【星を詠む人】まとめ版

【星を詠む人】まとめ版

Tanakan

私は宮原 紡(みやはら つむぐ)と言う。
これは私が色んな人との出逢いを紡ぎながら前に進む物語。
それはまるで星の繋がりのように。

第一話【星を詠む人/梅雨の蟹の日】

きっとそれは人によっては、なんでもない事だと思う。
だけどもやっぱりこんな季節は憂鬱になるのだ。

仕事終わりに帰り道、バスの車窓から見える街並みは、降り続ける雨にしっとりと濡れていて、いつもよりもどこか静かに見える。
それに、この街の梅雨は随分と長く感じる。
それは私の気持ちも同じ様で、どこか色の濃い湖に沈み込む様な、そんな事を思ってしまう。

私は本を閉じて、目的地へと到着したバスを降りる。
同じ場所でバスを降りる人たちも、どこか俯いていて、これがやはり梅雨というものかと、私はふん。と鼻息を鳴らす。
たかが天候の変化だけでこうも人の心は変わってしまう。
それが気持ちの乗らない仕事の通勤中ならば尚更そう思う。
きっとそれは誰もが同じで、そしてそれは誰かにとってはどうでも良い事なのだ。

私はバスを降りて傘を広げる。薄透明色をした傘の向こうには降り続ける雨が細く映った。
それらは傘にその身を当てるとポツリと弾けて音を立てる。
どこか不思議なリズムを奏でるそれに、歩調を合わせながら私はいつもの道を歩く。
良く舗装されたコンクリートの道は幾多の脇道に分かれながらまっすぐと続く。
そして無機質にも隔てる壁からは、朝顔がひょっこりと顔を出している。
閑静な住宅街とはよく言ったもので、ここを歩いていると不思議と街の音はしない。
朝方に音を失う街並み。
この道を歩くのは賑やかな朝の通勤時間の中で、唯一落ち着ける時間でもある。
この街に引っ越してきてもう随分と経った気がする。
最初はおっかなびっくり歩いたこの道は、今では目を瞑っていても歩けそうな気がするのだ。

それはちょっと大げさだけど。

空には分厚い雲がかかっていて、本来なら燦々と気持ち良く咲き誇る太陽はその雲の奥に姿を隠している。
それがきっとみんなをこんな気持ちにさせるのだなぁ。と私はビニール傘越しに空を見上げる。
きっと今夜は星は見えない。それだけはちょっと残念だった。

星詠みという言葉がある。

それは占星術とも読む事は出来て、簡単にいうと天体に存在する星々の動きから、人や社会の在り方を経験的に結びつける。

・・・事だと思う。

経験的にって言っても、私なんかの短い人生の経験なんかではない。
はるか昔から紡がれたこの学問や教養とも言える分野に携わる人々の経験で、それは歴史とも言える。

人が人としてあるべき姿と星を結び、そこから導かれる言葉を受け取る。

そこから先はきっとその人次第。

誰かの背中を少しだけ押す言葉達。

少なくとも私はそう思っている。

まだまだ駆け出しではあるし、それだけでは食べていけないから別のお仕事なんかをしている訳なんだけど。
まったく。梅雨ってやつは私をこんな気持ちにするなんてなんて野郎だ!
ふんと胸を張りつつ、私はそれを口には出さない。
もしそんな事を堂々と口に出して、誰にも構わず気持ちを露わに出来たのならこんなに苦労はしないだろうに。
だけども、もしそうだったらきっと私は星を詠む事はしなかっただろうから、人生は難しいものだ。何にしても。

柔らかい糸のように降り注ぐ雨音に耳を傾けていたら、
不意に子供楽しげな笑い声がした。
閑静な住宅街の向こうには小さな学校があって、ここはその通学路でもある。
鬱々とした梅雨の色合いに黄色い帽子と色とりどりのランドセルが妙に映えて見えた。

その先には小さな公園がある。
大きなゾウさんお滑り台と、端っこが少し錆びたジャングルジム。
砂場には崩れかけたお城と誰かが忘れたのだろうプラスチックのスコップの横に小さなバケツが置いてある。
これぞ公園のあるべき姿かな?私はそう思いつつそこを通り過ぎる。
公園の端っこに、草葉色の小さな屋根の下に木造りのテーブルと椅子が見えた。
そこには真っ赤なランドセルを背負った女の子が一人で座っている。
こんな時間に不思議だな?私は首を傾げつつ歩きながらその子を眺める。
純粋な真っ赤な色のランドセルは昨今あまり見かけなくなったけれど、公園の緑とのコントラストがとても綺麗で目を奪われる。
なんだかその子は俯いているように見える。
こんな雨の日だから仕方がないのかもしれないけれど、それでもその光景はなんだか妙に心の中に小さな水溜りを作る。

だからと言ってこれ以上はここに立ち止まる事は出来ないから私は足を速める。
ただえさえ人より歩くのが遅い上に、もう出勤時間は目の前に迫っているのだ。
その公園を後にして歩き始めた訳だけど、その光景だけはやっぱり・・・
心の奥でじわじわと形成された水溜りの範囲を広げていくのだった。

「それで・・・紡(つむぐ)!また出勤時間ギリギリじゃん・・・」
「へへへ。申し訳ない。」
職場に辿り着いた私は素直に頭を下げて、怒ったようで笑っている山下沙耶(やました さや)にそう答える。
まったくもう・・・とため息を吐く彼女は茶色の濃い髪が綺麗にカーブを作っていて、鼻筋のしっかり通った顔とキリリと左右対称の瞳は、まっすぐと物事を見つめている。
いかにも仕事の出来る大人な女!
まったく・・と言いつつもそんな彼女はいつものように小さなお菓子を私のデスクに置いてくれる。
ありがとうと答えると甘いものが好きだから。と彼女は頬を紅くして顔を背ける。
根っからのお姉さん気質の彼女は意外にも感情が行動と表情に出やすい。
だけどもそれは本人は気が付いていないからまた可愛らしいものなのだ。

そして紡と呼ばれた私は、宮原 紡(みやはら つむぐ)と言う。
我ながら一見、書面上では女か男か分かり辛い名前だとは思うのだけど、
その語感は子供の頃から大層気に入っている。

つむぐ・・・むぐむぐ・・・なんとも可愛らしいではないか。

そんな私はこの小さなクリニックで医療事務をしている。
医療事務が雇える程のクリニックではあるので、そこそこ繁盛しているのだけど、程よく穏やかで退屈でもない。
何ともなしにここで働かせて貰っているのだけど、それでも狸のようにでっぷりとしたお医者さんや、
沢山のお母さんみたいな看護師さんに囲まれていてお姉さん気質の先輩さえもいる。
我ながら何とも良い環境に巡り会えたものだと思い、お菓子を口に頬張る。
水気の少ないそのお菓子は、甘い香りをそのパサパサとした食感と共に口の中へ広げる。
さすがは先輩。センスが良い。
「なにやってるの?そろそろ開業時間だよー」
へーい!と私はそう答えつつ受付の裏にひっそりとあるデスクへと向かう。
そうやって今日がいつもの様に始まり、いつもの様に緩やかに過ぎていくのだ。

それはとある日の、仕事からの帰り道。いつもの公園がまるで絵画みたいに色鮮やかに浮かんで見えた。
梅雨には周囲の景色が奇妙なほどに鮮やかに見える日がある。
それが道端で雨に向かって気持ち良さそうにその身を広げる紫陽花のせいなのか、
それとも暗い色をしたコンクリートが更にそのコントラストを落とすからなのか、
雨が上がって分厚い雲の切間から差し込む光のせいなのか、私には分からない。
だけどもそんな日は唐突に訪れて、私はすっと息を吸う。
どこか湿気を纏った空気はいつもより重たいようだ。
そしてあれから度々、艶艶とした赤いランドセルを背負った少女を公園で見かけるようになった。
その姿はいつだって一人で俯いている。
何度もそれから声を掛けようかと思ったけど、見知らぬ女性が声を掛けた所で不審がられるのが関の山。
元より知らない人とおしゃべりをする事が苦手な私にはそれはとても難しい。
だけどもその子の姿は緑の中に迷い込んだ赤い蟹さんみたいで、何とも可愛らしくて、今日のような日には余計にその姿が目に映る。

よし。私だってお姉さんなのだ。
一度私は胸を張り、公園へと足を踏み入れその子の下へと進軍してみる。
なにが出来るかは分からない。
もしいつものような日だったらきっと通り過ぎているだろうとも思う。
だけど今日は梅雨の日々に稀にある特別な日なのだ。きっと大丈夫。

そう私は自分に言い聞かせてその子の下へ辿り着く。
よく見るとその草葉色をした屋根には沢山の蔦と葉っぱが絡み付いていて、急に緑の匂いが濃くなった気がする。
その小さな談話室で少女の隣に立ってみると急に街の景色が遠のいた気がした。

「ねぇ何をしているの?」

そう私が話しかけて見ると、その子は首を横に振る。あまり人見知りをしない子なのかしら?そんな事を私は思う。
もし私が同じ状況だったならば、きっと飛び上がって、しどろもどろと言葉にならない何かを口走っているだろう。
不思議と周囲からは音が消えて、この世には自分と少女しか居ないような気分にもなる。
その小さな沈黙は決して物事が停滞しているのではなく、きっと人が本心を語りだす前にある、ほんの一瞬の沈黙。
そんな風にも感じた。

「ねぇ。お姉さんはなんでいつも楽しそうに歩いているの?」

少女は顔も上げずにそう私に答えた。幼く鈴のように響くその言葉は沈黙した街の音の中で、よく響いた。

「ふーむ。何故かと聞かれても困りますな。というか見てました?」

うん。と少女は一度頷く。赤いランドセルを握る両手にはしっかりと力が入っている。

「毎日コッチを見てたでしょ?だから私もお姉さんを見てた。ウチはそんなに楽しそうに歩けない。」

どこか関西の名残は残ったままの言葉で少女は答える。
そんなに楽しそうだったか?と一度首を傾げつつも、きっとこの子は楽しくないのだなと、誰でも思いつくような事実に私は辿り着く。

「まぁ。楽しくなくても楽しそうには歩けるよね。キミは楽しくないの?」
「ウチは・・・まだ引っ越してきたばっかりだし、お友達も居ないし、お母さんも朝早くから仕事だし・・・楽しくない。」

その言葉を聞いて、それが誰かにずっと言いたかったんだね。私はそう思う。
身近な人には決して言えない言葉なんてものは沢山ある。
自分の事を何も知らない人だからこそ、語れる言葉もまた沢山ある。

「ねぇ。ウチが一人ぼっちでいるのを見てどう思った?やっぱり変でしょ?」
「うーん。変だとは思わなかったけど、なんだか蟹さんみたいだなと思った」

かにぃ!?上場は体をピクッと浮かせて私を振り返る。
艶艶と揃えられた前髪の下からはまん丸の、まるで宝石をはめ込んだような瞳が私に向けられる。
これは将来有望であるな。と私は笑みを浮かべる。

「そう蟹さん。赤いランドセルが甲羅に見えて可愛かった。」
「ふーん。蟹さんかぁ。変だね。」

そういって少女は初めて笑った。お腹を抱えて笑うほどではないけれど、クスクスと表情を崩している。

「ふふん。蟹さんだって全然変じゃないんだよ?赤くてかたーい甲羅でしっかりと自分を守って、自分だけじゃなくて周りの人もまた守ろうとしてくれるの。だからとっても優しいの。みんなの気持ちをとっても大切にしているから逆にそれで心配しちゃうの。自分以外の誰かを大切にし過ぎちゃって、時々ぎゅっと自分の殻に閉じこもっちゃう。」
「でも蟹さんはちょっと触ると逃げちゃうよ?」
「時には逃げる事も大切なんだよ。戦ってばかりいると疲れちゃうし、誰かを傷つけちゃうから。でもね、蟹さんには大っきなつよーいハサミがあるからいざとなったら、自分の大切な人をそのハサミで守れるの。優しくて、ちょっと考えすぎちゃうけど、それでも自分や自分が大切な人を守れるから。」

まぁ正確には蟹さんというより、蟹座の人の話なんだけど。
そう私は言葉に出さずに答える。少女はそうなんだーと私の顔を不思議そうに見上げながら足をプラプラと気持ち良さそうに揺らしていた。

「ウチも蟹さんみたいになれるかなー」
「蟹さんにはならなくて良いけど、蟹さんみたいな人にはなりたいよね。」
「うん。ウチは蟹座やから。そんな人になるね。」

そう笑顔を向ける少女に、もうきっとそんな人だよ。と言葉にはせずに笑みで返す。
この子が蟹座だという事には少しびっくりしたけど、だけどもそういう事は往々にして有る。
星はいつだって人を照らしていて、自身のその姿を人に映す。
駆け出した少女を見送って一足遅れて私も足を踏み出す。
大きな赤いランドセルから突き出た両手はまるで本当に蟹さんみたいだ。
そんな事を考えながら。

梅雨の雨の合間にはこういう事が稀にある。
それは日々の合間の一瞬ではあるのだけど、まるで人と人との気持ちの距離がぐっと近付いて、その人が紡いできたお話が新しくまた紡がれていく。
そういった瞬間だ。
今日はまさに梅雨の蟹の日だな。
そう思いつつ私は帰路に着く。
しかしもうあんなに無邪気に走れないなー。とぐんぐん私に差をつけて小さくなる赤いランドセルを視線の先に追いながら、私はそんな事を思った。

それからすっかりと一人ぼっちの蟹さんには出会う事は無くなった。
そしていつもの様に通勤路をふらふら歩いていると、同い年の子供たちと楽しそうに雨具を着て傘を差す少女に出会った。
あの日の表情は嘘のように消えていて、私に気がつくと少女は大きく手を振った。まるで大きなハサミのように。
その赤い甲羅のままで、自分や周りの人に想いを向けて。

なんともやるではないか。蟹さんは。

そうして私は少女たちに追い越されたまま空を見上げる。

分厚い雲は僅かに明るく見える。それでもしばらく雨は続くそうだ。

ふむふむ。今夜は星は見えそうにもないな。

私は分厚い空の向こうにある星を眺めてそう思う。

だけども私は星を詠む。

星を詠んで・・・人を想うのだ。

第二話【星を詠む人/大人なライオンの日】

私はその日に処理された書類の束を纏めてファイリングする。
視線を滑らせその端っこがしっかりと揃えられている事を確認してからそれを綴じた。
業務の終わりはこうであるべきなのだと私は一人で、ふん。と満足気に息を吐く。

「何ていうか・・・そういうとこは几帳面よね」

マグカップを片手に山下沙耶(やました さや)はため息まじりにそう私に声をかける。
このクリニックで医療事務として働いている私の先輩である彼女は、ちょっとだけ吊り目の整った顔立ちをしている。だからこそ一見厳しそうには見えるのだけど、実際の所はとっても面倒見が良くて所々乙女な部分が垣間見えるからとても可愛らしい。まるで本当のお姉さんみたいだ。

「これが拘りってやつですかねぇ」

私がそう答えると、どうだか?と笑みを浮かべて私の肩を彼女は叩く。

「そういえば明日は休みだけど、紡(つむぐ)は休みの日には何をするの?」

紡と呼ばれたのは私の名前で、本名は宮原 紡(みやはら つむぐ)という。
星を詠む事が仕事・・・と言いたけれど今はまだ駆け出しで、医療事務として働きながら学んでいる最中である。本業は星詠み!そんな風に堂々と胸を張って言えるようになるのはいつになる事やら・・・

「ふふふ。ちょっとだけチャレンジしようと思っている事があるのです。」

そんな答えに沙耶は口も目も大きく見開く。

「まさかあんた・・・ウチを差し置いて彼氏なんか・・・」

目を丸めて驚く沙耶に私はゆっくりと首を横に振る。それにホッとしたのか再び表情を柔らかく肩の力を抜いた。
まさか彼女はこんなにも自分の感情が表情や態度に出ているとは思わないんだろうなぁ。とやっぱり可愛らしい先輩だと私も笑みを浮かべた。

その日の帰り道は太陽は夕暮れ時のオレンジ色のまま辺りを照らしていた。帰路に付きながら伸びた影が私の細やかながらの愉快な動きを、几帳面に真似をするのを眺めていた。
休みの日をいかに過ごすか!
それは学生の頃から私にとっての一つの大きな課題だった。それほど友達も多くない、というか大勢の中で生きていくのが苦手な私にとっては、周りの友人のようにやれキャンプだ!やれ旅行だ!そんな風に休日を過ごす事は出来なかった。
もちろんそれが嫌いという訳ではないのだけど、何だか苦手でもあった事は嘘ではない。
そういった事よりも、近くの公園でのんびりしたり、図書館でどこか古びた本の香りに包まれながら過ごす事が好きだった。
日々の生活の中ですり減っていた心の中のエネルギーのような、潤いのような、そういったものをゆっくりとまた満たしていく。漠然とそれが私にとってはとても必要だと考えていた。
そんな時に出会ったのが星詠みに関する本で、そこには夜空に浮かぶ星たちの意味、そしてその星と人の繋がりが描かれていた。
その本を読み終えた時、なんだか自分の世界が広がった気がした。

何気なく存在している周りの人達も気が付かない間に何かに導かれるままに生きていく。そういう風に周りを眺めていると私もまたその世界と人とが不思議な縁で紡がれている。そう思うと普段は何気なく眺めていた辺りの景色や人や、星々が不思議と色鮮やかに見えた。
多分それが紛れもなく今の自分の始まりだったのかもしれないと今更ながらにそう思う。
逆に言うと、すぐに独りの世界へと閉じこもって、その心地良さに囚われてしまう私が唯一世界との繋がりを持つ方法。それが私にとっては星詠みなのかもしれないと思うと、これもまた星の力なのかもしれないと考えずにはいられないのだ。
そんな私は明日の夕刻にも近い時間に少しだけ挑戦をしてみる。
他人から見たら本当に当たり前のような事、それでも誰にだって初めてはあって、それはその人にとって重大な挑戦でもあるかもしれないのだから侮れない。ワクワクとドキドキは歩幅をちょっとだけ大きくしてくれる。
その歩幅に合わせて私の影法師もまた愉快に歩幅を大きくするのであった。

7月も終わりになってくると、雨の名残こそ残ってはいるものの、空は高くなって日の光は思う存分に私へと降り注ぐ。
正午の時間はとうに過ぎて、時刻は夕刻へとゆっくりと時間を進める。
やっぱり休みの日に空を眺める事は好きだ。
それは多分心の余裕でもあって、空を見上げる事が出来るという事はきっと心もまた広々としている証拠なのかもしれない。
という事は心の余裕が無い時には、空を眺めてみるのは良いかもしれない。それはもう堂々と雄々しくて、雄大な鬣(たてがみ)を自慢する事も無く佇むライオンさんみたいに。
私は立ち止まって空を仰ぎながら胸を張る。そして一度大きく息を吸って胸を膨らませてみた。それはもう立派なライオンさんみたいに

「がおーーーー!」

・・・なんて私は叫んだりはしない。私は大人だから。
流石に人の目は気になるし、それが世間一般で認められている行動でも無い事は知っている。
だけども時々私は思うのだ。もしこうやって人の目を気にしないで生きていけたら。それはそれでとっても心は楽なのだろうと。
こんな空のように流れる雲で影を作る事も無く、時折雨を降らしたり大荒れの天気にもならず平穏無事で、生きて行けるのでは無いのかと。
ふむふむ・・・なるほど、そう思うと何だかちょっと更に勇気が湧いてくるのでは無いか。
そう考えている内に私は目的地へと辿り着く。
『café&BAR ライオン』
そう掘られた木造りの看板は、静かに揺れる波のように誂えられていて、黒にも近い茶色の同じく木で作られた重いドアの上でユラユラ揺られている。
なんとも落ち着いて飾らず、それでいて何とも’大人’ではないか!
オシャレなチェーン店やcaféならばいざ知らず、きっと大人な人が集まる落ち着いた雰囲気の場所。
私は再びライオンさんのように胸を張り、そのドアを開ける。
誰かにとっては当たり前の出来事でも、今の私にとっては確かな挑戦であるのだ!

木造りのドアは私が思ったよりもずっと重かった。
それは私が少し二の足を踏んでいるからかもしれ無いけれど、思い切ってドアを開けると、カランコロン・・・と古めかしい鐘の音が鳴り、その音と同じくらいの速さで辺りはコーヒーの心地良い香りに包まれた。
住宅街の中で、アパートに挟まれて存在するこの店はそれほど広くは無い。窓際に並べられた木製のテーブルは二つほど、椅子は四脚きっちりと揃えられている。店の奥には一枚板のカウンターに五脚ほど少し高めのカウンターチェアーが置かれていて、どれも落ち着いた黒にも近い茶色の色で出来ていた。明るい町並みとは相対したその色彩は夕刻に近いこの時間帯でも夜の空気を纏っている。
私の通退勤路から少し外れた場所にあるこの場所をある日遠回りした帰り道に見つけてしまった。その日からこの大人な空間へと脚を踏み入れるための心の準備に少し時間はかかったけれど、ようやく私はその一歩を踏み出したのだ。

「いらっしゃいませ」

カウンターから少し低めの良く響く声が聞こえて、私は思わずお辞儀をする。その姿を見てその声の主は柔らかく笑みを作った。
まるで映画の中のようにシワ一つ無いシャツと真っ黒なベスト。藍色のネクタイは少し細めでもある。真っ白の髪の毛をオールバックに綺麗に整え、細身の背格好には銀色で縁の薄いメガネがよく映えている。
その初老のバーテンダーはどうぞと左手をカウンターへと向けて、私は穏やかではない心の中を必死に隠しながら、誘われるままにカウンターへと腰を下ろす。
テーブル席がこんなにも空いているのにカウンターに当然のように腰掛けるなんて!
そんな私の心の中を知ってか知らずか、その初老のバーテンダーさんは私が腰を下ろすタイミングに合わせて暖かいおしぼりと、縦長のメニューをそっと差し出す。
あまりに自然に静かな仕草に、私は辺りを少しキョロキョロしながらそれを手に取る。おしぼりの暖かくどこか柑橘系の匂いを感じながら芸が細かいと一人満足していた。
昼でもなく、夕方でもないこんな時間だからか店内には私一人しか居らず、ウッドベースの音がよく響く音楽は心地良さそうに店内の空気にその身を任せている。

「ご注文は如何しますか?」

私がその音楽に心地よく身を任せて体を少しだけ揺らしていると、初老のバーテンダーの声がその音楽に合わせたように響いた。

「すっすみません!えぇと・・・ブレンドコーヒーを下さい。」

不意を突かれた私は、大人の雰囲気は何処へやら、両手を膝の上に置いたままにドギマギしながらそう答える。そんな仕草もまるで気が付いていないかの様に初老のバーテンダーさんの振る舞いは整然としておりとても静かだ。

「かしこまりました。」

そう答えた後、後の壁に備え付けられた棚から幾つかのコーヒー豆が詰められた瓶を取り出すと、手慣れた様子でそれをブレンダーの中へと入れていく。その後一瞬だけブレンダーがコーヒー豆を砕く激しい音に私は身を固め、その音が余韻を残したまま消えていくのに従い私の気持ちも穏やかになる。
ブレンダーからは細かくなったコーヒー豆がサイフォンの中へと投入されて、火に掛けられたフラスコの部分がボコボコと音を立てて沸騰する。
縦長の砂時計にも見えるサイフォンの形状を間近で見るのが初めてで、私は目をまん丸にしたままそれを覗く。
フラスコの中でボコボコと沸騰する水は、そこから上へと昇りながら砕かれたコーヒー豆へとその身を任せる。
時間を置いて再びフラスコの中に戻ってきたそれは、すっかりとコーヒーとなっており、それは白く私の顔が反射するくらいに磨かれた陶器のコーヒーカップへと注がれた。

「おぉ・・・」

目の前で丁寧に作られたコーヒーを見て私は思わず小さく歓声を上げる。私はハッとそれに気がつき顔を真っ赤にしたまま俯かざるを得なかった。

「私が退屈でもありましたので、ちょっとゆっくり作ってみました。ご迷惑ではありませんでしたか?」

そんな私の挙動を笑うでもなく、変わらぬ穏やかな声で初老のバーテンダーさんはそう私に声をかけ、滅相もございません!と私は答える。
良かったです。と笑みを返すその方の姿に私もなんだか心が休まるのを感じた。
そしてそのコーヒーを口へと運ぶと、底が見えない程に真っ黒でわずかに回転する茶色の泡が弾ける度に、ホロ苦く甘い香りが漂ってくる。
その私の心の中が店内に流れる音楽と共に、大気中に流れてしまったのかどうかは分からないけれど、カウンターの奥で初老のバーテンダーさんが軽く会釈をする。
穏やかに流れる店内の空気とコーヒーの香りに身を任せつつ、あぁ大人だなぁと私は今回の挑戦に関しては大成功だと満足していた。
きっと多くは語らず必要最小限の言葉だけで相手に情報ではなく感情を伝える。なんとも全くもって大人である!
と思ったのも束の間、ガタガタと店のドアが揺れて、私がドアを開けたのとは違う激しい音色で鐘が鳴った。

「よー!ライオン!久しぶりだな!元気だったか!」

静かな店内の音楽と不協和音を奏でながら、嗄れた声の決して若くはない男の声がした。私が思わず店のドアの方向へ視線を向ける。
その男は、赤いハイビスカスのアロハシャツに真っ白な短パン。そしてビーチサンダルのままに、右手を上げて、今まさに活気で溢れる砂浜からやってまいりました!そんな格好であった。
アロハシャツの男性が慣れた様子でライオンと呼ばれた初老のバーテンダーの前に腰掛けると、その横顔には年相応のシワが刻まれているのが見えた。髪は真っ黒に染められているけれど、多分ライオンさんと同じくらいの年齢ではないのだろうか。私は肩を竦めて目立たぬようにその身を小さくしてそう思う。

「ライオンって呼び方は流石に恥ずかしいですよ。そういう歳でももうありませんしね。」
「なっはっは。すっかり丸くなってしまったなぁ。昔はあんなに視線も鋭くて笑顔なんかも見た事なかったのにな。」

照れ笑いをするライオンさんの笑みはさっきまでとは少し違って、どこか無邪気っぽく口角を上げている。
なるほどライオンさんも若かりし時にはやんちゃだったのだなと、私は頭の中でそんな事を考える。真っ黒なスーツに黒く染められたオールバックのままで、拳銃を片手に街角でタバコを燻らせる・・・多分違うだろうな。と私は首を左右に振る。

「それは兎も角、ご注文は何に致しましょうか?」
「そうだなぁ。あれある?えぇとロールドパー?水割りで頂戴!」
「いつものOldParr(オールドパー)ですね。しかしシゲさん・・・こんな昼間から、良い身分になられましたな。」
「まぁ仕事も定年を迎えりゃこんなもんよ!年がら年中仕事に明け暮れ、定年した途端に家には居場所がないからなぁ。」
「それは残念でしたね。これからは家族サービスでも考えてみては?」

日曜大工でも始めるかなぁ・・・そうカウンターに身を預けながらそのシゲさんと呼ばれたアロハシャツの男性は独り言のように呟いた。
なんだか私の思っている大人の姿とはちょっと違うなぁ。とぼんやりを私はコーヒーの香りに身を委ねながらそう思う。
いけないとは思いながら会話にこっそりと私は耳を傾けながら、確かにそうなのかもしれないなぁとも思った。
だって今までは日中は殆ど仕事で家には居なかったお父さんが、急に一日中家にいるようになったら、正直どう接して良いかは分からない。小さい頃ならそれは両手を上げて喜んだ事でも、年月と共に人の気持ちなんて容易に変化する。
それはきっとシゲさんだって同じだと思う。仕事を生きがいにするのは悪くはない。楽しんでやっている分それは十分に生きがいだ。
私は本当にやりたい事の合間で仕事をしている訳だけど、本当にやりたい事がその仕事だって人は沢山居る。
急にそれが奪われたとしたら、きっと私ならどうして良いか分からない。
そうこう考えている内に、シゲさんの前に薄い琥珀色をしたロックグラスが静かに置かれる。氷が揺れて乾いた音が響いた。

「しかし家に身の置き場がないってのもなんだかぁ。嫁は兎も角、娘も来年就職だってよ。早いもんだねぇ。なんだか俺が家に居ない間に勝手に時間だけが進んでしまった感じがするなぁ。」
「まぁ仕事終わりに毎晩ここに遊びに来てもらってましたからね。」
「そう考えると俺は家族と過ごしている本当の時間なんて些細なものだったのかもな。むしろ職場の人間やライオンと一緒にここで過ごしている時間の方がずっと長い気がするよ。」
「それは私としては有難い話ですけどね。シゲさんには売り上げにも随分と貢献されて頂けましたし。」
「ならもっとサービスしてもらっても良い気がするけどなぁ。家も買って自分の帰る場所はちゃんとあるっていうのに、居場所がないって言うのはなんとも言えない気持ちになるよ。」

その言葉を最後に一度だけ口に含まれたOldparrの水割りは徐々にその色を失っていった。帰る場所は有っても居場所が無い。そんな言葉がすっと私の心の中に沈んでいくのを感じた。

「それならば、そこのお嬢さんにご教授して頂いてはどうでしょうか?シゲさんの娘さんと同じくらいの年齢でしょう。」
「うへぇっ!?」

急に話題を振られて私は文字通り少し体を浮かせて身を固める。
確かにカウンター同士で見知らぬ者同士で会話を交わす。それもまた夢見た大人の姿ではあるけれど、むしろ聞き耳を立てていた事がすっかりとバレていた事の方が恥ずかしかった。

「いやぁ。すまんねお嬢ちゃん。こいつは昔から時折無茶な事を言い出すから気にしないでくれな。しっかし残念なおじさんの姿を見せてしまってなんだか申し訳ないなぁ。」

あっはっはと気楽に笑うシゲさんの笑い声はどこか自嘲している様にも聞こえた。自分の居場所が家にも自分の心の中にさえも無い。そんな感じだ。

「えぇと・・私は格好良いと思います。」

二人は目を丸めて私を見た。その言葉に店内に流れる会話は止まり、ウッドベースのリズムだけが小気味よく流れる。しばらくしてシゲさんが口を開く。

「それは有難いね。だけどももし君のお父さんが昼間っからこんな所で、偏屈なおじさんと酒を飲んでダラダラしていたら嫌だろう?」
「それはそうですけど・・・でもお嫁さんや娘さんが見ているシゲさんの姿はシゲさんが今思っている姿とは多分違うのかなぁと思います。働かれていた時の素敵な凛々しいお姿とか、自分の理想を胸に秘めたまま、何が起きても強い姿を、それこそライオンみたいな姿を思っているのかなぁって。」

ほう・・・とシゲさんはさっきまでのニヤけた表情はどこかに消えてまっすぐと私を見つめている。背筋を伸ばして足を組み、口元に手を当てて。
カウンターの奥のライオンさんは僅かに笑みを浮かべるのが見えた。

「ライオンはもしかしたら本当は弱いのかもしれません。百獣の王なんて呼ばれて、周りから囃し立てられたとしていても、それはあくまで周りから見える自分ですから。時には我が儘だとか、自分勝手だと落ち込むことが有っても、人知れず涙を流したとしても、そんな姿を見せる事は出来ません。誰かが望んだ理想の自分の姿、雄々しくて理想に忠実で何が起きても常に胸を張っている。多分そんな風に周りから見られるからこそ、そうでなければ自分の居場所が無くなってしまうと自分で思ってしまうのだと思います。本当はそうで無くたって大丈夫なのに。」

シゲさんの話でもなく、ライオンの話でも無い。これは獅子座の人の話ではあるのだけどと私は思う。だけども星は不思議と人へ想いを繋ぐ。人は星の下で生きていて、その言葉や紡がれた想いは例え獅子座でなくとも人へと紡がれる。そう私は思うのだ。
そして長々と語り終わって私は急に自分の頬が上気するのを感じる。

「すっすみません!失礼な事を言ったかもしれません。それに纏まりもなくて・・・」

いやいや。とシゲさんは手をフラフラとさせる。しっかりと背筋は伸びていて、砕けた表情は随分と整いスーツ姿がよく似合うのだろうなぁとそんな事を私は考えた。

「働いていた時は確かにそれが虚構であったとしても、背伸びして格好付けてちょっとだけ褒めてもられるように毎日頑張って、時には自分にも嘘をついて・・・確かにそんな人生だったような気がするなぁ。」
「それが大人ってもんでしょう。シゲさん。」
「ライオンに言われちゃぁなぁ。そういや今でもお前はそうだもんな。」
「えぇ。自分にも周りにも嘘を付いて、格好を付けていますから。」
「それが大人だな」
「ですね。」

二人の言葉の数は段々と少なくなっているのに、その言葉に含まれる想いの数はどんどん増えていっている。二人の昔に何が有ったのかは知ら無いけれど、それは確かに今まで生きてきた、格好を付けて背伸びして、そして今でも理想の自分を演じている。いつか本当に理想の自分に近付くために。
二人の姿は語らずともそう語っているように見えた。

「しかしお嬢ちゃんすごいじゃ無いか!占い師かなんかかい?今はやりのスピリチュアル・・・なんとか、カウンセラーみたいな。」
「いいえ・・・えぇとこれは星詠みと言いまして、正確には今のお話は獅子座のお話だったのですが。」
「ほう!ならばちょうど良かったなぁ。この格好付けたバーテンダーがなぜライオンと呼ばれているか教えようか?それは・・・」
「ただ単に獅子座だからですよ。このお店の名前も単にそこから貰いましたから。」

それは俺のセリフだろう・・・といたずらっぽく口角を上げるシゲさんにライオンさんはフッと息を漏らすような笑みを浮かべる。
そしてシゲさんは胸を大きく張りながら唐突に両手を大きく上げる。

「がおー!!」

店内へ大きく響く声を上げて、怪訝そうにライオンさんは眉を顰める。今度は私は驚かない。シゲさんもまた今は紛れもなくライオンさんなのだから。

「シゲさん。まるで子供みたいだ。」
「ふふん。たまには良いだろう?さてさて、そろそろ嫁さんにも娘にもまた格好付けてやりますか。今度は仕事ではなくて、家庭の中で。」

そうシゲさんは言い残すと、カウンターに代金を置いた後に右手を上げて店のドアへと向かう。そして扉を開く前にもう一度、がおー!と背中を向けたまま雄叫びを上げた。なんだか思ってた大人の姿とはちょっと違うな。と私はクスクスと笑う。

「すみません。随分と賑やかになってしまいました。」

ライオンさんはそう言って一度頭をさげる。とんでもない!と私は両手をバタバタとさせる。

「それとこちらは、もう出て行かれましたがあちらのお客様からです。後、お代金の方は先に払われていきましたので、ご遠慮なく。」

そう言って私の前に薄いエメラルドブルーのショットグラスが置かれる。そこには猛々しく吠えるライオンの姿が刻印されていた。
その甘い甘い、どこか紅茶の香りをしたリキュールを口に含んで、なるほど・・・流石にこれは大人だなぁ。
ちょっとだけドギマギしながら私は、私の中で広がるコーヒーのほろ苦い香りと、紅茶のリキュールのどこか甘い香りに身を委ねた。
今日は紛れもなく大人なライオンの日だ。そんな事を思いながら。

扉を開けて外へと出ると、まだまだ太陽は高い位置にあって辺りに惜しむ事なくその日を振らせていた。伸びる光線のコントラストはまるでライオンの鬣の様に見える。
ふむふむ。こんなに雲ひとつ無いままに晴れているのだから、今夜は星がよく見えそうだ。
ちょっと帰りにお酒でも買おうかしら。
すっかりと気持ちの良くなった私は、そんな事を考えながら帰路を進む。
星も人も繋がっていて、人と人もまた繋がる。
そうして世界はこうやってまた一つ紡がれていくのだ。

そうして私は星を詠む。

星を詠んで、人を想うのだ。

第三話【星を詠む人/乙女な夏祭りの日】

夏の夜は時に賑やかになる。
私は部屋のベランダから、いつもとは違ってぼんやりとオレンジ色に色付いた街並みを眺める。
視界の下の方で、長々と伸びる通りにはいつもよりも街行く人は多い。
風に乗って控え目に流れる祭囃子を聞きながら、
すっかりともう夏も終わりだねぇ。と私はそんな事を考えるのだった。

それは今日の仕事終わりの事、私の働くクリニックもまた、賑やかな街並みの例に洩れずに、いつもと比べて賑やかだった。

「ねぇねぇ!あんた達も今日のお祭りには行くの!?」

そうドカドカと、ふくよかな身体を遺憾なく発揮し、かつ両手を腰に当てているものだからより立派に見えるその体付きで、藤井さんはいつものようにクリニック中に響きそうな言葉でそう言った。彼女はこのクリニックが創設した時からいる大ベテランの看護師さんで、子供さんも5人は居るという、いかにも肝っ玉母さん!といった人だから、名は体を表すというのは嘘ではない。
そして私もまた彼女にとっては子供みたいに見えるみたいで、何かと世話を焼いてくれる。

「えぇと・・私はまだ何も考えていません・・・」

そう私がぼそぼそと答えると、彼女はあっはっはとその身を更に大きくして笑いながらお腹を叩いた。

「あんたも若くて可愛いのにもったいないねぇ。うちの町内会でさ。唐揚げとお酒でも出そうと思ってんの。良ければ来てよ!」

ふむふむ。お祭りに唐揚げ、そしてお酒だなんて・・・そんなお話を聞いたらこんな夕暮れ時の時間であるからか、不思議とお腹も空いてしまう
今にも鳴きだしそうなお腹をちょっとだけ抑えていると、後ろから現れた二人の女性もまた藤井さんの隣に並ぶ。

「何を言っているの藤井ちゃん。この子達はきっと大切な人とお祭りを楽しむに決まってるじゃない。ごめんね。困らせて・・」

そう言って佐藤さんは銀縁のメガネをかけ直しながら細身の身体を屈めて私にそう言った。この人も藤井さんと同じくらいのベテラン看護師さんで、大胆な藤井さんとは逆にちょっとだけ静かで厳しそうだけど、その分周りの人をよく見ているのも彼女だ。

「そうよそうよ!でも揚げたての唐揚げも美味しいよー。もうほとんど飲み物と同じだよね。」

そのセリフに、もう田村さん!と、佐藤さんは腰に手を当てため息を吐く。二人よりも幾分か・・・と言っても私よりもひと回りくらい年上であるのだけど、田村さんは小柄で丸い身体と、ゆるく巻かれた髪をふわふわと揺らしながら、コロコロと笑っている。いつだって幸せそうにお弁当を頬張る彼女を私は思い出すと、やはり美味しい食べ物は人を幸せにするんだなぁ。と私はその姿を思い出す度にそう思うのだ。
本当にこの人たちはいつだって幸せそうに見えると私は思う。
もちろん色んな苦労はしていると思う。だけどもそれを微塵も感じさせないほど、三人は仲良しでいつだって小さな出来事でも笑い合っている。
それは多分私なんかよりもずっと長い間を過ごした人だけの持つ独特の雰囲気だと私は思う。
いいなぁ・・・そんな事を考えていると、奥の方から一歩ごとに、のっしのっしと足音が聞こえてきそうなほどの足取りで、大田原院長が顔を出す。

「なんぞ?唐揚げとな!もちろんワシが行っても構わんだろうな?」

そう青い水玉が浮かぶ団扇を忙しなく右手で降り続けながら、大田原院長は、ふっふっふと含み笑いと共にそう言った。以前はどこぞの大学病院でお偉い立場だったとは噂では聞いている。だけども今はなんというか・・・良い意味で可愛らしい狸さんみたいな・・・街中で偶に出会う大きな徳利を持った陶器の狸さん。そんな事を失礼ながら私は思い浮かべてしまって、姿を表す度に賑やかな気分になってしまう。

「あらー院長先生も来てくださいますの?でもダメよ。そのでっぷりとしたお腹を更に育ててどうするつもりかしら?」

藤井さんは賑やかそうにそう語り、

「そうね。先生がもっと健康に気をつけるようにと患者様に幾ら指導してもその身体じゃねぇ・・・」

と佐藤さんは呆れ、

「でもでも先生のでっぷりな身体は必要以上に貫禄のあるように見えるものだからねぇ。」

とコロコロ笑いながら田村さんもそう言っている。
なんか散々な言われようだなぁ、と思いつつもそれが許されるだけの年月がこの方々のすぐ側には流れている。
ほっほっほ。と確かな返答もせずにのっしのっしと大田原先生は診療所の奥へと消えていった。
これはこれでいつも通りの会話であるけれど、今日は特に賑やかなように思える。

「そして沙耶(さや)ちゃんはどうするの?」

その返答に、私の先輩医療事務であり、いつもは毅然としている彼女がうへっ?と普段は絶対出さない奇声をあげて、文字通り身体を浮かせてこちらを振り向く。
その仕草に三人のベテラン看護師さんは互いに顔を見合わせて、あらあらと三人同時にニヤニヤと笑みを浮かべる。

「なんでもないです!」

まだ何も言われてないのになぁ・・・と私はそう思いつつ、幸せそうな先輩医療事務さんの仕草に三人のベテラン看護師さんと同じ表情を浮かべた。

思えばなんだか1日幸せそうだったなぁ。とベランダの下から祭りの陽気がムクムクと盛り上がってきた街並みを眺めながらそう思う。
足取りもどこか軽やかだったり、なぜか給湯室で一人でふわりと回って見せたり、お昼ご飯の時も何かを考えているようでどこか頬を緩めて上の空だった。
彼女はきっと普段毅然としていると思っていても、その実とっても感情が表情や行動に出やすい。
だからこそとっても可愛い先輩なんだけどねぇ。
なんだかこちらまで幸せになるではないかと私はそう思うのだ。
ふと視線の端に、親子連れの姿が見えた。子供は真っ赤に見える浴衣を来て両手を両親の真ん中で広げている。トコトコと駆け回るその右手には、大きな風船のように祭りの世に浮かぶ綿あめを持っていた。
なんだか私も浴衣姿でりんご飴でも買ってみたいなぁ。
そんな事を考えてみて、ふふふ。私にも乙女心らしきものが残っていたなんて・・・少し驚いた。
だけども浴衣を着付けている時間はなさそうなので、私は部屋に戻って簡単な身支度を済ませて街へと出る。
偶にはこういう夜も良いだろう。
そんな事を思いながら。

しかしよくもまぁこんなに人が居るものだなぁ。
と祭りの度に私はそう思う。真っ赤な色で煌々と辺りを照らす提灯や、黄色や緑のグラディーションに彩られた看板の数々。
そして普段の姿とは違うであろう活気に溢れたお店の人達。
それらは街をどこかオレンジ色をセピアに染めて、人をなぜか懐かしい気分にさせる。そんな街並みを歩きながら私は例の藤井さんら町内会が出店しているだろう唐揚げ屋さんを探す事にした。
だけどこうも大勢の人々と、それと同じくらいに数多く存在する出店の中からそれを探すのは簡単では無かった。
ふと、照明に照らされて朱色でテカテカした丸い物体が、まるで出店に咲く花のように存在する麗しき、りんご飴屋さんが目に入った。
これは買わなければならないなぁ。こんなにも可愛らしいんだもの。
そう私はふらふらとその店に吸い寄せられていると、あー!っと小さな女の子の凜とした声が響いた。
なんぞ?私はその声のした方を向くと、真っ赤な、それこそ小さな金魚のような浴衣姿の女の子がこちらに手を振っている。
どこかで会ったかな?と一瞬悩んでみて、私はその子がかつて梅雨の公園で出会った少女という事に気がついた。

「おねえちゃーん!」

精一杯に声を張り、蟹座の女の子は私へと駆けてくる。そして一歩だけ遅れて両親だと思われる男女もまた私の目の前に並んだ。

「お姉ちゃん!お姉ちゃんもお祭りに来てるん?」
「そうだよー!かわいいね!ちょっと誰だか分からなかった。」

そうかなー。と女の子が両手を後ろに組んで身体を揺らすその仕草もまた非常に可愛くて、私は無性に頭をナデナデしたいという欲求に襲われる。

「すみません・・・娘が・・・」

ちょっとだけ息を切らした白いぱりっとしたシャツにカーキ色のチノパン。そして丸メガネをかけた癖っ毛の男性は軽く息を切らしてそう私に声をかけ、伸ばしかけた右手を私はそっと引っ込める。

「急に走ったら迷子になっちゃうでしょう?あ・・・もしかしてこの人が魔法使いのお姉ちゃん?」

うん!そう!!と女の子が、私よりちょっとだけ目線の高い落ち着いた女性にそう返す。長い髪はまっすぐと腰辺りまで伸びていて、柔らかな物腰からは私よりずっと大人だなぁ。と思わずにはいられない。
きっとこの二人はこの子の両親なのだなと私は思う。どことなくそんな穏やかな空気が三人の中に流れている。しかし魔法使いとはなんぞや?と私は首を傾げる。魔法を使う女性は魔女と相場は決まっているのだけど、まぁ魔女と呼ばれるよりも語感は良いかな?と私は一人納得をした。

「ねーねー!すごいんだよ!このおねぇちゃんが色々話して、カニさんの話をね!それを聞いてから何だか頑張れるの!お友達も沢山出来て・・・」
「はいはい。そのお話はもう何度も聞きました!何時ぞやは娘が大変お世話になりました。ありがとうございます。」

そう静かに母親は私に頭を下げて、私は慌てふためき、いやいやと両手をバタバタとさせる。

「滅相もございません!」
「そんなことはありませんよ。引っ越してきたばかりで僕たちは共働きですからあまり構ってもやれず・・・それに素敵な人がいる街だと知れて何だか嬉しくなりました。」

父親は癖っ毛でもやっと伸びた髪を整えながら照れ臭そうにそう話した。
ねー!と女の子は父親を見上げて満面の笑みを浮かべている。
その時、言いようもない気持ちが私の中に浮かぶのを感じた。
それは夜空に浮かぶ蟹座のお話をしただけだった。星詠みの端くれたる私としても彼女の心に寄り添い、彼女のための言葉を探すのが本来であるのだろうと思う。だけども・・・それでも・・・ふわふわと形容し難い何かが心の中に浮かぶのだ。

「あっせめてものお礼に!ちょっと待っててください!」

そう父親は言い残すと、どこかへ駆けて行ってすぐに戻って来た。

「今はこんな事しか出来ませんが、せめて娘の代わりにお礼を」

そういって差し出されたのは朱色でテカテカと光るりんご飴であった。

「あー!私もー!お姉ちゃんと一緒が良い!」
「わかっているよ。はいどうぞ。」

そういって私と同じりんご飴を手にした少女は、やったー!両手を挙げて喜んで、こらこらと母親に窘められている。
その目尻を和らげた視線には愛おしさが込められていて、こちらまで暖かな気持ちになる。多分、日常のとある街並みでこのやり取りをしたとしても、こんな気持ちにはならない。
柔らかなオレンジ色の光がフワフワと浮かぶこんなお祭りの夜だからこそ起こるのだと思う。気持ちの変化は周りの環境で容易に変化する。梅雨に降る雨の合間に出会った少女が、両親の真ん中で嬉しそうにちょこまか動くそんな姿を見てふと私はそう思った。
遠慮するのも何なので、私はそのりんご飴のお礼を受け取って、その家族を見送った。
何気ない一瞬でもこんなにも繋がった気がするのは、きっとそれがこれがお祭りの夜だからだろう。そんな事を思いながら。
りんご飴はどこか気持ち良さそうに、お祭りの中に浮かんで見えた。

流石にこれだけ人が居ると何だか酔ってしまうなぁ。
私はふらふらと人並みから外れて、見知らぬ公園に辿り着く。
普段から人混みを避けて歩く私にとっては、お祭りの中を歩くという事はとてもエネルギーを消耗する。
それに祭りの熱気というものは、なぜこうも楽しい反面体力を奪ってしまうのだろうと改めてそう思う。
それに意外と人混みの中でりんご飴を頬張るというのも周りに気を使う大変な作業であった。
ちょっとだけ涼んでみよう。
そう思って辿り着いた容易く見渡せるほどの広さの公園には、どうやら先客が居たようだ。
白い百合をさせる藍色の浴衣は、夜の中に随分と映えている。
綺麗に整えられた少し茶色の髪の毛には、そっと煌びやかな蝶々の髪飾りが添えられていて、祭りで出会った蟹座の女の子とは随分と違う大人の浴衣がそこにはあった。
そしてその浴衣の主は、真っ赤な鼻緒の下駄をベンチの下に揃えて置いて、膝を抱えて空を見上げている。
その横顔にはとても見覚えがあって、それは働いている時には毎日眺めているその横顔だった。

「沙耶さん・・・?」

私がそう声をかけると、その白百合の浴衣の女性は一瞬だけ私を見た後、その弱々しい瞳のままで顔を膝へと埋めた。

「格好悪いところを見られちゃった・・・」

そうポツリと零すと、静かな沈黙が辺りへ流れる。
今では耳を澄ませなければ聞こえないほど遠くに祭り囃子は流れていて、風が木々を揺らす音が大きく聞こえた。
私はそっと先輩の隣に腰を下ろす。
こういった時にすっと素敵な言葉が浮かんで来たのなら苦労はしないのだけど、と昔からそう思う。
でもそんな時に必要な言葉はすぐには浮かんでこない。
いやむしろ浮かんでこないモノなのではないかと今の私はそう思う。
心からの言葉を話す瞬間という時はいつだって沈黙もまた同じように存在する。それはきっと心が言葉を創っているからで、感情でしか存在しないモノをこの世に言葉として残すための大切な時間なのだと私は思う。

「あのね・・・ウチには幼じみがいてさ・・・」

話し始めた先輩の言葉に、私は静かに耳を傾ける。

「別に恋愛とかそういうのじゃなくて、長くずっと一緒に居てさ、大人になってからは殆ど連絡はしなかったんだよね。それでも何処かには確かにいて、このままずっとこのままなんだろうなぁ。とそう思ってたの。」

うん。と私は頷く。先輩は静かに続ける。

「それで久しぶりに地元に帰ってきたから会おう。みたいな話になったの。柄にもなくこんなにオシャレもしてさ。そしたらアイツ今度結婚するんだって。別に好きだった訳じゃないのに、すごく寂しくなってさ、なんなんだろうね。本当に子供みたいだ。」

そう話し終わり先輩の頬へと涙が伝うのが私の視界に入る。
変わらないモノが変わってしまう時、それは酷く寂しいモノだ。
それはすごく私には分かる。ずっとずっと大切なモノ。大切だった事。それは年月によって容易に姿を変えてしまう。
どんなに望んでも、気が付いたらどこか手が届かない場所に行ってしまって、それすら望む事が出来なくなってしまう。

「アイツ・・・すごく幸せそうでね。そう思うとウチは何なんだろう。そう思ってからもうダメで、逃げ出しちゃった。別にそんなに大きな夢を抱いている訳じゃないのにね。ちょっとだけ幸せで、誰かと一緒に居たいだけなのに。ごめんね。情けないね。」

先輩は顔を上げて、膝を抱えたままで弱々しい瞳のままで笑みをつくる。それでもやっぱり好きだったんだなぁ。と私は思う。好きという言葉は言葉にしない限りは、酷く曖昧なモノだ。
それでも、言葉に出来なくても心の中には確かにそれは感情として存在している。ただ言葉にならないだけで、只々存在している。まるでお祭りのオレンジ色の灯火のように。

「ふーむ。やっぱり先輩は乙女ですねぇ。」

私がそう口を開くと、先輩はかもね。と口元を緩める。
これは乙女座の話ではあるけれど、今の先輩には必要な言葉だと私は思う。だからこそ、先輩に伝えなければならないと思うのだ。

「夢見る乙女なんて言葉はありますが、乙女はそんなに単純なモノなのかなぁと思います。だって乙女はただ夢を見る事なんてしませんから。だってとっても純粋ですから、それと同じくらいに純粋に夢を描きます。漠然とではなく誰よりも繊細に、その夢を叶えるための過程を描きます。」
「そうだったら良いけどね。でもその夢が必ずしも叶うなんて事は無いでしょう?」
「確かにそうですね。その高すぎる理想とも言える夢への道のりは、時に途絶えてしまう事もあります。そんな時に自分がとってもちっぽけに見えてしまうモノで、そんな乙女もきっと立ち止まってしまいます。」
「今の私みたいに?」
「そうかもしれません。でも、夢見る乙女は決して一人では成り立ちません。なぜなら自分とその夢見る相手が必要ですから。だから乙女の見る夢は自分のモノの様であって、実は誰かの為のモノなのです。そしてその夢の果てにあるのは・・・誰かの幸せです。自分だけではなく誰かの幸せを祈る限り乙女はきっと再び立ち上がる事が出来ます。」

そっか・・・と先輩は夜空を見上げる。人は何かを想い、前に進もうとする時には必ずと言って良いほど空を見上げる。それが青空だろうと星空だろうと関係は無い。私はベンチからひょいっと立ち上がり先輩と向き合う。

「そして乙女は再び歩き出すのです。何度立ち止まっても、再びその夢と向き合って、自分と他人の為に再び歩き出せるには十分すぎる程の責任感で、夜空に浮かぶ花火の様に、いつか自分の夢を星空一杯に咲かせるのです。」

私は先輩の前で両手を広げる。その瞬間に打ち上げられた花火は夜空に大輪の花を咲かせた。その光から一瞬遅れて、ひゅー・・・どん!と音が響き、私たちは驚いて夜空を見上げる。

「はは・・・アンタって魔法使えたっけ?」
「えぇと・・・心臓止まるかと思いました。」

私がそんな返答をすると先輩はクスクスと笑いだした。それはいつもの先輩の顔だと私は思う。

「それでは一緒に祭りに行きましょうか。藤井さん達の唐揚げ屋さんを一緒に探しましょう。」

私がそう言って、先輩の右手を取る。うん。と先輩は一度頷くと立ち上がり、私に手を引かれるままに祭りの夜へと誘い出された。

「ねぇ。アンタってこんな事するキャラだっけ?」
「えぇと・・経験があるだけです。」

そう?と先輩はいつしか私に並び、そしていつもの様に私の一歩先を歩き出した。
それはもう遠い昔。学生時代の夏祭り。
私が今の先輩の様に、クラスの輪から離れて一人でこうやって公園のベンチに腰掛けていた時、同じ様に手を引いて祭りの夜に誘い出してくれた友達が居た。
それがとっても人を嬉しくさせる事は知っている。
その手がとても暖かいことも、もうそれに触れられない事も、今では十分と知っている。
打ち上げられた花火は夜空に大輪の花を咲かせ続け、街をまるでビードロの中の様な、薄い獄彩色で照らし続けた。


「ねぇ・・アレじゃない?」

藤井さん達の町内会が出店したという唐揚げ屋さん。お祭りの夜をどれだけ歩こうとも見つからなかったそれは、先輩の指差す方向であっけなく発見された。
祭りの中心部からは離れた一角にそれは出店というよりも、体育祭のテントの下でひっそりと開催されていた。
側から見たらそれはどこか宴会をしているようにも見えて、なるほどこれでは見つからない訳だと私は眼を細める。

「それに・・紡(つむぐ)・・・あの看板見える?」
「えぇ見えます。・・・なかなか大胆ですね。」

うん。と二人とも言葉を失っているのはその看板の所為である。

『鶏からの挑戦状!さぁ私を喰らいなさい!』

一見何のお店かはわからないが、並べられている揚げたての唐揚げを見て、ようやくそれが唐揚げ屋さんだと分かるくらいだ。しかしこうも罪悪感を煽る看板があるものだと、私達は呆然と立ち尽くす。

「あー!沙耶ちゃんに紡ちゃんじゃないの!いらっしゃーい!遅かったね!」

汗を存分に掻きながら次々と唐揚げを揚げている藤井さんは割烹着のままにそう声を上げた。なんだか給食のおばちゃんみたいだ。そう思いながら私は手を振る。
その声を合図に、同じく割烹着姿の佐藤さんや田村さんも続々と現れて、いつしかテントの中へと私達は招かれた。

「あらあら。本当にごめんなさいね。でも来てくれて嬉しいな」

そう佐藤さんは笑顔のままに席を用意してくれた。

「そうよそうよ!揚げたての鳥の唐揚げは飲み物と一緒だからバンバン食べて!」

そうやって見る見る内に目の前に積まれる茶褐色の唐揚げ達。
それを眺めていると私の脳裏にはどうしてもあの看板が浮かんでくる。

「でも・・紡ちゃんはいつもと同じ格好だけど、沙耶ちゃん随分とオシャレしてるねぇ。」

その藤井さんの言葉に、先輩は、いやぁ・・実は・・・と事の顛末を話し始めた。最初は笑顔でアラアラと表情を和らげながら聞いていた三人は、話の終わりに近付くにつれて段々と表情を険しくさせる。

「なんていう男!?こんな可愛い沙耶ちゃんを傷付けて!!!」

そう最初に口火を切ったのは佐藤さんで、いつもの静かな落ち着いた姿からは想像が出来ない程の剣幕だった。
同じくコロコロと笑っている田村さんも眉を潜めて、

「そんな男・・・鳥の代わりにカラッと揚げてやりたいわ!」

そんな物騒な事を言っている。
唖然としている私の横で、先輩はイヤイヤと両手を広げる。

「まぁどちらかというと張り切りすぎたウチの方が悪いですから・・・」
「そんな事はあるもんですか!」

ドン!と更に唐揚げが山のように積まれた大皿を我々の目の前に置いて、藤井さんは両手を腰に当てて大きく息を吸い込む。

「そんな事はあるものですか!全く男ってやつはいつもこうよね!!いいわ、今度其奴を連れて来なさい!我々が乙女の代表として成敗してくれるわ!」

うんうん。と佐藤さんも田村さんも同じく頷いている。
先輩はなんだか困ったような、そしてどこか嬉しそうに唐揚げに手を伸ばしてそれを頬張った。
見る見る表情が和らぐのを見て、やっぱり感情が表に出るなぁと私もまた笑みを浮かべる。
私もまたそれに手を伸ばして頬張る。とっても熱くてどこか甘みを感じるそれは、なんだか幸せな味がした。
男とは!?みたいな話から段々と旦那の愚痴大会になっている三人のベテラン看護師さんであり、乙女の代表を名乗る彼女達を私は眺める。

ふむふむ。夢見る乙女というものは中々侮れないものである。
紛れもなく今日は乙女な夏祭りの日だ。

そうして私はもう一度空を見上げる。夢は何度も見る事が出来て、何度立ち止まってもそれが夢を何度も描く事が出来るからこそ乙女は強いのだ。

でもきっと私の夢はもうすっかりと終わっていて、もう叶う事がない。
そして今の私は乙女のように再び立ち上がり、夢を描く事は出来ない。

やっぱり今日の星空が燻んで見えるのはきっと夜空に咲いた花火の所為だな。そんな事を私は思う。

それでも私は星を詠む。

星を詠んで・・・人を想うのだ。

第四話【星を詠む人/朝露と天秤の日】

夏の暑さはどこへやら。
土曜日の朝の空気は、どこか秋の匂いをその身に纏う。
いつもの通勤路の街並みもどこか色合いを変えていく様な気がする。
ふと見上げた朝の空は、煌々と降り注ぐ太陽の光は力を弱め何処か優しい光で辺りを照らす。
緑々と天に向かってその葉を伸ばす木々もまた、色味を落として燻んだ黄色をその身に混ぜる。
ちょっとだけ過ごしやすい季節になったかな。
何処かの庭から伸びる僅かに黄色味を増した葉っぱが、溜め込んだ朝露を地面に向かってポツリと落とした。

きっかけはいつだってそんな事だ。
なんだかその情景が儚くて、悲しくて、私の気持ちはずっと昔へ落ちていく。
後悔なんて生きていれば誰でもする事だ。
そんな事は分かっている。
でもその僅かばかりの後悔は、人の生き方を容易に縛る。
何処まで逃げても、何処まで目を背けても、それはふとした瞬間に蘇る。
私にとってのそのきっかけはたったそんな事。
朝露の重みに耐え切れず、葉っぱが揺れてその朝露を零してしまう。
私にとってのきっかけは、たったそんな事だったのだ。

土曜日の仕事は半日で終わり、ぽっかりと仕事と日常の合間で放り出された様な、中途半端な気持ちで私は近所の公園へと足を向ける。
こんな気持ちのままで、1日を過ごしてしまうのは何となく嫌だったし、こういった時には少しでも外へと足を向けなければならない。
それは経験で知っている。
私という人間は一度、その思い出に触れてしまうとズルズルと後悔の渦の中に巻き込まれてしまう。
そして一度そうなってしまうと中々抜け出せなくなってしまうのだ。
木々の色が移り変わるように、公園の色もまた秋の色へと移り変わる。
こういった僅かな変化が所謂、『小さな秋を見つけた』という事になるのだろうと私は思う。足元に落ちた落ち葉を踏むとクシャリと何処か情けない音をした。
そんな小さな秋を眺めていると視線の端っこに見慣れない看板と屋台があるのに気が付いた。
『街のたい焼き屋さん』
そんな在り来たりな看板の端っこで、手足を生やすたい焼きが気持ち良さそうに泳いでいる。
果たしてそれはいろんな意味で大丈夫だろうか?
そんな事にクスクス笑いを抑えきれず、公園で見つけた小さな秋と、その流れてくるバターの匂いに耐えられずに私はそれに近付いてみる。
店の前に立つとそこに立てかけられた看板には、角の丸い手書きの文字で様々なメニューが書いてあった。
あんこにクリーム、カスタード!私の目を奪う見ただけで味が想像出来てしまう定番メニューの他にも、焼きそば、トンカツ、タピオカと何だか冒険心に満ち溢れたメニューまで様々だ。
しかし、タピオカはドリンクの類だと思っていたが、どうやらたい焼きの中に入ってしまうらしい。
流石にそれはどうだろうと、至極気になってはしまったのだけど、流石にそんな勇気は私にはないなぁと思う。
味を想像したいようなしたくないような・・・そんな感じ。

「すみません」

私の中でいつものたい焼き屋さんから、一気に得体の知れないたい焼き屋さんへと変貌を遂げた店内へと声をかける。すると間髪入れずヘイらっしゃい!という掛け声とともに、その店主が姿を現せた。
思ったよりもその男の人は若くて、多分年は私とそんなに変わらない。髪の毛は僅かに茶色で公園の木々に溶け込むようにも見える。細めに見えてもがっしりとした体つきを包む黒いエプロンからは白いシャツが覗いている。目線はずっと私よりも高くて目は細くとも切れ長で、細い鼻筋からこの人はきっと大層モテるのだろうなぁ。そんな事を私は考える。

「おー!今日初めてのお客さんだ!何にします?何と言っても今話題のタピオカたい焼き!これが一番おすすめだよ!」

元気よくまっすぐと向けられる視線から私は視線を逸らす。
こう何というか、すぐに距離を詰められてしまうといつもの事だけど緊張してしまう。
それはずっと昔から変わらない。
それにやっぱり、看板でやたらと強調されているタピオカさんはオススメだったんだ・・・と私は目を細める。
いろんな意味でこの時期にタピオカ新商品など、いろんな意味で果敢だと思えて仕方がない。

「えぇと・・・あんこと、カスタードクリームで!」
「了解!ちょっとお待ちよ!」

はい。と返事をしつつ私はまだ液体のたい焼きさんが、じゅうじゅうと焦げ目を付けながら丁寧に形を創られていくのを眺めていた。
この立ち昇るなんとも言えない甘い香りは何でこうも人を幸せにな気分にさせるのか。
そんなホクホクとした気分と蒸気に包まれていると、あっという間に紙袋に包まれるたい焼きが私の手元に降りてくる。

「はいお待ちどうさまー!良い1日を!」

ふっと私は気持ちが軽くなるのを感じた。自分の気持ちの中で思うのと、それを誰かに口に出してもらうのとでは感じ方は随分と違う。
それは誰だって良くて、むしろ見知らぬ他人の方が気分を軽くしてくれることもある。
もし自分の事を昔から知っている人からこの言葉を言われたとして、それは慣れてしまっているから何処か怠惰で緩慢で、もしかしたら慰められているのではないかと変な勘ぐりをしてしまう事もある。
だけど見知らぬ人の言葉ならそれは単純に自分の向けられた善意であるから、それはとても心地良く聞こえる。
昔から相変わらずなんとも私は面倒臭くて、そして単純なものだなぁ。
行儀は悪いと思いつつたい焼きを一つ頬張りながら、私は公園のベンチに腰掛けて空を眺める。たい焼きのバターの香り、そしてあんこの優しい甘み、そして見知らぬたい焼き屋さん。
それは確かに小さな秋であった。

公園のベンチに腰掛けて辺りを見渡していると、ふと高校生だと思われる三人組が目に入る。
その三人の女の子は揃いのブレザーに身を包み人目も憚らずに何やら話し、そしてその度に笑い合っている。
紺色が太陽の光に反射するブレザーにピンク色のシャツ、そして赤いチェックの入った格子柄のスカート。
今はいろんな柄があるんだなぁとぼんやりと私はその三人組を眺めた。
私、宮原 紡(みやはら つむぐ)にも当然高校生だった時期はある。
女子校であったため、色恋沙汰はほとんど皆無であったし、異性とお話しする事もまた肉親を除いて殆ど無かった。
その時には何だか今よりも世界は輝いて見えて、自分には何にでもなれる。そんな根拠のない自信に包まれていたような気もする。
それは視線の向こうに広がり始めた世界の可能性だとか、これから残されている多くの時間、そんな事が今考えれば理由だったような気もするのだけど、兎に角、世界は今よりもずっと鮮やかだった。
と言っても私はあんなに賑やかな高校生活を送っていた訳ではない。
もちろん人並みに誰かと合わせて笑ったり、行動を共にしたり、そんな普通の高校生活だったのだけど、それでもその集団で常に行動するという事が苦手でもあった。
私と同じ気質がゆったりおっとりとした4人くらいのグループで、何気ない他愛もない会話の中で日々を過ごしていた。
そんな中で私にとっては眩しいほどの煌びやかな存在がいつでも視線の先には居た。
それはきっと私だけではなくてみんなも一緒だったと思う。
『柏木 奈留( かしわぎ なる)』というクラスメートは、その透き通った何処までも聴こえてしまいそうな程よく通る声で、いつだってクラスの中心に居た。
当然そうなるだけの理由もまたある。
陸上部に所属していた彼女はいつだって何かの代表で、100mの距離を誰よりも速く駆け抜けた。そして真っ黒の艶やかな髪の毛を一本に結んで、文化祭を始め何かのイベントの際にはいつだってその先陣を切ってクラスのみんなを引っ張っていった。
意志の強さを感じさせる真っ直ぐと整った眉の下には人を虜にする大きな瞳があって、ピンク色の薄い唇はいつだって大きな笑顔を作っていた。
女性の私から見ても美人と思えるその整った顔立ちは、喜怒哀楽といった感情の動きをそっくりそのまま表情へと移す。
そんな風に生きられたなら・・・と何度もそう思いながらクラスの遠い場所から、いつだって彼女を眺めていた。
だけど、私とは全く逆な彼女と全く接点が無かった訳ではない。
それはちょうど今と同じような季節だったと思う。
校舎は4階建てで、その4階の一角には図書館があった。
放課後になると私は勉強するからという言い訳で、その図書館で一人で過ごした。
たった一人の時間をその時の私はとっても大切にしていた。
そしてお気に入りの本を選んで、図書館から屋上へと繋がる階段へとこっそりと向かう。
屋上に行くのは禁止されていたけど、その階段だけは何故かグレーゾーンである程度出入りは出来た。
でも私は何処か悪い事をしている気分になってしまい、その身を屈めて誰にも見つからないように通っていたのもよく覚えている。
図書館からその階段は外に通じていて、ぐるりと回って屋上へと向かう。
私はその階段に腰掛け、十分に外の空気を味わいながらゆっくりと夕暮れの街を眺めていた。徐々に表情を変えながら夜へと向かう街並みは凝り固まって変わらずに続く日常から心を自由にしてくれた。
それに右手に携えるのはその日に選んだ素敵な本。
今思ってもその時間だけが私を自由にしてくれた。
その日手に取ったのは、『星詠み』に関する本だった。特に理由があった訳ではなくて、夜空に輝く星座を模したその表紙がとっても綺麗だったからだと思う。
階段に腰掛け、暖かな夕暮れへと向かう日の光と、涼しげな風に身を任せながらその本を眺めていると、階下から足音に響いてきた。
驚いた私はバレちゃった・・・怒られる!そんなドギマギした心を抑えつつ、無駄とも分かっていながらその身を小さく屈めた。
そして私が恐る恐る視線を上げると、そこには先生の姿はなくて、代わりにいつものように薄ピンク色の唇を大きく・・・まるで三日月のように広げた柏木奈留の姿だった。

「へぇー!宮原さんもここの場所知ってたんだ!!」

透き通ったよく通る声は秋空に溶け込んで、柔らかに響く風のように私の耳に、心によく響いた。

「柏木・・・さん?」
「どーしたの?そんな怯えて?あっ・・・私の声が大きいからかな?いっつもみんなに注意されるんだよねー!」
「いえ・・・先生だと思ったから・・・」
「ふふふー。大丈夫!先生方は補習や部活で忙しいからねー。そんで私は今日の部活はお休み!大会も終わったし、お腹が痛くて帰ってきちゃった!」
「そんな風には見えませんが・・・」
「へへへー。やっと笑った。」

そう言うと柏木さんは私の隣に腰掛けて、同じように空を見上げた。夕陽の色を映しながら空は徐々に夜へと緩やかに向かっている。しばらく無言の時間は続いたけど、それは何だか苦痛でなくて、むしろそれが此処では当然であるかのように心地良いものだった。

「ねぇ。宮原さんはなんで此処に来るの?」
「えぇと・・何だか一人になりたくて。みんなの事が嫌いな訳じゃないけど、静かだから・・・」

私と一緒だ。そう静かに柏木さんは口を開き、私は驚いて瞳を大きく開く

「柏木さんは独りになんかならないと思ってました。」
「まぁみんなの前ではあんな感じだからねー。何だか期待に負けられなくて。私こう見えても負けず嫌いだから!」

それは見ての通りだけどなぁ。と私は首を傾げる。言葉にならずともその仕草だけで柏木さんには十分に心は伝わったようだった。

「まぁ人間って不思議だよねー。独りでは生きられない癖に、全く独りでは無くなったらそれでも生きられない。本当に面倒くさいね。」
「それでも独りになれますよ。少しくらいは」

知ってる。と柏木さんは頬に手を付き私の顔を覗くように眺める。その瞳は痛いほど真っ直ぐで、とてもじゃないけど逸らす事は出来なかった。
何よりも夕陽の作る影で一層彼女の顔の輪郭が確かになって、造形だけではない美しさが其処には有って、私は恥ずかしながら魅入ってしまっていた。
そして短い会話の中で、結局同じ人間なんだなぁとぼんやり私はそう考えていた。
どんなに遠い所に居たとしても、私とは全く逆の性格だったとしても、その本質はどこか似ている。私も彼女も。
それでも多分ずっと私より大人で、しっかりちゃんと自分自身のままで人生を歩んでいる。
そう感じずにはいられなかった事も今では良く覚えている。
柏木さんは一度大きく伸びをした後、一層表情を優しく緩めた。それはクラスの中ではあまり見かけた事のない表情に見えた。

「ねぇ。宮原さんそれ、何読んでるの?」
「えぇと『星詠み』の本ですね。端的に言えば星座占いのようなもので、と言っても読み始めたばかりなので何ともまだ言えませんが・・・」

ふーん。と柏木さんは珍しそうに大きな目を髪が浮くほど一層大きくして、その後柔らかな笑みを作る。よくこうも沢山表情があるものだなぁ。と私は何だか再び見惚れてしまった。

「いつか私を占ってね。」
「占う事は分かりませんが、何か語れるようにはなっておきます!」
「ふふ。それに敬語は辞めなよー。同い年でしょ?」
「分かりまし・・・分かりまっ・・・た!」

それはどんな言葉使いだよ!と透き通る笑い声で柏木さんはお腹を抱えて、足をバタバタと笑い始めた。それにつられて私もまた笑みを浮かべる。
それは遠い昔の秋の事、だけど今もまだ私の心の中にある秋の事だった。


「・・・さん。・・おねーさん!!」
過去を思い出す時にはいつだって、心や思考までも過去に飛んでしまうから、目の前の事は目に入らなくなってしまう。
誰だってそうだ、特に私にとってはそうなのだ!
その声にハッとして、驚きのあまり体が少し浮かせると視界いっぱいに女の子の顔が映る。
細く伸びる前髪は髪留めでしっかりと止められていて、きょろきょろと動く目は僅かに細い。見た目よりも少し大人っぽい姿の少女は私が驚いて表情を固めていると、心配そうな表情から一転、ケラケラと無邪気に笑い始めた。

「よかったー!死んでるんじゃないかと思った!たい焼きを両手で持って、こう・・・口に頬張ったまま凍死なんて無いとは思ったけどねー!」

何とも私はそんな恥ずかしい姿で過去へ旅していたのかと考えると、両頬が強く熱を持つのを感じた。

「それは何ともお恥ずかしい・・・」

いいよいいよ。と女の子は私の隣へとドスリと身を投げ出すように腰を下ろした。
三人ほど居たはずの高校生たちはいつしか彼女一人だけとなっている。そんなに長い時間が経っているのか?と私の頭上から蒸気が黙々と空に向かって立ち昇る。

「ねぇーねぇー!お姉さんはそんなに何を考えていたの?あっ私は加恋(かれん)って言うのよろしくねー」

えへへ。と笑いながら女の子は左手をフラフラと私に振って見せた。
こうも人懐っこいのが高校生女子というものだろうか?といっても私を基準に考えてもとてもそうとは言えないなぁと思う。

「えぇと高校時代の事を考えてて、ぼーっとしちゃいました。」
「へぇー!お姉さんの高校時代はそんなに楽しかったんだ?」
「んー。楽しかったと言えば楽しかったかも・・・今思えばだけど。」
「ふーん!いいなぁー!早くウチもお姉さんみたいな大人になってそんな風に思いたいなぁ」

少女は頬に手を当ててたまま、たい焼き屋さんの方を眺めている。

「お姉さんは大学生?それとも何か仕事をしているの?」

パッと視線を上げて加恋ちゃんは私の方を真っ直ぐと見つめる。その意図はまだ私にはわからないし、次々にこう・・・表情を変えつつ質問をされてしまうと私の頭の中はグルグルと回ってしまう。

「ええと大学はとっくに卒業していて、今は医療事務と星詠みをやってます。」

星詠み?と加恋ちゃんは僅かに首を傾げた後、すごい!とベンチに両手を付いて上体だけを私に近付ける。
まだ仕事としては成り立ってはないけどなぁ。僅かばかりに罪悪感を感じながらも、ちょっとだけ心は浮き足立っている。

「ならウチを占って!ウチは天秤座!あっお金いる?ウチあんまりお金ないから・・・」
「学生さんからはお金なんか取れないなぁー。まぁ良いでしょう!でもまだまだ未熟者ですからそれを念頭においてくださいね。」
「やった!それではどうぞー!」

両手を私に開いて見せて、無邪気な好奇心に満ちた表情を浮かべる加恋ちゃんを私は眺める。まだ彼女の事は何も知らないに等しいけど、ふつふつと私の中に言葉は紡がれつつある。

「ふむふむ。天秤座とはイメージ通りに調和やバランスを意味する事が多いのです。自分を中心として、左右の天秤に何かを、主に環境や自分の想いや他人の想いを乗せて、ゆらゆらと秤を釣り合わせようと揺れ動きます。」
「ほうほう。まさに読んで字の如くですな!」

腕を組んで頷く彼女はとても可愛らしくて、私は思わずナデナデしたいという感情を胸の奥へとそっと隠す。

「でも周りから見たら、何事も決められない人に見えるかもしれません。優柔不断だとか八方美人だとか、そして天秤自身もそんな自分を頼り甲斐が無いように思えたり、自信がなくなったりする事もあります。だって天秤は調和を望みます。誰よりも正しくて厳密に正義や価値観というものに心が左右されますから。」

その言葉を聞いて少女の言葉は止まる。どこか感情の無い表情で私を見ている。

「もしかしたら何もかも捨て去ってしまいたい。そう思う時もあるでしょう。だけど、それは天秤にとっては残酷な事です。自分自身を否定してしまう事ですから。その身を犠牲にしてギシギシと天秤の中央にある自分を犠牲にしながらも調和を望みます。もし逃げ出してしまったとしても、その先もまた思い続けると思います。」

きっと柏木さんもそうだったのかな。そんな事を私は考える。
過去には決して戻れない。けれどその想いはいつだって今にある。
だからこそ心の中に紡がれる言葉の束もその姿を時間と共に変えていく。
かつてはそう考えていた私であって、今の私はではない。
今の私では無いのだ。
加恋ちゃんは変わらずに私の表情を見つめている。

「でもね。私は思うのです。自分が犠牲になって得られる調和なんて無いと思います。天秤の中央にいる自分が崩れてしまってはバランスも何も有ったものでは無いですから。それほど人の想いは軽くはありませんから。だからあえてその両手の秤を揺らしてみても良いのかなと思います。じっと均衡を保つ事も調和ですが、長い時間でみるとあっちにゆらゆら、こっちにゆらゆら揺れながら大好きな人たちの合間で揺れ動くのもまた調和だと思えるのです。」

ふぅ。と話終わって私は一息付いて目を閉じる。
言葉というのは心の中で長い年月をかけて紡がれる。
そしてそこから言葉と成るには非常に時間が掛かるのだと私は思う。
だからこそ人は星の言葉を借りて誰かにそれを伝えるのかもしれない。
そんな事を私は考える。
パチパチ・・・と小さく拍手が聞こえて我に帰ると、加恋ちゃんはその小さな両手で拍手をしている。

「お姉ちゃんすごい!別人みたい!」
「えっへん!でもまだ十分では無いけど、加恋ちゃんに言える事はこれくらいしか今の私では無理です。誕生日とか色々知らなくちゃ・・・」
「すごいよ!本当にすごい!ねぇ・・・ちょっと来て!」

加恋ちゃんはそう言って私の手をズイズイと引いて歩き出す。
訳も分からず私は手を引かれるままにその後を追う。
そしてその先にあるのは例のたい焼き屋さんであった。
落ち葉を踏む足音に気が付いたのかたい焼き屋さんはこちらを向いて、ギョッと目を見開いたまま呆然と立ち尽くしている。
そしてたい焼き屋さんに向かって加恋ちゃんは口を開く。

「お兄ちゃん!!」
「加恋・・・」

という言葉に私もまたぎょっと目を見開いたままに呆然と立ち尽くす。
そんな私を一度見て片目を閉じて加恋ちゃんは合図をする。その意図はきっと、一緒にここに居て。という事だと私は思う。そして加恋ちゃんは再び口を開く。

「なんで家を出て行ったの!?いや・・・その理由は分かるけど!何も言わずに出て行くのは酷くない?どこか遠くに行ったと思ったらこんな近所で屋台なんかやっているし!」
「いや・・・それはその・・・」

とたい焼き屋さんは目を伏せる。でも私には何だかその気持ちは分かった。
何もかも捨て去るのは容易いように見えて、本当に難しい。
何処かでその捨て去りたいものと関わりたいと思う。何処かで。
まぁだからと言って、出て行った家の近所でこんなにも派手に屋台なんか開ける気持ちは分からないけど、
たい焼き屋さんは寂しがり屋でもあるのかな?そんな事を私は思う。
そして加恋ちゃんは語気をさらに強くしながら言葉を紡ぐ。

「人付き合いが苦手だからって理由で会社を辞めたのも許す!それはお兄ちゃんが誰よりも周りに気を使って、みんな仲良くしようとするからだから!家を出て行ったのも許す!それはお兄ちゃんがずっと家に居る事で周りに気を使わせてしまうから!お兄ちゃんは誰よりも優しいから!でも・・・もう別に自分が犠牲になって周りの調和なんて考えなくても良いから!」

ふむ・・・何処かで聞いた言葉だなと私は目を細める。だけども自分の紡いだ言葉が誰かに伝わっていくのは何だか不思議な、心の中がふわふわと浮かんで行くような気分がした。

「お兄ちゃんは天秤座でしょ!天秤座はそうだって・・・・このお姉ちゃんが言ってた!」
「うぇ!?」

加恋ちゃんの言葉で固まるたい焼き屋さんの隣で、今度は私が固まる番であった。
そんな私を見て加恋ちゃんはごめんね!っと舌をチロっと出して見せた。

「えぇとそれは一般的な天秤座の解釈を私の言葉で伝えたもので・・・まだお兄さんの事も何も知らないので決してお兄さんに対しての言葉では・・・」

しどろもどろにアワアワと手足をバタバタしながら弁明・・・にも似た言い訳をしていると、次第にたい焼き屋さんの表情が緩むの分かった。

「なんというか・・・年の離れた妹にこんな風に諭される日が来るなんて思わなかったな。」
「へへー。ビックリした?」
「まぁ俺よりそのお姉さんの方が驚いているようだけど・・・」

未だに顔の蒸気が消え失せずに両手で必死にパタパタと仰いでいる私を見て、たい焼き屋さんは僅かに笑みを浮かべる。

「でもまぁ・・・今はこの仕事は気に入ってんだ。まぁもしかしたら次は別の仕事をしているかもしれないけどな。」
「中途半端なイケメンのたい焼き屋さんも良いんじゃない?」
「確かに中途半端だな。イケメンはまぁ否定しないけどまぁ。まぁなんとかやってみますか。ただし今度はもっと気楽に行くよ。天秤がいくら秤を揺らしても、いずれ無理しなくとも調和が取れる場所を見つけられるかもしれないからな。天秤と人の違いは二本の足があるかどうかだよ。」

何だか良いセリフだなぁ。と私はその言葉を心の中のメモ帳にひっそりと書き込んだ。自分の言葉が誰かの中で新しい言葉になっている。こういう事もあるんだ。そんな事を考えながら。

「・・・という訳で!お二人には大サービスだな!まぁ・・・こんなに売れ残ってはいるし・・・好きな味のたい焼きを幾らでもどうぞ!」
「いぇい!ならウチねー。このタピオカ味が一番気になってて・・・あとね!この焼きそば入りやトンカツ入りもすっごい美味しそう!」
「流石に見る目あるな・・・実は自信作なんだ。むしろこの味を思いついたからこそたい焼き屋さんになろうと思ったんだ!」
「うん!絶対売れるよ!」

ふーむ。と腕を組んで僅かに胸やけのする胸の奥を抑えながら、無難な味のたい焼きを何匹か選ぶ事とした。しかし兄妹は味覚もまた似通ってくるのだろうか?そんな事を疑問に思いつつ何処までも続くような風の吹く公園を後にする。
そして私は今日はもうちょっとだけ遠回りして歩いていこう。そんな事を考える。
ちょっとだけ・・・過去の幸せな時間を思い出しながら。
ちょっとだけ・・・後悔からは目を背けながら。
今日はもうちょっとだけ遠回りして歩いていこうと思う。

ねぇ・・・たまにはそういう日だって良いでしょう?

星が見える時間には、まだ程遠いのだから。

まだ職場には誰か残っているかな?私はそんな事を考えながら、あっちにゆらゆら、こっちにゆらゆらと寄り道しながら職場への道を再び歩く。
今朝に見かけた朝露を零した葉っぱが、今度は気持ち良さそうに風に揺れている。
その風は昔に屋上へと続く階段の上で、柏木さんと眺めた秋の風と何処か似ていた。

ふむふむ・・・君も私と同じで不器用なのだな。

その想いは言葉には成らなくても秋風に乗って何処かへ運ばれていった。

そうして私は星を詠む。

星を詠んで・・・人を想うのだ。

第五話【星を詠む人/真夜中と蠍の日】

「うーん・・・こんな時間に起きちゃうなんて・・・」
夜は朝へと向けてその深さを増していく。
モコモコとした布団から私は右手を伸ばす。
窓から差し込む月の光に当てられて、壁には月夜の影が出来る。
その影に向かって伸ばした右手で、狐の形を作った。
パクパクと何度か口を開け閉めしても、その狐は何も話はしない。

さてさてどうするか。私はむくりと布団から起き上がる。
辺りはすっかりと、冷えた空気が漂っている。
昔から寒さが苦手な私だから、それはもう厚手の靴下や、コートを着込んでキッチンへと向かった。
まぁこんな夜も良いか。そんな事を考えながらトボトボと背中を丸めながら。
これじゃまるで鎧だね。そんな重たい体を引き摺りなながらキッチンへと立ち、そしてコーヒーポットをコンロに掛けた。
偶にはこんな夜更かしも良いだろう。
ふふふ。何だか本当に旅をしているみたい。そんな事を考えると何だか愉快な気持ちになった。
こんな寒い月夜の晩はさながら月夜の砂漠みたいだ。
私はそっと目を閉じる。
砂丘の作る月の影を避けながら、私はどこかに向かって旅をしている。
その身に鎧をこれでもかと着込んだ蠍の様に。
どこかに向かって旅をするのだ。
それは孤独な旅路であって、友は近くにはいない。
それでも不思議と蠍は寂しさなんかを感じない。
だってそれは昔からそうなのだから、当ての無い旅路をたった独りで進む。
それが当然の事なのだから。
進む場所も、住む場所も、選ぶ答えも自分の気持ちも・・・
全て自分で自由自在な旅路。
誰にも干渉されないその旅路を蠍はとても愛おしく思っている。
何故ならそれを選んだのは蠍自身なのだから。

蠍が大きな砂丘を越えて、サラサラとその巨大な坂道を滑り落ちると、そこには視界を覆うほどの星空があった。
綺麗だなぁ。それを蠍が眺めていると、カサカサとこちらに近付く足音が耳に入る。どちら様かな?少し訝しげに蠍は振り向く。
そこには砂漠に場違いな赤いランドセルを背負った少女の姿があった。

「これはこれは蠍さん!月夜のお散歩はいかがですかな?」

その言葉に蠍は答えない。お散歩なんて気軽なものではなくて、これは辛い辛い孤独の旅路であるのだ。楽しい訳があるはずがない。
代わりに蠍はこう答える。

「君は一体何者なんだい?そんな陽気にはしゃいで置いて、砂漠には不釣り合いだね」

その答えに少女はむすっと頬を膨らませる。両手はしっかりとランドセルの赤い肩紐を握っている。

「何を言いますか蠍さん!砂漠に釣り合いも不釣り合いもありません。それに私は月の蟹!あなたと一緒の鎧を背負う仲間ではないですか!」

なるほどそれは甲羅なのか。赤いランドセルは月夜の晩では色味を落とす。

「ならば」月夜の蟹さん!君はどこを目指しているのだい?」

蠍の問いに、月夜の蟹は一度悩む。ほうらと蠍はどこか得意げに尾を揺らした。
目的も無くこの砂漠は歩めない。辛い辛い旅路を歩く自分の鎧こそが一番なのだと。

「うちはそんな事は望みません。どこかに向かわなくても大切なものはいつだって胸の中にあるものですから。砂漠の砂に潜らなくても、自分の心に潜ってしまえば、そこに欲しいものなど沢山あるのです。誰でも一緒!固い甲羅や鎧の中には今までもらった沢山の感情が沢山あるのです。恐れずにそれを手に取り大切にするだけで私は満足なのです。それはきっとアナタも一緒でしょう?」

そうではないと蠍はその尖った尻尾をブンブンと振る。

「私は前に進まないといけない。きっと私の求めるものはここには無いのだから、それを探して旅路を続けるのです。」

その答えには満足いかないのか、月夜の蟹はふん!とそっぽを向いた。
自分が素直でないのは分かっていると蠍は思う。だけどもそれは変えられないのだとも思っている。なぜならばそれが蠍であるのだから。

「ならば月夜のオアシスに向かいなさい!そこにいる者なら、アナタが真に何を求めているのかを、知っているかもしれません。」

「それはご親切にありがとう。」

蠍は尻尾をふるふると揺らして、旅路を続ける。
月夜のオアシスには何かがあるらしい。それにしても私の求めるモノとは何だ?それはこの旅路の終わりにあるだろう答えに決まっているだろう。
蠍はふとそんな事を疑問に思うのだった。
再び蠍は月夜の砂漠を歩き出す。何だかさっきよりも歩む足が重たい気もするのだった。
そういえば歩き出した時には、どこに向かうかを考えていなかった様にも思う。
この砂漠の果てには自分の望む答えがあって、辿り着きさえすれば全ての物事は何とかなると思っていた。
自分が何を求めているか、なんて考えた事はなかった。
そうこうしている内に、視線の先に一際輝く泉が見えた。
何本もの白い朽ちた柱が立っていて、天井は無い。
昔々はきっとそこには誰かが住んでいて、今ではそこには誰も居ない。
誰も永遠に同じ場所に留まる事は出来ない。
それはその姿を持って、蠍にそれを伝えているかの様に見えた。
のそりのそりとそこに近付くと、一匹の巨大な獅子が両手を揃えて鎮座していた。蠍の身の丈を大きく超えるそれは、銀色の毛並みに覆われている。
そしてその隣には小柄な初老の男が、両手を短い丈のズボンに入れて佇んでいる。この砂漠には不釣り合いな色とりどりの花を模った上着を着たままに、蠍に向かって手招きをした。

「こんな夜更けにどこに行くのかい?」

男の答えに蠍は答えない。その答えはまだ蠍は持っていないのだから。
砂漠の果て。そうとだけ蠍は答える。

「おいおい!月夜の獅子と同じ様に、この月夜の蠍もまた無口な様だ。」

男は月夜の獅子へと語りかける。その言葉に獅子は首を横に振るばかりであった。

「なんともなんとも静かな夜だね!この夜で語るのは番人である私だけの様だ。それならば蠍さん。アナタがここから先へと向かうには私の問いに答えないといけない。」

蠍は尾を振ってそれに答える。私にはこの頑丈な鎧がある。どんな困難にもそれは砕ける事はない。そして鋭い尾っぽもある。どんな困難でもそれは曲がる事はない。

「準備はよろしい様だ。ならば聞こうか。君が旅に出た理由はなんだい?」
「それは私が答えを見つける為です。」
「ほうほう。その答えとは何だい?」
「それは旅路の終わりで、きっと分かるはずなのです。」

そうかそうか!と男が笑い、月夜の獅子の前足を叩く。何がおかしい事があるのだろうか?蠍は尾っぽを鋭く立てる。それを見て月夜のライオンは一度首を振ると、仕方が無いとばかりに口を開く。

「この男の事は気にしないで良い。しかし答えを見つけるにも問いが必要だ。問いを解く為に答えは存在する。その最初に心に浮かんだ問い。それからは目を背けてはならないよ。」

月夜の獅子は優しく、鈍い銀色を帯びた瞳で蠍を眺める。
私が求めるものは答えだ。その為に辛く長い月夜の砂漠を旅している。しかしならば、その答えの問いとは何だ?蠍はじっとその身を固める。

「まぁ兎に角、私の問いには答えて貰ったからな。ここは通って良いよ。もちろんここで未来永劫ゆっくりとする事も問題無しだ。むしろそちらの方を私はお勧めするね。水は絶え間なく湧いてきて、喉が乾く事もないのだから。」

蠍は尾っぽを左右に振って答える。それこそ私には許されない事なのだ。
月夜の獅子とその男は互いに一歩ずつ足を引いて、蠍に道を開ける。

「その鎧はきっと何事からも君の想いを守るのだろう。その今まで感じてきた君の宝物を汚してしまわないように大切に、誰にも、そして自分にも見えないようにしっかりと包まれているのだろう。しかしそれはきっと誰からも見えないのだ。それを忘れてはならないよ。」

月夜の獅子は優しい声色で蠍にそう伝えると、前足を曲げて首を垂れた。
巨大な前足はその心に強い意志を携えている事を、蠍へと静かに伝えていた。

何だか誰かと出会う度に足が重くなってしまうと蠍はうんざりとしていた。
たった一人でこの月夜を歩いている時にはそんな事すら感じなかった。唯々何も考えずにその足を進めているだけで、前に進む事が出来ていた。
この砂漠の果てに答えがあるという事をただ信じて、足を踏み出す事が出来ていた。
流れる風が鎧を吹き飛ばす事はなく、流れる砂に足を取られる事もない。
そんな旅路だった。
それが今、蠍の心の中はかつて無い程に揺れている。
自分が求めているのは答えであるのにも関わらず、今では旅立ちを決意したその問いが思い出せないのだ。
答えを求め続けるあまり、どこかにそれを落としてしまったらしい。
なんとも情けないと思いながら蠍は足を進める。今更立ち止まる事も、後に戻る事も出来ないのだ。

「あらあらこの子ったら、なんとも頑固な子ね!」

甲高い声が辺りに響く。そしてその声は反響しながら数を増していく。

「そうそう。頑丈な鎧の中はまるで何も見えもしない。それに刺されたら痛そうなあんな尻尾!大きなトゲまであるじゃないの!」
「これは近付けないねえ。」

そう言いつつも声はどんどんと蠍に近付いてくる。それから半分逃げるように蠍はその足を速めていく。

「まぁまぁ。ちょっとは落ち着きなさいよ。」

その言葉を最後に、ふわりと白い薄手のカーテンがふわりと蠍の前に舞い降りる。
良く見るとそれはカーテンでは無く、薄手のシルクで作られた衣服であった。
蠍が首を上げると、そこには4人の女性が星空からふわりと地上に舞い降りる所であった。

「初めまして。私たちは月夜の乙女達。」
「乙女という時間は当の昔に過ぎてしまったけど!それでも私たちは乙女達!」
「誰が何と言おうと乙女達!」

でっぷりとした乙女、細身で神経質そうな乙女、小柄でニコニコとした三人の乙女が、自らは乙女だと強調しながらそう語る。
そしてその中央には、他の乙女よりも遥かに若い、肩まで伸びる緩やかな亜麻色の髪をした乙女が、何故か恥ずかしそうに裾を抑えている。

「これ・・・私も言うの?」

その亜麻色の乙女がおずおずとそう尋ねると、他の三人の乙女は腰に手を当て、眉を釣り上げる!

「もちろん!貴女も私達と同じ乙女なのだから!」
「そう!姿形や年齢までもその時代は超えてしまってけれど、私達は紛れも無く乙女!」
「乙女はいつになっても乙女なの!」

説得にもならない説得で亜麻色の乙女は諦めが付いたのか、一度ため息を吐くと蠍に近付いた。

「私達は月夜の乙女。砂漠で迷うアナタに手を差し伸べる為にやってきました。」

迷ってなどいないのに・・・蠍は言葉も無くその場を立ち去ろうとする。
しかし、それは許されずに方向を変える度に乙女達はその目の前に現れた。

「あらあら何とも不思議ちゃん!何を考えているのかしら?」
「大丈夫!おばちゃ・・・乙女達にも秘密はあるから!むしろ秘密こそ私達をこんなにも美しくするの!」
「神秘的な乙女の魅力に物怖じしなくても大丈夫」

決してそういう訳ではないのになぁ。と蠍は途方に暮れて立ち尽くす。亜麻色の乙女がそっと蠍に歩み寄り、そのトゲに触れる。

「大丈夫。アナタが確かな意思でこの道を進んでいる事を知っているわ。だけど空からアナタの事を眺めているとこの道に迷っているとしか思えないの。」

蠍は自分の鋭い尾っぽに触れられて、その身を固めている。そんな事は初めてだったから、誰もがそれに触れる事を避けていたから。
だから蠍はその身を鎧で固めたのだ。恐れるくらいなら誰にも触れられて欲しくなかったから。

「こんなにもアナタの尻尾は鋭く硬く、そしてまっすぐと向いている。だからと言って、その先に何も考えずに向かえば良いという訳ではないの。自らの問いへの答えを得て初めて、その尻尾は確かな意思を持って自分の進むべき道を指し示してくれるの。」

蠍は今まで自慢だったその尻尾が急に頼りなく思えてしまった。そしてこの身を包む鎧もまた随分と今では頼りなく思ってしまっている。
誰にも触れられまいと固めたそれらは、こうも容易く乙女達に触れられているのだから。月夜の蟹に目的を尋ねられた。それに私は答えを見つけるためだと答えた。月夜の獅子には答えを得るためには問いが必要だと教えられた。そして私はその問いをどこかに落としてしまった。それでは確かに答えをどこにも見出す事は出来ない。
例えこの旅路が終わってしまっても、きっとそこには答えがないのだろう。
そう考えてしまうと、蠍はひどく寂しくなってしまった。そんな蠍を乙女達は優しく包む。

「大丈夫。答えを見つける為の問いは、いつだってアナタの中にあるわ。ちょっと見え無くなっているだけ。」
「そうそう。固い鎧のずっと一番底に埋もれているだけ。本当に大切な自分への問い、つまりは後悔ね。それはいつだってずっと大切に心の奥底に隠れているの。」
「その後悔を大切に閉じ込めてしまってそれが見え無くなっているのね。いえ・・・いつしかそれを見ないようにしているのね。」

乙女達の言葉にどんどん蠍は小さくなる。その硬さが自慢だった鎧は今では触れると潰れてしまいそうに柔らかく頼りない。
亜麻色の乙女はゆっくりと蠍へと近づく。

「大丈夫。そんなに硬い凝り固まった藍色の鎧でも、誰かとの出会いを繰り返す度に色鮮やかで柔らかくなるものだから。硬いものほど砕けやすいけれど、柔らかく柔軟であるならばそれは決して砕ける事はないの。だから大丈夫。」

乙女は最後に一度蠍の尻尾に触れると、賑やかに星空へとふわりと浮かび、そして等々見えなくなった。
そこで初めて蠍は孤独を感じた。今までの旅路は自分だけのものだったのだから、そんな事は感じた事はなかった。むしろ心地良くさえ思っていた。
でもきっとそれは物事の本質から目を背けていたのだと蠍は思う。
乙女達に諭されて、心の奥に仕舞い込み厳重に誰にも見られないように鎧で固めたその旅路の始まりは後悔だった。
自らが答えを望み旅に出たその問いとは、遠い昔のたった一つの後悔。
それをどうにかする為に、蠍の私は旅に出た。その旅の終わりに、その答えがあると信じて。鎧を固めて、尻尾の針を鋭く向けて。旅をする間にそれはすっかりと硬く鋭くなって私の自慢だった。たった一人の辛く長い月夜の旅路。其の旅路を歩く事で、私はその後悔を忘れられていた。
だけどそれが今ではこんなにも頼りない。
頼りなくも暖かい。
この短い旅路の中でいろんな出会いを果たした。ほんの小さな出会い。
その出会いの数々は確かに私を変えていく。
きっと旅とはそういうものなのだ。
そして私の旅路とはそうであるべきなのだ。
蠍はきっと頭を上げる。その先には確かに砂漠の終わりが見えた。
だけどもそれは地平線の向こうに見えて、ここからはまだとても遠い。

「ふっふっふー!ようやく気が付いたようだね!」

再びそう声がして、目の前には巨大な鯛焼きに乗った金色の冠を被る男が舞い降りる。その右手には巨大な秤が乗っていて、それはゆらゆらと揺れている。

「そうそう。いつだって答えは単純!だけどそれは難しいねー」

蠍の周りで金の鱗粉を辺りへと降らせながら、薄い羽根と真っ赤なドレスを着た妖精が目まぐるしくその羽根を揺らしている。

「答えを目指す為の問いは私の中にあったのですね。そしてそれは鎧で隠され見えなくなったのですね。」

蠍がそう言うと、そのとーり!と秤を持った男は尊大にそう答えた。その男に向かって妖精は腰に手を当て舌を出す。

「お兄ちゃんはちょっと調子に乗っているだけ。気にしないで。でもアナタはもうその問いに気が付いたでしょう?これからどうするの?」

蠍は答えない。何故だかその問いには答えられなかった。

「君はもう分かっているのだろう?だけどもそれに気が付いてしまったから足を踏み出せないでいる。前よりもずっと。」

さぁ・・・と男は蠍の目の前に秤を置いた。見上げる程に巨大なそれは、左右へと忙しなく天秤を揺らし続けている。

「進むべきか進まぬべきか。それを選択するのはいつだってアナタ自身だろう。」

頑張って!と耳元で妖精の声がする。
私は・・・そう蠍が答えようとすると耳元でゴポゴポと湯が沸騰する音がした。

その音をきっかけに私は月夜の砂漠から現実の部屋へと舞い戻る。
吹き零れたコーヒーポットに慌てて、コンロの火を消した。
危ない危ない、とホッと息を吐き、私は湯の温度が少しだけ下がるのを待つ。
しかしこれは悪い癖だと私はそれを眺める。
こんな瞬間はいつだって突然にやってくる。深い思考の中で自問自答をするような。
妄想癖と言ってしまえばそれまでだけど、時には夢の中でそれはやってくる。
ともかく湯を火に掛けながらそれは危ないとちょっとだけ反省をした。
鎧のように服を着込んでいたからか、今ではすっかりと体が暖かい。
湯気の量が減るのを見て、私はマグカップに注いだインスタントコーヒーの欠片へとそれを注ぎ込む。
立ち上る湯気に合わせてそれはグルグルと白い泡を巻き込んで、渦を作る。
その湯気の向こうでは、かつての友人が笑みを作っているのが見えた。
誰もいない喫茶店で、他愛もない私の悩みや話を楽しそうに聞いてくれた。
その友人の悩みなんか聞いた事もなかったし、天真爛漫で賢くて、誰もが認める綺麗な人。彼女は私なんかと違って悩みなんてないと思っていた。
二つ並んだマグカップの温度が冷めてしまうまで、二人でいつだって話し込んでいた。
柏木奈留はいつだって直視が出来ないほどの笑顔で私が望む言葉を与えてくれた。

その遠い思い出こそが多分、私の鎧の奥底にあるものなのだ。

いつしか部屋の中をインスタントコーヒーのどこか酸味を帯びた香りが漂う。
それを両手に持って、月明かりへと目を向ける。

それはどこか冬の匂いがした。

星が綺麗に見える季節が、また来るね。

月は相変わらずに窓を透過し、格子型の影を部屋に広げている。
再び私を月夜の砂漠へと導くように、青白く光る光を携えて。

そうして私は星を詠む。

星を詠んで、人を想うのだ。

第六話【星を詠む人/羊雲と鉛筆の日】

『羊雲と鉛筆の日』

なんでこんなにも電車の音って気持ちが良いのだろうか。
ガタンゴトンと揺れる電車に合わせて、私の体も少し揺れる。
車窓から広がる空はどこまでも広がっていて、そこには羊雲が切れ切れに浮かんでいた。
寒い日が続く冬を迎える街並みには、たまにとっても暖かくて、やけに空気が澄んでいる日がある。
普段は引っ込み思案な私でも、そんな日には少し活動的になるのだ。
ゆっくりと身支度を整えて、外に出て、どこか知らない場所へと足を向ける。
・・・といっても夕方には帰って来れる場所ではあるのだけど、それは私にとっては特別な事だ。
街の古びた駅で、普通の電車に乗って、片手にはお気に入りの本を持って、心だけはどこまででも自由に違う場所へと向かう。
そこに何があるのか分からないし、きっと私が探しているものがあるとも限らない。
それでもそれは私にとって特別な日なのだ。
車窓から見える空はいつだって変わらない。
それはずっと昔に通り過ぎてしまった高校生の時と、何にも。
多分違いといえば、私の右手に持つのが鉛筆かそうでないか。
ただそれだけのようにも思うのだ。

「ねぇ!今度一緒にお出かけしようか!」
ある日の放課後、柏木奈留は教室の奥でひっそりと本を読む私に向かってそう声を掛けた。
彼女はいわゆるクラスの人気者。いつだってみんなの中心に居るし、友達だって沢山いる。
比べて私はいつだって教室の隅っこで、一人の時間を大切にしている。
たまたま帰りが遅れた教室には二人っきりしかいない。
陸上部のエースを任されている彼女は、それと同じく生徒会の役員でもある。
本当に大変そうだなぁ。ちょっとだけ羨ましい目で私は奈留の事をいつだって見ていた。
「お出かけ?」
そう聞き返す私に、奈留はそう!お出かけ!と両手を腰に当てて教室の外に視線を向けた。
「紡ちゃんとは教室でしかお話しないからね。たまには一緒に遊んでみようよ!」
そう声を掛けられて私は少しだけ視線を泳がせ、はい。と返事をする。
よっしゃ!と腕を掲げて見せて、奈留は普段は見せない無邪気な笑みを浮かべた。
しかし、誰かとお出かけするなんて余り慣れていないなぁと私は思う。
私にとってのお出かけは一人で目的のものを買いに行くだけの事で、誰かと一緒に・・・なんて余り考えた事はなかった。
「どこに行くの?」
私の問いに奈留はさぁ?と首を傾げた。
「とりあえず駅前集合で・・・何をやるかはその時に考えよう!」
ふんと。鼻息を鳴らして奈留は満足そうに頷いてみせる。
そういうものなのか・・・と私は本の中に顔を埋めた。
彼女の決断はいつだって早い。確実だとは言えないけれど、例えばクラスの決め事なんかする時も最終的には彼女が決める。
それはクラスにとって当たり前の事だし、それは途方もなものだったとしても概ね成功する。
私だったら一生悩んでいそうだなぁ・・・そんな事も彼女は容易く決断する。
決断する事とは思い悩む事に比べると遥かに難しいと私は思う。
それはその後の責任もまた背負うという事にも似ているからだ。
責任・・・そんな言葉をとても重く受け取ってしまう私にとってはそれは凄い事で、私が彼女を羨ましく思う一因でもある。
「それじゃ次のお休みに駅前で!」
そう言い残すと彼女は教室からどこかへと、放たれたように駆けて行ってしまった。
ふむふむ・・・こういう時には何を着ていけば良いのだろうか?
私はどこへ向かうかよりもそんな事ばかりが気になった。

その日はいつもよりもずっと早起きして、頭から湯気が出るほど洋服を選び、私は駅前へと向かった。
結果としていつものロングスカートにシャツ、ちょっと厚めのカーディガンを羽織っただけではあるのだけど、冬を本格的に迎える前の暖かな日であったので、それはそれで良いかと私は自分の心に決着を付けた。
まだ待ち合わせには随分早いな・・・気持ちだけが焦る私はその駅前へとゆっくりと進む。
それでも待ち合わせの時間よりは随分と早い。どうしましょうかね・・・
ふむ。と首を傾げると視線の先に、やたらとスポーティーなジャケットと、いかにも動きやすそうなジーパンで、颯爽と歩いてくる奈留の姿が見えた。
「おー!早いね!いつも誰よりも早く来てしまう私よりも早いなんて!」
「いえ・・そんな事ありません。」
えー!と嬉しさを体の中に留めていられないかのように、体を揺らしながら奈留はそう言った。
別段おしゃれをしている訳ではないのに、よく鍛えられたその身にはラフな格好が良く似合う。
それにこんなに目鼻立ちが整った美人さんなのだから何処かの雑誌から抜け出して来たみたいだ。
ぼーっと私がそんな事を考えていると、奈留は体を屈めて私の顔を覗き込む。
一瞬不思議な顔をし、盛大に笑みを浮かべた後、肩に賭けた一眼レフのカメラを私に向けた。
カシャリと音がした後に、盛大に丸まった私の瞳を見て奈留はクスクスと笑みを浮かべる。
「ふむふむ。おっとり少女のぼぉっとした素敵な顔を頂きました。」
そうファイダーを覗く奈留にちょっと待ってと、顔を真っ赤にした私はそれを隠すために両手で顔を覆う。
「ちょっとまって・・そんな・・・びっくりしました」
「ふふーん。これは隠された私の趣味。写真を撮るのが好きなのだよ」
「そうなんですね。初めて知りました」
「んー誰にも言っていないからね。ほら!こういうのは自分で楽しむだけだから。ほら行こう!」
そういって奈留は私の一歩先へと歩き出す。
「どこに行くんですか?」
とりあえず何処かかな?そう言って、奈留は大きく伸びをして心地良さそうにふふん。と口先で何かのメロディーをなぞる。あんまりこんな姿は見たことないなぁ。と思ってしまうと私もまた楽しくなって奈留の横に並んでみた。
そうして商店街をぶらぶら歩きながら二人で並んで歩く。
私よりずっと手足の長い奈留は、きっと私よりも歩くのはずっと速い。
それでも今二人並んで歩いているのは、奈留が私に歩幅を合わせてくれているからで、そして私がいつもより少しだけ早歩きだからなのだと思う。
そして奈留は右方向に何か物珍しいものがあれば、歩幅を速めてそれをフィンダーに収め、左方向に美味しそうなクレープ屋さんが有ればそこへと向かい、一緒に食べようと私に声を掛ける。
二人して歩きながらそれを食べていると、唐突に奈留のカメラはシャッター音を立てる。
「ふむふむ。いかにも美味しそうに口元へとクリームを頬張る少女の無邪気な姿を頂きました。ほっぺに付いたクリームも得点が高いね。」
その言葉にもごもごと、口の中いっぱいに広がったクリームを処理しつつ私は何か言葉を返そうと必死に口を動かす。
本当の所、私は写真を撮られるのは得意ではない。
向けられたファインダーには、撮る側の期待が込められているような気がして、それに応えようとすると自然に体が固まってしまうのだ。なので私の幼き頃の写真はいつだって直立不動のまっすぐで、なんとも言えない表情をしている。
しかし、奈留に撮られるのは不思議と嫌な感じはしなかった。といっても唐突にそのシャッターが切られる訳であって、抗議のしようもないのだけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
「えぇと・・奈留さんの写真も撮りましょうか?」
私がそう尋ねると、奈留はしっかりと首を横に振った。
「私はいいよ。大丈夫。」
写真が趣味の人ってそんなものなのかな?私は首を傾げる。その表情を見て奈留は困ったように笑みを浮かべた。
「まぁ。写真に写るよりも撮る方が好きなんだよね。なんていうか・・・こう、例えば目の前の景色なんて、通り過ぎてしまえばもう二度と現れない訳じゃない?こんな小さな商店街でもね。全部は難しいけどその、自分の好きな一瞬だけでも残して置きたくて、それで写真が好きなんだよねー」
そうなんだ・・・と私は再び口をもごもごとさせる。そんな風に今まで私は周りを見たことがなかったなぁとそう思った。やっぱり奈留は頭が良いなぁと素直に凄いと思った。
「凄いですね。私はそんな風に周りを見た事がありませんでした。」
「んー。普通はそんな風には思わないんじゃない?私はほら・・・よく変わってるって言われるから。」
「そうなんですね!とてもそうとは思えませんよ。私なんかよりもずっと凄い。」
「そう?私は紡ちゃんの方が凄いと思うよ。」
どんな所がですか?私がそう尋ねると奈留は照れくさそうに、はにかみながら秘密ーとだけ答えた。
これが社交辞令というものなのかな?もしそうであっても嬉しいな。
私はそう思いながら奈留と共に商店街を抜ける。
そこには小さな公園があって、二つのベンチが目の前のジャングルジムを眺めている。
後は僅かな砂場があるだけだけど、それでも奈留の話を聞いた後ではそれが不思議と特別な物に見える。
「ちょっと休んでいこうか!他の写真もみる?」
奈留の問いに是非見ます!と答えて、私たちはその公園へちょっとだけ足を速めて向かった。

私は奈留と公園のベンチで並んで、奈留のカメラに収められている彼女の写真を眺めていた。
そこには正しく奈留の世界があった。
朝露に濡れる紫陽花の葉っぱ、どこかで見た事のあるようなオシャレな喫茶店、そんな風景よりも遥かに多いのが幸せそうに笑う人達の笑顔であった。
その人たちは奈留のレンズへ満面の笑みを浮かべている。それは被写体としての表情ではなくてとても自然な、ありふれた表情であった。
とても幸せそうで、そのファインダーの中には何一つ不幸な事は存在しないような。
そんな写真だった。
「凄いですね・・本当にみんな幸せそう。」
その言葉になぜか奈留は驚いた表情で私を見つめる。
「あの・・・どうしました?」
「いや、なんでも。こんな風に褒められるのには慣れていないから、どういう表情したら良いか分からなくて」
それはまた私にとって不思議な言葉だった。いつだって誰からも凄い!と賞賛されている。そんな人だと思っていたから。
「でも・・・みんな奈留さんの事を褒めてますよ!いつもクラスの中心でみんなを纏めて、それに足だって速いし。」
「ふーん。そんなもんなんだ。私からしたらみんなにもっともっと!って言われてるような気がしてたから、ちょっと意外だね。」
そう奈留はぼんやりと空を見上げる。そこには羊の群れのような雲が切れ切れに流れている。
きっと周りから見て凄い人でも、その人が見ている世界はまた違うのかもしれない。そんな事を私は思った。
それでもそんな周りの期待に応えられる奈留がまた凄い人だっていう事も。
自分の事っていうのは案外自分では気が付かない。それは奈留と話していて私にも良くわかった。
奈留から見る私はどんな風に写っているのだろう?そんな事もまた気にはなった。
聞いたら変に思われるかな?ちょっとだけ緊張しながらその言葉を伝えようとした時、足元で子犬の鳴く声がした。
「あれあれ?君はどこから来たのかな?」
奈留はベンチから腰を下ろして、その真っ白な子犬に視線を合わせようとする。
白くてホワホワな長い毛並みの小さな子犬には、真っ赤な首輪が巻かれている。
その先には長いリードが伸びていて、それを握る人はどこにも見当たらなかった。
「迷子・・ですかね?」
私も奈留に並んで子犬を撫でる。人に慣れたその子犬は私の手のひらに頭を預けて気持ち良さそうに鳴いた。
「ふむ。何処からから逃げ出して来たのかもしれないね。一緒に探してあげようか?」
そう言って奈留は子犬を抱き上げて、すっと立ち上がる。その視線は真っ直ぐと今から進む先を見据えている。
やっぱり奈留は凄い。そんな事を私は思いながら、是非とも探しましょう!そう歩み始めた奈留の後に声を掛ける。二人してその可愛らしさをその身一杯に体現する子犬を撫でたりしながら私たちは元来た道を再び戻る。人が疎らな商店街とは言え、きっと誰かが知っているだろうし、子犬の足で私たちの手が及ばない遠い場所から来たとは思えないからだ。
それでも不思議とその子犬の事を知っている人はいなかった。奈留は眼に映る人すべてに気軽に声をかけて飼い主を探し、私はずっとその後ろに付いて辺りをキョロキョロと眺める。
こんなに見知らぬ人に声を掛けられるなんて、そして見知らぬ子犬のためにこんなに一生懸命になれるなんて。
きっと私には出来ない。それでも私は私に出来るだけ出来ること、この子犬を見て表情を変える人を探してはみたのだけど、それは全く見当たらなかった。
それ所か、私たちを不思議そうな眼で見て、足早に離れていく人ばかりが眼に映る。
誰もが誰かのために動ける訳ではない。それ所かそういって動く人から眼を背けようとさえする。
その気持ちは私にだって良く分かる。
でも奈留はそんな人が眼に入らないかのように必死に道行く人に声を掛けている。
ちょっとだけ今の私は卑怯だな。そう一度首を振って、勇気を出してか細い声で見知らぬ誰かに声を掛ける。
心臓は早鐘のように鳴り響いているし、心はどこか落ち着かない。
でも奈留と並んでそうしている間だけは、少なくとも恐れは無くて、どこか心地良い気持ちにすらなる。
誰かのために動く。それがこんなにも大変な事とは思わなかった。いつだって何かを誰かに投げ出していたような気がする。
そしていつだって奈留はこんな世界に居るのだ。一人で。
そう思うとなんだか正体の知れない不安な気持ちが心の中にふつふつと浮かぶのを私は感じた。
商店街のアーケードはもうすぐ終わりを告げようとしていて、私はおろか流石の奈留も少しずつ暗い表情になっている。そんな時、商店街の端っこにある、如何にも年齢層が高めの方をターゲットとした呉服屋さんが眼に見えた。
その店先に立つゆったりとした藍色のセーターを来たおじいちゃんが、おやぁと声を上げた。
奈留と私はハッと軽く笑みを浮かべて顔を見合わせる。そしてその呉服屋さんへと足を速め、店先に辿り着くと、その呉服屋の店主は奈留の腕に抱かれた子犬を愛おしそうに撫でた。子犬もまた高い声でキャンと鳴く。
「おやぁ。小村(こむら)さんの所の、ヒツジちゃんじゃないかい。今日はこんな可愛い娘達にお散歩してもらってるんだねぇ」
その言葉に再び私たちは顔を見合わせる。少なくとも私たちが今抱いているのはヒツジでは無く、子犬なのだ。
「えぇと。この子犬をご存知ですか?確かにヒツジさんにも似ていますね。近くの公園で迷子になっていて・・・」
ハッと何かに気が付いた奈留はそう呉服屋の主人に声を掛ける。なるほど、ヒツジに似ているからこの子犬の名前はヒツジなのか。なんともややこしいと私は眼を細める。
奈留の言葉に呉服屋の主人は一転、眉を顰めて少しだけ悲しそうな顔をした。
「そうかいそうかい。ありがとうな。この子犬の飼い主はワシよりももっと上の婆さんでな。近頃、いつも通っている商店街でも迷子になったりな。認知症っていうのかね。まぁ悲しい話だよ。あれだけ可愛がっていたのに。」
そうなんですね。と奈留もまた悲しそうな表情を浮かべる。私だってそうだ。
「そうなんですね。あの、そのお宅を失礼でなければ教えて頂けませんか?」
「いいよ。小村の婆さんも心配しているだろうからね。」
はい!と答えて奈留は一度私の方を向く。私は奈留の隣に並んでその教えられた場所へと向かった。

それは商店街の隣の通りにある、一軒家であった。白く汚れのない二階建てであり、ベランダにはまだ綺麗な布団が並んでいる。随分と新しい家だなぁと私は眺め、奈留はその家のインターホンを押した。
すると玄関が開き、中から背伸びをしながらドアを開ける少年が私たちを見上げていた。
「あー!ヒツジちゃんだ!おかーさん!おばあちゃん!ヒツジちゃんが帰ってきたよ!」
そう声を上げると、玄関の奥からドタドタと音がしてエプロン姿の髪を綺麗に一つへ結んだ女性が現れる。
「あーヒツジちゃん!すみません!あなた方が見つけてくれたのですか?おばーちゃん!良かったね!ヒツジちゃん帰ってきたよ!」
その声でその女性の後ろからゆっくりと歩んできた、あずき色の羽織を被った高齢の女性はゆっくり奈留の元へ近付くと、奈留の腕ごとその子犬を抱きしめた。
「ありがとうね。ありがとうねぇ。」
そう何度も声を掛けて涙を流し、何度も子犬に声を掛けて白くてホワホワとして毛並みの中に顔を埋めた。
奈留の表情も柔らかく、その高齢の女性もヒツジと呼ばれる子犬にもまた優しい視線を向けている。
私はというと、なんとも言えない温かな液体が心の中を満たしていくのを感じていた。本当に良かった。ただただそう思っていた。小さな少年もいつしかその隣に並んでいて、ゆっくりとその母親であろう女性が、丁寧に私たちへと頭を下げた。
「ありがとうございます。お婆ちゃん最近すごく物忘れするようになってしまって。とうとう一緒にお散歩していた子犬が逃げ出して、自分じゃ何処にも行けないから本当に落ち込んでいたんです。私たちも探してみたんですが、なかなか見つからなくて・・・あなた達が見つけてくれて本当に良かった。」
いえいえ。と奈留はその子犬を抱き上げる少年へと手を振ると、何度もお辞儀を返すそのお婆ちゃんにも一度頭を下げて、私にそれじゃ行こうかと声を掛けた。
しきりに何かお礼を・・・と声を掛ける少年の母親にも結構ですからと、完成された笑みを浮かべてその場を後にする。私はアタフタと二人を見比べ、奈留に習ってお辞儀を一度返した後、奈留の横に並んだ。
すると奈留は大きく背伸びをして、私の方へと視線を向ける。
「いやぁ。あのお婆ちゃん良かったねぇ。それにしても真っ白の子犬にヒツジと名付けるセンスは素敵なものに感じるなぁ」
あはは。とまるで何事も無かったように奈留は笑みを浮かべる。そして少しだけその顔を曇らせる。
「でもごめんね。私、こういう所があってさ。いつも後先を考えないとか、いろいろ言われてるんだけどね。こういう時に冷静に行動出来れば良いんだけどなぁ。」
そんな事はないよ。そんな私の言葉を待たずに奈留は続ける。
「あの親子も子犬ちゃんを探していた訳でしょ?あの公園で待っていればすぐに見つけられたかもしれないし、もしかしたら探しているうちに入れ違いになってたかも」
その表情が私には不思議で不思議で仕方が無かった。たった今、みんなに感謝されるような良い事をしたのにも関わらず、彼女はこんなにも浮かない顔になっている。確かに彼女の言葉には一理あるし、もしかしたらそうなのかもしれない。でもそれはあくまで可能性の話だ。
あぁきっと・・・私たちが見る奈留と、奈留が奈留自身で見る姿はきっと全然違うのだろうなぁと何となく私は思う。
完璧で素敵な奈留が私達が見て、期待を寄せる奈留の姿であって、奈留が奈留自身に見るのは、完璧で素敵だと私達が思い浮かべる奈留の姿なのだ。
多分それは、きっと決して奈留本来の姿ではないのだなぁと私は思う。
奈留の思い浮かぶ世界はきっと奈留のカメラの中だけにあるのだ。
「えぇと。なんだか奈留さんは射手座みたいだなって思います。」
こんな時に上手い言葉が浮かばないのが私の残念な所なのだけど、その言葉に奈留はそうなの?と歩きながら耳をこちらに向ける。
「射手座の由来は、神話に登場するケンタウロスで・・・下半身が馬で上半身が人の姿をしていてその手には巨大な弓矢が握られています」
「あっはっは!それが私って訳?」
「いいえ、決してそういう訳ではなくて、射手座はもう行動力の塊のような人で、それはもう射られた矢のように気が付いたらどこまででも飛んでいきそうな程です。そんな射手座は時には周りから、見通しが甘いとか落ち着きがないと思われてしまう事だってあります。」
「なるほど・・・確かに私によく似ているね。」
「それもまた厳密に言えば違うと思います。身勝手に見えていてもそれは射手座が何かを目指しているからで、射られた矢もその方向に進みます。そして射手座は決して自分だけの利益の為には動きません。みんなを、自分以外の誰かを想うからこそ、その矢を射る事が出来るのです。そして皆んなから見える理想の自分が射手座の思い浮かぶ姿でもあると思います。それを目指して射手座は自身の矢を射ます。その矢には不思議な力があって不思議に人を惹きつけて、皆んなの見る夢の先へと軌跡を残しながら進むのです。夢の向こうへと、その人が目を向ける広い世界へと。」
奈留は黙って聞いている。私は上手に話せているか不安になるのだけど、言葉はしっかりと届いているのは分かる。
「優れた射手から放たれた矢は、例えどんな壁や苦難があろうとも乗り越えていけると思います。時間がどれだけかかってもいつかはその描いた夢へと届くのです!」
語り終えて少し息の荒くなった私へ、奈留は向き直る。そして子供のように薄い唇が弧を描くまで広げて首を僅かに傾ける。そして人差し指で私の額をちょんと突いた。
「うん。やっぱり紡ちゃんのそういう所が凄いと思う。」
「えぇと・・・何処がですか?」
私が尋ねると秘密ー!と声高らかに、何処かほっとしたような声で奈留は答えた。
そして私に表情を見せたくないかのように一歩前を彼女は歩く。
空は高く何処まででも続いていて、うっすらと浮かぶ羊雲はその果てへと流れていった。

電車が止まる音がして、私は体を大きく揺らして目を覚ます。
なんで電車ってこんなによく寝れるのだろう。それは永遠の謎だ。
そして電車は見知らぬ駅へと辿り付き、発車の合図の前に私は電車を降りた。
そこはとても広く、私の住む街中とはまったく違う田園が広がっている。
駅は無人で誰もいない。私は切符を端っこが赤茶けたボックスの中に入れて、駅の外に出た。
なんとも気持ちの良い場所ではないか。そう思いつつ大きく伸びをする。
射られた矢もまた、放たれた後はこんなにも自由に感じるのではないだろうか?
さてさて私は何処に行こう?そう体の後ろに手を組んで考えていると、目の前に白いワンボックスの車が止まり、そこから降りる人が見える。高齢の女性とそれに付き添う背の高い青年。お孫さんだろうか?それにしても良いお孫さんだなぁ。そう考えていると、左手に握られた赤いリードの向こうには大きな白い犬がおり、のっそりと車から一緒に降りてきた。
なんだか何処かで見たことがあるな。私はそう思う。それは遠い夢の向こうで見たようにも感じる。
するとその白くてホワホワとして毛並みの大きな犬は、一度私の方を見るとワン!と野太い鳴き声とともに私の方へ駆けてきた。ヒッと私は小さな悲鳴を上げて私は身を固める。こんな時に素早く逃げ出せる反射神経は私には無い。そしてその大きな白い犬は私の腰に抱きつくとその大きな尾っぽを左右に揺らしている。
「すみません!おばあちゃん、ちょっと待っててね。」
青年はそう言うと私の方へ走ってくる。大きな犬に抱きつかれたままの私は、身動きが取れずに体も顔もまた硬直させている。食べられはしないけれど、戦っても決して勝てる気はしない。
「おいヒツジ!離れて離れて!すみません。普段は大人しい奴なんですが、なんでだろう。」
青年は困ったように犬を眺めて何度も、私に頭を下げている。いえいえと私は体を硬くしたままそれに答える。
しかし何処かで聞いたことのある名前だと思う。それは夢の彼方で。
そして高齢の女性もまたゆっくりと私の元へ近付き、そして私の顔を見上げると皺くちゃの表情を更に皺くちゃにして笑みを浮かべる。
「あらあら。すっかり大人になって。あの時はありがとうね。」
その女性はそう言うと、しゃがんで愛おしそうにその犬を撫でている。隣の青年は更に頭を抱えて・・・
「重ね重ねすみません・・・おばあちゃんもすっかり認知症が進んでいて今は家族の顔くらいしか分からないので、どうかお気になさらずに。老人ホームから家に外泊する途中なのですが果たしてちゃんと連れて帰れるのか不安になってきました」
あぁそうか。そう私は思う。そしてこんな事もあるのだな・・・と。
「大丈夫ですよ。えぇきっと大丈夫。」
その言葉に青年は不思議そうに首を傾げる。
「変な誘い文句だと思われたくはありませんが、以前何処かでお会いした事ありますか?」
青年からの問いに、いいえ。と私は静かに答える。その答えにそうでしたか。と青年は答えて再びすみませんと頭を下げた。
そして右手に高齢の女性の手を、左手に赤いリードを持って駅の駐車場へ向かっていく。
きっとあの白いお家へ帰るのだろうな。私はその後ろ姿を眺めながら小さく手を振った。
そして何処まででも続く羊雲へと向かって大きく弓矢を射る真似をする。
もう今の私にはその射手が放った矢の先は見えない。
でもこうやって、その軌跡だけは今の私でも追う事が出来る。
その夢見た世界の先が、今の私でも、少しだけでも見えるように。
その軌跡だけは追う事が出来るのだ。
きっと今夜は星が良く見える。
いつかの君や願った夢の軌跡を思い浮かべながら
今夜はきっと星が良く見える。
そうしてきっと私は星を詠む。
星を詠んで、人を想うのだ。

第七話【星を詠む人/細雪と手袋の日】

冬の空はすっかりとその厚さを増していき、街並みから少しずつその色味を奪っていく。
そしてその下で流れる冷たい風は、小さな私の背丈を更に小さくしてしまう。
年の瀬の足音が少しずつその音を増していく週末に、私の働くクリニックでは細やかな忘年会が開かれるのが習わしだ。
といっても、働く看護師さんたちはみんなお子さんを持ちだから、クリニックの中で互いに持ち寄ったお菓子や食事、飲み物を囲んでおしゃべりする。そんな心地良くも細やかなものである。

「それではみなさま今年もお疲れさまでした!もう何日か仕事は残っておりますが、今日は盛大におしゃべりしましょう!!」
そう正に肝っ玉母さんという言葉を体現したかのような藤井さんは、紙コップを掲げて大きな声で乾杯の音頭をとる。
それに合わせてみんな拍手を送り、まるで狸さんのようにどっしりと構えた院長先生もほっほっほと笑い声を上げた。
なんだかあったかいなぁと思いながら私、宮原紡も先輩の医療事務である山下沙耶の隣で体を揺らす。
私にとってはこれくらいが本当に丁度良いといつも思う。
派手ではなくても盛大でなくても、とっても暖かいとそう思う。
「今年もなんだかんだで終わりだねぇ。年々一年が早くなって嫌になるわ。」
そう細身でメガネを掛けている佐藤さんはそうポツリと零す。
「でもやっぱり一年は色々有るものねぇ。今年は夏祭りも盛大に出店できたしね!」
ホコホコとお菓子を口いっぱいに頬張りながら、小さくコロコロとぼっちゃりとした田所さんは楽しそうにそう話す。
そうですねぇ。と沙耶さんもそれに相槌を打ちながら何かを考えているように紙コップを両手でぎゅっと握った。
「まぁまぁ。みんなのお陰で我がクリニックも今年も何事もなく過ぎたなぁ。いやぁ良き事だなぁ。」
院長先生はぼんやりと、いつも何だかぼんやりとしているけれど、そのぼんやりさも三割増しのぼんやりとした言葉でそう零す。
「そうねぇ。院長先生も外も中身もすっかりと丸くなっちゃって。」
そう藤井さんはあっはっはと他の人よりもふっくらとしたお腹を叩いてそう言うと、佐藤さんもそうねぇと笑い声を上げる。
「どこかの医療センターから来た近所でも評判な切れ者でシュッとした集中治療科出身の医師!そんな名目だったけど今ではねぇ・・・」
「そうそう!年々ふっくらとしていって、今ではぼっちゃりお爺ちゃん。年月って怖いわねぇ。」
佐藤さんの言葉に、田所さんは並べられたスナック菓子眺めながそう答える。なんとも院長先生はそうだったのだな。と私は呆然と院長先生を眺める。
「まぁ昔の話ですよ・・・」
ほっほ。と院長先生は目尻を和らげてそう笑い、なんだかサンタクロースが本当に居たらこんな人なんだろうなぁ。そんな事を考えていた。

細やかな忘年会の帰り、普段なら黄昏時の街の景色にはもうすっかりと夜の帳が降りている。
冬の夜は長くて冷たい。いつか明けると分かっていてもそれは人によっては酷く長く感じるものだ。
みんなでたくさんおしゃべりして、ホワホワと浮ついた私はその心のままに何となく街へと出かけていた。
住宅街の一角にあるクリニックからビルの立ち並ぶ中心街へと道のりは歩いてほんの30分程である。
そんな道のりは例えば秋の心地良い風の中ならば、あっという間であるのだけど、こんな冬の空ではそれは矢鱈と長く感じてしまう。
そして街に辿り着くと、昼間はひっそりとその身の色を落とした街路樹に、原色を惜しげもなく振りまくイルミネーションが施されていた。それは冬の空気を透過し淡く街を照らしている。
道行く人もどこか俯いていて、コートのポケットへ両手を入れて歩いている。
それは正しくこれから年の瀬を迎えようとする冬の街の風景であった。
私の両手は真っ赤な分厚い手袋に包まれており、首には白いマフラーが巻かれている。だからそこは寒くないのだけど、少しだけ強い風は容赦なく私の顔へと流れてきて容赦なくその温度を奪っていく。
本当に一年は色々有る。そんな事を私は改めて思う。
それはどこかの誰かにとっては些細な事かもしれない。
公園で見知らぬ誰かと出会ったり、街中でお気に入りの喫茶店を見つけたりそんな事。
だけども今まで人見知りを言い訳にして誰とも関わろうとしなかった私にとっては、とても特別な事だ。
学生の頃なんかは人と関わる事が良く分からなかっただけで、そんな風には考えてはいなかった。でもある時をきっかけに私は人と深く繋がる事を避けるようになってしまった。
人と関われば関わるほど想いによって紡がれた、責任だとか後悔だとかが大きくなるような気がして、不思議と避けてしまった。
そして私は自分の生まれ育った街を出た。何かが変わるような気がして。
それで見違えるように変われたとは言えないけれど、色んな人との出会いを通して少しは変われているとは思う。変われていると思いたい。
・・・やっぱり寒いと嫌な事を考えてしまう。
私は一度フルフルと首を横へと振り、もう帰ろうかな。
そう考えた時に、どこからがピアノの音が聞こえた。
耳を澄まして聴いてみると、それは誰かの歌声もそこに包んでいるようにも聞こえる。どこからだろう?私はその音を頼りに街路樹に沿って街を進んだ。
周りを見渡してもそんな事を気にせず人々は家路を急いでいる。
まさか私だけにしか聞こえている訳でもあるまいし・・・と考えながら歩いているとそれは段々と女性の歌声となり、やがて目の前にその人は姿を現した。
白いワンピースに藍色のコートを羽織っているけれど、それでも街行く人達に比べてもずっと薄着だ。
寒さなど感じさせないようにその女性は電子ピアノの上で細くて長い指を、まるでそれが勝手に動いているかのように自然に動かし音を奏でる。
そして反らせた体から唇を遠くに向けて、言葉を紡ぐ。
しっかりと何処まででも届きそうなその声は、彼女の言葉をピアノの音に乗せて街の中へと響かせていた。
いわゆる路上ミュージシャンさんだ。と私は胸を踊らせる。
こういった方とは今まで出会った事はなかったし、その歌声は私の心の奥底へと沈んでいく。
彼女は誰かの為に歌を歌っていた。それは穏やかなピアノの音に包まれてその人への言葉を紡いでいる。
何気ない取るに足らない瞬間の大切さを、そしてそれが失われてしまうと幾ら思ってもそれには手が届かないという事を。
それがなんだか今の自分の気持ちを代弁してくれているような気もして、なんだかとっても暖かくて、それに私は聴き入ってしまっていた。
こうも他人の心の奥底へと響く言葉を言えたらな・・・とそんな風にも思う。
そうしたらきっと今の私のような気持ちにもならなかっただろうし、何よりもこんな後悔はしていなかった筈だと。
程なくして歌が終わり、私はハッとしてパタパタとポケットの中から財布を探す。歌の終わりには確か投げ銭・・・というのだろうか、それをしなければならない。それにこんなに素敵な歌を聴かせてくれたのだ。
これくらいかしら?と千円札を二枚ほど出して、彼女の目の前に開かれた電子ピアノのケースへとそっと入れる。
ありがとうございます。と笑みを浮かべたその歌い手はそれを見てぎょっと目を丸める。
「ちょっこんなたくさん!いやでも・・ありがとう。今日君が初めて聴いてくれたね。」
その言葉に私はボッと赤面する。相場というものは分からないけど、それでも損をした気分にもならないからこれで私にとっては良かったのだけど、それでもこんなに驚かれるとは失礼だったかな・・・と私はすみません!と両手を揃えて頭を下げる。その挙動不審な動きが面白かったのか歌い手さんはクスクスと笑い始め、短く揃えられた黒髪から見える金色の大きなピアスが揺れるのが見えた。
「いいよいいよ。ありがとう!とっても嬉しい!」
「いやでも、もし失礼だったらと・・・」
「そんなことはないよ!あんなに一生懸命聴いてくれて本当に嬉しかった!もしかしたら誰も聴いてくれないんじゃないかって、そう思ってた。」
そんなものなのか?と私は首を傾げる。確かに彼女の前で足を止めているのは私だけで、街行く人はその前を無情にも素通りしていく。
こんな風に誰も聴いていないのかもしれない。誰にも伝わらないのかもしれない。
そんな不安を抱えながら言葉を伝える辛さは今の私にとっては良く分かる。
「でも・・・とっても良い曲でした!本当にすごく暖かくて、その誰かの事を本当に大切に想っているんだなぁって」
ほぅ。と歌い手さんは口先に手を当てる。
「こんな風に感想まで貰えるなんてなぁ。実は人前で歌い始めたのは初めてでさ!緊張してた!」
「すごく堂々とされていたようにも思えますが・・・」
「そんなの見た目だけだよー。内心ヒヤヒヤしてコートの下は汗ばっかり。ねぇお姉さんが良ければもっとお話し聴きたいんだけど、どこかに呑みに行かない?」
はぃ?と私は奇妙な声を上げて固まってしまう。本来こんなことに慣れていない私にとっては、今この瞬間に初めて出会った人を呑みに誘うなんて考え方はない。
だけどもそんな感情は確かにある。
初対面でも、お互いの事を何も知らなくても、この人だったら友達になれるなぁ。とかそんな感覚。
それは別に性格とか趣味が合うとかそういうものではなく、例え互いに正反対だったとしても、そういう感覚は確かにある。
「いい・・ですよ。」
なんとか出した私の言葉にやったぁと子供の様に両手を上げて彼女は喜んで見せた。
「本当に嬉しい!今片付けるから待っててね、ちょうどもうそろそろ終わろうと思ってたんだ。私の名前はメグミっていうの!あなたは?」
「宮原・・紡と申します。」
私が言葉少なく自己紹介するといい名前だね!そうメグミは答えて後片付けを始め出した。
なんともこういう事もあるものだな。と私はさて何をお話ししたら良いのだろう。そんな事を考えていた。

「ここかー!」
大きな電子ピアノを背負って、メグミはその扉を見上げた。
彼女の背丈は隣に並んでみると私よりも小さい。少女の様な背丈でコロコロと笑う彼女は何だかとても可愛らしくその頭を撫でたい欲求を私は必死に抑え込んだ。
ねぇどこに行こう?路上ライブの終わりにメグミは私にそう問いかけ、私が唯一知るこのお店を紹介したという訳だ。
かつて一人で踏み入れ、それから度々お邪魔している
『カフェ&BAR ライオン』
獅子座であるという理由でライオンと呼ばれるマスターが経営するこの場所は、夜遅くまで営業をしている。
夜はBARという事であり、昼間の暖かい日の光が流れる穏やかな場所から一転して、そこはどこか薄暗く静かにオルガンの音が流れていた。
夜になるとなんともオシャレな場所になるものだ。とメグミの隣で固まる私を置いて、こんばんわー!とメグミはその扉を開く。
「わー!すっごいオシャレ!お姉さんやるねぇ!」
その声に一歩遅れて私は店内へと足を踏み入れる。薄暗い照明は店内を包み、カウンターはダウンライトでその中で浮かび上がって見えた。
その中央にはいつもの様にグラスを磨くライオンさんが立っていてのだけど、顔に影が出来たライオンさんはいつもよりも大人に見える。
と言っても初老で老眼鏡の良く似合う細身のナイスミドル!といった見た目であるから私よりもずっと大人ではあるのだけど、夜の姿はこの空間と一体化して大人の空間を作り出している。
ほぁぁと私は声を漏らしつつカウンターに腰掛けるメグミの隣に腰を掛けた。
「こんな時間に珍しいね。」
言葉少なく低い声のライオンさんはダウンライトの下で笑みを浮かべた。その格好も様になっている。
はい。と言葉少なく私は答える。そして店内を見渡してみるとカウンターからちょうど死角になる部分には大きなオルガンが置かれており、黒いコートと帽子をかぶった大きめの男性がオルガンを弾いている。なんの曲は分からないけれど、この夜に誂えた様に響く音色は薄暗い店内へと程よく溶け込んでいた。
「生演奏が聞けるBARかぁ・・・良い所を教えて貰っちゃったなぁ」
メグミをそう言いカウンターに頬杖を付く。
「それでお二人さん。ご注文は何にされますか?」
私はえぇと・・・と一度悩み、アールグレイのリキュールをリキュールとチェイサーを注文する。おっしゃれー!というメグミの声が私を追いかけて来たけれど、今の私はこれしか知らないのだからまぁ・・・仕方がない。
「わたしも同じのください!」
メグミがそう伝えると、ライオンさんは静かに頷きグラスへとお酒を注ぎ、アールグレイの甘い香りがカウンターへと広がる。
そして私たちはオルガンの演奏を邪魔しない様にグラスを重ねて唇を付けた。なんとも大人な夜を過ごしているなぁと私の緊張しきった心はアールグレイの香りと共に次第に解けて、気持ちはふらりと浮かび上がっていく。
「それで今日はお友達と一緒かい?いつも一人で来てるのに珍しいね。」
ライオンさんは静かにそう私に声を掛ける。それは・・・と私が口をモゴモゴとさせているとメグミが少しカウンターに身を乗り出して右手を挙げた。
「さっきお友達になりましたー。わたしが路上ライブしてたらお姉さんが聞いてくれて、素敵な感想を聞かせてくれたのです。」
そうかそうか。とライオンさんは笑みを浮かべ、ちょっと恥ずかしくなった私は頬を染めてカウンターに視線を落とす。
「確かにこのお嬢さんは素敵な感性をお持ちだからね。前もこのお店で素敵な言葉を並べていたよ。」
「そんな事はありません!あの・・・星座のお話をしてみただけで・・」
「へぇ!星座の話!お姉さんって占い師?」
そういう訳では・・・と更に私は口をモゴモゴとさせてしまう。どうも褒められていないからか、こう言った時にどういった反応をしたら良いか分からない。そう私がなんて返事をしようか悩んでいると、ライオンさんはカウンターから移動し店内のエアコンのスイッチを入れる。
「雪が降り始めたみたいですね。どうりで冷えるはずだ。」
その言葉に私たちは後ろを振り向き、店の窓から外を眺める。そこには静かに降り始めた大きな雪の欠片が静かに街へと降り注いでいた。
それは街の音を静かに奪っていき、店の中には先ほどよりも音色を増してオルガンの音が響いている。
その静かな音色に耳を傾けながら、私たちはしばらく静かにお酒を呑んだ。そしてメグミはカウンターに頬を預けながら私に口を開く。その頬は朱色に綺麗に染まっている。
「こういうと失礼かもしれないけれど、私は占いをあまり信じないからなあ。でもすごいと思う。辛い時に頼りたくなるもん。それに比べて私の歌は今日誰にも響かなかったし。もちろん今日が始めてだった訳だけど、それでもねぇ。やっぱり凹む。」
メグミは緩んだ瞳のままに続ける。
「前までは自分で自分の好きな風に歌うので満足してたんだよ?でもね。やっぱり自分の言葉を誰かに届けたくて、そのままじゃダメだと思ったから、必死に、頑張って歌ってみたけどダメだった。お姉さんと出会えていなかったら、もっとダメになってたかも。また明日からも頑張れるよ。」
メグミはエヘヘと笑って見せた。でもそれは私にもよく分かる。それを知りながらメグミは前に進もうとして、私はまだその場に立ち止まっている。誰かに言葉を投げかける。それは単純なように思えてとても大変な事だ。今の私はそれを良く知っているし、解っている。
「えぇと・・・羊さんと山羊さんの違いはどう思いますか?」
えっ?とメグミは目を大きくまん丸にして首を傾げる。少しだけお酒を呑んだからか、いつもと違って私はそれを気にせずに言葉を続ける。ライオンさんは静かにグラスを磨き続けている。
「それは私の個人的な考えですが、常に空を見上げているか、地上を見据えているかの違いかと思います。山羊さんはいつだって切り立った崖の上に更に高い場所へと視線を向けます。地上には平坦でいくらでも過ごしやすい場所があるのにも関わらず、それでも切り立った崖の上で更に高い場所へと一歩一歩足を踏み出します。」
メグミは静かに聞いている。降り積もる雪は街から音を更に奪い、店内にはオルガンの音だけが響いている。
「その道のりは確かに厳しいものです。それでも山羊さんは諦めません。だってその先にあるものの価値を誰よりも知っていますから。時には遊び心も失って周りからも冷たく思われて理解されないかもしれません。それでも山羊さんの足は止まりません。誰かのために自分の思いを叶えるために厳しい山肌を注意深く、それでいて大胆に一歩を踏み出すのです。」
「ふふーん。なら今の私は勇敢な山羊さんという訳だね。まだ厳しい山肌を登り始めた訳だけど。」
そうです。と私は答える。これは決してメグミの話ではなくて、山羊座の話なのだけど、それでも今のメグミには聞いて欲しい言葉だ。
「しっかしお姉さんすごいねー!なんか別人みたいだった。」
「いぇ・・・普段話し慣れていないから・・・話出すと止まらないし上手く話せないというか・・・」
「はは。まぁそれも良い所だよ。な?良い感性をお持ちだろう。」
ですねー。とメグミは頬を更に緩めてそう答える。なんとも今日はよく褒められる日だと私は肩を竦めて小さくなった。
その時ふとオルガンの音が止んだ。もう終わりかな?と私が思っていると、ギシ・・・と木造りの床板を誰かが歩いてくる音がする。
その音の方向へとライオンさんは声を掛ける。
「もう演奏は終わりかい?院長先生様。今日は普段より豪華だったね。」
どこの院長先生だろうなぁ。と私は真っ赤に染まった頬をギュムギュムと揉みほぐしならがらそう考える。
「まぁ今日は観客が多いから興が乗ってしまったよ。それに私のクリニックの可愛い医療事務さんも居たからね。」
その言葉に私はぎょっとして、その声の主へと振り向く。それは今日の黄昏時、そして毎日のように顔を良く見る狸にも似た体躯の院長先生が脱いだ帽子を胸に当てていた。
あわわ・・と言葉を失う私を尻目にメグミは院長先生に手を大きく振る。
「お疲れ様でした~!素敵な演奏でしたね!オルガンのジャズはやっぱり耳に優しくてお洒落ですよー。」
「ありがとう。話は聞かせてもらったよ。どうだい?何か最後に一曲歌うかい?」
いんですかー?とメグミは席を立ち上がる。いつもの様におっとりとした院長先生とは全く違うその言葉使いに、私はまだそれが、私の知る院長先生だとは信じられない。
メグミはバックから楽譜を取り出し、なにやら二人で準備を始めている。
「まぁあの先生とクリニックは随分とこの街に昔からあるからね。自然に顔見知りにはなるさ。それに昔はジャズピアニストを目指していたらしいよ。」
「先生が・・・そんな人だとは知りませんでした。まだちょっと信じられないです。」
その言葉にライオンさんは珍しく大きく笑い声を上げた。
「そりゃそうだろう!昔はどうであれ、今は大狸みたいでのっそりとしているもんなぁ。確かにそれはお嬢さんが正しいよ。」
はい・・・と私は言葉を返す。一年が終わろうとしているのに本当に色々有るものだ。
ほら・・始まるよ。ライオンさんのその言葉で私はハッと我に帰り二人を眺める。
「初見だから・・・あまり期待しないでおくれよ。」
「わたしの曲だけど、今日はみんなの曲だから好き勝手演ってみて下さいね。」
二人は顔を合わせ一瞬の間をおいて、前奏が始まる。先ほどのジャズとは違う柔かで、少ない音の羅列が店内へと流れ始める。
それは静かな歌だった。多分彼女が一人でどこかに向かう歌。
普段の日常が緩やかに過ぎていき、そしてそれが元にもう戻らない歌。
そして何かの終わりと始まりを歌う歌。
それはオルガンだけの音とは思えない程、メグミの伸びやかな良く通る声で彩られて店内に響く。
あぁこんなにも美しい歌が有るものだと、私はそっと目を閉じる。
目の前には月夜が広がり、夜が深まりいつかは朝を迎える事が出来る。
それはきっと希望だ。冬は決して永遠に続く事はない。
静かにその歌は私の心の奥底へと静かに流れていく。
そして歌は終わりメロディーはしばらく続く。それすらも僅かな余韻を残して消えていった。
店内には雪の降る音すら聞こえてきそうな静寂が訪れる。
私は席を立ち上がり拍手を送る。カウンターの向こうのライオンさんもまたそうだ。そしてメグミはスカートの裾を広げて静かにお辞儀をする。
観客が僅か二人しかいない場所でのライブ。
それでも彼女は確かにこの場所のスターであった。
「えへへー!どうだった?」
ちょっとだけ照れ臭そうにメグミは席へと戻り、院長先生もその隣へと腰を掛ける。
「久しぶりに素晴らしいライブをした気分だよ。」
その院長先生の言葉にメグミは更にえへへと照れ臭そうに頭を掻いた。
「本当にすごいです!メグミさんも!院長先生もっ!」
鳴り止まない私の拍手に、院長先生は自分の唇に人差し指を当ててシッと口を鳴らす。
「これはみんなには内緒だからね。あの素晴らしい淑女達の噂話のネタになるのはもうこりごりだからね。」
はい!と私は返事をする。こうも人は姿を変えるものかとも思い、きっとこの夜の事は誰も信じてくれないだろうとそう思った。
その後、三人で他愛もない会話をし積もり始めた雪から逃げるように私達はその店を後にした。
じゃあまたねー!と何度も振り向き手を振るメグミに私はいつまでも手を振り返した。
院長先生は一度帽子を脱いで会釈をすると、振り向かずに夜道をゆっくりと進んでいく。
それぞれの帰り道を眺め終わり、私は空を見上げた。
降りしきる雪はいつしか私の真っ赤な手袋を白く白く染めていく。
まるで山羊さんの毛皮のように、真っ白ではなくそれはどこか燻んでいる。
僅かに降り積もった雪は道路を僅かに白く染めている。
それはまるで言葉にも似ていると私は思う。
長い間降り積もった言葉の雪は、いつしかやがて形となって姿を表す。
だけどもその塊は必要な時にはまだ形になっていなくて、必要な時に言葉になる事はない。
そして想いもまた雪に似ていると私は思う。
長い時間を掛けて心に降り積もった雪はやがて氷の結晶となっていつまでの心の中に留まり続ける。
そしてそれは幾ら季節が巡ろうとも決して解ける事はない。
いつまでも、いつまでも私の心の中にそれは残り続けている。
あー!私も山羊さんみたいに強くなれたらなぁ!
私は都会の真ん中で両方の足を地面にしっかりと付けたまま空を仰ぐ。
せめてこの氷の塊がいつか溶かせる事が出来るのならば、また少しだけ一歩を踏み出す事が出来る様な気がした。

帰り道へと続く街灯に雪の欠片が反射して、それはなんだか夜空に浮かぶ星に見える。

歌とメロディーはすっかりと終わってしまったけれど、その残響は心の中にいつまでも響いていた。

その星にも良く似た雪の欠片に私はそっと触れる。

それでも私は星を詠む。

星を詠んで、人を想うのだ。

第八話【星を詠む人/初夢と薄氷の日】

いつしか年の瀬は静かに終わり、私は生まれ育った街へと帰る。
とっても忙しい年末年始に私はあまり実家へは帰らない。
仕事があるから、というのは本当のようで嘘でもある。
たくさん集まる親戚の人とは何だか上手く関わる事が出来なくて、私は年の瀬が落ち着いた頃にいつも実家へと帰った。

幼い頃を過ごした自分の部屋は今も変わらずにそこにある。
今ではとっても小さな学習机には昔の教科書がそのままの姿で並んでいて、本棚には学校の図書館に並ぶ本のように、色褪せてしまった漫画や小説が並んでいる。私はその本棚に近付きその一つを手に取ってみた。
少しだけなんとも言えない匂いと共に昔の感情もまた蘇る。
人の感情というのは中々消えてはくれない。
もちろん嬉しい感情ならばずっとそこに在って欲しいとは思う。
だけども生きていれば、決してそれだけでは無いのは今の自分はよく分かる。
小さな頃はこの物語の向こうに自分の人生を見ていた。
まるで小説の主人公みたいに、なんてそんな事を。
それでも大人になると、それがそんなに簡単で無い事は嫌という程知らされる。それでも人はどこかで望んでいるのだと思う。
昔憧れた物語の主人公のように、どんな困難も乗り越えて新しい世界へと旅立つ。
しかし人はそれを憧れのままに心の本棚に仕舞い込んでしまう。
どんな物語もまた幸せな事ばかりで無いのだから。
ふむ。何だか変な事ばかり考えてしまう。
それもこれも今年見た初夢の所為だと私は思う。
初夢は決してめでたい事ばかりではない。
こんな時に見る初夢に限って昔の自分だったりするのだから困りものだ。
私の言葉を望んだ優しい人。それに気が付かなかった私。
どこかに姿を消した優しい人。失ってから初めて・・・それに気が付いた私。
そんな想いを携えたまま私はその部屋から出て階段を降りる。
そして玄関のドアに触れた時、どこに行くの?そんな声がリビングから聞こえた。
「ほら。もっとゆっくりしたら?お仕事頑張っているでしょ?」
母の声は昔とは変わらない。真っ白のエプロンには黒い猫が意気揚々とどこかへ向かって歩んでいる。
ゆるく巻かれた茶色の髪もまた記憶の中にあるのと相違は無い。
「ちょっとお散歩に行ってくる。」
「そうなの?ならもっと暖かくして行きなさい。」
そういって母は私に真っ白のマフラーを巻く。それはまるで今も尚、私が小さな子供であるかのように。
もう十分に大人なんだけどなぁ。そう思いながら私はそのマフラーに大人しく巻かれた。親にとってはいつまで経っても私は子供のままだ。
だけども決して私は立派な大人です。そんな事はまだ言えないのがちょっと悔しい限りなのだけど。
そして玄関から外に出る前に、リビングの奥で新聞を広げる父の姿も見える。その記憶もまた昔と変わらない。
父と娘。それはもちろんとっても仲良しな人もいるけれど、私と父は多くの例に漏れる事なく子供の頃から微妙な距離感の中で生きている。
お互いの事なんて話す事は無いし、会話も多分そんなに多くはない。
いつからそうなっちゃうんだろうなぁ。
と私はいつもそう思うのだけど、打ち解ける中々きっかけは掴めずいる。
まぁそんなものでしょうねぇ。いつも思考の最後はその言葉だ。
外に出るとまだ世の中は凍り付きそうな程に冷たい。
私はきゅっと白いマフラーを頬に当てる。
白い吐息は街へと静かに消えていった。

それにしても昔歩いた通学路というものは、どうしてこんなにも小さく見えるのだろうと思う。
高校生の頃とそんなに背丈は変わってない筈なのに、それでも昔歩いた街路樹の並木や、どこかの誰かさんの御宅の垣根は僅かな思い出と共に視界の隅っこを通り過ぎていく。
そして私は立ち止まる。
そこには昔、喫茶店があった。老父婦の経営するその喫茶店は今では持ち主の居ない空き地となっている。
胸の奥がきゅっと縮んでしまうのを感じた。
随分と前にお店を閉めてしまっていたのは知っていたけど、それでも昔の形のままでそこにはあった。
だけどもそれすら失われてしまうと記憶からも失われてしまいそうで何だか怖くなった。
そしてそのお店ではよく奈留と会っていた。
高校を卒業して都会の有名な大学へと当たり前のように進学した奈留とは高校の時のように毎日お話する事はなかったけど、偶に会ってお互いの事を話す。
他愛もないそんな時間が私にとってはとても大切な時間だった。
一方私はというと当たり前のように実家から通える小さな大学へと進み、派手では無くともそこで知り合った友人とそれなりの日々を過ごしていた。
夏や冬、季節の変わり目に必ずこの街に帰ってくる奈留とはその度にこの喫茶店で待ち合わせして、それぞれの話に華を咲かせた。
その古ぼけた喫茶店も昔の姿さながらで、決して派手では無かった。
どちらかというと定食屋さんにも近い白いレースのテーブルクロスの置かれた机が並び、壁には町内の他愛もないイベントのチラシが貼られていた。
真っ白のお皿が並んだカウンターの奥では小さなお婆ちゃんがゆっくりとコーヒーを淹れたり、何やら黙々と料理を作っていた。
何かの煮物だったのだろうか、それはいつだって随分と懐かしい香りがしていた。
お客さんはそれほど多く無くて、記憶の中ではいつだって二人っきりだった。
私は奈留が帰ってくる度にその都会での華やかな暮らしとか、有名な大学で学ぶ私には計り知れない講義の話を聞くのを楽しみにしていた。
それこそ昔に読んだ物語のように、自分とは程遠い世界の話を楽しみにしていた。
「今度サークルの先輩が会社を起こすんだって。すごいよね!まだ学生だよ?実はさ。そこに呼ばれてるんだよね。卒業したらどうかって?」
「ほぁぁ」
すっかりと大人っぽくなって更に綺麗になった奈留は楽しそうにそう話した。そんなことテレビの中でしか聞いたことないなぁ。とココアの入った大きめのマグカップを両手で握り、口を開く事しか出来なかった。
相変わらずな私の姿とは反比例して奈留の姿は洗練された大人の姿になっている。
幾らするんだろう・・・と無粋な勘ぐりをしてしまうほど綺麗なコートと、その整った目鼻を更に綺麗に彩るメイクは同性の私が見ても見惚れる程に現実離れしていた。
「なんだか奈留はすごいねぇ。昔からそうだったけど、私は今でもこんな感じです。」
「そんな事ないよ。でも紡と会うと凄くホッとする。ちゃんと私にも居場所があるんだなぁって」
私がため息を吐きながらそう言うと、どこか遠くを眺めながら奈留はいつもそう言っていた。
奈留ほどの人になればきっと誰にでも愛されるし、どこに行っても上手く振舞う事が出来るのだろう。
一方私はというと普段の日常から抜け出す事もまた億劫で、何かか変わってしまう事を酷く恐れている。
でも奈留が新しい世界でどんどん輝いていくのは不思議と怖くなくて、まるで自分の事のように嬉しかった。
でも・・・こうやっていつまで奈留とこういう風にお話出来るのだろうか。それだけは恐れていたと思う。
そんな日々はすぐに流れていって、いつしかそれぞれ大学を卒業した私達は少しずつ会う頻度も減っていた。
私は今も働く小さなクリニックの医療事務に落ち着き、まるで家族のように迎えてくれた院長先生やふくよかなベテラン看護師さん、そして先輩の医療事務さんと一緒に慣れない日々を必死に過ごしていた。
人生初めての一人暮らしも何だか楽しかったと思う。それはまぁ必要に迫られてと言った所だったけど、何だか新しい世界が目の前に広がったような気がした。奈留もこんな気分だったのかな?一足遅れで街を出た私はそんな事を考えていた。
あっという間に就職してからの一年は過ぎ、二年目のお正月、実家に帰っていた私に奈留からの連絡が入った。
『あの喫茶店でまた会わない?』
絵文字も余計な文面もなく、用件だけの一見淡白なメール。
一目見て間違いなく奈留のものだと分かるそれはちっと昔と変わっていなかった。
その日は雨降りだったけど、何だか嬉しくなった私は浮き足立ったままその喫茶店へと向かった。
そのドアを開けるとそこには一足早く奈留の姿があって、私へ静かに手を振った。
かつてと変わらない姿なのに、あれっ?と私は不思議に思った。
それが何なのかは分からなくて気の所為かなとは思ったけど。
今になって思うのは風の便りとか虫の知らせとか、そんな言葉で表現される違和感だったのだろうと思う。
「久しぶり・・・元気?」
そう顔を傾け完成された笑みで奈留はそう言った。私は向かいの席に座り、はい。と返事をする。
「私もとうとう一人暮らしを始めました。お仕事も大変ですが、周りの人は家族のように暖かくて、家事は全く出来ないのでまだ練習中ですが、それでも新しい世界が見えたようで、奈留ちゃんも昔はこんな気持ちだったのかなぁって思っています。」
溢れる心が抑えきれずに一気に話す私の言葉に奈留は言葉少なく笑みを浮かべて聞いていた。疲れているのかな?私は首を少し傾ける。
「そうなんだ。紡ならきっと可愛い部屋を作ってるんだろうね。」
「私にはどうやらそういう才能は無いようで・・・殺風景な昔ながらのお部屋です。」
「はは。いつか行ってみたいなぁ。仕事が忙しくて中々、時間は取れないけどいつか行きたいなぁ。」
ぼんやりと話す奈留の瞳には辺りを泳ぐ、こんないつも暖かな記憶に満たされたこの喫茶店でありながらどこか不安なように。
「やっぱりお仕事は忙しいのですか?」
私の問いに奈留はうん。と答える。
「今日だって久々の休み。前はいつ休んだか覚えてないよー。やっぱり会社って大変だね。」
「そんなに・・・ですか?」
それで疲れているんだと思っていた。記憶の中の奈留はいつだって輝いていて、いつだって向日葵によく似ている笑顔を浮かべていた。
「うん。最近昔の事ばかり思い出すよ。ほら!昔二人で小さな犬の飼い主さんを探したじゃない?あの犬は大きくなったかなぁ。それに時間が出来たら学校にも顔を出したいね!図書館の奥から屋上に続く階段。最初に私が紡を見つけた場所!あそこも行きたいなぁ。それでね・・・また星の話を聞きたいな。」
「そうですね!時間が出来たら是非行ってみましょう!それに奈留ちゃんならきっと何が起きても大丈夫です!」
それは本心だった。学生の時からずっと見ていた奈留の煌びやかな姿。
私の何歩先も歩み続けるその姿、恐れを知らない彼女に出来ない事はないのだと。
私と違って彼女は完全無欠な凄い人なのだと。
「そんな事言わないで・・・」
ポツリと奈留はやっと聞こえるくらいの声でそう言った。
「きっと大丈夫です・・・また疲れたらここに・・・」
「紡もそんな事を言わないで!」
その声は凛と喫茶店の中に響いて、その一瞬後に静寂が辺りを流れる。
張りつめられた水瓶が床に落ちて割れるかのように激しく、そして静かに。
唖然と固まる私を見て、奈留は我に返ったかのようにハッと目を丸め、私から視線を逸らす。
「ごめん。何だか最近疲れていて、せっかくまた会えたのに。ごめんね。」
視線を激しく泳がせながら、奈留らしくもない言い訳のような言葉に私は静かに首を横に振る。言葉は心の中から出てこない。
「ごめん。あっまた次のお休みが出来たらまた会おうね!お金はここに置いておく!それじゃ・・・またね。」
奈留は私に視線を合わせないまま席を立ち、足早に店を出て行った。
取り残された私はこの情景に思考は追いつかず、何も考えないままお金を支払いそのまま傘も差さずに外に出た。
きっと自分が何か言ってはいけないことを言ったのだろう。
その所為で大切な、大切な友達を今まさに失ってしまったのだ。
そんな言葉ばかりが頭をぐるぐると廻っていた。
正直、そこからどうやって家に帰ったのかは覚えていない。
だけど、その雨の冷たさやそれが髪を伝って地面に落ちる感覚は今でも酷く覚えている。
それから今でも奈留からの連絡は無い。
他愛も無く続く私の日常からすっぽりと奈留だけが、抜け落ちてしまったのだ。

今の私なら、もしかしたらあの時の奈留に必要な言葉を掛けられたのかもしれない。
でもいくらそう思っても過去は変えられない。
その時に必要な言葉に限って。その時には自分には存在しないものなのだから。
そのかつての喫茶店があった空き地は凍り付きそうな街の隅っこで、今も私の中で凍ったままに存在している。
ふとその空き地の入り口に、赤いプラスチックのバケツが置いてあるのが目に入った。
そしてその表面には白いペンキで『LOOK at ME!』そんな言葉が書かれている。
私はそれに近付いて言葉の通りに覗き込む。
そこには薄い氷が張っていた。その身一杯に水を溜め込んだその頼りない水瓶に蓋をするかのように。
私はそれを興味本位で突いてみる。するとそれはパリパリと音を立ててそれは崩れた。
ふふ・・・何だかその儚さが可笑しくて、私は思わず笑みを零した。
さっきまで、昔の事を思い出していた時の自分はどんな表情をしていたのかは分からない。だけども今は確かに笑みを零している。
誰がこんな事を始めたのだろうねぇ。
でもお蔭様で私は少し昔の事を、昔の事を見た初夢の事を・・・少し忘れられた。
「やっぱり気が付いたか」
後ろから声がして私はぎょっと体を固める。そして恐る恐る振り向くとそこには父の姿があった。
藍色の大きめのパーカーの上に真っ黒なダウンジャケットを着込み、色あせたGパンは膝の辺りが擦り切れそうになっている。
「お父さんがやったの?」
驚いたままに私がそうたずねると、そうとも!と父は答えた。
「いやな。言い訳じゃないんだが、紡はここの喫茶店好きだったろう?音の話だけど、実はというとお父さんとお母さんが出会ったのもここなんだよな」
「そうなんだ・・・」
まさかこんな寒空の下で両親の馴れ初めを聞かされるとは・・・変な話だと私は再び笑みを零す。
「この喫茶店が無くなってしまって紡には伝えようとしたんだがどうしてもな・・・だからきっとここに来るだろうと思ってそれを仕掛けておいたんだよ。ほらこうやってバケツに氷が張ると喜んでいただろう?といっても氷にはならなかったみたいだけどな」
「そんな・・・子供の頃の話じゃん。」
「はは。親にとって子供はいつまでたっても子供だよ。まぁ今笑ってるのを見るとそれは間違いないみたいだな」
そうだね。と私は笑みを返す。なんだか初めて父と会話をしているような気分になる。
「それとなんだ・・・もう母さんには伝えたんだけどな。父さんももう定年が見えてきてさ。有志を集ってここに喫茶店・・・とまではいかないが、みんなが集まれる場所を作ろうと思うんだよ。ワークショップとかやってさ。定年した後に周りのみんなが居場所を失わないようにね。」
「はは。定年した後に喫茶店を開いて失敗するなんて、よく聞く話じゃない?」
「だよなぁ。そんな簡単な話じゃないよなぁ。会社で出世争いしている方が楽な気がするよ。」
そう言って父はがっくりと肩を落とす。私はそれに再び笑みを返す。
「そうだね。自分自身を変えようと行動する事は案外簡単だったりするよね。でもそれが誰かの為に何かを始めようとすると凄く難しくなると思う。色んな事を考えないといけないからね。」
「こればっかりはサラリーマンの悲哀だね。嫌いだった差別とか階級とかいつの間にかそんな事にも慣れてしまったけど、いざ自由にってなるとこんなにも足が重い」
「だけどそれが嫌いだった気持ちがあるのなら大丈夫じゃない?みんな平等で心地良い場所!お父さんの創ろうとするのは誰かの為だから大丈夫。最初は一人かもしれないけど、このバケツの水瓶は私を楽しい気持ちにしてくれたし。」
ふぅむ。と父は腕を組む。その表情を見て随分とシワが増えたな。と私は思う。それだけ時間が経っているという事だ。
「言葉とか堅苦しいものにはめ込まなくても心はきっと伝わるよ。それが出来るのがきっと人だから。」
・・・だから大丈夫だよ。
その言葉に父はため息を大きく吐いた。私は首を傾げる。
「なんともまぁ我が娘に諭される日が来るとはなぁ。いつまでも子供と言って悪かったよ。」
でしょ?と私は父に向かって舌を出す。でもこれが水瓶座のお話だとは伏せておく事にした。
そして今では分かる事が一つある。事実かどうかは分からないけれど、奈留もきっと何かを変えようとしたのだと思う。
誰よりも自由を望むのが彼女で、誰よりも誰かに優しいのが彼女だから。
誰かが思い留まる場所でも彼女は容易に飛び越えていく。そして賢く逞しい彼女だからこそ、きっとそれを容易く叶えてしまう。
だけど、自分に出来ない事を容易くやってのける人を認められないのもまた人だ。
心の奥底では羨ましく思ってしまうからこそ、それを認める事が出来ない。
そして賞賛の言葉を嘲笑の言葉に変えて人を評価してしまう。
自分勝手とか非常識だとかそういう言葉で。
周りの多くの期待に応えても少なからずにそんな評価を受けてしまう。
そして奈留はきっとそんなに強くない。
誰よりも優しい彼女だから、時折誰よりも弱くなってしまう。
そんな事を昔の私は知らない。
その後悔はもう取り戻す事は決して出来ないのだ。
もう・・・出来ないのだ。
「どうした?もう帰らないと母さんが心配する。もしくは自分だけ放って置かれたと拗ねる。知らないかも知れないが、母さんが一度拗ねると大変なんだ・・・」
「それは・・知らなかったな。」
だろう?と何故か父は得意気に腕を組む。
「それに・・・詳しくは聞かないが、今考えている事は良くはない。そんな表情をするくらいだからな。でも大丈夫だよ。別に明日明後日に死ぬ訳じゃないし、ミスなど後からどうとでもなる。どうとでも出来る!」
「・・・それはベテランサラリーマンからの助言?」
「おうとも!それに言葉にしなくても心は伝わるのだろう?」
だね。と私は応えて父の隣で家路に向かう。
まだ自分に何が出来るのかは分からない。
私の心から抜け落ちた奈留の姿を埋める事なんて決して出来ない。
だけども・・それでも・・・
私は空を見上げる。
まだまだ続く冬空は星を雲へと包んでしまっている。
それでも私は星を詠む。
星を詠んで・・・人を想うのだ。

第九話【星を詠む人/雨水と金魚鉢の日】

たとえ立秋を過ぎたとしても私の冬は終わらない。
街並みは少しずつ冬の色味を失って、その姿を鮮やかに染めていく。
それでも私の心の中はまだ冬空のように暗い。
それもきっとあの初夢の所為だと思う。
いやおかげでもあるのかもしれないけれど。
学生時代に出会った親友をほんの些細なやり取りで失ってしまった話。
それはきっと誰もが経験して、どこにでもあるような話かも知れない。
そんな他愛もなくも見えるそんな話が、今の私の心を支配しているのだ。
日常の中で心の奥の遠い場所で。いつしか目を背けてしまっていたそんな話は今、私の気持ちの一番浅い場所で私に声を上げ続けている。
そんな事を考えながらお仕事をしていてもやはり上手くは行かないもので・・・
「紡!あぶない!」
へっ?と私の働く小さなクリニックの先輩医療事務である山下沙耶が発した声に私は振り向いた。その瞬間服の裾が花瓶に引っかかってしまいそれはゆっくりと地面へと落ちた。
散らばる破片の真ん中には淡い黄色の蝋梅(ろうばい)が、たった一人で横たわっていた。
あぁ。私はそれを急いで拾い上げようとして、その花瓶の破片が人差し指に触れる。そしてそこからは赤い雫が静かに手のひらへと向かって流れていくのが見えた。
「もー!大丈夫?あっ!血が出ているじゃん!どうしよう!」
どこか冷静な私とは違い沙耶さんはワタワタと頭を抱えて、どこかに飛んでいくとガヤガヤとこのクリニックで働くベテラン看護師さんが颯爽と現れ、あっという間に私の右手は包帯でぐるぐると巻かれてしまった。
なんとも大げさな・・・と思いつつその包帯は暖かい。
「すみません・・・」
と力なく謝る私に沙耶さんは一度首を振る。
「まぁレセ終わりだから疲れが溜まってるんだよ。今日は半日だし・・・もう少し頑張ったらゆっくりしてね。」
普段はちょっとだけ厳しい沙耶さんはいざと言う時には本当に優しくなる。なんだか私の所為で申し訳ない。そんな事を考えながら私は辿辿しくも業務を終えて帰路に着いた。
やっぱり外の空気は冷たく、春の訪れなど延々に来ないと思ってしまうほど、風もまた強く感じた。

私は無事家に辿り着き、シャワーを浴びる。
包帯を解くともうすっかりと血は止まっていたのだけ、何と無くまだじわじわと痛みが残っているような気がした。
いつもだったら何て事ない失敗でも、なんだか今日はそれがじわじわと胸の奥底へと広がっていくような気がした。
なんだかいけない!私は髪を乾かしながらフルフルと首を横に振る。そして
私は机に座って、特別のとーても甘く淹れたココアをそこに置く。
そのチョコレートにも似た甘い香りが徐々に部屋の中に広がっていき、ちょっとだけ私は息を吐く。
視線の端には雨水色のビー玉が沢山詰まった金魚鉢が主人を失ったままに静かにそこにある。そして私は机の中から、この前実家に帰った時に持ち出してきた日記帳を目の前に広げた。
私は小さな頃から日記を書く事が趣味だった。きっかけは何だったか良く覚えていないけれど、夏休みの宿題か何かだったとは思う。
日常にあった小さな事、自分が確かに感じた思い。それを文字に起こして日記に書く事でいつまでもその素敵な事が心の中にあるような気がしたからだ。
しかしその習慣もある日を境に唐突に終わってしまっている。
それは奈留と最後に会った日の前日。そこには明日への希望と奈留に会ったら何を話そうか。そんな私の気持ちが書かれている。
そしてその日から日記はもう白紙のページを続けるばかりである。
きっと私はそこで立ち止まってしまっている。それを日記帳はありありと私に見せつけている。嫌という程に。
また新しく日記でも書こうかな?そう私は冷え始めたココアに触れてそう思う。
それで何がどうなるかは分からないけれど、それでもなんだか今は失ってしまった習慣を取り戻したくなった。
その気持ちの出処は分からない。でもこういう時にはそんな感情にも身を任せる事が大切という事は今の私は知っている。
新しい日記帳買わなくちゃな・・・
動きの鈍くなってきた頭の中で私は、よたよたと歯磨きをした後でベッドへ向かいながらそう考える。
なんだか今日は酷く疲れてしまった・・・・
体は鉛のように重くすぐに私は眠りに落ちた。

次の日、いつもより早起きをした私は少しだけ厚着をして外へと出る。
風はまだ冷たいけれど、日の光は優しい暖かさで辺りを照らしている。
こんな日もあるんだねぇ。私はポケットにお財布を入れたまま街へふらりと足を踏み出した。
季節の移り変わりは不思議なもので私が暮らすこの街を、その時々で様々な姿を見せてくれる。そんな時に限っていつもと違う道を歩きたくなるのも、きっとその所為だ。
あれ?こんな通りがあったかな?ふと視線に入るのはいつもなら何気なく通り過ぎていた住宅街の一角にあった。
人が二人入ったら進めなくなってしまうだろうその路地には、猫さんの集団が何やら会議しているようだった。
猫!飼い猫なのか、もふもふとして毛並みの良いその集団に私はふらふらと誘われながらその路地に入る。
猫さん達はそれに気が付いたのかゆったりとした足取りでそこから姿を消した。残念・・・だけども私はその足を止めずにその路地の奥へと進む。
そして少し開けた場所に出ると古びた家屋が目に入った。
ガラスの開き戸は燻でいて中の様子を伺う事は出来ない。
少し草臥れて見えるその外観は、セピア色の写真の中に収められていそうな懐かしい感じがした。磨かれた自動販売機の横には青色・・・だったと思われる藍色に近いベンチがある。
なんだか昔ながらの駄菓子屋さんみたいだ。まだお店やってるのかな?
ワクワクとしてきた心を抑えながら私はその店へと近付くと、ガラガラと音を立ててそのガラス戸が開いた。
そこからは茶色の和装にベンチの色によく似た藍色と白いボーダーの帯を巻いた男性が姿ゆったりと姿を現した。頭には白い手拭いが巻かれていて、なんともこの店に合わせてあつらえたような姿をしている。
その男性は佇む私が視界に入ると大きく私に向かって手を振った。
どこかで会った事があるかな?私は後ろに手を組んだままに首を傾げる。
「おー!宮原じゃないか!覚えてるか?しっかしお前もこの街に住んでたんだなー!知らなかったよ。よく今まで出会わなかったな!」
そう口早に語る男性はツカツカと私の方へ、カタカタと下駄を鳴らして近付いてきて私はぎょっと体を固める。
ようやくその表情がしっかりと見えてきた所で、恥ずかしながら私はその男性が誰なのかがようやく分かった。
それは高校の時、奈留と同じクラスで勉強をしていた時に、現代文を教えていた先生だった。女子校なのにも関わらずその整った風貌と誰にでも気安く話しかける優しさでとても人気だったのは覚えている。
それに新任だったからおじいちゃん先生ばかりいる私の高校ではよく目立った。
そして少しおっちょこちょいで忘れ物なんかもしていたから、周りからは憧れの人というよりもどこかマスコットのように扱われていたのをよく覚えている。
そんな生徒に慕われる先生はいつもスーツ姿だったから、誰も今のような姿をしているなんて誰だった思わないだろう。
「先生・・・ですか?」
おずおずとそう話しかける私に向かって先生は、はっはと腰に手を当て笑って見せた。その顔は学生時代に見たその表情とはなんとも変わっていないようにも見えた。
「先生・・・なんて久しぶりに言われたなぁ!今はこの古書店『灯篭古書店』の主人の桜井さんだよ!」
駄菓子屋さんでは無かったか・・・再び私はその古書店を眺めてみると、屋根には燻み、文字が見え難くなってしまっている看板が見えた。確かに灯篭古書店・・・と読めなくもない。
「まぁ立ち話もなんだ、店に入ってちょっと話さないか?なんならついでに何かご購入になっても構わないよ。もう学生じゃないから営業かけても問題ないだろうしなぁ。」
「そうですね。でもせんせ・・・桜井さんが先生を辞めたのは少しガッカリです。あんなにみんなに人気があったのに」
「まぁ生きてりゃ何かしらあるからなぁ。まぁ教職も好きだったけれど、今はこれでも悠々自適に暮らしているよ。豊かではないけどな。」
そうなんですね。と答えつつ私は桜井さんに続いて、燻んだガラス戸の中へと足を踏み入れる。店内は思ったよりも・・・と言ったら失礼だけど綺麗でどこか埃の心地良い匂いが漂っている。店先には古書だけではなく新刊の単行本や手帳、日記帳と並んでいる。ちゃんとお店をやっているものだと何だか私は感心してしまった。
店の奥にはレジスターの奥に小さな座敷とちゃぶ台が並び、その中央には菓子入れに袋に入ったクッキーやグミが置かれている。
まるでおばあちゃんの家だ。そう思いつつ案内されるままにその座敷に座ると、程なくして湯飲みに淹れられたお茶が目の前に運ばれた。
「いやぁすまんな!ここは近所の高齢な方々の憩いの場になっててな。まぁお陰で俺も暮らしていけるようなもんだ。貸本なんてもやってるし時代錯誤も良いものだなぁ。」
「いいえ。本当に素敵な事だと思います。」
それは本心だった。昔の先生も誰にだって優しかったし、クラスで目立っていなくても全員の名前や、ふと話した他愛もない会話もずっと覚えていてくれた。
だから私みたいな人見知りの生徒でも気軽に何でも話す事が出来たのを思い出した。
「先生はなぜこのお店をやろうと思ったのですか?」
「まぁ最初は俺のじいさんがやっていた店なんだけどな、隠居するっていうんでそれを引き継いだ訳だよ。だってほら、こんな店を潰しちゃうなんて勿体ないだろう。それはもう文学少年の夢の果てみたいな場所だからな。」
「確かに・・・何と無くそれは分かります。」
だろ?と桜井さんは膝を叩いて愉快そうに笑っている。その姿は先生をやっていた時よりもとっても明るいようにも見えた。
実は教職の間には先生も苦労していたのかもしれない。歴史の長い学校で生徒と距離の近い先生だったから言葉に出来ない苦労もあったのかなぁ。と今の私はそう思える。
「そういえばあの子は元気にしているか?柏木奈留!クラスの人気者!」
その言葉に私は言葉を飲み込む。そして私は胸の奥底がぎゅっと縮んでしまうのを感じた。奈留なら大丈夫。そんな昔は思っていた言葉も今では失われてしまっている。それに桜井さんの言葉で気が付いた事もある。
私はあの日の事ばかりを考えてしまっていて、今の奈留が元気にしているか。
そんな事まで考えが及ばなかった。どんな生活をしているのだろうか。そんな当たり前の事も。本当に私は自分の事ばかりだ・・・そんな言葉が頭の中をグルグルと回る。
「宮原・・・まぁあれだ!逆境が人に与える教訓ほど麗しいものはない。ってやつだな。これはシェイクスピアで『お気に召すまま』の第二幕第一場かね。」
桜井さんは右手を上げてそう言葉にする。何の事だろう?私は首を傾げる。
「それにこうかな?常に良い目的を見失わずに努力を続ける限り、最後には必ず救われる。これはゲーテの『ファウスト』だな。まぁちょっと皮肉な部分もあるが、今は丁度良い。」
あぁ。私は分かった。桜井さんは先生の頃もこうだった。授業の中で人生について語る事は出来ないけれど、せめて一歩踏み出せるように何か言葉を伝えるよ。そんな事を言っていた。その言葉もまた今の今まで忘れていた。
「あとはそうだな・・・のんきと見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。これは夏目漱石の『我輩は猫である』だな。知ってるか?この路地には猫が本当に多いんだ。猫アレルギーの俺としては悲しい事だが遠目に見てると可愛く見えるよ。」
そうですね。と私は再び笑みを浮かべる。すっかりと心は軽い。
そして奈留の姿を思い浮かべながら、あぁきっとそうだったんだなとも思う。
「何だか先生の言葉は分かりやすいようで解りにくいですね。でもありがとうございます。」
「だからもう先生では無いって。まぁだけども人生の先輩としてはまぁ、何とも成らない事は何とかしようとしない限りは何とも成らない。って事かな。この出典は俺だよ。著作は・・・いずれ書くさ。」
「その著作をいつか楽しみにしてますね。」
「おう。出版は宮原の老後の楽しみに取っておいてくれ。」
はい。と私は返事をする。
きっと桜井さんはこれ以上深く聞かないだろう。もう私達は先生の生徒ではないのだから。だけどもその事実はいつまでも変わらない。
それは奈留だって私だって同じだ。今がどうであろうと昔に過ごした日々は決して失われるものではない。
その思い出は今よりもずっと私の心を軽くしてくれる。奈留の心にも目を向けられる。私の心から見る奈留だけではなく、奈留自身の心に。
「いつもの表情になったなあ。まぁあれだ。お礼はいいから売り上げに貢献してくれても良いぞ?」
「それなら・・・星座占いに関する本はありますか?」
ん?ちょっと待ってろ。と桜井さんは席を立つ。そして程なく何冊かの本を持ってくると私の前に広げた。
そしてその一つに私は手を触れる。それは初めて奈留と出会った時に読んでいた学校の図書館の本。書店で見かけてもそれには手を触れられずにいた本だ。
今までは。
「これを貰えますか?」
「おぉ!本日最初の売り上げだな!助かるよ・・・ほんと・・・」
何だか苦労してるなぁ・・・と背中を丸めてレジスターを打つ桜井さんの姿を眺めながら私はそう思う。きっと誰でもそうなのだ。誰もが一歩踏み出すだけでも多くの想いをその胸の中に秘めている。本当に答えはいつだって単純だ。
そしてその答えから目を背けてしまっているのもまた単純な理由なのだ。
桜井さんは大切そうにその本を紙袋に入れると私に手渡し、私は丁寧にお礼を言って店を出る。またここには来たいな。そんな事を思いながら。
そして私は店先に並んだ日記帳からは目を逸らす。まだ昔に買った日記帳には続きがあるから、その続きに日記は書こう。そう思った。
「何だか。今日はありがとうございました。先生に会えてよかったです。」
「おぅ!まぁ人生なんてこんなもんだ。必要な時に必要な人や本に出逢うもんだと俺は思うよ。」
はい。と私はそう答える。そして最後に・・・と桜井さんは言葉を続ける。
「もう先生ではないが、今日の最後に先生らしく・・・知識を授けてくれるのは経験だ。そしてその経験は、アンタがこの世で生きていけばいくほど手に入る。だな。これはライマン・フランク・ボームの『オズの魔法使い』。劇場版のセリフだったかな?本来は脳みそのないカカシへのセリフだが、君はカカシでも無いし思慮も深い。あとは経験だけだよ。まぁ・・・あとちょっと格好付けてみた。」
「ふふふ。了解致しました。」
私は桜井さんにそう返し、踵を返す。星座の本を大切に両手に抱えて。
今後ともご贔屓に!そんな桜井さんの言葉を背中で聞きながら私はその日記の続きに言葉を紡ぐ為に、帰路を急いだ。

まだまだ日は短くて、家の中は少し薄暗い。玄関から部屋へと入り電気を点ける。それに照らされた金魚鉢の中の薄青いビー玉が冷たく灯りを反射する。
私へデスクに座り、そのビー玉を撫でる。
窮屈そうに身を寄せ合うその温度は酷く冷たかった。
人の想いはまるで水のようだと私は思う。
それは時には、せせらぐ川みたいに綺麗で、時には流れを止めた水辺のように淀んでいる。
そして水も人の想いもただただ流れる事はなくて、それはいつだって何かに注がれている。山間に降り注いだ雨がいつかは川となり、海へと注がれるのだって同じだし、私の目の前にある金魚鉢だって同じことだ。
もし人の心が無限に広がる海原であるのなら良いけれど、人の心はそんなにも広くない。綺麗な想いも淀んだ想いも注がれ続けてしまったら、いつしか溢れてしまう。溢れなくても綺麗な想いはいつか淀み、淀んだ想いはさらに色味を落としてしまう。
それでもそこに住む魚さんは全てを包み込んでしまう。不器用な程に誠実な魚さんは少しでもその水を綺麗なままで保とうと、心配性で臆病な自分を隠しながら精一杯頑張ってしまう。
それは君も同じだったんだね。と私は続きの途絶えた昔の日記帳を開く。
でも当然その努力は裏切られることもある。
淀み切った水をその身一杯に浴びてしまい、どうにもならない自分や他人に深く傷付いてしまうこともある。
そして私の大切な人は、その淀んだ金魚鉢で息をする事が出来なくなってしまった。どこにも行く事はなく、そして唯一の逃げ場も閉ざされてしまって。
君は今まで何でも包んでくれていたんだね。
私はペンを取り、ペン先でその日記帳に触れる。
だけどもう大丈夫だよ。きっと君はもう自分の住む場所を選べるから。
たった一匹の魚さんではなくて、たった二匹の魚さんでならその淀んだ場所を綺麗に出来るかもしれないし、優しい想いがたくさん流れ込む場所で、一緒にその尾ひれを振る事が出来るのだから。
私はあの日から日々を途絶えた日記帳へと言葉を紡ぐ。それは確かに私の言葉だ。
『あの時私は星空を眺めるばかりで、今の私みたいに君に必要な言葉を持っていなかったんだよ。自分の事ばかり考えていたと思う。君の事だって自分の中に映った君の事しか考えられていなかった。君の想いとか目に見えないものに少しでも触れようとしていれば良かった。だから私は・・・私自身の事が嫌いだ。今ではもう取り返しはつかないかもしれないけれど、だから・・・だからこそ・・・私は星を詠む。星を詠んで・・・星を詠んで!人を想いたいのだ』

第十話【星を詠む人/里桜と押し花の日】

桜の見頃を過ぎてしまうと、街を歩く人はちょっとだけ減ってしまう。
私は少し遠出して、学生の頃に歩いていた通学路を再び歩く。
学校へと導くその街路樹には、里桜がホワホワと空に浮いているかのように気持ち良く風に揺れている。
「何だか羊の群れが空に浮かんでいるみたいだね。」
かつてその道を一緒に歩いていた柏木奈留(かしわぎ なる)は今にも空に浮かびそうな声色でそう言っていた。その感性がなんだが可笑しくてその隣で私もクスクスと笑う。
今では失われてしまったその他愛もない会話を私は何だか思い出した。
その頃の私達はいつだって未来の話をしていた。
大人になったらどうするかとか、今度一緒にどこに行こうかだとか、そんな話。
でも、私達の未来はまだそこには到達していなくて、私もきっと奈留も昔のままで、足踏みをしている。
その通学路を横道に逸れて、私は小さなお家へと辿り着く。
そこは学校の帰りに奈留が教えてくれた、奈留の住んでいた家。一度も行ったことはなかったし、奈留と別れてしまってからはそこに行こうだなんて一度も考えることなんて無かった。
きっと私は怖かったんだね。今でははっきりとそう分かる。
いつでも自分の気持ちや頭の中がすぐに分かるようになればと私は思う。
一番素直な自分の気持ちに限ってそこの奥底で隠れていて、そこにしっかりと目を向けない限りはいつまで経っても姿を表すことなんてないのだ。
それはきっと誰だって一緒。ゆっくりとしか前に進むことしか出来ない私にとっては特にそうなのだ。
私は大きく息を吸い込んで、そのインターホンを鳴らす。もし奈留が出てきたら・・・それはそれで良いのかもしれないけれどその先の事は考えていない。
もしかしたら本当に嫌われていて、私の顔を見るなりそのドアは閉じられてしまうのかもしれない。だけども、今のままでは私はきっとどこにも行けない。
目の前のドアがゆっくりと開かれて私は一度大きく息を飲む。
しかしそこから現れたのは奈留の姿ではなく、小さなお婆ちゃんであった。
そのお婆ちゃんは一度不思議そうに首を傾げると、アッと息を飲んで途端に笑顔になった。
「おや!もしかして紡ちゃんかい?」
うへっ?そんな事など想像もしていなかった私は固まったままにハイと答える。
その身を包むほどの大きな花柄のエプロンに包まれたそのお婆ちゃんは、やっぱり!とコロコロと笑みを浮かべる。その笑顔はどこか奈留に似ていて、綺麗な白髪は太陽の光を反射して銀色にも見える。短く整えられたその髪は風に僅かに揺れていて、笑顔によって刻まれたその顔の皺が何だか私にはとても綺麗に見えた。
「あの・・・奈留ちゃんは・・・?」
私のその問いにお婆ちゃんは少しだけ顔を曇らせ私の心の中はきゅっと縮んでしまう。
「奈留は今入院しているの。ちょっと前までは元気になって帰ってきてたけど、また体調を崩しちゃってね。大丈夫よ。またきっと帰ってくるから。」
そうですか・・・と私は目を伏せる。やっぱり私の歩む速度は遅い。きっとずっと前にこうやって奈留の家を訪ねるべきだったのだ。
言葉を心から出す事の出来ない私に奈留のお婆ちゃんは、こっちにおいでと手招きをする。
「まぁ立ち話もなんだから、こちらにいらっしゃい。奈留ちゃんから紡ちゃんのお話はたくさん聞いていたから、それで初めて会ってもすぐに紡ちゃんだって分かったわ。写真だって見せてもらったしね。」
そうですか。と私は答えつつ何だか心が軽くなるのを感じた。奈留ちゃんが私の事を覚えていてくれた、そして決して嫌われている訳でも無いのかもしれない。
やはり私の歩む速度は遅い。遅すぎるのだ。
私は奈留のお婆ちゃんに導かれるままにその家に入る。玄関の中ではどこかで甘辛く煮られる煮物のような、何だか懐かしい匂いがした。

居間に通されて茶色で端っこが僅かに削れた小さなテーブルに私は奈留のお婆ちゃんと向かい合う。私の足が乗る座布団はフワフワとしていて、まるで羊の毛皮みたいだと私は思った。そして向かい合う奈留のお婆ちゃんはふふふと、幸せそうに私へと笑みを向ける。
「何だか紡ちゃんをこうやって見ていると、本当に奈留ちゃんのお話の通りだなって。ごめんね。」
「いえいえ。奈留ちゃんは・・・どんなお話をされたのですか?」
「それは沢山あるわよ!一緒に子犬の飼い主を見つけに行ったとか、美味しいお菓子を一緒に食べたとか。星座の話を聞かせてくれたとか。それでね。紡が羨ましいっていつも言ってたのよ。」
「私が・・ですか?」
それは本当に意外であった。学生時代の柏木奈留といえば、クラスのスターであり、誰からも愛されていた。その時は何も知らない私は彼女が誰よりも幸せだったと思っていた。
「そうそう!ちゃんと自分に正直で自分に必要なものをちゃんと選べる人だって。誰からの言葉にも惑わされずにね。誰よりも自分に正直だって。」
「それはきっと・・・奈留ちゃんみたいに、誰からも期待されずに育ったからかもしれませんね。」
「そうね。そうかも知れないわ。奈留には両親がいないからいつも私がしっかりしなきゃって言ってた。いつだって頑張り過ぎてしまうのね。小さい頃なんて、台所でこんなお婆ちゃんの代わりに料理を作ろうとしてね・・・危うく大火事になる所だったわ・・・」
「それは・・・何だか想像が付きます。」
でしょ?ととコロコロと表情を変えながら話す奈留のお婆ちゃんの口ぶりに、私は思わず笑みを零す。
「いつだって頑張り屋さんだから、学校の成績も良かったけどねぇ。器用では無かったからいつだって無理をして。自分に期待をしてくれる人よりも、自分の身を案じてくれる人の方が大切なのに。そればっかりはお婆ちゃんの言う事は聞いてくれなかったわ。一度決めた事は曲げられない不器用な子だから。きっと期待を裏切ってしまうのが怖かったのね。」
「それも・・・分かります。」
うん。と奈留のお婆ちゃんは一度頷く。その意図は分からない。だけど以前の私は奈留に期待を向けてしまう人の一人だったのだ。歩みの遅い私はいつだってその時に必要な事は、ずっと後になってから知ってしまうのだ。
多分、私はもっと奈留の話を聞くべきだったのだ。未来の話ではなく今までの奈留の話を。だって目の前にいるその人は決して物語の登場人物ではなく一人の人なのだから。
「やっぱり紡ちゃんは奈留ちゃんのお話の通りにいい子だね。あの子とお友達になってくれてありがとう。忙しいのにごめんね。こんなお婆ちゃんのお話相手になってくれちゃって。」
「いえいえそんな。もっとお話を聞きたいくらいです。」
「あらやだ。なら私の生い立ちから話そうかしら?でもそれでは紡ちゃんがお婆ちゃんになってしまうわね。」
それは・・・困るな。と私は苦笑する。こんなにも自分に目を向けてくれる人が居ても、前へ前へと人よりも早い速度で進んでしまうとそれは視界の端へと消えてしまう。射られた矢のように飛んで行ってしまう奈留はきっとそれが見えなくなってしまったのだ。でも今は私と同じようにその場で足踏みを踏んでいる。きっと何処にも向かえないままに。だからこそ見える景色もあるのだ。
それは歩みの遅い私だからこそ分かる事かもしれない。
「ねぇ。奈留ちゃんが退院したらまた一緒にお話しましょう。お夕飯も一緒にね!奈留じゃなくてお婆ちゃんのとっておきを作ってあげる。奈留は・・・料理がちょっと独特だから・・・」
そうなのだと私は目を丸める。確かに奈留は器用なようで不器用な所も多い。裁縫なんて玉留めが上手く出来ずにこっそりと私が手伝っていたのを思い出した。
誰にでも苦手な事はある。でも必ずしもそれは欠点ではないのだ。
「ありがとうございます。その時は私がお手伝いしますね。」
「あらあら孫が二人に増えたみたいで嬉しいわ!ありがとうね。」
奈留のお婆ちゃんは何度もありがとう。と言いながら奈留の家を出て私が見えなくなるまで手を振っていた。
いつだって物事は単純な事なのに、なんでそれが一番難しいんだろうと私は思う。
私は再び街路樹の中を歩きながら、小さな奈留が悪戦苦闘しながらも必死に料理を作りながら失敗してしまう姿を思い浮かべてみた。
でもそれは決して失敗ではなくて、そもそも物事には上手くいかずとも失敗なんてないのだ。何だか私はそう思った。

奈留の家から帰り道、私は里桜の並木道をバス停へと向かう。
何だか空がとても高く見えて、散り散りに流れる雲はゆっくりとした速度で風の向かう方向へと流れている。
ふと私がバス停の目の前にある青いベンチに視線を戻すと、そこに誰かが仰向けで倒れているのが見えた。
私はぎょっとしてその人の下へとパタパタと向かう。黒いスーツ姿の男性は小柄で中性的な顔立ちがすごく幼く見せている。蒲公英の色にも見える優しい色をした金髪はツンツンと形を崩さず伸びていた。
死んでないよね・・・私は恐る恐る顔をその場にしゃがみ込んで顔を覗き込んでみる。少し膨らんだ胸は僅かに上下していて、なんだ寝ているだけかと私はホッと胸を撫で下ろす。
しかしとっても格好の良い女の人だなぁと私がその寝顔を覗き込んでいると、バッとその人はその身を起こし、私は更に体を固める。
その人は起き上がり、パッチリとした二重の丸い目で私を不思議そうに眺め、思い出したように両手を広げる。
「ようこそ!紳士淑女の皆様!今日は僕と一緒に楽しもうじゃないか!」
そのセリフに私は言葉を返せないまま、口を僅かに開けたままに視線を返す。その人は大きな瞳を更に丸め、辺りを見渡すと頭を描きつつ項垂れる。
「あーしまった・・・寝ぼけてる。ごめんね。大丈夫だから。」
その人はそう話した後、う・・・っと一度息を呑み、
「吐きそう・・・」
そんな事を言うものだから、うぇぇと奇声を上げて、その人を連れて近くのコンビニへと急いだ。

「いやぁ悪いね!でもすっきりした!」
コンビニで胃薬やスポーツドリンクをしこたま買い込んで、私達はコンビニの前にあるベンチへと腰を下ろす。私は何が何やら分からないままに買ってもらったカフェラテを両手で包んで口へと運ぶ。
「あの・・・大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫!しっかしお姉さんも人が良いね!普通なら通り過ぎるでしょ?」
そうですか・・とすっかり元気を取り戻したその人は愉快に足をバタバタとさせながら私の顔を覗き込む。
「僕は桐(きり)って言うんだよ。まぁ女性なんだけど心の中は男でさ。ややこしいでしょ?でもまぁそんな感じ。」
どこか私を試すように桐は笑みを浮かべたまま私の表情を覗いている。なるほどそういう事かぁと思いつつも、まぁ別にだからと言って・・・と特に気にはならなかった。そればっかりはゆったりとした私の性格であるから仕方がない。
「そうなんですね。でもなんであんな所で寝てたんですか?」
その質問に桐は一度目を丸めると、その目が緩やかに弧を描いていく。
「何だかお姉さん面白いね。いやぁ普段は美容師をしていて、まだ新人だからそれだけでは食べていけなくてね。夜はこんなバイトしてんの!中性的なイケメンは今も変わらず需要は高いからね!」
確かにそうだと私は思う。まるで少女漫画から抜け出してきたかのような顔立ちは、沙耶さんやクリニックのベテラン看護師さんは多分大好きだろうと思う。そして私はみんながテレビを眺めつつ歓声を上げる普段の会話を私は思い出す。
「それでバイト先で僕の誕生会をやってくれてさ!それでさっきまで呑んでた!そしてバスを待っている間に寝ちゃった!いやぁ持ち物が無くなってないのはお姉さんが介抱してくれたからだね!」
それはどうも・・・とお礼を言われ慣れていない私は、身を屈めつつ会釈を返す。
「なら、桐さんは牡羊座なんですね。」
ふと私の心から漏れ出た言葉に桐は一度首を傾げる。
「お姉さん星座とか詳しいの?かっこいい!」
「格好良くはないですけど、まぁそんな感じです。」
「ふぅん!すごいと思うけどなぁ!少なくとも僕の周りにはそういう人は居ないし、誰かと違うって事は素直にすごいと思う。まぁ僕がそういうのはあれだけど。」
誰かと違うという事は確かに怖いと思う。だからこそ人は誰かと一緒にしか生きてはいけない。だからこそ誰かの期待に応えなければいけない。誰かと逸れてしまわないように。群れの中で生きるために。
きっと奈留もそうで、そして私もまたそれは同じだ。私が俯きつつもそんな事を考えていると桐は更に身を屈めて私の顔を覗き込む。
「ははーん。鈍感な僕にも分かるけど、お姉さん何か悩んでる?なんか話してみたら?僕そういう事は得意だし、それに見知らぬ他人の方が時には役に立つ事もあるよ?」
そういうものなのかなと私は思う。だけども奈留への想いは、今私の心の一番表面に浮かんでいて、自然とそれは口から言葉となって出てくる。
「昔、とっても仲が良い友達が居て、その子は誰からも愛されていて幸せいっぱいだと思ってました。そして私はその人がまるで物語の中から出てきたようなヒーローのように思えて、みんなと一緒にその人に期待を向けていました。だけどその人は決してヒーローなんかじゃなくて、一人の弱い人間で、誰よりも優しくて不器用な人でした。」
ふむふむ。と桐は口元に手を当て、足を組んで聞いている。なんで見知らぬ人にそんな事を話せてしまうのか、それが私には分からなかった。
「その人はみんなの期待に応えようとして、私の期待にも応えようとしてたくさん頑張って、そして今では何も出来なくなってしまいました。その人が望んだのは私の他愛もない話だったし、私の語る星座の話でした。そんな事に気が付かないまま私は私の事しか考えられなくて、その人の身を案じる事すら出来ませんでした。その人と会えなくなって、でも会いたくて、それでも何をして良いか分からなくて、そんな自分の言葉が信用できないんです。星座を詠む事が出来ても、その星座の話が出来ても、その人自身の星座を上手く語る事が出来ない。それが今の私です。」
語り終わった後、しばらくの沈黙が流れる。それでも確かに私の本心だ。後悔とも言えるそれは言葉にすると心の中にある時よりも単純に思える。
思えるのだけど、人を縛る問題なんて他人からしたら全て単純な問題なのかもしれない。だけどもそれは当人にとっては自分を縛る難題であるのだ。
桐はしばらく悩んだ後、ポケットから細い紙巻きタバコを取り出し、火を着ける。タバコを挟むその指には銀色の指輪が細く巻かれていた。
「なるほどねぇ。じゃぁ僕の星座を詠んでよ。牡羊座の話ではなくて、牡羊座の僕の星座を詠んでみて。」
「えっ!?でも私は桐さんの事はまだ何も知らなくて・・・」
「そう?なら話すよー!僕が周りのみんなと違うと感じたのは小学校の頃かなぁー。ほら制服ってあるでしょ?男女がしっかりと分けられて自分は女だ!って世間から決定付けられるようなやつ。それがどうしても嫌でさ。ランドセルだって赤色じゃん?今はそうでもないけど!だから僕は頑なに私服で通ってた。誰から何と言われようとも絶対に。だってそれが僕なんだから。」
周りからすっごい怒られたよーと桐さんはケラケラと笑って見せた。だけどもその視線は高い空の遥か遠くを見ている。
「でもね。そこで負けちゃダメだと思った。だってみんなと同じでも同じじゃない訳じゃん?そしてそれは僕だけじゃなくて、少なくても世界には沢山居て、ここで負けたら何も変わらないって思った。我ながらに格好良いよね。」
はい。と私は答える。誰かと違うという事を認め、そして前に踏み出せる。私にはないそれが今はすごく羨ましかった。
「だから僕の青春時代は散々たるものだったよ。友達なんて誰もいないし、両親も高校を出てから会ってもない。嫌われてたからね。そして今はこんなバイトをしながら改めて何にも世界は変わらないなぁって思う。僕と同じ人たちからもやり過ぎだって言われる。ねぇ。こんな僕はどうしたら良い?」
桐さんは語り終わり私の顔を見る。瞳の奥底を覗き込むように。
だけど上手く私の心から言葉が出てこない。
口を開け閉めする私に向かって桐さんは笑みを浮かべる。
「まぁこんな僕が言うのもなんだけど、失敗なんてものはないよ。上手くいかない事があるだけ。だから大丈夫。」
その言葉は確かに今日の私に浮かんだ言葉だ。高鳴る胸を押さえながら私はすっと息を吸い込む。
「そうですね。羊は・・・人とも言い換えて良いのですが、群れから離れると生きてはいけません。群れから離れるという事は孤立するという事であって、何よりもそれを不安に感じてしまいます。」
おぉー辛辣だね。と桐さんは楽しそうに笑い声をあげる。その声を聞きながら私は続ける。
「でも羊も人もずっとその場所に居る事は出来ません。食べる餌もいつかは無くなり、どこかに向かう事が必要です。なので群れの中の誰かが一歩前に進む必要があります。群れでしか生きられない羊は一歩踏み出した羊の事を衝動的で無鉄砲だとか無茶だとか、群れに留めようとする言葉を投げる事もあるでしょう。それを認めてしまうと、群れでしか生きられない自分を否定してしまう事になってしまいますから。」
桐さんは黙って聞いている。チリチリと紙巻きタバコは少しずつ短くなっていく。
「でもその一歩前に踏み出す事の出来る羊さんは、いつだって自分の事も誰かの事も大切にします。そして力強く大胆に、その幼さにも似た純粋な想いで前へと進むのです。道のりは厳しいかもしれません。だけどその先に見える景色はきっと・・・途方もない可能性という名の世界が広がっているのだと思います。群れの中では決して見る事の出来ない世界がきっと・・・」
語り終えた私はホッと息を吐く。上手く出来ただろうか。そんな事ばかりが頭の中を巡る。だけどもこれは牡羊座の話ではあるけれど、桐さんの話を聞いて、彼に伝えたい言葉でもある。桐さんは口を開けたままタバコを握っているのも忘れ私の顔を見ていた。そして燃え尽きたタバコの火が人差し指に触れ、あっつ!とタバコを地面に落とした。
「ごめん!聞き入ってた!でもすごいじゃん!すごいというか・・・なんかありがとう。」
ふふ。と桐さんは笑い、困惑したまま私は頭を下げる。胸はまだ高鳴りを止めずに呼吸は荒い。桐さんは目の前を歩く雑踏を眺めながら大きく伸びをした。
「そっか。まだ前に進んで良いんだなぁ。ふふふ。今に見てろよ羊さん!私は勝手に新しい場所を作ってやるからな。」
どこか演技のようにそう語り、桐さんは立ち上がる。
「なんか良い出会いだったなぁ。こういう事があるから人生はまだ分からないよね。」
「はい。確かにそう思います。」
こうやって言葉を紡ぐんだな。私はそんな事を考える。
「そういやお姉さんの名前聞いてなかったね!なんていうの?もしお店開くんだったら遊びに行くよ!」
「お店を開くなんて・・・私は宮原 紡(みやはら つむぐ)と言います。」
「おー!良い名前だね!紡・・・つむぐ・・・むぐむぐ・・・何だか可愛い響きだ!」
「それは私も思います。」
でしょ?と桐さんは体を反らせて大きく息を吸い込む。
「今度、うちに髪を切りに来なよ。といっても新人の私は指名できないから、そうだな・・・お嬢さん。僕のカットモデルになってくれませんか?」
桐さんは振り向きながら恭しくお辞儀をしながら右手を差し出す。
「はい。その時は喜んで!」
私は笑みを浮かべたままにそう返す。本当に少女漫画から抜け出して来たみたいだと思う。
またねー!と言いながら桐さんは雑踏の中へと足を進めた。羊の群れの中で確かに自分の足をしっかりと地に着けて、周り誰よりも軽やかに前へ前へと進んでいた。
私はしばらくぼぉっとした後に、立ち上がり前へと向かう。
帰り道でふと足元に落ちる里桜を手に取ってみた。確かにそれは羊毛にも見えてふわふわとしている。
しかし羊さんもふわふわとして毛皮のくせにやるものじゃないか!
そんな事を考えながら、押し花にするにはどこか弱々しいそれを携えて、私は羊の群れにも似た里桜の並木道を私は進む。
ちょっとだけ、たった一歩だけ前に進むために。
今ではこんなにも君に伝えたい言葉や想い、そして星座の話が胸の中に溢れている。
星はいつだって、目を向けさえすれば私と一緒に在るのだから。
そうして私は星を詠む。
星を詠んで人を想うのだ。

第十一話【星を詠む人/緑風と手紙の日】

風薫る五月、とはよく言ったもので、それが近付く頃には風は緑の匂いをその身に纏う。
そんな風の中、私はいつものように職場へと向かう。
空にはふっくらと大きな雲がゆっくりとその身を膨らませていた。
「おねーちゃーん!お姉ちゃんは今からお仕事?」
職場に向かい街中を歩いていると、ちょっとだけ息を切らした少女が私の隣に並ぶ。
「うん!そうだよ。今日は何だか気持ちが良いね。」
うん!と答えた後、少女は真っ赤なランドセルのベルトを確かに両手で握り、不思議そうな表情を浮かべながら首を傾げる。
「何だかお姉ちゃん・・・変わった?」
その問いに私はさぁねぇと答える。そしてその少女の周りにはいつしか同じくらいの小さな少女達が集まり、少女はその中で笑顔のままに、ばいばーい!と大きく手を振りながら視界の奥へと消えていった。
それに手を振り返しながら私は彼女と出会ってからもう一年経つのだなと思う。
彼女は移り住んで間もないこの街で一人ぼっちだった。
それでも頑なに自分の大切なものを心の中に秘め、赤いランドセルをまるで蟹の甲羅のように背中に背負ってじっと前を見つめていた。
そんな彼女に私は蟹座のお話をしてあげたのだ。奇しくも彼女も蟹座であったのは驚きだったけど、梅雨の晴れ間には往々にしてそういう事が起きるものなのだ。
それはまさに梅雨の蟹の日であった。
自分に取って大切なものをしっかりとその固い甲羅で守りながら、時にはその大切なものを守る為にその大きな鋏を振るう蟹さん。
ちょっとだけ不器用だけど誰よりも優しいその蟹さん。
あの悲しい表情をした蟹さんは思い出すことが出来ないくらいに、今は軽やかに駆けている。
きっと君はもう大丈夫だね。と私は振り終えた手を下ろす。
そしてしばらく歩くと今度はライオンさんのお店にへと通り掛る。
ここにはライオンさんと呼ばれるBARのマスターさんが居て、昼間はカフェも開いている。こんな朝早くにも関わらずライオンさんは店の前に水を撒き、眠たそうにあくびをしている。
「おー!紡ちゃんじゃないか。こんな朝早くに偉いねー。お出かけ?」
いつものロマンスグレーを体現するその見た目とは裏腹に、仕事終わりで寝ていないのか真っ白なシャツの裾にはシワが寄っている。
「今日はお仕事ですよ。今は通勤中です。」
「そうかい。こんな仕事をしていると日時の感覚が変になっていかんな。」
ライオンさんはそう困ったように笑った。
「シゲさんもお元気にしていますか?」
「あーアイツはいつでも元気だよ。今度娘さんとお出かけするんだってさ。デートだデートだとはしゃいでいたが、それで嫌われないかと心配しているよ。」
はっは。と笑うライオンさんもまた何だか嬉しそうだなと私は思う。
とある休日に見つけたこの場所で私はちょっとだけ大人な時間を過ごした。
自分の理想の為に何処までもカッコよく、その身を立てるライオンさんはみんなと同じように弱かったりする。それでも自分の描いた理想の為に雄々しく足を踏み出せるのもまたライオンさんだ。高い理想の頂で猛々しくも繊細に立つそれは正しく大人の姿で、その姿を垣間見た私の休日は不思議なくらいに大人なライオンの日だった。
「それじゃぁいってらっしゃい。また今度お友達を連れてきてよ。」
いつまでも眠たい表情でライオンさんはゆっくりと手を振る。私はそれに会釈をしていつもの通勤路を急いだ。

「ねぇ・・何だかおかしくない?」
私の働くクリニックの細やかな休憩時間。大きなお煎餅を口に頬張りながら、ちょっとだけ広めな肩幅と割烹着が似合いそうな体躯の藤井さんはそう話した。
「何がですか?」
と私は小さなお弁当へと箸を進めながらそう答える。確かにそうねと。神経質そうにほっそりとした佐藤さんはメガネの位置を直しながら眉をしかめる。
「最近沙耶ちゃんの様子がおかしいのよ。一人の時にニヤニヤしていたり、ふわっとその場で回ったり、浮かれているとしか思えないわ。」
「これはあれね!恋の予感よ!」
そう答えるのはふっくらとして美味しそうに私の二倍ほどあるお弁当から、揚げ物を口に頬張る田村さんの姿だった。
確かに・・・と私は最近の沙耶さんの姿を思い出す。彼女はこのクリニックで働く私の先輩医療事務さんだ。いつもは厳しいようでいて、彼女は感情がすぐ表情や行動に出てしまう。そんな所がすごく可愛い彼女は確かにここ最近浮かれている。
色恋沙汰に疎い私にもそれが分かってしまうのだから、それはもう相当なものだろう。
沙耶さんの泣き顔は夏祭りの日に一度見てしまった。幼なじみの子が何処か遠くにいってしまう不安、何事も決して永遠ではないことを知った不安。そんな不安な彼女は誰よりも乙女であった。だけども夢を描くだけが乙女ではなくて、その夢に到達する為の現実的な確かな道筋を描くのも乙女だ。そして乙女の夢見る先はいつだって誰かの幸せだ。何故なら夢見る乙女は一人では成り立たないからだ。そして彼女は再び立ち上がり確かに前に進もうとしている。
今度話聞いてみようかな・・きっと黙っていてもばれちゃうんだろうけど。私はそんな可愛らしい先輩を思い浮かべながら、フフと笑みを浮かべる。
ふと我に帰るとそんな私の表情を覗き込む三人の姿があった。
「ねぇ。紡ちゃんも・・・何かあったでしょ?」
「いいえ!皆まで言わなくて良いわ。私たちはベテランの乙女だからね。」
「だからその人もまた連れてきてね。今度の夏祭りには更に大きな唐揚げにチャレンジするんだから!」
ねぇー。とそのベテランの乙女達は互いに目を合わせて、その後人目も気にせずお腹を叩きながら笑い声をあげる。
奈留ちゃんを連れて行ったらびっくりされそうだな。
私はそう考えながら笑みを返す。もう目の前に見えてきた乙女な夏祭りの日をまた心待ちにしながら。

その日の帰り道、私はちょっとだけ遠回りをして帰ることにした。
何だか心がすごく軽くて、空にさえ足を踏み出せそうなくらいだったからだ。
周りには学校帰りの女子高生の姿があり、この世には何もの不安も無いかのように笑い声を上げながら歩いている。その中の一人が私に向かって大きく手を振っている。
誰だろう?私がそう考えているとその高校生は恐るべきスピードで私に駆け寄ってきた。
「たい焼きのお姉さん!久しぶり!」
よっと伸ばした手を額に当ててその少女はそう言った。たい焼きのお姉さん・・・何とも不本意な覚えられ方をしているが、そもそもそういう出会いだったから仕方がない。
「加恋ちゃん・・・私には紡という名前があってだね・・」
「そうだったね!なら紡ちゃん!ウチの兄貴知ってるでしょ?あのなんちゃって自営業の残念なお兄ちゃん!そのお兄ちゃんに彼女出来たみたいなんだよねー。どんな人だろ。正気とは思えない・・・」
加恋ちゃんは、最初は驚きニヤニヤしながら話していたかと思うと、言葉の最後には不安そうに表情を歪めている。そんな彼女にはとある秋の匂いを感じ始めた日に出会った。
その時の私はどうしようもない感情に支配され始めていて、朝露を零してしまった葉っぱが何だか自分の姿と重なって、空を見上げる事が出来なくなった。
それは私の昔の話。柏木奈留との最初の出会いを思い出してしまったからだと今では思う。そしてそれは本当に良かったとも今では思うのだ。
そしてそんな時に出会ったのが加恋ちゃんのお兄ちゃんで、公園の真ん中でたい焼きを売っていて、その匂いに私が釣られてしまったのが始まりだ。
そして加恋ちゃんはそのお兄ちゃんを励ます為に私に星を詠んで欲しいと言った。
仕事を辞めて自分を見つめ直して前に進もうとしているそのお兄ちゃんは、何処か私にも似ていたと思う。
誰かと誰かの間で、みんなが上手くいくように秤のバランスを必死に整えようとして、秤の支柱がどれだけ軋む音を立てていても、それからは耳を塞いで必死に秤を支えていた。
自分の犠牲にした調和なんてない事なんて知らなかったから。
秤をユラユラ揺らしてしまっても良いんだって知らなかったから。
しかしあの不可思議な味覚を持つ加恋ちゃんの兄と恋仲になるなんて、どんな人だろう?
ふと私は沙耶さんの事が脳裏に浮かび、まさかねと首を振る。
もしそうだったら素敵な事だけど、まぁ苦労はするだろう。そう思った。
「もー!紡ちゃんまたボーッとしている!ウチの話聞いてる?」
ごめんごめん!と私は首筋を掻きながら視線を逸らす。
「今度はウチも友達の星座も詠んでね!みんな紡ちゃんの話聞きたがってんだから!」
「それは・・プレッシャーだね・・・」
更に困ってしまった私が視線を戻すと、加恋ちゃんは、じゃぁねと再び恐るべき速度で友達の輪の中へ駆けて行った。しかしながら女子高生というものは少なからず無敵なものだ。と私はその朝露と天秤の日に出会った少女を眺めつつそう思った。

街は夕暮れを迎えていて、夕日が街の向こうへ沈んでいくのに合わせて影は長く長く伸びていく。すっかり暖かくなったもんだなと私は思う。
もう蠍のようにコートを鎧のように着込む必要はなくなったなぁと何処か寂しくもなる。ある冬の夜中に目が覚めてしまった私は、まるで蠍のようにコートを着込んでコーヒーポットが湯を沸かす心地良い音に身を任せて夢想の中へと旅に出た。
そこでは私は月夜の砂漠を旅する蠍であって、様々な想いに触れながら旅を続けていた。鋭く尖った尻尾は確かに私の進むべき道を指し示していたのにも関わらず、その時の私はそれすら不安に思って固い鎧の中に心を潜めてしまっていたのだ。
それでも私が前に進めているのは、その決して器用ではないその想いが確かに鎧の奥底にあったからであって、そしてその想いがあったからこそ蠍の尻尾は常に前を向いている。
自分の事は見えているようで見えていないから不思議なものだ。今ではこんなにもその鎧は薄っすらとしたカーディガン一枚となっているのに。
それでもいつかはまた鎧をまとってしまう日があるのかもしれない。その時はまた真夜中の蠍の日を過ごそうと私は思う。おっかなびっくりでも前に進める事を知ったから。
帰りにライオンさんのお店に寄って、コーヒーを買っていこうと私は思う。
別に月夜じゃなくてもコーヒーくらいは淹れる事が出来るのだから。
そして私は今では遠い昔に奈留と少しばかりの旅に出た事も思い出す。
それはちょっとしたお出かけだったのかもしれないけれど、私にとっては紛れもなく旅であった。羊雲が空をふわふわと浮かぶ公園で私達が小さな迷子の子犬と出会い、そして奈留とその飼い主を探す旅。ちゃんと子犬が見つかったのにも関わらず奈留は何処か悲しそうな顔をしていた。もう少し良い方法があったのではないかと、そんな事を悩みながら。
昔から君はそうだったんだね。と私は思う。
誰かの期待に応える為に、誰かの夢を乗せていつだって放たれた矢のように前へと進んでいた。もちろん学生だから本当の矢ではなくてその右手にあったのは鉛筆なんだけど、それでも奈留は皆の期待を叶える為に夢を描いて見せてくれた。
それは私も例外なんかじゃなくて、だからこそ今の私になってしまった訳で。
誰よりも優しかったから、誰かに優しくされる事に慣れていなかったんだと今では思う。
私はその羊雲と鉛筆の日にその優れた射手が放った矢の軌跡を追っている。
そしてその軌跡の終わりはもう目の前にあるのだ。
しかし・・・あのお婆ちゃんは、白い子犬にヒツジと名付けるなんて良いセンスをしていたな。そんな羊雲と鉛筆の日は確かに私の心の中に暖かく存在している。
そうこうしている間に、いつしかライオンさんのお店に辿り着く。そこは朝に見た姿とは少し様子が違い、夜が近付けば近付く程しっかりと大人な店に姿を変える。
最初は重かったその扉は今ではとても軽い。カラン。と乾いた鐘の音がして、店内に入ると二人ほど先客がいた。
「だからー元気出しなって!浮かれすぎて失敗しただけでしょう!?」
小柄な女性はカウンターチェアーに足をプラプラとさせて、笑いをかみ殺しながら隣の初老の男性に声を掛ける。
「いや初めて娘に親父らしい所見せようって思ってさ。大人の姿をってさ・・・」
「だからって・・なんでいきなりアウトドアショップに連れて行くかなぁ。娘さんと出かけるの初めてなんでしょう?」
そうだけどさぁ・・・と項垂れるシゲさんにメグミさんは遂に笑みを殺しきれずにお腹を抱えて笑いだした。
それは・・・シゲさんお疲れ様でした。と私が心の中で労うと私に気がついたライオンさんが手を挙げた。
「よー。事の顛末はこんな感じだからまぁ気にしないでくれ。何か呑んでいく?」
「いぇ。ちょっと今日はやる事があるので、コーヒー豆を頂きに・・・オリジナルブレンドもらえますか?」
そうかー。とライオンさんは手早く後ろの棚からコーヒー豆の瓶を取り出すと手早く紙袋に詰め始めた。そしてメグミさんもこちらを見て猫のように目をまん丸に丸めると、ぴょいっとカウンターチェアーから降りて、私の下に駆け寄った。
「おっひさしぶりー!あれから私はここの常連になっちゃった!たまにここで歌わせてもらってるんだよ!それにあの院長先生も結構な頻度で来てくれるんだ。」
そうなんだ!と私は星の見えない冬の日を思い出す。
細雪の降る夜に私はこのメグミちゃんと出会った。路上で一人歌う彼女の歌に聞き惚れて、流れるままにここのお店に招待したのだ。そしてそこにはいつもはおっとりでっぷりなクリニックの院長先生が、巧みにオルガンを弾いていたから二重に驚きだった事をよく覚えている。
路上で1人歌うメグミは誰よりも厳しい場所にいたとその時の私は感じた。それでもその切り立った崖のような場所で高い所を目指してメグミは歌を歌い続けていた。
きっとその先にあるものがどれほどの価値があるからを知っているからこそ、その強い二つの足で立つ事が出来る。そんな姿を私は真っ赤な手袋を細雪が白く染めるまでずっと眺めていた。その細雪と手袋の日が出会った彼女の姿に憧れたからこそ、私はまた一歩前に進めたのだと思う。本当にそう思う。
ライオンさんから手渡されたとっても良い香りがする紙袋を手にとって、また来ますと私は三人に挨拶する。
「あっとっても良い歌が出来たんだ!また今度送るね!」
そう軽やかに話すメグミは口元でそのメロディーを奏でる。その音が乗せる歌をまた聴きに来よう。奈留を連れて。
私は大きく一度大きく頷いた。

私はようやく家に辿り就き、そのドアを開ける。
ただいま・・・そんな言葉が口から漏れ出して、私はなんだか笑ってしまった。
最後に実家に帰ったのはちょっと前だ。その帰省の余韻はしばらくの間自分の周りを漂うのは本当に不思議に思う。そしてその帰省した時、私は今年見た初夢の想いに囚われていた。
奈留と別れた最後の日。私が星を詠めても語れなくなったあの日。
奈留は誰よりも優しいから、誰かの想いをその身に受け止めて、そして薄氷が砕けるように前に進めなくなってしまった。
その時の私はそんな事にも気が付けずに、奈留の望んだ言葉に辿り着く事が出来なかった。今ではこんなにも心の中にその言葉は沢山あるのに、必要な時に限ってそんな言葉はいつだって出てこないのだ。
それでも今の私はその時の私と違う。その初夢と薄氷の日で、誰かの為に行動する事はとても難しくて、でもいつかはそれを叶える事が出来て、いつしかそんな場所に至れる事を知れたから。しかしいつになっても親にとって子供は子供だと思うと何だか胸が暖かくなる。
私は荷物を整理して机の前に立つ。視線の端には薄青いビー玉がその身に沢山詰め込まれた金魚鉢が目に入る。
人の想いは様々にある。そしてそれは水のようにまた別の人の心の中に流れ込むのだ。綺麗な想いも、淀んだ想いも分け隔てなくそこに住まう魚にも似た人へと注がれる。
君はそこで息が出来なくなってしまったのだね。と私は奈留を思う。
雨のように降り注ぐ淀んだ人の想いをどうにかしようとして、必死にその尾ひれを振って、それでも一人では足りなくて、息が出来なくなってしまったのだ。
そしてその金魚鉢の隣には書くのを止めてしまっていた日記帳がある。
一度はその日記帳の続きを書くのを諦め、新しい日記帳を手に入れようとした事もあった。そしてそれを探す中、学生時代に現代国語を担当していた先生をバッタリと出会った。今では古書店を営む先生は不器用なその言葉で私の背中を押してくれた。
そんな雨水と金魚鉢の日のおかげで今の私は日記の続きを書く事が出来ている。
なんだか私の周りには不器用な人ばかりだな。それはもちろん私も含めてだけど。と私は笑みを浮かべる。
それからしばらくして私は奈留のお婆ちゃんと出会った。本当は奈留に会いに行ったのだけど奈留は入院していた。今思うとあの時に奈留にまた出会ったとしても彼女の望む話は出来なかったと思う。そして全てが完璧だと思った奈留は実はそうではなくて、私と同じ不器用な人で、だからこそ奈留だという事を知った。
その帰りに拾った里桜の切れ端は今では見事な押し花となった。ちょっと色は茶色にはなってしまったけれど、そのホワホワとした羊のような姿は頭の中で浮かんでいる。
そしてそんな停滞を望む羊の群れから抜け出そうと、力強い一歩を踏み出せる羊さんである桐さん。今度髪を切りに行こうかな。とちょっとだけ私はワクワクする。
そんな里桜と押し花の日に私は再び誰かの為に星座を詠む事が出来た。ただの星座の話ではなくて、確かな誰かの為に星座を詠む事が出来た。
だからこそ私は今目の前に積まれた白紙の便箋に奈留への想いを紡ぐ事が出来るのだ。
そして私はこの一年の事を思い出す。
この街に引っ越して来てしばらく経つのだけど、この一年はこんなにも多くの出会いがあったのだ。それはきっと私が自分の心の中から一歩前に進もうとした結果で、そうであったからこそ多くの事に目を向けられたからだと今では思う。
人とは不思議なもので、自分で何かを見ようとしない限りは気がつかないし、そこから何も学ぶ事は出来ない。
本当に不器用で、そしてその人の生は良く出来ていると思うのだ。
何から書き始めようかな。
そう思った時に初めに思い浮かんだのは、あの梅雨の日に出会った少女の事だった。
その日の出来事を、奈留に伝えたかった星座の話を添えて、そして今の奈留に伝えたい言葉を載せて、それを書こうと思った。
私が一歩だけ前に進めたこの一年の事を、どうしようもなく今の奈留には聞いて欲しかった。
ちょっと長くなっちゃうかもね。
でもきっと奈留なら読んでくれる。それに今の私には奈留に必要な言葉もまた心の中に溢れているから。
よし。そう思ってペンを取り出し机へと向かう。最初の書き出しはこうだ。
『梅雨の蟹の日・・・・こんな季節はなんだか憂鬱になる。通勤中なんかは特にそう思うのだ。シトシト雨降り・・・ジトジトジメジメ・・・』

それからしばらくの間、私はゆっくりと筆を進めた。
こんなにも誰かの想いを形にするのは難しいとは思わなかったのだけど、その日々は私と私が向き合う大切な時間だった。一つの星座の話を書き終える度に私の心はなんだか軽くなった。
そしてその日も緑風の吹くどこまでも空の高い五月の晴れの日だった。
私は便箋の束を右手に持ったまま目を閉じる。
そこには果ての見えない地平線を草原が埋め尽くしていて、何頭かの牛さんが気持ち良さそうにもしゃもしゃと草を食んでいた。
やっぱりこんな風に包まれてしまったら牛さんはお腹が空くのかなぁ。
まぁ私は草なんて食べませんけどね。と私は笑みを浮かべる。
一見やる気の無いように思えるその無気力な姿を眺めていると誰しも穏やかな気持ちになるものだ。それほど世の中のスピードは忙しく進み、いつの間にか置いていかれている気分にもなるからだろうと私は思う。
歩む速度は誰だって違うものだ。人によっては馬のように颯爽とこの草原を駆け抜けて行ってしまう人もいるかもしれない。だけども牛さんはゆっくりと着実に、途方もない時間を掛けて前に進む。ゆっくりと前に進みながら多くの事を経験しながらのっしのっしと!
そして人より多くの事を経験するという事は、それだけその先の未来を変える事が誰よりも上手に出来るという事だ。
ゆっくりと前に進みながら、他の人が見逃してしまう事すらもその力強い体の中に溜め込んで、自分の目指す素敵な未来へと一歩一歩足を進める。
それがどんなにゆっくりとした速度でもきっと私の歩む速度よりも早い。
私は書き留めた12通の便箋をポストに入れた。
そこにはいつかの奈留が望んだ星座の話が書かれている。そしてそれは今の私が奈留に伝えたい言葉でもある。
そしていつかは奈留から誰かへと紡がれるお話でもあるのだろうと私は思う。
私が出会った人たちが与えてくれた想いを込めて詠んだ星の言葉が更に輝きを増したように、その言葉もまた夜空に浮かぶ星々みたいに輝きを増しながら紡がれていくのだ。
そして最後の一文に私はこう添えた。『また会いましょう』と。
その日がいつになるかは分からないけれど、誰よりも優しい奈留だからその言葉はきっと言い出せないから。
偶にはこんな私でも良いでしょう。
ふふんと私は両手を腰に当てて空を見上げる。
このお話は私が君に、君が誰かに、そして誰かから誰かに紡がれる星座のお話なのだ。
きっとそうだから私は星を詠む。
星を詠んで人を想いそして・・・・
君を想うのだ。

第十二話【星を詠む人/双子の星詠みの日】

「ねぇ本当に良いの?こんなに綺麗で長い髪なのに・・・」
「はい!もうバッサリとお願いします。」
私の正面には全身を映す鏡があって、そこから私の後ろでハサミを片手に不安そうに首を傾げる桐さんの姿が見えた。
里桜の下で出会った新米の美容師さんの桐さんは、その時に自分のカットモデルになって下さい。そんな少女漫画のようなセリフを私に言った。
本当は冗談だったのかもしれないけれど、それを鵜呑みにした私は今ここに居る。
そしてその桐さんも綺麗な顔立ちをしている中性的な男の人だから、なんだか私も見る度にドキドキとしてしまう。

寒かった季節は少しずつ温度を増して、辺りにはどこか雨の匂いが近付いてきているように思える。そんな中、私は髪を切ろうと思った。
失恋したら髪を切るというのはもう失われてしまった言葉なのかもしれないけれど、今では何となくそんな気持ちが分かるような気がした。
「いい?本当に切っちゃうからね。」
何度も桐さんはそう私に確認をして髪にハサミを入れる。その手はどこか震えている。
私はお任せします!と一度頷き、髪の房が床に落ちるのを見た。
ハサミが髪を通るその感覚は、どこか私の心の中から重たいモノも一緒に落としてくれるそんな気もした。
再び季節は梅雨の日を迎えようとしていて、その間に夜空には12の星座がゆっくりと巡った。
そして今月は私と奈留の誕生日である。つまり私たちは双子座であるのだ。
双子座についての手紙を書き始める時、私は理想の自分とはどういう自分なのだろうと考えた。かつての私は自分の理想を奈留の姿を重ねていたと思う。
そう思う度に考えるのは、理想の自分とはきっと自分とは正反対の自分という事だ。
鏡の中の自分も少しずつ変わっていく。長かった髪は少しずつ短くなっていく。不安げだった桐さんの表情はいつしかまっすぐと物事を見つめるプロの目をしている。誰もが不安に感じるのは最初にハサミを入れるのも、知らない場所へ一歩前に踏み出すのも一緒なのだ。
奈留のように髪を短くしようとしているのもまた、自分が理想をその姿に写しているからかもしれないなぁ。と私は思う。
私とは違って、人付き合いが上手で、賢くて、器用で明るいはずで、知らない人からの評判なんて気にもしないで、有り余る好奇心のままに自分の世界を広げていく。
鏡に映る私の理想の姿はきっとそうで、それは確かに私の中に存在している。
それはまるで双子のように。
だけどもそれは決して奈留ではなくて、私の思い描く理想の姿。
それは誰かの姿ではなく、自分自身の心の中に存在しているのだ。
その理想の双子は恥ずかしがり屋さんだから、中々心の外には出てこない。
でも見知らぬ誰かや親しい誰か、そして星座の言葉を借りる事で自分の目の前にこうやって姿を現してくれる。
少しだけ勇気を出して耳を傾けるだけで、いつだって自分の理想の姿を語り掛けてくれるのだ。そしてその声に合わせてちょっとだけ足を踏み出すだけで理想の自分に一歩、また一歩と近付く事が出来るのだ。
それは誰もが気が付けないだけで、とても単純な事なのだ。
「ねぇ。長さはこれくらいでいいかな?」
桐は鏡を合わせて私にその姿を見せる。それはさっきまでの自分とはまったく違う自分の姿。
首筋がはっきりと見えるくらいに短くなったその髪はまだ毛先がトゲトゲとしているけど、確かにそれは紛れもない自分なのだ。
「完璧です!流石ですね!」
そう声を掛けると桐さんは、不安から解放された子供のようにえへへと笑みを浮かべた。
「じゃぁ!仕上げちゃうから!しかしそれにしても失恋でもしたのかな?なんならボクが相談に乗っちゃうよ?」
陽気に見えつつもその言葉は私をどこか心配しているようにも見える。
「いいえ。失恋ではありませんよ。」
私がそう返すとなーんだ!と安心したかのような、そして少しだけ残念そうに見える言葉で桐さんはそう返す。
そして桐さんは私の短くなった毛先へと手を触れ、ゆっくりと慎重に毛先を纏め始める。
チョキチョキとテンポよく鳴り始めたその音に私は耳を傾けた。

奈留に手紙を送った後、程なくして奈留からメールが届いた。
『私も会いたい。』
そんな絵文字も何も無い淡白なメールの文面は昔と何も変わっていない。
だけどもそれは奈留の心からの言葉であって、嘘偽りで彩られている訳では無いのは、よく知っている。そして私は今そこへと向かっている。
奈留が入院している病院は、私の住む場所から歩いて行けるほど近くにあった。
そんなに近くに居たんだね。と私はなんだか可笑しくなった。
どれほど手を伸ばしても届かない場所にあるようなモノほど、よく見渡せば自分の近くにあるものなのだ。足りないのはちょっとだけの勇気。
それでもそれは途方もないほど大きな、ちょっとだけなのだ。
今までは髪に隠れていたのだけど、今ではすっかりと陽の光を浴びている両の耳へイヤホンを当てる。そこからはメグミからのメールに添えてあった一つの歌が流れ始める。穏やかなメロディとどこにも行けなくなってしまった人の為の歌詞は、なんだか自分達の事を歌ってくれているみたいに思えた。
もしかしたら世の中に溢れる色んな歌もきっとそうなのだろうと私は思う。
誰かが誰かの事を想い、その想いが言葉となって、メロディに乗って世界を旅していく。
そしてそれは誰かの心にいつかは辿り着くのだ。
そう今の私のように・・・である。
そのメロディを口ずさみながら歩いていると、程なくしてその病院へと辿り着く。
受付には穏やかな顔立ちの女性が何かの書類に目を通している所だった。
私より少し年上だろうか?そう思わせるほどしっかりとした瞳をしている。
その女性は私に気が付くと柔らかく笑みを浮かべた。
「何かご用でしょうか?」
「えぇとお友達のお見舞いに来ました。」
お見舞い・・・と言いつつ私は何の手土産も用意していない事に今更ながらに気が付いた。これはやらかしたなぁと頭を掻きながら、それはまぁまた今度にしよう。と思う事にした。
「もしかしたら宮原 紡様ですか?奈留ちゃんからお話は伺ってますよ。」
そうですか。と私は軽く会釈をする。それはまたどんな話なのだろうと視線を天井へと向けた。
「多分、自分からは声を掛けられないかもしれないから、そんな人が居たら声を掛けてって。でもそんな雰囲気ではないですね。」
くすくすと笑う受付の女性に、まぁちょっと前の自分だったらね。と私は心の中でそう返す。
お互いにお互いの中で時間は止まっていても、確かに月日は流れているのだ。
そして私は案内されるままに病室の前に辿り着く。そこはしっかりと閉ざされていてその扉の前で私は足を止める。
何を話したら良いのだろうか。ここに辿り着くまでに何度も考えたはずなのに、それは心の中にすっかりと姿を隠してしまっている。
「本当は4人部屋だけど、今は奈留ちゃんしか居ないから気軽にね。でも騒ぎ過ぎないように!」
そう若干私に釘を刺すと受付の女性は踵を返した。私はゆっくりと扉に手を伸ばす。その手は震えている。
だけどこれが、これこそが私の、私達の一歩目になるのだ。私はそのドアをまっすぐと見つめて恐る恐ると開いた。
そして目の前には奈留が居た。白い綺麗なベッドに腰を掛けていて、隣の小さな床頭台には白と赤のカーネーションが二つ並べてある。
奈留は整った顔立ちのままでそこにいた。
そしてお人形さんのように白くなった肌と、肩から先まで伸びた髪は確かにお互いの間を多くの年月が流れた事を表している。
「おっお久しぶりです!」
なんとか私は心の中から言葉を出してみる。まるで最初に奈留と出会った時と同じような口ぶりで。
すると奈留は一度笑みを浮かべると何も言わないままに私にカメラを向けてシャッターを切った。奈留の一眼レフ。そこには彼女が見たい景色しか収められてはいない。
「へへ。髪・・・切ったんだね。失恋でもした?」
「いいえ・・・別にそういう訳では・・・奈留ちゃんは髪伸びたね。」
私がそういうと奈留は自分の髪に触れて、そうだねと私に困ったような笑みを浮かべる。
そして一度困ったように目を伏せると
「なんだか学生時代と比べると変な話になっちゃったね。内気でいつも図書館にいた紡が今や広い場所に居て、どこか窮屈でない場所を目指していた私はこんな小さな病室に居る。なんだか全く正反対だ」
そうなんとか笑みを浮かべて奈留はそう言った。私はまるで学生の時に戻ったように口元をモゴモゴとさせながら何とか言葉を探す。
それでも私はきっと奈留が手紙を読んでくれた事が分かった。言葉には出さずとも奈留の言葉の中でそう感じたのだ。
なんだか昔に戻ってしまったような気がするなぁと私は思う。そしてそれほどお互いの間にあったはずの壁はこんなにも容易く、思い出という風に吹かれただけでどこかに行ってしまうのだなぁとそう感じた。
私の記憶の底にある最後に奈留と会った日の、崩れ落ちてしまいそうな程の表情はもうそこには無い。
「ねぇまた写真撮っていい?といっても外に出れないからまぁ場所はここら辺ではあるのだけど」
私は素直に頷いた。奈留は奈留が見たいものしか写真に撮る事は出来無い。それは十分に知っている。
しかし今になって思うのだけど、緊張すると直ぐに体が固まってしまう私が被写体に向いているのだろうか?そんな事が不安になる。
だけどもそれが奈留の見たい世界ならば、とても嬉しい気がした。
そして奈留はカメラを下ろして私をまっすぐと見た。
「なんだかね。私が欲しいものはずっと紡の中にあったような気がするよ。誰よりもちゃんと自分の事を理解してる。私みたいに全然分かってなくて、紡みたいに自分の心をちゃんと理解出来ていればこんな事にならなかったのかなぁ。」
奈留がこんなに自分の気持ちを話してくれるのはなんだか珍しいと私は思ったけれど、それはきっと今までで紡がれてきた奈留の言葉なのだ。
「それはどうでしょう。私は自分の事ばかりで、他人の事は上手く理解できていませんでした。好奇心は内に内に向かうばかりで、奈留みたいにもっと誰かの事を理解しようとしていればと・・・手紙を書く前にはずっと後悔していました。だけど色んな人と出会えて、色んな人から色んな事を教えてもらって、やっと此処に来れました。もっと早く来れたら良かったんですが・・・勇気が出なくて」
奈留の言葉に私は言葉を更に紡ぐ。その言葉に奈留は柔らかく笑みを浮かべる。
そして、あっと声を上げる。
「紡の手紙に書いてあった双子座の話なんだけどさ、双子座の私からすると、どうやら私たちは不完全な双子座だね。私は周りばかり理解しようとして、自分を理解できなかったし、紡はその逆で・・・うん。なんとも難しいものだね」
「えぇそうですね。同じ双子座である私もまたそうです。だからこそ、きっといつかはそうなれるのだと思います。星は言葉を紡いでくれますが、その先は私たちのお話ですから。」
「・・・何だか紡は変わったね。随分と大人になった。」
「いえいえ・・・まだまだ私は至らぬ点ばかりで・・・」
奈留は笑った。どこかぎこちない笑みではなく確かに、昔のように笑みを浮かべた。
確かにお互い変わった。そしてこれからも変わっていくのだろう。
今までよりもずっと良い形に。
そして私は奈留の隣に座る。そしてポケットからイヤホンを取り出して、その片方を奈留の耳に当てる。
「聞いて欲しい歌があるんです。この前知り合ったメグミさんというミュージシャンの方の歌なんですけど・・・」
へぇ。と奈留は目をまん丸にして口を開ける、確かに今までの私からしたら突拍子も無い話だなぁと私は視線を逸らす。
そしてそのイヤホンから程なくして曲が流れ始めた。穏やかなその曲は緩やかに私たちの心の中を流れていく。
人とはとても不思議なもので、他の人からしたら何でも無い事にも躓いて、こうやって前に進めなくなる時がある。そしてその歩みを止めてしまう時だってある。
生きている意味が分からなくなって、どうしようもない気持ちになってしまうのだ。
歌詞はサビの部分に差し掛かり、その言葉は更に想いを乗せて、音楽に身を任せる。
「くよくよしたり、悩んだって、落ち込んでもどうしようもないって、分かってはいるけど立ち上がれないんだ。どんどん・・・一人閉じこもって、ついには誰にも言えなくなっちゃって。ねぇ。私、何のために生きているんだろう・・・」
その言葉は意図せず私は口ずさんでしまっていた。
しまったと私はニヤニヤとこちらに笑みを向ける奈留へと向き直り、首筋を掻く。
「紡が歌っている所なんて初めて見たかな。でもすごく良い曲だね。」
「手紙を書きながら何度も歌ってしまっていたからつい・・・でも、本当に良い曲です。」
そんな言い訳にも似た言葉を吐く私に奈留は再びカメラを向けてシャッターを切る。
「今日はたくさん紡の写真を撮るからね!随分と久しぶりだから腕は鈍っているかもしれないけれど・・・」
「望む所です!」
そう私は両手を握って奈留にそう答える。
唐突に私が生きる理由はこれなんだろうなぁとそう思った。
それは星を詠んで人を想って、その言葉を人へと紡いでいく事。
そして私は私の事だって想う。誰かの事ばかりではなく。
星が紡いだ沢山の人の想いが、今の私の中にはあるから。
私は奈留の手を取り立ち上がる。ちょっとだけ驚いた奈留は、すぐに笑みを浮かべて私の手をしっかりと握る。
その手の温度を感じながら私は奈留と一緒に病室を出た。
俯いてばかりでは星座が見えない。私が星を見上げるからこそ、星は私に言葉を紡いでくれるのだ。
これからも私は星を詠む。
星を詠んで人を想って、その想いを夜空で紡いで、
たった一つの星座(ほし)にするのだ。
これからもずっと誰かの事を想いながら・・・
星を詠むのだ。

『星を詠む人 了』

エピローグ 【星詠みの双子の日】

なんでこんな事になっちゃったのかな?
その想いは私の中でグルグルと巡る。
それは私が立ち上がれなくなってしまった時からずっとそうだ。
きっとみんなの期待を集めすぎちゃったんだね。
そう思う。
自分の心の声を無視して、周りからの声ばかりを聞いてしまって、
気が付いたら私は立ち上がれなくなってしまった。
情けないなぁと思いつつも、お医者さんからはそんな事を考えないように止められている。
それでもそれは私の心の中から一向に出て行ってはくれないのだ。
入退院を繰り返して少しずつ普段の日常へと戻っては来ているのだけど、正直まだ誰かの目に触れるのは怖い。
でも・・・そんな時にいつも思い出すのは学生の時だった。
あの内気で屋上に続く階段で一人星座の本を読んでいたあの娘。
あの娘は私と違って自分の心の声に正直だった。
臆病で小さな事にも驚いていたけれど、それでもその点は私よりもずっと彼女の方が勇敢だったのだ。
またあの子の話す星座の話が聞きたかったな。
そう・・・ずっと思っていた。
私は身支度を整えるとベッドの横に置かれた十二通の便箋に視線を移す。
開かれて何度も読まれたそれは少し疲れてしまっているようにも見える。何だか悪い事をしたなぁ。私はそれをそっと撫でた。
ありがとう。そんな言葉を心の言葉で紡ぎながら。
すると病室のドアが開く音がして、それを私は机の中に隠す。
そして代わりに私はカメラを取り出す。ずっと昔に彼女を収めたあのカメラを。
目の前には学生の頃に出会ったあの娘が立っていた。
「おっお久しぶりです!」
緊張しきった面持ちで、両手を揃えてお辞儀をする彼女は昔と何にも変わっていない。私は彼女のカメラを向けてシャッターを切る。
「へへ。髪・・・切ったんだね。失恋でもした?」
長かった彼女の髪は耳元まで短くなっていて、それは綺麗に揃えられている。
「いいえ・・・別にそういう訳では・・・奈留ちゃんは髪伸びたね。」
そうだね。と言葉を返しながら私は自分の髪へと触れる。切ってしまうのを止めてから、髪は肩よりも長くなっている。
「なんだか学生時代と比べると変な話になっちゃったね。内気でいつも図書館にいた紡が今や広い場所に居て、どこか窮屈でない場所を目指していた私はこんな小さな病室に居る。なんだか全く正反対だ」
今私は精一杯笑えているのだろうか?そんな事をなんだか照れて口元をモゴモゴとさせている紡を眺めながらそう思う。
彼女の届けてくれた便箋。それには星座の話がたくさん詰まっていた。
それに彼女が何気なく普段感じていることや、彼女の心の中を丁寧にそのお話に添えて、ご丁寧に季節の写真まで添えて綺麗な物語として綴られていた。
素直に書けば良いのになぁとそれを読みつつ私は、再び彼女と会いたいとそう願っていた。
そして彼女は昔とは違う姿で私の前に立ち、そして私もまた昔とは全く違う姿でここに立つ。不思議なものだと思う。
こんなにもお互い変わってしまったのにも関わらず、一目会った瞬間から心は昔の私に戻っている。
彼女と一緒に居た時に、自分に素直な自分に、自分の心に素直になれる強い自分にまた戻れている。
「ねぇまた写真撮っていい?といっても外に出れないからまぁ場所はここら辺ではあるのだけど」
私の問いに彼女は素直に頷く。彼女は私が撮りたいものしか撮れない事を知っている。
あぁどんな彼女をカメラに収めてやろうか。きっと何を頼んでも、はにかむ笑顔で彼女は一生懸命答えてくれるだろう。
なら私は私の見たい世界を、彼女を通してありのままに写してやろう。
例えそれが病室の中であっても、せめてこの時は楽しく写してやろうと思う。
「なんだかね。私が欲しいものはずっと紡の中にあったような気がするよ。誰よりもちゃんと自分の事を理解してる。私みたいに全然分かってなくて、紡みたいに自分の心をちゃんと理解出来ていればこんな事にならなかったのかなぁ。」
それは本音だった。自分の本音がこうも容易く出てくるなんて、それはちょっと驚きだった。
「それはどうでしょう。私は自分の事ばかりで、他人の事は上手く理解できていませんでした。好奇心は内に内に向かうばかりで、奈留みたいにもっと誰かの事を理解しようとしていればと・・・手紙を書く前にはずっと後悔していました。だけど色んな人と出会えて、色んな人から色んな事を教えてもらって、やっと此処に来れました。もっと早く来れたら良かったんですが・・・勇気が出なくて」
そんな事は無いという心を込めてありがとうという言葉を返す。
「紡の手紙に書いてあった双子座の話なんだけどさ、双子座の私からすると、どうやら私たちは不完全な双子座だね。私は周りばかり理解しようとして、自分を理解できなかったし、紡はその逆で・・・うん。なんとも難しいものだね」
「えぇそうですね。同じ双子座である私もまたそうです。だからこそ、きっといつかはそうなれるのだと思います。星は言葉を紡いでくれますが、その先は私たちのお話ですから。」
「・・・何だか紡は変わったね。随分と大人になった。」
「いえいえ・・・まだまだ私は至らぬ点ばかりで・・・」
はは。と随分と久しぶりに笑えた気がした。
きっと不完全でも良いのだ。不完全だからこそきっとこれから変わる事が出来る。
あっと何かを思い出したような声を上げて、紡ぐは私の隣に腰を下ろした。そしてポケットから何やらイヤホンを取り出して私の耳に当てる。
「聞いて欲しい歌があるんです。この前知り合ったメグミさんというミュージシャンの方の歌なんですけど・・・」
紡とミュージシャン・・・なんとも不思議な出会いがあるものだと私は思う。でも多分その人はとても良い人だろう。それは聞かずとも分かる。
そしてその曲を、目を閉じたままに聞く紡はなんとも綺麗に成長したのだろうと思う。昔から彼女はしっかりと自分を持っていた。そして誰の話でもよく聞く事が出来た。だからこそ人に恵まれて、そしてこうやって私を救ってくれている。そう思うとなんだか泣きそうにもなる。決して悪い意味ではなくて。
すると紡は細い声のままに歌詞を口ずさみ始めた。なんだか珍しいなと思いつつ私は歌と紡の言葉に耳を傾ける。
「くよくよしたり、悩んだって、落ち込んでもどうしようもないって、分かってはいるけど立ち上がれないんだ。どんどん・・・一人閉じこもって、ついには誰にも言えなくなっちゃって。ねぇ。私、何のために生きているんだろう・・・」
その台詞が終わった時、紡はぎょっとして私を振り返る。
あぁ・・・なんて可愛らしい生き物なのだろう。と私は思いつつ彼女を見つめる。その笑みは抑える事は出来ない。
「紡が歌っている所なんて初めて見たかな。でもすごく良い曲だね。」
「手紙を書きながら何度も歌ってしまっていたからつい・・・でも、本当に良い曲です。」
そんな言い訳にも似た言葉を吐く紡に私は再びカメラを向けてシャッターを切る。
「今日はたくさん紡の写真を撮るからね!随分と久しぶりだから腕は鈍っているかもしれ無いけれど・・・」
「望む所です!」
ふん!と両手を握る彼女に私はカメラを向ける。
私はそれをカメラに収める。
カシャリと乾いた音がやけに暖かく、この小さな病室を包んでいくような気がした。
今日はたくさん撮ろう。
移り変わる時間でまたこの時を思い出せるように。
そしてそこに私の心を映すために、
彼女を今日は写すのだ。
ふと紡は私の手を取り立ち上がる。なんだか本当に変わってしまったなと私は想いつつ、その手に導かれるまま病室の外に出た。
変化とは緩やかに、そして確かに訪れる。
かつては私が導いたはずの手に導かれながら私は・・・もう大丈夫。
そんな事を考えた。

【星を詠む人】まとめ版

映像版も公開中!リンクは下からどうぞ!

【星を詠む人/梅雨の蟹の日】
星を詠む人シリーズ第一話。
私は星を詠む。そうして人を想うのだ。
占い師で理学療法士である深文さんがシンガーソンガーで音楽療法士の藤井恵さんのコラボ作品!Tanakanの原作を朗読し、不思議で癒される世界をご堪能ください。

https://www.youtube.com/watch?v=AJBlxzjtqPg&t=4s

【星を詠む人】まとめ版

【星を詠む人シリーズ】のまとめ版!一気読みしたい方はこちらからどうぞ。 星詠みという言葉がある。 それは占星術とも読む事は出来て、 簡単にいうと天体に存在する星々の動きから、 人や社会の在り方を経験的に結びつける。事だと思う。 私は宮原 紡(みやはら つむぐ)と言う。 これは私が色んな人と出逢いを紡ぎながら前に進む物語。 それはまるで星の繋がりのように。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-27

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  1. 第一話【星を詠む人/梅雨の蟹の日】
  2. 第二話【星を詠む人/大人なライオンの日】
  3. 第三話【星を詠む人/乙女な夏祭りの日】
  4. 第四話【星を詠む人/朝露と天秤の日】
  5. 第五話【星を詠む人/真夜中と蠍の日】
  6. 第六話【星を詠む人/羊雲と鉛筆の日】
  7. 第七話【星を詠む人/細雪と手袋の日】
  8. 第八話【星を詠む人/初夢と薄氷の日】
  9. 第九話【星を詠む人/雨水と金魚鉢の日】
  10. 第十話【星を詠む人/里桜と押し花の日】
  11. 第十一話【星を詠む人/緑風と手紙の日】
  12. 第十二話【星を詠む人/双子の星詠みの日】
  13. エピローグ 【星詠みの双子の日】