朝の香りがする人だと思った。β

吾塚

 朝の香りがする人だと思った。やがてそれは、焼きたてのパンの香りだと気付いた。いつも、昼下がりのあのパン屋から出てくるひと。少し、猫背の、男の人。

「こんにちは」
 その人は私に気付いて微笑んだ。
「こんにちは」
 私も会釈する。
「あなたはいつも夜の香りがするね」
 唐突に、こう言う。その人は、少し変わった仕事をしているらしい。だから、少し変わったことを言う。ノーネクタイのジャケット姿。近眼メガネ。学生みたいで、先生みたいで、無職みたいで、表向きサラリーマン。そういうあなたこそ。私は浮かんだ言葉を飲み込んだ。ただ、なんとなく。私は笑みだけ返す。
「仕事の方はどう?上手くいってる?」
「上手くいってる方だと思いますよ」
 私は星を売る仕事をしている。ごくごく平凡なOLだ。最近は、天然の星も数が減ってきたので、擬似星の販売が好調になっている。顧客の情報管理が仕事。私自身、もう何年も星を買っていない。
「穂波さんは?」
「首尾はまあまあだね。ご飯を買う余裕くらいは、ある」
 そう言って、その人、穂波さんは手にした紙袋を掲げて見せる。【ベーカリー 雲】 ネーミングはベターすぎる。けれど、日の出直前のよく発酵した雲を採ってきて、日の出の光だけで焼いて美味しいパンを作る。近所では評判のパン屋だ。
「好きですね、パン」
「好きだね。毎日食べているけど、不思議と飽きないんだね」
 穂波さんは白い雲一つ浮かぶ紙袋を、私は温めたコンビニ弁当をぶら下げて、街路樹のなかを歩く。
 ここは変わった街だ。常緑の街路樹を隔てて、対岸にはビルの立ち並ぶオフィス街(このひとつがわたしの職場だ)、こちらには住宅と個人商店の数々。新しいものと古いものを一度に見渡すことが出来る、東亰でも珍しい地区だった。
「…しかし、あなたのまちは変わったね」
 思い出したように穂波さんは言う。
「そうですか」
 五年前程に就職したときには既に、こんな街だった。年齢不詳の穂波さんに言わせると、十年程前までは寿命の近い寂れた街の一つだったという。街にも寿命がある。このことすら、郊外に住むわたしにはピンと来なかった。郊外は常に人が生活をして、第二世代、第三世代と土地を引き継いでいくため、寿命が長いのだ。一方、ある産業で急激に栄えた街などは、その産業の衰退と共に衰えていく。寿命が近づくと國が再開発をして、新しい街を生む。もっとも、これは全て、教科書の知識。
「ぼくの街はさいわい、まだ活気がある」
 口をあまり開かずに話すのに、穂波さんの声は不思議と耳に差し込んでくる。
「なぜだか、わかる?」
 私の方は見ずに、少し上の方を見上げながら、そんな問いかけをする。
「なぜですか?」
 わからないので問い返す。
「いっしょに生きてるからだよ」
 その声は笑っていた。見ると、さもおかしそうな表情を浮かべている。まるで、私がおかしなことを訊いたみたいだ。
「何が…」
 もっと詳しく訊こうとしたところで、穂波さんと目が合った。少し微笑。
「それじゃあ。また」
 気付けば穂波さんの仕事場の前だった。今どき珍しい煉瓦造りの小さな二階建て。
「あっ、はい。また」
 私は既に立ち去り始めている穂波さんに向かって、頭を下げる。頼りなげなようで、確かな歩調の革靴の音、その細長い後ろ姿は、古い煉瓦に見合わないガラスの扉を開けて、一瞬こちらを振り返ってウインクでもしそうな、その手に提げた【ベーカリー 雲】が見えなくなるまで、私は見送っていた。重く閉じたガラスの扉には、穂波さんの背中を透かして【無重力屋・蛍】。
 私は街路樹の間の横断歩道を渡る。同じ顔のビルが立ち並んで、私のビルは穂波さんの仕事場のちょうど向かいの六階建て。私と穂波さんとは、奇妙なお向かいさんなのだ。

朝の香りがする人だと思った。β

手作り冊子「なりやまない」(2016年7月)掲載作品の一部を加筆修正。
「朝の香りがする人だと思った。」という言葉をいただいて書いたものです。
『ここから少し近いところで星の話をする』のもとになりました。

朝の香りがする人だと思った。β

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-09-11

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