獣頭症の治しかた
私は、愚かだった。無知でどうしようもなく馬鹿だった。ただ幼かった。幼さ故の持て余し気味の怒り、思うようにいかない理不尽さ。反抗心。暴力性。傷つけた人間はどれくらいだろう。
己の愚かさに気づいたのは高校卒業後で、遅いながらも反省して今まで生きてきた。真面目に愚直に、生きてきたつもりだ。
でも私は、私が傷つけた人間がその後どうやって、どんな思いで生きてきたか、なんて考えもしなかった。反省したと思っているのは私だけで、相手は知る由もない。
「桜庭。おまえ、桜庭だろう」
バイト先から帰る夜道、誰かの左耳だけが街灯で照らされているのが見えた。特徴的なそれは、苦い記憶を思い出させるには充分だ。
桜庭だ。何年会わなくてもわかった。
街灯の真下に移動した桜庭に、街灯のスポットライトが当たる。まるで物語の主人公みたいだ。ひどく震える手には、鈍い光を放つサバイバルナイフようなものが握られていた。
桜庭の耳。頭の上についている三角の耳、左耳が上三センチほど欠けていた。
桜庭は獣頭症だ。
獣頭症は、ある日突然首から上が人間以外の動物に変わってしまうという奇病である。近年発症が相次いで見つかっているがまだ解明されておらず治療法もない。十分な睡眠と適度な運動、バランスの取れた食事というただの健康法しか今のところ予防策はない言われている。
桜庭と私は同級生だった。あの頃、私は反抗期だった。全てに反抗的で暴力的でいつも何かにいら立っている。
ある日、突然獣頭症になった桜庭はクラス内でいじめの対象になった。というよりも、私の攻撃対象になった。今思い出しても恥ずかしいが、私は狭い世界で権力を持ち、思うままに行動し、まさに暴君だった。正してくれる人も居なかったわけだが。
耳を刈り取った。
暴れる桜庭を押さえつけ、止まらないうめき声と叫び声。桜庭が暴れれば暴れるほど、私の中から残虐性が呼び覚まされるようだった。あの生あたたかい耳の感触。
流れ出る妙にどろっとした血を見て、あれだけ周りではやし立てていた同級生たちは静かになっていた。
「なんとか許そうとしたんだ。憎み続けるのは疲れるから。……でも許せなかった。押さえつけられて削ぎ落とされたあの痛みがお前にわかるはずもない」
中学生だった私が起こした事件はマスメディアに取り上げられ、獣頭症が広く知られるきっかけになった。
私は転校を余儀なくされ、精神治療を受けて名を変えた。
「桜庭。俺は反省したんだ。今は真面目に生きてる。俺だって苦しんだんだ」
結局まともな職業には就けなかった。今でも点々としながら、過去が知られる恐ろしさに息を殺して生きている。
「知ってるか。獣頭症は治す方法があるんだ」
桜庭はナイフを変わらずこちらに突きつけて言った。
「移せばいいんだ。こいつに移すと決めて、強く願えばいい。呪えばいいんだ」
呪い? 桜庭おかしくなったのか。呪いだなんて、そんな非科学的な。
「そんなわけないだろ桜庭。そんなわけ……」
すると、見る間に桜庭は人間の顔になっていった。私の記憶にある獣頭症になる前の桜庭よりも年を取っている。面影があった。
地面に浮かぶ私のシルエット。頭から何かが生えている。顔を触ると長い毛が指の隙間からはあふれ出る。
「●●●」
しゃがみ込む私に、桜庭は名前を変える前の私の名前を優しく呼んだ。そして頭に生えた右耳にナイフを当てる。鋭い冷たさが、耳は確かに私の一部だと教えていた。
しかし、桜庭は小さく息をはいて腕を下ろした。
「●●●、お前も同じ目に合わせてやろうと思ったけど、なんていうか……もうどうでもいいな」
サバイバルナイフを捨てて言った。
「お前は、俺に謝ることすら思いつかないんだな」
遠くなっていく桜庭の背を見ながら、私を呪ったことで削られた桜庭の命を見た。
どうしようもない救いようのない取り返しのつかない私の人生を思った。
「ごめん」
暗闇に言った言葉は誰にも聞こえていない。
獣頭症の治しかた