頑張れ、ポン吉くん

ワカメ

不安に思うこの心だけは、本物だ。

 黒縁のメガネかけて、しきりに自分の寝癖を気にして、街の窓街の窓に自分の姿を写しては、ニヤニヤ笑い、自分の鼻の頭の汗を拭う、ニキビ跡だらけの頬。

 「先生、困るんですよ、嘘つかれちゃうと」

 先生、ポロシャツにジーンズ、ナイキのスニーカーを履いて、黒いマスク、その黒に一体なんの意味があるのか、いや、意味なんかないか。そもそもこの人が意味のありそうなことを言ったことがあるのか、ない。僕の知っている限り、ない。
 そんな僕もこの人を先生と呼びながら、先生と思ったことは一度もない。その点では、僕も嘘を付いている。
 嘘のつきあい騙し合い。

 「いや、嘘はついてないよ、長い目で見れば」

 長い目。
 この人は、未来に起こることを知っているのか。
 

 雨が上がった。道路からジメジメと湯気がたっている。どんよりした空気が、首元に絡みつく。
 「水も食料もないのに戦えって言うんだもの、困ったもんだよな」

 隣のやつは人肉まで食って生き延びたって言うのに。
 まるで南の小島に送られた昔の日本兵みたいなことを、大真面目に先生は語る。僕は、一刻も早く、先生から企画のコンテを貰わなくてはいけないんだけれど、多分、出来てないんだろうな。前代未聞、すっぽかす気なんだろうか。

 「一つ話はできてるんだけれども」
 だけれども、と僕は先生の部屋の前で立ち尽くす。
 絶対企画通らないだろうな。戦時中の言論統制も真っ青だから。
 バタンと扉が閉まる。後ろの電線の上で、カラスが鳴く。

 僕は当てもなく彷徨き始める。あんなこと言いつつ、先生は多分なんとかしてくれるだろうと、思いながら、街のショーウィンドウの中を、あっちに行ったりこっちに来たりしながら、色々覗き込む。

 恋の話をしてはダメ、悪いことの話をしてはダメ、あれもダメこれもダメ、気づいてみたら、何のリアリティーもクソもない、御伽噺が出来上がって、悪い狸を見つけては、イケメン牛若丸みたいな主人公が退治しにいくだけ、よかったねで済む話を、永延、原稿用紙何百枚も無駄にして書き綴る、先生は、世の中の人に、一体何を期待して、苦労して、こんな無限地獄みたいな世の中を生きているのか、時々不思議になるのだけれど、ああ、ひょっとするとこれも嘘なのか。
 ゆくゆくはお金にしたいのかもしれない。お金になったところで、誰がみる、誰もみない。
 フォックスマガジン。企画さえ通らないだろうと思ったけれど、それが案外、通ってしまって、じゃあ、締め切りまでに書いてくれ、の段階で、コンテが仕上がりません、という感じ。
 それを元にして、漫画を描こうというとても物好きな人がいて、その人も、待ちぼうけ、何にも話が進まず、土壇場になって、先生は逃げたんじゃないかと、そこら中から聞こえてくる始末。


 困ったものだ。すでに雑誌の発注はしてしまったから、うん百万の金が飛んでいく。翼が生えたみたいに。ものの見事に。


 空。
 色即是空、なんて物ではない。から。すっからかん。


 空という字に色がついたら、どんな色なんだろうと考えていて、堪えきれずに含み笑う。
 笑っているのがバレると怒られるから袖で口元隠し、なんとか平静保とうとする。
 先生、どうするんですか。


 どうするんですか、と心配する自分の思考だけは、本物だと思いたい。デカルトは昔、確かなことなど何もないことを悟ってしまって、それがある意味、今ある哲学の根本になったのだけれど、どうするんだろうと不安に思うこの心だけは、本物だ。大切にしたい。


 大切にした上でやっぱり金は貰わなければいけない。お金がなければ何もならないのだし。何も叶わなくて貧乏で、なんて、悲しすぎる。


 「まぁ、そんなに必死になってもしょうがないでしょ、大丈夫だよ、どんなに頑張ったって、幸せになんかなれないよ。俺が保証する。だから安心して、堂々と胸を張って生きてくれよ」


 何も思い浮かばなかった、と、血みたいな夕焼けに染まった外の景色の中で、先生は言った。この時ばかりは、終わったと、唾を飲んだ。

 「何も思い浮かばなかったから、それなりのものしか描けなかった。ごめん。漫画家の人にも、そう言っといてよ、次は絶対頑張るから、今回だけは、何回目かわかんねぇけど、今回だけは、とりあえず今回は、見逃してくれ」

 表紙の紙には、頑張れ、ポン吉くん。
 終わった。
 漫画家ブチギレるだろうなぁ、胃が痛い。


 先生は、僕の肩を割と強めに叩き、頑張れ、ポン吉くん、と呟く。
 ぽん吉くんとは、僕のことか。何だか胃の底がムカムカしてきた。


 玄関を出たところで、世界が歪んできた。ムンクの叫びみたいに、水面がグルグル渦を巻いて見える。

 終わった、と両の頬を手で押さえながら、僕は呟いた。

頑張れ、ポン吉くん

頑張れ、ポン吉くん

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-09-12

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