天使の名前

神さまは毒

「ゆりこちゃん」わたしの髪の毛束を掬いながら、彼女は言った。「悪魔って、もともと天使だったんだっけ?それとも生まれたときから悪魔なの?」
 放課後、わたしと彼女は、駅のホームの椅子に座って電車が来るのを待っていた。電車が来るまでまあまあ時間があったからか、彼女は突然、「ゆりこちゃんの髪を編み込みにする」と言い出して、今、その白い指でわたしの髪をいじっている。髪をいじられている方のわたしは、ずっと顔をあげていなければいけないので、特にすることもなく、ホームのすぐ横の踏切にぼんやりと目線を投げていた。
「それは――何、宗教によって違うとかじゃないのかしら」
 踏切の遮断機が降りていくのを見ながら、わたしは適当に答える。カン、カン、カン、とリズムよく警告音が鳴っていて、遠くからガタゴト、ゴト、ガッタ、ゴット、ガッタ、と列車が近づく音がする。
「どっちにしてもさ、悪魔だけどまあまあ気が利くいいひととか、天使だけどまあまあぐうたらなひととかいそうだよね」
「それはそうね」
 髪を掬う彼女の指の白さが、時折視界に入る。その彼女の手指によって、わたしの髪のとある毛束は別の毛束へと統合され、また別の毛束と交差し、また違う毛束と合流する。そうやって編み込みにされていく、わたしの右耳の上あたりの髪にとって、彼女の指は神さまだ。ここで彼らと合流しなさい、ここで彼らの上をまたぎなさい、ここは彼らがあなた方の上をまたいでいくところです、と道を示してくれる存在となっていた。
 向かいのホームにて、あの踏切を渡ってきた列車がゆるやかに停車した。ぷしゅう、とドアが開いて、何人かがこの駅で降りていくのが見える。踏切の警告音はもう止んでいて、遮断機のそちらとあちらで立ち止まっていた人や車が動き出しているのが見える。と、じじじ、とファスナーを開ける音が近くでした。どうやら、右隣の彼女は、わたしの髪の毛束を片手で持ちながら、彼女の黒いリュックをまさぐっているようだ。
「あれー、髪ゴムが――あ、あった」
 そんな彼女の声がした。向かいホームから列車が出ていくのを見送りつつ、しばらく待っていると、「できたよー」と声がかかる。
 ありがとう、と、わたしはワイシャツの胸ポケットに入れていた小さな鏡を取り出した。鏡を見ると、右サイドの髪が編み込みになったわたしが映っている。そっと、編み目の髪のふくらみを撫でた。たしかに、わたしの黒髪なのだけれど、わたしだけの黒髪ではないような心地がした。彼女の手指なくして、この黒髪は、このたった今の髪型にはならない。
「そういえば、前から思ってたんだけど」今日は晴れだね、と言うのと同じテンションで彼女は言った。「ゆりこちゃんはね、悪魔だと思うよ」
「どうして?」わたしは鏡を閉じながら、彼女の方を向いた。
「ゆりこちゃんはわたしの毒だからね」
 彼女はにい、と口角を上げて笑った。悪魔が意地悪くにやにやしているようにも見えたし、天使が安らかに微笑むようにも見えた。わたしはもう一度、彼女に編み込みにしてもらったところの髪を撫でた。さっきまで彼女が触っていたわたしの髪だと思うと、なんとなく、ほどきたくなくなる。この編み目をだいじにしたい。なるほど、わたしから見れば、たしかに彼女はわたしの毒だ。同時に、わたしは彼女の毒でもあるのだろう。
「そうね」
 わたしは短く返事をした。ホームに『まもなく二番線に電車が参ります』というアナウンスが流れた。また、駅のすぐ横の踏切の遮断機が降り始めた。わたしたちはふたりともなく立ち上がって、悪魔でも天使でもない、青二才の人間の姿をして、黄色い点字ブロックの内側に立った。

一分間

 僕から見れば、篠崎さんはクラスで浮いていた。大抵、ひとりでいるからだ。でも、篠崎さん自身は、それを何とも思っていないみたいだった。隣のF組の女子の、ナントカって人と仲がいいらしくて、昼休みになると、その人が篠崎さんをクラスから連れ出してどこかへ行っているらしかった。“そう”、“らしい”。本当のところは、僕には知る由もないけれど。
 木曜日課の四限目の古典、僕は壁の時計をちらりと見た。授業が終わるまであと十分だった。先生は時折白髪頭を掻きながら授業を展開させ、前の席の篠崎さんは時折窓の外を眺めながらノートを取っており、黄色いカーテンは僕のすぐ左で時折風に揺れる。窓際、前から二番目の席から見える景色としては、いつもと変わらない。
 こう、授業が終わる十分前だな、とか思って時計を見てしまうと、その“あと十分”の十分間はかなり長く感じてしまうのが常だ。僕は欠伸を噛み殺すことで、短いようで長い“あと十分”との戦いに身を投げた――そのときだった。
 ぶわり、と、ややぬるい風が教室を吹き抜けた。黄色いカーテンがスカートのように大きく膨らんで、僕の視界を遮った。窓が全開だった、らしい。慌てて僕は窓枠に手を伸ばし、するすると窓を閉める。膨らんでいたカーテンは次第に、さあっと窓に寄り添うように元の位置へ帰っていく。その、波が引いていくようなカーテンの向こうに、翼が見えた、気がした。真っ白い翼。ちょうど、天使の羽、みたいな。
 僕は呆気にとられた。とうにカーテンは大人しく黙っている。もう風は吹き抜けない。篠崎さんはノートを取っている。先生は何か喋っている。ただ、篠崎さんの背中に、翼が生えている。白くて、艶が少しあって、教室の灯りにやわらかく照る。どこも汚れていない。真っ白いワイシャツを着た背中から、当たり前のようにそこにある。左側の翼は壁にやや窮屈そうだが、右側の翼は今にも羽ばたいて僕の机のものを蹴散らしそうなほど、伸び伸びと広がっている。篠崎さんは、まさか、もしかして、この翼で宙に浮くことができるのだろうか。もしかして、天使だったりするのだろうか。その背中を見つめれば見つめるほど余計、僕には知る由もないことばかりが頭に浮かぶ。僕は唾を飲むこともできなくて、舌の奥と上顎の間にどんどん唾液が溜まっていった。先生が何かギャグを言ったらしく、教室に広がったくすくすという笑い声がとても遠くから聞こえた。しかし、僕の目は依然、篠崎さんの背中に釘付けだった。
「おい、高木」
 僕は先生に名前を呼ばれた。はっとして教卓の方に目を向けた。
「ちょっとぼおっとしてたなあ?まだ四時間目だぞ~」先生がワイシャツを腕まくりした。「次の文の現代語訳、高木、お願いします」
 焦りながら、教科書とノートに目を落とす。たぶん、先生はここの文のことを言っている。口を開こうと、急いで顔を上げた。
 あ、という声が漏れるところだった。前の席の篠崎さんの背中から生えていたはずの翼は、もうなかった。ただ、篠崎さんの真っ白いワイシャツの背中があった。僕は口を閉じた。そしてもう一度、教科書とノートに目を落とした。ノートの罫線の間の白いところがやけに目について、四時間目の授業が終わるまであと九分だった。

天使の名前

 あたしは、ゆりこちゃんが天使だということを知っていた。人類を天使っぽいひとと悪魔っぽいひとに分けるとすれば、ゆりこちゃんは紛れもなく天使側だった。何をもって天使と悪魔とを分かつ、詳しくは知らないけれど、ゆりこちゃんは落ち着いていて、人が良くて、でもちょっとミステリアスなところが面白くて、長くて黒い髪が綺麗で、微笑み方が優しくてやわらかくて、天使。でも、そんなゆりこちゃんの近くにあたしがいるとき、ゆりこちゃんは、天使ではなかった。ゆりこちゃんはゆりこちゃんだった。あたしの近くで笑っているゆりこちゃんだった。
「ゆりこちゃーん」
 昼休みになってすぐ、あたしがずかずかとE組に入っていくと、ゆりこちゃんはちょうど、後ろの席の男子から消しゴムを手渡されているところだった。
「あ、ありがとう」
 ゆりこちゃんはそう言って、消しゴムを受け取った。たぶん、ゆりこちゃんが落としちゃった消しゴムを、男の子が拾ってくれたとか、そんなんだと思う。
「あの、篠崎さん」
 と、後ろの席の男の子は、何か言いたげにゆりこちゃんのことを見ていた。でも、あたしはすぐさまゆりこちゃんのところに駆け寄って、「ゆりこちゃん!」と、男の子の方を向いているゆりこちゃんの肩をとんとんした。ゆりこちゃんは、ああ、と、こっちを振り向いた。篠崎さん、とゆりこちゃんを呼んでいた男の子は、ああ、と目を伏せた。なんか、ぱっとしない男の子だった。でも、男の子の机の古典の教科書には、丁寧な筆跡で「高木稔」と記名してあって、まあ、真面目な人なんだろうなと思った。
 二年生になってからゆりこちゃんは、このクラスでは大抵ひとりでいるって言ってた。必要最低限の会話の用件以外で、誰かに話しかけられている二年生のゆりこちゃんを目撃したのは、あたしはこれが初めてだった。ふうん、ゆりこちゃんは、E組の人に、篠崎さん、って、呼ばれてるのね。
「ごはん食べよー」
 あたしはゆりこちゃんの前で、お弁当箱を入れている小さめのトートバックをゆらゆらさせた。うん、と、ゆりこちゃんは言った。ゆりこちゃんはちらり、高木くんという男の子の方を見たけれど、結局何にも言わずに立ち上がった。男の子は、立ち上がったゆりこちゃんの背中をじっと見ていた。まるで、猫が見知らぬ人を凝視しているような感じで。そんな様子の男の子をあたしが見ていたことに、男の子自身が気づくと、男の子はまた、目を伏せた。何?と思った。何がそんなに気になるの?ゆりこちゃんと一緒に教室を出ていきながら、ゆりこちゃんの背中を見てみたけれど、ただそれは、真っ白いワイシャツを着たゆりこちゃんの背中だった。それ以上でも以下でもなかった。
 あたしとゆりこちゃんはいつも、人のあまりいない事務棟の、最上階の廊下の長椅子に座ってお弁当を食べることにしている。人がいないのが、いい。窓から見えるのは空と向かいの教室棟だけで、木とかの自然は何も見えないのが、いい。無機質な白い壁が長椅子に座るあたしたちを囲んでいるのが、いい。
 あたしたちは喋らないで、いつものように静かに昼ごはんを食べた。お喋りしながらものを食べるのが、ふたりとも不得意だった。そういうところが合うのが、あたしはうれしい。お互い、肩をぎゅっと近くに寄せて座っていながら、黙々と食べる。
 あたしはお弁当のゆかりごはんを咀嚼しながら、さっきの、高木くんとかいう男の子のことを考えた。あの人、ゆりこちゃんのこと、篠崎さん、って呼んでたな。そっか。ゆりこちゃんって、篠崎由理子、だもんね。ゆりこちゃんのことは、ずっとゆりこちゃんって呼んでいたから、いざゆりこちゃんのフルネームを思い浮かべるとなんか変な感じがする。あたしにとって、篠崎由理子はゆりこちゃんだから。ゆりこちゃんと呼ぶことで、ゆりこちゃんはゆりこちゃんになるから。
 食べ終わったお弁当の蓋を閉じながら、あたしは口を開いた。
「ゆりこちゃんって、クラスのひとになんて呼ばれてるの?」
 ゆりこちゃんは水筒のお茶を飲みながら、え、と軽く目を開いた。
「篠崎さん、とかじゃない」
 からから、とゆりこちゃんはタンブラーの蓋を閉めた。
「家族はなんて?」
「ゆりこ、かなあ」
「じゃあゆりこちゃんって呼んでるの、あたしだけ?」
「そうかもね」
 ふうん。あたしはそう聞いて、ふうん、という顔をするように努めたけれど、実は内心、うれしかった。ゆりこちゃんは、あたしの前だけで、ゆりこちゃんだった。
「ねえ、昨日みたいに、また編み込みにしてあげる」
「ほんと?」
「あれがいい、あの、編み込みハーフアップにしたい」
 わかった、と、ゆりこちゃんは片づけたお弁当を膝に置いて、髪を手櫛で梳かしながらわたしに背を向けた。
「じゃあやるねー」
「うん、よろしく」
 ゆりこちゃんが、艶のある黒髪を耳にかけた。と、目を見張る出来事が起きた。ゆりこちゃんの背中に、翼が生えていた。黒々とした、カラスみたいな、翼。真っ白いワイシャツによく映える色だった。窓からの日光に、ぼんやりと艶めく翼。とても綺麗で、あたしは息をのんだ。息をのまないと、肺が凍てついてしまうんじゃないかと思った。綺麗なものの前では、空気はたぶん、冷たくなると思う。綺麗なものの前では、冬の空気のように、すべてがキンッと研ぎ澄まされていないと、綺麗なものその綺麗さに見合わない。
「ゆりこちゃん」
 あたしはそっとゆりこちゃんの肩に両腕を回して、後ろからゆりこちゃんに軽く抱きついた。ゆりこちゃんの黒い髪とあたしの前髪が交わりそうなほど、顔が近づいた。ゆりこちゃんの体は温かかった。ふっと、ゆりこちゃんの背中から生えていた黒い翼が跡形もなく消えた。
「何?」
 ゆりこちゃんは、いつものように言った。
「うーん、ご飯食べてねむい」
「早すぎるわよ、ねむくなるの」
 あはは、とあたしは笑って、回していた腕をゆりこちゃんから離した。高木くんという男の子も、もしかして、ゆりこちゃんの翼を見たのだろうか。ゆりこちゃんの背中からなぜ、翼が生えたように見えたのだろうか。そんなこと、知る術なんかないけれど、あたしはゆりこちゃんの名前を呼んだ。「ゆりこちゃん」
 ゆりこちゃんがこっちを向いた。黒い瞳が、シャープさを持って光った。あたしはどきりとした。ゆりこちゃんのそういう目を初めて見た。あたしの知らないゆりこちゃんが、ちらりと見えた、ような気がした。
「やっぱり、昨日と同じように、耳の上の髪だけ編み込みにするね」
「そう」
 あたしは、ゆりこちゃんのサイドの髪を編み込みにした。ゆりこちゃんの髪は、ちょうどさっき見た翼のように、悪魔的に黒くて、悪魔的に綺麗で、あたしはやっぱりゆりこちゃんが天使だと思った。

天使の名前

2021年9月 作成 / 2021年9月 某高等学校文学部の部誌に掲載

天使の名前

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-15

Copyrighted
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  1. 神さまは毒
  2. 一分間
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