よるのないくに2: Another Story

株式会社コーエーテクモゲームス・ガスト 製 作

Oumi 編

よるのないくに2: Another Story

数年前に書いた、ゲーム『よるのないくに2』をモチーフとしたオリジナル小説を、再アップしました。未完の作品ですが、今後更新する予定は一切ありません。(なお、あくまで『オリジナル』の小説です。原作とは、設定や名前は一緒でも、そのクオリティには雲泥の差があります。ご注意してお読みください。)

【作者コメント】
数年前に書いた、ゲーム『よるのないくに2』をモチーフとしたオリジナル小説を、再アップしました。未完の作品ですが、今後更新する予定は一切ありません。(なお、あくまで『オリジナル』の小説です。原作とは、設定や名前は一緒でも、そのクオリティには雲泥の差があります。ご注意してお読みください。)

プロローグ

よるのないくに 外伝 prologue

  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―そう。
 それはこの世界を象徴する、最たる一つの"言葉"。
 かつてあった妖魔と聖女との『聖戦』。
 人に仇なす妖魔たちの忌まわしき蒼の力は、聖戦地となったこの世にも、大きな傷痕を残していった。
 光差す昼は人が生き、そして、夜の闇中には、人ならざる魔物、『邪妖』たちが跋扈(ばっこ)する、
 "よるのないくに"。
 永年にわたって続く、暗闇の時代を生きる人々は、かつての『聖戦』を指揮した教皇のもとに結束した。
 いつか、元の世界が、元の生命(いのち)が、ふたたび息を吹き返すことを信じて。
 それと同じくして、人々たちの間では、一つのまことしやかな噂が囁かれはじめていた。

 月の女王なる、時を司る者がいるという。その者が欲す花嫁を手向ければ、今は歪んだ時と自然を、いつかあった暁の時代にまで、必ずや復刻させるだろう、と。

 これは、とある闇夜の夢見のまぼろし。
 少女たちのもうひとつの物語。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

チャプター1: 紅の乙女、運命の白百合、激昂の黒狼

チャプター1: 紅の乙女、運命の白百合、激昂の黒狼

Noa 外伝 c1 紅の乙女、運命の白百合、激昂の黒狼

  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「はあっ!」
 正面から勢いよく飛び掛かってくる一匹に、脳天から刃を叩きつける。
 それにいとまをつけぬまま、視界の右端に入ったもう一匹に、大振りの横薙ぎを繰り出した。
 煌びやかな玉石のごとき曲剣が描く、月光の輝きを映しとった青光りする円弧は、薄闇(うすやみ)色の黒獣たちを無慈悲に切り裂いて、瞬く間に不気味な蒼へとその色を変えた。
「なんだろう。やけに…数が多い」
 闇より無尽にほとばしる蒼の中心に立つは、麗しき紅の乙女。
 暗夜の中で静かに映える、真紅の長髪を束ねおろした彼女は、湧き続ける黒影に剣を振るい続けながらそうひとりごちた。
 いつにも増して邪妖の数が多い。今日という今日の日なのに、まったく都合が悪かった。
 なぜなら、今回のこの任務は、私一人だけのものではないから。
「頑張って…アルーシェ!わたしが援護する!」
「ありがとう、リリア!助かるよ!」
 目前の邪妖たちに肉薄しつつ、私は横目で、後方からの声の主を確認する。
 白い髪、それと同じ純白の戦装束を着た|華奢(きゃしゃ)な少女が、小さく何かを口ずさんでいる。
 それが唱え終えられた、と思った。
 その刹那。
 周囲の空間が『崩れ』、そして『歪んだ』。
 すると目の前の邪妖たちは、眼前に敵がいるにもかかわらず、不思議な本のからくり人形のような、とりとめのない無防備な体勢を晒し出す。
「今だ、一緒に行こう!」
「ええ!」
 私たちは掛け声をつけて、共に『邪妖』の群れを突っ切った。
「はぁぁあああ!!」
 流れるような動作で懐中へと入りこみ、剣を縦横に振るう。
 一撃、二撃、三撃四撃。
 『動きの鈍った』化け物たちの急所を狙うことなど、いともたやすいことだった。確実に、かつ少ない手数で、夜影(よかげ)が意思を持って動き出したかのような異形の獣たちを、少女たちはひとつ、ふたつと斬り伏せていく。
 そして残るは巨大な邪妖、その一匹のみ。
「これで、終わらせるっ!」
 紅き閃光は、地を駆け、空を舞い、邪妖のこうべをひと息に貫く。
 妖艶(ようえん)群青(ぐんじょう)色の薔薇(ばら)が、空一面に咲き誇った。
「…片付いた、か」

「お疲れ様。ケガ、してない?」
 ふっと息をつき、血を払った曲剣を静かに背中へと収めると、先刻の"時繰(ときく)り"の少女――私の親友であり幼馴染でもある彼女――リリアーナが、私のすぐ近くまで駆け寄ってきた。
「ああ、私は大丈夫。リリアーナは?」
「うん…わたしも平気」
 リリアーナは小さく微笑む。少したれ目な彼女の無邪気な笑顔を見ていると、自然と私も顔がほころんできた。
「ゴロゴロ…ニャ~オ」
 ふと足元から、けだるそうな低い鳴き声が聞こえてきて、私たちは下を見おろした。
 リリアと私の白い脚の間を、首元に赤いスカーフをたなびかせた『目つきの鋭い黒猫』が、何か言いたげにうろちょろしている。
 彼――私の従魔でもある『黒猫のネーロ』は、にゃーにゃー鳴きながらしきりにこちらの顔を見てくるけれど、もちろん私は猫の言葉なんて知るはずもなく。
 でもなんとなく、その重苦しい動きからして彼は疲れているようにも見えた。
「どうした、ネーロ。疲れたか?もう少しだから頑張ってよ」
 そう声を掛けながら首根っこを軽く揉んでみる私を傍目に、今度はお構いなしと言った様子でネーロは気ままに爪とぎを始めた。
 …猫って生き物は、本当に何を考えているのかが分からない。結局お前は私に何を伝えたいんだ?いっそ会話でもできたらいいのに…。
「ヤーヤー!ノータ、シゥド!?」
 次はすぐ上のほうから、はしゃいだ幼い女子供のような、そんな黄色い声が響いてくる。
 見上げると、そこには宙に浮かんだ『緑の妖精』が、なにやら激しい感情を体現するかのように、嵐のような勢いであたりを飛びまわっていた。まるで突風ちゃんだ。
「レバン、ガルテシン、エゥオ!」
 常にだるそうな黒猫とは対照的に、妖精はヤル気の塊とも言えそうなくらい活力的で、見ているだけでも励まされそうだ。少しだけ気疲れしそうなのはご愛嬌。
「今日も元気いっぱいね、フィーユ。頼りにしてるよ」
 リリアーナがその『妖精のフィーユ』ににっこりと微笑みかけると、フィーユはちょっとだけ顔を赤くさせて、それをごまかすように彼女のまわりをぐるぐると旋回しはじめた。
 そしてひとしきり回転すると、お次は盛大なあくびをかます。
「イム…ネイサナ、ミスャオ…」
 そして、リリアーナの肩にぴたっと留まって動かなくなったと思うと、彼女はそのまま眠りについてしまった。言葉の真意は分からずじまいだが、どうやらとっても眠たかったようだ。
 のんびり者のフューユがこうして眠りこけてしまうことはよくあることだったが、その無邪気な寝顔を見ていると、どうにも無理に起こすのをいつもためらわれ…。
 今回も例によって、そっと寝かせておいた。着く頃には彼女も自然と目覚めているだろう。
「ニャ…ニャ」
 珍しく、今日はネーロも集中できていないようだった。今の状況下では確かに分からない話ではない。
 三日続けての旅路を、邪妖を蹴散らしながら進んできた。普段そのような機会は多くやってこないし、旅慣れていなくてもなんら不思議ではない。
 今回の任務はリリアーナを連れていくということも含めて、久々の長旅の任務なのだ。
「さてと。それじゃ…行こうか。リリアーナ」
「ええ。いきましょう、アルーシェ」
 二人は二匹を連れ立って、ゆっくりとだが確実に、その歩みを進めていく。
 目的の地は『教皇庁』――そこへと至るまで、もうさほど距離はないはずだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――3日前。
 教皇庁の騎士である私は、とある辺境の地で、幼馴染のリリアーナとともに邪妖討伐の任をこなす日々を送っていた。
 邪妖討伐、と言っても、尋常の人間に相手できるのはせいぜい小型から中型妖魔くらいであり、私はそういった細々とした依頼を受け、いたって平凡な生活を続けていた。
 そんな中、教皇庁から掛かってきた、一通の『電話』。
 ただその一つの音信が、私たち二人の運命を、大きく揺るがすことになろうとは―

『巫女リリアーナを連れて、出来うる限り早急に、教皇都へ赴くように、と』
 その知らせは、地方局長より騎士長室にまで呼び出され、聞かされることとなった。
『…彼女を連れていく?何か大きな戦いでもあるんですか?』
 しかし、私の直属の上官に当たる彼女は、それに対して大きく首を横に振った。
 基本的に、騎士の治癒士である巫女や司祭は、安全な拠点などから動いたりはしない。
 ただし例外的に、強大な邪妖との長期的な、あるいは不浄な蒼血に触れる機会が多くなる戦いにおいては、その支援のために戦の場に駆り出されることがある。
 教皇庁より選任された彼女たちは、何かしらの才能があり、なおかつ蒼き血に拮抗(きっこう)しうる、不思議な力を兼ね備えている。だからこそ支援のための人員としては大変重宝される存在なのだ。
 しかし今回の要請は、それらのどれのためでもないという。
『とにかく、すぐに本人を連れてこいとの教皇庁からの命令だ。一刻も早く、巫女を連れてそちらへ向かえ、アルーシェ。私も後から都へ向かう』
 彼女の言葉にはどこか物々しい雰囲気が宿っていた。
 なにやらとてつもないことへと首を突っ込むことになりそうだと、私は直感で感じとったが、教皇庁からの命令であればこちらに拒否権などあるはずもなく。
 名指しされたリリアーナとともに、その日の夜から、私たちは教皇庁へ向かうことになった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 そして、しばらくの道程を歩み。
 教皇庁がある都への入口に、私たちはたどり着いた。
 内庭へと続く巨大な正門の側には、若葉色の軽鎧を着込み鉄の斧槍をついた女性衛士が二人、警護の番をしていて、私たちのほうにちらちらと視線を飛ばしてくる。
 そのうちの、右側の一人へと近づいていき、私は手を挙げながら声を掛けた。
「教皇庁からの要請でやってきた者だ。騎士のアルーシェ・アナトリアと、巫女のリリアーナ・セルフィンという。通してもらえるか?」
 改めて、間近でこちらに目を通した彼女は、私たち二人を来訪予定の人物だと判断してくれたようだった。
「…貴女様方は。アナトリア卿と、セルフィン様ですね?遠方はるばるのご足労、お疲れ様でした。お話は伺っています、どうぞこちらに」
 彼女は正門のすぐ側に設けられた、衛士たちが使用する小さな出入り扉に通してくれる。
「ありがとう。このところ邪妖が多いみたいだ。立ちっぱは大変だろうけど見張りを怠るなよ」
「ニャ~」
「マサシィエ、レーバンガ!」
 「はい。ありがとうございます」衛士の通用行を通った私たちはそのまま、任務の協力者がいるという指定された場所へと向かう。
「確か…合流地点は、ホテル、だったよね?」
 隣を歩くリリアーナが尋ねてくる。
「ああ。あまり行ったことはないとこだけど、場所は覚えてる」
 騎士長からことづけられたその場所は、都の一角の隅にある、とある小さな宿泊ホテルのことだった。聞いた話によれば、裏方には騎士や司祭用の寝室もあるようで、武具の保管や道具の補給なども容易に行えるのだという。
 ホテルとはまるで建前のような特殊な構造ではあるが、特に深い理由はない。ただ、教皇庁に反旗を(ひるがえ)す他勢力――この辺りで言えば、主に『ルルドの騎士』と呼ばれる者たち――からの偽装の意味合いがあって、こういった家屋などが指定地にされることは珍しいことでもなかった。ちなみに一般客も予約をすれば泊まれることには泊まれるが、場所や内装の関係でそれほど人気はないようだ…。
 そして同時に、それは今回のこの任務が、秘密裏で行われていることに他ならなかった。
「…そういえば、また紅い満月だね」
 考えごとをしていると、ふとリリアーナが空を見上げて、何かを指差していた。
「今日もなのか?」
 私もリリアーナと同じように空を振り仰いだ。
 真黒い星空の真ん中に月が浮かんでいる。形だけでいえば、どこも欠けるところのない、満円の月の美しい輝きだ。
 でも、その満月は、どこかおかしかった。
 特にその色味は、見たこともないような薄い紅に染まりきっているのだ。
「なんだろうな…あれ」
 少し前から、空にはいつもあの紅い満月が昇っていた。黒猫と同様に悪いことの前触れだと聞いたことがあるが、詳しいことは専門の学者でもなければ分かったものじゃない。
 しかし、そんな月の迷信だけでも、私の心持ちを大きく揺さぶるには十分だった。
(やはり…何かが…?)
 ほどなくして、目的のホテルへとたどり着いた私たちは、丁寧に手入れされた焦げ茶色の木製扉を押し開けた。


 はじめ真っ先に目に入ってきたのは、小洒落たカウンターテーブルだった。
 背色はシックなワインレッドと、暗めのターコイズブルーを基調とさせ、金色の合金を細部に施し、絶妙な意匠が図られたそれは、見つめているだけでも薄くほろ酔いに浸れそうな、独特の魅力を宿している。
 そしてカウンターの奥には、真っ黒の燕尾服(えんびふく)をすらりと着こなし、眼鏡をかけた茶髪の女性が、静かに立ち佇んでいた。彼女が今回の協力者なのだろうか?
「お待ちしておりましたよ、お二人とも」
 彼女は仰々しく深いお辞儀をして、私たちを出迎えてくれる。
「…例の要請でやってきた。あなたが教皇庁からの協力者か?」
「ええ、初めまして。私は、教皇庁配下の一介の研究者であり、このホテルのオーナーを務めさせていただいている者です」
「研究者?」
 自信あり気に自己紹介をする女性に、リリアーナが首をかしげる。
 聞くと、彼女は騎士所属の人間ではないらしい。自分は肉体よりも頭脳派だと、ずいぶんと大仰な身振り手振りを交え、特に強調して言っていた。
「そうか。もう知っているとは思うが、私はアルーシェ・アナトリア。こちらはリリアーナ・セルフィンだ。それで、私たちはこれから何をすればいい?できることがあるのなら教えてくれ」
 緊急的な要請に応じて来たはいいものの、その事前情報は僅かなものだった。
 すぐさまリリアーナと教皇庁へ。合流地点はこのホテル。従魔は必要不可欠、ロジエクロックを忘れるな。…教えられたのはこれくらいか。
「そうですね…。ひとまず、長旅の疲れもおありでしょうから、個室のほうにてお休みになってください。教皇庁の計らいで、今はスイートもどの部屋も貸切の状態ですよ」 
「なんだって?急いでるんじゃなかったのか?」
 急いで来い、と言った矢先に、貸切までして、今日は休めとは…?彼女の言っている意味がわからなかった。
「…詳しくお話しはできませんが、今はゆっくりと、横になられてください。教皇庁の騎士や巫女と言えども、無理をすると体に毒ですよ」
「…どうしても、わたしたちには教えられないことなんですか?そのことは」
 どこか怪しげな女に対して、リリアーナが思いきったように声を放った。
「ええ、申し訳ありませんが、その通りでございます。わたくしは貴女様方のご来訪を報告するために、一度教皇庁へ向かいます。…それでは、お二人は、どうぞごゆっくり。大浴場があるのでそちらもお勧めしますよ」
 なにやら強引に言いくるめられたような気がしたが、言い返す間もなく、彼女はすぐさまホテルを後にしてしまった。
「なっ、ちょっと待て!」
 やがて残るは、少女と、夜と、従魔と。
 二人と二匹は、協力者のいなくなった静寂の中に、見事に置いてけぼりにされてしまった。
「はぁ…」
 毎度のことだが、教皇庁というものは、何を考えているのかよくわからない。表向きは対邪妖の唯一組織ではあるが、裏方の事情を、ほとんどの人間は誰も知らない。騎士の私でさえそうだった。
「ニーノ…イイモテレ、クテェシオ」
 置いてけぼりにされた妖精のフィーユが、不安そうな表情を見せる。
「ニャ?」
 黒猫ネーロはどこ吹く風。見ればもう毛づくろいを始めていて、何の気にも留めていない様子だ。こういう時にはマイペースすぎる猫のお前が少し羨ましくなるよ。
「ひとまず休むしかない…か」
 協力者も、まともな情報支援もない今の状況では、そうするのが最良だと思われ。
「とりあえず…おふろ、入らない?さっきの人も、お勧めって言ってたし」
「そうだね。髪も肌もべたべたで、もううんざりだよ…」
 私たちは併設されているという、浴場へと続いているらしき扉へと向かった。


 浴室への扉を開けると、ほんのりと暖かい熱気が素肌の上を流れていった。
 白い湯気のたちこもった石造りの広間には、数十人は入れそうな大浴場が広がっている。
「うわぁ~…おっきなおふろだな」
 私はその大きな湯船の近くにまで歩いていき、足をそっと浴槽に入れて、そのままゆっくりと身体を浸からせた。
「ふぅ、気持ちいいなー…」
 久しぶりのおふろ。あんまり気持ちがいいので、思わず一人で、とある歌を口ずさんでいた。

…ai predge ku'el wais nil feel ruen vail gnow lee-ya…

 教皇庁の騎士になったばかりのころに命を救われた紅装の騎士と、亜麻髪の司祭。彼女たちから教えられた不思議な歌。歌曲の名前は約束(predge)、みたいな意味らしい。
 なんて言ってるかはわからないけど、一つ一つがとっても美しい語感に感じられて、以来忘れられない素敵な歌詞の一つとなったのを覚えている。
「ふんふんふん…」
パシャパシャ―
「…え、えっと。久しぶり…だね、一緒に入るの。なんだかちょっぴり…はずかしいな…」
 ふと隣から聞こえてきた、よく通る澄んだ静かな響きに、耳がぴくりと反応した。
「あっ…リリアーナ」
 恥ずかしそうに苦笑しながら、両手で胸元を隠したリリアーナが浴槽の縁に座っていた。
「私は気にしてないから大丈夫だよ。というか今さらじゃん。私たち何年やってきたと思ってるんだよ、も~」
「ご、ごめんなさい…でも、やっぱりこんな格好じゃ…」
 少しだけ頬を赤らめた彼女は、私の左側に浸かる。
「まだ何か着てるだけマシでしょ?私は別にリリアが裸でも気にはならないけど。何なら全部脱いでもいいよ?」
 笑いながらそう言ってやると、案の定、彼女は顔を真っ赤にして瞳をつぶる。
「あはは、冗談冗談。この『水着』を着るのにも意味があるからね」
 浴槽に浸かっている私たちはそれぞれ『水着』を着ているのだが、これはただの『水着』ではなく、戦闘用の調整が図られた特殊な、いわば『防具』に近い性質を持っている。
 つまり浴水中でもいざとなればこの格好で戦えるようにしているらしいが、そんな機会は今までで一度もないのが実のところだった。というか、もしそんな機会が来ようとも、すぐにいつもの戦装束に着替えるだろうし…。いくら外が無人とはいえ『水着』一枚で戦うなど、痴女っぷりにもほどがある。
「本当は何も着ないで入りたいんだけどなあ~」
 教皇庁の騎士や司祭は、任務中などに衣服を脱いだりする場合、この『戦用水着(痴女装備)』を着用することが半ば義務づけられている。つまるところ、おふろに入る時もそうなのだが、『水着』と言うくせに結構ゴワゴワしていて、正直今すぐにでも脱ぎ捨ててしまいたいくらいだ。
「わたしは…このままで、いいかな?」
 小さな手のひらでそっとお湯を肩にかけながら、自然と私に微笑みかけてくるリリアーナ。
(…!)
 まるでお人形さんのような、幼顔の無垢なその表情が、なんだかとっても可愛らしくて…。
 じっと彼女の瞳を見つめたまま、私はゆっくりと、リリアのもとへに身体を寄り添わせていく。
「…あ、アルーシェ…やだ…ち、ちかいよ…」
「…いいじゃないか。こうして水入らず、ゆっくりと過ごすのも…。もしかしたら、もう一緒にいられなくなる時も来るかもしれないんだよ…?」
 上半身を密着させるようにして、彼女の首元に、そっと両手を回す。
「そうかもしれないけど…でも!…こ、これは…まだ…まだっ…だめだよっ…!!」
 噴火間際の活火山のように頬っぺたを赤く染め上げた彼女は、今にも倒れこんでしまいそうだったが…私は止まらなかった。止めれなかった。
バシャ――バシャッ――
「アラアラ~!トコイーイデ、リータフ!」
 その時。
 少し手前の湯船から、きゃっきゃっと嬉しそうな、甲高い声が聞こえてきた。
「ウニャ~…ニャルニャア~」
 今度は喉の奥から低く鳴らされる、猫舌を巻くような、そんな鳴き声。
「…ん?」
「…えっ?」
 私たち二人は、その声が聞こえたほうへとすぐさま振り向いた。
「…なんで、あんたら、おふろの中にいるのよっ」
 大浴場のど真ん中のあたりに、黒い子猫と緑の妖精がぷかぷか浮いている。
 もちろんそれは…私たちの従魔。フィーユとネーロだった。
 柄にもなく、焦った私は妙な声を上げてしまった。
 それもそのはず。猫や妖精と一緒におふろに入る趣味なんて、これっぽっちもない!そのうえ、自分の従魔たちとだなんて…。
 人と入ってるわけでもない、オスかメスかも分からないのに…。しかし、やはり彼らが、私にとって身近な存在であったからだろう。
 おかしな話しだけど、私は妙に気恥ずかしくて、ぽっと顔が熱を帯びていくのを感じた。
「あっ…あ、あなたたちも来ていたのね!う~ん、やっぱりいい子いい子!なでなでしてあげますからね~!」
 リリアーナが、まるで救われたと言わんばかりに、呆気にとられていた私の腕の中からすっと抜け出して、二匹のもとへと小走りしていく。
「ニャア~」
「ヤー!イシレゥ!マーサン、ジュシゴ!」
 結局、ぽつんと端っこに残されたのは、私一人…だけ。
「せっかくいいとこだったのに…!はやく出てってよ!!」


「…はぁ。散々だった」
 あらかじめ持ち込んでおいた軽装に着替え、背中に剣を収めると、私は一度、ホテルのロビーへと戻る。
「まだ来てないのか」
 オーナーの姿はない。報告とやらは終わっていないようだ。
(…しかし、なぜだろうな)
 先ほどのやり取りと、オーナーの言葉を思い出す。
 やはり、不自然だ。
 私たちも作戦執行の当事者の一人であり、正しい道理であれば、彼女のもとに立ち会う必要があるのではないだろうか。急ぎの任務ならなおのことだ。
 もういっそ教皇庁に向かってしまおうかとも考えたが、一度屋内を回ってみたところ、このホテルには私たち以外の人間はいないらしく、今ここを空けていくのはまずい。教皇庁の建物であればどこからか不埒(ふらち)者が侵入してこないとも限らない。今はホテルに残るしかなさそうだった。
「…アルーシェも、心配なの?」
 すぐそばから聞こえてきた彼女の声。私はそちらを振り向いた。
 いつの間にか、リリアーナがすぐ隣にまで来ていた。…さっきのことは、あんまり気にしないでくれているようで。私も少しどうかしてた…。
「ああ。何か…不自然だと思わないか。今回の任務」
 私はちょうど思っていたことを彼女に話してみる。
 リリアーナもそれなりに経験を積んできた教皇庁付きの巫女の一人だ――私より可愛いからって決して侮れない。自分なりに、いろいろな視点で物事を考えている。
 困った時には、彼女の言葉にも耳を傾けることにしていた。
「不自然…確かにそうだね。いつもはすぐに仕事の内容を教えてくれたのに…何か、あるのかな?」
 んー…と考え込んでいるが、今回ばかりはリリアーナにも、それ以上は思いつかなかったようだ。
「でも、そういう時もあるんじゃない?私たちが今まで経験していなかっただけで」
 リリアーナは小さく笑いながら何気なくそう話す。
「そう、なのかな?」
 だからとはいえ、今回は不可解なことが多すぎる気がする。

 最近になって急速に増えはじめた、邪妖たちの数――
 緊急性や秘匿性のある任務とはいえ、その内容の一片の欠片も、教えてくれる人はおらず――
 巫女を連れても、大きな邪妖狩りに遠征するわけでもなく――
 それでいて――なんだろう、この胸騒ぎは――


「アルーシェ…?」
「…ん?ああ」
「大丈夫?顔色が…良くないよ」
 リリアーナが心配そうにこちらを見つめている。
「大丈夫。私の心配はいらないから、安心して」
 私はカウンターに並べられた椅子の一つに座り込んだ。その隣に彼女も腰掛ける。
(考えても仕方ない。今はオーナーの帰りを待つしかないか)
 色とりどりのカクテルグラスをぼんやりと眺めていると、ふと後ろで、扉が開く音がした。
「…あっ!」
 リリアーナが思わず声を上げる。
 つられて振り返ると、そこに見えたのは、
 オーナー、ではなく。
(…誰だ?)
 黒い外套を深々と被った人物が、顔を隠すようにうつむきながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
 丸く柔らかなシルエットからして女性のようだ。そしてまとう雰囲気からして、私と同じくらいの少女だと思える。
 腰元には、何やら不思議な形をした双刃が収められていた。騎士の一人なのだろうか。
「…ここか」
 そうとだけ呟いて、少女はカウンターのほうへと近づいてくる。
 そして、椅子に座る私たちの少し手前で立ち止まった。
「そこの二人。ここのオーナーはどこにいるか、知っているか?」
 フードの暗がりの中で瞳を隠したまま、彼女は私たちに向かって問いかけてくる。
「オーナーなら今席を外してる。あなたは?ここは今、貸切の状態のはずだけど」
「…私はただの一般客だ。お前が気にすることではない」
「…そんな言い方しなくても」
 なぜか威圧的な態度の彼女を、私は少し怪訝(けげん)な表情のまま見上げる。
 つんとした雰囲気の彼女の瞳は、腕を組みながら、高圧的な目線で私を見下ろしてきているようだ。
 しかしその顔つきには、どうしてか一切の感情というものが、抜けてしまっているような気がした――
「オーナーはどこにいる。答えろ」
 何が(しゃく)に触ったのか、もはや問いただすような言い方に私は少し辟易(へきえき)したが、ここは素直に答えたほうが良さそうだと思い。
「…彼女は教皇庁に向かった。それだけだ、もういいだろう」
「そうか…やはり」
 もう何を聞かれても答えないつもりできっぱりとそう言うと、ちょうど彼女も聞きたいことは聞けたのか、その後は何も言わず――そして何の表情も浮かべず――すぐさまホテルを後にしてしまった。
「…なんだったんだろ、あの子」
 リリアーナが恐々といった様子で入り口を見ている。
「世の中、いろんな人がいるからね…いちいち気にしてたらきりがないよ」
 私は腰に手を当ててため息をつくしかなかった。


カランカラン――

 ちょうどその少女が出ていくのとすれ違いざまに、ホテルの扉に併設された来客を知らせるベルが鳴り響く。
 どうやらオーナーが帰ってきたようだった。
「お待たせいたしました…お嬢様方」
 鐘の音と、声が重なって聞こえてきた出入扉のほうを、私たちは再度振り返る。
「突然でございますが、お二人に『教皇様から』、来庁のご命令がくだりました。今すぐ出立の準備をしてください」
 オーナーの黒い燕尾服(えんびふく)姿を再び目に収めたかと思うと、彼女は私たちへと、いきなりとんでもないことを抜かした。
「…何言ってんだ。冗談だろ?」
 帰ってきて早々、何を言い出すかと思えば…教皇が直々に、私たちに指令を出しただと?
 リリアーナを見ると、彼女も拍子抜けしたようにポカンとしているようで。
「冗談ではありません。すぐさま教皇庁へと来るように、とのご命令です」
「ありえるのか…そんなこと」
 通常ならば、そこいらの騎士たちが教皇にまみえる機会は、ほとんどない。
 ほとんど、というより、生涯で一度あれば幸いなものか。実際私だって数年ほどこの仕事を続けているが、いまだ一度たりとも謁見の機会はなかったし、これからもずっと、ないものだと思っていた。
(やはり…おかしい)
 改めて、今回の任務がいかにおかしなものであるかを再確認するとともに、教皇から勅命される要務とは一体何なのか、今度はそれが気になってきた。
「ところでさ。オーナーは今回の任務の内容は知っているのか?一体何なんだよ、教皇様にあいまみえるほどの『任務』とは…」
 オーナーに問いてみるが、彼女はただ、首を横に振るうばかりだった。
「今のわたくしには、任務詳細についての発言権がありません。ただ貴女様方を、教皇庁へ連れてくるように、と」
「…そうか」
 どうにも納得できない理由だったが、今は行くしかないのだろう。
 即座に覚悟を決めて、私はそっと、右手で背中の剣の柄元と、そしてリリアーナの顔をもう一度確かめた。

「夜は都にも邪妖が出ます。どうかご注意を」
「言われなくても分かってるよ。こちとら騎士だぞ?研究者さん」
 ホテルの外に出た私たちは、すぐに教皇が座する教皇庁の本殿へと向かう。
 ここまで来る時は運よく一度も邪妖と遭遇することはなかったが、二度とは続かないだろう。十分に警戒する必要があった。
 教皇庁の大門が面する中央広場へと向かうため、私たちは家屋の路地裏や様々に区分けされた都の街中を駆け抜けていく。
 そして道中には、件の黒い化け物。『邪妖』たちがこちらの命を奪い取ろうと、闇夜の内から勢いよく襲いかかってくる。
 しかしその多くは、私たちには取るに足らない雑魚ばかりだった。こんなもの準備運動(チュートリアル)にもならない。
「一気に行くよ」
 二人にそうとだけ言って、頷き返したのを確認すると、私はさらに駆ける速度を上げていった。

 そしてしばらくの後。
 特に何事もなく、私たちは教皇庁の入り口手前へとたどり着く。
「…さすが、歴戦の騎士様。あっという間に着いてしまいましたね」
 オーナーが素直に称賛の声をかけてくる。
「どうってことはないよ。むしろこれくらい出来なきゃ、この稼業じゃ生きていけないからね」
 冗談抜きにして本当にそうだと思えた。
 これでも今まで戦いの中で、あわや殺されそうになったことは数え切れないほどある。邪妖狩りの騎士は、賞与はそれなりだがとてつもなく危険な仕事だ。もし自分の子供ができたとしても決して就かせたくはない仕事だろうとは思う。
「とにかく着いたし、中に入ってみるか」
 私たちは都に入る時と同じように、門を守る衛士に事情を話すため、ゆっくりと教皇庁の入口へと近づいていった。

 大門の騎士から入場の許可を得た三人と二匹は、庁内へと入っていく。
 入口のほど近くの広間には、護衛の騎士と、いかにも高位の官職らしき上級騎士や司祭の姿がちらほらうかがえたが、それ以外の人影はほとんど見受けられず、深夜の静寂も相まって、辺り一面はしんと静まりかえっていた。
「このまま、真っ直ぐお進みください。奥に見える大扉が、謁見の間への入り口でございます」
 内装もさながら宮殿といった出で立ちのこの場所には何度か訪れたことはあったが、謁見の間もおそらく中央にあるのだろう。オーナーの案内から判断しても間違ってはいないようだ。
 指示にしたがって、私たちは目前に見える白い開き扉へと足を進ませる。
「なんだか…緊張するな」
 少し肩をこわばらせたリリアーナが、教皇が鎮座しているという謁見室へと続くらしき扉を見つめている。
「大丈夫、私がついてる。何が教皇だよ、適当にひざまづいて相槌打ってりゃいいんだ。…たぶん」
 オーナーに気づかれないように、彼女の耳元で小声のままそう言うが、実を言えば私もなかなか緊張していた。
 分かってる、これがただの強がりだということは…。でも言うだけ言ってみることで、硬い雰囲気がほぐれることもあった。
「あはは…アルってば、本当に無鉄砲なんだから」
 まだちょっとだけひきつっていたけれど、リリアーナは笑っていた。
「…そう。それでいいんだ。いつも君が笑っていれば、私はそれでいい」
「…?どうしたの急に?」
「ああ、いや…なんでもないよ、疲れてるのかもね」

「来たか、アルーシェ。待っていたよ」
 なぜだか変に感傷的になってしまった気分を改め、前に向き直ってオーナーの後ろに連いていると。
 突然、視界の外の何者かから声を掛けられ、私はそちらを振り返った。
「…騎士長?」
 謁見の間への扉の側に立つ、一人の女性。私を呼び掛けたのは、どうやら彼女のようだった。
 儀礼用の青い鎧を着こなした女騎士―私の上官である騎士長は、小さく右手を上げた。
「もう来ていたんですね。…どういうことなんですか、これは」
 ろくな挨拶もなしに、ぱっと反射的に、私の口からはそうとだけ言葉が飛び出してきた。それもそのはず。当然だろう。
 急ぎの任務と聞いていざ来てみれば、ただの一騎士が教皇から直々に本庁へと呼び出される始末。むしろこの状況下で、これが意味するところを聞きたくならないほうがおかしいと思う。
「…すまない、アルーシェ。何もかも知らせずに現地へと送り込んでしまって。しかしな、実のところこの私でさえ…ろくな情報を聞かされていなかったんだ。今回のこの任務は、何かよほどのものがあるぞ」
 彼女は言いながら頭を抱える。いつも頼りになる騎士長がここまでして深く悩み込むのも珍しい。
 これまでの流れからして、教皇が緊急的に私たちを召集した任務であることは理解した。だけれど肝心のその内容を、教皇は他の関係者の誰一人にも伝えてはいなかったらしい。一体どういうことなんだ?
 …分かることと言えば、確かに彼女が言うように、これから『よほどのもの』が待ち受けているだろうことは、私にも容易に想像できていた。
 おそらく易々と公にはできない後ろめたい事情があるからこそなのだろう。だから信頼できる者達を教皇庁へと集わせた。
 そして今まさに、その全員が集い、本殿への扉を開かんとしている。
「いいか…謁見で何を言われても、お前は黙って従わなければならない。…それが、どんなに苦しかろうと、困難であろうと、一切関係ない。それが『主従』のあるべき姿だからだ」
 何かを悟ったかのように、騎士長は、最後の教えを説くような口調で、私たちに続けた。
「天高く煌めく明星は常に我らを照らしている。暁の騎士たちよ、真なる夜明けはきっと近いだろう。教皇陛下に栄光あれ」

「…よろしいでしょうか。それでは中に入りましょう。くれぐれも無礼のないように」
 大扉に手を掛けて待っていたらしいオーナーが、後ろにいた私たちに振りかえり、改めて用意が整ったかを確認するように、一同の顔を見回す。
 少女たちは無言で頷いた。
 一拍置いてオーナーも頷くと、彼女は扉に向き直り、両手でそれを押し開けていく。
 石と石が擦れる低く重い音とともに、少しずつ開かれていく、真白い輝石の扉。
 そして、長い長い数刻を経たのち…ついに、その全てが開かれた。
「ここが…」
 そこは、思っていたよりも広がりのある空間だった。
 扉と同じように、全体は白く光る石材で作られた内壁や石畳で覆われており、ところどころに薄い紅と蒼のカーテンが下げられた採光用の大窓や、神聖な雰囲気のただよう大きな丸いステンドグラス、それに大きな燭台が見られる。
 しかし、逆に言えばここにはそれ以外の物が一切なく、丁寧に形を整えられた窓縁や雪のように真白い壁床の意匠からしても、極限にまで無駄をなくして洗練された、ある種の様式美のようなものを、私はこの大広間から感じとった。
「きれい…」
 隣のリリアーナも思わず見とれているようだ。確かに一面きらきらと光ってはいるけれど、昼間に来れば眩しそうな気もする。教皇はこんなところにずっといて大変じゃないんだろうか。
 扉を閉め先に進むオーナーに続くようにして、床に敷かれた紅いカーペットの上、私たちは歩みを前へと継いでいく。
 視線の先には、なにやら大きな三本の白柱が見える。
 そしてちょうど真ん中の大柱の上には、ひとつの玉座が伺えた。
 不思議な形をしたその巨大な玉座のもとには、教皇と思しき一人の人物が、向かってくる私たちを静かに見守るようにして優しげな視線を送っていた。
 純白の部屋とは対照的な漆黒の装束をまとい、覆いのようなもので目よりほか全てを隠した教皇は、どうやら女性であるようだった。
 少し皺の寄った目元しか見えないので詳細な年齢は分からないが、少なくとも私よりは上、それもそれなりの高齢であることは明らかなようだ。
「教皇様。陛下が御所望された騎士と巫女二人をお連れいたしました」
 オーナーは視線を下にしたまま、教皇に向かって深々と、貴人さながらの、見たこともやったこともないような一礼をした。
 見ると、リリアーナや騎士長までもが同じようにして頭を下げている。何もしていないのは私だけだ。
「…アル!一礼して…。教皇様に目を向けちゃだめよ…」
 リリアーナが小声で礼を促してくるのが小さく聞こえてきた。その声音がやけに必死そうだったので、私も慌てて頭を下げて、見よう見まねで一礼する。
(…もしかして、もう恥ずかしいことしちゃったかな…?)
 それすらも分かっていない。ただひざまづけばいいものだと思っていた。
 まったく…剣を振るうことだけじゃなく、礼儀作法も日頃から学んでおくべきだったが、人生に一度あるかないかの謁見のために儀礼なんて覚える必要もないじゃないか、とも思う。それよりもいかに自らの剣術を磨き上げていくか、戦士にはそちらのほうが実に大切だった。
「…ご苦労様でした。その姿勢のままでは疲れるでしょう。全員、顔を上げて。楽な格好で私を見てください」
 ずいぶんと歳不相応な、若々しい女性の声が、白い広間に響き渡る。
 まさかそんなことは言われるとは思ってもいなかったので、少しだけどきりとしたが、こういう時は果たしてどうすればいいのだろう。少し迷ったが、リリアーナたちが顔を上げる気配がしたので、私もそのまま頭を上にした。
「はじめまして、騎士さん、司祭さん。まずはじめに、突然の呼び出しをお詫びします。申し訳ありませんでした」
 彼女は私たちに向かって瞳を閉じながら、謝罪の言葉を述べた。これにはオーナーや騎士長も驚きを隠せなかったようで。全員が何も言うことができずに、黙りこんでしまった。
 まさしく破茶滅茶である。急いで教皇庁へ行けと言われ、向かえば教皇との謁見に呼び出され、そしてその謁見ではいきなり教皇が自分たちに対して謝ってくる…なんてこと、今までもこれからも二度とないだろう。
 しばらくしてから、すっと瞳を開いた彼女は、何一つ物音しない深い閑静の中で、ゆっくりと口を開いた。
「…わかりきっていることでしょうが、騎士と巫女である貴女たちを呼び出した理由は、もちろん、ある『邪妖』に関する任務へと就いていただきたいためですが…もう一つ、『とあるお話』を、聞いてもらうため」
 『とあるお話』…?
「この任務に関係するお話です。ことの始まりは…単なる都の風説の類いでした…」


 近頃、都ではある『噂話』が広く流布されておりました。
 由来も知れぬ、 根も葉もない噂でありましたが、徐々に広まっていくにつれ、日夜多くの人々がそれを口にし、勢いの途絶える一途を知りませんでした。今でこそ、話題の熱は下火になって参りましたが、少し前までは、一歩外に出れば誰彼構わず、この噂を口々に話していました。

 …時を司る、『月の女王』がいるという。その女王に『刻の花嫁』を嫁がせると、この世は救われるだろう、と。

 まるで本の世界だけの、あたかも幻のようなものでしたが、都では思いもよらぬほどに広がっていったのです。
 あまりの人々の心酔ぶりに、ついに教皇庁でも、内密に『月の女王』について調査する捜索騎士部隊が結成されました。
 もし本当のことであれば、またとないこの世の復刻の機会…本庁のほうでも出来る限りの力をもって、探索にあたりました。
 そして…それはなんと、現実のものとなったのです。
 更に教皇庁が調査を進めたところ、この言葉の裏には、もう一つ、異なる意味がありました。『花嫁』とは婉曲的な隠語であり、つまりは『生贄』の類いでした。
 …ここまで聞けば、もうお分かりでしょうか。貴女たち二人を、ここへと招いた理由が…。


「……!」
 ようやく、今回の任務の全容が伝えられた瞬間だった。
 そして、はっと心の中の理性が、打ち砕かれる直前でもあった。
「アルーシェ…」
 『彼女』は私の名前を呼んだきり、無言のまま。
「…それは、その『生贄』とは、私たち、どちらの定めなのでしょうか」
 真っ白になった頭の中で、なんとか言葉を見つけ出す。それから必死に口を動かした。
 教皇は、神妙な面持ちの内に、どこか苦渋の表情も宿したまま、私の声に答える。
「巫女、リリアーナ・セルフィンさん。貴女は他にはない、稀有な『時繰り』の力をお持ちですね。『彼女』は、それを望んでいます」
「そんな…!!」
 膝下から、力なく崩れ落ちた。
 中腰のままうなだれるようにしてへたり込む。
 身体に全く力が入らない。心折れた者の末路とは、恐らく、このような無様な姿なのだろう。
「…はじめ、私は貴女たちに謝罪を申し上げました。しかし、それだけでは済まされぬほどの艱難を、私は貴女たちに押し付けてしまうことになりました。いくら言い繕っても、誤魔化せるとは思ってはおりません」
 教皇は陰鬱な表情のまま、顔をうつむかせる。
「ですが、これは、この世の全ての人々のためなのです。リリアーナさん。貴女のその尊き生命が、この世界に刻みこまれた蒼き呪いを必ずや払いのけ、全民はきっと救われるのです。…どうか、ご覚悟を、お決めいただけないでしょうか」
「…」
 『彼女』は、それを聞いても、何も言わないままだった。
 …だったら…私が…!
「…申し訳ありませんが、教皇様。私はこの任務を拒否いたします。『彼女』の命を奪うことなど、私には到底できません」
 地に手を突いて、ゆっくりと身体をもたげた私が、『彼女』に変わって返答する。
 そのまま即座に踵を返して、リリアーナの右手を掴みとった。
 『彼女』は、まだ何も言おうとしない。
「何をふざけたことを…!アルーシェ、自分が今何をしているのか、分かっているのか?!」
 騎士長が感情を露わにして、私へと怒鳴り込んでくる。
 だけど今の私には、もはや、どうでもいいことだった。
「…どうして?私の一番大好きな親友を、この手で殺しにいかなきゃならないの…?おかしい…おかしいでしょ…!こんなの…ぜったい…ありえない…!!」
 気持ちの高ぶりを抑えられずに、私は騎士長のもとへと歩みより、その肩元を握りしめる。自分でも不思議なくらい腕には力が込められていた。
「…アルーシェ…!」
 騎士長は、戸惑う顔を隠せていなかった。
 彼女の身体にもたれこむようにすると、すうっと身体じゅうの強張りが抜けていった。
 そして無意識の内に、目元からは涙が溢れ出してきた。
「…アル…」
 やわらかく抱きしめてくれた騎士長の胸元で、こぼれ落ちる雫が、止まることはなかった。
「…ごめんなさい…」
 『彼女』を、生贄に捧げる。そんなこと…できるわけ…!

「…教皇様。わたくし、巫女リリアーナ・セルフィンは、このご勅命をお受け賜ります。…陛下のご期待に添えるように、全身全霊を尽くす所存です」
「…リリアーナ!!」
 その言葉を聞いて、流れる涙が一瞬にして止まった。
 騎士長のそばからすぐに『彼女』のもとへと駆け寄る。
「…いいのよ、アル。貴女が気に病まなくても。わたしのように、この不思議な力を持つ者は、きっとはじめからこうなる運命だったんだわ」
 リリアーナは、半ば諦めたかのように、小さく微笑みながら、かぼそい声で私に話した。
「それに、賭けてみる価値は、十分にある。教皇様がこう仰っているのだから、決して間違いはないはずよ。だからわたしは…いくわ」
「…駄目だ。君が良くても、私が許さない」
 私がそう言っても、リリアーナの、断固たる意志の表れた面持ちが変わることは、決してなかった。
「いいえ。私は、いく。たとえ貴女と絶交になっても。これは、この世界を救う唯一の希望なんだわ。意味もない、永久のように続く邪妖殺しは、もう嫌なの…」
「………」
 『彼女』は私を振り切るように、数歩、教皇のもとへと足を進め、そして改めて跪いた。
「そう言って頂けて、大変嬉しい限りです。研究者たちによれば、リリアーナさんの左腕にあるという『白き紋章』が契約者の証となるはずです。強き絆の騎士と巫女に、太陽あれ」
 教皇はそこで初めて、私たちに微笑んだような瞳を見せた。
「どうして…」
「…最後に、もう一つ。伝えておくべきことがありました。先日より空に浮かぶ『紅い満月』、あれが新月となった時、『彼女』は持てる力を全て発揮できる。暗き新月の夜に至るまで、リリアーナさんを『月の女王』のもとまで送り届けてくださることを、切に願っています。…私からは、以上です」


「お疲れ様でした…。お二人は、お休みされることを優先するべきでしょう。お部屋は専用のものをご用意しておりますので、ひとまず、そちらへ」
 その後、私たちはもと来た道をそのままさかのぼり、例のホテルへと帰ってきた。
 騎士長は、この『護衛任務』に際して他にやるべきことがあると言って本庁で別れ、教皇庁に向かった時と同じ三人と二匹へと戻った一行は、たどり着いたホテルの扉を押し開けた。
 入るやいなや、オーナーは急ぐように私たちをホテルの個室へと案内してくる。
 うつむいたまま、顔を上げようともしない『彼女』。
 細く、冷たい腕を掴んだまま、しかし私は何も言うことができなかった。
「…アルーシェ。わたしは大丈夫よ。お部屋に、行きましょう」
 『彼女』のその手は、小さく震えていた。
「本当に…本当にこれで、良かったのか…?」
 彼女は、何も言わない。
 ただ黙って私の瞳を、見つめつづけているだけだった。

 ホテルの個室に通された私たち。
 休め、と言われても、到底心持ちは休まるはずもないまま、私たちはベッドで横になっていた。
「…リリアーナ。眠れそうか?」
 あれから一言も言葉を発しようとしない彼女に、声をかける。
 リリアーナは、閉じていた目を静かに開いて、私を見つめた。
「…大丈夫だよ。アルーシェ、…ありがとう」
 ほんの少しだけ、微笑んだ彼女。
 しかし、その双眸からは。
「……!」
 頰を流れる、一筋の、雫。
「ねえ…アルーシェ」
 天井を見上げた彼女が、淡々とした口調で、話しはじめた。
「最愛の人と、近いうちに別れ離れになる運命なら、あなたは、どうする?」
「…その運命ごと、変えてやるさ。別れ離れになるなんて…誰だって…したくないだろう…」
「そう…すごく、アルーシェらしいね」
 彼女の声は、かすれていた。

「…その言葉が聞けて…嬉しい…貴女のような人を好きになれて…良かったわ…」

 『彼女』は、そっと私を抱きしめてくる。
 そのまま自らを嘆くように、慟哭した。

 リリアーナはその晩、ずっとずっと、声をあげて泣き続けた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 コンコンコン…
 日が昇り、空が明け始めてきたころ。
 聞こえてきた一つのノックの音で、私は目を覚ました。
「こんな時間に…」
 ベッドに横たわらせていた身体を起こす。よく眠ることができなかったせいか、体中が重い。
 リリアーナはつい先ほどまで泣いていたらしく、目の下は真っ赤だったが、今は眠っているようだ。
「どうぞ…」
 彼女を起こさないように、小さな声で返事を返したが、一向に扉が開く気配はない。
「…?」
 一応木のドアをゆっくりと押し開けてみるものの、そこには何の人影も見えず。
「なんなんだ…まったく」
 そう言って、私は扉を通り、部屋の中へと戻ろうとした。
 が。
「動くな」
 背後から飛んできた、思いもよらぬ冷徹な言葉。
 その場は一瞬にして、極寒の凍土のように凍てついた。
「手を上げて部屋の中に入れ」
 私は言われた通りに動く。背の一点に感じる冷たい感触は、どうやら鋭い剣先が突きつけられているらしい。
 下手をすれば殺されかねない。戦おうにも手持ちの武器がない。やり場のない気持ちがこみ上げてきたが、今は、後ろの闖入者にそのまま追従していくほかなかった。
「…よくこの部屋まで来れたもんだな?ルルドの精鋭か?」
「口を開くな。黙って部屋の隅々を回れ。変な気は起こすなよ」
 悪態をつくように軽口を叩くが、相手はいたって平静を保っている。
「……?」
 夜明けの薄闇で、静かに響き渡るその声には、どこか、聞き覚えがあった。
(…まさか?…)
 後ろの『女』が、個室の扉を閉める。ここはもう密室の状態になってしまった。大きな騒ぎでも起こさない限り、他の部屋の人間には易々とは気づかれないだろう。
「行け」
 手と刃先で背中を押され、私は前へと進む。
 ゆっくりと部屋の中央まで進んでいくと、窓から差し込む仄かな朝日で、二人の顔が照らし出された。
「…!」
 突き立てられた剣先の震えから、明らかな『動揺』を、私は感じとった。
「…アルーシェ?」
 後ろの『彼女』から、名前を呼ばれる。
 私もそれに呼びかけ返した。
「ルーエン、ハイド、なのか?」
 古くからの親友の名を、私は、なんとか吐き出した。
 背から離される、鋼剣の切っ先。
 それが収められたことを音だけで把握すると、私はすぐさま、距離を取りつつ振り返った。
 美しい金色の髪をした、黒装の麗女が立っていた。
「…久しぶり、ルーエ。会えて嬉しいよ。よりにもよって、こんな再会になるとは思わなかったけど」
「…そうだな。私もだよ、アルーシェ」
 ルーエンハイドは、彼女の代名詞ともいえる不可思議な長剣―気剣オーズを腰から外し、床に落とす。一度剣を向けたとはいえ、今の彼女には、私とやり合うつもりはないようだった。
「こんなところで何をしてる?…どうして私に刃を向けるんだ?」
 彼女、ルーエは、リリアーナと同じ、私にとっての幼馴染の仲だった。やがて、全員が教皇庁の騎士や巫女となり、共に戦った戦友でもあった。
 そんな彼女が。どうして私に剣を向けるのか。
 深く考えずとも、その理由は、一つしかないように思えた。
「…アルーシェ。お前に伝えなきゃいけないことがある。これは、幼馴染としての、近況報告だ」
 彼女の低い声音が耳の奥まで響いてくる。無意識のうちに、心臓の鼓動が早くなった。
「ルルド教団は知っているな?…知らないはずもないな。教団独自の思想を掲げ、教皇庁に対抗する、一組織の名だ」
 ここまで言えば、分かるな?ルーエンハイドは、少し戸惑い、躊躇ったが、最後まで続けた。
「私は、ルルドの聖騎士として、邪教撲滅の任を担うことになった。邪教…言いたくはないが、それはお前たち教皇庁のことだ」
 そんな。
「どういうことだ、ルーエンハイド」
 どうして、あの、彼女が。
「…ルーエ…?ルーエンハイド…なの?」
 私たちの声で目を覚ましていたらしいリリアーナが、ベッドから起き上がり、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「やはり、リリアもいたか。すまないな、こんな時に」
「ルーエ…!」
 ルーエンハイドに近寄ろうとする彼女を、私は全身で遮った。
「…なぜ教皇庁を裏切った?」

「裏切る?…思い込みすぎだ。そんなご大層な理由でもない」
 ルーエンハイドは両手を上げて、小さく鼻にかけて笑う。
「…ただ教皇庁というもののやり方が、気に入らなかっただけだ。表向きではこの夜の世界の成り行きを憂う。あたかも、そこに生きる人々の気持ちを、全て諳んじているかのように。しかしその実、奴らは目的のためならば、ありとあらゆるどんな手段をも、何食わぬ顔で平然とやってのける。たとえそれは、一人の命を奪うことだって…」
 そしてルーエは沈んだ表情を見せた。
「一人の命を、奪う…」
 その言葉に反応したのは、リリアーナだった。
 彼女は、恐怖とも諦めとも、決意ともとれぬ、複雑な表情を見せる。
 それを見たルーエンハイドが、思いつめたような顔で言葉を発した。
「…まさか、リリアを生贄に捧げる気じゃないだろうな」
「……!』
 彼女は…私たち教皇庁の全てを、もう知っているのか…?
「…そうね。これは、ルーエにも、話しておかなければならないこと」
 うつむいていたリリアーナが、すっと、顔を上げた。
「昨日の教皇庁でのこと、聞いてくれる?…わたしの一人の親友として…ルーエ」
 彼女の瞳は、果たして、どこを見ていたのだろうか。

「これを、見てくれる?」
 リリアーナは私とルーエンハイドに向けて、自分の左手を差し出す。
 彼女の腕には、ぼんやりと薄く輝く、白色の紋章のようなものが見えた。
「これは『刻の花嫁』の印…。わたしが、月の女王への生贄となる証。教皇様に、そう教えてもらったわ」
「…なんだって?」
「『彼女』は、時を戻すことができる。でも、それには相応の代償が必要。だから教皇様は仰っていたわ。あなたの尊く、輝かしい、その花嫁としての生命(いのち)が、この世の全ての人たちを、きっと救うことになる、って」
「リリアーナは、それにどう答えたんだ」
 リリアーナに向けて、ルーエンハイドは重々しく口を開く。
「…わたしは、わたしは。この世界を救いたい。でもそれは、この世界の人たちのためじゃない。教皇庁のためでもない。わたしたちが生きる美しい自然のためでもない」
 リリアーナは窓のそばに立ち、明け暮れた空を見上げる。
 薄い灰色に染まった天空の中心には、ぼんやりとした太陽の輪郭が、儚げに浮かび上がっていた。
「わたしは、いつか空にあった、暁を取り戻したい。わたしの大好きな、アルーシェと、ルーエンハイド…あなたたちのために」
 彼女は、ゆっくりと消えゆくようにも見える、その薄明の白い朧日のもとで、小さく微笑んだ。
「………」
「ルーエ、ごめんね。でも、わたし…決めたの。それで、思ったの。ここで後ろに下がったら、絶対あとで後悔するって」
 リリアーナはもう泣かない。その瞳孔の奥に、もはや偽りの感情は、微塵たりとも浮かんではいなかった。
 彼女の琥珀の瞳は、闇の雨夜の中でも健気に咲き誇る、高陵の白い百合の花のように、澄みきっていた。
「リリアーナ…」
 ゆっくりと差し伸べられた彼女の、花びらのような白い手に、そっと、私の白い手が触れる。
 しかし、その上に、もう一つの白い手が重ねられ、私の腕はすっと押し返された。
「…教皇庁は、リリアーナを。彼女を危地に晒す()の諸悪に、私は気を許すわけにはいかない」
 その手の主は、もちろんルーエンハイドだった。
「リリア、本気で自分が生贄になってもいいと思っているのか?正気に戻れっ!!」
 ルーエンハイドの叫声が部屋中に響き渡った。
「誰かが犠牲となったところで、この世界が救われることは断じてない!教皇庁は、全て間違っている…。得体の知れぬ化物どもに、人間の命を捧げて世界が元通りになるなんて、それを証明する確証はどこにもないんだ…リリアーナ!」
「でも、これしかないでしょう!!」
「…っ!」
 思いもよらぬ反論の叫びを口にしたリリアーナに、ルーエンハイドは驚きの表情と、そして幾分かの狼狽した様相を隠すことができなかった。
 彼女は私たち二人の顔をしっかりと見据えた。
「今までわたしたちは、夜を封じるために、いろんなことをしてきた。それは、死と隣り合わせかもしれない、とても危険なことだって。でも、そんなことすらも、全てその場しのぎの事ばかり…何の解決にもなっていないのは、わたしにもわかっていたわ」
 彼女は手と手を胸元で絡み合わせる。
「これは、そんな時でも、一縷の希望を見出すことができた、唯一の光。わたしにも、本当にうまくいくかはわからない。でも!」
 両手を胸に当て、祈るように彼女は目を閉じた。
「わたしは、その光にかけたい。もう、下がりはしない」
 
「…嘘だろう…?」
 出鼻を挫かれたかのようなルーエンハイドが、見えぬ何かに押されるように、後ろへと引き退っていく。
 ルーエンハイドは、床に放られていた彼女の黒い両刃剣を、右手にしっかりと握り締めた。
 手にする者の感情を糧にするという、その分厚い気剣は、ほのかに赤く輝いていた。
「…アルーシェ、今は争うようなことはよそう。いずれ、その機会はしかるべき時に、私たちの元へと必ず訪れるだろうがな」
「…何をする気だ、ルーエ」
「何をする、だって?私は『ルルドの聖騎士』として、自らの任務を全うするだけだ。我らがルルド教団とて教皇庁へと即座に敗戦を喫するほど、やわな連中でもない。教皇庁には当然の報いを受けてもらうことになるだろう」
 少しだけぞっと、戦慄を覚えた。青い瞳の、吹雪のような零度のまなざしは、そのまま彼女の心の内を表していた。
「…そうだな。一つだけ、お前に願いたいことがある」
 ルーエンは続けていく。
「おそらく、お前はこれからリリアの護衛を任されるだろう。その時に、私も同行させてはもらえないか?…何、案ずるな。隙を狙って妨害などはしない。今のところは、な」
 ルーエンハイドは片方の口角だけを小さく上げて、不敵に笑った。
「それは…」
 ―コンコンコン。
 ふいに扉の向こうから、三度のノックが聞こえてくる。
『…失礼しますが、リリアーナ様、アルーシェお嬢様?…どなたか、いらっしゃるのですか?』
 ホテルのオーナーの声だ。ルーエンハイドとのやり取りが聞こえてしまっていたのかもしれない。
「それではアルーシェ、よろしく頼んだぞ。お前たちが向かわせられるのは、都の北門のはずだ。そこに着いたのが見えたら、すぐに私も合流する」
 気がつくと、黒い外套布を頭から肩まで纏ったルーエンハイドが、開いた部屋の窓際に立っていた。
「おい、ルーエン…!私はまだなにも…」
「くれぐれも、私のことは内密にな。たとえ一番離れていても、私たち(AとL)は、まだ親友だろう?」
 そう言って私たち二人に軽く目配せをすると、彼女はそのまま下へと飛び去って行ってしまった。
「ルーエンハイド…君は…」
「…」
 ただ二人の間には、沈黙ばかりが流れていった。



 すっと地面に着地する。
 屈めた身体を持ち上げて、顔を晒すことのないように、改めて外套を深々と下げる。その狭まった視界のまま、私は辺りを見渡した。
 人影のない、こじんまりとした路地裏の隅に、もう一人、自分と同じように黒いフードを被った人間がいるのを確認して、私は音を立てぬようにして素早く近づいた。
「…どうだ。首尾は」
 そばまで近寄ると、その黒套の少女――私と同じ騎士である彼女は、そう問いかけてくる。
「ああ、間違いない。明日中にでも彼女らはここを発つだろう」
「そうか」
 少女は一言そう言うと、私からぱっと踵を返した。
「もう行くのか」
「当然だ。本当なら今すぐにでも片付けてしまいたいが、『出来る限りの説得を試みよ』。教団長様はそう仰った。そしてそれはお前の役目。私は自らの配置につく。失敗は許されない、下手な真似はするなよ」
 彼女は言うなり、背を向けたままこの場から立ち去っていった。
「何かあったら伝書魔を向かわせる。すぐに戻ってこれるような態勢もとれるようにしておいてくれ」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

チャプター2: 月の居城、生贄の祭道、妖紅の満月

NOA 外伝 c2 月の居城、生贄の祭道、妖紅の満月
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「…そうですか。早朝のあいだ、お話しになられていたのですか」
 あくる日の朝。ホテルのロビーにて。
 私とリリアーナの二人は、任務の協力者であるオーナーと、カウンター越しに面と向かって話していた。
「それではお二人とも。ご決心は、ついた…ということで、よろしいのでしょうか」
 オーナーは神妙な顔つきで私たちへと尋ねてくる。
「…その前に聞きたいことがある」
 私は後ろのリリアを見つめた。『彼女』もまた、私を見つめ返してきた。
 いつ見てもどこか守ってあげたくなるような、健気で可憐な、『彼女』の顔つき。
 私にとってはもう、リリアーナは親友ではなかったのかもしれない。もはや恋人でもない。もっとそれ以上の愛情を私はリリアーナに感じていた。
 そんな『彼女』を捧げることになるかもしれない『月の女王』とは…何者なのだ。
「…一体何なんだ。『月の女王』、とは」
 教皇庁が誰の邪魔をも入り込ませたくないほどの強固たる確信を持ち、一人の少女の生贄をも捧げることを厭わぬその女王とは…?
 オーナーは、しばし沈黙に沈み込んだが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「教皇庁が、例の噂をもとに確たる所在を掴んだ、『月の女王』とは、この世界の時を司ると言われている、『純血の妖魔』の一匹でございます」
「なっ…!」
 背筋が凍りついた。同時に、全身の血液が沸騰するかと思うほどの、業火の如き憤情が、心の内からせり上がってくる。
 妖魔、それも蒼の純血のそれに、むざむざ生贄を、リリアーナを捧げにいけというのか…!
「ふざけるな!邪妖どもに冒されたこの世を救うのに、妖魔へと彼女を捧げて何の意味がある!?わざわざ供物を貢ぎにいくようなものじゃないか!あまり妙なことを抜かすと…」
「アルーシェ!やめて…!!」
 思わず背中の曲刀に手が伸びそうになるのをリリアーナが強く押さえてくる。いくら得体の知れぬ組織とはいえ、教皇庁をここまで不信に思ったのは、初めてかもしれない。
「お嬢様、どうか落ち着いて。何事にも、例外というものはあるものです。…これを見てください」
 手で制止の意を示しつつ、胸ポケットから取り出した真白い手袋を素早く身に付けた支配人は、今度は自らの懐から、茶色い小箱を取り出した。
 見るからに高価そうな、艶めいて光るその箱に、オーナーは静かに左手を添える。
 その手でゆっくりと開いていくと、そこにはくすんだ蒼色の、小さな石のような塊が一つ、丁重な内装の中で安全に保管されていた。
「これは、『次元の魔石』…と研究者の間では呼んでいます。教皇庁の調査隊が、我々との会話にも応じることが可能であった『彼女』へと接触し、助力の証拠の要求を試みたところ、このにび石を入手いたしました」
 危険なものではありません、どうぞ手にしてみてください。オーナーに言われるがまま、私は鈍い蒼の輝きを放つ『次元の魔石』とやらを掴み取ってみた。
 石は見た目以上に軽く、というよりも、それ自体がまるで透明の空気のように、ほとんど重量を感じることはなく、私は危うく魔石を床に落としそうになる。なんとも奇妙な代物だった。
「どうやらこの石には、『彼女』が蓄えていた時空を操る魔力が収められている、と考えられます。すなわち、この石を使えば、小さな時空や空間の歪みを誰でも発生させることができるのです。能力のほどは実証済です」
 ちっぽけなこの石で、時空の歪みを起こすことができる、だって?
「この、石っころが…?」
「いまだ半信半疑なご様子ですね。それではお嬢様、その石を握ってみてください。効力のほどをもう一度、確かめてみたいと思います」
 
 オーナーの指示に従い、何の手応えもない無量の小石を、なんとか落とすことなく握りしめる。
「次は後ろを振り向いて。前方、酒場の入口側に進みたい、と『想像』し、実際にゆっくりと走ってみてください」
「『進みたいと想像』、する?…そんなことして何になるんだ」
「その石の力は、お嬢様の『記憶の中の印象』によって、発現させることができます」
 記憶の印象によって、発現させる…?
 いまいち言われたことに納得いかなかったが、示された通りに、私は石を掴んだまま酒場の入口を注視して、その光景を頭の中へと映し捕らえた。
 それから、小走りをする程度の感覚で、前に進もうとする。
「えっ…!?」
 すると、何かが起こったのだろうか、リリアーナの驚く声とともに、音もなくして辺りに軽くすさぶ突風が生まれ、そして。
「一瞬、で…駆け抜けた…?」
 リリアーナの呟くその言葉の真意が、すぐには何なのか分からなかった。
「…なるほど。さすが『時の女王』さまって訳か。とんでもない力だな…」
 しかし前方の様子から察するに、先ほど意識した地点にまで、まるで飛ぶようにして数秒とかからず移動してきたのだと、ようやく私は理解した。
「しかし、どういう仕組みなんだ、これは…」
「次元の狭間を生み出し、ありとあらゆる『時間を短縮』する。それが、その貴石に込められた力のようでございます」
 説明を始めたオーナーのほうに私たちは振り向く。
「ただし先ほども言いました通り、力を生み出すには、対象に対する『記憶』が必要です。また力の量には限度があり、時を自在に操るなど、あまりにも多大な影響を及ぼすことはできないようです。しかしながら、遠く離れた場所へと十数程度の人間や大きな家屋などを瞬時に移動させることも可能で、その石から溢れ出づる力のほどは計り知れません」
 今のお嬢様は、まさしく紅の陣風(クリムゾン・ガスト)、素晴らしい疾走でございました。オーナーが誰よりも嬉しそうにしているが、未だに実感は薄い。本当に使いこなせるものなのだろうか?
 だが、もしこの能力を上手く制御することができたなら、特に闘いに赴く騎士の者ならば、邪妖にも引けを取らぬほどの絶大な力を得ることができるだろう。
「ああ、それともう一つだけ、とても大切なことが」
 思い出したかのように、彼は少しだけ慌てたような素ぶりで、手を組み合わせる。
「その石は、『夜の間でしか力を発揮することができない』ようでございます」
「それは…一体どういうことなんだ」
「『彼女』は、『純血の妖魔』であります。妖魔や邪妖は夜のうちでしか行動することができないのは、もちろんご存知ですね?その石もどうやら同じ性質を引き継いでいるらしく、日が出ている間の効果のほどは、お察しの通りです」
「なるほど…」
 となると、ますます教皇庁の騎士にとっては都合の良い石ころである。妙な力は、化け物が湧いてくる夜の間だけ使えればよいのだから。
「そのうえ、石は蒼き血に対し、鋭敏な反応と細かな振動を見せることがあり、激しく輝きを増すことがあります。詳しくは不明ですが、私の見解によれば、力を吸収しているのではないか、と」
 邪妖の力を吸収…さらなる魔力が生み出させるとでも言うのか?これほどまでのもの以上の力が…?
「でも、この石のどこが、『協力の証拠』なんだ」
 しかし、なにより最大の問題は、そんなことではなかった。
 たとえ思いもよらぬ不可思議な魔力が宿っているとはいえ、言ってしまえばただの石ころだ。
 これを見て妖魔が人間へと、やすやすと力を貸してくれるなど、どこの誰しも思いはしないだろう。むしろ邪険な存在の一つとして、人は皆、この石を忌避するまでかもしれない。
「無論、それは確たる証拠でありますが、証拠がなくとも『彼女』…時を司る月の妖魔は元から悪神ではなかったようでございます。『彼女』は、ただ月のもとよりこの世を見渡し、恒久たる平和を願っていただけだったのです』
 口火を切ったかように、オーナーは淡々とした口調で話を進めていく。
「だからこそ、この世が『夜』に包まれた際、『彼女』は嘆き、悲しみました。それから『彼女』は、自らの力を削ってでも世界の復刻を試みました。しかし、その力は予想以上に小さなものでした。『純血の妖魔』といえども、世界を大きく動かせるほどの力は、『彼女』にはなかったのです」
 これは全て、『彼女』の口から聞き出したことであります。支配人によれば、教皇庁の調査隊は、女王からこのような経緯(いきさつ)を全て聞き取ったという。
「その石には、『彼女』の、今解放できる最大限の力が込められている。少ない力を振り絞って作りだした、『月の女王』の、私たちへのほんの餞でありましょう。『彼女』が人を陥れるはずはありません。もしそうだとしたら人間に力を分け与えたりなど、妖魔はするはずがないのですから」
 私は魔石を見つめる。確かに、妖魔が人に力を分け与えるなんて聞いたこともない話だ。『月の女王』は、世界を救うため、本当に生贄を求めているのかもしれない。
「もう残された時間は、多くありません。教皇様が仰っていた通り、次の新月まで貴女は生贄を貢がなければならない」
 オーナーはゆっくりとした語り口で続ける。
「お二人は、もうご覧になられたでしょうか。先日より『ミラダ』が空に伺えるようになっているはずです」
「…『ミラダ』?もしかして、あの『紅い満月』のこと?」
「そうです。この月は十年おきに空に現れる魔性の月であり、向こう側の世界『常夜』とこの世とを結ぶ扉ともされています。一説では『夜の君』の復活の予兆とも言われています。事実としてはっきりと言えることは、この月が空に現れている間は、この世の妖気が一段と濃くなる。『彼女』はきっとそれを利用したうえで、生贄をも欲しているのでしょう。『ミラダ』は滅多なことでは現れません。これを逃せば、この先、ただでは済まされない時間を浪費することになります。だからこそ、貴女様方は、遅れてはならないのです」
「…わたしの、時を操るチカラ、が必要。…そうなのでしょう?」
 リリアーナが、胸の奥から絞り出したような、小さな声を発した。
「リリアーナ様は、他にはない、特別なお力をお持ちになられています。それはリリアーナ様のご先達さまの時代より代々受け継がれてきた、由緒正しき『時繰りの力』。『彼女』はそれを我々に強く希求(ききゅう)してきました。力を持つ贄があれば、きっと望みを果たすことができる、と」
 そこで一息ついたオーナーは、最後までそのまま言い切った。
「人間の、汚れなき純真なリリアーナ様の尊き御命(おいのち)が必要なのだと、『彼女』は仰って…いえ…言っていました。蒼き血に冒されていない人間である貴女が、力の依代(よりしろ)となれば、必ずや、世界は救われるだろうと」
 "仰って"…どうして、その言葉をわざわざ言い直したのか、その時の私には何も分からなかった。

「それで…ご決心は」
 オーナーが改めて、私たちに向けて尋ねてくる。
 本当は、もちろん、嫌だと断りたかった。『彼女』を失うなど、耐えることなんて、できそうもなかった。
 しかし、それを聞いた『彼女』の表情は―そして固い誓いは、やはり少しも揺らぐことはなかった。
 そうならば…
 最愛の『彼女』の、親友である私は―
「…お二人にとっては、途方もないことであることと存じますが、どうか、この世界のため…」
 照り輝く陽光の明りにも似た―
「…分かった。…引き受けよう」
 その強き意思だけを、尊重すべきだろう、と―
「リリアーナ、様は?」

 『彼女たち』は、黙って頷いた。
 これで全てが終わるのだと、そんな淡い希望を込めて。

(…?今、何か…?)
 一瞬、リリアーナの身体に重なったような、黒い人影。
 それは丸みを帯びたシルエットで、どこか女性のようにも見えた。
(…疲れてるんだ。気のせい、だよな…)
「貴女様方のお強き御心にご祝福を。お二人ならば、きっと、この世は救われるでしょう」
 支配人は胸元で手を組み、深々とお辞儀をする。
「アルーシェお嬢様。本任務のために、貴女様にご用意させて頂いた物があります」
 頭を上げたオーナーは、すぐに本題へと入る。そうだ。…行くと決まってしまったのなら、たとえ自分の意思に反するとは言え、これは『彼女』のためだ、ぐずぐずしてはいられない。
「教皇庁が独自に開発した探索用の道具、フラムございます。戦闘の最中であっても、迅速に障害物を発破することができます」
 カウンターの上に、長方形の細長い箱が置かれる。どうやら金具で開閉できるようだ。
 手を掛けてゆっくりと開けてみると、そこにはいくつか青色の球体が収められていた。
「これは…?爆弾みたいだが…」
「ええ。フラムは簡単に言えば、爆弾です。お手持ちになってみてください。ご心配は無用、使い方を誤らなければ爆発に至ることはありません」
 そう言って、支配人は同時に発破用フラムの使い方も教えてくれる。装置を引っこ抜いて投げればいいだけだというが、作動までの時間は予想していたよりもそれなりに掛かるようだ。安全には安全だが、迅速かと言われれば疑問が残る。
「本来ならばこれほど時間が掛かりますが、お嬢様が手にしている魔石の力があれば、更に高速で作動させることが可能です」
 それはつまり、この石も私が持っていくことになる、ということ。
「これも持っていっていいのか?貴重な物なんだろう」
「問題ありません。貴女様がお持ちになっていればなにより安全、そのうえ何かと手助けをしてくれることになるでしょうから」
 ふと冷たい感触を感じ、改めて手の内を見てみると、魔石には小さな穴が穿たれ、丈夫な銀の小鎖が通されていた。
 どうやら、始めからこれを首に掛けることを前提としていたらしい。
 教皇庁の準備が素早いのはいつものことであるが、今回ばかりは、少しだけ何か不穏なものを感じずにはいられなかった。
(こんなこと…何も考えなしにしてしまうものだろうか?)
 任務が勅命されたのは、それほど前の話ではないはず。それなのにここまで段取りが良すぎるのも、どこか怪しげだった。
 だが今は、そんなことを気にしてはいられない。『彼女』のために、私は、先に進まなければならないのだ。
「それでは、私からは以上です。月の女王の居城は、都からはるか北の地にあります。地図をお渡ししますので北門よりお急ぎください。貴女様方のご武運を、改めてお祈りしています」
 オーナーは改めて、深く深く(こうべ)を垂れた。


 酒場の扉を開けると、眩しい日光の日差しが、空一面から一斉に降り注いできた。
 なんだか、とても久しぶりなような気もする、青空のしたの風景。
 昨夜から今昼の間まで酒場の中にいたことになるが、まるでそこは時間の進みようが違っていて、いままでずっと、部屋の中に閉じ籠っていたかのように感じられた。
 腰に手を当て、一つだけ小さなため息をつくと、後ろに連いて従っていたリリアーナのほうに私は振り向いた。
私たちは『夜』まで時が過ぎるのを、この街で待つ必要があった。
 緊急要務であったため、都で出来る限りの用意を整えたいというのもあるが、最たる目的はそれではない。
「リリアーナ。『夜』になるまで、一旦この街で待とう。その間に、なるべく北の地方にある場所へ向かう人を探してみよう。…それで、大丈夫かな?』
 私は地図を開きながら、そう『彼女』へと告げた。
「えっ…と。どうして…人を?」
 リリアは理由が分かっていないようで、ちょこんと首をかしげてくる。
「この石がどんなものなのか、まだよく分かっていない。私たちの手でもう一度試す必要があるだろう。だからなるべく北の地方にある、そんな場所を知っている人を、探さなくちゃならないんだ」
「あ…そうか。それじゃあ…」
 『彼女』は私の意図していたことを理解してくれたようだったが、そのすぐ後に、自分の記憶を探るように、リリアーナは中空に視線をさまよわせた。
「…蒼流の渓谷、かな?結構北の、遠いところにある場所だよ。邪妖が少なかった頃にね、観光で一度だけ、行ったことがあるんだ。あの時は月夜が綺麗だったな…」
 リリアーナは、その時の思い出を懐かしむように、小さな微笑みを浮かべた。
 その表情は、無垢な子供のような、清らかな顔だった。来たる運命(さだめ)など、少しも思わせぬ、美しい笑顔だった。
 それは、心奥に秘められた、その覚悟だけが成せるものなのか。
 そんな『彼女』が、これから、妖魔の生贄となるなど…。
「…アルーシェ、そこでも大丈夫、かな?どうしたの?」
 不安げな上目遣いで、リリアーナが私の顔を心配そうに伺ってくる。
「…あ、っと、なんでもないよ。それで、その渓谷は、どのあたりにあるかわかる?」
 オーナーが目印を付けてくれた地図には、相応の距離がある旨も同様に走り書きされていた。地図の縮尺と目算で実際の距離へと換算してみれば、確かに今までにないほどの長い道のりとなるだろう。
 全てを踏破していくことも可能だが、それでは時間的な痛手は避けられない。『彼女』の心にも…大きな負担を強いることとなる。
 だからこそ、この石の力を上手く利用できれば…。
「この地図なら、このあたり」
 リリアーナが地図の上を指し示す。
 そこはちょうど、道程の半ばあたりを過ぎた、深い森の手前。
 もし本当にこの距離から行けるとするならば、かなりの距離を短縮できることになるだろう―それでも残りの道のりも、決して短いとはいえなかったが。
 しかし、『夜』まで待つ価値は、十分にあった。
「ありがとう。…それじゃ今夜、ここを出発する。準備にとりかかろう」


「まいどあり。またどこかで会ったらよろしくな、お嬢さんがた」
 商店街で出会った、旅の植物博士(はかせ)であり行商人だとも名乗る男性が、私たちに健気な笑顔を見せてくる。
「…また、会えたら、な」
 彼は、いまだ旅路の最中(さなか)の身であるらしい。しかし、その品揃えはなかなかのものだった。
 必要なものはほとんど買うことができたが、登る白日はまだ夕暮れ前。『夜』までは、幾分かの時間が残ってしまった。
「さっきの人、面白い人だったね。オイラ、スコップで戦うんだ、って。そんなことできるのかな?」
 先ほどの出来事を嬉しそうに話す、なにげないリリアーナの笑顔。
 どうして、なんだろう。
 私にはそれが不思議でならなかった。
 どうして、『彼女』は、こんなにも。
「君は…」
「えっ?」
「…いや。少しカフェにでも寄っていくか―リリアーナ」
「…うん、いいよ―アルーシェ」

「しっかし、『月の女王』の噂話も、結局ガセだったなぁ。ほれ、今ある噂はこれだけだ。女王じゃないが、赤い月なんてもんもあるぞ。フィリスお嬢、どれにする?」
「えーっと…じゃあ、ライルさん。これ、お願いします!」
「おう、これな…『L嬢失踪事件』。こりゃまた、物騒な噂だよ…おっと情報量(リブラ)は、もちろんいただくぜ?」
 それから近くのカフェに入った私たち。
 今日は休日でもなく、時間も時間であったため、来店客はまばらなものだった。
 奥に空いていたテーブルの席に着き、ぼんやりと窓から空を眺めていると、頼んでいた紅茶のカップが、二つコトンと、茶色い丸卓(がんたく)の上に置かれる。
「たいっへん、お待たせいたしました〜!!ソティーお二つでよろしいですね!?それでは、どうぞごゆっくりっ!あっ、お茶のお供ならプニゼリーがおすすめですよ!」
 赤いセミロングに三角巾をつけた、元気なウェイトレスの女性がちょこんとお辞儀をして、そのままテーブルのそばから離れていく。
 ふっと息をついて、私は紅茶のカップに口をつけた。
 暖かな紅水の、芳醇な香りと、豊かな風味が、じっくりと喉を潤していく。
 リリアーナもまた、その紅茶を口にした。
 二人の間に、会話は、ない。
 なぜだか、それからしばらくの間、沈黙が続いた。
「…ソティー、美味しいね、アルーシェ」
 どこか、ふっと思い切ったように、リリアーナが口を開く。
「どうして…」
「…?」
「リリアーナは、いつもと何も、変わらないの?」
 私も、思い切って、ずっと考えていたことを、『彼女』に向かって吐き出した。
 今の『彼女』は、もう、心休まる余裕もないはずなのに。
 なぜそんなふうに、楽しそうにお買い物したり、お喋りしたり、できるの?
 私には分からなかった。私なら到底、そんなことはできなかった。
 これから自らの命を…捧げにいくというのに。
「…あなたが、いるから。でしょ?」
 リリアーナは、しかしどこか淋しげに、私に柔らかく微笑みかける。
「私が、いるから?」
「そう。アルがいるから。あなたといれば、何も心配はいらない。あなたなら、きっと、世界を救ってくれるだろうと、わたしは信じてるから」
 それから『彼女』は、ゆっくりと瞳を閉じていく。
「…これは、アルと、そしてルーエンとの、最後の想い出でもあるの。わたしの心配はしなくていい。わたしはこの旅を、精一杯、楽しんでみせるわ」
「リリアーナ…」
 決して涙を流すことはなかった。『彼女』は、ただ微笑んでいた。
 そこには、臣民を優しく見守り、昇陽の如く泰然(たいぜん)と笑みをもたらす、聡明な女王の面影があった。


 しばし街をめぐり、ちょうど朝いたホテルの前へと戻って来たころ。
 白昼の間、悠々と空の頂天にまで達していた大きな太陽は、次第に夕焼けの落日となって山の裾元へと隠れてゆき、あたりは既に薄暗く、周囲には徐々に『夜』のはじまりが告げられようとしていた。
「そろそろか…」
 視線の先には、ちらほらと、早足で帰路を急ぐ、街に住む人々たちの姿がうかがえる。
 深い『夜』に包まれるこれからは、妖魔のたぐいが活発化する時間帯だ。戦う術を持たない一般の人間ならば、一刻も早く家屋の内へと入らなければ瞬く間に化け物たちの格好の餌食(えじき)となるだろう。
 そのせいだろうか。長い一日が終わりを迎え、ようやく家へと帰ることができるというのに、人々の表情にはほっとしたような安らぎの感情は一切なく、きつく強張りきった渋顔(じゅうがん)には、ただ焦燥ばかりが満ちていた。
「『よるのないくに』…か」
 若い騎士の頃、とある二人の騎士から教えられた言葉。それはまさしく、この世を表す言葉であった。
 そっと、空を見上げたまま立ち尽くすリリアーナに向き直る。
「リリアーナ。それじゃ…行こうか」
 こちらに顔を向けた『彼女』は、黙って私の瞳を見つめたまま。
「ええ…行きましょう」
 しかし、やはり『彼女』は、微笑みを絶やすことはなかった。

 その後。都の北門から外郭沿いの街道まで出た私たちは、そこから少しだけ離れた、浅い林中の内へと入っていく。
(ここなら、誰にも怪しまれることはないだろう…)
 それにルーエのこともある。彼女は私たちが北門に着き次第合流する、とだけ言っていた。
 ルルド教団は必ずしも味方ではないが、ルーエンは私たちの親友、そして一度交わした約束はいつときも破ることのない、そんな信用に足る人間であることは、誰よりもよく分かっていた。
 林にぽつりと、虫食いのように開かれた草地に着くと、ふいに奥の草むらが、カサカサと小さく揺れはじめた。
 徐々にこちらへと近づいてくる、草木の擦れる音。
 あたりの闇夜が徐々に人型を成していくかのように、黒い装いの彼女は、ぼんやりと、私たちの前に姿を現した。
「来たか、待ちくたびれたぞ」
 低い、まるで獣が唸るような彼女の声が聞こえてくる。
「…ルーエンハイド、待たせたな」
 ルーエンハイドは、頭から深く被っていた外套のフードを、ゆっくりとまくり上げる。
 金色の長髪が流れるように肩元から滑り落ち、薄赤い月夜に照らされ、きらめく雷電のように光り輝いた。
 ふと彼女の足元に目を落とすと、もうひとつ、小さな黒影がこちらを見据えているのがうかがえた。
 ルーエのすぐ(かたわ)らで、次の指令を忠実に待ち構えるようにたたずむ黒い獣は、どうやら狼のようだが、普通の狼ではないのは、それが何たるかを知る者にとっては一目見るだけで明らかだった。
 そいつはどうやら邪妖の一匹。そして、彼女を慕う従魔らしい。
「こいつはシャルフ。私の従魔だ。仲良くしてやってくれ」
「…グルゥゥ」
 喉を小さく鳴らした黒い狼のシャルフは、並べて着いた両手を支えに小さく頭をおろす。その所作は、従魔ながらどことなく気品が漂っていた。私たちの従魔とは色々と勝手が違いそうだ。やはり何事も飼い主に似てしまうものなのだろうか…。
「ルーエ、君はこの任務のことは良く知っているようだな。…この石のことも分かるのか?」
 私は早速本題へと入ることにした。ひとまず、首に提げられた青い貴石を、ルーエへと差し示す。
 どこから情報が漏れているのか知らないが、やはり大きな組織の裏には、どの類いにも密告者というものが存在しているのだろう。今朝のルーエンとの会話からしてどうやら教皇庁の思惑は、既にルルド教団には見え透いてしまっているようだ。
 ならばこの石のことも、彼女は当然周知済みのはずだろう。もしそうであれば話も早いのだけれど。
 手の平に乗せられた小石を見たルーエは、私に向かって静かに頷き返す。
「ああ、把握している。次元の魔石、とやらだろう?時間を短縮できるという、摩可不思議な石。だが『夜』の間しか使えん、変わり種な代物らしいな。…まったく、また妙なモノを…」
 どこか納得のいかない様子ではあったが、ルーエは魔石のことは知っているようだ。それなら説明は省ける。
「何か気になることでも?」
「…いや、なんでも。もしかして、これからそれを使おうというのか?」
「察しがいいな。今からこの石を使えば、居城までの道のりの、半分以上はゆうに踏破することができるらしい。徒歩で向かうよりも効率がいい」
「なるほど。だがそれは確か、人の『記憶』によって力を発揮するのだろう?それほどまで遠方の北地に赴いたことがある者がいるのか?」
 ルーエは私たち三人の顔を見渡しながら口を開く。
「えっと…ルーエ。それは、わたし」
 ちょこんと前に出てきたリリアーナが、おずおずと手を挙げた。
「…リリアーナ、君が?」
「蒼流の渓谷って、ルーエは知ってるかな?ずっと北のほうにある、夜月が綺麗なところよ。わたしね、一度だけ観光でいったんだ」
 場違いなほどに明るく微笑み、リリアはルーエンに嬉々とそのことを話す。
 思い出話を語る『彼女』の表情は、しかし、その内にはひっそりと、小さな哀愁の念が秘められていた。
 …やはりリリアーナは無理をしている。私は内心そう思ったが、今はあえて口に出さないでおいた。
「…そうか」
 それを聞いた彼女は、浮かばない顔つきで視線を地面へと落とす。
「ルーエ。そんなに、悲しい顔をしないで。…わかってるわ、わたしが生贄になることでしょう?貴女とも、これは最初で最期の旅となるわ。だからこそ、そんな時だからこそ、みんなで笑いあいましょう?…ね」
 リリアーナがルーエの両手を柔らかく握りとる。
「…君は、本当に、『彼女』の生贄になるつもりなのか?」
「…ええ。それは決まってしまった定めなの。引き返すことは、もうできないわ」
 『彼女』はそう言って、私のほうにゆっくりと振り返った。
「…分かった。リリアーナ。石を手にとってもらえるか?」
 首から魔石を外してリリアーナに手渡す。
「どう、すればいいの?」
 そういえば、オーナーから詳細な制御の仕方について聞きそびれていたが、今からもう一度戻って聞くのはためらわれた。
 私は、自身が使った時に感じたおおまかな感覚をリリアへと伝えた。
「私たち三人の顔と、君にとって一番印象に残ってる場所を思い描いて。そこに行きたいと、祈るんだ」
「そう、お祈りすればいいのね」
 言ってリリアーナは瞳を閉じる。
「私たちも祈ろう。何があるかわからないから」
 ルーエにも祈りを促す。彼女も素直の頷き、瞳を閉じた。
 最後に私も同じように、まぶたをゆっくりと下ろしていった。
「…いくよ」



「…『月の女王』とは、何者だ?一体何がしたいんだ?」
「『彼女』は生きた人間の贄を求め、そして『世界を救おう』としている。ボクはそう都で耳にした。…今のところ、様子見するのが一番でしょうね〜、ワタシはそう思うわよ~」
 手にした『楽器』を磨く彼女は、特に興味もなさそうに、そうとだけ答えた。
「……」
 蒼い装具を身に付けたもう一人の彼女は、座っていた椅子からすっと立ち上がった。
 そして左傍らに立て掛けていた、巨大な大曲剣を掴み取る。
「…獣狩りの夜が始まる」


 美しい虫の音が、耳元にこだまする。
 さっきまでは聞こえなかった自然の音だ。夜が深まり、林の中から動き始めたのだろうか?
 どことなく先刻よりも肌寒い。それに、耳をすませば、遠く滝の音も聞こえる。
 それでようやく、はっとした。
 教皇庁の周辺に、大滝の瀑布が望めるところは、私の知る限り一つもない。
「…うそ」
 リリアの唖然とした声と同時に目を開くと、まばゆい月明かりが瞳に飛び込んできた。
 辺り一面は一瞬にして、教皇庁近くとは思えない、見慣れぬ山岳地へと姿を変えていたのだ。
「これが妖魔の力…それもまだ片鱗以下の石ころにすぎんとはな。見せつけられたよ、これは邪妖狩りにとっては幸い中の不幸か?」
 ルーエは腰に両手を当てて大きくため息をついている。
 確かにこれほどの魔力であるならば、彼女の言っていることも納得できた。
 これはまだ石ころに込められた、ちっぽけな力にすぎないのである。元来の力の源である純血の妖魔とは、果たしてどれほどの力を有するのか…。もはや想像することすら叶わなかった。
「やっぱり、きれい…」
 リリアーナが近くの崖元にまで近づいて、空を見上げている。
「ほら…アルーシェ。月が見える?とっても…きれいだよ」
リリアーナの隣にまで寄り添うと、『彼女』は自然と、私の左腕を掴んできた。
「…よかった。もう一度ここに、アルーシェと来たいと思ってたんだ…今日、やっと叶ったよ。ありがとう…」
 ぎゅっと腕を抱き込んで離さない『彼女』は、小さく嗚咽を吐きながら、泣いていた。
 ようやく見せた、『彼女』の本当の心中。
「リリア…」
「…」
 ルーエのほうを見ると、黙って腕を組んだまま、彼女はそれを見つめるばかりだった。
「…あっ!ごめんなさい…わたし…」
 はっと顔を上げたリリアーナ。深い思い出の土地に来たからか、衝動的に感情が揺さぶられたようだ。
「大丈夫。でも…無理はしないで」
 私はリリアの顔を正面から見据える。
「君が少しでも楽になれるようなことがあれば、私はどんなことでもする。だから…」
「アルー…シェ」
 そっとリリアーナを抱きしめる。
 しかしリリアーナは、目元をこすりながら、すっとその腕を押しのけた。
「…心配しないで、大丈夫。無理は、してないわ。これは私が決めたことなの。最期くらい、アルーシェに楽をさせたい…そう思っちゃ、駄目なの…?」
「…」

「…二人とも。こちらに向かって来ているようだ。構えろ!」
  続く言葉を制するように、ルーエが叫んだ。
「…!」
 見ると、彼女は蒼く輝く気剣の切っ先を、青々と茂る草むらの方向に構えていた。
 滝の落瀑音に紛れてそれは聞き取りづらかったが、草地がガサガサと揺れる不穏な音が確かに聞こえてくる。そして。
 月夜の逆光に照らされた、その真っ黒いシルエットは大きく中空へと飛び上がり、私たちのすぐそばへと降り立った。
 鋭い爪を持った小型の、邪妖。
 ほっと一息ついた。奴らは邪妖の中でも最下に位置する者たちだ。ゆえにさして手強い相手ではないが、数はおよそ十数はいる。
「雑魚共か。(つるぎ)のサビにもならんな。…アルーシェ、いくぞ」
 ルーエンハイドが、気剣オーズを構える両腕を改めて引き締め直す。
「…リリア、戦えるか?」
 本当ならもちろんそうさせたくはなかったが、しかし強靭な邪妖たち相手に、戦力はいくらあっても足りることはない。
 無理をするなと言っておいて、『彼女』には酷なことだろうが…これが騎士たちの現実だった。
「…うん。だから、アルーシェ、大丈夫だよ」
 心配は杞憂だったようだ。やはりリリアーナも、相応の場数を踏んだ戦巫女のことはある。この()に及んでも、闘志が消え入る様子は少しも見受けられない。
ただやはり、心身の安定が取れていない状態で戦わせることには、幾分かの不安が残っていた。
「…無理はするなよ」
(…ごめんね。また、あとで)
「一つだけ、全員に言っておきたいことがある」
 背中の曲刀を抜き放ちつつ、私はそのままルーエンハイドの背後に回った。
「なんだ?時間がない。簡潔に言え」
 邪妖たちは、こちらの様子を伺いながらもジリジリと近づいてくる。いくら下級とはいえ、不意を襲われ、ただ生けるモノを殺すためだけに発達したあの鋭爪が四方八方より降り注いでくれば、たとえ訓練された上級騎士といえどもひとたまりもない。一瞬の油断も遅れも禁物だ。
「『リリィ』は、もちろん知っているな?味方同士の相打ちも防ぐためなるべく混戦は避けたい。私を基軸に、状況に応じて、もう一人が先頭に出て来てくれないか?」
 私が口にした『リリィ』とは、本来二人一組、従魔二匹の陣形のことを指す。その状況下で最も有効的に戦えるように考えられている。
 四人が同時に戦えば、ひとたび混乱状態に陥ることは、確実に免れないだろう。
「…つまり、二人が前衛で、残りは待機、ということだな?確かにそれが最良のやり方だろう」
 リリアーナにも可否を求めて目配せを送ると、『彼女』は無言で頷いてくれた。
「だけど、出来ることがあるなら、なるべく戦闘には参加してもらいたい。例えば…リリアーナ」
「…え、えっと。わ、わたし?」
「君は唯一の癒し手だ。戦闘外でも、前線のサポートができそうであれば、お願いしたい」
 リリアーナの従魔は、他人を癒すことのできる能力を持っている。それは現時点では『彼女』にしか使えない力だということだ。
「…ニメタノ、マーサンジュシゴ。スマリバンガ、シータワ!」
 リリアのロジエクロックが光り出し、『彼女』の従魔、『癒し』の妖精フィーユが現れる。
「ニャニャ。ニャニャ」
 今度は私のものが光って、『紅炎』の黒猫ネーロが続いて姿を現した。
「全員、揃ったか」
 私は周囲を改めて見渡す。それぞれの従魔が、それぞれの主人についた。
 欠けているものは、心の中のなにかより他は、もう何もない。
「みんな、用意はいい?居城まで、突っ切るからな」
「ふふ。なんだか昔を思い出すな」
「アル、ルーエ…サポートは、まかせてね」
「ニャ」
「ケイケィ!ヨーチタシン、セキケタ!」
「…」
 三人と三匹は、蔓延(はびこ)る邪妖たちの郡中へと飛び込んでいった。


「まったく、賑やかなものですね」
「…何か、一人余計なのが混じっている気もするが?」
「それも想定内…今のところは様子を見ましょう」
 それを背後より見つめる一対の人影に、誰一人として気づくはずもなかった。


「ルーエ!そっちのを頼む!」
「任せろ、アルーシェ!」
 私たちは道中襲いかかってくる邪妖たちを斬り伏せながら、行く先を急いでいく。
「…ちっ。素早い奴が来た。リリアーナ、出れるか?」
 進行自体は順調な勢いだったが、ことあるごとに、他よりもひとまわり大きく俊敏な邪妖に足止めを食らってしまう。それはヌシ、とまでは言わないが、この一帯では特に警戒すべき相手だと思えた。
 背後で支援に回っているリリアに私は声をかけた。『素早い相手』がいるこの状況下では、『彼女』の力が最も役に立つはずだろう。
「うん…少し、待って」
「リリア、援護は任せろ。安心して戦え」
「ヨスマシータ、インタシ!」
 辺りの邪妖を蹴散らして、一歩下がったルーエンに変わり、今度はリリアーナとフィーユが前衛を務める。
 小さく頷きながら、『彼女』は例の呪文を唱え始めた。
 そう。…事の発端ともなった、時繰りの魔術だ。
「アルーシェ、いくよ!」
 リリアーナは大きな掛け声とともに、両手をを大きく空へと掲げた。
 それを合図とするかのように、時空が歪み始めていく。邪妖たちの動きも例外ではなかった。
「いいぞ…あとは私がっ」
「ニャ〜」
 叫びつつ、私とネーロは、鈍重な巨体を目がけ並行して肉薄する。
 私たちが懐へと飛び込んだ。
「倒れろっ!!」「ニャ!」
 斬れ味鋭い大曲刀を、無防備にさらけ出された邪妖の頭に振り下ろす。ネーロは下から潜り込み、邪妖の喉元を搔き切ったようだ。
「ガッ…ガァァァアアア!!」
 重量級の重い一撃は、皮肉を切り裂き頭蓋を砕いて、それはたやすく脳漿(のうしょう)の奥深くまでめり込んだ。
 途端に(おびただ)しい量の血が傷口より噴出した。
「くっ!」
 さすがにたまらず、私は一歩引き下がる。たとえ多量でなかったとしても、蒼き血を浴びるのは危険な行為だ。
 教皇庁での研究が進み、専用の薬剤などが豊富になったり、蒼血に対抗する魔術の類いも増え、今でこそ即座にヒトが邪妖化することのないように様々な対策は練られてきたが、それでもその被害は未だに根強く残っている。
 そして、やはりそれは血に触れる機会が多い、騎士たちの間に頻発しやすいのだ。流血には十分に注意を促す必要があった。
「まだ残ってるか…。ルーエ、ここは一気に!」
「ああ!」
 残るは矮小(わいしょう)な邪妖ばかりのようだ。これなら早駆けして、まとめて始末できそうだ。
 声に応じてくれたルーエは私のすぐ隣にまで駆け寄ってくる。これは彼女との連携が不可欠だった。
「…一、二、三、で行くから。用意はいい?」
「任せておけ」
 ルーエは小さく笑いながら片手を挙げる。


一。
 まず全方位に視界と守備を広げる。私とルーエンは背と背を合わせた。

「随分と久しぶりだな。昔のように私についてこれるか、アルーシェ?」

二。
 二人は剣を掲げ、その二つを交差させ、またぶつけ合う。それはある種の報せだ。

「…笑わせてくれる。それはこっちの…」

三。
 そして、互いの剣腹を打ち鳴らしたのち、

「セリフ
 彼女たちはそれを一気に地面へと、

だっ!」
 振りおろした!


「はぁぁあああああああ!!」

 少女たちは、共に背中を押しあって、前へと駆け走った。
 この時、頭の中では、もうほとんどなにも考えてはいまい。ただ、二人で剣を振るった。
 視界に躍り出た邪妖を斬る。斬る。ただ斬る。叩っ斬る。背後など、見向きもしない。
 まさに狂った戦士さながらの無謀さであったが、それは後ろの彼女を信じているからこそ、成せる業であった。
 ルーエンハイドはアルーシェを。アルーシェはルーエンハイドを。
 だからこそこれは、彼女たちにとっては無謀ではなく、勇敢であることを意味していた。

 そう…背中を預けられる『仲間』がいるからこそ。

 彼女とそしてリリアーナは、自分の一生の相棒だと、私は今のこの時まで、信じて疑わなかった。
 それゆえに、彼女からの近況報告、ルルドへの転身。それは少なからず私へと衝撃を与えることとなった。
「ルーエ…」
 自らが切り裂いた邪妖の、累々と積もった亡骸を見つめながら、私はぽつりとその場に立ち佇んだまま。
 どこか淋しげに、彼女の名前を呟いていた。

「良い動きだ。それなりの修練を積んできたようだな」
 剣を収めたルルドの聖騎士が近づいてくる。
「…アルーシェ、どうした?どこか怪我でもしたか?」
 声を掛けても一向に反応の無い私に向かって、ルーエが訝しそうに声を低くする。
「…なんでもない」
 曲刀をすっと仕舞い込み、すぐに彼女から踵を返して、私はリリアーナたちのもとへ歩みを進めていく。
 心なしか、自分の声が素っ気ないような気がしたが…気のせいだろう。
「…」
 彼女は何も言わずに黙りこんでいたが、そのまま私についてきた。
 いまだ信じたくはないが、仮にも彼女は、ルルドの聖騎士である。そして彼女は、自らの立場に確信に近い誇りを抱いている。
 もう彼女は、教皇庁の人間ではないのだ。彼女と共に戦場を駆けると、むしろそのことに、ひしひしと実感が宿ってきたような気がした。
 思うと、先の戦いの高揚感もあってか、それもそれでいいように思えてきた。半分自棄(やけ)になっていたのもあるだろう。
 彼女とは昔から、良い意味で好敵手(ライバル)同士だった。始めから私たちは、こうなる運命だったのかもしれない。
『…アルーシェ、今は争うようなことはよそう。いずれ、その機会はしかるべき時に、私たちの元へと必ず訪れるだろうがな』
 昨夜のエルの言葉を思い出す。
 決して彼女を陥れたりするつもりはない。できるなら戦わずに済ませたいが、私がリリアーナを護衛する以上、そう上手くはいかないだろう。彼女(ルーエ)は必ず、戦いを仕掛けてくるはずだ。
 それが今の彼女の、信ずる心の()り所であり、最高の栄誉であるから。
 ルーエンハイドを敵だとは思わない。今もこれからも、絶対に。
 しかしながら、私は心の中で、彼女に対して覚悟を決めなければならないのかもしれなかった。


 それからしばらく道程を辿るも、眼前に現れるものは小さな邪妖ばかり。
 進む順路は順風満帆そのものであり、早くも一行は、居城の一歩手前に位置するという黒緑の森林地帯にまで差し掛かった。
 ルーエとは、まだ何か話しづらい雰囲気が続いている。リリアーナも遠慮しがちに口を開こうとしない。
「アルーシェ…あれ」
 しばらくの間、特に会話もなく黙って歩いていると、ふいにリリアーナが前方を指差した。
「なんだ、リリアーナ?」
 『彼女』が指差す視線の先を見つめると、そこには天を衝くようにそびえ立つ大きな巨木と、こじんまりと広がった低い丈の草地が見える。
 その周辺には、何やら古い遺跡のようなものも散見された。石材で頑丈に作られただろう、苔むした遺跡だ。
 かつて人間によって建造されたもののだろうが、既に棄てられた後のようで、多くの家屋は地面へと崩れ落ちている。人の気配は少しも感じられなかった。
「少し、あの場所で休憩でもしていくか?アルーシェ」
 ふいに後ろを歩いていたルーエンハイドが声を掛けてきた。あそこなら、他より多少は安全であると判断したのだろう。確かに間違いではなかったし、邪妖を狩り続けてきて、疲労が溜まっていないとも言えなかった。
「…ああ。そうだな。無理に動くと、のちのち厄介なことになる。一旦、あそこに留まろう」

 手持ちの発破用フラムを用い、崩れ落ちた残骸を破壊して、遺跡の内へと入っていく。
 そこまで雑草も生い茂っていない手頃な広場を見つけると、私はそこに焚き火をすることにした。
 よく乾いて湿気っていない木枝や枯れ草を集めてきて一箇所にまとめ、その近くで、私はネーロを両手に抱える。
「ネーロ。それじゃ、頼むよ」
「ウニャ〜」
 黒猫は一言鳴き、そして口を大きく開いたかと、燃え盛る火だまりの息をそれに吹きかけた。
 いくらか浴びせ続けると、無事に草木へと炎が燃え移る。火は十分に空気を吸い、次第に大きくなっていった。
「ネーロちゃんの特技は本当に便利ね。炎の息を吐くなんてこと、わたしのフィーユにはできないことだわ」
 リリアーナがそれを見て嬉しそうに微笑んだ。対してネーロと比べられたフィーユは、いきり立つようにして黒猫に鋭い視線をぶつけている。
「フィーユ。大丈夫よ。そういうつもりで言ったわけではないから…」
 リリアーナに苦笑されると、彼女は諦めたように引き下がった。
「ニャ」
 当のネーロはというと、特に気にもせずに、自分が着けた篝火のもとで毛づくろいを始めている。
 私たちもそれに倣って、火を三角形に取り囲むようにして座った。
「そういえば…三人でこんな風に外に出るなんて、久しぶりだね。女学園の時以来かな」
 私がそう言うと、リリアーナはうんうん、と頷き、ルーエンハイドにも同意を求めるように視線を配るが、彼女は黙りこんだまま、紅炎を見つめるばかりだった。
「…リリアーナ」
 立ち上る炎を見つめたまま、ルーエンハイドは『彼女』の名前を呼ぶ。
「なに?ルーエ」
「…いや、なんでもない」
「……」
 ふいに、ルーエンハイドが立ち上がる。
「…ちょっと、辺りを歩いてくる」
 彼女は言うなり、すっと私たちに背を向けて進んで行く。シャルフも黙って着いていった。
「…ルーエ…」
 『彼女』は座ったまま、膝元を抱えて俯き込んだ。
「…わたしも、少し空気を吸ってくるわ」
 そう言って『彼女』もゆっくりと立ち上がると、フィーユを連れたまま、私を置いて奥へと行ってしまった。
「…リリアーナ…」
 残されたのは微かな風の音、黒猫、少し欠けた赤い月、それに…とある少女の、小さな呟き。


「…どうして…こうなって…しまったんだろう…」


「リリアーナ、ここだったのか」
「…!」
 遺跡の外れで夜空を見上げていると、ふいに後ろから声を掛けられた。
「一人で来ていたのか。…アルーシェは?」
 その声はもちろん、ルーエンハイドのものだった。
 近づいてきた彼女はわたしの肩に、柔らかく手のひらを乗せてくる。
「…一人になりたかったの。アルは焚き火のところにいるわ」
「…そうか」
 ルーエンハイドは隣に並ぶ。わたしと同じようにして、彼女も空を見上げた。
「…このまま、アルーシェを置いて、私たち二人で逃げないか」
「えっ…?!」
 唐突に、思いもよらぬ言葉を投げ掛けられ、ルーエンハイドの顔を―多少の疑念も籠った目で―わたしは見つめる。
 しかし彼女の横顔は、真剣そのものだった。
「ここで逃げれば、私はアルーシェと戦わなくて済む。君のことも…守れるんだ。考えてみれば、そうだろう?」
 向き直った彼女は、小さく笑いながら、わたしに問いかけてくる。
「……」
「正直言うけどな…私は、もちろんアルとは戦いたくない。君を生贄になんかさせたくない。そして最大の仇は、教皇庁だ。その全てを得るためには、どうするか?」
 肩を掴むルーエンハイドの腕に、より力がこもってきたような気がした。
「…ごめんなさい。本当ならそうしたいわ。でも…わたしには、やるべきことがある」
 わたしは肩に乗せられたルーエンハイドの手のひらを、そっと押しのけた。
「…私とアルーシェが戦うことになる。それでもいいのか、君は?」
「そんなの…いいわけ…ないじゃない」
 わたしはもう一度夜空を見上げる。
 浮き上がって見えてきた天秤座の星々が、伝承に聞く蒼魔灯のように輝いていた。
「…そこまで言うのなら、もう一度ーアルーシェと話してみるわ。まだ、何か、やれることはあるかもしれない」
 全てを言い切る前に、わたしの身体は既に彼女のもとへと駆け出していた。


パチパチ―パチ―
 煌々と燃えさかる炎。私はずっと、それを見つめていた。
(ルーエ…リリア…)
 身体は徐々に暖まってくるが、冷めきった心が熱を帯びていくことはない。
(…私は、どうすれば…)
「アル…?」
 後ろから聞こえてきた『彼女』の声に、はっと頭を上げた。
 少しずつ近づいてくる静かな足音。
 リリアーナは私のすぐ隣に座る。
「…わたし、思い直したわ」
 突然、そんなことを言い出した『彼女』に、私は驚きの表情を向けた。
「思い直した…って…つまり…?」
「…勘違いはしないで。生け贄として、わたしは『彼女』のもとに行く。それはもう心に固く誓った。ただ…最期の最期まで、何もしないで終わりたくはない」
 リリアーナは、私の顔を真摯に見据える。
「あの赤い月が新月になるまで、わたしが生贄になる時間はまだあるそう。それまでの間に、何かこの世界を救う別の方法を、探せばいいんだわ。貴女を信じているからこそのお願いよ…」
 リリアーナはそう言って、瞳を閉じ祈るようにして両手を胸に当てた。
「…」
「女学園の時の、『約束』、覚えてる?それを、忘れないで。…わたしはずっと、アルを待ってる。貴女を、最期のその刻まで、わたしは想っているわ」
「リリアーナ…」


「…そうですか。『彼女』はあんなことを…。これは…致し方ありません」
「…やるのか?本当に」
「ええ。紅の乙女と、例の『蒼き血』は…もう必要ありませんね。煮るなり焼くなり好きにしなさい。もう一人は…泳がせておきましょう。放置しておいても、結局彼女には何もできないでしょうから」
 月夜に照らされ、くっきりと浮かんだ黒い二つの人影が、そんな『彼女』たちを、ひっそりと見つめていた。


 篝火での一度の安息を終えた私たちは、ひときわ目立ってそびえ立つ大木の横を通り過ぎてから、しばらく進んでいく。
 森に入ると同時に邪妖の性質も変わってきたようだ。渓谷では見られない多種多様な化け物たちが群れをなして襲いかかってくる。
 今ちょうど刃を立てたキノコ型の邪妖は、見た目こそ可愛らしいが、気配を察知して放出される胞子は強力な猛毒を備えているらしく、一筋縄ではいかない邪妖のひとつだった。
(まったく…どう進化したら胞子が猛毒を持つようになるんだ)
 この邪妖という得体の知れぬ何かは、本当に生き物なのだろうか。どうしてここまで、他者を根絶やしにするような力ばかり備わるのか。
 一説によれば、これは自然の権現なのだという。彼ら自体に悪意はない。ただ、蒼き血がもたらした自然の脅威の一つにすぎないのだと。そんな論理、実際戦ってみれば一気に吹っ飛ぶけれども。
 しかしその大元である『夜の君』が悪神であるならば、そんなものにも説得力はなくなる。邪妖はいかにもこの世を滅ぼす魔神の下僕たちだと、世間一般ではそのように広まっているのが現実だ。
 剣を仕舞い、そんな考え事をしながら進んでいると、ふと足元にちょこちょこと何かが触れるような感触を感じた。
 立ち止まって見ると、ネーロがつま先に肉球を押し付けていたようだ。私に何か伝えたいことがあるらしい。仕草だけみれば、こいつもそれなりにかわいいんだけど…。
 一旦、一行の進行を止めさせ、私はネーロに改めて顔を向けた。
「なんだ?何か見つけたのか?」
 彼の顔は、本気だった。大きく猫背を曲げながら、全身の毛を逆立てては、前方へと威嚇の姿勢を構えている。
 すぐさま頭を上げて周囲を見渡す。同時に、両の耳にも神経を集中させた。
 シャルフも何か感じ取っていたのか、ネーロと同じように戦闘態勢を取っているようだ。フィーユはというと気づいてはいるらしいが、怖いのか、リリアーナの後ろに隠れて頭を抱え込んでいる。
 どうやら想像以上の相手が、向こうから近づいてきているらしい。
 私は耳をそばだてた。微かな音をも逃さない。
 遠く吹きゆく風の音。山裾から流れる川の流水。艶美な羽虫たちの唄声。
 その自然の音色に混じって、明らかに何者かが確実に歩みを継ぐ、そんな雑踏の音が、耳の奥まで響き届いてきた。
 徐々にそこらじゅうに漂っていくような、異様なほどの気の昂ぶり。それは私が、緊張しているからなのだろうか。
 そしてその者はすぐに、私たちの前へと姿を現した。
 溢れんばかりの殺気と、否応なく迫る重圧を携えて。
「ウォォオオオオオオン」
 突如、ルーエの従魔である狼のシャルフが雄叫びを上げた。
 それは、あたかも悲鳴を喚き散らすようにも聞こえた、そんな苦々しい遠吠えだった。
「えっ…?」
「あれ…」
「シャルフが唸ってる!気をつけろ!この気配は!」
「まさか…純血の妖魔!」

「純血の妖魔だって?!」
 その名前だけは、以前から小耳には挟んではいた。そもそもリリアーナを花嫁として嫁がせる、『彼女』もまた、純血の妖魔であるらしかった。
 彼の者たちは、邪妖たちを統べる主であるとも言われるが、外見上はさほど異なるところは見られないらしい。大小も様々なようだ。
 決定的な違いは、彼らはただ邪妖のように蒼き血を求めることはせず、生ける者の魂そのものを貪るために、この世を彷徨い歩くのだという。
「にゃおにゃお…猫にすらバレているのならしょうがないわね」
 奥の林中から、そんな『女性』の声が聞こえてきたと思うと、視線の先が一瞬にして黒一色に変貌した。
「何か来るよっ!」
 リリアーナが声を張り上げて叫ぶ。
 見るだけでぞくぞくと精神を抉られるような黒い塊は、どうやら小さな黒蝶の大群らしかった。
 あたりを飛び回る黒い蝶たちは、みるみるうちに、巨塔のような一つの蝶柱を作り上げた。
 しばらくの間、螺旋状に飛び回ると、蝶たちは次第に散り散りと四方に散っていった。
 少しづつ開かれていく、蝶たちの壁。
「なっ…?!」
 思わず私は目を見張った。
 黒蝶の渦の中央に立っていたのは―人間だったのだ。
 …いや。違う。改めて目に収めるが、そいつは、どうやら人ではなかった。
 見てくれは、表面上は人間の女性のようにも見えたが、ところどころに見られる黒い隆起と、刺々しく伸びた頭部の小角、そして背に生えた巨大な双翼が、かの者がもはや人外の存在であると、雄大に物語っていた。
「白い、百合の娘を寄越しなさい。そちらにいるのは分かっているわ」
 妖魔は、私の後ろに立っていた『彼女』、リリアーナを指差した。

「…あなたは…一体…?」
 黒い指先を突きつけられたリリアーナが、恐れおののくように両手を胸元に当てる。
 かばうようにして、私は『彼女』の前に駆け入った。
「いきなり現れたかと思うと、とんでもないことを言ってくれる。当然のことだが、言わずもがな。分かりきっていることだと思うが?」
 私は背中の曲刀を抜き放つ。それが答えだった。
「やる気か。ただの人間のお前が、わたくしに勝てるかしら?」
「やってみなくちゃ分からない。少なくとも、私はやる気だ」
「…聞いた話に違わず、面白い娘だな。ならば…」
 そう言うと、妖魔は静かに歩みを継ぎながら、こちらに近づいてくる。…その余裕に満ち溢れた様が、余計に癪に触った。
 私は飛び込もうとしたが、その時、何者かに肩を掴まれた。
 勢いのあまり、つんのめりそうになる身体を堪え、私は後ろを振り向く。
 苦々しい表情をしたルーエンハイドが、私の肩を握りしめるようにして掴み離さずにいた。
「アルーシェ…早まった真似はよせ。あれは、私たちにかなう相手じゃない。お前にだって、分かっているだろう」
「…ふざけたことを抜かすな。では、リリアーナを差し向けろとでも?君には、それが、できるのか?」
「そうじゃない。まだ何か、別な打開策があるかもしれない。とにかく今は、よせ」
 ルーエンハイドはごく神妙な顔つきで、私を説得する。
「ニャオ…ニャニャア…」
 ネーロもそれに乗じるかのように、非難するような低い鳴き声を重ねてきたが、
 だけど…彼女たちには、何も分かってはいなかった。
「相手は心無い妖魔だ…教皇庁で教えられたことを、もう忘れたのか?そんな平和的なやり方が…奴らに通じるわけ、ないだろうが!!」
「アルーシェ!よせ!!」
 彼女の言葉を振り切るように、私は剣を斜めに構えながら、妖魔の懐目掛け、即座に駆け出した。
「それでこそ…わたくしが見込んだ騎士…」
 対する妖魔は、いまだゆっくりと歩むだけ。
 その者は、武器すら携えていなかった。構えすら取っていなかった。もちろん、腕を振りかざす挙動の一つさえ、見受けられなかった。
 だが次の瞬間。
「……!!!」
 私は、刹那の秒間に、気づけば宙空を舞っていた。
 滲んだ涙と、あまりに暴虐的な衝撃で霞みきった、ぼんやりとした視界の中で、言葉にならない叫びだけが腹の底から湧き上がってくる。
「!! なんて…力だ…!」
 ルーエが、怯えた様子を隠そうともせずに、そうとだけ独りごちているのが耳に聞こえた。
「…噂は聞いているぞ、紅の乙女。やはり度胸はあるようね」
(どうして、それを…)
 妖魔はぶつぶつと呟き、地に倒れた私へ近づいてきたが…。
(何をする気だ…)
 そのまま横を通り過ぎ、今度はルーエたちのもとへと、ゆっくりと歩み寄っていく。
「その娘を、こちらに寄越しなさい。従えなければ…」
 そう言うと、妖魔は初めて自らの得物を…なんと指先から生み出した。
 大きな鉤爪のような、細長く鋭利で黒光りする刃が、妖魔の右手に据えられる。それは見るからに禍々しく、そして異様に巨大で、もはやそれを扱いこなすのは狂気の沙汰と思えた。
(この、化け物め…)
 口に出そうとするも、叶わず。息が詰まって呼吸すら苦しかった。
「その白い、百合のような娘。早くしないと、後がないわよ?」
 剣を私に向けながら、その妖魔は妖しげに微笑みながら、『彼女』を要求する。
(…あいつ!リリアーナを!)
「それはできない頼みだな。そもそもお前は、何者だ?」
 ルーエは気剣を構えながら問う。目線と剣先は、ほんの少しも妖魔の元から離そうとはせず。
「そう言えば教えてくれるとでも?…話しが通じないなら、力ずくで奪い取るのみ!」
 妖魔が動き、黒爪を振り上げる。
 それはまるで光速にも劣らぬが如き、目にも止まらぬ斬り込みだった。あの分厚く長大な鉤爪を、その妖魔はまるで木棒を打ち上げるようにして振り切った。
「くっ…速い!!」
 エルはなんとか剣腹で凌いだが、衝撃を完全に逃すことは出来ず、先ほどの私と同じようにして派手に後方へと吹っ飛ばされる。
(…蒼の純血とは、これほどまでの力なのか…?)
 ついに妖魔はリリアーナのすぐ側にまで歩み寄った。
「…イ、イーサナメャ!スマリーモ、マヲ、マーサン、ジュシゴ!!」
 リリアーナの後ろに隠れていたフィーユが最後の抵抗を見せるも…
「邪魔よ、引っ込んでいなさい」
「キャア!!」
 無慈悲にも、彼女は握られた左腕の硬拳によって勢いよく叩き落とされ、そのまま動かなくなってしまった。
「さあ…リリアーナよ。わたくしと共に行こう?心配はいらないわ。ついてくるだけでよい」
(…なんで名前を…知ってる…!)
 辺りを包み込む雰囲気に反して、ごく穏やかに、リリアーナに手を差し出す妖魔。
「…わ、わたしは…」
 『彼女』は今にも泣き出しそうな顔で、こちらを見つめてくるばかりであった。


(……!!)


「リリアーナから…『彼女』から…離れろ…この化け物っ!!!」
 思いの巡らぬうちに、身体は既に駆け出していた。
 苦痛も、疑問も、敗北も、何も考えず…そう、何も考えず。頭の中はとっくに空っぽだった。
 ただ、刺し違えてもこいつを倒す、とだけ。
 そうとだけ心が疼いていた。
「二ャ?!二ャ二ャ!!」
 ネーロが叫ぶも、その声は、彼女に元まで行き届いているかどうか。
 抜身の剣をがむしゃらに振るった。もうアルーシェ自身にも、何が何だか分かっていなかった。
 『彼女』を守る。それだけが、アルーシェに残された最後の、感情を繫ぎ止める唯一の希望だった。
「何度やっても同じこと。人間のお前は…わたくしには勝てない」
 黒い妖魔は、禍々しい大爪を構える。
 紅い剣士もまた、自らの剣を構えた。
 それから二人の黒影は、正面から激突し…。
 しばらくの間、少女と妖魔はそのまま、立ち尽くすばかりだった。

「…なっ……」
 ふいに、左手側の影が、地面に崩れ落ちる。
「…! アルーシェ…いや…いやだよ…そんなの…そんなのっ…!!」
 その身体には、くすんだ漆黒の重爪が、深々と突き立てられていた。
「まったく、無謀なことをした…。お前のような若い命…本当は殺したくなど、ないのだけれど」
「なん…だと…?」
 妖魔はアルーシェの身体に脚を重ね、そのまま押しつけた。
「…が…はっ…!」
 突き立った爪が胸元から引き抜かれる。瞬く間に、赤い鮮血が、深く抉られた傷口から溢れ出した。
「何が…殺したく…ない…だ…この…」
 じっと、その妖魔は私の顔を見つめてくる。それは、アルーシェの最期を、そっと見守っているかのようにも見えた。
 白い長髪に、互い違いの深い蒼紅の色味を宿した二つの瞳。背には大きな黒翼が一対生え伸びている。それはまるで、伝承に語られる『夜の君』に、どこか似ていた。
「…蒼血に魅入られ、蘇り、再びわたくしの前にその姿をしらしめなさい。それこそが、お前の宿命だ」
 そんな笑い声が聞こえたかと思うと、意識は完全に深淵の底へと落ちていった。


 ふっと目を開くと、そこは漠然とした、深い暗黒の内。その中心に、一人ぽつりと立っていた。
 …ここは、どこなんだ?あの世か?まさか…この世ではあるまい。あの妖魔の言葉通り、私はもう死んでしまったのだろうか?
 訳も分からず、ただ茫然と、辺りを包む、どこか穏やかな黒い暗夜に、私は身を任せた。
 安らかに眠りにつく時が、今来たのかもしれない。そう思うと、自然と瞳は閉じられていった。

 そうしてしばらく瞳を閉じていたかと思うと、ふと、瞼の上から、眼を貫く陽光のようなものを感じ、すっと目を開いた。
 眼前に、眩い白光が輝いている。それは、とても腕をかざさなければ目がくらんでしまうほどの、激しい輝きだった。
(なん、だ…?)
『ヨルドの宵夢に迷いし者がまた一人…。しかし、強い意思と、蒼き運命を感じる…。貴女は、力を欲する者ですか?』
 照光の中から、女性の声のようなものが聞こえてくる。本当に人なのかは分からなかったが、どうやら私に会話を求めているらしい。
(…力?…ああ。もちろん欲しいさ…だけど、もう…手遅れなようだ)
『そのようなことはありません。いつかきっとこの力は、貴女に必要とされる時が来るでしょう。私には、そう思える。…だからこそ、今これを、貴女へと授けます』
 そう聞こえたかと思うと、今度は私の左胸のあたりから、青白い光が瞬き始めた。それは徐々に輝きを増していく。
 少しだけ熱を帯びた光は、次第に小さくなっていき、やがて見えなくなる
『その力は、貴女と共に成長します。その強き意思さえ、心の中にあるならば』
(…あんた、誰なんだ?これはなんだ?そして、ここは?私は、さっき死んだはずじゃ…)
『肉体は死んでも、貴女の意思はいまだ煌々と輝いています。ここに迷いこむのも不思議ではありません』
(何を言っているのか…さっぱりだな。分かるように言ってくれないか?)
『貴女とは、また会えそうな気がします。その時にゆっくりと話しましょう。それでは…再び逢える日まで』
その言葉を合図とするかのように、白い輝きは途端に消えいってしまった。
(…やはり、死んだんだな。馬鹿にしてるのか?)
 浮いているのか立っているのかも分からぬ、真黒い世界の上で私は横になる。

 そのまま、ゆっくりと瞳を閉じて行った。
 たぶん本当の『夜』が、ついに私へと訪れたのだと。

 さよなら。わたし

 そして…さよなら。リリアーナ


「…アルーシェ…!アルーシェ!!うそ…嘘でしょ!」
 薄く開かれたまま、ぼんやりと前を見つめる彼女の瞳。
 つい先ほどまで、(たぎ)る闘志と、静かに湛えた優しさに満ち溢れていた彼女の眼差しに、今や生気は、微塵たりとも宿ってはいなかった。
「…死んだ?アルーシェ…は、死んだ、のか?」
 背後から、剣が落ちる音が聞こえる。
 それは間違いなく、彼女の、ルーエンハイドの気剣が、地べたへと落とされる音だった。
「アルーシェ、早すぎるだろう…?私はこんな終わり方など…望んでいないっ…!」
 ルーエンハイドは、力の入らぬ両足を一歩一歩踏みしめるようにして、横たわった彼女の元へと近づいた。精神を、そのまま削がれたかのようだった。
 倒れた彼女の傍に立ち尽くし、その顔を見つめていると、魂を抜かれたかのように膝からは力が抜け落ちて、その場にルーエンハイドはへたり込んだ。
「だから言ったはず。『彼女』を寄越さねば後はない、と」
 頭上から嘲るような声が落ちてきた。あの、妖魔だった。
「きゃっ!?」
 音もなく背後へと近づいていた妖魔は、泣き崩れるリリアーナの腕を掴み取り、その胸元に抱きかかえる。
「や…やめて!離して…!!」
「…貴様…!」
「助けて…ルーエ…お願い、助けて!!」
 リリアーナは、恐怖に泣き叫んでいた。
 そん『彼女』の表情に、ルーエンハイドは突き動かされぬわけがなかった。
「リリアーナ…!」
 徐々に大きくなっていく、妖魔の顔立ち。
 アルーシェの時と同じように、またも妖魔は武器も構えも、何もかも見せつけずに。
 ただ駆ける私の顔を見て、そいつはうっすらと笑っていた。
 そして、お互いの剣がぶつかり合う、ちょうどそこまで入ったと思った、その瞬間。
「勇み足のところ悪いけれど、お前を殺すつもりは、ない」
 妖魔の身体は、その姿を現した時と同じように、隙間もないほどの大量の黒蝶に覆われ、そして消えた。
「…くそっ!どこに行くつもりだ!」
 何もいなくなった深い森林に、妖魔の声だけがこだまする。

『一つ、良いことを教えてあげましょう。この娘をまだ殺すつもりはないわ。刻限は『紅い新月の夜』まで。つまり、あとはお前たち次第ということよ…うふふふふっ…』

 それを最後に、全ては、完全に消えてなくなってしまった。 

「…アルーシェ!」
 私は地面に伏してぴくりとも動かない親友の亡骸に駆け寄る。
「…どうしてこんな無茶を…」
 仮にも私はルルドの聖騎士ではあるが、だからとはいえ、こんな無残な終わり方を許せるわけがなかった。
 敵は敵とて、人間、それに、気心の知れた旧知の仲の存在である。もし、戦うことになってしまっても、彼女には名誉の死を遂げさせてやりたかったのだ。
「ニャ~……」
 アルーシェの従魔の黒猫が、寂しげに鳴き声を上げたのが聞こえた。
(…先に待ち伏せている彼女にも、報告するべきなのだろうか…)
 思い悩んだままでいると、ふいに後ろから、何者かが歩みを継いでくるような足音が聞こえてきた。
 気配も何も感じなかった。まるで、一瞬にしてその場に現れたかのようだった。
「…!」
 咄嗟に気剣を握り締め、後方に向かって構えを取る。
「誰だ…!」
「…構えるな。私は敵じゃない。…死んでいるのか?」
 両手を掲げながら近づいてくる人物は、暗い夜のせいで詳しい容貌は伺えないが、長く下ろした黒髪と声からして女性らしかった。
「何者だ。答えろ」
「ひとまず、それは後でだ。この遺体を都へ連れていく。石に祈るんだ」
「どうして、それを…?」
「だからひとまずそれは後の話だ。運びこむのに手を貸してくれ」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

とある紅月の一夜にて

NOA 外伝 とある紅月の一夜にて
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ふっと目を開けると、そこはどこか、薄暗い部屋の中だった。
「う…ん」
 横たわらせられていた身体を持ち上げて、辺りの様子を確かめる。
「どこ…ここ…?」
 まるで教皇庁の謁見室のように、全てが、まさしく白銀の月の如く、穢れのない真白一色に染められた小部屋には、蒼いカーテンが掛けられた大窓が一つと、そしてわたしが横になっていた、仕切り付きの大きなベッドだけが、ぽつんと隅っこのほうに置かれていた。
 少しだけ開けられた窓辺に近づき、風によってゆらゆらと揺れるカーテン越しに外を眺めると、ちょうど今は夜が深みを帯びてきた時のようで、藍色の星空には、相変わらず不気味な赤月が浮かんでいた。前に見たときよりも、月はより欠けているように見える。部屋には燭台がいくつかあったため、部屋自体はそこまで暗くなかった。
「アルーシェ…」
 冷え込んだ向かい風を身体に受けながら、わたしはあの時のことを思い出していた。
『リリアーナから…『彼女』から離れろ!この…化け物!!』
 自分を助けるため、勇ましく駆け込んできた彼女の決死の表情が脳裏に浮かび上がってきて、わたしの顔は一気に青ざめたような気がして、そして冷たくなった。
「わたしのせいで…アルが…」
 彼女は、死んだ。殺された。それも、わたしを救うために。
「全部…わたしのせいなんだ…わたしがいたから…」
 この世に生まれるべきではなかったと、その時、思った。わたしと、そしてわたしの一族、その全てが。
 わたしの家系は、由緒代々伝わる皇族の末裔の血を、遠く遠く引いているのだという。それは、今の教皇一族とも関わりがあるとされていた。つまり、教皇様とわたしは、遥か深遠の縁類にあたるらしかった。
 でもそれは何も、誇るべきことではなかった。むしろそれは、身体にまとわりついた鉄鎖の楔のように、わたしの人生を強引に縛りつけた。
 生まれた時から巫女として、教皇様に使える運命(さだめ)
 わたしは、本当はこんなことなんて、これっぽっちもしたくなかった。
 それでもここまでやってこれたのは、そう―彼女たちがいたからこそ。
「アル…ルーエ…」
 いつどんな時でも、彼女たちとともにいた。彼女たちはわたしのために戦い、そしてわたしも、彼女たちのために戦った。
 最期の時くらい、アルーシェたちに楽をさせてやりたかった。しかし、運命は実に残酷なものであった。
 一人はルルド教団へと異属し、そしてもう一人は、わたしが、この手で、殺したようなものだ。
 そしてじきにわたしも―『新月の花嫁』として、女王へと生贄に捧げられることになる。
 何もかもが暗黒に包まれていくようだった。ルーエもアルも悪くない。全て、わたしのせいだった。
「…」
 それなら…最期の罪滅ぼしとして、望んで生贄となるのも、悪くないだろうか。そうでもしなければ、今のわたしは、もうどうしようもなかった。
―君』。そうか、最近何やら静かだと思ったら、貴女様でしたのね。『常夜』中の妖魔を全て打ち倒した『伝説の半妖』…お会いできて光栄ですわ、うふふふっ。…それで、わたくしへの提案とは、一体何なのかしら?
 一人憂鬱に沈んでいると、ふと、奥の間に続いているらしき扉から、そんな話し声が聞こえてきた。
「なにかしら…?」
 少し開かれたその扉からは、薄く光が漏れ出している。隙間から、私はそっと、向こう側の様子を覗いてみた。
「あの娘を、私に預けてくれ。月の女王よ」
 この部屋と同じように間白い広間には、輝くシャンデリアがいくつも吊り下げられているようで、先の広間は昼間のように明るい。
(あれ……!)
 覗いた視線の先には、わたしを拐った張本人である、あの黒い妖魔が立っていた。『彼女』は、もう一人の何者かと会話をしているようだ。
(あれが、月の女王?…『彼女』は、わたしたちの味方ではなかったのかしら…)
 確かにその者は、もう一人から『月の女王』と呼ばれた。しかし『彼女』は、あの時アルーシェの胸を貫いた妖魔に違いなかった。
 もう一人の―女王と会話をしている時点で人間でないのは明白だった。おそらく妖魔の一匹であるのだろう―女性の声が、続けていく。
「私の同胞の妖魔から詳しく聞いた。お前のこと、お前がやろうとしていること。本来なら、私は妖魔であるお前を殺さなければならない。しかし、話に聞いた通りなら、それとこれとは別物だ」
「…怖いものですわ。まさか、この貴女様が、妖魔殺しを続けているなど。世の中、信用できないものですわね」
 女王はそう言って乾いた微笑みを浮かべ、そうして黙りこむ。
 しばらくの間、ぽつりと間を空けたのち、彼女へと口を開いた。
「…どうしてあの小娘を渡さなければならないのかしら。わたくしにとって、『彼女』は必要不可欠な存在。簡単に渡すわけにはいかないわ」
 月の女王はもう一匹に向かって、強情な態度で応対する。
「何もこれ以上の犠牲を増やす必要はないんだ。…既に一人殺したそうだな。彼女たちを試していたと聞いたが…やり過ぎだ。―お前自身が彼女たちに渡した、あの蒼い石…覚えているだろうか」
 もう一人の妖魔が話していることは分かるけれども、立った位置の関係で、その姿を目に収めることはできなかった。
「突然何?それが、なんだというの?」
「私は、その石に一つの可能性を見い出した。とにかく『彼女』を私に一度、預けてもらえないだろうか。心配するな、向かうのは例の孤島。新月の夜までには必ずお前のもとに届けさせよう」
 妖魔がそう言うと、女王は声音を低くしたまま、暗い表情で地面へと俯いた。
「……今更、生贄を捧げてはならぬなど、わたくしのことも考えてほしいものですわ…しかし、まだ確かに時間はある。分かりました、『彼女』をお連れなさい。…だけど、決して、『彼女』を殺してはだめよ」
「…わかっている」
 もう一人が重々しい口調で同意したのを確認すると、『月の女王』は、右手を掲げて、そして自らのすぐ手前の地面に向かって降りおろす。
 それに呼応するかのように、その場から黒蝶が溢れ出し、一匹の鳥の形をした邪妖が生まれてきた。
(あれは…伝書魔?)
 たまにアルーシェが使っているのを見たことがある。空間を瞬時に移動できる従魔の中では最小で、かつありふれた存在の鳩のような姿のそれは、騎士たちの間で一種の通信手段となっているらしい。首に伝言を書いた文書をくくりつけることから『伝書魔』と呼ばれる。
 その小さな、家来とも言えそうな邪妖に向かって、女王は次第に口を開く。
「都の彼女らに以下を報告しなさい。『状況が変わった。かの地へと、紅の騎士を向かわせよ』…あら、そういえば人間は、邪妖語が分からないのでしたわね。まったく…羊皮紙と…ペンは…」
「ふふ、何気に茶目っ気もあるじゃないか」
「…バカにしないでくださる?わたくしは、本気ですわよ?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

チャプター3: 燻る紅焔、蒼血の覚醒、欠けゆく大月

NOA 外伝 c3 燻る紅焔、蒼血の覚醒、欠けゆく大月
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『『生贄が拐われた』だと?どういうことだ。お前もついていたんじゃないのか』
『…ああ、ついていたさ。だけど、とても手に負えないほどの強力な妖魔に襲われ、一行は壊滅した。そしてそいつは『月の女王』らしい。私たちの計略が見え透いていたのかもしれない』
『なんてことだ。例の女は。奴はどうなった』
『…彼女はこの都にいる。だけど、まだ手を出すな。…生贄の探索に利用できるかもしれないからな』
『…』
『彼女の力は未だ未知数だ。続けて私に監視役を任せてほしい。お前は南の街へ行け。彼女もそこに連れていかせる』
『…なぜ南なんだ』
『近頃、南部には厄介な邪妖が増えつつあるらしい。彼女の実力を計るには最適の場所だろう』




 うっすらと、目を開けた。
 一体どれほど眠りについていたのか。そもそも、私は眠りについていたのか。
 どうやら、今私がいるのは、冷たい暗黒の中ではないらしかった。その世界には、ちゃんと光があり、色がある。あの時と同じ、暗い夜ではあったけれど。
 なにより、この世界の空気は、生前のそれと、全く同じものであった。
 薄暗い部屋の中、私の身体は、何か寝台のようなものに横たわさせられているようだ。
「…お目覚めか。教皇庁の騎士よ」
 訳も分からぬまま薄目でぼんやりと天井を見つめていると、唐突に視界の右端から声を掛けられた。
 低い、人間の女性の肉声を、確かに私はこの耳で聞き取った。
(人…?)
 そっと上体を起こし、その女性の声がしたほうに顔を向ける。
 そこにはすらりとした身の丈の高い、艶やかな女性が立っていた。
「…ここは?」
「教皇庁の研究室だ。気分は?」
 彼女は私の質問に、きぱきぱと答える。
 どことなく独特な魅力を宿してはいたが、長い黒髪をそのまま下ろし、丸い片眼鏡を掛けた、いかにも自身の見てくれには無頓着そうな、彼女はそういう感じの人だった。
「…なんか…不思議な感覚が…」
 空中へと宙ぶらりんに吊るされている気持ちだ。こんな気味の悪い感覚、今まで一度も味わったことがない。
 そんなことより、私には知っておくべき大切なことがあるのを、今思い出した。
「…はっ!リリアは?ルーエはどこに?!」
「落ち着け。まずは自己紹介をしなければならないな」
 腕を組んだ女性は、焦る私に対しても沈着に会話を継いでいく。
「私の名はカミラ。カミラ・有角という。教皇庁で妖魔や邪妖の研究をしている」
 鋭い金眼の研究者――カミラ・有角は、淀むことなく、はっきりと自らの名を名乗った。
「…『刻の花嫁』となる巫女リリアーナと…騎士ルーエンハイド。彼女たちは今ここにはいない。リリアーナは連れ拐われ、もう一人はホテルにいる…お前が殺された後にな」
「え…?」
 一瞬、耳がおかしくなったのかと錯覚した。
(…私は死んだ?)
「…お前は死んだ。覚えてないか?『月の女王』に心臓を貫かれたこと」
 …何を、言ってるんだ、この人は。
「…嘘だ。今、こうして生きている!しかも、あれが『月の女王』だと?『彼女』は――純血の妖魔であれ、私たちの味方ではなかったのか?!」
 カミラは、感情的になってしまった私にも、何一つ動じてはいなかった。
 言うべきことをただ述べていくように、淡々とした口調で言葉を返す。
「どうやら教皇庁の調査が甘かったようだ。お前を抱えてきた金髪の少女の証言によれば、確かにお前たちを襲ったのは『月の女王』だ。つまり、『彼女』は味方ではなかったということだよ」
「…そんな…それじゃ『彼女』の意思はどうなる…?全てを無下にされたということですか?ふざけるのもいい加減にしてください!だからあの時、黙って謁見室から立ち去っていればよかったんだ…!」
 リリアーナの右手を掴み取って、教皇から目を背けた時のことを思い返した。教皇庁は信用ならない。もしかしたら、ルーエの言っていることが正しいのかもしれなかった。
「ひとまず落ち着けと言っている。油を注ぐようで悪いが、お前にはさらに伝えることがある。今日からお前は『半妖』として、生きていくことになった」
「…何?…『半妖』…?」
 彼女と話しているとこちらの寿命がどんどん縮まっていきそうだ。胸が――痛い。いちいち口に出す事が大袈裟で、しかし…確かにそれは納得せざるべきことでも、あったから。
「…まさか!」
「ああ…紅い血と蒼い血の『混ざりモノ』…人工的な半妖化は、未だ未知数の技術だが、選択の余地はなかった。延々と考えていると、お前が二度と蘇られなくなってしまっていたからな」
 カミラは私を顔に、じろりと視線を落としながら続けていく。
「お前の身体に妖魔の蒼い血を流し込み、『半妖』として蘇らせる実験を行った。どうやら成功したようだな。新しい心臓も適合している」
 そして彼女はあろうことか、小さく微笑みを浮かべ、最後にこう言いのけた。
「私は、嬉しいぞ」

 もはや彼女の話す顔など、眼中に入ってなどいなかった。
 一度鮮明さを取り戻したと思った視界は、瞬く間に、深い霧が立ち込めるように霞みきっていた。
「…すまない。突然、このようなことを言われたら、言葉を失うのも当然か。しかしな、エージェント・アルーシェ。これは遅かれ早かれ知ることになっていたろう事実だ。…お前には伝えるべきことだったんだ。分かるな?」
 ようやくカミラもこちらの様子に気がついたようで、私を気遣ってか、話す声音をさらに低くしたが、そんなことどうでもよかった。
 それよりも…
「嘘だ!…嘘だ!! 『彼女』を守るため、これまで『邪妖』どもに剣を向け続けてきた私が、奴らと同じ、化け物だと!?」
「だから、気を沈めるんだ、エージェント・アルーシェ。お前にはまだやるべきことがあるはすだ。だからこそ…私はお前を蘇らせるに至った。その理由が何かは、お前が一番分かっていることだろう?」
 カミラは諭すような口調で、私へと優しく語りかける。
「……!」
 彼女に言われて、はっと記憶が呼び起こされたような気がした。

『…もう、お分かりでしょうか?貴女たち二人をここへと招いた理由が…』
『…教皇様。わたくし、巫女リリアーナ・セルフィンは、このご勅命をお受け賜ります。陛下のご期待に添えるように、全身全霊を尽くす所存です』
『…リリアーナ!!』
『いいえ。わたしは…いく。たとえ貴女と絶交になっても。これは、この世界を救う唯一の希望なんだわ』

 そうだ――私は、リリアーナを。『彼女』を、無事に、『月の女王』へと送り届けるという、使命があったはずだ。
 だけど今となっては、教皇に従うべき理由もない。私たちはまんまと騙されたようなものだ。いくつもの(トラップ)がある屋敷に連れ込まれ、閉じ込められて(もてあそ)ばれたような感覚だった。それは実に残酷な欺瞞であった。
(リリアーナ…私は…私は…)
 『彼女』を捧げるのではなく、救い出す。これから人ではなく…『半妖』として生きていくための決意を、今…固く誓うしかないようだった。
 私のそんな心中を知ってか知らずか、カミラは何一つ表情を変えぬまま、再び口を開いた。
「教皇は任務の継続を希望している。お前は、まずリリアーナを助けなければならない。…そうだな…エージェント・アルーシェ」
 カミラは少し中空を見上げて考える素振りを見せる。
「ついてこい。私がサポートする。…実は、既にリリアーナの目撃情報がある」
「…なんだって?」
 それは、今の私にとっては決して悪い知らせではないが、しかしいくらなんでも不自然ではないだろうか。
 あの『彼女』を護衛した日からまだそれほど時間は過ぎていないはずだ。それなのにもう拐われたリリアーナの目撃情報がある…?
(なんか――やっぱり怪しい)
 教皇庁には他に別な企てがあるのではないかと、勘繰ってしまいたくなる。私たちを、はじめから騙すつもりではなかったのではないか、と。
「…何、別におかしな話ではない。その目撃箇所は、古くから教皇庁に『因縁』がある場所でな。特に『邪妖』どもの気配が濃い場所とされているため、常に十数人かの駐留部隊が代わる代わるに見張りを付けているのだ。今回は、その部隊からの報告となる」
「なるほど…」
 それなら、分からない話でもない。『因縁』のある場所とは一体何なのか。今度は、彼女にその事を聞いてみた。
「『因縁』とはなんなんですか?そして、その土地の名は?」
「…そうか。お前は知っているものだとばかり思っていたが、知らないならちょうど良い。話しておこう」
 そう言うと、カミラは調子を合わせのように、こほんと一つ咳払いをする。 
 そうしてゆっくりと口を開いた。
「リリアーナの目撃情報があった、地中海のほぼ中心に位置する絶海の孤島―その名を『ルースワール』は、かの『伝説の半妖』アーナス(Arnice)アズールナ(Azuluna)」の最期の地とされている。彼女は知っているな?何せ、この世界を『永久の夜』から救った、『救世主』だものな」
「アーナス・アズールナ…!」
 教皇庁の騎士が、その名を知らぬはずがない。
 悪神『夜の君』をその手で打ち倒し、最後には自らも蒼血に呑まれたという彼女―アーナスは、半ば『伝説』たる、教皇庁の聖騎士だった。


 実を言うと、教皇庁は古くより、このこと自体は把握していた。あえて世間には公にしていなかったのだ。
 人々のため、一人大剣を振りかざした『深淵歩きの騎士アズールナ』は、地の底の深みにまで堕ちたとし、伝説と化して、それ以上は語られず、この島の存在も外部からの来航の一切を途絶えさせ、歴史の内から見事に葬り去った。
 『夜の君』へと半妖としては最も近づいたアズールナが滅びたとされるこの地は、かつて『聖戦』の舞台ともされ、非常に妖気の濃度が高く危険であり、何も知らぬ一般人をむやみに近づけたくなかったのもあるのだろうが、それ以上の問題として――世の中には、一定数のふざけた人種がいるものだ。
 研究者として詳しく方法は教えられないが、実は『妖魔は人の手で召喚することができる』のだ。
 彼の者たちを呼び起こし、あわや自らの力とする愚鈍や研究者の落ちぶれが今も後を絶たないが、ルースワールはこの世で最も『空間の邪妖化』が進んでいるとされていて、その儀式には最適な場所だともいわれている。だからこそ、教皇庁はこの地に人を近づけたくなかったのだろう。


「そんな場所が…」
 正直初耳だった。古くに『聖戦』が勃発したことは知識として知っていたけれど、その場所までは誰からも教えられなかったし、何の歴史書にも記されていなかった。
「リリアーナはそこに拐われたようだ。ぐずぐずはしていられない。まず一度、ホテルに向かおう。お前を連れてきた少女がそこで待っている」
「…はい」

 カミラの研究室を出ると、見慣れた教皇都の街並みが眼前に広がる。
「お前にはこれから、定期的この研究室へと来てもらうことになる。この場所をよく覚えておいてくれ。例の石ころで飛んでこれるだろう」
「あっ…そういえば…」
 カミラに言われてようやく気がついたが、銀の鎖で首元に掛かっていた『次元の魔石』が、いつの間にかなくなっている。
「ああ。ルーエンハイドが大事そうに持っていた。ところで、彼女はお前の何なんだ?」
 唐突にルーエンハイドのことをカミラから聞かれ、私は少しばかりどきりとした。
「…え、えっと。彼女は教皇庁の騎士。女にしては馬鹿デカい剣を使う『黒い剣士』、『百匹無双の女騎士』、『激昂の黒狼』なんて言われてました。『邪妖』なんてばんばんやっつけちゃうんだから……」
 まさか『ルルドの』騎士と言うわけにもいかないので、なんとか話を誤魔化すように、自信家な彼女からかつて耳にタコができるほど聞かされた、嘘か誠かも分からないような逸話を適当に並べておいた。
「ほう。どうして倒れたお前を、彼女は連れ帰ってきたんだろうな」
 カミラはなんだか、私を誘導尋問するかのように、次々とルーエに対する質問を浴びせかけてくる。
「そりゃもちろん、彼女も付き添いの騎士だったし、それに…幼なじみの友達だからですよ。もう――いいでしょう?」
「…そうか。そうじゃなきゃ、お前を連れてくる意味がないものな。まあいい」
 彼女がしつこい性格でなくて助かった。もしここでバレたりでもしたら、教皇庁への反逆者として捕らえられても不思議ではない。
 ほっと一息胸を撫で下ろしていると、突然、目の前の空間が黒に染まった。
「…来たか」
 いつになっても聞き慣れぬ妙な音と、狭間から液体のように溢れ出した暗黒とともに、手足の長い、不気味な何かがその場に現れる。
「邪妖…!」
 このあたりではよく見かけられる、爪の長い最下級の邪妖だった。今のところ一匹しか見当たらないが、一匹いたら10匹はいると思わなきゃいけない。もちろん、都のリビングにたびたび発生する、あの黒い害虫(ローチ)を潰す時と同じ考えだ。
 無意識的にうちに私は背中へと右手を回すが、肝心の武器さえ失っていたことをも、この時にまで気づいていなかった。
(…うそ。しまった)
 『彼女』と命の次に大切な、自らの武器を無くしてしまうとは…戦に赴く騎士としては決してあってはならない、あるまじき行為だった。
「安心しろ。今のお前には新しい力がある」
 そんな私の胸中を察したかのように、すかさずカミラが声を掛けてきた。
「身体に妖魔の血を宿したことで使える力の一つ…私たちは『血剣』と呼んでいるがな」
「『血剣』…?」
「なんとなく分かっているはずだ。さあ。自分の力を全て放出するイメージを思い描け…あとは、血が応えてくれるはずだ」
 自分の力を全て放出する、イメージ…?簡単に言えば…もっとやる気を出せってこと?
(わからないけど、やるっきゃない…!)
 私は自然と自分の胸元に手を当てる。

 自らの右手に、力と想いを込める。
 自分でも分かるほど、左胸のあたりが光り輝いている。
 すると、確かに、『視えて』きた。
 ―蒼き月光の煌めきをその身に湛えた、美しき『欠け月の曲剣』の瞬きが。
「はあああぁぁああ!!」

「素晴らしい…」
 カミラが感嘆の声を上げる。
「すごい…」
 私も今の一瞬の出来事に、驚きを隠せずにいた。
 改めて、妖魔の魔力を身を持って体感した。何もないところから物質を生み出すなどもはや神秘の類だ。偉大なる偉人、上位者、はたまたちょっとヤバい人なんかは、蒼ざめた血の力がなくともその奇術を垣間見ることができるのかもしれないが、あいにく常人の私に、それほどの啓蒙はない。
「道は分かるな?私は銃を使って援護する。先行してくれるか?」
「…分かりました。殿(しんがり)を頼みます。尖兵は任せてください」
 新たな武器『血剣』を手に入れた私は、かつてないほどの自信を取り戻し、勢い勇んで邪妖の群れの中へと飛び出していった。

「にゃーん」
 しばらくカミラと邪妖を倒しながら進んでいると、どこからか、そんな猫の鳴き声が聞こえてきた。
「…ん?」
 足元を見ると、そこには、
「お前は…ネーロ!?ネーロじゃないか!!」
 いろんな事がありすぎて半ば相棒の存在を忘れていたが、その目つきの鋭い黒猫は確かに私の従魔、ネーロだった。
「ネーロー!無事だったか!よしよし!」
 私はネーロの近くまで勢いよく駆けていき、そのまま両手で抱きかかえて、空へと高い高いする。
「…お前、邪妖に知り合いがいるのか?」
 後ろでカミラはネーロを見つめていたが、彼女は少しばかり驚いていたらしかった。
「あ!こ、こいつは昔この街に住んでた時に友達になって……」
 はっと気づくと、人目も憚らず――と言ってもカミラしかいないのだが――思わず一人ではしゃいでしまっていた。
 なんだかちょっぴり恥ずかしく、私は少しだけ顔が赤くなっていくのを感じながら、彼女に向き直りつつネーロを紹介する。
「これは…珍しいな。こいつ、魔に侵されきっていない」
 腕を組んだままのカミラは、言葉通り、珍しいものを見るような面持ちでネーロを上から眺める。
「…? どういうことです?」
「蒼い血を浴び、邪妖となったものは、心まで魔に侵され他のものを襲うようになる。冷たい『蒼き血』は宿主の『生気』よりも、『思念や感情』などをより早くから吸収していくものと考えられている。だがそんな中でも、まれに元の心を保つものがいる。理由は分からん。何事にも例外はつきものだ。そして…こいつがそれだ」
 へぇ…そうなんだ…。始めて出会った時はただの猫だと思っていたけれど、のちのち彼が邪妖の一匹であることに気がついたんだったな。
「…確かに。ちょっと目つきは悪いけど、悪さをするようなやつじゃないんですよ」
(目つきが悪い、は余計だろ)
 カミラに返答したつもりだったが、聞き慣れない男の子供の声が、耳に響いてきた気がして…?
「えっ?」
(久しぶりだな…と言っても数時間前か)
「…しゃ、しゃ、しゃ…」
 あまりにびっくりしすぎてなかなか声が出せない。
「ん?どうしたアルーシェ?しゃしゃしゃ?…まさか半妖になったことで話しづらくなったのか?うーむ…声帯に何か問題が起きたのかもしれん…ここはもう一度…」
 なんかカミラが一人で変な誤解をし始めたところでようやく―

「しゃべったーーーーーーー!!?」

「…!? どうしたんだ一体…!」
 腰を抜かしそうになるのをなんとか堪えて、私はネーロの顔を、今度は少し違う意味で、改めてまじまじと見つめる。
(ん?オレは前から話してたぜ。まああんたには分かってなかったみたいだが。読者の皆さんは【旧版】を見れば分かるかもしれないぜ)
「えーーー! どういうことだよ!? いや割と本気で!」
(オレが知るかよ、言わせられてんだよ)
 ネーロは言いながら、いつものごとく呑気に毛づくろいを始めた。
「おい…お前一生懸命邪妖に話しかけて…?まさか実験は失敗だったのか…?アタマに不具合が…」
 自分で広げた誤解にカミラは頭を抱えているが、どういうことなんだ?彼女には、ネーロの言葉が聞こえていないのか?
「なんてことを!ち、違います!私、今こいつが何しゃべってるか分かるようになったみたいなんです!」
 懸命に今起こった状況を釈明すると、彼女は思いのほか、すぐに信じてくれたようで。
「邪妖の言葉が分かるだと?…なるほど、蒼い血の力か。邪妖の言葉が聞き取れるようになるなど、実に興味深い」
(ふんふん、確かに。あんたちょっと変わったな。蒼い血の匂いがぷんぷんするぜ?)
「……!」
 やはり従魔にはすぐに分かってしまうものらしい。
 半妖になった、とは、今はこの子に言いたくはなかったので、私は半ば無理やり話題を逸らすことにした。
「…なあ?これからも力を貸してくれないか?リリアーナを助けたいんだ…お前も覚えてるだろ?…あの時のこと」
(…まあな)
 ネーロは少し俯きながら暗い表情を見せる。
「でも…私だけじゃきっと力不足だ。あげられるものはなにもないけど…ダメかな?」
 彼の瞳を真摯に見つめながら、私は言った。
(……んなことねーよ。それに何を今さら。もちろん着いてくに決まってるだろ?オレのご主人様なんだからさ)
 黒猫は少しだけ気恥ずかしそうにしながらも、だけど確かに私へと頷き返してくれた。
「ホントか!ありがとう、これからもよろしくな!」
 思わずガッツポーズをして、私は全身で喜びの感情を表す。
「いけませんか?」
 一応カミラにも同意を求める。彼女は邪妖と共に行動したことはないように思えるし、認めてもいないように感じられたからだ。
「いや…これからも、心を保った邪妖を見かけたら、仲間に入れるといい」
 しかし、心配は杞憂だったようで。
 カミラはそっとネーロに視線を送る。
「…あいつも内心喜んでいるはずさ」
 そう言って少しだけ微笑んだ。
(けっ…何言ってるかわかんねーくせに、好き勝手言ってんにゃ)


 改めて黒猫のネーロを従魔として迎え入れた私たちは、その後街中を順々に進んでいき、やがて教皇庁のホテルへとたどり着く。
 初めてここに訪れた時のように、ゆっくりと木の扉を押し開ける。中に入ると、ようやく地に足ついたかのような、大きな安心感を感じられた。
「着いたな。ご苦労だった。逸る気持ちも分かるが、焦りは何も良いことを生まない。少し説明したいこともある…ひとまず一息いれようじゃないか」
 後ろに続いていたカミラが、私のすぐ横を進んでいき、カウンターの向こう側に入っていく。
 私は椅子に腰掛けた。ネーロはどこに行ったかと思うと、いつの間にか私の股の間でごろ寝している。か、かわいい。
「さて…このホテルにはもう一度来ているとは思うが、これからお前たちの正式な拠点となる。存分に活用してくれ」
 カウンターに立ったカミラは、私の前にティーカップを置く。暖かい紅茶の淹れられたそれに、私は少しだけ口をつけた。
 ほんのりと、こうばしい香りが鼻を通っていった。
「それと、お前の半妖の力についてだが…」
「…何かあるんですか?」 
 手にしていた白いカップを置く。コトン…とそんな小さな音だけが聞こえて、そして消えていった。
「研究所を出る時も言ったが、定期的な点検が必要になる。まだまだ未開の技術ゆえ、その作業にも時間を要するのでな。甚だ時間は惜しまれるが、魔石のことも考慮して、『夜』の間はリリアーナの探索および任務の継続とし、昼は身体機能の調整とお前自身の休息の時間としたい。明け方になるまではこちらに戻ってきてはくれないだろうか」
「それは…」
 つまり、『夜』の間しか外には出ることはできず、昼の間は教皇都で過ごす、ということになる。
「しかしそれでは…」
 リリアーナが拐われているなかで呑気に休んでなどいられなかった。一刻も早く、彼女を連れ戻さなければならないのだ。
「分かっている。やはり時間だろう?しかしな、お前のその身体を放置し酷使し続けていれば、確実に妖魔への変遷を早めることになる。お前はいまや、風に揺られて燻る残り火のように、死と生との境界が曖昧になった不死人たる存在だ。それでも妖魔になるということは実質的な死に近しい。しかもその後、他の人間を襲わぬとも限らない。本当の、自我すら失った化け物になりたくなければ、素直に都へと帰還することだ」
「…」
 本当は何としてもリリアーナを見つけ出すことを優先したかった。けれども、その前に私自身が化け物になってしまっては、確かに何の意味もない。
(くそっ。この呪いの力さえ…なかったら…)
 しかしこの青ざめた血を受け入れてなかったら、私は『彼女』を救うことすら叶わなかった。
 歯がゆい気持ちに苛まれたが…今のところはカミラのその方針に、黙って従うほかないようだった。
「…そういえば、ルーエンハイドは、どこにいるんですか?」
 教皇庁の研究室でのカミラの話によれば、私を連れてきた金髪の少女―つまりルーエンハイドは、倒れた私を教皇庁の研究室へと運び込んだのち、このホテルに向かったのだという。
 けれどホテルのロビーに、彼女の姿はどこにも見当たらない。
「…おかしいな。確かに、彼女はホテルに向かうと言っていたのだが」
「…?」
 ガチャ―
 彼女のことを二人で話していると、個室の廊下へと続く扉が、何者かによって開かれた。
 ゆっくりと、ロビーに入ってきたのは―
「ル、ルーエ…!」
「…アルーシェ? 嘘だろ…? まさか…本当に?」
 金髪碧眼の、背の高い黒装の少女は、私を見ると、まさに目をまん丸くさせた。
「ルーエンハイドっ!よかった…無事だったんだね!」
 きょとんとする彼女に、私はおもいっきり駆け寄って、そのまま自分の親を見つけた子犬のように飛びついた。

「よかった…本当に。もう一度、君の顔が見れて」
 私はルーエの身体を抱きしめる。
 彼女も、静かに抱きしめ返してくれた。
「二度と会えないかと思ってた…」
「…そうだな。君があの妖魔に胸を貫かれた時は、天と地がそのまま逆転したかと思ったよ」
 思わず感極まったのか、少しだけ涙声になりながら、彼女は小さな声でそう言った。
「でも良かった。かなり腕が立ち、失われた命をも蘇らせられる、そんな天才と出会うことができて。君のことも安心して預けることができるほどのな。『半妖になる』代償はついてくると、その時に聞かされたが――」
「…えっ?」
 そう言って、彼女は私の後ろを指差す。
 その先にいるのは、もちろんただ一人しかいない。
 私を半妖として蘇らせたという、女研究者、カミラ・有角だった。
「何事かと思ったぞ?森を歩いていたら、少女の亡骸と、その脇で剣を構えた騎士に出会うなど」
「許してくれ…私だって必死だった」
 私を両脇から挟んだまま、彼女たちは自分を置いてけぼりにのまま話を進める。
「…あの、カミラさんって、ルーエのこと、知ってたの?」
 さっぱり訳の分からぬまま、私はとりあえずカミラへと質問を飛ばしてみた。
「いや。先に述べた通り、『偶然』、森でこの『教皇庁の騎士』と出会った。それから知り合ったというわけだ」
 腕を組んだままのカミラは小さく微笑んでそう話す。それを聞いて、耳がぴくりと反応した。
(『教皇庁の騎士』…)
 どうやらルーエンハイドは、カミラに嘘の情報を教えたらしい。
 私とこうして話しをするにはそうするしかなかったとも思えたが――思い込みすぎだろうか。命の恩人ともいえる彼女を疑うつもりはないが、しかし現に事実とは異なるのだ。
 彼女に、何か思惑があるとも知れなかった。
「…大丈夫か、アルーシェ?顔が白いな。…そうか。君は今や半妖、だものな。無事に命を吹き返したとはいえ、まだ無理はしないほうがいい」
 当のルーエは、特に変わった様子も見せずに話しかけてくるが…。
「ああ、それとこれ。君が持っていた魔石だ」
 ルーエは鈍く光る蒼い小石を手渡してくる。私はそれをそっと受け取った。
(…さすがに、思い込みすぎか。彼女だってリリアーナを救い出したいはずなんだ)
 今はひとまず、深く詮索するようなことはせずに、この場の流れに身を任せることにした。
「ああ…ありがとう。それで、ルーエ。聞きたいのだけれど…」
 私は彼女に預けていた身体を持ち上げて、ルーエの瞳を見据える。
「…リリアーナ。『彼女』があの後どうなったのか…知っているだろう」
 彼女がここにいるということは、つまり、ルーエンハイドはあの襲撃を生き延びたということ。あの出来事の一部始終を目にしていたはずだろう。
「…『彼女』は妖魔に拐われた。だが『リリアーナを殺しはしない』。そいつは去り際にそう言い残して消えていった」
「殺しはしない?どうしてわざわざ…?」
「理由までは分からない…何がどうあれ、私たちは行くしかない。カミラからも聞いたろう?『彼女』が目撃された場所は、とある曰く付きの孤島に佇む『廃都ユーラルム』であると。…のんびりしてる暇はない。今すぐにでも向かおうじゃないか」
 言いながら、ルーエはカミラのもとに近づいていく。
「君も一緒に来てくれるか?戦力はいくらあっても足りないんだ」
「無論、初めからそのつもりだ。そういえばアルーシェ。驚いたが、これは教皇庁直々の勅命なのだとな。まだ伝えていなかったが、お前を蘇らせらせたことにより、急遽私も作戦要員として加えられる運びとなった。これからよろしく頼むぞ」
 カミラは、まとう雰囲気に反して、意外と丁寧に、私へと小さく一礼した。


「それで…そのルースワール…ってとこには、どうすれば行くことができるの?」
 ホテルから出た私は、地図と、そして魔石を手に取る。
 誰かその島の場所を知っていればこの石で移動できるかもしれないと考えた。しかし、ルーエンハイドとカミラは、地図と石とを両手に抱えた私を見ると、二人とも同じようにして首を横に振る。
「ルースワールは常に厳戒態勢が敷かれているほどの危険地帯だ。街でもやすやすと情報は得られないし、私たちも場所までは知らないんだ」
「そうなのか…」
 それでは自分たちだけで探すしかないか、と思って肩を落としていると、ルーエは「心配するな」と、今度は首を縦に振る。
「実は私の、その、なんだ――『知り合い』にな、そこの出身だったものがいる。彼女の力を借りれば、すぐに島へと向かうことができるかもしれない」
「ルースワール出身の、『知り合い』…?」
 なんとまあ…恐ろしげな出身地の『知り合い』がいるものだ。きっとその人は、壮絶な人生を送ってきたのだろう。ルーエはどうやって出会うに至ったのだろうか。
「…あれ?そういえば、ルースワールにはまだ人がいるの?」
 彼女のその『知り合い』がルースワールを故郷とするなら、その人の『親』となる人間がいるはずだけど…あの土地は、本土全体の邪妖化が進行し、とても今では人など住めないところだと聞いた。
「…ああ。実は、よくわかっていないんだ。彼女――その『知り合い』はルースワールで『見つけられた』というだけで、本来の生まれの地は定かではない。私自身がルースワール出身だと思っているだけだ。…少し余計なことをしゃべりすぎたな、忘れてくれ」
 若干言葉を濁しつつ、そう締め括るルーエンハイド。なにやら深い事情があるようだが、ルーエやその彼女のためにも、今は聞かないでおいたほうがよさそうなようだ。
「それで彼女は…今は南方の、ちょうど地中海沿岸部に位置する港街に滞在している。そこまで向かえればかなりの道程と時間を省けることだろう」
 そう言って彼女は私の手元の世界地図を指差した。
「ふむ…なるほど。記憶さえあれば、どこにでも飛べるものな」
 カミラが頷き、私も「あっ…そっか」今さら気づいたことが彼女たちにバレないように、とりあえず相槌を打っていた。

 出発前の小会議を終えた私たちは、早速、都の南門から、広大な荒野地帯へと足を踏み入れる。
 都以南は北部とは異なり、木々は少なめで、どちらかといえばごつごつとした岩の肌地が見えている荒んだ大地が広がっていた。
 学園時代に読んだ書物の記憶によれば、南地は北地よりも邪妖との争いが絶えぬ土地とされており、障気により草木が生えない不毛の土地となったのだというが、正直今はどこにも邪妖は溢れてかえっているため、ただ単にこの地特有の植生なだけだと思えた。
「分かっているとは思うが、環境が変わればそこに住み着く邪妖も変わる。十分留意することだ」
 カミラが私たちに注意を促してくる。言う通り、分かりきっていることではあったが、今回は私はカミラにしっかりとうなずき返した。南部での任務にはあまり行ったことがなく、どういった相手が出てくるのか詳しく把握していなかった。
 私にとっては未開の地。ここから本番と言っても過言ではなかった。
「それじゃ…いこう」
 それでも、私たちは前に進まなければならない。
 全ては『彼女』のために―

バシュッ!―バシュ!―
 籠ったような低い銃声が辺りへと響き渡る。
 カミラが目の前の邪妖たちに発砲したらしい。彼女が手にする武器は黒い狙撃銃―私たちと違って、細かな作業を必要とする飛び道具を、カミラは正確に使いこなしている。
「はぁぁああ!!」
 一瞬光って見えた金の流線に続くように、私は生み出した血剣を構え、駆け出した。
 地中からそのまま伸びてきたような茶色い手型や、転がる岩がそのまま意思を持って動き出したかのような巨人、その他諸々の邪妖たちが群れを成して襲いかかってくる。やはり砂地や岩層が多い土地だからか、物質的な性質を持った邪妖が多いように感じられた。
「このっ!」
 比較的動作の緩慢な―ストーンゴレムという名称がぴったり当てはまりそうな―邪妖に、血剣を叩きつける。
 しかし硬質な黒岩に覆われたそいつの体皮は、いともたやすく、私の剣刃を弾き返した。
「くそ、なんて硬さなんだ!」
 じんじんとする感覚を腕に感じながら一度引き下がると、ちょうどその時「待っていろ、今援護する」後ろからカミラの声と、何かを引き抜く金属音が聞こえてきた。
「離れろ、二人とも。今そいつらを爆破する」
 無言でその場から退避する際、カミラのほうをちらと伺うと、彼女の右手には何やら小さな球体のようなものが握られていて。
 3つほど間を開けたかと思うと、カミラはそれを思いっきり邪妖たちへと振りかぶった。
 球体は美しい半円のフォームを描きながら、ちょうどゴレムたちの手前に落下する。
「??」
 一瞬、それが何かを確認するために邪妖たちが立ち止まったような気がしたが、その直後、その小球はすさまじい爆音とともに、勢いよく四方へと破裂した。
「うわっ?!」
 その音に、思わず私は肩をすくめ、片耳を押さえる。
「…ほう。これまた手の込んだモノを」
 そう言ったルーエは、果たして感心してるのか呆れているのか…。
「よし。効いてるようだ」
 おそるおそる爆撃の中心地を見てみると、邪妖たちの姿は見えなかった。というか、その絶大な威力で、地面が小さく抉られていたほど。
 先ほどまで力強く大地を踏みしめていたゴレムたちは、もはや跡形もなく吹き飛んでいたのだ。いくら邪妖といえども…少し残酷なくらいに。
「カミラさん。一体、何を投げたんです?」
 改めて周囲の安全とルーエンハイドの存在を確かめると、銃の様子を確かめているカミラに私は声を掛けた。
「ん?ああ、あれはな、教皇庁が開発した『うにグレネード』だ」
「うに…グレネードぉ…?」
 思わず盛大に首をかしげる。
 うに…と言えば、もちろん真っ先に思い浮かぶのは、あの黒いいがいがのウニだが…まさか、あれを爆弾に転用したのではあるまいな?そんなの、昔絵本で親に読み聞かされた『錬金術士』だけにしてくれ…。なんと『木から落ちるうにを爆弾に変えてしまう』、そんなぶっ飛んだ絵本だった記憶がある…。
「ああ。うにだ。木から落ちるうにから作ったグレネードだ。安価で大量生産に向く」
「―は?」
  一瞬耳を疑った。見るとルーエも固まった表情でカミラを見つめている。
「…二人とも、何を変な顔をしている?まさかうにを知らないのか、お前たちは?」
 頭、おかしいのか、この人は?―何とか口にすることだけは堪えて、改めてカミラの顔を見てみるが、ふざけてジョークを言っているわけでもなく、表情は至って冷静だ。ここまで真顔だと、もしや私たちがおかしいのかと錯覚してくる。
「うに…って。海の、それも水中にいる、あの黒いやつですよね?」
 少し震えた声だったが、なんとか喉の奥から音を出した。
「それもあるが、この一帯には木から落ちるうにも自生しているんだ。…ほら、あった。これだよ」
 言ってカミラは腰を曲げて、地面に落ちていた何かを拾い上げる。
 赤い月に照らされたそれは、確かにとげとげしく、うにに見えなくもないが―
(これ…栗…だよね…)
 どこからどうみても、それは栗、いが栗、ちょっと茶色の食べ頃の栗。私の大好きなモンブランに乗ってるやつだった。そのまま食べてもなかなかイケるアレだ。
 どうでもいいけど、カミラ、もしかして栗を知らないのか…?いや、そんなことはない。彼女は名前『有角』の感じからしてどうやら極東の生まれらしいが、仮にモンブランは知らずとも、極東には栗ご飯なる、その名の通り栗を混ぜた白米の料理があるらしいから、栗自体を知らないはずはない。
 …親に間違って教えられた、とか?だとすれば、失礼だが、彼女の両親はとんでもない人たちだ。栗をうにだと確固たる信念を抱く人など、この世界にはそうそういない。
 何はともあれ、その『うにグレネード』は役立つし、今から彼女に教えるのも酷…それに不必要な混乱を招く可能性があるので、とりあえず今のところは、あえてその話題には触れないようにしておいた。触らぬ神に祟りなし、って言うしね…?
「…そっとしておこう」
 最後にルーエが、そんな私を知ってか知らずか、そうとだけぽつんと呟いた。

 『錬金術士』のうに爆弾の話はさておき、進行を再開した私たちは、大地より天空を貫くが如く、上に鋭く尖った大岩が密集する、まるで大きな針山のような場所にまで足を踏み入れていた。
 その場所には、多くの人が惹かれるような幻想的な魅力など一欠片もなく、過酷な自然の現実をそのまま突きつけてくるかのような荒々しい土地だったが、同時に今まで出会ったこともない、とても印象的な場所でもあった。荘厳な様相を眺めていると、脳裏の内へと、その情景が深く刻みこまれいった気がした。
「ちょうどここで半分を経過したくらいだな。順調なペースだ」
 ルーエンハイドは私の背中をぽんぽんと軽く叩いていく。
「そうだな。しかし、夜が明ける前には一旦街に帰還してもらうぞ。アルーシェのためだ、分かるな?」
「…そうか。彼女の身体は、調整が必要なんだったな」
 半妖となった私の身体は、定期的な身体の調整が必要であると出発前にカミラから聞かされていた。そして今の言葉からして、その調整とやらは一日に一回は行わなければいけないことらしい。
「もうじき夜が明ける。切りよくここで一度都へと帰ったほうがいいと私は思うのだが、駄目だろうか」
 腕を組んだカミラが私たち二人に提案を持ちかける。
「いや、私は出来る限り、前に進んだほうがいいと思うんだけど…」
 すかさずルーエンハイドが手を挙げて反論する。二人の意見は真っ向から対立してしまった。カミラもルーエも自分の考えははっきり言う性格だから、仕方ないと言えば仕方ないが、どちらもやはり引く気はないようだ。
「うーむ…」
 小さく唸ったカミラは、最終的に私へと判断を委ねることにしたようだ。
「…ならあとは本人次第だ。アルーシェはどうしたい?」
「私は…」
 カミラに促されて、私は口を開こうとすると、

―ガアアァァアアア!!

 突然、そんな獣の轟声が、辺り一面にとどろいた。

「!」
 目の前に、一匹の巨影が降り立った。
「邪妖…!かなりの大物だ!」
 叫び声をあげると同時に反射的に血剣を構え、剣先を突きつける。
「グルルゥゥ…」
 大きな体躯に、四本足の獣。頭は獅子のようにも見えるそれは、まさに王者の風格を宿していて、おそらくこの岩山地帯のヌシとも言える存在らしかった。
「…ちっ。面倒だな。仕方ない、ひとまずこいつを倒してからだ。全員散開しろ!」
 カミラの声に従って、即座に私は刺岩の間を駆け抜けつつ、獅子の左側面に回る。ルーエンハイドも右に回った。
 指示を出した当のカミラはというと、その場から一歩も動かず、かがみこんで何かを設置していたのだが――
「各員、誤射に注意しろ。固定銃器でやつの気を引く」
 彼女がそう言うと、地面に置かれた黒っぽい何かが、途端に火を吹いた。組み立てていたのはどうやら設置型の機銃だったらしい。そんな飛び道具も持っていたのか。
「ガォ!!ガァアア!」
 自動で発砲される機銃掃射で次々と身体を撃ち抜かれた獅子は、しかしその音速の鉛弾を直撃で喰らっても、邪妖は至って健全なようで、獅子は速射の嵐からから逃れるかのように、後ろへと飛び退くようにして引き下がった。
 巨体が地へと着地すると、激しい地鳴りとともに土がめり込み、獅子の身体は動きを止める。
「今だっ!!」
 その一瞬の隙を、私は見逃さなかった。
 瞬く間に獅子の剛毛が鮮明に伺えるところまで肉薄し、加速の勢いを緩めぬまま、右手の曲剣を振りかぶった。
 流円を描いて、ほどよく力を加えられた一撃は、邪妖の肉体をするりと切り裂く。傷口から蒼い血しぶきが吹き上がってきた。
「ガァガア!?」
 まるで、小癪な真似を、と言わんばかりに、獅子は身体を大きく左右に揺さぶって、私の追撃を許そうとはしない。そのまま、再び後ろに下がられてしまう。
「任せろ!」
 そこにルーエンハイドが敢行した。
 左側と前方ばかりに気を取られていたせいで、右側から近づいてくる彼女の存在が疎かになっていたのだろう。ルーエが大声で叫んでも、獅子はいまだ私とカミラに鋭い視線を送りつけてくるだけだった。
「くらえっ!」
 ルーエンハイドの、今は黄金に光り輝いた気剣オーズが、獅子の首元を正確に捉える。それに黒狼のシャルフも続いていた。
「ガウッ!ガゥッ!!」
 シャルフは青い雷光をその身に宿しながら、獅子へと体当たりを行う。
 それから一瞬の間もなく、彼女の類いまれなる膂力が付加され、勢いよく地面へと振り下ろされた重量級の黒剣が、鈍く響いた剣戟の音とともに、獅子の巨大な頭部を支えている太い頸椎部を、たやすく叩き潰した。
 直後信じられないほどの量の血が、獅子の身体から噴出される。
「ガァ…!ガォオオォ…」
 さすがのこれには獅子も堪らず、一瞬怯んだ素振りを見せる。
 しかし――邪妖はまだ生きていた。しかも敵意は全く失われていない。彼の生命力は、いまだ健在だった。
「まあ…こんなものか」
 攻撃を終えたルーエンハイドが、剣を払いながら私のそばへと駆け戻ってくる。するりと避けてきたのか、見事なもので、身体には一滴たりとも蒼い血は着いていない。確かに、蒼血を浴びるのは危険だ。――常人の騎士であるならば。
「やるな、ルーエ」
「ふっ、そうでもない」
 私は微かに笑いを浮かべながら、前方の獅子を見つめ直す。
「グルゥゥ…!!」
 私たちにとってはまだまだ手強さを残しているように感じられたが、彼に取っては相当な痛手を負わされ、自らのプライドを傷つけられたようで、その者はさらにいきり立ち、不気味な淡黄色を宿した双眸は、まさに煌々と激しく輝いていた。
「ガオ!!」
 獅子は、もはや傍若無人な様相、辺り構わず、まさに獅子奮迅ともいった勢いのまま、私たちへと突進してくる。
「焦るな。もう手負いだ。このまま片をつけてやろう」
 カミラは少しも動じた様子を見せず、再び何か球状の物体を、駆けてくる獅子の方向へと投げた。
 ちょうど、獅子が足が踏み入れたところでそれは爆散し、白い網状の円形を地面に生み出した。
「ガッッ?!」
 すると途端に、猛進のさなかだった獅子は、いかにも驚いたような必死そうな声をあげて、そして地面を鞠のように転げ回る。
「上手く(トラップ)に嵌まったようだな。さあ今だ、行け!」
 叫ぶカミラを背に、私はネーロとともに、もがき回る獅子のもとへと走った。
「ガォガォ!!」
 大きな身体が仇となり、邪妖はまだ体勢を立て直せていない。止めを刺す、絶好のチャンスだった。
「ネーロ!いくよっ!」
(よしきた!ずっと出番がなくてたるんでたんだよ!)
 従魔のネーロと並列して、獅子に刃が届く位置にまで近づく。そして。
「これで、終わりだっ!!」
(これで、終わりにゃ~!!)
 一人と一匹は、ほぼ同刻に、自らの蒼い血剣と――そして強烈な猫パンチを、そのライオンもどきに喰らわしてやった!
「この!この!このっ!!」
 息の続く限り、剣を振るい続けた。
 まるでおとぎ話の吸血鬼が、激しく人血を吸うように――噴水のように溢れ出る『蒼き血』を呑み込まんと言わんばかりの勢いで、曲剣を振るい続けた。返り血が身体に覆い被さるように噴き出していたが、なぜだか、私は、怖くなかった。
 むしろ―その血を全身で浴びたいと、そんな忌避たる感情が、邪妖との戦いの最中の内に、私の心の中には生まれてきていた。
 徐々に緩くなっていく、剣が肉を切り裂く感覚。
「…ガォオオオアア!!」
 そしてついに。

「グルルゥゥ……」
 一声、そう唸るような響きをあげたかと思うと、今度こそ、獅子は動かなくなった。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
 獅子が倒れたのをもう一度確かめると、剣を杖代わりにして上体を支えた。カミラやルーエが駆け寄ってくるのが気配で分かった。
「無理をするな、アルーシェ。…しかし、よくやったものだな」
「これが半妖の力…あれほどのものをここまで短時間で狩ってしまうとは、思ってもいなかったぞ」
 二人は労いと称賛と、少しばかりのおどろおどろしい声音を私に掛けてくれるが、必死に戦っていた自分にはどうでもいいことだった。『彼女』を救うために身体が動いてくれれば、それでよかった。
 しかしこの『半妖』の力には、確かに目を見張るもの――そして、近よりがたい『何か』があるのは間違いない。もし、元の人間の状態でこの獅子と戦うことになっていたら、これほどまで素早く撃破するには至っていなかったろう。
 剣を獅子の巨躯に食い込ませる瞬間、自分の心体の違いを実感した。敵対する相手をすぐにでも八つ裂きにしたいと、心と全身(からだ)が疼いてくるのだ。そして、精神に身体も順応し、自分自身でも思いもよらぬほどに、肉体の鋭敏な動作を可能にしていた。
 そして…この身体は、どんな時でも『血』を求めている。それが何より、痛いほど感じられた。
 邪妖の返り血をものともしない自分に、戦慄を覚えた。
「…はは、もう、立派な化け物だな」
 息の整った私は、自嘲するように笑う。
 気づけば戦装束が血まみれだった。それを見たルーエのぞっとした顔が、とても衝撃的だった。
「…参ったな。もうすぐ夜が明ける。このままでは都に帰るか帰らぬかを決めないうちに移動手段をも失ってしまうぞ…アルーシェ。一度帰還する。石に祈ってくれ」
 カミラが早口で言い、私を起こしてくる。
「…そうだな。そうするよ」
 身体を支えられながら辺りを今一度確認すると、ふと、突き立った岩の一つへと、何者かの黒影がすっと隠れていったように見えた。
「待て。まだ何かいるようだ」
「…本当か?」
 右手に曲剣を握りしめたまま、二人を先導するように、その影が隠れた岩のもとへと、ゆっくり歩みを進めていく。
 確かに何か、小さな、宙に浮かんだものが、岩の後ろで蠢いている。月の光が当たらないせいで、ここからではそれが何なのかよくわからなかった。
(邪妖?)
 それにしては敵意を感じなさすぎる気がするが…。
 警戒しながら近づいていくと、ようやく、その影の正体が明らかとなった。
 びくびく震えながらこちらを見つめてきているそれは、蜂の姿形を持った一匹の、やはり邪妖だった。
(いや、これは―)
 邪妖であるが、邪妖ではない。それは、人を襲おうとしないのだ。
 つまり、ネーロと同じ、意思を持った存在のようだった。
「こいつ…まさか従魔か?」
 ルーエンハイドも気づいたようで、剣にかけていた右手を下ろす。
(…お姉ちゃんたち、誰?)
 蜂の従魔のほうから声が聞こえる。
「何か話しているようだ」
 そう言って、私はかがんで彼のもとに近づいた。
「大丈夫。私たちは悪い人じゃないよ」
「…? アルーシェ、何一人でしゃべってる」
「…静かにしろ。半妖の彼女は、邪妖の言葉が分かるんだ」
「……はー……?本気で言ってんの?それ…」
 後ろで各々自由なことを話している彼女らは、ひとまず置いておいて。私は従魔との会話を続ける。
「君は?どうしてここにいるの?」
 蜂はそう聞かれると、しょんぼりと俯いてしまった。
(ボク…群れからはぐれちゃったんだ。探そうにも探せないし、途方にくれちゃって…)
 彼女は今にも泣きそうだ。
「…そう。君、戦うことはできる?」
(…どうして?一応、働き蜂だったから、戦う術はお母さんとお父さんに教えられたけど…)
「なら、私たちと一緒に行かないか?」
(えっ?お姉ちゃんたちと?)
「そう、私たちと。君のことは、私が面倒みてあげる。その代わりと言っては何だけど、一緒に戦ってもらうことになるけど、いいかな?」
 私は優しく諭すように、蜂の従魔を説得した。
(戦うのは、あんまり好きじゃないんだけどなあ…でも、黙ってここにいるわけにもいかないね。群れを探さなくちゃいけないし)
 彼女は、そう心に決心したかのように何度も何度も頷くと、びっくりするくらい急に元気を取り戻したようで。
(ボク、ピッツっていうんだ!これからよろしくね、紅いお姉ちゃん!)
「ああ。よろしくね、ピッツ。……二人とも、群れからはぐれた蜂のピッツという子らしい。ついてくることになったから、これからよろしく頼むよ」
 振り向いた私は、新たな従魔『蜂のピッツ』が仲間に加わった旨を二人に伝える。
(うん!優しいそうなお姉ちゃんたちでよかったー!)
 こちらがもともとの性格のようだ。朗らかで陽気そうな蜂の従魔ピッツは、これから私たちについてくることになった。
「どうやら味方になったようだな」
 カミラが一足先に状況を察していたように言う。
「本当に話していたのか…?」
 ルーエンハイドが信じられないといった様子で、私と、私の脚にしがみついてきているピッツとの顔を見比べている。一人でいるのが寂しかったのか、すっかりなつかれてしまっている。
「それでは、アルーシェ。ひとまず、都に帰ろう。…行き先は研究所内でいい。いいな、ルーエンハイドも?」
 私たちは頷いた。


 肌に風を感じなくなったとふと気づき、目を開けると、カミラの研究室まで無事転送されたのだということを把握した。
「…うまくいったようだな。それで早速だが―こっちだ、アルーシェ。ルーエンハイドは―そうだな。そこの椅子に座って待っていてくれ」
 後ろから呼びかけてくるカミラに振り向いて、そのまま続いていく。
(何するんだろ…)
 身体の調整、というくらいだから、私の身体を診るんだろうけど…。
 木製の仕切りで区切られた、部屋の少し奥まったところに案内されると、そこで彼女から何かを突きつけられた。
「まず、これを着用してくれ。調整に必要なものだ。下着も全部脱いで着てくれよ」
「えっ…?!これ…?」
 なんとも…露出の多そうな、その…破廉恥そのものな格好の、下着?らしき衣を渡される。
「…別に、辱しめに晒そうとしてるわけじゃないから誤解はよせよ。身体の露出は多いほうが作業を行いやすいんだ。…まさか、恥ずかしいわけではないよな?全員女だものな、とりあえず着てもらえないか」
「…はい」
 カミラは頷いた私を見ると、ルーエがいる向こう側に行ってしまった。
 お風呂の中で『水着』ならいいけれど、こんな際どい格好を毎回着るのは、なんだか少し躊躇われたけど…。
(これも…リリアのためだ)
 そう自分の中で思い込んで、なんとか、急ぎ足で戦装束を脱いでいく。
(うぅ寒…)
 下着も全て脱いだところで、その白っぽい、ぴっちりと肌に張り付くような変な下地のつなぎの衣を、私はするっと着こなしていった。
 思わず口をぽかんと開けてしまった。
「な、な、なんなの、これぇぇえ……」
 予想以上に露わとなった素肌。世間的に公開してはいけないところを除き、それでも半分以上が露出している形となる。痴女御用達の服装とは、まさにこういった、とんでもない衣装のことをいうのだろう。
(いくら研究用のものと言ってもさ、趣味悪すぎるよ…)
 特に、胸元と背中の開きっぷりはすさまじい。胸なんて…よくわからない金属製の器具で…ほんの一部分を隠してるだけ…。いくらなんでもここまで露出させる必要性は、悪いが私には感じられなかった。
 もはや、あえて自分から見せつけに行っているかのような姿だ…。カミラまさか、変態なのか?まあ変わった人だなぁとは――特にあの『うにグレネード』以降――思ってはいたけれど…でも勘違いしないでくれ。私は普段からこんな服を着るような女ではないんだ。
 とはいっても、私がいつも着る戦装束も、それなりに過激なものだとは自覚していたのだけれど…しかし、いくらなんでもここまでのものは、ない。あれは単なるお洒落。こっちは違う。ただの露出狂にしか見えない。
「着たかアルーシェ?着たんだったらこちらに来てくれ」
(うそぉ…?!)
 まさか、本当にルーエにこんなあっけらかんな姿を見せることになるなんて…。リリアーナとはお互いの裸を見せあったことはあるけれど、実は彼女とはまだなかった。ルーエは、特にプライベートを大切にする人だから。見た目と性格からはとてもそうは思えないけど。
「る、ルーエ!」
 カミラに呼ばれ、思わず私は、仕切りの向こうの彼女に向かって名前を叫ぶ。
「…!? ど、どうした、アルーシェ…?」
 突然大声で呼び掛けられて驚いているようだ。無理もない。この格好を見ていない彼女ならば。
「…ちょっと、私のほう、見ないで貰えるかな?」
「…? どうし―」
「ちょっと待った。アルーシェ、さっき恥ずかしくないと言ったろう?これから何度もここへ来て、こうして『着替えて』調整を受けてもらうになる。早く慣れてもらわないと、時間の無駄だ。今、そのことがどんなに愚かしいことか、お前にも分かるだろう?」
 機先を制すように、ルーエンハイドからの返事を即時に遮って、カミラは呆れたような口調でぺらぺらとしゃべってくる。
「『恥ずかしくない』…?『着替える』…?」
 ルーエンハイドはいまだわかっていないようで、不思議そうに声を上げた。
 このままだと変に泥沼化しそうだ。なら、覚悟を決めて…飛び出すしか道はない。
(あーもう!ここは、行くっきゃない!)
「そ、そう!わたし着替えたの!どう?!にあってるかしら?!」
 思い切って、私は木の仕切りから、例の格好まま姿を現した。
「…!!?」
 胸元を両手で隠した私を見たルーエは、声にならない叫び声を上げたようで…?
「な、な、なんて格好をッ!私はそういうのは嫌いだっ!」
 ルーエは、水着の私に抱きつかれた時のリリアーナ以上に、顔を熟れたリンゴのように真っ赤にさせて、机に突っ伏してしまった。…ああ。私にとってはそんな反応のほうがありがたかった。
「えっと…そのまま見ないほうがいいよ!見せもんじゃないから!」
 すっと駆け寄るようにして、私はカミラがそばにいる、何やら見たこともないような『機械』のもとへと近づいた。
「…お前たち、幼なじみじゃなかったのか?一瞬に風呂も入ったことがないのか?」
「…えへへ。実は彼女、一緒に入るの嫌がるタイプでして。リリアーナとは、あるんですけど」
「そうなのか…もったいないものだな。私の祖国――話していなかったが私は極東出身だが、そこでは『裸の付き合い』と言って、尊ばれる行いなのに」
「あっ、極東には、そんな文化があるんですね」
 「さあ、ここだ。この中に立ってくれ」カミラの会話と指示を耳に入れつつ、私は透明なガラス張りが施された、その『機械』の中へと入っていく。
「裸体とは、本来あるべき人間の姿だ。その上で、リラックスできる風呂に共に入ることで、腹を割った踏み込んだ話も楽にできるのだと、私はそう考えている。気になる人と仲良くなりたければ、共に任務をこなし、風呂にでも入ることだな」
「なるほど…確かにおふろに入っている間は気分がいいですもんね」
 カミラは頷きながら、私の身体を器具で固定する。半分立ったままだが、ベルトのようなもので固められれば意外と楽だった。全ての固定を終えると、彼女は『機械』の扉を閉める。周囲一面をガラスの窓に囲まれた。
 曇ることのない鮮明なガラス越しに、カミラから話しかけられる。
「この装置の名は『影牢』…お前の体内に存在する蒼血や、お前自身が皮膚などから取り込んだ障気や血を分析し、最善の状態に保つことができる。それと、ロジエクロック―お前のアレはどこだ」
「あっ、仕切りの向こうの、戦装束のポケットに入ってます」
 私のロジエクロックをカミラが探し始めたので、すかさず私は声を掛ける。
 声を聞いたカミラは、仕切りの反対側に入っていき、しばらくして、それを手にして再び『影牢』にまで近づいてきた。
「ロジエクロック…?そんなもの、使うのか…」
 ふと、落ち着いたのか、ルーエンハイドが向こうから、疑念を呈したような声で話しかけてくる。
 彼女がそう言いたくなるのも分からなくはない。ロジエクロックという、教皇庁の騎士に配られるこの小さな装置は、名前こそ格好良いが、言ってしまえば『蒼血の掃き溜め場所』に近い。騎士が邪妖へと至らぬように、返り血や身体に付着した血を吸収する働きがあるからだ。
「安心しろ。クロック内の蒼血を注入するが、全て計算内の範疇でだ。すぐ妖魔に至ることはまずない。貯めた血を力とすることができるんだ、悪い話ではないだろう」
「まず、ないって…」
 少し不安だったが――それもリリアーナのためになるなら、全て受け入れるつもりでいた。
「それでは早速始めよう。何、不安がることはない。じっと目を瞑っていれば、そのうち終わってる。結構時間がかかるから眠っていてもいいぞ。冗談ではない。半妖の身体とて疲労は溜まるだろうからな…」
 カミラは嬉しそうに小さく微笑むと、機械の作動ボタンらしき凹凸部を押した。
 微かに聞こえる小さな無機質の機械音とともに、やがて、『影牢』は動き始めたらしい。
「今後のことは、調整が終わったあとに話し会おう。それまでしばし、解散だ」
「…『影牢(かげろう)』―名付けもとは極東の文豪『アタビィス(Atabihs)音咬(Otokam)』の推理小説だろう?…ふ、拷問でもされなきゃいいけどな」
 笑いながらルーエンハイドがそう言ったのを最後に、私は瞳を閉じていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

暗闇からの一報

NOA 外伝 暗闇からの一報
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『まだなのか、ルーエンハイド。前回の報告から随分と経っているぞ』
 彼女が『影牢』の中で眠りに落ちたあと。
「そう焦るな。時間はある。彼女のことも…よく分かったしな」
 徐々に日が昇り始めた早朝。黒いカーテンで窓辺が遮られ、まるで深夜のように静まりかえったホテルの個室にて。
『例の女の様子はどうだ。そう言うなら、ちょうど良い観測にはなったのだろう?』
 受話器の奥から響いてくるのは、よく通った美しい少女の声だが、他の人間のものより、それは明らかに違った。
 ――言葉に一切の抑揚がなく、もはや感情というものがそのままそっくり削げたかのような無機質の声音が、耳元に聞こえてくる。
「…彼女の力は予想以上なものだ。大型の邪妖でさえ、いとも簡単に退けてしまう。無茶だぞ。本当に、やるつもりなのか?」
 ここでも、アルーシェが『半妖』として蘇ったということは口にせず、とどめておく。なぜなら、それはルルドへの反逆になりかねないからだ。
 少し声が詰まったが、向こうの少女は、そのことにすら気にもしないで――彼女にとっては気にする価値もないのか、私の言葉を押し込めるようにして続けた。
『何を今更馬鹿げた事を言っている。当然だ。教団長様はそれだけをお望みになっておられる。お前がそこまで言うのなら、それなりに手強い相手か。しかし私は倒すまで。余計な口を叩いている暇があったら例の女の情報をもっと集めろ』
 私の言葉をもばっさりと切り捨てるような物言いで、彼女は言う。しかし、それは嬉しそうでも、誇りに満ちているようでもなかった。
 何もなかった。彼女には、何もかも。ただ虚ろな目で、電話に向かって一様に呟いている、そんな少女の姿が頭に浮かんできた。
「…そうか。長々と話していると気づかれるかもしれない。また何かあったら電話をかける」
『奴は私の獲物だ。くれぐれも手柄を横取りするなよ』
 最後にそんな冷めきった声が聞こえてきて、ぞっとした。
「…わかってる。何度も言うがすぐには殺るなよ、ヴェルーシュカ。『彼女』を見つけてからだ」
 言い捨てるようにして受話器を置く。そのまま私はベッドに倒れこんだ。
 寝台のそばに置かれている、薄く輝く小灯の光りを遮るように、両手で顔を覆った。
「わたし…どうすれば、いいんだろ…」
 できることなら、二人を助けたい。だが、アルは私のことを、まだ信用しきっていない様子だった。
 無理もない。いきなりかつてよりの親友が敵になったと聞かされれば、誰しもやすやすと警戒を解くことはできないだろう。
 それに、仮にアルーシェを説得しても、今度は彼女が待ち構えていた。
 彼女に感情論は一切通用しない。脅しや泣き言、懐柔や説得さえも、『心無き暗殺者』には、通じないのだ。
(このままいけば…)
 衝突は免れない。私は確信していた。
 でも、どうすることもできなかった。言葉も通じぬ人間を、私にどう止めろと言うのだ。
(ならば、この剣で、止めるしか…)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 すっーと、頬をそよ風が撫でていったような気がした。
(…?)
 …今は、『影牢』の中にいるはず。不思議に思った私は、閉じていた二つの瞳をそっと開けた。
「…ここは?」
 眼前に広がるのは、どことも知れぬ、広大な大地。長い年月を経て朽ち果てたと思しき石造りの家屋や、遺跡の跡地のようにも見える古めかしい石柱がまばらに佇んだ、見慣れぬ草地が広がっていた。
「あれは…」
 何より際立っていたのは、雲ひとつない、暁のほど手前のような、神秘的な大空に浮かび上がった赤い月――あのオーナーの言葉を思い出せば、『ミラダ』と呼ばれる魔性の大月だった。
「ようやく再会できましたね、紅の乙女よ」
 その月のすぐ下から、女性の声が聞こえてくる。その声音は、確かに耳が覚えていた。
「ずっとここで待っていたわ。やはり、貴女には蒼き運命が託されている」
「あなたは…」
 その声を初めて聞いたのは、かつて味方だと思いこんでいた『月の女王』に胸を穿たれたのち――暗い闇夜に輝いた、温かな一つの光より。
 いつの間にかそこに立っていた、美しい亜麻色の髪をした女性。声の主は彼女だった。やはり、あの輝きは人だったのだ。
「はじめまして。私は『ヨルドの巫女』――エヴァンジェリンと呼んで頂ければ結構です」
 どことなく、かつて命を救われた司祭に似ている彼女、エヴァンジェリンは私に小さく一礼した。
「『ヨルドの巫女』?」
「ええ。この空間は『ヨルドの宵闇』と呼ばれる、『蒼き血』に関係した、ありとあらゆる意思や思念が流れ着く場所。そして私は、ここの番人――とでも呼んで頂ければよろしいでしょうか」
 『番人』という、物々しい言い回しに反して、彼女の格好は非常にくだけたものだった。
 ゆったりとしたピンク色のネグリジェを着た彼女は、一昔前に流行ったプペちゃん人形でも抱えていれば、おやすみ前の少女のようにも見える。私より年はとっていそうだが、顔はそれくらいに幼かった。
 こう、守ってあげたくなるような感じ。彼女はどこかリリアーナに似ていた。関係ないけど胸は――『彼女』よりは大きい、かな?
「ふーん。なるほどわからん。 あ、忘れてたけど、私はアルーシェっていうの。アルーシェ・アナトリア。 ところで、どうして私はそんなところに来たんだろう?」
「今ここにいるのは、貴女の――アルーシェの『蒼き血』に関連した意思です。肉体は元の世界にあります。ここに来た、ということは何らかの『蒼き血』の介入があった、と思われます。 きっと、半妖にでもなったのでしょう?違いますか」
 いきなり核心に迫るような、できれば触れられたくない話題を持ちかけられて、私は少しだけ動揺する。だけど、彼女には全て分かっているようだ。ここで隠す必要もないだろう。私とエヴァンジェリンしか、ここにはいないんだし…。
「…半妖になったら、ここに来ることになっているの?」
「そうとも、限りません。強く光る意思の力は、長い時間を経ても消えず、残っているもの。時にはあの赤い月を通り、こちら側に至ることもあります。貴女は、その一人というわけです」
「…こちら側?」
「こちら側…ここは、妖魔たちの住まう『常夜』への入り口となる場所。『蒼き血』を得、貴女はこの地を垣間見たのです」
「ここが…」
 エヴァンジェリンの話が本当だとすれば、妖魔の国の『常夜』とやらは、予想以上にのどかなものだと思えた。来る前は、それはもう地獄さながらの暗黒と血みどろの世界だとばかり思っていたが、宵闇を見る限り、とてもそうとは思えなかった。
「『常夜』はもっとこう…残酷な土地だとばかり思っていたよ」
「うふふ…ここに来た皆が皆、そう口々に言われます」
 エヴァンジェリンは小さく微笑む。
「ですが、勘違いしないでください。ここに住まう妖魔と、そしてそれを統べる『夜の君』は、決して貴女がたの世界を滅ぼしたいとは思っておりません。…と言っても、信じてはもらえないでしょうが」
 彼女は暗い表情のまま俯いた。
「とにかく、貴女が強い意思を宿している以上、この宵闇には入ることができます。半妖であれば何かとお困りでしょう。何かしら助言が必要でしたらいらしてください。もっとも、いつでもこれるわけでもないとは思いますが」
 エヴァンジェリンがそう言うと、お互いの身体がうっすらと光りを放ち始めた。
「今日はここまでのようです。それでは…また会う日まで」
「えっ…ちょっと――」
 その言葉を最後に、意識は再び黒一色に包み込まれてしまった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

チャプター4: 忘れられた廃都、鋭刃の刺客、伝説の半妖

NOA 外伝 c4 忘れられた廃都、鋭刃の刺客、伝説の半妖
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『…あれから、お嬢様のご様子は、いかがとなっておりますでしょうか』
『ああ、シャリー。彼女は今までの被験体以上に、順調に適応しているよ。今のところは何も問題ない。むしろ好調すぎるほどだ』
『左様でございますか。素晴らしいですね。これも『伝説の半妖』の血のおかげでありましょうか』
『そうだな、それもあるかもしれない。しかし…教皇庁が地下宝物庫に、こんなものを収めていたとはな』
『わたくしとしても、非常に驚くばかりであります。やはり、教皇陛下と何か繋がりがあるのでしょうか』
『まあ、教皇庁であれば、こんなものの一つや二つ、持っていてもおかしくはないか…どうやって手に入れたのかが甚だ気になるところだが』
『…ああ。二年前に行方不明になった彼女にも、この血を分け与えてやりたかったですね』
『…ふむ、確かにな。しかし、あれはあくまでも失敗例だ。もう思い起こす必要もなかろう。何の音沙汰もなく、忽然と姿を消してしまうなど…』
 
 
 
 
 
 
シュッ―シュッ―シュッ―
「ふんふんふん…」
 目を開けると、とたんにホテルの天井一面が広がった。
(…何だったんだろう)
 あの後、すっかり『影牢』の中で眠りこけてしまったらしい。状況を察するに、既に私の身体は『影牢』内部から、ホテルの一室へと運び込まれたあとのようだった。
 持ち上げた半身に視線を送ると、研究用の例の着衣は脱がされ、今はホテルのバスローブを着させられているようだ。少しばかり、妙な臭いが身体から立ち込めている。それは乾いた血糊の、独特の臭いだった。
 カミラかルーエンハイドが一向に起きそうにない私を連れてきて汚れたままの身体を着替えさせてくれたのだろう。二人には申し訳ないことをしてしまった。後でお礼を言っておかないと。
(…さっきのは、夢…だったのか?)
 先ほどまで感じていたヨルドの宵闇、それに巫女は、どこにも見当たらなかった。全て、幻だったのだろうか。
 ――いや…違う。記憶だけではない、彼女との出会いは、身体そのものが鮮明に覚えていた。
 美しいエヴァンジェリンの声色。頬を撫で行く微かなそよ風。そして、薄明かりの空に浮かぶ満月を見つめる二つの瞳。
 ネグリジェ姿の彼女の言葉通り、果たして、私は本当に『常夜』に行っていたのか。まだ確信はできなかったが、あの不思議な空間に足を踏み入れたことだけは、確かなことであるらしかった。
「…ああ、起きていたか。どうだ、調子は」
 上体を起こしたまま、ぼんやりと考えごとをしていると、視界の外から声を掛けられる。
「…あっ、おはようございます。なんか変な出来事があって…って、えっ?!」
 その声はカミラだろうと、そちらに向かって振り返ると、
「…何してるんですか」
「ああ。風呂上がりの乾布摩擦だ。気持ちいいぞ」
 なんと下着姿のカミラが、乾いたタオルで背中を擦っているのだ。しかも、カーテンを開けた窓際で。
「か、か…かんぷまさつ?何ですかそれ、極東で流行ってるんですか」
「いや…流行ってるってわけではないが、朝方に行うと、血行が良くなって身体に好影響をもたらすと言われている家庭療法の一つでな。私たち一族は、皆、朝はこうなんだ」
「へ、へぇ…すごいですね…」
 先祖代々続く、極東ならではの健康法らしい。それにしても、家族全員が朝早くに起きて、太陽に向かって半裸で身体を擦るというのは…なんだかシュールというか、微笑ましいというか…。
「『影牢』に入ってから、ぐっすり眠っていたぞ。それはもう冬眠中の大熊にも勝るくらいにな。よほど疲れていたんだろう。眠気覚ましに風呂でも入ってきたらどうだ。血生臭いし、お前ももちろん入りたいだろう?」
 ちょうど乾布摩擦を終えていたらしいカミラが、いつにも増して変な冗談を言いながら、今度は奥の化粧台の前の椅子に座る。…あんな人でも、やはり女であれば化粧はするのだろう。昨日の顔を見た感じ、かなりムラがある薄化粧だが。
「個室まで運んできてくれて、ありがとうございました。 ところで、今、昼間…ですよね?お風呂って、沸いてるんですか?」
「当たり前だ。教皇騎士は『夜』の任務が主だからな。いつでも入れるように、火の邪妖を地下に突っ込んで昼でも沸かさせている。非常に燃費がいい。今流行りのえころじーだ」
「えっ…」
 また何を言い出すんだ、と思った私に、笑いをこらえるような変な顔をしてカミラは言う。
「…二割真実、八割冗談だ。見た目によらず、アルーシェは純粋すぎるな。素直で良い子だ。悪い人に騙されないように気をつけろよ?…それこそ、私みたいな悪女にな」
 ふふふふふ…っと不気味に笑うカミラは、まんざらでもなさそうだったが…。というか二割真実なのか…邪妖に一体何させてるんだ…。
「…今日、なんだかすごい機嫌が良さそうですね…」
「ん?気のせいだな。風呂にはルーエンハイドもいるはずだ。さぁ、幼なじみ同士、仲良く湯船に浸かってこい」
 えっ?!――今度は少し違う意味で、カミラのその言葉に、内心生まれた戸惑いを隠せずにはいられなかった。


 一度自分の個室に戻って、いつの間にかよく洗われていた装束と水着を手に取り、浴場の更衣室に入ると、確かにもう一人の着替えと思われるものが、かごの中にちょこんと畳んで入れてあるのが見てとれた。
 黒い狼のエンブレムと肩当てで飾られたコートアーマーと、ぴちっとした黒革のロングブーツ、そして青いネクタイは、もちろんルーエンハイドのものだった。
「ほんと、ちゃんとしてるよなあ…」
 ルーエは特に戦いとなると、私たち以上に男勝りになる性格なのだが、ちゃんと分別はあり、自分のことや他人の大切なことにはきちんとけじめをつける人物でもあった。自信家で、熱い感情と巨大な大剣を振りかざす彼女も、見た目以上に繊細なのだ。
 そんなルーエが、この先にいる。無論、私は少し躊躇った。
「女同士だし、慣れればすぐに入れるとは思うけど…」
 正直、昨日のアレのせいで、私自身は多少燃え尽きたところはあったので、彼女と一緒に入ることへの抵抗はなくなってきているのだが、問題はルーエ本人である。彼女は、一線を越えるラインから先は、なかなか私たちに譲ってくれない。奥手というか慎重派というか。
 しかし、ルーエンハイドがあがってくるまでここで待つわけにもいかないので――ルーエ、おふろ長そうだし――私は決心して、そのまま中へと入っていくことにした。
 持ってきた水着に着替えて、少しだけ鼓動が高まりつつある心臓の音を聞きながら、そっーと浴場への扉を開ける。
 人気のないがらんとした浴室の中に、金髪の少女の後ろ姿、ルーエンハイドが一人だけ、誰もいない周囲を気にするように、落ち着きなくきょろきょろしていた。――どうしたんだろう…?
(ルーエンハイド…)
 それよりも、彼女のこんな――あっけらかんとした姿を見たのは、初めてだ。
 透き通るように真白く輝いた白い肌。同じ女性としても魅力を感じてしまうほどの、メリハリのある身体つきに、目を強く惹き付けられる美しい黄金色の長髪。
(なんて…)
 綺麗なんだろう、と、思った。素直な感情で、彼女の姿を間近で見つめられた。もう躊躇いなんて、私には一欠片も浮かんではこなかった。
 ルーエンハイドの美しい身体に見とれてしまっていると、私の気配を感じたのか、ふいに彼女は後ろを振り返る。
「…アルーシェ?! い、いつからそこにいるっ!」
 開口一番、そんな叱責が飛んでくる。しかし、それは怒りからくるものではなく、恥ずかしさからくるもののようだ。
「さっきからいるけど…ルーエも、綺麗になったな、って」
「バ、バカ!からかうなっ!」
「からかってなんかいないよ。私の正直な気持ちだ」
「……」
 静かに返してやると、予想外に、彼女は黙りこんでしまった。
「ほら、一緒におふろ、入ろ?…リリアのためにも、英気を養わないとね」
「な、なにを!!」
 必死に胸元を隠そうとするルーエの右手を取って、私は湯船へと駆け寄った。
 片足から浴槽へと、ゆっくり浸かっていく。
「何、恥ずかしがってるの?入ろうよ」
 ルーエンハイドはそっぽを向いたまま入ってこようとしない。
「…君は、は、はずかしく、ないのか…?」
「あはは。さすがにもう慣れたよ。 変に躊躇していると、カミラにもぺちゃくちゃ言われちゃうしね」
「…」
「私は気にしてないから、ね。入ろ。私たち『友達』でしょ?」
 なおもぼーっと私の顔を見つめてくるルーエンハイドの手を掴んで軽く引っ張るようにする。
「…あまり見るなよ!見たって…何にもなんないんだからなっ!」
「はいはい、取って食べたりしないから」
 ようやっと、しぶしぶながらも、ルーエンハイドは私と一緒におふろへと浸かってくれる。…ただし、身体は明後日の方向で、二人の距離は開いたままではあったけれど。
「ルーエとは初めてだよね。一緒におふろ入るの」
「…」
 相変わらず、両手で胸元を隠しながら、彼女は顔も合わせようともせずに、黙りこんだまま。
 そのまましばらくの間、お湯が流れていく水音ばかりが、浴場いっぱいにこだました。
(…なんか、気まずいな)
 どうにもできなかったが、このまま黙って入っているのも変な話だったので、どうにかして彼女の気を引く必要があった。
『裸体とは、本来あるべき人間の姿だ。その上で、リラックスできる風呂に入ることで、腹を割った踏み込んだ話も楽にできるのだと、私はそう考えている』
 ふと、昨夜、カミラから耳にしたおふろのことを思い出した。
 彼女の論理が正しいのであるならば…今話すべき話題は、私たちには、ただ一つしかないように思えた。
 もちろんそれは…『彼女』のことだ。
「…リリアとも、また、入りたかったな。今、どうしているんだろう…私たちばかり、こんなふうにしていて…」
「…!」
 今度は、ルーエの耳が、ぴくりと反応したようだ。
 …やはり、『彼女』のこととなると――ルルドの騎士として、黙っていられないらしい。
 いつの間にか下ろされていた両の掌は、流れゆく湯水の中で、固く握られていた。
 だが顔をこちらに向けることはなく、やがて彼女は口を開いた。
「…君はまだ、『彼女』を生贄に捧げるつもりなのか」
 今までの調子とは一転して、何かに縛りつけられたかのように、重い口調になった彼女は、前を見つめながら、静かに言葉を放った。
「…ルーエ。私は――」
「もし、君の考えが最後のその時にまで変わらないのなら、私は、決して容赦はしない。それだけはどうか、肝に命じておいてくれ」
 温かい浴水が、身体の芯の底まで冷たく感じるほど、その声音に宿った気迫は、相当なものだった。
「…わかってる」
 彼女は本気だ。ルルドの一員として、彼女は、自らの意思で、リリアーナを救おうとしている。その覚悟は…かつての親友さえも、切り捨てることをいとわぬほど、確固たるもの…。
 それを非難することはできない。ルルドへの異属が、彼女の選んだ道であるからだ。一人の人間として、彼女の意思を貶すことはできなかった。
 しかし、彼女の親友である私自身として、それを甘んじて受け入れて、共に刃を交えるということは、とても最良の道であるとは思えなかった。
 ルーエンハイドはルルドの聖騎士ではあるが、同時に、私の二人だけの親友のうちの、ひとりだ。そんな彼女と、二人にとっても大切なリリアーナを取り合うようにして、この時に至るまで争うほど、馬鹿馬鹿しい話はない。
 しかも、私は――私は教皇庁の騎士として、今も誇りはもっているが、もはや教皇は信用できなかった。彼女のもとで使える騎士としては、もう戦う意思は微塵もなかったのだ。
 私を蘇らせてくれた研究者のカミラには悪いが、彼女にも従う理由はない。私は、私の考えだけで、『彼女』を救い出さなければならなかったのだ。
「…私は、リリアーナを生贄に捧げるつもりはない。教皇庁に従い尽くす意味もなくなった。私は――あの時の約束を果たすだけだ」
 ルーエンハイドと手を取り合うことを決意した。暗く覆い包む闇夜を払いのけ、最も正しきことを見つけ出す。改めて、私は心の中で、そう力強く宣誓した。
「教皇庁に、背を向ける、と言うんだな?…無理もない。あの研究者――カミラ・有角は、私たちを襲ったのは『月の女王』本人だと言った。生贄を求め、世界を救おうと言っていた、女王がだぞ?…やはり始めから、何もかも騙されていたんだよ、君たちは」
 無意識に下がっていた視線を上げると、ルーエンハイドがこちらに向き直っていた。
 そして少しずつ、湯船をかき分けながら、こちらへと近づいてくる。
「アルが、一緒に戦ってくれるって…信じてる。君はこれからもずっと、私の親友だ。もう一度、歪んだ道筋を繋ぎ合わせよう」
 ルーエンハイドは柔らかく、私の身体を抱きしめてきた。
「…うん」
 私も静かに抱きしめ返し、そして、確かに頷いた。
「……」
 しばらく、そのままの間、彼女を抱えていたのだが――
「…?」
 ふいにもぞもぞとしだしたルーエンハイドが、顔を上げて私を見つめる。
「えっ? …アルーシェ?」
 なぜか彼女は、今さら私の存在に気づいたような間の抜けた声を上げて、猫みたいに首を傾げる。
 そして。
「…な、な、なんで私たち抱き合ってるのよっ?!」
 はっと生気が戻ってきたかのような顔をして、ルーエは、私をこれでもかといった勢いで突き放した。
「あ、あたしが思い悩んでるスキに、はれんちなことしようったって、そ、そうはいかないんだからな、アルーシェ!」
「…いや、君のほうからハグを求めてきた気がするんだけど…」
「あれ――そうだったっけ――い、いや、違う! このあたしが、そんなことするわけない! アルーシェのせいよ!バカ!変態!最低!」
 本気で思い込んでいたらしく、半分記憶が飛んでいる。一途になると止まらない、彼女はとても情熱的な女性だった。
「あはは…まあ…いいや……」
 とにもかくにも、ルルドの騎士とはいえ、私以上にリリアーナのことは人一倍心配しているのが、彼女、聖騎士ルーエンハイド・アリアロドである。

 大浴場からあがった私たちは、一旦ホテルのロビーへと向かう。
「いい天気だな…」
 ロビーの広間に入ると、各所に設けられた採光用の窓から、暖かな日射しが、きらきらとした金の延べ棒のように屋内へと降り注いでいた。どうやら、時刻はまだ昼を過ぎたあたりらしい。
「さってと…『夜』までは動けないんだったか。その時まで備えて寝るなりなんなりしないとな」
 うーっんと、ルーエンハイドが大きく伸びをしながら、一回転する。さっきの反動か、やけに呑気そうだった。
「今すぐにでも助けに行きたいと思わないのか?」
 私はそわそわして、正直いてもたってもいられなかった。『彼女』が今どんな目に遭っているのか…想像するだけで身体中が凍えた。
「…もちろん、そう思っているさ。しかし、これは、割りきるしかないんじゃないか。実際、私たちも機械じゃない、休息が必要だ。休みなく動き続ければ、必ず言うことを聞かなくなる時がくる…。大丈夫さ、リリアーナだって、『彼女』も、ただの女の子じゃない。訓練された戦乙女だ。昼は野性動物も出るだろうが、それしきで遅れを取ることはないだろう。今は…そう信じるしかない」
「…」
「…大きな声では言えないんだが、ルルドも、今のところは私を含めて数人ほどしか現地入りしていない。巫女の詳しい情報も私が伝えなかったせいで、いまだ情報網は希薄なんだ。…そうだ」
 急に、ルーエンハイドが話を途中で区切って、それから私の腕を取る。
「…何?」
「立ち話もなんだ、聞き耳を立てられるのもまずい。奥のテーブルで話そう」
 ロビーにカミラがいないことを改めて確認するかのように彼女は顔をきょろきょろさせると、カウンターを正面から見て左奥側にある、並べられたテーブルに向かって早足で歩いていく。私もなされるがまま引っ張られていく。
 置かれたテーブルの中でも、さらに一番奥に位置する場所に、対面して私たちは座った。
「…急かしてすまないな。それで話しの続きだが、これから話すことは、君を信じているからこそ、伝えられることだ。決して他言は無用だぞ」
 ルーエンハイドはまた辺りを見渡すように頭を左右に動かして、それから、私にずっと身を乗り出すようにして近づいて、話し始めた。
「ルルドの騎士が、何人か、現地入りしていると、さっき言ったな?」
「うん」
「昨夜から、私の『知り合い』――ほら、あのルースワールの子だ。その人物に会うために、南の街に向かっているだろう。実は、その人物が、ルルドの騎士の一人なんだ」
「それは…本当なのか?」
 つまり私は、教皇騎士であるにも関わらず、ルルド教団の力を借りて、リリアーナの探索をすることになっていたかもしれなかった、というわけだ。
 そして、もちろん意図するところはそれだけではないだろう。何かしら裏で策略を練られていたはずだ。何も知らず、まんまとその内に嵌められていたということか。そう考えると、少しだけ、気分は浮かばなかった。
「すまない…これは素直に謝る。だが、これも任務だったんだ。しかも対象は君たちじゃない、全てはあの憎き教皇庁に対してだ。すまなかった」
「いや…大丈夫だよ、気にしないで」
 今となっては、私は半分教皇騎士ではないようなものだし、別にルーエンハイドを責めるつもりはなかった。
「その任務の内で、私と共に行動していた――教皇騎士で例えれば、リリィともいえそうな彼女は、今もその街に滞在している。私としての意図は、ルースワールの記憶を持つ彼女を頼って、君の魔石でかの地まで移れないか、試そうとしていたんだ。ここまではいいだろう?」
「ああ」
「…しかし、ここからが問題だ。先に、彼女の名前と、与えられた任務を明かしておこう。…ルルド随一の暗殺者である『変幻無容のヴェルーシュカ』――彼女に下された指令は…君の、アルーシェの、抹殺だ」
「なっ…!」


「いや~遅いわね~、あの二人。またワタシがチラ見してきましょうか?」
「いや、大丈夫だ。彼女たちは必ずここに来る。だって、この子がいるんだもの。…そうだろう、リリアーナ」
「……どうして、何もしないんですか。こんな場所に連れてきて…」
「なに、じきに分かることだ。紅の乙女さんには、ここに来てもらう必要があるからな」
「…?」
「種明かししたら面白くないでしょ、百合の娘さん。最高の歌劇会(パーティー)は、これからよ?」


 魔石に祈り、閉じていた瞳を開けた。
 先ほどまで見えていたホテル近くの広場の景色はすっかり消えてなくなり、視界全体に、ゴツゴツと、または鋭く尖った岩石地帯の殺伐とした空間が広がった。
「ここだけは記憶できていて、よかったな」
 ルーエの話しによれば、ここから例の南の街まで、ちょうど全行程の半分なのだという。都合良く、目印となるような特徴的な土地があって助かった。そこらへんの森や岩地なんかは、全く覚えていないわけではないが、後から鮮明に思い出せと言われても少々無理なものがある。
「まあ、これを一目見たら、忘れがたくなるのもわからなくはない。まさに自然の芸術だな」
 近づいてきたカミラが大きく頭をかぶりながら言い放つ。
「少し、味気なさすぎる気もしなくないけどな」
 私の右に立っていたルーエンハイドが便乗して付け加える。…それにしても、彼女たちの意見は、いつも真っ向から食い違っている。喧嘩とか、起きなきゃいいけれど…。
「何を言う。この素朴な無味乾燥さが逆にいいのだろう。自然に幻想など、求めてはいけないのだ」
 と言っていた矢先に、やっぱり火種が産み落とされていたらしい。
「なんだかなあ…あんなゴツい岩をじっと見て何になる? それよりなら私の父さんの筋肉をまじまじと見つめていたほうがマシだ。まだ、あれには肉体美というものがある」
 いや、その例えは――ちょっと。でも確かに彼女のお父さんは筋骨隆々で、斧を担がせればしっくりくる、まさに『声を操る伝説の戦士(ヴァイキング)』を思わせるような姿だった。…彼女の完璧なプロポーションとほどよいムチムチ感は、親譲りなのかもしれない。
「やれやれ…やはり西洋人は感性が鈍い。こういう、荒涼な大地の『ワビサビ』というものを、君たちは何も理解していない」
「ふっ、どうだかな。東洋人は『壮大さ』、これがいかんせん足りない。何事もひょろひょろしていて、見てて飽きてくる」
「まあまあまあ…」
 私が仲立したつもりでもビリビリと激しい目線を合わせたまま、彼女たちはまだにらみ合いをやめようとしない。
「…わかった。ここは、人数も奇数であるし、もう一人に委ねよう。アルーシェ、お前はどう思う」
「えっ、私?!」
 唐突に、カミラからすごい真剣な顔で促されて、私はちょっと焦った。いや、そこまで本気にならなくてもいいでしょ…。
「そりゃもう……どっちも好きだよ。良し悪しなんてない。世界的に有名な『錬金術士』の絵本は独特な感性で多くの子供たちを魅力したけど、西洋生まれの物語だし、東洋にも侍や仁王、無双と呼ばれる戦士たちや、私たちみたいに刀を手にして吸血鬼なんかと戦う女性もいるって聞いたけど。両方とも欠けてるところなんてない…よね?」
 長々と喋り尽くした後、一呼吸おいてから彼女たちの顔を見ると、二人とも、何とも言えなさそうな顔をしている。
「そうか…お前は優柔不断だな。なら、私が一句歌ってやろう。これを聞けば、確実に東の国が好きになるぞ」
「えっ…歌う、って?」
「まあ聞いていろ。ルーエンハイドもだ。それではいくぞ?」
 カミラは静かに息を整える。そして、語った。

諸行無常の響きあり。紅焔燻り、白花散りて、ただ朧げな、百合朔月(さくつき)の残り香をのみ、匂わせるばかり…

「…どうだ。素晴らしい歌だろう?」
「えっと…?」
 どうだ、と言われても、確かになんだかリズムは良さげな気はしたが、趣旨、というか歌そのものが何なのか分かっていないので、感想のしようがなかった。
「なんだ、『短歌』や『俳句』を知らないのか。てっきり、世界的に有名なものだと思っていたが」
「『タンカ』?『ハイク』?だって?…知らないな、そんなもの」
 カミラの心底残念そうな声音に、ルーエンハイドが怪訝そうな顔をして首を傾げる。
「でも…リズムは何か素敵でした。どういう意味の――その、『タンカ』なんです?」
「…自分で歌っておいて何だが、意味は教えられない。というか、お前は、知らないほうがいい」
「…えっ?」
 なぜか顔を背かせたカミラに、私は不穏な空気を感じた。まさか…とんでもなく悲しい意味だとか?やっぱり…恋愛関係?
「一つだけ言えるのは――私の心の中で、今一番『大きくなりつつあるもの』。それを歌っている」
「…まさか、失恋でもしたんですか?」
 図星を貫いたつもりだったのだが、少しだけのけ反った彼女は、いたって冷静に首を横に振るう。
「なっ…馬鹿を言え。私が、そんな、きゃぴきゃぴした女に見えるか?」
 そう言われて改めて彼女を見るが…近くだとムラが目立ちすぎる下手な薄化粧と、きちんと手入れもされていないような、柳の葉っぱのようにブラブラとした黒髪を見ると…お世辞を言おうにも…言えなかった。
「…ごめんなさい、私には見えないですけど」
「…む………そ、そうか。まあ、そうだよな――これも家系の宿命か――」
「ん? 何か言いましたか?」
「何でもない。…我ながら馬鹿馬鹿しい無駄話をしたな、先を急ごうか…」


「ピッツ!いけるか?」
(うん…怖いけど、ボクがんばる!)
 私たちは邪妖を殲滅しながら道中を順当に進んでいく。
(戦う時は槍みたいになるんだ。お姉ちゃんがボクをつかんで戦って!遠慮はいらないよ!)
 彼女はそう言って、私の右腕にしがみつく。その直後、小さな身体は眩い光に包まれ、そしてピッツの身体は一本の長槍として、私の右手に収まった。
 新たな仲間(ストライカー)――魔力の槍に変化する蜂のピッツを携えて、私は威嚇する邪妖どもに肉薄した。
「はああああ!!」
 少し前方に構えていた三匹を薙ぎ倒すように、蜂の化身である頑丈な鋭槍を振るう。
「ガ…ギャアアア!!」
 ほどよい遠心力が加えられた長柄の一撃を食らって、それだけで小さな土竜(もぐら)のような邪妖はぶっ飛び、動かなくなった。
 そのすぐ後に、更に前方の中空に舞う大鳥の邪妖に飛び上がりつつ、叩きつけを食らわせる。
 絶命には至らなかったものの、鳥は大きく揺らぎ、そのまま地べたへと墜ちていった。
(使いやすい…)
 血剣よりも圧倒的にリーチが長い。今回のように、複数の敵や、空を飛ぶ邪妖に対しては大変効果的な存在であると実感した。
 それでいて、重さはほぼないと思えるほどに軽い。おかげで咄嗟の回避もやりやすい。しかも見た目以上に衝撃を受け流すことができ、武器による防御も不可能ではない。やはり昆虫の性質を反映したのだろうか、どこにも無駄がないように思える。戦いなれていない初心者には持ってこいの従魔ではないだろうか。
 反面、威力は若干乏しいようにも感じられた。ピッツは万能型ではあるが、総合火力を求める際には不向きな、要は『器用貧乏』タイプなようだ。
「なるほど…よく分かったよ。これからもよろしく頼むな、ピッツ」
(うん!お姉ちゃん、優しいからボクついていくよ!)
 槍形態のまま喋ることもできるようで、不意を突かれた私は、目に見えて身体をびくっと震わせてしまった。
「このままでも話せるのね…えっと、できれば、戦闘中だけは喋らないようにしてちょうだい…ね」


 その後も変わらぬ調子で先を進んでいくと、前方の夜闇に、ぽつぽつと光る街の灯りが認められた。どうやら目的地にまでたどり着いたようだ。
「あの街だ。ようやく着いたな…」
 ルーエンハイドがうなだれるようにして大きなため息をつく。
「さっそく入っていこう。その『知り合い』は、あそこに滞在しているんだろう?」
「ああ、そのはずだ。街のホテルに向かおう」

 扉を押し開けて、くぐりぬけていくと、教皇庁のホテルとはどこか雰囲気の異なった、それでも十二分に独特の魅力を宿した美しい大広間が眼前に開ける。
 並べられた椅子やテーブル、カウンター、個室への扉や階段など、少し高級そうだが見た目は一見、至って普通なホテルのように思える。
 しかし、ここは、特に教皇騎士にとっては、易々と来館できるホテルではないのだ。
『…教団の息がかかっている港街の支配権は、実質ルルドのものだ。領主たちや首長も教団側の人間だ。もちろん、そこに住まう住民たちさえも』
 ここは既にルルドの領域なのだと、私はルーエンハイドに聞かされていた。
 つまり、言ってしまえば周りの人間のほぼ全員が敵対する可能性もありうる。黒い狼たちの『テリトリー』なのだ、この街は。そして、一歩間違えれば瞬時に『狩場』へと変貌する、そんな危うさをもはらんでいた。
「着いてこい。私が対応する。お前たちは何も喋る必要はない」
 そう言ってルーエンハイドが早足で先を行く。
「あっ…ちょっと」
私たちも急いで続くが、何やら、彼女以外の、特に事情を知らないカミラに口を開かれたくないような感情が読み取れた。
「…これは、これは。ご来訪なさって頂いたところ申し訳ないが、当ホテルは予約制でしてね…悪いが他を当たってもらえますか」
 ふいに止まった彼女の背中越しに声の主を伺うと、これもまた、至って普通なホテルの支配人といった感じの男性が、にこやかな笑顔で私たちに応対する。
「…ホテルの地下室まで」
 対するルーエンハイドは、支配人の言葉に反応しようともせずに一言そう言い、そして懐から何かを取り出してカウンターに置いた。
(ペンダント?)
 狼の頭部をモチーフにしたのだと思われる小さな漆黒のペンダントが、シャンデリアの輝きを反射して鈍く光っていた。
 そのペンダントを目にした途端、今まで柔和そうな表情だった支配人の顔色が一変した。
「…ほう、『ワイルド・ハント』か。後ろの二人は?」
 声音も、低く唸ってくるような、なんだか背筋に寒気が走ってくるような恐ろしげなものに変わり、もはやそれは別人と言っても過言ではなかった。
「私の連れだ。…大丈夫だ、問題ない」
 何が大丈夫なのか、とカミラは思っているかもしれないが、事前にルーエから事情を聞いていた私にはその意味がよく理解できた。おそらく、ホテル地下はルルドの教団員しか立ち入ることの許されていない特別な場所なのだろう。教皇庁でいう騎士専用の個室や浴場といったものだろうか。
 彼女の言葉を聞いた男は、もう一度訝しげに私たちに視線をちらつかせるが、どうやら判断を決したようだ。
「いいだろう。これで地下室への扉を開けられる。入ったら、内側から扉を閉じてくれ」
 言って、その男はルーエンハイドに何かを渡す。
 ちらと見てみると、それは冷たい銀色をした、小さな鍵だった。


 
「ルーエンハイド、先ほどのは?」
 私たちを通すために開けた扉の鍵を施錠しているルーエに、カミラがそう問いかける。
「…ああ。この場所は、一般人には通させない決まりなっているのでな。まあこの街の騎士たちの取り決めのようなものだ。それほど気にすることじゃない」
「そうか…」
 カミラは黙って彼女を見つめたまま、納得したのだかしていないのだか、よく分からない表情を見せたが、以降、その話題に対して口を開くような気配は見られなかった。
(よかった…)
 ルーエンハイドから、ルルドの騎士から直接事情を聞かされていた第三者である私は、内心ほっと安堵した。ここでカミラに知られては元も子もない。
 しかし…何か不自然でもある。もう少し、疑い深くかかっていってもいいものだが。彼女はちょっと抜けてるところがある、いわゆる『天然』な人だろうけれど、こういうところには抜かりない性格を持っているはずなのだ。
「この階段を降りれば一室がある。そこに私たちを待つ彼女がいるはずだ。急ぐぞ」
 扉を開けた先は、少しの踊り場を経たのち、すぐに細長い階段へと繋がっていた。両脇には小さな燭台がいくつか備え付けられており、視界はそこまで暗くはない。まさに、秘密基地へと出入り口といった趣きであった。この先に、一体何が待ち受けているのだろう?
「なんだ、アルーシェ。妙に緊張しているようだな?」
「あっ…い、いや、別に緊張なんかしてないよ」
「そうか?なら、この先にあるものに対する期待か何かか?そう思っているところ悪いが、階段の先の部屋には特にめぼしいものはないぞ。…実際入ってみれば分かるな。さあ、ついてきてくれ」
 そう言って、ルーエンハイドは頑丈ま石造りの階段を一段づつ降り始める。私たちもそれに続いた。
 そして最後の段を全員が降り切ったのち、彼女はもう一度ちらりと後ろを振り返り、軽く頷いたと思うと、目前にまで迫った木の扉に向き直り、数回、それをノックする。
『…入れ』
 すぐに中から聞こえてきた入室を許す返事を境に、ルーエンハイドは手を掛けていた扉をゆっくりと押し開けた。
「…私だ、ルーエンハイドだ。待たせたな。彼女たちを連れてきた」
 ルーエンハイドが先に入り、部屋の奥にいるだろう人物に、再度、件のペンダントを掲げて見せつける。
( 彼女の身体でよく見えないが、おそらく改めて本当の教団員であることの確認が終わったのだろう。ルーエがすっと部屋の中へと入って行ったので、私もそれに自然と歩調を合わせていった。
 密室の内部は、彼女の言う通り、特に目立ったものは見られない。がらんとした殺風景なものだった。
 やはり、どうやらここは居住空間として使われているらしい。いわば地下壕とでも言えばいいだろうか。灰色の配色の部屋にはいくつか日常生活に使用すると思われる机や寝台が置かれ、中央付近には地図が置かれた大きなテーブルが配置されている。任務についての話し合いや作戦の考察などを行うのだろう。
 その一際目を引くテーブル近くに、一人の女、いや少女と言ったほうがふさわしいだろうか。そんな人物が直立不動のまま、部屋に訪れた私たちを見つめながら佇んでいた。
 きっと、あれが彼女の『知り合い』、もとい、私の命をつけ狙う『変幻無容の暗殺者』なのだろう。しかし、そんな物騒な呼び名に反して、彼女の小顔は、実に幼いものであった。
 私と同い年か、少し下くらいではないだろうか。そんな年で暗殺者などという過酷な仕事をこなしているなど、まあ騎士に就いている私が言えたものではないけれど、よほどの実力者であることは明白だった。
 じっと顔を見ていると、ふっと目と目が交わる。彼女はすぐさま逸らしたが、私はそのままでいた。いや、逸らそうとも逸らせないといったほうがよかっただろう。
 彼女の瞳は、どこか人と違うのだ。何と言えばいいのか、上手い言葉が見つからないが、心のこもっていないというか、正気がないというか…どこか、私を見る時も、遠い目をしていた。
(この年で暗殺者…ルルド教団の戦闘員…感情の一切が欠落した表情…そして、今や失われたルースワールの出身…彼女はそこで『見つけられた』…)
 出発前のルーエンハイドの言葉を思い出す。やはり何か裏側には深い事情があるのだと、瞬時に直感で読み取った。
「……」
 彼女は、決して人を見る目ではない、まるで並べられたチェスの駒でも眺めるかのようにして力なく私たちを見渡すが、何一つ言葉を口にすることはなかった。何か口にするのも惜しまれるといった様子で、中空へと視線をさまよわせる。
「…彼女はヴェルーシュカ。私の相棒で、共に任務をこなしている」
 ルーエンハイドが代わりに紹介しても、ヴェルーシュカは黙っていたままだった。
「お前たちのことは既に把握している。紹介は不要だ」
 と唐突に、そうとだけきっぱりと言い放つ。どうやらルーエンハイドから、私たちのことは事前に聞かされてあるようだ。ならばヴェルーシュカの言う通り、改めて名乗る必要もないだろう。魔石などの説明も省いてよさそうだ。
 そして、彼女は再び口を固くつぐんでしまった。
「…ずいぶんと寡黙なお方だな。これでは意思の疎通が十分に行えるか心配なところだ」
 そんな様子のヴェルーシュカに、カミラが小さく頭を抱えながら呟く。確かに、かなり無口な性格だ。相手が何を考えているか分からなければ、味方としての連携にせよ、敵対者としての対立にせよ、様々な危険がつきまとってくるだろう。
「ああ、すまない。ヴェルーシュカは、自分から話すのは苦手なんだ。しかし、探索の進行は全て私たちに任せるということにしてある。それなら問題はないだろう」
 つまり、彼女は私たちについてくるだけ。いかにも付け入る隙を伺っていそうな感じもしたが、ここまで来て今さら引き返すわけにもいくまい。全てはリリアーナのため。…途中で襲われたら、その時は、その時だ。
『無事にリリアを見つけ出すまでは、彼女も君に手を出すことはないだろう。私からも強く忠告しておいたからな。だが、ヴェルーシュカは何を考えているのか、私でも全ては分からない。その前に命を奪ってくるかもしれない』
 ホテルでのルーエンハイドの言葉が、脳裏にこだまする。
『君が、リリアーナを救うために戦うのなら、望んで彼女と剣を交えよう。何度でも言うが、もし君が、少しでも生贄の道を進んだのなら、漆黒の狼たちは、決して紅の乙女を許しはしないだろう』
「お前たちとぼやぼや話し合うつもりはない。すぐに目的地に向かうぞ」
 ヴェルーシュカの声にはっと顔をあげると、いつの間にか、彼女は私のすぐ側にまで近づいて来ていた。
 ルーエンハイドを見ると、少しだけ険しそうな顔をして私に視線を送っている。「油断はするな」と言いたげな表情だった。
「…あ、それじゃあヴェルーシュカ。この石を手に取って、ルースワールの、一番印象に残っている場所を想像して、祈ってもらえないか?」
「気安く名前を呼ぶな」
 ぴしっと即答されて、私は思わず怯んでしまう。感情を宿していないとはいえ、ちょっと気難しい性格ではあるようだ。まあ、これから敵になるかもしれない人間に、易々とは気が許せないだけなのかもしれないが。
「ルースワール、か…」
(…?)
 その、今や滅んだとされる地中海の孤島の名を聞いて、彼女は、少しだけ顔をうつむかせたような気がしたが…。
「…いいだろう。その石を掴んで祈るだけで、いいんだな」
 彼女はそのまま私の右手に乗せられた次元の魔石を掴み取り、二つの瞳を閉じ、小さな手のひらを胸元に当てて、静かに祈った。



 そして、幾時を経たのち。
 肌に触る風調の変化と、遠く聞こえるさざ波の音を聞き取り、私はすっとまぶたを開いた。
「…着いたようだな、ルースワールに」
 ルーエンハイドがぽつりと呟く。
「ここが…」
 まず始めに目を向けた前方には、鬱蒼と茂る森林地帯がうかがえた。一度入ってしまえば行き場を見失ってしまいそうなほど、辺り一面を覆う草木は、深々とした苦緑色を宿している。
 波の音が聞こえてくる後方を振り返ると、少し手前、ちょうど植生が途絶えている白い地面が見える。暗くてよく見えないが、おそらくそこには浜辺が広がっているのだろう。
 藍色の天空には、あの日から変わることなく、赤い月が浮かんでいる。どことなく、それは少しだけ欠けているように見えた。
 どうやらヴェルーシュカの記憶によって、どこか島の、端のほうに飛ばされたらしい。ユーラルムの位置と、そもそもこの島の地理的情報が明らかではなかったので、この場所が果たして廃都への最短の位置なのかどうかは分からなかった。
 それは彼女、私たちをいざなったヴェルーシュカのみが知るところにある。
「その…それで、ユーラルムはどこに?」
 私は少し遠慮がちに、ヴェルーシュカへと声を掛けてみる。
「ここより真っ直ぐ進んだところに都の正門がある。そこまでは先導してやろう。ついてこい」
 彼女は言うなり、自分のペースでどんどんと先に行ってしまった。
「あっ…」
「アルーシェ、この先は今まで以上に手強い邪妖が出る。気を抜くなよ。…ついでに、彼女に対してもな」
 小声で耳打ちしながら、ルーエンハイドもそれに続く。特に何も気にしていない辺り、相棒とは言うが、ヴェルーシュカは普段から周りを顧みない単独行動が多いのだということが察しられた。
「…ふむ。ここがルースワールか。思っていたよりも安全な土地だな…何か実験に役立つものがあるかもしれんな…」
 後ろ手で頭を掻きながらルーエたちを見ていると、後ろから、今度はぶつぶつと、カミラの独り言が聞こえてくる。彼女はそのまま私の横を通り過ぎていった。
 どうしても研究者魂が疼くのだろうか、ならず者が目指すとされるルースワールに来て、彼女は少なからず期待を胸にしているようだ。途中で妖魔に魅入られたりしないといいのだが…。
 そして最後に残ったのは、私一人。
(私は…『彼女』を、親友を、リリアーナを救うために、ここに来たんだ)
 これから多くの困難が待ち受けていることだろう。既に第一の壁は目に見えているほどに。
 しかし、止まるわけにはいかない。今でもこうしている間に、『彼女』は私以上の重苦にさらされ続けているのだ。そう思えば、もう恐怖も何も、私には感じられなかった。
(君を、私が、必ず助ける。だから…いつときも信じて、待っていてくれ)
 もう何度めかの固い宣誓を交わした後、私は三人を追うように、呪われた小島の、迷宮のような森の中へと駆けて行った。

 黒い双刃が、地面から生え伸びた人食い花のような邪妖を捉える。
「…」
 掛け声も何もない、どこか奇妙な無言の一撃が、花の太い茎を易々と切り裂き、大きな花弁はどさりと地べたに落下した。
「ギィ…ギィ…」
 数匹の邪妖を仕留めた彼女に、背後に現れた一本角の昆虫型の新手が、勢いよく突撃を敢行した。
(危ない!)
 現時点では敵か味方か分からない存在ではあったが、私は咄嗟に援護しようと歩を進めた。
 だが次の瞬間、私は驚くべき瞬間を目の当たりにすることになる。
「…」
「えっ…?」
 彼女の後ろに駆け寄った途端、押し返されたのだ。
 そう、無論、ヴェルーシュカに。まるで「邪魔だ、どけ」とでも言わんばかりに。
 彼女は、私を押し返した反動を逃がさぬまま、角を振り上げて突進してくる甲殻虫の攻撃をまんまと避けることに成功する。
 一方、私は危ないところだった。もう少しでも下がっていなければ、あの虫の俊敏な滑空がもろに直撃していただろう。
 飛虫の後方に回り込んだ彼女は、一息に刃を突き立てる。ヴェルーシュカの腕は決して強靭とは言えそうもなく、双剣も小さなものだったが、その双撃はいともたやすく、硬い虫の殻を切り開いた。
「…」
 彼女が倒した邪妖が最後のようだったが、相変わらず、ヴェルーシュカは無言を貫いていた。
 そして剣を腰に収めると、私の顔を少しも見ようともせずに、道を先行していく。私は思わず拳を握りしめて立ち上がるが、
 その様子は、怒りでも呆れでも哀れみでも、なんでもなかった。彼女には、やはり、感情がないのだ。何もかも、私には感じられなかった。どうしても、彼女からは…。
 唯一、何か見て取れたものがあるとすれば、それは彼女の、何らかの『信念』なのだろうか。
 何の感情もなしに、ここまでして邪妖狩りと、そしてルルドへと師事するという『意思』。深い沈黙と、剣を振りかざす無明の情の中にも、かろうじて、語らずとも垣間見える何かがあるのは確かだった。
「……」
 ただ黙って廃都を目指す彼女に、私は何も言うことができなかった。

 そして、かつての栄華の面影はどこにも見られぬほど、古び、汚れきったその都の大門に、ついにあいまみえる瞬間がやってきた。
「これがユーラルムの正門のようだ。ずいぶんと大きいな」
 後ろに続いていたルーエンハイドが、大きな建築物に引けをとらないほどの高さを持つ、廃都の門を見上げながら呟く。
「…なんだか不気味だね、ここ」
 赤光りする大月も相まって、長い間放置された自然林の中にそびえ立つそれは、まるでおとぎ話か何かに出てくる伝説の悪魔城の入り口さながらであった。邪妖の他に、吸血鬼や魔法使いが出てきても不思議ではないくらいに。
「あれ、そういえば、彼女は…?」
 少しだけ緊張して強張っている身体に一息つくのも兼ねて、全員を確認するように周囲を見渡すが、カミラの他のもう一人の新しい同行者、ヴェルーシュカの姿が見えないことに気づいた。
「…これも、何かの作戦なのか?」
 真っ先にルルドの計略の一部かもしれないと思った私は、声を潜めつつ、隣のルーエに問いかける。
「いや…これは違うな。これは、彼女の独断での行為だ。一度合流したあとは、再度個々で活動する計画はなかったはずだ」
 ルーエンハイドは腕を組みながら考え込む。
「いずれにしても、彼女とはすぐに再開できるだろう。むしろ、今でも私たちのことを監視しているかもしれない。不意を突かれないように注意しておけ」
 彼女はそう言って私の肩をぽんと叩く。簡単に言っているが、実を言うと彼女が一番大変な立場であると思えてならなかった。リリアーナを助けることを第一に考えつつ、敵と味方の一人二役を演じるなど、生半可な精神の人間には務まらないだろう。
(ルーエのためにも、早くこの任務を終わらせなければ…)
 私は二人の親友どちらにも、苦しみを与えてしまっている。早急にリリアーナの元にたどり着いて、月の女王と、そして教皇に、私はその理由を問いたださなければならない。その瞬間、全ての苦痛から解き放たれ、隠された真実が明らかとなる。
「何を二人でこそこそ話しをしている?門はもう近いぞ、さっそく都の中に入ろう。…もう一人は、どこかに消えてしまったようだが」
 少し首を傾げたカミラが私たちを不思議そうに眺めている。これ以上彼女に隠れて会話を続けていると怪しまれそうだったので、私たちはそこで一旦中断させ、カミラのほうに向き直った。
「そうだな。ヴェルのことは心配しなくていい、彼女はいつもこうなのでな。これからはいつも通り、アルーシェが先導してくれ。できるな?」
「ああ…もちろん」
 ルーエの言葉に、私は力強く頷いた。

 ちょっとやそっとの力ではびくともしない頑強な巨門を三人がかりでなんとか押し開けると、内側に続くのは廃れた街中かと思いきや、なぜか、その先には、どこかの屋内が広がっていた。
「どういう、こと…?」
 見ると、カミラとルーエのどちらも、この不思議な現象に首を捻らせているようで。
 改めて、真っ直ぐに広げられるようにして建てられた、その木造の広間を見ると、どうしてか人はいないはずなのに、未だに煌々と輝いている天井のシャンデリアの光を全体に受けており、全容を窺い知るのは容易いことだった。
 壁に掛けられた数々の絵画や、大小様々な彫刻と思しき白石から想像するに、この場所は元々美術館として使われていたらしい。もちろん人の気配は一切ないが、邪妖たちがそこらじゅうに潜んでいることは明らかだ。
「どうして、門の先に美術館が…?」
「ふむ…もしかすれば、蒼き力の影響かもしれん。思念の集合体である蒼血は、時に、幻覚に似た偽りを人に映し出すことがあるのだ。しかし、それは通常なら一時的であるものなのだが、ここはより濃い『夜』の力によって、もはや物質化して我々の前に発現しているらしい」
 今まさに聞こうと思っていた私の疑問に、カミラが率先して返答をくれる。
「思念が物質化して表れる…ということは、この先、どんなものが表れるか予想がつかないってこと?」
「そうかもしれん。現に、門を開けたら美術館が表れている。多少、このことは留意したほうが良さそうだ」
 噂に違わず、とてつもなく歪んだ世界なのだと、私は実感せざるを得なかった。確かに、教皇庁がこんな場所に人を近付けさせたくなくなる気持ちもよく分かる。
 とち狂った地形以上に、妖気も凄まじい。ただの邪妖といえども、手強い相手が待ち受けていそうな予感がひしひしと伝わってきた。
「これじゃ、探索にも骨が折れそうだな…だけど弱音は吐いてられない。アルーシェ、すぐにこの美術館から抜け出そう。全部が全部、幻という訳でもないだろう、どこからか外に出れるかもしれない」
「そうだね…今は、進むしかないよね」
 剣を抜いたルーエンハイドを見て、私もすっと、自分の背中に右手を回した。
 今も『彼女』がどこかで待っている。ぐずぐずはしていられなかった。

 道中を進んでいくと、案の定、そこかしこから邪妖どもがわんさか飛び出してきたが、ところ変わればそこに棲みつく邪妖も大きく変化する。この館の中では、あたりの芸術品がそっくりそのまま邪妖化してしまったらしき邪妖たちが多く確認できた。
 特に、獅子彫刻の邪妖は、数こそ他より少ないが、最も要注意するべきだった。石材ゆえの性質をもってして、その重い一撃で私たちを踏み潰そうと襲い掛かってくる。動きはとても鈍重だが、その攻撃にかすりでもしてしまえば、かなりの致命傷となることは間違いないだろう。
(アルーシェお姉ちゃん、頑張って!)
 そこで従魔たちの出番だ。長い柄を持つピッツは、相手のリーチ外から一撃を加えることができるし、ネーロは焼けつく炎の息で、かなりの遠距離から対手を燃やし尽くすことができる。
(どんどん来いよ!この俺が相手してやるぜ!)
 二匹の相棒たちはどちらも頼もしい。彼らたちの助力がなければ、ここまで効率よく潤滑に戦うことはできなかったろう。
「ありがとな、二人とも!さて、さっさと終わらせよう!」
 私は二匹の従魔と、そして二人のリリィを引き連れて、重々しい雰囲気の立ち込める、美術館のより奥間へと足を踏み入れていった。

 しばらく進むと、もう何十年も使われていないだろう美術館の、ちょうど最奥より手前付近と思われる部屋で、私たち一行は足止めを食らうことになった。
 強力な邪妖に襲われたわけではない。もちろん、ヴェルーシュカが私たちに向けて奇襲を仕掛けてきたわけでもない。
それとは別の、とある大きな障害物が、奥へと向かう道なりに、地面から『生えていた』のだ。
「…なんだ、これは」
 思わず呟きながら、私は多少の警戒は忘れることなく、その『真っ赤な茨の壁』のような物体に近づいていく。
 出来る限り近づき、改めてそれを見てみると、赤い茨には黒い蝶が数匹留まっていて、私の気配を感じ、彼らがぱっと空へと羽ばたいていったのを小さく見ることができた。
 そっと手を触れてみるが、茨はほんのりと熱を帯び、だがそれ自体は毒を持っていたりはせず、身体への実害はないようだった。
 ただ、見た目以上に芯が強く、硬そうだ。試しに剣で軽く切り裂こうとしてみるが、茨はびくともしない。うんともすんとも言いそうにない。このままでは、これ以上先にいくことはできないらしかった。
「困ったな…カミラさん。何か、手段とかってありそうですか?」
 美術館に入ってきた時と同じように、こういう時こそ邪妖研究者の彼女の出番だ。教皇庁付きの学者であるカミラなら、何かこの茨に対抗できる方法を知っているかもしれない。
「ほう、これは…。この茨は、特に蒼い力の強い場所にしか発生しない特殊な植物でな。根からは養分の代わりに妖気を吸い取る。つまり、この一帯の邪妖や妖魔を滅ぼさなければ、この茨が完全に消え去ることはないだろう」
「そんな…だったら、この奥にはもう進めないということなのか?」
「焦るな。ちゃんと対応すること自体はできる。茨は物理的な衝撃にはめっぽう強いことは確かだが、炎には弱いとされている。ほら…お前の黒猫の特技を使ってみろ。そうすれば、茨は面白いように燃えていくはずだ」
 カミラは頷きながら私の足元のネーロを指差す。
「なるほど、炎か。ありがとう、やってみます」
(お?俺の出番か?俺の出番が来たのか?)
 ただ黙っているより何かしていたいのか、少しだけキラキラした瞳でこちらを見上げてくる彼を胸に抱き抱えて、そして頭を茨の方向へ向けさせる。
「そうだ、ネーロの出番だよ。あの茨を、お前の息で焼き尽くしてくれ」
(…ん?邪妖じゃないのか…まあいいか。わかったよ、ご主人。それじゃ、もうちょっと近づいてくれ)
 ネーロに言われた通り、無意識的に離れさせていた身体を茨に再度近づけ、彼を持つ両手を前方に向かって掲げ上げた。
(よし、じゃあいくぜ!わかってるとは思うけど、腕はそのまま固定していてくれよ。ご主人や、ルーエンハイドたちの丸焼きは見たくないからな)
「冗談はいいから、ネーロ、はやくはやく」
 私が急かすと、ようやく彼は大きく息を吸い込んで、準備を整え終わったようで…
(うにゃ〜〜!!)
 精一杯頑張っているのはわかるが、凄まじい雄叫び、にはとても聞こえそうにない可愛らしい唸り声を轟かせて、ネーロは目前の茨に向かって懸命に炎を浴びせかけた。
 黒猫の小さな口元から生み出された紅炎は、そのまま茨のもとへと吹き付けられ、そこから瞬く間に他の部位へと燃え移っていく。
 楕円が大きく広がっていくように、次第に、道を塞いでいた茨の全てはすっかり灰燼と化して、はらはらと地面へ落ちていった。
「やった!」
それを見た私は思わずネーロを手にした両手を振り上げる。
(うにゃ?!うにゃにゃにゃ?!!)
「わっとと?!あっ、ごめん!つい…」
 まだ炎を完全に吐き終わっていなかったネーロは、全てを吹き出した後に、ほっと一息間を開けてから、鋭い目つきで私の顔を見上げてきた。
(だかにゃ、動かすにゃって言ったにゃろうが!それでアルーシェたちが丸焦げににゃっても、俺は知らないからにゃ!)
 そしてぷいっと頭を背ける。怒られている最中ではあったが、どうしてもその愛嬌のある仕草に目が行ってしまい、反省しようにもできそうになかった。
「あはは…ごめんごめん…」
 笑ってごまかしながらネーロを足元に戻し、私はカミラたちを振り返る。
「…全く、なんて言ってるかは分からんが、私たちも黒猫と同じ気持ちだぞ…もう少し、火の取り扱いには注意してくれ」
「ほんとにな…危なく私のコートに燃え移るところだった」
「わ、悪かったよ…今度から気をつけるからさ…」
そして予想はしていたが、二人からも呆れ顔で同じようなことを言われ、私は苦笑しつつ、その場をやり過ごすことしかできなかった。

「なんだろ…ここ」
 ネーロの助力で妨げとなっていた茨の道をこじ開け、さらに奥へと進んだ私たちの前へ、次第にひときわ大きな円形の広間が現れた。
 ちょうど中央付近にまで歩み寄り、そこから周囲をぐるりと見回してみる。
 辺りには円の外縁に沿うようにして、誰のものとも知れぬ巨大な肖像画がいくつか立てられてある。美術展としてもここがフィナーレと言えそうな雰囲気が立ち込めていた。
「あれは…?」
 ふと、前方、少し奥まったところに窺える、周りの肖像画より一回り大きな何かに目が止まった。私は視線を逸らさぬまま、そっと、それに近づいてみた。
「壁画?」
 どうやら、石を彫って描かれた壁画のようなものらしい。何やらよく見れば、人のようなものが二つ浮かび上がって見えるような気もする。
 そして、その二人の女性と思しき人間たちは、なぜか一本の剣のようなもので、並んだまま一息に胸を貫かれてしまっているのだ。
(どういう意味が込められているんだろう…?)
 作者の本意は定かではないが、それを見つめているだけで、なぜだか悲しくなってくるような、そんな不思議な感情を呼び起こさせられた。
「朽ち果てた石像もあるぞ。なんだか不気味だな…」
 後ろからルーエンハイドが声がして、彼女が指し示している方向、私が先ほどまで眺めていた壁画の下部を見てみると、確かにそこには二体の、薄汚れ、ボロボロになった彫刻品らしき石像が、見捨てられたように置かれてあった。
 壁画の前で立ちつくす一体は右手が失われていて、もう一体の、鎧を纏ったかのようにゴツゴツとした人像は、まるで先ほどまで何事もなく動いていたかのように、意図して作ったとは思えないような、ちょうど屈み込むような不自然な体勢のまま固まっていた。
「…これ、動いたりしないよね?」
「まさか。そんなわけあるものか。いくら歪みきった土地とは言え、力を持った何者かが意思を込めなければ、邪妖化していない石の像がいきなり動き出すはずはない。安心しろ」
 カミラが笑いながらそう言うが、警戒するに越したことはないだろう。この場所には特に変わったものは見られないようなので、私はすぐにでも血剣は抜けるような体勢を取ったまま、先に進んでいくことにした。
「あの壁画の後ろにまだ行き先があるようだ。急ごう」
 そう言って、再び、先陣を切って歩みを継いでいこうと思ったのだが、
「ん…んん……!!」
「…えっ?」
 懸命に私たちを呼び止めようとしているかのような、そんな必死の呻き声が、どこからか、小さく響いて聞こえてきた。
「人間…それに、女、か?」
「…! 嘘だろ…まさか…!」
 どんな思考よりも真っ先に、私の脳裏へと焼きついた『彼女』の姿が、鮮明に思い起こさせられる。
「待っててくれ、今すぐそっちに行く!」
 そして、その小さな呻きが聞こえるほうに駆けよろうと、もう一度、聴覚を研ぎ澄ました。
「…ん…ん…」
「あの壁画の後ろから聞こえてくる!」
 私が気づくより先に、ふいにルーエンハイドが大声で叫ぶ。彼女の言葉通り、くぐもった声音は巨大な壁画の裏側から聞こえてきているようだ。
「リリアーナ!」
 無意識のうちに『彼女』の名を呼んで、私はすぐにでもそちらへ向かおうと、我を忘れて懸命に走った。
 しかし、ちょうど壁画の後方を見通せる位置に届く、そのほんの直前で、ぎしぎしとした不快な擦音と共に、思いがけぬ衝撃が上体を襲った。
「なっ…!!」
 横っ腹に、何か鈍器のようなもので殴打されたような鈍痛が走り、身体中に猛烈な振動が押し寄せ、思わず涙目になってしまった視界は、まるで地震が起こったかのように上下左右にがくがくと揺さぶられた。
「アルーシェ!大丈夫か!?」
 一瞬、宙を舞うような後味の悪い感覚を味わったあと、すぐに地面に身体は叩きつけられ、息が詰まるほどの激痛を全身に被ることとなった。
「石像が、動いただと?そんな馬鹿な…!」
 ふとすぐ近くで、そんなルーエの声が聞こえ、吹き飛ばされた身体は駆け戻ってきた彼女に支えられ、介抱されているのだということを、私は、ようやく理解した。
「ルーエ…一体何が…?」
「石像が動き出したんだ、今も私たちを狙ってる!」
 彼女を身体を支えに立ち上がると、つい先ほどまで私がいたと思われる場所に、灰色の何かがすっと佇んでいる。
『ギギギ…』
 もちろんそれは、あの奇妙な姿勢で屈んでいた、石像の片一方だった。
 やはり鎧を着込んだ騎士がモチーフだったのだろう、いつの間にか両手に手にした、同じく石造りの突撃槍と大盾を構え、その邪妖は石と石とが擦れるような嫌な音を立てながら、私たちを閉じ切ったままの瞳で見据えてくる。そしておそらく、私はあの長大な槍の腹で大きく薙ぎ飛ばされたのだろう。鈍い一撃は堪えたが、鋭く尖った槍の先端で貫かれるよりは、まだ運が良かったといえるかもしれない。
「私としたことが…やはり過信は禁物だな。アルーシェ、立てるか?まず、この邪妖を撃破する。『彼女』はその後だ」
 私の隣に立っていたカミラが、銃を石の騎士に向け、一時もそれから目を逸らさぬまま、私にそう告げた。
「ああ…なんとか、大丈夫そうだ。幸い骨折もしていない。ここは…やるしかなさそうだな。仕方ない。二人とも、力を貸してくれ」
 辺りを見回して、右手に血剣、そしてネーロとピッツが後ろに続いていることを改めて確認する。
「それじゃ…いくぞ!」
 剣先を騎士に掲げて向けたまま、私は真正面から敢行した。
『ギギ…』
 血剣を構えながら突き進んでいく私を改めて確認したかと思うと、石の女騎士はそれを迎え討つかのように、灰岩の大槍と大盾を固めた両腕を前方に差し出すように据える。
 そして、私がそのリーチに入ったと思った瞬間、騎士は見えぬ風を叩きつけるようなブンッ、という低い音とともに、巨槍を勢いよく突き出した。
「当たるかっ!」
 無論、攻撃が来ることを予期していた私は、重い突きの一撃をひらりと左手側にかわす。
いくら化け物とはいえ、数百キロもあろう石槍を振るえば少なからず隙というものが生まれる。身体自体石であれば尚更のことだ。
「くらえっ!」
 盾が構えられていない右手側を選んだのはそれを見越してだった。
 予想通り、突き出した右の腕をゆっくりと引く騎士は、なんとかして近寄る私を正面に捉えようと、もがくように身体を動かそうとするが、見た目に違わぬ重量が邪魔をして、その動作は停滞ぎみだ。
 血剣を掲げた私が勢いを乗せたまま、そこへと駆け抜ける。ほどよい刃の中間部分に差し掛かったのを目に収めると、一息にそれを振り下ろした。
ガキンっ!
 しかしながら、渾身の力を込めて抜き放たれた片刃は、石の騎士の硬質な頑鎧にものの見事に弾かれてしまう。血剣がぶつかったと思うと、もはや美しいと思えるほどの火花が豪快に空へと散りばめられる。
「くそ、だめか!」
 剣を一瞬で構えなおした私は、ひとまず後ろへ後ずさりする。今度は向こうの反撃が来る。すぐにでも備えなければ。
『……』
 そして、迎撃の準備が整った私に、ようやく態勢を整えた騎士が再度攻撃を試みようと、盾で大きく身体前方を防護しながら、今度はやや速い駆け足でこちらに接近を仕掛けてくる。どうやら想像以上の相手だったようで、多少なりとも騎士は警戒を強めたようだった。
 方向転換は決して速いとは言えなかったが、走る速度はなかなか侮れたものではない。この微妙な速度の差で、相手との距離感は掴みづらくなってしまう。おそらく向こうは意図してやってはいないだろうが、こちらにしてみれば十分に注意するべきことであった。
 考えている刹那の合間に、駆け寄る騎士は槍を大きく薙ぎ払う。長大な槍身と素早い薙ぎの一撃に一度は辛酸を舐めさせられたが、不意を突いてこない大振りにおいてはどうということはない。すっと後ろに身を引いてそれをたやすく避けることに成功した。
 騎士は再び態勢を崩し、いくらか話し合える余裕が出てくる。
「ヤツの盾と鎧は魔力で生み出された刃にもひけをとらないほど硬いようだな。だが心配するな。そういう相手こそ、必ず弱点があり、そして大概、それは見つけやすいものだ」
 もう一度後ろに下がった私の、そのまた後方より、そんなカミラの声が聞こえてくる。
「…分かってますよ。私だって伊達に教皇騎士やってたわけじゃないですから」
 騎士に両目を向けたまま、そう答え、私は小さく笑う。
「そうだな。邪妖たりとて、弱点を突かれて蒼血を多く失えば、やがて命は尽き果てる」
 ルーエンハイドもカミラに同調する。そして同じくして、彼女は小さく考え込んだ。
「それでなんだが…やはり頭を狙えばいいんじゃないか。どんな生き物でも、ほとんどはそれが最も効果的だろう」
 私も真っ先に思っていたことを彼女も考えていたようだ。
 しかしそれに、私はあえて首を横に振った。
「あの、左手の盾を破壊してみる」
「…盾を?また、どうして?」
 あからさまに疑念を宿したルーエの声音だったが、私は自らの考えをきっぱりと答えた。
「私に一撃を食らわされてから、奴は、特に『自分の胸元』を固く守り始めたような気がする。…ほら見ろ。ちょうど、あんなふうに」
 私が指差した先にいる石の騎士は、いまだに崩れた態勢を完全に立て直せていないようだったが、その間も自らの、ちょうど『胸の心臓』のあたりから分厚い盾をのけようとすることはなかった。やはり、そこに何かを隠しているようにも見える。
「それに、あの盾を見て。他の部位よりもボロボロに朽ち果ててて、しかもひびが入ってる。あれなら武器や道具による破壊も不可能ではないだろう」
 先ほど攻撃を仕掛けるために肉薄した際、ちらりと岩の体の状態を確認できたのだが、重岩の大盾は幾多もの重圧を耐え抜いてきたかのように、縁のあたりに小さく亀裂が入っているのが見えたのだ。劣化のない完璧な状態だったのなら壊すことは難しかったろうが、既にガタがきているものなら話は別である。少なからず、光明は見いだせるだろう。
「…なるほど。確かに言われてみれば、アルの言う通りに見えなくもない。もし弱点はなくとも、盾を失わせればこちらにとっても有利な点であることは間違いない。分かった、君の意見に賛成しよう」
 ルーエが小さな笑いを見せながら私に向けて親指を立てる。少々熱く、我の強いところもある彼女だが、自身が納得できる事なら素直に認めてついてきてくれる、そんな協調性に欠けている人物ではなかったから助かった。同じルルド教団の人間とはいえ、今に至っても行方知らずなヴェルーシュカとは大違いである。そもそも、彼女からは感情という根底部分が抜けているようだから無理な話なのかもしれないが。
「いいか?カミラも」
 鈍く輝く黒鉄の長銃を構えつつ、私の斜め後ろで待機していたカミラにも、同意を求めるように一声かけておく。
「ふむ、いい判断だ。(つるぎ)や銃撃でも傷付かない身体を持っているなら、少しづつでも可能なところから防御を削って脆い部分を見つけていくしかないだろう。さて…私もいつでもいいぞ」
 そう言って、彼女は改めるように銃を構え直す。要所の鉄鋼と部品とがぶつかり合うカチャカチャした音を立てて、大口径の銃身は、再び騎士の胸元へと向けられる。
「ありがとう、二人とも。それじゃ…戦闘を再開する」
 私は、右手に掴んだ血剣を確かめ、そして、突き出した鋭い剣先を紅い月光で輝かせた。

 まず最初と同じように、囮となることも兼ねて、態勢を立て直したらしい騎士の近くへと私が早駆けする。
「いくぞ!ついてこれるか?!」
『……』
 挑発の声を上げようとも、無機質な石像からはもちろん、何の返答が返ってくるわけでもなく。閉じられた瞳のまま、心眼でこちらを見つめるように、顔だけ向けて、そしてもう一度大槍を構え直した。
 徐々に近づいていく石騎士の姿形を、相手の攻撃範囲に迫るまでの間に、改めて静観してみる。
 ぱっと見た印象では、それは無骨で粗造りな人型の塊にしか見えない。いかつい見た目からして性別は男なのだろうと、はじめは思っていた。
 しかし、今一度石像の細部を凝視してみると、どことなくゆったりとしたシルエット、特に、やはり胸部と臀部のあたりに柔らかい意匠が感じられて、元は女性のモデルをモチーフにしたのではないのかと、戦闘の最中でありながら、私の心の中にはそんな美的な好奇心が少しばかり渦巻いていた。
(だめ…集中しないと)
 どちらにせよ、その古びた彫刻にはもはや芸術品としての価値はないし、そのうえ自ら動き出し、今や私たちの命を奪おうと躍起になっている魔の石像である。男女の違いなど、さして問題ではなかった。今はいかにして奴の弱点を暴くかということ、それが最も重要なことだった。
『ギギ…』
 硬い石同士が擦れ、削りとられるようなわずらわしい音を立て、石の女騎士は動き出す。やはり、盾は胸元から離さないままだ。
「そこに、よっぽど大事なものがあるんだな…悪いけど、力づくでも退かせてもらうよ!」
 叫びながらも、私は走る速度を緩めない。速ければ速いほど、より注目を集めやすくなるのは経験上心得ていた。邪妖といえども生き物である。本能的に、素早く動くものに視線が向かってしまうのは自然なことだった。
 そして案の定、騎士の目線は私にぴったりと張りついて剥がれない。上手くいったようだ。
「その盾を…壊すっ!」
 今度はこちらの様子を窺っているのだろうか、近づいても女騎士は盾を突き構えたまま、じっと動かず、その場から足を踏み出すことも、槍で攻撃してくることもなかった。少しだけ拍子抜けしてしまったが、まぎれもないチャンスであることには違いない。
 始めの回避とは逆方向に、つまり騎士の盾側に身を移して、そしてその勢いを逃さぬまま、血剣を灰色の岩盾に振り下ろした。
ガンッ…
 もちろん、薄く研ぎ済まされているとはいえ、あまりに細い剣腹は大きく弾かれたものの、その瞬間、同様にして私は確信をも得ることができた。
(これは…打ち破ることができそう)
 聞こえてきた『音』と、そして右腕に伝わってきた感触に妙な『違和感』を感じたのだ。
 なんと言えばいいのか、上手く言葉が見つからないが、衝撃を完全に受け流せていない感覚。反動音や火花も派手なものではなく、どこか控えめであり、このような反応が返ってくるということは、あの盾は既に内側から風化しきっており、元来の硬度を失いつつあるという、確たる証拠なのだった。
「やっぱりいけそうだ!盾を狙ってくれ!」
 後方にいる二人に向けて短く言葉を発しながら、私は下がるついでに再度、その大盾に一撃を食らわせる。感じる音と振動は、やはり今にも砕けそうなくたびれたものだ。
『……』
 私が後ろに下がるまで騎士は少しも動くことはなかったが、じっとしているだけでは分が悪いと思ったのか、それとも自らの脆弱性の秘密を知られたことに感づいたのか、今までにないほどの勢いで大槍を軽々と左右に振り回した。
「うわっ!?」
 怒り狂ったような嵐の如き連撃に、私はたまらず血剣を盾代わりに差し出す。幸い、ギリギリ範囲外であったため痛撃は免れたが、油断は禁物だ。冷や汗が首元に流れ落ちていくのが不気味なほど鮮明に感じられた。
「まったく、アルーシェ!危なっかしいな!一旦下がれ、私が引き付ける!」
 血剣を構え直すと、背後からルーエンハイドの叫声が響いて聞こえ、すぐさま彼女の姿が目前まで現れる。
「どこを見ているっ、私はこっちだ!」
 気剣オーズを天空に振り上げながら駆け寄るルーエは、私の指示通り、盾に向かって斬撃を繰り出そうとしているようだ。
『……』
 先ほどの攻防で、すっかり私に気をとられていた女騎士は、接近する彼女に気がつくも、時すでに遅し。
「これ…でっ!!」
 気迫の込もった掛け声と共に、威勢よく、大振りの気剣が石の盾に向かって振り下ろされる。
 それは剣身のほど中央、最も衝撃が伝わる最高の位置で叩っ斬られ、盾の表面と、そして地面を抉った。
 ミシミシ…っと、ここからでも小さく聞こえるほどの軋みが聞こえ、そしてその時、初めて騎士が怯んだ様子を見せた。
 もちろん、いつ時からか固まったままの石顔が、苦痛の表情を表に現わすことはないものの、盾を持った左手が地へと叩きつけられ、しばらくそのままの態勢で動かぬままでいるのだ。あの頑丈すぎる石の身体にとっても、ルーエの一撃はかなり堪えたらしい。
「よし、悪くないな!」
 その隙に、気剣を引いた彼女は数歩後ろへ立ち退く。悪くないどころか、かなり渾身の一撃となっただろう。彼女の力と超重量の気剣の硬度に、改めて感嘆の意を漏らさぬわけにはいかなかった。あの破壊力は、並みの人間に簡単には生み出せないものだ。
『……ギ』
 そして、いたって焦るような様相も見せぬまま、やがて女騎士は元の姿勢を取り戻す。いまだに致命的なダメージを与えているようには見えないが、私とルーエの二人からの斬り込みを食らい、騎盾の亀裂は遠目からでも大きく窺えるほど深々と刻まれ、その岩塊のような物体は今にも割れて粉々になってしまいそうだった。
「いいぞ、もう少しだ。私も援護しよう」
 そんな声とともに、後ろから火薬の破裂音が響き、小金の細線が私たちの合間を駆け抜けていった。
 カミラの放った銃弾は女騎士の盾や本体部分に被弾し、パンッ!と、乾ききった衝突音をこだまさせる。
 よく見ると、その数発の弾丸のおかげで、さらに盾の亀裂は広がり、ほんの少しだが、下部分が既に欠けてしまっていた。まさしく、『あと一息』ともいえる状態であることは明らかだ。
「アルーシェ、盾への最後の一撃を!私は奴の槍を抑え込んでみる!」
 誰が先に動くか私が判断するより前に、ルーエンハイドが再度オーズを振り上げ駆け出していった。
 女騎士の注目は早くもルーエンハイドに乗り移ったようで、黒い大剣を掲げて突進してくる彼女に、ゆっくりと身体の向きを合わせる。
 そして束の間の秒数を踏んだ後、騎士はまたも石の槍を、大気を震わす鈍い風切り音を轟かせながら、ルーエに向けて突き出した。
「遅いっ!」
 彼女は始めに攻撃を仕掛けた私と同じように、その動きが来ることを既に見越していたようだ。槍が突かれた直後よりそう叫び、確実に軽くはないはずの気剣とコートアーマーを宿した肉体をやすやすと側方に飛びのかせ、その一撃を余裕を持たせたままかわす。
 その辺りに出る小型の邪妖の数倍はあるように思われる大槍は、再び女騎士の態勢を崩させることとなった。その槍を横に薙ごうとしているのがここからでも見えるが、その前に彼女が先攻した。
「地べたに、沈めっ!!」
 ルーエンハイドは手にした気剣を、これでもかといった速度で騎士の槍目掛けて叩きつける。――ギャイン!――と刃こぼれが心配になるくらいの凄まじい音と、目が眩みかけるほどの火花をそこらじゅうに散らしながら、剣は振り抜かれた。
『………』
 女騎士の右腕は、無言のまま、ルーエの言葉通りに地面へと陥没させられた。騎士は槍こそ手放していないが、これ以上ないほどの隙であることは間違いなかった。
「今だ、行け!絶対しくじるなよ!!」
「分かってるさ、言われなくてもっ!」
 引き下がるルーエに大声で後押しされ、私は血剣を瞬時に確かめて、そうして一気に騎士へと接近した。
『………』
 埋まった腕は想像以上に深いところにあるらしく、身動きひとつ取れていない様子だった。盾は相変わらず胸の辺りに保たれていたが、決して攻撃ができない位置ではない。
 私はずんずんと近づいていく。
 次第に騎士のすぐ側にまで至り、私は迷わず血剣を振り下ろそうとした。
『…………』

 しかし…ちょうど、その時。

 女騎士が、剣で胸を刺し貫こうとする私に、そっと――視線を向けた。
 …そう。『そっと』。それは、今が戦いの最中であることを、半ば忘れてしまいかねないほど、やわらかで――そして優しいものであった。
 石の像であっても、なぜだか私には、そこに感情があるように思えて、ならなかったのだ。
 それが、まるで元々『人であったかのように』。
「…えっ?」
 思わず攻撃の手が止まる。
『……………』
 女騎士は、ただ黙ってこちらを見つめたままだ。だが、もはや、彼女は私たちに抵抗する様相を見せなかった。
 それはどこか、これから来たる『本当の死』を、彼女は受け入れているかのようだった。
 どうして、私は、こんな…こんな風に…。
「アルーシェ、何やってる!!早く盾を破壊してしまえっ!」
 ルーエンハイドの叫び声で、はっと思考が呼び戻された。彼女のほうを見ると、私の妙な行動に対しての疑念と怒りとが混じった顔に、だが少しばかりの困惑をも、感じ取ることができた。それが、彼女に対してのものなのかどうかは分からなかったが。
「…ああ…分かってる!」
 気を取り直し、やはり気のせいだと思い込むことにして、私はルーエンハイドにそう返答する。しかし、それを聞いた女騎士は、ふっと顔をうつむかせてしまった。彼女は、もう私たちに刃を向けることを、諦めてしまったのだろうか。
 …いや、これは。これは、決して私たちへの敗北に『悲哀』しているわけではない。私たちに向けて『憤怒』をきつく噛み締めているわけでもない。ましてや、私たちの行いに対して、強く『慷慨』しているわけでもないようだった。
 最期に見せた彼女のその姿は、今までの全てをやりきったような、ほっと『安心』しきったような、そんなものであったろう。
 気がつくと胸元から少しだけ離されていた盾に、私は血剣を突き立てる。
 幾度もの剣撃を加えられ、ぼろと化していた太古の石の盾は、その一撃でものの見事にパラパラと砕けて散った。
『……』
 今に至っても何の言葉を発することなく、ぴくりとも動かない石の彼女の胸元には、小さく光る、蒼い輝きのようなものがあった。
 どうやら、その部分だけ石像が小さく損傷してしまっているようで、そして、彼女を動かしていると思われる蒼血の核がそこから丸見えだったのだ。あそこまでして必死に胸元を守りたい気持ちも頷けた。
「……そうか、やっぱりここだったんだね。それじゃあ…いくよ」
 私は、そうとだけ、ルーエたちと、そして、うつむく彼女に対しても聞かせるつもりで、ぽつりと一人で呟いていた。

 そして、私は一息に、彼女の胸元を貫いた。
 内側や背中は予想以上に風化していたのだろう、もしくは私たちとの戦闘で更にぼろぼろになってしまったのか、血剣は思いもよらぬほどすっと石像に突き立てられた。
 光る核は破れ、そこからおびただしい量の蒼き血が吹き出し、または流れ落ちる。
『……』
 血に濡れた彼女は、それを甘んじて受けるように祈るようにして左手を胸に当て、そして元あった時と同じように、屈むような姿勢になり、そのまま自らの命が絶えるのを待っているかのようだった。
「…終わったな、怪我はないか?」
 声をかけながらルーエンハイドが近寄ってくる。
「…うん、私は。それにしても、なんだか、不思議な気持ち…」
「…ああ、あの石像か?邪妖にしては珍しいよな、最後は潔く諦めて命を差し出してくるなんてな」
 小さく鼻で笑うルーエには、分かっていないのだろうか。それとも、そんなことはありえないとでも思っているのだろうか。
 だけれど――私は信じたい。あの石像は、彼女は、きっと安らかな『夜』を迎え、ようやく永遠の眠りにつくことができたのだろう、と。
 彼女は、ただの邪妖ではない。おそらくここで、このルースワールで何かがあったのだろう。私には、そうとしか思えなくて仕方がなかった。
………ありがとう………
「…?」
 今、何か…?
「…どうした、アルーシェ?さっきから様子が変だぞ」
「いや、今、声が…」
「…声?おかしいな、私は話していないが。カミラも、もちろん何も言ってないよな?」
「うむ。お前たちの戦いと、それと、あの邪妖の身体の仕組みに見入ってしまって声も出せなかった」
「えっ…だって…」
 と続けようとしたが、次の瞬間、足元から力が抜けて、まるで頭頂の血液が一気に足先まで下降したかのように、目の前が瞬時に暗闇へと染まり、自分の身体が地へと倒れていったのが、音と感触だけで分かった。
「…! 大丈夫か、アルーシェ!」
 最後にそんなルーエの声が聞こえると、今度は耳も何も聞こえなくなっていき、意識は完全に闇夜の内へと取り込まれていった。



『あの二人…』
 私は、いつもの『この場所』で、一人創作に耽っていた。
 創作というのは、いつの日からか無意識のうちに始めることになった、美術作品の製作。それは主に彫刻で、素人ながら、時たま油絵も描いたりする。
 真白い長方形の石に、うっすらと目印となる線を引き、それから無心で殺風景な岩の塊と向き合い、かつかつと懸命に削っていく。
 周りには誰もいない。この美術館は既に閉館されているため、人一人訪れることはない。いるとしたら、夜に現れる邪妖くらいのものか。さすがに化け物がいるすぐ側で彫刻作業は行えないが、昼間の間の大半は、いつもこうして、ここで石を彫り進めている。
 どうしてこんなことをしているのか、未だに自分でもよく分かっていない。しかし、何かを作っている間は、特に忘れてしまいたい過去ほど、考えなくて済むような気がして、たぶん私は――それで独り――無機質な白石を、ただただ意味もなく削っているのだと思う。
『彼女は、本当に、あの子を守れるのかしらね…』
 ただ、それでもやはり寂しいことには変わりなく。いつもぶつぶつと一人言を呟いてしまっている自分もいた。それは、その時々に頭の中でぱっと思い出してしまうこと、やはりそんなことが一番多かった。
『この私でさえ、守れなかったものを…』
ガキンッ…
 手が滑ってしまった。加えられた力の反れた彫刻刀の刃先は、石の中心からすり落ちて、そのまま地面にぱたりと落下する。
 だが、拾う気にはなれなかった。この彫刻は――このままでよかった。というよりも、もう既に完成していたのだ。
『これで…最後。この時にまでは、なんとか、間に合った』
 両手で抱えるほどの大きさの、それなりに厚みのある石版のような彫刻を手にし、最後のパーツが嵌まる箇所にまで運んでいく。それはパズルで言えば最上部、最も右角に位置する部分だった。
『…なかなか、重いわね…』
 木製の梯子を、作品のすぐ脇の壁に立て掛け、倒れないように固定し、私は石版を抱え込んだまま慎重にそれを登っていった。
 そして、一つだけピースが欠けて、白い下地を露わにしてしまっているところに、ぴったりと組み込まれるように作った石版をはめ込む。
 それから梯子を降りた私は、ついに完璧な整合をまみえたその壁画を、真正面から静かに見上げた。
『これは…私たちの戦い。過去に経験を果たしている自分にとって、彼女たちに同じ徹を踏ませるわけにはいかないわ。それが…私の義務であり、最後の、彼女たちへの教授…』
 そう呟くと、突然、胸がちくちくと痛くなってきた。…そう、私にはもう、時間がない。いつこの裏切りが発覚してしまうか、自分自身にもわからないのだ。
 長剣で胸を貫かれた、抱き合う二人の少女たちの姿が、壁画の中央に浮かび上がって見えた。
『…許してね、リュリーティス。これは、彼女のためなのよ』



↓★4/28 更新



 背中に舞い戻ってきた地べたの冷たい感覚と、流れ行く空気を肌に感じ、私はすっと目を覚ました。
「…起きたか。とても、苦しそうだったぞ、何か悪い夢でも見たのか?」
 はじめに目に入ってきたのは、じっと私を見下ろすカミラの無表情な顔と、いかにも不安げに両の眉根を斜めに下げた、ルーエンハイドだった。
「どうしたんだ…いきなり倒れたりなんかして。私にあまり、無駄な心配をさせないでくれ…」
 私の首下に手を差し伸べ支えてくれていた彼女に上体をゆっくりと起こしてもらう。まだ少し頭は重たいが、特に身体へは異常はないようだった。
「ごめん…私にも、どうにもならなかったんだ」
 ルーエの顔をおずおずと見上げながら言う。そして、私は辺りを見渡した。
『………』
 私にとどめを刺された彼女は、今度こそ、二度と動けない身体になってしまったようだ。不気味に輝く蒼い血染めの肉体を、まさしく石の像のごとく、ぴったりと地面に固めている。
「もう大丈夫だ。周囲に邪妖の気配は感じない。それより、あの声の|(あるじ)は…」
「…あっ…!」
 ふっと呟くルーエの言葉で、今まで何のために戦っていたのかを、ようやく思い出した。すぐさま私は地に落ちた腰を上げ、例の壁画、おそらく彼女が作ったものであろう、その裏側を目掛けて駆け抜けた。
「…う…う……ん……」
「リリア…君なのか?」
 半分無意識のうちに静かに『彼女』の名を呟き、私は呻き声の聞こえる壁画の後ろをおそるおそる覗く。胸の鼓動を鎮めようとも、心の臓は容赦なく、私の薄い胸板を内側から突き上げるように叩きつけていた。
(…う……う……ううん……もぉ、プニ…あんたのせいで…ケーキ、なくなったじゃないの…むにゃ…)
(ぷに〜…)
「………へ?」
 だが、視線の先に待ち受けていたのは、予想外の『二匹』…だった。
「あれは邪妖、だな」
「リリアーナじゃない…?」
 後ろの二人もそれを目に収めたようで、落胆したような、しかし半ば呆れたような声で小さくため息をつく。
 そう、彼女たちの言葉通り、それはリリアの声ではなく、邪妖の――しかも二人には分かっていないだろうが、その二匹は意識を保ち言葉を話せる『従魔』だったのだ。
(リリアーナ、どこにいるんだ…?)
 ここで見つかってくれれば一番良かったのだが、何事も、そう上手くはいかないようだ。ここから再び『彼女』の手掛かりを探り当てていかなければならない。そこで私は咄嗟に思いついた。
「…待って。あの子達、言葉を話せるみたい。何か知らないか聞いてみよう」
 振り返ってルーエンハイドたちに提案を促してみる。
「そうか、やつら従魔か。それもいいだろう、あわよくば仲間に入れてしまうのも悪くはない話だ。観察対象が増えるのでな」
「そういえば、アルは、邪妖語を理解できるんだったな…いまだに納得できない話だが、聞けるモノには聞いておいたほうがいいだろうな」
「分かった、ありがとう」
 概ね賛成の意を得られたので、私はひとまず寝ているらしいその二匹を起こすべく、そっとその側へと近づいていく。
(…う…う…)
 人を呼び止めるような呻きは、どうやら小さな人形の形をした従魔のせいらしかった。人形は、なにやら青い色をした、クッション?のような従魔の上に横になり、あたりも憚らずマイペースにゴロゴロとしている。…それにしても気持ちが良さそうだ。こんなに寝言を呟くということは、よっぽど熟睡しているのだろう。
「ちょっと君たち…いいかな? お願い、起きて〜」
 非常に小柄な少女の人形の肩と、青いプニプニとした謎の物体をさすりながら声をかけるが、二匹とも、一向に起きる気配はなく。今度は少し強めに揺さぶると、薄らと開けた瞳をパチパチとさせて、二匹は目を覚ました。
(…もう、何よ。せぇっかく、おいしいチョコクッキーを食べれそうなとこだったのに!…この、プニってやつは…あいかわらず食い意地だけは…って、えぇ?!あんたたち、何者よ!!)
(…ぷに?)
「…あはは、ごめんごめん。驚かせちゃったかな」
(お、驚かせたもなにもないわ!顔も名前も知らないのに馴れ馴れしくなでなでしてくるなんて…!最近また幼女誘拐事件が多発してんだから、どうもこうもないわよ!まったく、なんてやつなの!育ちが知れるわ!)
「そ、そこまで言わなくても…」
 どうやら人形の少女は私の不躾な所作にカンカンな様子だ。なんとか誤解を解いてもらうため、もう一匹のクッションに目を向けるが、彼?彼女?は不思議そうな顔をして私を見上げてくるだけだ。
 私が対応に困っていると、ふいに怒りに震えていた人形が口を開く。
(なによっ、こいつが気になるの?まぁ、おバカっぽい面してるものね。こいつはプニ。私の|下僕(げぼく)であり、そして唯一無二の動くクッション!そこだけは本当に最高の奴だわ!それ以外はもう本当にどうしようもないけど!ねっ、あんたもそう思うでしょ?)
(ぷに〜…)
 そう言われて思いっきり抱きつかれたプニ?と呼ばれた物体は、口だと思われる部位に悲しげな表情を浮かべ、だが健気なことにすぐに笑顔を取り戻し、私に屈託のない表情を見せてきた。クッションながら、色々と苦労していそうである。普通に可愛いし、そこまでいう必要もないと思うのだが…人形の彼女は口がとことん悪い。
「あはは…そう、かもね…?」
 とりあえず、プニの顔色がまた暗くなったのは気のせいとして、ご機嫌取りに同意の言葉を述べておく。たいてい、こういうタイプの性格は図に乗りやすい…ごほん、実は素直な人が多いので、頷いておけばなんとかなるものなのだ。
 そしてまさに、それが彼女にも的中することになった。
(まあ!やっぱりそうよね!他の人間に聞いてやると、『そうでもないかなぁ』とかって甘ったれたこと言うものだから、思わず足蹴してやりたいくらいだったけど、あんたはどうやら違うみたいね。うんうん、気が合いそう!)
「あはは…はぁ…」
 心の中ではそう思ってたなんていまさら言うこともできず、更にプニの表情が暗澹と化してきたのに見て見ぬフリをしながら――後で謝らないと…――とにかく今は彼女の機嫌を損ねないようにすることに必死だった。ここで見限られては今後に影響する可能性もありうるのだ。

【作者コメント】
ここまで読んでくれてありがとう。この作品を今後更新する予定は、未完ですが、今のところ一切ありませんが、もし楽しんでいただけたのなら、嬉しい限りです。本当にありがとうございました。

よるのないくに2: Another Story

ここまで読んでくれてありがとう。この作品を今後更新する予定は、未完ですが、今のところ一切ありませんが、もし楽しんでいただけたのなら、嬉しい限りです。本当にありがとうございました。

よるのないくに2: Another Story

数年前に書いた、ゲーム『よるのないくに2』をモチーフとしたオリジナル小説を、再アップしました。未完の作品ですが、今後更新する予定は一切ありません。(なお、あくまで『オリジナル』の小説です。原作とは、設定や名前は一緒でも、そのクオリティには雲泥の差があります。ご注意してお読みください。)

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-23

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. プロローグ
  2. チャプター1: 紅の乙女、運命の白百合、激昂の黒狼
  3. チャプター2: 月の居城、生贄の祭道、妖紅の満月
  4. とある紅月の一夜にて
  5. チャプター3: 燻る紅焔、蒼血の覚醒、欠けゆく大月
  6. 暗闇からの一報
  7. チャプター4: 忘れられた廃都、鋭刃の刺客、伝説の半妖