10月の巡業サナトリウム
9/29 0.開幕準備 (館長)
あれ、と級友が足を止めた。
駅前広場に見慣れない建物があるのだ。大きさは小さめの小売店ひとつほどか。蔦の這う煉瓦の壁を模した外装に、木製の屋根を乗せていた。絵本で見かけそうな外観であるが、ずいぶん暗い塗装で彩られていて、さながら旅人が森で迷い込む魔女の家である。
登校の時はトラックが数台止まるばかりだった。ずいぶん出来上がったね、と友人同士顔を見合わせて、興味の有無を探り合う。小屋がけはすでに終わり、今は一台残ったトラックから小道具の類を運び込んでいるらしい。その小道具もまたあからさまにおどろおどろしく、何巻もの鎖と血塗れの……そういった塗装を施された……人形などまで運ばれていく。
映画などのタイアップイベントだろうか。劇中の世界観を共有したショップやカフェを展開する事があるのだと、けれど腑に落ちない様子で友人が言った。
「気になんの?」
そこへ、すぐ後ろから声がかかった。
現れたのは長躯の青年である。すでに衣装に着替えているのか、普段着にしては乱れて薄汚れた寝巻きをつけて、何ヶ月もひどい洗い方をしないとならないような傷んだ蓬髪を揺らしていた。胸元には彼に似た……けれど清潔な……人形を抱え、落ち窪んだ眼窩の奥で青い目ばかりをぎらぎらとさせている。
「俺、ユージーン。」
今日はアレのお手伝い、と青年が指をさす。
なるほど片手にはチラシの束を抱えていて、一部ずつ差し出しながらこう言うのである。
「サナトリウム・ホラーハウス。お化け屋敷だよ。色んなところを回ってやってんだ。」
曰く、英国全土を巡る巡業お化け屋敷。
サナトリウム・エンターテイメント社が映画製作の技術をフル投入するアトラクションが売りで……とまで言って青年が渋面で黙り込む。
「ごめん、多分YRとかマップがどうとかあるんだけど……。」
忘れちゃった、と声を落としたその背後、学生二人の視線の先に男が立った。
「なら、私がお伝えしよう。」
無声映画で見たような古風な顔立ち、スーツに身を包んだ細身の壮年男性。寝巻きの青年より少し背が低いものの、校長先生に似た貫禄のある人物である。
「そもそも我が社は映画会社でね、お化け屋敷を作るにしてもメイクや音響などを使えるから、格段に怖い……というのを目指してる。ホラー映画の主人公にされるお化け屋敷とでも言おうか。」
VRだのプロジェクションマッピングだのはいいのさ、建前だよ、と付け加えて、彼は小屋を指して言葉を続ける。ここだとね。
「"灯りの家のバグベア"、それから"傀儡作りの魔女"。その二人と戦える。」
制限時間内に鍵を探して家を出る、けれど、途中で彼らに捕まらないよう逃げ隠れしなければならない。仕掛けもあるし、二人とも並みの追手じゃないから苦戦するはず。そこまで言いかけて、男が口籠る。
やった方が早いな、と辺りを見回した。
「もし良ければだが。」
小屋でなく広場で、スリルだけでも体験しないか。その提案に友人が頷く。もう片方の学生もまた、引きずられるようにして了承したようだった。嬉しげに男と青年が笑う。やろう!と声を上げた青年を、けれど男が制した。君は安全装置が無いと駄目。
「ここの二人もまだ来てないからね。ほかに……ああ、おうい!ショロ!」
少し離れた場所で振り向くのは、トレンチコートを着た無毛の獣だった。そこらの男性より大柄なそれが、二足歩行で直立しているのだ。スフィンクス種の猫に似た……というには鼻先の長い、狼に人の皮を移植したような異形が遠吠えを返す。
「彼は二駅先でホラーハウスをやることになってる。保護街区を使わせてもらえることになってね、狼男に追われながら文化財の中を駆け抜けることができるわけだ。」
後ろ足のみの二足歩行で駆け寄る狼男が、青年より高い……自動販売機並みの体躯で男に並ぶ。客ですか、と唸れば、男が肯いた。
「ここで一戦やってくれないかい。何と対峙するか、見たほうが早いだろう。」
断るわけにはいかないでしょうが……。狼男が学生を見下ろす。こんなヒヨコじゃあ、なあ。鼻で笑われて、友人が奮起する。着ぐるみ相手で負けるわけない。
楽しげに二人の顔を見て、男が広場の並木を見回した。そうして五人から一番近い木と、ここから五十メートルほど先の噴水を指し示す。
「この木から噴水まで、学生諸君がたどり着けたら勝ちにしよう。制限時間は二分。辿り着けなかったり、ショロ……彼が君らを二人まとめて捕まえたら、その時はショロの勝ちだ。」
聞いて、学生たちの肩の力が抜けた。単純な徒競走じゃないかと笑って、そんなものかと位置につく。いつでも、と鞄を木の横に置いた二人の向かい、三メートルほど先の別の木の下に狼男も歩を進めた。トレンチコートの前を閉め、ベルトを巻く。狼の指で器用にやってのけるものだと見入る二人の前で、狼男が四つ足をついた。
「それから、ショロは三秒待つこと。」
学生諸君が駆け出してから三秒だよ、と言い添えられて、学生達が顔を見合わせて笑う。対する狼男はといえば、やはり鼻で笑って
「五秒だって構わねえや。」
と言うのである。くぐもったそれが唸り声でなく笑いと分かると、学生達が彼を睨んだ。
その様子を満足げに見回して、男が準備の是非を訊く。双方が頷いたのを確かめて、声がかかった。
「始め!」
二人が駆け出した。片割れのほうが抜きん出て、三歩分ほど先をゆく。
「いち!」
背後で青年の声が聞こえる。二人は並木同士間隔ひとつを駆け抜けた。
「に!」
四本目の並木を過ぎる。学生の片割れはさらにもう一つ先の木を過ぎていた。
「さん!」
片割れが並木道の半ばを過ぎる。友人の方が速くとも構わない、自分だって着ぐるみに捕まるわけがないのだから。そう思って振り返る。その背後、人の手ならば届く距離から獣の荒い息が掛かった。
「五秒で良かったのになあ。」
振り向けば眼前で顎が開いた。思わず平衡を崩し、横ざまに脚が滑る。そのすぐ上を飛び抜いて、トレンチコートの狼が友人を追った。
へたり込んだ体で目のみを動かす。すでに並木の三分のニを過ぎた友人は、立ち塞がった狼のせいで足を止めていた。
人の瞬発力で獣に敵うはずがない。これから一人駆け出すなら、否、一人で立ち止まったなら捕まるのは直ぐだろう。
転んだ学生の方も後を追い、進退窮まった友人に体を並べた。
狼男が姿勢を低くする。すぐにでも飛びかかれる体勢で、ぐふぐふと唸るのに似た笑い声を上げた。
「どっちのヒヨコがいいだろなあ。ん?こちらはしっかり赤身があるようだし、そっちも柔らかそうな肉付きじゃねえか。
どちらにし、よ、う、か、」
なァ!
狼男の咆哮に身が竦む。少なからずの通行人もそれを聞きつけ、並木道の周りに集まりだした。寝間着の青年を筆頭に、広告配りの異形たちがそれをまとめる。並木より少し離れた場所から覗く視線に、いい広告にされたと思うところも少しはあった。
けれど、それよりも。
「おいヒヨコ。」
狼男が顔を寄せる。どっちがいい?と問うのは、友人を売るか自分を差し出すかを訊いているのだろう。友人と目配せを交わし、自分が囮になると視線に込める。友人の方が脚が速いのだ。ここで一瞬でも足留めできれば、そう思って上げた声が被る。
「自分が!」
「こっちが!」
互いに意味を取り違えていたらしい。顔を見合わせれば、狼男が笑った。そういうのいいな、大嫌いだよ、と舌なめずりを一つ。その時、後ろから男が声をかける。
「残り三十秒!」
二人が焦る。狼男が距離を詰める。一跳びもあれば、二人を一、二で捕まえられるまであと一歩程まで近付いた。かたわれもそう思ったのだろう。俊足が石畳を蹴る。遅れてもう一人も駆け出して、けれど。
「焦るよなあ。」
狼男の横を通り過ぎる、その時、彼が立ち上がったのだ。二足歩行で地につけた脚を前に蹴り、軽やかに後退。後ろ歩きながら二人の先をゆき、宙に浮かせたニ肢を使って、片方で先をゆく友人を、そして駆け出した勢いのまま飛び込んだもう一人を受け止めたのである。
遠吠えでもって、狼男の勝利が知れた。
「諸君、お見事!」
並木道を来る男が両手を掲げ、頭上で手を叩く。観衆も合わせて拍手を送るものだから、負けた身でも誇らしくなってしまう。
「将来有望なヒヨコだとさ。」
ちょっと噛み合わねえけどな、と憎らしく笑う狼男の手が離れる。代わりに、群集の視線に背を向ける……学生たちを庇うようにして対峙した。トレンチコートの内側に前脚を差し込み、取り出したのは二つの円筒。否、巻物のように丸められたチケットである。
「俺のアトラクションは聖メリーズのそばだ。ヨーク駅まで電車で来りゃあいい。あいつも売り子に立つぜ。」
来れたら来いよ、と囁いて、狼男が身を離す。あいつ、というのは寝間着の青年だろう。彼は男とともにそばまで来ていて、おいでね、とはにかんだ。
「諸君、その前に。」
男が咳払いを一つ。まだ見守る観客が残っていると目配せして、カーテンコールを主役に求める。大仰に腰を曲げる狼男につられれば、一礼した主役に拍手が返った。
10/1 1.アトラクション:小さな灯りの家 (バグベア)
手を引かれた先は真っ暗な小部屋だった。
扉を閉めれば、雷を模した照明が瞬くのを除き、全くの闇が広がっている。
部屋の広さは3メートル四方程度だろう。入ってきた扉から向かって右に誘導され、腰掛けるよう促される。
長椅子、というよりは寝椅子と言うべきか。柔らかなビロウドのクッションを備えたそれに腰掛ければ下肢が沈む。そこへ、じゃらりと音がした。
背もたれの辺りである。誘導員が取り出したのは鎖のついた手枷であった。これを客人の右手に嵌めると、誘導員は稲光の中で一礼し、足早に部屋を去っていく。
不定期に瞬く光のせいで、闇に中々目が慣れない。それでも数度の雷を経て、小部屋の様子は把握できた。
小さい部屋だ。客人の座る寝椅子の他には、人が二人立って入れるくらいのクローゼットがあるばかりである。寝椅子の正面には入ってきたのと別の扉があり、クローゼットは寝椅子の対角線上の壁際にあった。
観察するうち、光だけだった雷に加え、雷鳴と雨音のBGMが流れ始める。トタン屋根を叩くような激しい音だ。
雨音に聞き入り始めて間も無く、扉が勢いよく開いた。体当たりするように転がり込んだのは年若い女性である。扉の外は廊下だろうか。差し込む逆光の中、女性は客人を見て動きを止めた。
「逃げて、ここは…!」
その背を棍棒が打ち据える。
倒れる女性の背後に立つのは長駆の男だった。廊下の照明の真下に立つから、彫りの深い顔の他は明かりに浮かんでよく見える。使い込まれて照りの浮いた革のエプロンを着け、赤茶けたシャツの袖や襟元からは筋肉質な太い腕や首が伸びていた。全体的に四角い印象を受ける、格闘家のような筋肉質な体躯の持ち主だ。
無造作な前髪と蓬髪が顔まわりを覆うから、その目線がどこを向いているかは分からない。けれど、その顔はいっとき客人を見下ろしたばかりで、床に倒れた女性へすぐ向き直った。そうして軽々と彼女を抱え、樽でも抱えるように抱いて持ち去っていく。
その彼女の手が垂れる。重みに従って触れる拳が緩み、客人の元へ何かを投げた。それはフローリングで跳ね、涼しげな音とともに寝椅子の下に転がり込む。雷鳴を受けて光ったものは、もしかして鍵ではなかったか。
『手枷を外し、この家から脱出してください。』
アナウンスが流れた。小部屋の壁の一部が照らされ、制限時間を示す電光掲示板が浮かぶ。
残り、7分。
客人は手枷の鎖をめいっぱい伸ばし、床の上に膝をついた。手探りで寝椅子と床の隙間を探れば、すぐに小指ほどの無骨な鍵に手が届く。樹脂製だろうか。装飾らしい装飾ではないが、なめらかな凹凸を備えた柄の白い鍵だ。手早く手枷を外し、客人は男を追うようにして小部屋を出る。
先程とは変わり、廊下の明かりは落とされていた。光源は不定期に瞬く稲光のみ。一歩踏み出すたびに軋む床板に怯えながら、客人は廊下の壁に手をついて進む。
そう歩いたわけではない。十歩もいかないうちに壁が凹み、右手が壁紙とは異なる冷たさに触れた。雷光に浮かんだのは木製のドアであるが、鍵がかかっているらしく、ノブを回そうにも硬い音を立てて行き止まる。もしかして手枷の鍵が、と思い立つが、鍵穴そのものが合わないようだった。
他の部屋を見るか、それとも先に出口を探るか。立ち止まった客人の耳に、床板の軋む音が届いた。もちろん自身は動いていない。それなら、あの男に違いなかった。
"灯りの家のバグベア"
先程の女性を捕らえた男。先程は呆気にとられるばかりだったが、このホラーハウスのポスターに描かれていた殺人鬼を今は思い出す。
時間制限は7分だが、それは見つからなければの話。係員の説明では、捕まっても『敗者復活戦』こと救済措置があるようだったが、それでも難易度は上がるだろう。
今の扉の向かいの壁に手を伸ばし、どこか避難場所は無いかと探す。
けれど掌は壁紙を擦るばかりで、足音はゆっくりと先の曲がり角ほどへ近づいてきていた。
客人は先程の部屋への撤退を考える。クローゼットに隠れれば、と思いついた時、ちょうど掌が空を切った。扉がある。しかも、鍵はかかっていない。急いで、けれど静かにドアを開け、隙間に滑り込む。
室内だけは煌々と灯りが灯っていた。光が漏れないよう急いで扉を閉め、室内を見回す。
憎らしいことに隠れ場所らしい場所のない部屋だった。部屋の大きさは最初の部屋ほど。書斎らしく、入口から向かって右の壁際には本棚が、左の壁際には書物机が設られている。入り口のすぐ右ではグリズリーの大きな剥製がとぼけた仁王立ちをしているが、影に身を隠すには心許ないだろう。扉の正面の壁にはカーテンが下がっているが、裏に隠れる余裕はあるだろうか。そもそも、明るいせいで入口からは部屋全体が見渡せたし、先の部屋のクローゼットのように、人間一人収まるほどの戸棚もない。
足音はさらに近付く。
客人の隠れる部屋を通り過ぎ、最初の部屋を開ける音がした。続いて、緩やかだった足音が荒くなる。獲物の不在が知れたのだ。椅子のそば、そして室内……おそらくクローゼット……を探し回る音を壁越しに聞く。確認はものの数秒だった。焦って部屋を出れば鉢合わせただろう。
どすどすと荒い足取りで部屋を出、男は客人を探し始めたようだった。鍵の部屋のノブを回す音、廊下を来る音を経て、明るい部屋のドアが開く。
客人は隠れ場所から気配を窺う。顔を出せば……否、身じろぎ一つで居場所が知れるような気がしたのだ。まして何もないこの部屋なら、尚更。
男が室内を見渡す。客人同様、隠れ場所など無いと判断したのか、彼はすぐ部屋を出た。ドアが閉まるのを確認し、何秒か待ってから客人が顔を出す。もう何分過ぎただろうか。焦って開けたドアの向こうに、壁にもたれたまま待つ男がいた。
「居るだろうと思った。」
脇腹を両手で掴まれる。慌てた時にはもう鳥獣のように担ぎあげられていて、大股で明るい部屋から遠ざけられる。廊下を曲がり、玄関らしいガラス戸の廊下を過ぎ、再び廊下を曲がる。一つ、二つ扉を過ぎて、目的地は廊下の突き当たりだった。
白色灯の明るい部屋だ。血飛沫に汚れたタイルばりの床、大小様々刃物が掛けられた壁、屠殺場で見るような鉤も天井から下がっている。吊られた獣の死体に混ざり、人の足や腕なども揺れていた。入り口横の壁には戸棚がしつらえられて、くすんだガラス戸の向こうに箱型の影が見えた。
解体室、という言葉が頭に浮かぶ。けれど、血錆の浮いた刃物や器具はいかにも切れ味が悪そうで、解体されるなら死後にやってほしいと頭によぎった。
客人はその中央、検死台のような場所に降ろされる。
細身の熊に似た男の前とあれば、拘束具が無くとも逃げられるとは思えなかった。客人が大人しく様子を窺うのをいいことに、男がその片腕を取る。医師の触診に似て、けれど、畜産動物の骨や肉のつき具合を測られているように思えた。
「スパイスに漬けるか、燻製か。」
二の腕を握ったまま男が言った。訊ねられていると知るのに一拍を経て、なんとか客人が調理方法を指定する。男は鷹揚に頷いて、背を向けた。部屋を出て行くのは調理器具を取りに行ったということか。獲物に逃げる気がないと思ったらしく、扉の鍵は閉めずに出て行く。
『捕縛ペナルティにより制限時間を短縮します。残り制限時間、1分です。』
『敗者復活戦』に入ったのだ。照明の色が赤く変わり、壁にはタイマーが照射された。残り五十秒はすぐに切って、けれど客人は動けない。もし、また、外で待っていたなら。
それに身一つで外に出て、玄関にも鍵がかかっていたとしたら。
客人は部屋を探るのを選んだ。室内にいれば、万が一男が帰ってきても、見物のため台から降りたと言い訳できる。三十秒を切って
、それでももし何も見つからなければ、その時は玄関に賭けてみればいい。
そう思って見回した壁に、鍵らしきものは見当たらない。小さなものでも嬰児の腕ほど、大きなものならA4のファイルほどの刃渡りの、錐、ナイフ、鉈、鋸と、刃物ばかり。ならばと開けた戸棚はといえば、種種雑多な頭骨が納められていた。前歯の鋭い齧歯類のもの、牙を抜かれた肉食獣のもの、そしてもちろん、人のものも。いくつかは彫刻らしき模様で彩られていて、加工途中のものだと知れた。半ば諦めて開けた引き出しも同様である。骨の長さや太さで分けられ、きれいに清められたものが収まっていた。こちらは模様をつけるというより、削られ、あるいは磨かれて、スプーンや漏斗のかたちに加工されかけたものの方が多い。
探す場所はもう無い。タイマーの時間も三十秒を切っていた。けれど往生際悪く周りを見回して、天井から下がる鉤と獲物とを注視する、その先。ちょうど解体台の上、座ったのより少し奥から下がる兎の腹に、骨と異なる白さを見てとった。
台に駆け登るようにして高さを合わせ、背を向けて吊られた兎を下ろす。死後硬直の冷たさはない……こんなところで見つけたのでなく、しかも頭に穴が空いて腹が大きく裂けていなければ持ち帰りたいような……ふわふわのぬいぐるみを外した場所に、最初の部屋のそれより大きな鍵が下がっていた。とりあえず鉤に鍵を吊るして、そのまま忘れて兎を引っ掛けてしまった。そんな置き方である。
鍵は大人の手の指先から付け根ほどまでといえば言いか、あるいは大人の前腕を半ばで折って作ったような、ただ置いてあったなら相当目立つ大きさである。急いで台から降りながらも、鍵の白さの由来まで考えてしまった客人が、戸棚の中身を見たせいだと眉をひそめた。
そのままの勢いで、行き合ったらその時だと部屋を飛び出す。鍵は手にある。廊下の最初の角までで行きあわなければ、先んじて玄関に駆け寄る算段があった。
引き開けた扉が軋むより先にと、客人の靴が廊下を蹴る。かなり大きな音が邸内にこだまして、少し遠くでもドアの開く音がした。男が来ている。緩やかに、けれどきっと大股で廊下の半ばを過ぎる頃か。玄関にあと一歩というところで、男が向かいの廊下に現れた。客人が焦って鍵を滑らせ、取り落とす。
落ちた鍵を見て、熊めいた目つきが険しく細まった。一瞬止まった足が、鷹揚ながら、歩幅を広げて玄関に迫る。焦りを抑えて向けた鍵は穴に合い、滑らかに回った。
けれど、ドアノブを掴んだ客人の目の端。
錆びた大鉈を振りかぶる男の姿が、見えた。
10/2 2.アトラクション:追走 (ケルピー、妖精騎士)
水馬、と言われたのが腑に落ちた。
ぶるると鼻を鳴らす黒馬は全身に湿り気を帯びていて、濡れたようなたてがみはといえば、細い水草と藻の絡まりだ。耳に見えるのは尖った鰭で、薄い部分が風を受けては不規則にきらめく。
長いたてがみの隙間に覗く黒い目などは真珠のようで、あるいは月明かりを受けて赤黒く輝くさまならば、濃く固まった琥珀にも見えようか。見惚れれば、蹄と鱗を備えた脚が土を掻いた。
「僕、見た目が良いだけじゃないよ。」
年若い青年、あるいは大人びた少年ともとれる声色で水馬が言う。首を下げ、上目遣いで客人を見上げては、はやく乗るようにと急かす。
濡れた馬身でも、鞍は危なげなく固定されていた。喋る水馬のために轡は付けないからだろう、鞍には半円状の枠……ハンドルが備わっている。傍らに置かれた台座からかれに跨がれば、騎手が姿勢を整えるのを待って歩き出した。
水馬とともに周るルートは既に誘導員から聞いていた。どちらになるかはランダムだが、一つは自然史博物館を通るルート、もう一つは庭園を抜けるルートで、この公園の外周を一回りするのである。かつての城壁と見張り塔の名残りが残る丘の、約半分をめぐることになるだろうか。
「良い陽気だね。昼過ぎ、小雨が降ったのが良かったかな。」
騎手を揺らしながら水馬が言った。早足と呼ばれる歩法で行くかれは、それでも自転車より速く、徐行する車くらいの勢いで風を切る。同意を返せば、おかげで自分も調子が良いのだと水馬が嘶いた。
「雨といえばさ。」
通りかかった城壁に馬首が向く。雨樋のガーゴイルが少なくないかと訊いて、銃眼の左だけを這う姿を見上げた。客人が思い出したのは、経年劣化で修復中の石像だ。修復作業の手技も展示の一つとして、博物館内に安置されているのではなかったか。入院中だと伝えれば、お大事にと鼻を鳴らした。続けて、それにしても、と水馬が振り返る。
「きみ、よく知ってるね。地元の子?」
小学校の遠足から来ていると返す。それに、少ない小遣いをやりくりする子どもの身では、学生無料の公園で集まるのが一番容易い。先程の見張り塔も……夕方以降は防犯のため入れないが……飽きるほど登っている。常緑樹の林の空中歩道での度胸試しや、遠足でリスに弁当を漁られた話をすれば、嘶きめいた声で水馬が大笑いした。
その声に、別の馬の嘶きが被る。
水馬のそれより低い、不吉な、不安になる声だ。鳥獣の断末魔を幾重にも混ぜたようで、水馬とは似ても似つかない。
水馬の足が止まる。一歩、二本と横へ。馬首を背後に向けられるぶんだけ脚を動かし、振り向いた。客人もそれに動きを合わせる。
二人がいるのは丘を少し降りた窪地だ。それより百メートルほど遠く、小高い場所にその姿があった。月光で輝く連銭葦毛の灰色の馬身、それに跨る黒い鎧の騎手。揺れる赤い外套は、あるべき首の無いのっぺりとした肩に留められていた。
片手には騎上から地面に引き摺るほどの剣を下げ、もう片手は小脇に添えている……否、自らの首を抱えている。
その騎手の身体が揺れた。拍車をかけたのだ。白馬が丘を駆け降り始める。速力を上げるその背で、騎手が大剣を構えた。
「逃げるよ!」
ハンドルでもたてがみでも、とにかく掴むようにと水馬が叫ぶ。その通りに握りしめた途端、かれが走り出した。みるみるうちに速さを上げ、そよ風が強風になる。馬首を風除けにしたとき、背後の蹄音が近付いているのを知った。近付いているのを知らせれば、分かってる!と水馬も悲鳴を上げる。水馬といえばどの品種のものより優れた騎馬だ。草地のぬかるみに脚を取られることも、まるで素人な騎手の影響を受けることもない。けれど、追手もまた駿馬であり、何より騎手が優れていた。みるみるうちに馬首が並び、騎士の抱えた首が高らかに笑う。夜に歩くなと聞かなかったか?可哀想に。
「首を貰うぞ!」
剣が持ち上がる。前から後ろへ横薙ぎに払われたそれを、ケルピーが急減速して躱す。客人の髪一筋上を剣先が掠った。
先を行く首無し騎士の後ろを水馬が駆ける。減速した水馬とはみるみるうちに距離が開くが、ここは見晴らしの良い草原だ。先程のように避けながらでなければ先へ進めない。戻ろうにも後ろは上り坂で、逃げ切れるとは思えなかった。騎士も距離が離れたのに気付いて、馬首を翻す。脚を止めた水馬を窺ってか、騎士もその場に留まった。
「ねえ、君。」
水馬が前を向いたまま囁く。
「どこか抜け道を知らない?できるだけ細くて、入り組んだ道がいい。あいつを撒くんだ。」
記憶を辿れば、いくつか心当たりがあった。植木の迷路を有する庭園。遊歩道の整備された常緑樹の林。そして桟敷状の道が入り組んだ、大きな池を中心とするビオトープ。
一番近いのはビオトープだ。ビオトープを経て林を抜ければ、スタート地点へぐるりと戻ることができる。いいね、と水馬が笑った。
「もう一度だけ、あいつを避けるよ。」
掴まってね、と吼えるや、水馬が大きく上体を持ち上げた。鬨の声めいた嘶きを上げ、大きく地を蹴る。正面から挑む姿を認めて、騎士もまた駆け出した。大剣を槍のように構え、低く下げた首を突き落とそうと狙っている。六馬身、五馬身と距離が縮まり、大剣を握る腕が弓矢のごとく引き絞られた。次の瞬間、剣が突き出されるより早く水馬の脚が地を蹴り上げた。
ただ走る時より力強く、横ではなく縦……上に向かう。馬術競技のハードル越えのようにして、剣を、首無し騎士を飛び越えたのだ。地上を見下ろして目を見開く客人を、抱えられた騎士の首が目を丸くして見上げていた。
その背後へ着地した水馬は、けれど減速することなく丘を駆け出していく。
「ビオトープは!?」
「左の道です!」
客人の案内に沿って馬首を向ける。その背後で、首無し騎士もまた自身の葦毛に拍車をかけていた。
ビオトープといえど、二人が行くのは桟敷状の橋の上だ。池を突っ切るようにしてくじ引きのような分かれ道をいくつも備えた橋が掛かっていて、正しい道を行けば陸地を行くより早く林にたどり着ける。けれど。
「どこから来てる!?」
早くも蹄の音が聞こえ始めていた。池の半ばを行く二人に、草地を蹴る音が届いている。
振り向いた客人の目が、淵のそばを駆けてくる姿を捉えた。けれど池はその周りにいくつも湿地や水溜りを備えている。それに沿って進めばかなりの回り道になるから、おそらくここで距離が稼げる筈だ。
そう伝えて、水馬の足取りがいくらか軽やかになる。勝ち誇るように客人がもう一度振り向いて、けれど、その顔が青ざめる。
連銭葦毛が宙に躍っていた。池の端から一番近い橋へ跳んだのだ。木の橋を蹴り上げる重い音は水馬にも届いて、何!?と悲鳴が上がる。首無し騎士が来た、飛び移ったのだ、と客人が上擦った声を上げた。呆れた、と水馬が嘶く。あの荒くれ者!
「よっぽど首が欲しいんだね。いいとも、僕らも奴の真似をしてやろう!」
くじ引きのように橋が繋がる。橋を一つ、二つ挟んで駆ける首無し騎士を見やって、水馬が客人に訊いた。僕の体一つ分跳べるとしたら、どこに進めばいいと思う?
こればかりは客人もたじろいだ。ビオトープでの鬼ごっこといえば定番の遊びだった。けれど、ひどく前の話だ。今だと迷うことすらある。けれど。
「ねえ、どっち!」
水馬の声に、方向を示す。身体が覚えていてくれればと直感的に言った方向は、果たして陸地へ、ひいては林への近道になった。そのまま林の遊歩道へ駆け込み、木々の間に姿を隠す。やったじゃないか!と水馬が賞賛の声を上げた。客人も水馬の首を叩いて返し、遊歩道の大通りを駆けていく。その耳に蹄の音が、やはり、また届いた。しつこいやつ!と水馬が鼻で笑う。
「でも、このまま行けば大丈夫。そうでしょ?」
遠く、常緑林の空中回廊が見える。木製の高い橋になっているそれを過ぎれば、間も無くスタート地点へ辿り着けるだろう。蹄の音が右の木立から聞こえてくる。並走されていると気付いて、客人の背筋がなぜか凍った。大通りをこのまま行くことが恐ろしくなる。そのうち、騎士の蹄の音がすこし前へと進んだ気がした。あっちの小道から来れなくなったんだ、と水馬が笑う。僕と違って案内が無いからね。
「でしょ?」
笑いかける水馬に、けれど客人が意を唱えた。空中回廊はもう近い。夜闇に覆われたその上に、木立とは違う人影が見えた気がする。スピード上げて、と客人が叫んだ。
「上から来る!」
水馬が急加速する。その頭上で回廊が軋んだ。首を捻って見上げた先で、黒い鎧が二人めがけて飛び降りるのが見えた。
水馬が駆け抜けたおかげでタイミングがずれたのだろう。騎士の剣先は二人に届くことなく、水馬の尾を掠めるようにして地面に刺さる。遅れて着地した騎士が悔しげに二人を見送った。
林を駆け出て、距離を取るまでは足が止まらなかった。ゴールの明かりが見えてはじめて、水馬の足取りが早足に戻る。肩の力を抜いた客人が、馬首にしがみつくようにしていた姿勢を戻した。
「すごかったね。」
水馬が荒い息に交えて笑う。満足げに耳……鰓を動かして、人であればスキップでもするかのように軽く跳ねた。
客人からの賞賛をくすぐったげに受け止めながら、ゴールの台座へ送り届ける。ふらつく足取りながら無事に降り立つところまで見届けて、客人のことを誘導員に委ねた。
10/3 3.アトラクション:若き夢想家の菌床 (マッシュルーム)
客人は思わず腕をさすった。
暗さのせいもあってか、空調の効いた部屋の冷気をやけに感じてしまう。それだけではなく、怖気も多分にあるのかもしれない。薄暗いというには余りある、足元も見えない暗闇で、まずは手にしたケミカルライトをパキリと折った。薄黄色の光が放たれ、手の届く範囲くらいは見えるようになる。
研究員に扮した学生誘導員……実際、この研究室の学生ではあるのだが……の説明に従い、ライトを掲げた客人は順路を進み始めた。
一般企業とコラボしているとはいえ、たかが大学の文化祭とは侮れないようだ。薬学、生化学などいくつかの研究室が手を結んで作り上げたお化け屋敷。SFホラーと分かち難い、狂科学者とその被造物をイメージした……そんな謳い文句の通り、白い煙を吹き出すビーカーや青白く発行する実験装置など、わざとらしい、けれど心地良い懐かしさを帯びた雰囲気がある。
客人が進む部屋はといえば、実験室であるらしかった。資料の貼られたホワイトボードや器具・模型の広げられた机で順路が作られている。少し前まで人がいて、実験をしていたような……けれど、それにしては物が乱雑に並べられているような気がした。実験室版メアリ・セレステ号というには、何か、目に見える危機から逃げたような……あるいは制止に向かったような……焦りが見える。
所々に置かれたビーカーやフラスコには、沸騰、発光するものもあった。その近くには照らされたレポートやメモが置かれ、研究員たちの手記として読むことができた。
「細胞の急増殖」「食糧難への対抗策」「遺伝子工学による攻撃性の排除」
SFホラー舞台で見るには不穏すぎる文字を読み取って、このあと登場するだろうモンスターに思いを馳せる。野菜モチーフか、それとも畜産物の合成獣か。細胞増殖というからには、やはりタンパク質……鳥獣かもしれない。
その時、レポートに魅入る客人の傍らを、白い円筒状の塊が駆け抜けた。
大人の膝ほどの体躯だったろうか。スポンジで床を叩くような足音を立て、確かめようにも、机の下を抜けて何処かへ瞬く間に姿を消していた。サイリウムを掲げるが、もうその姿を捉えることはできなかった。
けれど、床には楕円形の濡れた足跡が続いている。
客人がゆっくりとその跡を追う。足音は二足歩行のものだった。円筒形の姿は鳥には見えないが、あるいは、過食部分を増殖させられた鶏やガチョウのような鳥類なのかもしれない。
それとも、と客人が妄想する。ホラーだからそれらしくなんて、倫理をかなぐり捨てた研究を、解剖学や遺伝子工学の知識をもった学生たちが本気で考えたなら。
二足歩行の白い肌の生き物を追う速さが落ちる。反面、おぞましいものに望む好奇心が首をもたげた。
その時、通路の先から悲鳴が聞こえた。悲鳴はほんの一、二秒でうめき声に変わったが、声は細く長く続いた。
客人が反射的に通路を進む。突き進んだその先に、床にうずくまる白衣の人影を見つけた。肩幅からして男性だろうか。獣のような声でえずき、咳き込んでいる。溺れた人が飲み込んだ海水を吐き出そうとする姿に近かった。大丈夫ですか、と声を掛ければ、彼が緩慢に客人の方を向く。
「ぁ、たぇか、いる、ぅて……ぅか。」
誰かいるんですか、と。
腕で頭を庇いながら上体が上がる。手の隙間から、そして手を退かした先に、白い球状の腫瘍で覆われた顔が現れた。客人が息を呑む。
腫瘍ではないのだ。あるものは短い円筒状の柄を備え、その根本からさらに菌糸を伸ばす。単体であれば食品売り場や缶詰で見慣れたそれは、食用の茸……マッシュルームではないだろうか。それらが、目や鼻、口といった粘膜だけでなく、毛穴という毛穴にも菌糸を伸ばし、寄生している。伸ばしかけた腕を引っ込め、客人が悲鳴を上げた。寄生された研究員、マッシュルームの侵食をわずかに逃れたその口元に安堵するような笑みが浮かぶ。
「たすけて!!!」
たすけて、とって、と掴みかかる研究員を躱し、客人は通路の先へとひた走った。暗幕を乱暴にめくり上げ、あるいは潜り抜けて進む。間もなく視界が開けた先に、青い部屋があった。明るさと室内を行き来する人影に、客人の足がもつれて止まる。
おそらく育成用の光源だろう、部屋一面が青いライトで薄暗く照らされた中に、そこここに膨れ上がったマッシュルームの菌床があった。机や壁、実験器具、そして天井。場所を問わず繁茂した姿は、部屋そのものが腫瘍に蝕まれているようだ。そして、やはり。
「だぇか、だれかぁ。」
「たすけぇてぇ。とってぇ。」
人影は、菌床と化した研究員だった。先程の彼より姿は悪化し、肌の見える部分だけでなく、白衣までも茸に蝕まれている……否、それだけではないらしい。
「あああああああ!」
悲鳴とともに奥の通路の研究員が身悶える。折り曲げた背中の菌床まで蠢いて、最も大きく成長した茸が膨れ上がった。茸とはいえ、人の嬰児ほどの大きさのものだ。
茸の傘を頭と捉えるなら、肩にあたる部分と言おうか。その両肩から伸ばした菌糸を腕の代わりに、菌床の中から身体を引き抜く。そのまま軽快に研究員の背を飛び降りて、産まれた異形は奥の通路へ走っていった。
後ずさった客人の背がぶつかる。壁にしては柔らかいそれは人の五指の形をして、敗走しようとする身体を押し留めた。
「あぇを、止ぇてくぁさい。」
囁くのは、顔じゅうを大小の茸で多い、右目だけを露出させた研究員だった。怪物さながらの姿に反し、落ち着いた声で彼女が言い聞かせる。
"あれ"……マッシュルームは水分によって増殖すること。運動能力を手に入れた彼らは、研究室の装置を使って自己増殖を試みていること。装置を止める操作はこの青い部屋にメモを残していること。研究員たちも操作は知っていて、それゆえ真っ先に襲われたこと。
そして、自分は操作が分かるが、それを行える手足ではないこと。
見れば、その手は肉饅頭のような掌があるばかりで、指の代わりに繁茂するのはやはり白い茸である。それも少しの圧力で折れてしまうらしく、客人を受け止めた手からぼろぼろと崩れてかけらが落ちた。
「みぃな、おぁしくさぇた。でも。」
この先の研究員は発狂しているが、穏やかに、加害の意図が無いと伝えれば襲われることはない。
上手く訊いて、と囁いた瞬間、彼女の頭に白い筒が降る。
「あ、あああ……!」
動く、白い茸。巨大なマッシュルームだった。先程の通路の先に消えたのと似た、けれどそれより大きな個体である。身体の中ほどから両脇に伸びた菌糸でもって彼女を蝕もうと、髪の中に伸ばしていく。
かさこそと頭上で音が続く。見れば、白い影がいくつも二人を見下ろしていた。目のないそれらがどちらを狙っているのかは分からない。けれど幸いにしてか、ほとんどは彼女を狙って飛び降り、その体に次々しがみついていく。
「行っぇ、あやく、……早く!」
がむしゃらに腕を振り回しながら、茸に群がられた白衣が暗幕の後ろに消えた。客人が身を翻し、青い部屋へ歩を進める。けれどよたついて徘徊する研究員に話しかけるのは気が引けた。加害の意思がないと伝えれば、とは言われたが、室内のメモから情報を得る方が容易く思えたのだ。彼らは茸に覆われて目が見えないらしい、と仮定して、静かに、そして触れないようにと気をつけながら室内を探る。室内はちょうどローマ数字の"Ⅲ"を縦に二つ並べた形に通路ができていて、徘徊を避けながら机上のメモや器具を探ることができた。
幸い、目的のレポートも迷うことなく見つかった。これもまた、発光するフラスコに照らされるようにして開かれていたのだ。
『細胞増殖炉の操作・起動/終了』
「起動時は電源ケーブルを挿し、ケーブル横の赤い電源ボタンを押します。続いて制御盤の赤いハンドルを倒し、安全装置を外してください。外した状態で、入力盤から19-07と入力。青の入力ボタンを押してから、11と続けて入力を終えます。入力後、操作者ごとにログオンを行なってください。終了時は上記手順を全く逆に行います。」
レポートには『持ち出し可』のシールが貼られている。誘導員曰くミッションに使用するアイテムは場所を動かしていいとのことだから、これを制御室へ持っていけということなのだろう。客人はそれを手に、研究員に気を付けて通路を進む。他にも発光するフラスコは各所にあったが、遠くから眺めたタイトルはやはり『細胞増殖炉の操作』であったから、危険を冒して取りに行くことはしなかった。おそらく、徘徊する研究員を避けてもクリアできるよう、各所に置かれているのだろう。
青い部屋の突き当たり、制御室と銘打たれた看板の下の扉を開ける。中はサイリウムでも手元しか見えないほど暗く、その中で、おそらく"細胞増殖炉"であろう円筒形の水槽がぼんやりとした光を放っていた。
水槽の正面には、人の腰くらいの高さの柱状の装置が置かれている。制御盤であろうそれに向かいかけて、サイリウムで床を照らす。
念のため、と向けた明かりが仇になった。床のそこここも白い菌床が覆い、赤いリノリウムの床全体が膿んだ生き物の表皮のようになっている。おぞましさを堪えながら飛び石のように床の露出部を伝え、客人は改めて制御盤に向かった。
「終了時は上記手順を全く逆に行います。」
レポートの記載通り、客人が制御盤に手を伸ばす。
「操作者ごとにログオンを行なってください。」
こればかりは起動時に行うものと、「スキップ」のボタンで進み、入力盤へ数字と青ボタンの入力を行なった。
「赤いハンドルを倒し、安全装置を外してください。」
逆向きに、と、赤いハンドルを持ち上げ、安全装置を起動する。
「電源ケーブルを挿し、ケーブル横の赤い電源ボタンを押します。」
電源を切り、ケーブルを抜く。
まずは、とボタンを押し込んだ瞬間、薄暗い制御室に白いライトが灯った。けたたましく鳴り始めたアラートに紛れて、背後の扉の鍵が閉まる音が耳に届く。
「無記名アカウントでの増殖炉切電を確認しました。機密保持のため、制御室を隔離します。増殖炉は再起動され、入力済みのミッションを再始動します。」
ライトに反応し、休眠状態だった菌床が蠢き始める。腫瘍に似た白い塊が膨れ上がり、瞬く間に嬰児ほどの茸が育った。大きいものから人の腕じみた菌糸を伸ばし、菌床から体を抜く。よたつく足取りで近付くそれらを横目に、客人が慌ててレポートを見返した。
アカウントなど、そんな操作は書いていなかった。上から下まで読み直し、まさか、と紙を裏返す。果たして、先の部屋では気付かないような水色のペンでもって、手書きの注意が載せられていた。
「『電源操作時の注意』も参照のこと!
追記・ミシェルへ。ID・パスワードは自分のIDカードを使いなさい! アニーより」
肩の力が抜ける。このレポートのみでは足りなかったのだ。手から取り落としたレポートを被って、足元まで来たマッシュルームが客人を見上げた。幼児が見知らぬ大人を見つめるように、成長し、集まってきた他のマッシュルームも一緒に上を向く。えへら、と客人が半笑いを浮かべた。
たすけて。
溢れた悲鳴に合わせて、マッシュルームたちが客人に飛びかかった。
10/4 4.コマーシャル:50ペンスのポップコーン、特殊アラーム付き(キラー・ポップコーン)
ぷんぷん、と珍しい音に吸い寄せられた。
訪問者の視線の先には、遊園地にでもあるようなポップコーンの販売車がある。ガラスのショーケースの中、上から吊られた鉄鍋からポコポコとポップコーンの湧いてくるあれのことだ。販売員がガラス戸を開けてカラメルをまぶすたび、道行く人々が振り返るほど甘い香りがする。
これが街頭にあったのなら、訪問者も一瞥して終えていただろう。けれど販売車が置かれているのは市役所に併設されたカフェテラスで、最近綺麗にリフォームされたとはいえ、ずいぶん珍しい組み合わせと言えた。木目調の床やセピア色の暖かな壁紙、パステルカラーの長机と、カフェテラスの雰囲気には合っている。けれど市庁舎にポップコーンとは。
そういえば、と訪問者が窓に目を遣った。
窓の外には、これまた最近増設された健康センターがある。市民なら安く利用できる運動設備と広間を有する建物で、今日はその広間で催された検診に行ったところだった。朝から何も摂っていないし、昼でも食べて帰ろうか……とカフェに来たことを思い出す。ここのメニューには疎かったが、何もなくとも、とりあえず飲み物は欲しい。そう考えてレジカウンターに並べば、幸いにして軽食メニューは充実していた。
ぽこぽこぽこ、と軽快な音を右耳に、紅茶とホットサンドを注文する。ついでにシャベル一掬いで50ペンスのポップコーンも頼んでしまった。軽食は少し時間がかかるから、と言われたためだ。渡されたトレイには、蒸らし始めた紅茶のマグと、ポップコーンの入った紙コップが乗っている。マグより大きい紙コップ……映画館のドリンクくらいある……にはカラメルがたっぷりかかったポップコーンが山盛りに注がれて、甘く香ばしい香りを漂わせていた。もしかしたら炒めたアーモンドやクルミも入っているかもしれない。思わず見惚れたところへ、カフェの店員が何やらパンフレットと、子どもの拳ほどもあろうかというポップコーンをさらに乗せた。
「もしよければご覧くださいね。庁舎前のテントで催しがあるんです。」
それより拳大のポップコーンが気になってしまう。こちらも紙コップに負けず劣らず良い香りを撒き散らして、兜よろしくカラメルを輝かせている。たった50ペンスのポップコーンに、こんなおまけが付いてくるのか。そもそも何の豆が膨れたらこうなるのか。困惑の目つきを見てとったのか、店員が眦を下げて笑った。
「ブザーみたいなものです。お食事の準備ができたら鳴きますから。」
食べてもいいらしいですよ、とトレイに乗せられ、詳しく聞こうにも次の客の応対が始まってしまう。
鳴れば、の聞き間違いだろう。そう考えて、空いた席に腰を下ろすしかなかった。とりあえずはと開いたパンフレットに目をやりながら、片手間で紙コップのポップコーンに伸ばす。その手を見上げるようにして、ポップコーンが目を開いていた。
思わず身を固くして見つめてしまう。カタツムリめいた黒目がちな目、とはいえ、ポップコーンの膨れた部分が丸く裂けたような様子である。ぱちぱちと瞬きする瞼があるのだから、ゴマやカラメルの塊と見間違ったわけぇはない。自身の位置を確かめるように動く黒目……視神経など詰まっていてほしくない食品に幼児よろしく見上げられて、訪問者はつまんだポップコーン……紙コップから取ったものだ……を思わず元に戻していた。
おまえ、とも、これは、とも言いあぐねる。その視線を知ってか知らずかポップコーンは小皿のへりを飛び越えて、軽快に跳ねながらトレイを横断して手元に向かってくる。否、手元ではない。広げたばかりのパンフレットの下へ向かってきているらしかった。
おもちゃというには有機物めいた跳び方だと、訪問者の目が引きつけられる。ポップコーンはたびたびその目を見上げながら、消しゴムをバウンドさせるような軽い音を立てて跳んできた。
最後の一歩、とでもいうような大きな一跳びを最後に、パンフレットの上でポップコーンが止まる。二度、三度と跳ねた場所には、おどろおどろしい背景写真や文字とは異なる、太いフォント……これなら市検診で再検査を食らうようなご老体だって見える……で、こう書かれていた。
「検診を受けた方ならどなたでも参加できます。血圧計の計測結果をお持ち下さい。」
だからか、と訪問者がポケットを探った。例年と異なり「捨てないでくださいね。」と言い含められたのはこれ故か。そこからおどろおどろしい広告部分に目をやれば、どうやらお化け屋敷らしいアトラクションの説明が書かれている。五人のゾンビから逃げ、出口の鍵を開けて脱出する。ゾンビ達は目が見えないが、心拍数が上がると鳴るブザーを付けられるから、あんまり怖がりすぎると居場所がばれてしまうようだ。
ふうん、と訪問者が顎をさする。その様子を不安に思ったのか、ポップコーンが目を細めて左右に揺れた。起き上がりこぼしかマトリョーシカかといった動きが微笑ましく、訪問者がくしゃくしゃの計測結果を広げて見せる。ならよし、と言いたげにポップコーンが二、三度跳ねた、その時だ。
ぷんぷんぷん。そんな音がカフェテラスのレジカウンターからかすかに届く。それに応えるようにして、猛然とポップコーンが鳴いて跳ねはじめたのだ。
ぷんぷんぷんぷんぷんぷん!
軸のぶれない上下運動に慄いて、訪問者が椅子をがたつかせる。危うくポップコーンの紙コップすら倒しかけ、咎めるような視線を向けた。
対するポップコーンは意を得たとばかりに動きを止め、誇らしげである。肩……肩はどこを指すのだろう。一頭身のアニメキャラクターの肩を、目より少し下と捉えるようなものか……肩とおぼしい部分ごと全身でを上下させ、息切れを表現さえした。
ご苦労さま。
訪問客が震えた声を絞り出す。かれの戻った小皿を手にカウンターを訪ねれば、
「鳴いたでしょう。」
そう言ってカフェテラスの店員すら微笑むものだから、訪問者も笑い返すしかなかった。
10/5 5.アトラクション:屍小路(稚気溢れるゾンビ)
けたたましい音ではない。携帯の目覚まし時計より小さい音だし、耳に突き刺すような高音でもなかった。
けれど、静かな場所にあっては異物と言える電子音だ。今も喧騒から布一枚挟んだだけの天幕で聞いたにもかかわらず、ピピピと鳴るアラームはしっかり聞き取れた。
客人は市の健康診断を終えた身だった。市が一般企業と提携したお化け屋敷をやるというから、参加資格を示す血圧計の計測結果を手に、この天幕に並んだのだ。
「心拍数が高まると5秒鳴ります。運動強度に沿って値を設定しましたから、あなたの場合は百二十を越えないようにしてくださいね。」
計測器は外さないように、と誘導員が手首のベルトに南京錠を付けた。誘導員が言葉を続ける。
「ゾンビさんたちは目が見えないんですけど、音には敏感ですからね。ばれないように頑張って心臓を止めましょう。」
じゃあ、いってらっしゃい。そうして天幕から送り出された先はといえば、また布一枚を挟んだ回廊である。石壁のせいか布の厚さのためなのか、聴こえていた喧騒がはるか遠くに変わってしまう。その静かな通路はといえば、『屍小路』のタイトル通り、市庁舎裏の渡り廊下だったものがおぞましく飾り付けられていた。
元々は修道院だった庁舎であるが、その頃の回廊の一部を残してあるのである。一方を煉瓦壁、もう一方を腰までの石壁とアーチ状の天井を支える円柱で支えたそこは、今や中庭側のアーチ窓を煉瓦塀を模したはりぼてで塞がれて、仄暗いトンネルと化していた。
全くの暗闇、足元も見えないような薄暗さではない。ずたずたの暗幕で飾られた窓や、暗褐色の薄絹の揺れるガラクタだらけの通路はといえば、かつては松明が掛けられていただろう燭台に吊られたステンドグラスのランプでもって、見通しのいい、けれど物の影がおしなべて暗く濃くなるように仕掛けられていた。壁際、窓際、それどころか真ん中にもガラクタが配置されているせいで、本来人が三人横並びでも通れる回廊が狭苦しく見える。打ち捨てられたバザール、死人が副葬品を持ち寄る市場。そんな言葉が浮かぶような場所だ。
すぐ右手には蓋の閉まった六角形の棺桶。左の窓際にはブリキの人形やロボットの散らかった古机が置かれていた。目を奪われながら進んだ客人の足が、茶色い、小石のようなビー玉を蹴飛ばしてしまう。壁、椅子の足、通路の奥へと軽やかな音を立てて転がるそれを追うように、先ほど通り過ぎた棺桶の蓋が軋んで開いた。振り返った客人の靴裏が地面に擦れる。じゃり、という微かな音にも、棺桶から出てきた女は反応して、寡婦めいた黒いベールが客人に向く。彼女は緩やかに持ち上げた片手で短剣を握り、その柄に繋がった鎖を、もう片方の手でロザリオのように手繰った。
ベールで顔は分からないが、棺の似合う、落ち着いた女性だった。くすんだ金髪が注ぐのはクルーネックの黒いワンピースで、服からは青ざめて黒ずんですら見える肌が覗いている。靴は片方しか履いておらず、赤い爪先で飾った黒のパンプスはといえば、足首から九十度に曲がった足にはまってはいるものの、片面を引きずられてずたずたになっていた。
切先は向ける。けれど、確証はないのだろう。探るように短剣を揺らめかせる女の足取りは遅く、彼女も無事な足も擦りながら向かってくる。その音に歩調を合わせ、客人は元いた場所を離れることにした。今度は物にぶつからないよう気をつけて、けれど彼女からも目を離さずに進む。
彼女が自分のいた場所に着く頃には、数メートルは離れることができていた。
短剣が空を刺すのを見届けて踵を返す。その瞬間、身構えてしまった。通路の中央を来るのは子どもだ。顔は左目しか見えないようにぼろ布が巻かれ、古びて錆びた大きなバッジをいくつも付けられて飾られている。纏うのは小さな男の子に似合う既製品の子供服だ。けれど彼は、大人の腰ほどしかない体躯に似つかわしくない、身の丈以上の大鋸を両手にそれぞれ握って、ガチャガチャと景気良く鳴らしながら向かってきていた。
女がゆるやかに動いてくれたおかげで心拍数はあまり上がらなかったのに、ここにきてじわじわと増え始めてしまう。
元気に大きく腕を振り振り歩くたび、じゃり、がしゃ、ずっ、と回廊中に音が響く。
案の定というべきか、入り口近くの彼女もこれに反応した。先程より確固たる足取りともなれば見違えるように早く、鋸の彼と短剣の彼女に挟まれるかたちになってしまう。いっそ少年の横を駆け抜けるべきかと見遣った先で、けれど彼が更に機嫌良く両手を振り始めた。子どもが両手の人形を振り回すようにノコギリを振る。たわんだ刃は通路いっぱいに広がって、客人の進路を塞いだ。
それなら一旦退こうと振り向くが、彼女も残り数歩で短剣の届く位置へ寄ってきていた。進退に窮した客人が左右を見る。窓際に避けるのでもいい、あるいは物陰に隠れられれば。この場で凌ぐ術を求めた視線の先に、蓋のない空の棺桶が立てかけられていた。
爪先立ちで中に入り、底に背を押し付けて息を潜める。音には敏感というのがどれほどのものかは分からないが、吐息一つで棺桶の中へ詰め寄られるような気がした。
果たして、二人は棺桶の前で顔を合わせた。彼女の脚に男の子がぶつかるかたちで両者は止まり、互いに互いを探り合ったのだ。短剣のナイフの腹で肩や頭を探られた男の子がふくふくと笑って、彼女もそれが同族だと気付いたらしい。濁音とも喃語ともつかない声で二言三言言葉を交わし、一緒に入り口近くで侵入者を探すことにまとまったようだった。
男の子が軽快に鋸を落とし、鎖を手放した彼女の手と手を繋ぐ。そうして入り口の方へ向かったのを見届けてから、客人は棺桶から姿をあらわした。
一難去って、と見下ろしたのは手首の計測器である。心拍数はすでに百を越えていて、意識すればするほど下がらない。限界まで二十足らずのこれをどうしたものかと進んだ先では、無数の暗幕が道を塞いでいた。
黒い薄布、フェルト製の厚い幕、ベルベットのような光沢を持って揺れる布、ふわふわした毛皮らしきものすらある。細くても通路の三分の一、幅広ければ半分以上を覆うそれらは天井から客人の膝下まで下がっていて、先の見通しがまるで立たない。一つ一つを恐る恐るめくり、あるいは下から覗き込んで進んだ先で、客人が爪先が重い物にぶつかった。
厚い木を蹴った感触に、弾かれたように距離を取る。感触にはついさっき覚えがあった。先程身を隠した棺桶だ。けれど、今回は暗幕の他に隠れ場所も無いというのに、蹴りつけた棺桶の蓋がはね上げられた。
「だ。」
「ぁれ。」
「「だあーーーーーッ!」」
濁った、けれど年若いテノールとソプラノの咆哮が迸る。客人の肩が跳ねるのに遅れて、手首の計測器まで電子音で叫び始めた。鳴る、と言われていた5秒はひどく長く、けれど幸いにしてと言うべきか、棺桶から這い出たものが立ち上がるまで、あるいは背後から二つの足音が迫るまでには口を噤んでくれたのである。
「まれ、か、ぃあの。」
短剣で幕を捲って、黒いベールの彼女が言う。黒い毛皮を被って笑う少年が鋸片手にご機嫌に跳ねれば、寝起きの熊めいた緩慢さでもって進路方向の暗幕を持ち上げ、鼻から上を革のマスクで覆った少年と、綿を抜いたテディベアのような被り物をした娘が現れた。蛇、あるいは鰐、そして牛や豚。継ぎ目もあらわなその間から、少年は赤みを帯びた皮膚をのぞかせる。とはいえ土で汚れた衣類……少年はスタジャンとジーパン、娘は黒縞のトップスにダメージジーンズ……首から下の様相だけ見れば高校か大学に通っていそうな風貌だが、やはり二人とも、片や鉈、片やツルハシと、片手に重たそうな凶器をもてあそんでいた。
「べっ。」
「ど。」
「を。」
「け。」
「ら。」
「れ。」
「た。」
一語一語を選ぶように、吃りながら二人が訴える。交互に発するものだから、一人が別の声で話すかのように滑らかだ。女と男の子とは梟のように左右上下へ頷いて、そいつを知っていると応えた。
アラームのせいで気付かれたのだ。客人の頭が熱を帯びる。再び手首に目を落とせば、計測器の数値がまた上がり始めていた。百と、十三、十四、十五。ここで鳴り出せば逃げ切れない。なら、と客人が身をかがめた。少しくらい足音がしても、ここは距離を離したい。ゆっくりと幕をめくり、あるいは薄布を潜って距離をとる。触れた布もあまり動かないよう、細心の注意を払って元に戻した。
五枚、六枚も幕を抜けて、ようやく最後の薄幕を一枚残すだけになる。気を抜いて伸ばした足が、何か細いものを踏み抜いた。
紐だ、と気付いたのは靴裏が地面に落ちた時である。薄布と同系色の紐だから、まるで気付きもしなかったのだ。紐は壁際のハンドベルに繋がっていて、よく響く音で倒れたあと、横に転がって卓上から落ちてくる。
慌てて受け止めても、ベルが倒れた音、そして落ちる時に響いた涼やかな音は聞こえていたらしい。暗幕の後ろの話し声は止んでいて、遮蔽物越しに視線を感じた。咄嗟にベルを戻したのとほぼ同時に、乱暴に厚い緞帳が捲り上げられた音を聞く。揺れる幕越しに、猛然と追ってくる四人の姿を妄想して、客人は通路の奥へとひた走った。障害物になりうるガラクタは一際増えて、背の低い迷路のように置かれている。それを跳ぶように踏み越えれば、回廊の曲がり角に差し掛かった。後ろからはガラクタにぶつかったらしい少年の悪態や、手にした凶器でそれらを薙ぎ倒す音が聞こえる。角を曲がり、ここまで来ればと、濁ったソプラノの咆哮を背に客人がほくそ笑んだ。その正面で、通路の真ん中に置かれた棚に立てかけられるようにして置かれた棺の蓋が開く。
太い指が隙間から覗き、それを追って厚く長い刃……チェーンソーの切先が伸びた。赤茶けた刀身を片手で構え、もう片手はだらりと垂らしたまま現れたのは、喪服姿の男である。顔を包帯でぐるぐる巻きにした隙間からは赤黒いケロイドが覗き、同様の肌色をした指がチェーンソーのエンジンを引いた。
刃が回る。一歩、また一歩と歩幅と速度を上げながら近づく男を眼前に、大きなエンジン音を追いかけるようにして手首のアラームが鳴り始めた。
10/6 6.アトラクション:畸玩城の虜(人杖職人)
正面玄関は大きな展示室になっていた。この大学が文化祭の時の恒例で、美術学科に属す学生のものが飾られるのである。
広間はテニスコート二つ分もの広さで、一階の東西の壁に別棟へ繋がる扉が、正面階段を上ったところには八人掛けの食卓でも置けそうな広い踊り場の中二階があり、そこから二階の通路へ更に上がれば、本館の小講堂、あるいは別棟に進むことができる。
今は広間や通路の壁際、そして広間の中央にいくつか間を空けるようにして、生徒たちの作品……殆どが人間大の立体作品……が飾られていた。
彫像、ショーケースに入った装飾品、永久機関めいた動き続けるオブジェ、刺繍と輝石で飾られたドレスを着たマネキン、イーゼルに置かれた絵画。壁や天井から下がる作品も数多くある。階段を左右に二分するように置かれたのは、円柱と竿とを組み合わせた枠に掛けられた絵画作品だ。枠は間に人一人が入るくらいの空間があり、空の枠を額縁として、異形のトルソーが飾られているところもある。
その異形の頬へ手が伸びる。たおやかな少女の姿は頭から左の乳房まで、右肩と左胸の下からは肋骨を模した石……アメジストを所々露出させた鉱床だ……であり、背骨を置き換えた白いポールは加工途中であるらしく、ぼこぼことおぞましい凹凸が目立っていた。彼女を台座から外したのは男である。長身痩躯に緑のエプロンを付けた栗毛の青年だ。色白だが病的な雰囲気は無く、学内ですれ違っても気に留めないだろう。けれど今は、斜めがけにしたベルトに下がるハサミや刃物、そして小脇に抱えている人の手足とが異様さを演出していた。
彼を視界に捉え、客人がショーケースの陰に身を潜める。
そう、今、この展示室はお化け屋敷になっているのだ。
一般企業とのコラボレーションだったか。身体芸術を専攻する生徒が持ち込んだ企画だとかで、時間ごとに展示とお化け屋敷とを交互に行うことになったのだという。飾られている作品は殆どのものが生徒のそれだが、中にはお化け屋敷の仕掛けも含まれているらしい。
客人は手にした紙をもう一度開き、このお化け屋敷のミッションを確認する。誘導員に渡されたそれは手紙であった。"探偵"としてお化け屋敷に臨む客人へ宛てられた依頼文だ。
『探偵どの
当家の娘が姿を消し、半年となります。あなたにはどうか彼女を見つけ、連れ帰っていただきたい。
ただし、もし彼女が死んでいたり、それに近い状態である場合。その時は連れ帰らずとも構いません。代わりに、印章のついた指輪を形見としてお持ちくださいますよう。あれは当家の跡継ぎの証です。息子に継承させねばなりません。
どうぞ、よろしくお願い致します。
追伸
娘が消えた地域で、嫌な噂を聞きました。人を解体して玩ぶ異常者がいるのだとか。攫われたものの"作品"のふりをして機を伺い、逃げ出した女性の話が新聞にありました。娘は関係がなければいいのですが……。』
同封された写真では金髪の少女が微笑んでいた。掲げた右手にはオーバーサイズの指輪が嵌っていて、その中央に彫られた盾の印章がよく目立っている。
まずはこの少女を探す必要があるらしい。
客人はもう一度階上の二人を見遣った。抱えた少女は黒髪で、写真の息女とは別人らしい。なら、もう"作品"にされたのかと、展示室にも目を向ける。
ちらりと見ただけでも、人型の作品は数え切れないほどあった。髪や爪ばかりは人間の石膏像、舞台衣装を纏うに留まらず特殊メイクも施されたマネキン、人の頭に獣の部位を繋げた彫像、椅子に腰掛けた人形、そしてあの青年が抱えたのと同じ、少女の胴体とポールを繋げた異形のトルソー。
金髪のものは4体あった。額縁から飛び出したような胸像の立体作品、鬘を被ったマネキンと、肘掛け椅子の人形、そして異形のトルソーである。
客人がいるのは正面玄関から入ってすぐの場所だ。西棟の扉に近い位置であり、その正面、少し離れた場所に胸像の展示がある。肘掛け椅子はといえばその先の、ちょうど大階段の側面と奥の壁との角にあった。他の二つは階段を挟んで東寄りにあったから、探すとするなら西の胸像から椅子を経て、東へ回る方がいいだろう。
階段の上を伺いながら胸像へ向かう。青年は作業に没頭しているのか、小さな呟きが聞こえるばかりで階下には目も向けてこない。おっかなびっくり覗き込んだ彫像の顔はといえば、件の少女より大人びたものだった。
そもそも腕がないのだし、指輪をさがす相手から外すべきじゃなかったか。余計な時間をかけてしまったと背を翻して、客人の髪が横に引かれる。
何を、誰が、と振り向いた先でトルソーとマネキンとが笑っていた。腰から下は脚をぐしゃぐしゃに捏ね固めたような赤毛の少女のトルソーが髪を引き、それを見て、蛇の鱗めいたメイクと中東の踊り子めいた衣装のマネキンが……否、鱗の下に布目模様のメイクを施された女性が小声で囃しているのである。
「気付かれたね。」
「びっくりしてるよ。」
思わずトルソーの腕を振り払えば、二人が大声で笑い出した。どうしたの、と踊り場から青年の声がかかる。
「あのねえ!ここにねー!」
「うそ!なんでもないよ!」
きゃらきゃらと笑いながら、マネキンが隣に飾られた衣装を投げて渡した。金糸で花の刺繍が施された白いマントだ。大きなフードが付いているから、被れば顔すら見えなくなるだろうが、一体、これは。
「あの人がくるよ。物のふりして。」
マネキンがくつくつと笑う。慌てて被り、前のリボンを結ぶ。その瞬間、階段から青年が顔を向けた。
「お嬢さんがた、楽しいことでも?」
小走りで降りてくる彼に展示室がざわめき立つ。あちこちで動き出す作品たちを前に客人の身がすくむ。髪と爪ばかりが人だと思っていたあの石膏像すら蠢きだすのだから、どれが隣のトルソーたちのように動くのか、見分けられる自信がなくなっていく。
「どうしたね。またこないだみたいにお客さんかな。」
いじめられてやしないかい、と青年がマネキンの首を傾けたり、トルソーの腕を持ち上げて確かめる。その手が当然のように客人にも伸びた。
「ずいぶん目深に被ったもんだ。気恥ずかしさがまだ抜けないのかな。」
フードを上げ、布で乱れた髪を整える。胸元のリボンまで解いたところで、意を得たように青年が声を上げた。
「お仕着せがまだだったんだ。可哀想なことをしたね。」
当然だ。客人が着ているのは現代の衣料店で買える既製服で、まさか展示室の作品たちのような格好をしているわけがない。けれど青年は上手く勘違いしたらしく、この町は良い材料が多いのだと、だから手が回らない子がいると言い訳がましく苦笑する。かわいそお、と横のマネキンたちからも非難が集まった。トルソーが指先……彼女の手は五本の鳥の嘴だ……で腹を突いて催促すれば、何度も肯きながら背を向けた。
その姿が踊り場に消えるが早いか、マネキンが客人に囁いた。今じゃない?
客人が返したマントを受け取り、微笑んだまま彼女が姿勢を正す。もとの作品に戻ったような彼女に背を向け、足音を忍ばせて向かうのは、別の作品群。
果たして西の肘掛け椅子は別の少女だった。こればかりは本当に無機物の作品らしく、別人か判断しかねた客人が指を探っても、身じろぎ一つしなかった……ように思う。
なら、東棟に近い場所を探さなければいけない。大階段の前を渡る必要があったが、幸い青年の姿は踊り場に無かった。呟き声が聞こえてくるのは大階段に向かって右の通路だ。高い手摺りのおかげで階上から階下は見えないようになっていたから、通路の下に位置する場所まで一息に駆け抜けられた。
見回せば、階段外側に背を向けるようにして金髪のトルソーが、そして東棟の扉近くにマネキンの姿がある。
マネキンの側では聖銅像が顔をのぞかせて揺らめいていたし、トルソーの側には打ち捨てられた……あるいは溜め込まれたように……持ち主不在の手足や胴体と衣類とが山となっている。客人は一瞬逡巡して、トルソーの方に向かうことにした。その上で、軽やかに階段を降りる足音を聞く。
「きみ!これなんかどうだい。肩幅も合うだろうし、あと手指を二つ三つ増やせば袖の数も合うと思うんだ!」
布の翻る音、ブーツが石段を跳ねる音がすぐ後ろを通り過ぎていく。息を潜めた正面で、少年の顔をした大型獣がにたにたと笑っていた。今にも叫び出そうとするかのように口を開けたり閉めたりするから、唇の前で指を立てて押し留める。そのうち、青年が悲鳴を上げた。いないじゃないか!
「白い外套の……ああちくしょう、名前をちゃんと付けておくんだった……。ねえ、知らないかい。きみは?きみも?……どこに行ったんだい。新しいあなた!これを着たらきっと素晴らしくなるよ、合うように身体も変えてあげるんだから!」
いないいないいない……!靴裏を石畳に叩きつけながら青年が客人のいたあたりを歩き回る。足音も荒いまま正面玄関へ向かうのを、呆気に取られたような獣のうしろに隠れて見送った。
「きみ!聞いてるんだろう。ここの鍵は掛けたからな!この部屋の中だけなら、いくらだって悪ふざけに付き合うとも。望むところだよ!」
玄関の鍵を掛け、それをエプロンのポケットにしまう。そのまま階上へ駆け上がるのを見送って、客人と獣とがため息をついた。
怒られるのが分かっている同胞とでも思ったのか、獣は神妙な顔で黙って客人を見送った。幸い、件の少女はこの階段横のトルソーであり、動くことなく嵌めたままの指輪を渡してくれた。
けれど、どうやって鍵を奪ったものか。
階段の下から顔だけ出し、踊り場を窺う。
青年は作業台を片付けているらしく、二つも関節のついた腕や、人の頭が入るほどの曇ったガラス瓶を抱え、あちらこちらへ動かしている。その時に何か、こぼしたらしい。
唸り声を上げた青年が急いでエプロンを脱ぎ捨てた。無造作に作業台へ置いたまま、青年の姿が左翼の通路に消える。
今こそ、と客人が階段を駆け上がった。
エプロンは何かで濡れているが、危なげな匂いはしない。もちろん素手で掴んでも肌が爛れたりすることはなかった。逆さに広げたエプロンから鍵が落ちる。手を伸ばす。
「だめだよ。」
客人が掴むのより一瞬早く、白い杖が鍵束を攫った。作業台を挟んで対峙するのは青年で、手にした鍵を腰のベルトに挟む。
「材料でも、作品でもなかったんだね。」
杖をおき、固まる客人に向けて細工師が歩み出した。横たえたままの少女の肩から指へ爪を走らせながら、もう片手をベルトの刃物にかける。
「君も誰かを……もう、"何か"だろうけど……取り戻しにきたのかな。そうだとすると、悪いけど帰すことはできなくてね……君のことも。」
錐のような、それにしては長い、むしろ短い突剣と呼ぶべきものを抜く。それを腰上に構えられて、やっと客人の足が動いた。けれど、振り返ることもできないまま背後から腕が絡みつく。
右腕が肩口に、左腕が腹と腰に。三本の腕で抱きしめられて、両側からはそれぞれ赤毛と黒髪の少女の顔が出る。
背に押し付けられた胴体が一つきりなら、この腕は、顔は、一体。
「ああ、やっぱり目が大きいね。歯並びもいいから上顎をメインにしよう。するとそこを飾らなきゃだな……。」
触診の匙のように錐を振り、目の前に立つ青年が笑った。
10/7 7.コマーシャル:夜の子どもの衣装箪笥(不暁公の侍女たち)
「あのお姉さんたちの所へお行き。」
黒衣の男爵に背を押され、小さな賓客がホラーハウスの前を横切った。数歩遅れて着いてくる老婆……客人の祖母だろうか……の手をとる男爵より十数歩早く辿り着いた先は、駅の売店ほどの小さな小屋だ。見世物小屋めいた緞帳が入り口に降りていて中は伺えないものの、あつらえられたショーウィンドウを見れば、これが何かは自ずと分かった。衣装部屋である。
「年若い方にできることは限られます。化粧は無添加のリップ・チークを少々のみ。髪も出来る限り固めず、お使いのシャンプーで落とせる香油のみ使用する予定です。念のためアレルギーについては伺いましたが、もしご帰宅後に何かあればこちらへ連絡を。」
勿論、お着替えにはお立ち合いいただきます。鷹揚に説く男爵に老婆が頷く。満足げに微笑み返し、お前たち、と緞帳の内側へ男爵が呼びかけた。
「黒猫めが、こちらに。」
長く真っ直ぐな黒髪に黒衣、目までも真っ黒の娘が滑るように現れる。眼下で目を丸くする小さな客人にすぐ気付いて、淑やかに礼をした。
「その方と、こちらのお嬢さんを頼む。」
お嬢さんなんて、と呆れ声。貴女の総曽祖父より年上なもので、と男爵が笑って緞帳をかき上げる。もう片手で老婆を送り出す傍らで、黒猫が小さな客人の手を取った。
緞帳の内側は外見より随分広いようだった。見たところテニスコートほどもありそうな部屋に、所狭しと服が掛かっている。子供服はその三分の一ほども占めていて、否、小さいだけに上から下がっているものも多いから、大人の服の男女両方を合わせたのと同じ数ほどもあるかもしれない。
そこへ連れられた客人に黒猫が訊く。
「お気に召した服があれば、それに合わせて髪やお化粧をいたしますよ。」
とはいえ、あまりに数がある。考えあぐねれば、大きな本を手にした別の娘が側に来た。本と見えたのはカタログであるらしく、イラストや色見本を示して好みを訊くつもりのようだ。
「蝙蝠と申します。お好みの色や形はございますか?」
大人の服でも構わない、似たようなものを見繕うから、と言われて、客人がページをめくる。最初の数ページはドレスの見本。裾のラインや袖のデザインごとにイラストが載っている。次の数ページは燕尾服やスーツの見本で、ズボンの形や上着の様式別にまとめられていた。その次からドレスの写真が続くようだったが、客人の目は本の外に奪われる。
偶然試着室から出てきたのは、深い青のフロックコートを着た老紳士だ。コートの縁には金糸で唐草模様が縫い付けられ、その枝葉に止まるような小鳥の刺繍が施されている。これを纏う老紳士はといえば、半ば白髪の金髪を後ろに撫でつけて、鳥の飾りの付いた樫の杖をついていた。クラバットの飾りを見繕う後ろ姿を見つめていれば、それに侍女が気付かないはずがない。
「お借りしても良いですか?」
蝙蝠と名乗った侍女がカタログをめくる。彼女が開いたページにあるのは、子ども用の乗馬用コートだ。紳士のそれと同じ青は無いが、水色や深い緑、あるいは紺、そして薄紅のものが載っている。施された刺繍のデザインも、草花や幾何学模様、竜のような怪物と様々だ。
これ、と客人が指したものを見て、黒猫と蝙蝠が頷いた。
「では、これに合わせて見繕ってまいりましょう。」
果たして連れの老女の前に現れたのは、白のフロックコートから薄紅のドレスをのぞかせた客人だった。
白い布地に銀糸の雪模様が施され、それが降り注ぐ裾や袖にはロシアのクレムリンに似た尖塔の城の刺繍があるものだ。ドレスはラウンドネックの襟元から腰までを斜めにシフォンの花で飾ったデザイン。胴より少し濃い紅のスカートにも同じ装飾が施されて、燕尾の隙間から花が溢れているようだ。
肘丈の袖で揺れる八重のフリルを翻し、大きな姿見の前で客人が回る。いつの間に集まってきたものか、蝙蝠の他に二人、三人と、似たような黒衣の娘たちが客人を取り囲み、思い思いの賛辞をなげかけていた。そうしてラウンドネックで開いた首元が寂しいからと、代わる代わるチョーカーやネックレスを差し出しては決めかねて、どれもお似合いだと歓声をあげている。
破顔する老婆に並んで、ポラロイドカメラを手にした黒猫が微笑んだ。お写真はお二人で?それとも、お二人とあの方だけと、両方お撮りしましょうか。
10/8 8.アトラクション:不暁の晩餐会(男爵)
青天井の舞踏広間と言うべきか。
それはショッピングモールの吹き抜けの広場に設置されていた。大きさは市バスを一台まるごと囲えるくらいだろう。三メートル近い壁は透明なものと象牙色のものを交互に配置し、壁同士を円柱で固定して、円形の広間を作り上げている。透明な壁はおそらく樹脂製の見通しのいいもので、窓に見立てているらしい。内側に下げられた真紅のカーテンは所々開けられていて、中の様子を見ることができた。
天井は無いから、待機列の人々のみならず、上からも観覧客が覗き込む。それというのも、モールの二階から見ればよく分かるが、六組の男女が広間で踊っているのだ。否、男女というのは語弊があるかもしれない。どちらか分からない異形も多いのである。ドレス同士、あるいは燕尾服同士で踊る影もあれば、そもそも踊り手の頭が骸骨だったり獣だったりと、人でない姿のものが殆どなのだ。
その彼らが、このアトラクションに合わせてか、モール内で流れる三拍子の曲に合わせて踊るのである。とはいえ、三拍子、ワルツを踊れる曲といえども、古臭いばかりではない。新旧織り交ぜて、ショパンやハチャトゥリアンのワルツから、映画の舞踏会の場面に流れた劇中歌、あるいは流行歌のワルツアレンジまで流れている。
そして、その曲が終わった頃。幕間のコマーシャル……本日もよくお越しくださいました、どこそこのお店がただいまタイムセールで、というモールの放送……を切り裂くような悲鳴が響くのだ。ちょうどその瞬間を目撃していた観衆が決まってどよめくのは、それとともにアトラクションの参加者が駆け出てくるからである。それを追って優雅な舞踏服の半人半獣が唸り声と共に飛び出してくる。今回の彼など……参加者とはいえ、隣の衣装室で着替えたのだろう……燕尾服を翻して手の届かない場所まで逃げ延びて、広間の玄関で止まった異形に睨みつけられていた。それ以上は出られないのか、名残惜しげに一吼えする異形の前で広間の扉が重たげに閉まる。
これは社交ダンスのショーではない。まして、メインは舞踏ですらないのだ。
"サナトリウム・エンターテイメント"の腕章を付けたスタッフに聞けばこう言うだろう。
「お化け屋敷ですよ。ちょっと踊ったりしますけど、相手は全員怪物ですから。」
観客はモールの二階から、あるいは広間のそばから窓を覗いて、悲鳴を聞き届けた踊り手たちが控室の天幕へ戻るのを見る。それと入れ替わるようにして、次の参加者を連れに女が出てきた。
黒衣の女だ。刺繍までも黒い詰襟のロングドレスを着た、青白い顔の他には手指すら肌を隠した女である。よくいらっしゃいました、と一礼し、参加券として渡される"晩餐会への招待状"を検めるのだ。
「男爵様がお待ちです。……こちらへ。」
入り口からすぐ広間に出るわけではない。玄関からはカタツムリの殻のように曲線を描く通路があり、その暗闇を女のランタンひとつを頼りに行くのである。
けれど、例えば今回臨むような幼い客人であったなら、ランタンだけでなく、彼女の手を頼りにすることも許される。
素敵なお召し物ですね、男爵様も喜ばれましょう……と小さな手を引いて、通路の突き当たりまで客人を連れて行く。けれど、傍らの小卓へランタンを置くや、
「しばしお待ちを。」
そう言って、また別の通路……黒い緞帳で区切られている先へ消えてしまった。
辺りは漆黒の闇、ランタンがあるとはいえ、照らされるのは机の上と伸ばした指先程度のものだ。心細げな客人が辺りを見回し始めた頃、その正面の扉が開く。
開けたのは黒衣の男である。すぐに客人に合わせて跪くが、そもそも客人の二人分よりゆうに高い長駆だ。それでも見下ろしてしまうのをなんとか背を丸めて縮めながら、待っていたよ、と破顔する。晩餐会へようこそ、子羊さん。そう言って傾げた顔がランタンに照らされ、整った顔と灰色がかった黒髪とが露わになった。アンバランスな大きさの赤い瞳が、猫のように瞳孔を開く。
手を差し出せば、おずおずと客人の手がそれに重なる。押し包むように柔らかく上に重ねたもう片方の手が、ゆるゆると客人の手首までを掴んだ。実はね、と笑う男の口の端に、犬歯というには長く鋭い牙が覗く。
「実はね、君をご馳走として招いたんだ。友達が来るから、美味しい人間を振る舞いたくなったのさ。」
思わず腰が引ける。逃さないよう、けれど痛まない程度に細い手首を握りしめて、男が眉尻を下げて苦笑した。こんな素敵なお客さんとは思わなかった。そう言って、けれど、と顔を後ろへ向ける。その視線を追って、客人が男の肩越しに広間を覗いた。明るい広間の向こうで赤い緞帳が上がる。それを潜って現れるのは、ドレスや燕尾服を着た紳士淑女だ。けれど、その頭が骸骨であったり、犬のような獣であったり、あるいは腕の代わりに鷹の翼を備えていたりと、五体全てが人の"友人"は見当たらない。見えるだろう、僕と同じ吸血鬼たちさ。今夜は仮面舞踏会なのだと、嬉しげに男が微笑みかける。
「君のことは助けたいけど、あからさまにやると怒られてしまうからね。だから、君に秘密を教えてあげる。」
よく聞くんだよ、と言う男に曰く、客人が晩餐にされるのはワルツが終わった後なのだという。その時、客人は自分を食べる相手を選ばされる。踊るのが一番楽しかった相手は、と訊かれるのだそうだ。
「私の名前を呼んでくれたら、その時はあなたを助けてあげられる。友達が怒っても、自分のものをどうしようと勝手だって言ってやれるからね。」
でも、と男が客人の目を見据える。微笑みは押し込めて、憶えておいて、と囁いた。
「今夜は仮面舞踏会。私も全く違う姿に化けないといけないんだ。だから、これをご覧。」
男が左手の手袋を外す。手の甲を客人に向け、指を蠢かせる。
「私の指は一本多い。耳は尖ったままだし、赤い目は隠せない。ああそうだ、このエメラルドの指輪も付けたままにしておこう。」
六本指の左手、そして耳、目、と一つ一つ指差して、憶えたかい、と首を傾げた。
憶えたかといえば自信はない。けれど、指、耳、目、と呟けば、それで良い、良い子だ、と男が笑った。
なら行こう、と男が立ち上がる。黒いマントを翼のようにして客人の肩を抱き、靴音も高らかに広間へ進み出る。
「諸君、主賓のお着きだ!」
高らかに声を上げた男に応えて、広間の紳士淑女ばかりか、モールの観客たちの拍手が降り注いだ。
果たして、男は客人を"友人"に預けるや、自らは緞帳の向こうへ消えてしまった。代わりに相手を務めた"友人"は、ふわふわとした猫の手を持つ深緑の燕尾服の男だ。
「ディミトール・コヤンシーと申します、美味しそうなお嬢さん。」
短いスパッツから覗くのも獣の脚で、猫が直立したような立ち姿ながら、うまく身をかがめて客人をリードしてみせる。
けれど元々身長差がある。それに何より、華奢な"歯応えの良さげな"指だの、"甘やかな"綺麗な目だの、食欲を隠す気もない褒め言葉に客人の腰は引けてしまって、他の踊り手のように優雅な群舞に加わることは難しい。だからか、踊る場所は自然と広間の中央になる。反時計回りに移動しながら、遠巻きに、あるいは時折迫る六組の踊り手に囲まれ、その中央で拙く踊った。
そうしてまた、ほかの踊り手たちが迫る。手を掲げられた各パートナーがその場で周り、ドレスの裾や燕尾が波のように客人たちへ寄せる。その中を進み出た黒髪の少年が、客人の手を取った。赤い目を輝かせ、次は僕と、と微笑みかける。
「僕はアルフレート。アルフレート・フロレスク。」
先程の猫男、コヤンシーはといえば、アルフレートと入れ替わるようにして四対の目を持つ令嬢の腰を抱いていた。そのまま群舞に加わるのを目で追えば、こっちを見て、と少年が乞う。今の相手は僕でしょう。
「ほら、お手をどうぞ。」
アルフレートの左手が客人の手を自身の腰に導く。無意識に視線を向ければ、その掌にはアンバランスな扁平さを見た気がした。思わず少年の顔に目を向ける。悪戯っぽく口角を上げて、少年が客人の手をぐんと引いた。行くよ。掛け声とともに三拍子の流れに乗る。おぼつかない足元でも、少年の姿に目を奪われて、気を配ることもできない。とはいえ少年の動きに合わせれば、危なげなく……そして観客が見惚れるほど……上手く踊ることができていた。
足踏みだけでなく、群舞の中央で右回りに動きながら踊る。アルフレートの問いかけにも応えられるようになってきた頃、ふたたび群舞が二人に迫った。ステップの終わりで客人と群舞の踊り手の手が天を指す。持ち上げられた腕を軸にその場で回転する。一回りした客人の指先を受け止めた手に、緑の輝石の嵌まった指輪が見えた。
けれど、見返す間もなく客人の身体が攫われる。次にその手を取ったのは、冠のような鹿の角を額やこねかみから生やした娘。
「リディア・ガイチュク。私が楽しませてあげる。……最期までね。」
彼女もまた、優れた踊り手だった。胸元の大きく開いた紫のドレスを翻し、客人をリードして大きく踊る。そのたび蝶の羽めいた袖と
薄紅のシフォンの裾とが霧のように客人を飲み込んだ。
ワルツはまだ終わらない。鹿娘リディアから客人を奪い、腕の代わりに濃紺と赤錆色の羽毛の翼を有したサイモン・ギラードがリードを務めた。それを八本腕のヨランダ・ヴラツファが掠め取るが、すぐ、緑泥色の礼服に髑髏面のミハイ・ロゼに盗まれてしまう。
そうして、何人も……踊り手の約半数と踊って、やっと群舞の波浪が動きを止める。
いつの間にかワルツは終わって、立ち止まった客人へ迎えが来ていた。黒衣の女だ。広間へ迎えに出てきた、ランタンを持つ侍女である。その場に留まる踊り手たちの間をすり抜け、侍女が客人の前に立つ。
入り口と踊り手たちの去る緞帳との間、広間の中央で侍女が踊り手たちを見回した。
そうして静かに、よく響く声で客人に問う。
「お客様には、最も好ましい方と晩餐を共にしていただきます。」
どなたですか、と。微笑みすらせず侍女が見下ろす先で、客人が辺りを見回した。
目の前で八つ目の令嬢が牙を覗かせる。猫男が爪を出し入れし、舌舐めずりするのも見えた。カリカリと何かを擦る音は、極楽鳥の蹴爪が床を掻く音だろうか。
けれど、四方どちらを見回しても、あの黒髪の少年だけが見当たらない。だれかのドレスの陰にいるのか。それとも、自分を見捨てて晩餐会を抜けてしまったのか。
客人がドレスの裾を握る。いざとなれば一人でだって逃げてやるのだと、力を込めた時、黒衣の女が再び訊ねた。
「どなたになさいますか。」
「アルフレート・フロレスク!」
その名を呼べば、黒衣の女が道を開けた。
10/9 9.アトラクション:極楽鳥鏡地獄(鏡泳ぐストレリチア)
鏡の中で男が笑った。青みがかった白髪を掻き上げる。そうして、友人の隣を歩くような気安さで、まだ迷ってるの、と問いかけた。
険しい顔で睨まれるや、こわぁい、なんておどけて身を翻す。遠ざかった先は鏡の向こうの路地の先で、どこをどう曲がったものか、離れた姿が手のひらで握れるほどに小さくなった。
客人が一つため息をつく。手を前に突き出して進むのは、気付かず壁に突っ込むことを用心してのことである。なにせ、ここは鏡の迷路なのだ。前に映るのは後ろの路地で、更にそれが右手の壁を反射して、左と前との風景をでたらめに混ぜ合わせている。進むのはおろか、今通ってきた道ですら、来た通りに戻るのは難しいようなところを客人は進んでいるのだった。
それに、と。ほんの少し、客人が振り返る。二メートルか、三メートル。背後の路地の角は暗く影に沈んでいた。その暗さばかりが来た道を示しているとともに、客人に与えられた残り時間を示しているのだ。今も、見れば、胸から上ばかりは人の形をした巨躯の怪鳥が暗がりの中を通り過ぎていく。路地に消えようかというその時、怪鳥の顔が客人を見た。
「随分追いつかれちゃったじゃない?ねえ。」
声ばかりは気遣わしげな言に振り向いてしまう。怪鳥の顔はどんなだったかともう一度目をやるが、赤黒い尾羽の一筋も残ってはいなかった。早くいらっしゃいな、と誘う男の隣へ客人が急ぐ。それというのも、あの暗闇に飲み込まれれば負けが決まるからだった。
「極楽鳥鏡地獄、良い名前でしょう。」
男の誇るそれこそ、このアトラクションのタイトルである。鏡と暗闇の迷宮とうたう通り、この建物自体は遊園地のミラーハウスと変わらない。けれど、中で明りが灯るのは客人の周囲、半径二メートルのみ。それだって一秒に二センチずつ直径が縮んでいくから、三分少々で闇に飲まれることになる。それだけなら手探りで進めばいいが……壁に片手をついて進む、なんて迷路の必勝法を使えば脱出も容易だろう……ここには先の怪鳥がいるのである。
「あれに捕まったら負け。あいつは暗闇の中からは出てこれないのが幸いよ。あなたみたいな可愛い子なんかねえ、暗闇のもっと奥、深いところに連れ去られてぇ……!」
それっきりよ、と男がウインクする。目に見えて身を引いた客人に、つれないわねえ、と体をくねらせて、ふと、瞬きの間に姿が変わった。
「そんな子はアタシから行っちゃうんだからぁ。」
ンーマッ。あからさまなリップ音を響かせたのは、客人が身を引いた方の壁、男が元々映っていたのに対面する鏡である。姿が変わった、と思ったのは、合わせ鏡の鏡像の左右が変わったからだった。一瞬で位置を入れ替えて、耳元で投げキスなんかを仕掛けたのだ。
飛び上がる客人をからからと笑って、分かる?と男が訊く。
「あのお化けもね、鏡の中を来れるのよ。それでいて、その中に人を引きずり込めるの。あなたの周りが暗闇なら……ねえ?」
アタシなんか可愛いものでしょ、と背後で男がにやついている。
おざなりな肯定を返し、客人はまた行く先に利き手を伸ばした。突き指をしない程度にゆっくりと、けれど先ほどよりは足を速める。
「そうよ、ちゃぁんと触って、何が本当の道か探すことね。」
横で茶化す男はちょっかいをかけこそすれ、親切に道を教えてくれることはない。一度か二度は教えてくれたが、そのあとはことごとく間違った道を伝えるばかりだったのだ。最初は温情、そのあとはからかっていたのだと知れて、客人ももう男に訊くのはやめていた。
直感を信じて進めば、五、六歩ほどの長い廊下に出た。廊下の真ん中を過ぎれば、さきほど曲がったばかりの角も闇の中だ。行き会った場所からついてきているのか、来た道から衣擦れのような、怪鳥が羽毛を引き摺る音がする。
追跡者を振り切ろうと足早に廊下を曲がり、そのまま客人の手が突き当たる。コの字を描くように廊下が更に曲がっていたのだ。そのまま壁に手をついて進めば、もういちど同じ方向に曲がった先で、険しい顔をした自分と出会う。
突き当たりかと踵を返したその眼前、僅かに動いた光円を避けきれず、黒鉄色の鉤爪が引っ込んだ。
爪だけでも大人の指ほどあったろう。焼けた鉄でも触ったように引っ込んで、けれど、それだけだ。そのまま退がったのなら、羽毛が壁を擦るだろう。鉤爪も床を掻くはずだ。けれど、なんの音もないのなら。
「サイモン。」
思わず、客人が男を呼ぶ。遠くの鏡の中でほくそ笑んでいるのだろう。どこから聞こえるとも分からない含み笑いが届くばかりで、おどける彼が現れることはなかった。
すでに光は半径一メートルほどに縮んでいた。手を伸ばせば届くほどの距離まで闇は迫っていて、けれど、周りの明るさゆえに客人はその中を見ることができない。その先に、怪鳥が待ち構えているのだろう。
とはいえ、縮んでいく円を見ればこそ、ためらう余裕は残されていなかった。行き止まりで仕留められるのは嫌だと、客人が元来た道を戻っていく。進む光円を避けて鉤爪は退がるから、それを追うようなかたちである。
すると、鉤爪は客人の前でなく、横に下がった。曲がる前の廊下に戻って、客人に道を開けたのだ。そのすぐそばを通るのだと、客人の体が壁際に寄った。明るい中だからよく見えたのか、怪鳥がごろごろと喉を鳴らして笑う。そうして通り過ぎた客人を、今度は怪鳥が追い始めた。
光源はといえば、腕を振って歩ける程度に縮まっている。迷ったのを抜いてももう随分歩いたはずで、外観の大きさを考えたなら、もう一つか二つ曲がれば出口のはずだった。
急げば間に合う、と円の先まで伸ばした手が突き当たる。先程の曲がり角と同じくコの字方に曲がった壁に従えば、果たしてそれは、一歩か二歩の先でまた突き当たった。壁が続く方向を手でたどって、まさか、と客人の動きが止まる。手に光源が届くように体をずらし、壁をなぞった。この先が正しい道なら、一つ前の曲がり角とは逆に曲がる道があるだろう。なにせ、同じ方向に曲がり続けたら元の位置に戻ってしまう……それにこの道は廊下のすぐ隣を行く位置にある。同じ方向に曲がろうにも、廊下の壁に突き当たるから進みようがないはずだった。
けれど、壁は角と同じ方向にまた曲がる。
「アタシ言ったわよ。触って道をさがしなさいって。」
んふふ、と含み笑いが聞こえたのは、鏡の壁の中からではない。すでに肩まで縮まった光円の外、すぐ後ろの通路からだった。
「さっきの突き当たり、ちゃんと触ってればよかったのにねえ。」
鉤爪が床を掻く。
耳元で男の声を聞くのと同時に、赤錆色の翼が客人を包んだ。
10/10 10.アトラクション:もぬけのからがあぎとをあけて。(ゴーストシーツ)
落ちた布の下には何も無かった。
客人の足がその場で止まる。運びかけた足を寄木細工の床に戻して、床に広がる白い布を睨みつけるように見下ろした。
ここは回廊だ。劇場の旧館と新館を繋ぐ渡り廊下。片方を壁に、もう片方を大きな窓にと挟まれて、床は大人が三人並んで歩ける濃緋の絨毯に、天井は万華鏡のような模様にと、それぞれ彩られた屋内回廊である。
開け放てば、窓枠に人一人立っても余裕がある窓はといえば、いくつかはカーテンが引かれ、そうでないものはよく磨かれたガラス越しに、外から興味深げに眺める観覧者たちに客人の姿を透かして見せているはずだ。
その窓のもと、二つ、窓を閉ざしたカーテンの影を挟んで対峙したものこそ、先程の布だった。否、客人はといえば、元々それが布とは思っていなかった。廊下の壁にはいくつか扉がついていて、その間ごとに……飾りとしてだろうか……かつてこの劇場で演じられた公演の衣装が飾られているのである。
そのいくつかは布が掛けられていたから、一つだけ窓際で外の明かりを受けていたって、そういうものなのだろうと思ってしまったのだ。中にマネキンでも包まれていると決めてかかって、それゆえ真っ向から怪異を目の当たりにしてしまった。
やはりここはお化け屋敷だ、と気付くと同時に、その"お化け"のギアが上がったのを肌で感じる。思えば、と客人が唾を飲んだ。
回廊の前、旧館を抜ける時から異変はあったのだ。
『ここから新館の出口まで進んでいただきます。一直線ですが、順路の目印としてこのランタンも置いてありますからね。』
誘導員の言葉を思い出す。施設……劇場の舞台整備の間はと催されたこのアトラクションでは、劇場そのものが舞台となるのだという。旧館エントランスから二階席入り口前の待合室へ、階段を登ったところがスタート地点。濃紺の絨毯の待合室を、二階B扉の角で曲がって、D扉まで抜ける。その先には三段ほど下がる階段があって、それを降りた扉を開ければ、この回廊に続くのだ。
そして待合室はといえば、長い不在に備えて調度を覆った白い布がひしめき合っていた。
普段は濃い茶色のソファーや低い卓の、そして幕間には飲料や軽食が供されるカウンター席のある場所がことごとく白い布で覆われて、今は形ばかりが椅子や卓の、石膏の像が並ぶように見えている。劇場に寄贈された衣装や小道具のマネキン、ショーケースも同様に隠されていたし、そればかりでなく、人ほどの紛らわしい大きさをした植木などもそれらに同じとされていた。
それらは待合室を抜ける客人にあわせて、視界の端で捲れ上がったり揺れたりしていたのだ。つとめて気にしないようにしていたからかと、客人が顔を引き攣らせた。ついに直接的に仕掛けてきたのか。
けれど、行かなければ終わらない。客人は出来るだけ壁際に寄るようにして、先程床に落ちた布を避けて行く。爪先でつついてみようと思わなくもなかったが……それで足にまといつかれようものなら、恐慌に陥る自信があった。
だから壁に寄り、背中を預けて布を見張りながらゆっくり進む。その客人の背を、軽く柔らかいものが擦った。
背後のマネキンからも布が落ちたに違いない。そうは思えど、鼻声とも悲鳴ともつかない声が上がる。飛び上がるようにして回廊を駆け抜け、重い防音扉を体当たりするのと変わらない勢いで押し開けた。
その先は新館の待合室。二階席への通路と広間が一体化した部屋であり、旧館より卓や椅子が多くしつらえられている。ホテルのラウンジのようなレイアウトのそれらにはやはり例によって埃除けの布が掛けられていた。
体重で扉を押し開けながら、客人がその中に踏み込んでいく。二歩、三歩と踏み込む頃には扉も閉まって、レースのカーテン越しに差し込む自然光とランタンの朧げな灯のなか、白い布ばかりが光っているようだ。本来ならそのそばなど通りたくはないが、生憎、二階席の入り口前の通路は「整備中」の札の下がったポールで塞がれていた。
仕方なしに、ソファと低い卓の間、あるいは立ち話の時に囲む丈高いカウンター同士の間を縫うようにして進む。前後左右に首を振り振り哨戒するが、それで全ての方向を見渡せるはずもない。
含み笑いのような風音を帯び、布が一斉に持ち上がった。
あるものは椅子に座る人影のように、またある布は行儀悪く卓に腰掛けた客のように、布を被った群衆が突然現れたかのように、客人が周りを人型に盛り上がった布で囲まれる。
それだけでなく、布によっては手を伸ばす……あるいは振って合図する……ように、悲鳴を喉元で詰まらせた客人へ向けて布を伸ばしてきさえする。人の手が入っているのと同様に質量を帯びたそれが、客人の肩を。
この一つを皮切りに、布たちがそれぞれ客人に手を伸ばし始めた。客人は弾かれたように走り出す。時折カウンターに、あるいはソファの角に体をぶつけながら、布たちの手を振り払って駆け抜ける。
けれど、その腕を、あるいは腰を、伸びた布が幾重にも包み込んだ。
10/11 11.コマーシャル:土曜男爵のパブ(地獄のコーヒー)
「おや、お客様お可哀想。ずいぶんシーツに揉まれたようでございますねえ。」
息を弾ませて安全地帯にたどり着く。入り口に掲げられたメニュー表を横目に一息ついた客人が、けれど、こう声をかけられて息を呑んだ。
ここは劇場の喫茶室である。あるいは夜にはパブともなるが、舞台が整備中であろうとも、アトラクションの期間中は通常営業だと聞いていた。その店内へ入ってすぐ正面が、ビールサーバーを備えたカウンターテーブルなのであるが、こればかりは蒸気革命の頃の初代パブから引き継いだという年季の入った木目の上に、嬰児の頭ならちょうど嵌まるほどの大きなカフェオレボウルが置かれていた。
そのボウルから伸びたコーヒーが頬杖をつき、客人をまじまじと見つめて言うのである。
一度気が緩んだこともあってか、客人が棒立ちのまま固まった。そのまましっかりと見つめ合い、白い泡……角か猫耳に似た三角形の突起状の……を被った頭や、客人の指より細いくせに指らしきものまで備えた腕、時折コーヒーに埋もれるようにしてぱちぱち瞬く、人の目を何十分の一に縮小したような丸い四白眼を捉えてしまう。
「コーヒーはお好きでしょうかね。それとももし地元のお方でないのなら、バナナシェーキをお飲みになってから帰られた方がよろしゅうございますよぉ。」
ここの看板でございますからね、と言う声は確かに頬杖をついたコーヒーから聴こえた。カフェオレボウルの中にスピーカーでも仕込まれているのだろう。そういえば、たしかにこれが話すたびにコポコポ水面が波打っているようにも見える。
「はははぁ、お客様、マア随分悪趣味なインテリアよと思ってらっしゃいますね。もしかしてこれのせいかしらん。」
コーヒーの両手が上に伸びた。自身の頭らしい部分の上に乗った泡を押し込むようにして飲み込ませ、ワニが泥水から鼻を出したまま泳ぐようなていでカフェオレボウルの対岸を目指す。ちょっとお待ちくださいよ、と一度振り返って、ボウルの後ろへ体を伸ばす。茶色がかった黒のスライムが垂れるようにするのを覗き込めば、コラッ、とコーヒーが振り返った。
「お客様ァ、見てはいけないものが世の中にはあるんでございますよ。例えばですねえ、わたくしのような!紳士の!身繕いとか!」
ンェエ?と頓狂な声をあげたのは同意を求めていたのだろうか。体ごと持ち上げた両手には掌いっぱいの……けれど客人からすれば手の親指ほどの……白く泡立てられた生クリームが乗っていた。それを筒状に捏ねて頭の上にいただくや、その裾の部分を摘んだりのばしたりして整形する。白いシルクハットに似たシルエットのそれを被って、手に残ったクリームは目の下……ちょうど顔の中央、人なら鼻のあるあたり……へ左右に伸ばす。極小のカイゼル髭を身につけて、コーヒーが胸を張った……スライム状の身体を伸ばして後ろに反らした。
「それで、ご注文はお決まりですかな。」
お決まりでなければこちらにも、とコーヒーがカフェオレボウルのそばを指差す。冊子の形になったメニューを手に取れば、コーヒーも身を乗り出して一緒に眺め始めた。
どうだった、と連れが笑っている。
アトラクションのことかコーヒーのことかと分かりかねて曖昧な返事を返したのは、注文したバナナシェーキを片手に席につく客人だ。アトラクションには参加せずに喫茶室で待ち合わせていたのである。
待ちくたびれさせてやいないかと訊けば、連れが入り口に目をやって微笑んだ。
「サムディ・ブレンドが面白いからね。それに……。」
今はお客さんがいくらかいるけど、もっと空いてきたらテーブルに回ってくるんだよ。
サムディ・ブレンドこそ、あの妙なコーヒーの名前であるらしい。シーツお化けのアトラクションは言うに及ばず、他の街で開催されているアトラクションの話を聞いたと連れが言った。その話を聞く客人の視界、遠くのカウンターで茶色いものが伸び上がるのが見えた。それに遅れて、玄関口の来客ベルが鳴る。
「ンァバナナシェーキはいかがでございますかぁぁぁぁぁーーーーッ!?!?」
視界の端でカフェオレボウルからコーヒーが激しく前後左右に揺れだす。新しい来訪者もまたアトラクションを終えてきたのか、息を整える間も無く咽せ返っていた。
10/12 12.アトラクション:いつかの街の少年人形(ベドラムのユージーン)
手を伸ばせば、人形の顔が客人に向いた。
亜麻布の肌に縫い付けられた青い陶器の目に見据えられ、彼を掴みかけた手が止まる。
人形は棚の上にあった。部屋を二分するようにして中央に置かれた、大人の腰ほどの高さの陳列棚だ。来館者がどこからでも手に取って見られるよう、前面と背面の壁は取り除かれて、棚の仕切りは横と床、天井ばかり。その中にはブリキの人形からテディベア、陶器の顔のビスクドールや布人形と、昔のおもちゃが所狭しと並んでいる。
偶然の動きか、それとも誰かが操作できるようになっていたのか。否、と応えるように、人形が首を横に倒した。人であれば首が真横に折れたようなかたちで、誰かが上から押しつぶしているかのように、人形の首が頭ごとひしゃげる。思わずたじろいだ客人の目の前、人形よりは少し高い位置で、耳障りに錆びた笑い声がした。
「ぼくを捕まえに来たんでしょう。」
知ってるよ、と声の主が嘲笑う。少年のような、けれど、それにしては妙にかん高い、作り込まれたような声だ。人形の首が元に戻って、駄々をこねるようにその手足を上下に揺らした。でも、と客人が言いかける。それを阻むかのように人形が立ち上がった。とはいえ、地面に足はついていない。立ち上がったというより持ち上げられたと言うべきか。
「やだよ。戻るもんか。」
声色が変わる。より低く、錆びた、怒気を含んだ大人の男の声。伸ばしたまま固まった手が、不可視の指に掴まれた。
「追いかけてくるなら、君も出られなくするよ。」
稚気の戻った声が笑った。指が離れ、人形もまた、棚のおもちゃたちの陰に消える。それと同時に棚じゅうのおもちゃたちが小刻みに揺れ出した。
「たすけて。」「逃げて。」「お前もこうなれ。」「あそぼう。」「逃げて。」「気をつけて。」「助けて。」
無数の声が客人に向く。たじろげば、棚の向こうで哄笑が迸った。
「ご存知の通り、当博物館ではかつての住居や乗用車、生活雑貨などを収集しています。当時の生活の史料としてですが……陳列してから、それが超常的なものだと分かることもあるのです。」
空のガラスケースを背後に、学芸員の女性が写真を差し出した。亜麻布でできた、青い目の少年人形。水兵服姿の彼の大きさは大人の前腕ほどだろうか。
「ある古物商からおもちゃを一式引き取りました。その中に混じっていたものですが、後に、ある伯爵家の霊廟から盗んだものと判明したのです。知らずに買ったものとはいえ、当館としては返却を申し出ました。しかし……。」
返さなくていいどころか、当家に持ち込まないでくれとまで言われたのだと。学芸員がガラスケースを振り返る。次いでその目が、客人の後ろ、館内のどこへかへ向いた。
「超常的なもの自体は少なくないのです。お聴き及びかもしれませんが、人影が閉館後の監視カメラに映ったり、動かないはずの物の位置が朝に変わるのは珍しくもありません。彼も、それだけのものなら良かったのですが。」
学芸員の顔が歪む。嗜虐心の塊だったと彼女が言った。面白半分としか思えない部屋の荒らし方をしたり、来館者を脅かしたり。彼のせいで毎年ハロウィンの恒例だった、夜の館内案内も中止になったのだそうだ。
「霊能者と呼ばれる方々にも依頼はしました。けれど、彼に劣れば脅かされて逃げ帰り、格上であれば隠れて出てこないのです。」
だから、その"格上"が一計を案じたらしい。見るからに一般人の……事実、そうなのだが……人物を送り込み、油断して近付いてきたところで人形を奪う。
「彼は人形に取り憑いて来ましたが、全くの一心同体ではないのだそうです。サウロンの指輪やコシチェイの卵のようなもので、力の源が人形なのだとか。ですから、それさえケースに戻して封印すればいいのだと。」
客人の目が写真に向く。人形がよく出るのは昔の通りを模した展示室だと学芸員が言った。今は閉まったシャッターの前、壁にあつらえた防火扉のノブを握って、学芸員が声を震わせる。
「警備員のふりをして入ってください。あの展示室の外に、彼は出られないようにしてあります。人形を取ったらすぐ、こちらか、向かいの出口に走ってください。」
どうか、気をつけて。
客人の背後で、重い鉄製の防火扉が閉まった。
展示室は近現代の商店街を模している。石畳を挟んで両側に並ぶのは、ガス灯、そして雑貨屋や人家のレプリカだ。三階建てのそれらが立ちならぶのだから、雲のかかった闇夜の様子に塗られた壁も天井も、無論それに相応しい高さを得ることになる。両端に並ぶ家屋のいくつかには明かりが灯り、戸も開いていて中へ入れるようになっていた。人さえいれば、少し夜の更けた街並みと見間違えるだろう。
その並びの子ども部屋から客人が飛び出した。追うのは宙を飛ぶサルの人形が二匹、手にしたシンバルをけたたましく客人の耳元で振っている。その音の隙間に含み笑いを聞き取って、客人が悲鳴を上げた。
先程の少年人形も、このサルの人形も、映画で見るような超能力で操られているわけじゃない。それを手にした幽霊が遣っていて、彼はすぐ後ろで笑っている。
振り切ろうと回り込んだのは、路上に止まった馬車のレプリカだ。馬の剥製を掠めるように側面へ回り、箱席の後ろへ駆け抜ける。音が止んだのに気付いたのは、そのまま剥製の横顔に並んだ時である。距離は取りながら肩越しに振り返るが、誰もいない。
物は掴めても相手は幽霊だ。見えないものと分かってはいても、客人は馬車の下を覗き込む。何か居場所を表す手がかりを、手にした猿の影だけでも見えないか。
その鼻先へ猿が飛び出した。グロテスクにすら見える白目がちな目が客人の網膜に触れそうなほど近付き、哄笑を背負って猿が踊り狂った。
客人が跳ねるように後ずさる。馬車の車輪に髪をかすめて、けれどすんでのところでバランスを保ち、勢いを活かして立ち上がった。身を翻した背後で二匹の猿が這い出した。それを追って馬車の影が立ち上がるように、黒衣の男が身を起こす。男は紙袋を被っていた。紙袋といっても青果店で貰うようなマチのついた立派なものであろうはずがない。二枚か三枚の大きな紙を糸で……否、おそらく男自身の髪ででたらめに縫い上げた、皺だらけの不恰好な被り物だ。上の方に一本線に近い裂け目ができていて、電灯の加減によっては青紫色の目が輝くのが見える。
黒衣、あるいは煤まみれか泥だらけのチュニックめいた上衣から伸びた手が、再び猿の人形を掲げた。微かに振り返った客人へ見せつけるようにそれらを構える。
再び騒ぎ始めたシンバルを背に、客人はけれど、自分のすべきことを忘れてはいなかった。かの幽霊は背後にいる、そして両手には猿の人形があるのだ。なら、彼の本体である少年人形は。
客人が子ども部屋へ駆け込んだ。果たしてあの少年人形は、変わらずおもちゃの棚の上にあった。再び騒ぎ始めるおもちゃ達にたじろいで、しかし客人の手が伸びる。擦り寄るような、あるいは微かにしがみつくような布やブリキの中から、ちいさな綿の腕を掴み上げた。客人が内心快哉を叫ぶ。それを、戸口から聞こえた含み笑いがかき消した。
「取ったねえ?」
盗ったね、僕のを盗った。紙袋でくぐもる声は、一言ごとに少年の声の甲高さを失っていく。盗った盗ったと繰り返すうち、それは体躯同様の低く掠れた男の声に変わり果てた。
「ぼくを、とったぁ!」
震えを感じるほどの大音声に合わせて、子ども部屋の照明が明滅する。それを浴びて輝く青紫の目は笑っているが、けれど声ばかりは低く、凄みのなかに怒りをたたえていた。男が両手の猿を振り捨てる。床に転がった人形は、けれど手から離れてなおシンバルをかき鳴らしていた。それに合わせて人形たちが、おもちゃ達が……あるいはそこに閉じ込められた亡霊達が歌い出す。
「いけないんだあ。」
「いけないんだ。」
「いっちゃお。言ーっちゃお。」
「ユージーンに言ってやろ。」
「ユージーンに、言ってやろーぉ!」
それはちょうど、学級裁判で同輩を裁く少年少女の合唱だ。それを受け、両手を広げた男が、"ユージーン"が動いた。一歩ごとに足を早め、客人に向かって飛びかかる。両手で抱きすくめるように掴みかかって、けれど客人はすんでのところでそれを躱した。棚を回るようにして対角線上へ動けば、もうそこは戸口の前だ。緩慢な獣じみた動きで振り向くユージーンを背後に、戸口を越えて客人が走り出す。もと来た入り口はわずかに遠い。それなら、と目指すのは来たのと逆の防火扉だ。
監視カメラで見ていてくれたのか、扉は僅かに開き、そこで客人以上に切羽詰まった顔つきの学芸員が呼んでいる。
人形を抱いて、客人が走る。背後で聞こえる咆哮が哄笑に形を変えながら、近づいてきていた。
10/13 13.コマーシャル:リトルシアター・ポゼッション(憑依の劇団長)
バス停には大きな掲示板が付いている。
四人がけのベンチの背中側、元は透明樹脂製の壁になっていた部分がつい最近液晶画面になって、広告の動画が流れるようになったのだ。普段流れるのは普通の広告。食品や化粧品、そして時折"街の"バス停らしく、区内の自営業の宣伝や市役所のお知らせが順番に映し出される。バス停だからか音はなく、代わりに字幕が液晶画面の左右や下の方に表示されるので、たまに道ゆく人が立ち止まって眺めていた。それは一人、いても二人か三人、足を止めた人の友人が待っていてくれるだけだ。
常ならそうだろう。けれど、この日に限ってはバス停の後ろに人だかりができていた。
『ご機嫌よう!やあご機嫌よう!紳士淑女の皆々様、または良い子の坊っちゃんお嬢ちゃん、お目にかかれて光栄です!』
バス停の上、四人の男女がぎこちない動きで一礼する。……否、果たして男女と言うべきか。かれらはいずれも首がなく、色の白い、マネキンじみた人形なのだ。それがスーツを着て、あるいはドレスを纏い、でなければ舞台衣装じみたマントを、もしくは土まみれの襤褸を身につけて踊っているのである。
見る人が見たのなら、操り人形のような動きだったと言うだろう。けれど手足に繋がる糸は無く、その頭上にも巨大な操り手の姿は無いのである。
『皆様、上ばかりにご注目ですが……見逃しても知りませんよ、我らがサナトリウム・ホラーハウスについて!』
果たして、繰り手は画面の中にいた。赤いリボンの巻きついたシルクハットに、黒い燕尾服。焦げて欠けた地球儀のような半貌を帽子の陰に隠して、細身の女が人形の糸を引いている。
『世は賑やかなりし10月、万聖節も近付いておりますね。我ら人ならざる隠遁者どもも、この時期ばかりは大手を振って歩いてみたい、皆々様の中に混じって遊行の限りを尽くしたいのだと常々願っておりまして、さて、その結実こそ、今回の企てでございます。さあご覧あれ。どうです、おや、貴方様方の見知った街角ではございませんか?』
燕尾服の女の背後で風景が変わる。糸を繰りながら女が行くのは、赤と黄色を基調にした回転木馬の横。石階段の上には円柱が聳え、その情報には博物館の文字が見えた。
玄関の先には近世の街並みが再現されていて、石畳を模した床に、今にも走り出しそうな馬車が据えられている。その馬車の荷台で、子どもが胸に抱えられるほどの少年……否、水兵服の人形が立ち上がった。誰かに握られたようにその手がひしゃげて、手を振るように左右に動く。
『こちらは皆様ご存知の博物館。"いつかの街の少年人形"たる、このユージーンがお待ちしております。』
燕尾服の女の手の指す方へカメラが向く。それと同時に入った映像ノイズの中で、人形の後ろに誰かが立っていた。長い蓬髪の隙間から、哄笑が聞こえそうなほど開いた口が覗く。
『お次は……ほら、あの三角屋根の修道院に見覚えは?こんな長閑な路地にだって、わたくしどもは巣食うのですよ。』
屋内博物館の壁の空から、本物の晴天へ。燕尾服の女の背後の風景が切り替わる。煉瓦塀と石畳の小径だ。よく陽のさした暖かそうなその路地の隅、垂れ下がった街路樹の枝と塀の間に土気色の肌が覗く。密かにまた身を隠したそれは、襤褸を纏った毛の無い獣、もしかすると狼ではなかったか。
燕尾服の女が画面の中で糸を繰る。それに合わせて、バス停の上から人形の一人が降り立った。襤褸の人形だ。ぼろぼろの外套を何枚も重ねたようなその着衣の中から、罅割れて土の詰まった黒い指が伸びる。類人猿さながらに手足四本を蠢かせて観衆に近付いては、時折すばやく手を伸ばして威嚇する。
『こちらは"石畳の獣道"。狼男の巣食う路地裏での散策をお楽しみいただけます。』
女の手と人形の手とが、ハイタッチさながらに画面を挟んで打ち合わされる。彼女の労いを背に、襤褸の人形がまたバス停の上へ飛び上がった。
それと入れ替わるように、今度はスーツの人形とドレスの人形が地面に降り立つ。スーツの人形が手を差し出せば、片割れも手を重ねて体を委ねる。
『それから、これは少し見慣れないでしょうね。けれど、さあ、一歩出ればいかがです?聞こえましたよ、どなたですか?駅前のショッピングモールだと当てた方は!』
画面に広がったのは窓越しの舞踏広間だった。濃紺、桃色、真朱に若草色。翻るドレスと燕尾服の裾とが、白い石材の床に花開く。暗転と共にアングルが変われば、それは赤い緞帳の隙間から広間を覗くレンズの視線だ。その眼前を通り過ぎるのは、両手を翼とした男、鹿角をそなえた淑女、猫の獣頭をした娘、蜘蛛の八本足を蠢かせる老紳士。窓越しに踊り過ぎる異形から身を引くなら、その視界に広間の壁の終わりが現れる。果たしてその隙間に、見慣れた家電量販店や服屋の店先が垣間見えた。
『これこそは不暁の晩餐会。朝も来ず救いも無い生贄の祭壇でございます。麗しの怪物たち、そして主賓の吸血鬼があなた様たちをお待ちしておりますよ!』
人形の男女が踊る。狭い場所でステップを踏み体を揺らし、ドレスの裾を花のごとく振り広げた。
『そして、最後のご紹介』
スーツの人形がかたわれの手を引き、バス停の上へ跳び上がる。降り立ったのは、長く黒いマントを羽織った人形だ。百年前の殺人鬼を思わせる姿で悠然と、緩慢に観客の前を行き来する。
画面に映るのは学校だ。このバス停から数駅も先、今頃は文化祭の時期の大学である。
『何処なのかは、さて、バス停の駅一覧を見てのお楽しみ。ここにも我らの仲間がいるのです。……いえ、"仲間たち"が。将来有望な若き学徒たち。彼らの作り上げた作品たちは何より雄弁に語るでしょう。恐怖とは美しいものであるのだと!』
映像は大学に近づいていく。本館、その正面玄関の前で止まったレンズ越しの映像は、成人が玄関を前にした時のそれだ。
果たして、正面扉は開いていた。お化け屋敷というには煌びやかな室内に、鮮やかなパステルカラーのドレスや植物に似た立体作品が遠く見える。そこへ男が進み出た。ぽわんとした袖のエプロンを身につけた彼の腰元で、悍ましい形の器具が揺れる。逆光を浴びて黒い影と化した彼が手を胸に当てる。優雅に一礼したその眼前で、ゆっくりと扉が閉じていった。
『ここに潜むのは我らが人杖職人。そして何より幽幻妖美なる、若き才能の作品たち。どうぞ、畸玩城でお待ちしております。』
マントの人形が画面越しに一礼を返す。そうして観客へ振り向けば、その横にドレスの人形が、スーツの人形が降り立った。
そして、バス停の上に残った襤褸の人形。我が身のぼろ布を引き剥がせば、細身の女がその中から現れる。どこに隠していたものか、シルクハットを被り直し、背筋を伸ばして立ちあがった。
「紳士淑女の皆様方、ご清聴感謝致します。そして一目奪われてくれたお坊っちゃんお嬢ちゃん、その一瞥こそは格別の喜びでございます。さあ、もし気になったらおいで下さい。詳細は"巡業サナトリウム・ホラーハウス"で是非、検索を!」
女と人形たちとが一礼する。人間のように滑らかな動きは舞台劇の終幕を思わせた。
「では皆々様、ご機嫌よう!」
女が手を大きく振る。路上に降りていた人形はその動きにならって飛び上がり、バス停の上に据え付けられたように動きを止めた。女もまた襤褸の人形に身を隠し、人形として紛れ込む。そうなればもう動かない。次のコマーシャルの時間が来るのを、観客たちの声にほくそ笑みながら待ち構えている。
10/14 14.アトラクション:古都の獣道(石畳の獣)
踏み込んだ路地には木漏れ日がおちていた。
目の前は人が二人行き来できるような石畳が伸びていて、家一軒分ほど先に曲がり角が見える。道の片側は所々漆喰の禿げて煉瓦の覗いた家屋の壁で、もう片側は苔生した石壁だ。どちらも丈高く、その向こうの様子は見えない。辺りに人の気配は無く、それどころか、一つ塀を挟んだだけの通りの雑踏すら遠く感じた。
忍び足で踏み出した客人が、肩口から襷掛けにした麻紐を握る。長く垂らしたそれには一本の銅の鍵が下がっていて、これこそ、終着点である路地の向こうの扉を開けるのに必要なものだった。
「狼に喰われても離さないように」
入り口のもぎりで半券と換える時、一緒に受け取った紙にはそう書かれていた。この穏やかな、明るい路地のどこかに狼がいる。客人の目が物陰や路地の先をさまよった。
「俺のアトラクションは聖メリーズのそばだ。ヨーク駅まで電車で来りゃあいい」
かつて、狼は客人たちにこう囁いた。駅前広場での公開お化け屋敷……狼に捕まる前に目的地に着けば勝ち、という短期決戦……で惨敗した時のことである。リベンジだと休日に乗り込んだのが、この保護街区の路地だった。それを思い返す客人の肩に木の葉が降る。
「見知った匂いだと思えば、お前じゃないか」
かすれて錆びた獣の声が聞こえたのは、客人の頭上から。見上げた塀の上、路地に垂れ下がるように伸びた古樹の枝に身を乗せて、狼が牙を剥いていた……否、唇を持ち上げて笑っているのだ。
「嬉しいねえ。期待してなかったと言えば嘘になるからな。……まさか、お友達のヒヨコも一緒か?」
ピヨピヨ、と鳴き真似をして、狼が野卑に笑った。からかわれていると思っても、客人の舌が凍りつく。体ばかりは狼に向け、重い脚は引き摺るように路地の先へ後退する。
「おい、おい、つれないな……顔だけ合わせて終いなんて。なあ?」
お楽しみに来たんだろう、と狼が身を起こす。枝から塀へ、そして路地の石畳へ軽やかに降り、色褪せたトレンチコートが陽に晒された。
着古されたトレンチコートに擦り切れた紺のスラックス。それを着た無毛の獣が四つ脚をつく。立てばそこらの男性より大柄な、自販機ほどもあるだろう体躯の魔物だ。スフィンクス種の猫に似た……というには鼻先の長い、狼に人の皮を移植したような異形が吠えて、慄く客人を笑う。そう怖がるなよ。
「ほんとはな、まだ、俺の出番じゃないのさ。」
客人が退がるのに合わせて狼が踏み出す。一足ごとにわざとらしく爪で石畳を擦って、けれど口から出るのは猫撫で声だ。
「この路地ってのが駅のホームくらいに長いんだが、俺が出ていいのは真ん中あたりって言われてる。最初から追いかけ回したら、客人が保たねえからだと」
それにな、と狼が言うには、路地には幾つか分かれ道があるのだそうだ。塀の向こうの空き地や空き家と路地を行き来しながらでも進めるようになっていて、横道に逸れるほど歩行距離も長くなる。ヨーク駅を駆け回るようなもんだと狼が笑う。なあ、再戦は最後にしようぜ。
「代わりにこの路地の話でもしながら歩こうじゃねえか。この辺は俺も昔馴染みでね。ホワイトチャペルの次くらいにはうまく案内するよ」
机の下から夕餉のおこぼれをねだる犬さながらに、狼が上体を下げて上目遣いに客人を見る。その客人の足が引っ掛かる。置かれていた木箱に気付かなかったのだ。そのまま腰掛けるようにへたりこんだ客人の眼前へ、狼が顔を寄せた。血生臭い息がかかる。
「なあ、どうだ?」
上目遣いで狼が請う。皮に骨の浮く、鼠のそれにも似た尾が鞭のように石畳を叩いた。
客人が頷きかけた、その時。
「おっと」
伏せでもするように上体を下げた狼の、トレンチコートの胸元から棒状のものがまろびでた。四本半の細長い突起を備えた白い膨らみ。細いベルトの時計をつけた手。それに、橙色の模様を付けたその爪は。
「お目汚しで悪いね、3時のおやつだ」
客人の目が狼の牙に向く。その向こうに見るのは、順番を待つ間の光景だ。一つ前の客人が、たしかそんな爪をして、あんな時計を付けていた。
身を強張らせた客人の前で、狼の目が半月型に細まった。どうした、と狼が訊く。お前今、何に思い当たった?
「オン!」
犬さながらに吠えてみせれば、弾かれたように客人が転がった。身を翻した客人もまた獣のように、脚と片手で体を支えて駆け出していく。
狼の哄笑を背後に路地を曲がれば、うってかわって日陰に入った。陽光に慣れた目には暗闇に近いその中を、時折物や石畳の凹凸に脚を取られながら客人が駆ける。少し離れて、その後ろを四つ脚で……彼からすれば早足程度の歩調で……狼がその後を追った。
暗い路地は直線に見えて、その実、いくつもの分かれ道を用意してある。例えば、客人の身を横にしなければ通れないような家同士の隙間。あるいは、扉が開け放たれ、侵入可能の案内札の下がった空き家。狼の入れない近道も、その目から逃れる避難場所も備わっているのだ。そしてこの客人はといえば、家同士の隙間に身を滑り込ませた。
「いい所見つけたなぁ!ヒヨコがうさぎの穴に入るってか!」
三、四歩も踏み込んですぐ、来たばかりの路地に狼の顔が覗いた。届かないのは目に見えた隙間を前脚で掻き、あるいは鼻先を差し込んで哄笑を浴びせる。対して、客人は安全地帯にいる余裕から笑顔を返した。狼の目が丸くなる。けれどそれも一瞬で、直ぐ、また半月型に笑みを浮かべた。
「そうこなくちゃな。出た先が不思議の国でも、川になるほど泣くんじゃねえぞ……」
狼の頭が路地に退がる。そうして路地の先へと爪音が遠ざかるのを聞いて、客人も慌てて隙間に身を滑らせた。
けれど、その脚が止まる。
先回りされているのは明らかだ。きっと出たところで待ち伏せされているか、でなければもっと自分を怖がらせられる場所で待ち構えているだろう。その裏の裏をかかなければ、無事に出口へは辿り着けない。
なら、狼は、彼はどこで待っているだろうか。出口の前ということはないだろう。逆に、この隙間を出た直ぐ横に身を潜めているようにも思えない。そう考えて、客人の脳裏にあの短期決戦が蘇った。
「五秒だって構わねえや」
ハンデを与えるよう言われた彼の言葉だ。自分たちが全力で駆け出しても、5秒分くらいなら一息の間に追いつける。あの言葉を彼もまた思い出していたとしたら、出口の前の直線の路地を少し行くまでは、もしかして。
客人が今度こそ急いで這いずり出る。しかし、向きは逆に、来た道を戻っていた。早足に暗い路地をも戻り、その入り口、明るい路地との曲がり角に立つ。その眼前には木戸があった。侵入可能の札のかかった、鍵の無い木戸だ。押せば容易く開くその先は、苔むした花壇と雑草だらけの芝生からなる、いつか庭だった空き地に繋がっていた。そこに狼の姿は無いことを確かめて、客人が草地を駆け出した。壁沿いにもう一つ、二つ、三つ木戸が見える。いずれも侵入可能の札の下がったものだから、正しく選べばその先は、暗い路地を抜けた先に繋がっているのではないだろうか。追手の姿の無い状況に緩みかけた自身を叱咤して、一番奥の木戸を客人が開く。
「ヒヨコの割にはよく考えたよ」
その頭上に木の葉が降る。錆びた笑い声が降り注ぐ。木戸の上、門柱に飾られた首無しの怪物像にもたれるようにして、狼が歯を剥き出していた。
もつれた脚で客人が駆け出す。もう十メートル足らずもない出口を前に、その首筋に生暖かい息がかかった。
10/22 コマーシャル:街角のリトルローズ(リトルローズ人形)
「動くだろ」
「いや絶対動かねえから」
「そうそう、そう見えるほどそういうもんだよ」
「動くって!俺らの言うこと聞いて、内心いま笑ってんだよ!」
よくお分かりね、と娘が密かに笑った。
騒ぐ彼らとの距離は三メートルほどか。商店街の通りのあちらとこちら、それぞれ壁に背をつけるように相対して、娘は少年たちが騒ぐのを聞いている。
娘は椅子に座っていた。本来なら路上にあるはずのない、木製の古い長椅子だ。濃紺のビロード張りのクッション部分に腰を下ろして、背筋はぴんと伸ばし、揃えた膝に両掌を添えるようにして行儀よく座っている。そしてこの長椅子には、彼女の隣にチラシが一山乗せてあった。加えて、ご自由にどうぞ、と案内が添えられている。
「動くから!ギャーとか叫ぶんだぜアレ絶対!」
「そんでお前の喉に噛み付く」
「分かってんじゃん!」
そんな事するもんですか、と娘が笑みを引っ込めた。麗しの令嬢に対して何考えてるの?
とはいえ、そう思われる理由は娘の隣にあった。日本で言うならA1サイズの立て看板。『サナトリウム・ホラーハウス』のロゴが大きく描かれたそれには、吸血鬼、魔女、大蛇にゾンビ、継ぎはぎの顔の怪人……そしてよくわからないキノコのようなものや、何がどうしたのか二つの目玉のついたポップコーン……彼ら異形異貌の怪物怪人たちが顔をそろえている。
そう、これはお化け屋敷の看板なのだ。ハロウィンの月に各地を回る、巡業ホラーハウス。ここで座る娘もまた、すこし離れた博物館で開催されるアトラクションの広告塔だった。
彼女の大きさは小学校に上がる前の子どもほど。緩く巻かれた金髪を紅葉色のボンネットから覗かせて、それと合わせた秋色のドレスに身を包んでいる。その袖から覗くのは文字通りに白磁の肌だ。手指の関節までに目を凝らしたら、彼女が何であるかも分かるだろう。
彼女の体は球体関節。滑らかで端正な無機物の貌を見て、少年たちは恐ろしい想像を掻き立てられたに違いない。なにせ、娘が人形だと知った時の愉快さといったらなかった。監視カメラでも付けておいてくれたなら、あの弱腰の子が道の端から端まで飛び退くのを撮れたのに。
さて、続いた問答では、果たして弱腰の少年が折れたらしい。対岸から見守る同輩を振り返り振り返り、腰の引けた彼が忍び足で人形に近づく。叫ぶのは下品ね、でも動くだけじゃ能がないわ……。どう脅かしたものかと悩む間に、少年の手がチラシに伸びた。仲間の分、と言うには少し多めに掴むのを、咄嗟に人形が呼び止める。
「待ちなさい」
少年の呼吸が止まった。眼球だけが恐々と自分へ向くのを、人形が満足げに睨め付ける。
「取りすぎよ、おちびさん」
悲鳴とも肯定ともとれる吐息を返答として、少年は律儀にもチラシを仲間の分だけ取ろうとする。とはいえ、震える指先ではうまくいくはずもない。仲間たちが囃す声もまた、焦りに拍車をかけた。
少年がまごつく間に、人形が語りかける。
「聞こえてたわよ。気になってたのよね?あたしが動くかどうか」
人形の唇は、陶器の舌は動かない。けれどどこからともなく聞こえる囁きが、確かに少年の耳に届いてくる。彼と同い年くらいの女の子の声だ。人形が喋るのならこんなだろう、
その想像通りの声が少年を誘った。
あなたが驚くより面白いことしてあげる。
「だから、あいつらみんな連れていらっしゃい」
そう囁けば、少年の手がひととき止まった。
動かなかったとでも言えば来るわよ、と人形が奨めたのを鵜呑みにしたかは分からない。遠目にも案じてしまうような震え声で何事か誘っていたようだが、果たして、同輩たちは少年の発案に乗ったようだった。
仲間内で最も体格の良い少年が人形の前に立つ。中腰になって顔を覗き込んだ彼へ、死角から人形が手を伸ばした。
10月の巡業サナトリウム