恋した瞬間、世界が終わる -第38話「勇気の扉 -心ある人々によって-」-

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恋した瞬間、世界が終わる -第38話「勇気の扉 -心ある人々によって-」-

第5部 来るべき一瞬のために編「第38話 勇気の扉 -心ある人々によって-」

「黒い渓谷を出なければ」

私は必死になって、進もうとする
川の流れに足をとられ、不安な思いを引き寄せる

黒い気配が私を生々しく見ている
岩壁を越えて、早く、越えて、早く

ーー自然はもう味方とは限らない

自然の力が抵抗し、黒いぬかるみに足を誘う
不気味な光沢を川の水面が放っている
川底へと、暗闇へと誘う声のようになって

「下を向いてはいけない」

そう思った瞬間、ぬかるみにはまった


逃さない…


ーーそんな声が聴こえた

川の流れが渦を巻いて足の周りに纏わりついた

恐れを抱いた足を、底なしの恐怖が引き込む

得体の知れない手が、川底から伸びた

私の足を掴んだ

「死ぬ」

そう思った

得体の知れない手は、私の膝下まで川底へと引っ張った

その勢いが上体までをグラつかせて、全身ごと黒い川の底へと引き込もうとしている

足をバタつかせて抵抗したが、もう言うことを聞かない

「諦めるのか…?」

川底の卑猥な陰部が呑みこんでいった



ーー何かが私の身体に止まった

蝶だった

“モンキチョウ”のような姿が
暗がりの中で黄色く輝いていた

我に返って、眼を見開いた


片足が川底をしっかりと踏んだ

踏みとどまった

川の水面へと倒れかかっていた私を助けた

私は水面へと眼を凝らした
その不気味さから眼を背けないように、凝視した

私は生きることを選ぶ

大地に抗い、黒い川底を踏み固めた

足に纏わりついた水の流れを解いた

見通しのつかない暗闇の中、確かな一歩が今は必要だ
だから、負けてはいけない

“モンキチョウ”のような蝶が輝きながら
私を先導するように羽ばたいた

その姿を追って歩くうち
水位が下がり、土の上へと立ったーー

夕暮れが過ぎ、もう夜だった



「暖をとらないと」

身体の震えが止まらなかった
人肌が急に恋しくなった

どうして寂しさで震えているのか?

分からなかった


「こっちだよ」

その時、誰かの声が聴こえた


「こっちだよ」


夜の森が誘う声に戸惑っていると
“モンキチョウ”のような蝶が声の彼方へと羽ばたいた
その姿が、声の案内に賭けてみようという気にさせた


暗闇の森に私の息遣いが目立った
体力はもう限界で、あとは気力だけ
視界もボヤけている
私の足取りは蝶の歩みを追うにやっとだ

ゆっくりと、追いかけながら
声の先へと夜道を歩いた


「こっちだよ」


次第に近づく声の音には穏やかなものが感じられた

暖かい空気が向こうから流れて来た

森の木々の間に、空へと開け放たれた空間が見えてきた

ーー火が見えた

誰かの手が薪を焚べていた

いつの間にか、蝶は木々の間に消えていった


「そこに座りなさい」

アウトドア用の椅子が地面に置かれていた

背もたれがついた椅子に、私は解放されるように腰かけた


薪は燃えていた

驚くほどに丁寧な配置がなされていた

それは“井桁型”といわれる組み方だと見てわかった


ーー昔、愛車のミラジーノでソロキャンプに行ったことがある

何かを始めるきっかけは突然訪れるものだ
クシシュトフ・キェシロフスキという映画監督が好きだった
何かの作品で氷ついた水辺の上の近くで、独りの男が焚き火にあたっているシーンがあった
それは明らかに何か起こりそうで危ないだろう暗示的なものだった
その危うさに心惹かれたのかは分からないが、
当時の私の薄暗い気持ちの中、その儀式的な行いに身を置くと
何か起こるのではないか?
そんな好奇心が湧いたようだった

“井桁型”という組み方は、薪を縦置きと横置きに2列
「井」の字をジェンガのように積んでいく

大きな火を起こせるため、キャンプファイヤーに向いている
当時ソロでキャンプをした私は、その上昇する火力に驚き
火力を維持するための用意が不十分なことに気づいたあと
後悔しながらも、人の一生をその火に浮かべ
「一時的にでも火力を得られたなら、私の人生の価値があるのだろうか」と
27歳で早死にしたミュージシャンの音楽をイヤホンで聴き入りながら、
ただ火を眺めていた


ーー森の中で、誰が薪を焚べているのだろうか? 顔を見上げた

煙の先に、後ろ姿が見えた
夜の暗闇は人影だけを見せて、火の粉が舞いながら覆った

焚き火台に目を落とすと、黒ずんだ光を浮かべて
年代物のように感じた

「歳を取ったよ」

男の背中が語りかけた

「ソロキャンプですか?」

私はよく分からず訊ねてみた

「夢の中で暖をとっていた」

またよく分からない話だった

ーーー私は視線を上げて、人影を見ようとした

気づくと、白い靄が辺りを覆い視界を霞めていた


パチンッ

火の粉が鳴った

「またお会いしましたね」

私はその声に聞き覚えがあった

「あなたはまた独りで座っているね」

アウトドア用の椅子に腰掛けた私を見て、火の粉の先が微笑んでいるように感じた
白い靄の中にいるのは誰なんだ?

「枝がずいぶんと伸びたようだね」

男は、着火剤に使うであろう木の枝を手に取っていた

「ほら、あちらこちらと枝分かれをしている
 “剪定”をするべき時が来たのかね
 でも、“支柱”があることにあなたは気づいただろうか?
 “井”の字になって、あなたの火を起こしていたんだよ
 添え木だったものは、支柱となって支えている
 でも、随分とバラバラに伸びていた」


「なぜ枝を切らねばならないのか分かるだろうか?」

 
その時、周囲の白い靄が人の形に成り変わって語りかけたーー


「お前は知らない
 私が幼い頃、貧しさに耐えかねて盗みを働いたことを
 お前は知らない
 バットの中に使用禁止のコルクを入れて打席に立っていた私の気持ちを
 お前は知らない
 母国の貧しさを救えるのは自分なのかもしれないと気づいた私の気持ちを」

「お前は知らない
 耐えて忍んで、その日その日に命が尽きる母国の暮らしを 
 お前は知らない
 身も声を潜めて、ただ政治の天秤に言葉までも掛けられる暮らしを
 お前は知らない
 正義は明日には悪に、本当や真実が裏返される気持ちを」

「お前は知らない
 銃を向けた先にいた子供が、私を見て微笑んだことを
 お前は知らない
 逃げて行かねばならない時に限って、子供の行方が分からない
 お前は知らない
 翌日のゴミ捨て場で見た、子供の死体を」

「お前は知らない
 結婚して子供をようやく授かり、これからの幸せを考える時間
 お前は知らない
 急な病気と無差別な殺意、運命や必然のあみだくじ
 お前は知らない
 我が身に訪れて分かる生の無力さを」

「選ぶことができない私のようなものが、どれだけ必死に生きているのか
 お前は知らない」


私は白い靄に向かって言葉をかけた

「だからこそ、私たちの“マニュアル”が必要なんじゃないのか?」

人の形をした白い靄がニヤッ と笑った

「ほらね、お前は知らない
 貧しさや病気が、“次の人”を救い成長させることをお前は知らない」

 
私は眼の前で死を踊り続ける人の形をした白い靄に言葉を返せなかった

「これは…?」

私は、薪を焚べる男の方を見上げた

男は、タバコをタンポポの茎のようにくるくると回した

「反発者…なのか?」

火の粉が散って、眼前を遮った

「これは違う。間違っている。そう本能で感じたらいいよ」

男の理由は単純なものだった

「感のようなものが、あなたを突き動かしたとでも…?」

白い靄の先で、男の微笑む仕草が視えた気がした

ーー着火剤に火が点いた



視界が開けた

気づくと、緑に囲まれたベンチに座っていた

途端に、周囲のざわめきが飛び込んできた
木々や、葉、花、土
虫の音、気圧、風
ざわめき、それと、きらめき
溢れた地上の色が
視覚と、聴覚、嗅覚

その瞬間ーー匂い

どこかで嗅いだ香水の匂い
通り抜けてゆく

そして、
唇に残った触覚を思い出した

それは、ココの唇

味覚もあった

それは、ココの甘い舌づたえ


五感の全てが一気に流動し、私の味方であるように感じた


ベンチの横では
光の粒子が集まり、時と重力を失ったまま昇っていった

香水の匂いが消えた後、胸ポケットの花の匂いが立ち昇った


 

ーー私は戻るべき場所を目指した

車を走らせ、街を目指した

一般道を通り、目立たぬよう車の流れに乗って
疲労を感じた私はコーヒーが飲みたくなった
人目を避けたい気持ちがあった
ノートパソコンの機能で体内の情報を誤送信させた
今では使われることのないノートパソコンだからこそ
帽子とマスクで身を隠し、民家を改築したであろう喫茶店を見つけて入った
店内には、店主1人と客が5人ほど
店内では騒ぎになっていた
カウンター席のモニターに警告画面が映っていた


「あなた達に与えられた猶予は、あと3日間
 -恋した瞬間、世界が終わる-」


“new leaves”の団体が何かを起こしたのだろうか?
彼らは何をしたのだろうか?
ふざけているのか?
悪戯にしては、悪趣味なメッセージだ

「恋した瞬間、世界が終わる?」
店主が鼻で笑った

「全くだぜ!」
恋人と相席している男が威勢よく発した
その恋人は何言ってんのこの人?という顔で男を眺めた

「俺、明日告白しようと決めてたのに!」
男の客が立ち上がり、カウンター席の前で叫んだ

「あ、やばいわたし、新人くんのこと好きになってる…」
女の客が小型端末から天井へと顔を上げ、心に掛かる問いの答えを見てしまった

「どうしたら!?」
男と女の客が二人叫んだ
他人のようではある

「ん? 僕は助かるのか?」
40代くらいの男性がテーブル席の下で、こっそりと手を揉んだ

事態は急な展開だった
「私たち」のコンピュータが一斉に誤作動を起こしていた

そして、暴動が始まったらしいーー

それは、すべての立ち位置を変えてゆく


ノートパソコンを開くと、もうそこに男の記憶はなかった
データの破損をコンピュータが伝える
バックアップは取っていない
ただ、もう円環に取り残されることなく
なぞなぞを遺して去った詩人の彼に
正解や真実は持って行かれたーー 

私が降り立った地は、
私がやり直すための地だ

黒い服装の男たちが、また手を変えるだろう

全てをコントロールしようとすることは無理だと、
彼らは気づかなければならない


私は最後まで、地上の上で生きる


勇気を、胸ポケットの一輪の花に秘めて


 ※恋した瞬間、世界が終わる -第5部 来るべき一瞬のために編-完-

恋した瞬間、世界が終わる -第38話「勇気の扉 -心ある人々によって-」-

次回は、10月中にアップロード予定です。

恋した瞬間、世界が終わる -第38話「勇気の扉 -心ある人々によって-」-

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  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-28

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