西南京都犬神使い

一式李人

  1. 西南京都1
  2. 現実1
  3. 現実2
  4. 西南京都2
  5. 西南京都3
  6. 西南京都4
  7. 現実3
  8. 現実4
  9. 現実5
  10. 西南京都5
  11. 西南京都6
  12. 現実6
  13. 現実7
  14. 西南京都7
  15. 現実8
  16. 西南京都8
  17. 過ぎた夏の日1
  18. 現実9
  19. 現実10
  20. 西南京都9
  21. 西南京都10
  22. 西南京都11
  23. 現実11
  24. 現実12
  25. 現実13
  26. 現実14
  27. 西南京都12
  28. 西南京都13
  29. 現実15
  30. 現実16
  31. 現実17
  32. 現実´1
  33. 西南京都14
  34. 現実´2
  35. 現実18
  36. 現実´3
  37. 過ぎた夏の日2
  38. 現実´4
  39. 現実´5
  40. 現実´6
  41. 現実´7及び現実19
  42. 現実20
  43. 現実21

西南京都1

 夕暮れを常とする薄紅色の空に、太陽と月が同時に浮かんでいた。
 長屋の井戸から汲まれた水が、夕顔の花を濡らし、滴った水が雨蛙の頭で跳ねる。その様子を見下ろしていたカラスが阿呆と声を降らせて飛び立った。瓦屋根をいくつも越して一件の屋敷の門にとまった。
 そこに真神まかみとロウエンは住んでいた。
 最初から二人だ。他にも誰かいたような気がするのは、幻にも似ていた。
 真神はロウエンの紅い袴の膝を借りて、午睡ひるねをしていた。彼女は透き通った声で歌う。真神のために紡がれる詩と琴の調べは、心地よい休息をもたらした。
 そのようにぐうたらな真神を、揶揄する声が板塀の向こうから聞こえるが、言わせておけと思う。どうせ長宗我部ちょうそかべの獣が暴れ出したとき、立ち向かえるのは真神しかいないのだ。

「なあロウエン」
 真神が声をかけると、ロウエンの歌がぴたりとやんだ。
「長宗我部の獣とはいったい何だろう」
 その化け物との戦いは十年にも及ぶ。初めて戦ったのは八歳の頃だったろうか。街を破壊し、暮らす人々を取って食らわんとする長宗我部の獣を、ロウエンとともに退治してきた。
 西南京都の影が少しずつ集まって、巨大な形を成し、破壊の意志を持ったとき、長宗我部の獣となる。それだけはなんとなくわかっている。
 獣は様々な形をとる。そのいずれも、えぐられた精神から生み出されたような姿で、対峙する真神の中に生々しい嫌悪を呼び起こす。

「一年ごとに出没することに、何か意味があるのだろうか。それにあの叫び声」
 獣は恐ろしい声を持っている。どこか奈落を隔てた向こうから轟く叫びなのだと、真神は思う。
「この戦いはいつまで続くんだろう」
 果てしなく湧いてくる獣は、回を重ねるごとに強く、狡猾になっていき、それに合わせて真神も腕を磨いてきた。
 すべてはこの西南京都を護るためだった。恐ろしい牙にかけられようとする人々を救うためだった。真神がやらなければ、獣は歯止めをなくして暴れまわり、下手をすれば死人が出かねない。
 今まで一人の犠牲も出ていないことが、真神の努力を証明していた。
「それに、八尋やひろ」
 八尋という初老の男が何者なのか、真神には正直よくわからない。ただ、彼は長宗我部の獣が暴れるのを利用して、幾度も真神に挑んできた。

 初めて出会ったのは九歳のとき。
 夜雀やすずめという長曾我部の獣と戦ったときだ。夜雀は町じゅうに盲目の呪いをかけており、その黒幕が八尋だった。闇夜の一部から浮かび上がるように彼は現れた。黒い雀が八尋を覆い隠していたのが、一斉に飛び立ったからそう見えたのだ。彼は黒い雀に囲まれながら、見かけない三つ揃いのスーツ姿で、ステッキをかざした。
「おおやって来たやって来た。呪わしき犬神の子よ」
 妖の中でも強大な力を持つ者を『長曾我部の獣』と呼ぶ。それを八尋が操っているかのように見えるときもあった。彼は真神に敵意を抱いていて、その点で長宗我部の獣と利害が一致している。

「実際は、波を借りて泳いでいるようなものかもしれない」
 真神はそんなふうに思った。妖が暴れる現象に八尋は便乗しているだけなのだ。その証拠に、長曾我部の獣のほうでは八尋の意志などどうでもいいのだということが、最近になってわかってきた。
「あいつはこの前、獣の攻撃の巻き添えを食っていた」
 そのときの獣は、妖しくぬめる心臓のような姿をしていた。膨らんだ血管の先から迸る白液は、真神のみならず八尋の脚も、硫酸のように焼いていた。
 そして八尋は逃げる間際に言ったのだ。

「我が母を返せ、シラチゴ! お前が埋め、その首を刈ったのだ!」
 真神は天井を見ながら手を伸ばし、ロウエンの首に触れた。白く透き通った肌に、茨を思わせる縫い跡がある。
「なあロウエン。八尋は、君を母と言ったのか」
 ロウエンは少し首をかしげ、
「そうかもしれぬ」
 そっと吹く風のような声で言った。

 そのときだった。屋敷が、いや大地そのものが鳴動したのは。
 突き上げるような振動があって、池の水がはね、梢が大きく頭を振った。天井から砂がこぼれ落ちてくる。
「行くぞロウエン」
 真神は立ち上がった。これほどの異変、その源は長宗我部の獣に違いない。
 街は悲鳴に包まれていた。瓦屋根が路傍で割れている。火の手も上がっていた。
 中空を燃えカスのように漂う影が、意志を持って泳いでいる。それらはひとつの方角を目指しているのだ。真神は空を仰ぎ、見当をつける。
「学問所のほうだ」

 駆け出した。地を蹴って飛ぶ。ロウエンと手をつなぎ、地面すれすれを飛行する。逃げ惑う人々に逆行する。やがて見えてきた。四階建ての学問所をまたぐほどの巨体を、鎧兜で武装した漆黒の武者だった。
 がらんとした校庭に孤独な人影があった。八尋である。また邪魔をするつもりか、と真神はうんざりしたが、どうやら違う。八尋はうずくまって、下の土は血を吸っているのだ。
「おお、シラチゴ。ようやく来おったわ」
「八尋。今回の騒ぎはお前の仕業じゃなさそうだな」
 八尋は顔を苦痛に歪めて「当然だ」と呟いた。
 どうやら八尋は鎧武者と一戦を交えたらしかった。

「強いぞ、あれは。今までの比にならん。覚悟せよ、シラチゴ」
 八尋が激しく咳き込む。
「黙っておれ八尋。死ぬぞ」
 ロウエンが声をかけると、八尋は青白い顔を振り向けた。
「母上。わしをお忘れか。母の胎内におった、このわしをお忘れか」
 ロウエンの瞳が揺らいだ。身体の奥深くが反応したようにしばし硬直したが、すぐに彼女は首を振る。

「知らぬ、おぬしなど」
 拒絶にしては生ぬるい感情がこもっており、八尋は疲れたような笑みを返した。
「シラチゴよ。思い出せ。山深い集落で、我が母を埋め、苦しむさまを眺め、そして」
「今はそれどころじゃない」
 真神は鎧武者を仰いだ。本当を言えば八尋の眼差しを受け止めきれず、視線を逃がしたのだった。
 街を破壊しつくさんとする鎧武者に、真神とロウエンは立ち向かった。が恐ろしく強い。ロウエンの放つ火炎はことごとく太刀でさばかれ、真神が渾身の力を込めてふるった刀も、硬質の鎧に弾かれた。

 二人の体力はじわじわと削られていき、とうとうその場から一歩も動く気力がなくなった。
 刀を杖に立とうとした。しかし真神の膝は軋むばかりだ。
 鎧武者が太刀を振り上げた。逃げるすべを失い、真神は死を覚悟した。
 刃が一直線に落ちて来ようとしたとき、その巨大な腕にロウエンが掴みかかった。
 鎧武者は思いのほか怯え、ロウエンを振り落とそうとした。
「やめろ!」
 真神は叫んでいた。ロウエンは必死の形相で食らいつく。それも無駄なことだった。大きな真っ黒い手が伸びてきて、ロウエンの体を握り込んだ。ロウエンはその指に噛みつくが、脱することはできず、とうとう兜の下顎の中に放り込まれてしまった。

 真神は叫んだ。全身が壊れるのを覚悟して、感情の炸裂するままに駆け出した。
 しかし刃は届かず、真神の体も手中に捕らわれた。
 暴れる力ももうなかった。
 黒々とした顎あぎとが開いていた。
 呑まれようとする一瞬、地上にうずくまる八尋と目が合った。
 八尋が口を開いた。
「どこまでも追うぞ、シラチゴよ!」
 轟いた。呪詛でも怨嗟でもなかった。必ず生きて会いに行くぞ。そのように聞こえた。
 そして真神は鎧武者に呑まれた。視界を覆う闇が口の中にまで入り込み、肉と臓腑を蝕んだ。思考までが黒く塗りつぶされたところで、それまで続いていた意識はぷつりと切れた。

現実1

 昨日の晩飯に一服盛られたのではないか。大口真神は毎日のように疑う。それほど体が言うことを聞かない。
 別に一服盛られなくとも、食後に薬を飲まねばならない。飲まねば生活すらままならぬ、少なくともこの現実では。
 ずっと夢を見ていたい。夢の中なら体は軽い。瓦屋根の塔を次から次へと飛び移れるほどに軽い。
 だが目が覚めてみればこのざまだ。まるで誰かが腹に石ころを詰めて、こっそり縫い合わせたかのようではないか。

 力一杯に鳴く蝉の声が、ひどく恨めしい。
 布団から出なければならない。横になる時間が長すぎて、さすがに背骨が痛くなってきた。
 遠くから、仏壇の鈴を鳴らす音がした。妹の真奈が線香をあげたのだろう。あの涼やかな音色は、こんなにも遠くまで響くのだ。その響きが少しだけ全身を軽くしてくれる。
 手を畳につき、渾身の力を込めて、布団から這い出た。重力が忌々しい。ニュートンめ、と真神は思う。万有引力があるのはニュートンのせいではないのだから、とんだとばっちりである。
 腹が減るのも忌々しいのだ。何ら社会に貢献していない自分が、しかし食わねば生きられない。地中に穴を掘って即身仏になりたいと切に願うが、穴を掘る馬力があるなら、そもそもこれほど苦悩はしない。

 金縛りが腕立て伏せするような姿勢のまま、どれだけ過ぎただろう。真神は苦しみに歪めた顔を少し上げた。廊下にほっそりした脚を見た。視線をあげると妹の真奈が中学の制服姿でこちらを見ている。虫を観察するような目だ。
 起こしてくれ、と言いたいが、真神には言えない。嫌だ、と突き放されたときの絶望を思うと、言えない。
 地球の重みに抗って、立ち上がった。少しふらつく。
 真奈は相変わらずの冷めた視線で、
「朝ごはんできてるから」
 それだけ言うと、ふいと顔を背けて、去ってしまった。

 朝食は目玉焼きと味噌汁だった。食事だけが美味いと感じる。そのほかのことがまるで砂を噛むようであるから、食うためだけに生きているみたいで、つくづく嫌になる。
 朝食を終えたからといって向かう場所はない。
 どこにもない。学校さえも行かなくていい。もうやめてしまったから。

 高校三年生になったばかりの春先、なぜ教室で暴れ出してしまったのか、真神にはわからない。
 ただ、うたた寝から目を覚ますと、周囲の光景が異様に映った。大勢の同年代とともに、狭い室内に閉じ込められている。誰かの罠にはまったような感覚がした。息がつまる、肺が締め付けられる。
 隣の席に浅葱久美がいた。不思議そうな顔でこちらを見ている彼女は幼なじみだ。そのはずだ。しかし何かが違うのだ。雰囲気、いや、体表面から滲み出る魂とでも言おうか。

「真神君、どうしたの。気分悪いの」
 無機質な教室に圧迫されるようだった。浅葱と目を合わせていると、脳裏になぜか、初老の男の顔がよぎった。銀色の髪とひげを蓄えた老紳士は、眉間にしわを寄せ、重々しい声を真神の頭に響かせた。
「どこまでも追うぞ、白児シラチゴよ」
 犬神の弟子、シラチゴ。
 途端、真神は立ち上がり、椅子を持ち上げていた。
「どこだ八尋」
 そう叫んだという。そこからの記憶はあいまいだ。

 真神は椅子を振り回した。見えない敵を威嚇するように。教室に悲鳴が上がり、生徒たちが壁際に逃げた。真神はある女性の姿を捜していた。いつも傍らに寄り添っていたはずの彼女は、しかしどこにもいなかった。「狼焔ロウエン、どこにいるんだ、ロウエン!」やがてサイレンの音が駆け付けた。いよいよ鼓動が切迫してきたとき、ようやく真神は、懐かしい彼女の声を聞いた。
「私はここにいる」
 聞きたかった声に安らぎを覚えた真神は、膝をついて脱力した。手から滑り落ちた椅子がけたたましい音を立てた。そして真神は湿った床に取り押さえられた。

 あのときの騒ぎが呼び起こされるのは、静かな屋敷に一人でいるからだろうか。しかし老紳士が何者だったのか、自分が何におびえていたのか、それは明瞭としない。
「ロウエン、どこに行っちまったんだ」
 答える声はない。
 屋敷に母はいるのか。いかんせん広すぎる。気配がない。なにもない。静寂だ。
 ぼおっと座っているうちに、時計は十時を過ぎていた。一時間以上もぼおっとしていたことになる。尻が椅子に張り付いたように、動けない。動かねばならない。渾身の力を振り絞って立ち上がる。ふとテーブルに弁当袋があるのを見つける。真奈が忘れていったのだ。これから二度寝しようと思っていたのだが、どうやらそういうわけにもいかないようだ。
 弁当を届けねばならない。腹が減っては午後の授業もできまい。
 面倒くさいが、外出の名目ができたのが、なんとなく幸いだ。

現実2

 自転車で真奈の学校へ行こうかと思ったが、途中でふらついて事故にでもあったら面倒なので、歩くことにする。
 田舎に不似合いな痛車がずあっと風を鳴らして過ぎ去った。車体に描かれていたイラストは確かボーカロイドというのだったか。
 自動車という奴は怖い。あんな鉄の棺桶に人が入って動かすなんて、ぞっとする。朧車おぼろぐるまであれば。鬼女の顔がついたあの牛車であれば、事故などめったに起きない。朧車の意思は確かで、ぐうぐう居眠りすることはめったにない。車の後ろに鬼女の顔がついているのに、どうやって乗るのかって? 簡単だ、口の中に入るのさ。

 そんな話をいつだったか担当医師にしてみたら、「いずれ自動運転が主流になりますよ」と、どこかかみ合わない答えを返された。つまりあの鉄の棺桶にも、近いうち意思が宿るらしい。
 その意思は、心と呼べるのか。信頼に足るものなのか。ぐだぐだ考えながら、田園地帯を横目にすぎ、橋を渡り、中心市街地へ。

 道路が碁盤の目状に区画されている。応仁の乱を避けてこの地を訪れた関白一条教房公が、京文化を懐かしんでその風習を伝えたのだという。高知県西部を治めていた一条公はしかし土佐の長曾我部氏に滅ぼされたのだ。
 しかも京風の街並みは昭和の南海大地震によって軒並み崩れ、今あるのは取り立てて特徴のない風景である。名ばかりの小京都である。
 日本のどこにでもあるような田舎町を、小京都と自信満々に呼べる奴らは郷土愛が強すぎる。町全体が疲れ切っているではないか。疲れ切っているのは自分の精神か。ああ、そうかもしれない。どこに暮らそうとこの胸には無色の景色がすり抜けていくだけだ。

 学校へ直行するのが恥ずかしく思われて、意味もなく碁盤の目をかくかくする。一條鶴井公園の東屋を見つけて腰を下ろす。四万十川から引いてきた水が滝となって流れ、東屋の周囲で小川になっている。水流の一定した旋律に身をゆだねる。
 そろそろ。そろそろ行かねばならないか。腰を上げる。学校を目指しながら考える。そもそも部外者が、どうやって弁当を届ければよいのだろう。校内に入るわけにはいかないし、大声で呼ばわるわけにもいかない。妹は携帯電話を持っているが、真神は持っていない。解約したのだ。はて、おかしい。携帯電話などいつ契約したのだろう。おかげで解約の手続きが面倒だった。
 いらんことを考えているうちに、校門の前まで来てしまった。
 困った。
 弁当袋をいかにして届けるべきか。まるで案山子かかしのように突っ立っている。

 そもそも授業中だと届けられないではないか。昼休みが来るまで、ずっとこうしているつもりなのか。
 間もなくして校内から教師と思しき者が出てきた。体格のいい男性だ。不審そうな視線で射られた真神は、たどたどしくなりながら、事情を説明した。妹に弁当を届けに来ただけです、と。
 それからさらに待っていると、真奈が昇降口から前のめりに出てきた。顔が真っ赤だった。赤鬼のような形相だった。
 真奈が真神の眼前に立つ。真奈が勢い良く手を振った、と思ったときには、弁当袋は叩き落とされていた。まるで真神は魂そのものを平手で叩かれたようだった。妹はくるりと背を向け、怒り肩で去っていく。それをただ見つめるしかなかった。

西南京都2

 俺は家族の恥なのだ。
 と真神は思った。
 ふらふらさ迷い歩き、どこに腰かけたかもわからぬ。泥沼のような睡魔に襲われるがままになり、気付くと幼いころの夢を見ていた。
 いや、これは幼いころの夢の夢だ。
「とうとう来よったわい、災いの種が」
 暗闇からしわがれた声がする。また別の高い声が。
「犬神憑きとはね。長曾我部の獣が目を覚ますや」
 真神の眠気が遠のいて瞼がゆっくり開き、それを覗き込んでいたのは、大きな目玉。

「おお、目を覚ましよった」
 目を見開いた真神は思わず腰をはねて飛び退っていた。
 眼前にいるのが奇妙な風体の老人だったからである。
 右目が異様に大きく、反して左目は小さい。髪の毛が脂ぎってほうけている。
「なんじゃこのガキ、人を化け物みたいな目で見おって」
「仕方ないや、向こうには俺らみたいなのはおらんてオカネさんが言ってたさ」
 老人の隣には小さい子供がおり、しかし目は真ん中に一つあるだけ。口すらついていないというのに、高い声を繰り出す発声器官はどこにあるのか。
 老人が痩せた腰を伸ばした。そして気づく、彼には脚が一本しかない。

「おい坊主」と片脚の老人は言った。「名前は言えるか」
 真神はしばらく呆然としてから名乗った。
「大口真神、か」
 老人は大きい右目をより見開いた。
「オカネの言うことぁ正しかったな。あの姉あねさん、何度目かの鬼籍に入ったらしい。しかもそのときの孫だと言いよった、こいつが」
「この犬神憑きが? 迷惑な話さ」
 一つ目小僧は半眼になる。
「まあ、そう言うな。こやつもそれなりに苦しんで、だからこっちに来よったのよ。黄泉路よみじの野郎に風体がよう似とる。おめえ、いくつじゃ」

 真神は「八歳」とおじけづきながら答えた。
「は、乳飲み子のようなもんさ」
 一つ目小僧がケラケラ笑う。それを老人は手で制した。そして言う。
「そうか、ところでな、真神。その犬神じゃが」
 片脚の老人が真神の後ろを指すので、思わず振り向いた。
 そこに一人の少女が立っていた。中学生くらい。髪はふわりと長い小麦色、そして獣の耳と尻尾がついている。赤い袴で、巫女さんのような姿だった。
 周囲の雑木林が風でざわざわ鳴った。

「おい」
 老人が真神をデコピンする。
「見とれとる場合か。この犬神はお前さんのじゃろう」
「僕、の?」
 真神は首をかしげざるを得なかった。
「白児子シラチゴじゃろう、お前」
「シラチゴ?」
「そう。犬神の弟子シラチゴにして西南京都の犬神使い、其は災いを連れて西南京都に来きたる。己が災いを己が手で刈り取るため。と、オカネが占術で予言した」
「その通りになったな」
 と一つ目小僧がキンキン高い声で。

 老人が目をつむってやれやれと腕を組んだ。
「いかんな、思いのほかすっとぼけたガキじゃ。先が思いやられる」
「どこで育てる気さ、こんなやつ。お前んとこどうさ」
「馬鹿いえ、わしはみての通り、オカネにやられて片脚で、異形者年金でカツカツじゃ」
「それを言うなら僕だって目は一つだい。お前さんは乱暴だからいけないや。酒代が切れるとオカネさんじゃないと手に負えない。そんで片脚吹っ飛ばされた」
「ええい、言うな」老人は頭をぼりぼり掻いた。「覚えとらん。わしももう長くないかもしれん。酔うたとはいえ、人の馬を食ろうて、しかもオカネに挑みかかるとは。命が残っとるだけでも幸いじゃ」

 老人はまた器用に片脚で腰をかがめた。
「真神、これから西南京都の市街に向かう。そこにお前さんの屋敷がある。正確にはオカネの屋敷じゃ。詳しい話はそこで聞け」
「あと黄泉路の奴にも会わせんとな」
「そうじゃそうじゃ」
 紫紺の空の東西に、太陽と月が同時にある。
 真神と犬神なる少女は二人の奇怪なものに導かれて、山道に停められてある平安か室町時代の牛車のようなものへ向かった。しかし牛はいない。客が乗る暗闇からぬうっと鬼女の顔が浮かび上がってきたので、またも悲鳴を上げて腰を抜かしてしまった。
「朧車も初めてか。こんなもんでいちいちたまげよったら、命がいくつあっても足りんぞ」
 老人が呆れた声で鬼女の上あごを持ち上げる。大きな口が開き、その中へ入っていった。

 え、これに入るの? と真神はうろたえ、しかし一つ目小僧が入り、犬神の少女も入ったから、自分も入るしかない。
 うげえ、と思ったが、しかし口の中は唾液もなくやわらかで、なんなら心地よいくらいだった。ガラガラと車の回る音がして、動き出したようだ。揺れはない。

西南京都3

 朧車がどこをどう走っているのか、中にいる真神からはわからなかった。
 灯りはなく薄暗い。
 すだれの窓を上げれば景色が見えるかもしれないが、真神はそれをする勇気がない。
 ただ道中、向かいに座っている一つ目小僧がすだれから外を見て、
「浅葱あさぎさんはどうしてますかい。ははあ、それはいけないや。さっそく呪いにかけられてしまって。伏せっておられる、いけねえや、犬神使いなら中にいるよ。会いたくない、困ったね、本当に困ったのが来たよ」
 誰かと話していたようだ。また車は回りだす。

 しばらくすると疲れからうとうとして、身が傾き、不意な車体の反動に目を覚ますと、真神は隣の犬耳の少女に頭をもたれていた。「すみません」と跳ね起きる。
「構わぬ」
 年上の少女はそよぐ花のように笑った。
「さあて、着いたぞ、真神」
 右目の大きい老人が片脚で器用に腰を上げる。
 真神は慌てたように尋ねた。
「すみません、名前は何ですか」
「わしか? 山爺と呼んでくれ」
「やまじい」
「ちゃんと口がきけるんじゃな」
 山爺と一つ目は降りていった。

 あとに残された真神と犬耳の少女は互いに見つめ合い、彼女がこくりと頷くので、二人そろって立ち上がる。
 朧車を出ると紫紺の町は提灯の連なりに照らされ。江戸のまま現代まで文明が進んだような、和の趣ある建築物が軒を連ねている。
 山爺と一つ目小僧は板塀の門をくぐっていき、真神と少女も後に続く。
 びた、と山爺が立ち止まった。一つ目も「うはあ」と驚きの声を。
 真神は山爺の背中の向こうを覗き込む。
 庭に女性の後ろ姿が見える。身の丈高く、毛皮の服から出た筋肉が盛り上がっている。そして両手で猟銃を横に構え、それに食らいついているのは熊の牙。

「オカネ!」
 山爺が声をあげた。
 すると女性は振り向く。横顔で。切れ長の目はこの状況でも涼しい。
「来たか」
 と女性は張りのある声で言った。
「いやそれよりもオカネ、そいつは」
「熊だ」
「見りゃわかるがな」
 と一つ目小僧。

「なんで熊と組みあっとる!」
「知らんわ」
 山爺の問いに放り投げるような声で答え、女性は続ける。
「山から下りて来よったのよ。おおかた、あちら側で山にお伺いも立てずに伐採が行われたのだろうよ」
 と言うやオカネさんは熊の腹に蹴りを食らわせた。熊が猟銃に噛みつく力よりも強く、牙が欠け飛んで巨体は吹っ飛ぶ。
 孤を描くようにオカネさんは銃を構えた、と思ったときには銃声が響いていた。
 熊はその一撃で重い音を立てて地面に倒れ伏した。

「すごいや」と飛び跳ねる一つ目小僧。「あの一瞬で心臓まっすぐ撃ち抜いた」
 彼は一つ目だがものがよく見えるらしい。
「さあて、熊の鍋なんて久しぶりだね」
 振り返ったオカネさんはメジロを思わせる色彩の和服に毛皮のチョッキを重ね、脚絆に包まれた太腿は頑丈そうに筋肉を浮かび上がらせる。
「どっかの山の主か、その熊は」
「そうだろうね」
 オカネさんは煙管を取り出してくわえた。火はつけない。涼しい目は真神を捉えた。

「大口真神だな」
「はい」
 と真神は反射的に答える。どこかで会ったような雰囲気がした。とても親密な。
「私はオカネと言う。歳は聞くな」
 とはいえ、彼女は一つも老いが見えず、肌はつやつやしている。
「ま」と彼女は煙管をくわえた口から息を吐き。「こちら側にはわしのようなもんもおる。魔人と呼びならわされるらしい。たとえば悪魔と契約したドイツの学者などもな」
 オカネさんは凄みのある笑みを浮かべている。
 山爺と一つ目小僧には当たり前の光景であるかのようだったが、真神はようやく状況に意識が追いついた。
「熊を撃つの、初めて見ました」

 オカネさんは中折れ式の猟銃を開いて排莢し、
「そうか」
 とだけ言った。
 山爺と一つ目が、二人のやり取りを興味深そうに眺めていた。

西南京都4

 オカネさんの屋敷は、玄関を入るとすぐ広い板の間になっていた。
 正面の壁一面が細かな装飾の神棚になっており、燭台の灯りに陰影を浮かび上がらせる。壁際には大太鼓が置かれていた。
 オカネさんが上座に座布団を敷いてあぐらをかき、真神と犬耳の少女は向かい合う形で正座した。一つ目小僧と山爺は庭で熊を解体しているところだ。
「さて、よく来たね真神」
 オカネさんは煙管をくわえたまま言った。真神は尋ねた。
「僕が来るの、わかってたんですか」
「まあね、虫の報せさ。あちらの私が鬼籍に入ったのでな」
 その意味が真神にはつかめない。オカネさんは続ける。

「なんにせよ、お前さんは犬神に憑かれて、あちら側からこちら側に来た」
「あちら側って」
「現実という奴さ。私らにとっちゃここが現実だがね」
「ここはいったいどこですか」
「西南京都。あんたの町の裏側さ」
「よくわかりません」
「追い追いわかるさ」

 オカネさんは煙管を脇に置いた。
 真神には尋ねたいことが山ほどあった。
「僕もう、現実? のこと、わからなくて。夢みたいに、ぼやけて、どんどん薄れてく」
 少しばかりの不安に駆られながら言った。オカネさんは目をすがめ、
「気にするな。お前さんが立ち直るには、もうしばらく時がかかる。その犬神も、お前さんと縁があり、お前さんに憑いた。哀れな身の上さ」
 真神は隣の犬神という少女を見上げた。凛とした横顔、そして気づいた。首にぐるりと茨のような縫い目がある。

「首」
 と真神は呟いていた。少女の顔がこちらを向く。
「痛くない?」
 少女は微笑み、「大丈夫」真神の頭に手を置いた。心がほっと安らぐ。
 オカネさんが片膝に手をついて身を乗り出した。
「犬神、名前は何だ」
「ロウエンと申します」
「名は体を表す。狼焔か。火の災いを思わせる。燃え盛るような怨嗟えんさ。覆い隠しても私には見える」
 ロウエンは黙っている。

「まあいい」とオカネさん。「真神、お前が犬神を連れてこちら側に来たことで、長曾我部の獣が目を覚ました。長曾我部。傑物だったが、戦の怨恨はいつまでも晴れぬものよ。奴の闘争本能が、犬神憑きのお前を睨んでいる」
「僕が何かしましたか」
「それは私にも分からん。誰が何をしたか。なぜお前さんはこちらに来たのか。いずれにせよ、このご時世に犬神とはな。愚かしい。こちらの迷惑も考えてほしいものだね」
「すみません」
 真神はなんとなく頭こうべを垂れる。
「あんたのことじゃないさ。見ればわかる。思いのほかまともそうで良かった」
 そう言うオカネさんの表情はしかし憂鬱だった。

「十年だ。毎年お前の産まれた日に、長曾我部の獣と呼ばれる怪異が、西南京都に現れる。それをお前は倒さねばならん」
 真神は一拍の間が必要だった。
「どうしてですか」
「どうしてもこうしてもない。お前自身の呪いが、お前の人生そのものを食い殺さんとしている。お前はそれに抗うのだ、この地でな」
「怪異って、妖怪のことですか」
「然り。だが似て非なるものだ。我ら妖あやかしは本来、人を襲うものではない。人と共生し、ただ人には似ても似つかんので、出くわしたら仰天される。それくらいのものさ。ただ身のうちに呪詛じゅそがたまっていけば、それは怪異となり、人を食らうこともあろう」

 しんとした静寂があり、ろうそくの火が揺らいだ。
「僕の誕生日って」
「明日だね」
「え」
「夢のお告げで知っている。あんたのように、薄れかけているが」
 真神は混乱した。
「明日その、長曾我部の獣っていうのが出るんですか。僕はそれと、戦わないといけないんですか」
「命が惜しけりゃ、な。長曾我部の呪いはあんたを狙ってるんだ。それに」
 何か言いかけて、しかしオカネさんは口を閉ざす。

 真神は自分の運命に決意が伴わなかった。
「なんで十年なんですか」
「細かいことを気にするね。私の占術でそう出たのさ。十年たてば、あんたも立派に大人の仲間入りだ。それまでは。お前は身のうちの呪いと戦い続けることになるのさ」
 他にもオカネさんは多くのことを知っていそうだったが、知らないこともありそうで、なんにせよ、八歳の真神に一度に教えられるのはここまでと、腰を上げる。
「さあて、そろそろ熊の解体も終わったろう。お前さんは災いの種で、いろいろ噂も立つだろうが、私はお前さんが来てくれて、存外嬉しいんだ。鍋でぱあっと祝おうじゃないか」
 オカネさんが二人の横を過ぎて庭へ出て行く。

 真神は自分の拳を握って開く。戦うのは嫌いだ。殴られるのも痛い。記憶は薄れども、この身に喧嘩の勘はある。勝てたためしはない。それでも怪異とやらと戦うのが定めらしい。
 不安からロウエンを見上げた。彼女は少し目を伏せていた、長いまつげがかかっている。
 真神はその白い袂を、どうしようもない恐れから引いた。ハッとしてロウエンはこちらを見る。そしてどこか悲しそうな笑みで、真神の頭をなでるのだった。

現実3

 夢から覚めると東屋の中だった。身を起こす。弁当の包みを開けた。
 真神はもそもそと弁当を食べはじめた。床下を流れる水の音を聞きながら。小さな公園の東屋で箸を機械的に口へ運んだ。
 うまいなあ、としみじみ思う。真奈の作る料理はなぜこんなに沁みるのだろう。涙ぐみそうになる。それほどのことなのか。
 さっさと食って帰るつもりだった。町を歩くのが怖い。同じクラスだった奴らに、もし何かのはずみで会ってしまったとしたら。昼日中ではあるが、会ってしまったら。
 そこから先は考えたくない。

「げ」
 という声がしたので真神は思わずそちらに顔を向けた。そこには少年がいる。いや、少女か。どちらか判然としない。小学生であることは間違いなさそうだ。
「最悪だ、三のときに会うなんて」
 小学生はそんなことを呟いた。瞳がどことなく栗鼠リスのようだった。
「三?」
「三のときに、こんなところで、一人で弁当食ってる奴に会うなんて、今日は厄日かもしれない」
 ひどいことを言われている気がする。自分という人間は初対面の子供にまで馬鹿にされねばならないのか。

「あの、君は男の子? 女の子?」
「お前きもいぞ。性別なんてどうでもいいだろ」
 どうでもいいのか。それが世間一般の常識だとするなら、明日から生きて行けそうにない。
「僕はね、いつも円周率を数えてるんだ。そして何かが起きたとき、どの数字を数えていたかで吉凶を占う」
「変わった趣味ですね」
 真神がそう言うと、小学生は不思議そうな顔をした。
「何で敬語? お前、変な奴だな」
 敬語が変とはどういうことだろう。確かに真神は正しい敬語というものを知らない。ああ、これでは社会にも出て行けない。

「なに暗い顔してんのさ。この世の不幸を全部背負ったみたいな雰囲気出しちゃって。これだから馬鹿な大人って嫌なんだ」
「すみません」
「敬語やめろよ、きもいよ」
「きもくてすみません」
 小学生はどこか疲れた雰囲気のため息を吐く。
「まあいいや、とにかく三は良くない数字だ、僕にとって」
「四ではなく」
「四はいいじゃないか、二で割り切れる。素敵だ」

 そして小学生は半ズボンのポケットをまさぐり、何かを差し出してきた。受け取ってみるとミルク味のキャンディである。
「飴でも食って元気出せ」
 大阪のおばちゃんみたいだな。何となくそう思う。
「パパが言うには、僕くらいの女子がポケットから取り出したキャンディを、喜ばない奴はいないって」
 真神は急に、掌に乗っているキャンディがいかがわしいものに思えてくる。そんなことを子供に言ってのける父親が世の中にいるとは。
「君は女の子でしたか」

 なんとなくキャンディを食べてやらねばならないような気がして、ほおばった。ほんのり甘い味がなぜか懐かしい。きっとうんと小さいころにこの味を知っていたのだ。
「なんか変なの。子供相手に腰が低くて」
 その問いに真神は少し悩んで、
「子供とか、関係ない気がします」
 と答えた。
 すると小学生は、とても開けっ広げな笑顔を見せた。
「お前おもしろいな」
 それだけ言うと背を向けて走り去っていった。
 しばらく口の中で飴玉をごろごろ転がす。ミルク味が舌の上で柔らかく溶けていく。
 最後まで舐め終わってから、弁当の残りをすべて胃におさめ、立ち上がった。

 東屋から出て葉桜を見上げるとさらに高く電波塔が見える。
「ここには確か、朱塗りにされた五重の塔が建っていた。霊力の波動を町に発して、呪術に必要な霊素を行き渡らせていたんだ」
 一人でそんなことを呟いているのがひどく虚しい。
「ここじゃない、ここじゃないんだ」
 俺のいた場所は。まだやり残していることがあったはずだ。

現実4

 すぐ家に帰ろうと思っていたが、気が変わった。酒屋に入った。変顔が得意だ。まるで二十年も老けたように見せられる。まんまと酒を買うことができた。その代わり財布は軽くなった。
 真神が自分で飲むわけではない。ある人に届ける。いや供えるというべきか。
 碁盤の目のような街路をじくざく折れながら、やがて小さいアパートにたどり着く。

『降草荘ふるくさそう』という名に恥じぬ古臭いアパートである。
 腐臭がしてきそうだ。建物に死骸というものがあるとすれば、これがそうだろう。
 赤さびた外階段を上る。なぜか踊り場に赤い三輪車が打ち捨てられている。その車輪がひとりでにからから回ったような。気のせいか。

 通路に置かれた洗濯機から自堕落な水の臭いがする。標本から抜き取られたような蛾が足元に落ちている。真神は扉の前に立った。扉には『いざなぎ流』という筆文字の張り紙があり、相変わらずここの住人は阿呆だ、と思わせる。
 阿呆ではあるが真神にとって、敬語を纏わずに話せる数少ない相手でもあった。
 扉をどんどんと叩いた。しばらくしてどすどすという足音が漏れ聞こえてきて、扉が開いた。

「よう、真神か」
 だらしない部屋着姿の女性がそう言った。その顔がすぐ満面の笑みになったのは、真神の右手に提げられた酒屋の袋を見つけたからだ。
「お前はお姉ちゃん孝行だな、嬉しいぞ私ゃ」
 姉である。真神にとって、血はつながっていないが、姉である。

「まあ入れ」
 と促されたのでお邪魔させてもらう。
 生活スペースは足の踏み場がなかった。脱ぎ散らかした服が散乱し、食べかけのケーキが入ったパックや、畳を腐らせそうな種々雑多なごみが山となっている。
「千早ちはや姉、掃除しろよ」
「いや、私はここに無限の宇宙を創るのだ」
「デブリだらけで宇宙船が破壊されてしまうよ」
 足でビニール袋をどけて、なんとか座るスペースを作る。真神は酒瓶を取り出し、姉に献上した。

「太夫たる我が姉、そして天の神と山の神と御崎様おんさきさまその他もろもろに、お供えです」
 うむ。と姉の千早はそれこそ神様にでもなったようにうなずき、酒瓶を受け取る。栓を抜くやラッパ飲みを始めたので、おそらく酒神であろう。バッカスであろう。
 ぷはあ、と千早は快感が迸ったような表情で、酒瓶の底を畳に打ち付ける。
「昼間の酒は無性にうまい、夜に飲むとこうはいかん」

 真神は乱雑に積み重なった書物のうちから、分厚い一冊を抜きだす。『いざなぎ流の研究』と題されている。
「ああ、その書物は実に有意義だ。私が書いてやろうと思っていたが、先を越された」
 エセ民俗学者を気取る姉なのである。大学を中退したあげく祈祷師の真似事をしている姉に、いったい民俗学の何がわかっているのかは、はなはだ怪しい。

 姉はポテチの袋をどけてテレビのリモコンを発掘した。テレビの電源が入る。
 ブラウン管の画面に映ったのはかつての戦災地である。原爆が投下されてから六十二年、と言っている。
 千早はテレビに向けて手を合わせた。かつて戦火に巻かれた人々に鎮魂の意を込めている。真神はどうもそんな気になれず、ただ漫然とテレビを眺めた。

「天災や人災は忘れた頃にやってくるよ、姉上。戦争も人が起こす災害じゃないか」
「お前、ひねくれたこと言うなあ」
 千早は微妙な顔で、酒を喉に流してから口元をぬぐう。
「私はきれいごと好きだぞ。戦争反対とか、世界平和とか。戦争なんて、なくなるわけねえけどさ、私みたいなきれいごと好きな馬鹿のおかげでバランスが保たれるんだよ」
 つまみ代わりに、いつのものとも知れないポテチをくちゃくちゃ噛み砕いている。

「つーかお前、なにしに来た。この酒は、全国新酒品評会で最多金賞受賞とやたら宣伝する銘酒じゃないか」
「そうです、やたら宣伝する銘酒です」
「高かったろ」
「金の使い道が今ひとつわからなくて」
「私は別に、お前が酒なんぞ持ってこなくても、悩みくらい聞いてやれるつもりだが」
 もう酒瓶の半分くらいは飲んでいるようだが、千早に酔った様子はない。

「うまく生きられないんだ」
 真神はぽつりとそう言った。千早が黙っているので、続けて言った。
「どうも、世間という奴に馴染めなくて。ここは、俺が住んでいた世界とは違う気がして」
「そりゃお前、そういう心の病気だもの。昔は一部で狐憑きとか犬神憑きとか言われてたがな」
「今は言わないの」

 千早は長い黒髪を指で荒っぽくすいた。豊満な胸が揺れた。
「あんまし言わなくなったよな。でもうちが訳ありなのは確かだよ。昔っから、それで栄えてきたんだから」
「今は落ちぶれてるね。俺もこんなだし」
「私もこんなざまだしなあ」
 自分がどんなざまになっているか、いちおう自覚はしているらしい。

「頼みの綱は真奈だけだ、と母さんが言っていたよ」
 真神はため息まじりにそう言った。
「お前と同じ血を分けているわけだが、確かに真奈はまともそうだ」
「やっぱり、血筋が関係あるの」
「遺伝の関与が多いと見るか少ないと見るか。原因遺伝子は複数あり、誰にとっても他人ごとではない。だが遺伝にばかり理由を求めたらきりがないだろ。癌だって生活環境が予防に大事だよ」
「心もそれと同じ?」
「私の頭が悪いことや、性根の善し悪しを遺伝のせいにするわけにはいかないんだよ。どの遺伝子が優れてるも劣ってるもない。みんなが少しずつ親身になって、気をつければ、それでいいのさ」

 真神はさっきから意味もなく、パックに入った食いかけのケーキを見ている。宝石のようにてかてかした苺がまずそうだ、と思った。
「私の父が再婚したのも、あるいは、その血筋がらみかもな」
 千早は思わせぶりなことを言った。彼女は、真神の継父の連れ子だった。母が再婚した当時、真神は六歳か七歳くらいだったはずで、千早のほうは中学生だった。

「昔は一緒の布団でくんずほぐれつしたなあ」
「あれは姉上がホラー映画見て寝れなくなって、俺の布団に潜り込んで来ただけだ。翌朝になったら寝小便で布団が冷たくなっていた」
「あれは汗だ、大量の寝汗だ。お前と一緒に寝てたら興奮して寝汗が」
「もういい」

 テレビは既に次のニュースをやっている。あんまり明るい話題はない。
「私は思うんだ」千早が言った。「明るい話題も、その気になって探せば、悪い話題より格段に多いってね」
「前向き思考だね」
 褒められたと受け取ったのか、千早は誇らしそうに笑った。
 その前向きな姉の部屋がこんなに薄汚れているのには理由がある。彼女は断捨離に目覚めて部屋からごみを駆逐したことがあったが、その際中学のときにもらったラブレターまで捨ててしまったとかで大いに嘆き、一週間で部屋は元より汚くなった。という話を真奈が母としていた。

現実5

 薄汚れた部屋で文机の上だけ綺麗だった。三個の猫型ダルマが置かれている。大きいのが二つと、小さいのが一つ。
「そのダルマは?」
「ああ、これね。これはミテグラ代わり。まあ供養だ」
「ミテグラ?」
「これに霊魂を憑かせて祓うのさ」
 真神の脳に供養、という言葉が浸透するまで、時間がかかった。
「このアパートで、何かあったの」
「昔あったらしい、まさにこの部屋で」
 真神は不意に寒気がした。

「事故だよ、この部屋で母と幼児が暮らしてたんだ。ときたま男も」
 この古ぼけたアパートで母と子が暮らしていた、というだけで、暮らしぶりの慎ましさが想像できる気がした。
「三歳の女の子だったそうだが、このアパートの前で、三輪車で遊んでたら自動車事故に遭ってな、命を落とした」
「それは……つらいな」
「ああ、母親が半狂乱になったらしい。今はどうしてるか知らんが、けっこうな騒ぎになったそうだ」

 三歳の女の子が、三輪車で。そして供養に三つのダルマ。気にしすぎだろうか、三が多い。公園で会った小学生の言う通りだとしたら、自分は不吉な数字が示す彼岸に迷い込みつつあるのではないか。そんな妄想をしてしまう。
 それはそうとなぜダルマなのか。
「ダルマが赤いのはな、血の赤色に魔除けの効果があるからだ。願いが叶うと目を書き入れるのは、お前も知ってるだろう。私は、このダルマから、念が消えるのを待っている」
「その親子の、念ということ?」
 そこで真神はふと、階段にあった赤い三輪車を思い出す。あれが、そうなのか。

「まるでずっと見てた幻だ」
 真神は半信半疑である。千早の生業そのものに疑いを持っている。四国の辺境、香美市物部に伝わる、いざなぎ流を源流とした、我流の祈祷で生計を立てている。
 今の時代には甚だ似つかわしくない。真神だって薬で精神の安定を得ているのだから。
「お前もカタワレだろう。逢魔が時がわかるはずだ」
「逢魔が時?」
 それにカタワレとは何だ。真神が不思議な思いで訊き返すと、千早はますます眉間を深くした。

「お前、本当にすべて忘れてるな、西南京都を。まさか狼焔のことも忘れたか」
 ロウエン、という名に真神は双眸を見開いた。心臓がきゅっと縮んだ。
「あいつは、やはりあいつは、俺の幻じゃなかったのか」
 いつも側にいた少女。犬の耳と尾をもつ、和装の少女。真神にとって、欠けてはならなかった存在。
「お前」
 千早が疑り深い雰囲気の表情を近づけて真神を見た。
「この時分に、あの屋敷の外に出たことは」
 時計の針がかち、かちと鳴った。

「いや、学校で、暴れてからこっち、ずっと家で寝たり、座ったり、寝たり……」
 不意に頭がくらりとした。睡魔だ。
「だからか」
 と千早の呟きは苦々しい響きを伴っている。何かを憂いている。千早は携帯を取り出し、時刻を確かめる。
「そろそろ日暮れが近くなってきた。お前、頓服はあるか」
 その問いに真神は逡巡した。
「出されてたけど、ろくな薬じゃなかった。持ってないよ。なんか酔っ払ったようになるのが嫌なんだ」
「実害はない」
「こっちの自意識の問題さ」
 また頭にもやがかかった。

 千早は散らばった紙の下をまさぐり、薬剤のシートを放り投げてきた。これが忌々しい生命線というわけか。
「飲みたくない」
「気持ちはわかるがな」真顔で千早は言った。「こっち側からあれを体感すると、押しつぶされちまうぜ」
 朝から気分が欝々しているのは確かなので、真神は錠剤を水なしで飲んだ。が、喉がからからに乾いていたので、違和感が残る。それを察した千早が台所から水を汲んできて、真神の口にグラスの縁をあて、ゆっくりと飲ませた。

「妙だな。ダルマの念が濃くなってやがる」
 千早の声が遠く聞こえた。
「出るぞ」
 千早は押入れを開け、中から一揃いの衣装を引っ張り出した。巫女服とスチームパンクが混在したような衣装で、早い話が、コスプレである。
 千早が構わずその場で生着替えを始めたものだから、真神は慌てて後ろを向いた。
「何でここで着替えるんだよ。というか、何でそんなの着るんだよ」
「これは私の正装だぞ」
「その衣装で仕事を?」
「この衣装じゃないと、人目が気になってな」

 千早にも何かしら屈託があるのだろう。扮装すると人目が恥ずかしくなくなるのだ。
 着替え終わった気配に振り向くと、やたら胸が強調されていて目のやり場に困った。太腿もばっちり見せている。
「気をしっかり持てよ」千早は豊満な胸を張った。「黄昏をいう。百魅の生ずる時なり。世俗小児を外にいだすことを禁いましむ。てな」
 彼女はさっさと玄関のほうへ向かう。仕方ないので真神もついていく。
 扉を開けた、途端、紺の景色が一面に迫った。

 アパートの二階から見える空は薄紅色の暗がりに染まっていた。まだそんな時間ではなかったはずなのに。
 空気もどこかねっとりしている。淀んでいるかと思えば、不意に冷たい風が吹いてくる。
外階段がなぜか真新しくなっていて、そこに三輪車がないことに気付く。
 頭が一瞬白くなり、明滅し、気付くと全身の制御が効かなくなり、体が大きく傾く。千早の腕に受け止められたような気がした。
 意識は、沈む。

西南京都5

 大変だ大変だ、と一つ目小僧が駆けてきたのは早朝のことだった。
 彼はオカネさんの屋敷の玄関に駆け込むと、草履を脱ぎ飛ばして板の間に上がってきた。
「やかましいね、朝めし時だよ」
 オカネさんが顔をのぞかせる。
 真神とオカネさんは早朝五時に起きて板の間の神棚へ拝み、今は畳の部屋で朝食をとっているところだった。昨日の熊の肉が今日も焼いて出てきて、甘辛いたれがかかっていた。台所に立っていたのはオカネさんだけではなく、胴の長いイタチのような式神も、皿を運ぶなどしていた。

 オカネさんは口の端についた米粒を親指ですくって口に入れる。そして言った。
「長曾我部の獣が出たかい」
「きっとそうさ。塩塚峠で」
「塩塚峠? 裏道のほうかい」
「いや、整備されたトンネルのほうさ」
「そりゃまだましだ。裏道のほうは山伏がいるからね」

 そこでようやく真神も食事を終えて顔を出した。
「何か起きたんですか」
「おう、早飯ぐらいだね。それにしても一つ目小僧、聞いてくれ。この真神はなかなか行儀が良くてな、飯を一つもこぼさず食べるんだ。正座も自分からして」
「だから、それどころじゃないんだってば」
「本当にキンキンうるさいね、あんたは。何が起きたか話してみ」

 一つ目小僧が言うには、市街から北上していった先にある塩塚峠という山で、山道を登ろうとする者が次々とすっころんで、登れなくなっているという。隣村への境でもあり、戻れなくなっている者が大勢いる。
「それは、怪異なんですか」
 真神は不思議になる。オカネさんも思案気な顔つきになった。
「案外しょぼいね、長曾我部の獣にしちゃ。だが油断はならんね。真神、支度だ。お前の部屋に祓いのための装束を一式、置いてある」

 真神はそれを着て改めて板の間に現れた。
 空色の底に霧がかかったような色合いの着物に、葡萄色の羽織、少しだぼっとした厚手の黒いズボンを編み上げのブーツで纏めてある。正直「似合わない、どういうセンスだろう」と思った。
「おう似あっとる似あっとる」
 とオカネさん。一つ目小僧も「魔除けの羽織がいいや」と褒める。
 真神は首をかしげ、
「まだよくわからないんですが、人が転ぶのは、何か原因があるんですか」

 オカネさんは切れ長の目を宙に向けて顎を手に当て、
「まあ、予想はつくがな、実際に見たほうが早かろ」
 そのときぴょんぴょんと片脚だけで跳ねながら、山爺も玄関に現れた。
「オカネ、大変だ、人が転びまくってけが人が」
「僕のほうが先だい」
 と一つ目小僧。
「うるせえわ、朧車まで連れてきたんじゃぞ」
「それは助かる」とオカネさん。「ロウエンは、準備できてるか」
 いつの間にか真神の後ろにいたロウエンは、こくりと頷く。

「じゃあ出発だ」
 と丈夫そうな地下足袋に足を突っ込むオカネさん。
「あの、留守番に誰かいなくてもいいんですか」
「いるよ、いちおう」
 オカネさんはうなじで纏めた黒髪を向けたまま、振り向きもしない。
「え?」
「まあ、あてにはならん小娘だが」
 自分たち以外に人の気配はなかったはずだ。二階への階段は見かけたが。真神は天井を見上げながらも、オカネさんについていくことにした。

 朧車は塩塚峠のふもとに着いた。
「おっかねえ、帰っていいか」
 と鬼女の顔がオカネさんに訴えるが、「うるさいね、あんたに登れとは言ってないよ」とあえなく一蹴される。道の端にはほかの朧車も縦列駐車されており、互いに会話している。野次馬も大勢いた。真神を指さして囁き合っている。その誰もが異形の妖だった。
「見せもんじゃないよ、ほら、帰った帰った!」
 オカネさんの一声で、野次馬たちはめいめいの朧車で引き返していく。

「じゃあ、試しに俺が登ってみるさ」
 一つ目小僧が勇んで山道へ駆けだしていく。しかし二十歩ほど進んだところで不意に足をすくわれたようになり、ごろごろ転がり落ちてきた。
「むぎゅう」
 と目を閉じて唸っている。

「情けないのう、どれわしが」
 山爺が腕まくりする。
「片足だからってなめんじゃねえぞ」
 ぴょんぴょんと右へ左へ跳ねながら、上っていけるかに思われた、が、やはり意図せず足が滑ったようになり、筒のように転がり落ちてきた。
「いかん、こりゃおかしい」
 山爺は目を回している。

「ふん、お前さんらにはアレが見えないかい」
 オカネさんが鼻で笑うように言った。
「アレって?」真神の問いにオカネさんは「ロウエン、やって見せな」と言う。
 ロウエンはうなずき、人差し指と中指を唇の前に立てた。
「誰たそ彼がれを言う。百魅を生ずるとき也なり。世俗、小児を外に出すを禁いましむ」
 山の木々がざわめき景色を震わす波動のようなものが広がった。そのときそれは真神たちの視認するところとなった。

 峠の上からいくつもの、餅をつく杵のようなものが転がり落ちてくる。
 すっとんすっとん音を立てながら、縦にまっすぐ転がってくる。しかしそれはふもとに着くや薄れて消えてしまうのだ。
「これはタテクリカエシだね」オカネさんが言った。「見たまんまの、人を転ばせる妖怪だ。もともと真神がいた世界の由来では、町や村の祭りに姿を見せられなかった人間が、いたずらでやっていたとも言われている」

 真神は峠を見上げた。
「上に誰かいるってことですか」
「ところがこと西南京都となると、そうはいかん。これはこういう妖で、種も仕掛けもないのさ」
「でも、どうすれば解決するの?」
「登るんだ、てっぺんまで」
「え?」誰が。
「あんたが。登りきって源を確認すればおそらくタテクリカエシはすべて消滅する」
「源?」
「とにかく登りきれば消える。そのはずだ」

 真神は改めて峠の坂を見上げ、そこをほとんど隙間なく転がり落ちてくる杵に恐怖する。
「いやいやいや、無理です無理」
「逃げるのかい、あんたの招いた災いだよ」
「僕こんなの知りません」
「知らなくても、これはあんた自身の怨嗟を、鎮めるための儀式だからね」
 真神には言われていることの意味が分からない。相変わらず。オカネさんはどうもあえて濁したようなことを言っているのだ。

「真神、行きましょう」
 ロウエンが言った。真神と手を繋ぎ。
「あなたに課せられた使命ならば、私はあなたを助けます」
 少女の決意の瞳を見上げ、真神は改めて坂道を睨んだ。
「わかったよ。試されてるんですね、僕は」
「まあ、そんなもんかもね」
 オカネさんは煙管を口にくわえる。刻んだ葉を指でこね始めた。
「わかりました、登りきって見せます」
 真神はロウエンの手を離し、坂道のほうへまっすぐ歩いていく。ロウエンもその後に続く。

「さあて」
 とオカネさんは煙管にマッチで火を入れ。「私は裏道からより高いところへ行こうかね」坂の脇にある茂みを掻き分け、その奥へと消えていった。彼女が背にかついでいたのは、照準器のついた狙撃銃だった。
「いざというとき真神を援護するつもりだ」
 一つ目小僧が半眼になり言った。山爺も低く笑い、
「食えないお方だ。裏道から行ける山頂は神域じゃ。おっかないおっかない」
 二人とも手を拝むようにすり合わせた。

西南京都6

 杵は縦に転がってくるものもあれば横に転がってくるものもあった。
 足を取られたりぶつかったり、真神は何度も横転して坂道を転げ落ちる。
「あーあー、打ち身だらけじゃ」
 坂の下で山爺が真神を助け起こす。そして緑色の塗り薬を取り出し、真神の傷口にすり込んだ。そうすると不思議と痛みは和らいだ。
「どんくさいなあお前。見えてりゃ僕だって登れらあ」
 一つ目小僧が半眼で非難する。
 真神はただただ悔しくてたまらず唇をかむ。
 転がり落ちてくる杵と杵の間をすり抜けるように、避けて登っていくのだが、どこかでふと緊張がゆるむ。避けることができた、という安堵、それがいけない。

 そのときには既に足をすくわれており、地に叩きつけられ、坂道をごろごろ転がり落ちる羽目になる。
「しかし丈夫な奴じゃ。打ちどころが悪けりゃ、こんだけ転がり落ちたら重傷になっとる」
 どうやら受け身は取れているようだった。脳裏にちらと無機質な建造物の光景が浮かぶ。廊下を歩いているとき、不意に飛び出てくる他者の足、真神は足をすくわれ、しかし床に叩きつけられる寸前で腕を出す。
『こいつ転ばんなった』年上の子供が笑いながら。『修行や修行、お前のノロマが治るようにな』『俺らは先輩やけんな、お前を鍛えんと』背中を足で踏まれ、げらげら笑い声が降ってくる。創作物か何かで、主人公とその相棒が、そうやって互いにいたずらをし合いながら強くなる、という描写があるらしく、彼らはそれの真似をしているのだった。
 夢の中の出来事のようだった。

 鋭く坂の上を睨んだ。先ほどはあと少しのところまで登れた。次こそ行ける。ロウエンのほうはまるで目をつむっていても杵を避けられるようだった。しかし真神のことを気遣って、足並みを合わせてくれる。つまり真神が足を引っ張っている。
 真神は鼻血を手の甲で拭い、言った。
「次で決める」
 駆け出した。

 眼前に杵、半身になってかわす。そこへまた横転する杵、跳び越える、跳び越える。坂の上から転がってくる無数の杵の位置、速度を一瞬で静止画のように見極め、その動きをあらかじめ予測し、間を縫うように地を蹴っていく。
 あと少し、その油断が命取りだ。落ち着け。十歩の距離は百歩に等しいと思え。かわす、かわす、跳ぶ。そして。
 着いた。坂の上だ。
 隣にはロウエンもいる。
 坂を見下ろすと、杵なんてひとつも転がっていなかった。開けた周囲にも鬱蒼とした木々が見えるだけで他は何もない。ただトンネルがぽっかり口を開けているだけだ。

「よし!」
 真神は拳をぐっと握った。
「真神!」
 そのときロウエンが叫んだ。と思ったときには体がさらわれていた。ロウエンが真神を抱えて飛んだのだった。
 地を震わす音がし、土煙が上がった。先ほどまで真神のいた場所に、巨大な杵が縦に落ちてきていた。二メートルはあるだろうか。

「なに、これ」
 唖然とする。杵が風を切って動いた。瞬間、真神は蜘蛛のように姿勢を低くしていた。杵が殴打してきたのだ。
 真神は全身の血が震えるような感覚がした。死と生の狭間にいる自分を意識した。
「上には何もないんじゃ、なかったのかよ!」
 叫びながら真神は杵に突進していた。動きを止めないといけない、と咄嗟に思ったのだ。間合いは一瞬で詰まり、真神は両腕で杵を抱え込む。
 相撲ならしたことがある。確か。校庭に土俵の円を描いて。やりたくもないのに、やらされる。最初は負けていたが、勝てることが多くなって、しかしそうすると彼らは、別のやり方で憂さを晴らそうとする。わざと負けることを覚えた。

 杵の動こうとする力は強く、真神は全身の筋肉を震わせて、なんとか封じ込める。
「くそ、くそ、くそ!」
 叫んでいた。
「僕は喧嘩が、大嫌いだ!」
 叫びながら杵をありったけの力で投げ飛ばした。
 杵はふわりと立て直し、先端を真神に向けて突っ込んでくる。腹を突かれたかに見えた。しかしそうではない。真神の両手は杵を寸前で受け止めていた。
 真神は雄叫びを上げながら、杵を振り上げ、地に叩きつけた。自分の体のどこにそれほどの力があったのか、それを初めて意識した。

 杵は地に転がってびくびくしている。「離れて!」とロウエンの声がした。真神は飛び退る。
 そのときロウエンの手からお札が飛び、杵に張り付いたかと思うと、勢いよく爆炎が上がった。杵は燃え、悶えるように全身を振り回す。しかしやがて黒焦げになり、力尽きて倒れ伏した。
 真神の全身が縛られたように痛む。

 周囲の木々をざわめかせる風の中、声が反響した。
『なぜ私は生きてきた』
 老人の声だった。杵から響いてくるようでもあり、真神の内側から響いてくるようでもあった。
『私の人生はかけがえのないものだと、思っていた。つらさや苦しみを乗り越えて、ささやかな幸せをかみしめ、そしてたどり着いた安らかな老後だと。しかしある日、私の人生は壊れた。どうか責めないでください』
 かすれた声は淡々と、まるで空っぽになった箱を震わすように。

『名のある大学に行き、教師になり、親を助け、看取り、皆から慕われ、安泰に老後を送り、人々と仲良くし、そして。それは唐突だった。四ツ辻の逆夢だ。私はある日、子供をはねそうになる悪夢を見た。妻が言った、もう年だからね、と。笑いながら。思えばあれは警告だった。私は本当に子供をはねてしまったのだから。私の人生はそこで壊れた。陰口、離れていった人々、慰謝料、その子の親の射殺すような目。そして私が本当に許せなかったのは、順風満帆で来た自分の人生、その因果。私は毎年、商店街の夏祭りには行ったものだった。子供をはねてから、どこにも行けなくなった。あれほど明るかった妻は気をふさいで、あるとき空っぽの車庫で首を吊っていた。私は虚無感という生き物になり、家の中だけで静寂を過ごし、ぼうと過ごし、曜日もわからなくなり、気付いたら涙が滂沱ぼうだと落ちている。あるとき不意に思い立ち、タオルを手に取っていた。睡眠薬を飲んでから、タオルをねじり、首に巻き、きつく結び目を作り。遠のく意識の中、私は見た。これまで駆け抜けてきた一生を』

 真神はふらりと、煙を上げる杵に歩み寄った。
『誰か教えてほしい。なぜ私はこの歳まで生きてきた。子供をはねるためか、愛する人を死なせるためか。孤独な腐肉になるためか。それならば』
 どっと森が唸った。心臓までも震わすほどにその風は強烈だった。
『なぜ私は生きてきた』
 真神は答える言葉をもたなかった。考えているうちに、声はか細くなった。
『もういい。わかってしまった。私はただ、誰かに聞いてほしかった、だけなんだ』
 杵はざらりと崩れ、その灰は風に吹かれて渦巻きながら空へ飛んでいった。
 真神は棒のようになったまま、しばしその場から動けなかった。

 その様子をオカネさんは塩塚峠の頂上からライフルの照準器を通して眺めていた。匍匐ほふくの体勢で視線を外す。ぼそりと呟いた。
「死も人の営みさ。あんたは自分で選べたんだ」
 土ばかりが広がる山頂は時が止まったような無音だった。オカネさんの姿を見ると、山伏でさえ敬して距離を置く。
「なんにせよ」立ち上がる。「長宗我部の獣、これが一体目か。よくやった真神」
 称賛の声は真実だった。
 見事なものだった。
 大口真神。
 西南京都の犬神使い。その名を負うに相応しい。

現実6

 真神はどっと押し寄せた疲労から抜け出し、沈みかけていた意識を取り戻す。千早にもたれていたが自分の足で立つ。
「大丈夫か真神。さてどこに行ったか三輪車」
 千早が眉をひそめている。
「誰かの持ち物では」
「よほどのことでないと、あんなものを移動させようとは誰も思わない。あれはずっとあの場所に、あのままあったんだ。お前もそういう経験はないか。部屋の片隅でほこりをかぶってる地球儀とか」
 言われている意味は分かる気がした。案外、霊的なもの、妖怪的なものというのは、そうした名状しがたい気配のようなものなのかもしれない。

 なぜか木製になっている階段を下りたところで、アパートの壁際に一人の男を見つけた。背の低い男が何気なく立っている、ように見えたのだが、どうやら違う。その首がろくろのように上方へ伸びて、二階の窓を凝視しているのだ。
「姉上、あれは何でしょう」
 とうとう幻覚まで見えるようになったか。
「あれは、そのまんま、中の様子を見たい人だろう」
 ろくろ首な男は目を血走らせ、まるで窓の向こうを透視でもするようである。千早はそちらへ歩み寄っていくと、何事か話しかけた。すると男の首はひゅるひゅると縮み、そそくさと去っていった。千早は淡々と言った。

「あんたと私の場合、西南京都の情報を直に受け取ってしまう」
「西南京都?」
「境界があいまいになって、滲みでてくる。景色も塗り替えられて見える」
「変な夢だな。さっきの人は二階の部屋が気になってたのか」
 車輪の音がからからと道を駆け抜けていった。行き交うのは自動車、ではなく、背面に鬼女の顔がついた牛車だ。牽引する牛がないのに走る。朧車だ、と真神にはすぐわかった。どういうわけか自動車よりも馴染み深い気がする。

 千早が低く笑った。
「むかし賀茂の大路をおぼろ夜に、車のきしる音しけり。出てみれば異形の者也、車争くるまあらそいの遺恨にや」
 聞き覚えが真神にはある。鳥山石燕の今昔百鬼拾遺だ。
 家にその手の画集が山ほどあり、幼少の真神は絵本代わりにそれらを見て育った。あるときから、見ていると母に取り上げられることが多くなり、そのときの母はなぜか、とても悲しそうな、それでいてとても腹立たしそうな、微妙な表情をしていたのだ。

「確か、牛車を置く場所の取り合いに負けた恨み、だったっけ」
「雅な人は気位が高かったのかもな。最近も煽り運転とか問題になるし」
 千早は慣れ切った様子ですらすら歩いていく。真神はというと、街の風景が一変しているのできょろきょろしてしまう。
 どこがどう、とはっきりとはわからないが、いつもと違う。建造物がどれも和の装いをしている。看板も筆文字になっている。まるで明治維新が起きず江戸時代の文化がそのまま発展したような。まったく様変わりしているはずなのに、しかしなぜか正気の風景が思い出せず、そのためどこがどう違う、と指摘できない。

 そんな風景が真神にとってはむしろ馴染み深い。長年親しんだような雰囲気がするのだ。
 口から火を吐いては、それを飲み込んでいる男が、うどん屋に入っていった。引き戸には『ぎょろ目うどんはじめました』とある。
 そんなことを千早は気にしない。どこからか和紙を取り出し、それを小刀で切り絵のようにし始める。
「あれ、真神君」
 後ろから聞き覚えのある声に思わず真神は振り向いた。浅葱久美だ。教室で暴れたとき、警察に取り押さえられる真神を、誰もが酷薄な目で見ていた。そのなかで浅葱だけが違ったように思う。

 心根が澄んでいるのだろうか。どこか高校生らしくない、あどけない容姿の幼馴染である。が、やはり妙だ。
 首に犬用の首輪がついており、リードの端を彼女自身の右手が握っている。いろいろと言いたいことを飲み込んで、真神は軽く手を上げた。
「こ、こんにちは。いいお日柄で」
「うん、今日はいいお天気だったね」
 そうだったろうか。真神には鈍く霞んだ空しか思い出せない。
「そっちの人は誰? あ、お姉さん? 千早さんだよね」
 気づいた千早が振り向く。二人は初対面ではないようだ。

「やあ、浅葱久美さん。何年ぶりかな」
 千早は和紙を切りながら挨拶する。身内ながらかなり恥ずかしい格好であるが、浅葱はむしろ目を輝かせた。
「おお、すごい、秋葉原みたい! 完成度高い! 写真撮っていいですか」
「いいよー」
 千早がポーズを取り、浅葱が携帯のカメラを向ける。
「すごい、胸おっきい、八頭身、すごい!」
 すごいすごい言いながら浅葱は何回もシャッターを切る。姉はどうやら着替えて外に出るとしゃんとしていて、立ち姿が美しいのである。

「いやー、いいものが撮れました。ありがとうございます」
 浅葱はぺこりと頭を下げる。千早は切り絵に戻る。小刀を器用に操って、何か細かいひだを作っている。
「あ、そうだ、浅葱」真神は尋ねてみる。そういえばこの同級生とも敬語なしで話せる。「ここらで赤い三輪車を見なかった」
「見たよ」
 あっさりと。
「見たの?」
「さっき、あっちのパン屋。『鼻高人形』ってパン屋、わかるでしょ。その前でね、大人のお姉さんが三輪車に乗ってたの。おっかしいよね」

 それは確かに、珍妙だ。
「それより真神君。真神君が学校やめた後でね、私いろいろ調べてみたの、真神君の病気のこと。今はね、薬で症状を安定させられるんだって、だから、戻れるようになったら、学校戻ってきてね」
「いや、やめたから、戻れないと思う」
 真神はなんだか申し訳ない気持ちになる。自分のことでそこまで気をもまれると、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「そっか。でもね、通信制とかあると思うの。最終学歴が中卒って、厳しいと思うから。だからね、えーと、前向きになって、いっぱい食べて、いっぱい寝て、それから、えーと」
 浅葱は元気づけるための言葉をなるだけ絞り出そうとしている。

「うん、わかったから。ありがとう」
 真神が感謝すると、浅葱はほっぺたが落ちそうなほど満面の笑みでうなずいて、たかたかと走り去っていった。そのときも自分の首につながるリードは握ったままだった。
「いいコじゃないか」
 千早がそう言った。
「子供のころからおせっかいなんだ」
「子供っていつのことだ」

 そう言われて、真神ははたと気付く。自分には、小学校低学年くらいまでの記憶はあるが、そこから現在に至るまでの記憶が、すっぽりと抜け落ちている。まるでその間、自分はこの世界にいなかったかのように。

現実7

「まあいい、できた」
 千早が切り絵を完成させた。その形は真神の感性で表現するなら、頭の四角い、烏賊いかのようであった。
「これは御幣ごへいと言う。式王子の依代よりしろだ」
 千早は御幣を宙に軽く投げた。ゆらりゆらりと舞うそれに、ふっと息を吹きかける。するとどうだろう、御幣が眩く光り、膨らんで、人へと姿を変えた。
 白い和服を纏いさらりとした金髪の少年である。彫りが深く、少しの狂いも許さないほど整った顔立ちだ。
「太夫たゆう、私は何をすればいい」
 少年は千早を太夫と呼ぶ。千早は真神の手を握った。そしてもう片方の手を少年とつなぐ。

「飛べ式王子」
 千早がそう命じると、式王子はこくりと頷き、地を軽くけった。それだけで三人は風よりも軽く、上空へと舞い上がった。足が地から離れた頼りなさに、真神の心臓が喉へとせり上がって来そうになる。
 浮かびながら眼下に街を一望できた。
「うわ、絶景だ」
 真神は存外、冷静でいられた。
 異形の人も朧車も豆粒のようである。あらゆる建物が精巧な模型のようで、碁盤の目状の街路はさながら街を生かすために編まれた血管だ。

 紺の薄闇はわずかにほの白く赤みがかっており、景色の輪郭は割とはっきりしている。
「パン屋のほう、この直線道路の先か?」
 千早がそう言うので真神はぎゅっと目をこらす。まるで焦点が絞られるように、細かい形まで見分けることができた。
 そして、見つけた。ガソリンスタンドがある交差点、その手前に三輪車がいる。誰かが漕いでいる。

「あれか」
 千早も見つけたらしい。
「行け式王子」
 千早の命令で式王子は飛行した。ぐんと真神の手が引っ張られる。夜の街を越していき、やがてガソリンスタンドがある交差点の手前で柔らかく舞い下りた。
「よし、ありがとう。戻れ式王子」
 式王子はこくりと頷き、己の手首を爪の先で傷つけた。一瞬で式王子は消え、わずかに裂けた御幣がひらひらと舞い落ちる。

 あたりは朧車の喧騒で満ちていた。渋滞しているのだ。
 赤い三輪車と人影が交差点の真ん中に立ち往生しているせいで、複数の車が斜めになり、ゆく手をふさぎ合い、進むも引くもできない状態に陥っている。ちなみに信号機はない。朧車は信号なしで走れるのか、と真神は妙に感心する。
 三輪車のそばの人影はどうやら女性だ。猫のものと思しき耳と二股の尾が生えていた。朧車が口々に喚いている。どいとくれ、とか、前に進めない、などと、迫力ある鬼女の顔で不満を叫ぶ。

「猫又かな」
 真神はそう呟いた。猫又女は自分が置かれた状況を恐れているのか、視線をあちこちに転じ、体を固くすくめ。しかも雨でもないのに傘をさしていた。
「あの女性だがな」
 千早が静かな視線で状況を眺めながら言った。
「三輪車で事故に遭った女児の、母親だ」
 え、と真神は驚愕の声をあげる。それに構わず、千早は迷いのない足取りで車道に踏み込んでいった。女性のいるほうへ静々と歩み寄っていく。

 取り残された真神はしばし躊躇して、やはり姉の後を追った。心細い感じがしたし、どういう事情か知りたくもあった。
「あんた、自分がどうしてここにいるか、覚えてるか」
 千早が猫又女に尋ねるのが聞こえた。猫又女はふるふると首を振った。
「じゃあ、自分の歳は分かるか」
 猫又女は怯えた目で答えたが、真神には聞き取れない。年齢不詳な外見ではあるが、三十は越えているだろう。千早は一度、うなずく。そして妙なことを言った。
「チョコレートをやろうか」
するとどうだろう、女性は傘を、まるでその重みに耐えかねたというように放りだした。女性の瞼がはっきり開き、瞳に輝きが満ちた。頬にはまるで幼子そのものと言っていい、満面の笑みが浮かんでいるではないか。

 急に千早の声が柔らかくなった。
「お姉ちゃんの言うことに答えてくれるかな。自分の歳は」
 子供相手の口調だった。女性は三本指を立て、前に突き出した。まさか、三歳、とでも言いたいのか。
「んじゃあ、自分の住んでる場所は」
 今度は女性の答えがはっきり聞こえた。
「ふるくさそう!」
 と朗らかな声で言ったのだ。千早が腕を組む、何か考え込んでいる。横顔はとても厳しく、不意の災難を憂いているようでもある。

 千早は携帯を取り出すと、どこかと連絡を交わし始めた。
 私の領分ではない、とにかく急患だ、と聞こえた。
 千早は女性と目の高さを合わせ、手を取ると柔らかい口調で言った。
「お姉ちゃんとおうちに戻ろう。ちょっと汚くなってるけど」
 女性は物わかり良くうなずくと、千早に手を引かれて歩道へと戻っていく。真神は一瞬どうしていいかわからなくなってから、三輪車と傘を担いで車道から逃れた。
 朧車が流れ出した。さっきまでの渋滞などもう知らんとばかりに、行き交う。
 猫又と手をつないだ千早が、ため息まじりに呟いた。

「猫には命が九つあるというが、さて」
「姉上、これからどうするの」
「あ? ああ、真神、お前はとりあえず帰れ。もう遅い時間だ。今は感じないかもしれないが、精神に負荷もかかってる」
 ここまで付き合わせておいて、それはない、と真神は言おうとしたが、千早の目が真剣だったので黙り込む。
「じゃあな」
 千早は猫又女性を左手につれ、右手は三輪車を抱えながら、夜道を去っていくのだった。

 緊張が解けたからだろうか、真神の全身にどっと疲労が押し寄せた。視界を青白い火の玉がふらふらと横切る。ガソリンスタンドには『朧車補給所』と墨書された看板が掲げられ、連なった提灯が橙に輝いている。
本来ならガソリンを供給するホースを、朧車がストローのようにくわえ、ごくごくと喉を鳴らしているのが見えた。
自分はひどく疲れているのかもしれない。今日の出来事は全て幻惑だったのかもしれない。そんなふうに思えてきた真神は、深呼吸を一つして、屋敷へと帰ることに決めた。

西南京都7

「そういえばオカネさん」
 屋敷に帰り着いた真神は庭で尋ねた。タテクリカエシとの戦いで傷を負い、包帯や絆創膏だらけだ。
「僕ずっとここに住まわせてもらえるんですか」
「そうだねえ」オカネさんは思案気に紫の空を仰いだ。「うちには壺娘がいるからねえ」
 トンビが輪を描いている。
「つぼむすめ?」
「引きこもって出て来やしないのさ。繊細な奴でな。環境の変化に弱い」
「なんかの動物みたいですね」
「そんなようなもんさ。なんならあんた、直に話してみな。二階の物置にいるから」
 真神は少し躊躇した。

「えっと、つまり、僕が来ただけでも、その壺娘さんにとってはストレスなんですね」
「あんたは本当に話しやすいね。行儀も良すぎて心配なくらいさ」
 オカネさんは冗談めかして笑った。
 ともかく真神はギシギシ軋む階段をのぼり、物置の引き戸をガラッと開けた。
 木箱が壁際に積まれてある。おそらくどれも陶器を入れてあるのだろう。
 その部屋の真ん中に真神が抱えられるくらいの壺があった。漆が薄闇でも光っているように見え、しかし良いものかどうかは判別しがたい。壺にはお札が張られてある。

「壺娘さん、て、これかな」
 真神の手が壺に触れたとき、それはビクンと跳ねたかと思うと、壺の底をガラガラ鳴らしながらまるで後ずさった。
「あ、ごめん」と真神。「えっと、壺娘さん?」返事はない。ただの壺だ。「喋れないのかな」
 後ろからオカネさんが床板を軋ませやって来た。
「あんたより少し前に、こちら側に来たのさ、そいつも。しっかし、壺ん中にこもりっきりで、一日中そうさ。あんたとは事情が違って、帰ろうと思えば帰れるのさ、そいつはいつでも。だからさっさと帰れと説得したんだがね、もう面倒になって放ってある」

 真神は捨て猫でも懐かせるように話しかけた。
「壺娘さん、大丈夫ですよ」
「そうそう、大丈夫だ、真神は」
「うん、僕は怖くないですよ」
「そうじゃなくて、壺娘がおらんでも大丈夫だ、こっちの真神は」
「どういう意味ですかそれ」
 がたいのいいオカネさんを見上げてしまう。
「そのまんまさ。名前をあててやろうかい、壺娘」
 オカネさんが声を張ると、壺は恐れるようにぶるぶる震えた。真神はオカネさんに手を振り、
「ちょっと、怖がらせちゃだめです」
 と制止したが、「構うもんかい」と彼女は小指で耳をかく。

「僕のことを心配して、壺娘さんもこちらにいるってことですか」
「もとはこちら側へ逃げてきたのさ、こいつの精神が。物に魂が憑つくということはあるんだ。物に憑いた魂が人に憑くことも。そうさね、こいつがこっちに来たから、あんたの魂も引っ張られた。そういうことはあるかもしれん」
 真神は情報を整理する。そうすると自分が西南京都に来てしまったのは、壺娘の引きこもりも一枚かんでいたということだ。
「壺娘さんて、僕のもともと知り合いなんですか」
「わかんないかい、鈍いね」
 鈍いと言われても、真神はうなじをかくしかない。

 少しずつ壺ににじり寄り、腕が届く距離まで近づいた。壺は小刻みに震えている。
「あの、どうしてそんなに震えているのか、わからないけど、あなたは悪くないよ」
 壺の震えが止まった。更に続ける。
「何か、すべきことができなくて、それで苦しくて、こっちに来たのかな。それで後ろめたいのかな」
 壺がうなずくようにこちら側へ傾いた。オカネさんが口を挟む。
「あんたが心配しなくても、こちら側の真神は大丈夫だ。私が責任を持つ。それよりもあんたがすべきことは、あちら側にあるんじゃないかい」
 静止した壺はまるで、何かを深く考えているようだった。真神は言った。

「うん、僕は大丈夫。心配ないよ」
 真神は壺を柔らかく抱きしめた。壺が内側から温まるのを感じた。
 オカネさんがまたも水を差す。
「そうそう、さっさとあっちへ帰りな。あんたみたいのは飼ってられないよ。壺にジャガイモをスライスして揚げたのを毎日入れてやらにゃならないんだから」
 それはポテトチップスのことだろう。主食がそれなのか。
「はっきり言うよ、あんたのやるべきことぁ何だい。この真神はこちら側でよろしくやらにゃならん。あんたはどうせ、あちら側で部屋にこもりきり、昼寝をしたりぼうっとしちゃあ、意識が壺に引っ張られてくんだろう。この真神を見ろ」

 オカネさんは真神の両肩に手を置いた。
「立派に長宗我部の獣を倒してきた。心配ない、あんたは戻りな。あんたが支えるべきは、あちら側の真神だよ」
 真神は思わず振り向いた。
「あちら側の僕?」
「そうさ。さすがにあんたが神隠しに遭ったってことにはなってないさ。自暴自棄、自棄やけのやんぱち、すっかりキレちまった」

 向こうの僕が。真神は不思議で、そして少し心配になる。なんとたとえればいいだろう。セーブをして中断しているはずの、ゲームの主人公が、他人の手で勝手に動かされているような、感じだろうか。真神にはそれくらいの喩えしか思いつかない。
 いずれにせよ。
「うん、僕は大丈夫。これからもっと、強くならないといけないんだ。心も体も。だから壺娘さんも、やることがあるなら、帰らないと」
 真神が壺をざらっと撫でたとき。
 壺の内側が淡く青く光ったかと思うと、火の玉のようなものが飛び出して、それはねじれるような軌道を描きながら、天井をすり抜けて飛んでいった。

「行ったか」
 と見上げてオカネさん。
「壺娘さん、あちら側に戻れた?」
「ああ、どうやら。あんたに触れて、気持ちが落ち着いたようだ」
 オカネさんの手が真神の頭に置かれた。
「僕は、まだ帰れないんだね」
「帰りたいのかい」
 かぶりを振る。「だろうね」オカネさんは呟いた。
 十年間、長宗我部の獣を倒す。
 それが自分にかけられた呪いのようなものだ。いや、自ずから望んでこちら側に来たのかも。
 真神はあちら側の自分を思う。バランス。そんな言葉が浮かんだ。

現実8

 四ツ辻猫又事件、その後日のことである。千早が珍しく実家、つまり真神が起居する屋敷にやってきた。これは実に珍しいことなのである。
「お義姉さん、何の用ですか」
 と真奈はとげとげしい。千早との間に見えない壁を隔てている。千早の装束が装束なので、余計に尖るのかもしれない。
「婆さんに線香上げに来た」
 蝉の鳴き声が急にやかましくなった。真奈が何事か言おうと口を開けたが、しかし何も言わなかった。

 千早は靴を脱いで玄関を上がる。
「よう真神、また酒もってきてくれよ」
 蝉の声を打ち消すほど通る声で言い、真神の頭をぐりぐり撫でる。こちらを見る真奈の視線が、まるで尖った岩のような不快さを露わにしていたから、真神は笑っていいのかどうかわからず、頬がこわばってしまった。

 妹の視線を避けるように、千早と一緒に床の間の部屋へ向かった。だだっ広い。畳が何枚あるか、数えるのも面倒くさい。かつては法事のときなどに親戚が大勢集まる場所であったらしい。祖母が亡くなったとき、果たして葬儀はこの屋敷で行われたのだろうか。母と真奈が「もうあんな広い床の間はいらない」と言っていたのを思い出す。

 床の間の掛け軸はなぜか佐脇嵩之さわきすうしの犬神である。犬というより、肉がぶくぶくたるんだでかい鼠のようだ。その下にはほこりをかぶった刀が鎮座している。いちおう名刀らしいが、銘をなんといっただろう。胡麻けんぴ、とかいう名前だった気がするが、真神は思い出せない。
「もともとは画図百鬼夜行の犬神だったんだが」
 千早がぽつりと言った。
「私が破ったんだ」
 彼女は壁にはめ込まれた仏壇の前に正座した。そこには一枚の写真が立てられている。母方の祖母である。

 写真のなかの祖母はとても気難しい顔をしている。老いてから写真を嫌ったようで、若いころの祖母がそこにいる。対面する者を委縮させてしまうような、気の強い表情だ。しかしそんな表情をする祖母自身が、一番気を張っていたのではないか。そんなことを真神は思うのだった。

 ちなみに継父はずっと姿を見ないが、死んでいるわけではない。今はよそで働いており、たまに戻ってきて母と愛し合う。どんな人だったかはよく思い出せない。ただ、母とわけのわからない喧嘩ばかりしていた実父よりも、ずっと穏やかで好ましい人、という印象がある。

 千早は線香の上げ方を忘れたわけでもあるまいに、豊満な尻をぎこちなく左右にずらし、細い腰をそらしてから、ようやく線香に火を灯した。次に鈴を鳴らしたが叩きようが足りずに蚊の鳴くような音しかしない。改めて鳴らすと今度は強すぎて、甲高い音が鼓膜に突き抜けた。

 千早は慎ましく両手を合わせた。鈴の残響が消えるまで、ずっとその姿勢のままだった。おもむろに腰を上げ、真神の前に座布団をもってきて、胡坐あぐらをかいた。
「真奈は相変わらずだな、嫌われてるよな、私」
「そりゃあ、その格好だもの」
「仕事着だぜ、いいじゃねえか」
「それはそうと、姉上」
 真神は正座し、居ずまいを正した。
「あのときの、猫又の人だけど。あれはもしや、一人の人間に複数の人格が、とか、そういうあれなの?」

 すると千早はとても嫌そうな顔をした。真神を睨むようでもあった。
「どうでもいいだろう、そんなことは」
「いや、どうでもよくは」
「お前が知ってどうする」
 千早は頑として譲らない。
 湿気をはらんだ暑さがまとわりついてくる。
「えっとつまり、子供が憑いたというか、子供の人格があるということ? 過去につらいことがあったせいで」

 千早は小指で耳を掻いた。
「過去に錨を下ろして何になる」
「いや、しかし」
 と食い下がりかけて真神は気づく。これは守秘義務という奴かもしれない。
「この世は分からないことだらけだ。不可思議で満ち満ちているんだ。あんたの病にしたって、薬がどうして効いているのか、本当のところはわかっていない。通り一辺倒の説明ならできるさ。受容体にアゴニスト、アンタゴニストとして作用する、とか何とか」
「うん、それはそうだ。僕の主治医と反りが合わないみたいだね、姉上は」

 ふん、と千早は鼻息を吐き、縁側の池に目を向けて続けた。
「生きてりゃいろんなことがあるさ。過去に何があったかより、他者と比べて嘆くより、いま幸せかどうか、幸せであろうとしているか。それが大事なんだよ」
 過去は重要でない? 真神は今一つ納得できないものがあった。すると自分の記憶が、小学校低学年から現在まで抜け落ちているのは、重要ではないというのだろうか。そのぽっかり空いた空洞にこそ、自分の人生を埋めるピースがあるはずではないのか。

「あの女の人は、苦しんだんでしょ。身代わりを立てるほど苦しんだんだ。今も苦しんでるんだ。過去に関わった周りの人間が謝らなくていいなんて、そんなのは嘘だ」
 千早の瞳に影が落ちた。車にはねられて、息が絶えかけた猫を間近にしながら、どうしようもできない。そんなふうな表情だった。
「何もそんなことは言ってないさ」
千早の口調は静かだった。
 真神の脳裏に、三本の指を掲げた女性の、幼い笑顔が浮かんだ。三輪車を漕いで交差点まで向かった女性のことを思った。

「やっぱり、そんなの」ぐちゃぐちゃに絡まったいくつもの糸がほどけず、胸につかえている。糸くずを吐き出さずにおれなくて、真神は「不公平だよ」と呟いていた。何が不公平なのか、自分でもわからなかった。
 遠くで蝉が鳴いている。幹に置き去りにされた、鮮やかな蝉の抜け殻が、真神の胸に呼び起こされる。千早が言った。
「長く飼われた猫は、尾が二股に分かれるという。これは重複をあらわすんだ」
 古くなった猫が、あるとき猫又として、新しい生を始める。
 真神はただ、もどかしさを抱えながら、畳の目に視線を落とした。
「大丈夫だ、真神。あんたの主治医は信頼できる。商売敵でもあるが。私もできるだけのことをする。彼女の尾はいずれひとつになる」

 千早の口調は真摯で力強く、それが真神にとって救いとなった。
「いま幸せであれ、真神」
 千早は湿った空気を晴らすような、明るい声でそう言った。

西南京都8

 真神の眼前に古本の棚がそびえている。
 両側も棚で、香炉や人形、皿など雑多な道具が置かれてあり、ちなみに値札までついている。
「また行き止まりだ」
 真神はがっくし肩を落とす。
 店中の棚が直線的にかくかく並べられており、まるで迷路のようになっているのだ。いや、悪意ある迷路そのものだ。
「まあそう気を落とすでない」
 ロウエンが微笑みながら真神の両肩に手を置く。

「ロウエン、おかしいよこの古物店。何か憑いてて、それで迷路みたいになってるんじゃないの。あのタテクリカエシのときみたいに、バーッとやってよ、ブァーッて」
「ぶぁー?」
 ロウエンが首をかしげる。
「ほら、杵が見えるようになったじゃない」
「ああ、逢魔が時か」

 ロウエンは人差し指と中指を唇の前に立てた。
「誰そ彼をいう。百魅の生ずるとき也。世俗、小児を外に出すを禁しむ」
 シーンとしている。何も変わりはない。ただ、真神が視線を巡らすと、無数の棚から透けるように赤い灯火が見えた。
「ロウエン、あれは?」
「わからぬ。ただ、妖力の持ち主じゃ。霊力ともいうが。あの赤い方角に何かおるのやも」
 ロウエンは本来、老人みたいな口調なんだな、と真神は思う。素が出てきたということで、それは真神との距離が縮まっている証明でもある。

「じゃあ、赤い光のほうへ進もう。棚がいっぱいで、どう行けばいいのかわからないけど」
 真神は元来た道をひき返すことにした。

 そもそも。真神がこの古物商にやって来たのは、オカネさんが言い出したからだった。
「あんた、黄泉路よみじ骨董店に行ってきな」
 朝食を終えて縁側に出て、まっすぐ飛んでは止まるトンボを眺めていたときである。
「黄泉路骨董店?」
「ああ、頼んでいた刀の研ぎが済んでるはずだ」
「刀、て、誰の」
「お前さんのだよ」
「え、僕刀もつの?」
 うわあ、かっこいい、本格的になってきた。と思考が有頂天になりかけたが。

「刀を使う奴が怪我する最大の原因は何か、知ってるかい」
「それは、相手に斬られてしまうからでしょう」
「いや違う。へたくそが自分で自分の指飛ばしたりしちまうからなんだ」
 ぞっと真神の背中が冷える。指が、切れて離れて、血が。そこまで想像してぶんぶん首を振る。
「あの、木刀でいいんで、それでなんとか」
「なにぬかしてんだい。これから長宗我部の獣相手に、そんなもんで挑めるもんか。あの杵はまだまだ序の口さ。それでもお前さん、ぎりぎりだったろう」
 確かに、真神の掌にはまだ内出血のあとがある。杵の突進を受け止めたときにできたものだ。

 オカネさんは腕を組み、筋肉が盛り上がる。
「刀があれば、あんなもん研ぎ澄まされた一振りで真っ二つにできたのさ」
「銃刀法違反になりませんか」
「んなこと言われたら私はどうなるんだい」
 そんな法はないということか。
「わかりましたよ。その骨董店に行けばいいんですね」
「ああ、ついでに黄泉路にも挨拶あいさつしてきな」
「黄泉路さんが店主? どういう人なんですか」
「会えばわかる」
 確かにまあ、会わなければわからない。

 そんなわけで商店街の一角にある黄泉路骨董店を見つけるのはわけもなかった。入口の上に大木から切り出したような一枚板の看板があり『黄泉路骨董店』と迫力いっぱいに墨書されていたのだ。
 で、中へ踏み込んだはいいが、両側が棚に挟まれた狭い通路になっている。通路は直角に折れ、分岐し、行き止まりもあり。
「ああ、もう、詰まる!」
 真神は何度目かの行き止まりにあたり、歯噛みしながら頭を抱える。
「というか、広くないか、中。外から見たより明らかに広い、どうかしてる!」

 ロウエンが辺りを見回して言った。
「妖術で異空間が広がっておる。黄泉路という店主自身、相当の妖じゃぞ」
「だから、それをバーッて消し去れないの、ロウエンの力で」
「無理じゃ、どうも相殺される。向こうも『逢魔が時』持ちじゃ。しかし」
 ロウエンの掌にぽっと火の玉が浮かぶ。
「棚もろとも爆風で飛ばすことならできる」
「それはやめよう、真面目に迷路する」
「そうか」
 歩き出す。

「というか、この棚自体は本物なの」
「本物じゃな。わざわざ迷路のように配置してある。膨らんだ空間も利用して」
「不動産屋が困らないの、敷地が外見より増えるのって」
 話しているうちに、赤い光点は近くなってきた。直線距離で目指そうとすると、どうしても棚に阻まれる。急がば回れだ。どうやら迷路の設計者であろう黄泉路は、相当な偏屈と見た。
 と、角を曲がろうとしたところで誰かとぶつかった。見れば一つ目小僧である。
「びっくりしたなあ、前見て歩けよう」
「ごめん」

 一つ目小僧はしかし急にはしゃぎ出す。
「ああ、刀貰いに来たんだろう、知ってるさ。オカネさんが鞘の修復とか研ぎに出してたんだ。黄泉路の野郎、腕はいいからな」
「君は何の用で」
「山爺に頼まれて、下駄を買いに来た。片脚でぴょんぴょん飛んでも疲れないのが欲しいってさ」
「迷路、どうやって行くかわかるの」
「何度も来てるからさ。一度解けばわかるさ」
「そんなもんかな」
「そんなもんさ」

 一つ目小僧は紙袋を抱えて去っていく。紙袋の中には目薬が入っているのも見えた。
「目は悪くないはずなのに」
「目がキラキラする目薬じゃ。化粧品みたいなものよ」
 突き当たりを曲がったとき、帳場カウンターは唐突に現れた。一人の少年が肘をついて紐で綴じた古書を読んでいる。真神には読めそうもない書体だ。
「あのう」
 真神は声をかけた。少年は振り向かない。仕方ないので、招き猫の形をした呼びだしベルを掌で押した。チリン、と鳴る。

 少年は本を閉じた。
「はいはい、黄泉路骨董店へようこそ」
 だらけた様子で眠そうな目の少年だ。歳は真神より少し上くらい。
「あなたが、黄泉路さん?」
「いかにも黄泉路柩よみじひつぎは俺のことだ。あんたは」
「大口真神です」
「歳は」
「八歳」
「俺は十二。ま、あんま気ィ使うな」
 黄泉路は立ち上がる。

「それにしても、てめえみたいなチビとはな」
 などと言いながらすだれのかかった奥の間へ消える。やがて一振りの刀を持って現れた。黒鞘に天の川のような銀がちりばめられている。
「背はこれから伸びます」
 真神はぶっきらぼうに言ってしまう。相手が礼を失しているなら、こちらも礼を尽くす義理はないのだった。
「そうかよ、自分の足切ったりすんなよ。そいつはよく切れるからな」
 黄泉路は口の端を刻むように吊り上げ笑っている。

「余計なお世話です」
「用事はそれだけか。さっさと帰れ」
「あの、代金は」
「前払い。婆さんから貰ってる」
「婆さん?」
「オカネのばばあだ」
「ばばあって歳には見えませんよ」
「知らねえのか、あの婆さんは魔人だ。こっちでは相当、生きてんだぜ。あちら側で何度も死んでんのによ。夢で見るらしい。あちら側の人生を」

 沈黙が落ち、後ろの棚に並んだ時計から秒針だけが重なって聞こえる。
「ああ、そうだ」柩が声を上ずらせ。「その刀の銘はケンピンゴマノハシ」
「胡麻けんぴ? カモノハシ?」聞き違えてしまう。
「うまそうな名前だよな」と柩はどうでもよさそうに。「ケンピンゴマノハシ、魔を祓う刃だ。ただ、いざなぎ流の祭事に使われていたものが源流だ。そこへ犬神憑きの血から抽出した鉄分をちょいと使い。長宗我部の獣、それを倒すのに特化している」

 柩は台に足を上げ、手を頭の後ろで組み、椅子を傾かせ、横柄な態度は崩れそうもない。
「にしても、お前さんがねえ。オカネさんが贔屓ひいきにしてるようだし、こりゃあたぶん」
 家絡みだな、という呟きは小さかったが、真神には聞き取れた。
「ま、帰んな。もと来た道を戻るだけだ。簡単だろ」
 黄泉路は再び本を開く。その態度に真神は気分が悪くなり、無言で踵を返した。振り返る間際、視界の端で、黄泉路の片手が白狐の頭のようになっていたが。
 気のせいだろう。

過ぎた夏の日1

 視界の端に奇怪なものが映り込むことはよくあった。
 それは改めて見直すと消えている。
 祖母にとってはありふれたことらしい。
 幼い真神は祖母に問うたことがある。
「地獄と天国があるなら、なんでみんな仲良くしないの。どうして戦争をするの。戦国武将はみんな地獄に落ちたの。どうして殴られるの」
 なんでも問いたくなる年頃だった。

 真神の祖母は苦笑して、「誰に似たか、頭がええな」としかし嬉しそうに。
「今をまっすぐ生きることで、先の幸福が約束される」
 そう語った祖母は、しかし片眉を上げ皮肉めいた笑いに変わった。その表情には世間への侮蔑すら混ざっていた。
「……なんてね。実際にゃ無理だ、そんなもんは。なぜなら、人間は生まれたときから醜い先輩どもに囲まれているからね。人は穢れを食って、その栄養で生きていくのさ」

 子供の真神にはよくわからない話だった。座卓で向き合う祖母は煙草を遠慮なく吹かし、その紫煙が仏壇の線香から漂う煙と混ざって、鼻の奥をくすぐった。思えばあの頃は、大人が子供の前で煙を吹かすことは珍しくもなかった。

「今のお前さんはね、西南京都が見えそうになっているのさ。悪いことじゃあない。だが、良いことでもない。大事な孫をむざむざあの世で溺れさせたかない」
 真神は祖母に見せたいものがあった。石橋の下で見つけた犬の頭蓋である。近所の浅葱久美に見せたら悲鳴を上げていた。嫌われたかもしれない。しかし真神には、化石を発掘したような誇らしさがあり、それを祖母にはわかってほしかった。
「おお、おお、こいつは。いいもんを拾うたな真神」
 ぶはぶは煙を吐きながら、祖母は頭蓋骨を手に取った。
「ふむ。この村には小癪こしゃくな奴がおるな。お手柄じゃぞ真神、今ならまだ祓える」

 祖母は呼気をふうっと吐き出した。白煙が頭蓋の口から入って眼窩に抜ける。
「犬神はな、誰もが飼っておるのだ。誰かを責めたり、仲間はずれにしたり、恨んだり、そうして犬神を浮かび上がらせる」
 祖母は煙草を灰皿でもみ消し、孫をまっすぐ見た。
「わしの生業のせいで、おぬしたちには迷惑をかける」
 迷惑なんて思っていない、と真神は思った。そもそも祖母がどうやって財産を築いたのか、真神はよく知らなかったのだ

「それよりも犬神って何」
 と真神は身を乗り出す。
「忘れろ真神、余計なことを言うてしもうた」
 それでも真神が教えて教えてとせがむと、祖母は根負けした様子で言った。
「犬の頭をおぬしが拾うたのも、また何かの縁かもな」
 そして祖母は語りだした。
 犬神の儀式はぞくぞくするような怪談であった。
 今現在なら、ネットで調べればすぐにわかる。焦らすほどのものではない。
 いま思えば祖母は千早に似ていた。

現実9

 千早の部屋にあったダルマであるが。三つとも目玉を入れて、市内の薫的神社に奉納したそうだ。ダルマばかり奉じられる神社だ。目玉を描いたということは、あの女性の予後に進展があったのだ。
 姉の生業がなんとなくわかってきた。もし猫又女性があのまま放置されていたら、いろいろ面倒なことにもなっただろう。
「報酬ってあるの」尋ねると、「ない奴からは取れない。ある奴からはがっぽりと」らしい。

 千早が言うに神社は神域である。神域への恐れは、己自身への恐れだという。真神は気にせず一條神社で読書して時間を潰していた。紅の番傘が立っており、長椅子は日陰になっている。
 一條神社は商店街アーケードのすぐそばにある。土佐一条氏を祀る神社である。ときの関白一条教房公は、室町後期から戦国にかけて応仁の乱にあった京都から、土佐国幡多荘つまりこの四国西部にやってきた。

 戦国時代には土佐の盟主としての地位を築いていたが、のちに伸長した長宗我部氏を相手に四万十川の戦いで敗れ、消滅することとなった。
 四万十川の戦い。長宗我部軍の誇る精兵、一領具足がまぶたの裏で躍動する。普段は農業に従事しながら、戦とあらば兵士として参集するのが一領具足である。
 この長宗我部氏もまた、大坂の陣で豊臣方について敗れたため、直系が絶えることとなる。
興り、滅んで、そしてまた興り、そうして歴史が紡がれていく。

 読書に夢中になりすぎて、時が過ぎるのを忘れてしまっていた。さっきから空気が粘るような重さを伴い、活字がぐにゃりと歪んできた。逢魔が時に入ろうとしている。西南京都の情報が入り込んでくる、夕方の時間帯だ。真神はポケットからフィルムケースに入れた錠剤を取り出し、水なしで飲んだ。喉に違和感が残り、手水舎を借りた。

 境内が紫紺に暮れ行くその移り変わりをしかと見ていた。狛犬が動き出しそうだ、いや動いている。たてがみをふわふわ揺らしながら顔を前脚でなでている。
 真神は長椅子に座り直す。
 おみくじ販売機のそばでは、烏帽子をつけてゆったりした物腰の人が、細長い色紙に筆ですらすらと歌か何かを書いている。
 いっぽうでは賽銭箱を使って鈴を鳴らした中年男性が引き返してくるのだが、賽銭箱の中から鎖が男と繋がっており、男が遠ざかるにつれ音もなく伸びていく。

「よう、おめーもあれが見えるのか」
 不意に声をかけられ視線をあげると、一人の男がいた。野犬を思わせるような、どこか鋭い顔で、目じりがナイフのように切れていた。
「おもしれえよな、あれ。いったい何の象徴だと思う」
 などと言いながら、真神の隣に座る。タバコにオイルライターで火をつけて、喫い始めた。口から煙の輪っかを吐き出す。そして今さら気づいたように、
「あ、すまん。副流煙やべえな」
 と慌てた様子で身じろぎする。
「いえ、大丈夫ですよ」と真神は手ぶりを加える。「むしろ婆ちゃんがよく喫ってたんで」

 紫煙のにおいが真神に祖母を思い起こさせる。古びた家で真神に何事か説いている祖母。その口にくわえられた煙草の銘柄は何だったか。
「煙やると落ち着くんだよ、こんな状況でもな」
 男はぷかぷか煙草を喫う。
「いやそれにしても、こんなところで同類に会えるたあ思わなかった。俺は黄泉路柩だ。ヒツギって呼んでくれ」
 と右手が差し出される。ずいぶん馴れ馴れしいというか、知人であるかのような。真神の手はためらい、そして名乗る。
「俺は真神です」

 手を握り返そうとした。が、ヒツギの右手が不意に白い毛皮を纏い、狐の頭に変じていたので驚いて引っ込めた。
「お? やっぱこれも見えるのか。すげーだろ、右手が白狐なんてクールだよな」
 ヒツギは白い歯で煙草を噛み口角を上げている。この人物も真神と同じ、西南京都を感じ取れるカタワレなるものであるようだ。

「ここで会ったのも何かの縁だ。せっかくだから人生の先輩である俺が、お前のために教訓を一つ聞かせてやる」
 ヒツギは白狐の顎を開いたり閉じたりして、まるで腹話術のようにした。そしてもう片方の手で白い毛皮をなでる。
「この狐はな、亡き恋人の形見なんだ」
 いきなり妙な話だ。面倒くさい人にからまれてしまった。ヒツギは同類に出会えておかしなテンションになっているのか、あるいは素でこれなのか。

「俺は学生の頃、バイクに凝っててな。いつかヘルズエンジェルスに入るのが夢だった」
 ヒツギの視線はどこか遠くで点を結ぶ。
 ヘルズエンジェルスとはアメリカのモーターサイクルギャングのはずだ。いったいそれのどこに憧れていたのか。何かをこじらせた少年の姿が目に浮かぶようである。
「郊外の住宅地の下に、直線道路が走っててな、そこをズッギャーンとかっ飛ばすのがおもしろかった。あそこをかっ飛ばすのは最高だった。風を切りながら、風と一体になって、風より速くなるんだ。もう、ズッギャーンって感じだな」

 今のセリフだけでズッギャーンが二回も登場した。
「おもしろくてなあ、何度も往復すんだよ、ズッギャーンってな」
 三回目。
「毎日のようにそこでかっ飛ばしてた。パトカーが追いかけてきたこともあったがそこへ対向車、パトカーは避けようとしてスリップ、俺はガードレールに乗り上げて曲乗りで逃走」
 さぞや住宅地の人々は迷惑したことだろう。
「しかし俺はどうしょうもねえ。なんかよ、かっ飛ばしながら、不意にぼーっとしちまって。明日もここ、走るのかって。気付いたら目の前にはヘッドライト。向かってくる大型トラックと正面衝突しちまった」
 は? という顔に真神はなった。

「デコトラだったよ。車体に潮吹く魚が泳いでいるのを、宙にすっ飛ばされながら見た。そこで俺の意識はいったん途切れた」
「よく生きてましたね」
「俺の無事を喜んでくれるのか、ありがとう」
「いや別に」
 どうでもいいのだが。

現実10

「俺は無事だった。頭蓋にヒビ、右腕と左脚とあばらが何本か、それだけで済んだ。だが、無念だったのは、俺の恋人が死んじまったことだ」
 いきなり鬱な展開になってきたので、真神は言葉がない。
「後ろにいつも彼女を乗せていた。白いワンピースが似合う美少女だ。わかるか、美少女だ」
 どうやら白いワンピースの美少女であることが重要らしい。わからなくはないので、真神は適当にうなずく。

「幼なじみでな、俺以外に友達もいなくて、いつも俺と一緒にいた。大事な人だった。でも何でだろうな。何で大事な人なのに、バイクの後ろに乗せてたのか、それがわからねえ。昔の俺が目の前にいたら、ぶん殴ってやりてえ」
「その彼女さんは、あなたと走るのが楽しかったんでしょう」
 するとヒツギは、うん、うん、と二回しみじみと頷いた。
「あの頃が思えば一番、幸せだった。だがあの事故で、彼女は帰らぬ人になっちまった。俺は愚かだった。俺はその日から、バイクには二度と乗らねえと誓ったのさ」

 いささかヒロイックな語りぶりではあったが、いたたまれない。そのような過去を初対面で打ち明けてくれたことに、なんとなく親しみがわく。
「げ」
 という子供の声がしたので顔を向けた。石段を上ってきたのは円周率少女ではないか。
「最悪だ、五のときに、ヒツギと仲良く話すいつかの弁当男に出会うなんて」
 などとぶつくさ言いながら歩み寄ってきて、ヒツギに清楚な白い紙箱を差し出した。ケーキ屋『甘々堂』の箱のようだ。ヒツギは「ご苦労さん」と受け取り、代わりに財布を探ってカードを差し出す。アニメか何かのキャラクターカードだ。

 少女はカードを一瞥しただけで、放り投げてヒツギの膝に返した。
「それランドルフのカードじゃないか。いらないよ」
「あ? どれでも一緒じゃねえのか」
「とぼけるな、ニャルラトホテプをくれるはずだろ」
「いや、あれさあ、試しにネットオークションで調べてみたら、プレミアついててものすごく高価たけえのな。だから生活費の足しに」
 ごつ、と鈍い音がした。少女がヒツギのすねを蹴り飛ばしたのだ。ヒツギは「弁慶!」という悲鳴をあげ脚を抱える。

「いくらになったんだよ、この万年貧乏人!」
「てめえ、カナメ、なんだその言い方は!」
 どうやら円周率少女はカナメというらしい。
「職なしニートなんて水戸黄門だって助けてくれないよ。金が入ったなら実費で払え。シュークリームと労働力の対価を払え」
「くそ、俺は子供のころ、木を削って作った印籠を学校に持っていった。しかし誰もひざまずいてはくれなかった!」

 ヒツギは半ば自棄になったように札入れを探ると、一枚の千円札を抜き取ってカナメの眼前に突き出した。
「畜生、俺の漱石さんが! あれ、今は与謝野晶子だっけ」
「野口英世だよ、バーカ」
 カナメはヒツギの千円札をひったくる。
「くそ、千円あればとんかつ弁当が買えるのに、俺は甘党なこいつのためにシュークリームを食わねばならない」
 ヒツギは右手の白狐を愛おしそうになでる。

 カナメはというと、呆れ顔で紫煙を手で払っている。
「ご愁傷さま。僕もそんなに暇じゃないからね。あとそれ、煙草。煙で脳が縮みそう」
 ヒツギは煙草を筒型の携帯灰皿に入れ、白い紙箱を開ける。中に小さなシュークリームが整然と詰まっていた。その一つを狐が口でくわえ、がぶがぶ食べ始める。
「うまい、しかし今日の晩飯がこれだけだと、糖分ばっかりになっちまう」
「鼻高人形でパンの耳でも貰うといいよ」
「炭水化物じゃねえか」

 今日のカナメはスカートをはいているので、ああ、やっぱり女の子なのだなとわかる。そういえば最初に会ったときは真っ昼間だった。学校に行っていないのだろうか。いろいろ聞きたいことがあったが、そこまで立ち入れる仲でもなく、どうでもいいことを尋ねてしまう。
「もしかして、見えてますか、これ」
 とヒツギの白狐を指し示した。するとカナメは嫌そうな顔になった。感情がよく顔に出るらしく、ころころ変わる。
「見えるね、見えるよ、だからって知り合うのはあんたらみたいなろくでもない大人ばっかりだ」

 そこでヒツギが気取ったようなため息を吐いた。
「お前は何もわかっちゃいねえ、大人になるってのは、ろくでなしになるってことなんだ」
 ろくでなしの適用範囲を拡大してどうするのか。
「おい馬鹿ヒツギ、お前と同じろくでなしが、ただいまこの町に出没してるらしいよ。なんでも子供に無理やり変な画像を見せるんだって」
「えろいのか」
「一人で店をうろついてる子供にさ、エッチな画像やグロい画像が表示された携帯を見せるんだって、キモ」

 ヒツギが重苦しそうに視線を上げた。
「何だそりゃ。要は昔よく流行ったあれか。裸にロングコートのおっさんやらお姉さんが、子供の目前で前をびろーんと開ける」
「馬鹿じゃないの、馬鹿なんだろうけど」
 カナメは引いている。人生の先輩らしからぬ会話ではある。

「そいつはあれか、わいせつぶつ陳列とかになるのか」
「僕はそんなもので動じたりしないけどね、小さい子が見せられたら、良くないよ」
「そうか? 最近は表現も過激になってきてるとお兄さんは感じるけどな。ネットの広告で美少女ゲームの服がびりびり破けたりすんだろ?」
「そんな広告出るのかよ、ばーか」
「お前な、馬鹿という言葉を安売りしてたらやがてみんなに飽きられるぞ」
「僕はその不届き者を捜索中なのさ。何か情報あったら報告よろしく」

 なかなかスリルある探偵ごっこだ。茶の間アニメでは流せない破廉恥事件だが。真神はつい、おせっかいな心配をしてしまう。
「あなたは、いつも一人ですか」
 踵を返しかけていたカナメはきょとんとなった。
「僕はいつも一人だよ。誰ともつながりたくなんてないね。お兄さんも不届き者捜し、協力してね。あと敬語やめて」
 そう言い残すとカナメは背を向け、身軽な駆け足で石段の向こうに消えた。

「一人はどうだろう」
 と真神はひとりごちた。日が暮れていく時間帯なのだから、あまり一人でいるのはどうか、と言いたかったのだが。
「言葉で伝えるのって難しいな」
 ほとんど無意識にそんなことを呟いてしまった。
 狐はシュークリームをきれいに平らげている。

「言葉といえばなあ、俺は幼少のみぎり、喋れるのに喋れんふりしてたことを、覚えてんだよ」
「なぜですか」
「いや、こええだろ、普通」
 何が怖いのだろう。幼児が喋ったら周りの大人が喜んで、いっときは主役になれる瞬間ではないのか。実際はどうか覚えていないが、少なくともそのようなイメージはある。
「うまく言えないんだが、怖かったんだな。大人の前で喋ったらその瞬間、そっち側に行っちまう気がして。わかんねえか」

 そっち側。此岸から彼岸へ。あるいは彼岸から此岸へか。言語を発さないとしたら頭のなかの思考はどのように成立するのだろう。
「ま、俺は『バンバンジー』と叫んだのをきっかけに喋れるようになったんだけどな。そのとき周りに人がいなくてさ、テレビだけが鳴ってたわけよ」
「何か、きっかけがあって、喋るのが億劫になったのでは」
「かもな。ま、どうでもいいさ過去のことぁ。シュークリーム食えてこいつも満足だ」

 ヒツギは左手で白狐の頭をポンポンたたく。白狐は気持ちよさそうに目を細めている。白狐はいったい彼にとってどんな意味を持っているのか。千早なら、詮索するな、と言うだろう。
 視線をあたりに転ずると、狛犬の片方が大きなあくびをした。もう片方はすやすや眠っている。

「どうでもいいカードを売っただけで大金になるんだなあ、わからんもんだ」
「ああ、さっきの話ですか。カードとか集めるんですか」
「いいや、あれはオタクな友達からもらったんだ。急にクトゥルー神話が怖くなって、手放そうとしたが、できなかったらしい。都市伝説を気にして」
「都市伝説」
「くっだらねえ話さ。引っ越しのときにメリーさんとかいう人形を捨てていったら、あるとき電話がかかってきて」
 それなら真神も知っている。電話をかけてきたのは捨てられた人形で、徐々に自分の家へと近づいてくる怪談だ。

「この都市伝説には内緒の続きがあるんだぜ」
 ヒツギは何やらどやっとした顔になって続けた。
「人形を捨てるたんびに戻ってこられたら、迷惑だろ、困るだろ。だからな、人形を捨てるときは、手足を切り離して捨てるのが、この都市伝説への対策だ。と俺の高校の先輩が言っていた」
「それ、もっと怖くないですか」
「だよな、ひでえよな、人形がかわいそうだ。合理的だが、俺は嫌だ」

 ヒツギは尻を払って立ち上がる。シュークリームの紙箱をどうするのかと思ったら、綺麗に展開図にして折りたたんだ。
「そんじゃま、帰るわ」
 歩きかけたヒツギが、しかし獲物を察知したかのようにピタと立ち止まった。
 何事か、というほどのことではない。販売機でおみくじを引いた烏帽子の男が、その紙きれをぞんざいに放り捨てたのだ。ヒツギは荒っぽく男のゆく手に立ちはだかると、胸倉をつかみ上げた。白狐の顎が、男の襟に噛みついたのだった。

「おい、てめえ」
男は目をしばしばさせた。互いの呼気がかかる間合いだ。
「いいか、ゴミを捨てるんじゃねえ。そいつはなあ、俺より落ちぶれてる友達が、バイトで書いてるおみくじなんだ」
 男は疑問符を顔に浮かべながら何度も頷く。ヒツギの手が離れると、這うようにしておみくじを拾い上げ、そそくさと立ち去る。ヒツギはしばらくその場で立ち尽くしていた。顔は薄紅色の空に向いている。神社の水色屋根にとまったカラスがヒツギに向かって抗議するように鳴く。
 真神は思わず今日一日の行動を振り返っていた。ごみを不注意に捨てた覚えがなかったことに、ほっとした。

西南京都9

 昼間とはいえど空は紫がかった紅色である。
 オカネさんが縁側に座り、片肘をついて庭の真神を見ている。
「刀を構えてみな」
 そう言われて両手でケンピンゴマノハシを構えた。
 そのままじっとしていた。体がぶれそうになる。
「ダメだね」
 オカネさんがすげなく言った。立ち上がると草履をつっかけ真神に歩み寄ってくる。
 切れ長の目がじっと見下ろしてきて。
 真神は刀を取り上げられ、代わりに竹刀を持たされた。

「構えからしてなってない、危なっかしい。まずはこれで練習だ」
 せっかくの刀を取り上げられて真神は不満が顔に出てしまう。
「生意気なツラすんじゃないよ。あんたのためだ。前も言ったろう、指飛ばしちまうって。それでしばらく振ってみな。自由にな」
 真神は言われた通り、遠慮なく、竹刀を縦横に振るった。しかし体が竹刀の勢いに持っていかれそうになる。刀より軽い、それなのにである。
「体の軸を意識しな」
 とオカネさんに言われても、軸とはどこにあるのだろう。

 とにかくぶれてはならない。袈裟斬り、斬り返し、横に薙ぎ、面を打つ。
 そうやって勢いよく振り回していたら、不意に竹刀は自分の膝を打った。思わず抱えてしまうほどの痛さ。
「そら、やったろう」
 オカネさんは四足動物の形に切った御幣を取り出すと、ふっと息を吹きかけた。するとそれは膨らんでイタチのような式神になる。
 オカネさんは何事かイタチに囁く。イタチはふわりと浮かびながら体をくねらせて市街へと飛んでいった。

「さて、ちょっと昔ばなしなんだが、あんたあちら側で、この市街に住んでたかい」
 問われた真神は黙考せねばならなかった。
「覚えてないかい。いまどきあちらでは夏休みだろう。あんたが発見されたのは、塩塚峠を越えて、遡っていった先の、集落の、更に奥。まあ、私が夢見でその場所を見て、それで一つ目と山爺を迎えに行かせたんだがね」
「じゃあ、僕はその集落に住んでたんだ、あちら側では」
「そうだね、何か理由があったのかもしれないが」
「理由?」

 しかしオカネさんは黙ってしまう。庭の池で鯉のはねる音がした。真神は少しでもいいところを見せたくて、竹刀を勢い良く振る。「隙がありすぎる」特に何の期待もない静かな声音でオカネさんは言い、煙管をくわえる。
 しばらく素振りをしていたら、門から人影が現れた。近づいてくる、その顔は、黄泉路柩だ。
「ご苦労だったね」
 オカネさんは式神にねぎらいの言葉をかけた。イタチは自分で自分の足を噛み、そうすると元の御幣に戻ってひらりひらり舞い落ちる。

「何の用だよ婆さん」
 柩は眉根をひそめる。オカネさんは無言で竹刀を放り投げ、柩はそれを過たず片手で受け取った。
「何をしろって?」
「真神に稽古をつけてやってくれ」
「はあ? 俺がかよ」
「あんた、天然理心流の目録だったろう。そこそこやれたよな。続けてりゃ免許皆伝だったはずだ」
「俺の得物は剣じゃねえんだよ」
 そう言った柩の右手が一瞬、白狐になった。

「まあね、ただ体さばきは役に立ったろう。刀持ちを相手にどう立ち回るか、とか」
「使う機会がねえよ。せいぜいわんごの狸の眼前に切っ先を突き出したくらいか。あの狸、ビビって逃げちまった。逃げながらも車輪を棒で回すんだぜ、傑作だよ」
 柩は性悪な笑みを浮かべ、オカネさんは煙を吐く。
「あんたに剣士の心得はないね」
「わかってるよ、んなことは。だからやめたんじゃねえか。護身なら葛の葉で充分だ。それもまあ、使う機会がない。誰も近寄っちゃ来ねえしな」
「使う機会か。あるかもしれん、近いうちにな」

 柩は舌打ちし、「相変わらず歯に物の挟まった婆あだ」吐き捨てる。
 真神は二人を見比べ、「あの、黄泉路さん」話しかける。
「ヒツギだ。ヒツギでいい」
 そう言って彼は右手の竹刀で幾重にも風を切り、宙に放り投げてパシッと掴んだ。
 相当やれるのか、と真神は思う。
 オカネさんの口から離れた煙管が横を向く。
「やりなヒツギ。加減はいらん。真神、構えろ」
 真神は竹刀を構えた。
「お前、それで構えてんのか」
 ヒツギが眉をひそめた。

 と思ったときにはヒツギがまるで地を滑るように間合いを詰めてきて、気付いたときには脳天を叩かれていた。
「一本」
 オカネさんが静かに言った。
「こいつにケンピンゴマノハシを?」背後でヒツギの声がした。「竹光で充分だ」

西南京都10

 ヒツギは肩を回してオカネさんに言った。
「呆れたぜ。こんなひよっこが十年かけて長宗我部の獣を倒す? 馬鹿もほどほどにしとけよ」
 オカネさんは無言で煙管を吹かす。ヒツギはなおも続ける。
「長宗我部の獣に目をつけられたのが運の尽きだな。こいつはきっと来年には怨念に食われちまうぜ。そうなれば、西南京都で妖との大戦争の始まりだ」
 オカネさんは煙管の雁首を振り、灰を落としてから言った。
「まあ、負の念は募っていくからね。そいつは必ず忘れた頃に災いを起こすもんだ。真神はな、それを防ぐ希望なのさ」
「希望か。嫌な言葉だ」ヒツギはにやにや笑い。「もっかいやるか?」真神に尋ねた。

 真神は当然、うなずいた。
 オカネさんが煙管に新しい葉を詰めながら言う。
「真神、あんたの責任じゃあないんだ、これは。そもそも責任探しをしても仕方がない。忌むべくはあちら側に、時代錯誤の馬鹿がいたことさ」
「ふん、かばいやがる。婆さんのお気に入りだな」
「ヒツギ、あんたが竹刀を振り始めた頃よりは、資質があるよ、こいつは」
 ヒツギは剣呑そうに眉をひそめた。
「頭に来たぜ。婆さん、こいつを今から滅多打ちにする。いいな」
「構わん」
「え、ちょっとオカネさん!」
 真神は高い声をあげてしまう。ぎろり、とオカネさんの黒い瞳が真神を睨んだ。

「腹ぁくくりな、真神。あちら側のお前さんが、あんたよりも強くなっていく。日増しにな。さながら狂った獣のように。ぶっ壊れて、世界のすべてを恨んでいる」
「どういう意味ですか」
「そのまんまの意味だ。その怨念はこちら側に滲出してくる。最近、怪異があちこちで出没している」
「そんなの、僕は知りません」
「ああ、あんたのせいじゃない。しかしあんたのせいでもある。全てから逃げ続けた、あんたの」
 しかしオカネさんの言葉はどこか悲しげに語尾が消え入るのだった。

「っしゃ、行くぞ真神」
 湿った空気を晴らすようにヒツギが竹刀の尖端を真神に向けた。
「お前に合わせてやる。ついてこい」
 と言うや否や、胴打ちが来た。真神は咄嗟に竹刀で防ぐ。その瞬間には既にヒツギの竹刀は頭上にあり、面を打たれそうになったところ、寸前で半身になってかわした。
「そうそう、確かに筋はいい」
 竹刀はあらゆる方向から隙を見つけて飛んでくる。ヒツギがその速度を加減しているのは明白だった。真神の反応に合わせている。
 それから数カ月、特訓は毎日続いた。

 やがて互いに球粒の汗をかきながら竹刀を幾重も合わすようになり、ヒツギが言った。「本気でやらねえと、さばけなくなってきた」そしてあるとき真神の竹刀がヒツギの額を打った。
「面あり」
 縁側のオカネさんがにやりと笑う。ヒツギの無表情は屈辱のためか。
「しゃらくせえ」
 ヒツギは竹刀を地面に放り投げた。
「葛の葉」
 彼が言うと、その右手が白狐の頭に変ずる。彼は足を肩幅に広げ右手で食らいつかんという姿勢になる。

「ヒツギ、やめな」
 オカネさんが静かに言う。しかしヒツギは白狐を引っ込めない。空気が緊迫して張り詰めた糸のようになる。そのときだった。
「オカネ、オカネ―!」
 片脚でぴょんぴょん跳ねながら、山爺が現れた。その切迫した声に糸はなおのこと繊維を細らす。
「浅葱久美を知っとるか、オカネ!」
「あ? 真神と同じくして現れた娘だろう」
「そうじゃ。あの娘の呪いが、膨れ上がっとるようで、もう息が」
「長くないのかい」

 山爺は何度もうなずく。そして真神をなぜかちらりと見て、
「あちら側で心労がたたっとる。このぶんだと、もう」
「それにしても容態の変化が急だね。何かあったのかい」
「娘のうわごとによれば。伏せっているとき、八尋という男が訪ねてきて、退魔の念をかけた蝋燭をくれたと」
「それを灯したのかい。胡散臭いね。蝋燭を変えな」
「ところが本人が聞かんのじゃ。蝋燭が、温かいと」
 ふうむ、とオカネさんは顎を撫でる。
「蠟燭、蝋燭か。ひょっとすると、狐狸の類やも」
 そう呟くのが聞こえた。

「真神、ヒツギ」
 オカネさんは声を張った。
「退魔の任を与える。浅葱久美の宅に赴き、呪いを祓え」
 真神とヒツギは顔を見合わせた。
「いや、婆さんが行けよ、確実だろ」
 とヒツギ。しかしオカネさんは至って冷静な表情で、
「おそらく大した怪異ではない。そうだね、手品の種みたいなもんさ」
 まるで一度それを相手にしたことがあるかのようだった。
 浅葱久美。真神はその名に覚えがある。大切な友達だったような。苦しんでいるなら、助けねばならない。真神はいてもたってもいられず、「すぐに行きます」と答えた。ヒツギは面倒そうに頭をかいていたが、「ま、拳のやり場がありゃあ、何でもいい」と呟いた。

西南京都11

 浅葱の家は全くの闇だった。
 戸も窓も全て閉てられている。
 ただ浅葱の寝室だけは一本の燭台が灯り、それのみが光源であった。とても明るく、小さな太陽のようだった。
 浅葱は布団で眠っている。火照った苦しそうな顔で。
 真神とロウエンとヒツギは彼女の布団の脇に座っていた。

「この蝋燭か」
 ヒツギが布団を挟んだ向こうの燭台を睨む。その横顔は陰影をくっきりと浮かび上がらせている。
「確か、八尋という人が持って来たんだよね」
 真神が集落の妖たちから聞いた話では、八尋という人物はたびたび浅葱を訪れてきては、食料や生活に必要なものを届けていたらしい。

 どこかで床板の軋む音がし、真神の肩がぴくりと反応した。
「この蝋燭が悪いんじゃねえのか」
 ヒツギの言葉に、しかしロウエンは首を振る。彼女は袂を口もとにあてていた。
「私にとって好まぬにおいがする。つまり、妖を寄せ付けぬにおいじゃ。人に近しきこの娘には、良きものであろう」
 生活物資を届けていたともいうから、悪い人物ではなさそうな気がした。
「少しくたびれた集落だね」
 真神は集落の風景を思い返す。田畑が広がってはいるが、道や橋などが無計画に増設されたようで、その景観は美しいというより、どこか混沌としていた。

 ヒツギが燭台を凝視したまま言った。
「道が複雑につながってたろう。きっと何か、過去にやばい妖が出てたんだ。そいつらの移動を制限しやすい地形になってんだよ」
 どこかで何かが落ちるような音がした。真神は立ち上がり、刀の柄に手をかける。今度は天井裏で小さいものが走り回る音がした。
「闇の中に何かが、いっぱいいる気がする」
「落ち着け真神」
 ヒツギは至って冷静に座している。
「でも、闇の中の妖が、浅葱に病を」
「まあ、落ち着け。この嬢ちゃんとお前、あっちで知り合いだったのか」

 問われた真神は記憶を呼び起こそうとした。
 浅葱が持っている少女の人形、笑顔、一緒に人形遊びをしていた。一転して、太く大きな少年、嘲われ、路傍で殴られた自分、浅葱の泣き顔。
「僕の大事な友達なんだ」
「そうか」
「遊ぼうって、いつも、家に来てくれたよ」
「良かったじゃねえか」
「でも僕は、浅葱と一緒に遊んだら、嫌な奴に殴られるんだ。浅葱も、嫌なことをされるんだ」
 ちっとヒツギの舌打ちがした。
「なんとなく、事情は分かるが、お前は抗わなかったのか」

 真神は膝の上で拳を握りしめ、「怖かった」それだけ言った。
「俺だったら、殴られたら殴り返す。相手が血みどろになるまでな。専守防衛だ」
「そのあとはどうするんじゃ」
 珍しくロウエンが間に入る。
「そのあとなんて知ったこっちゃねえ。ただ目の前のボケを半殺しにする。正当防衛で、ついやっちまいました。言い訳はそんなもんでいいだろう」
「野蛮な」
 ロウエンが呟くように言った。

 またヒツギの舌打ちがして、闇だけがねっとりと濃かった。
「長居できねえな、葛の葉が、弱ってきてる」
 妖には悪いにおいを、あの蝋燭は発している。ヒツギはもどかしいように言った。
「ただどういうわけか、俺自身は、なんかこう、腹んなかのモヤモヤが、消えて、綺麗になってくような、そんな感じがしやがる」
 真神にはそれほど感じ取れなかったが、言わんとすることはなんとなくわかった。ロウエンもにおいを直接嗅がないようにはしているが、その眉は憂鬱で、気分が悪そうだ。

 またどこかでかたかたと物音がした。真神はたまらず刀を抜く。
「家じゅうが妖に取りつかれてるんだ。闇の中で、どう戦えばいいんだ」
 手がじっとりと汗ばんだ。
「ヒツギさん、浅葱のことは頼みます。僕はちょっと、家の中を見てきます」
「その必要は、ねえ」
 やたら落ち着いた口調でヒツギは言った。その落ち着きようが、真神を不思議と踏みとどまらせた。ヒツギは続ける。
「妖がこの嬢ちゃんの障りになるなら、そいつはこの部屋にいなくちゃおかしいんだよ。しかし蝋燭は妖を退ける。婆さんは狐狸の類と言っていたが、経験則で言っただけだろう。見当違いだ。こいつは俺とお前のような、人カタワレの仕業だ」

 ヒツギは何か確信を持ったように、燭台の眩い光を見据え、言い放つ。
「何を恨んでんだ、てめえは」
 身じろぐような音が、した。燭台から。
「全部てめえのせいじゃねえのか」
 無音。
 一拍、ヒツギが息を吐く瞬間があった。
 一瞬のち、ヒツギは布団をまたぎ超え、燭台に右手の白狐を突き出していた。ふっと灯りが消え、室内は真っ暗闇になる。

「ヒツギさん、いったい何を」
「捕まえたぜ、真神」
「ロウエン、火を」
 ほうっと淡い炎がロウエンの掌で踊り、室内を照らした。
 真神は目を見開く。燭台の後ろに貧相な男がいて、その頭を白狐の顎あぎとが挟んでいるではないか。
「ヒツギさん、その人は」
「人に近しい姿。なるほど蝋燭に耐えられるわけだぜ。ずっと嬢ちゃんを呪ってやがったな、てめえが!」
 男はもはや顔が恐怖に歪み、言葉も出ない、第一あごを動かせない。

 真神は気付く。闇の中で太陽のように白い、一点の光源。それは直視するにはあまりに眩しい。つまり。
「闇の中の物音は、単なる自然の音で、この人は、明るさの中に隠れていたのか」
「そういうことだ。おいお前!」
 ヒツギは眉を逆立てて叫ぶ。
「何の恨みがあった、あちら側で。こちらにわざわざ来るほど、何がそれほど憎かった!

 答えたくても答えられないのだ、彼は。ロウエンが静かな口調で言った。
「この男を見ていると、どうも身のうちがうずく。おぬし」
 ロウエンが切れるようなまなざしで男を睨みつけた。
「我が同胞の首を切りよったな」
 どういう意味か真神にはわからない。ただ、ロウエンがそれほど恐ろしい顔をするのは初めて見た。首筋の茨のような縫い跡から目が離せない。

「真神!」ヒツギが叫ぶ。「この男を斬れ!」
「え」真神は戸惑うしかない。「斬ったら死んでしまうよ!」
「ケンピンゴマノハシは、魔性だけを断ち切ることもできる刃だ。魔性だけを断ち切る意識で、振るえ!」
「よくわからないよ!」
「感覚でやるんだよ、ブルース・リーだ! 確か!」
 真神は刀を構えた。そして息を吸い。
 魔性だけを切る、魔性だけを切る、魔性だけを。

 声をあげて、男の胴に刃を一閃した。
 するとどうだろう。男が光に包まれて、胴から両断され、次の瞬間、硝子の破片のように砕け散り、消えた。
 しばらく三人の呼気が部屋に響いていた。
 ヒツギが額の汗を手の甲で拭う。
「見えざるものは闇の中ばかりにあらず、ときに光に隠れているものなり。婆さんが前に言ってたんだ」

 真神は全身がどっと脱力して、納刀した。そして浅葱久美の顔を見やる。苦しみが薄れている。やがてその瞼が開く。瞳は真神を真っ先に捉えた。
「あれ、真神君」
「浅葱、大丈夫?」
 浅葱は不思議そうに上体を起こした。辺りを見回し。そして口を開く。
「私、今まで何してたんだろう」
「眠ってたんだよ」
 真神は浅葱の側にしゃがむ。
 浅葱はどこかほっとしたような顔になった。

「良かった。真神君、元の優しい真神君に会えた」
「元の?」
「うん、最近よく、人が変わったみたいに、怖い顔してて、怖かった。でも、いじめられてる子を助けたりもしてたんだよ。ただ、私はそんな真神君が、ちょっと怖くなってた」
 それはきっと、今現在あちら側にいる真神だろう。浅葱は続ける。
「私、帰らないと。真神君に思い出させないと。その、優しい顔を」
 浅葱の姿がうっすらと霧のように薄れ、やがて消えた。

 ヒツギが安堵の声を吐く。
「あちら側に戻れたんだ。呪いが解けたな」
 真神たちは浅葱宅を後にした。朧車の中でヒツギが呟く。
「それにしても、八尋って奴のことが気になるな。蝋燭は結局いいもんだったし」
 彼の手中には赤い新品の蝋燭がある。オカネさんに見せて、調べてもらうつもりだ。
「うん、それも気になるけど。ロウエン、気分はどう?」
 浅葱の家で蝋燭の退魔にあてられていたロウエンは、今はもう幾分顔色が良くなっていた。
「大丈夫じゃ」と微笑む。
 
 真神は思い悩む、あちら側の自分のことを。もし自分自身に会えたら。なんと言葉をかければ良いのだろう。朧車の車輪は回る。大きな山の狭間を走ってゆく。集落の妖たちは窓や軒から顔を出し、去り行く鬼女の顔を見て。その幾人かが感謝の念を込めるように両手を合わしている。
 犬の顔をした者が多かった。

現実11

 昼間、千早の部屋に赤い蝋燭が灯っていた。「魔除け」だそうだ。「婆さんがこしらえてたんだ。夢のお告げで作り方がわかったとか言い出して。それでちっとばかし儲かったり。知らなかったろ」
 千早の部屋は相も変わらずごみ箱のようである。Lサイズのコーラをがぶがぶ飲みながら、ハンバーガーをぱくついている。

「私はちゃんと健康にも気を使ってるんだ」
 言い訳をするように、テイクアウトしてきたサラダにも箸を伸ばす。
「ここんとこ、どうだ。逢魔が時には慣れたか」
「まあ、ね。外出が増えたよ」
 どうやら真神の屋敷には何か不思議な力が働いているらしく、夕刻に滲出してくる西南京都の情報が遮断される。

「それはいいことだ。カタワレなりにやれることがあるかもな」
 カタワレとは心の病とはまた違うらしい。
「逢魔が時の不安定さはこの街の特徴でもあるが、しかし最近はことに不穏だな。何か良からぬ念が生まれ出たか」
 真神にはわからないことを言って、千早はハンバーガーにかぶりつく。照り焼きのタレが香ってくる。

「何か見たか、最近」
「いや、特には」
 ヒツギのことが頭に浮かんだが、出会ったばかりの人物なので話題にしない。
「唐傘、見てないか」
 指についたタレを舐めて千早が言った。
「唐傘?」
「これだ、これ」

 とそこら中に散らばる紙のうち一枚を、箸で挟んで真神の前に投げる。
 古い画集をプリントアウトしたもので、歌川芳員うたがわよしかずの唐傘お化けである。破れた個所から目玉と舌と両腕が覗き、一本足は鶏の足のようにも見える。
「これがどうしたの」
「最近、街で見かけられているようだ」
「ふーん、見たってことは、カタワレって俺らのほかにもいるんだね」
「ごく少数さ。なんでも唐傘お化けが女児と雨宿りしていたそうなんだ」
 千早はハンバーガーを食べ終え、包み紙をくしゃくしゃ丸めて適当に放る。いちおうごみ箱があるのだが、すでにちり紙であふれている。

「なかなかファンタジーな光景だね。何か問題が?」
「カタワレの厄介なところはな、現実の識、すなわち五感が歪められてしまうことなんだ。人の姿が変に見えたりするだろ。つまりその唐傘、あるいは不審者だったかもしれん」
「家族とかでは?」
「それはそれで気にかかる。人の形をしておらず、はっきり唐傘お化けの姿をしてたんだからな。重篤だよ」
「その目撃者は、話しかけてみたりしなかったの」
「いやそれは、やりづらかったんだろ。実際の光景とは違うものを見てるわけだし」

 確かに。横目に通り過ぎるしかない。
「ただ目撃されすぎててな、唐傘。通学路に立ってたり、女の子の日よけになってたり」
「一般人の目撃情報と照らせば、何かわかるかもね」
「そうだな、お前も気をつけて街を歩け。唐傘を見つけたら一報くれ」
 ふと真神の脳裏にカナメの顔が浮かぶ。どうやら探偵の真似事をしているようだが、唐傘に出会ったりしていないだろうか。
「子供が安心できない世の中だよなあ」
 と千早がコーラをどくどく飲んでげっぷする。
 真神はなんとなく手持ち無沙汰で、千早のフライドポテトをつまんで食べた。しなびた塩辛い味がした。

 唐傘も気になるが、真神がより気になるのは幼なじみの姿かたちだ。
 現に夕方のコンビニで出くわした浅葱久美はやはり、右手にリードを持ってその先が彼女自身の朱い首輪へと繋がっている。
「あ、真神君。偶然だね。何か買いに来たの」
「あ、うん。アイスが、食べたくなって」
「私バニラアイスにお醬油かけるのが好きなんだー」
 何だそれは、と真神は眉をしかめたくなる。

「でもでも本当はアイスクリンがいいよね、普通のアイスより」
「ああ、俺もあっちのほうがあっさりしてて好きだ」
 昔、遠出をしたときに食べたことがある。炎天下、国道沿いの開けた場所で、お婆さんが一人パラソルを広げて売っていた。銀色の容れ物からアイスをすくい、コーンの上に乗せてくれる。ただそれだけで嬉しかった。同時に寂しかったのは、お婆さんが停まる車より通り過ぎる車をより多く見ているだろうと思ったからだ。

「それより浅葱、ここいらで変な人、見なかった」
「変な人」
 浅葱はきょとんとした顔になる。
「たとえば、小学生の女の子と雨宿りしている大人、とか」
 唐傘の情報を引き出したかった。浅葱はうーんと首をひねり、
「そんな人、いっぱいいると思うけど……」
「いや、つまり、子どもが家族以外の誰かと、雨宿りしていなかったか、知りたいんだけど」
「んー。ごめん、わからないや。私、知り合いも少ないし」
「じゃあ……」真神の頭に、カナメの言葉がよぎっていた。「子供に教育上よくない画像を見せつける人が出没してるらしいんだけど、それについては何か知らない?」

「あー。放課後に先生が言ってたよ」
「見かけたりしてない?」
「ううん、見てない。無理やり見せられるのは怖いよね。でもエッチい画像ってその気になれば簡単に見れちゃうよね」
 真神は途端に惑い、「え、見るの」と言ってしまう。
「真神君は見ないの」
「いや、そりゃ、まあ、その……」
 真神は言葉に詰まる。

 すると浅葱はほわっと笑った。
「しかたないよー、だって男の子だもんね」
 無邪気に笑っている。いったいこの幼なじみの精神年齢はどういう具合になっているのだろう。高いのか低いのか。フワフワしていて今一つつかみどころがない。
「浅葱も気をつけて。知らないおじさんに絶対ついていかないように」
 割と大真面目で真神が言うと、
「私そんなに子供じゃないよー」
 笑っている。どうだろうか。華奢な骨格にあどけない顔が乗っているので、ランドセルが似合ってしまいそうな気がする。

 コンビニの外に出るとぬいぐるみのような子犬がいた。浅葱の足もとに駆け寄ってくる。
「あれ、この犬、浅葱の?」
 尋ねたが、浅葱はきょとんとなる。
「犬って?」
 どうやら、見えていないようなのだ。もし子犬が見えていれば、浅葱は全力でかわいがるに違いないのだから。
「いや、なんでもない」
「さよなら、真神君」
 浅葱が立ち去っていく。その前を子犬が駆ける。奇妙だ。まるで子犬が浅葱の歩行を先導しているかに見えるのだ。真神は目をごしごしこすった。

 浅葱も気になるが、妹の真奈の機嫌はもっと気になる。
 せっかく真奈の分のアイスも買って帰宅したというのに、
「かき氷系のはいらない」
 と冷めた顔で言ってさっさと自分の部屋へ去っていくではないか。真神は慌てて後を追う。すると真奈は長い廊下の途中でぴたと立ち止まり、振り返った。
「いらないっての。それよりアルバイトでもしなよ。意味なく街をフラフラしないでくれる」
 真神は少し言葉に詰まった。

「まあ、そのうち、な」
 消え入りそうな声でなんとかそう返した。
「じゃあさ、俺がこっちのかき氷食べるから、お前がバニラアイスを食べればいい」
 真神はバニラアイスを真奈に差し出した。真奈はじっとりした目つきでそれを眺めている。真神の手が擦りむいたように冷えていく。
「なんかきもい。アイスなんて買ってくれたことないのに」
 真奈はバニラアイスをひったくって、静かに立ち去った。
 ああよかった。真神の心臓がバクバクしている。アイスを投げつけてきてもおかしくないような目つきを妹はしていたのだ。
 ふと耳元を蚊の羽音が掠めた。真神は叩き潰す気分ではなく、手を軽く振るだけにとどめておく。

現実12

「白いワンピースの恋人なんて本当にいたのか?」
 ヒツギが今は亡き恋人の話をすると、友人のタモツはよく言ったものだ。
 タモツはオタクだ。痛車に乗って、クトゥルー神話のカードゲームをして、しかし最近はその神話に恐れをなし、カードの処分をヒツギに依頼した。オークションにかけてやったわけだが、思いのほか大金になり、山分けした。
 タモツは貧乏だ。神社のおみくじを書くという、わけのわからないバイトをしている。

 彼は笑いながら言ったものだ。
「恋人なんてお前の思い込みじゃないのか。似合わないよ、お前に清楚な美少女なんて」
 ヒツギは尋ねた。じゃあ幻だったっていうのか。
「世の中には二種類の人間がいる。記憶をしっかり保てる人間と、保てない人間だ」
 確かに俺は、馬鹿だからな。記憶なんてあてにならんかもしれん。
「東大を途中でやめた奴の台詞じゃないな」
 なおのことタモツは笑ったが、ヒツギには見えていた。彼の頭部にはタコのような怪物がまとわりついている。

 なあタモツ、と尋ねた。何でお前はクトゥルーに傾倒するんだ。
「理由なんてないよ。ゲームがきっかけで、興味を持って、本にあたって、それが僕の軸になった、それだけなんだよ」
 俺は何がきっかけで、白いワンピースの少女を、空想したと思う。仮に空想だとして。
「劇的が欲しかったんじゃないか。あるいは、欲求不満」
 タモツに精神病の専門知識はない。そういう病院にかかってはいるが、薬理学、脳神経学は知らず、心理学はかじった程度。ファンタジー真っ只中な中学生くらいの興味で止まっている。むしろヒツギのほうが、そういう方面に詳しいくらいだ。

「君の肥大したエゴが、ペルソナを作り出し、それがイマジナリーフレンドとなって、君の内側に生じたんだ」
 専門用語を並べるが、どれも古典の域を出ない。ヒツギは言った。
 俺は、役に立たない知識には見切りをつけるんだ。たとえば俺が心理学の大家で、こう言ったとしよう。精神は母なる海のようなものである、と。海の中にはいろんな生き物がいる。それぞれがそれぞれの場所でそれぞれの役割を成し、それら一つ一つが統合されて、意識という海全体になっている。

「それは、誰かの受け売り?」
 いや違う、即興で思いついた。しかしお前はこの説が本に載っていたら、信じ込んで、己の精神の内側に、その心理イメージを作り出すはずだ。ユングなんてそんなもんだ。
「専攻していない人の妄言はあてにならないな」
 タモツとはこういう男だった。プライドが高く、自分より他者に知見があるとは認められないのだった。
「周りの人も言うんだろう。君に恋人なんていなかったって。ましてや君が事故ったとき、その場に少女なんていなかった」

 ああ、確かに、あのときはいなかった。ただ、もっと幼い頃。確かにいたんだ。
「それもまた記憶の捏造さ」
 じゃあ、お前の記憶の拠り所はどこにあるんだ。
「どこにもないよ。僕の言った過去は全て嘘になる。だから僕は今しか生きていない。おみくじをあと百枚書かないと」
 儲かんのか、それ。
「食費に消える。アパート代は、貯金を切り崩してる。いずれ尽きる。なあヒツギ、一生のお願いだ」

 タモツは紙束を差し出してくる。
「小説だ。僕が書いた。それを読んで、君の中の何かが変わったら、頼む。金を融通してくれ」
 めちゃくちゃな奴だ。一枚、二枚と読んで、ヒツギは呆れ、しかし態度には出さず言った。
 これで、俺の中の少女の幻想が、消えるってか。一つお前に、俺の記憶を聞かせてやる。
「だからそれは、幻想だよ」
 まあ聞け。ヒツギは煙草に火をつける。

 小学三年のとき、こっそり違うクラスの女子と、交換日記をしていた。夏は毎日、白いワンピースを着てくる子だった。
 俺はその子への愛を慎み深く書き、その子も慎み深く俺を愛していると示していた。そう、俺たちは両思いだった。しかし、それ以上はない。小学生だ。そこから先への進め方は、よくわからない。ただ、手を握ったことはある。抱きしめ合ったことも。安心する、とその子は言った。俺も安心した。
 あるときからその子は、俺への日記に、俺のラッキーアイテムを書くようになった。俺もそれに答えて、その子のラッキーアイテムを書くようになった。

 煙草の先がじわっと溶けた。俺は続けた。
 あるときその子は唐突に死んだ。神社の石段からこけたんだ。
 俺はその日、神社の前でその子と待ち合わせをしていた。しかし行ってみたら、そこは人だかり。がやがやと話し声がぶつ切れに聞こえて。

 俺はすべてを理解した。
 俺はその子への日記に、ラッキーアイテムは一條神社のお守り、と書いていたんだ。百円くらいで買える安いやつだ。その子はうきうきとそれを買いに行き、弾んだ足で石段を駆け下りようとして、つまずいて、転落したんだ。
 その子の手には、お守りが二つ、握られていたそうだ。俺に見せてくれるつもりだったんだよ。

 俺はその日、町中を無心で彷徨った。口は半開きで、生ける屍のようだった。
 夜になって、俺は赤鉄橋の柵に座って足をぶらぶらさせてたらしい。警察が来た。そこまでを、つい最近、思い出したんだ。真神って奴に会ってな。そいつに彼女の話をしているうち、確かに高校のときまで彼女が側にいたのはおかしい。そう思うようになったんだ。
「真神ってのは何者だい」
 よくわからん。ぼうっとしてるように見えて、常に隙がない立ち姿をしている。一見して、病人とは思えん。毎日だるいそうだが、それはあいつにとって、ハンデのために重石をつけてるようなもんだ。たぶん。

「そいつはまるで少年漫画の主人公だよ」
 ああ、あいつが主人公なら、俺はわき役でいいよ。
「よほど気に入ったんだな」
 一服したら眠くなってきた。
「君は夢と現実を行ったり来たりだ」
 すまん、寝るわ。あとな、金は。まず持ってる玩具、全部オークションにかけろ。
 遠くから誰かの呼び声がする。ああ、これは夢か。
 まったく、いつまでたっても過ぎた夏と異世界と現実を行ったり来たりだ。

「ヒツギさん」
 真神の声に目が覚めた。高架下を塀の陰から見張っている。
「ヒツギさんって立ちながら寝るんですね」
 真神は呆れている。
「おう、どうした」
「カナメからヒツギさんの携帯へかかってきて、僕が取ったんですよ。ヒツギさんは寝てたから。で、ここから近いショッピングセンター二階のレンタルビデオ店で、カナメは例の犯人を目撃したそうで、そのあとをつけている。もうすぐあの高架下から、姿を現すみたいです」
 ヒツギは伸びをした。

「そうかよ、しかし現行犯じゃねえからな、証拠もねえし、どうしろってんだよ」
 呑気なヒツギと引き換えに、真神は息を張り詰めさせている。
 ヒツギの足もとで金属音がした。コーヒーの缶が捨てられている。反射的に舌打ちが出て、血管がこめかみに浮かんだような感じがした。
「なんでゴミ箱に入れることができねえんだ。なんで街を汚すんだ」
「ヒツギさん?」
「真神、気が変わった。とっ捕まえて引きずり回してやる」

 ヒツギの白狐が牙をむきだす。
 葛の葉。
 彼女が死んだときから見えるようになった。
 だからこいつはきっと、あの子の化身なんだ。

現実13

 高架下から歩いてくる少年を、ヒツギが白狐で掴み、半円を描くように投げたのは、少年が直前にガムを路傍へ吐いたからだった。
「ごみを、捨てるんじゃねえ!」
 ヒツギは叫んだ。少年は痛みで息をなくしていたが、勢いよく立ち上がる。
「何すんだオッサン!」
「ガムは紙に包んで屑籠へ!」
「それだけで投げられたのか俺は! 死にかけたぞ!」
「結果的に死んでねえだろ!」

 二人が犬と猿のように叫びあっているところへ、カナメが来た。
「ねえこれ、どういう状況」
 真神に尋ねてくる。
「捕縛、したんだけど、いちおう」
「そっか。おいそこのお前!」
 カナメが少年を指さす。少年は、背が低くて、腰から猿のような尻尾が生えている。中学生くらいだろう。
「お前だろ、小さい子に変な画像見せてたのは!」
「え、いや、ちがう」
「この目で見たんだからな! お前が携帯持って、小さい女の子は泣いてたじゃないか!」

「違うって!」
「何が違うんだよ!」
「あれは、慰めてたんだよ!」
 少年は叫んで、携帯電話を取り出した。
「これ、俺のじゃないです」
 丁寧な言葉遣いになる。意外と常識人らしい。

「どこぞのおっさんが、携帯の画像、女の子に見せてて、女の子は泣いてて。だから俺は、ちょっと、そのおっさんが立ち去るとき、そのポケットから」
「すったのか」
 ヒツギが拍子抜けしたように言った。
「まあ」

「なんだ、そうだったのか」
 真神が安堵したのも束の間。
 素早くヒツギの手が動き、少年の尻ポケットから何かを抜き取った。財布だ。少年は「あ、それは」とうろたえる。
「この財布、いいもんだな、お前が持つようなもんじゃない。お前、財布まですってきたな」
「あ、ああ、それは」
 少年が青ざめる。
「正義のすりってわけか。だが、世間にはやっていいことと悪いことが」

 言いかけたヒツギがしかし、財布の中から白いカードみたいなものを見つけて、絶句する。
 真神は気付く。運転免許証だ。
 ヒツギは呆然と呟いた。「タモツ」と。
「タモツ?」カナメが。「もしかして犯人は、ヒツギの知り合い?」
 ヒツギはうなだれて、顔を手で覆った。
「すまん」
 ぽつりと、ヒツギは。
 蝉の鳴き声がしばらく皆に意識された。
 そして続けた。
「悪いことした奴だけどよ、あんまり悪く、言わないでやってくれ。あいつは、どうしようもねえ奴だけど、ごみじゃないんだ。警察は、呼ぶからよ」

 ヒツギは自分でその携帯から警察署へ電話をかけた。
 この件はそれでケースクローズド。
 あえて言うなら、少年はいいこともしたし悪いこともした。そして犯人は更生の余地がある、ヒツギによれば。
 夕暮れの夏は鮮やかで、雨雲一つない。

 真神はその日、妹の真奈の帰りが遅いことに気付いていた。
 日もとっぷり暮れている。玄関の引き戸が開く音に、真神は板の間へ駆けていった。
 玄関に真奈はいた、ずぶ濡れになって。制服と鞄が土か何かで汚れている。
「真奈」真神は言葉に迷い。「どうしたんだ、何で濡れてるんだ」
 雨は降らなかったはずだ。
「真奈」
「うるさい!」
 叫んで、真奈は真神を睨み上げた。屈辱と、恨み、そして。なんだろうか。どす黒い感情が真神に突き刺さってくる。

「全部あんたのせいじゃない」
 声は感情の高ぶりで震え、真奈が歯を食いしばる。
 真神は言葉が出ない。
「自分だけ、急に人が変わったみたいに、優しくなって、生き直そうとして」
「どういう、意味」
 真神にはわからなかった。
「ふざけないでよ、私が保育園のとき、あんた小学校で、急に暴れたんじゃない。世界のすべてが憎いって。あんたが二年のときよ。あんた剣道クラブに入って、三か月くらいで師範の先生を滅多打ちにして、退部させられて」

「し、知らないよ、剣道クラブなんて」
「自慢そうに言いふらしてたくせに。あんたが生意気だからって、上級生が何人もあんたの周りを取り囲んで、でもあんた竹刀一本で、全員を叩きのめして、それだけじゃない、骨も折って、目もついて、未だに車椅子の人が何人もいる」
「し、知らない」
「知らないふりで通ると思ってんの? それからも暴力沙汰や問題を起こしてばっかり! 私が学校でなんて言われてたか、知ってるでしょう!」
「だから、知らないよ!」
「狂人の妹よ!」

 真奈は甲高く叫び、沈黙が落ちた。
 真神はもう思考が追いつかない。真奈の声がまるで渦のように脳をかき回す。だがようやくこれだけ言えた。
「真奈は、いじめられてたの?」
「違う!」
 真奈はかぶりを振った。
「私はそんなに弱くない!」
「じゃあ、その服は」
「うるさい!」
 打ち消してくる。認められないのだ、いじめられてきたなどと。

「ねえ、あんた」真奈の口角が不気味に上がっていた。「頼むからさ、消えてくれない」
 それだけ言い残して、真奈は真神を遠回りに避けて過ぎ、廊下を荒く歩き去っていった。
 真神は立ち尽くした。幾重にも幾重にも、自分の過去の行いが、まるでたったいま湧き出たように、脳裏を画像のウイルスのように埋め尽くしていった。
 そののちのことである。
 真神が行方不明になったと、千早が知ったのは。

現実14

「真神がいなくなったぁ?」
 千早は真奈からの電話をアパートの玄関で受けた。仕事着の巫女服姿である。
 なんでも朝から屋敷に真神の姿が見えないらしい。
「なんかあったのか」
 声を潜める。部屋のほうに顧客がいるからである。その男女は向かい合って、何事か話し合っている。
 真奈が言うには、自分がきついことを言ってしまって、それで家出をしたのではないかと。

「わかった。私が捜す。真奈は、昨日は登校日だったのか。無理すんな、夏休みだろ、家で休めよ」
 しかし真奈は自分の責任だから、と言う。真神のことを心底憎んでいるわけではない。
 最後に真奈は付け足した。兄はお義姉さんにべったりなので、同棲でも始めたかと思いました、と。千早が言葉に詰まっているうちに、電話は切れた。
「ああ、もう、素直じゃねえ妹だ」

 顧客のいる居間へ戻った。
 女のほうは例の猫又の女性。もともとトラウマによる解離の気質があったが、そこに幼い娘の死が追い打ちをかけ、人格が娘の振る舞いをするようになっていた。
 男のほうは噂に上っていた唐傘お化け。こちらもやはり娘が死んで以来、幼い少女への接近願望を募らせる、という妙なこじれ方をしていた。
「あなた方二人の呪いは、ミテグラに憑かせ、祓いました。あとはお二人の問題です」
 男女は風呂上がりのようにすっきりした顔で互いにうなずき合い、立ち上がった。

 お代金を、と女性が財布を取り出しかけたが、千早は掌を上げ抑える。
「今回の分は結構です。二人の将来に幸あらんことを」
 二人は帰った。千早は急いで新しい御幣を切り始める。切っている最中に電話がかかってきたので、ハンズフリーにした。
 相手は真神の主治医だった。今日が診察日なのに、来ないという。そういう一報を入れるだけでも、まともな医者だった。行方不明になったと告げると驚いていたが、相手も忙しい身だ。今から捜しに出るわけにもいかない。

 それよりも、先刻の二人をお祓いしたことについて、くどくどと文句を言われた。
 千早の生業は非科学的で、医療の心得なき者が精神に介入すべきでないと。
「あんたんとこからこぼれ落ちてくるから、私が祓うんじゃないか。それに、金はとってない。でかい取引のほうが私は得意だ」
 つまり名家や政治家、資産家からの依頼という意味だ。彼らは身内に門外不出の病があれば、まず千早を頼んでくる。病院は次善策だ。また、少しのストレスでも千早にお祓いを頼みに来る。何をそこまで恐れるのやら、と千早は半ば呆れ、しかし生活の糧なので親身に祓う。

 電話は切れた。御幣も切れた。四角い烏賊のような形のそれに、ふっと息を吹きかける。輝いて膨らみ式王子の姿になる。
「太夫、私は何をすればいい」
「真神が行方不明だ。捜してほしい」
「承知した」
 白い和服姿の美しき式王子は草履で戸外へ歩み出て行く。

 千早はしばし沈思黙考して、押し入れを開けた。がらくたの山から壺を引っ張り出す。台所で水をたっぷり入れた。
 壺娘。という状態で西南京都にいたことがあり、これがその由来となった壺だ。千早の家の持ち物で、幼いころ父とかくれんぼをしていたとき、よく中に隠れた。よくこんな狭い壺に入れたものだ、と不思議に思う。

「婆さんの話と違う。こんなに早く真神がどこかに行っちまうなんて。エラーが多すぎる」
 思わず口に出してしまうくらいには混乱していた。
「何かが起きたんだ、因果を狂わせる」
 壺にお札を張り付けた。
 そして勢い良く、壺の水に顔を沈めた。
 水を介して、あちら側と繋がっている。
 何が起きたのか、見えるはずだ。
 千早は水中でかっと目を見開いた。

西南京都12

 広々とした板の間で荘厳な神棚を背にオカネさんがあぐらをかいている。逞しい太腿が盛り上がっている。
「さて、めでたく十歳の誕生日だ、真神」
 オカネさんと向き合う真神は「一年たちましたね」と答えた。
「そう、そして今日、またあちら側の負の念が凝り、長宗我部の獣に属する妖が現れる」
 真神の隣で、ロウエンは目をつむったまま唇の前に指を立て、逢魔が時の呪文をかすかな声で唱えた。

 瞬間、三人は三方向に動いていた。オカネさんの銃声が響き、真神の剣が空間を裂き、ロウエンの炎が天井の隅を焼いた。
 ぼと、ぼとと、焼かれ、斬られ、撃たれて床に落ちてきたのは、黒い雀である。雀は板の間の陰にまぎれて群集していたようで、倒し漏らしたものは慌てて外へはばたき出て行った。

「夜雀やすずめだね」オカネさんが呟いた。「仄暗い場所に、己の翼の色を擬態させる。そのため、あるはずのものが見えなくなったりする」
 ここ最近、西南京都に盲目の病がふりまかれていた。影にあるものが見えなくなったり、路傍の桶が見えなくてつまずいてしまったり、そういう事件が頻発している。
 そして今まさに、夜雀の襲来は激化していた。

「数はどのくらい?」
 と真神。オカネさんは「想像もつかんね」と耳をかく。その手に握られているのはモーゼル、連射が可能なフルオートらしい。
 外で悲鳴が聞こえた。
「行くぞ、ロウエン」
「そうじゃの」
 真神とロウエンは駆け出していく。オカネさんは再びあぐらをかいた。
「これはあいつの試練だからね。それに、なにやら良からぬ念が紛れ込んどる。ここで退魔の呪文を唱えよう」

 まっすぐな家並に挟まれた通りの住民は阿鼻叫喚に陥っている。この危急に何人か出歩いていたと見える。全身を夜雀にたかられ、誰にも見えず、自身も視界を奪われている。
「真神、私の炎では、人もろとも焼いてしまう」
「僕の剣も、人まで傷つけてしまいかねない」
 真神はいちおう、刀をみねにするが、これでどれだけの打撃を与えられるかは未知数だ。
 夜雀は薄闇に擬態しているが、視覚を研ぎ澄ませれば、その継ぎ目が見える。

 そこへ犬の咆哮のような音が上がった。そちらを見やると、ヒツギがいる。右手の白狐が吠え、その風圧と威圧で夜雀を散らしたのだった。たかられていた人はわあわあ言いながら手近な家に逃げ込む。
「おい真神!」ヒツギが叫ぶ。「人にまとわりついてんのは、俺がなんとかする。それ以外をお前がやれ!」
「わかった!」
 散らされた雀はまた一塊になり、紺色の空に溶け込む。
「くそ、どこだ!」

 逢魔が時を唱えても、これでは姿が追えない。
 そこへ少しかすれた威厳ある声。
「ふむ、これが西南京都の犬神使い、その実力か」
「誰だ!」
 真神の問いに答えるように、軒下の陰から夜雀が散り、現れたのは三つ揃いの背広を着た老紳士。「お初にお目にかかる、シラチゴ。我が名は八尋」カツン、と銀髪の紳士はステッキを地についた。

「誰ですか、あなたは。なぜ夜雀を纏って平気でいられるんだ」
「わからぬだろうな」
 老紳士はロウエンをちらと見やり、「母上を取り戻しに参った」
「母上?」
 真神は思わずロウエンを見上げるが、意味がつかめない。ロウエンも不可思議そうに眉をひそめ、八尋を見つめている。
 八尋は歩み寄ってくる。
「母上、なぜこのような小僧に憑いたのです」

 と言うや否や、八尋のステッキが風を起こした。そのひと振りを真神は刀で受け止める。
「ほお、やりおる」
「なにをするんです、いきなり!」
「あのときは目があいておらなんでな、母の胎内で。胎盤のつながりから、母の念を汲むしかなかった。それゆえ曖昧なれど、お前は確かにあそこにいた」
「何のことです!」
 真神は力を込めて、ステッキをはねのけた。老紳士は後退する。

「ふうむ、その声、その声だ。聞き違えるものか。お前だ、あの場にいたのは。あと二人、いや一人。誰だ。誰なのだ」
 八尋はぶつぶつ呟いている。
「まあ良い。遊びもここまでだ」
 八尋が指を弾いた。それに応えるように、あらゆる場所に巣くっていた夜雀たちが一斉に飛び出し、群れとなり列をなし。うねりながら一筋に飛ぶその様はさながら、黒い龍。

「さあ、倒して見せよ」
 八尋がステッキを振り上げた。その身が夜雀に包まれ、消えた。先ほどまで姿があった場所に真神は斬りかかったが、何の手ごたえもなかった。
「なかなか骨が折れそうだな。手伝うぜ」
 ヒツギがやって来た。いつもの眠そうな目はどこへやら、爛々と瞳を輝かせ、口の端を上げている。

 夜雀の群れが街路を一直線に貫いてくる。その真正面から、ヒツギの白狐が咆哮した。先頭が散る。何羽かやられてぼとぼと落ちた。ロウエンと真神は身をかばうしかできなかった。夜雀の群れは力で押し切るように街路を飛び抜け、いくつものくちばしと爪が傍らをかすめていった。
 防刃性の着物のおかげで真神は顔と手に切り傷を負うくらいで済んだ。しかしロウエンはうずくまっている。真神は手を差し出す。ロウエンが取り、立ち上がる。黒い羽根にまみれ、着物は破れ、白い顔に幾筋も赤い傷がついている。
「これを見ろ真神!」ヒツギが瓢箪を掲げている。「八岐大蛇やまたのおろちを酔わせた酒だ! 商品だったんだがな、ここで使うぜ!」

 ヒツギは走り、街路にその酒を一直線に撒いていく。真神とロウエンは意図がわかり、うなずき合った。第二波が来る。
 空中で態勢を立て直した夜雀の群れは、再び高度を下げて、街路をこちらめがけて飛んでくる。その黒き龍のごとき飛翔が真神を貫かんとしたところ。ロウエンの手から札が飛び、真神の刃に張り付いた。「「燃えろ!」」真神はロウエンと同時に叫び、勢いよく突きを繰り出した。
 炎の刃が酒のアルコールに引火し、燃え盛る壁となって走る。夜雀を次から次へと焼き尽くした。街路が一筋の炎と化し、夜雀は灰となって散っていく。

 そのとき空間の内側から響くように叫び声が上がった。
『目が、見えない! 真神、よくも、よくも!』
 討ち漏らした夜雀たちが一矢報いんとばかりに真神に襲い掛かってくる。真神は、立ち尽くしていた。今の声が、真神の心臓に引き抜かれるような不穏をもたらした。そこへ銃声、夜雀は無数の弾丸に穿たれ、一息に跡形なく散った。

「ふん、目には目をというじゃないか。人の編んだ言葉だよ、責任を持ちな」
 後ろからオカネさんが歩いてくる。モーゼルを手に。
「これで全部かい」
「そのようじゃ」
 とロウエン。真神は言葉が出ない。ただ脳裏によぎったのは、自分が多くの人と取っ組み合いになって、指で相手の目を突いた、その光景だった。コンクリートの壁、タイルの床、あの場所は、どこだったろう。

「真神」
 オカネさんの声にハッとなる。
「ぼっとしてんじゃないよ。だがよくやった。去年が杵だったから、今年も楽勝かと思ったが、なかなか冷や冷やしたよ」
 ロウエンが「初めから手を貸してくだされば」とかすかな声で。
「私一人でもあれはさばききれないよ、RPG-7でもないとね」
 オカネさんは煙管を取り出し葉を詰める。

 そして道の向こうを見やり、「ヒツギはどうした。帰ったのかい、あの馬鹿たれ。だが頭の回る奴だ」煙管に火を入れた。
 真神は向こうの自分がどのような状態か、それを考えると胸があまりに痛む。
 だが、今年の試練も乗り切った。
「それよりも、あの人は」老人は八尋と名乗った。「ねえ、オカネさん。見てたんでしょ。あの八尋って人のこと、知ってる?」
 オカネさんは煙を細く吐き。「知らないね」と言った。

西南京都13

「ここ、ですねぇ」
 オカネさんの屋敷の門を一人のうら若い女性がくぐる。緑色のくせっ毛、和服ドレスの背には青地に水色の蝶があしらわれている。
 彼女は屋敷の玄関で声をあげた。「ごめんくださーい」
 その声を聞いて真神は裏庭から出てきた。鶏の卵が入った籠を抱え。
「はい、どちら様でしょうか」
「あ、おはようございます。わたくし、陰陽寮から遣わされた、轍ワダチと申します。あなたが真神君ですね?」
 真神は急な来客に戸惑い、落ちそうになる卵を支える。

「あ、はい。ワダチ、さん? なぜ僕のこと。それに陰陽寮って」
「京都にある陰陽術師隊じゃな」
 真神の隣からロウエンが教えた。
「そうですそうです。真神君、お歳はいくつですかー? 私は十九です」
「えっ」
 と真神は声をあげてしまう。ワダチに歩み寄り、頭の高さに手を上げて、
「僕と身長、そんなに変わらないのに」
「あ、はは、チビですみません」
「それに」
 と真神はワダチとロウエンの胸部を見比べてしまう。ロウエンの膨らみ、ワダチのぺったり。

 途端にワダチは胸元を隠した。顔を真っ赤にして、
「な、なんですか、洗濯板とでも言いたいんですか!」
「え、いや、そんなこと言ってないよ」
 そこへワダチの後ろからヒツギが訪れた。眠そうに、
「よう真神。ん、なんだこの洗濯板は」
「セ、せせせ洗濯板ァっ? 失礼な! 初対面で何様です貴様は!」 
 ワダチは眉を逆立てた。
「なんだよ、うるせえな、横から見ると薄いなー、体が」
「な、この、無礼者が! ぶち殺してくれる!」
 ワダチが緑色のお札を抜いたとき、

「さっきからやかましいね。誰だいそいつは」
 オカネさんが縁側に現れた。煙管で頭をかいている。
「陰陽寮から来たんだって」
「陰陽寮?」
 オカネさんは片眉を上げた。「鬼門からわざわざ何の用だい」あぐらをかいて座る。

 ワダチはコホン、と咳払いし、
「あなたがオカネさんですね」
「いかにも」
「先日の、夜雀襲来の件について、陰陽寮は憂慮しております」
「うまく追っ払ったよ」
「通りを一筋、火事にしたとか」
「すぐ消し止めた」
「大規模な火災に発展した可能性も」
「何が言いたいんだい」

 ワダチは両手を軽く広げた。
「私いちおう、お客なんですけど。お茶なんか出ませんか。喉乾いてしまいまして」
「用件だけ述べな」
「陰陽部隊、一個小隊を任されてきました」
「一個小隊、十二人かい」
「はい」
「必要ない。帰んな」
 オカネさんはすげなく手を払う。しかしワダチはのほほんとした笑みで食い下がる。

「いえいえ、そういうわけには」
「長宗我部の獣は、真神の試練なんだよ、あんたらの出る幕じゃない」
「そういうわけにはいきません。これから先、妖との戦いは激化するでしょう。それをあなた方だけに任せておくわけにはいかない。そう上は判断したのです」
 そこでヒツギが真神を肘で小突いた。
「おい、どうするよ、なめられてるぜお前」
 真神はどういう顔をしていいかわからず困ってしまう。
「それに、真神君はまだこんなにちっさいんですよ」
 真神は「自分も小さいのに」とぼやいてしまう。
「こんな子供に任せておくわけにはいかないんです。あれは我々が看過していい災厄ではありませんから」

 そのときグルルル、と唸り声がした。ヒツギの右手が白狐に変じている。
「おい葛の葉、どうした。甘いもん食うか」
「葛の葉?」
 その名にワダチが反応する。「まま、まさか」と狼狽している。「晴明様の母君が、なぜこんなクソガキにっ?」
「さっきから一人でギャーギャーうるせえ姉ちゃんだな」

 オカネさんが縁側を指で軽く叩いた。
「見ての通り、ただもんじゃないのさ、そいつも。あんたらの介入は必要ない」
「しかし」
「帰りな!」
 鋭くオカネさんは言った。

 しかしワダチはうっすら笑む。目は、笑っていない。
「いえ、一個小隊、引き連れてきましたから。これから西南京都に駐留させていただきます。事態収拾がつかなくなれば、京都から大隊が出動、この地にも陰陽寮の支部を置くことになります」
「それが面倒なんだよ。この町には妖が多い。あんたらはどいつもこいつも取り締まるからね」
 それを聞いて、真神の脳裏に一つ目小僧と山爺が浮かぶ。

 ワダチは笑みを浮かべたまま言った。
「おかげで京都は平和です」
「そんなもん、この町では望んでおらん」
 ヒツギが「自治権を剥奪しようってのか?」と呟いた。
 自治。オカネさんが筆頭に、民間で治安が維持されているということだろうか。
「差し当たって拠点がないもので、この屋敷を借りるように、と本部から指示されています」
「そんな指示、聞いちゃいないよ」
「換魂の法、お使いになられたでしょう」
 その言葉に、オカネさんが「ぐ」と詰まった。なぜかはわからない。

 ワダチは追い討つように、「あれは禁忌の術です。使ったということは、一度しくじったのでは?」その底知れない笑みは崩れない。
 オカネさんは舌打ちし、「勝手にしな」とうとう折れた。
「ありがとうございますー」
 少し語尾を伸ばしながらワダチは笑顔で感謝を述べ、「みなさーん、交渉が済みましたよー」外に呼びかける。
 門をくぐって白装束の人々がぞろぞろと庭へ入ってくる。真神は気圧された。

 オカネさんは招かれざる者たちを睨みまわし、
「言っとくが、面倒は起こさないでくれよ。あんたらの任務は長宗我部の獣の撃破、それだけだろう」
「それだけです」
 望みを通して笑み満面のワダチとは逆に、ヒツギはうっとうしそうに陰陽師たちを眺める。
「なんか賑やかになったなあ。まな板女のせいで」
「まな板っ?」
 また過敏に反応する。ヒツギは呆れ顔で、
「まな板の上の金魚」
「金魚っ! はキレイ」
「刺身にしてもまずそうだ、骨ばっかりで」

 ヒツギはオカネさんのほうへ歩んでいく。その後頭部をたまらずワダチがはたいたが、彼は至って気に留めない。紙袋をオカネさんに渡した。
「婆さん、言われてた特注の弾丸だ」
「夜雀は確かにやばかったからね、祓いの弾、確かに受け取った」
 オカネさんはヒツギの手に高価そうな宝石を握らせた。
「毎度あり―。ま、しっかりやれや真神」
 ヒツギは悠々と立ち去る。
 真神は屋敷の居心地が急に悪くなったと感じ、眉間を曇らせてロウエンを見上げる。しかし彼女はワダチのことを睨んでいる。それに気付いたワダチがこちらを見やり、にこっと微笑んだ。邪気のない、その邪気のなさが、かえって邪気そのものであった。

現実15

 家を飛び出した真神は夜の街をふらつき、いつしか郊外大型スーパーの駐車場にいた。薄闇にスーパーマーケットの輪郭は積み木のようだ。
 駐車場にある喫茶店の外壁に背を預け座り込む。頭上の窓から橙の灯りが漏れている。
 星空を眺め。己の人生の無価値さと、行く先の不透明を思う。
「ロウエン」
 呟いた。しょせん病が見せる幻だった。

 犬耳の美少女? そんなものが俺に仕えてくれる? 飽くほど繰り返されてきた既存のサブカルのように? 馬鹿を言え。
 大きなため息をついた。そのとき駐車場をふらふらと影が近づいてきた。人である。どうやら男だ。しかも割とハンサムな。
 彼は真神を見つけると、仲間とでも思ったろうか、気付くとすぐそばまで来ていて、隣に座り込んだ。

 男は紙束を持っている。どうせ彼もまた病人だ。ほど近い場所に精神病院があるのだから。
 男はしきりに窓明かりのもとで紙束を繰っており、どうも話しかけてほしそうに見えた。真神は億劫な口を開く。
「それ何ですか」
 と紙束を顎で示す。男は「読んでくれるかい、僕が書いたんだ」紙束を押し付けてくる。
 真神は目を通し始めた。どうやら小説である。そればかりか、瞠目すべきはそれが真神の妄想そのものであったからで。

 思わず男を見た。気弱そうに微笑み「どうだい」と。「僕はタモツっていうんだ」
「俺は真神です」
「先刻まで警察にこっぴどく絞られてて」
「何かやったんですか」
「人として恥ずべきことさ。でも注意だけで済んだよ」

 真神は小説を読み進める。
 不遇な少年が異世界で目覚め、犬耳の少女や凄腕の猟師のオカネさんたちに助けられ、怪異を倒してゆく。
 同じだ。これは俺の人生の片翼だ。と真神は引きこまれる。

「気に入ってくれたかい」
 とタモツが。
「これ、着想はどこから」
「夢のお告げさ。厳密には薬をやって、視るんだよ、あちら側を」
 ある日、少年が住まわせてもらっている屋敷を、ワダチという女性が訪れる。
 彼女は京の陰陽寮から陰陽師一個小隊を引き連れてきていた。彼女たちが屋敷に駐屯するというので、真神は市街の一角にあるオカネさんの別荘に、ロウエンと二人暮らしをすることになる。

 そこまで読んで、真神は自嘲の笑みを浮かべた。
 物語などを己の体験として見るのもまた関係妄想である。
 所詮は素人の手慰みだ。不遇な少年が異世界に飛ばされ、そこで成長していき、怪物を倒し、絆を育んで。なんと短絡的な筋書きだろう。なんと共感を得ることに飢えた物語だろう。そしてそれは真神自身の妄想そのものなのだ。己の妄想はなんと安っぽいのだろう。
 真神は無言で紙束をタモツに返した。

「おもしろくないかい」
 タモツは諦めたような顔で紙束を受け取らない。真神は言った。
「とどのつまり、この物語の結末はどうなるんです」
「それは読んでもらわないと。君にあげるから」
 真神はその胡散臭い小説に目をすがめながら、受け取っておくことにした。
 そのとき窓の明かりがふっと消え、闇が濃くなった。

「君は、家には帰らないのかい」
「あそこに泊まります」
 真神はほど近い場所にある、オレンジ色のお城のような建物を示した。ぴかぴかとライトで照らされている。
「ははあ、一人でかい」
「金がないです。ここで一夜を明かしてもよかったんですが」耳元を蚊の羽音がかすめる。真神は手を振った。「蚊が」
「ああ、それなら僕の友達を呼ぼう。三人で泊まろうじゃないか。割り勘にすれば、一人二千五百円くらい。悪かないだろう」
「その友達は女性?」
「ああ」

 タモツは携帯電話でメールか何か送ったようだった。
「言っときますが、その女性と何やかやするのは御免ですよ」
「わかってるよ、君は未成年だろう」
「この小説ですが」
 真神は思う。自分ならこんな筋書きは、思いついたとしても書かない。不遇になっても逃げられないのが現実である。都合よく異世界が立ち現れることに期待できるものか。しかし何も言えなかった。いずれにせよ小説はタモツの絞るような玉の汗が文字となっているのだろうから。

現実16

 タモツの女友達はワダチという名前だった。背丈が小さく、年齢不詳、ただし二十歳は過ぎているだろう。青く背中の開いたドレスを着てバッグもブランド物、水商売をしているのだろうと想像させる。髪を緑に染めているのが印象的だった。
 ワダチという名前はタモツの自著にも登場し、現実の知人を登場させていることが分かった。
 タモツとワダチは先程まで缶チューハイを飲んでいたが、今はダブルベッドに乱雑に寝そべり、すっかり寝入っている。

 間接照明に原稿を傾けながら真神はそれを読み進める。
 主人公が同じ真神という名前なのは、おそらく病院で聞き知ったものか。
 西南京都の真神が十一歳の誕生日を迎え、長宗我部の獣が現れる。
 ワライオンナという、長い髪が刃物のように硬質化する妖だった。
 ワライオンナは西南京都をさ迷い歩き、出会い頭に見境なく斬りつける。
 神出鬼没かつ狡猾と見え、ケンピンゴマノハシを持つ真神がパトロールをするが、退魔の気配を察してか避けながら移動しては人々を切り刻んでいく。

 一つ目小僧が折悪しく遭遇し、目玉を斬りつけられて盲目になってしまう。
 一刻の猶予もない。ワダチは緊急手段に出る。配下の陰陽術師たちに命じて、市街の要所要所に札を張り付けていった。
 何をするつもりか察したオカネさんがワダチを止めようとするが、制止を振り切ってワダチは呪文を唱えた。
 すると市街全域が青い光に包まれた。街路を上空から見れば、碁盤の目状に青い格子模様が浮かび上がっていただろう。
 ワダチは指でその縦横の格子を再現するように九字を切った。
 それは妖を見境なく葬る祓いの術だった。

 市街を彷徨していたワライオンナは青い光に飲まれて消えたが、激昂したのはオカネさんだ。
「何の罪もない妖まで巻き込むとは、どういうつもりだい!」
 しかしワダチは笑みを浮かべ言い放つ。
「他に方法がありましたか?」と。

 その後、山爺が体調を崩す。ワダチの術に例外なくあてられたのだ。寝込んだまま起き上がれなくなり、真神は毎日、おかゆを作って届けた。しかしある日、山爺の家はもぬけの空となる。

 そこまで読んで真神は睡魔に襲われ、ソファーに寝そべって目を閉じた。
 テーブルに缶チューハイの缶があったので、試しにあおってみる。
 とろりとアルコールが流れ込み、そこに女性の香気が含まれていたので、おそらくワダチの飲みかけだったのだろう。
 真神には明日の自分が見えなかった。

現実17

 薄闇の街路に佇むその人影は山爺だった。
 去年ワダチの術が市街全域を覆い、山爺も祓いの威力に体を壊した。彼が失踪して一年、真神は十二歳になっていた。
「山爺」
 不意の再会に声をかけるが、山爺の口からは熱そうな息が漏れ、大きな片目が血走っている。

 彼は片脚だけで高々と跳躍した。かと思うと空中で何回転もする。
「真神ぃ!」空中で回転しながら山爺が叫んだ。「わしを助けてくれ!」助ける、それは詰まるところ、祓いの太刀で消滅させてくれ。そういう意味だった。
 山爺の踵落としが真神に襲い掛かってきた。

 真神は飛び退る。山爺の踵が隕石のように地表を大きくえぐった。
 そこへ高みから拍手が。視線を上向けると、瓦屋根の上にいつぞやの、八尋という老人がいる。「これは見ものだ。まさか此度の長宗我部の獣が、怨嗟をその身にため込んだ、お前の朋友とはな」
 八尋がステッキを掲げる。その先端に青い光が灯り、勢い良く振られると玉となって飛んで、それは山爺の体内に吸い込まれた。

 山爺は歯の間から高い呻き声を漏らし、全身に血管が浮かび上がる。
「八尋、何をしたんだ!」
 真神が問うと、八尋はにやりと笑い、
「犬神の呪いをくれてやった」
 真神は山爺の肩口に犬の噛みあとのようなあざが浮かび上がるのを見た。
 山爺は毬のように跳ねながら、なおも真神に迫りくる。

 はっと息を吐いて覚めた。見慣れぬ天井、ホテルに泊まったのだ。真神は体を起こす。鈍い頭でテーブルの紙束を手に取る。明け方だろう、曇りガラスの向こうが青白い。タモツの小説の続きを読むと、まさに悪夢の再現が描写されていた。山爺と戦うことになり、真神は彼に蓄積した怨念を、その身もろとも斬った。怨念だけを断ち切る余裕がなかったのだ。
 真神は鈍い吐き気が込み上げ、口元を覆う。

 それでも紙を繰る。唐突に西南京都の描写がいったん途切れ、現実に場面が移り変わる。この町で暮らす病者であるところの真神、その日常が書かれている。
 妹の真奈のことまで書いてあるので、タモツはストーカーではないかと疑う。あるいは、本当に西南京都はあり、タモツの妄想に真神の人生が浮かび上がるとでも。
 ただしその現実は未だ体験していないか、あるいはもう一つの可能性のようでもあった。

 たとえば最近の女児付きまとい事件も書かれており、その犯人であるタモツとはヒツギの友人で、今はベッドでいびきをかいている。
 ただ少しずつ、真神の体験とは食い違う。そう、小説に書かれている現実は、真神の日常とは似て非なるものだった。途中でボタンの掛け違いが起こり分岐した、もう一つの現実が書かれているような気がするのだ。

 もう一つの現実、日付は今日。そちらの現実では真奈との喧嘩は今のところ起きておらず、真神は市街に実在するという黄泉路骨董店を訪れることになる。
 似て非なる現実、それは次のように書かれてある。

現実´1

 小さな一條鶴井公園でヒツギと暇をつぶしていた。真神は千早の弟であることを話した。千早にヒツギのことを話したら「そいつはたぶん私の後輩だ」と眉をひそめていたからだ。ヒツギはさほど驚かず、妙な縁があるもんだなあ、と相変わらず煙草をふかしている。白い煙が渦を巻き四角錐の屋根にこもる。煙を吸い込んだ真神の脳裏に祖母の顔がよぎった。深いしわを刻んだその顔が、何かをこらえるように歪んでいる。真神は急に恐ろしくなり、頭を振って煙を追い払った。

「あの、ヒツギさん。さすがにそれ、煙草、控えてもらえませんか」
 煙が苦手ではないが、好きでもない。公園の東屋に紫煙が漂うのもよろしくない。
「おお、すまん」
 ヒツギは携帯灰皿を使う。
「どこもかしこも禁煙だなあ。家で喫うしかねえのか」
「ですね。あ、でも病院に喫煙室があったな」
「なんだそりゃ。喫っていいのかよくないのかどっちだよ」
「といっても精神のほうです」
「ああ」

 ヒツギはばつが悪そうに頭をかく。真神は自分の病のことをヒツギに打ち明けていた。そのことについて彼は妙な意見を述べた。
「前に漫画読んでたらな、ひどい目に遭った奴隷が、とうとう心が折れて発狂した、という話が出てきた。そいつは館に火をつけて、町中の貴族を殺し始めるんだ。一人の中に、千人分の死が詰め込まれて、それでも生きてるってことはあるのかもしれねえってな」
 岩肌を落ちる滝の音が涼を運ぶ。

「その病院の喫煙室も、近いうちなくなっちまうのかね」
「どうでしょう、喫煙もやり過ぎは依存症の一種……だと思うから、精神病院に喫煙室があるのもどうなんだ、と感じますよ」
「真面目だねえ。煙を食うのは仙人のたしなみだぜ。お前の婆さんは喫ってたんだろ」
「その話、しましたっけ」
「ああ、いや、お前自身よく覚えてないんだったか」
「ずっと昔のことだからなあ」

 おぼろげに浮かぶ祖母の姿は、ずんぐりした小人めいている。それでいて存在感は半端ない。タバコを二本くわえた口に、金歯がきらりと光っていた。
「ま、過去なんてものは幻だぜ」
 そう言ってヒツギが少し笑った。
「幻ですか」
 真神は、少し違うと思ってしまう。過去の積み重ねで今があるのではないか、と考えるからだ。

 ヒツギは立ち上がった。「店の仕事でも手伝うか」彼の家は骨董商だという。しかし彼自身は古物にさほど興味がない。「古い茶碗より新しい茶碗のほうが欲しいだろうが、違うか?」と心底不思議そうに言っていたものだ。
 彼の言い分はこうだ。
「よく考えろよ、誰かが壺の中に小便注ぎ込んで、それをきれいに洗って、市場に置いていたとしてみろ。使いたいと思うか?」
 汚いたとえに閉口するしかない。

 ヒツギは「じゃーな」と手をあげて帰っていった。さて、今日は何をしようかと、真神は思案する。思案したって暇なものは暇なわけで、何もすることがない。
 町をぶらぶらしようか。いい日和だし。

西南京都14

 他人が何を考えているのかわからない。
 わからないのは当たり前なのだが、真神はたまにこう思った。どうして自分はこの肉体の操縦者なのだろう。他の人間でないのはなぜだろう。なぜ自分の考えと他人の考えは違うのだろう。
 その複雑な気持ちをどう説明すればいいのか、小学二年生の真神にはわからなかったのだ。
 自分という命が発生した瞬間から、意識というものはあったのだろうか。そういうことが言いたかったのかもしれない。今となっては分からない。

 心の底に果てしない川があって、幾艘もの屋形船が気ままに漂う様を真神は想像した。
 川辺では、瓦屋根の波に朱い灯が連なり、薄紅の空に月と太陽が同時に浮かぶ。夜をため込んだ雫が柳の葉から滴っている。歩くかたわらの少女が真神にほほ笑みかけた。桜の花弁のような唇だった。
「ロウエン」
 少女の名を呼ぶ。彼女の犬耳がぴくりと動き、尾が嬉しそうにはねた。彼女のそばにいると安心した。母の胎内に抱かれているようだった。

 ロウエンの首には縫い目があった。ほっそりした白首に刻まれた、いばらのような傷跡が、真神にはとても愛おしいものに思われた。
「真神。見よ、また暴れておる」
 鈴のような声でロウエンが指差した先には、巨大な蜘蛛がいた。五重塔の屋根に取り付いて、いましめの糸を吐き出している。西南京都には「すそ」とも「ヤマイノカミ」とも呼ばれる力があり、それが凝集すると妖となる。
 妖は俗に、長宗我部の獣とも呼ばれた。

「黄昏をいう。百魅の生ずるときなり」
 ロウエンがそう呟いたのを受けて、真神も続けた。
「世俗、小児を外に出だすことをいましむ」
 そしてともに駆け出した。逃げ惑う人々の流れに逆行して、妖に向かった。蜘蛛の糸が人々を繭のように包んでは磔にしている。ロウエンが扇を振ると火の玉が鷹のように飛んでいき、屋根に架かった糸を焼き切った。放射状に編まれた糸の一端が断たれたことで、蜘蛛が態勢を崩して垂れ下がる。そのとき見えた。塔の屋根に立つ人影が。ひげを蓄えた老人は腕を組んでこちらを見下ろしている。「八尋」と真神は呟く。行く手を塞いでいる糸の壁を、真神は刀で切り払う。まず蜘蛛を地上に叩き落としてからが勝負だ。地を蹴って民家の屋根に飛び移り、駆けた。

 ふと、頭上から声が響いた。
「戻って来い!」
 どこか、懐かしい声だった。
「真神、戻れ! 戻って来い!」
 その呼びかけはしかし、土蜘蛛の甲高い叫びに切り裂かれて、聞こえなくなる。
 戻りたくない。そう思った。

現実´2

 町は相変わらず淡々と灰色にくすんで見える。それでも何か色がつかないものかと真神は期待する。
 先刻、同年齢くらいの男女とすれ違った。向こうから歩いてくるのを見た瞬間、身がすくんだ。まさか同じクラスの奴ではないか。真神は咄嗟に変顔を作った。だいぶ老けて見えるはずだ。手に汗を握りその顔を保ったまますれ違う。背中でクスクス笑い声がし、ヒヤリとしたが、振り向かずに歩き続けた。だいぶたってから詰めていた息を吐き出した。

 じりじり熱いアスファルトに下ろした視線を、ブティックのウインドウに転じると、氷のように透き通ったガラスの向こう、チワワがちょこんと座っている。置物かと思ったが、頭をくりくりかしげているのでどうやら本物だ。
 白いチワワは涼しそうな店内からこちらをじっと見ている。真神は威嚇するように口を大きく開けてみる。チワワは何の反応も示さず、やはりくりくり首をかしげている。

「何してんすか」
 不意の声に振り向くと、この間のヒツギに投げ飛ばされた少年だ。小猿っぽい顔の。
「こんにちは」
 とあいさつしてみたはいいが、妙に居心地の悪い空気が流れる。チワワはいつの間にかいなくなっている。

「この間のおっさんはいないんすね」
 と少年が言った。
「君は、えっと」
 真神は少しためらってから、
「もうスリはしてない?」
 と尋ねる。思い当たることが確実にあったのだろう、少年の仕草が如実に物語る。真神は言葉を重ねる。
「つまり、その、君もいろいろあるんだと思うけど、やめどきを見失うといけない」

 少年は垂れた腕の先にある拳をぎゅっと握っている。その中から汗がしたたり落ちそうだった。
 うつむいた彼の顔にはいろんな感情が滲んでいる。頬が泣きそうなほど歪んだかと思うと、表情がさっと消える。そうした心の動きを彼自身よく把握できていないのではないか、と真神は思う。

「悪いと思ってんです、本当に。誰にも謝れないし。ただ、財布を抜くとき、ひりひりするんです、それで」
 そして顔を上向けた。酸素を求めているかのように。
「もうしませんよ。投げ飛ばされんのは嫌だし。慰めた女の子にも、顔向けできなくなるし」
 真神もただ、小さくうなずいた。
「俺、日吉って言います」
 少年は疲れた声で名乗った。
「変な名前でしょう、しかもこの顔だから、猿って」
 みんなに猿と馬鹿にされる、と言いたいのだろうか。
「元気ないね」

 初めて会ったときに比べて、覇気がない。そして意外にも丁寧な口調だ。彼のなかで何かが変わりつつあるのかもしれない、と真神は思いたかった。
 どういう言葉をかけたらいいのかわからない。もしここにヒツギがいたら、もっと話が適当な方向へ向かって、砕けた感じになりそうなのだが。

「俺は大口真神。俺の名前も変だよ。ヒツギさんの名前も変だ」
 なんの慰めにもならないことを言った。
「あのおっさん、ヒツギって言うんすか。死にそうもないのに」
 日吉は少し笑った。そして、「何してるんすか、あの人。無職?」小馬鹿にしたというよりは、むしろ親しみの裏返しではないか、と真神は思う。
「いや、家の手伝いをしてるみたいだ。骨董屋」
「この町に骨董屋なんてありましたっけ」
「あるんだろうね」
 そこで真神は閃く。

「今から冷やかしに行ってみようか、ヒツギさんの店。前に場所を聞いたから」
「え、いや、別に」
 日吉は少しだけ眉をひそめた。そしてずいぶん長いこと黙っていた。いきなり無理やりな提案だったかもしれない。真神はなんとなくではあるが、日吉のことを放っておけなかっただけだ。辛抱強く沈黙に耐えていると、やがて日吉がぼそりと言った。
「まあ、いいか。暇だし。この前の礼もしたいし」
 そういうことになった。

現実18

 朝日が窓を透かす。真神が原稿を読み進めていたとき、ワダチが甘ったるく唸ってベッドで身を起こした。
 彼女は西南京都の住民を退魔の術で数多巻き込んだ元凶であり、しかし陰陽師部隊なくして事態の収集はつかなかった。
 いやいや馬鹿を言え、こんなものは病が見せる妄想だ。
 真神は頭を振る。ワダチは色っぽいあくびをして「眼鏡眼鏡」と手をあちらこちらへ伸ばす。真神の目の前のテーブルに眼鏡があったので、歩み寄って渡した。ワダチは眼鏡をしてほわっと笑う。

「ああ、ありがとう。どう、タモツの小説は」
 真神は頭をかき、
「お二人は付き合ってるんですか」
「うんまあ。でもタモツはロリコンだからねえ。私って童顔でしょ」
「退屈な小説です。日常系でしょうか」
「どこまで読んだ?」

 真神は少し考えねばならなかった。小説の内容は途中まで真神の現実をそのままなぞっていた。しかしまさにタモツが起こした事件、あのわいせつ画像見せつけ事件を境に、展開が食い違っている。今現在、真神はこのレジャーホテルにいるわけだが、小説内の真神はあのときの日吉という少年と、ヒツギの骨董屋に行くのだ。

 ワダチがくせっ毛を指ですく。
「タモツはねえ、自分が幼い頃に、悔いがあったんだよ」
「後悔ですか」
「そう、不器用なの、奥手ともいえるわ。彼って結構さ、色気ある顔だと思わない。無精ひげも様になっててさ。モテたのよ、子供のころから。でもみんな幸せにできなかった、傷つけてしまった、自分も苦しめられた。そんな後悔」
「で、少女性愛になった?」
「仮に、もし仮にだけどね、彼に身も心も全て預けて、心の底から愛し合える少女が現れたら、彼はきっと救われるわ。そうすれば、彼はその少女が大人になるまで見守って、大人になってからも愛し続けることができる。彼にはそういう、長い愛が必要なの」

 真神は心理学的にうなずける話かもしれないと思う。
「でもきっと、そんな少女は現れない。だから彼は一生を満たされずに終わる。その小説も、そうね、彼の前世はヘンリー・ダーガーかもね。『非現実の王国で』を書いた」
 そのあとタモツも起き上がり、三人はスーパーの駐車場にある喫茶店で朝食をとることになった。天井にシーリングファンが回り、木の調度がログハウスのようで落ち着く。

 真神は原稿の束をめくる。
 真神と日吉がヒツギの骨董屋に行くと、ヒツギは二人にゼリーを出してくれる。そこへカナメも現れるが、どうやらスリをした日吉のことが気に入らないようだ。口論になり、カナメは出て行ってしまう。ヒツギによれば、カナメは両親を火事で亡くしており、自分だけ助かってしまったことにひどい罪悪感を覚えている。円周率を数えだしたのもそれからだという。強迫観念の一種だ。カナメが他者に厳しいのは、それだけ自分を律しているからだとヒツギは語った。
 その後、カナメが自分の家が燃えているという幻覚を見て、それは釣瓶火という妖怪が現実に侵食してきたせいだった。しかし日吉が炎の中に飛び込み、まったく熱くないことを証明してみせると、火は消えた。日吉に花を持たせるような場面だ。二人は仲直り出来ました、と。

 西南京都での妖怪退治に気になる記述もあった。

【あるとき八尋が奇門遁甲という術を使って、真神の方向感覚を狂わせたことがあった。真神は異形の町でどちらへ歩けばいいかもわからず彷徨い続け、そこへロウエンが助けに来た。
 方向感覚が狂ったのは、八尋という老紳士が幻の家屋をいくつか配置していたせいだった。ロウエンが家屋に炎を放つと、実はお札を張った只の石だった】

 異世界で放った炎が、現実においてカナメの家を燃やしたのでは、とうがった見方をしてしまう。だとするなら火をつけたのは正気をなくした真神か。だとするなら救いはない。

 真神の継父について書かれた項もある。

【継父は各地の集落に根付く風習や伝統を取材して、その記事が雑誌に載ることもある。そんな継父について覚えていることはとても少ない。千早を男手一人で育てていた彼が母と再婚したのは、真神が小学校一年か二年のとき。それ以降から真神の記憶は抜け落ちている。
 しかし血縁がある実父については奇妙なほど焼き付いている場面がいくつかあり、金属的な冷たさのように合理的な人物だったことがうかがえる。

 たとえば、真神は幼稚園の頃、夢中になって描いた絵を実父に見せたことがある。それはいろんな果物が生る大樹のもとで動物たちが遊んでいるという絵だった。一瞥した実父はこう言った。
「葡萄は蔓性の植物で、木にこんなふうに生ることはない。だいたい一本の木にこれだけいろんな果物が生ることもないんだ。そしてこれらの動物は二本足で歩かない。真神はもうすぐ小学生になるんだぞ」

 真神にわかったのは、この絵に込めた気持ちの一片も伝わらなかったということだけだ。画用紙を破いてごみ箱に捨て、それ以来、人に見せる絵を描けなくなった。代わりに屋根裏の箱に仕舞われてあった妖怪の絵を、こっそり引っ張り出して、真似をして描くようになった。クレヨンではどうしても筆の雰囲気が出せず、だから早く大人になりたいと思った。しかしその遊びも今度は母に見つかることとなり、もっと元気な絵を描きなさいと叱られた。
 母が離婚してから、実父とは会っていないと思うが、あいにくあてにならない記憶なので実際のところはわからない】

「そこ、そこからだよ!」
 と前に座るタモツがフォークで原稿を突っついてきた。
「そこからクライマックスだから、読み飛ばさないで!」
 モーニングを三人で食べていた。パンがうまい喫茶店だ。味噌汁とサラダとゆで卵もついている。

「これ、どこか公募には出さないんですか」
「出さないよ、きっと落ちるから」
「そうですか」
 ワダチがコーヒーを音を立ててすすり、言った。
「たもっちゃんは欲がないからね」

 しかしタモツは首を振り、
「欲をこじらせてる。子供たちにトラウマを植え付けてしまったよ」
「どうだろ、かまいたちが通り過ぎるようなもんだよ。あのホテル、大人が中学生だか高校生だか連れて入っていくの、見たことあるんだよね。そういう手合いに比べたら、たもっちゃんは超まとも」
「そうかな」

 タモツは眉を曇らせ、ワダチはサラダをフォークでサクサクつつきながら、
「真面目過ぎるくらいだね。トラウマを共有しようとしたんだよ、きっと。たもっちゃんのことだから画像見せてるときに性的興奮とかなんもなかったでしょ、むしろ罪悪感ばっかりで」
「そうだね、苦しいね」
「あと前の晩にうちの店に来てくれたよね。お酒飲めないのに、調子乗ってる奴らが飲ませてさ。きっとアルコールが残ってたんだよ」
「それですませられることじゃないよ」
「ほら真面目だよ。ちょっと悪い風に当てられたんだよ。反省して、変わればいいよ。みんなそうしてきたんだから」
「うん、抗不安薬を一つやめたよ。不安を抑える代わりに失敗からの学び、つまり学習能力を阻害するんじゃないかと思って。つまりその薬を服用すると、お気楽になるけど失敗への危機感すら奪われてしまう。これは社会生活を営む上で極めて危険なことだ」

 真神は朝食を食べ終え、再び原稿に視線を戻す。
 クライマックスというのは当たっていた。妹の真奈がずぶ濡れで返ってきて、いじめられていたという事実が明らかになる。現実に照らせばつい昨日のことだ。小説の時系列とわずかなずれがある。現実が先んじているのだ。
 タモツが呟くように言った。
「因果の差が薫習の差となって表れる。さて、こちらの現実は、どうなるかな」

現実´3

 その後、改めてホテルに入り直すことになった。ぎんぎら暑い炎天下で、涼めるような場所はここくらいなものだ。真神は原稿を繰っていた。タモツとワダチはさっき風呂へ行ってから、一向に戻ってくる気配がない。たまにワダチの喘ぎ声が、かすかに漏れ聞こえてくる。真神はさして気に留めず、腹開きになったポテチの袋からつまんで食べる。
 原稿の中の真神は勉強をしていた。

(以下、タモツの原稿)
 
 学校に通っていない穴埋めをしようと、居間で数学の教科書とノートを広げ、ペンを動かす。教わったはずの内容が頭から抜け落ちている。薬の副作用で眠くもなる。あてどない海を手探りして進むようで、苦しい。それでも活字と数式にかじりついた。
 屋敷の電話が鳴った。受話器を取ると浅葱だった。

「真神君、こんにちは」
 その口調はどこかぎこちなかった。彼女らしくもない、ためらいが感じ取れた。
「こんにちは浅葱。学校は今終わったところ?」
「うん。今日は全然、集中できなかったよ。犬のことが気になって」
 やはり声に元気がない。「犬?」と真神は尋ねた。

「えっとね、真神君。いきなり変なこと言うけど、私の犬が死んだ理由、真神君は知らない?」
 浅葱の飼い犬は確か、彼女が小学校低学年の頃に死んでしまったという話だ。
「ごめん。俺はちょっと記憶のほうが……」
「私、小学生の頃、山奥に住んでたの。でね、その頃、真神君も近所に住んでたような気がするんだけど」
 真神の奥底から蘇ってくるものがあった。深緑の風景、山沿いの家屋、そして石橋。逞しい入道雲が、真っ青な空にそびえていた。
「ああ、そうかもしれない。あれは確か、夏休み」

 小学二年生の夏休み、真神は祖母の家で過ごすことになった。紫煙のにおいが鼻孔の奥で覚めた。
「やっぱり。ねえ、なにか覚えてない」
 真神は記憶を手繰るが、その綱を闇の向こうでつなぎとめる何者かがいる。手繰り寄せる力が足りず、もどかしい。

「私、怖いの」
 幼なじみの声は震えていた。今までにない怯えに彩られていた。
「私の犬が、頭だけ出して、生き埋めにされてるの。それで、その前には……」
 そこで浅葱の声が途切れる。焦燥感が真神の全身に駆け巡る。
「生き埋めにされた犬の前に、誰がいたんだ」
 返事はない。受話器の向こうで、空気が砂嵐のようにざわめいている。
「浅葱。なあ」

 息が絶えかけた沈黙のなか辛抱強く待っていると、
「久しいなシラチゴ」
 不意に雑音を乗せた男性の声がした。
 重低音の、ややしわがれた声には、覚えがあった。
「八尋」
 その名は真神の口から、ほとんど自然にこぼれ落ちた。

「シラチゴよ、我が母は今どこにいる」
「お前、西南京都の」
「まさかわしを忘れたか」
「浅葱はどうした」
「我が母が、土の中に埋められていたとき、その様を眼前で眺めていたのは、おぬしだよ、シラチゴ」

 眼の奥に焼き付いている残像が、浮かび上がった。頭だけ出して土に全身の自由を奪われた犬。まるで生首のような。黒い瞳が救いと、怨みと、恐怖を湛えていた。
 真神はその犬をじっと眺めている。眺めていると、背後から声がした。
「お前がやったのか、真神」

 縄を引きちぎるような音がして、電話は唐突に切れた。
 真神はしばし放心したようになっていたが、受話器を置くと玄関に走った。
 浅葱に何かあったのだ。
 玄関の引き戸を開けようとしたとき、向こうから開いた。そこに立っていたのは真奈だった。真奈はいつも部活で遅くなるはずなのに、やけに早い。そして全身が、頭の先から足の先まで、ずぶ濡れである。汗ではないし、曇っているが雨も降らなかったはずだ。
 まるで、全身にホースで水をかけられたような。

 水滴が落ちて、タイルの隙間を這う。靴下も、スカートも、ブラウスも、濡れていないところはない。張り付いた前髪の間で真奈の双眸が光った。射殺すように。
「真奈……なんで」
 何で濡れているんだ、と言い切ることができない。
 真奈の顔を濡らしているのは、涙でもあるのだ。
「なあ、何が……」
「全部、あんたのせい」
 冷たい井戸の底から響くような声音で真奈が言った。しかし吐き捨てる息は真神の肌を焼くほど熱いのだ。

「何でうちはこうなの。特にあんたよ。今年の春以来、私が学校でなんて言われてるか知ってる?」
 真奈の頬が奇妙に歪んだ。
「狂いの妹、よ」
 その言葉は真神の脳と心臓を殴りつけた。

「ねえ、あんたさ、何も覚えてないんでしょ。小学生のときから、急に寝込んだり、起きて学校に来たかと思ったら、硝子を割ったり人を殴ったり。でも次の日になったらけろりと忘れてて。同じことの繰り返し」
 真奈が鼻をすすった。
「私がどれだけ、気を張り詰めていたか、わかる。わからないよね。今年の春も、いきなり学校で大暴れしたかと思ったら、次の日から急に人が変わったみたいにおとなしくなって。本当に、人が変わったみたい。別人よ。あんたなんか、私の兄じゃない」

 真神の視界がすべて、歪みながら遠ざかり、地を踏む感覚さえなくなる。
「浅葱さんのこともそう。あんないい人を、傷つけて、振り回して、挙句の果てに、そもそも付き合ってないとか。信じられない」
 思い出せないのだ。浅葱と付き合っていたなど。
「今さら、生き直そうとしてるみたいで、腹が立つ」
 最後に真奈は鈍い刃のような言葉を突き立てた。そして荒々しく視線を外すと、廊下を破らんばかり踏み鳴らし、和室の襖を甲高く閉めた。そこは帰りの遅い母が使っている部屋なのだった。

 廊下に点々と、水滴が落ちていた。
 真神は自分の息が荒くなっていることに気付く。何かが音を立てて崩れようとしている。逃げたい。ほとんど直感的にそう思い、次の瞬間には屋敷を飛び出していた。

 町を駆けた。とにかく駆けた。なまった足はすぐに運びが鈍くなり、ただ赴くままに彷徨った。
 浅葱の家に、行かねばならないはずだった。何か尋常でないことが起きている。それと向き合うことに恐怖を覚え、気づけば真神は見当違いの方向に来ていた。
 広い川をまたぐ血のように赤い鉄橋だ。いかなる洪水も赤鉄橋を越えることはない。
 橋、洪水と来て、頭に犬の頭蓋が浮かぶ。
 石橋の下に鎮座した、鼻の突き出た骨格を、まざまざと思いだす。

 鼓膜の奥に蘇る蝉の鳴き声は、行き交う車の摩擦音よりも大きい。先の信号が赤になったのか、いっとき車の流れが滞る。鉄橋の歩道を行く真神を誰も気に留めはしない。
 欄干から川を見下ろした。めまいのしそうなほど高い。柵を越えて宙に身を躍らせれば、何もかも仕舞いになるのだろうか。

 どこにもいない蝉の声が耳を圧している。瞼に浮かぶのは西南京都。その裏側の現実で、どうやら取り返しのつかない人生が繰り広げられていた。
 呼吸が詰まる。視界が歪む。指は空を掴み、足は虚無の上にある。
 薬を飲まなければ。錠剤の入ったフィルムケースを取り出す。その腕を何者かが掴んだ。
 視線を転ずると、骨格のいい体躯をスーツに包んだ、白髪の老人が立っている。

「八尋」
 真神は呟いた。
 八尋の右手はリードを握っており、その先は、浅葱の首輪へと繋がっている。
 幼なじみの少女は立ったまま、眠るように目を閉じていた。

過ぎた夏の日2

 祖母の家で過ごした夏、近所の悪ガキにいつも泣かされた。真神はその日もしたたかに殴られ、腕をすりむき、うずくまって泣いていた。その背や腹を真神より年長の子供たちが、無茶苦茶に蹴った。
「町の子」「白くてきみわりぃ」
 ただ、つらかった。父に捨てられ、学校にいても、屋敷にいても苦しくて、夏休みだけと思い、山深くの集落に逃げてきた。それでも地獄だ。
 蹴られた腹が、岩を抱え込んだように痛い。涙と鼻水が塩辛い。真神は一瞬、海の中に沈んでいく自分を想像する。

「何をしよらあ、くそガキども」
 重く声を響かせ、真神の祖母が現れた。二頭身の小人のような背丈は子供たちとそう変わらないが、とてつもない存在感があり、悪ガキたちは気圧された。
 そのとき一人が汚い言葉を吐いた。狂人を意味する言葉を。
「狂人のばばあ!」「こいつは狂人の孫じゃ!」
 悪ガキどもが張れる、精一杯の虚勢だったに違いない。
 祖母が片眼をひん剥いて、一人を睨みつけた。それだけで子供は失禁しそうなほどに威勢を失った。

「おんし、寝小便は治ったか」
祖母はひどく静かな声音でその子供に語り掛けた。
「おんしは寝小便で特大の四国地図を描いたことがあったな。あれは芸術じゃった。ベランダでおふくろさんに、布団と一緒に尻を叩かれとったはずじゃが、青い尻がしばらく赤く腫れて大変じゃったろ」
 蒸し返されたくなかったであろう恥を子細に話されて、子供は色を失う。
「ちんちんをハサミで落とされんでよかったなあ。じゃが、年下のおなごにむりやりキッスするませたガキなど去勢したほうがええかもしれんな」
「なんで」

 秘密を暴露された子供が、か細い声を発した。他の子どもたちはまるで汚物でも見たように距離をとる。「こいつ不潔や」「助平や」などと口々になじる。
 すると祖母はその子供たちもひとまとめに睨んだ。
「おんしらは人を責めるほど上等な人間か。人に道を説けるほど偉大な人間になれるのか。断言してやる、なれるものか。わしが今のうちお前らを洗ってやる。一人一人、丸裸にしていってやろう」
 子供たちからは血の気が失せ、勢いも死に、まるであと少し針でつついたら、風船がはじけるように狂い泣きそうに見えた。

「ワォン!」
 唐突に祖母が犬の鳴き声を発した。狂犬のごとく立て続けに吼え猛る。子供たちは、わあと驚き、一目散に転びながら逃げ出した。その背に祖母の咆哮が追い打ちをかけた。とうとう子供たちは泣き出し、本当に犬に追いかけられているかのようだった。
「かっかかか」
 と祖母が乾いた笑い声をあげた。そして真神の手を取った。
 祖母に手を引かれながら、真神はじっと道に視線を落としていた。
「なア、真神よ」祖母が言った。「わしはできれば、お前をずっと助けてやりたい。じゃがな、そういうわけにもいかんのよ」

 とぼとぼと、真神は歩く。
「ええか、真神。正義も悪もないと思え。そんなもんはな、戯作の上だけで必要な幻じゃ。楽のために苦を取れ。希望に惑わされるな。英雄に憧れ何者かになろうと思うな。生きていればお前はお前になる、それだけで構わん。他人とかかわることで、変わるか変わらんかもお前さん次第なんじゃ」

 真神は何も言うことができなかった。ふと手が後ろに引っ張られるような感覚がしたと思ったら、祖母が立ち止まっていた。祖母は胸のあたりを押さえ、崩れるようにしゃがみこんだ。
「ばあちゃん?」
 真神は祖母の背をさすった。呻き声が祖母の喉から絞り出されていた。
「ばあちゃん」
 真神は心臓がきゅっと縮む気がした。喉から込み上げてくる恐怖を見ないようにして、ひたすら祖母の背をさすった。

現実´4

 八尋はグレーのスーツに身を馴染ませ、動作に余計なものが一切ない。整った白髭も相まって高貴さが漂う。撫でつけた白髪の左右がはねており、それは耳なのだ。
「やる気か」
 と真神が呟いたのは、本能的に、老紳士を敵と判断したからである。八尋は西南京都で幾度も真神の前に立ちはだかった。

 八尋はおどけたように両腕を広げた。
「シラチゴよ。ずいぶん顔色が真っ白いな。おぬしがわしのもとに来ぬものだから、こちらから出向いてやったのだ」
「浅葱を、どうしてるんだ、それは」
 八尋のリードにつながれた浅葱は、ときおり目を薄ぼんやり明けるが、虚ろである。
「わしを俗界に繋ぎとめるのはこの娘だし、この娘を繋ぎとめるのはわしだ。それ以上のことは、わし自身にも知りようがない」

 真神は胸が悪くなった。錠剤を飲もうとする。しかしその腕を八尋が強く握った。
「よせよせシラチゴ。そんなもので抑え込むな。おぬしは見るしかないのだ、西南京都を」
 真神は抵抗した。一刻も早く、白い粒を血液に溶かしたかった。しかし八尋の力はすさまじい。
 真神は脳の芯がぼんやりして、視界が飴細工のように曲がった。いくつもの色が混ざり合い、意識が遠のき沼底に沈んでいく。耳の奥で金属めいた音が尾を引いた。ようやく景色の歪みが整い始める。

 真神が立っている場所は、赤鉄橋ではなかった。暗い淵にかかる朱塗りの木造橋である。黒光りする擬宝珠ぎぼしをつけた欄干が、点々と闇の奥に溶けている。
「さて、シラチゴ」
 動じもせず八尋が言った。
「おぬしが活力を取り戻したからだろうか、わしも先ほど縛が解けてな。おぬしの臭いをたどって、ここまで出向いた次第だ。しかしどういうわけか、母の匂いがせぬ。真神よ、我が母をどこへやった」
 八尋が母と呼ぶのは誰であるか、真神はとうに思い出している。

「ロウエンはいない」
 犬耳の少女が恋しい。
いつも側にいたはずなのに、気づけばこんな灰色の世界に放り出され、彼女の姿はどこにもない。
「いなくても、やっていけると思いたかった。だけど俺は今、つらい」
 真神の弱音に対して八尋は同情するわけもない。
「どうも不安定だなシラチゴ。よく思い出せ。西南京都の始まりと終わりに、何があった」

 真神は耳の奥に声を聞いている。過去の自分の声かもしれなかった。
 情報の奔流が全身に流れている。今なら、直視できるかもしれない。耐えられるかもしれない。耐えて破片を繋ぎ合わせなければ、見えないままだ。
 真神は、虚空の闇に心を重ねる。
 西南京都に来てから、十年目。
 オカネさんは言った。十年だと。十年間、長宗我部の獣と戦うのだと。

 その日、オカネさんとワダチの陰陽術師隊は、真神と別行動をとっていた。山間部にすそと呼ばれる念が淀み、怪異があふれていたのだ。
向こう側、つまり現実で山の神とされた神樹が切り落とされたのが原因だった。それまでも神樹の枝は厄除けのお守りになると噂になり、勝手に切り落とす者が後を絶たなかった。切り落とされた枝は西南京都側でも落ち、それを一つ目小僧と彼の仲間が妖力で拾ってはくっつけていたのだった。

 しかし幹から切り離された。山はすそをため込み、やまいのかみと呼ばれる怪異を際限なく生み出し始めた。
 そんなときである。町に長宗我部の獣が現れたのは。学問所の校庭で見上げるほどの巨大な鎧武者が猛威を振るっていた。人などは武者の足のつま先くらいでしかなかった。
 ロウエンと真神は立ち向かうが、とうとう鎧武者の口に放り込まれてしまう。闇に飲まれる直前、八尋の叫びを聞いた。
「どこまでも追うぞ! シラチゴよ!」

「気づくと俺は高校の教室にいた。誰もが規則正しく机を並べて、規則正しく何かを書いていた。俺はまるで何かに囚われているかのような、錯覚を受けた」
 そして状況がわからず、椅子を振り回した。
「あのときまで俺は、西南京都にいたのか。じゃあその間、俺の現実を生きていたのは、いったい誰なんだ」
 八尋は髭をなでた。
「どちらも本当だろう。おぬしはどちらの責任からも逃れることはできんのだ」
「ロウエンは」
「おらぬな、どうやら」

 真神の脳裏によみがえる光景があった。
 祖母の家で過ごしたあの夏の日、深い山道のはずれで、真神は生き埋めの犬と相対している。その姿を鬱蒼と茂る藪が覆い隠していた。
 頭だけ地上に出した犬を、どのような感情で眺めていたのか、思い出せない。背筋が震える感覚は、恐怖か、それとも愉悦か。

 頭を切り落とせば。
 した者に憑いて、一生、願いを叶える。
 本当だろうか。
「お前がやったのか、真神」
 あのとき背後から言ったのは誰だ。
「何でこんなことをするんだ」
 真神には答えられなかった。
「お前はやはり、大口の血筋だな」

 どうやら、あれは自分がやったのだ。真神はもはやそう結論するしかないようだった。幼さゆえの好奇心か、それとも追い詰められた心があの残虐な行為を引き起こしたのか。
 ロウエンの首筋には、有刺鉄線のような縫い目が巻き付いていたではないか。あの醜い傷跡を刻んだのは己なのだ。
 許されないことをしてしまった。自分であのような行為に手を染めて、その罪悪感から心を閉ざし、西南京都に逃避したのか。

「僕がやりました。とおぬしは言った」
 八尋が静かに語りかけてくる。
「わしはそれを、母の胎内で聞いていた。飢えと渇きで死にかけている母のなかで、わしはしかと聞いたのだ、おぬしが白状するのを」
 そうだったのだ。地に埋められたロウエンの腹に、八尋たち子犬が宿っていたのだ。
「わしはおぬしを仇と定め、この身朽ち果ててから、おぬしを追いかけた。行きついた先は、西南京都」

 真神の記憶が輪郭を帯びつつあった。
「西南京都で目覚める前、俺は……」
 今やまぶたの裏にすべてを圧倒する山々が鮮やかに浮かび上がる。
 きっかけは些細なことだった。小学校で真神が何気なく口にした一言、たったそれだけで平穏が崩れ去った。持ち物を盗られ、机に落書きをされた。誰も相手にしてくれなくなった。教室にいると深海のように息がつまった。

 居場所を求めて町を離れた。逃げた先、山奥の集落でも真神は、村の子供たちにいじめられた。次第に出歩くのが怖くなった。祖母の家からすぐの浅葱の家へなら出かけることができた。浅葱とは学校のクラスが同じだった。親同士の交流もあった。なぜ浅葱が近所の学校に通わず、一山越えた町の学校に通っていたのかは、わからない。尋ねてみたが浅葱は笑顔でごまかして、何も答えはしなかった。

 真神は浅葱と人形遊びをした。マイペースに人形を動かす浅葱に合わせて、真神は物語をこしらえた。心から安らげるひとときだった。しかしそれさえも悪ガキたちの気に入らなかったと見え、帰り道で待ち伏せされ、やはり殴られた。
「ロウエンは、あの犬は……浅葱の、ペットだった」
浅葱はよくなつく犬を飼っていた。柴犬かと尋ねると、ううん雑種だよ、と浅葱は言った。真神はペットが欲しかった。

 うらやましい。と思うと同時に、石橋で見つけた犬の頭蓋が、脳裏をよぎった。
「この現実を覆したいと、俺は思ったんだ」
 犬神の呪法にすがれば、すべてがうまく行くのではないか。そう思ったのは事実だった。そればかりか、浅葱が恵まれているように見え、ペットを奪ってやりたい、などと思わなかったか。
 たとえそうだとしても。絶対にやってはいけないことだ。

 真神は頭を抱え、座り込んだ。息が苦しかった。
「シラチゴよ。我が母の主であったあの娘もまた、心を縛られておる。わしがあの娘に引き寄せられたのも、そのような縁だったのだ」
 ある日突然いなくなった飼い犬。その死体を幼い日の浅葱は見たのだろうか。その骸に首はあっただろうか、なかっただろうか。

 真神の喉から唸るような吐息が漏れる。どのように償えばいいというのだろう。自分などは人間の姿をした鬼畜ではないか。
「俺はもう……終わりにしたい」
 真神は欄干を掴み、半身を乗り出した。下に広がる闇は宇宙の途方もない暗さのようであった。
 その中に落ちていけば、誰とかかわることも、誰に迷惑をかけることも、なくなるのか。呑まれて消えることができるのか。

「シラチゴ、よせ」
 八尋が止めるが、真神の心は既に闇の向こうへ奪われつつあった。
「よさぬか。わしは少しばかり、引っかかることがあるのだ」
 もう、どうでもいい。真神は欄干を握る手に力を込める。
「真神!」
 鋭い声がした。
「これ以上どこへ逃げるつもりだ」
 その声は八尋ではなかった。振り向くと、千早が立っていた。その手に一振りの刀を提げて。

現実´5

「シラチゴの姉か」
 呟いた八尋を、千早が鋭く睨んだ。
「その呼び方やめろ、ぶん殴るぞ。私の弟は、大口真神だ」
 千早の服装はいつもの巫女服ではない、簡素な部屋着だった。異変を察知して、着の身着のまま駆け付けたのだろう。
 呼吸すらも響く橋には三人しかいない。通行人も朧車もなかった。
「私はお前を信じている、真神」
 千早は真神をまっすぐ見た。
「ロウエンを死なせたのは、お前じゃない」

 真神は気づいた。西南京都にいるとき、たびたび空の果てから「戻って来い」と力強い声が聞こえていた。あれは千早だったのだ。
「俺だって、そう思いたいよ」
 泣き出しそうになりながら、ほとんど喚くように真神は言った。
「でも、それ以外ないじゃないか。俺は浅葱の犬がうらやましかったし、奪ってしまいたかったし、犬神にすがりたかった。俺がやったんだ。自分でロウエンを殺して、そのくせ西南京都では……」
 喉の奥から熱いものが込み上げて、咳き込みそうになった。

 不意に突き上げるような振動が走る。橋が軋み、空間が唸った。
「来てしまったか」
 と千早が呟き、和紙と小刀を取り出して御幣を作り始めた。

 暗闇の向こうから広い橋を破らんばかりに踏みしめて、見上げるほどの影が近づいてくる。黒光りする鎧兜に身を包んだ、武者である。
 真神は足を縫い付けられたように、身動きできなかった。鎧武者の顎に飲み込まれた瞬間を思い出す。兜の下から覗く左の眼窩がんかが赤々と光り、こちらを見下ろしている。
鎧武者が太刀をかざした。この距離であれば、象が蟻を踏みつぶすように、難なく真神を切り裂けるだろう。

「来たれ式王子」
 千早が言った。完成させた御幣にふっと息を吹きかけたのだ。光に包まれた和紙は渦を巻きながら膨らみ、白い和服の少年へと変じる。金色の髪に彫り深いかんばせをしている。
「太夫、私は何をすればいい」
 少年が冷静に呟いた。
「偽らざる姿を見せよ」
 と千早が命じ、式王子は「承知した」とうなずいた。

 少年の体が内側から途方もない力をかけられたかのように膨張し、皮膚が裂け、脱皮するかのごとく中から新たな肉が生じる。肉は裂けては膨らむことを繰り返して大きくなり、ついには橋の幅にやっと収まるほどの巨獣に変身していた。
 その姿はどのような動物とも違った。頭に黒金の兜をかぶり、巨大な角を振りたて、牙の間から血のように赤い舌をなめだしている。体は黄金色こがねいろの鱗に輝きその一枚ずつ異なる色彩が曼荼羅模様を浮かび上がらせる。

 刀を振り下ろそうとする鎧武者に、巨獣化した式王子が組みついた。
 橋が曲がりそうなほど揺れた。式王子の前脚が鎧武者の腰を抱えるが、びくともせず、鎧武者は式王子の角を掴む。それくらいでは式王子もひるまない。
「あの夏の日も」
 八尋が何食わぬ顔で話を戻した。
「あの夏の日も、おぬしは白状したな。自分がやった、と」
「黙っていろ八尋」
 千早が前に歩んだ。

「いいか、真神。浅葱久美の犬が半死半生で埋められているのを、お前が見つけた日。婆さんはあの集落にいなかった。なぜならその三日前、病院に搬送されていたからだ」
 胸をおさえてうずくまった祖母の姿がよぎる。
「お前は三日間、一人だけで過ごしていた。私や義母さんが屋敷に連れ戻そうと赴いても、お前は頑としてあの集落から出ないと言った。婆さんの家を護るんだ、そう言った。お前は擦り傷やあざだらけだった。誰にやられたと聞いたら、こう答えたな。僕があいつらを呪い殺してやる」
 橋が重く震えた。
 真神は歯を食いしばっていた。何かがこぼれそうな瞼を固く閉じた。

「婆さんの家にはカップ麺とか、食料の備蓄があったから、私と義母かあさんも折れるしかなかった。三日もたてば頭も冷えるだろう、と義母さんは言って、その場は帰ることにした。車の速度を出して、義母さんはえらく腹を立ててたよ。真神が呪い殺すなんて言ったから、何か嫌なことでも思い出したのかもしれない。婆さんがいらないことを吹き込んだ、とか、何代も絶えることのない呪いだ、そんなことを言っていた。真神は汚れてしまったが、真奈は絶対にそうはさせない、とも言ってたな。私は正直、いやな人が母親になったもんだ、と思ったよ。誰も呪われてなどいないし、汚れたりもしない。ケチがついたら汚れるって言うんなら、人はみんなぼろ雑巾になって死んでいくってことじゃないか。そんな考え方したくない」

 三日間、真神は孤独にあの集落で過ごした。悪ガキたちが家にまで襲いに来るかもしれないと身構えた。祖母がいない今なら、奴らは真神をやりたい放題の血祭りにあげられるだろう。気を張り詰めさせていたが、悪童たちがやってくることはなかった。
 真神は祖母を見舞うため集落を出ても良かったが、そうしなかった。祖母は必ず帰ってくる。だからそれまで家を護る、ここで待つと決めた。
 いつまでも真神を助けてやることはできない、と祖母は言った。その言葉を噛み締めながら膝を抱えた。

 祖母がいなくなって三日目、訪問者があった。浅葱久美である。二日前から飼い犬のロウエンがいなくなった、とのことだ。
 真神は浅葱の困った顔も見過ごせなかった。迷い、ためらい、浅葱の涙ぐんだ瞳に折れた。戸締りをきちんとして捜索に出た。浅葱が集落の人に尋ねて回ると言うので、真神は一人、山奥へと分け入った。川辺の山道を奥へ奥へと歩いた。
 木漏れ日と小川の音が胸を過ぎていく。時おり道を外れて茂みの中を探ったが、犬はいなかった。

 舗装されていない道にはタイヤの跡だけがついていた。木々のトンネルをくぐるこの道はどこに続いているのだろう。車に乗れる大人たちが、子供たちに内緒でこっそり山を越え、楽園のような世界へ遊びに行くのではないだろうか。
 そこはきっと温かい光に照らされた夕暮れの街で、温泉街があって、綿あめや林檎飴の屋台が並んでいる。
 真神は走り出していた。

 山の向こうが見たかった。誰にも邪魔されることのない、夕暮れの街を思い描いた。婆ちゃんが退院したら、きっとそこで広いお湯につかろう。きらきらしたお土産を一緒に買って、おいしいものをお腹いっぱい食べよう。
 薄紅の空には月と太陽が一緒に浮かび、観覧車のような乗り物からは、飲み込まれてしまいそうなほど特大の花火が見える。色とりどりの花火が咲いては散り、婆ちゃんは痛快に笑うだろう。もちろん煙をいっぱい吹きながら。

 婆ちゃん、どうか苦しまないで。
 地獄のような苦しみも、いずれ裏切る天国の穏やかさもいらない。
 婆ちゃんに笑ってほしい。
 妖怪の絵をたくさん描いたから、見てほしい。
 必ず婆ちゃんと一緒に、山の向こうへ――。

 何かが吠えた。
 真神は一瞬にして寂しい山道へ引き戻された。耳を澄ましていると、また吠えた。少しかすれているが、獣のようだ。
 鳴き声を頼りに、道の外れへと分け入った。
 藪をかき分けていくとぽっかり草のない場所があって、そこにいた。
 首だけ出して埋められた、ロウエンが。
 その残酷な光景は、真神からなけなしの気力をすべて奪い、その場にしゃがみこませた。込み上げてくる吐き気と格闘しながら、真神は声にならない言葉を呟いた。
 もう何も見たくない。

「俺がやったんじゃなかった」
 真神は橋の上で呟いた。知らぬうちに頬が涙で濡れていた。
「当たり前だ」
 そう言った千早の瞳も少し濡れ、口元に笑みが浮かんでいる。
「子供のお前に、ロウエンの首を刈ることなどできるものか。あれだけ優しかったお前が、犬を生き埋めにできるものか」
「でも、俺は、自分がやったと思い込んだんだ」
「もしや」
 と目を見開いたのは八尋だ。
「自分がやった、とおぬしが言ったとき、その場にはもう一人いたはずだな」

 そうだ。背後から声をかけた者。
 お前がやったのか、真神。
 藪の中で真神は咄嗟に振り向いた。逆光になった人影。目をこらす。そこに立っていたのは、眼鏡をかけた痩身の男性。
「父さん」
 真神はそれだけ呟くのがやっとだった。

現実´6

 いったいどれだけの時間、生き埋めの犬と向き合っていただろう。真神は背後に立つ存在に、声をかけられるまで気づかなかった。
「お前がやったのか、真神」
 心臓が喉元までせり上がった。すぐ後ろでじっと様子をうかがっていたのは血縁の父だった。真神の全身が凍り付いた。頭のなかに組み立てられつつあった思考が、一瞬にして四散した。かろうじて、父さん、と呟いた。

「お前が、やったんだな」
 夏だから暑いのだ、とでも言うような、ひどく無感情な声音だった。その平板さは凍てついた感情を覆う鎧なのだ。真神はそびえる父の影を見上げた。
「なぜこんなことをしたんだ」
 彼は真神と真奈の前から唐突に姿を消した。いや唐突とは言えないかもしれない。母と父のぶつかり合いは毎日のようにあった。やけに淡々とした父の言葉を覚えている。「こんな旧弊的な家だとは思わなかった」「単なる迷信で終わらないから質が悪い」「遺伝的要因が露わになったら責任を取れるのか」など。

 何を言っているのかはわからなかったが、父は後悔しているのだ、と思った。
 母と結婚したことも、真神や真奈が産まれたことも、全部。
 すべて取り消したかったのだろう。
 だからあの屋敷を捨てて出て行ったのだ。
「答えるんだ真神。なぜこんなことをした」
 違う、と真神は言ったつもりだったが、あまりにか細くて、蝉や太陽など大自然の怒鳴り声にかき消されてしまった。

「お前はやはり大口の血筋だな」
 何を言われたのか、わかりはしなかった。それでも真神はその言葉の内に含む拒絶を感じ取った。
 脳が鎖で締め付けられるように蠢いて、体の芯が溶けていくような感じがした。それは水も飲まずに炎天下を駆けてきたせいかもしれない。
 何か言おうとした。乾いた息しか出なかった。
 父の眼光は見えぬ圧を放ち、真神に重くのしかかる。視界がぶれ、父の顔に霧がかかる。

 お前がやったんだ。お前がやったんだ。お前がやったんだ。その言葉が血液に溶けて、血管の壁に反響しながら全身を巡る。
 地を踏む感覚がなくなり、立っているのか寝ているのかわからなくなる。自身の唇が不意に動いて何かを言った。景色がぐるりと回る。後頭部をしたたかに打ったような気がしたのは、ロウエンの頭とごっつんこしたせいかもしれない。
 恨めしい太陽が見え、そしてそれまで全身を支配していた何かが、泥の底へ沈みこむような感覚がした。

「気づくと西南京都にいた」
 真神はあの日のことをはっきり思い出した。視線を転じる。
鎧武者と式王子の戦いは先ほどまで互角だった。しかしたった今、鎧武者の踵が滑り、その首に式王子がかじりついた。
「彼はあの日、俺に会いに来たのか」
 実の父は、どこかで知ったのかもしれない。真神が夏休みの間、祖母の家に預けられていることを。そして祖母が入院したことを。

「俺がやったと決めつけられているうちに、思ったんだ。もう、それでいいやって」 
「待てよ」と八尋が顎髭をなでた。「勘違いをしていたのか。おぬしが、自分がやったと言ってしまったのを、その言葉だけを根拠にして。そうすると、母を埋めたのは、おぬしではない。となれば」
「父親だな。大口の習わし、犬神の儀を、試してみたくなったんだろう。呪術の背徳に魅了されたのさ。お前の血筋を毛嫌いするのも、背徳に抗えない自分を認められないがため」
 そう言った千早の姿が、祖母に重なって見えた。真神はどうしても気になることがあった。

「あのあと、どうなったんだろう。彼はあの場から逃げたのか。そしてロウエンは」
「それは私にも想像することしかできない。お前の父親はもしかすると、逃げたのかもしれない」
 式王子の角が武者の眼窩に突き刺さった。

「私と義母さんもあの日、あの集落を訪れた。お前を迎えに行くため。しかしお前はいない。浅葱さんちのおばさんに聞くと、山の奥へ行ったのではないかとのことだった。母は車を走らせた。山道で一台の軽自動車とすれ違った。私は気にも留めなかったが、運転手は、お前の父親だったのかもしれない。義母さんは気づいていたのかも。やがて私たちは、道のわきの木陰に倒れているお前を発見した。今思えば、見つけやすい場所に移動させたんだろうな」
「己の子を、見捨ておったのか」
 八尋が目をむいた。

「つまり、私たちはそのとき、真神を見つけることはできたが、ロウエンを見つけることはできなかった。ロウエンの骸が発見されたのは、また後日のことだ」
「首は」
 真神の問いに、千早は眉間に力を込め、
「斬られていた」

 八尋は生き埋めにされた母親の胎内で、真神の声を聞き、そして母親が首を斬られるその瞬間を、味わった。
「憎いな。憎いがしかし、もうどうしようもないか」八尋は頭上に広がる闇を見つめた。どこまでも虚無だった。「その呪い、未だに行われておるのか」
「さすがにもうない、と信じたいな。馬鹿げてるさ、人んちの犬を盗んで埋めて首を切って、何がおもしれえんだ」
 千早は吐き捨てるように言った。

 式王子と鎧武者の戦いは今なお続いている。式王子の横腹に深々と刀が突き刺さっている。武者の鎧もあちこち砕け落ち、何もない空洞を露わにしている。
「真神、あれはお前だ」
 千早が鎧武者を指さした。
「お前が西南京都にいる間、あいつが現実を生きていた。長宗我部の獣は、ずっとお前に伝えようとしていたはずだ。怒りや、苦しみや、悲しみを」
 真神が戦っていたのは、本当は西南京都の平和のためではない。

 恐ろしかっただけだ。あの獣に飲み込まれたらどこへ行くのか、本当は分かっていたから、見ないようにして、拒絶していただけなのだ。
「私が婆さんから聞いた伝承によれば、土佐国主の長宗我部氏は、犬神の絶滅に力を尽くしたそうだ。犬神憑きが裕福な庄屋を襲うなどしたため、国の存亡にかかわると危ぶんだのさ。土佐の一領具足は半農半兵、放っておけば己の立場にも響く。長宗我部氏は犬神信仰をしていた村々に火をかけた。老いも若きも構わずに、徹底して殲滅した。犬神は家系に憑くからな。しかし弾圧から逃れた人々が各地に秘術を伝え、犬神伝説は四国西部から広まっていったという」

 真神は思う。長宗我部の獣とは、犬神を根絶やしにしようとした長宗我部氏の執念を指すのではないか。彼らが身に纏う正義は、剥ぎ取って中身を晒してもなお正義と呼べるだろうか。それは誰の心にも起こりうる、波長の合わないもの、異質と認めたものを排除しようとする言動だ。

「真神」
 千早が一振りの刀を投げてよこした。漆黒の鞘に白い星がちりばめられている。屋敷の床の間に飾ってあった太刀だ。
「ケンピンゴマノハシ。荒ぶる精霊を切り鎮める太刀だ」
 真神はもう迷うことなく、刀身を抜き放った。

 鎧武者が腕を震わせ、式王子の横腹を切り裂いた。鱗の曼荼羅模様が二つに割れる。式王子の後脚が滑り、前脚が腐った瓜のように力を失った。鎧武者は式王子の角を掴んでもぎ取る。角の欠片が散り、式王子は真紅の塊を牙の間から吐き出した。瞳が光をなくして瞼の奥に沈む。満身創痍の巨躯は目を刺す閃光に包まれ弾け、真っ二つになった御幣がひらりひらりと力なく舞い落ちた。

 しかしそれでは終わらなかった。
 最後に式王子が吐き出した鮮血は、鎧武者の全身を真っ赤に染め、その装甲を見る間に溶かしていったのだ。鎧武者の重い絶叫が響き、全身が真っ黒な灰となってこぼれ落ちていく。
 鎧が完全に消滅したとき、降り積もる灰の真ん中に一体の影法師だけが残った。
 それは真神とそっくり同じ姿をしており、左眼だけが異様に赤い輝きを放っている。

 影法師が地を蹴って、ものすごい速度で迫ってきた。
 真神も太刀を構えて地を蹴った。間合いが詰まるのは一瞬だった。
 何も考えず、無心のままに刀を振るった。
 刃と刃が三合ぶつかり、火花が散った。
 影が独楽のような勢いで胴を薙ぎに来る。蜘蛛のように姿勢を低くしてかわし、すかさず斬り上げたが防がれ、ものすごい力で押し返された。態勢が崩れているところへ突進が来る。刃先を合わせ、弾いた。幾重にも切り結ぶ。刃と刃がぶつかるたび、影法師の淀んだ思念が流れ込んでくる。

 真神が逃げた現、引き受けなかった記憶、西南京都で抗い続けた、長宗我部の獣という、真神の影法師。この暗闇に浮かぶ朱の大橋で、ようやく出会えた。
 助けないと。さもなくば、影法師はなおもさまよい続ける。 
 俺は斬られてもいい。刃が閃く一瞬のうちに真神はそう思った。
 己の影が訴える思いを、この身に刻まねばならない。
 影法師の赤眼が、緑の残像をちらつかせながら迫る。真神の懐に踏み込み、突きを繰り出してきた。真神は避けず、甘んじて受けた。

 刃が己の腹を一息に貫く。灼熱の痛みが迸った。真神は歯をくいしばって耐え、そしてケンピンゴマノハシを、影法師に向かって突き出した。
 影法師の腹に、刀身が深々と埋まる。肉を裂き骨を断つ手ごたえが、真神の腕から全身に伝わった。
 静寂の中に立っていた。
 すべてが静止していた。己の鼓動すらも。
影法師は真神とまったく同じ顔で、疲れたように笑っている。真神も歯を見せて笑み返す。そして。

 よく生きたな。
 と言おうとして、しかし言葉は出ず、ただ両腕を前に伸ばした。
その腕に影法師を抱きしめたのかどうか、わからない。気付くと真神は赤鉄橋の上だった。背中に固い歩道が確かにあった。鉄橋の赤い骨組みと、千早と浅葱の顔が見える。その向こうには夜空が広がっている。
 何か大切なものが、自分のなかから消えた。胸に足跡をしっかり刻み付けて、去っていった。空に浮かぶナイフのような三日月は、冴えた光を切っ先からこぼす。欠けた体を嘆いているようにも、満ちていく未来を喜んでいるようにも見えた。

 それから何があったかといえば、何もなかった。相変わらず真神には夕刻の街が奥底から滲み出る情報に彩られて見え、薬を飲まないとその景色に侵食されそうになる。病院での診断にも目立った変化はない。
 強いて言うなら記憶がぼんやりと戻り始めている。胸をかきむしりたくなるような光景も多々あるが、いまの真神は心臓の奥にそれを受け止めることができる。
 深い霧が阻むようにわからない場面もちらつく。真神は霧を正面から見据え手探りで歩み寄っていく。
 西南京都での日々も、蘇る現実も、同じ重さで真神の心身を成しているのだった。

 何もない燃え尽きた街だと思っていた。その灰色の街に水彩の色がつき始めたように思う。
怯みながらも職業安定所に歩いていく決心がついた。端末の操作に戸惑いながら、画面とにらめっこして、自分にできそうな求人情報をプリントアウトした。
 屋敷に戻ると玄関で真奈とばったり会った。学校の制服ではなく、涼しげな風を纏った服装にサンダル履きだ。真奈は目をそらしたが、無言で通り過ぎたりはせず、じっと真神の前に立っている。伏せた視線は、真神が握る求人票に注がれている。

 深緑の庭で叫ぶ蝉は、残り少ない生を謳歌しているのか、嘆いているのか、それを知るすべはない。
 あのとき鉄橋の下に覗き込んだ暗闇は、いつまた真神を魅了するか知れないが、今はただ紺碧の川が悠々と流れている。
 その水音を想起しながら真神は自然と言葉を繰り出した。
「俺、どうしようもない兄貴だけど。俺のせいで真奈が嫌な思いをすると、俺も苦しくなるってわかったから。だから、曲がらないように生きていくから。まっすぐに生きていくから」
 許してくれ、とまでは言えなかった。

 蝉がふいに泣き止んだ。まるで苦しんでいた兵隊が息絶えるかのようで、力なく樹から落ち、脚でもがく姿を真神は想像する。
 真奈は眉間を固くしている。冷たくこわばった全身はすべてをはねつける頑なさだ。沈黙はどこまでも時を止めるかに思われた。しかしそれがふとゆるみ、熱せられた真奈の体温が伝わってくるのを真神は感じた。

 真奈のつま先が窮屈そうに蠢いた。
 そして彼女は唇をすぼめて抵抗するように言った。
「無理しないでよね。無理するのが病気に一番良くないんだから」
 真奈は熱気を押しのけて、真神の傍らを通り過ぎる。
 庭は黙したままである。
 視線をあげると染みひとつない青空が海のようだった。
 あの鮮やかな色にいつか届く日が来れば。
 そう願ったとき、蝉はようやく鳴くことを思い出した。

現実´7及び現実19

 ロウエンの骨を見つけたい、と真神は言った。千早はごみ溜めのような部屋で頬の片側をひきつらせた。
「それはお前、掘り当てるということか」
「無理かな」
「誰がどこに埋めたのかもわからないんだぞ」
 当然そう言われるだろうと分かっていたので、真神は視線を伏した。

 千早は小さく息を吐く。
「お前の気持ちもわからないではない。だがな、無理を言うな。もうロウエンが死んで十年たつんだ。今さらほじくり返してどうなる。胸に秘めて前へ進め」
 真神は小さくうなずく。
「うん、ちょっと言ってみただけだ。不可能だということくらい、俺にも分かってるよ。でも」
 すえた臭いがしている。死臭のように思われて、いい加減に片づけられないものかと真神は思う。思い切って臭気を鼻から吸った真神は、意を決して顔を上げた。

「なら、せめて供養したい。ロウエンと八尋たちの墓を建ててやりたい」
 千早の眼光が険しくなった。
「もう終わったことなんだ、真神」
「あの鉄橋での出来事以来、浅葱もロウエンのことを思い出した。でも、きっと気持ちにケリがついてない、元気がないんだ」
 ここしばらく影が射すようになった浅葱の笑顔が、真神には痛いのだった。

「乗り越えねばならないんだよ」
 千早は首を力なく振る。
「どうやって。俺はいまだにロウエンの魂が、俺の周りをさまよっているように感じる」
「それはお前の心残りだ。魂なんかじゃない」
「西南京都はこの現実と表裏一体だ。相互同時的に作用しあう」
「かもしれん、だ。お前は、西南京都からにじみ出てきた魂のようなものが、人に宿って動いてるとでも思っているんじゃあるまいな」

「なんだよ、手の平を返すみたいに」
「いいか真神、お前は西南京都という世界観に救われたかもしれんが、他の誰かが共有してくれるとは思うな」
「ヒツギさんやカナメにだって見えてるよ」
「なぜ彼らの見るものがお前と同じだと言い切れるんだ。一見食い違ってないように思うだけで、お前が見る西南京都と、彼らのそれは全く違うものかもしれない」

「釣瓶火だって」
「お前の眼を通してみた火と、ヒツギの眼から見た火は違う。当事者のカナメという嬢ちゃんが見た火もまた、まったく違うものだろう」
 真神は言葉に詰まる。確かにそうだった。釣瓶火が消える直前、カナメはその火の中に亡き母親の姿を見出した。それは彼女だけにもたらされた救いだ。
「なあ真神。ロウエンとの思い出を、そうやって記念碑にして残すもんじゃないよ。それはお前の中にじっくり染み込んで、やがてはっきり見えなくなる。それでいいんだよ」

 犬のロウエンがどんな顔をしていたか、真神はよく思い出せない。真神にとってのロウエンは、人の姿をして言葉も喋る。それは決して犬の魂が具現したのではなく、千早の言うように心残りの産物なのかもしれない。
 浅葱も囚われていた。ロウエンの死だけではなく、その胎内にいた八尋のことが、きっと記憶の底でしこりになっていたのだ。

「姉上の言うことはわかるよ。現実は帳尻合わせができるほど整然とはしていない。だったら、自己満足でも行動に移して、自分の手で整えるのはいけないことかな」
 千早が黙り込んだ。
「ヒツギさんの白狐といい、カナメの円周率といい、日吉の罪といい、世の中には決着がつかないまま引きずっていくものがあまりに多いよ。だから」
 真神の眼差しに力がしっかり漲っている。
「俺は無理なことを言ってるんじゃない。ごく当たり前のことを言ってるんだ。犬の墓を建てたい。それだけだ」

 千早はしばし難しい顔で腕組みをしていた。止まった空気が淀んでいた。真神は視線に熱を乗せてじっと千早に据えた。不意に肌がひやりとしたのは、良案を囁くようにして風が動いたからだった。途端に風鈴が乱舞し、それを待っていたと言わんばかりに、千早は腕組みを解いた。
「わかった。墓を建てよう」
 立ち上がり、押し入れの襖を開ける。中から仕事着一式を取り出した。真神は背中を向ける。後ろで千早が着替え始めるのがわかった。

「やっぱり姉上は分かってくれるよ」
「浅葱さんに電話しとけ」
「今日やるの? さすがにそれは」
「墓石は都合がつく。黄泉路の店にまっさらなのがあるはずだ」
「本当に?」
「さっさと済ませちまおう。墓を建てる場所だけどな、ロウエンの胴体が発見されたところにしよう。首はさすがにわからんから」
「人の土地でしょ」
「大丈夫だ。あの山はな、死んだ婆さんのものなんだよ。まったく頭が上がらねえや、あの婆あには」

 浅葱の都合がつくかどうか心配だったが、ロウエンと八尋の墓を作ってやりたいと真神が言うと、電話の向こうから勢いのある声が返ってきた。
「私もそうしたほうがいいって思ってたの。ありがとう」
 たとえ見ている景色が違っても、通じ合う気持ちはあるはずだ、と真神は思う。
 街なかで浅葱と合流して黄泉路骨董店に向かった。
 店を訪れた千早に対し、ヒツギは「お久しぶりです、姉御」と頭を下げた。いったい学生時代に何があったのか知らないが、師に対する弟子のような振る舞いだった。

 店内にはカナメと日吉もいて、ヒツギはしっしと手を振った。
「お前ら、さっさと帰れ、このお方をどなたと心得る」
「ああ、いいよ別に。墓石もらうだけだから」
 千早がそう言うと、カナメの瞳に疑問が浮かぶ。
「何それ、墓石なんてあるの」
 話が面倒くさくなりそうだと思ったのか浅葱自身が、むかし飼っていた犬の墓を作るのだ、と告げた。

 そういうことならば手伝わないわけにはいかない、とカナメと日吉は立ち上がった。「僕は猫より犬派なんだ」とカナメが言い、「俺は猫がいい」と日吉。「絶対に犬だ」とカナメは譲らない。猫だ犬だと言いながら、重い墓石をみんなで店の奥から運び出した。小ぶりだが一般的な墓石である。カナメが「犬らしくもない墓になるね」と言ったのも当然で、光沢のある御影石は美しく切り出されたもので、人の霊を祀るものとしても遜色がなかった。

「何でこんなものがあるんだ」
 真神は疑問を呟かずにいられなかった。
「知らねえ。昔からあったから、使い道ができてちょうどいいや。代金はいらねえよ」
 ヒツギはそう言って墓石にはたきをかけた。
カナメが四角柱の墓石をいろんな角度から見て、「あ、でも名前がないよ」と言った。ヒツギも失念していたようで、「ブラストマシンとか使うんだっけか。さすがにそれは俺んちでも無理だ」と頭をかく。
「いや、いい」と真神はきっぱり言った。「名前はいいんだ」

 ここへ来るまでに浅葱とも話し合ったことだった。ロウエンと、そして八尋の死に決着をつけることが本来の意味なのだ。遠い夏の思い出は自分たちとともにいつか消える。あとには墓石が残り、それもやがて朽ちゆくだろう。
「たぶん前に進みたいんだと思う、私たちは」
 浅葱はいつものように、しかしいくらか気丈な笑顔を浮かべた。

ヒツギが運転するバンに墓石を積み、みな乗り込んで出発した。
 市街地を離れ、長い公道を走り、峠を越えやがて山深い集落へ。車窓を過ぎてゆく風景は真神の脳裏に幼い日の夏を蘇らせた。それは強烈に焼き付いたかと思うと、次の瞬間には薄らいでいくものでしかない。
 山沿いに家屋がぽつりぽつりとあるだけの集落は、閑散としてずっと時が止まっていたのではないかと錯覚する。

 亡き祖母の家へ続く坂を、横目に通過するのは瞬く間であった。
 道の舗装が途切れ、バンは車体をごとごと揺らしながら山奥へ分け入った。
 過去に聞いた小川のせせらぎが息を吹き返すかのようだった。
 車内は大自然の鼓動に負けないほど賑やかだ。カナメがやけにはしゃいで、それをヒツギが茶化す。日吉がたしなめ、浅葱は微笑む。そんな車内を木漏れ日が過ぎていく。

 ヒツギが学生時代、千早にラブレターを送ったという話になり、千早はそんなことあったっけ、ととぼけていた。いいなあ、僕もらったことないよ、とカナメが意外にもうらやましそうだった。そういえば私ももらったことあるよ、と言ったのは浅葱で、誰からもらったのか真神は非常に気になったのだが、尋ねることはできなかった。
 とりとめのない会話を打ち切る車の停止が、真神には唐突に思われた。

「ここだ」
 と千早が言った。どこだ、というのが真神の実感だ。まるで人の営みを草木が追い越したかのように、その風景は長い年月の経過を真神に思い知らせた。
 車から降りた千早が迷いのない足取りで道をそれていく。真神たちは墓石を担いでその後を追う。千早が指さした草むらの一点に、墓石をそっと下ろした。
 まるで墓石は、ずっと昔からそこにあり続けたかのように、風景に馴染んで見えた。千早が小さい牛乳瓶を取り出して、中に線香を立てた。白い煙が真神の脳に囁きかける。何を囁いているのかはわからない。ただ、それが懐かしい人を弔う香りであることだけわかる。

 誰からともなく名もない墓石に手を合わせた。
 それはとても、とても不思議な光景だった。真神は信じた。今ここで黙している自分たちの想いが、どこかでつながっていることを。
 瞼の裏に広がる朱い闇のなか、ロウエンと八尋の背中が見えた。亡き兄弟の無念のぶん年を取った初老の男が、年若いまま止まった女性をいたわりながら歩いていく。手をつないだ二人の姿は遠い彼岸へ吸い込まれ、静かに消えていった。

 ありがとう。そう唱えた。ロウエン、八尋、長曾我部の獣。そして祖母や千早や真奈、現で助けてくれた多くの人へ。
 目の奥が沁みるほど熱い。
 ゆっくりと、合わせた手を離し、瞼をあけた。
 太陽をいっぱいに浴びた夏草が、今まさに産声を上げた。
 忘れられた夏が追いついてきたのだ。
 
〈了〉

 読み終えた原稿を真神が整えているとき、風呂場のほうから笑い声がした。二人とも風呂から上がったようだ。
 ドアの向こうからドライヤーの音が聞こえてくる。
 真神の瞼は重かった。原稿の表紙に『西南京都犬神使い』と題されているのをじっと見つめる。ポテチはまだたくさん残っていた。それを素早くつまんで咀嚼する。
 タモツとワダチの明るい話し声がくぐもって届く。
 真神の口中では無心にポテチが噛み砕かれる。
 バリバリバリバリと。

現実20

 千早の顔から滴が垂れ、壺に溜めた水へ落ちている。
 脳裏では混乱を整然とした形へ組み直していた。水中で開いた目に駆け抜けた西南京都の光景、そのなかに気になる断片があった。

 赤い五芒星の中心に猟銃を背負った女傑があぐらをかき、口もとに指を立てて何かを唱えている。
「あれは」
 魔人の猟師オカネ。
 背後の壁は一面、美しく彫られた神棚だった。周囲に立てられた蝋燭に陰影を濃く浮かび上がらせていた。
「間違いない。婆さんだ。若い頃の写真に瓜二つだ。婆さんが言ってたことは本当だったんだ」
 真神の祖母は西南京都を知っていた。夢のように忘れてしまいかねないそれを、あまりに鮮明に。

『わしはそちらで猟師をやっておる』
金歯を光らせて婆さんは言ったものだ。
『孫をあちらでようかわいがったものだ。しかし苦しみも努力も、報われんかった。病にかかり、将来も見えぬ。二人の朋友も、一人は視力を失い、もう一人は』

 婆さんはため息まじりに紫煙を吐いたものだった。
 間違いない。
 千早は顔を上げた。
「換魂の法だ」
 考えをまとめるため声に出さずにいられなかった。

「寿命を時間に引き換える呪術。婆さんは、オカネさんはそれをやったんだ。なんて完璧主義なんだよ。何がそれほど」手で顔を拭う。「十年だ。こっちの婆さん自身の寿命と引き換えにした十年を、巻き戻した。だから婆さんの予言は、ここに来て外れた。因果が変わったんだ。なんてこった」

 千早は立ち上がる。
「何もかもうまくいくはずねえだろ。そりゃあ、つらいけどよ、でも」
 思わず畳を蹴りつけるように踏んでいた。
「一生懸命、やって来たんだ、真神は。現実でも問題ばかりだったけど、それでも、あいつなりに」
 千早は巫女服の仕事着のままアパートの扉を開け、黄昏のなかへ飛び出した。

 夕刻になって真神たち三人はホテルから出てきた。
 それまで三人は広いベッドに横たわり、思い思いにどうでもいい話をしていた。
 タモツは書くことしかできないと言い、ワダチは働きたくないと言い、真神は生きたくないと言った。

 テレビでセックスドラマが映るというのでワダチが電源を入れかけたが、タモツが「やめろやめろ」とリモコンをひったくった。
 真神は染み一つない天井を見上げてタモツに尋ねた。
「タモツさん、あの小説で、婆さんは結局、死んでしまったんですか」
 タモツは「んー」と唸ってから、「どうだったかな。助かったんじゃなかったかな。いずれにせよ主人公が十八歳になる前に、亡くなってるけどね」
 しかしこのまさにある現実で、祖母は十年前に亡くなっているのだった。

 真神は天井に両手を広げ、その指の間をわけもなく見つめていた。
 時間と切り離されたホテルから出ると空は紺色と化し朱色の灯明を西に映している。真神は無言で原稿をタモツに返した。
「どうだった。君の中の何かは変わったかい」
 タモツの期待に、しかし真神は首を横に振った。
「どこか、良くなかったかな」

 真神は蝉の鳴き声を聞きながら黙っていたが、口は自然に開いた。
「俺は、無責任な優しさは人を傷つけると思います」
 ワダチとタモツはじっとその言葉の解を待っている。
「言いたいことは、わかりました。家族愛、絆、友情、繋がり、そして立ち直る。いい人生じゃないですか。いったいこの少年の何が、それほど書くに値するほどの物語なんですか」
 烏が電柱から飛び立つ音がした。真神は続ける。

「わからないです、俺には。不遇な少年を救いたいのは、あんたの願望でしょう。実際の現実で、その手で、救えない苦しみを見つけに行ったことはありますか。なんで物語を書く奴は、嘘ばかりつくんですか。安い希望、安い繋がり、安い愛。いかに生きるべきか、あんたらは一段偉いものにでもなったように、押し付けてくる。作家の価値観を否定する奴は、卑俗な悪人として描かれる。いつからそうなったんですか。あんたの対極にいる奴は、あんたより人生経験がなく、あんたより劣る、この世の悪なんですか」

 俺がそれなのか。そこまでは言えない。タモツは言葉がないようだ。風が吹いてゆっくりと路傍の草を揺らした。

「俺が小学生のころ、大切な、とても大切な人が、学校でひどいいじめを受けました。その人は自殺未遂をして、警察まで動く事態になった。いじめをしたグループの五人が個別に聴取を受けました。その証言は県の新聞にも載った。各人の語るところは、互いに相矛盾し、全員が嘘をついていることが見て取れた。連中は自分の保身にばかり焦り、囚人のジレンマの実験でも見てるようだった。あまつさえ、原因はいじめられたその子と家族にもあると」

 それを受けて自分がどのような行動に出たか、真神は口を開きかけて、しかし自省の言葉に転じた。
「俺は間違えた、もっと気を長く持たねばならなかった。あいつが本当に求めていたのは、俺がそばにいて、ただ話を聞くことだった」

 思わず指が握り込まれていた。
「あんたの小説で思い出したのは、こんなところだ。ろくでもない、ろくでもないことばかりだ」
 気を沈めるためアスファルトから上る熱を吸って吐いた。
「俺の現状を見てほしい。あんたの作品を読んだところで、何をどう変えればいいのか、これ以上何を頑張ればいいのか、教えてほしい。その紙束に綴られているのは、呪文のように、思えてくる。そう、現実の『孤独者』を必ず傷つける呪文だ」

 それ以上は言葉にできなかった。言葉にすれば必ずタモツを傷つけると思ったからだ。真神は「すみません」と呟き、うつむいたまま背を向けた。重い足で歩きだす。
「真神君!」
 思いがけず背後からタモツの声がしたが、足は止まらない。
「僕は、物語の力を信じている。力及ばなかったなら、僕の落ち度なんだ。どんな人間にも生きる甲斐があると思っている。忘れないでくれ」
 真神は陰った道をゆらゆらと歩き去った。背中をずっと見つめている二人のことも、もうわからなかった。

 気づけば高いアパートの屋上にいた。
 縁に腰かけて足をぶらつかせている。
 薄闇の高みを気にかける者もいまい。
 真神は口ずさむ。

Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king`s horses and all the king`s men
Couldn`t put Humpty together again.

 込み上げてくる眠気はタモツにもらった睡眠薬を飲んだからだ。
 この態勢で睡魔に溺れれば、頭部はがくんと垂れ、その勢いで転がり落ちることができるだろう。
 もしこれが物語ならば、ここで誰かが止めてくれるはずだ。
 しかしそんなことは起こりえない。期待とは個人のうちより沸く身勝手な願望であり、他者と共鳴することはない。

 意識が不意に白くなった。
 ぐん、と頭が重力に引かれ、気付いたとき、尻は屋上の縁からずり落ちていた。
 終わる。
 これが。ただの人生だ。刹那の間にそう悟ったとき、右手が上に引っ張られた。
 落ちかけた意識が覚醒し、見上げると己の右手を掴む影がある。真神の両脚は宙ぶらりん、その誰かの支えで、辛うじて落ちていない。
 焦点が薄闇に結び、顔が見えた。
「真奈」

 呟いていた。妹は落ちかかった兄の右手を掴み、上半身を乗り出している。細腕で維持するには無理があり、顔がきつそうに歪んでいる。その目じりからこぼれた涙が真神の額を打った。
 おいおい、お前まで落ちてしまうぞ。
 真神は場違いに笑い、しかし死の間際に見る幸福とはかくも美しいものかと感動した。半ば死に際の幻を見ているのかもしれず、ぼんやりした頭で真神は真奈に別れの言葉をかけた。
「もし、生まれ変わりがあったら、俺はまた、お前の兄貴になるよ。次はもっと、いい兄貴になる」

 真神は意図的に指の力を緩めた。ずるりと真奈の手から真神の手が抜ける。
 浮遊感。いや落ちているのだ。
 アパートのベランダをひとつ過ぎ、ふたつ過ぎ。
 なんだ。結構いい人生だったな。
 真奈が助けに来てくれた、それだけで。
 運命の秤は吊り合った。

現実21

 白一色の世界だ。
 オカネさんがライフルの銃口をこちらに向けて構えている。
 真神の右手には一振りの刀、ケンピンゴマノハシ。
 オカネさんは静かに語りかけてくる。

「長宗我部の獣の依代よりしろにして、西南京都の犬神使い、大口真神。そちらの夕闇は晴れたか」
 真神は剣線を銃口に合わす。答えた。
「逢魔が時はもう見えない。日は天文の法則に従い浮かび、そして沈む」
「そうか」
 オカネさんの銃口にぶれはない。真神は尋ねる。

「なぜ俺に二度もこんなものを見せた」
 少しの沈黙、オカネさんは答えた。
「お前を見かねた」
「そうか」
 真神はうなずいた。オカネさんの指が引き金にかかる。
「お前はまた西南京都に闇を呼ぶやもしれん。お前を構成する情報そのものを」
「消し去る?」
「そうだ」
「スパルタだな、婆ちゃん」

 真神は俊足で間合いを詰めた。銃声が響くが、指の動きを瞬時に見切っていたので態勢を低くした。振った剣はしかしライフルで受け止められる。オカネさんの口の端が刻むように笑んでいる。

「そういうところだ、そういうところだぞ真神」
「一太刀くらい、浴びせないと、なんかな」
 しばしつばぜり合いをしていたが、互いに呼吸が合ってふっと力を抜いた。
 オカネさんは銃を下ろし、真神も刀を下ろす。オカネさんは真神を見据えて言った。
「悪かった。よりよい未来があると、思ってしまったんだ」

 真神は刀を鞘に納める。答えた。
「一度きりさ」
「そうだな、なまじ力があると、余計なことをしてしまう」
 そのとき真神は自分の左手に熱を感じた。
「なんだ?」
 オカネさんはふっと息をついて笑う。
「まだまだ先は長いぞ」
 オカネさんの姿が霧のように薄らいで消えた。

 誰かが真神を呼んでいる。
 目を閉じて、その声を聞こうと努めた。
 閉ざした視界の闇にうっすら赤みが差し、真神はようやく呼吸というものを思い出して深く吸った。瞼がゆっくり上がる。

 病院のにおいだ。
 天井は、白い。右手の窓から光が射している。
 眠っていたのか。
 左手を誰かが握っている。ぼやけた輪郭が次第に像を結ぶ。
「ああ、真奈」
 真奈は今も真神の手を握っていた。
「お兄ちゃん」
 鼻のつまった声でそう言ったかと思うと、覆いかぶさってくる。

 寝台の周りには多くの人がいた。
 ヒツギ、カナメ、日吉、タモツ、ワダチ。浅葱久美、真奈、式王子、そして千早。
 彼らは口々に安堵を漏らしている。
「死んでない」
 真神は呟いた。ヒツギが右手で真神の額をデコピンした。
「ったりめえだ。みんなで布広げて、受け止めたんだよ。それでもお前、口と鼻から血ぃ吹いてて、大変だったんだぞ」

 真奈は真神の胸でむせび泣いている。その頭に手を置いた。
「悪かった。ありがとう」
 実感は追いついていない。
 医者が真神を診察し、もうしばらく安静に、と言い置いて出て行った。
 それからは、口々に飛ぶ会話を聞き取るのに一苦労で、真神はろくに言葉を返すこともできない。とにかく大変な一夜だったということだけ知れた。
 無事が確認できたことで緊張の糸がゆるんだのだ。

 ヒツギは「俺、店番あるから、元気にしてろよ」と片手を上げて去った。カナメも「もう迷惑かけないでよ」と去る。日吉は「無事でよかったす」きょどきょどと礼をして出て行く。タモツとワダチは「ああ、本当に無事でよかった。僕の小説の因果が、君を死なせたらと思うと、気が気じゃなかった」「タモツもちょっと薬飲もうね。朝ごはん食べに行こ。じゃあね、若者」手を振って帰っていく。

 浅葱と真奈と千早と式王子が残った。
 式王子が無表情で呟く。
「オカネさんから伝言だ。換魂の法は、もう二度と使わない。以上」
 彼は自分の右手首に爪をあて、鋭く引いた。御幣に戻り、ひらりひらり舞い落ちる。

 巫女服の千早からは少し汗のにおいがしている。
「まあ、無事で何よりだ」
 浅葱もほわっと笑い、
「もう飛び降りちゃ駄目だよ。鎖つけちゃうよ」
 その言い草に真神はついつられて笑ってしまう。
「能天気に笑うな」
 涙目で真奈が睨んでくる。

 真神はぼおっと天井を見つめ、脳裏には目にしてきた様々な光景が駆け抜ける。
「ちょっと聞いてるの」
 真奈に胸ぐらをつかまれそうになる。
「あ、ああ。ごめんな、真奈」
「うん。私もごめん」
 ふと外から犬の鳴き声がした。
「ロウエン、八尋」
 と呟く。それは既に幻だが、心に焼き印のように刻みついて、二度と離れはしない。

 朝日の白さに目を細め。あまりに眩くてそらし、寝台の横、棚に置かれた梨を見つける。ざらっとした皮の内側のみずみずしさを知っているから、自然と喉の渇きが意識された。
「梨、食べたいな」
 そう言って揺らぐ視線は、千早、浅葱、と移って、真奈に定まる。
 小学生のとき、真奈がいじめられて、自殺未遂をして、真神は学校に木刀を持って登校した。主犯格の五人、どうしたろうか。責任逃れをした教師も。

 ああ、俺は馬鹿だった。
 しかしそれはこの場で口にしてはならないもので。ただ妹の頭を愛しくなでる。
 真奈が鼻をすすりながら果物ナイフを取り、梨を剥き始めた。皮はひとつらなりの螺旋を描き、白く締まった果肉が朝陽に輝いた。
〈終〉

西南京都犬神使い

西南京都犬神使い

高知県西部の地方都市とその裏側の異世界、西南京都の物語。 西南京都にて大口真神は犬神のロウエンと共に妖を討っていた。現在は記憶を失い、病者となって現実で暮らしている。真神の姉、千早は陰陽道に連なるいざなぎ流を修めている。千早に導かれ、真神は西南京都を今一度、その目にすることになる。 過去に何があったのか、そのケリはつくのか、真神は葛藤する。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-09-14

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著作権法内での利用のみを許可します。

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