あの子が空を見上げる理由
序章
約束を破ってしまった。
気がついたら朝になっていた。
始発電車のドアが開くと、転がり出すように家へ向かって走る。早朝の空気が冷たく頬をすり抜け、吐く息はかすかに白い。
昨日、生まれて初めて酒を飲んだ。頭が割れるように痛い。みぞおちの辺りがむかつく。地面を蹴る振動で、胃液が上がってきそうだ。その上、家の門までは緩やかな上り坂が続く。
正人は一度足を止め、体をくの字に折り曲げて荒くなった息を整えた。夜の間に雨が降ったのか、アスファルトが湿っている。
十九歳の誕生日、母はケーキを買って帰りを待つといっていた。
「昔みたいにごちそうを作ってあげられなくてごめんね・・・。」
寂しそうにつぶやいた母の美しい横顔がちらつく。
心配しただろうか。悲しい気持ちで、眠りについたのだろうか。最近やっと、日中床から出られるようになったというのに。
正人は顔を上げ、力を振り絞るように体を起こし、重力に逆らって足を動かし始めた。
坂道の向こうに朝焼けの空が見える。幾重にも重なった薄い雲が銀朱色のグラデーションを作っている。このまま走って行ったら、飲み込まれてしまいそうだと思う。
必死に足を動かし続け、やっとたどり着いた家の門をくぐる。
玄関までの石畳のアプローチに足を進める。縁取るように植えられた満天星が真っ赤に染まっている。葉の表面に残った雨粒が朝焼けの光を反射してキラキラと光る。
深紅の生け垣は緩やかにカーブしている。剪定はしていない。手入れをされていない荒れ放題の庭。カーブを曲がると、枝振りのいい松の木が見える…はずだった。
松の木の枝に、白く細長いものがぶらさがっているように見えた。白く柔らかな布の塊。上部を覆うのは黒く長い…髪。
白い布の端から、血の気を失った手と足が覗いている。
強い風が吹いた。
白と黒の塊は風を受け、微かに揺れた。
まぶたの上をまぶしい光がよぎり、正人は驚いて目を開けた。
いつの間にか太陽を遮っていた雲が晴れていたようだ。椅子の背もたれに預けていた頭をもたげる。窓の外が光にあふれて真っ白に見えた。だがそれはほんの一瞬で、大木の陰が光の中から現れる。枝に、白いムクムクとした羽に覆われた小鳥が二羽、止まっている。つがいなのだろうか。お互いにくちばしとくちばしを合わせた後、照れたようにそっぽを向きあう。その姿がかわいらしく、正人はふっと笑った。
近くに行ったら、逃げるだろうか。
正人はゆっくりと体を起こした。椅子の背もたれの虎斑が光を受けてキラリと光る。
音を立てないように気をつけながらドアを開けた。
体を刻むように冷たい空気が肌を刺す。正人の体には肉がなく、弾力のない肌はくすんでいる。早春の冷たい空気にあらがうための熱を作ることはもはやできない。
正人の開けたドアの向こうはまだ溶けきらない雪に覆われている。しかし、地熱と太陽の光、そして雨によって密度を失い、正人が長靴で踏みつけると、しゃくりというかすかな音を立てて押しつぶされる。
しゃくり。しゃくり。
音を立てないように気をつけても、雪は鳴る。
正人の気配に気づいたつがいの島柄長は飛び去ってしまった。
「ああ。」
正人は落胆し、息を吐いた。白い湯気のような吐息はすぐに風に流されて消える。目の前には一抱えもある太い幹を斜めに延ばした樹が立っていた。
「立派な枝振りの樹だ。」
正人は、さっきまで島柄長が止まっていた木の枝を見上げた。弧を描きながら、空に向かって伸びている。
まぶしい太陽の光に、目がくらむ。
ふいに、白いシーツのようなものが顔に被さり、全身を覆ったような錯覚を覚えた。白くくらんだ視界に黒い斑点が見え、急激に暗転する。体が力を失い、重力に引き寄せられるまま雪原に横たわる。不思議と冷たさは感じない。
母の顔がすぐ近くにあると感じる。
迎えに来たの?
薄れていく意識の仲で、母の気配に問う。それでもいい、と思う。それを望んでいた、とも思う。
「だけどまだ、約束を果たしていないん……。」
声にならない声で、正人はつぶやいた。
「約束?」
遠いところで、澄んだ柔らかい声が聞こえた。
「もしもし?」
なんて優しく、甘い声だろう。
「大丈夫ですか?もしもし?」
細い指先が頬に触れる。じんわりと暖かい。
重い扉を開けるように、まぶたを押し開ける。
白い光を背にした少女の顔が見える。
天使だ。
陶器のように滑らかな頬。焦げ茶色の大きな瞳。ふっくらとした薄紅色の唇。最期に目にするものがこんなに美しいものであるなら、思い残すことはないと、正人は重たいまぶたを閉じた。
天使を迎えに来させるなん……。お母さん…。
正人の唇の端が、微かに持ち上がった。
第1話 一枚板の看板とおかしな隣人
「今日から高校二年生だ。人生の進路を決める大事な一年になるんだぞ。今までみたいにのほほんとしていたらだめだ。気を引き締めるように!」
つばを飛ばしながら、担任教師渡部が息巻く。ワイシャツのボタン、腹部の辺りに横向きに引きつれるようなしわが入っている。今年一年この腹を毎日見ないといけないのか。そう思い、美葉はため息をついた。
担任の言葉が終わるか終わらないかのうちに、「きりーつ!」と健太が声を上げた。日直ではないはずだったが、全員がだらだらと立ち上がり、「礼!」というかけ声とともに頭を下げる。担任は不服そうに口をへの字に曲げたが、黙って荷物をまとめて教室を後にした。
「健太、ナイス強制終了!」
錬が健太の首に腕を回す。ツーブロックの髪の頭頂部が不自然に盛り上がっている。健太はエラ張り顔ににんまりと笑みを浮かべた。ワックスで強制的に外ハネの束を作っている。ハリネズミみたいだと美葉は思う。
「うっせーんだわ、わたべーの説教!つば飛ばしすぎだっつーの!」
そう言って、ゲラゲラと豪快に笑う。健太も錬も、髪の色が奇妙に黒い。昨日までブリーチで金色に染めていた髪を、強引に黒く染め治したためだ。強制的に染めた黒は数日もすると色あせし、明るい茶色になる。そして必ず、風紀担当の教師に説教をされる。中学生の頃から、長い休みが明けるたびに繰り返されてきた光景だ。
進歩しないな。
美葉は二人にちらりと冷めた目を向け、鞄を持って立ち上がる。
急いで帰らなければ。今日は始業式だけだから、手際よくノルマをこなせばその分勉強がはかどるはずだ。
この一年がどれだけ重要なのか、この高校で理解しているのは自分だけなのだと思う。二年生の間にどれだけ偏差値を上げられるかで、手が届く大学の名が大きく変わる。
『美葉は頭がいいのね。お母さんの自慢だわ。できたら大学に通わせてあげたいけど、家はお金がないから公立の大学しか行かせてあげられないの。頑張って勉強してね。』
満点の答案を見せるたび、母が満面の笑顔を浮かべ、頭をなでてくれた。
一昨年の選択が、母との約束を難しくさせることは分かっていた。でも、そうせざるを得なかった。だからといって、母の期待を裏切るのも嫌だ。だから、すべてを手際よくこなしていくしかない。
教室のドアに向かって動かそうとした足を、のんびりとした声が引き留めた。
「陽汰だけクラス分かれちゃったねー。」
ぽっちゃりとした白い顔に人なつっこい笑顔を浮かべ、肩まで伸ばした天然のウェーブの髪を揺らして佳音が美葉の隣に立つ。そうだね、と美葉は気持ちが乗らない返事を返した。
「まじあいつついてねー。2クラスしかねぇのになー。」
健太と錬が肩を組みながら歩み寄ってくる。
「友達出来るといいけどな。」
錬が、ふと真面目な顔をしていった。佳音は、錬と目を合わせて小さく頷く。
「あ、噂すれば陽汰だ。おーい!」
佳音が廊下側の窓に向かって手を上げると、前髪で両目を隠した小柄な少年が立ち止まる。
この高校には普通科が二クラスしかない。普通科のほかには花卉栽培が盛んな町らしく園芸科が一クラスある。一学年三クラスしかない非常にコンパクトな高校なのだ。
当別町は札幌市に隣接する町である。札幌市に隣接する他の街、江別市や北広島市などが都市として発展しているのに比べ、田園風景と山林に囲まれた非常にのどかな町だ。そんなのどかな町の、進学校とはほど遠い町内唯一の高校に、美葉達は通っている。
陽汰は、面倒くさそうに四人のもとへ歩いてくる。なんで声をかけるんだとでもいわんばかりの雰囲気を漂わせている。そんな陽汰の首を健太が無理矢理抱え込む。
「陽汰ー、寂しかっただろー?。」
「別に。」
ぽつりと陽汰がつぶやく。
健太は背が高く、幼い頃から家業である農業の手伝いをしているだけあって体格がいい。錬は痩せ型でひょろりとしているが健太と同じくらい背丈がある。陽太の背丈は美葉や佳音よりも頭一つ低い。その三人が肩を組んでいるのはとてもアンバランスに見える。
「さー、これから家来るベ?練習練習!今年は新人発掘オーディション系、総なめにすんぞー!!」
健太が二人を引きずるように歩き出す。錬が「うぇーい!」と軽く自由な方の手を挙げた。
三人はバンドでプロのミュージシャンを目指している。まだ無邪気に夢を追うのかと、よたよたと左右に揺れながら歩く後ろ姿を見送りながら美葉は思った。
「私も帰るね。」
軽く息をついて、佳音に告げると美葉は歩き出した。
自転車置き場に向かう足が自然と早足になる。何人もの同級生の間をすり抜け、自転車置き場に着くと先に歩き出していたはずの健太たち三人と一緒になった。
「美葉、足はやっ!」
健太が茶化すようにいう。美葉は健太を一瞥したが、何も答えず自転車をこぎ出す。
「美葉は忙しいからなー。」
錬のいたわるようなつぶやきが耳に届いたが、風といっしょに受け流した。
自転車をこぎながら、家に帰ってからの段取りを反芻する。
洗濯物を取り込んで畳み、店の商品のチェックをして、必要なものを発注する。掃除をして陳列を直す。表の自動販売機の在庫確認と補充もしなくては。閉店後にレジを確認し、帳簿をつけると店の仕事は終了だ。店のことが一通り終わったら食事の準備。必要なものがあれば買い物に行かなければ。食事を済ませ、後片付けをして、風呂に入り、風呂の掃除をする。それらを段取りよくこなせば、今日はいつもより多く参考書を解くことが出来るだろう。
自然と、ペダルをこぐ足に力が入る。
四月の風はまだ冷たい。
国道275号線を渡ると、突然田園風景に変わる。遮るものがないから、風は一層強くなる。麦畑の雪は融雪剤のおかげで解け、茶色い土が除いているが、道路の両脇にはまだ雪の山が残り、排気ガスで黒く汚れている。雪解けの田んぼには白鳥が群れをつくっている。くちばしを泥の中に突っ込み、しきりに何かを食べている。シベリアに渡る白鳥たちが、雪解けの頃こうやって羽を休めにやってくるのだ。白鳥の姿を見れば、春がやってきたのだと、辛い冬がやっと終わったのだとほっと息をつく。
後ろから、健太たちの賑やかな声が聞こえる。どうやら、健太と錬が追いかけっこをしているようだ。帰り道が一緒だから、結局いつも一緒に帰ることになる。美葉は肩をすくめた。
雪解け水がいくつも水たまりを作っている。水たまりは青く澄んだ空を映し出している。自転車の車輪に引き裂かれても、やがて何事もなかったように水面を平らに戻し、何食わぬ顔でまた空を映し出す。
緩やかなカーブをいくつか超えると、信号のない交差点が見えてくる。平屋建ての校舎の赤い屋根が目に飛び込んでくる。美葉たちの母校だ。
小学校には、人の気配がない。美葉達5人が卒業したと同時に、廃校になったのだ。
小学校と道を挟み、寄り添うように四角い二階建ての建物が建っている。経年劣化でやや汚れた白い壁にオレンジ色のペンキで「谷口商店」と書かれている。商店の横にはツタが張り付いた古いサイロが建っている。そのサイロの横に美葉は自転車を止めた。
「また明日!」
口々にいい、健太と錬は小学校と商店の間の道を右に曲がり、佳音は左に曲がっていく。少し遅れて陽汰が小さく片手を上げて右に曲がって行った。
四人と分かれると、途端に耳が静寂を感じる。どこかで白鳥の鳴く声がする。見かけによらず、鳴き声は美しくない。
自転車のカゴから黒いリュックサックを取り、サイロを回って店の裏に向かう。洗濯物が干してあるのが見える。一瞬、雨にぬれている洗濯物のイメージが浮かぶ。振り払うように、片端から洗濯物を取り込んで抱え、商店の裏から中に入る。商店の裏は美葉の家の玄関となっているのだ。靴を脱いで中に入る。鍋が煮立ち、鍋からの蒸気が部屋を満たしているような気がする。頭を大きく振って幻想を打ち消し、絨毯の上に広げた洗濯物を畳んでいく。
衣類をタンスにしまい、冷蔵庫の中身をチェックすると、店に向かう。居住スペースと店を仕切っている磨りガラスの戸を開ける。
谷口商店は、この地区の唯一の商店として、食料品、日用品、文房具、衣料品などありとあらゆるものを置いている。簡易郵便局としての機能も有している。今は老人ホームで暮らす祖父母が切り盛りしていた時代は、日々の必需品を届ける重要な役割を担っていた。しかし、今では自転車でもいける距離にスーパーが出来、存在価値は薄れてしまった。
「よー、美葉ちゃん!」
レジのカウンターに肘をかけたまま、中年の男性が片手を挙げる。土汚れのついたカーキ色の作業着に身を包み、ニット帽をかぶっている。ニッと大きな口で笑う。息子の健太と本当によく似ている。
レジのカウンターの奥に、力ない顔の父和夫が座っている。その覇気の無い顔を見るたびにいらだちが募る。
「美葉ちゃん、学校、今日はもう終わりかい?」
「今日は、始業式だけだから。健太たちも、もう家に着いてるんじゃない?」
美葉は菓子パンを並べ直しながら答える。健太の父伸也の舌打ちが聞こえた。
「っちゅうことは、またあのやかましいの始めるんだな。」
伸也は、息子たちのバンド練習を快く思っていない。やめさせようとは思っていないが、彼らの音楽を「いいもの」とは認めていないようだ。この父子は顔だけではなく性格もよく似ていて、瞬間湯沸かし器のようにすぐかっとなる。おまけに喧嘩を始めると声が大きい。隣とはいえ歩いて5分はかかるのでさすがに怒鳴り声が聞こえることは滅多と無いが、反応して遠吠えをする番犬の鳴き声が聞こえてくる。
菓子パンを並び終え、顔を上げると、伸也が手にしている回覧板の手提げ袋が目に入った。
「回覧板、持って行くね。」
美葉は、手提げ袋を指さした。誰かの手作りらしい、戦隊もののキャラクター柄の手提げ袋には、今年東京に就職した子の名前がマジックで書いてある。
「今月から、回覧板を回す順番が変わるんだ。」
手提げ袋を渡しながら、伸也が言う。
「へぇ、めずらしい。」
手提げ袋の中から、広報とうべつを取り出し、バインダーの中身をチェックしながら美葉が答える。転入出のほとんど無い地域だけに、回覧板を回す順番は物心ついたときから変わっていないと思う。
「小学校の体育館に、男が引っ越してきたんだと。」
「体育館に?」
これにはさすがに、和夫も体を起こして関心を示した。
「体育館に住むなんてできるの?」
考えただけでも、寒くて凍えそうだと美葉は思った。
「体育館の二階に宿直室があるだろ。そこに寝泊まりして、体育館で何か起業しようとしているらしい。先月からいるはずだけど、気がつかんかったかい?」
そういえば、と美葉は思った。美葉の部屋は2階の、体育館を見下ろす場所にある。3月末、明かりがついていることが何度かあった。点検か何かだと思っていたが。
「三月の初めにすごく吹雪いた日があったしょ。健太を迎えに車を出したらよ、猛吹雪の中人が歩いたんだわ。轢かれて死んじまうぞって声かけて、とりあえず乗っけてやったわけ。行き先を聞いたら、小学校っていうじゃねぇか。何しに行くのよ、って聞いたら、これから住むんだとぬかしやがる。しかも、なぜか後生大事に椅子を抱えてたんだよ。」
……椅子?」
「そう、それも、立派な…。ダイニングチェアーとかいうやつかい?飯食う時に座る椅子。結構立派で、重たい椅子だったなぁ。」
「そんな椅子を持って、吹雪の中歩いてたの?」
行動の意図がわからず、美葉の背筋はぞっと凍り付く。得体の知れない人物が、知らない間にすぐそばに住んでいたなんて。
「だから、今月から回覧板は小学校の体育館に持って行くこと。」
「え……。」
美葉は手提げ袋を体から離して顔をしかめる。まるですでに手提げ袋の中におぞましいものがはいているようだ。ちらりと和夫の顔を見る。和夫は話を聞いていなかったようだ。相変わらず、上の空である。
娘にそんな得体の知れない人のところへ行けというかな。普通。
そう考えてから、ため息をつく。
期待するのはやめたのだ。時間の無駄だ。さっさと終わらせて、やるべきことをこなしていかなければ。
「なんなら健太に行かすかい?未来の旦那にさ。」
健太の父の言葉に肩をすくめ、歩き出す。健太の嫁に、というのが伸也の口癖なのだ。
「どこか引っかけられるとこにかけておくから大丈夫。」
そう言い残し、店のドアを開けた。
道を渡って、小学校の敷地に入る。
何年ぶりだろう。卒業してから、一度も入っていない。自分が通っていた頃は、子供たちの笑い声でうるさいくらいだったし、毎日チャイムの音や校内放送の声が聞こえた。人気の無い校舎は寂しく、少し不気味で、できるだけ視界に入れないように、存在を感じないようにしてきたような気がする。
正門をくぐると、二宮健次郎の像が建っている。元々は校舎の裏手にあったのだが、閉校と同時に門のそばに移設された。校歌の歌詞を刻んだ閉校記念碑が二宮健次郎像の前に建っている。子供達に夜中の二時になると勝手に歩くだとか根も葉もない噂を立てられて、さぞ迷惑だっただろう。
二宮健次郎のすぐ横に、体育館の入り口が見える。焦げ茶色の板張りの壁にクリーム色の引き戸が目立つ。恐る恐る近づく。引き戸の向こうは薄暗い空間。窓の明かりが差し込んではいるが、中の様子はうかがい知れない。
美葉は気配を消しながら、入り口の引き戸を観察した。手提げ袋を引っかけることができる場所はどこにもない。雪解け水で濡れてしまいそうで、地面に置いておくのも気が引ける。引き戸に手をかけてみたが、鍵がかかっているようだった。
誰もいないのかな。
美葉は体育館の入り口から少し離れ、どうしたものかと考える。そして、体育館の窓から中を覗いてみようと思いつき、体育館を回り込むように歩を進めた。屋根から落ちた雪山と体育館の壁の間に人が一人通れる位の小道が出来ている。壁にへばりつくような体勢で中をのぞき込みながら進んで行く。体育館の中はがらんとしている。ただ、窓のすぐそばに四角いテーブルのようなものが見えた。暗くて詳細が分からない。つま先立ちになり、目をこらすと、向かい側の窓の下に椅子が一脚ぽつんと置かれているのが見えた。あれが、吹雪の中後生大事に抱えて運ばれてきた椅子なのだろう。
人の気配を見つけられないまま、体育館の裏手にある大きな蝦夷赤松の木に突き当たる。体育館の影から顔だけを出して校庭の方を覗くと、松の木の方に男が歩いて行くのが見えた。
男は、足音を立てないように気をつけているのか、雪を踏みながらゆっくりと歩を進めている。なにかを凝視している。その視線の先を探ると、目の前の蝦夷赤松の木につがいの島柄長が停まっていた。しかし、次の瞬間には飛び立ってしまった。男性はため息をつき、見送っている。そのまま、しばらくその場に佇ずむ男の姿を美葉は警戒しながら見守っていた。邪悪な、自分を脅かすような気配を感じたらすぐ、逃げ出すつもりだった。
すると、男の影がぐらりと揺れ、ゆっくりと後ろ向きに地面に倒れていった。
美葉は驚き、手提げ袋を駆け出した。
横たわる男の顔は口元まで伸びた前髪と無精髭に覆われていた。頬は痩け、唇はカサカサに乾いている。肌に生気が無く、死んでしまっているのではないかと思った。
「だけどまだ、約束を果たしていないんだ・・・。」
乾いた唇を微かに動かし、うわごとのように男性がつぶやく。
生きてる。
美葉は安堵した。
「約束?」
美葉は男性に向かって問いかける。意識を失えば、そのまま死んでしまうかもしれないと思ったからだ。
「もしもし?」
美葉はもう一度声をかけた。間が抜けている声かけだと思ったが、こんな時にどんな言葉をかけていいのか分からなかった。
「大丈夫ですか?もしもし?」
男性の痩せこけた頬に手を触れると、ぞっとするほど冷たい。
男性は、美葉の声に反応しうっすらと目を開けたが、すぐに閉じてしまった。しかし、唇の端が持ち上がり、締まらない笑みを浮かべる。
笑ってる!?キモッ!
美葉は頬に当てた手を反射的に引っ込める。でも、このまま放置して死んでしまっては困る。これから一生、窓の外を見られなくなる。隣で死人が出たなんて、そんなの絶対に困る。
「ちょっと!!しっかりして!!」
美葉は男の肩をつかんで揺さぶった。男の頭が上下にガタガタと揺れ、顔半分を覆っていた長い前髪がゆさゆさと揺れた。男ははっと目を覚ました。
バチクリ、と何度か瞬きをした後、美葉を見て、慌てて自力で起き上がった。美葉の姿をまじまじと見つめながら、ゆっくりと雪の上に正座をする。身を乗り出すように、男は美葉を見上げた。
「どちら様ですか。」
男は美葉に訪ねた。
「はぁ?」
と美葉は首をかしげてから、そういえばここは男の家であり、不法に侵入しているのは自分であることを思いだした。
「隣に住んでいる谷口美葉です。回覧板を持ってきました。」
そう言って、ぺこりと頭を下げた。
「おお!」
今度は男が体をのけぞらして驚いた。
「そういえば、引っ越しの挨拶を忘れていました。隣に引っ越してきた木全正人といいます。よろしくお願いいたします。」
正人という男は、正座をしたまま深々と頭を下げる。毒っ気がなく、礼儀正しい姿に脱力してしまう。
「よろしくお願いします。」
美葉も頭を下げた。
「お茶でも、といいたいところなんですけど、水道水ぐらいしか提供できるものがなくて…。」
男は立ち上がったが、すぐにふらついて松の木の幹に手をついた。
「二週間ほど、何も食べていなくて…。あ、昨日蕗の薹見つけて食べたんですよ。でも、空きっ腹にあくが強いもの食べたらおなかがびっくりしたみたいで、下痢しちゃって。」
はは、と正人が乾いた笑いを浮かべる。
この人、このままだと確実に死ぬな。
どうしていいのか分からず、美葉も同じくはは、と笑い返した。
ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。
とにかく何か食べさせなければと思った。薄汚れ、膝下がぬれた作業着姿の男を家に上げるのは勇気がいったが、見殺しにする訳にはいかなかった。正人を食卓に座らせ、すぐに出来そうで消化の良いものをと考えを巡らせる。和風だしに朝食の残りの白米とちりめんじゃこを入れ、一煮立ちさせた。器に盛り付け、白髪ネギを乗せ、ごま油を回しかけ、レンゲを添えて正人の前に差し出したのだ。
雑炊が入った白地にピンク色の小花模様の丼を見た途端、こみ上げてきたよだれを飲み込んだようだった。
待てをされている犬のような顔をしつつも、両手をしっかりと合わせ、深々と頭を下げた。
「いただきます。」
静かにそう言った後、おもむろに白いレンゲを手に取り、山盛りの雑炊をすくい、口に入れた。
「熱いから気を……。」
つけて、という間もなく雑炊は正人の口に収まってしまった。大量の熱い雑炊が口の中を焼いたのだろう。正人はのけぞったりうずくまったりしてもだえ、口をすぼめてすーすーと空気を口の中に送り込んだりし、何とか口の中のものを飲み込んだ。美葉が慌てて入れた冷たい麦茶を一気に飲み干す。
「熱いから、フーフーして食べた方がいいですよ。それに、空きっ腹に急にものを入れたら胃がびっくりすると思うから、よく噛んだ方がいいです。」
美葉の言葉に正人は一つ頷いて、レンゲで雑炊を掬うと、勢いよくフーフーフーと息を吹きかけ、口に放り込み、ものすごい早さで咀嚼して飲み込んだ。
雑炊を掬って息を吹きかけ、ものすごい早さで咀嚼して飲み込む。
機械のように一連の動作を繰り返し、あっという間に丼を空にすると、正人は初めて息をしたかのようにふうっと大きく息をついた。
そしてしっかりと両手を合わせ、深々と頭を下げた。
「ごちそうさまでした。」
そして、身体ごと美葉に向き直り、テーブルに頭がつくほど上半身を折り曲げた。
「本当にありがとうございました。」
「いえ、そんな、別に…。」
美葉は驚いて正人の後頭部に目を落とした。
焦げ茶色の髪。伸び放題に伸びているし、風呂にもしばらく入っていないのか、べたついているけれど、まっすぐできれいな髪だと思った。
そう思って後頭部を見ていると突然正人は顔を上げた。
「すごく、おいしかったです!」
にっこりと微笑む。顔半分を覆う前髪と無精ひげで人相はほとんど分からないが、無邪気な子供のような微笑みであることは分かった。
とりあえず、悪い人ではなさそう。
美葉はふっと肩の力を抜いた。かなりの変人そうではあるが、悪人よりは変人の方がましである。
「いつ引っ越してきたんですか?」
空になったグラスに麦茶を注ぎながら美葉は聞いた。とりあえず、どんな人物なのか情報が欲しかった。
「あれは、たしか三月五日でした。すごい雪の日でしたね。前が見えないくらいの吹雪でした。親切な方が車に乗せてくださって。そうでなければ、遭難していたかもしれません。町役場で聞いた道はとてもシンプルだったので迷いはしないと思ったのですが、吹雪って、まっすぐ歩いているかどうかも分からなくなるんですね。」
「この辺りは畑や田んぼばかりだから、風が強いとすぐ吹雪きます。吹雪の日は一メートル先も分からなくなるし、全てが真っ白なので方向感覚が狂ってしまって危険なんです。絶対歩いてはだめです。」
町役場からこの辺までは歩くと一時間はかかる。吹雪の中、椅子を抱えて一時間も歩いていたのかと呆れた。しかし批判はせず新たに中身を満たした麦茶のグラスを差し出すと、ありがとうございます、と正人は受け取り口をつけた。
「驚きました。本当に。もっと驚いたのは翌日です。入り口の引き戸の隙間に入り込んだ雪が凍って開かなくなったんです。引き戸の玄関は危険だということが分かりました。結局解けるまで十日以上かかりました。やっと気温が上がってドアが開いたときには雪が腰まで積もっていました。除雪道具がなかったので、さらに十日ほど外に出ることが出来ませんでした。引っ越しの日に非常用にと二㎏の米をいただいたのですが、本当にこれで命拾いをしました。非常食がとても重要だということを学びました。宿直室は幸いライフラインが通っていたので、暖かく過ごすことが出来ました。ただ、風呂がないと知りませんでした。湯を沸かして体を拭いたり髪を洗ったりしていましたが、石けんの類いは無く、さっぱりしません。初対面の方にこんな薄汚い姿をさらすこととなり、大変心苦しいです。」
ぽりぽりと、正人は頭をかく。
よく生きていたな。
美葉は、呆れかえり、正人を改めてまじまじと見た。
ひょろひょろとした体は栄養失調のためだけでなく、元々細身なのだろう。顔半分を覆う前髪も、一ヶ月やそこらでこうなるはずもなく、元々伸び放題だったのではないだろうか。紺色の作業着は薄汚れている。洗濯はしていたのだろうか?公園にいたら間違いなくホームレスだと思われる風貌だが、どことなく品があり、言葉遣いは丁寧で礼節も保たれている。
美葉は、もっとも不思議だと思っていることを聞いてみることにした。
「なぜ、体育館に住むことになったのですか?」
正人は、「よくぞ聞いてくれた」といわんばかりに膝をたたいた。
「手作り家具の工房を開いたんですよ。」
「家具、工房?」
「そうです。フルオーダーの家具を作っています。ただ…、雪で入り口が塞がれていたせいか今のところまだ一人のお客様も見えていなくて、収入はまだ無いんですけど…。」
恥ずかしそうに、頬の辺りを掻く。
「へぇ、インターネットショップなんですか?」
「いえ、インターネットでの受付はしていません。ご来店いただいたお客様のライフスタイルや要望をしっかりと伺ってその方に合ったこの世でたった一つの家具を提供するのが売りですから。」
正人は胸を張って答える。正人の自信を感じ取るほど、不安が募るのはなぜなのだろう。
「集客は、どうやっているんですか?」
嫌な予感がするが、思い切って聞いてみる。
「集客、とは?」
「チラシを配るとか、どこかの企業に売り込むとか、宣伝のようなものです。」
なるほど、と正人は手を叩いた。
「宣伝すれば、お客さんが来るかもしれませんね。」
「宣伝しないと、来ませんよね。大体隣にいても家具工房が出来たって分からないのに、通りかかった人が『家具工房がある、行ってみよう!』って思います?まず看板とか登りとか、何かで家具工房やってますってアピールする必要があるでしょう?」
「なるほど…。」
正人は深く二回頷いた。
「美葉さんは商才がおありですね。素晴らしいアドバイスをありがとうございます。」
心からの笑顔を正人は美葉に向ける。前髪の下の瞳はきっと喜びと感動でキラキラと光っているのだろう。美葉はため息をついて天井を見上げた。
関わらなければ良かったと思いながら、洗い直した食器を拭く。
食事が終わった後、そのままでいいという美葉の言葉を頑なに断り、正人はきれいに食器を洗った。正直、爪が伸びた薄汚れた手で食器を洗ってもらっても困ると思った。少なくとも一ヶ月はまともに風呂に入っていない男に、失礼かもしれないと思いつつ風呂に入っていかないかと聞いてみた。
「いいんですか!?」
正人はうれしそうに応じた。
そして今、正人は風呂に入っている。風呂場から、正人の鼻歌が聞こえる。音程は確かで声も悪くないが、歌詞があまりにもでたらめだ。
食事を与え、風呂で汚れた体を清める。
まるで捨てられた犬を拾ったみたいだ。
とても変な人。悪い人間ではないが、あまりにも生きていくための能力に欠けている。このまま放っておいたら、いずれ死体で発見される可能性が高い。全く知らない間柄であれば、「お気の毒」とさらりと思い、「何も隣で死ななくてもいいのに」とちょっと非難めいた気持ちを抱き、体育館を見るたびに嫌な思いをする、くらいで済むだろう。だが、こうして会話をし、食事を提供し、生活能力が無いということを知ってしまったら、遺体として発見されたことに責任を感じてしまうことだろう。
「だからって、ずっと面倒見てあげるわけにも行かないし。」
美葉が一つため息をついたときだった。
風呂場から、けたたましい悲鳴が聞こえた。美葉は驚いてレンゲを床に落としてしまう。
落としたレンゲを拾うのは後にし、風呂場に駆けつける。
「どうしたの?」
恐る恐る木のドアに声をかける。
木のドアが少し開き、正人のぬれた前髪が覗いた。
「すいません。自分の顔に、びっくりして。」
正人の前髪から、しずくが落ちる。
「は?」
美葉は眉をしかめた。
「鏡をしばらく見ていなかったから、こんなに髪や髭が伸びていると思っていなくて。鏡に映った自分の姿を見て不審者だと思ったんです。」
へへ、と照れくさそうに正人は笑った。
「髭、そこにあるT字カミソリ使って剃っていいですよ。」
美葉は投げやりにいって立ち去ろうとする。
「ああ、待ってください。これも、借りていいですか?」
ドアの隙間から、正人はバリカンを差し出した。
三十分後、裏庭に並べた椅子に、正人と和夫が並んで座っていた。
二人とも、頭が通るように穴を開けたゴミ袋を被っている。その背後に、美葉がバリカンを持って立っていた。
バリカンを使うのかまわないが、脱衣所や風呂場で使われると後片付けがやっかいだ。それに、バリカンを使ったことはないという。
ならば、ちょうど和夫の髪が伸び放題になっていたのでまとめて刈ってしまおうということになったのだ。
和夫の髪は、母が毎月刈りそろえていた。刈ってくれる人がいなくなると、自分から理髪店に向かうことをせず、伸び放題になる。あまりにも見苦しくなると、美葉が半ば無理矢理刈ることになる。頻繁に刈るのが面倒なのでかなり短く刈り込むのが和夫は気に入らないようだ。だったら自分で何とかしろと思う。
和夫は先にゴミ袋を被って座っている正人を見て、
「誰?」
と聞いた。
正人は立ち上がって直立し、
「ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。先月隣に引っ越してきました木全正人と申します。」
と深々と頭を下げる。
「はぁ、どうも。谷口です。」
和夫はちょこんと頭を下げ、どっこらしょと椅子に座る。
体育館に引っ越してきた隣人が、初対面で自分のスエットの上下を着て(何ならパンツも自分のだけど)ゴミ袋を被って座っているというシチュエーションに、このリアクションの薄さはないだろう、と美葉は思う。力任せにバリカンにアタッチメントを取り付ける。
「六ミリにしてくれ。」
和夫は振り返らずに言う。
「どうせ、三ヶ月もしたら六ミリの長さになるでしょ。」
美葉は素っ気なく言い返し、一ミリのアタッチメントで頭をそり始めた。
ああ、と和夫の口からため息がこぼれる。
二人の様子を眺めながら、正人がふふ、と笑みをこぼした。
襟足から、頭頂部に向かってバリカンを走らせる。この感触は嫌いではない。小さい頃は面白がって母にせがんで刈らせてもらった。必ず虎刈りになるので、母は一番長いアタッチメントをつけたバリカンを持たせていた。上手になった頃には、父親の頭に好んで触ろうと思う年は過ぎてしまった。久しぶりにバリカンを持ったのは、去年の暮れだったと思う。
和夫の髪は、あっという間に刈り上がった。
美葉はアタッチメントを12ミリに変えた。正人の髪質は柔らかくて癖がない。長めに刈っても変に張り出したりはしないだろう。長髪から突然丸坊主もかわいそうだし、まだ年も若そうなのでおしゃれ坊主にしてあげようと思ったのだ。
「沢山、木を植えているんですね。」
バリカンを入れたところで、正人が、ぽつりとそう言った。
物干し竿の向こうに、一坪ほどの庭があり、取り囲むように低木が植えられている。低木の向こうには、背の高い木が何種類か、低木や庭を守るように立っている。どの木もまだ冬囲いが外されていない。
「正面が蝦夷山桜。奥のがブンゲンストウヒ、その隣が、蝦夷赤松。手前のはみんな紫陽花です。」
和夫が力ない口調で答える。
「へぇ、山桜は立派な枝振りですね!」
正人が身を乗り出そうとするので、動かないで!と美葉がゴミ袋を引っ張った。
「山桜は、結婚の記念に植えました。ブンゲンストウヒは美葉が生まれた記念樹です。蝦夷赤松は景観のために町から無料で配られたものです。紫陽花は、毎年母の日に新しい品種の鉢植えを買って、秋に庭に下ろして育てていたんです。…家内がね。」
「奥さん、紫陽花がお好きなんですね。見事だろうな、この紫陽花の庭は。」
「…。」
和夫は無言で立ち上がり、ゴミ袋を頭から外して椅子の上に置き、立ち去ってしまった。
「あ…。」
後ろ姿を追うように動かした頭を、美葉がぐい、と押さえた。
「気にしないで。」
バリカンを動かしながら美葉は素っ気なく言った。
「お母さんが死んでからずっとああなの。」
はっ、と正人が息をのむのを感じたが、美葉は手元に集中した。心を動かさないようにするためだ。
「悲しんでいたって、時間は流れるのにね。」
バリカンの長いアタッチメントでは、きれいに長さをそろえるのが難しい。それでも一通り刈り終えたので、正人から体を離し、長さがそろっているかどうかを確認する。
「いいんじゃないかな。」
小さくつぶやいてから、
「できたよ。」
と正人に告げた。
正人は自分の頭を左手で触る。感触を確かめているようだ。
「ありがとうございます。」
正人は笑顔で美葉を振り返った。
美葉ははっと息をのんだ。
美術室にあるギリシャ人の胸像のような、彫りの深い顔立ち。柔らかく細められた切れ長の目。形の良い唇が優しく微笑みかけている。
現実離れした美青年がそこにいた。
うわぁ!、と心の中で叫ぶ。
お父さんのパンツはいてよれよれのスエット着て頭からゴミ袋被ってるけど、すごいイケメン!
「こんなに短くしたの、久しぶりです。頭、涼しくなりました。」
正人が立ち上がると、ゴミ袋にたまっていた薄茶色の髪の毛がぱらりと、雪解けでやっと顔を見せたばかりの芝生に落ちる。
正人は膝に頭がつくのではないかと思うくらい深々と頭を下げる。
「食事をさせてもらい、風呂に入れてもらい、髪まで切ってもらい、本当に何から何までありがとうございます。おかげさまで、生き返った心地です。」
そう言ったとたんに、正人の腹が大きくなった。
正人は自分の腹を抱え、赤面する。恥ずかしそうに固く閉じたまぶたを、長いまつげが縁取っている。
イケメンでも、変な人は変な人だ。
美葉は苦笑して言った。
「晩ご飯も、食べていく?」
照り焼きにしようと思っていたもも肉を大きめの一口大に切り、白菜と長葱、人参、椎茸を土鍋に入れ、味噌と豆乳で煮立てる。砂糖と醤油で味を調え、多めのすりごまを入れた。冷蔵庫に入っているのはいつも二人分の食材なので、飢餓状態を満たすには物足りないかもしれない。冷凍庫を確認したら、うどんがあった。美葉は一つ頷く。うどんでしめれば腹は満たされるだろう。
食卓には正人が見るからにわくわくしながら待っている。和夫は、ぼんやりとテレビ番組を見ていた。
「コンロ、用意して。」
美葉に声をかけられ、大儀そうに和夫は立ち上がり、冷蔵庫の上から卓上コンロを出した。ガスボンベを取り出し、軽く振って中身があるのを確かめてからコンロに取り付ける。そこへ、土鍋を抱えた美葉がやってくる。コンロの上に土鍋が置かれ、弱火にかけられる。
美葉が土鍋の蓋を開けると、もわっと白い湯気が立った。
乳白色のだしが、小さくふつふつと沸いており、出汁を含んで柔らかくなった白菜に人参が色を添えている。
正人は、口を半開きにし、目を見開いて鍋を凝視している。まるで感動的な映画に見入っているようだ。美葉が黒いとんすいに一通りの具材をとりわけ、目の前に置くと、息をのむ気配が聞こえた。うやうやしく両手で包み、匂いを嗅ぐ。そして、微かに震える手をしっかりと合わせ、深々と頭を下げた。
「い…。」
「あ、熱いからね。」
美葉は慌てて声をかける。はっと正人は顔を上げ、上目遣いに美葉を見てから至極真面目な顔で大きく頷く。そして、改めて深く頭を下げた。
「いただきます。」
正人は箸で白菜をつまみ出すと、フーフーと強く息を吹きかけた。口に入れ、しっかりとかみしめる。時間をかけて咀嚼し、飲み込んだ正人の目から、大粒の涙がこぼれた。
「え!?」
美葉は絶句する。
正人はまたとんすいの中身に箸をつける。昼間の雑炊の時とは違い、一箸ごとにじっくりと味わっているようだ。咀嚼する頬に涙が幾筋も伝う。美葉も和夫もぽかんとその様子を見ていた。
スープを飲み干し、正人は深い息をゆっくりとついた。
「生きていて、良かった。」
深い息とともに、正人のつぶやきが漏れ聞こえた。
息をついたところで、やっと美葉と和夫の視線に気づいたようである。両手で涙を拭き取り、恥ずかしそうに笑った。
「すいません。驚かせてしまいました。お鍋を囲む、という行為があまりにも久しぶりだった上に、あまりにも美味しくて、感動的で…。今生きて、この時を迎えられていることが本当に心から良かったと思うと、涙が止まらなくなってしまいました。」
「まぁ、今日出会わなければ、本当に餓死してたかもしれないしね。」
美葉が肩をすくめる。心に黒いもやがかかって、言葉にとげが混じってしまった。
美葉の心にもやを作ったのは、「生きていて良かった。」という言葉だった。言葉にならない不愉快さを感じたが、表に出してこの男の純粋な感激に水を差すつもりもなく、美葉も箸を動かし始めた。
和夫が立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。無言で片方を正人に差し出す。
正人はえ、と驚いた顔を和夫に向けながら缶ビールを受け取った。しばらく包むように両手で持ってから、身体から遠ざけるようにテーブルに置いた。
「ありがとうございます。」
深々と頭を下げてから、眉尻を下げた。
「でも、これはいただけません。」
「酒は苦手かい?」
和夫が問う。正人は大きく首を横に振った。
「いえ、苦手と言うことはありません。しかし、今日はいただくわけにはいきません。お酒は、一日の労をねぎらうためにあるのだと思っています。今日、僕は身になる働きを何一つしなかった。それだけでなく、こうやって美葉さんに窮地を救っていただき、食事をいただき、風呂に入らせていただき、身なりを整えていただきました。労働をせず与えていただいてばかりの一日でしたから、お酒をいただくには値しません。」
「はぁ。」
和夫はぽかんとして間抜けな声を返す。
「堂々と胸を張ってお酒が飲める日が来るといいね。」
美葉はそう言いながら空になった正人のとんすいに二敗目の鍋を取り分ける。美葉が放ったのは皮肉だった。実態のない家具屋に、客が来る日などないだろうと思ったのだ。そんな美葉に正人は純粋な笑みを返す。
「はい、頑張ります。」
力強い握りこぶしを作ってみせる。美葉はため息をつき、とんすいを正人に手渡した。
今日は、予定外の事が多すぎた。
美葉は机に向かい、参考書をにらみ、数学の問題を解いていく。数学は今年の内に一通り理解しておくつもりだ。学校の授業に合わせていてはとても間に合わない。入学の時点で進学校に行った者と大きなハンデを負っている。そこを詰めていかなければならない。
シャープペンシルを握る指先に力がこもる。
大きく息を吸う。
息が、しにくい。
呼吸はしている。でも、苦しい。喉の奥に大きな塊が閊えている。その塊のせいで、息を吸っても、吸っても、本当に必要なものが入っていかないような気がする。
この塊は、いつの頃からか常に美葉の喉の奥にある。日々の日課をこなすことに集中していれば、忘れていられる。でも、しんとした空気の中にいると息苦しさが増してどうしようもなくなる。
首を上げて天井を仰ぎ、大きく息を吸う。
負けてしまうわけにはいかない。
目を閉じて、奥歯をかみしめる。ぎりり、と嫌な音が鳴った。
目を開ける。窓の外の暗闇が目に映る。街灯も何もない田園地帯は、夜になると真の闇に包まれる。
美葉はもう一度大きく息を吸い、再び参考書に視線を移した。
そのとき、まぶたの上に光を感じた。視線を挙げると、オレンジ色の光が闇の中にぽうっと浮んでいる。体育館の窓に明かりがともったのだ。
いただきます。そう言って丁寧に両手を合わせた正人の姿が目に浮んだ。久しぶりの食事を急いでかきこみたいのに、美葉の言葉を忠実に守って雑炊を必死で冷まし、ものすごい早さで咀嚼する姿。濡れた前髪からしずくを垂らして恥じ入る姿。
「おかしな人だったな。」
オレンジ色の光を眺めながら、ふう、吐息をはく。肩から力が、ほんの少し抜けた気がする。正人は何をしているのだろう、と身を乗り出して窓の光をのぞき込むが、人影は見えない。目をこらした先に、微笑みかける端正な顔が浮び、頬が熱くなるのを感じた。
美葉は小さく頭を振り、両手で自分の頬を軽く叩いた。
「集中しなくちゃ。」
参考書に目を移す。不思議と息苦しさが和らいで、数式を解くことに意識が吸い込まれていった。
こんなにも満ち足りた気持ちで目覚めたのは久しぶりだった。
六畳一間の宿直室。敷きっぱなしのせんべい布団から体を起こす。部屋の片隅には一口のガスコンロと小さなシンクだけの簡素なキッチンがある。そのシンクで正人は顔を洗い、着替えようとしていつもの紺色の作業着がないことに気づいた。昨日、美葉が洗濯してくれたのだ。迷彩柄の大きなリュックサックを探る。この町に来るとき、全ての荷物はこの中に入れてきた。着替えは、下着と靴下が二組ずつ。そして、カーキ色の作業着。祖父からもらい、まだタグがついたままの新品だ。
「なんかもったいない気がする。」
そうつぶやき、タグを鋏で切って袖を通す。
らくだ色のスエットの上下とブリーフを畳む。洗って返すべきだろう。でも、水洗いしか出来ない。洗濯機もなければ、洗濯用の洗剤もない。
そこで、はたと気づく。
昨日世話になった美葉の家は、生活必需品を売る店だと言った。これまで、どこに店があるのか分からず何も手に入れられずに困っていた。なんと目の前にあったとは。もちろん、収入がないので散財するわけにはいかないが、数百円の洗剤を買う位の金は持っている。
正人は財布から五百円玉を取り出し、握りしめて転がるように階段を駆け下り、体育館を飛び出した。
ちょうど、店の入り口から美葉が外に出てきたところだった。
腰まであるまっすぐな黒髪を無造作に一つに束ねている。
「美葉さん!」
正人は自転車に向かって歩き出す美葉の背中に声をかけた。
美葉の存在は目を引く。大輪の芍薬の花が咲いているようだと思う。振り返って小首をかしげる姿は、そよ風に薄紅色の花が揺れているようだ。
「美葉さん!おはようございます!昨日はどうもありがとうございました!」
美葉の前までたどり着くと、正人は深々と頭を下げた。
「どういたしまして。」
ぶっきらぼうは美葉の声が頭の上に聞こえる。美葉の足先が自転車に向かって一歩踏み出す。
「あの!洗剤ください!」
慌てて正人は声をかけた。
「はぁ?」
美葉は唇を半開きにし、正人の顔を凝視する。
「昨日お借りした洋服、手洗いですが洗ってお返しします。」
美葉ははぁ、と息を吐いた。
「お風呂場の横に洗濯機があったでしょ。そこに入れておいて。もうすぐお父さんが起きてくるから。よかったら朝食も一緒にどうぞ。お弁当も、作ってあるから。」
早口でそう言いながら、美葉は自転車のかごにリュックを入れる。
「お弁当まで!?」
正人は驚いて両手を口に当てた。
「二人分も三人分も一緒だから。」
自転車をこぎ出そうとして、ふと動きを止める。
「食器、洗ってくれるのはうれしいけど、伏せておいてくれたらいいので。違うところにしまわれちゃうと、探す時間がもったいないから。」
早口でそう言うと、今度こそ自転車を漕いでいってしまった。
正人が味噌汁を温めていると、寝ぼけ眼の和夫が食卓に顔を出した。正人の姿を見て、うわぁ、と驚きの声を上げる。
「なんで朝から君がここにいるんだ?」
もっともだ、と思いつつ、正人は深々と頭を下げた。
「おはようございます。昨日は大変お世話になり、ありがとうございました。今朝、美葉さんに朝食を食べて良いと許可をいただきまして、今、お父さんの分も一緒にご用意させていただいております。」
はぁ、と力ない返事をし、和夫は食卓に着いた。
炊飯器を開けると、炊きたての米が湯気を上げる。ご飯をよそい、味噌汁とともに和夫の前に並べる。食卓には、卵焼きと浅漬け、常備菜らしいひじきの煮物が並んである。どれも、箸がつけられた形跡がない。
「美葉さんは、朝ご飯食べなかったのですかね?」
正人は小首をかしげる。
まだ暗い時間から、店の前で掃き掃除をしたり、入り口のガラス戸を拭いたりしている姿を何度も見た。まさか高校生だとは思っていなかった。
「いただきます。」
正人が両手を合わせる。和夫はすでに味噌汁をすすっている。
「美葉さん、とても働き者ですね。」
正人は卵焼きを頬張った。卵の甘さとだしの香りが口いっぱいに広がる。
「料理上手で、美人で、素敵な娘さんですね。」
和夫は返事をせず、浅漬けを口に放り込んだ。ぽりぽりと胡瓜をかみしめる音がする。正人は味噌汁をすすった。豆腐とわかめと白ネギの味噌汁。鰹のだしが効いている。
「料理が、母さんの味に似てくる。」
胡瓜を飲み込んだ後、和夫が呟いた。
「卵焼きの味も、味噌汁の味も、母さんの作るのと大差ない。」
深いため息をつく。
「美葉は母さんがいた時と同じ日常を作ろうとする。店の事も、家の事も。料理の味も、献立も。まるで最初からいなかったみたいに、以前と同じ日常が毎日毎日やってくる。母親が死んで悲しむ様子もない。冷たくて、気ばっかり強い娘に育ってしまった。」
和夫はぽつり、ぽつりと呟いてから、味噌汁をすすった。
正人は何と応えて良いか分からず、視線をうろうろさせた。そして、八畳ほどの居間の片隅にある小さな仏壇を見つけた。正人は立ち上がり、引き寄せられるように仏壇のそばへ行き、正座をした。
仏壇の中で、美しい女性がこちらに微笑みかけている。三十代後半だろうか。美葉が大人になったら、このような女性になるのだろう。
「初めまして、美葉さんのお母さん。昨日はお嬢様に大変お世話になりました。ありがとうございました。」
正人は手を合わせ、小さく呟いて頭を下げた。
顔を上げ、両手を膝の上に置いてから、遺影の中の女性を改めて見つめる。何故か以前から知っている人のような親しみを感じる。今にも声をかけてくれそうな、優しい笑顔が、そこにある。
「奥さん、美人ですね。」
思わず正人は呟いた。少し間を置いて、ああ、と和夫の返事が聞こえた。
「ここらでは評判の美人で、優しくて、みんなの憧れだった。小学校六年の時、札幌から転校してきた。こんな片田舎に、都会から、こんなきれいな女の子がやってきたもんだから、大人も子供もみんな驚いたもんだ。当別の男子はみんな母さんを意識していた。俺は高嶺の花だと思って声一つかけることが出来なかった。まさか家に嫁に来ることになるとは、思ってもみなかった。」
和夫は、大きな息を吐き、呻くように言う。
「家に、嫁に来なければ。苦労をかけたから、こんなに早く…。」
和夫の言葉から、痛いような悲しみと苦しみが伝わってくる。この悲しみや苦しみを、自分も知っていると正人は思った。そして、少しは距離を置けるようになっていたと思っていたが、あまりにもリアルに蘇ってくる感覚にうろたえた。
膝の上の両手を、強く握る。拳に爪が食い込む。その拳に、ぽつり、ぽつりとしずくが落ちた。喉の奥が引きつるように苦しくなり、嗚咽が漏れる。涙が涙を呼ぶように、止まらなくなり、いつの間にか声を上げて泣いていた。
「な、なんであんたが泣く…?」
和夫の声に振り返ると、目を白黒させていた。
「だ、だって…。お父さん、奥さんをすごくすごく、愛しているのが…、分かって…。」
正人は拳で涙を拭う。
「大切が人が、いなくなると…、痛くて、苦しいじゃないですか…。」
拭っても、拭っても、涙と鼻水が止まらない。和夫はオロオロと立ち上がり、ティッシュペーパーの箱を正人の前に置いた。
正人を見下ろしながら、深い息を吐く。
「みんな、いい加減もう悲しむなと言う。でも、忘れたくないんだよ。少しでも忘れないようにしようとすると、悲しくなる。」
正人はティッシュペーパーを一枚取り出した。
「悲しい気持ちをそんな起用に出したり引っ込めたり、出来ないですよ。悲しいなら、悲しんでいて良いのではないでしょうか、お父さん。」
垂れてきた鼻水を拭い、思い切り鼻をかんだ。
頭の上で、和夫が小さく頷く気配がした。
「ありがとうよ…。」
呟きながら、ゴミ箱をティッシュペーパーの横に置く。
「でも、お父さんと呼ばれるのは…。抵抗がある。」
そう言って、自分も一枚ティッシュペーパーを取り、ちん、と鼻をかんだ。
暖かな日差しを背に受けながら、正人は体育館の玄関先に立っていた。
あちこちから、ポツポツと雪解け水が地面に落ちる音がしている。玄関先に、欅の一枚板を立てたり横にしたりしながら、ずっと長い間考え込んでいた。
「あー、こいつだ!」
風に乗って、誰かの叫ぶ声が聞こえた。間髪入れず自転車のブレーキ音が次々と背後に響いた。
高校の制服を着た男女が自転車に乗ったまま正人を眺めている。ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、正人を品定めしているようだ。背の高い二人の男子学生、ぽっちゃりとした女子高生、そして、女子高生よりも頭一つ小さな男子学生。背の小さな青年は、イヤホンをして正人に背を向けていた。
「俺らの小学校に越してきたの、あんた?」
健太が、体には小さな自転車から降りて、正人の前に立った。
「いえ、これは、町の小学校です。」
正人は真面目に答えた。
「当たり前だろ。でも、俺らの母校だ。」
挑発するように、健太が言う。その肩をまぁまぁ、と錬が叩く。
「いきなりそんなこと言ったら、喧嘩売ってるみたいじゃないの。やめなさいよ。」
佳音が、頬を膨らませていった。
「美葉から話を聞いて、興味を持ったんで。」
へへ、と錬が愛想笑いを浮かべながら言う。いきなりおかしな輩に絡まれて動揺していた正人は、美葉の名を聞いてほっと息をついた。
「なんだ、美葉さんのお友達?」
「そう、おれら五人、ションベンたれてた時から一緒。この小学校最後の卒業生だ。」
なぜか自慢するように胸を張って健太が言う。
「では、美葉さんの幼なじみさんなんですね。」
正人は背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「どうぞよろしくお願いいたします。」
あまり丁寧に頭を下げるので、つられて健太と錬と佳音も頭を下げる。陽汰だけが、イヤホンの音楽を聴きながらそっぽを向いている。健太と錬は顔を見合わせた。
「本当だ、なんか、変。」
ケタケタと笑い出す。
「変、って、美葉さんが僕のこと、そう言ったんですか。」
正人の問いに、二人は何度もうなずき、笑い声を大きくする。正人は傷つき、変か…。と呟いてうつむいた。
「でも、嫌な感じで話してたわけじゃないよ。」
慌てて、佳音が慰める。
「面白い、って意味の変だと思う。」
「面白い…。」
うつむいたまま、正人が呟く。
「久しぶりに美葉がすっごくしゃべってたから、かなり面白いと思ったんじゃね?いつも、参考書眺めながら弁当食って、そのまま昼休み中ずっと勉強してっからさ。」
錬もさすがに悪いと思ったのか、慰めるような口調で言う。
「そー、あいつ高校行ってから本当俺らとつるまなくなったよなー。」
頭の後ろに両手を組み合わせ、体をのけぞらせながら健太が言う。
「そりゃ、美葉は忙しいから。」
佳音が唇をとがらせる。
「そうですね。美葉さんは働き者で、忙しそうですね。」
正人が佳音の言葉に頷く。佳音は正人と目が合い、慌てて視線をそらした。その顔を見て、錬が、おや、という顔をした。
「で、おっさん、何してんの?」
健太が正人の顔を見下ろして言う。
「おっさん?」
正人はぶしつけな言葉にむっとした。
「だっておっさんじゃん。」
「失礼な、僕はまだ、二十二歳だ。おじさん扱いされたくないです。」
「二十代はおっさんだって。」
「君だってあっという間に二十代になりますよ!」
言い合う二人に、錬がまぁまぁ、と割って入る。
「実際、どんなことやってんのか、興味津々なわけ、俺ら。」
ヘラヘラとした口調で、錬が言う。正人は小首をかしげた。
「家具を作る仕事をしています。今は、美葉さんに看板を作るといいとアドバイスをいただき、どんな看板にしようか考えていたところです。看板って、何を書いたらいいものかと思って。」
健太と錬、佳音の三人は顔を見合わせた。
「看板って、お店の名前とか、書きますよね。ほら、美葉のとこだったら、食料品と日用雑貨の店 谷口商店って、書いてるでしょ?」
佳音は、谷口商店の壁を指さす。なるほど、と正人は頷く。
「では、家具工房、ですね。家具工房…。なんていう名前にしようかな。」
この言葉に、三人に加えて陽汰も顔を見合わせ、まじか、と呟いた。
「まさかの屋号を決めてないという落ち。」
錬が呟く。
「おっさん、まじ抜けてんな。」
健太の言葉に、正人は口をとがらせたが、言い返す言葉が見つからなかった。自分に計画性が欠けているという自覚はある。だが、知り合ったばかりの高校生に馬鹿にされる筋合いはない。そんな正人の姿を見てか、佳音が両手をパン、と叩いた。
「じゃあさ、一緒に考えてあげようよ。」
おー、と健太と錬が目を輝かせる。
「レッチリとか、ボンジョビとか、エアロとかどう?」
「なんで人の名前つけんの。それも昔のロックスター。」
健太と錬の掛け合いを聞き流し、佳音がいう。
「確かに、自分の名前をダイレクトにつけるのもいいですよね。お名前、なんて言うんですか?」
あ、と正人は居住まいを正し、深々と頭を下げる。
「木全正人と申します。」
「家具工房きまた。家具工房まさと。」
佳音は首をかしげる。
「きまたまさとって、どんな字?」
「木に全部の全、正しい人と書いて正人です。」
「正しい人…。なんか正しくねー。」
佳音と正人の会話に、健太が割って入る。正人はむっとした表情を健太に向ける。
「でも、名前に入ってる木を使うのって、家具らしくて良くない?」
佳音は二人の間に割って入る。うんうん、と錬が頷く。ふーん、と健太も中に目を泳がせてうなる。
しばらく、それぞれが正人の名前をぼそぼそと呟きながら考えを巡らせる。クァークァーと鳴きながら、白鳥のつがいが空を飛んでいく。その先にはまだ真っ白な稜線が連なっている。
「きっと…。」
ふと、健太が呟いた。
「きむらまさとの頭としっぽをつなげて、きっとってのはどう?」
今度は自慢げに大きな声で言う。
「キットって、手作りキットとかのキット?」
佳音は首をかしげる。健太は大きく首を振った。
「きっと、なになにだろう、のきっと。明るい未来を想像する言葉じゃね?」
ほう、と錬と佳音は目を合わせた。
「きっと俺らは有名なミュージシャンになって、女にもてまくり!みたいな。」
健太がにっと笑う。
「きっと、金持ちになる、とか。」
「きっと、看護学校に受かる、とか。」
錬と佳音が首をかしげ、考えながら言う。そして、三人は陽汰に目を向けた。陽汰は三人の視線をうけ、面倒くさそうな顔をしたが、しばらくして答えた。
「カレー。」
健太が大笑いする。
「きっと今晩はカレーだ。なるほど!明るい未来だわ。」
錬も佳音も、声を出して笑う。
「お言葉ですが…。」
正人はおずおずと手を挙げて言う。
「きっと、は確かにそうだろうと予測・期待する言葉です。ですから、必ずしも明るい未来ばかりを想像するわけではないのでは。」
えー、と健太は不服そうな声を上げる。
「じゃあ、正人さんはきっとの後、何を思い浮かべんの?」
錬が尋ねた。正人は眉をしかめて、考え込む。ふと、頬に当たる風に湿り気を感じ、正人は顔を上げた。
「明日はきっと、雨ですね。」
例題を思いついてほっとしたが、四人の不服そうな視線が正人に注がれる。正人は慌てて首を振った。
「雨も、いいですよ。雨降らないと、作物は育たないし、水不足になる。」
そう言いつつ、ここは明らかに希望を持った応えを出すべきだったと思った。
「せっかく、一生懸命考えてくださったのに、すいません。」
頭を掻きながら、頭を下げる。陽汰を除く三人は顔を見合わせ、吹き出した。
「確かに変な人だな。」
健太は笑いながら言って、行こうぜ、と錬に声をかけた。
「お邪魔してすいませんでした。」
佳音は正人にぺこりと頭を下げ、自転車にまたがる。陽汰は、チラリと正人を見てからそっぽを向いて、同じく自転車にまたがった。
「あ、美葉に手、出すなよ、おっさん。」
健太がそう言って、軽く手を挙げて自転車を漕ぎ出した。
美葉は体育館の入り口をそっと開けた。卒業してから初めてのことだ。クリーム色のペンキが塗られた引き戸は、驚くほどすんなりと開いた。ちょっとした靴脱ぎスペースに空の靴箱が並んでいる。ずいぶん小さく感じる。記憶の中の靴箱は、とても背が高く、最上段は背伸びをしても手が届かないものだったはず。でも今は、ちょっとかかとをあげれば、手が届く。
その奥に、もう一つ扉がある。透明なガラスがはめられたアルミの開き戸だった。美葉は一瞬迷ったが、意を決して扉を開けた。こちらの扉は堅く、ガタガタと音を立てながら開いた。
真正面に、葡萄色の緞帳が見える。左右に並んだガラス窓から斜陽が差し込んでいる。茜色の光を背に、本来そこにあるはずのないものを見つけ、美葉は驚きの声を上げた。
キッチンだ。
夕焼け空が覗く窓を背に、木製のキッチンがあった。
体育館の床と同じ柔らかな色調のフロントパネル。吸い込まれるように近づくと、縦に入る美しい木目が目に入った。
ワークトップも、同じ木材が使われている。横に流れる柔らかな木目。つややかな表面は優しく光を反射している。思わず手を触れる。その滑らかな感触に息をのむ。美しい天板に、古びたホーローのシンクがはめ込まれている。すっとまっすぐ伸びた蛇口は、コの字型に二つに分かれている。
「理科の実験室のだ。」
あまりにも不釣り合いで笑ってしまう。所々はげたホーローに触れる。シンク横のワークスペースを挟み、二口のガスコンロが目に入る。かなり年季が入っているもので、ガスホースにはつながれていない。家庭科室のコンロだと、一目で分かった。
「美葉さん。」
不意に名を呼ばれ、はっと顔を上げると、正人がはにかんだ表情を浮かべて立っていた。
美葉は正人の顔をまじまじと見た。
「これ、正人さんが作ったの?」
正人は恥ずかしそうに頷く。もう一度、天板に触れる。こんなに滑らかな木を触ったことが無いと思った。素人目にも素晴しい加工だと分かる。これは家具だ。キッチンは、家具だったのか。
そこで、ふと疑問が浮んだ。
「木って、水に濡れると腐ってしまうんじゃないの?」
美葉が幼い頃、和夫は庭に紫陽花畑を眺められるようベンチを作ったが、雪解け水がしみることもあり、数年で壊れてしまったのを思い出した。
正人は、静かに首を横に振った。
「木が、水に弱いというのは、誤解なんですよ。」
「誤解?」
そう、と正人は頷く。
「サンドペーパーで削ると、木の表面が傷だらけになってそこから水がしみこんで痛みの原因になります。だから、僕は鉋を使います。鉋で削った木の表面には傷がないので、水がしみこんでいきません。」
「鉋って、大工さんがよく使う奴?」
美葉の問いに、正人はふふ、と微笑んだ。
「最近は、大工さんもあまり鉋は使わないのではないですかね。鉋仕上げはものすごくデリケートで難しい仕事です。時間も手間もかかります。今は、木の加工技術が発達しているので、機械を通せば五分でこの天板が出来てしまいます。でも、それでは表面が傷だらけです。水がしみこまないようにしようとしたら、表面をニスで覆わなければならなくなります。」
美葉は天板をなでた。すべすべとした肌触りが心地よい。その美しい光沢を見つめながら問う。
「ニスを塗っていないの?」
「オイルフィニッシュです。」
誇らしげに、正人が胸を張る。
「食品を扱う場所ですから、安全なもので塗装するのが当たり前だと思います。口に入れても害のない亜麻のオイルを塗り込んで仕上げています。」
へぇ、と美葉は声を上げた。当別町のこの地域は、日本一の亜麻の生産地なのだ。初夏になると、健太の家の畑にも可憐な亜麻の小花が咲き乱れる。
「僕のおじいさんは旭川で家具工場を営んでいます。おじいさんが当別町の亜麻のオイルで家具の塗料を作り、使用しています。だから、町長さんと仲良くて、今回僕が工房を開くにあたり廃校になった小学校を使わせていただけることになったんです。」
なるほど、と美葉は息をついた。このおかしな隣人について、やっとまともな背景が見え、少し安心したのだ。でも、と美葉は思った。
「でも、何もわざわざ、木でキッチンを作る必要ってある?水に強くなるように、時間をかけて木を加工するんでしょう?」
美葉の問いに、ふーん、と正人は考え込んだ。意地悪なことを言ったな、と美葉は後悔する。時間や手間がかかったとしても、これほど美しいキッチンを作ることが出来るなら、それでいいと思うのに。
意地悪になった、と思う。自分は意地悪で心の冷たい人間になったと思う。友達と話し、笑うことも出来なくなってしまった。今は、それを無駄な時間だと思ってしまう。
「あ!」
突然正人は名案を思いついたという顔でぽんと手を打ち鳴らした。
「美葉さん、この引き出し、開けてみてください。」
調味料入れらしい引き出しを指さす。
「ここ?」
「はい。」
正人はうれしそうに満面の笑みを浮かべている。怪しい。何か企んでいるのが大きく顔に書いてある。
美葉は少しためらい、でも、どうせたいしたものではないだろうと冷たく思い、引き出しを開けた。
引き出しから、勢いよく何かが飛び出してくる。美葉は大きな悲鳴を上げた。
出てきたのは、拳ほどの大きさの円盤だった。赤く塗られ、舌を出したおどけた顔が描かれている。その顔はバネで引き出しの底とつながっている。
びっくり箱だ。
「な!?」
美葉は言葉を失い、口をパクパクさせた。正人は、声を上げて笑っている。
「驚かせてすいません。これはね、フルオーダーキッチンにはこれだけ自由度があると伝えるために作った引き出しです。普通のオーダーキッチンは、決まったパーツから、お客さんの気に入ったパーツを組み合わせて作ります。でも、僕が作るキッチンは、大きさも、形も、どこにどんな機能を持たせるのかも全て自由です。例えば、料理の最中に子供がぐずって困るというのであれば、この引き出しが役に立ちます。」
それに、と正人はまだ驚いた顔のままの美葉を振り返り、微笑んだ。
「キッチンは、幸せを作る場所じゃないですか。」
「幸せを作る?」
美葉は驚いた顔に疑問の表情を乗せて問う。
「ご飯を食べているときは、みんな幸せです。キッチンはみんなの幸せな時間を作る場所だと思うんです。一番幸せに近い家具、そう、思うんです。」
正人はふと、遠くを見るようなまなざしを窓の向こうに向ける。
「人を幸せにする家具を作る。その課題を達成するのが、今の祖父との約束なんです。」
「旭川の、家具工場のおじいさん?」
「そう。おじいさんは僕が一人前の家具職人になるために、段階を追って課題を与えてくれました。その課題を必ず生きて達成するというのが、おじいさんと僕との約束です。」
「生きて達成する?」
えらく大げさだと、美葉は思った。正人はその疑問に困ったような笑顔を返し、少し黙った。そして、言葉を探すようにゆっくりと続けた。
「人の幸せにする家具。とても、難しいです。すごく、悩みました。考えて、考えて。行き着いたのは、『フルオーダーでなければその課題は達成できない』という結論でした。人の幸せは、一人一人違うし、変わっていくものだから、既製品やセミオーダーでは、作ることはかなわないと思うんです。それで、家具工房を始めることになりました。」
言葉は次第に熱を帯びていく。だが、熱を帯びるほど美葉の心はしらけていった。
「手作り家具の工房を始めたのは、おじいさんとの約束を果たすため?」
「ええ、その通りです。」
美葉の冷たい視線に気づかないのか、正人は無邪気で頷く。その正人が、おもむろに走り出した。美葉があっけにとられていると、舞台の前で立ち止まる。舞台の前には卓球台が広げられている。正人はその上から大きな板を持ち上げ、重たそうに担ぎながら、美葉の前に戻ってきた。
「そういえば今日、美葉さんにもらったアドバイスをもとに、看板を作ろうと思いました。」
二メートルほどの一枚板を正人は地面に立てた。重たいのか、体で倒れないように支えている。
「ところが、いざとなると、看板には何を書いたらいいのか見当もつかず、悩んでしまいました。そしたら、美葉さんのお友達が来て、沢山アドバイスをくれたんですよ。」
満面の笑みを浮かべているが、この板を支えているのは大変そうである。
「分かった。とにかく、どこかに置いてから説明して。」
美葉は一枚板に手を置いた。厚みが5~6㎝ほどもあり、少し支えただけで重量を感じた。さすがに正人も重たいと感じていたようで、そうします、といって持ち上げ、もと合った卓球台まで運んだ。美葉も板の後ろを持ち、運ぶのを手伝う。宙に浮いた板は想像以上に重たい。
「美葉さん、気をつけてくださいね。」
正人の声に目を上げると、正人の二の腕が目に入った。細くて頼りない体つきだと思っていたが、くっきりと筋肉が浮き上がっていることに驚き、なぜか頬が熱くなった。
どっこいしょ、とかけ声とともにもとあった卓球台に板をのせた。板の上には、メモ帳と短い鉛筆が置いてある。メモ帳には、「木全正人」「木人」と走り書きがあった。
「お友達は、優しい方ばかりですね。看板には、『家具工房』と前置きを書いた上で、工房の名前を書いたらいいと教えてくれました。名前も、一緒に考えてくれたんですよ。」
正人はニコニコと笑顔で言う。美葉は一瞬堅く目を閉じた。もう、あまり何があっても驚かないと思っていたが。
「この家具工房って、一応すでに営業しているんだよね。」
「ええ、もちろん。いつでもお客さんが来ればオーダーメイドの家具をお作りできますよ。」
胸を張って正人が答える。
「でも、工房の名前は決まってないんだね。」
「名前つけるの、忘れてました。」
正人はポリポリと頭を掻くが、相変わらず邪気のない笑みを浮かべている。美葉は大きなため息をついた。欠落している。と美葉は思う。この男は何か大切なものが欠落している。
「名前、決まったの?」
だんだんと頭が痛くなり、あまり深く考えないでおこうと美葉は思った。
「それが、まだなんですよ。あの、体の大きな男の子。彼が、木全正人の頭とお尻をくっつけて『きっと』という名前がいいのではと言ってくれたんですけど…。」
困ったように、首をかしげ、眉尻を下げる。
「なんだか、既製品のキットを連想するので、フルオーダーの家具工房にはそぐわないのではないかと思いまして。」
そう言ってから、ふと真面目な顔美葉に向けた。
「きっと、という言葉の次に、美葉さんは何を思い浮かべますか?」
「きっと?」
美葉は正人の言葉の意味を飲み込めずにいた。
「はい、きっと、なになにだろう、のきっと、です。」
きっと。
美葉は考えた。きっと。未来を想定した言葉をつなぐことは分かる。でも、不思議なくらい何も思い浮かばない。先のこと、これから起こること。
あ、と美葉は声を上げた。
「きっと、こうしている間にお味噌汁冷めちゃってる。温め直す時間がもったいない。」
正人は美葉の言葉を聞き、顔から笑みを消した。自分に向けられた正人の視線が、内面を探ろうとしていると察し、美葉は一歩後ずさった。
「お父さんが、晩ご飯に正人さんを呼んだらって言うから、呼びに来たんだった。」
正人から顔を背け、義務的な口調で正人に伝える。
「親父さんが?」
正人は明らかにうれしそうな笑顔を浮かべる。
「親父さん?」
聞き慣れない呼び方に美葉は寒気を覚え、顔をしかめる。
「はい。朝『お父さん』と呼ぶのはいけないと言われました。それで、どう読んだらいいのかと悩みまして。おじいさんが、『髭親父』と呼ばれていたのを思い出し、では、お父さんは髭がないので『親父』と呼んでみたんです。そしたら、ものすごく怒られてしまいました。呼び捨てにしたのが、良くなかったみたいで、『親父さん』と呼んでみたら、まぁ、それならいいとお許しをいただきました。」
正人の口調から、男二人の滑稽なやりとりを想像し、美葉の口元がほんの少し綻んだ。その微かな綻びを受け止めるように、正人も微笑みを返す。美葉ははっと我に返り、正人に背を向けた。
「そういうことだから、晩ご飯、食べちゃって。食べちゃわないと、片付けが出来ないんだから。」
早口にいい、一歩歩いたところで、ふとメモの「木人」という字が頭に浮んだ。
「こびと…。」
名案だと思う。振り返り、熱を含んだ声で正人に伝えた。
「木に人と書いて『きっと』じゃなく『こびと』って読んだらいいと思う。『こびと』を別の国の言葉で言い換えてもいいかもね。」
「なるほど!」
正人が答える間もなく、美葉はスマホを取り出し、こびとという言葉のバリエーションを検索した。すぐに、様々な言語での「こびと」という表現が見つかる。正人もスマホの画面をのぞき込む。
「フランス語では男と女で違うんだね。イタリア語もだ。男が『nano』・・・、小さいものを連想しちゃうね。」
「そうですね。スコットランド語の『ドロイヒ』・・・。響は格好いいですけど、堅い感じがする。」
画面をスクロールしていく。二人で画面をのぞき込み、しばらくして二人同時にあ、と声を上げた。
「ジュジュ。」
声が合わさる。
「アルバニア語だって。アルバニア。どこの国だろう。」
「東ヨーロッパの国ですよ。バルカン半島南西部に位置する、アルバニア共和国です。ジュジュ、いいですね。樹を連想するので、家具屋にぴったりです。」
「そうだね。決まり?」
美葉は正人を振り返る。あまりに近いところに、正人のすっと通った鼻があった。至近距離で視線が合い、二人同時に後方へ飛び退く。美葉の頬は熱くほてっていたが、正人の白い肌も首まで赤く染まっていた。
その夜、美葉の部屋の窓から体育館の明かりが見えていた。美葉はいつもよりも遅くまで机に向かっていたが、眠りにつくために明かりを消す時間になってもオレンジ色の光は消えなかった。
翌朝、美葉が店の掃き掃除のために外に出ると、体育館の入り口に大きな一枚板が立てかけてあるのが見えた。箒を持ったまま、美葉はその板の前に歩いて行く。
「家具工房 樹々」
丁寧に彫られた文字に添えられるように、とんがり帽子を被った小人が彫られている。小人は四つ葉のクローバーを手渡そうとするように捧げ持っていた。
看板に朝露が降り、朝の光にキラキラと光っていた。
あの子が空を見上げる理由