サクランボ

悲しい恋の物語

  桃子さん(さくらんぼ)

                        
 僕はステラの前で今日合コンする女の子たちを待っているとき、何年ぶりだろう、桃子さんにそっくりの女性が歩いてきて僕らの横を通り過ぎたことをもう薄暗くなった人混みの中で朧ろに気づいた。僕は桃子さんが通り過ぎたのだと思っていた。そして桃子さんではなくて桃子さんによく似た女性をクリスマスイブの夕暮れだから見まちがったのだろうと勘違いをしていた。そして僕は桃子さんがステラの前に留まり続けていることを一分ほどしてぼんやりと辺りを見回したときに気づいた。でも僕は桃子さんではないと思っていた。僕はまだ桃子さんに似た別の女性だと思っていた。
 やがて僕らが丸山のファニービーチへ向かって歩き始めたとき、僕は何度か振り返って桃子さんによく似ていると思っていた女性が僕らと同じ方向に歩いているのを知って不思議な気がした。僕の頭は夕暮れであることもあって朦朧となってきていた。それに人混みがますます僕の頭を朦朧とさせていた。
『夢のような、夢のような話ね。』
『ええ、でも僕は桃子さんを好きでした。中学3年の頃からずっと。僕はひたすら桃子さんを思いつづけてきました。そしてようやく桃子さんのことを忘れかけていたこの大学二年の冬に桃子さんと偶然巡り会えるなんて。運命の、不思議な導きのような気がしてなりません。
 桃子さんは僕をいつまで苦しめつづけるのでしょうか。僕は桃子さんゆえに浪人までして目指していた九医を蹴って毎日桃子さんと会えるようにと長医にしました。そして大学に入ってまもなく僕は九医に行ってれば良かったとものすごく後悔するようになりました。そして僕はすでに大学一年のとき教養留年が決ってしまいました。』
 クルマは蛍茶屋の坂を登り始めようとしていた。思い返されてくる僕が高校三年のとき(桃子さんが高校一年のとき)毎日同じスク—ルバスで通ったこと。なぜかいつも僕が座っているところの横に彼女が立っていて僕はとても幸せだったことを思い出していた。
『過去とは、いったい何なのでしょうか。僕は過去とそして思い出とを別々に考えていたのです。僕は過去を美しく塗り替え、そして楽しい思い出に浸っていました。僕は幸せでした。今日、桃子さんと出会って僕の思い出がすべて僕の空想にしか過ぎなかったことを知るまで。僕の築いてきた空想の中の美しい思い出は音をたてて崩れ落ち、僕は崩れ落ちた僕が今まで住んでいた美しいお城の瓦礫を前にして茫然と立ちすくんでいるようです。僕は今日、桃子さんと出会わなかった方が良かったのです。桃子さんと今日出会ったことによって僕の胸の中の空想の美しいお城は崩れ落ちてしまいました。僕の胸の中の美しい思い出はすべて僕の空想だと知ることによって。』
 クルマは本河地の水源地の横を走っていた。桃子さんは丸い大きな瞳で僕を見つめてうなづいた。午後11時のタクシーの闇の中で桃子さんの瞳は満月のように輝いていた。
『中三の頃、僕は中三の頃から桃子さんを好きでした。小学校の頃、家がすぐ近くだったからあのときから僕は桃子さんを好きでした。でも中三の頃、桃子さんが中学一年でよく学校で桃子さんの姿を見かけるようになりました。秋のことでした。それまで僕の心は桃子さんのほかの女性に傾いたり迷っていました。でもたしか11月か12月頃から僕の心は決定的になりました。ときどき廊下などで見かける桃子さんの大きな瞳と姿。小学校の頃から桃子さんの姿は2つ年下の理想の女の子として常に僕の5本の指の中に入っていました。でも学年が違うためもあって桃子さんのことは半ば夢想めいた僕の理想の女の子として位置しているだけでした。でも廊下などでときどき見かける桃子さんの姿の美しさは僕が中三の12月頃に決定的に僕の心を支配してしまいました。そしてそれから何年経ったでしょう。高校時代も桃子さんの存在は僕を支配しつづけけてきました。高校一年、二年とほとんど桃子さんの姿を見ることはありませんでした。また高校一年のとき同じクラスの女の子に少し恋焦がれたときもありました。でもそのときでも僕は桃子さんのことは忘れてはいませんでした。桃子さんのことは僕の理想の女性像としてそのときでさえ僕の胸のなかにありました。
 高校二年、このときは空白の時でありました。僕は勉強に燃えてましたし毎週魚釣りに行ってました。同じクラスの女の子から少し好かれたこともありましたが付き合うまでには至りませんでした。
 高校三年のとき、あの桜の散り尽きようとしているとき、桃子さんがスク—ルバスに乗ってくる姿を見たとき、久しぶりに見た桃子さんの姿を見て僕の心は大きく揺れました。それから一年間のスク—ルバスはどんなに楽しかったことでしょう。結局一度も桃子さんとは口をききませんでしたけど、勉強に明け暮れていたあの一年、僕は毎朝桃子さんの姿を見ることができてどんなに慰められたことでしょう。とくに高校三年の後半は吃りがとてもひどくなってほとんどろくに口もきけなかった僕でしたけど毎朝見かける桃子さんの姿はそんな僕の心を慰めていてくれました。』
 クルマはもう御洗水の大きなカーブ曲がりトンネルの入口にさし掛かっていた。桃子さんは無言でつっかえつっかえながら喋る僕を大きな瞳で見つめているきりだった。
『浪人の頃、浪人の頃、僕は桃子さんを2度ほど見かけたでしょう。一度は8月の頃だったと思います。いつも駅前のターミナルから急行バスに乗っていた僕は桃子さんがクラブの帰りか補習の帰りか諏訪神社前のバス停に一人で立っているのを見かけました。でもそのときはほんの一瞬で僕は幻を見たような感じがしたほどでした。そしてもう一回、今度は10月のおくんちの8日のことでした。僕は今度はじっくりと桃子さんを見ることができました。夕方でした。僕がいつものように図書館で勉強しての帰りでした。バスは止まりました。そして諏訪神社前のバス停に一人で立っているあなたの姿を今度は充分に見ることができました。そしてその夜か次の夜ぐらいに僕はあなたに3度目の手紙を、ラブレターを書いたのでした。今も焼き付いています。浪人の10月8日に見たあなたの姿は。寂しげに一人ぽつんと立っていたあなたの姿は。そしてそれから僕は今日まであなたの姿を見かけることはできなかったのです。大学に入って2年目の今日まで、2年2ヶ月余り僕は桃子さんを見かけることはできませんでした。そして僕はもう桃子さんのことを少年の頃の美しい思い出として忘れかけようとしていました。僕は今日、合コンに来なかったら良かったのです。そうしたら、そうしたら僕は桃子さんのことを少年時代の美しい思い出として死ぬまで永遠に胸に中に秘めておくことができたのです。僕は今日来なかったら良かったのです。』
 僕は泣き出す寸前だった。クルマはトンネルの中に入っていた。トンネルの中のライトが俯く僕と大きな瞳でじっと見つめている桃子さんを照らしだしていた。
 クルマはトンネルから出ようとしていた。僕は俯いていた顔を上げ、桃子さんを見て半ば微笑みながら今までの僕の人生が幻だったというような、別人になったような、諦めきった様子で喋り始めた。
『小学校の頃のことを憶えていますか。僕とあなたが初めて喋ったときのことです。あれは僕がまだ日見市場の2階に住んでいるときのことでした。僕がたぶん小学校六年生の頃だったか、いえ、もしかしたら僕がもう中学生になっていたときのことかもしれません。僕があなたの店にカメラの現像を頼みにいったときだったと思います。僕が『ごめんください。』というとあなたが出てきました。そしてあなたは僕にこう喋りかけました。『三船敏郎というのでしょう。市場の2階に住んでいるんでしょう。』
 フィルムを袋の中にいれながらカウンター越しにあなたの姿と声は今でもはっきりと憶えています。そして僕はあのとき初めてあなたの口元の大きなホクロに気が付きました。そして僕の学年にはそれに一つ下の学年にもとても居そうにないほど美しくて魅力的な女の子のあなたのことを僕はしっかりと胸に焼き付けました。』
 クルマはトンネルを出ていった。そうして僕と桃子さんが育った日見が眼下に見降ろせる所に来た。
『僕はたしか小学校三年ぐらいのとき、夕方二階の窓辺に腰掛けて外をぼんやりと見ているとき、市場の横の少し登り坂になっている道をあなたがミニスカート姿で歩いていっているのを見たのが最初だったと思います。目がとても大きくてそのミニスカート姿がとてもとても美しくて。
 それ以来僕はあなたを二つ年下のとても美しい女の子として、僕の理想の女の子として僕の五本の指の中にいれたのでした。思い出せばあの頃は辛い毎日でした。僕の家の店は夜逃げ寸前でどうにかやりくりしていて家の中では父と母の喧嘩が絶えませんでした。そして僕は学校で蓄膿症のことで毎日とても苦しんでいました。八方塞がりだと思いました。そして僕は小学三年の二学期から自ら進んで創価学会のお祈りを始めたのでした。小学三年の一学期には4から2までしかなかった通信簿の点数が二学期には一気に5から3までに上がりました。たしか合計で5つぐらいも上がったと思います。
 僕が小学四年の頃から僕の家の店は次第に順調になっていきました。そして僕が中一の11月3日に今の家を建てて引っ越したのです。』
 クルマは芒塚の道を大きく曲がりながら下っていっていた。僕はもう桃子さんの方を見ていなかった。ただ淡々とクルマの前に広がる自分が小さい頃から育った懐かしい日見の町を見降ろして喋っていた。
『僕は幸せでした。中学・高校と、そして一年間の浪人のときと大学に入ってからの2年近く、あなたの面影を僕はずっと抱き続けて毎日を、苦しい病気との戦いとの毎日を、耐え抜いてこられたのだと思います。
 あなたの美しい面影は孤独や苦しみの中にある僕に勇気を与え続けてくれていました。浪人の頃、2回見たっきりでそれ以来見ていなかったあなたの姿。21歳になったばかりのクリスマス・イブの夜にあなたと出会えた僕は幸福者なのかもしれない。悲しくふられてしまった僕だけど。
 高校の頃、厳しい嵐のような日々の連続のなかで、高一、高二と僕は桃子さんをたしか一度も見なかったと思います。ただ一度だけ、疲れ果てて帰っていた学校帰り、日見公園の前に誰かを待っているように立っていた----それも美しく化粧して、そして綺麗な暖かい服を着て----女の子の姿があなただったと錯覚したような----それとも本当にあなただったのか----孤独な僕には解りませんでした。
 高三の後半からは喉の病気のことで腹綿の煮えくり返りそうな毎日が始まりました。高三の前半、本当に楽しかった。毎朝、桃子さんと同じスクールバスに乗れているだけで僕は幸せでした。高三の後半、僕はこの喉の病気に罹らなかったら中三の頃から女の子と付き合えてて、そうして幸せな四年余りの日々を送れたのに…と思っていて毎日悔しくて腹綿が煮えくり返りそうで、またそのためもあってその悔しさをバネに、『自分と同じような病気で苦しんでいる人たちを救ってゆくんだ。』と思って勉強に懸命に打ち込みました。そしてストレスが溜って、高三の後半はものすごく吃りがひどくなって友だちとも学校帰りなんか喋れないくらいでした。でも僕は栄光が近かったから----医学部にもうすぐ入れる。それに、僕は九大の医学部に行こう。僕は英雄になるんだ。みんなからチヤホヤされたい。----  僕の心はもう医者を目指し始めたときの純粋な心から、もう自分の野心のための勉強へと変わっていました。そしてたしか毎日のように勤行・唱題のとき、『野望でなくって、僕と同じ病気で苦しんでいる人のため。』と心を変えるように反省しながらも、やはり半分は野心のため、そして半分は医者を目指したときの純粋な心で勉強をしていました。
 桃子さんの姿。そして桃子さんを含めた日見中出身の7人の二つ年下の可愛い女の子の姿は、一度も喋ったことはなかったけれど、その頃の辛かった僕を慰めてくれていました。もし桃子さんたちがいなかったら僕はもう発狂していたかもしれない、と思っています。
 幸せでした。あの頃は。栄光を夢見て幸せでした。桃子さんたちの姿を思い浮かべながら僕は必死になって勉強していました。高校三年、そして浪人の頃と。
 でも挫折するなんて、こんなに挫折するなんて思ってもいませんでした。僕は高校三年の終わり頃、頭がおかしくなってしまいました。頭がおかしくなるのがあと十日遅れてたら僕は現役で九大医学部に入れてて、中学・高校と喉の病気などで苦しみ抜いてきたことが却って僕にとってプラスとなったのに、と思って。
 あと十日、あと十日遅れていたら。僕はあまりに勉強し過ぎたし、お祈りもし過ぎた。』


 一度でいい
 君が僕に抱かせてくれるなら
 僕は君につきまとうことをやめよう
 一度でいいから抱かせてくれたら
 僕の少年の頃からの夢はかなえられて
 そして僕の過去はサクランボのように実を結び 
  僕は自分の過去に笑みをたたえて手を振るだろう

 僕は少年の頃から 毎晩君の躰を夢想してきました
 君の 彫像のような肉体を 毎晩のように夢想してきました
 テニスをしている君の肢体のことを また 小学校の頃 毎日のように網場プールに泳ぎに来ていたあの濡れた水着姿のことを あの胸のふくらみを 夢想してきました

 一度でいい 一度でいいから君を僕の胸の中に抱きしめさせてくれれば そしたら僕はもう過去からの懊惱から解放されて 新たに人生を歩んでゆけると思うのだけど


                               完
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サクランボ

悲しい恋の物語

サクランボ

悲しい恋の物語

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-06

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