置き去られた着ぐるみ

置き去られた着ぐるみ

「ごめん、りんごしか食べれない」

置き去られた着ぐるみ



   1

昨日の夜に降った雨のせいで、縁石が濡れている。
それは濁った水たまりのような灰色で、住宅街を這うように続いている。
「ダンダラ、ランランラン~」
物ごころついた時から好きなメロディを口ずさむ。
縁石が濡れるのか、メロディを口ずさむのか、学校に行くのか、分かれ道があるものの、その先が同じような味わいへ繋がれていることを僕は知っている。
僕はデジャブに覆われていて、そう感じないのは由衣といる時だけ。それ以外は何年も前から同じことを繰り返している。テストの点数が何点だろうと、母さんが風邪をひいても、僕は驚かない。

学校に着くと、ロッカーの脇には掃除用具入れがあり、その周りで一年の男子たちが笑っている。用具入れの中には時田が押し込められているからだ。僕は一年の肩に手を置く。
「お前らがやっていることは、暗い次元だ。やめようぜ」
 一年たちは何も言わずに離れていき、僕は用具入れのドアを開けた。猿のような目をした時田が出てきた。
「あ、ありがとう」
「お前、眼鏡やめろ。ダサいからナメられるんだよ。コンタクトに変えろ」
「えぇ、なんで?」
 理由も説明したのに理解していないようで滅入った。時間をかけて会話するほど僕の気は長くない。
「そういうとこだよ」僕は無防備なうなじを見ながら言った。
 廊下の外では、今のやりとりを傍観するように紅葉し始めた木の枝が揺れている。

――これが僕の日々?

僕はポケットに入っていたガムを口に入れると、教室に着くまで歩きながらスマホで由衣の画像を見る。
どんな時に見ても由衣は可愛い。実物はもちろんだが、とっさに撮られたものでも由衣は常に可愛い。ほどよい高さのある鼻。肩の下まである真っすぐな髪。わざとらしいシャンプーの匂いはなく、毛先が緩やかにカールしていて、耳たぶは太陽の光を知らないように白い。
僕は授業が始まる前に「今、由衣の画像見て癒されてた。何回見てもかわいい。」と送った。数秒で由衣からスタンプで返事が来た。「今日、放課後会いたいな、」と送ると、教師が入ってきて朝礼が始まった。
教室にいると、耳に水が入った時のような音が頭の中心から聞こえてくる。音の原因はこの学校の中で常に誰かが苛められているから。と僕は推測している。さっきの時田以外にも、そういった人間は確実にいて、時田ほど表面化していなくても無視やもの隠しといったいじめは常に起きている。そんな学校から外に出ても、音は少し軽くなるだけで、完全にはなくならない。音の原因はいじめだけではなく、僕のデジャブのせいなのかもしれない。
昨日と同じ道。同じ信号、通行人、弁当屋のハイエース、ガードマン。学校の外でも、生きていることは曖昧になっていく。こんな僕が自発的にできることは、由衣を可愛がり、文通相手に返事を書くこと。この行為に誠実になればいいのか? それとも、この問題について誰かに話せばいいのか? こういった疑問を自分で解決できない僕は、きっとどこへ行ってもデジャブに支配される。
放課後のチャイムが鳴ると学校を出た。バスに乗って由衣と待ち合わせた駅に行くと、ロータリーのベンチで、紺色のブレザーを着た由衣が僕を待っていた。白い顎と、首元まで上げられた蝶ネクタイ。由衣の努力の積み重ねを見て、抱きしめたくなる。
「おまたせ」僕は言ったが、由衣は唇を尖らせて目を合わせない。大抵久々に会うと、僕の対応に何らかの不満があり、その原因をすぐには教えてくれない。不機嫌で気まずい時間を三十分くらい過ごしてから由衣は口を開き、僕は言い分を聞いて謝る。
「池に行こうか」と僕が言ったのを遮るように、
「いつも、当然みたいな顔してるよね。昨日も一昨日も音信不通で、急に会おうって、めっちゃ自分勝手」僕は由衣の隣を歩きながら耳を澄ませ、由衣の心の中を想像する。
「放課後の稽古抜けて来たんだよ、嬉しいこと言って」
「かわいい」しか出てこなかった。それでは動物だと思い、とっさに言った。
「知ってた?」
「なにが」
「俺は由衣の声が聞けるだけで嬉しいよ」と言うと、由衣が言葉を飲みこむような間を感じたので、
「由衣は俺よりもずっと生命力あると思う」
「宏哉くんは自由で楽しそうだね」
 一瞬むっとしたが、由衣の目に今朝の学校で見たような木の枝が写っていた。
「そうかもしれない。由衣より自由だと思う」
池の外周に沿って整備された道を歩くと、夕方の風が抜け、由衣の髪が羽のように広がる。僕にはそれが綺麗過ぎて言葉に詰まる。
「はぁ……」という由衣のため息は僕に対して向けられたものであり、由衣が抱える問題を凝縮した声でもあった。今日やらないといけないこと。明日やらないといけないこと。来年からの寮生活。に覆われ、それらのどこにも由衣はいない感じがした。
「由衣」
何を言うか考えていなかったが、名前を呼んだ時に、僕は今日初めて自発的に行動し、今から由衣との関係が崩壊する可能性と、いくらか良くなる可能性を手にしたと思った。
「なに?」
由衣は低い声で返事をした。たったそれだけで池の中央に浮かぶ雲が膨らんだ気がした。
「俺と由衣はずっと浅瀬にいる。そこだけで喜んでいられるような人間じゃないのに」
「そうだね」と言ってから、
「池って最悪だわ。置かれた場所で咲きなさいって何よ……」由衣は言った。由衣が今日一番言いたかったことを思い出したサインだった。
 由衣は歩道を歩くのを止め、芝の生えた斜面に座った。そして、由衣がピアノ演奏を担当している演劇の稽古場であったことや、ピアノのレッスン室で先生に言われたこと、来年から上京して一人暮らしをしたいのに、親からは寮に入れと言われていること、ペットの犬が病気になったことなど、二時間くらいかけて話した。話を聞いている今の僕がどんな気持ちなのか、由衣の頭の中にはきっとなかった。夕日はとっくに沈み、お腹が空いても話は終わらず、真っ黒な池が風に震えていた。
「こんな話、聞いてくれてありがとう」話がもつれて続きが言えなくなった由衣は言った。瞳の中に僕の顔が見えた。僕の背後に立つ外灯の数だけ、光る点があった。
「由衣は俺よりずっと大変そう。俺は話聞くことしかできないし……」
「宏哉くんはすごく気が長いと思う。落ち着いてるよ」
「いや、由衣のほうが色々やっててすごいと思う」
それから僕と由衣は手を握り合い、空腹とトイレに耐えながら池を見ていた。「由衣、君が一番かわいいよ。誰よりも好きだ」と心の中で何度も言い、一度だけキスをした。池の向こうに見える打ちっぱなし場のネットを見ていると、僕と由衣は何年も前からここに座っているような気がした。


家に帰ってポストに入っていた文通相手からの手紙を取り、母さんが作ってくれていた夕食を食べた。
「遅くなってごめん」
「恵理ちゃんとは上手くやってるの?」母さんは先に食べ終えており、どら焼きを食べながら僕に質問する。
「恵理じゃないよ……由衣だよ」
「由衣?」
「とにかく恵理じゃないよ。母さんの味噌汁美味しいね。糸こんにゃくとたらこの和えたやつ好きだな」と言うと、母さんはソファに座って録画したドラマを見始めた。料理なんて呼吸の一部だと言わんばかりに僕が褒めても喜びはしない。ふと思い出したように、
「そういえば、来年からあんた一人暮らしなのよね~。めっちゃ複雑」と言った。
「4コマ漫画のオチみたいな台詞だね。ごめんね、父さんと二人になっちゃうよね」
「それはいいんだけど、まぁでも、そうなるよね。ずっとお前がいるのもね」と言い、母さんは二階のベランダに煙草を吸いに行った。「僕が稼ぐようになったら旅行に連れて行ってあげるよ。どこの国がいい?」と浮かんだ頃にはすっかり静まり返っていた。
食べ終えた皿を洗うと、自分の部屋へ行き、手紙の封をハサミで切って中身を取り出した。相手は半年ほど前にSNSで知り合った二十六歳の女性で、初めはラインでやりとりをしていたが、二~三カ月前からは手紙でやりとりをしている。

――お返事ありがとう。あなたの正直な言葉に刺激をもらっています。起きている間に何かの言葉がよぎると、あぁこれはあなたが手紙で書いていたことだわ、って思い出しています。あなたのどこかに素敵だと思う要素があって、それを知るために、私はあなたをもっと近くにおいておきたいと思ってしまいます。そうしたら、時々誰よりも遠い存在に感じてしまうことになるでしょうけど、それでも私はかまわないです。高校を卒業したら、東京で一人暮らしですよね。それなら私と暮らしませんか? 会う度に次会えるまで二週間も一カ月も待つなんて、私には耐えられそうもありません……。なんてね。そんな無理は言いません。私は東京で働いていて、あなたも上京してくるのでしょうけど、だからといって一緒に暮らすのは無理があります。多かれ少なかれ、(という言い方は失礼かもしれませんが)私はあなたに魅力を感じています。来年の春に上京してくるなら、一度くらい東京に家を探しに来ますよね。その時にお茶でもしませんか? 本当に言いたかったのはこっちの話です。一度大きなお願いをしてからだと、お茶は大したお願いじゃないように見えませんか。考えておいてね。 恵理――

僕はこの手紙から嫌な予感がした。本人が想像を進め、体験した先にある感情まで想像している感じが不気味だった。便箋を持つ手は少なからず震えていて、机の上には置かず、空中で折りたたんで封筒の中にしまった。それから僕はベッドに寝転がって、スマホで来年の四月から住む東京の物件を探した。
物件の写真を見ていると、文通相手よりも近い存在の由衣に、来年から一緒に暮らそうと言えない自分に気付いた。大学は違うが、お互い東京の大学なのだから、由衣が寮住まいだろうと、僕が由衣の寮の近くで下宿すれば頻繁に会える。だが、僕はその話を由衣にしていない。今日の放課後に由衣を呼び出したのは、本当はその話をしたかったからなのだが、由衣の話に押されて切り出せなかった。由衣の大学と僕の大学は電車で一時間以上離れているし、お互い学生なのだから一緒に住むのが現実的でないにしろ、その話が一度もお互いの口から語られないことに違和感があった。それこそが、由衣の話が長くなる原因であるように思えた。今からラインしてみようか。「由衣、来年から一緒に住むかい?」
いや、やめておいたほうがいい。大事なことをラインで送ると、由衣が悲観的に解釈して、それが僕と会うまでの間に肥大化するだろう。僕は由衣に直接会い、僕が思っていることを衝突してでも言わなければならない。



翌朝、僕は今日も由衣を呼び出して、あの話をするべきかを考えた。すると、反射的に考えることを拒むようにあのメロディが流れた。
「っていうか、べきってなんだよ」僕は制服に着替えながら声に出した。
いつの間にか「べき」だらけになって、僕が由衣の機嫌を損ねないように振る舞い続けている気がした。可愛いからいいのだ。という一本調子は空虚さの元だった。気がつくとなかなか流れていかない雲のように心の中に由衣がいた。
玄関で靴紐を結んでいる時に、僕は台所にいる母さんに話しかけた。
「母さん」
「なんだい?」エプロンをした母さんが玄関に歩いてきた。
「彼女って半年経つと、変わるよね」
「でも、好きなんでしょ?」
「うん」
「少しでも好きなら、大切にしてあげなさい」
「考えてみるよ」

――由衣、君が今やりたいことは何ですか? 本当に思っていることを教えて……。
住宅街を歩く僕の頭の中で、下らない詩が製造されては消えていく。今から学校に行って今日も放課後に由衣を呼び出すとしても、それまで待ちたくない。
「まったく、どれもこれもつまんない」
こんな浅い思考しかできないのなら、目が二つあっても、脳があっても、健康な体があっても、仕方のないことに思えてくる。母さんの言葉を信じたところで、今日の放課後に自分の言葉になるとは思えない。焦る僕は頭の後ろを右手で掻き、あれを口ずさみそうになる。

一限目が終わって教室のベランダに出ると、体操服に着替えた一年が運動場に出ていた。その中に時田がいて、昨日の朝と同じように一年の男子たちに囲まれていた。それを見た僕は、
「分かりやすい問題」と言った。一緒にいた服部という男子は「えっ?」と言ったので、
「ああいう奴らって下らないよな。原始人でもあんなことやらねぇよ」僕はグラウンドの一年を指さしながら言った。
「確かに、あれは小学生レベルだよな」と服部は言った。
「時田自身にも問題はあるけど、九割は苛めてる奴らが悪いと思う。あいつらは何も考えないからあんなことができんだよ。鏡に映った自分の顔を見るのが怖くて、自分の頭で自分と他人の気持ちを考えなくなった連中なんだ。スカスカなんだよ。あいつらのスカスカを紛らわすために痛い思いをしているのが時田だ。あれじゃあ奴隷だ。でもな、本当にかわいそうなのは時田じゃない。それに関わる全員さ。つまり、一年の連中と、それをベランダから見ている俺と、この話を聞いているお前と、教師や親を含めた全員。学校ってよくできてるよ」
「河野は精神年齢高ぇな」
「別に、もっとすごい奴はいるよ。苛めって大学に行けば無くなるのかな? 関係性薄そうだし」と僕は服部に質問して教室に戻った。
――俺は時田を目の前で見るのは嫌だけど、概念としての時田は好きだ。あれは必要とされている証だ。と話せる相手はこの学校にはいない。由衣にこんな話はできないだろうか?

放課後は電車に乗って由衣の高校へ行った。「急で申し訳ないけど、今から会いたい」とラインを送ると「急すぎ…」と返ってきたが正門で待っていると、由衣が小走りにやってきて「今から稽古だから終わるまで待ってて、遅くなるよ」と言った。
「分かった。待ってるよ」と言った。由衣は僕と目を合わせないまま、後ろで待っている劇団のメンバーに囲まれるように歩いて行った。目じりをくしゃくしゃにさせて笑う由衣の顔が見えた。
 由衣を待つ間、僕は通りを挟んで門の向かいにあるコンビニのイートインコーナーで文通相手に返事を書いた。
――お返事ありがとうございます。僕の心を読んだような展開に驚きました。あなたが本当に女性なのか、二十六歳の会社員なのか、会ってみればすぐに分かることですし、一貫性のある文章から単なる物好き以上の何かを感じるので、僕も興味があります。いいですよ。二月か三月には恵理さんの言う通り、一回くらい東京に行きますからその時に会いましょう。 宏哉

書き終えると封筒と切手を買ってコンビニ内に設置されたポストに投函した。その後は、通りを行き交う車を見ていた。
二十一時頃、由衣が演劇部員たちと一緒に門から出てきた。コンビニのガラス越しでも由衣は輝いていた。由衣は部員たちに手を振って別れると、横断歩道を渡って僕のいるコンビニへ歩いてきたので、僕も外に出た。
何を言うか迷っていると由衣が「ふん」と笑った。
「河野くんと私の生活は真逆だね」そうだろうなと思った。由衣は僕の首元を見ている。
だって由衣が、やりたくもないことばっかりやってるからだろ。と言いかけたが言わず、僕と由衣は駅に向かって歩いた。
「由衣は、演劇が好きなの?」
「全然。好きなものなんてないよ……。ねぇ、河野くんはどうしていつもそんなに自由そうなの」すでに答えを知っているような声色だった。
「嫌なことをやらないようにしているだけだよ。俺は、由衣といたいと思ってて、それがメインになるようにしたらこうなった。由衣は、やりたくないことばっか……」
「待って。分かってるよそんなこと」と言われた。
「ごめん」
「無意味さがどんなものか河野くんより知ってる」人を傷つけている自覚のないふりをしている声。僕はやるせなくなるが、由衣が学校で四六時中笑ったりピアノを弾いたりした反動でこうなっていると思っているので、感情的にならないと決めている。
「うん」
「だから、河野くんは私の学校に来ないで。恥ずかしいし、バランスがおかしくなる……。親と先生と友達の期待の集合が私だよ」
「じゃあ、僕はそんな由衣を応援するよ。まぁ前からそのつもりだけど」
「うん。私も河野くんには本当に思ってること話してるよ。だから、河野くんは私が送れない反対側を担当して欲しい」本当に悩んでいる人間が、こんなにすらすらと話せるものなのだろうか。
「分かった。反対側に行くけど、由衣と俺はロープで固定しておくよ。精神的な」と言うと由衣は笑った。
「由衣は、崖から落っこちそうだし……。俺は由衣のサインを知ってるよ。大丈夫」と、言う直前に、谷底に落ちて行くような感覚がよぎった。大丈夫と言うからには、由衣の身に起きる全ての事に対処する宣言に思えた。それは軽々しく言ったつもりではないのに、どこまでいっても浮ついていた。
結局、一緒に住む話はしなかった。代わりに、
「俺の学校の一年がやたらと時田っていうチビをいじめるんだ。由衣の学校はそういうのない?」
「あるよ。あぁ……それって私のこと? そう見えるかもしれないね」
「え?」僕は一瞬どういうことかと思ってしまった。
「由衣は頭の回転早いな。そうなんだよ。必要な存在だと思ったんだ。誰かの願望を叶えるために誰かが利用される」
「うん。そこまで言ってくれただけで、河野くんは合格だよ」
「合格って?」馬鹿にされている気がして流石に腹が立った。すると、由衣は声だけで笑う。
「由衣は、由衣がさっき言った連中から、願望を叶えさせてあげている。俺はそういう生き方はしたくないし、できない。ある意味由衣を尊敬するよ。俺は興味ない連中に構いたくはないもんね。由衣と僕は決裂してるんだ」
「だから、反対側をお願いするわ。河野くんと話してると元気出てきたよ」
「本当かよ?」
「じゃあ、晩御飯あるから帰るね」
由衣と話ができた余韻が家に着くまでの間に漂っていて、由衣といた時間には学校で感じるデジャブや音はなかった。頭を使ったせいか、頭頂部から首元にかけて痺れるような感覚がしばらく続いた。
その日の夜は由衣が夢に出た。演劇の稽古場で、由衣は平凡なことしか言っていなかった。今日は雨が降って髪が湿気ているとか、来週までにはきっとなんとかなるとか、来年からの寮生活が楽しみとか、それらは何の意味も持っていなかった。夢で聞いた由衣のピアノ演奏は演奏というより、ティッシュペーパーのようで、何度弾いてもさっきと同じものだった。演出の指導に対して「はい!」と明朗に返事をして弾き始めると、それはさっきと全く変わっていないのだが、由衣の立ち振る舞いの真面目さから演出はそれ以上何も言わなかった。そんな由衣は嫌だと思うと同時に目が覚め、明け方の灰色の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。枕元のスマホには由衣からラインが来ていた。
――宏哉くん、助けて。
と書かれていた。明け方になってようやく由衣が心を開いたのだと思った。由衣の生き方そのものに無理があると思うと同時に、これを見て悲しくなるということは、僕では由衣を癒せないことを認めたという意味でもあった。由衣に主体性はなく、98%が周囲の要望に応えるためで、残りの1%が僕との時間で、最後の1%がさっきのメッセージである気がした。僕はどうすべきか、布団の中で考えた。そして、あのメロディが流れそうになるのを、僕は「あー」と声を出して食い止めた。
「由衣の気持ちが理解できるように行動する。今日も放課後に会いたいな」と送った。既読がつき、十分ほどして「ありがとう」と返事が来た。やりとりはそれだけだったが、いつ電話がかかって来るかと思うと眠れなかった。



   2

十二月になり、由衣の演劇の本番が近づくにつれて、会える日が減った。ラインのメッセージを交わしたところで由衣は疲れていると分かっていたので、僕からはあまりやりとりをしなくなった。
演劇の本番はこっそり観に行こうと決めていて、由衣と僕の共通の友人に本番の日や会場の構造などを聞き、僕が行っても見つからないかを調べた。本番中は客席側が暗くなるらしいが、念のため僕は眼鏡とマスクをして行くことにした。
僕がマスクを買って家に帰ると、リビングの明かりが消えていた。二階に上がると母さんが寝室で寝込んでいた。
「おかえり、宏哉。掃除機かけてたら埃吸っちゃって……」と母さんは典型的なガラガラ声で言った。
「ちょうどマスクあるよ? あと、はちみつレモン作ろうか」
「マスクもらうわ。それ、美味しそうだね、飲みたい。ありがとう」
「ううん……」人から感謝されることが久しぶりだった。僕は台所に行ってお湯を沸かし、櫛型に切ったレモンを絞ってはちみつレモンを作った。
「おいしいわ」
「よかった」
「うつるから、宏哉はリビングにいてなさい」
「うん」と言いつつ僕は寝室を出た。母さんは僕の作ったはちみつレモンを飲んでいた。僕がこれから一人暮らしをすることを申し訳なく思わせないように、普通に努めているのがバレバレだった。

由衣と会えなくなって暇になった僕は、新しいアルバイトを始めた。毎週日曜日の昼間に、遊園地で茶色いくまの着ぐるみを着て子供たちと触れ合う仕事だ。着ぐるみの中は前に使った人の汗の臭いが残っていて、十二月の気温でも仕事が終わる頃には、自分の汗と着ぐるみに残った汗が混ざり合うほど暑かった。僕は由衣に近づきたかった。由衣に近いことを経験して、その辛さを知る人間になりたかった。そうでなければ僕が由衣をかわいいとか、抱きしめたいとか思ったところで単なる欲求に過ぎない。
着ぐるみのバイトはうろうろしているだけで、子供が次から次へと寄ってくるので気分がよかった。僕がバンザイをしたり、軽く飛び跳ねたりするだけで、子供は夢が叶ったように「キャー」とか「キィー」とか甲高い声で喜んだ。メッシュ越しに見える視界は狭く、足元の子供はほとんど見えないが、気配は感じることができた。乱暴に触られたり、腕にしがみ付かれたりしたが、一貫して純粋だった。着ぐるみの中にいる時は、学校よりずっと自然に笑っていたし、子供の笑顔を間近で見て嫌な気分になることはなかった。それなのに、家に帰って部屋で一人になると、今の自分とさっきまでの自分が一致しなくなった。感情はブレーカーを落としたように失われ、顎から耳の穴にかけて弱い電流が流れたように痺れ、目の周りが痛くなった。気がついたら布団に入っていて、眠れずに何時間も経っていた。
「由衣は毎日こうなのか……」と想像してみたが、由衣がどういう思いで過ごしているのか僕には分からなかった。

演劇の本番の日になり、僕は由衣の高校へ行った。会場は天井の高い画廊を改装したような作りだった。観客は座布団の敷かれたひな壇に座って鑑賞する形式で、ステージの左脇には蓋の開いたアップライトピアノが置かれていた。
僕はマスクと眼鏡をかけていたので見つからないだろうと思っていたが、会場に入ると空気が乾燥していてくしゃみをしてしまい、観に来ていた生徒の母親たちが振り返って僕の顔を物珍しそうに見た。母親たちの香水がマスクの隙間から鼻に入ると頭が痛くなった。
定刻になってブザーが鳴ると暗闇になり、ピアノが照らされるとどこからともなく由衣が現れて、演奏を始めた。夢で見た無機質さはなく、暗い曲調の中に、今この瞬間に由衣が生きている感触を確かめることができた。予定されていた曲の演奏であっても、観客の入った状態で練習してきた曲を正確に演奏するというのは、人を導くという行為かもしれないと考えさせられた。
ステージが照らされ、役者が出てきて何かを言うと、ピアノの演奏が終わり、由衣を照らす照明も消えた。それでも、ステージからこぼれる光を由衣は浴びていて、黒い髪が銀色の川のようだった。今まで見てきた中で最も美しい姿だった。今日ここで演奏するために、池での長い話や僕への冷淡な態度があったのだと思うと、そんなことはどうでもいいと思った。演劇は好きではないと言っておきながら、由衣は演奏をしていない間も佇まいで場を支配していた。
演劇の内容は暗かった。十人ほどいる登場人物は妬み合っては裏切り、毒殺されて人数が減っていくというものだった。その中で由衣だけは椅子に座ったままで、思い出したようにピアノを演奏し、終わると全く同じ姿勢のまま、髪を触ることもなく模型のように膝に手を置いていた。
僕はカーテンコールの前にひな壇を下りた。受付の人に「ちょっとトイレに……」と言い、外に出た。
由衣は親や友達に依頼され、受動的になった結果だけで、あそこでピアノを弾いていたとは思えなかった。演劇を傍観するように、何の感情も抱いていないように弾くことは、演出意図と合っているだけでなく、由衣が自分の神殿を築く作業である気がした。そして、由衣が作った神殿に吸い込まれていく人間を、由衣は好きにならないだろうと想像した。あの姿はきっと、観に来ていた母親や演者の間でもきっと話題になる。でもそれは由衣にとっては想像の範囲内で、嬉しいのは褒めている人間だけなのだろう。僕はそんな由衣に失望されないために、ただ冷静になるより、由衣が何なのかを知らないまま生きている自分を否定しつつ、由衣の全てを知ろうとしないように努めなければいけない気がした。どこまでも人を吸い込んでいきそうな由衣の姿を僕は見ていない。ということにしておくべきなのだ。池の周りで身勝手なことばかり言う由衣は、僕が感情的にならない範囲で甘えている。あの佇まいで演奏をできる由衣が、あの聡明さで「反対側を担当してて」と言える由衣が、ただ感情に任せて人を苛立たせる。なんてことはあり得ないのだ。

「風邪治ったの?」家の前に着くと、母さんが生垣の下に落ちた葉を箒で掃除していた。
「うん。埃吸ってひいた風邪だからすぐ治ったわ」と言うと、丁度十七時を告げるチャイムが鳴った。
「もう暗いから入ろうよ、悪い気が出てくるよ」
「そうだね」
僕と母さんは家に入って食事をした。食べ終わる頃になってようやく僕は口を開いた。
「今日、由衣がピアノで出ていた演劇を観に行ってきたけど、すごく良かった。知らないことだらけだ」母さんはスナップえんどうを口に入れる。
「全部を今日のピアノに捧げてた感じがして、本当にすごいと思った。僕の着ぐるみバイトなんて子供だましみたいなもんだよ」言い終えると、噛む音だけが聞こえた。
「宏哉がそう感じた瞬間に、それが本当になってしまうね。由衣ちゃんをそこまですごいと思ってるのも宏哉くらいかもよ」
「そうかな。母さん冴えてるね」
「風邪が治っただけよ」と言うと、そのあとに意味ありげな沈黙が続きそうな気がして、僕は立ち上がった。
「母さん、僕に言いたいことがあったら全部言ってね。そのうちいなくなるんだ僕は。いなくなるっていうか、まぁ一人暮らしをするだけだけど。なんていうか、出し惜しみして後悔はしないでね。ねっとりは好きじゃない、東京にも遊びに来ればいいし」
文通相手からはラインで返事が来ていた。
――お手紙ありがとう。じゃあ来年の二月か三月あたりで考えておくね。また連絡します。
僕はそうですかと送る訳にもいかず、スタンプで返事をしておいた。

年が明けて学校が始まったが、もう半年以上由衣とデートをしていない。由衣は卒業演奏会のレッスンと、演劇部の卒業公演と、入学までにマスターしなければならない課題曲に包囲されていた。
時々夜中に「宏哉くん、助けて」と、ラインが送られてきて、僕はその度に短い返事を送った。「僕が代わってあげたい。」という意味のない慰めもした。それらに内容はなく、ただ返事をするという、儀式的なものになっていた。由衣自身も僕に助けて欲しいからそうしているのか、頼ったことにして自分を励ましているのか分からなくなっているような気がした。

僕は早めに家探しに行くという名目で、一月の終わりに文通相手と会うことにした。母さんには東京に一泊だけして、一日で決めてくると話してきた。文通相手とは新宿の東口を出た先にある喫茶店で待ち合わせた。店の前で待っているとグレーのコートを着た女性がスマホを片手に「河野くん?」と話しかけてきた。茶色い髪はいくらか褪せて見えたが胡散臭さはなく、文通で書いていたとおりの東京で働く二十六歳の女性であるように見えた。
「そうです。はじめまして、恵理さん」
「わざわざ、来てくれて嬉しいわ」言っていることは普通なのに知らない言語のように聞こえた。
「失礼ですが、恵理さんは腐女子かメンヘラの方ですか?」僕は言った。何故、由衣より何年も長く生きている女性が、由衣の気持ちが分からない僕に興味を持つのだろう。
「ぷっ」と恵理さんは吹き出した。
「ある程度わね」
「ある程度?」
「腐女子だろうがなんだろうがどうでもいいことよ。大事なのは私があなたを利用しようとしているかいないか。でしょう? 純粋に僕とお茶して楽しかった。で終わるような人がいるなんて思えない。そんな顔してるわ」と言い、恵理さんは喫茶店のドアを開けた。
「そう思ったらダメなんですか?」煙草の匂いが流れてきた。
「そんなことないわ」
 階段を下りると客席が広がっていた。
「私はコーヒーにする。河野くんは?」文通相手というより、数年ぶりに会った親戚のお姉さんといるようだった。
「クリームソーダにします」
「かわいいの頼むのね」
「はい」
 注文して恵理さんが煙草を一口吸い、煙草とは無関係な息を吐いて言った。
「私にもどうしたいのかなんて分からないのよ。けれど、あなたのことはとても気になることは確か。という状況。おかしいかな?」
「いえ……友達とか恋人っていう感情じゃないということですよね。僕にも彼女がいますが、恵理さんと文通していますし、彼女のことが一番好きですよ。その上で文通をすることにうしろめたさはないです」
「よかったわ」と言った。
恵理さんは僕の右手の指をつまむように触った。恵理さんの指のほうが白くて細かった。
僕はクリームソーダを数分で飲み干してしまい、恵理さんはコーヒーに殆ど手をつけていなかった。時々顔を上げて恵理さんを見ると、蜃気楼のように見えた。恵理さんは僕が変な人ではなかったことと、僕が恵理さんを変な人だと思っていないことを恵理さんが確認できたこと。この二つだけで満足そうな気がした。きっと慣れているのだろうと思った。
「少しだけ、手を繋いで欲しいの」喫茶店を出て東口に戻る道で恵理さんが言った。
「はい」と言い、恵理さんは僕の右手を握った。湿った手の平が僕の手に吸い付いた。五メートル程歩いて恵理さんは「ありがとう」と言った。その後、唐突に「私のストーリーを生きるよ。バイバイ」と言うと地下鉄の階段を下りていった。
もう文通はしないでくれという意味なのかよく分からなかった。ただ、僕の手が、恵理さんの感触を拒んでいるような気がした。コーヒーも煙草もクリームソーダも、しばらく距離を置きたくなった。恵理さんの個人的な踏ん切りをつけるために、僕は東京まで呼び出された。そんな気がした。
それから茗荷谷の不動産屋に行き、アパートを内見した。ワンルームで、カーテンのない窓からベランダに出ると強い西日に目が痛くなった。
新宿でも茗荷谷でも、東京にいる間は一度もデジャブが起きなかった。地元と同じ道もなければ、同じハイエースもいなかった。それなのに、何かが始まる予感がなかった。由衣とは今よりも近くに住むことになるのに、どんどん遠ざかっていく気がした。僕が行動的になっても、着ぐるみを着ても、文通相手と会っても、東京のどこに家を借りても、僕は無力であることが確定している気がした。帰りの電車では、アパートで浴びた西日を目の奥に溜め込み、ドアに貼られた「はさまれ注意」のシールにばかり目がいった。

二月になると、苛められている時田のことが鮮明に見えるようになった。もうすぐあいつとお別れだと思うと、彼を見ることが僕の日課になっていた。彼は苛める側に行動する動機を「与える側」に見えた。無抵抗に怯える表情が、輝いているように見えた。僕はある日の朝、掃除用具入れの前で時田を苛めている一年を殴り「いい加減にしろよ、クソ野郎」と言った。根本的な解決にならないと分かっていたが、僕は時田に味方がいることを時田の前で示したかった。苛める側も根気があるのかもしれない。もしくは根気よく抑圧に耐えているからこそ、時田を苛め続けられるのかもしれない。休み時間はそんなことを考えながらベランダに肘をつき、グラウンドを眺めて過ごした。
母さんは風邪を引いたり、関節が痛いと言って病院に行ったりしている。僕は着ぐるみのアルバイトを続けていたが、着ぐるみの中にいても仕方がないと思うようになった。


   3

四月になり由衣と僕はそれぞれのタイミングで東京に引っ越した。入学式が終わって少ししてから、僕は由衣の住む上野の寮に行った。寮というより、マンションのような建物の五階に由衣の部屋はあった。六畳ほどの縦長の室内に、朝陽が差し込んでいた。それは由衣の机とベッドと僕と由衣を照らし、優しい気持ちになった。部屋にいるのに、由衣と砂浜にいるような気がした。潮の香りさえ漂っているようだった。僕は立ったまま由衣を抱きしめて額にキスをした。由衣から離れると、由衣の頬が朝日に照らされ、床には頬からこぼれた楕円形の光が差し込んでいた。
「宏哉くん、来てくれてありがとう。お茶飲む?」由衣は聡明な声で僕に言った。その後の会話を僕は正確に思い出せない。
「宏哉くんって、あれなの……」
「ねぇ、宏哉くん……」
「そういえば、私が初めて宏哉君に話しかけた時……」
「あなたってなんですか? って聞いた……」
話していた時の由衣の目なら覚えている。瞳は茶色くてまつ毛が新芽のように初々しかった。少し痩せた由衣の顎は鋭角的で、目が大きく、僕の彼女以上の何かである気がした。
会話が途切れて床を見ると、日差しが移動しており、さっきまでなかったはずの、しおれたタンポポの花が一つと、何かの弦の切れ端が落ちていた。また明日から僕と由衣は駅で待ち合わせてあの池に行くような気がした。これから兄弟みたいに仲良くなっていく気がした。記憶の順番も上手く整理できない。

ラインで連絡が来た。僕が由衣の寮に行った数日後に由衣はその部屋で死んだ。
その知らせは朝、僕が布団の中にいる時に来た。冗談みたいな吹き出しから、異様な縦長の箱になってそれを知らせる内容が書かれていた。
僕は頭が真っ白になった。飛行機雲が消えたと思ったら、それは由衣でした。と言われているようだった。呆然としていると、由衣と座った芝の映像がよみがえった。冷や汗のようなものが吹きだすと、手足や顔から力が抜けてゴムのようになった。首から上が浮いた感じがして、僕は今僕が生きていることを信じられなかった。こんな文字を見せられて、僕にどうしろというのか、何故こんな事実をこの画面から知らなければならないのか……アパートで怒鳴るように泣いた。
「由衣は斜面の芝で僕を待っている。いつでもそこに由衣はいる。池に行けば、僕の顔が映った由衣の瞳が見れるんだ」
僕は由衣との記憶の肉を噛み、骨をしゃぶりそれが溶けてなくなるまで泣いた。アパートに閉じこもり、食パンしか食べなかった。寝起きにペットボトルの水を飲み、塩を舐め、パンをかじると涙が流れた。由衣が生きていた世界で、由衣のことを思い出しながら、残された自分はこれからも生きていく。ということが怖くてたまらなかった。由衣との全てが過去になったのに、太陽が昇ると、カーテン越しにシーツが照らされることの意味が分からなかった。今度目覚めたら僕は魚に生まれ変わっているような気がした。それでもかまわないと思った。
何日目かの夜が明けると朝日が強く差し、カサカサのまぶたをあたためた。僕は、もう一度由衣に抱きしめて欲しいと、子供のようにわめいていた。そんな感情が強くなるほど、ベルトコンベアの上にいるようだった。僕は由衣が生きていた時に、僕の頭を支配していたメロディを思い出す。
「ダンダラ、ランランラン~」
僕は柵の中を歩き続けるおもちゃの動物のようになっていった。昨日と今日と明日の区別がなく、ずっとメロディが鳴っていた。コンビニで買ったウイスキーを飲んで眠り、明け方目を覚まして、もう一度寝ると、実家の住宅街で濡れた縁石を数える夢を見た。

それから何日かして、母さんがアパートに来た。由衣の葬式は家族だけで行われたこと。由衣の家族は僕が由衣の彼氏だったことも知らなかったことなど、色々と教えてくれた。
僕は「そうなんだ……」と返事をしたかもしれない。会話のできない僕を布団に残したまま、母さんは一つしかないガスコンロで味噌汁を作り、リンゴの皮を剥き、フライパンで鮭を焼いた。
 焼けていく鮭の皮の色と、劇場で見た由衣の髪の色が重なり、僕は吐きそうになった。
「やめてくれ!」僕は叫んだ。母さんは泣いていた。
「誰にも助けてもらえないまま由衣は死んで、もう灰になったんだ。あんまりじゃないか」
 皮の焼ける匂いの向こうに、手を伸ばせば由衣がいるような気がした。僕は自分の出した大声で頭が痛くなり、耳の奥から涙のようなものが流れてきた。
「ごめん、りんごしか食べれない」
「うん」
母さんが帰って布団に入ると、水たまりのように冷たかった。いつまで経っても冷たいままで、眠りながらはっきりと起きているような、由衣の記憶が僕に何かを語りかけようとしているようだった。寮に行った時の由衣との会話の断片が頭の中で震えている。
――宏哉くん、来てくれてありがとう――
 記憶を遡るほど、由衣は僕と接触しないように努めていたように思えた。由衣は僕がこれ以上由衣を好きにならないようにピアノを弾いていたのかもしれない。由衣は僕に何を求めていたのだろう。僕に悲しまれず死ぬことだったのだろうか。由衣は具体的なメッセージをくれなかった。あの時に、あのラインを見て僕がどうすべきだったのか、今思い出してもできることはなかったと思う。由衣が僕に何も言わなかったことは、由衣自身が意図的にしていたのではないかという予想が、僕の中で確信に変わりつつあった。


   4

僕は入学して早々に大学を休学し、アパートで暮らした。由衣との思い出がない茗荷谷の街には暖かい空気が漂っていて、大学の近くには広い公園があり、春の風が吹いていた。桜の花はとっくに散り、若葉をたくさんつけていた。僕の胸は空のペットボトルのようで、太陽の光がそのまま中に入ってきそうな気がした。食欲が沸き始めていたので、僕は休学している大学の中華食堂に行って、四百八十円の皿うどんを食べた。あんの塩気や乾いた麺を美味しく感じることができた。具の中に、豚肉や小さなあさりやエビが入っていて、うずら卵も一つだけ入っていた。それを口に入れて噛むと、中が冷たかった。たったそれだけで、由衣の亡骸を想像してしまった。舌を噛んで涙が出ていることにしようと思ったが、食べ残したままトイレの個室に行って吐いた。
そのあとは銭湯へ行った。お湯が池のように見えたが、ここで泣いたとしても周りには分からないだろうと思い、由衣を思うことができた。人がいる場所で由衣を思うと、この世界と僕と由衣は繋がって「いる」と感じられた。脱衣所で瓶入りの牛乳を飲むとちゃんと味がしたが、暗くなってアパートに帰ると寂しさが押し寄せて、僕は恵理さんにラインを送った。
「お久しぶりです。訳あって、早々に大学を休学していますが、東京に住んでいます。今度お茶でもしませんか?」と、送信すると翌日の夜に返事が来て、僕と恵理さんは再び会うことになった。
この前と同じように新宿駅で待ち合わせると、僕と恵理さんは新宿御苑に向かって歩いた。恵理さんは薄黄色のコートにスニーカーを履いていて、いつもタッセル付きのローファーを履いていた由衣よりも少し背が高かった。由衣の話をしようかと思ったが、僕はこの後恵理さんをホテルに連れて行くことしか頭になかったので、その話はしないでいた。それでも、僕の様子がおかしいことに恵理さんは気付いたようで、御苑に着くまで何も話さなかった。僕が、
「どうして親しくなると、静かになっていくんですか?」と言うと、
「そうねぇ、何も考えないでいいからじゃないの」恵理さんは他人事のような声で言った。
「静かになったと思ったら、人は急にいなくなる。恵理さんもそうなるんですか?」
「弱いわねぇ」と恵理さんは言った。その通りだと思った。由衣の話をしていないのに、ほとんどしたような気持ちだった。この時点で僕の計画は破綻したと思った。
「彼女、何かあったの?」
「先月、亡くなりました」
「そっか」と言い恵理さんは黙った。そこから先へ続く言葉を探しているようでも、待っているようでもなかった。由衣のように吸い込んでいく力も感じなかった。その理由は考えなくても分かった。僕と恵理さんは他人で、僕は恵理さんを好きではない。それなのに手を伸ばして、恵理さんの手の温かさを調べたくなった。ただ単に、ということにして何も言わずに手を握ろうとしたら、ばちんと弾かれた。
「頼りないのね」
由衣みたいに、言葉が続くのかと思ったがそれだけだった。恵理さんは立ち止まってじっと僕を見ていた。僕は目を合わせず、由衣のことを考えていた。新宿御苑の入り口に着く前に恵理さんと別れた。
それから僕は一人で歩き続けた。ぐるぐると北か南かも分からないまま歩いた。もう疲れて、電車で帰ろうと思い新宿三丁目に行くと、交差点に伊勢丹があった。僕は「あぁ」と声に出し、一階から中に入った。外壁には人を寄せ付けない雰囲気が漂っていたが、中に入ると、僕みたいな若者や外国人の観光客もいた。一階にいる店員の服装は皆黒一色だったが、そこで売られているアクセサリーはそれほど高価なものではなかった。僕は横長のショーケースの中に、由衣に似合いそうな指輪を探していた。
ショーケースに入った指輪はどれも綺麗だったが、これはと思うものを見つけた。三万六千九百円だった。僕はTシャツに綿のズボンという格好だったが、店員は丁寧に接客してくれた。会計が終わると、歩いて茗荷谷まで帰った。
家に帰って箱から出した指輪を見ていると夜になっていた。指輪をつけてピアノを弾く由衣の姿が浮かんで涙が出た。が、これは悲しい涙ではないと思った。これからの涙はどれくらい僕が由衣を好きでいるのかを示すものに変わっていくような気がした。

僕は、火葬が終わってから納骨されるまでの日数をスマホで調べた。四十九日までには納骨されるのが一般的だということだった。もうあれから二カ月近く経っているので、母さんに頼んで、由衣の両親の連絡先を教えてもらった。ラインで送るか電話をするか迷ったが、ラインで送ることにした。
由衣と付き合っていた者です。由衣が亡くなったことを友人づてに聞きました。お墓参りをさせて頂きたいのですが、お墓はどこにあるのでしょうか? と送った。すると、丁寧で長い返事が来て、お墓の住所と位置を教えてくれた。納骨ももう済んでいるということだった。

銀行でお金を降ろし、電車に乗って由衣のお墓へ行った。栗原家之墓と彫られた立派なお墓があった。墓石の前に階段が二段ほどあり、仏花の間にチョコレートの缶やビニールに入った寄せ書きが山のように置かれていた。線香もさっき消えたばかりのようだった。桶に水をくみ、柄杓で墓石に水をかけると、水をはじくようにとろとろと下へ流れた。ずっと背筋が震えていた。手を合わせて、目を閉じるとワンピースを着た由衣が目の前にいるような気がした。僕の体が地面から浮き、由衣の体を抱きしめているような心地がした。そんな時間が数秒ほど続き、山奥からやってきたカラスの鳴き声で目を開けた。僕は唇を噛み、墓石の上に指輪を置いた。すると、僕の口から「さようなら」と声が出た。自分の声ではないような響きだったが、それは確かに僕の口から出た声だった。

大学を卒業して数年が経った今でも由衣のことを思っているが、その記憶は年々薄れてきている。それでいいと思っている。由衣はきっと僕に悲しまれないことを望んでいる。僕は反対側を担当しなければいけないのだから、いつまでも悲しみ続ける訳にはいかない。

置き去られた着ぐるみ

置き去られた着ぐるみ

  • 小説
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更新日
登録日
2021-09-30

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