ある素晴らしき人生

男は、本当に信ずるべきものを探していた。

 「ある素晴らしき人生」

 その男は仏門の子であった。父は代々由緒ある寺の僧侶だった。男は、幼い時から殺生を禁じられてそだった。でもその僧侶である父は、人が育つためには、少しの殺生も必要であると悟りを持っていた。なぜなら、人は、成長期において動物性のたんぱく質が必要なことをしっていたからだった。だから父は、ちゃんと肉も食べさせてくれたし、食べるということに関しては頓着しないでいてくれた、そのおかげで男はある意味自由な宗教観を持てた。
 だから、自分から、無益な殺生は絶対にしなかった。一度、野球のバットを振っていて、蜂を振ったバットに当ててしまい、殺してしまったことがあったが、僧侶である父は、やさしく言って聞かせた。
「おまえは、蜂を殺した。だが、その蜂を意図してころしたのではない。蜂の方がバットにあたったのだろう。ならば因果は蜂の方にある、多分その蜂は、前世でおまえとなにか因果があったのだよ」
そう、言われてみると、そのときは本当にそう思った、だから罪悪感はなかった。だけどある日、公園で仲間たちと遊んでいると一匹の蜂に、刺されてずいぶんいたい思いをした。だけど死んだのは蜂の方だった。蜂は自分の毒針を刺すと死んでしまうのだ。刺された自分の方は、消毒液を塗っていたらあっさりなおってしまった。
僧侶である父はこう言った。
「蜂は、やはり、因果応報にのっとっておまえを刺しにきたな、だが、蜂というものは因果な生き物だ。毒針を刺して抜き取られると死んでしまうんだ、いいか?全ての毒のある生き物にはこういう因果があるのさ。おまえは人間に生まれただから人間の因果をもっている。それは生きることにたいして苦しみ悩むという因果だ。人間は無駄に頭がよいからそんな簡単なことに悩むのさ、おまえも大人になればわかる」
 やはり、父の言葉には説得力があって、そのときもそう思った。
ある夏の日、墓参りにいった僧侶の息子は、寺の門前で、くもの巣にとらわれた、くもを見た、それはとても奇妙でなんだか悲しい光景だった。子供であった男は、それをなんともなしにみていた、あがいているくもはどんどん衰弱してついには動けなくなった。夏の暑い日だった。
 男は、墓参りを済ませて墓石を見て思った。その頃には、男は思春期に入っていて、仏教というものについて深く考えるようになっていた。
 そしてこう思った。
「あの、くもはあろうことか同じくもの糸に絡んで死んだ。人間だって同じように死ぬんじゃないかと。もしかしたら仏様がぼくにそれを教えたかったのか?だからあの場に立ち合わせたのだろうか?」
 僧侶の父には言わなかった。父に言えば、すぐに答えは出ただろうが、それでは本当に自分が、殺生がなぜ悪いかをしることにはならないと。
男は青年になっていた。
男はだんだん、仏門の僧侶である父とそりがあわなくなり、家を出て自立する道をすすむことになった。
そのころ、男はなにが良くて何が悪いことがそれをはじめから考え直そうと思っていた。いままで、仏教の教えで、そのように考えていたことを一から考えるということをしなければと思ったのだ。
他の人たちは、やれ、就職だの、やれ大学入試だの、忙しくしていたり、男をまだそんなことで悩んでいるのかと、冷やかしあり、からかったりした。
だけど、男は自分が一番分からないことから逃げることが一番勇気がないことだと思っていた。そして、自分が考えていることはそんなに、自分が生きることにおいて的外れではないと考えた。
そして、ある日のことだった、男は町の角で聖書を配る女に出会った。女は「神のご加護を」といってそれを手渡した。男はその女がきれいだったのとそれから宗教的に興味があったので女とその聖書について話し合った。
女は言った。
「私は、思うの、この創世記という聖書の最初のところでアダムとイブが善悪の木の実を蛇にそそのかされて食べてしまうという記述は、貴方のように子供が大人になる時必ず何が正しくて何が悪いかを知ってしまうことじゃないかと。だってこのアダムとイブは最初は子供のようだけど、善悪の木からそれを食べたらとたんに大人のようになって楽園から追放されたのだもの。私はね、子供の時のあの自由な感じを大人になってから味わったことがないの、頭では、子供のときのように楽しめばいいのにと思うのに仕事とか、お金とかそういうものに縛られてなかなか自分の楽しめることを楽しめないの、それは人生を楽しめないということなの、私は、キリスト教をしってからいろいろな聖人の話を聞いたわ、しってる?アシジのフランシスコっていう人を。その人は子供のときのように動物と話して、いつまでも動物に好かれていたそうよ、わたしもそうなりたいの」
「仏教では、禅をすることで、悟りを開いて仏と同じようになろうとするよ。それは厳しい道だけど、この世のいっさいを悟った時は、自由な気持ちなんだろうね、だけどぼくはいやだ、仏教には、君の言う子供らしい楽しみが一切ないんだ、あれはダメこれはダメって禁忌ばかりで、だからぼくはいちからものごとを考えたいんだ。ぼくは君ともっとはなしたいよ。君のいってることはどれもぼくには新しいことばかりだ」
そうやって、二人は、いろんなことを話し合ったしだいに二人は、自分の持ってる悩みや苦しみを自然に話し合う仲にまでなってついには結婚した。
仲間内からはこんな美人の女の人と男が結婚するなんて、と驚かれた。
そして、二人の人生は幸せなものとなるはずだった。
しかし、戦争が起こった。
男は兵隊に駆りだされ、女は、工場で兵器を作らされた。いうとおりにしなければ、その場で殺されていたかもしれない。
だから二人は絶対に再会しようといって別れた。
そして男は、南米へ出兵され、そしてそこでとんでもないひどい体験をした。男はあれほど、自分を戒めていた殺生を山ほどしなければならなかった、それどころか、南米の虫には、病原菌があって、自分の肌につけばいやがおうなしに殺さねばならなかった。
男は、なぜか、分からない罪悪感に打ちのめされて絶対にあの、女の人がいっていた天国とやらにはいけないと思った。だが、そうやって自分をせめていながらも戦争はすすんだ。
密林の中を何日も転げ回ったあげく、男は仲間たちとはぐれた。
そして七日七晩、敵の影に苦しんだあげく、男はある崇高な決意をした。
これから、敵に会おうが味方に会おうが、虫に刺されようが自分は、絶対に殺生をしないと。
男は、木の幹に上って、樹上に枝をはって、寝られる場所を作った。そして、唯一、持参を許された聖書をかたわらに、そこで自給自足を、することにした。
南米の木にはフルーツがなるのでそれを探し当てては食べた、ひどい時は木の幹すら削って食べた。それは即身仏という、いきながら仏になる修行法のなかの一つに木の幹を食べるというのがあったからだ。
そして気を紛らわすために聖書を唱えた。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。
情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちが、まだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

そうやって聖書を読み進んでいく度に、まえには思わなかった不思議な気持ちになった。この困難な状況においてそれが全然苦痛でなく、むしろ、自分は日々生きることができて、食物さえ、時には、フルーツというこの上ない、美味のものさえ、食べられる。そして不思議なことに、自分からは殺さないと誓ったあの日から、虫に食われることさえなく、不思議と熱病にはかからなかった。
一度、熱病らしいものにかかって数日間、うなされたことはあった、だが男は強い信念でそれに打ち勝った。なおかつ、男は自分に誓いを立てるほど心が強くなっていたから熱病にかかったとさえ思わなかったのだ。そのせいか治りも早かったのだ。
男の目には、深い慈悲の心が宿り、そして、男はゆっくりと起き上がった。
そして自分から傷ついているものはないか、見に行った。男は戦争に行く前、すこし、医者の手伝いをしたことがあった。それは、自分が正しいことと悪いこととはなんなのか考えてのことだった。
すると密林には傷ついた人がやまほどいた。
男はそれを、敵味方関係なく救った。
持てる自分の知識を総動員して、骨の折れたものは接木(つぎき)をし、銃弾に倒れたものは、銃弾をナイフで穿り返して消毒に兵たちが持っていたウイスキーで洗った。
熱病に倒れたものは、しっかりと、休ませ体温に気を配った。
そして、そこは敵味方関係なく、傷ついたものを癒す野戦病院のようになった。

それから三十ヶ月がたって密林に平和を告げる、兵隊がやってきた。
「みんなあ、聞いてくれ、戦争は終った!もう殺しあわなくいいんだ。家族の下に還れるんだ!」
 その声を聞いて、男はやっと自分を赦し心から涙した。
 そしてその兵隊たちに導かれ、男は戦場を看病した敵味方関係ない兵士とともにそれぞれの国へ帰国した。
 すると男に、奇跡のようなことが起こった。
 あの、きれいで優しかった自分の妻が生きて自分の元へ現れたのだ。
 男はこれこそ、神の救いだといって、妻を迎え、そしてそれから、空のように澄んだ心で妻と一緒に最後の余生を送った。
 妻には子ができ、子には自分の培った道徳をちゃんと教え、すばらしい人生を送った。
 その、最後の人生において男も妻も、子供のように自由であった。
 男はその後、医者になっていろんな人を救った。
 男が死ぬ時、どこからともなく、人は集まり、外国の、あの戦争の時助けられた兵士たちさえ、報せを聞きつけてやってくるほどだった。
 男は八十二歳で、この世になんの未練もなく心から悲しんでくれる人たちに囲まれて死んだ。

               完

ある素晴らしき人生

この作品をとおして一度宗教というものを考えてみてくだしさい。信じることをしなくなり世の中が欺瞞ばかりになれば、それはもう、つまらない。

ある素晴らしき人生

男は仏門の子。ある日カトリック教徒の美女に出会い、二人はそのまま、戦火の中へ飛び込むことに。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-06

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