海画
海画
「ねぇ」
君がわたしを呼ぶ声がして、わたしは君の方を振り返る。揺れた水面から浮き上がったつめたい飛沫がわたしの頬を掠めて、潮の匂いがふわりと鼻先をくすぐった。
君のきれいな目に、眉を下げたわたしの顔が映っている。気付けばもう涙はすっかり止まっていて、ただ泣き腫らした目頭だけがじんじんと痛んでいた。
「たのしいね」
「……うん」
眩しいくらいに微笑む君のしろいセーラーもみずいろのリボンも、碧色の水面下をさかなのように揺蕩っている。それらを見つめながらわたしは、いろいろなことを思い出す。
放課後だった。校庭の隅っこで蹲っていたわたしをどこからかわたしを探しにやってきた君が手を引いて、ここまで来たんだった。
「どこに、いくの」
「いいとこ」
君に手を引かれて歩く道は、君の歩く速さがすごくはやくて、わたしはどうにも息がうまくできなくて死ぬのではないかと思った。ちかちかと眩む視界に滲む虹色が薄くひかって、君の手に引かれるわたしの細い手首とアスファルトの白線だけが続く。どれだけ歩いたのかもわからない。たまらず肩で息をするわたしを見て、まだ息一つ乱していない君がわらった。
「っ、わらわないで!!ほっといてよ!」
「ほら、みて。きれいだよ」
大きく息を吸って吐き出したわたしの呪詛もまるで君には届いていないようでーー、というか聞いていないようで、君はセーラーを翻しながらわたしに前を見るように促す。
その動きに引っ張られるように広がったセーラーの裾から伸びる、君の白くて細い腕から漂った酸化チタンの匂い。わたしは伏せていた目を開いて、視線を上げる。
「なに、ここ」
瞬間、視界に広がったのは碧い、あおい海だった。
「きれいでしょ、ここ」
きれい、なんてものじゃない。そんな表現では生温い、子供心にそう思ってしまうほどの景色だった。
ざぱぁん、と波が寄せては引いていくさらにその奥、とおく、遠く。その先に広がる永遠の水平線が太陽の光を受けてきらきらとひかっている。その上には淡い空が広がっていて、まるでこの世界のきれいなものだけをそこに詰め込んだような風景に君の細いシルエットが溶け込んでいた。絵画のようだと、思った。
海の画を振り返った君が、人魚にみえる。砂浜を踏みしめた君の素足が眩しくて再び目を伏せれば、君はわたしの腕をぎゅっと掴む。
「靴、脱いで」
促されるままに靴と靴下を脱ぎ捨てれば、ニッと爽やかにわらった君がわたしの腕を引いた。そのまま海へと一歩、一歩と近づいて、やがてスカートの紺色が水面に溶けてゆく。しろいセーラーまでもが完全に海に溶けた頃、君とわたしはきっとこの世界の何よりも自由になれた。
完全に解けたセーラー服の魔法。わたしはただぼんやりと、君の白い頬や硝子玉のような瞳が空の光を吸い込んでみずいろに煌めくのを見つめていた。
(……奇麗。)
君の色素の薄い髪に浮かんだ天使の輪や、瞳に浮かんだ白い花のようなハイライトでさえ、きれいだと思う。
「ここ、いいとこでしょ?」
「うん」
君の問いかけに答えた刹那、しろいセーラーが風に吹かれて、みずいろのリボンが解けた。ふわり、と重力を見失ったように空を泳ぐリボン。
「あ」
わたしが声をあげた瞬間、ぱっと伸ばされた君の手がリボンを掴まえた。
「はい」
「……ありがとう」
わたしがリボンに手を伸ばせば、君はどこか寂しそうに口を開く。
「怯えられると、さびしいんだけど」
君の白い手がわたしの手に伸びて、皮膚が触れ合う。わたしは思わず、リボンへと伸ばしていた手を引っ込めた。
「怯えてなんか、ないよ」
「手が震えてるよ」
わたしの手は、小刻みに震えていた。わたしは君を恐れているわけでも、君に嫌悪感を抱いているわけでもない、はず。
「なんで」
「……こわいんだね。人が」
「こわく、なんか」
「校庭で蹲ってた子の台詞じゃないよ」
「……」
帰り道、たくさんの同年代の子供たちが談笑しながら帰る声を聞くのが毎日怖かった。一人で歩くのは、怖かった。
……何もかもが、怖かった。
だからわたしは帰り道に行きたくなくて、みんながいなくなってから一人で帰りたくて、校庭で蹲っていた。
「……帰り道、同級生が笑ってる声がきらい」
「……おんなじだ」
「教室にいると、息がくるしい。ともだちができないわたしは、失敗作なんじゃないかと思う」
「一緒」
「しにたくないのに、きえたい」
「うん」
君はただ、わたしのつまらない身の上話を聞いて、うなずいた。揺らめく波に、わたしの下瞼から零れた滴が落ちる。
「……泣かないでよ」
君の切なそうな声がやたらとクリアに耳に響いて、ハッと顔を上げる。歪んで滲む熱い視界に、泣いている君が映った。君の薄い頬紅でいろどられた白い頬やきれいな瞳の輪郭が、じわじわと視界の端を揺れる海や波に侵食されてゆく。君の向こう側にある水平線が、薄笑いでわたしたちを永遠に誘い込もうとした。
「かえろっか」
小さな声。どちらから発せられたのかもわからないけれど、このままここにいたらいつか、二人もろとも自由に呑み込まれてしまう気がした。
「うん」
わたしたちは手を繋いで、陸に上がる。きらいだったセーラーをびしょびしょに濡れた瞬間、はじめて愛せた気がした。
(……さよなら。)
わたしは濡れた素足をタオルで拭いながら、海を振り返る。
水平線はやっぱり、わたしたちの一瞬で永遠分の逃避行を薄笑いで見つめていた。
海画