K-ケイ
スマートフォンから秋におあつらえ向きなアコースティックギターが流れている。僕は事務所の窓際にもたれてタバコを燻らせながら流れて行く雲をぼんやりと眺めていた。すっかり秋模様に変わった小高い丘の木々、雲の切れ目から差し込みむ柔らかな光線が其々を照らしている。町行く人々はそんな朝の素敵な光景を見ようともせずにマスクで覆われた顔の目だけが忙しなく眼下の歩道を行き来している。
ケイからの連絡は昨晩も来なかった。スマホの着信音だけが鳴り続けるだけでもう連絡が途絶えてから1か月にもなる
僕はタバコを揉み消すと階下の仕事場へ降りて行った。「おはようございます社長」手を休めたスタッフのみんなが僕を見て言った。「おはよう、今日も頑張って行こうな」「オッス」全員の揃った声が工場内に響いた、そこに居ないケイを除いて
ケイと知り合ってもう5年になる
ケイは不思議な子だった。友達が開いた廃船の船底にある無届けなバー、岸壁から狭い簡易梯子を降りる奇妙な場所で僕はケイと始めて逢った。
その日も遅く迄かかった仕事を途中で切り上げると酔客の多い電車に揺られて駅を降り,海へ流れ込む運河へ向かいその梯子を降りた。
狭いカウンターの奥で彼女は透明な液体をロックで呑んでいた。横に置かれたビンの銘柄でそれが炭酸ソーダだと分かった。彼女は時折りグラスをダウンライトにかざして見ていた。連れも無く深夜近くにこんなシークレットな場所で独りでいる子なんてハードボイルド小説の登場人物以外そうは居ないな、僕はそう思いながら声を掛けてみた。
「何を眺めてんのさ」
「えっ私の事」とその子が僕を見ていった
「君以外にこの店に客は誰もいないと思うよ」と言うと「あっそうよね」と小さく笑った
「ソーダの泡よ、登って行くのよ」又グラスをかざして彼女は言った。
目深に被った赤いニット帽から大きな目が僕を見ている。薄い口紅以外化粧は殆どしていない様だった。黒いレザーのライダースの銀ボタンが照明に光っている。カッコいい子だな、三十前かな、まるで品定めをするみたいに僕は勝手に想像していた。
そんな僕を見透かす様に「貴方の呑んでるそれ、なあに」と彼女が聞いた。
「まあ、ウォッカという酒だよ」少しカッコを付けて言うと「強いの?」と彼女が又聞いてきた
「強いどころか、これは中でも熊殺しと言う奴さ」
「何処のお酒なの」と又聞いてきた。
「えーウォッカを知らないの」と驚いた様に振る舞う僕に「名前は知ってるけど、私、お酒呑まないから」と彼女は言った。
「ロシアだよ、ソビエト」と言うと
「ロシアの熊ね、白熊ね」と勝手に決めつけた答えが可愛いと僕は思って、更に聞いた
「ねぇ君ここ良く来るの、見かけ無かったけどね」
僕は自分でもお決まりと思う程にベタな口調で彼女に言うと「うーん最近ね、家が直ぐ近くで仕事場の友達からここの事聞いてたからね、来始めたばっかり」と思ったより愛想良く彼女が答えた事に、気を良くした僕は更に話しを続けた。
「でもさ、女の子独りで良くこんな店に来るね」
と言うと「おいおいこんな店はないだろうよ」カウンターの後ろで携帯をいじっていた古くから遊び仲間のヨシオが言った。
「でも本当じゃん、モグリだしよ」と僕ば笑っていった時だった。
「あっヤベエ、水上署のパトロールだ、灯り消すぜ」と言うと店内が闇の中に溶け込んだ
「おい、暫く床にうずくまってくれよな」
その言葉に僕は隣の彼女の肩を抱くと一緒に床へ体を沈めた。
サーチライトの光の輪が伺う様に船内を照らし、警備艇の引き波が岸壁に当たると船内が大きく揺て、彼女の身体が僕に覆い被さった。普段の僕ならもうその唇を奪っていたが、何か抑えるものがあった。「怖いわ」と彼女が僕に身を寄せた。
その時ダウンライトが点いて
「おいおい、もうお楽しみタイムは終わりだぜ
奴らいっちまったからよ、いつまで抱き合ってんだよ」とヨシオが二人を覗き込んで言った。
ひざまずく彼女の肩に手を掛けたまま言った
「名前は?」「私はヒロコよ、尊敬の敬、あなたは?」と聞く彼女に「オレか、オレはえーとマコトかな」とわざと惚けて言った。
「マコトさんなのね字は?」と尋ねる彼女に
「誠な人」と言うのを横からヨシオが言った
「何が誠な人だよ、ヒロコちゃん気をつけなこのオオカミ男にはよ」とチャチャを入れた
「うるせーよ、」とヨシオに半分本気で言うと「ケイって呼んでもいいかな?」と彼女に言った
「良いわよ、じゃあ私はマコって言うわ」と大きな目で僕を見つめ無邪気に言った
カウンターに座り直したケイが言った
「私もその熊殺し少し呑んでみようかな」
「えっストレートはやめときな、ほらそのソーダで割ってあげるよ」とケイのグラスを掴んで言った
このままストレートで飲ましたら必ずモノに出来るのにな、とむらむらと浮かび上がったものを消し去る様に僕は三杯目のウォッカを煽った
「ねぇお仕事はなに?」と聞くケイに「まあ、サラリーマン」とだけ言った。
「そんな風には見えないけどね」と言うケイに「例えばどんな風?」と言うと
少し考える様に低い天井を見上げて
「映画の監督か小説家、かな?」
と真面目な顔を見せてケイは言った。
僕はそんなケイの目を見て言った
「当たりだね、そう、それ実は僕がなりたかった奴」「けど、なれなかった奴」
「あっははー」ケイと僕の笑声が狭い船内に響いた
それから僕とケイは関を切った様に話しを続けた
好きなミュージシャン、映画、本、等お互いのおもちゃ箱をひっくり返す様に止めどなく話しを続けた。
僕はもう五杯目になっていたし、ケイもソーダ割りを三杯は呑んだ。時間は午前三時を回っている
「私、ここで寝る、あの梯子はもう無理」と言うと船室の奥にある革のソファーに倒れ込んでしまった。黒の細いレザーパンツに包まれた形の良いヒップを僕の方に向けていつの間にか寝てしまった
「しょーがねーなー」と僕はヨシオに言うと
「いつもこんな風にはならないけどね、何か独りで考えてるのが好きな子だけどね、なんでも住まいはこの近所の女性専用アパートらしいよ、まぁ、今夜は土曜日だし、いいか」と言うと「どうせお前も帰らんだろうしな」と言うヨシオに「「あー朝までこの子と添い寝だね、何も無しにね」と言うと僕はケイの横に体を横たえた。
ニット帽から出ているケイの亜麻色の柔らかな髪と寝息を感じながら寝落ちした僕を潮が満ちて船が揺かごのように心地よくローリングしていた。
夜明けと共に起きた僕とケイは、ノロノロと梯子を上がった。運河を照らす朝日の眩しが目に染みた
「腹減ったな、朝ご飯たべようか今日は仕事休みだろ」
そう言う僕にケイが言った「あー朝帰りなんて何年振りかな、そうね食べよ」と二人は運河に沿って海へ向かった。
ハンバーガー店の窓際の席に着いたケイと僕はお互いの顔を見合わせていた。
「ごめんなさい、無理にお酒飲んでしまって」
バックから黒いビロードのカチューシャを出すと
ニット帽を脱いだケイは髪を纏めながら僕に言った。「さーてティファニーで朝食をだ」と言いながら僕は指でフレームを作りその中にケイを捕らえた。頼んだハンバーガーを持って来たウェイトレスが、朝帰りでしょお楽しみ後の、と言わんばかりにつまらない顔で僕らのテーブルにそれを置いた。
「シーン10 、テイクワン、カメラスタンバイ、よーい、スタート」と戯ける僕にケイはバーガーをちぎって口へ運んだ。「いーね、オードリーさん」と僕が言うと
「流石監督志望さんね、でも私はミスキャストよ」と笑って返した。
「じゃ僕はジョージペパードだ」と言って僕は大きな口を開けバーガーを頬張った。
「あはは、朝から凄い!」と言うケイに
「これがマンハッタンスタイルでしょ」と戯ける僕にケイは本当に嬉しそうに笑った。
「でもね、カポーティの書いた原作は違うのよ」
急に真顔になってケイは言った。
「読んだの」と言う僕に「カポーティのティファニーは読んだわ、でもオードリーがやったホリーは実は高級娼婦なのよ」と言うケイに
「へーそうだったんだ、他にどの作品が良かった?」と僕は尋ねた
「冷血、かな?凄く印象に残ったの」とケイが答えた
「あーあの見知らぬ一家を惨殺した死刑囚のノンフィクションね」とビデオでしか見たことなかった僕は相槌を打った。冷血が印象的だなんて変わった子だな、僕はそう感じたがケイの顔をみてそれは言わずにいた。
「ねーマコさんは、本当は何してる人」
「俺か、しがない広告屋だよ」
「まぁ素敵じゃ無い、ティファニーの相手役は小説家だったけどね」そう言うケイに
「じゃぁ聞くけどケイは今幾つ?」と問い返すと
「まぁレディに歳聞くなんて、でもティファニーを撮った時のヘップバーンと同じ」という事は確か30かと計算しながら
「まさか主人公のホリーと同じ仕事してるとか?」
「やめてよ、ホリーと同じお金持ち相手の娼婦なんて」とケイは妙にむくれた顔を作った。
「あはは、ごめん、じゃ何してるの」
「一様、インテリアデザイナー」
それから僕の事、ケイの事をお互いに話した。10月の柔らかな日差しが窓際の二人に差し込んでいた。
あの頃僕は40歳だった。一流とはいえないが大学を出て、マスコミ志望で大手の広告代理店を二つ受け両方とも採用されずに中堅のクリエイティブエージェンシーに勤めた。
コピーライターが志望だったが最初の職場は媒体局、とはいってもTV局や新聞社にコマーシャルのフィルムや広告原稿を持ち込んで枠取りをする地味な仕事でそれも地方の媒体だった。その後営業に廻され入社5年目にAEになり、幾つかのクライアントを受け持った。僕の会社は業界最大手のD社の下請けで仕事の半分はD社クライアントのご機嫌取り、つまり接待だった。ゴルフ、宴会、高級クラブと社費を使いまくって遊んだ。代議士の選挙応援までも仕事の内だった。恋愛もし33歳で結婚したが4年目で別れた。原因は何回かの浮気、子供は作らず慰謝料も払わず仕舞い、その後も何人かの女と同棲し、酒と性愛に浸る日々だった。社の先輩AEの独立を機に自分もそこへ転職した。肩書きは専務取締役でゼニアのスーツ2着と高級時計を先輩からプレゼントされ、見た目はいっぱしのやり手アドマンだった。しかし先輩とはやがて別れ独立した。二人のクリエイターを抱えて相変わらずD社の下請けで制作業を続けた。しかし小さな会社を良い事に制作費をギリギリに抑えこまれ経営は赤字だった。そこで儲けの大きなAVの制作と流通に手を伸ばした。闇社会とも繋がり年商は二桁の億に届くまでになった。山手にマンションも買って、高級外車を乗り回し、ハーバーにクルーザーまでもつ身分になった。知り合った実業家のプライベートジェットで年に何回かのマカオやシンガポールの賭博場で大きな金も動かした。表の顔は若手実業家だか、実は汚れた金を扱い、家庭も持たず仕事以外は相変わらず酒と女とギャンブルの放蕩な日々を続けている。
そんな日々の中、偶然知り合ったのがケイだった。
いや、突然僕の生活に姿を見せた変わった子と言った方が当たりだろう。
ケイはこの港湾都市では大手になる港湾荷役関係F企業の子会社でインテリアデザインの仕事をしていた。山手の高級住宅街にある大きな邸宅のインテリアリフォームプラン、デザイン、施工に始まり都内にも進出し大使、領事館から高級住宅の仕事も手がけていたが、殆どはF会長のコネクションによるものだった。会長のFは元は生粋の港湾博徒で神戸のY組本家とも深い繋がりを持っている。ケイが務める会社の女社長はF企業会長の妾で昔この町の高級クラブで名を上げたやり手の女だ。その社長よりも遥かに若く遥かに美麗な顔立ちと未だ若い肢体を持ったケイもひょっとしたら数々の浮名を流したF会長の手で汚されていたとしても不思議では無い。
ケイとはその後、週末には逢う様になっていた。
食事をしたり、映画をみたりたまにはドライブに出かけたり、ごく当たり前のデートを重ねていたが
僕はケイと会っていると何故か世の中を知らない青年の時の様に純な気持ちになれた。僕にとってはそれがケイの魅力の全てだった。
ある日の事、僕はケイを自分のクルーザーに誘った。夕暮れのデッキでシャンパンを開け、ケイの持ってきたDVDでスタイルカウンシルなんかを聴いた。あの日以来少しは酒が飲める様になったケイは夕風に髪を晒してハーバーの先の湾に沈む夕陽を見ていた。船首に立ち上がったケイはシルエットになりその肢体を浮かび上がらせた。僕の身体は其れに反応し既に昂まり始めていた。今迄撮影現場で多くのAV女優の淫らな肢体を見続けてきた僕はもう男としての昂まりを失っていたのだか。
ケイに寄り添って肩を抱き唇を寄せた。振り向いたケイは僕の唇を見ながらそれを受け入れた。柔らかなケイの舌が僕を迎え絡まりながら僕はケイの胸へ手を運んだ。薄いニットセーターを通して豊かな感触が僕の手先に伝わった。
「ギャビンに降りよう」僕はケイの耳元に囁いた。
その時ケイが言った。
「マコ、私もう愛の無い交わりは嫌なの、もし貴方の体が欲しがっているだけなら指でもお口でも使って満たせてあげるわ、今此処で」
そう言うケイの瞳の奥に一粒の真珠のような輝きを僕は見た。今迄捉えたくても捉える事が出来なかった真実の輝きの様にその時の僅かな輝きが僕を射抜いた。
僕は今まで通り過ぎた女の中でこんな体験は初めてだった。
僕は思わず風になびく亜麻色の髪を左右に分けてその瞳を覗き込むとケイを強く抱きしめた。
その時ケイは言った「自分の正しい道を探して」
その言葉が愛おしかった。人を愛おしいとは思った事が無かった僕が。それをお互いの愛と言うには程遠い時間が必要な事は分かっていたが。デッキにシンプリーレッドのHolding back the yearsが流れていた。
その日を堺に僕の気持ちに変化が起きた
それが何なのか分からなかった、唯、今まで自分が過ごしてきた時、遊びと愛欲を満たすだけの女、ギャンブルとあぶく銭、AV、裏社会、この自分の体に染み付いた刺青を消し去りたかった。遅かれ早かれそこから堕ちる事も目に見えていた。そして僕はこの漂うだけの時間から戻りたかった、青年の頃の様な純粋な時に、そして人の為になりたかった、今からやり直し、僕のこれからの人生のコアを見つけたかった。
AVの仕事をまず辞めた、配給先のそのスジの人間達とも金を叩いて縁を切った。クルーザーもAMG特別仕様のベンツも売り払い、山手のマンションも売って全てを預金口座に叩き込んだ。この汚れた金を元になんとかしなければと、そして何人かの友達にも相談し、調理師の免許をとり小さな事務所を借りて介護施設専門の弁当屋を始めた。ケイも手伝ってくれて仕事が終わると店に来て、一緒に弁当の仕込みをやってくれた。
酒も飲まずに夜更けの屋台ラーメンを二人で啜りながら何か今迄とは違う豊かさが湧いてくるのを僕は感じ初めていた。次の日も、又次の日も果てしなく続く日々、僕はミニバンで介護施設を訪問し弁当を売り歩いた。そうしている内に月決めの配食契約を取る事ができ、弁当屋から小規模ながら介護施設専門の配食業者へと転換する事が出来た。
勿論この業界には大手と言われる業者もある、しかし僕は考えた、彼等には出来ない事を。
其れはケイのクライアントに女性料理研究家で著名なM先生だった。ケイが彼女のリビングダイニンスタジオのプランを手がけた時それはケイが大好きなイタリアの田舎の家庭のキッチンからアイデアを得たモノだった。そのキッチンスタジオから沢山の料理画像が雑誌に載り、先生の雑誌は飛ぶ様に売れた。M先生はこれを機にケイとは歳の差を超えた親友となったそしてケイは先生に彼女の名前でレシピを作りそれを僕の得意先へ食材付きで販売する事を頼み込みんでくれた。そして先生はその権利を与えてくれたのだった。年寄りの多い介護施設には先生のファンが多く、そのレシピを使った食材はそれぞれの施設で評判を呼び、最近では県内最大手の介護施設で僕のいや、僕とケイとスタッフが運営する会社と正式な販売契約が成立したばかりだった。
でも僕が誘ってもケイは決して今のインテリアデザインの職場からは離れなかった。その理由は分かる気がしていた。F会長に間違いは無かった。そしてケイはあのティファニーのホリーでは無いのかと思い初めていた
そしてそれを察した様にある日ケイから「仕事が終わったらお食事しましょうよ、たまには」と連絡が入って、僕とケイは街一番高級と言われるイタリアンレストランで待ち合わせた
先に着いた僕がシェリー酒を飲みながら見たのは白地に黒のトリミングが入ったミニドレスに身を包み入り口から僕に向かって真っ直ぐに歩いてくるケイの姿だった。ヘップバーンと同じジバンシーのドレスを身に纏ってアップにした髪、ドレスの裾から足元の白いピンヒールまで真っ直ぐに伸びたカモシカの様な下肢がまるで「ほら私、貴方にお似合いでしょ」とでも言うように美しく気高くあの微笑みでランウェイを歩く様に真っすぐ僕へ向かってきた
「間違い無くオードリーだな」ケイの姿に僕は自分の言葉を呑んだ。
「お待たせしちゃって」席につくと白い縁のサングラスを頭に乗せてケイが言った
アイラインとシャドウがいつも仕事場で見るケイとは別人の魅力を放っている
「素敵なお店ね」と店内を見ながら言うケイに
「そうだね、実は僕もここ初めてなんだ」と言うと
「マコとこうしてこんな場所へ来るのも初めてだしね。凄く嬉しい。ほらホールのスタッフさんも私達をさっきから見てるは」というマコに
「私達じゃなくて、君を見てるんだよと顔をよせその鼻先を悪戯っぽくつついた。仄かにシャネルの香りが漂っていた
「まあ、映画のシーンみたい。流石監督さんね」と口角を上げたエクボで笑った
「ケイ綺麗だよ、まさにノンフィクションだよ」僕も笑いを返した
食事を楽しみ、その後ワインを飲みながらケイは僕の目を見てそしてキャンドルライトの灯りの下で僕の手を取り言った
「マコ、お誕生日おめでとう」
「えっなんで知ってるの今日だって」と驚く僕に「免許証はお財布の中に入れとくものよ」と戯ける様に言うと、柔らかく温かい手で僕の手をとり質感のある冷たいものを握らせた。開いた僕の手の中には鋭く強い輝きを持ったクロームハーツのペンダントがあった。それはKの頭文字だった。そしてその上に手を重ねたケイは言った
「この文字を見て、二つの形が交わりお互い重なり支え合っているでしょ、マコ、これを一緒に強く握って」と言い僕の手を強く包み込んだ
僕の中であの船のデッキでケイを抱きしめたときのケイの言葉が蘇った。
巡り逢えて本当に良かった、幸せだよケイ、僕と一緒になって欲しいんだ」 僕の言葉にケイは言葉にはせず僕の眼を見てゆっくりと頷いた
大きな契約が取れた事を僕はケイにいち早く伝えたかった。でも突然連絡が途絶えてしまったのだ。
彼女の会社に連絡すると長期休暇を取っていると言われた。何故なんだ、どうしたんだ、何があったんだケイに。
僕は丘の上に建つ白い大きな市民病院のロビーに立っていた。日曜日の病院はひと気も少なく窓口で受付をすませて長い廊下を歩いた。続きの建物の入り口には入院病棟とプレートがある。
連絡の途絶えたケイの消息を探して手を尽くしたがケイは両親が既に亡くなった事以外は何も話さなかった。そして僕が行き着いたのはM先生だった。
以前御礼に伺った事のあるリビングダイニングで先生は僕に言った「実は彼女は入院したの、かなり重い病よ」そしてこの病院を教えてくれたのだった。
廊下の先のナースステ-ションに行くと受付から連絡を受けたのだろう、ブルーの制服を着たナースが待っていた。
「失礼ですが」と尋ねた
僕は身分証明書を差し出した
「こちらへどーぞ」と第一診察室と書かれた扉へ案内した。
「失礼ですが患者さんとの御関係は」奥に座っていた医師が尋ねた
僕は名刺を差し出し言った
「敬子さんの婚約者です」
そしてその医師にケイの容態を尋ねた
医師はカルテの画面を見ながら言った
「敬子さんはかなり重い急性リンパ性白血病です」
医師の言葉が僕の中を一瞬に駆け巡り、目の前に黒い緞帳が降りた。舞台の奈落から這い出た様に僕は医師に尋ねた。
「先生、彼女の具合、容態は今どうなんですか」
「残念ですがもう治療の限界を超えています」
「後、あとどのくらい…ですか」すがる思いで尋ねた
「持って1週間、毎日が敬子さんにとって山場です」医師は淡々と言った
僕が見たのは白い酸素テントの中で眠るケイの姿だった
白いウエディングベールのはずだったのに
「何故だ、ケイ何故なんだ」
テントに近付いた僕の前に横たわるケイ
沢山のチューブに繋がれ眠るケイだった
頭を覆った白いネットの脇から亜麻色のケイの髪が蒼白に近い顔に掛かっている、懐かしい眉毛、長いまつ毛、閉ざされあの輝きの見えない瞳
いつか真っ直ぐ僕を見たケイのその髪を指で解いた思い出に、僕は込み上げてくる悲しみを抑える事が
できず嗚咽の涙が白い人工石の床に堕ちた
膝を落としこうべを垂れた僕は胸のペンダントを握り冷たいKの感触をなぞり祈った
「ケイ、生きてくれ、生きて又あの笑顔で僕を見てくれ、君の力で変わることが出来たんだ、自分の道を見つけたんだ」
「ケイ!」叫ぶ僕の声に返事の還らないケイの心臓のパルス音だけが色の無い部屋で残された時を刻んでいた。
K-ケイ