みんながしあわせになれる国
ふかふかのパンケーキを、きれいな三角形に切り取り、ちいさく息を吐く。燕が淹れてくれたコーヒーと、ニアが編んでくれたブランケットと、だいすきな小説と、どこかの国のやさしい音楽。窓の外は、夜。鼓動は、緩やかに、まばたきは、ゆっくりと、こわいものはなにもなかったのだと思いながら、ホイップクリームの甘さがじんわりと沁みて、ちょっと泣きそうになる。
ひとは、ときどき、ひとではなくなる。
おとうさんも、おかあさんも、いつの頃からか、ひとではないものに変わった。燕のおねえさんも、ニアのともだちも、わたしたちが呼ぶ、ひと、ではなくなり、けれども、しあわせに暮らしている。もちろん、そうではないひともいるので、改めて世界に、平等、という言葉はあってないようなものだと、呆れた調子で言い放ったのは燕だったか。海の向こうに、みんながしあわせになれる国があるのだと聞いたことがあって、幼少の頃に、大人になる前にはもう、そんな国は存在しないのだと、まるで裏切られた気分でいたけれど、大人になってみると、存在しないとは限らないと思い直すようになる。海にはいくつもの鉄塔が立っていて、墓標にも似たそれのせいで、わたしたちは海を渡ることができない。海の向こうのできごとは、山の上にある巨大なパラボラアンテナが受信する映像・音声で知ることができるけれど、稀に、なにかしらの電波妨害のせいで、情報は歪む。なにが正しくて、正しくないのか、メディアを通じてしか海の向こうを見たことがないわたしたちには、判断できない。おとうさんも、おかあさんも、燕のおねえさんも、ニアのともだちも、おなじサークルのかわいいこも、いつも行く本屋さんのおじさんも、うまれたときの姿形とは異なれど、わたしのおとうさんであり、おかあさんであり、燕のおねえさんであり、ニアのともだちであって、でも、みんながしあわせになれる国が、はじめからみんなしあわせになれる国なのかどうかも、わからない。
窓の外は夜で、雨が降っている。
燕とニアは、すやすや眠っている。
みんながしあわせになれる国