主体
共感
人が発する声は身体の内側で起きる複雑な響きを経た結果であるが、その身体は意識の強い影響下にある。プラシーボ効果に見られるように、意識が思い込んだとおりの働きが人の身体で生じ得る。ならば、脳内で起きた感情的反応に歌い手がその身を委ね、伝える思いを歌声で一つ残らず表現しようと努める、そのときに聴き手の鼓膜から伝わる空気の振動が物理的事象という事実を超えて、歌い手の気持ちを聴き手の脳内で想像させ、体感させる最も有効な手段となる。結果、聴き手が歌い手の感情に共感することがあるのだと考えることは、単なるセンチメンタルな夢想と一蹴することは難しいと考えるきっかけにはなる。
その人でなければこんな歌は聴けないと(個人的に、自分勝手に)思う歌手の歌を私は好む。例えば、YUKIさんの歌が私にとってそうである。坂道のアポロンをアニメ化するにあたり、主題歌となる「坂道のメロディ」をYUKIさんにオファーした理由をインタビューで聞かれた菅野よう子さんの答えをよく覚えている。菅野さん曰く、YUKIさんは音楽で生きていると思える人だから、彼女しかいないと思ったのだと。
歌の技術は間違いなく重要、しかし技術的に優れていれば十分という訳ではないのは厳しい音楽業界の実情が物語る。ヴィジュアル、流行り、新規性その他諸々の売れるためのプラスアルファが考えられるが、そこに文字通りに歌に身を捧げられるという技術的な表現としての献身を一つの要素として加えることは出来ないか。
思いを十全に伝える術、そんな奇跡を起こせる歌い手の歌はその人ならではのものとなり、唯一無二の存在へとその人を押し上げる。その理想に向けて邁進する生き様の一端を録音ブースで立ち向かう彼や彼女が垣間見せているのだと思い、拝見できる機会に感謝している。
技術と心
収蔵作品であることから、二年前に開催された展覧会で拝見できたものであったことは事実である。しかし、それでも私が思う速水御舟さんの絵にある良さ、細密な自然描写と共存するあの近しさや温もりに変わりはないし、それ以上のものに気付ける変化が鑑賞する側に起きていて当然の年月として先の二年は十分な時間だと思う。
前回の展示で拝見したときはそれ程良いとは思わなかった「翠苔緑芝」を今回鑑賞してみて、双方の屏風全体を眺めて分かるのが構図の面白さだった。それも部分、部分の力強さに負けじと鑑賞する視線を全体に引いていくことで明らかになった速水御舟さんの絵に宿る命の一側面としてのユーモアである。
季節を謳歌するアジサイの茂みに近寄ってしまう好奇心が葉叢に隠れた花弁を見つける始まりになって、自由な二羽の赤い目を見つめる。この二羽に視線を送る点で私と同じである黒猫との関係がここで生まれ、幹の色を濃くするビワの木に表れるような成熟と若々しい緑に染まった若木が生きる地に二本足で立てる。保ったままの好奇心を振り回せば、奥に根付く一本とその手前で咲き誇る赤い花々の位置から屏風の外に広がっていく景色はある。描かれたものの配置に忍び込む対照によって、私の意識はより屏風の奥に広げられる。そこで踏ん張り、後退して全体を見ればアンリ・ルソーが描く世界に感じて止まない味わいのある、あの惚け方があるように私には見えた。そこでご登場とばかりに意識に働きかける光、当たる照明の角度によって背景の金色の輝き方が見事に変わる。その様が華美であり、豊かで好ましい。結果、生まれる絵の全体に飾れる形容の数々を持て余す。それらを両手で抱えて、私はぽかぽかと温まる心持ちのままにそれらを見つめ続ける選択をした。私の名前が忘れられても、この絵の良さは後世に評価されるだろうと言ったとされる速水御舟さんの笑みと自信を思い浮かべて。
山種美術館にて開催中の『速水御舟と吉田善彦』展の良さは、速水御舟さんの高い技術に対するアプローチにあると感じた。速水さんご自身の言葉だけでなく、使われた絵の具に対する分析結果や吉田善彦さんの日本画家の立場からの解説と弟子として交わした個人的な思い出を添えて「速水御舟の絵」の一端を知れる。興味深かったのは速水御舟さんが自分は主観的に絵を描くことを好んでいたと語る言葉から続く連想だった。仲間からの指摘で葉脈の一つ一つに迫る程に写実を徹底する修練を積んだ速水御舟さんは、それがとても苦しかったが後々の絵に存分に活かせたと述べた。技術の大切さを指摘する実感のこもった言葉だと思う。しかし、その意図は描きたいものを最後まで描き切るためであった。そこに描き手の主観が含まれている。感情が狙いに定められている。絵は心だといい、弟子である吉田善彦さんはどれだけ写実に描いても先生の絵は嫌らしくならないと解説されていた。すっと胸に落ちる言葉だった。描かれるのは画家の眼差しという言葉にある陳腐な響きなどどこ吹く風だ。この言葉こそ、「速水御舟の絵」に合っていると私は思う。例えば、「秋茄子」の葉の上に止まる存在の愛らしさに気付くのは最後でいい。描かれた佇まいが実を結ぶまでに生きた時間を切り取ったその思いに、私は感動するのだ。
あの炎舞を暗室で見る衝撃は本展覧会でもハイライトに挙げられる。あの危うさも私たち「人間」に迫る恐ろしさに写って仕方ない。火焔様式の根源から立ち上る熱、それに群がるものの全てに身を滅ぼす程の思いに惹きつけられる人の性(さが)が宿っている。
四十歳という若さで夭折した速水御舟という画家が目指したものの息つぎは深く、永いということを改めて思い知る。
不勉強な私は吉田善彦さんの絵を見たことがなく、したがって吉田式の技法のこと及び吉田式で描かれた絵の情緒を知らなかった。だから余計に本展覧会で拝見できた「尾瀬三趣 草原の朝・池塘の畫・水辺の夕」が見れたことは何より嬉しい経験となった。
もみ紙に一度描いた絵の上から金箔を貼り付け、さらに彩色することで風に吹かれたように金色(こんじき)が線状に走る効果が見られる吉田式が作品にもたらす趣きは、対峙する自然にマントの如く覆い被さった幻想でなく、人の身の内側から発せられる情緒として私には写った。消えゆく儚さとはまるで違う、見る者の心向きで何時でも何処でも同系の景色に出会えるのだと確信できる温情が、遠き自然に寄り添える思い方を教えてくれるようで有り難かった。諸行無常に流れる諦念に最後は合流するかもしれないその心情には、昔を懐かしめる優しさが水底を転がる小石のように存在して流れるものを透明にしている。だからその思想は過去を無意味にするのではない。それを取り扱う今において加重し過ぎない、軽減し過ぎない等しさを人の心情に落とし込む一滴となるのだろう。そこから広がる波紋をもってこの世を見るのもまた面白い。そんな境地には未だ至れない若輩者がこうして語ることを恐れる、しかし憧れの眼差しを向けるその光景を想像させる力が画面に広がっていた。
私が日本画に興味を持つ契機になった速水御舟さんの絵、そしてその薫陶を受けた吉田善彦さんの絵によって駆り立てられる。もう一歩、そこに踏み込んで日本画を知ってみようか。その選択を子供のように迷うことを味わっている。
「私」のために
もう一度、振り返ってみよう。
私という作業部屋を脳内に作るために打ち込まれた最初の衝撃が私の身体(体内で正しく脈を打つ鼓動から始まる全て)によってもたらされた。胎内に浮かんでいるときからか、はたまた泣いて生まれた産声によって決定づけられたか、私という人の制限によって与えられた刺激により認識に入ったひびは唯一のものだと思える。
この記述も人の身体に由来する経験だから一般的に語れる。しかし、事実としてひび割れた経験は各個体に一回だけ起きた。そのひび割れの形や大きさが人の身体機能に基づき、どのようなものにしかならないかという限界を一般的に論じることが出来たとしても、ひび割れは消えない。一般論では片付けられないものがここに見出せる。
私という「認識」を問題にするのであれば私以外のものとの区別を要するから、他者の存在を必要とする。この他者は同じヒト科に分類できる個体間で行う比較であり、意味を用いた意識的な作業となるこの比較は私という作業部屋が生まれた後で行い得る。この点で、私が「私」という実感を抱くのに他者の存在は決定的でない。実感という点において私と異なる他者は「私」というひび割れを改めて確認できる存在でしかない。他者という存在は、ひび割れて生まれた作業部屋の中で意味をもって編む「世界」で生きる「私」を裁断し、再び「世界」を編む作業を私に強いることで私の「世界」を拡げ又は変える存在として欠かせないものだ。
学ぶことで知れる「私」というものも考えられる。しかし、喩えれば生まれた作業部屋の内装を豊かにするアレンジは唯一の私を育てる行為として結果的にひび割れた「私」という実感を得られても、育てられる対象としての「私」はこれに先行して存在している。したがって、学んで知れる「私」という存在は意味で編む「世界」とともに部屋の中から拡がり又は変わる「私」として位置付けられる。
以上のことから、作業部屋で行われる情報処理のタスクは「私」=「世界」を広げるために必要で、しかしそのタスクを可能とする作業部屋=私であり、そこに生まれている「実感」が私はこの世界に二人といないという記述を、「私は私」という記述を人一般が述べる言葉としてでなく、私の事実を述べる言葉として記述することを可能にする。
したがって、「私」を私と実感できる固有のもの、唯一のものはひび割れた事実として存在する作業部屋=私と考える。
と、ここまで書けば嫌でもかの歴史的哲学者の言葉に向き合わざるを得ない。「われ思う、ゆえにわれあり」。
一線で活躍される哲学者が書かれた哲学の頁を捲る手を止めて、私なりに考えるために書いてみたこの文章。足りない知識及び能力で記した内容を踏み台にして(自重をまともに支えられない根本的誤りで四つ脚がガタガタにガタついても)、その問題意識に可能な限り接近できるか。哲学者の問いにさらに問いを立てるのが哲学の醍醐味だと記された序文の言葉が土台となる。
淡い期待を抱いて、私が知りたい「私」に迫れる問いを立てて行きたい。
主体