いとしい
理科室にて。ぼくらは、実験体。かなしい、というきもちを、わすれてしまった。
かなしいって、どういうきもち?
せんせいが、ぼくのからだにできた、半透明の、ゼラチン状の、膜みたいなものを、やぶかないように触れながら、いう。むずかしい、と。かなしいというきもちにも、大きい、小さいがあって、深い、浅いがあって、痛い、痛くないがあるのだと。それは、うれしいにも、たのしいにも、むかつく、にも、共通している気がすると、すこしだけ不安そうに答えながら、ぼくのからだを、そっと、理科室の、黒い天板の、テーブルのうえに横たえる。ふたりめのぼくが、そろそろ、その役割をおえるのだという。いまは、理科準備室でひとり静かに、昆虫の標本箱をながめていた。よにんめのぼくが、きっと、明日か、明後日にはうまれるのだと思う。ひとり減ると、ひとり増えるのだ。せんせいは、ひとりめのぼくが、いちばんつよかったとおしえてくれた。ひとりの肉体から、分裂しているわけではないのだけれど、増えるたびに、ぼくらのからだは、よわよわしくなっているようだ。
劣化。
でも、みんな平等に、愛しいよ。
ぼくの、膜のはっていない、くびからうえ、ひたいに、つめたいくちびるをおしあてて、せんせいはささやく。
愛しいは、きもちのなかでも、きわめてふしぎなもの。コントロールできない、あやうくて、はかない。でも、きっと、せかいでもっとも、うつくしいもの。せんせいが、いつも、呪文のようにくりかえし、となえる。
試験管のゆりかご。
いとしい