どくだみの家

どくだみの家

朝から鉛色の雲がドヤ街の上に居座っていて今にも一雨来そうだったが、それで無くても対岸のじめじめした街のすえた空気が少し離れたこの辺りにまでも漂って来る様だ。由紀夫は狭い改札を出て仕事場への道を歩いていた。
湾へ続く河口を挟んでこの街の両岸は様相が全く違う。有名観光地の元町と、一方は昔から港湾労働者の多くを呑み込んでいる寿町のドヤ街、土日になれば家族連れやカップル、初老の夫婦、数匹のペット犬を乳母車に載せた身なりの良い老婦人など大勢の人で溢れる元町と、仕事も無く自販機の釣り銭口に手を入れながら辺りを徘徊する男、ただぼんやりと空を見上げ、立ち飲み屋の前のビールケースに座り、糖尿病で腫れ上がった脚を放り出している老人、定食屋の前で何かぶつぶつと独り言を言っている髪の伸びた中年の男、ゴミを狙って電線の上に群がるカラス、街の隅々まで何かがべっとりとへばり付く寿町。この両方の風景を由紀夫は日々見ている。
川と並行して元町とは反対側の駅の高架をくぐると昔の商店街通りがあり、由紀夫はいつもこの道を仕事場へ通う。ひらがな商店街とレリーフが入った街路灯が道の奥まで続いているが、商店らしきものは入り口にある一昔前には繁盛した様な派手な色褪せた朱色の装飾のある中華料理店くらいだ。
遠の昔に店仕舞いし、かすれた文字で牛乳店と書かれた家、打ちつけられた板に学習塾と消えかかる文字を揚げたままのしもた屋、日焼けしたテントの惣菜屋、煤けた格子戸の畳屋。そんな通りを暫く歩くと川へと向かう十字路があり、一方の道が小さな神社の石段へと続いている。この町に通って2年が経つ由紀夫は月始めの朝、仕事場に行く途中には必ずここへ寄りお参りをする。地元ではお諏訪さんと呼ばれるこの諏訪神社の歴史は古く、建てられたのは江戸時代と案内に書かれていたのを由紀夫は以前見た記憶がある。狛犬の片足が欠けているのが、大震災を越えてきた歳月を物語っている。鳥居の前で一礼した由紀夫は石段を上がった。
階段といっても大したものでは無く、その上には境内とは言えぬ狭い猫の額ほどの庭に手水場、おみくじを結ぶ木柵だけがある。由紀夫は賽銭箱にいつもの五円玉を入れた。いつか誰だかが、ご縁が続くようにと教えてくれたのを由紀夫は今だに守っている。人の手垢で黒くなった綱を小さく振り、渇いた鈴音を聴くと、由紀夫は一礼し手を叩き両手を合わせた。何時も願い事は一緒で、妻、子供達と孫の安全だけを祈っている。
父親の破産、夜自宅を訪れる借金取りの影に怯える母、夢中で運動部とバイトに明け暮れ、時にはやさぐれた大学時代、妻とめぐりあい恋愛して世帯を持ち、子供二人が生まれ、幸せや豊かさを求めサラリーマンに終止符を打ち独立した。それから16年,続けてきた会社経営はバブル崩壊後の銀行の貸し剥がしにあって頓挫し、倒産した。山手の家を買い、家族での海外旅行も重ねて何不自由なく過ごした裕福な家族の暮らしも一変した。何もかも全て失い色々な仕事を繰り返しながら生活を支えてなんとか子供達も独立した。世の中の辛酸は一通り舐めて来た由紀夫だが、今は障害者施設での夜勤と昼間はマンション管理の仕事を繰り返しながら、連れ添って40年の妻との二人暮らしはさしたる波風も無く贅沢は出来ないが平凡な日々を過ごしている。由紀夫は質素で単調だが今の暮らしにそれなりに喜びを見つけていた。小遣いの中から釣り道具を集めたりして近場の埠頭へ出かけたり、妻が好きなアパートのベランダ園芸を楽しんだり、妻も毎月の給料の中から僅かな貯金をして旅行にも行っていた。高齢者の日雇い仕事をする人々の中には上場企業の役員まで登り詰めたが奥さんの脳梗塞で早期退職し今でも看病をしながら勤めている人、国立大学を出て都市銀行の支店長にまでなり、それなりに上り詰めて定年退職したが、度重なる銀行統合で半ば強制的に買わされた自社株は紙屑同然で自行からの借り入れだけ残り、積み上げてきた企業年金も受け取れ無ず日雇い仕事をしている人もいる。
会社経営者、優良企業の役員等、それぞれ坂の上の雲を目指して来た男達のその果てにあるものを今実感している連中が多いのだ。ある小説家が語った、
たゆたえて沈まず、その言葉が妙に由紀夫の日々の中に浮かんでいた。
お参りを済ませた由紀夫は石段の方に向き直り、アルミの灰皿が置いてある狭い窪地でタバコを吸いながら、表の道を駅に向かう人々を煙を燻らせて眺めていた。通勤電車に遅れぬ様に急ぎ足で歩く途中、神社の方へ向かって一礼していく若い子がいたり、歩みを止めて深々と頭を下げる年配者もいる。
そんな人々もこの街には住んでいると思うと何かほっとする気分になる。
仕事場へ向かおうと石段を降りる由紀夫は、中央にある手摺に捕まりながら一歩一歩上がってくる人とすれ違った。白髪の婦人だった。
「おはようございます」とその人が顔を上げて由紀夫に挨拶した。「あっ、おはようございます」と顔を覗いて返した由紀夫はその人が自分よりかなり歳上なのが分かった。
その人は階段を登り切ると腰を曲げて立ち止まり肩で息をしている。見た事無いけどこの町内の人かな、と由紀夫はその人を見上げた。
乾いた鈴の音を背後で聴くと、表通りに出て由紀夫は仕事場へ向かって歩きはじめた。
道の先は大通りと交わっている。そこは市内でも一二を争う急な坂だ。山の手へと向かう坂道には
大きな陸橋があり、その見上げる高さは市内でも唯一で、ここの欄干から身を投げたものも多い曰く付きの場所だ。最近は高い鉄柵が作られたが、朱赤に塗られた空に被さる様なその橋脚は、死者を弔う巨大な鳥居にも似ている。
その大通りと商店通りの角に建つ10階建てのマンションの管理人が由紀夫の仕事だ。マンションとは言ってもバブル期に流行った投資型のアパートみたいなもので、中華街や風俗店が程近いここは、中国人やインドネシア系の単身の住人が殆どだ。
由紀夫は夜間の警報装置を解除して狭い管理室に入ると制服に着替えた。
まずはゴミ庫の点検が日々最初にやる仕事だか
住人の多くが外国人の為、ゴミ出しのルールは守られていない。分別がされていなかったりする事は
日常茶飯事で、中には生理で血塗れになった下着を
そのままビニール袋に突っ込まれたりもする。
大通りの反対側は各部屋に狭いベランダが着いていて、日当たりの悪いそこにはいつもたくさんの派手な女性の下着が干されていたり、昼間から薬を飲んだ様な定まらない目で派手なパジャマ姿で郵便受けを覗き込む女を見ると、ここに住む住人がどんな職業が多いのかは、由紀夫には概ね想像が出来た。

高速道路の下、川沿いの細く暗い道に掛かる橋を渡ったそのすぐ先には淀んだ空気のドヤ街が広がっている。収集日には空き缶集めの自転車の年老いた男が、丸めた背中で何時も表のネットの中を弄っている。
そんな殺伐とした仕事場だが、由紀夫を和ませてくれる光景もある。
大通りを挟んだ向かい側の路地を入ると、その辺りには港町に多い船具の小さな町工場が点在しているがどこもシャッターが下ろされていて、工場に機械の動く音は聞かれ無い。町内への入り口に小鳥屋があり、ガラスの引き戸の上には小嶋小鳥店と書かれた看板が上がっている。
由紀夫はマンションの通路から通りを隔てた小鳥屋を見ると、朝になると割烹着姿の老婆が店から出てきて、電線に群がるカラスへ空き缶を放り投げている。何度も何度もそれを繰り返しているその姿が面白く、以前通りを渡って向かいのコンビニに行くついでに小鳥屋の店先で聞くと「あいつら、うちの小鳥を狙ってるんだよ、この子をね」と割烹着のポケットに止まっているオカメインコを見せた。黄色のブルーのインコが黒い目をキョロキョロと動かしてる。
「おばさんとこ、何年くらいやってるの」と聞く由紀夫に「昭和35年からだね」とぶっきらぼうな答えがかえった。由紀夫は小学校3年の頃、小鳥を飼いたくも買ってもらえず、小雀や縁日のひよ子で我慢していた事を思いだした。
店を覗くと数羽のカナリヤとセキセイインコとつがいの十姉妹だけが籠に入れられている。
小学生の頃父親の親族がカナリヤを繁殖させていたのが由紀夫の記憶の中に浮かんだ。川崎の工場地帯の二階家、粗末な座敷で籠に入れられ商売道具にされた沢山のカナリヤが窓から差し込む西陽に染まって黄金色になり唯さえずっていたのが哀しかった。由紀夫は物干し場に上がりコンビナートの煙突だらけの街を見ていた。そこは終戦を過ごした貧しい大人達の街だった。
「おばさん独りでここやってるの」と由紀夫が聞くと「そうだよ、亭主はとうに死んじゃってさ、息子がいるけど、今はそこらで白タクやってるよ」と言った
「旦那さん、小鳥飼いなよ」と言う老婆に
由紀夫は戸惑った。そして店先の金魚をみて
「小鳥は無理だけど、この出目金2匹もらうは」と
言った。ついでに由紀夫は聞いてみた
「そこの商店街って昔はどんな風だったの」「あーひらがな商店街のことかい、ちょっと待ってな」と言うと店の古い戸棚から出してきたのは昔の商店街の案内図だった。そこに描かれていたのは今では想像すら出来ない沢山の商店だった。
魚屋、米屋、八百屋、酒屋、駄菓子屋、豆腐屋、惣菜屋、おまけに刃物研ぎ屋などが道の両側を埋めている。今残っているのは商店街の中程にある銭湯だけだ。「へーこんなに店があったんだ」と地図を眺めながら由紀夫が言うと「お諏訪さんのお祭りの時なんかこの通りに沢山の夜店が立って、そりゃ賑やかだったよ」と又電線を見上げて老婆が言った。

仕事を終えた由紀夫は駅への道を歩いていた。
夕暮れの通りに人影は無い。朝暗いうちに起き、昨夜妻が作った弁当と水筒を持ち出かける。そして又この道を帰る。何処に寄るでも無く、酒場に入るでもなく、何も変わらない繰り返しの日々、還暦を遠に過ぎ仕事を終えた疲れといつもの寂寥感が身を包み込む。
銭湯の前のベンチに座って煙草を吸いながら
湯上がりの牛乳を飲んでいる男がいる。
その時、路肩の老婦人が由紀夫の目に止まった。「あれ、もしかして」と立ち止まり見つめると、今朝神社の階段ですれ違った白髪の老婦人だった。その人は家の玄関先にある小さな花壇を膝を曲げて覗いている。
こんにちは、今朝会いましたよね、と由紀夫が言うと、そうでしたかねと少し怪訝な顔をして金縁の丸眼鏡を掛けたその人が顔を上げた。細面の白い顔、皺はあるが整ったどこか品のある顔立ちだった。「この花はね、どくだみなんですが、珍しい八重なんですよ」といって座りながら白い八重の花を指差した。どくだみか、つまらない花だと思う由紀夫にふと幼い頃の思いが浮かんだ。
北鎌倉に暮らしていた頃、狭い庭にはどくだみの花が時期になると咲き群れた。由紀夫はどくだみが嫌いだった。その酷い匂いより、白いどくだみの小さな花が日を増す毎に増え続けて、やがてそれが庭一面に広がっていくのが嫌だった。学校友達の家にはチューリップとかダリアとか綺麗な花が咲いているのに、なんでうちの庭はどくだみだらけなんだと。
夜、縁側から見る白いどくだみの群れは、きっと闇夜から家の中を窺っているのだと思った。
どくだみの花は父は現場暮らしが多く、母と二人だけで暮らす山間の粗末な家を思い出させるだけだった。
「どくだみ、苦手なんですよ」と由紀夫が言うと
「どくだみが好きな人なんて、なかなかいないんじゃない、でもこの八重は特別ね、これが咲く家には幸せが来るのよ」とその人の以前から知り合いの様な話し方が由紀夫には心地良かった。
「へーじゃあ、お姉さんは幸せなんですね」と
由紀夫が言うと、「私が、そーですかねー」と言った。
じゃ又、と言って軽く会釈をし、歩き始めた
由紀夫の後ろ姿を、腰を上げたその人が見ていた。

翌朝も仕事場へ向かう途中、由紀夫は又、その人に出逢った。「おはようございます」と言うその人は
男モノのステッキをつきながら犬を連れていた。
「おはようございます、可愛い犬ですね、何と言う種類ですか」
「この子はキャパリア.キングチャールズ.スパニエルと言う犬種なのよ、もうおじいちゃんだけれどね」と座って犬の首筋を撫でた。
白に亜麻色の毛の耳の長い小型犬だった。
「名前は何と言うんですか」「ヘクターよ」
「へー何か哲学者みたいですね」
「ギリシャ神話に出て来る英雄よ」とその人は微笑んで言った。
この下町の人じゃないな、その振る舞いと話し方に由紀夫はそう感じた。
「あのお名前は」
「あっ石塚貴子です、貴方は」
「中島由紀夫です」
「あら一文字違ったら大変なお人ね、お仕事はこの近く」由紀夫に尋ねた。
「ええ、この先の角のマンションです、そこで管理人を」由紀夫はいつの間に貴子さんと肩を並べて歩いていた。ヘクターの歩きが少しおかしく、貴子さんに付いて来ず足を踏ん張った。
「しょうがないわね、ヘクター」と貴子さんは
犬を両手で抱き上げた。
「最近、足が弱って歩きたがらないのよ、困ってるの」と言うので「それじゃ大変でしょ、この先に確か犬散歩させますって言う貼り紙みましたよ」と伝えた由紀夫は、何故か貴子さんが独り身の様な気がしていた。貴子さんにはこの辺りの路地で見かける特有の年寄り臭さが感じられなかった。
「あらそうなの、そんな方がこの町にもいるのね」
更に貴子さんの言い方が如何にも他所から来た人を感じをさせた。暫く歩くともう二人は貴子さんの家の前まで来ていた。「じゃ僕は仕事に」と言う由紀夫にあら、ではまたね、ごきげんよう、と貴子さんは言った。昨夜の雨で八重のどくだみは貴子さんの花壇一杯に益々白い花弁を広げていた。

由紀夫がマンションに着くと、管理室の中の警報が鳴っていた。急いで鍵を開け、警報盤を見ると漏水の表示が出ている。2階のあの女の部屋だった。
直ぐに表が騒がしくなり、由紀夫は階段を駆け上がると2階の外廊下が水浸しになっていた。
女の部屋の玄関チャイムを鳴らしたが、応答が無い。ドアに鍵が掛かっておらず、玄関も水浸しだった。小さなキッチンのシンクから溢れた水道水が
部屋中を水浸しにしている。
「何だこれは」蛇口を止めた由紀夫が目にしたのは、シンクの中の大量の野菜の屑、食べ残した弁当の中身、汚れた雑巾が集まりシンクの排水穴を塞いでいる光景だった。狭いリビングに置かれた簡易ベットに、派手な下着の他は何も着ずに下肢を開いて口を開け天井を向き、目を閉じて寝ている女がいた。
由紀夫は側に寄り、女の肩に手をかけて激しく揺さぶったが起きる気配は無い。サイドテーブルには錠剤が全て出された薬のパッケージが散乱している。女の系動脈に指を当てると微かな脈があった。
睡眠薬だ、未だ生きてる、咄嗟に思った由紀夫は胸の携帯を出し119を押した。
救急隊のストレッチャーに載せられ酸素マスクをあてられた女が玄関ホールから出て行く時、力無く垂れ下がる血の気が引いた女の青白い腕が由紀夫の目に焼き付いた。階下の部屋に迄流れ込んだ水はその天井を破り床まで水浸しにさせていた。 
「あのアマ、死ねばいいわ」とそこに住む何時も夕方廊下の掃除用コンセントから長いコードで電気を盗んでいるという噂の男が吐き捨てる様に言った。
夕方に刑事と警察官、背中に虎の刺繍が入ったジャンパー姿の不動産屋らしい3人が管理室に来た。
刑事が女が搬送先の病院で死んだ事を由紀夫に告げた。
女はフィリピン人で以前ドヤ街の食堂で働いていたらしいが、夜は自分の部屋で客を取っていたと瞳の見えない細い目付きで刑事が言った。
「管理人さん、まったくよ、誰が弁償すんだよ、
あの薄汚ねえ部屋には金目のものなんかこれっぽちも無かったよ、押し入れにはエロ下着とコンドームの箱しかなかったぜ」と不動産屋の男は、嫌気のさした口調で吐き捨てる様に由紀夫に言った。

梅雨入りを告げる雨が朝から路面を濡らし、所々に出来た水溜まりを避けながら若い女が数人、歩道を駅へ向かって由紀夫の横を通り抜けていく。
閉まったままの雨戸の軒下で、昨夜開いたサボテンの大きな白い花が晒し首の様に雨に打たれて萎んでいた。
「丹下丸か」その花の名前を思い出しながら歩く由紀夫の傘越しに家の前の花壇にしゃがんでいる貴子さんを見た。
「貴子さん、おはようございます、傘もささないで
どうしたんですか」と言う由紀夫に
「あら、中島さん、今日もお仕事」と貴子さんが
顔を上げた。「どくだみが雨でどんどん又咲くのよ
この子達、雨が好きね」と撫でるように白い花の上に手をかざした。皺は有るが指の細い綺麗な手だなと由紀夫は思った。
中島さんは、お昼はお弁当なの、と突然尋ねる貴子さんに「ええ、家からいつも持ってきますよ」とやや照れながら由紀夫は答えた。自分で作るのと問われ「いや、家内が」と言うと「まぁ、愛妻弁当なのね、良い事」と腰を伸ばしながら貴子さんは微笑んだ。
「外で食べるより安上がりなので」と言う由紀夫に「良かったら一緒に食べましょう、今日は私もお弁当なの」と貴子さんが又微笑んで由紀夫を見た。
「へー貴子さんも作るんだ」と言う由紀夫に
「娘が届けてくれるのよ月に2.3度だけどね、お義理みたいにね」と貴子さんが言った。
午前の勤務を終えた由紀夫は昼休みに弁当を下げて貴子さんの玄関のガラス戸を叩いた。
「はーい、どうぞ勝手に上がって」と台所から貴子さんの声がした。玄関の小さな土間で靴を脱いだ由紀夫はお邪魔します、と部屋に入った。
居間を中心に部屋がふたつに小さな台所という昔の昭和の住宅だ。
「こんな狭ま苦しい所へようこそ、中島さん」
台所で湯を沸かしていた貴子さんが由紀夫に振り向いた。部屋の中央に置かれた楕円形のアンティークテーブルを天井から降りた乳白色のシェードの白熱灯が照らしている。壁際にはテーブルと同じアンティークの食器棚とセットの本棚が並んでいる。
奥の部屋にも同質の木のベットが置かれて、渋い花柄のベットカバーの上で、ヘクターが手足を丸めて寝ている。ベットの上に掛かっている絵に由紀夫は見覚えがあった
「これ、ブラマンクですよね」由紀夫は黒を背景に
咲く花瓶の薔薇を描いたブラマンクの代表作を指差して言った。
「あら、よくご存知ね、リトグラフですけどね」
貴子さんが言うと、
「リトでもこれはエディションナンバーがあるじゃ無いですか」由紀夫は以前同じものを買った事があった。手放してはしまったが、バブル全盛の頃で90万だった。
「さっ、お昼食べましょうよ、番茶だけど」と茶渋色の益子焼の湯呑みを由紀夫の前に置いた。
「まあ、美味しいそうな事、其れに品数も凄いのね」由紀夫の弁当を覗いた貴子さんが言うと
「まあ、家内は料理が好きでね、夕飯でも
色々説明聞いて上げてからでなくちゃ食べれんのですよ」と由紀夫は箸で煮物を摘んで言った。
「素晴らしい事だわ、うちの娘なんかこれよ」と
折り詰めの茶巾寿司を見せ笑った。
「ちょっと摘ままさせてくれます」と言うと貴子さんが箸を伸ばした。その仕草に由紀夫は、何か高校時代、好きだった女の子と校庭の脇の花壇に座って弁当を食べた日を思い出した。「出汁が効いていて良いお味」貴子さんが言った。
「とても趣味がいい部屋じゃないですか」と又部屋を見廻しす由紀夫に I’m
「こんな狭苦しいとこが、なんで」と由紀夫の言葉に貴子さんが言った。
「貴子さんは生まれは横浜なの」と弁当を食べながら聞く由紀夫に
「日本で生まれて上海で育ったのよ」と貴子さんが言った。「戦争前ね、上海の日本人疎開で生まれて5歳まで暮らしたわ」
「へー上海、日本人疎開にね」由紀夫は日本人疎開の事を以前聞いた事があり、内心驚かなかった。
「父は当時上海に貿易会社を持っていてね、隣りがフランス疎開だったの、私の家は石作りでヨーロッパスタイルの建物だったのよ、メイドも三人いたわ、今思うとまるでパリで暮らしている様だったわ」貴子さんの話に由紀夫は以前訪れた、黄浦江に面しライトアップされた格調ある石の建物群を思い出した。「繁栄と栄華の最中で、貴子さんは生まれ育ったんだね」と由紀夫が言うと、懐かしいそうにシェードから漏れる白熱電球の明かりを見ていた。
この人の品の良さはそこから来ているのだ
誰にでもは無い、育ちの良さなんだと貴子さんが見せた表情に由紀夫は思った。
「横浜は何処に住んでたの」と言うと
「山手よ」と貴子がさん答えた
「父が上海から引き上げて、横浜で同じ様な貿易業と船会社をやったの、戦後間もなくよ、それから事業も順調になり暮らしも上海と変わらない位になったの、でもね父が亡くなり、それを引き継いだ兄の時代で全て失ったわ、母と私の生活もまるで坂道を転がるように堕ちていったの、太宰治の斜陽みたいにね」貴子さんはそう言うと、本棚を開いて小さな写真立てをテーブルに置いた
立派なカイゼル髭を蓄えた白い三揃いのスーツを着た紳士と、横に並んだ真っ白な毛糸の産着を着た赤ん坊を抱いた和服姿の女性が電灯の光の中に浮かんでいた。
「これがね、父と母と私」黄ばんだ写真をなぞって貴子さんが言った。
それから貴子さんは語り始めた。
一家の生計を支えていた会社が倒産したのは
貴子さんが山手の有名なF女子短大を卒業して間もなくだった。住んでいた家も抵当で銀行のものになり、兄はそれ以来消息が分からなくなった。親戚の話しでは大阪にいるらしかったが、貴子さんと母のところには全く姿を見せなかった。貴子さんと母は山手の家から2LDKの公団住宅に移って、母の貯金と父の遺族年金で生活を凌いだ。貴子さんは東京の洋画配給会社に勤め、朝早く起きると母を起こし、朝食を済ませて母の昼と夕食を作ると、満員電車に揺られ大手町までの通勤と残業に明け暮れる日々だった。そして年を超える毎に母に認知症の気配が見え始めていた。
台所とトイレを間違えて、帰宅した貴子さんは汚物だらけの床を掃除したり、夜中に徘徊を見張って眠れ無い日々を繰り返す事が、貴子さん自身の精神にも傷をつけ始めていた。そんな時、気晴らしに寄った銀座で雑誌のスカウトの男に声をかけられた。 
母を忘れて自分の人生を歩きたい、そう感じた貴子さんは会社を辞めて、モデルの仕事へと舵を切った。
「これがその時代の私」話し終えた貴子さんは書棚の引き出しから沢山の古い雑誌を取り出して、由紀夫に見せた。黄ばみ端がぼろぼろにめくれた雑誌の折節が貼ってあるページにはさまざまな姿でポーズをとる貴子が写っていた。殆どが婦人雑誌だったが、中に当時有名写真家が撮った写真集があった。
そこにはヌードになった貴子さんが写っていた。
肉付きは細っそりしていたが、モノクロームの貴子の体全体には、秘められた様な独特のエロチシズムが漂っていた。 
あら、恥ずかしいから、と顔を寄せて写真に手を置いた貴子さんが由紀夫を見つめた、その写真から出て来た様な貴子さんの肩に手をかけて静かに引き寄せると由紀夫は唇を寄せた。
あがらうでも無く貴子は目を閉じて薄い唇を重ねてきた。貴子にとってそれは求めるでも無く、懐かしい思い出の様であり、由紀夫にとって貴子の過去の悲しみを補うには余りにも短い一瞬だった。
ベットから起き上がったヘクターが不思議そうに
二人を見ていた。
「お茶差し替えるわね」と台所に立ち上がった
貴子はその後、自分が独り身になるまでの話しはしなかった。
注がれるお茶を見ている由紀夫に「私、山下公園に行きたいわ、脚を悪くしてから、もう何年も行ってないの」と貴子が言った。
「山下公園すぐそばなのに、いいですよ今度行きましょう」と由紀夫は益子焼の湯呑みを置いて言った。ベットの上からヘクターが又二人を見ていた
「ヘクターも行きたいの」とその犬を見て言う貴子は「ヘクターも15歳になったのよ、もう直ぐお迎えが来るは、そうしたら私も一緒にね」と言った。
いとまを告げる由紀夫はベットのサイドテーブルの小さな壺に一輪の白い八重のどくだみが生けられているの見た。

その男は由紀夫の帰りを待つように、咥えたタバコを下水の穴に落とすと細い目付きで、もたれていたマンションの壁から近づいてきて言った。「中島さん、この男知ってますよね」刑事は胸のポケットから写真を出し由紀夫に差し出した。それは一階に住む、電気を盗む男の顔だった。
刑事が言ったのは、死んだ女はこの近くの銀行に口座を持っていて、女が自殺した日の五日前にその口座から三百万の預金が全額引き出されていた、そして「この男が銀行の防犯カメラに映っていたんだ」と刑事が言った。「こいつは窃盗の常習犯でね、マークはしていたんだが、あの女の部屋から通帳と印鑑を盗んだんだよ」と刑事はあの細い目付きで言った。「それとさ、銀行で確認したら、あの女の口座から毎月20万が送金されていたよ、フィリピンの銀行にね」と言う刑事の顔にやるせ無い影が浮かんだ。
それを聞かされ唖然とする由紀夫に「今度こいつの顔みたら、すぐに連絡してくれないか」と刑事は由紀夫に名刺を差し出した。
売春に窃盗に自殺かと言いたげにマンションを見上げため息をつく由紀夫に、「どうしょうもねえ町だよな」言い捨て帰る猫背の刑事のうしろ姿が重なった。

一週間が過ぎた日曜日に由紀夫は友人の車を借りて貴子をドライブに誘った。紺色に細かい水玉のワンピース、つばの大きなストローハットの姿で男物のステッキを持って玄関口にもう立っている姿が遠目からも由紀夫には見えていた。
助手席に座ると、貴子はまるで恋人とのデートの様に嬉しそうな顔で改めて由紀夫を見た。
「本当に来てくれたのね、おやすみの日にありがとう、嬉しいは、奥様に悪いわ、でもお出かけなんて本当に久ぶりなの。娘はたまに来ても、用事を済ませばすぐに帰っちゃうし、まあ子供が小さいからしょうがないけどね」と言う貴子の首元から仄かに香水が香っていた。 日曜日の山下公園はかなりの人が出ていた。海際の空いているベンチを由紀夫が探す間、貴子はステッキに心持ち体をもたれさせて、湾を見ていた。対岸にある風力発電用のプロペラがキラキラと光っている。繋がれたまま数十年の時を経た氷川丸の係留鎖には沢山のカモメが行儀よく一例になり羽を休めている。空いたベンチにザックを置いた由紀夫が貴子に歩み寄ると、彼女は目を閉じて大きな深呼吸をしていた。
「あー港はいいわねー、もう何年も来なかったけど
、ここから別世界へ旅立つ時の様な、そんな感じがするのよ、港って」
「別世界か」と湾を見ながら言う由紀夫に
「幼い頃、あの大桟橋から赤いえんとつの大きな船に乗って父母兄と私は上海へ向かったの、岸壁では見送る人達が手に手にテープを握って、船が離れ始めると、それが私の手元からスルスルと出ていって悲しいような、わくわくする様な、あの気持ちは今でも覚えているの」貴子は目を細めて大桟橋を見つめながら言った。海からの風がその襟足に絡んだ白い髪の毛を揺らしていた。
山下公園を後にした由紀夫と貴子はみなとの見える丘公園のイングリッシュガーデンへと向かった。英国調の屋敷の周りを、いく種もの原種の薔薇が取り囲む庭を歩いて、由紀夫と貴子は古い洋館の中にあるカフェに入った。
「どの薔薇も咲き誇ってるわね、どくだみみたく陰で咲く花もあるけど、何か人の人生と似てるわね、由紀夫さん」と貴子は初めて名前で言った。
「人の数だけ物語はあるって、ある作家が書いてたけど、貴子さんも色々な物語を見てきたんてすね」
「そーねー時代が時代だったからね、でももう充分だわ」貴子が言った言葉に由紀夫は頷いた。
「私、フルーツパフェを頂こうかしら、なんだか食べたくなっちゃったの」と貴子は少し甘える様に由紀夫に言った。
何処からか薔薇の香りが漂ってきた様だった。
「ねえ、由紀夫さん、私が暮らして家、まだあるかも知れない、連れてってくれます」と思いがけずの言葉を貴子は言った。
この辺りは私の庭みたいな所だからと言う貴子の案内で、車は複雑に入り組んだ山手の住宅街を進んでいった。人影の無い静かな横浜随一の住宅地は所々が大きな跡地になっていたり、低層の新しいマンションが出来ていたが、殆どが最近建てられた高齢者向けのケア付きレジデンスだった。
「随分変わってしまったのね、あの角に古い教会があったのだけど、介護付きマンションに変わってしまったのね」この街の変わり様に貴子は驚いていた。
「あっあの家よ、まだ残ってた」と貴子が指刺したのは崖の上に建つ白い洋館だった。
車を降りた由紀夫は貴子の脚を気遣いながら、二人はその建物の門前に立った。
鋳鉄で作られたレリーフの付いた門には外から大きな鍵が掛かっていて、その建物には誰も住人が居ない事がわかった。家の周りは鉄柵で囲まれていて、大きな2階建の洋館は煉瓦造りの暖炉の煙突があり一階には広い庭に面していっぱいに開かれたバルコニーがある。
「あそこの出窓がある所が私の部屋だったのよ、
懐かしい」と鉄柵を廻って庭側に出た時、貴子は見上げて指を差した。格子の入ったガラスの出窓からは前に開けた谷が一望だろうな、そこに眩く差す陽光の中、谷間を眺める貴子のシルエットを由紀夫は見た様な気がした。
「お庭では日曜日になると父が沢山の人を呼んでパーティーをしたわ、バンドや弦楽奏まで入れてたわ」昔を思い出する様に話す貴子の姿に、思い出とは違う彼女の過ぎた日々の悲しさが由紀夫の胸に沸いていた。
「どくだみの花があんなに咲いてる」と貴子は庭の隅を指差した。
「でも、あれは八重ではなかったのね、きっと」
独り言を言う貴子の声が聞えた。
「でもね、由紀夫さん過去を振り返っちゃ駄目よ
、どんなに想っても、過去はそれ以外の何者でもないわ」「振り返るのは死ぬ間際でいいの、だから私は振り返るのはもう辞めたの」
想い出を掻き消すように館を振り返らず、貴子は由紀夫の目を見つめて言った。
家まで送った由紀夫に、ちょっと待っててと貴子は
言い、もどかしそうに杖をつきながら家の中に消えた。暫くして戻った貴子が、薔薇の包み紙にくるまれたものを由紀夫に渡した。
「これ、由紀夫さんに使って頂きたいの」
小さいが手応えのある重さが由紀夫の手に伝わった。開いてみて、と言う貴子に由紀夫が包み解くと懐かしい金色に光るデュポンの14金張りのライターが出てきた。
「父が何時も使っていたんです」と貴子はライターを持つ由紀夫の手を両手で優しく包み込んだ。
微かな温もりが由紀夫の手に伝わった。


人には人それぞれの物語がある  
その言葉を床の中で思い出していた。そして思った
あの日以来貴子には会っていないが、何か気持ちに
呑み込め無い、物語とは言えない貴子への思いが付いて回っている。もしこれが物語であったとしたら、どんな結末を作家なら用意するのかを知りたかった。歳を取る毎に大して変わりの無い朝を迎え、日々の仕事は意味を持たず、滝壺の様な終わりに向かって、過ぎて行く時間という川の流れに漂う自分がいる事だけだった由紀夫は貴子に出会って、彼女がそれを分かち合える人では無いかとの想いが浮かび始めていた。妻でも無く、まして恋人や愛人とは違う、彼女なら同じ流れを絡まりながら漂える様な気がしていた。

そのれから半月が過ぎた朝、仕事場に向かいいつも道を歩いていた由紀夫は家の花壇にうつ伏せになっている貴子を見た。歩み寄る由紀夫に顔を上げた貴子は泣いていた。
「ヘクターが死んだの」伝わる涙が頬を濡らしている「えっいつ」と聞く由紀夫に
「昨日の夜、ヘクターがね、死んだのよ」と繰り返している貴子の手には引きちぎられた白いどくだみの花が握られている。
「だから、お花をあげなくちゃ」涙の止んだ虚な目が由紀夫を見た。貴子を抱き抱える様に家に入った由紀夫にベットに横たわるヘクターが見えた。
「昨日の夜、突然苦むような鳴き声を上げて
体を震わせてたの、抱き上げると心臓の鼓動がだんだん弱くなり、そして消えたのよ、ヘクターは死んだのよ」同じ事を繰り返す貴子をベットに寝かせて
由紀夫はヘクターの亡骸を座布団に横たえ、その横に貴子が摘んだどくだみの花を添えた。
小さく重なり合った白い花弁が薄暗い部屋の中で沁みる様に浮き上がっていた。

由紀夫の胸の携帯が鳴った。
着信を見ると本部の巡回員からだった。
何を言われるかを知っている由紀夫は携帯を切ると
又嗚咽を始めた貴子の横に寄り添い、その震える体を摩った。それが収まるまで由紀夫は貴子の側を決して離れはしまいと思った。添い寝して思わず抱きしめた貴子の体温が由紀夫の体に伝わった。
冷たく凍り付いた中で息づく水中花の様に
貴子の哀しみが由紀夫の体に伝わり始めていた。
貴子から聞いた娘の家に連絡した由紀夫が
その日仕事場に入ったのは正午だった。
管理室の窓から顔をゆがめた巡回員の男が由紀夫の顔を睨んでいた。その日の午後由紀夫は仕事場を辞めた。

あれからひと月が過ぎた
駅からの道が少し懐かしい程時間が過ぎているのを由紀夫は感じながらその道を歩いていた。
貴子の家の玄関に立ち、チャイムを押す由紀夫に隣りの家からエプロン姿の女が出てきて無愛想に言った。
「そちらは空き家だよ、おたく何方さん」
振り向いた由紀夫の目に
花の無いどくだみの葉だけが蒼く群れていた。

来た道を戻る由紀夫は神社の石段を上がっていた。
いつもの様に五円玉を賽銭箱に入れ、祭壇に手を合せ願い事を唱えた。
妻と子供、孫達、そして最後に貴子の名を入れ
一礼した由紀夫は背後に人の気配を感じて
振り返ると、手摺りに掴まりながら一歩一歩石段を上がってくる見知らぬ老婆がいた。
深く折れ曲がった腰で舐めるように足元の石段だけを見つめながら上って来る老婆の姿に由紀夫は石段を降りて思わず手を添えた。
「ご親切に、こんにちは」
顔を上げて由紀夫を見た老婆が笑顔で言った
老婆の手に包まれながら由紀夫はその微かな温もりを感じた。あの時もそうだった。
「過去を振り返っちゃ駄目、どんなに想っても過去はそれ以外の何者でも無いわ」
いつか貴子が言った言葉が由紀夫に蘇った。


           

どくだみの家

どくだみの家

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-22

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