鳩と少年
何某と少年、をテーマにした短編連作小説です。
どこから読み始めても大丈夫、が目標。
1.鳩と少年
いつもより早く目が覚めた少年は、煤けて黒くなったやかんで湯を沸かしながら、ふと何となく窓から向こう側の家の屋根を眺めていた。
あの赤い可愛らしい家には、老婦人が一人で暮らしていて、少年はおやつに夕飯にと何度か招かれたことがある。
老婦人の名は何と言ったか。少年は文字を読み書きすることが苦手で、彼女は自分のことを語ることを嫌ったから、少年は単におばあさん、と呼んだ。ふわりと上品な白髪の、少し鉤鼻のおばあさんは、屋根の上の小さな小屋みたいなところに、何十羽もの鳩を飼っている。
鳩はおばあさんだけに懐いていて、少年には見向きもしなかった。いつもふっくらとした体を仲間とくっつけ合っていて、立ち入る隙はないように思えるのに、おばあさんがすっと手を差し伸べると、その手にちょこんと乗っかって、大空へと羽ばたいていく。少年はその、少し灰色がかった鳩が、飛び立って小さくなっていくのを見るのが好きだ。
湯が沸いた。少年は今日は窓際で朝食をとることにして、やかんを持ったまま、足で椅子を窓際に寄せる。少年の背丈ほどはあるであろうこの椅子は、おばあさんがくれたものだった。おばあさんの昔の知人が作ったものだそうで、とても古くて重たいのだが、少年はこの椅子の、長年人の手に馴染んだ心地が気に入っていた。
少年はまた赤い屋根の家を見る。おばあさんはいつも家中をきれいにしていて、玄関には美しい花を植えていたけれど、少年以外にそれを知るものはいなかっただろう。制服を着た配達員くらいしか、あの家を訪ねる者はなかったのだから。
もそもそと硬いパンをかじりながら、少年はふと思いついて席を立った。あまりの勢いにテーブルの上でカップが飛び上がったけれど、気にならない。
つぎはぎの紙袋みたいな帽子をかぶり、いつもは空っぽの大きな鞄に拾った木の実を投げ入れて、肩に掛けて走った。
おばあさんの家の裏には、少年が少年用にこしらえた、屋根へ上る梯子がある。少年はそれを一段飛ばしで駆け上がって、鳩のいる小さな小屋に向かう。上がった息を静かに整えながら、網目のひとつを片目で覗き込んだ。
鳩は、まだ寝ている。相変わらずみんなで暖かそうに寄り添って、首をうずめて丸くなっていた。
少年はそっと手を伸ばしたけれど、人差し指でそっと頭に触れただけですぐに手を引っ込めた。おばあさんは、心を開いて優しく声をかけてあげれば、この鳩たちと友達になれるよ、と言って笑ったけれど、少年には心の開き方が分からなかった。何と声をかければ良いのか分からなかった。友達、の意味もよく分からなかった。
一羽の鳩が片目を開いて、少年の方を面倒くさそうに見て呟いた。
「また来たのかい、坊や。」
震えた空気に、彼らあるいは彼女らは次々に目を覚ます。
少年は餌箱の上で鞄をひっくり返した。森で拾った木の実が、金属製の餌箱に当たって弾ける音が響いた。
一羽の鳩が、少年に問う。
「坊や、そういえばお前さんは何て言うんだい。」
「? 俺はニンゲンだよ。」
「そうじゃあなくて。」
鳩はぽー、と溜め息を付いた。少年はどうしたらいいのか分からず、隣の鳩がもぞもぞ動いたのを見ていた。
「お前さんの名前だよ。坊やの名前だ。人間は、産まれたばかりの赤ん坊に名前をつけて、それを呼ぶだろう。」
少年は口を閉じて、少し考えた。少年の記憶の中には、親というものがなければ、名前というものを呼ばれた覚えもない。少年の記憶が始まる前には存在していたのかもしれないが、それは少年には測り知ることにできないものだ。
少年の沈黙に、鳩は気まずそうに喉を鳴らした。
「……そうか。」
「ナマエというのは、必要なもの?」
あっけらかんとした少年の問いかけに、鳩は豆鉄砲を食らったかのように驚いた顔をする。それほど驚くことだろうかと、少年は鳩の丸く見開いた目をじっと見つめて次の言葉を待った。
「形には名前があるものだよ、坊や。ニンゲンはわたしたちを鳩と呼ぶように、ヒトはヒト同士で呼び合うナマエが入用なものなのさ。」
少年はおばあさんの名前を知らないけれど、おばあさんはいつも少年の存在を認めてくれた。少年は、それならナマエなどなくてもいいと言った。鳩はそうじゃあないのさ、と少年を引きとめる。ふうん、と気のない返事をして、少年の興味は別のところに移っていく。
「ねえ、空を飛ぶのは楽しいの?」
「そうだね、それは楽しいさ。小さくなる家々、季節で彩りを変える木々。願わくば、一度でいいから気が向く方へどこまでも遠くに旅をしてみたいものさ。」
「じゃあ、僕がその願いを叶えてあげるから、僕にナマエをちょうだいよ。」
鳩は少しの間考えて、それから仲間たちと話した。どうする、遠くに行こう、こんな狭いところは御免だよ、ばあさんがいないのならもうここにはいられないよ。
しばらくして鳩は少年の目の前にやってきて、ぽー、と息を吐いた。
「坊や、わたしらはニンゲンとは違って、個々に名前があるわけじゃあないのさ。だから、坊やに名前をつけてあげることはできないよ。」
少年は鳩を見つめ、寄り添う彼らを一瞥する。身を寄せ合って寒さをしのぎ、その行く道を皆で決める。個々に名前を持たず、その存在そのものに名を冠するイキモノ。
物を知らぬ少年には、小さな籠に押し込められた鳩たちの方が、地上で所狭しと忙しなく動き回るヒトよりも、そんな中で一人ぼっちの少年よりも、余程ヒトらしく生きているように見えた。
「……坊や、お前さんもあのばあさんに世話になったんだろう。言うなれば、わたしらは兄弟みたいなものかもしれないね。」
「そっか。じゃあ、僕もハトだね。」
「ハト、か。坊やも物好きだね。まあ、お前さん自身が決めたことだから、わたしらは坊やのことをそう呼ぼう。」
鳩の背がぶわりと逆立つ。それは隣となりと伝わって、まるで大きな波のように見えた。唸りを上げて迫ってくる、激しい波だ。
少年は、扉をこれでもかと言うほど開いて、航路を譲った。錆びた蝶番が嫌な音を立てて割れ落ちたけれど、少年は気に留めない。
ぽぅ、と小さく鳴いた鳩は、その小さな瞳だけを少年に向けて、最後にやさしくこう言った。
「さようなら、ハト。」
鳩はそう言うなり一斉に飛び立った。何十羽もの灰色の鳩がほんのりと青みがかった空を旋回して、それからどんどん小さくなる。
最後は小さな点になって、最後の一羽が霞んで消えるまで、少年は空を見つめていた。
ハト。ナマエというものも、案外悪くはないのかもしれない。滑り踊るように屋根を駆け、梯子を降り、おばあさんが読んでくれた絵本を広げる。声に出しながら文字を追い、暖炉の冷えた炭を引っ掴んでやっとのこと扉にそのナマエを書き記した。
ハト。少年はそれを満足げに眺める。指で擦ったら滲んでしまったけれど、そんなことは気にしない。
窓から覗いた庭先の花が、欠伸混じりに少年に話しかけた。
「坊や、それは一体なんだい。」
「ハト。僕のナマエだよ」
花はくすくす笑って、だが少年をそう呼んだ。
「ハト。ニンゲンの文字はそんなふうだったかい。」
「たぶんね。今から見に行ってこようかな。」
およそ意味を持った記号には見えない歪な線。少年はもう一度だけ、今度はなるべく消えないようにそっと指を滑らせた。
花はいってらっしゃい、と体を揺らす。朝露も弾けて少年の旅路を飾ってくれる。少年はそれに手を振り返して、食べかけのパンを手に取った。
「さよなら。」
そうして少年は歩き始めた。鳩たちが飛んで行った方向に伸びた道を、まっすぐに進んだ。
どこまでも同じ空が少年を見下ろしていたから、少年は少しも寂しくなんてなかった。
同じ空が少年を包んでいたから、少年は少しも怖くなんてなかった。
少年は歩いた。どこへ行くあてもないまま、ただ前を向いて進み始めた。
鳩と少年