパーツ接合部をスライドさせ、発音機が組み込まれたブリーザーユニットごと下顎部を取り外した。藍色のトラクションスーツ――人体と強化装具を密着整合させ代謝管理等も担う――のフェイスマスクを引き下ろすと、鼻下から顎までが露わになった。見る者に皮下組織が透けるかと思わせるほど肌が白い。
 大きく息を吐き、主機眼の前に右手を掲げた。腕部装具と弾機手甲に覆われた長い指をゆっくりと屈伸させる。拳を握り、開き、手首を回す。左手と比べながら何度か繰り返したのち、ひどくかすれた小声で罵った。
「くそ」
 シートに背を投げて脚を組んだ。長い腕で我が身を抱き、左手の指先で右肩を叩きつづける。車外映像を映し出している車窓に目をやり、陽を浴びて流れるグリーンベルトを睨みながら忌々しげに下唇を噛んだ。
 右手のひらから指先にかけて微かな違和感があった。機眼による精査では、当然だが外部に損傷は見られない。二度目のボール投擲で確認した通り基本動作にもまったく支障は無い。しかし、なんらかの異状が生じていることは確かだった。“打ち身”とも言えないほど軽微なものであっても、強化装具にのみ成し得る完全同期ゆえの違和感と言えるそれは、センジュにとっては磨き上げたグラスにべったりと付着した手脂のように感じられた。
 強化装具と通称される心身同期式強装機操具足は、日本の深神経工学や極微細加工技術等の先端技術、そして古からつづく伝統の業が融合した芸術品とも呼ばれている。製造には高品質高精度の材料が厳選され、複数の専門分野から参集した技術者と職人が技を揮う。工程は元より構成パーツや部位ごとにも分業制をとっているため、多くの人手と技術技巧、そして時間を要する。ゆえに、入手する資格を得た者は初期費用から維持費まで莫大な経費を負うこととなる。
 当然、物理的損傷を受けた場合も費用は発生するが、それについてセンジュに不安は無かった。当てがあるからだ。懸念は別にあった。万が一薄膜積層構造の内部機構に不具合が発見されれば、調整には間違い無く数日から数週間が必要となる。金銭よりも貴重な“時間”が奪われることになるのだ。センジュが何より嫌うことだった。
「くそ餓鬼!」
 大声ではないが露骨に苛立ちを吐き出した。弱々しく聞き取りにくいかすれ声は生まれつきのものだった。
 ペドロはいいとしても、生意気なリカルドにはもっと痛い目を見せてやればよかったと歯噛みする。自警士が全額負担することになっている治療費や各種賠償金が倍増したとしてもだ。処分に関しては両者とも厳重注意で済ませるよう計らってやっていたので、己の詰めの甘さになおさら腹が立った。
「ボス、お茶を淹れる」
 T-Tが気を利かせた。
 センジュが苦笑いを浮かべる。浅薄な若造の無分別な悪ふざけだとわかっていた。そしてそれを侮った末の不様であることも承知していた。
「そうだね。まあ、いいさ」
 囁いて脚を組み替えた。



超人仮象 2-2

『モリタキ機操具足工房』の常客用セキュリティーゲートを抜けたセンジュは、幅広い通路の奥、明るい白壁のロビーに馴染みの顔を見つけた。仕切り代わりに並べられた観葉植物の向こうに立つ、黒革のロングコートを羽織った短髪の男だ。吹き抜けになった二階の調光ポリマー製天井から降る陽光を浴びながら、右手の壁際に展示されている強化装具のバリエーション・モックアップを眺めている。
 センジュは黒いセラミックタイルの床を踏んで通路を進んだ。車内で外した頭部装具は再び装着していた。まったく足音を立てずに背の高い観葉植物を迂回し、男の背後から声を掛ける。
「統括」
「おう、センジュ」
 振り返った男が白い歯を見せた。見掛け三十代半ばの日焼けした精悍な顔だ。額には傷痕、左眼は銀色のストラップレス・アイパッチで隠されている。コートの下に銀灰色のビジネススーツを着け、首に臙脂のストールを掛けている。逞しい長身だが、強化装具姿のセンジュの方が五センチほど背が高い。自警士の互助システムである『ワークス』を創設した平良将仁だ。本業は複合物流企業のオーナー社長だが、『ワークス』関係者からは“統括”と呼ばれている。
「きょうはなんだ?」
「キャリブレーションの予約してたんですけどね、鎮守瀝公園で時間調整してたら餓鬼に絡まれまして――」
 センジュから事のあらましを聞いた将仁がスーツの胸ポケットに指を突っ込む。
「どれどれ、ちょっと見せろよ」
 指先に挟んだサングラスをセンジュに向かって差し出した。インフォグラスと呼ばれる情報通信デバイスだ。
 センジュは状況データの転送範囲を指定し、ベルトからアクセス・バーを引き抜いた。小指ほどの大きさのそれをサングラスのフレームに軽く接触させてデータを送る。接触伝送は自警士の慣習だ。
 サングラスを掛けた将仁がnBIOSでデータを操作する。映像はレンズ内面のディスプレイに表示され、音声はフレームを経由してBコム――身体伝導内耳通信システム――に送られる。
「おうおう、すげぇな。二百五十キロ? 俺なら絶対逃げてるぞ」
 捕球時の視点映像を見て声を上げた。
「よけたらナメられますからね」
「それでも俺は逃げるぞ」
 大声で短く笑った。弾けるような笑い方はセンジュと知り合った当初からの特徴だった。
 将仁は両手をズボンのポケットに突っ込み、時折り小さな笑い声を漏らしながら映像を見終えた。サングラスを仕舞う。再生回数を指定されていたデータは自動的に消去された。
「ワルガキどもの夢に出る気か? おっかねえなあ、“オニグモ”は」
 にやにや笑いでセンジュの胸を小突いた。
「そうしてやりたいですよ。それより、これが」
 右手を持ち上げて指を動かしてみせる。
「なんとなく妙な感じがして、もしかしたらダメージ食らったかもしれないんですよ」
 将仁が小首をかしげて右の眉を持ち上げた。
「あんなボールでか? そりゃ無いと思うぞ? まあ、お前がおかしいって言うなら……そうだな、トラ服だろトラ服」
「トラクションスーツ、ですか?」
 センジュは疑念の表出を隠さなかったが、将仁には気に障った様子は見られない。ふたりの間柄は上司と部下のそれに似てはいたが、互いに相手の顔色を窺うような仲ではなかった。
「聞いたこと無いのも当然だろな。そんな勢いでぶん殴られる自警士なんかいないからな」
 また短く笑ってつづける。
「いくら強化装具でもな、デカい衝撃受けたらポジショニングはズレるんだぞ。動作に支障出るレベルなら警告鳴るけど、それは滅多に無いな。お前は同期率百パーだし、いっつも装具着てるから余計に気になるんだろ。それだそれ」
「そうですか……統括も経験あるんですか?」
「いやいや、聞いた話」
「ああ……」
「俺はそんな痛い目見たこと無いからなっ」
 面白そうに笑う将仁の傷痕とアイパッチを見ながら、センジュは肩をすくめてみせる。
「ですよね」
「まあまあ、とにかく今年最後のキャリブレーションで元通りだ。休み前でちょうど良かったな」
 笑顔の将仁に何度も肩を叩かれながら、センジュは右手を眺めて首をひねる。
「良かったんですかねえ。まあいいです。で、統括がここ来るなんて珍しいですね」
 将仁が右手の親指を横に振った。
「あいつの錬成装具の発注」
 センジュの左手奥、ロビーの端にあるカタログ・ディスプレイの前にひとりの少年が立っていた。十メーターほど離れている。顔を向けたセンジュに会釈したのは平良家の末子である信真だ。無論、センジュはロビーに入った時点で気づいており、ほかに人がいないことも確認していた。
「ああ、nBIOS入れたんですね」
「さっき退院した」
 将仁は満足げな顔で右手を顎にやり、短く整えられた髭を撫でた。
「いくつでしたっけ?」
「十五」
「それはまた早いですね」
 センジュは感心と呆れが混じったような気分だった。自警士の資格を取れるのは十九歳からだが、その前に将仁が信真に強化装具を与えるのは確実だからだ。心身機能データ蓄積用の錬成装具はある程度のサイズ調整が利くが、強化装具はそうはいかない。いかに柔軟性に富む強化装具であっても、体のサイズや機能がごく狭い着装許容範囲を逸脱すれば、新たな装具が必要になる。成長期の若者に資されるであろう額は常人の想像を超えるものだった。
「こんな頃から鍛えてるからな」
 将仁が顎から手を離し、腰の辺りで子供の頭を撫でるように動かした。
「あれはいい自警士になるぞ、ヒカリと違ってな。お前の新しいライバルになるかもしれんな」
「え?」
 ヒカリとは平良家の四男の名だ。センジュより四つ年下で、八年前まで自警士資格取得のため学びと訓練を共にした仲だった。
「まだ先の話だけどな。そのときはお前に頼むから、よろしくな」
 将仁はセンジュの反応を待つこと無く信真に顔を向けた。目配せして軽く頷くと、信真は素早く駆け寄って父親の横に並んだ。
「こんにちは」
 浅黒く陽焼けした顔がセンジュを見上げた。
 よく光る眼に気力が満ちており、将仁との共通点を感じさせる。身長はセンジュより三十センチほど低いが、白いセーターの肩と胸は厚く、黒革のジャンパーを引っ掛けている腕も太い。これも黒革のパンツに覆われた脚がすらりと長い。血の繋がりが無くても親子になれば似てくるものなのかと、センジュは胸の中で呟いた。
 九年前の秋、センジュは信真と顔を合わせていた。会話は無く、目礼を交わしただけに過ぎない。将仁の強い勧めで自警士資格の取得を決めて二年後、平良家の豪壮な本宅に招かれた際のことだった。それ以来の再会になるが、憶えているかどうかを尋ねるセンジュではない。そもそも当時は『センジュ』というコードネームを持つ自警士でもなかった。
 センジュは将仁に声を掛けた時点から、信真が自分を観察していることに気づいていた。流体装甲に穴が開きそうなほど熱心な眼差しを見た途端、公園でのシチュエーションを意識して軽く下唇を突き出したのだった。とは言え、いまは黙っているわけにもいかない。
「装具が気になるかい?」
 会話のスタートを待っていたのか、信真が明るい笑顔を見せた。きれいな歯列を見せつけるような笑顔も父親に似ている。初対面のあの日に感じた、相手の素性を探るかのような気配は微塵も無い。人見知りという言葉とは無縁に思える、好奇心に満ちた瞳だった。
「センジュさんて、なんでネイキッドなんです?」
 遠慮の無い質問に、センジュは頭部装具の下で思わず微笑を浮かべた。軽く両腕を広げてみせる。
「服着てるだろう」
「『甲冑無しの自警士は裸同然だ』ってみんな言うんでしょ?」
「誰だよ、みんなって」
「ええ? 自警士はそう言うって父ちゃ……父が言ってましたよ?」
 センジュは肩をすくめてみせ、手ぶりを交えて答える。
「自警士ってのは見栄っ張りばっかでね、カネかけて派手にすりゃカッコイイと思ってるんだよ。コケオドシってやつさ。あたしはあんなカッコで表なんか歩けないね。まあ、このカッコも“如何なものか”だけどね」
 将仁が苦笑いを浮かべた。センジュは小さく咳払いをする。
「まあ、アレさ。ああいうカッコできるのはまともな自警士だけでね、あたしみたいな半端者が甲冑なんておこがましいんだよ。大体、兜なんか被ったら目ぇ見えないし、甲冑は暑くてね」
「ええ? そうですかあ?」
 信真がセンジュのベストから伸びる腕部装具を覗き込む。
「その装具『フシタニ』のレイヤーですよね。ちゃんと熱電冷却でしょ? オーバーアーマー着けたら暑いって変ですよ。手甲も関係無いでしょ?」
 ともすれば馴れ馴れしく感じられる軽い口調だった。しかし、堅苦しい物言いをする子供は薄気味悪いと感じるセンジュにとって、初対面の自警士にも臆さない信真の気性は快いものだった。
「『フシタニ』だってよくわかったね」
 センジュが軽く感心したように言うと、信真はうれしそうに笑った。
「好きなんで。弾機手甲のギミックは『KYP』ですよね」
「そうだよ。手甲も好きなら、いつかは甲種取るのかい?」
「取ります。乙種じゃ筋駆スペックも低いし。センジュさんはなんで弾機手甲にしたんです? ほかに使ってる人いないらしいけど」
 そう質問されたセンジュは反射的に将仁の表情を窺った。顔は信真に向けたままだ。
 将仁はズボンのポケットに両手を突っ込み、穏やかな表情でふたりの会話を聞いていた。センジュが自分を見ていることを承知している様子でにやりと笑みを浮かべ、信真に向かって解説する。
「センジュは手先が器用でな、印地打ちに向いてるんだとさ。だからコードネームが『センジュ』になったわけだ。しかも、弾機使い史上一番やばい『センジュ』だぞ?」
「へえぇ、そうなんだ」
「規制がゆるかった昔と違ってな、“怪我しない鉄砲”が主流になってるいまじゃ誰も弾機なんか使わなくなってる。メリットなんか無いからな。それなのになんでかっていうと、目の良さが尋常じゃなかったからだ。視力がどうこうじゃなくて、空間認知と脳の視覚情報処理がずば抜けて優れてるんだとさ」
「ふぅん」
「大雑把に言うとな、普通の人間は視界の中で注目できる対象はひとつだろ、人の顔とかな。センジュはそれが複数できるんだけど、いくつできるんだっけ?」
 センジュを見た。
「五つです」
 将仁が大仰に嘆声を漏らしてみせた。
「な? 全周機眼の視界は身の周り丸ごとだからな、だから一度に何発も、あっちこっちに指弾飛ばせるってわけだ。なんでだと思う?」
「ええ? なんでって……どういう意味?」
 信真が首をかしげ、将仁が眉を持ち上げてセンジュを見る。
 センジュは将仁に向かって軽く肩をすくめてみせた。自身のプライベートに関する話を進めていいという意思表示だ。平良将仁がこの場所に息子を同伴したということは、信真の将来が決定されている証だ。つまり、ここには秘匿すべき事柄を外部に漏らす人間はいないということになる。
 将仁が信真の耳に口を近づけた。芝居掛かって声を潜める。
「プレゼント」
「んん?」
 ぴんと来ない表情の息子にもう一度囁く。
「SUPER GIFT」
「えっ!」
 信真が目を見開いた。左腕に掛けていた革ジャンパーを両手で掴み、握り締める。だがすぐにその興奮を抑え込んだ。
「いや、だけど日本じゃ同性生出できないし、自警士って日本人しかなれないし」
 答えを求めて父親を見つめるが、将仁はにやにや笑っているだけだ。センジュもよく知る、サプライズを仕掛けるときの顔だった。信真の興奮はたちまち再燃した。
「ほんとに? センジュさんってイーヴンなんです?」
 センジュに向けられた眼は熱く輝いていた。魅力的なアトラクションを前にした少年の、期待に満ち溢れた眼差しに見えた。
 この日三度目と言っていい椿事に、センジュは腕組みをして溜息をつき、天を仰いで陽射しに目を細めた。機眼は自動調光が可能だが、脳に送られる情報は平常時に限り肉眼性能を模倣するよう設定している。無論、全周機眼は機能しており、パートナーS-xAI++とT-Tは常に目を開いている。
 信真が矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「どこ出身です? センジュさんも機械に詳しいんでしょ? やっぱり左利きです?」
 センジュは小さく息を吐くと、首をかしげて信真を見た。
「“合成人間”の自警士なんて珍しいだろう」
 その場の空気が凍りついた。口を半開きにした信真の顔は驚かされたかのように強張っていた。
〈ボス、極めて不謹慎で不適切な発言〉
 T-Tの声が淡々とセンジュの内耳に響いた。
「冗談だよ冗談。本人が言ってるんだから問題無いさ」
 腕組みをしたまま肩をすくめたセンジュは、T-Tと信真に向けて同じく淡々と言った。会話に水を差したという認識は無い。
 イーヴンの中には、ごく稀に『SUPER GIFT』と称される予期しない特殊な良性遺伝子変異を獲得する者が現れる。その発現条件には細胞合成から誕生後の成長過程にまで渡る多様で複雑な環境要因が影響していると考えられるため、現在の遺伝子設計技術では再現不可能と言われている現象だ。
 ただし、どれほど希少で優れた変異であっても、それによる特異能力が当人や社会にとって有用なものであるとは限らず、有用であったとしても日の目を見る保証すら無い。発現時期は予測不可能であり、当人が気づかないことも多いからだ。
 センジュ自身も平良将仁と出逢うまで己の特異能力を自覚すること無く過ごしていた。そして、その特異能力も先端技術との組み合わせ無くして活きるものではなかった。この世に生まれたイーヴンを取り巻く環境は決して明るくはなく、合成人間という蔑称を吐きかけられ、あくどい迫害を受ける者も少なくないのが実情だった。
 時が止まったロビーに弾けた将仁の笑い声が、じわじわと硬度を増していた緊張感を打ち破った。
「確かに珍しいよな。なんたって俺がスカウトしたのもえらい偶然だったからな」
 また笑って息子の肩を抱き、センジュに言う。
「こいつがウチに来る前な、近所のイーヴンと仲良かったらしくてな、懐かしかったんだろ。ほらシン、装具のこと聞きたいんだろ?」
「あぁ、うん……」
 気後れしたような笑顔を見たセンジュは眉間に皺を寄せて目を閉じた。機眼の映像データが遮断される。その暗闇の中でゆっくりと息を吸う。少年の示した興奮が珍奇な存在を前にした幼稚な好奇心によるものではないことを知り、時間を戻す術が無いことを呪っていた。
〈厄日〉
 アーキタイプの心情から導き出された言葉をT-Tが呟いた。BE技術者から“育成中”にままあることだと聞いているセンジュは驚きはしない。その代わりに眉間の皺が深まった。静かに慎重に息を吐いて目を開ける。
「で、何が聞きたい? そんなに時間は無いよ? ほらほら」
 急かすように左手の指を二度鳴らした。
 将仁が息子の背を軽く叩く。信真の眼に気力が戻り、笑顔が明るくなった。
「じゃあ、指弾ってどんなのか見せてもらえます?」
 信真が言い終えた途端、センジュはその顔の前に左手を差し出した。親指と人差し指で直径十三ミリ弱の黒い球体を挟んでいる。球体の表面は細かなくぼみで覆われていた。
「指先に射出形成された凝集性瞬硬ポリマーアロイの弾子を親指で弾き飛ばすのがスタンダードなやり方。ほかの指でも可能。これは手甲で作れる一番デカいタマ。性状と比重の調整及び異素材の添加が可能。既成の弾子も携行してるけど、弾くのは石ころでも構わない。あの白い装具見てな」
 一歩下がって弾子を握り込んだ左手を下ろし、顎をしゃくって平良親子の背後を指した。信真の右斜め後方に展示されているモックアップだ。六メーターほど離れている。
 ふたりがモックアップに顔を向けると同時に指弾を放った。腕は身体の横に垂らしたままだ。投擲モーションなどは一切無い。
 小枝を折るような甲高い音と共にプラスティック製モックアップの胸に小さな穴が開いた。弾子が床を跳ねる乾いた音がリズミカルにつづく。
「うわ……」
 声を漏らした信真がセンジュの顔と手に一瞬だけ視線を送り、展示ブースへと走った。転がる弾子を追って掴み取り、モックアップの背面を確認して嘆声を上げる。
「すごっ、貫通してる」
 興奮した様子で駆け戻り、弾子をセンジュに差し出す。
「全然、弾道?――見えなかったですよ。すごぉ。すごいけど大丈夫なんです? 後ろの壁にも傷いってましたよ?」
「おっと、そうかい、そいつはマズいね。加減したんだけどね。それやるから内緒にしときな」
 応じるセンジュの口調には気に病む様子など皆無だった。
「あっ、やった、ありがとうございます」
 声を弾ませた信真は革ジャンパーを左腕に掛け、両手で弾子をいじりはじめた。そこにセンジュが付け足す。
「まあ、弾いたタマは五、六分もすれば分解するけどね」
「ええぇ、そうなんですかぁ?」
 弾子を睨んだ信真が唇を尖らせた。センジュがにやりと笑みを浮かべる。
「いつか手甲使うなら、弾機以外にしな」
「なんでです?」
「いろいろと面倒事が多いんだよ。機構強度が低いからピアニスト並みに手に気を遣わなきゃならないし――」
 公園での一件が頭をよぎって一瞬言葉を切り、つづける。
「まあ本来はね。それから、可動の障害になるものはできるだけ排除しなきゃならない。自警士になったら甲冑着けたいんだろう?」
 はっとした表情を浮かべた信真がセンジュのタクティカルベストを見た。
「ああ、だから甲冑着けてないんです?」
「まあね。あたしにとっちゃ好都合だよ」
 信真が笑う。
「やっぱ甲冑嫌いなんですね」
「あと、弾機手甲は装具にも人体にも負担でね、随意筋の動作速度の限界超えることもあるんだよ。だからここだけの話……」
 左手の人差し指を立て、頭部装具の口元に当てた。
「全速駆動のときは腕を“殺す”んだよ」
「ええっ?」
 信真がぎょっとしたように眉を持ち上げた。
 センジュはまたにやりと笑い、軽く頭を揺らしながらつづける。
「そうしなきゃ筋肉や腱が千切れて関節が引っこ抜ける。対応する装具もいまの主流と違って手間の掛かるツーストロークでね。筋駆が『ヤマタ』のTZ系、筋種は九割が白。AATPのほかに添加剤が要るしレイヤーの消耗も早い。だけどツーストロークってアツイんだよ。この話わかるかい?」
 ひとしきり語り終えると頭の揺れが止まった。
 信真が首をひねる。鼻のつけ根に薄く皺を寄せ、弾子を握った右手の小指で頬を掻く。
「ああ、へえ、ツーストなんだ。いまどき使ってる人いないと思ってた。そっかあ、昔のヤツはなあ……ちょっと、わかんないです」
 少年の正直な反応を見てセンジュは微笑を浮かべた。
「ツーストロークが昔のもんってことは無いけどさ。まあ、まだ先の話だね。そんなことより、あたしは職人と相性が悪くてね。この顔見なよ」
 少し腰を折って頭部装具を信真に近づける。
「この眼。ほんとならこんなデカくする必要無いんだよ。機眼本体の径はヒトの虹彩と変わんないからね。悪党に対する示威効果狙いだっていうけど、この顔じゃどっちが悪者かわかんないだろう?」
 両手を上げて襲い掛かるようなジェスチャーを見せた。信真が笑う。
「それとこれ」
 赤いツノを両手で指差した。
「立物にしちゃショボいだろう? 頭部装具に直接立物も無いけどさ、あたしのは機械保護の目的で厚めに装甲入ってるんでね。で、中身は視覚化系のエフェクターなんだけど、装具屋のおやっさんが無断で見習い甲冑師に細工させたんだよ。『どうせやるなら、もっと豪華にすりゃいいのに』って文句言ったら、『全周機眼システムに支障が出る』とか言い出してね、勝手にやったくせに。『じゃあ外せ』って言っても聞きやしない。カネは取るくせにね。だもんでモメてさ。そのせいで、どうもギクシャクしてねえ」
「ええぇ? そうなんです? マズイじゃないですか」
「だろぉ? そうなんですよ。まあ冗談ですけどね」
「え?」
 論点を見失った様子の信真を放置し、センジュはにやついている将仁に顔を向けた。床を指さす。
「じゃ、そろそろ時間なんで」
「そうかそうか」
「良いお年を」
 左手をひらひらと振って背を向けた。地下の工房に通じる第二セキュリティーゲートに向かって歩き出す。
 見送る将仁が再び息子の肩を抱いた。信真は弾子をいじりながらセンジュの背を見つめ、軽く唇をすぼめていた。
〈不憫〉
「ああ、そうだ」
 思い出したように声を上げ、信真に向き直った。後ろ歩きしながら言う。
「あたしは“両利き”だよ」
 両手を軽く広げて指を鳴らし、またすぐに背を向けた。大股に歩を進めてゲートをくぐる。
 信真が白い歯を剥き出し、弾子をつまんだ右手を素早く振った。

つづく

以上

正義、他事無し

正義、他事無し

場面、光景を書く練習。

  • 小説
  • 中編
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-02

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