むかし飼っていた犬が

むかし飼っていた犬が

「むかし飼っていた犬がね、こないだ、僕の前に現れたんですよ」
「え? なんです?」
「むかし飼っていた犬ですよ。
 というのはね、僕、むかし犬を飼っていたんですが、散歩しているときに、うっかりリールを放してしまって」
「はあ」
「それでどこか行ってしまったわけです。犬が。そんでこないだ急に目の前に現れて」
「へえ。そういうことってあるんですね」
「ええ」
「帰巣本能ですかねえ」
「いや、それがね。飼っていたのはもうずいぶんむかしなんですよ。犬の寿命で言ったら死んでいてもおかしくないんで」
「そんな前でしたか」
「ええ。死なないまでもせめて老いてなきゃおかしいでしょう」
「そうですか」
「そう。……なんですけど、その犬は、むかしの姿のままなんですよ。まったく老いてもいない」
「ふうん。じゃあ同じ種類のべつの犬でしょう」
「いいや、あれは確かにタロでした」
「タロっていうんですか、名前」
「うん。タロは、あの日、走って逃げたときの、元気な姿のままだった」
「走って逃げたんですか」
「ええ。全力で」
「それ嫌われてたんじゃ……」
「いいえ。嫌われてなんかいません」
「でも同じ姿でって、ほんとですか」
「ええ」
「タロですか」
「タロです」
「それって、ひょっとして」
「お化けなんじゃないか、って言うんでしょう?」
「違うんですか?」
「そうなんですよ」
「そう?」
「犬のお化けなんですよ」
「犬のお化けなんですか?」
「ええ。犬のお化けなんです」

     ※    

 光男がスーパーから帰ってくると、自宅アパートの前の道に犬がいた。雑種のようだ。よく見ると、飼っていた犬に似ている。尻尾を振り、光男を見つめていた。
「タロ? おまえ、タロか?」
 光男はくたびれたズボンで手をごしごしと拭き、犬に触れようと手を伸ばした。
 ワン、と犬が鳴いた。
 光男は思わず手を引っ込めた。
「タロ、会いにきたのか? しかし、すまない……、うちはアパートなんだ。飼ってやれない……」
 ズボンのポケットに手を突っ込む。小銭がじゃらじゃらと音を立てた。
「ごめんな……」
 光男は犬をそのままにして、アパートの自室へと帰った。
 ズボンの後ろポケットから鍵を取り出しドアを開ける。ガチャリ。ドアをしめ、内側から鍵をかける。買い物袋を床に置く。
(あいつ、そういえばまだ生きていたのか……)
 手を洗う。うがいをする。タオルで濡れた手と口を拭く。
 買い物袋から中身を取り出し、冷蔵庫にしまう。それから電気ケトルで湯を沸かす。
(まてよ。タロって何歳だ……?)
 沸かしている間、こたつの前に座る。湯が沸く。湯呑に緑茶のTパックを入れ、湯を注ぎ入れる。Tパックをちょんちょんと上下させて、取り出し、生ゴミ用のゴミ箱に捨てる。一口すする。
(熱っ。
 タロはもう死んでるはずだ……だけどあの犬は……べつの犬なんかじゃあ、なかった……。
 ちょっとお茶が熱いな。水を足そう)
 お茶に水を足してまた一口すする。
(ぬるい……。
 まあ、いいか……。きょうはもう寝よう)
 翌日に備えて光男は早めに床についた。

(あっ)
 光男が朝、玄関のドアを開けてチラッと外を見ると、ドアの前に犬がいた。
(いや)
「おまえ、ずっとここにいたんか」
 タロは光男を見つめた。
(まいったな。そんな目で見つめるな。あと光男を見つめるって微妙に駄洒落っぽいな)
 光男は一度ドアを閉め、冷蔵庫に何かあるかと探した。魚肉ソーセージがある。これならタロも食うかな。包装を取り、食べやすい大きさに切る。
(食べやすい大きさってレシピによく書いてあるな。まあ、何が食べやすいかなんて人それぞれだけどな)
 それを持ってドアを開け、床に置く。タロは魚肉ソーセージを不思議そうに見ている。光男は魚肉ソーセージを再び手にとると、犬の口元に持っていった。犬はくんくんと匂いを嗅ぐ。そして光男を見つめる。
(うーん、食わないか。だけどもう行かなきゃあいけない。仕事に遅れる)
 手を洗う。靴を履きドアを閉める。犬はじっと光男を見ている。
「じゃあ、行ってくるからな」
 その日の夜も、翌日も翌々日も、犬は玄関先に座っていた。そして光男を見つめ続けるのだった。

     ※

「てなことがありまして」
「へえ。でもこれじゃあ、まだお化けかどうかわからんですな」
「いや、飯を食わないなんて、きっとお化けだぜ」
「お化けですか」
「お化けだ」
「それでどうしたんです」
「どうもしない。きょうもいたんだ」
「タロがですか」
「タロがだ」
「きっとタロですか」
「きっとタロだ」
「ううん」
「保健所がとやかくいうと困るな、というところだ」
「ああ……、え、犬って他の人にも見えるんです?」
「それがわからん。そこで、あんたに頼みたいことがある」
「見えるか見えないか、行って、見てほしいとかですか?」
「そうだ」
「ああ……」
「どうだろうか。すぐそこなんだ」
「タロが?」
「家が。まあ必然的にタロもすぐそこだが」
「ああ、なるほど……」
「何か問題が?」
「いえ、あの、私、あなたと初対面ですし」
「僕は気にしないぜ」
「そうでしょうね。喫茶店でコーヒー飲んでいる客におもむろに話しかけるんですから……」


(おわり)

むかし飼っていた犬が

むかし飼っていた犬が

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-30

CC BY
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