春逝くきみの、成り損ない

 たとえるならばそう、少女は光だったのだ。

 色とりどりの花々が、埋め尽くされるようにして祭壇に飾られている。
最期の顔見せですからと、葬儀場の係の人間は手袋をしたまま棺の蓋をあけてこちらへどうぞと誘導する。焼香を済ませた弔問客は、肩をすくめて怯えるように泣いていた。
年齢層は幅広く、自分の両親ぐらいの人もいれば、歳を召した大御所のような雰囲気をまとう人もいる。老若男女、この場は雑然とし、肩書きとしては著名人も一般人も入り混じっては混沌に満ちていて、落ち着かないといった感想が相応しいだろう。
 順番待ちの間、散歩がてら備え付けられた庭園に咲いた桜の木の周りを歩いた。
雲行きが怪しくなっていたので、傘を持ち出して正解だ。雨は感情を掻き立てるようにざぁざぁと桜の木を濡らし始めた。透明のビニール傘にはペタペタとパズルのように一片ずつハート型の花びらが張り付いて、すぐに模様のようになっていく。
傘の内側で、無数に広がる星に似た花びらを左の指で一つずつ繋いでみる。
空を仰ぎ見るようにしては雨が強くなるのも気にせずに、ざわついて落ち着かないこの心を早く洗い流したかった。だってわたしは、あの子を守れなかったのだから。
後悔はぐるぐると喉を鳴らし、呼吸を奪うようにしてわたしの首を絞めた。
『北斗七星?』
『そう、うちの校章。校長の方針で星座モチーフみたいで』
『ロマンがあるね。ますます気に入った』
『でも所詮、公立高校の平々凡々な学校だよ』
『そこがいいんじゃない。瑛茉はこの学校嫌い?』
『嫌いではない、けど……好きではない』
『そんなこと言わないの。きっと楽しいよ、わたしはそう思う』
 うつむき視線を落とした先で、傘からはみ出したスカートの裾が少しだけ濡れていた。
プリーツの狭間からこぼれ出す小さな星柄を、他にはない新鮮さがあると褒めてくれていたことさえ懐かしい。
急な転入をしてきたばかりで、慣れない環境にぎこちなさを感じることもあっただろう。わたしが彼女の立場なら、きっとあそこまで前向きに学校生活を送っていられなかった。
「わたしには、無理だよ……」
 力ない声は思いがけず漏れた。伏せがちな瞼で何度か瞬きをして、まとわりつく記憶のかけらを振り払う。見上げた先で迫り来る桜の木は綺麗なはずなのに、なぜだか暗がりで荘厳に咲く姿は、ずいぶん恐ろしく見えてしまった。

 次第に追いつかなくなった感情が飽和したその日、覚えていたのはふたつだけ。
 ひとつ、まっさらな白い棺の中でようやく見れた少女の顔は存外美しかったということ。
無駄という無駄、すべてを削ぎ落として精巧に造られた人工物のような整った高い鼻が、まるでそっくりの人形なのではないかと見間違う程に、二度と目を開けることのない少女はかつて自分が知っていたよりも数段違う、研ぎ澄まされた美に包まれていた。
陶器のようにすべらかな肌はなぞればなぞるほど、磨かれる気がした。大きな瞳のその輝きはもう見ることはできないが、まばゆい宝石のような輝きだったことは忘れもしない。
「きれい……」
 言葉にするつもりはなかった。だが高揚感は実を結んで、こびりついて離れない。
 駆け寄って距離が近くなり、好奇心からゆっくりと手を伸ばしてみる。もう少しで鼻先に指が届きそうだ。届いてしまったら、彼女はわたしの手を取って会いたかったと言ってくれるだろうか。静かにその棺からゆっくりと細い身体を起こし、迎えに来るのを待っていたよと手を取り逃げてくれるだろうか。
「ごめん……ごめんね、わたし……あなたのこと、守ってあげられなくて」
 心の海が満ちていく。せき止めていたはずの涙は意識に反して、とめどなく溢れてしまう。
 情けない。こんなにも自分は無力だったなんて。分かっていたはずなのに、認めてしまえば本当に、救いだった彼女が思い出とともに何もかも消えてしまうかもしれなくて。手放すのが心底怖くて、たまらない。
静止する係員の言葉も聞かず、周りの大人がどう思っていたかなどお構いなしに、わたしはその時たがの外れた獣みたいに、本能に従順に、手を伸ばした。触れてはならぬように、そう言われていた禁断の果実のような瑞々しい彼女は、もう少しで確かにわたしのものだった。
「「泣かないで、瑛茉」」
 とっさに握られた手首が痛みを感じ、強い力で振り上げられているのがわかった。
わたしの名前を愛しそうに呼ぶので現実に彼女は生きていると錯覚したが、澄んだ高めの声色よりも少しだけ低くかすれたハスキーな声は、少女のそれとは決定的に違っていた。

 ふたつ、突然彗星のごとく現れた対の存在は、少年に姿を変えて、わたしを必死に慰めようとしていたということ。そして彼の存在もまた、研ぎ澄まされた美しさの中に潜む危うげさに吸い込まれるようにして、ひとえに魅力的であったということ。
「姉さんをすきだったひと」
 声の主に誘われるままに、涙で霞んだ視界を、必死に目を凝らし見つめてみる。
髪は襟足までで短く切られている。すぐそばの襟元で、学生服では珍しいノーカラーのシャツだと分かった。シャツの第一ボタン下ではトレードマークである、北斗七星のブローチがよく映える。少しだけ着崩された花紺青のブレザーが、こざっぱりして華やかだった。
紛れもない、うちの制服だ。
でもそのどれもが着古していないせいか、やけにしゃんとして見えてしまう。
「そうか、きみも悲しいんだ」
 一瞬、憂いを帯びた寂しそうな顔がほんの少し、生前の彼女の姿と重なった。
はっと我に返り、息を呑んだわたしの手を、少年は優しく振り落とす。
驚くわたしを後目に、その身体はぐっと前のめりになる。
棺から覗く小さく微笑む少女の顔に、細くしなやかな手を添えては、どこで見つけたかわからない桜の花びらを彼は一片だけ食んでいた。首をゆっくり傾げると、桜とともに落とした口づけが死化粧の紅を拭い去る。
 鼓動が早くなる。心を鷲掴みにされてこの光景を見ていろと言われんばかりに、たちまちいたたまれなくなり、全身に力が入らなくなる。
ぺたりと冷たい床に座り込んだわたしは、どうすることもできなかった。
目を離せないままでいると、少年は拭った紅が自分の白磁の肌を汚すことも気にせず、なにかを少女に小さく耳打ちしては、元の場所へと丁寧に収めた。
すると柔らかくしゃがみ込み大きな手を伸ばしてくるので、わたしは途端に萎縮してしまう。
縮こまったこちらの警戒心を解くように、とても器用に笑えそうにない彼は、首を傾げなが
ら寄り添い、こう呟いたのだ。
「ぼくは、ひどいことをした」

 吹き荒ぶ雨ざらしの春、わたしが少女の姿を見たのはそれが最期だった。


***


 二階堂ひまり、職業は女優。
五歳の頃、母親の応募した美少女コンテストでグランプリを獲得。
アイドル路線で売り出しを考えていた旧事務所と、清純派女優で売り出しを考えていた現事務所が広告コンペで少女を商品として賭けた。質の良い広告を展開した現事務所が無事に所属権を得て、子役時代から長編ドラマや映画に引っ張りだこ。
実力は大人になるにつれ、卓越されるものとなる。特に、繊細で素朴な何気ない表情や、シリアスシーンでの澄み渡る泣きの演技力は、新人賞を総ナメにするほどの天性の才能だ。
しかし女優業だけにとどまらず、彼女の文武両道は徹底されている。今後は芝居だけではなく歌やモデルなど、幅広い仕事を頑張ってこなしていきたいと、とても意欲的だ。

その昔、何気なく雑誌で目に留めた駆け出しの女優の経歴は、まるでドラマの主人公だった。
現代のシンデレラという二つ名がお似合いなほど、完璧なまでに勝ち組レールに乗っかる人生というものは、生きていてはたして心地のいいものなのかどうか、疑問は尽きることがない。
 
 事件は、花の蕾がむくむくと肥え始めた春先に、星ヶ丘高等学校で起きた。
現役女子高生である名の知れた女優は犠牲となり、後に死因は絞殺だと判明する。
被害者の首から大きな手形とうっ血痕が見つかったことから、遺体は丁寧に人の手で絞め殺された後、第二庭園の中にあるネモフィラの花畑の中に横たわったまま数時間、置き去りにされていたことが連日のニュースで報道され続けていた。
平穏は崩れ去り、今までに感じたことのない異様な雰囲気を受け、学び舎は少しずつ得体の知れない場所になっていく。
そんな渦中で生活をする少年少女らは、一人の死が身近に潜んでいたこともあり、罪のない人間まで責任の念を感じ、次第に悩みに翻弄されていくこととなった。
警察は威信をかけた大捜査と銘打って、春休みの初旬は事情聴取に現場検証にと、立て続けに聖域に踏み入ってくることが多くなっていた。生徒たちも関係の深い者から疑われ、密かに乱立されていた彼女のファンクラブは、摘発された末に盗撮まがいの売買行為が明るみに出て、部長を筆頭に謹慎処分が下された。

校内に必ず、少女の命を奪った殺人犯がいる。

調査が進むに連れて、まことしやかに生徒たちの間で騒がれ始めた真犯人の噂は、口を滑らせた本人が予測できないほどに飛び火し、そこかしこに充満していくこととなった。
未成年たちの閉鎖空間において、互いが互いを疑いながらも思ったことも口にできず、生活をともにしていくということがどれだけ無益なことなのか。彼ら彼女らはきっといつまでも知るはずもないのだ。
噂は流れに流れ春休みの真っ只中、季節はもうすぐ満開の春を迎えようとしていた。
園芸部は面倒くさい仕事が多く部員が減る一方で、それでも毎日の気温変化の記録と水やりと虫の駆除だけはこまめにやり続けなければならず、傷心に浸っている暇もなかったわたしはあくせくと汗水垂らして、その日も朝から第二庭園の花たちの世話を焼いていた。
 わが校の土地は広々としている。植物と天体好きの校長によって作られたこの大きな箱庭では、庭園が全部で四つの区画に分かれている。春の花、夏の花、秋の花、冬の花。こじんまりとしてはいるが四季折々に咲く健気な花々の生長は、見ていて心が踊るものがある。
 ブルーの小ぶりな花たちが寄り添いひしめき合うようにして、凛と地に根を張っている。
大きなじょうろに水を汲んで半ばぶっきらぼうに水を手広く振りまいた。
ここ何日間かで降り続いていた雨が止み、打って変わって今週は春の陽気でいっぱいだ。心
なしか、数週間前までくたびれていた花々の茎がピンと伸びている。
わたしはそんなささやかな植物の変化に、寂しさを少しだけ紛らわせてもらえた気がした。
 
チューリップの列に水をやりハルジオンの列に水をやってヘトヘトになった頃、近くにある
職員室の室内が、何やらただならぬ雰囲気になっていることに気づいた。
先生たちが顔を真っ青にして、何度も机に突っ伏しては諦めの悪い表情で苦しんでいる。
何があったのかわからず、持っていたじょうろを花の近くへ置き、一歩また一歩と近づいていく。教頭先生は備え付けのテレビのリモコンをかざし、何度も何度も番組を変えている。だがどれも同じ風景を映し出しているようで、あからさまに取り乱しているのが手に取るように分かる。何がそんなに先生たちを引きつけるのかが妙に気になって、とにかくテレビの画面を見ようと角度を変えて近づいた。

【 現役女子高生女優の二階堂ひまりさん (17) を絞殺か、
星ヶ丘高等学校美術教師 沢木由紀夫 (32) 被告 出頭し逮捕 】

数日後、刑務所内で語られる沢木の殺害理由はあまりに単純だった。
都内でもあまり目立たないこんな平凡な小さな学校に、絶世の美少女と称される二階堂ひまりが転入してくる愉悦感。画面越しでしか見ることのできないあの絹肌、触れたら折れてしまいそうな手首、人の手が加えられていない自然な艶のある青黒い髪の毛は、どんなに綺麗な糸よりも美しい。薄桃色にいろづく唇と、零れ落ちそうな瞳がこの上なく上品で、この手に収めることができればきっと自分は、新しい美の骨頂を手に入れることができる。
だから殺すタイミングをずっとずっと待っていた。
そしてあの日、彼女とふたりきりになれた時間を見計らって、一気に首を絞めつけた。
手にかけた時はものすごく幸せだった、最高の瞬間を手に入れたと思っていた。すると彼女はあたかも待っていたかのように、自分にこう言ったのだ。「殺してくれて、ありがとう」と。
裁判の様子はすぐに絵に起こされ、供述は一字一句違わずにメディアの前で晒された。

気持ちが分からないわけではなかった。
沢木の盲目的な愛は、一歩違えば校内の誰にでも起こりうる狂気を孕んでいるからだ。それほどまでに彼女の魅力は人々を惹きつけてやまないのだと、充分にわたしは理解していた。
その後、「殺してほしい」と本人が懇願していたからやったのだ、という絵空事を懸命に訴えたが結局その主張が通ることはなく、沢木には殺人罪で実刑が下ることとなった。
ついに学園を追放され、聖職の壇上に踏み入れることを許されなくなった彼は、気味の悪いことにその数週間後、獄中で自分と少女の絵を描いて自殺を図って亡くなったのだそうだ。

 
春、新学期。世間は衣替えの季節だろうと、寒冷前線は依然として停滞を続けている。
東北の方では花見の宴に雪が降り積もり、平成ももうすぐ終わろうとしているのに、新しい春の風物詩が見受けられているようだった。
 時間は足早に駆け巡り、季節の本格的な訪れはあっという間に一人の死を覆い隠してしまう。
「うおー、瑛茉。久々に顔見たわ、生きてっか」
 余計なことに首、もうつっこむんじゃないぞと言われ、頭を二度ほど撫でられる。なんだかんだでこの春同じクラスになった瀬野晴臣は、数少ないわたしの大切な友人であり幼なじみだ。
高校に入学して一年目の春は、一組と五組ということでクラスがうんと離れていたのだが、進級して二年生になったクラス替え。晴臣はさり気なくこちらの存在を認知し、事件のことを気にするあまり、一声かけてくれたのだった。
「……心配なんかしてくれるやつだっけ、あんた」
「ひまりちゃんの件。…なんだ、まあ。元気出せ」
 顔が曇りがちになるわたしの表情を察したのか、小さく踏ん切りをつけた晴臣は自分の席を探し始める。黒板に貼られた全三十名ほどの名前はあいうえお順で並べられており、殴り書きされている教師お手製の座席表は、お世辞にもわかりやすいものには見えなかった。
乗せられていたがっしりとした手のひらはどんどん遠ざかってしまう。わたしはひとつ、ため息を落とし、そのまま視界を泳がせてうろうろと、自分の席を探した。

 学校が始まってすぐの頃、全校集会では黙祷が週に一度のペースで行われていた。
第一線で活躍し、大きな翼を持っていたひまりさんが、どうかあの世でも健やかに過ごせますように。校長はそのたびに涙ぐんだが、生徒や教員は辟易した態度を見せていた。
 そして忘れ去られるようにして、沢木がこの学校に在籍していた記憶は葬られ、なかったこととされてしまった。
すべてが暗黙の了解で、真実に蓋をされるのが道理だとするならば、数カ月後、数年後には、ひまりがこの敷地内で死んでしまったという事実さえも、きっと風化していってしまうのだろう。
「静かに、皆さん席についてください」
 新任の教師は一連の事件を知ってか知らずか不安そうな顔をして、生徒と向き合っていた。赴任してきて一年目。教育実習が終わったばかりの、初々しい真新しいスーツがあまり似合ってはいなかった。生徒たちは約束どおり、ホームルームまでに決められた自分の席へとたどり着く。春休みに存分やり倒した宿題を机の上に放り出すと、宿題に対する熱意がどれほどあるのかがよく伝わってくる。
もちろんわたしも心の整理がつかない最中、やれるところまでの宿題はやってきたつもりだ。鞄の中を弄り、教科書と一緒に束になったプリントを取り出すと、閉め切っていた入り口の扉がふと開いた。
すらっと伸びた手足を前に出し、黙々と歩いていくる人影が見える。
その両腕には瑠璃色に染まった花束が抱えられている。青黒く凛とした髪色を携えて、革靴を鳴らし教卓の前をすり抜ける。薄桃色の唇に淀みのない白を塗り込んだ、陶器に近い乳白色の肌。大きな瞳は瞬きを繰り返すたびに、長くはつらつと張った睫毛に呼応して、美しく在ることを決して忘れない。
 その姿に、わたしは確かに見覚えがあった。
「初日から遅刻はよくないぞ…きみ、名前は」
 ああそうか、と妙に納得をして、背が高いのに猫背気味な背中がくねくねと動いている。突っかかるように黒板の脇にあるチョークを手にとった少年は、先生の言うことも聞かず右手に握った花束を乱暴に抱き締め続けていた。
霞んで消えてしまいそうな白い左手が、淡々と自分の名前を書き綴る。
教室内の生徒は息を呑むように彼のパフォーマンスに注目した。それは一年前、クラスをともにした人間なら誰もが知っている、とある生徒の意味のある行為だったからである。
すらすらと筆を走らせる少年は自分の名前を書き慣れているのか、あの時の生徒と同じようにして、文字の大きさもスペースを空ける位置も、すべてそっくりそのままに再現してみせた。
「二階堂ひばりです」
 次にしっかりと正面を向かれた時、確かめようと思っていた大きな瞳のその色は紛れもなく、自分が救いを求めていたあの瞳と同じ色をして、煌々と輝きを放っていた。
「ひまりは、ぼくのたった一人の姉でした」
しいて言うなら、どこが似ていないかを見つける方が大変だった目の前の彼は、大きく息を吸い込み深々と頭を下げては、数分間もの間なんとも落ち着かない様子で、ただ静かに不惑の笑みを浮かべ続けているだけであった。


***


 それから二週間ほどが経ち、双子の弟である二階堂ひばりは、わたしの欠けた日常を埋めるように邪魔をしてくるようになった。部分的に似通った部分を持ちうる少年のことを、全校生徒だけでなく教師までもが好奇の目で見定めたが、不思議と彼は異質ながらも、徐々に場の空気に馴染んでいった。先生たちの噂によれば、長期的に病気の治療に専念していたらしいその男は生まれつき身体が弱く、得体の知れぬ病魔と戦い続ける生活を送っていたというのだ。
むろん姉の影響力は大きく、双子ということでたちまち巷の噂が彼で持ちきりになった頃、短命な校庭の桜は人々の動きを悟るかのように、散り際の準備に勤しんでいた。
「何から話そうか、瑛茉」
 人懐っこさは姉と同じ。愛想の良さも健在かと思いきや、特定の人間にだけらしい。
 授業終了のチャイムが鳴り、少し仮眠を取ろうと思い、固い机の上でうつ伏せになり腕を組んだ。自分の腕を枕にすると抜群の安定感で自発的に睡眠誘導されやすくなるのが、わたしなりの持論だ。
頬を当てて眠る準備に入る。連日、部活で行っている苗植えのおかげで筋肉痛となった腕は少し膨れ上がりたくましくなっていた。柔らかさがないせいかあまり首が安定しない。
「……わたしは話すことなんてない」
 ひまりのおねだり上手は、聞いていて気分がよかった。
嫌な気持ちになったことは一度もなく、彼女が困っていればすぐに力になってあげたかったわたしは、進んで解決策を提案することが多かった。
でも、彼は違う。
甘え方もまるで違う、常にふわふわとして何も本気にしていないように聞こえる。
ここまで他人の空似とは思えないほどなのに、悔しいほど彼は別の人間だっだ。
「ひまりなら、なんて言うんだろうね」
 ひばりは平然と今は触れないでほしい姉との話題に、土足で踏み込んでくることをやめなかった。
「あなたはひまりじゃない」
「もしかして怒ったの」
「怒っていたらなに」
 不服そうな声色で突っぱねてみると、からかうように乾いた笑いが宙を舞った。
「……だけどきみは、寂しそうだよ」
「っ、あなたに何がわかるの」
調子が狂う。なんでも知っているという顔は、妙に腹立たしい。
何もかもを見透かす瞳は相変わらず、真っ直ぐにこちらを捉えて離さない。
「瑛茉はそんなこと言う子じゃない」
「何も知らないじゃない!」
 聞かないふりをしていたがだんだん挑発的になってきて、わたしは思わず面と向かってもの申したくなり、かっとした熱の行き場を振り上げた右手に込めていた。そのまま思い切りビンタでもなんでも、してしまえればそれでよかった。それで気分が晴れたはずなのだけれど。
「……やってらんない」
 食い入るように向けられた眼差しからは目が離せず、逆らえなくなっていた。
「ごめんごめん。悪ふざけが過ぎた」
 大きく骨張った華奢で頼りない手は、そうして頭のうえでわたしの髪を撫で続けた。
 休み時間のクラス内は相も変わらず騒がしく、少しばかり変なことが起きていても流れに逆らわず、誰もが気に留めないのが当たり前の領分だ。だから例えば、こうやって一人の女子生徒と男子生徒が言い争いをしてじゃれてみたところで、仲良くなってお熱いことで、と片付けられてもおかしくはない。
 とはいえその不釣り合いな光景に対して、少なからず嫉妬を抱くものもいるわけで、わたしはひまりといた時からその標的になりやすく、不本意ながら抵抗することもバカバカしいと思っているたちだった。
だってみんな羨ましいんだ、結局は自分も輝きたがってる。
だから白い羽根を広げて飛び続ける彼女らの光に、群がりたいんだろう。

 冷たくて、苦しい。息ができない。
「ひまりを殺したの、本当はあんたなんじゃない」
 手足が動かない、どうしてだろう。ああそうか、身体を羽交い締めにされている。腕をしっかり抑えつけられて頭をぐっと掴まれては、泥まみれの水に何度も顔を押し込まれている。
呼吸の限界が達しもがいても、顔をあげることはきっと許されない。
「やめなよ、縁起でもない」
「あんたがあの双子誑かしてるのなんか、学校中が知ってるよバーカ!」
 第二庭園の水汲み場。
しつこく付きまとうひばりを巻いて、自分だけの時間がやっと訪れたと思っていた。
春の陽気は花々たちからみるみるうちに水分を欲し、第二庭園の立役者である一面に敷き詰められた青の絨毯は、いよいよどこにも負けないほど、立派に美しく咲き誇ろうとしている。
『わたし、ネモフィラ大好きなんだ』
『ああ、第二庭園の』
『可愛いよねぇ、ひとつひとつはとっても小さいのに花びらはすごく大きいじゃない?』
『ええっと、どこだっけ。ネモフィラ一面の花畑、有名なところあったよね』
『知ってる知ってる! …夢だなあ、青一色の世界で囲まれて幸せを噛みしめるの』
『ロケとかですぐ行くでしょ、ひまりなら』
『やだなあー、瑛茉と一緒に行きたいの』
 意識を半分失いかけた頃だ。遠くて近い記憶の中で、再びひまりが笑っている場面が鮮やかな花の色とともに、脳内でぼんやりと映し出されたのは。
ひまりは幼い頃からあの花が大好きなのだそうで、その理由をいつか聞いた時、ずいぶん寂しそうにして声色が暗くなったことがあった。聞いてはいけない話題に触れてしまったのかと肝を冷やしたが、ひまりは何も落ち込んでいるというわけではなかったのだった。
『ママがまだ、パパと仲が良かった頃。わたしや弟が生まれるずっと前、サムシングブルーのブーケでどうしてもその花を使いたいって、注文したことがあったそうなの』
 震える唇に込めた思いが何を意味しているのかは、わたし程度の人間にはわかるはずもなかった。けれど、見つめる先の瞳の奥は、簡単に揺らぐことがないように思えてしまって。
『幸せは続かなかったけど…わたしはママとパパの分まで、必ず幸せを手に入れる』
 その言葉の意味が未だに気がかりで、こうして今でもあの花を育て続けてしまう。

「……しっかり、……しっかりしろ……!」
 だんだんと遠ざかるその掠れた声を心地よいと思ったはずが、身体は言うことをきいてくれない。力なく突っ伏して、喉の奥に支えていた何かを吐き出した。変なものが詰まっているのか、咳が止まらない。視界も濁って見えづらい。喉が焼けるように痛く、呼吸を忘れてしまいそうだ。
「「これは必然だったの。だからどうか、彼を責めないで」」
 あれ、わたしは確かひまりが愛した花たちに、今日も水やりをしなくてはならなかったはずだ。彼女のいつか叶うはずの夢をどうしても応援してあげたくて。その思いは永遠に心変わりすることはなくて。だから、わたしは、わたしは――
「愛してあげてね、ひばりのこと」
 ねえ、ひまり。あなたが知らないうちに抱えていた苦しみや痛みが、全てわかる人になりたかった。大丈夫だよと優しく手向けられる笑顔が、いつの間にか胸を締めつけられるようななにかに縛られて、うまく笑えなくなっていたとしたなら。
ねえ、ひまり。あなたが死んでしまったらわたしは、あなたが好きだと言ってくれたあの花の蕾や花びらに思いを馳せて燻る愛の行き場を、どこへ葬ったらいいと言うのかな。

 気づけば深く眠りについていたわたしは、意識もまばらにふかふかとした真綿のベッドの上にいた。起き上がろうとしてみるが、身体の節々が悲鳴をあげる。喉はひりつき、口の中に土の塊を押し込まれているみたいで、泥くさい。
あの言葉は夢だったのか、現実だったのか。
混濁した今の自分に状況を判断するのは難しかった。頭が割れるように痛い。何度も強く掴まれて打ち付けられたからだろうか。でも確かに、あれはひまりの声だった気がする。
 あたりを見回すとそれまでずっと手を添えていてくれたのか、体温が高くなった端正な顔立ちをした男子高校生は、ベッドの脇に頬を擦り寄せ、深い眠りに落ちている。
慣れない作業にもたついたのか、白いシャツのいたるところで泥が跳ねた形跡が伺える。
色白の顔は鼻のてっぺんと右の頬が土で汚れていて、いい男が台無しだ。
「瑛茉も懲りないな」
 既に視界に映り込んでいた生徒の方を見やる。窓の方に寄りかかりグラウンドの方を眺めていた晴臣は、短髪をおもむろに掻きむしった。
ご愁傷様、と投げかけた後、立てかけられていたパイプ椅子を立てて腰掛ける。
「哀れんでくれて構わないよ」
「まさか。むしろ、羨ましい」
「その言葉、この学校で反吐が出るほど聞き飽きた」
「はは、そりゃそうか。瑛茉は常に、生き餌の状態ってわけだ」
 こういう時、幼なじみのよしみで晴臣はとっても清々しい反応ばかりをくれる。付かず離れずのわたしたちは、その時々で興味のある人間にフラフラ浮気をしては、慰め合いたい時に限って磁石にでもなった気分で互いの弱った心を察知し、つるむことが多かった。彼にははきっとひまりに抱いているような、恋慕の感情は持ち合わせていない。同じ釜の飯を食らい続けた腐れ縁は、そう簡単に歳を取ったからと言ってうまく切り替わるはずもないのだ。
「……似てるから余計、イライラするのかな」
「なんだそれ、逆じゃね?」
 好きな子と瓜二つだったらまず嫌いにならんだろ、と晴臣は矢継ぎ早に言葉を続ける。
「だけどわたしの傷をえぐって楽しんでるように見える」
 同性の目線でものごとを総計的に判断したのか、目の前の相手の首が大きく横に振られた。視線をこちらからすぐそばの男へと落とすと静かな保健室に晴臣とわたし、お互いの小さなため息が飽和して、連なっては消えてゆく。
「……他人の思ってることなんて、すべて汲み取る方が難しい話だろ」
「でも言葉にしてくれないと、…伝わらないことってある」
「そういうお前はどうなの」
「それは、」
憶測だけで噛みつこうとする自分の発言を一度ぐっと飲み込んだ。ようやく起こせるようになった上半身に反動をつけて、ベッドの上に座り直す。
「ひまりちゃんの光に導かれて、それで? 好きも言えずに感傷に浸って満足か? それで突然現れた弟に対しては八つ当たり」
 握りしめた手のひらに、言われっぱなしで悔しい気持ちが募った。晴臣の言葉は厳しいながらも的を得ていて、いつも言い返すことができない。
握りこぶしが大きく翻っては、力なく澄み渡る白色のシーツの上にくたびれる。
そうして次の言葉を呑み込み続けていると、無機質なチャイムとともにこの部屋に隣接するクラスの教室内がわあっと騒がしくなった。二度目の放課の合図は、上級生の補講の終了を告げる鐘でもある。
「なあ瑛茉、現実見ようぜ。人がひとり、死んでんだ」
 どれだけ嘆いたところで、なんにも進まねえだろ。帰ってくるわけでもあるまいし。
 推しはかられた言葉の意味がどれだけ重いのかなんて、おそらく初めから何度も自分の理性に言い聞かせていて、だからひばりが現れた時、もしかしたらわたしの元へ帰ってきてくれたのかもしれないなんて、淡い幻想を抱いてしまった。それが自分の甘えで引き起こしたご都合主義に塗れていたとしても、懐かれるなら手を伸ばしてもいいかと思った。
 でも、見れば見るほど帰ってきてくれてありがとうなんて言葉は、湧き上がってはこなかった。それどころかわたしが愛したひまりの弟は、どうあがいてもこんなにも男で、柔らかくもなければ背丈も小さくはなく、華奢さが似ていても何もかもが違う個体だった。
 晴臣は乱暴にパイプ椅子を蹴飛ばすようにして、振り返らずに扉の向こうへ消えていった。
 廊下ではまたやってしまったと言わんばかりに少しだけ吠える声が聞こえてきて、ますます現実味を帯びては、周りの雑音に掻き消されて消えていく。
 途方に暮れて、侘しい空気が充満しては己の首を絞めるのがわかった。言われなくても分かっている。まだまだ夢を見ていたいと願うあまり、子どもじみていることなんか嫌というほど。
 見送った視線の先から目が離せずしばらく呆けていた後で、どっちが病人か分からないほどにわたしのそばで眠っているひばりを横目に見て、わたしはもう一度生成り色をした毛布を目深にかぶり、寝ているフリを装うほかなかった。


 葉桜は、生と死が共存している残酷な風景だとある人は言う。
蕾や花を結びつけていた頃の桜は、紛れもない可憐さを忘れることなくそこに悠然と存在していられるが、それらは決定的に違う。日本人が古来から崇拝してきた神聖な木である建て前の上で、花が咲くことにこそ神が宿り続ける意味があるという言い伝えの下では、実りの花をつけぬ葉だらけの桜など二度と神が舞い降りない呪いの木として、煙たがられるだけであった。
桜たちの命の見届人は、死を宣告される葉桜たちを決して無下にすることはなく、それがたとえ青葉芽吹く花の咲かない花の木であったとしても、慈しみ愛することを誓った。
どんな桜にも春は訪れる。春に生まれ春に散る桜は、儚いゆえにだからこそ美しい。
 春知らずの底冷えが日本を覆いながらも、四季に忠実な日本の気候は移ろいが早くて、気忙しい。艷やかな青みがかったブレザーが脱ぎ捨てられる、五月晴れが近づいたこの時期、少年少女は羽化をした蝶のように色めき立ち、浮かれ頭で能天気になる。


 悲しいできごとから数週間も経とうものなら、一日に十万ずつ消滅していく脳細胞を有した人間たちの記憶は、もはや動物よりも目の前のことに従順だ。揃いも揃って思春期の男女は流行に敏感で、ひまりの名前が世の中で聞かれることはなくなった。テレビで見る人物は親近感の湧かないどこかの有名人にすげ替えられ、気づけばわたしだけが取り残されいつまでも前を向けず、靄の晴れない日々を送ることとなっていた。
一方のひばりはあの日を境にこちらに過度なスキンシップを図ることはせず、急によそよそしくなって口を利かなくなってしまった。彼はいつも人に取り囲まれていたが、ひまりの死の真相や心境について、決して話したがりはしなかった。
【―――親愛なる瑛茉へ お元気ですか、寂しがっていませんか。わたしは、】
 その日、靴箱に入れられていた手紙の筆跡を何度もなぞりこれは夢ではないのだと、心臓が大きく跳ねた後、わたしは走り出していた。
濃紺に白い星が散りばめられたスカートを翻し、太ももが見え隠れするのも気にせず踏み出す足は軽やかだった。放課のチャイムが鳴り、先生たちの廊下を走ってはいけないという叱責も耳に入らず、一刻もはやく会いに行く必要があった。冷たく暗い石畳の階段を駆け下り、人とぶつかるのも気にしない。息があがることに頬が染まり高揚する。それが例え分かりきっている結果だったとしても、もしかしたら百回に一回は奇跡が起こるかもしれない。
革がしなびたローファーに履き替える。外に出れば白いシャツの胸元で、校章のブローチが夕暮れの西陽に照らされ、きらきらと揺れた光がそこの一点に集中した。足が疲れていて動きが鈍るのがわかる。早々と身支度を済ませた生徒の中には、これから部活へ行く人も多い。園芸部はあれからも人が増えず、顧問の先生とわたしの二人三脚で細々と当分続けていくのだろう。
 走り慣れない足元で花壇の土を踏み均す。
つい目が行きがちになる花たちの様子を横目に見ながら、青の絨毯の前に辿り着いた。
息が切れて酸欠で頭が痛くなる。
両膝をぐっと掴み、よろけそうになるのを必死でこらえた。吸って吐いてを繰り返し、呼吸を整える。うつむいていた顔を上げ、ようやくわたしは花々の方を見ることができた。
 青く澄み渡る一面の青、整えられてつつましく並んだネモフィラの先に人影が目に入った。強く吹いていた風に煽られ、その女子生徒は膝上のスカートを手で押さえて思いを馳せている。すらっと伸びた白磁の手足は、清々しい青によく映えて目立つ色合いだった。
 髪の毛の長さはちょうどあのぐらい。
思い出すべきではない記憶は彼女の声とともに蘇る。
『……ひまりみたいな人が、どうしてわたしなんかを』
『瑛茉といると居心地がいいんだ』
『そんな、大げさだよ』
『自分なんてありえない、そうやって今考えたでしょ?』
『……えっ』
『かわいいのに自信の持てないところ、瑛茉のずるいところ』
『かわいくなんて、な』
 恥ずかしがった表情を、いつだか可愛いと言っていた。触れようと伸びてきた手は迷いがないおかげか拒めなくて、とっさに顎を引いたわたしの隙を彼女は見逃さなかった。誘い込まれるように甘いいい匂いがして、目線を同じ高さに持っていくとくちびるが重なり合ったのを覚えている。軽く当たるだけの口づけが、触れたところから熱を帯びて心ごと自分を溶かしていくのがわかった。寂しさを埋めるだけの行為だったかもしれない。でもそうやって、わたしのことをいつも気にかけてくれていた大切なあの子。
【瑛茉。わたしが死んでしまった本当の理由はね―――】


「ひまり!」
 わかっている。わかりきっている。わたしはそこまで馬鹿ではない。
 けれど足は止められず、花壇の花たちのことすら気にかけられず、踏み倒してしまったいくつかのネモフィラがこちらをきっと冷たい目で見ているようで申し訳なくなった。せっかく彼女のために育てた綺麗な花を、わたしは己で汚してしまっている。
 駆け抜けた先にいた人影の腕を掴み、顔を覗く。
 手の感触がまず違うと思った。女性特有の丸みはなく、骨が突起した手の皮は薄く栄養が行き届いていない男の手のように思えた。何度かその手で頭を撫でられていた感触を思い返す。 
たどるように指を伸ばし触っていくと、ちょうど鼻先あたりで手首を捉えられ、静止させられる。
「こうでもしないと、瑛茉は姉さんに囚われたままだったから」
 ついでに言うと恥ずかしいんだ、この格好。
 付け足された言葉の含みがやけに子どもっぽかったので、もうどうでもよくなった。腰のあたりに手を添えられ支えられる。触ろうと思っていた鼻はピンととがっている。棺の中で見た人形のような少女と似た少年は、眉を訝しげにひそめ、近くなりすぎたわたしと少し距離をとった。
「……ネモフィラの花」
「いけない、踏んでしまって」
「姉さんが好きだった花だろう。変わらず大切にしてやってくれないか」
 足下に目を落とし、慣れないスカートの裾を少しだけたくし上げる。土の上で元気のなくなった青い花のひとつをすくい、目の前の男はそっと鼻先へ持っていく。
「―――もったいぶっていないでほんとうのこと、きみには話そうと思う」
 耳に髪をかけるその仕草や、匂いをかぐ時、馴染ませるようにして鼻で何度か花びらを撫でる癖が気になった。かぶりものだと分かっている髪の毛の間で整った顔が、微笑んでいる。ひどく見覚えのある姿に目を疑いそうになり、わたしは何度も首を振ってしまっていた。
 美しい双子の、悲しい話。弟思いの姉は、自らの命を投げ売ってでも助けることに奔走し、完全犯罪を思いついたのではないか。
「先生、これは賭けかもしれないけどお願いがあるの」
合理の上で行われた殺人において、彼女は犯人に決定的な条件を叩きつけ唆し、自ら死を選んだように見せることなく、最後まで女優として自分を演じ続けていた。


 夕暮れに映える花々の景色が趣深い時間帯になり、ひばりは魔法が解けるみたいに元いた姿へと舞い戻った。話を聞くところによると、わたしが到着するまでに何度か生徒に女装姿を見られてしまい、一部の女子たちには二階堂ひまりの亡霊だ! と騒がれる始末だったという。
 なぜこんなことをしたのか、まるで見当がつかなかった。ただもやもやともどかしい気持ちが溢れそうになるわたしを宥め、花壇の隅に腰掛けてゆっくりと口を開いた彼から告げられた事実は衝撃的なものだった。
「姉は、ひまりは、弟の心臓がもう使い物にならないことを知っていた」
 そんな時、SNSでの検索を繰り返すうちに見て知ってしまったのだ。ネットの海に漂う、自分の演技力の衰えと、子役からのブランドにすがってなんとなく生きていた自分の浅はかさを。器量の良さに甘んじて溺れて生きていた自分の無能さを。

【二階堂ひまりの棒演技、どうにかならないの?】
【所詮美少女コンテストあがりのセミプロ、泣きの演技は媚びてるだけ】
【顔が可愛いだけでなんでも許されると思うな】
【男遊びひどいのかな~、一度でいいから清純派を抱いて汚してみたい】
【弟の手術費稼がされるために、母親に洗脳されてるらしいよ】
【監督とマクラしたことあるってほんと?】
【悲劇のヒロインは顔が綺麗な方が同情されやすいしな】
【学校特定したけど、待遇よすぎてワロタ。お姫様扱いされすぎ~】

 現代に取り残されていたわたしが知る由もなかったことをひばりは淡々と、スマートフォンの画面越しに見せてくれた。心ないつぶやきの端々で、妬みや嫉みが横行しては言葉の暴力を繰り返していたことにわたしは耐えられなかった。
「そしてぼくが何度めかの昏睡状態に陥って、次に目が覚めた時」
 目を覚ます前、後ろから細い手が伸びてきたそうなのだ。
耳もとで囁かれるその甘やかな声は確かに姉のものだったけれど、無邪気ながらも寂しさで満ちた声色はこの上なく悲しそうだった。
『やった、やったね……あとは、あなたがわたしの分まで強く生きて……』
 意識は憑依するように乗り移っていった。
 身体は蝕まれていた時よりもうんと軽くなり、呼吸も苦しくない。視界ははっきり見えて左胸に手を当ててみると心臓は一定のリズムで脈を打ち、元気に身体へと順応している。ひばりは姉の悲しそうな顔も半ば夢のように思い、生き延びた命に喜びを感じていたという。
「そのあとすぐ、ひまりが殺されたことを知った」
 泣き笑いに似た報われない思いを募らせ、ひばりはこちらに首を傾けた。わたしの表情が歪むのを分かっていてか、細い指先が伸びてきてこぼれ落ちる涙を拭ってくれた。声を荒げてはいけないと唇を強く噛んでいれば、彼の悲しみも一緒に噛みしめられる気がした。
「ひばり、ごめん。わたし、わたしね」
 わたしはその手をぐっと握り寄せ、額を擦り付けて言葉にならない祈りを捧げることしか思いつかなかった。救ってあげられる言葉をかけてあげられればどれだけ楽だったのだろう。
ひばりはわたしの姿に納得をしながらも、目を見開いて驚いているようだった。
「初めて名前、呼んでくれた」
 ふいに、口の端が柔らかく綻んだことで、過去の記憶に生きているひまりの笑顔と重なった。同じように涙をこぼしやりきれない表情で、力強く差し出された手を握り続けるひばりの力は強くなり、わたしは痛みが増すのも気にせずもう片方の手を背中の方に回し、赤ん坊にするみたいに背中を数度、優しく叩いた。
「あり、がとう……」
 途端に、掠れた声がひとこと紡ぎ、嗚咽を漏らし始める。静かながらも感情がふつふつと込み上げている目の前の少年と、今はただどう接していくかだけを、茫然と考え続けていた。
目頭は熱くなり、心は蝕まれる。ああ、どうしよう。色々追いつかないけれど、なんだかとっても愛おしいかもしれない。


***


「あれ、何お前らそんな仲なん?」
 朝一発目で一限の授業が終わり、伸びた調子で聞き慣れた声が降り注ぐ。
「ぼけっと見てないで、この眠り王子起こしてってば」
しっかりしろ、と背中を強めに叩かれると、ひばりは首根っこを突然掴まれた猫のように裏返った声を出して、気丈に笑う晴臣の方をきっと睨んだ。
「……眠いのに……」
「文句言うな、たまには授業真面目にちゃんと聞け」
 ひばりは以前に比べて表情が豊かになったように思える。
相変わらず心を許している人は少ないものの、話しかけられると受け答えをきちんとするぐらいには人としてまともになった気がした。
そればかりか水を得た魚のように、姉を飛び越えてくるぐらいの人懐っこさで相手の瞳をじっと見る癖が開花し、女子の中には数秒見つめられただけで足腰が立てなくなる人間が出るほどだった。噂はまた蔓延し、ひばりと話したがる人間はわんさか現れ、都合よく移りゆく少年少女の心はますます分からなくなってしまう。
「ほら起きて、次移動教室だから」
 足早に机を取り囲み、左手にひばりの分まで教材と筆記用具を抱え込む。先に行ってるよ、と後は晴臣に任せ、喧騒に塗れたクラスを誰よりも早く出てはまっすぐに伸びる、無機質で真っ白な廊下を緩やかな足取りで、進んでいった。
 ひまりとひばりが共存していると分かった以上、この先たぶんいつかの未来までこのぎこちない関係は続いていく。わたしは幾度となく彼女と彼を重ね続けるだろうし、会いたい会えないなんできみしかいないと、おそらく弱音も吐くだろう。ひばりはひばりでごめんねと言い続けるのだろうし、姉の死の延長線でいつまでの自分の生があることへの罪悪感はいくつになっても消えるとは限らない。
犠牲が犠牲を生み、そして犠牲が散って潰えてしまう前に、やらなければならないことがある。わたしには彼がたやすく選んでしまうであろう死を、拒んで止め続けなければならない義務がある。それが、わたしを選んでくれたひまりにできるたったひとつの恩返し。
「つかまえた」
 ふと、声と掴まれた引力に逆らえずくるりと反転し振り向いた。いつも肝心な時に限って聞こえていたはずのふたつに重なる声は、いつの間にか芯の通ったひとつの声になっていた。
脈打つ新しい心臓に、聞こえているかどうかわからない愛を込めて。
彼女が残してくれたかけがえのない存在に、まだ見ぬ無限の愛を込めて。

 ねえひまり、わたしを選んでくれてありがとう。
 向けられた笑顔はあまりにもまばゆくて、どこか優しさと自信に満ちあふれていた。

春逝くきみの、成り損ない

春逝くきみの、成り損ない

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更新日
登録日
2021-09-16

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