パンダリズム
雨の日
窓の外は街灯のひとつもない薄暗い駐車場だった。
隣家の窓から漏れる明かりが、雨水で湿った地面をぼんやりと光らせていた。雨はまだ止まない。今度また台風が来ると言うから、烏や雀が変な声で鳴きながら右往左往していた。
僕は何ら気にすることなく、その日またしなければならない事を書き留めた付箋を机からひっぺがし、バックの内側に貼り付ける。
とりあえず今日しなければならないのは、盗まれた自転車を探しにいくこと、本立てを買いにいく事、何日も洗っていなかった浴槽を綺麗にするための洗剤を買いに行くこと、そんなくらいだった。
何もない休日だった。
ウォークマンで音楽でも聴きながら買い物に出かけようと、靴箱から靴を取り出そうと蓋を開けると、ヘラクレスオオカブトムシがいた。
僕は少しびっくりした。びっくりしたけれど、こう言うこともあるんだな、と少し間を置いて納得した。
誰かが飼っていて、逃げ出したものなのか、それ以外ないと思うけれど、ヘラクレスは僕のスニーカーの上でじっとしていた。
寝ていたのか、それとも単純に休んでいただけなのか、そのスニーカーを履こうと思っていたところだったから、僕は少しどぎまぎしながらスニーカーを取り出した。
ずっしりと重い。当たり前か。僕の手のひらくらいの大きさがある。
昔動物園で見たことがある。小学生くらいの頃だったか、そのヘラクレスは、手袋をした飼育員さんの手にがっしりと掴まっていて、とても力が強いから、素手で触ると怪我をするとかで、僕は見ることしかできなかった。
そのヘラクレスが目の前にいると言うのも、少し不思議な気がしたけれど、何よりもその、怪力のことを思い出してしまって、無理に引き剥がそうとしたら、スニーカーがボロボロになるんじゃないかと思って、背中を人差し指で突っつき退け退けと呟いた。
かなり弱っていた。ような気がした。日本のカブトムシより、寿命が長いから、こんな季節でもピンピンしてるのかと思ったけれど、そうでもなさそうだった。
ようやく、おじいちゃんみたいなヘラクレスは、よろよろとスニーカーから転げ落ちるように降りてくれた。
そのまま、外に放してやるのがいい大人なのかもしれないけれど、少し飼ってみたい気もした。
上のツノをどうにかこうにか掴み、段ボールの箱の中に入れる。
途中、下の角に挟まれて指が切り落とされるんじゃないかとハラハラしたけれど、もうそんな力もなさそうだった。
やることが増えた、僕はスニーカーを履いて出かける。
「すみません、ここら辺で、ヘラクレスオオカブトムシを見かけませんでしたか?」
両手にレジ袋をぶら下げた僕の後ろから、僕と同年代くらいの男が、そう話しかけてきた。
「ヘラクレスオオカブトって、ああ、あのヘラクレス」
僕は、うっすら笑いながら、その男と向き合った。
「いやあ、見かけませんでしたね」
男は、額の汗を手拭いで拭いながら、僕に言った。
「困ったな、あれは、私の息子が大事に育てていた一番立派なやつなんです、息子が悲しむから、何とか連れ戻したいんですが、生憎見つからなくて」
少し心が痛んだ。でも僕は、あのヘラクレスにあげるための昆虫ゼリーやら何やらを、たくさん買ってしまった。
そんなの通るか。そんなに大事なら、ふん縛ってでも逃げ出さないようにするべきだったのに、管理の不行き届きだ。お前が悪い。
そんなもんだと自分を納得させて、僕は店をでた。知らないうちに雨が降り始めていた。
さて、なんて名前をつけてやろう。名前なんかいらないか。呼んだところで、懐くわけでもあるまいし、犬や猫なら可愛げがあるが、カブトムシは全然違うベクトルだ。プラモデルとか、車とかに近いのかもしれない。
そこまで考えて、すこしゾッとして、家に帰る。もう何千回聴いたかわからない同じ曲が、何回も同じように再生される、帰り道。濡れないようにパーカーのフードを目ぶかに被り、小走りで横断歩道を渡る。車のタイヤが水を弾く音が、ネットリと耳にこびりつく。
家に帰ってきて、僕はさっきの段ボール箱を覗き込む。そうすると、ヘラクレスはもう居なくなっていた。
僕は周囲を見回す。あんなのがそこら辺をうろうろしていたら、絶対に気付く筈だと部屋中くまなく探したのに、ヘラクレスは見当たらない。窓が空いていたり、玄関の扉が開いていたわけではないから、どこかにいる筈なのだけれど、どこにもいない。
僕は、すこし落胆して、昆虫ゼリーを部屋の四隅に設置して、そのまま放置しておくことにした。
そのうち腹を空かせて何処かから出てくるだろう、そう思って、少し寝ることにした。
意味もなく夜更かしをしてしまって、疲れていた。横になると僕はもう、床に溶け込むように意識を無くした。
僕は盗まれた自転車に乗っていた。前の仕事で、どうしても使う用があったから仕方なくかった、黄色いママチャリ。
僕はクロックスを履いて、家の前の薄暗い駐車場から出るところだった。
そこで僕は、黄色い車に轢かれそうになった。クラクションを鳴らされて、急ブレーキをかけて、自転車のタイヤが、悲鳴みたいな音を鳴らして止まった瞬間くらいに、僕は目を覚ました。
両目を開けようとしたのだけれど、片目しか開かない。どう頑張っても、片方の目が開けられない。顔の半分が、すこし硬っている。
僕は急いで起き上がって、鏡で僕の顔を見てみた、そうすると、顔の半分に覆い被さるように、ヘラクレスが引っ付いていた。
うう、とうめいてみたけれど、ヘラクレスは全然動かない。悠々と、口の周りの触覚二本を遊ばせている。
迂闊に引き剥がせない。無理に引っ張ったら、顔の皮ごとむしり取られるかもしれないと、額から汗が噴き出た。
ヘラクレスの六本の足の先端にある鉤爪は、がっちりと僕の顔にめり込んでいた。
もしかしたら本人も、動こうにももう動けないのかもしれない。
僕は諦めて、ため息つきながら浴槽の掃除を始めた。それどころじゃないと言いたげに、ヘラクレスは僕が動くと一層強くしがみついてきた。涙みたいに血が滴ってきて、うめくしかない。
もういい加減、救急車騒ぎなのではないかと、電話の受話器を持ち上げて、ダイヤルを回そうと思ったけれど、嘘をついてしまった手前、それもできないと思った。僕は受話器を取り落とし、がっくりと膝を折ってその場に座り込んだ。コードでぶら下がった受話器が振り子みたいに左右に揺れる。それが、ヘラクレスの背中に当たって、コツコツ、と乾いた音がした。
困った。
いっそのことこのまま首でも吊るかと、途方に暮れ始めたとき、遠くの方で声が聞こえた。
「困るよね、電車に乗る時とか」
細々と聞こえていたそれは、徐々に普通の話し声になって、途端に僕は、それがヘラクレスから聞こえて来ると分かった。
「お前、喋れたのか」
「タバコ吸う時とか、お風呂入る時とか」
こっちの言葉は理解してくれないようだった。何でもいいから早く退いてくれと言いたかったけれど、これじゃあ意味がない。
「今日の君の運勢、最悪だったよ、僕なんか拾わなければ、こんな目に遭わなくてよかったのにね」
本当にね、と僕は痛みで顔を顰めながら、天井の蛍光灯を見詰めていた。
「僕ももう離れられないんだ。一生このまま。いいよね」
ふと僕は、部屋の隅っこに置いた昆虫ゼリーの方を見た。ゼリーは無くなっていた。
「食べてくれたんだ、ありがとう」
ついてない。いつもあまりついてなかったけれど、今日は本当に酷い。まぁ、こういう日もあるよな、と一人頷いて、蛍光灯を消して布団に入る。明日は観念して、病院に行こうと一人決意しながら、また目を閉じた。
パンダリズム
僕の部屋の出窓は、三枚のガラスが向かい合うように設置されていて、その両側の二枚に取っ手がついていて、開くようになっているのだけれど、左側の窓が今日の朝壊れた。開けようと思って、取っ手を捻ろうとしたら、取手がぽろっと外れてしまって、根本からぼきりと折れてしまっているのがわかった。
面倒なことになった。
これから病院に行かなければならないのに。
僕はオオカブトムシがくっついたままの頭を、重そうにもたげながら、業者に電話をかける。
午後に約束をして、痛む顔を摩りながら、病院に出かける。
外は快晴だった。案の定、台風は直撃しなかった。一昨日の午後ぐらいに来ていたみたいだけれど、全然わからなかった。ただ雨が降ったり止んだりして、薄気味悪いくらいに、ジメジメしていた。
朝起きた時に部屋が息苦しかったのは、そういう感じで、今日だけまた、真夏日に戻ったからかもしれない。まるでタイムマシンで、八月の真ん中くらいに戻ったみたいだった。
カブトムシを顔に引っ付けたまま街を歩くのは苦痛でしょうがなかった。こんな苦痛を味わうために、何年も何年も、苦しみを耐えてきたのかと思うと、何だか憂鬱だった。
すれ違う人すれ違う人、僕をみて、言葉になるかならないかの微かな声で、陰口叩きながら、過ぎ去っていく。
もう終わりにしたい、そのために病院に行く。多少の痛みなら、全然耐える。好奇心で張り付けてしまったカブトムシを、顔から引き剥がすためなら、何でもする。お金も出す。
ただ一つだけ、道端でばったり、あの父親に出会さないか、それだけが、気がかりだった。
会ったところで、適当にはぐらかすしかないのだけれど、どう見たって、不自然だ。ちょうど、息子のヘラクレスが居なくなって、それとほぼ同時に、顔にヘラクレス引っ付けた僕が歩いていたら、どう考えても、疑われる。
僕は、パーカーのフードを目深に被って、マスクを目元ギリギリまで引き上げて、このクソ暑いのに、冷や汗かきながら小走りで病院に向かう。警官が見たら間違いなく職質されると思う。なるべく、気配を消して、物陰に隠れながら、病院に駆け込んだ。
「カブトムシ、ですか」
僕は、顔が熱くなるのを感じながら、弱々しく、はいと呟いた。
「最近多いんですよね、顔とか腕にカブトムシがくっついて、そのまま取れなくなるって」
いや、そうなのかなと思って、本気で多いのか、気を使って言ったのか、細かいことをちみちみ気にしていたら、先生がものすごく重要なことを言っていたのに、聞き逃した。
「そういえばね」
先生は一通り書き物を終えたところで、僕に向き直った。
「この間、パンダの子供が抱きついて離れなくなった飼育員さんが担ぎ込まれてきた事があってね」
後ろで、助手の看護婦さんが笑い出した。
「あれは困ったよね」
パンダの子供、と僕がつぶやくと、先生は僕の顔に引っ付いたヘラクレスをむんずと掴んで、少し困ったように頬を人差し指で掻き始めた。
「これも相当難儀しそうだよね」
それ以上触られると、激痛が走りそうだったので、僕は堪らず話題を逸らした。
「その、パンダはどうやって、引っぺがしたんですか」
徐に立ちあがった先生は、振り向きざまに、笹の葉でさ、こう、釣って、と悪そうな顔をしながら、カーテンの奥の治療台の方に消えていく。
嫌な予感がしてきたところで、早くこっちと促されて、僕はその寂れた治療台に腰掛ける。
治療台の上に寝そべりながら、僕は笹の葉を食べるパンダの姿を想像していた。
そうすれば、気も紛れる気がした。もしかしたら、先生が気を紛らわすために、わざと嘘をついたのかもしれないと、どうでもいい人の悪意を敏感に感じ取っては、はあ、とため息ついて、どうでもいいから早く終わって欲しいと力なく外の景色を眺める。
飛行船が飛んでいた。ちょうど飛行船には、パンダのマークが描かれていた。あれは確か、アメリカにある中華料理屋のマークじゃなかっただろうか、何とかエクスプレス、何だっけ、と考えている間にも、ガチャガチャと何やら物騒な音がする。
ドカドカと重いものを運ぶ音やら、しまいには、歯医者が使うドリルの音みたいなのまで聞こえてきて、僕は、思わず震える口元をグッと噛んだ。
「お待たせしましたね」
あれだけめちゃくちゃな音を立てていたのに、先生が持ってきたのは銀のプレートとその上に何本か置かれたメスとハサミぐらいだった。
「さっき説明したかもしれませんけど、麻酔は使えません。この間同じようにカブトムシが顔にくっついた小学生の男の子も耐えられましたから、そんなに苦労しないでしょう」
よく見ると、本当に悪い顔してるなぁ、と僕は先生を見上げた。
何人見殺しにしたんだ。
先生が僕の枕元に立った時、アルコールの匂いが、ツンと鼻をついて、貞子みたいに、グッと下を見下ろした白眼の浮き出た血管、一生忘れられそうもない、そう思っているうちに、冷たい刃先が、僕の目のすこし下くらいに、ブスリと食い込んで、激痛を絵にかいたみたいに、真っ赤な鮮血が、先生の顔に、ビシャっと跳ねた。
家に帰って、テレビを付ける。そうするとちょうど、保護されたパンダの子供を育てるドキュメンタリーみたいな番組がやっていて、僕は目をしばしばさせながら、空を見上げた。
飛行船は相変わらず、ふわふわと熱帯魚みたいに浮かんでいる。新装開店したレストランの宣伝みたいだった。
行ってみようかとも思ったけれど、生憎僕の顔はもう人間のそれではなかった。
鏡に立って、僕は思わず悲鳴をあげて、鏡をグーで殴って割ってしまった。
カブトムシが居た部分は、血が死んで黒ずんでいて、縫合した跡だらけになった顔は、まるでフランケンシュタインだった。
もともとかなり醜い顔だったけれど、この怪我でもっと汚い顔になってしまった。小さな子供が見たら、泣くかもしれない。
それに、しばらくの間は笑ってはいけないときつく先生に言われてしまった。
広角を上げようとすると、顔全体がぐにゃりとずれるような感覚があって、それから激痛が走り、血が噴き出す。
その度に、痛み止めを飲んで、顔にタオルを巻いて血が止まるまで安静にしているしかない、そんな感じだった。
これがあと一ヶ月ぐらい続くのだと思うと憂鬱になった。足元で僕の鞄に顔を突っ込むヘラクレスが、心底憎たらしく思った。
でももう仕様がない。自業自得だ。
それから少しすると、取手の修理屋がやってきた。ぼくは思わず、息を飲んだ。
「あ、先日の」
青い作業着に身を包んで、ガチャガチャと腰のポーチにラジオペンチやらモンキーやらを挿した男は、この間の父親だった。
少し困った顔をした父親は、僕の顔を見た瞬間、まるで妖怪でも見たように、一瞬固まった。
僕は今にも心臓が止まりそうだった。
咳払いをして、深呼吸したあと、屈託ない笑顔で父親はお辞儀をした。
御用命ありがとうございま、とまで聞いたところで、僕は足早に居間に引き返し、慌ててバックと戯れているヘラクレスをそのままバックに押し込み、チャックを閉める。
「あの、どうかなさいました?」
い、いえ何も。
と言いかけたところで、顔がズレる感覚がした。愛想笑いを反射的にしてしまった瞬間、傷口が思い切り開いて、爽やかな秋空と、それに似た綺麗な青い作業着に、僕の真っ赤な鮮血が、ビシャっと飛び散った。
ヒューマン
天網恢々疎にして漏らさず、僕の悪事は、見事にバレた。
悪いことをした、そのことを、自分の中で認めて、謝罪をするときの、バツの悪さ、気まずさ、これは、本当に辛い。生きているのが、嫌になってくる。
申し訳ありませんでした、と腰をほぼ直角に曲げ、床と睨めっこする。
「いえいえ、何はどうあれ、無事に見つかってよかった」
父親は、柔らかく笑って、隣の椅子に座る息子に、虫かごに入ったヘラクレスを手渡した。
息子は、多分小学生二、三年生くらいかもしれない。
手渡されて、しばらくキョトンとしていたけれど、急に虫かごを両手で掴み、お前が悪いんだぞ、と通じるはずのない言葉を、ヘラクレスに投げかけていた。
虫かごの中のヘラクレスは、まるで墜落する旅客機の中の乗客みたいに、狭い虫かごの中で上下左右に打ち付けられていた。
「お前が勝手に逃げ出すから」
おい、と小さな声で、父親は息子を叱っていた。
僕はしばらく俯いて、顔面の痛みを噛み殺しながら、必死に父と息子の口喧嘩を聞いていた。
彼らは何の前触れもなく、いきなりやってきた。いきなりやってきたと言っても、やっぱりそれは、僕が家に帰ってくる時間を見計らって、用意周到に計画されたものだったんだろうけど、僕にとっては突然すぎた。
彼らは怒るでもなく、慰謝料とかの話をするわけでもなく、ただひたすらに父と子の間で他愛のない話をするだけだった。
今日のおかずは、匂いからしてカレーかな、とか、いや、カレーうどんかも、とか。
僕の言葉は、まるで初めから存在していなかったみたいに、すーっと流れていく。何年も前のニュースの話を、誰も覚えてないみたいに、僕の言った言葉たちも、何事もなかったみたいに、すーっと流れていく。
「私たちいつも、南米までヘラクレスを獲りに出かけるんですよ」
不意に話を振られて、僕はハッとなった。
「南米ですか」
「ええ、向こうではカブトムシをつかまえて育てるっていう風習がないみたいで、みんな結構不思議がるんですよ」
もう子供は、退屈そうだ。はやく喧嘩させて遊びたいと言わんばかりに、ギラギラした目でヘラクレスを見ていた。
税関とかは引っかからないのか、とか、聞きたい気もしたけれど、負い目のせいで、うまく話せなかった。
おじさん、パンダみたいだね。
おじさん、と言われたことも結構ショックだったけれど、パンダみたいと言われたことも結構ショックだった。
父親と子供は、そうして帰っていたけれど、僕は一人浮かない顔をしながら、顔の傷を摩った。
一生残るかもしれない、仮に治ったとしても、白く蜘蛛の巣みたいに、顔に亀裂の痕が残る、そのことを考えると憂鬱だった。
いつも自分のことばっかりだ。こんなんじゃいけないと思ってはいても、余計なことかもしれないと尻込みする。
いつの間にやら、この狭い部屋に引きこもっていって、気がついたら、玉手箱の蓋を開けた浦島太郎みたい。
この顔の傷は、人間を失格した印なのかもしれない。そのうち慣れるか。
笑って、指差して、この傷は、近所の子供のヘラクレスを盗んで、そのヘラクレスにつけられた傷なんです。
隠し通せると思っていましたが、駄目でした、あははは、それでいいか。それでいいな。
庭に目をやると、金木犀の花が咲いていた。
ヒューマンファンクミュージック
僕は生まれた時から猿だった。
それに理由は全くない。ただ、生まれた時から猿だった。
手に持ったラジカセの音量はいつもマックスで、みんなから嫌がられるけど、僕は至って、普通な気持ちで、そのラジカセから聞こえる音楽を聞いているのだけれど、今日は何回殴られるか、それだけが気がかりで、足元も覚束ない。
僕の唯一の友達、奥田さん、この間、顔にヘラクレスオオカブトムシが引っかかって取れなくなったとかで、大騒ぎしていた。
奥田さんは確か、蛇だった。生まれた時から蛇だと言っていた。詳しいことは僕も知らないし、理由も特にないのだけれど、生まれた時から蛇だった。
ヘラクレスが顔に引っ付いて取れんくなるって、どんな状況なんだと吹き出しそうになったが、本人と話した時、死にかけたと言っていたから、きっと大変だったんだろうなと思って、あまり触れないようにしている。
ラジカセから音楽が聞こえる。ヘットフォン買えばいいのにと、毛虫を見るような目で近所の女の子から小声で言われるけれど、そんな金があったら、もっとマシなもの食べて、パチンコなんか絶対に行かないのだけれど、お金はないしパチンコにも行く。ふざけた僕。
あ、噂をすれば奥田さん。電車の長い椅子に、わざわざ僕の隣に座って、フランケンシュタインみたいになった顔で、僕と目が合う。
「相変わらず、大爆音だね」
まるで、ノルマンディーに上陸したばかりの兵隊みたいに、僕の耳元で、皺くちゃで醜い僕の耳に、口を近付けて大声で話しかけた。
「この曲、大好きなんです、みんなに聞いて欲しくて」
「イカすね」
奥田さんは、フランケンシュタインみたいになった顔を歪ませて笑った。笑った瞬間に、顔の縫い目から、真っ黒い血が滴って、電車の床に飛び散った。
その瞬間に真っ青になって、奥田さんは赤く滲んだ手拭いで、自分の顔を拭いて、それから、慌てて電車の床を拭き始めた。
奥田さんは、可哀想。そんな風にしか、笑うことができないのだ。本当の意味で笑う、誰かを嘲るとか、そういうんじゃないのに、馬鹿にしてると誤解されて、とうとう、歩いてる時は、いつも顔を伏せて、自分を守るために、仏頂面でいる。
「奥田さん、痛くないんですか」
「痛いよ。痛いけど、我慢してる、みんなそうだと思うから」
ラジカセから、救急車のサイレンみたいな音が聞こえる。
思えばみんな、誰かと目を合わせないようにするために、スマホに目を落としたり、本を読んだり、寝たふりしたりしてる。
ウサギみたいな人、ネズミみたいな人、理由なんかないのに、理由を探してる。
男として生まれたこと、女として生まれたこと、猿みたいになったこと、ネズミみたいになったこと、ウサギみたいになったこと、蛇みたいになったこと。
奥田さんの顔にヘラクレスがくっついたことにも、理由なんかない。あったのかもしれないけれど、そんな理由、知らないし、知りたくもない。
そうやって僕も奥田さんも、絶対に衝突しない電車みたいに、絶対に交差することなく、ただ一切をやり過ごしていく。
「奥田さん、病院には行ったんですか」
奥田さんは、電波塔の向こうの夕日に照らされて、赤く滴り続ける血を光らせながら、言った。
「行ったけど、これでいいんだってさ。ちょっとイカれてるくらいが、いいんだって」
蛇だしね、と寂しそうに、奥田さんは笑った。
笑った瞬間にまた血が飛び散って、てんやわんやの大騒ぎ。僕のラジカセにも、その血が飛び散って、盛大に僕のラジカセが真っ赤に染まったから、僕も一瞬、これは壊れたんじゃないかと冷や汗をかいた。
次の駅で降りるんだよ、と奥田さん言った。
君はどこまでいくの、と痛み止めを水なしで飲み込みながら、奥田さんは言った。
「次の次の駅ぐらいで」
「何しにいくの」
「買い出しに」
そっか、と奥田さんは言った。
奥田さんは、僕が大音量で音楽を流しても、全然怒らなかった。いい曲だねって、一人、笑っていた。
そんな人が、いきなり、物理的に笑えなくなってしまったのは、少し悲しかった。電車の床は、まだうっすらと赤い。
「じゃあ、また。元気でな」
僕は、自動ドアの向こうで軽く手を振る奥田さんに手を振りかえしてから、少しの間、魂が抜けたみたいに俯いた。
電車を降りて、駅前の街はもう暗かった。銀河の星みたいに、街灯とか、ネオンの光が光っていた。それは歩くけば歩くほどに、渦を巻いて、無重力になって、ゆらゆら揺れ続けた。
鼓膜を揺さぶるくらいの音楽が、ずーっとリピートされて再生されていて、人の話す音も、バスのエンジン音も、横断歩道の鳥の囀りも、その音楽の中に飲み込まれていく。
そんな時に、僕はふと思うのだけれど、本当の人間って、いったいどこにいる?
辺りを見回しても、ウサギみたいな人ネズミみたいな人、龍みたいな人蛇みたいな人、猿みたいな人。
そういう人たちが、渦を巻いて、無重力になって、街の光の中に消えていった時に、僕という猿みたいな人が、ただ一人取り残されて、道路の隅っこにできた水溜りを、ちょっと見下ろしてみて、ああ、やっぱり猿だな、と一人、落胆して、僕もこの街の無重力の中に飛び込んで、ブクブクと、泳いでいきたい、本当の人間とか、本当の言葉とか、本当の音楽とか、本当の、本当の、みんな本当なのに、本当だから、本当じゃないのかもしれない。
ブクブクと泳いでいく。昔から、泳ぐのだけは得意で、体育の先生から、お前はずっと泳いでろと言われたのを思い出した。
そのまま、帰り方がわからなくなって、途方に暮れた僕は、行けるところまで突っ込んでしまえと、訳もわからず、がむしゃらに、泳ぎ続けた。
パンダリズム