すくううで

灰田

 (遠山つぐみに捧ぐ)

***

 ふいに自暴自棄になり、なにもかもがどうでもよく思えてくるときがある。まさしくそれは今であり、液晶上に連なりゆく無意味な「あ」の群れを、眼球痙攣に似た無力さをもって追い続けていた。
「その凶暴性は、拡大を続けるポストモダン的欲望の表象とする従来の解釈のみで捉えきれるものではない。むしろ、ああああああああ……」
 あ、ああ、あ、あああぁ。
 小声で読みあげてみたら、次第に言葉はあくびへと変わる。大きく伸びをすると、座椅子がきしむ。頭上の時計は丑三つ刻を指している。滲む涙を抑えようと自然におろした瞼の裏には、ブルーライトの光が突き刺さったまま、まぶしい。
 擦り減っている。
 どこかは分からないが、そんな直感があった。本能的なものなのかもしれない。もう潮時なんだと体が訴えている。
 冷めてしまったコーヒーはどんよりと重く、舌には苦味と変な酸味が残る。
 論理立ての言葉は脳裏を散乱し、どうにも収斂しない。そのまま自分の体まで言葉になってバラバラにほどけてしまうんじゃないかと思った。己を表す言葉がなにになるのかは分からないが、無秩序に散らばったそれらはなにひとつ、誰にも拾いあげてはもらえないんだろうとも訳もなく思った。それはとても寂しいことだ。鼻の奥がつん、としてくる。
 くっだんねーの。ばか、バカ、馬鹿。
 寝よう。
 バックスペースに人差し指を叩きつけ、「あ」を消す。代わりと言ってはなんだけど、左手で「ばかやろ」と打ち込み保存する。マウスの操作音。シャットダウンの青い画面に、くるくると待機のマーク。無限。永遠。輪廻。煩雑な脳味噌のすみで言葉を探しているうちに、光源は消え、部屋が闇に包まれる。目を閉じてもたいして変わらないほどの暗さにもだんだんと慣れる。ぼんやりした家具の輪郭を頼りに、仕事部屋から寝室へと向かおうとした、そのときだった。
 ひっかくような音。かすかな、かすかな響きで、真夜中じゃなければ多分聞き逃していた。
 立ち止まって音の源を探る。……廊下のほうだ。怪しい人かもしれないから、気づかれないよう静かに動く。そうしている間にも、音は次第に大きくなる。ドンッと一際鈍く響いた瞬間、玄関の小窓が揺れ、月光がちら、と反射したのが目に留まった。
「……ロク?」
 思い当たる節はその名前以外なく、思い切って呼びかけてみる。すると、案の定、あけろー、と能天気な声がする。命令口調になんともいえない気持ちになりつつ、玄関のドアノブを回す。
「何時だと思って」
「あはは」
 あはは、じゃねえよ。
 そんな台詞をこぼしてしまう寸前に飲み込む。人懐こい形に歪む唇からのぞいた犬歯が、乳白色に光っていた。持ち上がった頰に赤い線が走っているのに気づいて口を開く。
「怪我してる」
「あ? あーあー、これはなんもない、ほんと」
「なんともないわけないでしょう、結構深く切れてるのに」
「いいんだって、別に」
 それよりさあ。
 ロクは親指と人差し指で輪を作り、こっちに向かって差し出してきた。
「ちょっと、ほんっ――と、ちょっとでいいから金、貸してくんない?」
「お金……」
「そ、お金」
 頭に手をやり、たははぁ、と間延びした笑い声。まるで照れ隠ししてるみたいな姿に戸惑い、押し黙ってしまう。そんな私の様子に怯んだのか、ロクの綺麗な笑顔も少し陰る。雲が流れて月が隠れたせいで、辺りも陰ってくる。
「あー……なんかごめんなぁ、俺、バカで……」
「いや……そういうんじゃないんだけど……」
 素行の良くない彼には散々迷惑をかけられてきた。酔っ払って店の備品を壊してしまったのを代わりに平謝りしたり、ムシャクシャしてすれ違う人に殴りかかろうとするのを必死で止めたり。
「……そのさ、ほんとにやばいんだよ。やばい連中に目ェつけられてやばいんだって……なあ、たのむよお、電車代だけでいいんだ、あんたが最後なんだよ……」
 やばい、やばいの繰り返しで状況も分からないのに、しまいには地面にひざまずこうとするものだから、慌てて引きあげる。
「やめてよ、そんなこと」
 掴んだ右手にも擦り傷ができている。なんだか生まれるいたたまれない気持ちが表情に出ていたようで、癪に触ったらしいロクの顔はたちまち歪み出す。
「んだよ、下手に出てりゃ馬鹿にしやがって……」
「馬鹿にしてない」
「じゃあ、貸してくれんのかよ」
 強まる語気。寒さで白濁する吐息。苛立ったとき、こめかみ辺りに生じるわずかな痙攣。返事を待つ目玉。
 夜の青さでわずかに大きくなった彼の瞳孔には、変な光が宿っていた。でも、それは眼球以外に表出しているような怒りの炎ではない。また、媚びでもない。目玉だけ感情が読み取れなかった。ブルーライトみたいに無機質な光だった。
 声は出さずにうなずく。彼は不思議な表情のまま、じぃ、とその動作を見ている。目玉の光が揺らいで私が映る。気持ちでは困っている割にひどくつまらなさそうな表情をしていて、少したじろぐ。二人の間に気まずい沈黙が流れる、と思ったけれど、意外とそれは一瞬で終わる。
「まじで助かる!」
 満面の笑みでロクは抱きついてくる。首がしまって、ぐえ、と唸る。ひゅう、と細く息を吸うと、夏でもないのに汗のにおいがかおった。犬みたいにはしゃぐ彼を引き剥がし、服を整える。服って言っても、だらしない部屋着だけど。
「やーっぱ持つべきもんはなんとやらってなあ」
 ロクはからから気持ちよく笑う。さっきまでの変な空気は消え去っていた。いつも通りの彼だった。
 笑った拍子に傷口が引っ張られたのか、いたっ、と頬を抑える。血がじんわりと滲み出していた。子どものように拭おうとするから、掴んでやめさせる。
「ロク、消毒しないと」
「いーよ」
「痕になるし、病気になるよ」
「なんねーよ」
「なるよ、破傷風とか」
 手はすぐに振り払われたが、負けじとドアを開いて、部屋に手招く。
「ほら」
「いいって、ほんと」
「ロク」
「それより、早く金くれって」
「な、」
「急いでんだよ」
 ひらめく手のひらを見ながら、放たれた言葉の意味をしばし考える。月がまた顔をのぞかせる。彼は逆光になり、表情はよく分からなくなったが、爛々としてうつろう瞳の鋭さだけはいやにはっきりと視認できた。
 その闇のなかで、ロクの口が動く。唾液に濡れる歯がちらちら光り、乾いた唇が言葉をなしていく。め、ん……と発音は遅れて聞こえてくる。
 ぷつん、と切れる、なんて思う暇もなく、腕は風を切っていた。気づけば、ロクの頬と私の手が衝突している。そう認知した瞬間、感覚は無限に引き延ばされ、その手は握りこぶしでも平手でもなく、中途半端に開かれていて、殴るというより叩きつける様相を呈しているのをまざまざと実感した。
 痛みは遅れてやってくる。骨と肉がぶつかって、皮膚越しに粒々した歯列の感触、ロクのよだれと血が滲んでぬめって温かくて、痛みは遅れてやってきて、あっ痛い。
 殴りぬけても彼は若干よろけた程度で、すぐに体勢を整える。でも、頬を左手で抑えたまま、茫然としていた。月光の射線からずれ、はっきりと見えたロクの表情は少しまぬけだった。

「ばかやろー‼」

 思いっきり叫んで、ドアを閉める。
 ワンテンポ遅れてドアが勢いよくノックされる。がたがた揺れる。ノックに飽き足りずすぐに蹴りが入れられる。私は耳を押さえてうずくまる。焦って媚びる声が怒号に変わり奇声に変わる。私の名前が呼ばれ下品な悪口に変わる。
 聞こえてるけど耳を塞いでるから聞こえないよ。ロク、ロク、早くどこかへおゆき。
 最後に遠吠えみたいな絶叫が聞こえて、ガンガンと階段のほうへ足音は遠のいていった。

 うしみつどき。
 そんな時間であっても、意外とおぼろげな喧噪は感じる。しかし、今夜はどうだろう。取り残された空気は震えない。さっきまでの騒々しさが嘘のようだった。窓から差し込むまどろんだ青さは煩わしく、逃れようとリビングのほうへ足を進めれば、再び五感は暗闇に支配される。
 ずっと、虫の居所が悪かった。一瞬の友人の訪問でなおさらひどくなったかもしれない。
 溜息を一つ吐き、床をきしませて寝室に向かう。長く、長く、壁に伸びていた影はとうとう闇に飲まれ消えた。
 戸を開くと、自分のにおいがする。どんなにおいって聞かれても上手く表現できないけど、ここは誰にも支配されない自分の領域なんだって思えて、いつだって安心できた。敷きっぱなしのくたびれた布団に潜り込んで、天井を見あげる。

 多分、気に食わなかったんだと思う。
 なにが。
 急な来訪も、なけなしの優しさを無下にされたことも、寂しさに気づいてもらえなかったことも。
 はじめっからぜんぶ。

 いざ、上がり込まれても、また粗を探して、なにかしらに腹を立てていたんだろう。
 でも、そんなこと、今は興味がなくて、煮え切らない苛立ちをそのままに瞼をおろす。

 友だちと、お金の貸し借りなんてしたくなかった。
 昔から、お金で友情は壊れるって聞いてたから。
 これで良かったんだよ、私たちの友情のためには。
 こればっかりは自業自得なんだよ、ロク。

 ロク。
 ロクの「ロク」は「ろくでなし」の「ろく」。

 前、優しい人が教えてくれたことを思い出す。
 他の人にたかっているのは知ってたけど、自分のところには来たことがなかったから、なんとなく、特別扱いされているみたいで嬉しかったのに。
 ロク。

『面倒だろ、お前も』

「も」ってなんだろう。
 たしかに面倒なのは間違いじゃない。
 そうか、君も面倒だったのか。
 私は鈍感だからなんにも知らなかった。


 なにもかもが、どうでもいい、なんてきっと嘘だった。
 なにもかも、許せない、だけだった。



 ――ああ、
 でも、ともだちをなぐったりしては、いけなかった。
 ロク。
 つぎ、あったら、ちゃんとあやまる、から、
 きょう、は、おこった、ままでい、させ

***

 夢を見た。大事な人が死ぬ夢だった。と、言ったら、あまりにもできすぎで。本当は、誰のものでもない、酸っぱい舌に生えた鱗を、ずーっと鳴きながら数えていた夢だった。

***

「これであってる?」
「……あ、ああ、はい、そうです、すみません」
 脚立に乗った先輩は、ほい、と本を手渡してくる。掲載年月日の書かれたメモを片手にページをめくると、欲しかった記事はちゃんと出てきた。
「バタイユ?」
「はい。一応見直しとこうかなって思って」
「頑張るねえ」
「論は通ってるけど、批判がまだ潰しきれてない~って言われちゃったんですよね」
 薄暗いバックナンバー室に漂う古書の甘い匂い。先輩が本棚の間から出たのを確認して、ボタンを押す。移動式書架がブザー音とともにスライドし、隙間は埋まる。
「学会初発表もあとちょっとだね」
「はい、もう今から緊張してて……」
 狭い通路で学部生とすれ違う。その拍子に抱えた本の山が崩れかける。横から伸びてきた先輩の手がそれを抑えてくれる。
「この前の修士論文がベースでしょ? よく書けてたしそんな気負わなくてもいいよ」
「それでも、こわいですよー」
 階段をのぼり、地下から地上へ。布貼りの床が足音を吸収し、図書館の静寂は保たれる。レファレンスデスクを通り過ぎ、コピー機の横に設置された椅子で一息つく。背後の窓から西日が差し込んでいた。日焼け防止で図書館内に窓は少ないから、特別ここは明るい。背中にじんわりとした日光の温かさを感じる。
「……ていうか、最近ほんと元気ないよね。大丈夫?」
「資料集めてるとつい寝るの遅くなっちゃうんですよね」
 連日の準備でたしかに瞼は重かった。でも、我慢できないほどではない。
「いや、発表準備抜きにしてもさ」
 声色が変わる。先輩は本当に心配してくれているようだった。危ぶみの色を滲ませる彼女の瞳が、その縁のまつ毛が、夕暮れの黄を含む。そこに映った自分はほとんど影といってもいいようにおぼろげだったのにも関わらず、疲労がじっとりと纏わりついているのが分かった。
「……ロク?」
 唐突に出てきた名前に少し固まる。
「……別に」
 違います。
 と、すぐに答えられなかった。言いよどんだせいで、先輩はますます眉をひそめる。右手の指でちょうど触れていた本の背表紙をざりざりと撫でる。その感触は、あの日握ったロクの手の砂埃にちょうど似ていた。
「お前が最後なんだーって言ってたんだっけ? じゃあ、走ってここら辺から逃げたんだよ、きっと!」
「……はい」
「で、どっかの街でまた誰かにたかってる! ろくでなしのロクのことだし! ね?」
 数か月前の夜を思い出す。傍若無人の一言だったあの夜。あれからずっとロクの姿を見ていなかった。元より神出鬼没で、呼んでも来ないし呼ばれてもない飲み会にいきなり出現するような奴だったが、ひどい夜をひどかったとなすすべなく思っている間に、凍てつく空気は溶け出して、いつのまにかにじりよってきていた夏の熱気が街を包みつつあった。
 先輩は隣の席から少し身を乗り出し、背中を撫でてくる。こんな年になっても、子守りをされているみたいでむずがゆい。レファレンスデスクのほうから視線を感じる。近くなった彼女の服から、優しくて甘い柔軟剤の匂いがした。
「……ロクがいつか痛い目見るなんて、みんな分かってたじゃん。あんな強欲野郎、遅かれ早かれこうなったんだよ、気に病むことじゃないって」
「分かってる……分かってるんですけど……」
 どこに行ってしまったんだろう、あのろくでなし。
 最後に会ったのは多分自分で、しかも、思いっきりぶん殴ってしまったってはなしは、すでに仲間内で広まっていた。だからって、誰も責めてはこない。むしろ先輩のように同情してくれる人ばかりで、それが私をよけいにいたたまれなくさせた。
「それに、死んだってあんなやつだれも……」
 声が途切れる。変に思い、顔をあげると、先輩の視線はこちらの頭上に注がれていた。彼女の瞳が驚愕に見開かれつつも、時折まぶしそうにしばたくのを見て、初めて、背中に感じていたはずの日光の熱が消えてしまっているのに気づいた。
 彼女の細い指がどこかを指さす。その先を自然と追う。思っているよりも指は上を向いていて、私はますます顔をあげ、背中を大きく反らし、空を見る。太陽が眼球を貫いたあと、不自然にあめ色がよぎる。その色は人の虹彩なんだと認識した瞬間、無理な角度になっていた椅子の脚が滑り、静かに床に落ちていく。
「大丈夫⁉」
 先輩の悲鳴が図書館に響く。きっと窓の外では別の大声が響いている。もう汗ばむ陽気だというのに、分厚いジャケットを羽織った、大口開けて笑うロクが、窓に貼りついて私を見おろしていた。
 なんで、また、急に。
 尾てい骨を派手に打ち、さすりながら座りなおしている合間に、ロクはセキュリティゲートを軽く飛び越え駆け込んでくると、私を見て、また大笑いする。先輩も茫然してしまっており、場違いなロクの嘲笑だけが辺りに木霊していた。
「あー! テメ、そんな驚いたかよ⁉」
 ぎゃはは、と笑えば唾が飛ぶ。柔軟剤の匂いに酒の臭いが混じる。機嫌よさげに細めた目はとろん、と濁っていた。
「ロク……あんた、今までどうしてたの……⁉」
「なーんかまーた変な本読んでんのかよ」
 なんとか絞り出した様子の先輩の質問を無視し、私の隣に腰掛け、本をめくって、意味わかんねー! と叫ぶ。鼓膜が破れそうだ。レファレンスデスクからいよいよ司書の人たちが向かってくる。
「てめーよぉ、どーせ今から暇だろ」
「暇じゃないよ……」
「おら、どっか行くぞ」
 無理やり手を取られ、立ち上がらせられる。本はガタガタと落ちていく。先輩がまたなにか言ったが、司書の人もなにか言ったが、ロクが走り出したせいでそれらの響きは風に消えていく。ハードル走のようにゲートをなんとか飛び越える。クーラーで凛と冷えた空気が、湿気を帯びた夏の熱気に移り変わっていくのをはっきりと知覚できている。
「ロク、ロク! ちょっと待って!」
 私の叫びにようやく反応したのは良かったが、唐突に立ち止まるものだから、慣性の法則で盛大に衝突し、道に団子になって投げ出された。
 完全にハイになっているロクの笑い声がまだ聞こえる。倒れて横になった視界に、足早に通り過ぎていくサンダルや、わざわざ大回りして私たちから離れようとするスニーカーが映っていた。
 ひりひりと左の手のひらが痛い。鼻の頭も擦りむいてるな。右手はなんともない。体を起こすと、無事だった右手の下にはロクのジャケットの袖があった。これがクッション代わりになってたのか……
「…………は?」
「ははっ、いってえなー、ぶつかってくんなよぉ」
「ちょっと待って、おかしい」
 ロクが背中にのしかかってくる。体が密着する、異常に。笑う吐息が私の髪にかかって揺れた。
 変だ。手ごたえがなさすぎる。覚えた違和感の正体は袖の下に隠されている。なにか祈るような気持ちになり、べたべたひっついてくるロクの体を慌てて引きはがす。
「なんだよお……久しぶりだってのに水くせえなあ……」
「ちがう、そうじゃない、そんなんじゃないんだよ、ロク、腕はどうしたの」
 すると、垂れたまなこが楕円に見開かれ、黒目が小さくなって、でも、すぐにいたずらっ子みたいな光が宿る。
「知りたい?」
 やめろ、と喉まで出かかっているのに、上手く音にできない。どうしよう、どうしよう。暑くてたまらないのに、冷や汗が背中に伝っていく。めまぐるしい思考のなかで進歩もなくもがいていたら、もう時間切れになってしまい、傷だらけの右手はジャケットをはだけさせる。
「じゃーん」
 赤らんだまぬけ面。痛んだくせ毛。日に焼けた首筋。
 血の気が引いていく、と思ったら、さざなみのようにまた熱が生まれ、頭に血がのぼる。
 左腕がなかった。
 肘の、その先が。
 それでも、私の記憶は、たしかにそこには続きがあったんだと叫んでいて。
 ロクは、ずっと笑っていた。
 最初から最後まで。
 巻かれた包帯はぐるぐると永遠を表しているみたいに見えた。

***

「――んで、ほんとはそのあと別のとこ飛ばされてバラされる予定だったんだけど、戻ってこれたってわけ」
「結局どこの国だったの。情景描写が暑かったばっかで分かんないよ」
「言葉分かんねーし国も分かんねーよ、フィリピンぐらいじゃねえの?」
「その……一緒にいたこわい人たちは教えてくれなかったの?」
「覚えてね」
「そう……」
「あ、でも、さっき話した、俺んこと気に入ったっつってたオッサンがさ」
「ダサいスーツの人?」
「そう、そいつ。俺のことなんて呼んでたと思う?」
「え、本名?」
「だと思うじゃん。あいつも『ロク』って」
「わー、偶然」
「ろくでなしの名前なんぞ覚える価値もねー、ここで腕切り落とすのはてめーで六人目だから『六』だ! って」
「六番目……」
「今思うと、意外と少ねーよなーって」
「……多いとか少ないとか分かんないよ」
「そーかー? てか、グラス空じゃん。なんか頼めよ」
「……ねえ、本当におごりでいいの?」
「いいのいいの、金ならたんまりあるからよー。あ、エビチリ、最後の一個食っていい?」
「それこそ、ロクのおごりなんだから好きに食べなよ」
「それもそうか」

***

 彼と出会ったのは、まだ学部生の頃だった。飲み会に誰かが呼んだのか、勝手に来たのかは覚えていない。少し年下で粗暴な語り口に、合わなさそうだな、と遠巻きに見ていたが、なぜだかいつのまにか近くの席に座っていた。なにを勉強したいの、と社交辞令で聞いたら、意外にも「詩」とちゃんとした答えが返ってきたのが印象的だった。「それっきり」と思っていたら、「それ以来」彼は頻繁に私を訪ねてくるようになった。しかし、少なくともうちの文学部に籍はなく、正直、未だに彼の素性はよく分かっていない。ただ、気の置けない友人だとは思っていた。

***

 錆びたアルミの板が高く鳴る。生暖かい風が吹き、私の髪と、ロクのジャケットの左袖を揺らす。彼の右手で、コンビニのビニール袋に入ったスチール缶が触れ合い、かすかに音を立てた。
「踏み抜くなよ」
 五段ほど先をゆくロクは振り返り言う。あはは、と上機嫌な笑い声を残し、二階へと走り去る。
 身の内から知らぬ間に汗が滲む。左手に持ったビニール袋のなかのアイスだけひんやり冷たい。見あげた空に月はなく、また曇りガラスの貼られたアパートの窓にも明かりはなかった。街灯がすべてを照らしているわけではないが、この周辺はろくに手入れもされていないようだ。現に草いきれがひどく鼻につく。夏のにおいだった。
「なにしてんの」
 早く来いよ。
 角からロクが顔を出し手招く。はいはい、と返事をしながら、階段を少し駆けると、建物全体がきしんだように感じた。
 おんぼろアパートの二階。一番奥の部屋。色褪せた扉を足で開け、どーぞ、とロクは言う。私の部屋には何度か招いたことがあったが、彼の家に来たことはなかった。
「ロク、家あったんだね」
 いつもと逆の立ち位置がどうにも不思議で、妙に緊張したまま、家に上がる。ロクはビニール袋を放り、靴下ごと靴を脱ぎ捨てる。汗ばんで湿っぽい足音を立て、居間の電気を点ける。
「家ぐらいあんだろ。なんだと思ってるんだよ」
 なんとなく聞こえなかったふりをして、アイスどうする? と質問で返した。食う、と短い答えが届き、袋を手渡せば、歯を使って器用に開く。
「溶けてる」
 そう呟いてはいたが、別段気にしてないらしく、とろけた水色の長方形を齧る。甘味の流れが右手から垂れ落ち、フローリングを濡らしていた。
 戻した視線の先、ホテルに置いてあるような小さい冷蔵庫。ビールが一缶転がっているばかりで、中は空虚だ。
「調子に乗って買ったけど、さすがにもう飲む気はしないな」
「俺も」
「ロク、会う前から飲んでたしね。これどうする?」
「どうにでもなるだろ」
 ロクの代わりに缶を冷たい箱に封じる。戸を閉じたら、重たい湿気がたちまち冷気の残る手を包み込んだ、
 冷房はないようだった。ロクはおもむろに立ち上がり、窓を開く。どぶ臭い風がやわく吹き込むと、いくらか火照りが引く。そのくせ、いつまでもジャケットを脱がない彼の頬は赤く、不自然で滑稽に映った。
「……家に着いたんだし上脱いだら? 暑いでしょう」
 私が聞くと、顔をくしゃ、としかめ、空っぽの袖をさする。
「着てないとなんか痛いんだよ」
 左腕が。
「……幻肢痛?」
「分かんねーけどな」
 そう言って、大きく口を開き、残ったアイスの欠片を放り込む。溶けたアイスで、ロクの右手はコーティングされたみたいに光っている。そのまま、窓の桟にもたれ、背中を反らせる。あー、と叫びながら、空を蹴りあげる真似をする。そんな様子を見ていたら、近くに置かれていた棚に勢いよく右足をぶつけるものだから、驚いてつい声をあげてしまう。
「ロク!」
「ぐわ、いってえー!」
 薄暗い台所から出て、うずくまる彼の元へ行く。ロクは両手を合わせるように、袖を右手に被せ、足を押さえている。そんな彼をいたわりながら、ふと目をやると、棚から本が落ちてしまっているのに気づいた。そのなかに、見慣れた表紙を見つけ、思わず手に取る。
「ひー……ん? ああ、それ」
 うちの大学の紀要だった。角は薄汚れ、ページには折り目。蛍光灯の光は表紙にできた無数の細かい傷を明らかにしている。
「気になってさ」
 痛みが引いてきたのか、足の小指をまだちょっとさすりながら、どか、とあぐらをかく。
「あんたの論文初めて読んだ」
 ちょうど、あの冬の夜に書いていたものだった。そのとき渦巻いていた倦怠感と無力感とがまざまざと思い出され、最後に幻の咆哮が鼓膜を震わす。
「……どうだった?」
 向かい合う位置に腰をおろす。ロクは私の姿を目で追う。いつくしむように撫でてみれば、痛んだそれの纏う埃が手についた。
「よく分かんなかった」
 そう言い、細めた目。ごめんな、をこぼし、こわばる唇から犬歯の白さ。記憶のなかであの日の月はいつまでも生白い。
「……いいよ」
「あんがと」
 空気が抜けるみたいな、興味もなさそうな返事をし、彼は大の字に寝そべった。酒が相当回ってきたのか、まどろんだ瞳は潤み、揺れている。
 散らばる本を見る。小説、ノンフィクション、新書。ジャンルも年代も統一性がない。古本屋の片隅、乱雑にカートにぶち込まれた処分寸前の古書を連想する。彼の好みは連想できない。ただ、何冊か谷川俊太郎の詩集があるのは分かり、本当に詩の勉強してたのか、と少し思った。
 バイクの走る音が吹き抜けていく。手の内の紀要をめくる音だけが妙に鮮明だった。
 視線をずっと感じていた。聞こえる呼吸が次第に深く、ゆったりとしたものになっているというのに、そのまなこだけはずっと私を捉えている。
 ページをめくれば、黒目がかすかに右から左へ。動いているから、追っている。それだけ。酔いもあるだろうが、感情のない眼球の運動はなんとも原始的で動物的に映った。
「ずっと、分かんなかったんだ」
「なにが?」
「お前のこと」
 そういうの読んだら分かるかもって思ったんだけど。
 あまりに唐突な発言だった。彼の言葉を理解するまでにやや時間がかかり、何回か脳裏で反芻する。
「……分かりたかったの?」
 ロクは瞼をおろしていた。しかし、意識はぼんやりとあるようで、問いかけると、一度だけ大きく目を見開き、また閉じる。
 どうして、とは続けられなかった。
 自分自身を難解な人間だとは思っていなかった。分かったって面白いことも得することもない人間だ。
 見てはいけなくて、聞いてもいけないことを知ってしまったようで、それ以上なにも言えなかった。ロクは私のことを知りたがる人間じゃなかったはずだし、たとえ、知りたいと思っていてもそれを知られたがる人間でもなかったはずだ。
 ロクは自分より少し年下で、詩を勉強しているらしくて、あまり細かいことを気にしなくて、ろくでなしだけど、なんだか茶目っ気があって、でも、乱暴なところもあって

 ――そこで思考が止まる。

 なんで今まで不思議に思わなかったんだろう。
 ロクのことがこれ以上分からない。
 酩酊した脳味噌をかき混ぜるみたいに記憶を辿っても、さっきまでに浮かんだ情報のほかには本名ぐらいしか分からないままだ。
 私はロクのことをなにも知らない。
 奇妙に正しいその認識は、この世の真理を模した形で眼前に浮上した。
 すると、急にロクに触りたくなった。そっと手を伸ばし、彼の額を撫でてみたら、汗で少しぺた、としていた。前髪の表層はいつも通り、ざらざらして柔らかいけれど、額に貼りつく毛束は濡れて重たい。ロクは目を開く。あめ色の瞳に不安げな私の顔が映っている。なにを思ったのか、ロクははにかむ。どこかあどけない笑みを浮かべたまま、腕をあげるが、届かない。空っぽの袖がさらさらと音を立て落ちていく。なにも、掴めないまま、落ちていく。
「……どうした? なんか死にそうな顔してね?」
 彼は異変に気づいたのか、体を起こす。
「水飲むか? あ、ゲロか!」
 まだ吐くなよ、と片腕で私を抱えて、真っ暗な廊下に出る。ほとんど引きずられるようにしてどこかに連れ込まれる。電気がいきなり点けられ、目がやられる。一瞬眩んだあと、現れたのは浴室だった。トイレも一緒になっているこじんまりとした一部屋に乱暴に放り出され、浴槽に頭をぶつける。
「だいじょうぶかー? 水持ってくるからな」
 逆光のロクはそう言う。そして、また台所に向かおうとする。しかし、おぼろげなデジャヴとひらめく左袖を前にした私は、とうとう我慢ができなくなる。
「お、」
「……ごめん」
 とっさに彼の左袖を掴み、口を開くと、自然とその言葉が出てきた。
「なんだよ、ゲロ吐こうが気にしねーって。居間で吐かれるよりずっと……」
「ちがう……」
 左腕。
 情けないぐらい、消え入りそうな声だった。アルコールのせいで自制が効かず、勝手に目の縁が熱を帯び、視界は歪み出す。嗚咽を必死に堪え、もう一度、ごめん、とこぼすと、彼は私の前にしゃがみ込んできた。
 向かい合ったロクの瞳に、あの夜に見た、不思議な光が宿っていた。怒りとも憐みともつかない、こちらにすべてをゆだねるような、それでいて、こちらをすべて飲み込もうとするようなともしび。前髪の束のいくつかが落ち、かすかな影が生じると、その目玉にはおぼろげに私の姿が反射する。
 意外に長いまつ毛に縁どられた目玉の下には、小さなかすり傷ができている。今日、大学でこけたときのものだ。でも、それ以外にはない。傷なんかない。異国で「こわい人」と過ごした名残も、あの夜に私が殴った証拠も綺麗に消えてしまっていた。つるんとして、わずかに産毛の生えた、若い肌だった。
 まっすぐに右手が伸びてくる。ロクは指で私の輪郭をなぞる。なにか確かめるみたいに顎に触れ、唇には親指が伸びてくる。つくりものみたいなロクの表情はおそろしかったが、目を逸らすことができなかった。蛇に見入られた蛙のような気持ちでじっと見つめ合っていると、ふいにロクの口角が上がる。
「気にしてねーよ!」
「んぶっ!」
 いきなり頬を掴まれ、思わず汚い声をあげると、ロクはけたけた高らかに笑った。
「因果応報だろ」
 明るい声で言い、肩に手を置いてくる。
「どうせあそこで金借りても捕まっただろ。それにこうやってまた会えたんだし、もうなしにしようぜ」
 色々ごめんな。
 あんまり急な展開に、そのうえ、珍しい彼からの謝罪に、しばらく呆気にとられていたが、ロクの笑顔がじわじわとどこか深いところまで染み込んできて、最後には私も笑う。私が笑うと、ロクもなおさら笑うから、私も笑う。きりがなくて、妙にくすぐったくて、なぜだか泣きたくなった。

 ――ああ、もう大丈夫。
 なんにもこわいことはなかったんだ。
 ロク。
 私の友だち。
 それだけで十分だったんだ。
 そうだったんだね、ロク。

 切れかけの蛍光灯がじり、と点滅する。開け放った居間の窓から入り込んでくるのは風ばかりではなく、死にゆく明かりの周りを小さな虫どもが舞っている。
「あ、そうだ」
 なにかを思い出した様子で、ロクは立ち上がり、洗面台の横を漁り始める。見えにくいのか、洗面台の蛍光灯も点け、隙間に手を伸ばす。
「うし、ほら、お土産」
「えっ」
 埃を払いながら、手渡されたのはポチ袋だった。
「お土産ってそんな」
「いやー、日頃のお礼ってやつ?」
 あきらかに日本製。景気の良さそうな鯛がたくさん泳いでいる。多分、袋に関しては、こっちに帰ってきてから用意したのだろう。
「なんか、変な別れ方してたしよ」
 ロクは照れ臭そうに頬を掻き、早く開けろよ、と言った。
 お土産なんて買う暇あったんだ。ていうか、どうして洗面台の隙間なんてとこに隠してたんだ。
 色々と疑問は浮かぶが、自分のことを思って選んでくれたという事実が少し嬉しかった。粘着力が弱まった赤丸のシールを剥がし、中身を取り出す。すると、左手のうえに、毒々しい色をした小切手のようなものが落ちてきた。
「え、」
「えへへ」
「は?」
「どうだよ」
「どうって、は? ちょっと、え、なんだよ、これ」
 今度は思考ばかりが焦るせいで、言葉を紡げない。
「アシッド」
 ロクは俗語を口にする。
 目の奥で大昔に講演会で見たビデオがめぐる。一生縁がないと思っていた代物とあまりに唐突に遭遇し、ぱくぱくと空気の足りない金魚みたいに口を動かしていると、隣でロクは饒舌に語る。
「これ、変なおっさんからもらってよ、あ、アンゼンアンゼンつってたぜ。で、夜、夢にお前が出てきたんだよ。俺さ、全ッ然夢見ねーの、まじで。だから、お告げかなーって思って」
 そういうわけ! と快活に締めくくる。およそ他人にこんなものを渡してきた人間には見えない。むしろどこか得意げで、蝉の死骸を飼い主に捧げる猫が脳裏で喚く。
 ……いや、「こんなもの渡してきた人間に見えない」ではなく、実際、ロクが渡してきたのはジョークグッズじゃないのか。
 そんな希望的観測が浮かぶ。そう思うと、彼の態度にも納得がいく。少し落ち着いてきて、口を開く。
「その……」
「ん?」
「冗談だよね……?」
 問いかけた瞬間、ロクの表情が一気に歪み、部屋が真っ暗になった。
 視覚が遮断され、暑さに混じる草いきれとドブの臭いが一層鼻につく。車の走る音。耳元で虫の羽音。
 鼻の頭に汗が伝い、夕方の擦り傷にしみる。心臓が異常な速度で暴れている。困惑するが、動けなかった。電気が消える前の、ロクの表情は、なんだ?
「……ロク?」
 おそるおそる彼の名前を呼ぶ。
 すると、いきなり頭に痛みが走る。髪を掴まれたとすぐ気づくがどうしようもない。そのまま体ごと引きずられどこかに叩きつけられる。ばッと勝手に息と声が腹から飛び出す。また少し髪ごと体を持ちあげられる。
 みぞおちの辺りが濡れる感覚がある。冷たく、湿る。息苦しい。
 浴槽だ。
 浴槽の縁に半身乗り出させられた。なにが始まる? さかさまになった頭に血がのぼって考えられない。
 ふいに閃光とともに音が立ち、洗面所にぼんやりとした明かりが灯った。
「……ブレーカーがすぐ落ちんだよな、この家」
 ライターの炎の揺らめきにロクの顔が浮かぶ。私の体を少しよけ、彼も浴槽の縁に軽く腰掛けた。
 右手にライターを持っているから、もう髪の毛を掴んではこない。ただ、こちらの様子をじっと観察しているだけだった。乱暴な動作だった割に、彼のこめかみは痙攣していない。怒ってない。それどころかひどく柔和な笑みをたたえており、とてもおそろしかった。いっそ怒ってくれていたほうがずっとましだ。
「やれよ」
「……なにを……?」
 こちらの左手を顎で指す。ゆっくり開くと、そこには当たり前にさっきのシートがある。ぼやけてプリントされたグーフィーが待っている。
「見ててやるよ」
「ちょっ、」
「あれだったら、俺も一緒にやってやるから」
 炎が消える。かちゃん、と縁のほうから音がして、浴槽の底へ金属が滑り落ちていく音が続く。
 ふっと熱を帯びた気配がする。また顎を掴まれる。顔をあげさせられる。無理やり口を開けようとしてくる。

 それつかうとねはんみえるって、にるう゛ぁーなだっておっさんが、いっかいほんとにみてみやがれ、ぶっとんでみろ、じょうだんもくそもねーんだよ、いいかげんこっちみろよ、なあ

 ロクはぶつぶつなにか言っている。縛られてもないのに不思議と手足が動かない。無遠慮に口内に侵入してきた指を思わず噛む。ぎっ、とロクの悲鳴があがる。アイスの甘さと人肌の塩辛さを味蕾が感じる。魔法が解けたように動き出した左手を闇雲に振り回して掴んだロクの上着。そのまま、もみくちゃになって浴槽に倒れこむ。狭いそこに大人二人なんか綺麗に収まるはずなくて、後転の途中みたいに両足は中途半端にあがったまま。ロクも似たようなものだった。
 起き上がろうとしたけど、髪の毛が風呂栓のチェーンに引っかかってしまっていた。腹の上でロクが身じろぎする。とっさに底をまさぐりライターを掴む。その拍子に体がずり落ち、頭皮からぶちぶち嫌な音がする。床に手をつき、思いっきり力をこめて体を押しあげると、ライターに指をかける。

「ロク!」

 高く、炎が立つ。

「なんでっ」

 ざっ、と雨が降る。

 ――雨じゃない。

 多分、シャワーだった。
 炎の消える嫌な臭いがする。

「…………友だちだろ、俺たち」

 水音に混じって、そんな声がした。
 ロクは無理な体勢で蛇口を捻っていた。私を見おろすその影からぼたぼた水は落ちてくる。日中の日差しのせいなのか、変に生温かい水だった。
 短い左腕を浴槽の縁にかけ体を支えながら、私の手を掴んでくる。ひどく熱い右手だった。そのまま、腕ごと抱き込むようにゆっくりと体を丸めていく。固い骨と脈打つ血管の存在で、首筋に触れさせられていると気づいた。一つこぼした乾いた笑い声で、彼の喉は震える。

「ほら、その顔だよ、その顔」

「今、なに見てる?」

 高い位置にある擦りガラスから月光が差し込む。濡れたロクの輪郭が露わになる。唇をかすかに噛み締め、悲しいのか怒っているのか分からない、変な顔をしている。あめ色の瞳は水と月の明かりを含んできらきらしていた。その水面が何度か揺らめいたあとには、やっぱり私が映る。

***

 どこか遠いところだと思う。それこそ、俺が連れていかれた南国かもしれない。綺麗な海岸だった。ずっと昔、父親が土産に買ってきた星の砂が見える、なんだか綺麗な砂浜だった。海には空の珊瑚色と水色が反射していた。それはおそらく朝焼けの時間を切り取った夢だった。俺の足元で転がっていたのはお前だった。着ているシャツがはだけてへそが見えていた。かすかに開いていた目玉にも麦畑みたいな曙光が差し込んでいた。夢のなかで寝ているとはなんとも珍妙だが、たしかに俺の夢のなかでお前は目を開いたまま、夢を見ていた。お前の目玉を覗き込むと、至極当然、俺が反射する。そして、目玉に反射した俺の目玉にはお前が反射してその目玉にはまた俺が反射している。お前は俺を見ているのに俺を見てはいなくて、代わりにお前のなかだけで一つの世界は無限に小さくなっていく。俺はそこに金剛界曼荼羅じみたものを見出しつつも、六道然り、そうした無限の世界観は好きではないので、お前の瞼をそっとおろした。すると、不思議と、死んだ、と気づいた。夢のなかのお前は瞼をおろされて死んだ。本当に一人で完結する無限の世界に行ってしまった。俺のいない世界に行ってしまった。お前を殺したのは俺なのに。今思えば、現であっても、ずっと前からこうしたほうがいいと考えていたのかもしれない。お前が時折見せる空虚な表情には嫌気がさしていた。お前が時折見せる永遠に、不変性に、空恐ろしさを覚えていた。お前の目の前にいるのは俺なのに、お前は俺の目玉を使って物欲しそうに寂しい顔したお前を見ているんだから、ずっと寂しいままに決まっていた。そんなこの世は空虚です、なんにもありません、人間は孤独です、なんて反吐が出そうにお高くとまった一人遊びなんかしてないで、神様ごっこなんかしてないで俺を見てほしいと思っていた。そうやって昔から自分は思っていた、と天からの啓示のように思わされた。なのに、たとえ、殺したってお前は永遠から脱してくれないんだと悟った。そうして、ふと、俺、友だちなのに、お前のこと、なんにも知らなかったんだなと気づいた。すると、お前を揺り起こしたくなった。でも、腕はない。お前もいない。どこなんだろう、ここ。腕の一つ切り落としたところで、なにが変わったんだろう。いや、なんにも変わっちゃいない。ずっと前からそうだった。お前がいようがいまいが俺は寂しいままだっただろ。そこで、闇がゆっくりとおりてきて、

***

 長い暴虐が過ぎ去ったその晩、珍しく私たちは同じ布団で眠った。
 さすがにロクはジャケットを脱ぎ、包帯を巻き直すところを見せてくれた。適切に処理された切断面はすでに柔らかい脂肪で包まれ、丸みを帯びていた。クーラーもない部屋はじっとりと暑かったが、手伝ったときに触れた、血の気のないその肉だけはほのかに冷たかった。
 なぜかロクは少しだけ、自分のはなしをしてくれた。ぽつぽつとなんてことのないはなしをしてくれた。そして、最後に小さく、「俺、死にたかったのかなあ」と聞いたことのない声でこぼした。
 闇に目が慣れ始め、天井の木目を意味もなく辿る。電池が切れてしまったように寝てしまったロクの寝息。あの夜と同じで、その日も静かな夜だった。冷蔵庫のうなる音が優しい。地鳴りみたいで心地よかった。かすかに身じろぎすると、擦れた敷布団からはロクのにおいがした。こんなに自分はロクをゆるしているのに他人のにおいだった。
 私の胸の上で途切れる短いロクの左腕。もし、生まれ持った形のまま生えていたら、あの夜追い返さなければ、健康的に骨ばった彼の左手は、胸を容易に通り越して私の首を掴めていたはずだった。
 ロクは私の良い友人だった。
 でも、このロクはロクの皮を被った誰かのような気がしてならなかった。
 そうなる一因を作ったのは、紛れもない自分なのだとも気づいていた。
 短い腕にそっと触れてどける。すると、彼は寝返りをうつ。獣のような、胎児のような。そんな風に変に無防備な丸まった背中が露わになり、そこに浮かんだ骨の凹凸をちょっと数えた。そして、その数がちゃんと人間の背骨のそれと同じになっているのを確認したあと、私も少しだけ泣いた。

***

 いつのまにか夜が明けていた。
 夢は見なかった。
 夢なんて見なかった。
 私は別れも告げずに、朝焼けのなかを歩いて帰った。
 夜の名残の群青から朝焼けの淡い紫に移り変わる世界を歩いて帰った。
 そして、休むことなく、学会での発表の準備に取り掛かった。
 半分だけ欠けた毒々しいシートは、誰にも見つからないよう引き出しに深くしまい込んだ。

 散々な発表だったが、良い経験だったと思う。

 彼にはそれ以来、会わなかった。
 仲間内でもそれ以来、会えた者はいなかった。
 実は、誰も彼の連絡先を知らなかった。

 ただ、一度だけ、私は、彼を街中で偶然見かけたことがある。
 彼は同年代の男に酔っぱらって絡んでいた。
 知り合いらしく、彼はげんこつを食らっていたが、それでも二人ともひどく楽しげで、安心したのを覚えている。
 羽織ったジャケットの左袖が春の夜風に揺られていたのを覚えている。

 彼は私の友人だった。
 私たちは良い友人だった。
 少なくとも、私のなかでそれは真実だった。

 それ以上のことは、なにも知らない。

すくううで

すくううで

こわい人たちに左腕を取られた友人がおかしくなってしまったはなし

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-25

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