潤雪腐し 序章
春が満ちていく。
北の民の誰もが待ち望んだ季節は、日ごとその芳しさを増す。雪解けの森に花が咲いたのち、新緑が拡がって空は明るく澄み、町を包む海風も冬の鋭さを忘れたように柔くなる。
朝のまぶしい目覚めは胸躍る喜びがあり、メガリナは起きてすぐに部屋の窓を開けた。それから階下へ降り、ひょいと台所を覗きこむ。
「メガリナおはよう、早起きさんだねえ」
姉のレヴィアが、手を止めずに笑いかけてくる。
「おはよう」
早起きなのは姉の方で、もうスープの匂いがした。レヴィアはいつもこうして一番に起き、家族分のおいしい朝食と父の弁当をつくってくれる。
「レヴィア姉ちゃん、私お茶淹れるよ」
「ありがとー助かるー」
それがどれほどありがたいことか、メガリナはそれが一度途絶えた時期に痛感した。以来、できるだけ姉を手伝い、力になろうと努めている。
「あ、」
戸棚からティーカップを出そうとすると、横から青白い小さな手が伸びてきた。
「……わたし、出すのやるね」
「プロラ」
末っ子のプロラが、おずおずと盆を持ってそばにいた。
「おはよプロラ、ありがとう」
「おはよう、助かるわあ」
メガリナが言い、レヴィアもそう笑うと、プロラは囁くように「おはよう」とはにかむ。
この内気な妹も、懸命に姉の助けになろうとしているのだとメガリナにはわかる。まだあどけない年齢だがそれだけに、プロラの行動は純真で真摯だった。
父が台所へ顔を出す頃には、朝食ができあがって食卓に運ばれていた。メガリナと妹が淹れた犬薔薇の茶も卓上で五つのカップに注がれ、爽やかな香気を立てている。
「父さんおはよう、ごはんできてるから食べちゃって。お弁当もここに置いとくね」
「ありがとうな」
姉が言うと、父は目を細めて着席した。
父は、昔かたぎの狩人で、それゆえか生まれもった性分か、とにかく寡黙だった。娘ばかりに囲まれているせいで、無口さがいっそう際立つともいえたけれど。
「ちょっとメガリナ」
みんなが食卓についた時、ばたばたと階段を降りてくる足音がして、
「自分が起きたからって窓開けてかないでよね、鳥の声がうるさくて寝てらんないじゃない」
メガルが現れざまに怒鳴った。だが、
「寝てらんないってメガル、どっちみち起きなきゃいけないんだからちょうどよかったでしょ、ごはんできてるから食べなー」
姉のレヴィアがけろりと返し、プロラもメガリナへ「わたし鳥の声で起きるの好き」と耳打ちしてくる。メガルの短気は毎度のことで、家族は慣れっこになっていた。
メガルはメガリナの、双子の姉だ。部屋は一緒で、真ん中から布で二つに区切って使っている。
「何よ父さん、にやにやしちゃって」
洗面を済ませてきたメガルが席へ座りざま、今度は父に言葉をぶつけた。
「なんだかんだ言って、父さんレヴィアねーさんが帰ってきてごはんとかおべんとつくってくれんのが嬉しいんでしょ」
「……いや、……」
父は、見るだに困った顔をして眉を下げた。赤すぐりのジャムを山と塗ったらい麦パンを持つ手も止まり、苦笑いしている。
「……まあ、あたしもだけど」
メガルがつけ足したひと言に、みんなが顎を上げて目が合った。当のメガルは照れくさそうに、黒すぐりジャムの瓶を取って自分のパンへしこたま載せた。
姉レヴィアが「帰って」きた件について、これまで家族の中でも真正面からは、どことなく話題に出しにくい空気があった。けれども、メガルの発言で、メガリナはそれがひとつ融解したような気配を感じた。
「……ありがとね、メガル」
レヴィアがかすかに唇を噛みしめ、それからにっこり笑って言った。
「そう言ってもらえてうれしい。姉ちゃんがんばらなきゃだね」
姉のレヴィアは、今年の冬の終わりと春の始まりが重なる頃、東の町スリガへ嫁いだ。まだ雪も深い寒い中、挙式を経て婚家の人となったがそのわずか半月後、離縁されることになって帰ってきた。
当初、メガリナは、姉がどうしてたった半月で離縁されたのか、不思議でしかたなかった。あの通り一番遅くまで寝ていて家事もろくに手伝わないメガルならともかく、料理上手できびきび働く姉がなぜ、と疑問だった。
離縁の理由がわかってのちは、もうそこには触れず、姉を助けて力になることにのみ注力してきた。いま姉は、外を歩くたび「レヴィアちゃん? あんたお嫁に行ったんじゃ」「離縁されたって本当かい?」と寄せられつづける問いをいなしながら仕事を探している。結婚前に働いていた学校では次の人手が決まってしまい、しかし、姉は家族には気苦労を見せず陽気に振る舞っていた。
「それじゃみんな、行ってらっしゃい」
季春の朝陽が楡の木の影を淡く描く。レヴィアとプロラが手を振ってくれ、町の市場へ勤めるメガルが最初に出ていった。メガリナは父と並んで手を振り返し、浜風の下を進みはじめる。
メガリナの職場は港に近い宿屋で、森へ向かう父とは途中まで道が同じだ。ほとんど毎朝、こうして父と一緒に出勤する。父はあの無口ぶりだから会話が弾むことはないが、
「父さん、葉っぱが増えてきたね」
とか、
「父さん、ななかまどの花ももうすぐかな」
などと、目についた変化を口にすれば、いつでも微笑んで諾ってくれた。
この日の朝はとりわけ温暖で、じきに来る初夏の香りを思わせた。メガリナはわくわくして、
「ねえ父さん、今年は果実摘み一緒に行かない? 去年ほら、私たち早いうちに行っちゃって、結局二回行ったって話したでしょ、父さんと一緒に行けば間違いないもんね」
と、ちょっぴり気の早い話を振った。近くの森での果実摘みは夏至の時季の恒例だが、ここ数年は姉妹だけで行っていて、たまには父とも行きたいと思ったのだった。
弁当の包みを抱えた父は穏和にうなずき、それから、ふと立ちどまった。
「メガリナ」
「ん?」
「今晩帰ったら。……おまえたちみんなに、父さんから話したいことがある。おまえからみんなに、そう伝えといてくれ」
「うん、わかった」
メガリナは父のその言葉を、「珍しいなあ」と思い、だが訝しむことなく返事をした。
驚きはしたがむしろ、寡黙な父が、自分たちへどんな話を聞かせてくれるのだろうかと、期待する気持ちの方が強かった。
「メガリナ! 大変なの!」
昼を過ぎた頃、勤め先の宿屋へ姉が駆けこんできた。
メガリナは昼食を終え、前掛けを直して仕事に戻ろうとした矢先だった。
「レヴィア姉ちゃん? どうしたの」
姉は青ざめ、そこにいた宿屋の面々へ挨拶するのも忘れている。そこまで慌てることって、とメガリナが怪訝に感じた刹那、気丈な姉がそこへ頽れ、
「……父さんが、父さんが、……」
声にならない声で続けた。「父さんが森で死んじゃった」と。
まさか、とメガリナは思い、しがみついてくる姉の手を握った。
そんなはずない、だって、なんで、そんなことあるわけない、めちゃくちゃに巡る思考の渦中で朝の、うなずいてくれた父の横顔が浮かんだ。
「……姉ちゃん、メガルとプロラは?」
現実感がまったくなくて、そのうちに思考はかえって冷静になっていった。尋ねると姉も少し動揺が鎮まったものか、
「メガルには、これから知らせにいくの、プロラはうちで父さんについててくれて」
息をついで答えた。
「わかった。うち帰ろう、メガルには私が知らせるから」
メガリナは職場へ事情を説明した。詳しいことがわからない以上、説明といっても言えることは多くないがすぐにひまをもらえた。
帰りざま、メガリナは胸の中でメガルへ呼びかけた。双子であるせいか幼い時分から、声に出さなくてもこうすればメガルとは話ができる。父さんに何かあったみたいなの、帰ってきて──そう念じると、家へ着く頃には別の道を走ってきたメガルと合流を果たせた。
玄関へ飛びこむ。居間には、父の仲間の狩人が三人とプロラがいて、そのただ中に父がいた。
「父さん」
いらえはなかった。
父は、居間の床にのべられた寝具へ横たえられていた。
外傷はない。今朝見た時と、服装もなにも変わりはない。目は閉じていて、ぐっすり眠っている顔だった。なんだ、父さん寝てるだけじゃない──そう口に出しかけて、メガリナは声をのんだ。眠っているだけなら、生きているなら、こんなところにこんなふうに寝かされているわけがない。自分たちが仕事を投げて帰宅する必要もないし、父の仲間の狩人らが目をまっ赤にして咽んでいるはずもないのだ。
「父さん、……なんで、……」
メガルが膝をついた。
「なんでって思うよなあ」狩人のひとりが腕で目元を拭う。「おれたちだってそう思うさ、なんでこんないいひとがこんな早くにってな」
「ぐっと来たんだろな。ほんとにいきなりだった、鹿罠の鹿運ぼうってんで、それっつったらその拍子に倒れたんだから」
「父さんが? そんな」メガルが瞳をつり上げる。「あんたたちの誰かが、父さんになんかしたんじゃないのっ?」
「馬鹿なこと言っちゃだめ!」レヴィアが叱った。「おじさんたちはね、うちまで父さんを連れてきてくれたんだよ。いつも父さんのこと助けてくれてた人たちでしょ!」
「レヴィアちゃん」
狩人のひとりが、姉へ向けて首を振った。
「いいんだ。その子が言うのもわかる、ほんとに急だもんな。おれもまだ信じられん気持ちだ」
「ほんとにな、……サロモさんはおれたちにとっても恩人で、サロモさんなしでこれから、どうやって狩りやってっかって思うぐらいでよ」
狩人らの静かな、しかし大きな悲痛を目の当たりにし、やがてメガルも口を噤んだ。
レヴィアが部屋の隅を見る。末娘のプロラが、小さな両手で顔を覆って、肩を震わせていた。そりゃな、泣いちゃうよな、と誰かが言う。
メガリナは妹のそばに行き、肩へ手を添えてやった。姉のレヴィアもメガルも、まだ何が起きたのかのみこみきれない表情で立ちつくしている。
「……しかし、レヴィアちゃん」
もっとも年長の狩人が、姉を窺った。
「おれらもつらいが、……亡くなっちまった以上、サロモさんを弔ってやらんといけない。できるな?」
姉が何度もうなずく。「もちろんおれらも手伝うから」とつけ加えられた言葉が聴こえて、メガリナは上を向いた。
ずっとなかった現実感が、父の弔いという一大事を前に、急激にこみ上げてきた気がしていた。かつて、母が世を去った折は姉妹はまだみんな子どもだったから、死を解しきれないままただぐずっていればよかったが、今度は自分たちの手で、父を弔ってやらねばならない。
「よし。いつまでも泣いてたってサロモさんも心配するぞ、立派に送ってやんないとな」
姉が三人へ頭を下げ、メガリナもそうした。すると、
「レヴィアちゃん、あの子も呼んでやらんといけないだろう」
さっきの年長の狩人が言った。メガルが一瞬眉をしかめ、姉レヴィアがはっとした顔になる。
「そうだ。ボルグヒルドおねえさんにはもちろん知らせなきゃいけないわ、父さんの娘だもの、」
姉がこちらを向く。
「けどどうしよう。おねえさんちヴィダルクだから、……わたしが呼びにいってもいいけど、父さん……」
ボルグヒルドは、父がその前妻との間にもうけていた娘だ。メガリナたちの異母姉にあたり、以前はこの家で一緒に生活していたが五年前から別居となり、今は東の町スリガの北、ヴィダルクで菓子屋を営んでいる。
「わかった、おれが知らせてきてやる」年長の狩人が胸をたたいた。「あの子が来るまで、レヴィアちゃんたちはサロモさんについててやれな。おまえらは狩人連中と近所のやつらに声かけて、段取り手伝ってやれ」
そうして、年長の狩人は自らの馬車で出発した。姉は幾度も礼を言って見送った。
メガリナは、ボルグヒルドはいつ到着するだろうかと考えた。
前、姉レヴィアが離縁された際、父とメガルが迎えにいったのだが、スリガまででも往復で三日かかっていた。ヴィダルクはスリガからさらに北、なら少なくとも四日は要るのではないか。
「あのおじさん、ねえさんの家わかるの?」
ややあってメガルが口を開いた。レヴィアはうなずき、
「知らないけど、ヴィダルクで評判のお菓子屋さんって訊けばわかると思う、はやってるらしいし」
そう答えていた。
それから間もなく、報せを聞いた町の人々や狩人仲間が、ひとりまたひとりとやってきた。
誰もが父の急な死を悼み、「びっくりしたねえ」「無念だったろうねえ」と声を漏らした。「あんたたちも気を落とさないで」と、姉やメガリナへ言ってくれる人もいた。
メガリナとメガルの勤め先や、姉が以前働いていた学校などからも弔問は続き、応対するうちあっという間に夜を迎えた。
この晩は狩人の妻たちが「食べて元気出して」と食事を差し入れてくれ、姉妹四人で食べた。食後は交代で寝ようと決めたものの、やはり離れがたく、特に末っ子のプロラは父の足元から動かなかった。
玄関の扉が叩かれたのは、うとうとしかけた朝方だった。
「おじさん、もう行ってこれたの」
姉レヴィアが驚く。現れた年長の狩人は片手を挙げた。
「おう、近道知ってたからな。雪もねえし」
「それで、おねえさんは」
「ああ、すぐ来るだろ。一緒に乗ってかないかって訊いたんだが、支度もあるから別で来るとさ」
そうして始まった二日めは、前日よりさらに初夏じみた暑い日で、窓という窓を開けて風を通した。狩人らは冷水を汲んできてくれ、瓶や何かに入れて父の体の周囲へ置いた。
「……変な話、冬場ならもつんだがな」
ひとりが言いにくそうに言う。
「まあすぐ温くなっちまうが、これでも何もしないよりはましだろ」
「ありがとうございます」
この辺りでは、葬儀は亡くなって十日ほどでやるのが普通だ。
当日まで、遺体は棺に納め町の教会に安置する習わしだが、父の長女であるボルグヒルドが着かねば運びだせない。けれど、父の逝去があまりに突然すぎたから、メガリナはこうして家で別れを惜しむひとときを過ごせることを、よかったと感じていた。
何せまだ、「悲しい」とも思えていない。急すぎて、まだ、受け入れきれずにいる感覚だった。
それでも周囲がいるというのはありがたいもので、段取りはしだいに固まっていった。
父の葬儀は八日後と決まった。その日取りならボルグヒルドも来ているだろうし、狩人らの参列にも差し支えなかった。葬儀は家族中心で教会でおこない、儀式のあとは町の墓所へ埋葬する。母や祖父母らも眠る、海の見える墓地だ。
異母姉ボルグヒルドが着いたのは、父の急死から数えて五日が経つ夕方だった。
そのころには、弔問に訪れる人もほぼなくなり、奇妙に緩やかな時間が流れていた。代わりに色濃くなったのは疲労で、普段通りの暮らしが叶わない気疲れと思うように眠れず食も進まない日々は、想像以上に心身にこたえた。
その時、姉は父の枕頭に活けた野花の水を替えていて、メガリナは妹とともに茶を淹れていた。あの年長の狩人が様子を見にきて、父の思い出話をしてくれたのだ。
「ほんとにサロモさんは狩りの名人でな。だが無口で図体もでっかいだろ、若い頃は森で羆と見間違われて仲間が逃げちまって、置いてかれてたこともあったな」
「そんなことあったの」
頬杖をついたメガルが微笑している。メガリナも台所で聞きながら、いかにも父らしい話だなと思った。父はずっと寡黙で屈強で、パンにはジャムを山盛りつける甘党ぶりまで、なるほど羆と似通っていた。
「あとは昔、森の精を見たって話もしてたぞ。サロモさんが言うんだから嘘とは思わんが、そんなの普通の人間が見れるのか、まあ、見たのは一回だけだそうだが、」
と、表に激しい車輪の音が響いた。窓を見ると、家の前へ馬車が横づけされ、誰かが降りている。
「お父さん!」
間髪入れず玄関が開き、忙しない靴音と金切り声が近づいてきた。
「私のお父さんはどこ?」
派手な装いと何重も重ねづけされた首飾り、焦茶のぎょろりとした目が迫った。
「おねえさん、父さんは、」
こっちに、と示そうとしたレヴィアの肩がぐいと押しのけられる。
「ああ嘘でしょ、なんてかわいそうなお父さん。こんなとこに寝かされてるなんて」
「ねえさん」メガルが立ち上がる。「来て早々それはないんじゃない。父さんが亡くなってから毎日あたしたちちゃんと、」
「何がちゃんとよ、あんたたちこんな粗末なとこにお父さん転がして、よくも平気な顔で雁首並べてられるもんだわ。お父さんがかわいそう、私がいたら絶対ちゃあんとしてあげたのに!」
「ねえさんこそおかしいんじゃないの、父さんが亡くなったって時にそんなかっこで来る? 普通?」
「だって信じられなかったのよ! もしかしたら生きてるんじゃないかって思ってたんだから!」
「まあまあ」狩人が割って入った。「ほら。せっかく姉妹揃ったのに、サロモさんの前で喧嘩こいたら悲しむぞ」
メガル、そしてボルグヒルドがそれぞれ横を向く。この二人は、ボルグヒルドが家にいた頃からことに折り合いが悪かった。
「なに見てるのよメガリナ」
「え」
メガリナは肩が跳ねたのを自覚した。台所からなりゆきを見守っていたら、いつの間にかボルグヒルドの険しい両目に捕らえられていた。
「ごまかしたってむだ。あんたどうせまた私のこと、だんごっ鼻のそばかすだらけだって思って見てたんでしょ!」
「そんなこと思ってないったら」
「しらじらしい。あんたたちが思ってることくらいわかるんだから」
「まあまあ、」再び狩人が仲裁に来た。「その辺にしろって。ああ、レヴィアちゃん、みんな揃ったことだし葬式の段取り、お姉さんに伝えてやれや」
「待って」うなずくレヴィアを、ボルグヒルドが牽制した。「まだ全員揃ってないでしょ」
揃ってない? 皆の視線が異母姉へ集まる。
「どうしたのかしら」
ボルグヒルドが玄関に出た。扉は開け放たれたままになっていて、外の馬車が覗ける。
その傍らに、誰かが立っていた。メガリナは台所から追いかけ、戸口のところでメガルとともに表を凝視した。──誰? 声に出さず問えば、メガリナは同じ問いがメガルからも発せられるのを感じた。
「どちらさんだ? お姉さんのいいひとかい」
狩人も来て尋ねる。ボルグヒルドは手を振った。
「もう、冗談言ってる時じゃないでしょ。シルヴェステルお兄さんじゃない」
楡の木を見上げていた人影が、陽射しの下で深く一礼した。途端、西日をはじくように銀髪がきらめき、メガリナは思わず手で目元を庇った。腕の下から窺う。
「……え」メガルが呟く。「お兄さん、って……どういうこと」
「えっ? あんたたち」ボルグヒルドが瞬きする。「嘘、知らなかったんだっけ」
メガリナは隣に来ていたレヴィアを見た。姉も首を横へ振り、それから傾げた。
「シルヴェステルお兄さんは、お父さんの、最初の奥さんとの子よ」
「は? じゃ父さんって、……三回も結婚してたってこと?」
「そうよ。やだ、ほんとに知らなかったの?」
ボルグヒルドとメガルの問答に、メガリナはレヴィアと顔を見合わせた。台所に残ったプロラに聴こえていたかどうかはわからないが、妹も初耳だろう。
メガリナはもう一度、楡の下の男を見つめた。
いわれてみれば、男の背丈はちょうど父と同じぐらいで、しかし、父よりははるかに線が細い。銀髪も深翠のまなざしも父とは異なり、自分たちとも、ボルグヒルドとも似ていなかった。
「とにかくね、私ひとりならもっと早く来れたけど、お兄さんを呼ばなきゃならなかったから今日になったのよ。それを何? さっき私が着いたらあんたたち、みんなして遅いって顔してたでしょ!」
ボルグヒルドの癇癪がまた始まり、「ちょっと、飛ばしてきたんだから飲みものくらいよこしなさいよ」と睨みあげてくる。
その陰で、シルヴェステルが再び頭を垂れた。
メガリナはそれを見て、ああ、このひとは、無口なところが父さんに似ているかもしれない、と思った。
港から届く海風が皆の間を抜け、髪が乱される。前髪を押さえざまメガリナは「兄」を仰ぎ、これから何かが変わってゆくような気がして、上げた手のやり場に小さく迷った。
潤雪腐し 序章