徳利 童歌(上巻)

大器晩成という言葉がある。夢がある。
若いときから、親不孝を重ね、まさに親不孝通りを真っ直ぐ走ってきた捨吉は、歳を重ね気がついら、小さな花に囲まれいる自分がいた。これも大器晩成型の一つかなと微笑んだ。

最後の夏祭り

 夏の日差しが強い。 
川崎駅前の繫華街には祭り提灯が溢れ、祭囃子の音色が行き交う人々にリズミカルに祭りを伝えていた。
第一京浜国道と川崎駅に向かう四つ角に神社がある。今日はこの稲毛神社の例大祭の最終日だ。 
神社の境内では屋台が所狭しと祭りを盛り上げている。
アイスクリームや玩具などを手にして歩く親子ずれや浴衣着の子供達が所狭しと散策している。境内の仮設の舞台からピーヒャラピーヒャラとこの時ぞばかりと祭りを盛り上げていた。
 
 稲毛神社の神輿は百貫神輿とよばれ担ぎで手が30人ほどいないと重量があり巡行は無理だと言われている。
その他にも交代担ぎ手がいるので神輿の回りには豆絞りを頭にまき、ハッピ姿の威勢のいい氏子達で取り囲まれているのだ。

茜雲の灯りが暮れようとしている頃、国道で交通整理をする警察官を横目に百貫神輿は氏子の集団と共に神社の鳥居を抜けた。
セヤ、セヤ、セヤと、威勢よく汗にまみれた祭り半纏に身を包んだ氏子若衆の掛け声に乗って人並みを捌きながら、宮入りを惜しむように神輿は左右上下に激しく揺れ動く。
 この神社の近くで11年前から居酒屋吉冨を営む男もその中にいた。38歳になる川奈一郎だ。彼はこの百貫神輿の花棒を担ぐのも今日が最後だと心に決めていた。花棒は担ぎ手の男冥利の場所だ。人の眼が自然と集まる先頭の担ぎ棒だ。吉松はを神輿と惜別する寂しさを打ち砕くように威勢よく担いでいた。
この日は特に担ぎ手仲間の機微に触れてきた日々の思い出が、走馬灯の様に駆け抜けていく自分が惨めてならなかった。
神輿は無事に宮入りを終え、高らかに終わりを告げる拍子木の音が響きわたり、多くの見物者の拍手を背にしながら百貫神輿は台座に静かに腰を下ろした。
担ぎ手達は振る舞い酒に酔いしれたり、頭から水をかけて汗を流したり、大声で歓喜を表すもの達で祭りの終演を演出していた。
吉松は仲間と疲れを癒し、ひと時の歓談を終えるころには、辺りは夜景に染まりビルの谷間のネオンが輝き出していた。 商店街のスピーカーから流れる祭囃子は祭りの時を止めないでいた。
 一郎は、人波の喧騒を捌き、経営する居酒屋吉富に足早に戻っていった。開店時間が迫っていたのだ。

 居酒屋吉富は川崎駅前の繁華街である稲毛通りに面している20坪程の店だ。
丈の長い縄のれんをくぐると、洋ヒノキで作った一間程のテーブルと10畳の畳敷きの客間があり、通路をはさんでカウンター席がある和風の店だ。彼は施工者に勧められて二回目の改装工事を、輸入ヒノキの原木をわざわざ取り寄せ、海でしばらく寝かした原木を加工して、壁やテーブル、壁面に使用していた。店の内装には彼の趣が活かされていた。
 一郎は祭りの興奮もすっかり冷めて普段の姿に戻っていた。
 畳敷き客間の上がり框に座り、白足袋、脚絆、腹掛け、股引きを脱ぎ、煉瓦染めのハッピをゆるりと脱いだ。
(良し、これでケジメが付いた、店は閉店だ)と心で叫んでいた。

わざわざ窯元で作らせ白塗りの徳利が棚に寂しそうに並んでいる。
五合徳利を大政、二合徳利を小政となずけ人気を博した居酒屋吉冨は経営者である吉松の向こう見ずで破天荒な生き様が災いして、閉店に追い込まれていた。

 店の板前やパートのお姉さん達が店主の吉松を見て[お疲れさまです]と開店準備で忙しくしながら声をかけた。
[ご苦労様、いや、暑くてまいったよ]
一郎は普段と変わらない会話をしながら清酒大関から寄贈された、藍染の煉瓦模様のハッピ姿に着替え、カウンターに置いてある、滋賀県の縄のれん専門店に作らせた四間巾の丈の長い縄のれんを店先に出した。開店である。
その日は閉店まじかに仲間の担ぎ手が数人店にやってきて祭り話に華が咲いた。
一郎も他のお客様に気を使いながらカウンターに陣取る仲間の輪に入り祭り話を弾ませていたが、芯から会話に溶け込む心は消えていた。
それには事情があるのだ。

 その事情とは今日の祭りを終えてから居酒屋吉冨の倒産の準備に取り掛かろうと決めていたからである。
川奈一郎は商店街役員や早起き野球チームの監督やら、選挙時の役員、市民祭りの役員など商売以外に身を割いていたので祭りごとには欠かせない男であったからだ。
地元の祭りを見て見ぬ振りは出来ない、逃げられない立場にいた。
特に川崎駅前の国道を止め開催された市民祭りの企画担役員を任され、警察署に歩行者天国のため国道を解放してもらうため交渉を先頭に立って行動して、警察所長を悩ませた程の祭り人間だった。
頼まれれば断りきれない人の良さが災いしていて、役職が増えてしまったのだ。勿論、本人も各種の行事に参加することは楽しみであることに間違いない。ただ、商店の親父としてはやりすぎだったことは否めない。
商人は負えない役員などをしてはいけない、それが金儲けの秘訣だと誰からか聴いてはいたが、皆が喜ぶ事なので断り切れないでいた。事によっては、自ら企画をつくり実行をしていた。商店街の店主たちは吉松の祭りごとに対する日ごろからの姿勢を見ていて、やりすぎだと思っていても、大方の店主は商店街の発展に寄与しているのだからと大事にしていてくれた。まさか経営状態が自転車操業だとは思っていないのだ。
川奈一郎は独りよがりだが、商店街の店主達の期待の目もあるから無事に祭りを終えてから店の後始末をするとき決めていたのだ。      
(散々、商店街に言いたい事を言って来たのに、祭りを済まさないで逃げ出したか)
と思われるのを避けたかったからである。それは捨吉のつまらない見栄からくる生き様だった。

今年の祭りは一郎にしてみれば人生流転の旅の始まりだ。その流転双六の振出しが今日の祭りなのだ。
ケジメをつける誓の意を込めてた祭りであり、踏み切り台のようなものだった。
華やかな祭りの灯りが消えると商店街のシャッターが下ろされていき、街路灯が行きかう人影を映し出していた。
 その日の営業が終わり、縄暖簾をカウンターの上に下ろすと畳の客間に飾られてある一枚の絵に目が止まった。
近所の画商があしげなく通ってきて油絵を薦めるので言葉に負けて購入した絵た。秋の河原に薄寂げになびくススキの10号だ。
無論、絵を選んだのは捨吉だ、画商は気鋭の作家で将来性がどうのこうの説明をしていたが、彼にとっては、そんなことはどうでもいいことであった。
彼にとってこの絵は郷愁を感じさせ、人生を考えさせてくれる絵であった。
この絵と会う度に[お前の心の何処かに絵の魂が宿っているだろう、描きたくないのか、絵を描き始めるとお前の事だからのめり込むので店が潰れるぞ]と常に言われているような貴重な絵でもあったからだ。店の雰囲気を考えるならば他の絵でももいいとは思ったが、このすすき野の絵を下すと、何か親愛なる友人を失うような想いがするのであった。
とくに今日のこの絵は癒やされる絵ではなく、暗夜行路に見えていた。これからどことなく彷徨うはずの己の人生行路を予感させるのに充分であった。(ほら見たか、なまじ、芸術に興味を抱くからソロバンがくるって、倒産の憂目にあうのだ、商売は稼ぐことだ)と
血も涙もない絵に言われているようだった。
 絵は日に日に姿を変える。見る人のその日の感性が絵を変貌させるのだ。

一郎は店のシャッターを降ろして錠をかけ、孤独の車を走らせ両親しかいない淋しい武蔵小杉の自宅に帰っていった。

 一郎には二人の男女の子供と32歳の妻がいる。妻の名は名前は由恵と言う。スラッとした背の高い、客受けする愛想の良い女だ。茅野市の農家の次女だ。
一郎の家は武蔵小杉の田園地帯に一戸建てに両親と住んでいる。
普段は夫婦で店を終える自動車で、時には子供を乗せて通っていた。 

 妻の由恵と子供たちは今日は祭りの日だつたと言うのに店にはこなかつた。実家の茅野市に帰っていた。
理由は簡単だ。
夫の日頃の行動に愛想を尽かし一郎には言わないで実家に戻っていたのである。むしろ、一郎にしてみればこの際、子供は夏休みでもあり、いない方が余計な気配りをしなくてもいいので都合がよかった。
妻はおそらく一郎との離婚を考え始めていた気配が見えていたので、親兄妹に相談を兼ねて行ったのだ。 一郎にしてみれば離婚話に乗れる環境ではないのだ。既に時期を逃していて手遅れだときめていた。
(お前の好きなようにしろ)と言う心境だった。由恵に妻らしきことをしてあげたのは居酒屋吉冨の開店から数年間だけだ。今では早い話が離婚調停なんてできる身分ではないのだ。
店の営業を継続してさえいれば、世間は大目に見てくれるが、潰れた、閉店だとなると債権取立と言う渦巻きに放り込まれるので、家族の心配事は二の次になるのだ。 この頃は夫婦間の口論が絶えず捨吉は由恵を避けてきた。原因はすべて彼にあるからだ。 

離婚話しの原因になる話は数えきれないが、その発端というか源泉は、一郎の実家である東京中野にある酒屋の後継者争いからだ。
居酒屋吉冨をやめる三年前頃だと思う。
一郎の姉で、長女の栄子の夫で吉松の義兄にあたる中林良一と父が相談をして決め個人営業の酒屋をを会社組織に変更したことからきている。
父の東京中野に築いた酒屋を更に発展させるため義兄が会社組織に変更し、自分が社長に納まり長男の一郎は当面は専務として働き行く末は社長にする言う事で父との約束はできたのだが一郎は酒屋の跡を継ぐのを嫌っていたので、義兄の指示には従わず、家を飛び出したのだ。
その後一郎の独立を認める形で義兄とは別れることになり、もめた末、両親と共に武蔵小杉の団地に住む事になったのだ。そもそも一郎には居酒屋吉冨を経営する気持ちはないのだ。出来る事なら映画か新聞記者か、マスコミ関係の仕事ができればと漠然に考えていたが、親の希望と己の道の板挟みで意志の定まらない日々を送っていたが、義兄の構想に流され、それに反発したり、由恵との結婚もあったりした結果が居酒屋吉冨での独立だった。武蔵小杉の両親と幼い子供二人と夫婦の暮らしは暫くは平穏な日々が続いていた。
一郎は料理経験がないので調理師協会から板前を雇い入れて刺身や鍋物に力を入れて本人は店の看板である焼き鳥専念していた。
これで自分が懸命に働けば暮らしていけるなと思っているところに義兄の思わぬ反撃がきたのだ。
そもそも一郎は、酒問屋から評判のいい、やり手の義兄が簡単に社長の座を離す男ではないと、若輩ながら感じていたし、人間的に性格が合わないでいた。彼は利益を追求する男で、一郎は真逆の芸術肌だからだ。


義兄の反撃は彼が酒販売の決め手と挑んだ居酒屋吉冨を吉松にかき回され、挙句の果て経営権を渡さざるを得なくなり、父と酒屋の譲渡の話はつけたが吉松が反抗をしたのが許せないのか、父と交わした土地の売買契約で、発生する譲渡所得税は義兄が払う約束を反故にして父に押し付けてきたのである。武蔵小杉の田園地帯に一軒家を造り、川崎の居酒屋も順調に動き出したのが気に入らないのだろう。義兄は会社組織の出鼻を吉松に叩かれた形が気に入らないのだろう。義兄は譲渡所得税200万は父が払うべきと思っていたかもしれないが、もしそうだとすると、土地や酒屋の営業権を加味すると安いので整合性がないのだ。そう考えると義兄の反撃は吉松憎し以外考えられないのだ。

譲渡所得税の支払いに困窮するところから居酒屋吉冨の苦難が始まるのである。たかが200万といえども慎重さに欠ける吉松は何とかなるだろうと思って洋風の一軒家を建てていたから預金などのないのだ。
最初から吉松が父の希望通り酒屋の跡をつげば何ら問題は起きなったし、義兄も大手の会社の経理部を辞めることもなかったのかも知れない。だが、吉松の決断力のなささか、優柔不断なのか、青春の抵抗なのか、人生の魂の要求なのか、分からないが、跡目問題で家族を巻き込んで行ってしまうのだ。彼は日頃から信用金庫みたいに硬くて金に追われる生活は性分に合わないと言っては父親を心配させていた。

当時、武蔵小杉の土地は父の名義で、建屋は捨吉が公庫の借り入れで建てた。
公庫の返済が、毎月8万円だったが、結果的に譲渡所得税が未払いとなりのその返済のため、毎月の返済が増えて苦しむことになってしまったのだ。
居酒屋吉冨没落の原因の一歩だと彼は言ってはいるが、それも要因ではあるが本質ではない。本質は吉松の甘やかされて育った精神にあるのを彼は気が付いていない愚かさにもあった。

 捨吉は、店の売り上げだけでは国税の増えた分は賄えないので店の経営を信頼出来る板前の今野と由恵で回せるようにして、自分は新宿の高層ビルの一角にある、那須高原を販売する丸十不動産会社に勤めに出ることにした。吉松の構想はやがては不動産事業にも出ていこうとする思いもあった。
彼は持ち前の話し上手を武器に成績を上げ課長に昇進し部下も増えたが、面倒見が良すぎて交際費が増え、稼いだ金が、いつの間にか消えているのだ。不動産会社は各部対抗戦で、成績の良い部は上位に、翌月ランクされ、歩合も上がるシステムだから部下を気分良く動いてもらうには、飲み屋の接待、キャバクラ接待など、浪費がかさむのだ。課長になると運転手つきの黒の乗用車を充てられ営業をする。最初は特別の計らいだと勘違いをして有頂天に誰でもなるのだ。川奈吉松は部下は七人で七人の侍ではないが気合は入っていた。例をあげれば、会社から乗用車で町田に着くと繫華街のサテンに入り飛び込み営業を指揮するのだ。警察でよく見かける住宅の名前が書き込んだ地図だ。
(今日は100件飛び込め、この地図のここからここまでだ、消防署があろうと、幼稚園があろうと、通り過ぎてはいけない。一軒残らず飛び込め。一軒さぼるとさぼり癖がつく、さぼり癖が付くと飛び込むのが嫌になるからだ。)とか言って放り出すのだ。契約が取れて景気のいい時は、吉松はソープランドで休んでいていたり、健康ランドで休んでいて、3時ごろになると部下から見込み客を報告させて共にクロージング行動に行く段取りだ。三文印一つ持たせて那須高原に招待するために、見込み客を説得するためだ。キツイ営業をは報奨金でペイされる仕組みだ。
朝駆け夜討ちは当たり前で帰宅が終電車になることしばしばあった。遊び癖はその時始まったのではない。
きつい仕事だからというわけではないが、部下の面倒の見方によって成績が違うのだ。
殆どの社員は吉松と同じで金欠病だから、経費がなくなると借りに来る。時には人の良さから自分のカード部下の遊興に貸す始末、挙句の果てカードで貸した累積50万円は部下が返さず会社を辞めてしまい、音信不通になって金は戻ってこないと言う悪循環になる。結局、思ったほど金にならないので会社を辞めて店に戻って来たのだ。
店は相変わらず盛況だが、諸経費を充填できる程の利益はないのだ。薄利多売の原則を貫いていたからだ。最も高額な値段を取れる技は板前も持っていなかったか、この店では必要ないと思っていたと思う。板前の吉田さんは50歳位の人で近くにある川崎競輪場に前売り券を結構買っていた。辞める時は棚にしまっておく釣銭を持ち逃げして辞めていった。でも憎めない良い男だった。
財政は自転車操業の体をなしていた。
川崎と言う繁華街は夜になると、色の街に変貌する。怪しい売春宿やトルコ風呂が競馬、競輪の流れの客を吸い込んでいく。女の紐男が地方から稼ぎもくる。水商売で働く女の帰りを待つため、麻雀屋で明け方まで女を待つ遊び人も数多くいた。慣れとは恐ろしいもので、環境が変われば擬態もできる。
夜の街は擬態人間の寄せ集めだ。環境になれると生きていくのが楽になる錯覚を身につけるようになるのだ。
川奈吉松も時間の経過とともに夜の雰囲気に染まっていった。
店のお客としてソープランド嬢が時々顔をだ
(マスター今日は毛蟹ある?あと、中トロね、)と金を使ってくれるのだ。
(ねーマスターまた、お店にきてね、忘れないでよ、必ず指名してね)とか言われると店にいかないわけにはいかないのだ。
じっと我慢して商売に専念すのが普通だか、脇の甘い吉松は夜の女も人には言えない苦労があるのだろうたと、身の丈を忘れて同情する始末。また、近くのキャバレーに、閉店間際に遊びにいく、店の印半纏を来たまで。あと10分でラストオーダーというのにサテン代わりに利用していた。これにも理由がある。
、居酒屋吉冨が3階に借りている宴会場を団体客が使う時、彼女らホステス達がキャバレーの出勤前にお客様の相手をしてくれて売上に協力をしてくれているのだ。
こうした関係になっているから、たまには勤め先のキャバレーに行かないとホステスにソッポをむかれる心配があるのだ。言わば危機管理費なのだ。
宴会に応援来てくれるホステスをまとめていてくれた娘がいた。キャバレーダンケのナンバーワンと言われた千加だ。
千加には馴染み客にA級競輪選手の小林選手がいた。
吉松は小林選手とキャバレーダンケで千加の指名の取り合いで勝ったのだ。勝ったと言っても千加にどれだけ金をつぎ込んだだけの話だ。
男の瘦せ我慢、見栄っ張りの産物だ。
その縁で千加子と親しくなり、なると、副産物が生まれ来るものだ。
(ねー、聞いてくれる、お給料出るときまでに、お客様の店のつけをさ、一時立て替えなければいけないの)と言う副産物が生まれる。
吉松も惚れた弱みでいい顔したくなる。二人は妻の由恵の目をかいくぐり旅行に出かける事もあった。それも、正月元日開催の高知競馬場だったりするから重症だ。また、女房由恵と板前の森田と千加の四人でレストラン行った事がある。勿論、由恵は千加が夫と親しい中だとは知らない。何故ならば吉松は、森田に(お前の彼女にしておいてくれ)と言い含めていたのだ。その後千加は理由はわからないが吉松から逃げるように、札幌のすすき野の夜に引っ越ししていった。二年ほどして川崎に戻り吉松は彼女と再会したが、苦労していたのか顔は疲れていた。その頃には彼女を受け入れるだけのパワー吉松にはなく、彼女は自然と離れていった。
夜の世界は情けと情けのにらめつこ。情けの影で、金が泣く、借金が増えていく。譲渡所得税の支払いに追われていた頃はまだいいほうで、人間一度甘い汁を飲むとくせになり、辛い水は避けるようになる。甘い汁の癖が切れない弱さの虜になり、県や市の制度資金を借りて苦痛を避けるようになる。
(なーに、何とかなるさ、)と言う吉松の歪んだプラス思考が脱線を予知していた。
 儲ける事も上手いが、出る方は水道の蛇口のように良く出るのだ。まあ。運転資金にこと欠く毎日だ。利益率が少なくなって来ると、今度はお客に言いがかりをつける
、(お酒が安いので、お酒はかり注文されると採算が合わないので、おつまみもよろしく)と言い出す始末。落日の階段は足早だ。そして致命傷となるヤクザとの縁が生まれる。居酒屋吉富をを辞めた従業員が、ヤクザ予備軍になっていたり、トルコ風呂(ソープランド)の店長だったりしていて身近なところで暮らしているのだ。
生きている世間が狭いのだ。まるで太陽を知らない夜行性動物だ。
捨吉もその頃は夜行性動物の一員だ。
手早く資金を得ようとする捨吉は、ヤクザの勧誘に負けて法律違反の馬券売買のノミ行為に手を出すようになった。
世間でよく聞く奈落の一歩の始まりだ。負け込んでくると、取り戻そうとしてまた賭けるの繰り返し、徹夜マージン、野球賭博、博打の洪水だった。吉松の様に博打に賭ける商店主や建設会社社長も悪の遊戯に踊っていた。新聞屋、鳶職、室内装飾、タクシー、色男、身を崩していく集団はどこにでもいるものだ。
負けが込んでくると店は従業員にまかせ自分は二階の麻雀屋で賭けマージャンだ。店長の吉松の評判はガタ落ちになって行った。しかし、商店街の店主達には不思議と人気が悪くない。裏で博打依存症になっている事など知らないからだ。こんな男だから女房に愛想が尽きられるのは時間の問題だった。江戸時代なら、斬首晒し首だ。
こんな時でも由恵は捨吉の両親の世話してくれている。夫がだめ男でも、由恵は両親にいやな顔一つしないで自分の親のように思っているのだ。
両親はせがれの馬鹿さ加減に呆れて生きた心地などなかった。


 祭りが終わり一週間ぐらいして、茅野から由恵と子供もは帰ってきた。
由恵は実家での相談事は何一つ話さないのだ。
板前やパートさんの手前、店には出てきてくれた。由恵は何とかして店だけは潰さないようにと心配してくれる板前と努力を続けているのだが、
吉松の堕落ぶりは燃え盛る火事のようで、手のつけようがなく呆然として鎮火を待つようなものかもしれなかった。

 恋女房であるはずの彼女が吉松に愛想をつかした要因はこれまでに数々あるが、その中でも暴れ太鼓の様に激しい1場面がある。

【由恵は刺身包丁で捨吉に襲いかかってきた】

半年前の事だ。二人の子供はもう寝ていた。
この頃の捨吉は店経営を従業員と由恵にまかせて徹夜麻雀に明け暮れしていた。マージャンの相手はヤクザの組員や店主だったり、大阪から来たという女の用心棒の色男だ。
いつも麻雀屋の奥にある席で一般人の席と比べて椅子がデラックスの出来ている。遊び人のタバコはどういう訳か知らないがショートホープが多い。直ぐなくなるのが受けているのかも知れない。煙が邪魔な時もあるからだ。仲間は腹が減ると決まって特上寿司だ。マージャンのレートも一般人は100円が定番だが1000円で互いに勝ち負けを競う指しマージャンは50000円だ。勝つ時は30万負けると30万位の賭けマージャンだ。吉松はマージャンの点数も良く分からない男だが勝負勘はあると自分に言い聞かせている。このレートマージャンは週一ぐらいだが500円は毎晩、好きな時にできた。1000円レートは殆ど恥ずかしい話だが負けることが多い。相手は雀士だ。吉松など一捻りだと思う。
直感勝負だと自慢している吉松だが場数の多い連中には勝てるはずがないのに、まるで、そんなはずはない、俺は勝負勘の鋭い男だと慢心していて、一種の病気、慢心病というばい菌が蔓延しているのに気が付かないのであった。
麻雀屋には自前の歯ブラシ、タオルを麻雀屋に預けてまでの熱の入れ方だった。薬を薦める男もいたが、さすがに薬だけは手をつけることは無かった。これに手を付けたら、今もどん底だが二度と立ち上がるのは不能と思っているからだ。
一般席の中にマージャン好きの高校時代の親友の六さんが吉松に関係なくたのしんでいる。r六さんの父は日本橋で税務事務所をやっている硬い人なのだが、六さんは税理士を目指してはいるが、お父さんの頭痛の種には間違いない男だった。安保闘争の時代だから、剛毅な友達も多い良き時代?だった。結構、父親の財を潰した友人が多い。吉松もそのメンバーの優等生だ。

そんな時のある夜、家に戻って来た捨吉と口論になり由恵は逆上して包丁騒ぎになってしまったのだ。
人間一度落ちだすと見境が効かなくなり、どんどん地獄街道を走っていく。溺れる者は藁をもつかむというやつで高利の金に手を出すやら、信頼性の薄い地元商店の旦那達の無尽に誘われ月の積立金額が三ヶ所で60万円もあった。博打に負けた時の保険だ。、まともな言葉も交わせないから由恵と口論になるのは日常茶飯事だった。       
 ことの始まりはこうだ。マージャンの負け疲れで掛け金もなくなり早めに帰宅した時だ。
ドアを開けた瞬間、開口一番由恵は今日こそはけじめを付けると言う気持ちで語気を強めた言い放った。
(あんた、約束した20万持ってきたでしょうね、もうすぐ、もうすぐというばかりで、冗談じゃないわよ、学校の月謝どうするの、何とか言いなさいよ)
生活費だった。。
(うるせいーな、そのうちだよ)といつもの捨て台詞を言って居間に入り靴下を脱ぎかけた。
吉松は賭け事に負けて手ぶらで帰ってきたのである。
店の売上げから妻が取れば良いだろう思うけれど、毎日の売上は支払先が決まっていて、もう伸ばせない状態を由恵は知っているから、どこからか吉松が借りてくるだろうと思っていたのだ。やりくりの上手い吉松の性格を熟知しているから、期待していたのだ。
本当は博打の金が欲しいので売上を自由にさせなかったのだ。毎日の売上は銀行の深夜窓口に投函するのが常だった。
妻の由恵は吉松が怒ると手の付けられない男だと経験しているからおいそれと口を挟まないのだ。
以前、夫婦喧嘩になり、吉松は負けそうになると、あたるところが無く、理不尽になり、自分のスーツをナイフで割いて、窓から投げ捨てた事がある。そんな凶暴な吉松をを見ているのに包丁を取り出してきたのだ。
この日の由恵は人が変わったようにきつい目つきで言ったのだ。いつもの捨吉と立場が逆転していた。

(冗談もいい加減にしろ。店でも閉めて働きにいけ)と大声を出して吉松を怒鳴りつけた。いい加減にして、といい加減しろとでは心臓の脈拍が違ってくる。ろ、と、て、の違いで怒る度合いが違ってしまうのだ。今回は(ろ) だからこっちも力が入る。
(うるせぇ、黙ってろ)とは言ったものの非は歴然としている。
捨吉はも喧嘩をしても解決する目鼻が立つなら相手にもしたかもしれないが、売り上げ金を博打に使い果たしての帰りだから怒鳴られるのは当たり前だった。男の世界は義理が一番。負けた金は女房を質にいれてまで払えと言う下らない男気が宿っている。やくざ映画の見過ぎだ。そう言えば店の裏道りには深夜映画を上映する古びた映画館があった。(緋牡丹博徒全盛期)吉松はよく店を放り出して見ていた。
 この頃の捨吉は、遊び人仲間では知らない人はいない男になっていた。店の二階の麻雀屋の親父さんも遊びが過ぎて居酒屋が傾くのではないかと心配していた。
店を閉めたくても、積もり積もった借金をきれいにしないと逃げるに逃げられないのだ。捨吉は借金という重たい荷物の事で身動きが取れず由恵との喧嘩は吉松の借金苦に比較すれば、ままごとセットにしか思えないでいた。学生時代には思いもつかない世界にはまり込んでいる自分を顧みてこの深く染み込んだ極道の道をはね返していくには竹槍では押し返すことができない、せめて家族をすて世間を捨て日本国中懺悔の旅をして生きていくしかないのかと思ったりすることもあった。だが、そんな度胸もなく、この苦境を出るには竹槍ではなく、バズーカ砲の様な強い意志を持ってどこまで戻れるか挑戦するしかないと密かに思っている吉松だった。

(黙っていないで何とか言ったらどうなの)
由恵の、怒りを適当に聞き流して、新聞を読み始めた吉松のふてぶてしい姿を見て、
(あんたみたいな人は人間じゃない。殺してやる)
と、我慢に我慢をして来た吉松との暮らしに吹っ切れたのか、気が動転して、辺りにある食器類を手当たり次第に投げだした。その手も休まなうちに台所の包丁立てから牛刀を取って泣きわめきながら捨吉に襲いかかってきた。牛刀は吉松が適宜手入れをしているので、間違いて切り込まれるとスーツと入る切れ物だ。
吉松はとっさに立ち上がり芳恵の包丁を持つ右腕を押え壁に身体を押さえつけ包丁を取り上げた。
由恵も本当に殺すつもりはない、泣きながら包丁を上に上げて中々降ろさないからだ。ただ泣き喚くのだ。由恵にしてみれば、虎に抵抗する猿みたいなものだけど、いっときは殺してやろうと思ったに違いない。
子供たちも騒然とした音に目を覚し、母親の腕にシッカリとしがみついて泣き出した。
やがて子供と妻は座り込んで泣出した。夜もふけている。父親が騒ぎに気がついて当然のごとく捨吉に怒鳴り出した。
(いい加減にしろ。お前のやっている事は人間じゃない、由恵さんの苦労を台無しにするのか)と怒りをぶつけてきたが、吉松はただ、沈黙するばかりだ。
(由恵さんこんな男とは縁を切りなさい、)と語気を強めて言い放った。そうでも言わないと父は嫁に申し訳ないと思ったのだ。
父親はそう言い残し部屋に戻っていった。吉松は静かな間を、助け船にして、
(もう大丈夫だよ、お父さんはお母さんに謝るからね、早く寝なさい)
子供には罪はない、吉松は険しい場を収めようと優しく子供たちに言った。その夜は子供達のお陰で喧嘩は終わった。子供は神の子とはよく言ったもんだと、悦になっていた。
翌朝、話す言葉も見当たらない夫婦であったが、出かけ様に吉松は由恵に言った。
(今日は店に来なくていいよ、金は何とかするさ。それとな、、別れればいいのだろう、何時でも別れてやるよ。市役所いって離婚届を貰ってこい、よ、何時でも判子は押すさ)本音だった。
この頃は毎日のように金に追われて、もう貸してくれるところがないから博打に手を染めて挙げ句のはてヤクザの十一の金に手を出しズッポリと地獄にはまり込んでいた。
吉松は(日々、のたうち回る男など男の価値などあるはずがないと、むしろ離婚した方が由恵は幸せになれるだろう)
思っていたのである。
それにしても一歩間違えれば殺人事件になり兼ねない事態であった。あの険しい由恵の形相は狂人のようで流石の吉松も普段は和やかな顔をしている女でも、事と次第によれば恐ろしい女なに豹変するものだと恐ろしさを肌で感じるのであった。人間の業は一度で結論など出るはずがない、深淵で答えなどあるはずがないのだと、再挑戦の機会を見つけ出そうと気を入れるのだが、その道のりはまだまだ遠くに見えた。
 恐ろしい女にしてしまったのは間違いなく吉松本人であると自覚はしているのだが、世間の壁は愛だけでは乗り越えられないのが世の掟。
身から出た錆とは言えズシッと罰が肩にかかり、普通の世間には戻れないで、苦悶の日々をの中で暮らしていた。

稲毛神社の祭が終わり、居酒屋の倒産の覚悟を腹にしまい込んだ吉松はこれからの世間の厳しい定めに身をさらすことになる。
それだけではない、家族さえ守れない男になり下がっていた。
離婚届はしばらくしても由恵は持って来なかった。
おそらく離婚の問題よりも、人にも言えな家族の貧しさにどう立ち向かっていくべきかを考えていて、離婚を真剣に考える余裕も彼女にもなかったのだろう。   
 この件から10年ほど過ぎた頃由恵がポツンと漏らした言葉ある。
由恵の兄が、妹の不憫な暮らしを心配して、送ってくれた食料品の中に金を入れてくれたそうだ。この頃、東京の私立小学校に通わせていた息子も月謝が払えず退学させる始末。子供心に深い傷跡を残してしまっていた。
                 
 祭りも済んで居酒屋の倒産を覚悟した吉松には、自業自得とはいえ過酷な人生が待っているはず。
世間の掟は厳しく冷酷だというのが相場だ。まして、天下ご法度の闇、賭博の度が過ぎて転がり落ちていくのだから、これから泳ぎ方一つで天にも地獄にもなる。     
 この後の吉松夫婦の運命を語る前に、彼の生まれ育つた環境と妻、由恵との出合いに触れておきます。なぜならば人それぞれ生まれた環境により、まるで笹舟が川を行く様に、アッチにぶつかりコッチにぶつかりながら何処にたどり着くかは天のみぞしるというめぐり合わせを背負って生きて行くからだ。
 自分の意志は灯台の灯りみたいなもので、灯台の灯りを失った者は彷徨い歩いて、どこを歩いているのさえわからなくなる。、何処かで灯りを見つけるしかないのだ。
先ずは吉松夫婦の過去を覗くと未来に繋がる運命の不思議さが映り出されてくる。吉松を夫にしてしまった今の由恵は壊れたとっくりの一つで不憫だが、昔は雪の下駄のよう世間を深く考えないで素直に吉松ついてきていた。茅野市の田んぼの淵に成人式で着物を着て吉松に笑みを浮かべて
ポーズを取った由恵は期待が外れてどこをさまよってさまよっているのだろうか。
                 
                 
                

流転

 妻の由恵と吉松が結婚したのは吉松が27歳、由恵が20歳の時だった。同じ職場にいた二人は人前を避け、静かに潜航する潜水艦のように目立たないように気を使いながら積み上げてきた結婚だが親たちは反対であった。
由恵の人間的には問題がないのだが義兄の親戚から嫁を貰う話を吉松が嫌っていたのでこじれていたのだ。
それでも、吉松は、人目を避けるため、二人の愛情を確認するのに一冊の本、智恵子抄を連絡帳代わりにしてその日の書きたいことを書き込み、交換しあっていた。(結婚したては、睦まじかったのに、包丁を突き付けるとは何事だ、でも俺は怒る資格がない)
どうして両親が由恵との結婚に反対かというと、これから話す酒屋の跡継ぎの事で長男の吉松が跡を継ぐのをためらっていたために、両親や、姉、その夫の中林良一を巻き込んで、それぞれの欲望や確執が絡み合い複雑な人間模様の渦中にいたからである。
 
川奈吉松は東京中野で屋号泉屋と言う酒屋を営む父親久雄の六人姉弟の長男として生まれた。   
酒屋は東京の中野通りに面した四つ角にあり、当時としてはシャレたデザインの二階建で、表通りに面する壁は、白、鶯色、薄茶色で程よく配色されていて、商店街でも目立つ店であった。
捨吉の上には三人の姉がいた。下には弟二人がいた。
幼少時代は戦後間もない時だ。信州飯田に家族で疎開をして戦後まもなく窓から押し込まれるほどの満員の蒸気機関車に乗って東京に戻って来た。
そんな時代だから子供の玩具などないので母親が姉たちのために作った人形を吉松は姉の真似をして背中におんぶして遊んでいたと姉から、後な聞いた。つまり、親は初めての男の子で、跡継ぎが生まれたと喜んで少し甘やかして育ててしまったと後悔していたらしい。

 吉松が中学を終えて高校進学校を選ぶとき、中学の担当の女の川端先生が家庭訪問にきて母親と玄関先で面談していた。夕暮れの時だった。
川端先生は捨吉を酒屋の跡継ぎにさせたい親の希望に応えるため商業高校受験を薦めていたのだか、吉松は酒屋の跡取りにはなりたくないと先生の指導を拒否をしていたので、説得が出来なかった事に責任を感じてか、謝罪に来ていたのだ。勿論、謝罪などする必要は無いのだが、親が気の毒だと感じていたのだろう。
当時はまだ、長男は家を継ぐものだという慣習があり、自然でもあった。
吉松(は俺の人生は死ぬまで酒を売るのが仕事か)と思うと、広い世界に自分の夢も希望も見いだせない酒屋に絶望感をもっていたからだ。
学友たちはそれぞれの夢や希望を抱いて希望校に受験していく。勿論、家庭の事情で進学を断念して工場に勤める友もいた。我儘といえばそう映るだろうが、青春真っ盛りの吉松には酒の空き瓶の整理とか、酒の広告の入った前掛けをして自転車で、家庭や店ををまわり、御用聞きという、今では死語だが、注文を取りに行く仕事など屈辱以外考えられないのだ。
(俺は数学は苦手だ、商業高校で簿記とか習ってもついていけない、第一、前掛け姿で、初恋の平野とあったら格好がつかない、やなこった)
と思っていたのが本音だった。
父は酒屋の隣に寿司屋を経営をしていた。
宴会場もあり、そこに学校の先生たちが時折宴会を開いていた。そのある宴会の時、二階の宴会場の窓から瓦の屋根に向かって音楽の先生が酔っ払った勢いで小便をしてしまったのだ、その話を係の担当から聞いて、(教師たる者がなんという行為をするのだ)その時から先生の意見や指導を軽く見るようになった。更に今と違って、時々、中学校に酒の配達をする事があり、捨吉がその配達の役目をさせられた。口には出さないが心の中では(ふざけるな!よその家の二階から小便垂れる先生になぜ俺が酒の配達をしなければいけないのだだ、教師だから、頭がいいからとバカにしやがって)と、静かな抵抗を抱いていて、益々酒屋を継ぐのが嫌になっていった。、
親の意見に逆らった、まさにこの時が流転の始まりだっだ。なぜかといえば、己の進む道を探す時だったからだ。
首尾よく親の反対を押切、吉松は普通高の私立高校に通うことになった。ろくに受験勉強をしていないので偏差値の高い高校ではないが、父親が酒問屋のコネを使い入学出来たという噂を後日姉から聞いた事がある。多分、その通りだとおもうが、テストは上出来だった。
幸いに普通高校に入学できたがその高校は男子校で生徒は医者や歯科医の倅が多いのだ。場違いかなと思ったがクラスでは先頭に立って先生を悩ませていた。
それでも両親を悲しませないためには、いずれは酒屋を継がなくてはいけないのかな、との心の葛藤と戦う吉松だった。
高校生活も二年が過ぎた頃、跡継ぎの呪縛から勉強も段々疎遠になり、投げやりになっていった。
高校3年になるとクラスの友は大学受験ムードとなり、吉松は(俺は酒屋だから体力さえあればいい)と思うようになり、勉強をさぼり、映画をみたり、教室で週刊漫画を読んだりして、担任の先生からも無視された。
卒業出来ないと父親が担任の先生に呼び出された事もあった。
取りあえず高校は卒業した。
その頃もこのまま酒屋を継ぐべきか否か迷い続けていた。
父親はお前の好きなようにしろ、大学受験するなら商学部のある大学に行けと言う。父は働き手が欲しいので吉松が店の手伝いをしてくれるのを望んでいるようだが、吉松の抵抗はまだ続いいていた。
取りあえず大学の試験は受けることにした。
当時は、後で登場する姉婿の義兄である中林良一氏が酒屋の実権を握り社長の座にいた。父は会長だった。その中林氏の勧めもあり、学友のクラス全員が大学受験をするので、つられるように試験をうけた。商学部も含め、いくつかの大学を受験したが、ろくに勉強をしていないので合格に至らず、自分の勉強の程度を知った吉松は、親に内緒で芸術学部のある大学入試の願書を出してはいたが、学力の程度があまりにも低い自分の力に呆れて試験をパスしたのだ。
商学部と芸術学部では月とスッポンの違いだ。
後年、後悔したのが芸術大学の試験をパスした事だった。もしかすると俺には適性があったのではないかと思うからだ。
 時が過ぎ大学の試験も数少なくなり当時の高校の担任に進路相談に行った。
職員室で、担任だった小島生生は開口一番
(お前の行ける大学はない、一からやり直せ)と予備校を奨めてくれた。無理もない、相談に行くのが間違いで卒業する時の成績の順位は300人中下から9番だった。下の残りの8人は素直な不良少年たちで、当時は素直な不良仲間だからすぐ名前が浮かぶ。タバコはすうし、喧嘩はするし、ナンパもする、吉松は布団やの倅の山内とよく新宿歌舞伎町にパチンコ店に行ったりしていた。
その後、同期の日下部君と飯田橋の一流の予備校に通い出しだしたが、学業についていけず、日下部の誘いもあって浅草のストリッフ劇場なと鑑賞する始末。
そんなある日、当時の担当教師であった小島先生と数名の先生方と、共に1961年の1月28日、安保闘争で国会のデモに参加した。岸内閣打倒の大声は新聞の一面をにぎやかす時代だった。吉松はベトナム戦争の悲惨な光景を報道で少しは学んでいたから、ためらいもなく参加したのである。
吉松は安保闘争に興味が根底からあったのではない。戦争の悲劇は許せないのだ。学校をさぼっては仲代達矢の人間の条件や、野火、ビルマの竪琴などを鑑賞していた。映画鑑賞で国語の教師に悪たれをついたこともある。
(川奈、午前中授業を欠席したのはなぜだろう)と問いただされ吉松は席を立って返事をした。
(先生の授業より、人間の条件を観たほうが勉強になるからです)と言ってしまったのだ。先生は返す言葉を失ってただ、そうか、と言葉を小さくしていた。吉松の言葉の根底には酒屋を継ぐのだから、受験勉強は必要ないと思う心の吐露であった。帰りのバスの中でたてついた教師に詫びを入れていた。安保闘争のデモンストレーション参加にはこれら映画の影響もあった。
デモンストレーションに同行した小島先生とは(お前は今日は雨だから学校に来ないと思ったよ)と出席簿を飛ばされたり、黒板から吉松をめがけてチョークを投げつけられたり、武骨のある先生で、時には試験で最低保証の点数をくれたり親しみのある教師であった。デモで銀座を声をあげて集団で行進したのも小島先生と共に歩きたかっただけかもしれない。
数年後に吉松が社会の粉塵として世間をさまよっている時、友達が御茶ノ水の名のあるドジョウ屋でクラス会があると聞いて参加をした。
小島先生は生徒に向かって、(金で苦労している者がいたら俺のところにこいこい、少しはあるぞと)破格の言葉を発した。
吉松はそれなら相談にいこうかなと思ったが、自分は不良仲間と付き合っているし、博打に負けて金がないとは言えないし恥の上塗りになるので止めた。

話は戻って、予備校通いも根性がないのか、学力不足で勉強について行けずリタイアすることにした。その後、数ヶ月仕方なく、なんとなく父親の酒屋で働いていたが、根っこの部分で親の近くで働くのは嫌なので、自主的に、昔でいう丁稚奉公に出たのである。
その酒屋は有楽町銀座にあり、鈴乃屋という飲食店への酒の配達専門店だ。
案の定、三月もたたないうちに鈴乃屋を辞めてしまった。
鈴乃屋で修行をして何とかして父親の酒店を継ぐために自分なりの心の着地点を探そうと決心して挑んだが、仕事は体力的にも順調にこなしていたが、どうしても溶け込めない自分がそこにいるのだ。
毎日が酒を配達することに明け暮れするので充実した気持ちがおきないのだ。そんなこと当たり前だと自分に言い聞かせても単純作業に飽きて、父の酒屋で働くのと何ら変わりはないし、当時は月に二度休みがあれば良い時代で、自由気ままに過ごしてきた吉松には休みが少ないのが気に入らないのだ。贅沢病だ。、酒屋という職業に生き甲斐をどうしても見い出せないでいたのだ。酒屋を勉強して三井財閥を作ろう等々の夢がわかないのだ。
体力には自信があつたのでよく働いたらき、怠け者ではない。ただ、鈴乃屋さんに迷惑をかけたのが気がかりであった。

酒屋の実家にもどり、心の定まらないまま、店の手伝いをしていた吉松は自分は何を職業にしていけばいいのか、やりたいことは何なのかと相変わらず迷い続けいた。
父親は銀座の酒屋を辞めて戻ってきた吉松を何とかして跡継ぎにさせようと思っていたに違いないが、当時は義兄の中林良一氏が勤めていた会社をを辞めて父と酒屋を切り回していたが、真面目過ぎて馬が合わないし、酒屋はやりたくないので吉松の心は浮雲状態だった。

、気の進まなまま店を手伝っていた吉松は思い切って家を出て、酒屋以外の仕事を探す事にしたのである。高校を卒業してまだ二年足らずの時だ。父はガッカリするだろうけど俺には俺の人生がある。兎に角、広い海原を歩いてみたいのだ。
この頃は、作家の小田実の(何でも見てやろう)と言う紀行記が若者の間で人気があった。
(なるほど何でも見てやろうか)この言葉が妙に吉松の胸の奥に響いていた事も影響していた。

後悔する人生を歩むよりもハードルをいくつ超えられるか、わからないが開拓者の心意気で社会に飛び出すことにした。
思い切って家を飛び出せはそれなりの進歩やケジメみないな新たな感情が生まれてくるかもしれない、旅先で納得できる仕事が見つかるかも知れないと自分探しの家出だったのである。
 家出とは普通はもう二度と家族のもとに帰らないと覚悟を決めて家を飛び出すと言う事だと思うが、吉松にはそうした覚悟の物差しはない。旅行に行きたいと言えば、いつ帰るのだと聞くだろうし、身近で働いている社員の手前、我儘は許さないとかいうだろうから、突然家をでることにしたのだ。、様々な酒屋にまつわる縁を一度切ってみて、更地の気持ちで旅をしたかったのだ。

吉松はキリンビールの端株を父の目を盗み金に換金した。
8万円位になり、その金と多少の持ち金を元に北海道に旅をする事にした。(取りあえず就職はあとでもいい、北海道に行こう、己の進むべき道を考える旅にしたい)そう思いながら、成り行き任せの旅立ちだった。
母にはキリンビールの端株を売却し、それを旅費にしたと前日に告げていた。端株とは言え両親が承知するはずがないが、何故か母には良心の呵責があって告げておいたのである。
おそらく母は父にこの事を話したに違いない.
、両親は息子が酒屋の跡継ぎになる事を嫌っているとをわかっているので、吉松が家を出ていくと宣戦布告の様には言ってはいるが、
(どうせわがままな吉松のことだ、家出すると言っても本当に働きに出ていく根性などあるはずがない、ただの脅しの旅行だろう)と母は感じていいたと思う。
 青森で青函連絡船に乗り込み函館についたのは夕暮れ時であった。
捨吉は家出をしていることをすっかり忘れ、観光旅行に夢中なっていた。札幌、小樽、余市、美幌、摩周湖、兎に角、金の続く間、鳥籠から逃げ出した鳥のように気の向くまま旅を満喫していた。
自分の生きていく道を探す事など大げさで、格好の良いお題目はすっかり忘れていた。大自然の広大な北海道は吉松を本土から離れさせ、引き込んで行った。(へーすごいなーどこでも絵になるなーまるで、どこでも額縁が似合うではないか)感激は全てを超越する。酒屋は遥か雲の彼方であった。
 そんなある日の函館本線の夜汽車の中だった煙が出る。デコイチだ。原始的な石炭と言う化石で動く郷愁満載の夜汽車だ。飴色のレトロな車内は、人影も少なく、話し声一つなし。
吉松はこの夜行列車には終着駅がなければいいのだが、と思ったりしていた。
車窓から時折、小さな灯りが通り過ぎていく。
点のような小さな灯りだ。おそらく外の景色は人気の無い荒野か海辺たろう。
リズミカルに線路いく車輪の音が主人公のように響く夜だった。
四人がけの席に吉松と二人の老夫婦いた。各駅停車である。車窓から黙として暗闇を眺めていると、前の席にいる品の良いおばあさんが吉松に話をかけてきた。
(お兄さん、これから先の駅にお弁当を売っている駅ありますかね)
(僕はこの夜汽車に乗るのが初めてわかりません)と、答えた。
(そうですか、どうもありがとうございます)軽く会釈をした老夫婦だった。
ガタンゴトンと言う闇の主役はまるで静かに眠る車内の人々の揺り籠の様だった。
 しばらくして吉松は使い古した愛用のソニーのブルーのバックから紙袋を取り出し、具が何も入っていないコッペパンを取り出し
(これで良かったらどうぞと)と手渡した。残る食料はこれしかないからだ。、
(ありがとう、大丈夫です、ご親切に)とニコッと笑みを浮かべて軽く手を出してコッペパンを遮った。よくよく考えてみれば、コッペパンなど食す二人ではない。だが、その時の吉松は金も少なくなりコッペパンをかじりながら旅をしていた。自分が腹減っていたらなんで食べるから、老夫婦も腹が減っていれば同じだろうと素直に思ったのだ。
吉は疲れていたのかそのまま寝込んでしまった。しばらくして、前の席のおばあさんが軽く吉松の肩を叩いておこしたのである。
(お兄さん、この駅弁一緒に食べましょう、どうぞ)
吉松は、目を覚まし、あれっと思い、駅を見ると長万部駅に列車は止まっていた。
(はい、遠慮なくいただきます)吉松は笑みの顔が素敵な老夫婦に何度も頭を下げた。駅弁は特上の幕の内弁当だった。
孤独な旅先で、まして家出となれば人の親切に出会うと涙がでるくらい感動するものだ。夜汽車の中でひたすら駅弁を口に入れる吉松だつた。
この一件は吉松の優しい面を引き出したと言えるが、この優しさが災いして後に、終焉をむかえる居酒屋吉冨が地獄街道に向かっていくのを知るよしもなかった。 

気ままな旅は北海道という大自然に己を置いて眺めてみる旅でもあった。アイヌ民族の熊の木彫りの制作現場を長い時間座り込んでみつめていたり、アイヌの文化施設を訪ねたり、摩周湖の大自然に感動した事や、安宿さがしに往生したり、都会育ちの吉松には全てが新鮮だった。
酒屋の跡継ぎにならなくてはいけないのかと思う自分を忘れていた。
北海道の旅路も進学や酒屋の跡継ぎなど、みな忘れて自分だけの空気を胸いっぱい吸い込んだ青春真っ盛りだった。しかし、残りの金も乏しくなってくると、入道雲が現れたように、世界が段々暗くなる様な落ち着かない時間が増えて行った。
とうとう、お金も使い果たして上野駅までの切符を買って夜汽車の急行に乗り込んだ。ところが金が足らなくて普通乗車券しか買っていなかった。、車掌の切符点検を逃れるため、あくせくとこまめに席を移動しながら上野駅に向かった吉松だった。見つかればみっかったで開き直るだけだと決めていた。上野駅に着いたら家に帰る電車賃がないので交番に行き、千円貸して下さいとお願いすると、警官は何か事情のある青年だなと感知したのか、あれこれと調べだしたのである。着てる服もみすぼらしくみえたのかもしれない。若い者の旅姿だ。きれいなはずがない。薄汚れたジャンパーに汚れたズックをはいて、土産袋があるではなし、ソニーの宣伝用バック一つだけの姿だ。
住所、勤め先、家の電話番号、何に使ってしまったのだ、どこへ行ってきた等々だ。
吉松は親に家出をすると言って家を飛び出した以上連絡をするのをためらっていたから警察から連絡をしてくれることは渡りに船だった。警察の尋問には流れるように応対をした。千円、交番で貸してくれなけらば家に電話を入れるつもりであった。
(家に連絡をいれたら、家出をすると言って旅に出たというではないか、これからお父さんが迎えに来るそうだ、良かったね、外で待っていないさい)
北海道にいって職を探すといったけれど行動範はなにもしていない、そんな気持ちはさらさら持っていない、家出は口実だから迎えに来てくれることはありがたかった。
中央線にのり、中野駅つくまで父は口もろくに開かず無言列車だった。無事に戻ってきてくれたという安堵感が父の穏やかな表情からうかがえる吉松だった。啖呵を切ったが負け犬だ。それでもこの北海道の旅は吉松の二回目の家出に自信を持たせる事になるのであった。
翌日から単純作業が始まった。
長女栄子の夫中林良一氏は大手の工作機械メーカーを退職をして父の泉屋酒店に転職して、経営規模を拡大していた。
父の久雄も60歳近くになり、酒店の経営がら離れ隠居同然の暮らしをしていた。
酒の配達配達要員はすべて長野県諏訪市周辺からの縁できていて住み込みで働いていた。
吉松が酒屋に戻って2年ほど過ぎ,おとなしく仕事をしていたころ義兄の中林が父親との話しあいで酒屋を会社組織にするようになった。
義兄は勤めていて会社で経理部に在籍していたというから数字には長けている男で、酒屋経営には持って来いの男だ。会社組織は吉松が社長に、父が会長に長男の捨吉が専務という事になった。
父親はいずれは吉松が社長になるという夢を描いていたはずだ。
社長に就任した義兄はとにかくよく働く、朝から晩まで営業開発やら空き瓶整理やら前掛けを腰にまいて働いた。義兄の姉清子は二つ年上だ。
清子も中小企業の経理部で働く独身女性だ。この姉弟は両親を満洲で無くして、二人で日本に戻ってきたという厳しい経験をしていたから、生きるという事に関して言えば曖昧なところは一つもない、慎重でかつ積極的な営業は酒問屋、アサヒビールなどのメーカーにも認められ車も従業員も増えていった。酒を格安販売で業績を上げていったのだ。都内どこでも配達をするというので、お客様は増え続けていた。
吉松は、こんな小さな会社の専務など、形式ばかりで、やっている事は配達ばかり、ちっぽけな運送会社ではないかと、義兄のと共に販売を向上させるギアを上げようとする気力が一向に上がらないでいた。
誰でも人は同じだと思うが、人に指図を受けるのが嫌いな性分で、マイペースで自分の仕事の領域を組み立てていた。
なにせ、吉松は将来は跡継ぎになる男、むけに父の手前、叱責できないのだ。平たく言えば婿養子が社長で倅が専務とという組織だ。
誰がこの関係を信用するものかと吉松は思っている。戦国時代なら娘婿が政権を握れば長男は因縁付けられ切腹か良くて坊主だ。父は人がいいからやがては倅が社長になるものだと信じている。義兄は父の希望通り吉松を将来社長にするかもしれないが、最悪の場合小さな店でも与えられて終わりだ。そう思いたくはないが実の兄貴ではないから信頼できないでいた。己の行く末は己で決めると言う心境は吉松にしてみれば、当たり前の事で義兄の指導で人生を決められる事はプライドが許さないのだ。しかしこんな事を考える必要は無意味なのだ。吉松自身は酒屋をやりたくないことでは一貫しているからだ。姉や義兄の吉松に対しての気配りは無用なのだが父が生きているうちは娘婿なのだ。大手を振っての社長ではないのだ。
捨吉は義兄と跡目争いをしょうとは考えてもいない、むしろ自分より酒屋と言う職業に確たる信念を持って働いているので安心感を抱いていた。しかしいずれは、何処かで意見の衝突は起きるだろうと予感はしていた。その時は何か自分で独立して商売でもするかと安直に考えていた。
そうこうしているうちに義兄の社長は業績を上げて社員も増えていった。
(彼も更に商売の欲が出て来て俺のの跡取りという位置が気にかかるはずだ。取捨選択に夫婦の間で葛藤しているはずだ、両親の面倒もある事だし。むしろこのまま社長をしてもらった方が両親の生活は安泰だ。俺の器は酒屋ではないし、義兄のように経理は得意ではないし、やはりこの家を出ていくべきだ)と冗談だが、切腹か坊主にされるより取り敢えず佐渡に逃げようと企てた。
そして間もなく二回目の家出が始まった

もう二度とこの中野の泉屋酒店には戻る事はないだろうと決めた。
八重桜が春になると通学していた多田小学校の正門を鮮やかに染める光景ともおさらばだ。
また仕事で生活が見通せるまで親との連絡は取らないと覚悟を決めての旅立ちだった。心の奥では俺がいなくなれば社長の義兄も棘が取れたようで働きやすくなるだろうと余計な気配りをしていた。

人のことを心配するわりには己のことには無頓着な性格だから預金などない。給料のほとんどは遊興費に消えていた。高校時代の友人である山内と大井競馬場に行ったり平和島競艇場やパチンコに興じたり、昔のトルコ風呂に時々の出入りをしたり、新宿のキャバレーで飲めない酒を飲んでみたり、放蕩息子の予備軍だったから家出をする時の所持金は3万円足らずだった。
人生、目標を探そうとしたり、持っていない人は身体を持て余して遊びに走る。とか都合のいい文句が頭の中をめぐっていた。
(なに、何とかなるさ)と世の中を軽くみている吉松は取りあえず住み込みの仕事をすれば何とかなると考えていた。兎に角、真面目で堅物の義兄との暮らしから逃げ出したいの一念発起だった。
酒屋の跡継ぎから解放されることもあるし、父親には跡継ぎをあきらめさせることにもつながるので、少々、無謀ではあるが、この際、跡取りの因縁に悩まされた自分を解放する機会と捉えているから、例え3万円の持ち金でも自分を変えたいという事の方が勝っていたのである。

 酒屋の前に京王バスの停留所がある。新宿行きのバスをまっていた。
吉松はボストンバックを手に持ちバス待ちの先頭にいて母は割烹着姿でを見送りにきていた。
(どうしてもいくのか、お父さんとよく話しあえばいい)普段から吉松には言葉のすくない母は真剣な顔つきで家出をやめるよう懇願した。
母は吉松の袖を引っ張っていた。今度の家出は本物と察知していたのだ。
無惨にも渋谷行きの京王バスが横付けになってバスのドアが開いてしまった。
(心配しなくてもいいよ、俺はどこでも元気だから、行くよ)
バスは他人ごとの様に二人を引き裂いた。捨吉は本当は心が揺れていたのだ。もう一度、母が袖を引っ張っていたら、バスには乗らなかったと、つり革にぶら下がりながら思っていた。決意は固いのに土壇場で心がゆれている。それは母に家を出る理由を詳しく説明したかったのかも知れない。
今回の家出はもう戻って来れないと覚悟を決めての旅立ちだった。帰える世界を断ち切っての旅だ、

(泣くなよおっかー、ほら、あの烏丸さえどこかへ飛んでいかー、ここにいちゃーおいらは、身も蓋もねー、遠いーねぐらで、おてんとうさまに手をあわせているさーあばよ、親父様によろしくだ、)落ち着きのない、向こう見ずの性分につける薬はない。酒屋の長男として生まれてきた運命をありがたく受けるのが世間の相場だと思うが,おてんと様は、何処でどう間違えたのか、頭の配線を吉松には一つ忘れたらしい。
この時、川奈吉松は21歳位であった。
酒屋は義兄が着々と実績を上げていて配送社員も増えて、社名も株式会社協和酒店となり業績も右肩上がりになっていた。
専務として義兄に服して仕事に従事していれば何も問題無いのだが,
独立独歩、縛られるのは嫌いな吉松だから遅かれ早かれ戦線離脱は避けられなかった。

両親の嘆きをよそに吉松は東海道線の夜汽車に乗った。とにかく食うことを考えないと明日は無いので仕事の中味は二の次であった。この行き当たりバッタリの性格はどう捉えたら良いのか自分でも分からない。怠け者は悪い事か、勉強嫌いとは本当に勉強が嫌いなのか、出世とはなんだ。金儲けの才能がない人はどうすれば良いのか、
とにかく吉松は今は恐れを知らない,
前しか見ない青年だった。
両親の心中は心配種が大きく増えた事になるが、さほど吉松は両親の事が心残りでは無いのだ。
なあーに、姉もいるしb義兄の社長がいるから暮らしは心配ないだろうと。父には会長として死ぬ迄月給10万園が払われると言う。
母には日頃から
(俺、義兄と一緒だと仕事もおもしろくないよ、うるせぇし、彼は仕事の鬼だ。俺は他所で働くよ、気楽にね)とそれとなく母には伝えていた。吉松はみしろ父に疑問をいだいていた。
(俺が父親の立場なら、倅の思う道に進ませるね、自分が築き上げたと店でも倅が継ぎたくないのなら無理強いはしないさ、むしろ勉強をしてグレードを上げて世の中の為になる人になれ)と格好いいこと言うかもね)と見解の差を嘆いたから父親との間には溝がで来ていた。
商店街の店主達には[仏の親父さん]だとお人好しで通っていたが、息子の心を深読みは見落としていた。
跡継ぎが二人いたら喧嘩になるのは歴史本を読まなくても分かるはずだと捨吉はまともに考えていたのだ。特に捨吉は人に使われる人生には感覚的に受け容れられない感性をしているから、将来問題が起きない内に一歩退いて、自分なりの生きる道を手探りながら探そうと考えていたのである。

夜行列車は明け方近く名古屋に着いた。ホームも、まだ人影はまばらだ。駅前ロータリーのバスのベンチに座り、行動を起こすには早すぎるのであてもなく時間の過ぎるのを待っていた。
十時頃、飲食店や、娯楽施設の多い街中をしばらく歩いて見たが募集広告の張り紙に出会うことがなかった。ゆっくり探すしかないなと思い街中の花壇の縁に座った。
、最初から計画性など考えていないので、焦ってはいない。これから展開される(犬も歩けば棒に当たる)のドラマの主人公になった気分でいるのだ。厳しい環境になればなるほど全てが新鮮に見える頭脳だった。

 暫く人の流れを見ているとベンチに座る吉松の隣りに見知らぬ50歳位の背丈の低い労働者風の男が近寄ってきて隣りに座り気さくに話しかけてきた。
(お兄さん、どこから来たのかい)
秋も近くなり木々の葉も一段と色濃く、爽やかな秋空だ。吉松は暫く沈黙していたが、男は親し気な顔をみせすり寄ってきて
(お兄さん、名古屋の人ではないね、どこから来たの、何か困った事あるのかい、ぼんやりしていてさ)
白のワイシャツに濃紺のジャンバー、グレーのパンツに黒革の靴、膝には簡単な日用品などを入れた黄土色のボストンバックを置いてぼんやりと人の流れを観ている捨吉に興味を感じたのかも知れない。
(東京さ、これから仕事を探すのさ)
(そうなんだ、それならパチンコ屋の店員にならないか、俺が行った時に玉を出してくれ、お礼はするからさ)
吉松は怪訝な顔して、彼に言った。
(そんな事できないよ)と即座に断りをいれた。世の中にはつまらない事を考える奴もいるものだと思ったが彼にしてみれば善意なのかもしれないし犯罪の片棒を担ぐ男には相応しいと見えてのかもしれない。
ボーっとして空気を眺めている人間にはすきま風が入り込むのだ。
(難しいことではないさ)男は執拗に話しかけてきた。
吉松はばかばかしい相談に返事答える事なく席を立ち、街なかに消えていった。

(さすがパチンコ屋の本場だけある、こんな危ない事を仕事にする奴が本当にいるのだ)と闇の世界の一部を見たような気がした。
取り敢えずなんでもいいから人夫でも、新聞配達でもいい、その日が過ごすことが出来ればいいと思いながら浮遊粉塵みたいに彷徨い続けていると、飲食店街の隅に昔風のレトロな喫茶店があり、そこに入りコヒーをたのんだ。
前の席に同年代らしき派手目の姿をしたヤクザ風の若者がいた。3人組だ。いやでも話は聞こえてくる。
吉松は何を思ったのか、彼らに近寄り話しかけた。、
(すいいません、東京から職探しに来たのですが、中々見つからなくて困っています、何処か住み込みで働くところを知りませんか)と尋ねてみた。
遊び人風の若者だから水商売とは縁があるとの読みだった。吉松は酒の配達で水商売と縁があったから、嗅覚があった。世間体のいい仕事は保証人をつけろとか言い出しかねないので即効性がないと敬遠していたのだ。

皆は目を合わせ、答えに戸惑っていたが、その中で黒いスーツを着た男がサングラスを胸のポケットにしまいながら声を出した。
(そうかい、じょあな、今、兄貴に連絡するからよ)と言うとカウンターの電話機から電話をして
(一時ごろここに来るからよ、よく話を聞いてみたらいい。名前は何ていうのだ)
吉松は名を名乗り、感謝の頭を下げると彼らは席を立って消えて行った。兄貴分の人間が来る間時間潰しに辺りをぶらつき10分前にサテンにもどった。暫くすると茶色のスーツを着た30歳前後のガッチリした男が
(川奈吉松さんと言うのはお前さんかい、仕事がほしいとか)
吉松は立ち上がり軽く会釈をした。
(まあ、すわんなよ、そこの大通りの角にエスポアールというキャバレーがあるから今日の四時頃、その店へ行けばいい、話は出来ている。あんたはいい男だから、直ぐ女が出来るからよ。うまくやんな)
吉松は当分飯には困らないと安堵した。
(6時過ぎにマネージャーがくるからよ、よく話せばいい。それまでに店の入口の右側奥に水道の蛇口とホースがあるから、店の前に水をまいて綺麗に掃除をしておいてくれ)そう言い終わると、
(ねーさんこの男にサンドイッチでも出してくれ)
そう言い残して代金を払い終えるとサーッと消えて行った。
吉松は5時頃、言われたとおり、エスポアールに行き、ホースで四間ほどの幅のある店先に水をうち始めた。一通り打ち水が終わろうとする頃、大通りが賑やかになって来た。
名古屋城がら繰り出してきたのか、戻ってきたのか、わからないが数十名が連なる古式豊かな、大名行列がやってきた。今日は何かの祭りのようだ。馬にまたがった鎧すがたの武者達が勇ましい姿でゆるりと闊歩して行く。
そんな武者行列を観て吉松の頭脳が反応した。
(あれ、俺、ここで何してるのだろう)
と、自分に呼びかけた。
頭の中は回転しだした。天の声だ。
(お前、そこで何をしてる、武者行列を観て何も感じないのか、大きな人間になって世間に役に立つ人間になろうと考えないのか、お前はお人好しだから、ヤクザに向かない。早くそこから離れろ、断りづらくなる)
吉松の脳裏に写った天の声で目を覚まし、すぐこの場所から離れる行動に移した。水撒きを止めて一目散に名古屋駅に向かった。
時刻表を見てとりあえず奈良まで行くことにした。少しでも名古屋から出られる電車見つけに乗り込んだのだ。
約束を取り付けてくれたのは間違いなくヤクザだ。その約束を破り逃げ出すのだから、義理人情に反する行為だ。どんな因縁を付けられるのか恐ろしくなったのだ。気の小さい男だと自分で認識する吉松だった。ヤクザになる人間の中にも悪い人間ばかりではない人情のある人もいる。業務用の酒を扱っていたからそのあたりの空気は知っていた。実家の酒屋の近くに得意先でもある小さな居酒屋があり、その店を経営するカミさんの倅がヤクザで中学校の二つ上の先輩だった。
背の高い、顔かたちのいい男で紺のスーツが似合う男だ。ヤクザになる前は武ちゃんと吉松はf呼んでいた、小学校時代はよく夕方になるとヤンマトンボをとりに駆けずり回っていた。ヤクザになった姿を観て吉松はどことなく憧れを抱いていたからヤクザは悪い奴ばかりだとは思われないでいた。
ヤクザも同じ人間だ。人を二階に上げて、階段を外すのが仕事だとわかっているが、情けのある人もいるはずだという認識があるので、折角ナイトクラブ勤務の仕事を探してくれた男に約束を破った事でにお詫びしたい気持ちもあった。これも運命と思い奈良に向かった。
奈良に着くと、安宿を探し一晩明かした。眠りの悪い夜だった。
翌朝、ロビーで募集欄の新聞を読み、住み込み等の募集はないかと探したが思うような仕事は見当たらず、チェックアウトを済ませ、あてのないまま市内を歩いていると、自衛隊隊員募集の大きな看板が目に入ってきた。
(そうだ自衛隊もいいかもしれない、思い出せば小田実の『何でも見ててやろう』に触発されて安保闘争のデモに参加したっけな、自衛隊の存在ってなんだろうと知識不足のまま高校時代の教師たちの行動に迎合し国会議事堂の前で石を投げつけたことがあるな、この際、自衛隊に入隊して、経験するのもいいかも、何でも見てやろうだ、社会に出て役に立つ色々な職種も勉強できるし、今は職なしだ、渡りに船とはこう言うことだ)
そんな思い出がよぎって、自然に足が向いたので、吸い込まれるように自衛隊員募集の受付に足を運んだ。
募集担当の隊員さんは、懇切に入隊を勧めてくれるので、自衛隊に入隊することにした。
担当の方が東京出身で身近に思えたのも幸いしていた。役所仕事だから姓名、住所、年齢、趣味、とか忘れたが、こまごまとしたことも尋ねられた気もする。
一応の面談が終わると作文を書かされた。
それがテストと言うのか、どんな意味があるのかはわからないが、記憶にはそんなに難しいテストはなかったようだ。
体力と普通の常識があれば合格するはずと吉松は思っていたのである。
当時は、自衛隊に入隊する若者は少なくて希少価値だった。
審査には2日程かかるそうで、その日は自衛隊の使用していない木造の古い病院の二階に泊まらせてくれた。 面接の会話の中で金の無い事も告げていたので配慮してくれたのかも知れない。また、腹が減っているのだろうと、私費だが、どうだか分からないけれど、ホットドッグを2つくれた。
翌朝、募集事務所に行くと、担当の方が一月ほど身辺調査があり合格すると住所のある東京の自宅に通知が届きます。ということなので、礼をいい事務所を去った。
吉松は自衛隊という飯にありついてほっとしたのはいいけれど、東京の酒屋に入隊通知書がくるまでどこかで待機をしなくてはならないな、と考えていた。
(今更、義兄や父に詫びを入れ家に戻るなど出来ない。、彼に差配されるのは俺らしくない、俺が戻ると強引に引き止められて酒屋に戻される懸念もあるし、また、義兄にややこしい男が帰ってきたなと思われないこともない。矢張り、ひと月だけ雲隠れをしよう、自衛隊から連絡がきたときだけ挨拶に行けばいい)と決めた
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深夜のバーテンダー

東京に戻ると決めた吉松は何処でひと月待機するか考えた。友人といってもまだ家族に面倒を見てもらっているやつばかり。力がないから部屋の一つも借りている男はいない。そんなこと考えながら吉松の乗る東海道線の列車は東京に向かっていた。
(そうだ、方南町の中華料理店の杉山さんいに相談しよう、ダメもとだ、泊まるところなかったら、山谷ブルースだ。いざというときは親父と義兄に悔しいけれど頭を下げるしかないな)と考えていた。
杉山さんは吉松が酒屋にいた時、調味料、酒等々の注文を受けて毎日のように配達をするお得意さんだ。捨吉は配達の途中、この店で休憩する事が多かった。
中年の杉山さんは、ほとんど中華料理店を働き者の奥さんにまかせていて、自分では中野駅の近くにある24番街というスナックバーが10店ほど並ぶ袋小路袋に小さなスナックバー、ボンソワールという店を経営していた。
杉山さんは奥さんと違って夕方の一時しか中華の店に出ていない、理由はわからない。
スナックバーを経営しているせいか世間話は豊富な男だ。そんなことから親しみやすい雰囲気があった。
 吉松は杉山さんに、自衛隊入隊の話をして、一晩でもいいから泊めてもらいたいと電話を入れておいた。
杉山さんは電話口で、とにかく会おうと言うので方南町の店に行った。
 (なんで家出なんかするの、酒屋の跡継ぎしないのか、親父さんとは上手くいっていないのか、ドラ息子の典型だな、親父さんには、無断で倅さんを預かる事はできないから、自衛隊入隊の通知がくるまで、うちで預かると連絡は入れておいた。ドラ息子だけどよろしくお願いいたしますと言われたよ、商売の付き合いがあるからね)
杉山さんは(今日から24番街のスナックバーの二階に寝泊まりすればいい、ママに連絡をしていあるから、店でママの手伝いでもしてあげれば気持ちよく泊めてくれるよ。)と軽く肩をたたいてくれた。ボーイ代わりに使ってくれるという幸運に恵まれたのだ。
その日の夕方から勤めにでた。吉松は白のワイシャツに蝶ネクタイを付けてカウンターに立つようになり、お客様の話し相手になったり、一つしかないボックスのお客様に注文品を運んだりして時を稼ぐ事になったのだ。
店のママ50歳ぐらいだ。紫色の和服の似合うママさんだ。だ杉山さんとどんな関係だか知らない。もしかするとスポンサーかな、それとも愛人かなと思ってもみた。
スナックバー、ボンソワールには二十歳前後の女性のスタッフが常勤で働いていた。桃子とせっちゃんと呼ばれていた。
この24番街の多くのスナックバーは遅くても11時か12時ごろには店を閉店する。コの字型に店が並んでいて店の看板の灯りが消えると人通りがなく、路地から猫が顔を出す世界だ。それでも、ポツンと明かりの灯す店が時々ある。なんというのかレトロな闇は哀愁があり吉松の好きな空気感だった。
吉松は店の閉店後、どこに行くのにもお金がないし、布団だけの空虚な二階の部屋に戻るのも空虚だから、店を閉めてたあとでも、気の向くまま店を開けて商売を始めていた。無論ママには許可を貰っていた。
時々3000円ばかり使ってくれるお客様が来るので、時間つぶし半分、アルバイト半分の退屈しのぎだった。お客様はほとんど来ないが、時おり、へべれけの酔客がくる。(何でもいいから飲ましてくれ)というタイプだ。
まともな人はほとんどこない、同業者が暇つぶしに話しかけてくる時もある。
そんな暮らしでいる時、桃子とせっちゃんがどこかで飲んだ帰りなのか店に立ち寄ってくれた。吉松がカウンターで時間潰しの深夜テレビを観ていると、威勢よくドアーを開けて二人が入ってきた。
(まだやってるの、お客とさ、飲んでたのよ)た桃子が話しかけてきた。酔いが回っている。
(ね、今晩泊めて、いいでしょう、どうせお客なんか来ないわよ)
(いいけけど、布団一つしかないよ)
(いいじゃない、雑魚寝すれば、いやなの、ほらお土産あるよ、駅前の餃子、)
(腹減っているから、ありがたいね、ありがとう)
薄暗いカウンターで餃子をつまみにしてビールを飲み始めた。桃子の明るさに比べるとせっちゃんは言葉すくなめので地味なタイプである。
桃子が話し出した。
(吉松さんて馬鹿な人ね。、中野通の酒屋さんの息子だって、家出して、行くところないから自衛隊入隊するの、ママが言っていたわよ、)
(そうだよ)
(普通はさ、酒屋の息子と言えば将来は安泰でしょう、あんた変わり者ね、馬鹿とは言わないけれどさ、贅沢病だ)
(そうかも、変人かな、でも、酒屋は皆が思うほど儲からないさ、その上信用金庫の様に硬い人間でないと務まらないのさ。、やれ、何日に手形が落ちるとか、俺みたいな風天男は性分に合わないのさ)
せっちゃんが口を開いた
(理由はそれだけだの、羨ましい、私は生活厳しいからここで仕事しているのに、昼間だってお菓子屋で働いているよ、いいご身分だこと)
桃子が
(そうだ、自衛隊辞めて、ここでバーテンダーやればいいのに、似合うわよ、それもいいかな、決めちゃったからね、、ところで昼間は何しているの、退屈でしょう)
(手持ちの金がないからすぐ負けちゃうけど、大通りのパチンコ屋かな、そこの金時だ、でも500円ぐらいしかないから直ぐパンクだ、)
(じゃあね、あたしが毎日500円あげる、儲かったら、倍にして返してね)

彼女たちはその後店の仕事に来る日は必ず500円恵んでくれた。勿論、たまに勝つときがあると、夜は三人で小さな宴会だった。

そんな生活をしているある日、二階の薄暗い部屋で雑魚寝となった。吉松は二人の女に挟まれて寝ることになった。夏だから薄着だ、若い男女が落ち着いて寝れるわけがない。特に桃子は
(さっき、餃子を食べてきたからさ、眠れない)とわけのわからない事を吉松の耳元でささやくのだ。隣にはせっちゃんが聞こえないふりして寝ている。

 話は脱線するが、高卒したその年の大晦日に、一人で明治神宮に新年のお参りに行った。その時の祈願が今から思うとお笑いの種だ。
神様を冒涜するようなお祈りだ。
(今年こそ男になれますように)と言う祈りであった。お参りを済ませ新宿花園に行き、それらしき妖しげしげな女とベットインをしたベットインと言っても床がコンクリートむき出しで、ベットは折り畳み式の簡易ベットだ。ちょいの間3500円だから仕方がない。後でわかったのだが、鶯いろの和服を着た男、つまり。お、か、ま だった。怪しく灯る路地に鶯色の和服を着妖艶なた女性から(お兄さん、遊んでいかない、安くしておくからさ、3500円でいいわよ、ちょいのまだけど)と声をかけられ、願掛けの女はこれだ、と決め打ちをしたのが、おかまやさんだった。笑い話さ。そのおかげさまで、その後、ソープランド、(昔のトルコ風呂)にたまに出かけていたので女を知らないということはないのである。いたって真面目なパターンだと思うが。明治神宮もとんでもない願掛けをする奴だとお怒りになり、お前みたいな不届き者はオカマで我慢しろと言われているようだった。
この時代にはどことなく流れていた友達仲間での風習があった。それは堅気の女を抱いたら最後まで責任を取るのが男だ。ボンソワールの雑魚寝の時にもこの風習というのか、男の掟というのかが吉松の脳裏をさまよっていたのだ。

桃子は寝たふりをして、軽装な姿の身体を吉松に寄せてくる、普通ならここでドッキングだが男の掟か、度胸がないのか、お互いについたり離れたりしながら朝がきてしまった。せっちゃんも多分二人の成り行きにをかたずをのんで寝たふりをしていたに違いないと思う吉松だった。
今から思えば彼女らを黙らすことが出来なかった自分を情けないと思うし、恥ずかしく、度胸もなく、卑怯でもあったと反省をしている。

ひと月が立つ頃、杉山さんから入隊通知が届いたと父から連絡があったと教えてくれた。捨吉の警察による身辺調査は合格したということだ。これで晴れて国家公務員に変身だ。
両親は挨拶にきた吉松を歓迎してくれた。なぜかといえば、危ない世界にいかれたら、心配でしょうがないということだ。自衛隊なら国家公務員で、心身を鍛えてくれて世間の常識を教えられ義兄と仲良く販売に精を出すだろうと期待できるからだ。吉松はそんなこと一向に関知していないのは言うまでもない。
出発の日、楽しい日々を贈ってくれた桃子とせっちゃんが東京駅まで見送りに来てくれた。
せっちゃんは、急仕上げの手編みのセターを紙袋にいれて思い出にと持たせてくれた。俺はジーンときた。自衛隊に入隊しなければと、ふと思う女であった。店の二階で休みの時は彼女は座布団の上で言葉も少なく、たまに笑みを浮かべて手編みをしていた。少し粗目だけど、早く仕上げなければと言う事だった。桃子も長い手を高く上げて見えなくなるまで振ってくれた。人情がらみの別れは詩になる。ひと月の付き合いだったが、一生忘れることのないヒトコマだった。

高知県善通寺普通科教育隊入隊した。
新品のグリーン色の戦闘服を着て徒歩訓練から始まる新兵だ。
確か30名程の分隊に別れての共同生活だ。吉松は、過去の自分なりには夢のない酒屋の跡継ぎの問題から、解放され、新鮮な心意気でやる気が起きていた。
しばらく日にちが過ぎ、落ち着いた頃、勤務も済んで駐屯地の売店にいると、どこからとなく、流行りの(こんいちはあかちゃん)のメドレーが流れてきて、遠い東京中野の24番街の一時でも楽しかった思い出が蘇り、寂しげに東京駅でセターを贈ってくれた健気なせっちゃんの顔がうかんできた。
音楽はいいね、時空を飛んでいくのだと悦になる吉松だった。
教育期間を、終えるころ、粋なはからいがあった。教育期間は外出禁止だが、団体で宝塚歌劇団の観劇が催されたのだ。
きつい訓練を無事に終わらせたご褒美かも知れない。豪華で美人揃いの宝塚歌劇団の演舞は想いもかけぬ素晴らしい感動だった。初期教育の三か月がすぎた。ライフルも撃った。たかが三か月だが吉松の人間改造は自分でも解った。兎に角全てが凛としてきたということだ。
(もしかしたら、俺にはこの世界があっているのではないか)と考えてもみた。でも、吉松の心の旅路は一か所に籍を置くほどの勇気は見えていなかった。b

 後期教育は三か月間だ。(戦車)特車大隊に配属され、富士山の麓、駒門で訓練を受けた。富士山のふもとの広大な土地だ。かまぼこ型し隊舎で寝起きすることになる。戦車はm40型という沖縄戦でアメリカが使用した40トンの重量があると言う。運転研修の時吉松は暴走事件を起こした。
ある日、運転技能で戦車を運転中に、戦車の運転席の上で指揮するか班長が川奈吉松ニ士が運転中のヘルメットを拳で叩いたのだ。
(何だ、その運転、アクセルの踏みすぎた、お前の運転だと燃料がもったいな、水道の蛇口だ)
吉松には理屈に合わない妙な反骨心がある。それに火がついた。
(憲法で職業の自由は認められているのだ、人の頭を叩くとは何事だ、今は昔の軍隊と違うのだ、辞めてもいいさ)と抵抗するつもりで戦車を暴走させたのである。走行訓練のための戦車道を仕切っている延長ロープを角角を曲がりながら全部倒したのだ。延長400メートル位だ。吉松には民間も国家公務員も関係無いのだ。それだけの認識しかないと言う事だ。
当然罰がきた。
吉松は運転席から下ろされて戦車の後ろに回された。
戦車には3名程の隊員が乗り込んでいる。吉松だけが戦車の後ろでキャタピラの土煙を浴びながら走らされた。富士山の、麓だから景色は良いが、砂埃りで全身が白く染まっていた。戦車の後でマラソンだ。結構疲れるのだ。罰はそれだけではない、個人の罰は連帯の罰でもあるのだ。
これ幸いに団体訓練が始まったのだ。
班長は夜中の3時に舎前集合の命令を出し、皆、眠りから起こされ、正規の姿で舎前に集合させられ、班長から教えられていた軍歌というか、応援歌というか、歌詞といい、メロディといい、威勢のいい歌を全員で大声を出して唄わされたのだ。終わると班長は例の如く大きなメリハリ声で(はい、解散)
それだけ言うと全員に敬礼させて姿を消した。なんて言うことはない、夜中に起して、すぐ寝ろだ、訓練に紛れ込んでの嫌がらせだ。
こんな事が2日ほど続いたのである。
素行の悪い者は連帯責任と言う罰を与えて二度と隊員に迷惑をかけないと諭す罰を与えるのだ。
だか、厳しい班長の指導の御蔭で無事大型特殊自動車免許も合格して、これで少しは万が一職にありつけない時は工事現場で仕事がてきると夢を描く吉松だった

六か月の教育隊の訓練を終えるといよいよ本体勤務だ。勤務先は北海道札幌市真駒内にある、11師団戦車(特車)大隊だった。

転勤する前に、吉松は休みを利用して酒屋の実家に帰ることにした。ここまでくると酒屋の跡継ぎと言う呪縛から解放されて自衛隊と言う公的機関に就職したのだから、両親も取りあえず安堵するはずだと思ったのだ。それまでは浮遊粉塵のように勝手気ままに世間を歩いて心配ばかりかけてきたので、元気で健康的身体をみせて喜ばしてあげようと思ったのである。
家に着くと陸上自衛隊の制服をハンガーにかけ、全ての胸のボタンを服の穴しまい、両手で制服の位置を確認する徹底ぶりだ。革靴は玄関で正しく揃え、両親の前では両手をついて挨拶をする徹底ぶりだ。
久しぶりにあう家族はあまりにも吉松の変わりように感嘆したと言う。
ここまでにして自衛隊に打ち込んでいる吉松の元気な姿を見て両親は店の跡を継ぐ話など出来る状態ではないとあきらめざるを得ないと思ったに違いない。一晩泊り翌日には駒門駐屯地に戻った。家族の団欒は余韻を残しながら足早に去っていった。
数日して北海道の真駒内駐屯地勤務が下され数名の隊員と共に正装姿で現地に向かうこととなった。
東京駅に見送りにきたのは高校時代の友人の3人だった。制服姿の姿を見てあまりの変わりように驚きの声をあげていた。
都内の進学校から自衛隊に志願するなど考えられないからだ。
見送りにきた3人はそれぞれ、私立大学に進学してそれぞれの人生の階段を上り始めていたので、吉松の行動には異端児の感覚を抱いたに違いない。後日友人の一人が(あいつは変わった男だ。おそらく酒屋が嫌いなので自衛隊に逃げたのだ)逃げたのではない、その時は自衛隊しか安住するところはなかったのだ。
青函連絡船のデッキから本州を眺めると本州の島影がかすかに目に映っていた。まもなく函館に着く。
(もう、東京にはしばらくの間もどれないな、泳いで逃げ出す事は難しい)
吉松は、東京を偲んでそう感じていたのではない。この津軽海峡が大きな人生の区切りになるの世界に見えたのだ。

真駒内駐屯地の生活が始まる。実戦配備だ。
(よし、頑張って金を貯めるか、国家公務員だからボーナスもある)と毎日が順調に過ぎて行った。
 二週間ほど過ぎた頃、中隊長から呼び出されて、いついつ、弁論大会があるので出なさい、と言われたのである。
題目は自衛隊入隊についての感想だと言う。原稿を書いて提出しろとの事。
(感想?自衛隊俺になぜ来たか?俺には銀座のデモの印象しかないな、何でもみてやろうで、自衛隊入隊したから、特別に自ら国を護るとかの使命感はないしな、我が国の平和と安全を守ると宣誓はしたけれど任務だから仕方ないことだし、いま、戦争があれば一兵卒として、無論戦地に行く覚悟はあるけれど、自衛隊に特別な希望を持って入隊したわけではないし住みよさそうならそれも一つの選択かなぐらいしかない考えていなかったしな、家出して仕事が無いから、一時の腰掛け気分が俺の本音だ)
弁論大会の原稿はとりとめのない自衛隊の自分なりの印象を書いた。大げさでもない吉松にしてみれば自然体だ。でも赤線が出た。
内容は【、安保闘争反対運動で、教師と銀座のデモに参加した事。、条約が締結すると、自衛隊がいずれアメリカの指揮の下になり、世界の紛争に巻き込まれ、また戦争の悲劇が生まれるのではないかと危惧している事。自衛隊入隊したのは技術を習得して将来の暮らしに役立てたい事。などの原稿を書いて提出をしたのである。
書いた本人は思想的な問題に興味があるのではなく、たまたまた高校時代の担当教師が安保闘争に参加していて、その先生を尊敬していたからついていったことだし、戦争反対は当たり前のことだと思い参加しただけで、よくある世間を驚かせるとか組織活動をするとかの意識は皆無であった。
原稿は赤線で染められ没となった。安保反対の姿勢がチェックされたのだと思うが、安保反対でも、国を守ることに関しては人一倍だと思っているので矛盾を感じていたが、没になって良かった、講堂でデモに参加の話などできるわけがない。不採用は当たり前だ、よく吟味してから原稿を書けばいいにに、奈良の地連の隊員の方に家出してさ迷い歩いているところをお世話になり、入隊したとか)要領の悪い己れにあきれていた。
原稿の件は注意だけで終わり特にあれこれと言われなかった。
川奈吉松二士は戦車大隊の偵察小隊に配属されていて、自動二輪車で情報を集める勤務だった。隊の生活も慣れて三月が過ぎた頃、今度は大隊長に呼ばれた。

(川奈二士は家に帰りなさい、お父さんから手紙が来た。交通事故で店の運営が大変だということだ)大隊長は机の前に吉松を立たせてそう言った。
父は甲州街道で自転車に乗っている時にバックしてきたトラックにひかれて病院に運ばれて手術をして、腰を金属で支えているという知らせだった。吉松に連絡が遅れたのは心配かけまいとする親心だったらしいが、父の体力と酒屋の跡継ぎの事が重なって戻ってきてほしいという事になったのだ。
吉松は家に戻りたくないという気持ちが本音であった。もう少し頑張れば階級が上がるので頑張りたかったのだ。途中で耐え切れず除隊したよ思われるのが許せないからだ。せめて二年間は自衛隊にいたかった。
自衛官は親が返して欲しいと言ってきてもすぐ帰れるものではない。確か二年間は辞めないと言う宣誓書を入隊するときに入れてある。約束違反なのだ。大隊長は正当な理由があるので退職を許可してくれたのだ。親が交通事故なら仕方ないと判断してくれたのだ。
退職理由の真意の確認あるし事務処理もある。
吉松は親から連絡が来ても辞める気持ちはなかったが、大隊長の意見に従わないわけにはいかない。辞める決心をするしかなかった。津軽海峡を行く帰り船のなんと寂しいことよ。自衛隊勤務が特に好きではないが、ここでの二年間は己を見詰める絶好の機会だと思っていたからだ。それが振り出しに戻る無念さが心残りなのだ。退職まで二月程の待機期間がある。正当な退職か法律違反をしていないか調査する期間だと言う。その間は勤務らしい勤務はないので、自ら隊舎の庭周りの草刈りをしていた。立つもの後を濁さずの精神を自らにかした。
 
 東京に戻るスーツ姿の吉松が青森駅に着いた時、丁度、ねぶた祭りの最中で、観光見学をして、駅前の安宿に泊まった。
和風の寂れた狭い部屋には一組の寝具と飴色の卓袱台がある。
吉松は走馬灯のように自衛隊の暮らしを思い出していた。
災害派遣で余市に行き、隊員に配られた加給食と言うおやつを災害地の子供にあげて、帰りに子供からお土産ですと、幅の広い昆布をもらったことや、屯田兵のように広い大地にスコップ一つで一日中土を堀り道路工事をした事が脳裏を駆け巡っていた。
父の交通事故とは言え吉松には戻る気持ちが希薄であった。仕方なしに東京に戻るのだと思っていた。

大政、小政で居酒屋大繫盛も

東京に戻ると、酒の配達が仕事になるが専務という肩書らしい。義兄は蔵元と提携して、資本金を増やし、店の近くに倉庫もつくり、配達要員も増やし東京都内全域に配達網を作り上げていた。この一年間での会社の変わりようは、会長とまつりあげられた父の感覚では到底おぼつかない程の様変わりで実績も伸びて吉松の入る余地などないと感じていた。
父は既に隠居の身分で給料貰っての暮らしだった。今更、父が長男の吉松に跡継ぎをさせると言っても義兄は受け入れないだろうと肌で感じていた。(二人で仲良く酒屋をきりまわしてくれ)と思うのは父親の本音だろうが、もう、そんな雰囲気は微塵にも吉松には感じられなかった。
自衛隊から戻ってきてからの仕事は近くのお客様の注文配達が主で、時々配送社員のトラックに乗って都内の飲食店え配達をしていた。あとは店内のレジ番をするか両親のいる二階の部屋でコーヒー飲んだりテレビを見たりしていた。これが専務の仕事であった。吉松が会社の歯車の一つになっているのは会社や家族のためを思うとこれでいいのだろうが吉松自身はかごの中の鳥みたいなもので鳥籠を壊して何処かへ飛び立ちたい気持でいた。
(俺はこの生まれ代わった会社の専務だと言われているが、興味などサラサラ無いぞ)と思う気持ちでいるから義兄に協力している態度だけ見せて、頭の中は己の行くべき道を常に考えながらそつなく仕事をこなしていた。
義兄は吉松の仕事ぶりが協力的でないのを見ていてか、将来的に共に歩んで会社を、大きくする気持ちはないなと判断しているようだ。
そんなある日、吉松は購入したばかりのワゴン車を道路の柱にぶつけてしまった。義兄か営業用に購入した車だ。吉松は新車がどんな感じなのか試し運転で乗り回している時の事故だ。それもハンドアで運転していたため走行中にドアー開き柱に引っかけた不注意事故だ。
義兄は一言二言、大事にならなくて良かった、運転は慎重にしてと注意を促す程度で怒りを表に出さなかった。商売では誰にでも頭を下げる腰の低い商売人だ。ただでは起きない鋭い商売意識のある人間なのに怒りを出さないのだ。
義兄は吉松の扱いに苦慮しているのだ。腹の中では煮えくり返っているに違いないと吉松は感じていた。
おそらく嫁の長女の栄子も、吉松を自衛隊から戻したのはいいが、本人は酒屋業に関心が無く、どう扱ったらいいのか苦悶していたはずである。
父の交通事故での後遺症は大したことなく荷物の、持ち運びは出来なくなっが普段生活には差し支えなかった。しかし義兄に店の代表権を渡したため商売上の話題も減り酒屋の主人達の会合や旅行にも行かなくなっていた。両親は部屋に籠もる日が多くなっていた。この親子は檻の中の猿と、籠の中の鳥だ。

吉松は元来独立心が強く縛られるのが好きではない性格で順応できるタイプではない。
人に指図を受けて行動する生き方に順応できない不器用な男だ。勿論納得できる仕事ならば頭を下げることも出来るが、取り扱い注意の性格だ。
自衛隊に偶然行ったのも、そこに裸の自分を発見出来たので辞めたくなかったのだ。

それが今は自分で経営を管理するわけではないし、金は給料以外さわれないし、仕入れの交渉をするわけでもない、経営の妙味もない、専務とは名ばかりでただ単純に生きていくことに耐えられないのだ。商人の面白さはあるのだがそれをしろうとしないのだ。
吉松は義兄をこの頃(どうも義兄の動きを見ていると父には、やがて吉松を社長にすると思わせながら己の欲望を満たすため俺を利用しているのではないかと思えてしまう)と思ってもいない危険な想いが脳裏に映るようになっていた。
いっそのこと、ここにいない方が義兄、姉、両親にはよい環境になるのではないかと思うようになっても不思議ではないと。
長男だから酒屋の跡を継ぐのが定番いう慣習を背負いながら姉夫婦が生きて行くのだと思うと姉夫婦にとっては荷が重すぎるし、むしろ気の毒としか思えないのだ。
手のこんだ酒屋乗っ取りの序曲が流れているように感じてしまう吉松だが、義兄がもしそれが彼の本質であるとするならば、それは、それでいいのではないかと思っている。吉松にしてみれば、離れたいのだから都合がよいのだ。
また、義兄が若い姉妹3人兄弟3人の大家族を自分の手で頑張って面倒見ようとする善意と商売好きの性格を生かすための行動ならば吉松が長男だから跡を継がなければならないという両親の願望の論理は成り立たなくてもいいのではないか、義兄が長男だと意識すれば済むことだ。と思っていた。義兄の本音は誰にもわからないが吉松は後者であって欲しいと思っていた。

姉たちの考えは実際とのころ、長男吉松が酒屋の跡継ぎを嫌っているので父が折角礎をつくった酒屋を父の代で潰すには忍びない思って、若輩で世間知らずの吉松が考え方を直すまでの間、長女夫婦が酒屋を切り回すことになったのだと理解している。その上、父親の晩年生活も安心させる事ができるからだ。早い話、姉たちは嫁にいっていて、心配は両親の生活費の捻出だけだ。吉松は家出はするし、店の釣銭泥棒はするし、その上自転車に乗って酒の配達だの、キッコーマンのマークの入った前掛けつけて、鼻水垂れて空き瓶整理するなどまっぴらごめんだと思っているから長女栄子夫婦の酒屋転勤は大賛成だった。父は何度もいうけれど、やはり、息子に酒屋を継いでもらいたいという意識が強いからややこしい問題が浮上してくるのだ。両親を思う気持ちは誰でも同じだか、親父の一言執念が子供の生きざまに影響を及ぼす家族だった。
世間からは義兄に酒屋が乗っ取られるのではないかと余計な心配をする声もあった。倅が出来が悪いから仕方ないと言う声も親戚から出ていた。

社員の義兄は酒屋の隣りにある倉庫を改造して、焼き鳥屋を始めた。酒の販売量も増えるし、厄介者の吉松を責任者の店長にして酒屋の営業部門から切り離した。吉松にとっても焼き鳥の開店は悪い話ではなかった。自分本位で、拘束されなくて済むと言う世界だからだ。屋号は松盛と景気のいい名前を付けた。
義兄からすれば、独立したい気持の強い吉松の心を見透かしての焼鳥屋の経営だったかもしれない。
厄介者の排除かもしれないが、吉松、その者が前のめりだった。
焼き鳥屋は5坪程でこの字形のカウターである。12、3人は座れる。
配達部門から板前を経験していた安田と言う三才歳上の男が助っ人に入った。酒飲みで、グダグダいう理屈や屋だが人のいい好人物だ。
酒と競馬が好きで土日には必ずといういほど渋谷、並木通りの場外馬券場に買いにくい。吉松も影響がないといえば噓となる。
開店は自衛隊から戻って来て一年程経っていた。
この辺りでは珍しいのか、居酒屋が足らないのか、店は繁盛した。
夕方が開店時間なので、2時頃から焼鳥の串刺しを安田さんと(やっさん)と仕込んでいくのだ。煮込みも、よく売れる、牛の内臓を細かく切り刻み。ニンニク、味噌、その他の調味料を、加え、仕上げにねぎをのせ、七味をふりかける酒飲みにはもってこいの逸品だ。
酒の肴は、焼き鳥と、もつの煮込みが主で、マグロ刺身、タコぶつ、イカ刺身、ぬかずけ、いたって簡単なものばかりだ。
この気楽で、安直で、見栄のないのが受けて、夜遅くまでお客様は絶えなかった。
映画助監督や大道芸人やら、いかがわしい春画を描く絵描きがきたり、会話しているだけで世間を知り自分が成長していくようだった。特に映画の撮影関係者が席を埋めるときは吉松はサービス過剰になる。何故ならば自分も映画の世界で仕事ができればいいなあと密かに思っていたからだ。
(酒肴は売るものではない、飲みに行くところだ)と強烈なパンチをくらわす客もいて、そねなりに愉快な仕事であった

この頃、吉松は焼き鳥を焼きながら大学の通信講座を受けていた。
自衛官を辞めて考えていたのが学問の必要性だった。兎に角酒屋の跡継ぎはしたくないと言う想いは変わらず、就職先を探すにも都会では高卒だと就職の範囲がどうしても少なくなるし、焼鳥屋の串指しだけだと時間がもったいない、何かないかと考えついたのが大学通信教育課程だった。歳も25歳ぐらいになっていた。
そこで一大奮起をして通信講座なら入試も無いし、実力で単位が取れると思い、大学の通信制に学びの標準を決めた。
焼き鳥屋をしながら勉強出来る事に新鮮な気持ちで学び出した。
焼鳥屋松盛はバスで20分、中野駅から歩いて10分ぐらいのところに中野図書館があり、図書室で朝から仕込みの時間までの二時ごろまで久しぶりの教材に目を走らせた。他には大学の校門に張り出されていた、合宿広告を見て信州燕岳山麓にある由緒あるお寺の合宿に参加したり、名のある教師の講義を聞いたり不良がどこか遠くに飛んで行ったような気持ちで勉強をしていた。どこまで続くかわからないが、この小学生みたいな純な気持ちは吉松にとっては初恋の娘とデイトをしているように新鮮だった。この精神を長続きさせれば問題ないのだがと思いつつ図書館を往復していた。
、課題で、明治維新の徳川容保の行動を書いたり、民法や刑事訴訟法とか馴染みの全くない課題に我ながら、(ここにいるのは本当にお前か)と疑う吉松がいた。

そんな頃、たまたま休憩室でインスタントコーヒーを作っていた吉松に後ろから声がかかった。店員の初枝さんだ。当時は女性従業員の名前は苗字ではなく下の名前で呼んでいた。家族的な雰囲気がそうさせていた。
酒屋に住み込みで働く女性の店員は3人いた。その中の1人が後の妻になる由恵だ。青春真っ盛りの仲良し3人組みだ。その中の一人、おしゃべり初枝さんが吉松に耳打ちした。
(、中村君と由恵さんが怪しい関係みたい、人目を避けて会っている、中村君が誘っているみたい、時々倉庫で話しているのをみたの)
口からぽろっとこぼれた。ついでに、隣にいた朋子さんが
(中村さんは仕事はできるけど陰険で、何を考えているのかわからないわ、何となく怖いわね、間違いなければいいけど)と追い打ちをかけてきた。
(間違いってなんだ、ラブホテルでもいっているのか?冗談だよ)
(いやらしいわね、吉松さんは、でもさ、ほっておくと由恵さんが強引な中村君に負けてデイトを断りずらくなり、孤立して辞めざるを得なくなるわよ、吉松さんは専務さんでしょう、二人で辞められたら、人手も足らないのに困るでしょう)
(俺が専務?勝手に社長が言っているだけだ。)
(またそんなこと言って社長を困らせて、わがままね)
(わかった、でもさ、恋人同志なら余計なお世話だろう。やめたければ辞めればいいさ、どこでデイトしようが、他人がどうのこうのというのはただの興味本位で悪いくせだ)
(あっそう、吉松さんはあたしたちの味方ではないのね、万が一と言う事あるじゃないの、私たちが心配だから相談したのよ)正に家族の会話が横行する職場だった。
みな、はやり歌の高、校、三、年、生の様に生方だった。

翌日捨吉は中村君を配達の合間にそれとなく
、(中村君おまえは由恵と付き合っているんだってね、別に悪いこととは思っていないが、万が一店を辞めるような事になったら困ると思ったからだ。人手が足らないし。辞める時は二月程前に連絡してね)
彼は突然言われて立ち竦んだ。
(、、、、、、、、)黙っているので吉松は語気を強くした
(恋愛は自由だけどさ、言わなくてもわかるだろう、派手にやられるとみんなの手前仕事に影響するだろう、少しは考えろよ、結婚でもするのか、それならそれで、社長とよく話して、身の振り方を考えろよ)
(、、、、、、、、)返事をしない
(黙っていてもわからないだろう、まあいいさ、女店員は皆、年頃だからだから二人のことを気にするのさ)
中村君小さな声で、はい、と返事をして消えた。
吉松も彼の暗さは性分に合わない、まじめだけど、陰険で何を考えているのかわからないタイプだからだ。
その日に由恵と中村君に告げた似たようなことを話し合った
由恵は流行りの髪形で、ちょんま??が高い、嫌に目立つ。本人は格好がいいと思っているかもだが、吉松は派手すぎて、なんだこの女と感じていた。
(仕事はできる男だが、あんな暗い男、どこがいいのだ、恋愛は自由だから止めはしないが、よく考えれば)と上から目線でおとなしく忠告したのである。これは吉松の本心であった。なんとなく釣り合いが取れない二人に見えたのだ。由恵は明るく、何でも知りたいという意欲のない女で、一方中村君は緻密で口数も少なく明るさが足りない男だ。吉松の直感では二人の愛は上手くいかないし、中村君の一方通行だと思っていた。
この月の末に中村君は由恵と何を話したかはわからないが酒屋を辞めて行った。由恵は店に残り仲良し三人組は昔通りに戻っていた。
この件は家族主義の時代だから、三人組を面倒見ていた姉を通じて社長の義兄に伝わったはずである。

 大学通信講座も三年間は頑張れたが、英語についていけない、壁にぶつかっていいた。吉松の高校は第一外語は日本でも珍しいドイツ語だったから英語は中学程度なのだ。その上に中学時代の英語の成績は2だ。英語がだめだからドイツ語でやり直しだと都合のいいように考えていたから、英語はチンプンカンプンなのだ。勿論、ドイツ語も最低だ。覚えているのは、ダンケシェーンとイッヒリーベシェーン?ぐらいだ。
通信教育を諦めると、集中する相手が見つからず流れは一気に闇夜を走り出した。
私生活は乱れ、板さんの安さんと場外馬券を買いにいったり、思い出させてくれる桃子とせっちゃんが毎日くれたの500円のパチンコだ、閉店後はよく新宿歌舞伎町に男を発散させに行ったりもした。あの小学生の様に勉学に励んでいた吉松はどこにいってしまったのだろうか。 

 しばらくして、社長の義兄が、川崎の繁華街20坪ほどの居酒屋吉富を経営するようになり、店は順調に売り上げを伸ばし半年ぐらい経過した頃、吉松は川崎に転勤する事になった。
店の近くのアパートから通ったり、中野の酒屋からかよっったりしていた。このアパートには店の従業員である調理を担当する二人の若者が既に住んでいた。中野の酒屋から派遣された二人だから阿吽の呼吸だ。

 この20坪足らずの居酒屋吉富はその後の吉松の運命を血祭りに仕立てていく。
身から出た錆と言え一旦転げ落ちると自分の意志も家族も道ずれにしていくものだ。地獄街道は迷い道、抜けようとおもえば思うほど、はまって行く。そんな吉松の出発点がこの川崎なのだ。

後に妻となる由恵は酒屋の長男坊の嫁になるのだと聞こえはいいが、とんだ、貧乏くじを引いたことになる。彼女の親戚は由恵は東京に出て良かった酒屋の息子と結婚できてと、喜んでいたはずだ。だが数年後には吉松の泥舟につきあわされることになる.ことの成り行きは始めの章で少し触れたが、ここでは吉松と由恵が夫婦になり、吉松の浅はかな行動により獣道を歩く夫婦の闇夜を歩いてみる。

  川の流れは止まることを知らない その流れに乗る笹船はとめたくても止めれない だが、太陽の眩しさ、月の哀しさは知っている
     哀れな旅人よ、哀れと思うなかれ  心ひとつで日はかがやき、月は愛しく照らす 

 川崎の居酒屋吉富には店長として義兄が雇い入れた50歳前後の吉田夫婦が働いていた。そこに吉松が応援する形で勤務する事になった。吉田夫婦と義兄との契約はどうなっているか捨吉はしらないし、聞こうともしない。おそらく義兄の事だから若い従業員をまとめて店長として頑張って貰いたい、給料は基本給プラス出来高制ぐらいのことは常識で言っているはずだ。
義兄は、他にも、居酒屋を出す計画を持っていたので、店長候補の養成コースとして更に大きな舞台で活躍させようと吉松を送りこんだのだ。ところが義兄の思惑がはずれることになった。吉松がまた問題をおこしたのである。
吉松が来て一月が過ぎた頃、吉田夫婦は義兄の社長に辞職を願いを出したのだ。
理由は、吉松が手伝っだってくれるのはいいけれど、このメニューでは客が来ないとか、今日は遅く店に出るとか、今日の売り上げを報告してくださいとか、どっちが店長だかわからなくてやりにくいという理由である。
酒屋の長男が店長の下で働けと言われてもついつい口出しは出てしまうものだ。吉松は自分では経営センスはあるし、宣伝メニューは客を惹きつける独特の筆さばきができると彼なりの自信があるので、店を繫盛させたいため、ついつい口を出してしまうのだ。追い出しにかけているわけではないが、そう取られても無理もないと平然と過ごしていたのだ。
また、実家から酒の配達にくる社員の口から吉松が独立したい気持ちがある事を聞きだしていたし、中野の焼鳥屋松盛にいるときの吉松の悪しき噂も耳に入っているようだった。

酒屋の隣の焼き鳥屋での話だ。
店長の、安さんと閉店後、些細な事から口論になった。酒も飲んでいた。
競馬で損をして給料を使い果たし、ろくな人生を互にしていない、時間の無駄遣いだとかで口論は始まった。
吉松は板場の先輩に(こんな小さな焼き鳥屋にいてもしょうがないだろう、本格的に和食板前の修行に行くべきではないか、夢がないのか、独立して思う存分人生を過ごしたらどうだ、それが男というものだ)といったのだ。
安さんが日本料理の本格的な板前になりたいと言う気持ちがあるのがわかっているのに、ここで無駄な時を過ごしていても板前になるならば時間の浪費だと、暗に退職をうながしているのだ。
立場が専務の吉松が会社の利益を考えるなら彼が辞めてもらったら困るのだが、そんなこと頭にも浮かばず、若い二人は、バカだ、間抜けだと時を忘れて口論を酒の肴にしていたのだ。どこでどう間違えたのか、安さんが酒に飲まれて
(お前は酒が飲めないから俺の気持ちなどわかるはずがない)と言うので吉松も負けすと、
(そうか、それなら酒を飲んでやる、これでもか)
と新しい360ミリリットルのウイスキートリス丸瓶の栓を開け、大きなビールジョッキに波々と入れて、一気飲み始めたのである。おそらく半分以上の一気飲みをしたと思う、その瞬間、吉松は意識を失ってしまった。
とんでも無いことになっていたとはつゆ知らず、吉松が気を取り戻したのは翌日の昼で、傍らに近所の老医師の宮田さんと母が心配げに傍わらに付き沿っていたのだ。
一歩間違えれば命がなかったと医者がいう。血を吐いた洗面器には黒い血が埋めていた。
この向こう見ずで前しか見ない吉松の行動は、明治時代初期、岐阜県笠間から単身で東京に来て日本橋で輪力車のボスをし、新宿角筈で仕出し弁当屋を始め、更に吉松の父をふくも三人の息子を酒屋に育てた。その力量は大したものだったと父親から聞いていた。父はある時、炬燵で暖を取っているとき祖父の裏話をした。祖父は実業家である反面、晩年は裏街道の丁半博打で警察にお世話になったというのだ。吉松がたまに競馬に行くのも俺を通り越してお前に遺伝されたのかも知れないと冗談を言って笑わせた事がある。祖父は背中は羽衣の入れ墨があった。吉松の幼少のころ冬になると火鉢でよくお餅を焼いてくれた。
頑固一徹で博打好きは祖父の血筋かもしれないと、変に祖父を敬愛する自分をおかしな人間だとほくそえんだ。
吉松の叔母は神田湯島天神で芸者さんの置屋をしていた。木造二階建ての家だ。東踊りの常連だったらしい。細面の美人さんだった。
吉松は戦後間もない幼少のころ、叔母のところに遊びに行くと、芸者さんたちが歓迎して玄関先でお菓子をたべながら遊んでくれた。叔母は通称本郷のおばさんと言われていた、たまたま吉松のと二人で遊んでいるとき、(おばちゃん、亀には盲腸がいくつあるか知っている?)と聞くと(しらないよ、いくつあるんだい)と笑みを浮かべてききかえした。すると(亀はね、。ふたつだよ。だって、もちょもちょかめよと言うでしょ)すると叔母はわらいこけ(おまえは、とんちがうまいね)と褒められたことを覚えている。誰かに聞いた話で二番煎じだった。
吉松は秘かに粋な江戸っ子の血筋が俺の身体に染みついているのと誇りに思っていた。どちらかと言うと下町男だから、羽目を外すのも勲章の一つだとか博打好きの流れも先代からの血筋で、血統書付きだから金がが減るのは浮世の華だとか勝手な理屈をつけていたのだ。この勝手な理屈が家族に迷惑をかける種になっているので吉松の周辺の人間は翻弄されて、理解不能におちることも時々あったのだ。

 吉松の向こう見ずの性格を聞かされている吉田夫婦はこんな常識の通じない男と仕事は出来ない、やめるが勝ちだと自分たちの将来を案じたのか居酒屋吉冨から去っていった。
吉松が追い出したわけではない。この倅は手に負えない、と自ら判断したのだ。
居酒屋吉富は吉松が采配をする事になり、店のある四階建てのビルの屋上から幅1メートル長さ5メートルの居酒屋吉富の文字を染め抜いた垂れ幕を下げ大いに宣伝に力をいれた。店は川崎競輪からの帰り道になるので開催日の店内は競輪帰りのお客様で満員状態になる。
平日は浮島の工場地帯からのサラリーマンたちが気軽に寄って行くので商売は繫盛した。26歳になった吉松も白の調理作業着と手ぬぐいを頭に巻いた豆絞りの姿が板についてきていた。愛想の良い吉松はお客様の紹介で、競馬場、競輪場の警備員のお弁当とかメーカーの保養所などの仕出しなど店売りの他にも販路を広げていった。
一度店でボヤを出し消防車数台がくる事故をおこし、幸い大事にならなくて済んだが、これも忙しすぎてガス栓を付けっぱなしで配達にでかけたのが原因だった。

そんな時、中野の酒屋では異変が起こった。
義兄が会社を大きくするため父名義の店の土地を会社名義にするというのだ。父は将来
も世話になる義兄の話だから交渉の席に座らないわけにはいかないのだ。
吉松はすでに、会社が大きくなりすぎて、専務も自然消滅していたし、特に発言する必要もないと思っていたから、全て父と、義兄と其の連れ合いである姉の栄子に任せていた。
というよりも成り行き任せだった。吉松は居酒屋吉富の店長として働いているが本意では無い。歳を重ねていくとマスコミで働きたいとかの夢は物理的に離れて行く。与えられた運命に逆らう事はむづかしい。せめて独立して、この居酒屋吉富で生き甲斐を探そうと張り切っていた。

金の話はしたくはないのだが、吉松の行く末を覗くと、この時の金の流れは一つの関所みたいな場面なので重要な意味がある。
土地の買収金額は相場より安い400万だ。賃借権譲渡でも安いのだ。その金で父は住まいだった酒屋を離れたて長男の吉松と住む計画だ。長女が33歳、次女が30歳三女が28歳、弟が23歳三男が20歳代という家族構成だから、世の中の流れを読み取るのには若くて疎い家族だった。
でも、兄弟の大半は義兄の買収案に賛成だった。特に姉三人は波風立てれば結婚していて幸せに暮らしている自分達の生活がぐらつく可能性もあり、寧ろ義兄の案には大賛成していた。吉松も義兄とは性格は違うけど、こと、金儲けに関しては経理出身であるだけに安心感を抱いていた。それでも儲けることに一筋の義兄と吉松の間は風通しが悪かった。
義兄に感謝する部分もあれば、反対に、もしかすると、姉を嫁にして自己の欲望を実現させようとする信頼の置けない男かも知れないと複雑な気持ちが錯綜していたが、疑っても意味がないのだ。いずれにしても会社と縁が遠くなれるので吉松には喜ばしいことだと受け止めていた。吉松は酒屋と言う屋根の下で暮らしてきた肉親家族が今壊れかけていく姿を見てその種は全て自分が、源になっているのだと思うと、罪作りの男だと認めざるを得ないでいた。
 居酒屋吉富の焼き鳥の仕込みが始まった。研ぎ澄まされた牛刀は豚の肉片を切り落としていく。竹串のタバを左手に挟み右手の竹串で一本ずつ小さな肉片力の強弱をつけながら刺していく単純な作業だが由恵と板前の3人で山のように仕込んでも2時間はかかる。
 焼き鳥に使うネギが足らず自転車のペタルを踏みながら八百屋に買いにいった。ベダルはユルリと踏み込こまれている。走りながら脳に浮かんで来たのが戦後の幼い兄弟の思い出だった。
産めよ増やせよの戦時の時に生まれてきた6人の兄弟姉妹だ。両親も苦労していた。
戦後は食料不足で多摩川にヨモギをつみに出掛けることもあった。中野通りの十貫坂をリヤカーに味噌樽を乗せ姉と押しながら店まで運んだ事もある。
その思い出の詰まった酒屋の跡継ぎが代わろうといている。俺が原因だが俺には俺の人生がある、どんな闇でも、生きている証を感じて行かなければ生きている事にならない、幸い両親の生活は終身会長として生活費は保証されているから安心だ。と頭の中を整理していたが、吉松の心は安心安全の暮らしを否定する魂が宿っていた。
(このまま吉富で店長として仕事をこなしていても毎月給料をもらうので安定だが俺には向かないな、どうせならこの居酒屋吉富を義兄の会社から独立させて俺が社長になればいいではないか、そうすれば責任も出てくるし、やり甲斐もある)
そう考えた吉松は義兄と揉めるのを覚悟で対決しょうと考えるようになってきた。
義兄は元店長だった吉田夫婦が吉富去った後、しかたなしに吉松を店長にした。そして経営に不安感を抱いたのか、政略結婚か知らないが、吉松に嫁を取らせようと画策したのだ。うまく夫婦になれば、吉松はおとなしくなり仕事に精を出すだろうと考えたのかもしれない。相手の女性は義兄の親戚で母を通して写真を見せられた。酒屋の二階にある両親の和室であった。
若草色をした和服を着た小柄な女性で、おとなししそうな表情をしていた。
吉松はサラッと写真を見終わると、側にいる父を見て(俺は彼女と結婚しないよ。第一、見合いとか、紹介での嫁探しは俺の性分に合わない。嫁ぐらい自分で探すよ)と断りをいれ、足早に去った。
両親はがっかりしたに違いない。
この頃、吉松の心には想いを寄せる女がいた。
店員の由恵だった。辞めていった中村と由恵の恋の噂話に吉松が立ち入り、結果的には二人を捌いてしまったあの由恵だ。
あれからの1年が過ぎた頃、まだ川崎の居酒屋吉富に勤務する前のことだった。
吉松は由恵の働いている酒屋の売り場でお客様の応対をしていた。
そこに品のいい白髪の老人が吉松に話をかけてきた。
おそらく吉松がこの店の息子であると言うことは知っていたと思う。
(つかぬことお聞きしたいのですが、倅の嫁にどうかと思いまして、あそこの棚にいる人ですが)と顔で由恵を指しながらと小さな声で切り出した。
(ああ、由恵さんですね、うーん。今は勤務中ですねので
あとで聞いておきますね、明日にでも来てみてください)老人は軽く会釈をして帰っていった。
吉松の心はなんとなく動揺した。
翌日になり、昼頃、老人は由恵と二人で店の外で話をした。
しばらくして由恵は戻って来たが老人の話は一言も話さず仕事に戻っていった。他の女店員も近くにいるので配慮したのだ。
吉松は、老人の話の結果を知る由もない、聞こうとも思わないし、報告を受ける話ではない。
老人が帰りに挨拶がないところから察すると、何らかの理由で見合いの話は水に流れたのだろう。
しかし、老人の話がきてから、吉松は(もしかすると俺は由恵と結婚するのではないか、運命の女かも)と心の動くのを覚えだしていた。
あの品にいい爺さんが息子の嫁にと考える女だ、ほっておくと誰かにとられるなと己の魂が自然と揺らいだのだ。特別に女付き合いのない吉松は由恵が身近な女になっていた。

以前、中村は会社を自主的に辞めて行った事を思い出し、ミイラ取りがミイラになっている自分を振り返り時代劇ドラマではないが、(お前もいい加減な男だな立場を利用して恋敵を追い払い自分の女にするのか、それじゃあ男が泣くぜ、金貸しと同じではないか)と誰かに言われそうな気分でいた。
ある日、仕事終わり由恵が6畳の休憩室の炬燵で一人で雑誌を呼んでいた。テーブルの上の
カゴの中のミカン吉松を睨めつけているようだった。
日頃からこの部屋は社員の休憩室として使われていた。
吉松は、由恵の正面にすわり、気楽に話しかけた。部屋には二人しかいない。夜の10時ごろだ。休みはどこに行くの、テレビの歌番組、好きな歌手は誰なのとか、どうでもいい話をつずけていた。吉松は、こたつ布団に隠れている由恵の足に自分の足を重ねたのである。愛の表現だった。由恵はビックリして恥じらいの顔を見せていたが、その場から逃げることはなかった。この一撃の反応を見て由恵は吉松に0kのサインだと確信した。
二階から姉が降りてきて、もう遅いから寝なさいと注意をされ、その日は過ぎた。

酒屋には由恵と同世代の店員は3人いた。吉松はこの女性3人に気を遣っている。何故ならば、皆、住み込み店員でほぼ、私生活はオープンに近いのだ。
由恵との関係が目立つと由恵か吉松のどちらかが店を辞める事になり兼ねない。
社内恋愛はご法度のようなもの、まして、酒屋の息子との恋愛は刺激が強すぎる。
吉松はこの狭い環境でいかに由恵と連絡を取る事ができるかどうか考えた末、一冊の単行本を連絡帳代わりして、心の往復をしたため合う事にした。
その日のよしなしごとを、つれずれなるままに書き記した。
そのノートは単行本の智恵子抄でぺーじの空欄に交代で書いた。
ふすまで仕切られた二階の部屋が吉松の部屋だ。その部屋の机の上に置いたり、置気に来たり、すれ違い様に手渡ししたりしながら、お互いを深めていった。
智恵子抄を、選んだのは愛の表現が上手く書いてあるのだろうと、想定しての事だった。
自分の気持ちはその本に書いてある通りだと愛の表現が下手くそな吉松の奇策であった。
連絡をお互いにするための智恵子抄だが、お互いに書いた内容は他愛の無い文で、(今日は歯医者に行って虫歯を抜いてきた)(明日は雨が降るから焼き鳥屋は暇だ)(今日は疲れた,俺はぶれない)とか単純な文だ。内容はどうでもいいのだ。
交換し合う事に意義があると思う二人だった。
由恵は文が得意ではない。愛だの、ヘチマだの言っても返事をするのが煩わしいそうだった。
二人の間に理屈は無用なのだ。どんな障害物でも、由恵は乗り越える覚悟は出来ていたと言うのか、吉松の強引な愛の手にしがみついて引き摺られるように歩いているようだった。

【年老いた最近、横浜の中華街で、近所のおばさんと昼飯をたべに行ったことがある。その時、散歩がたら、暇つぶしに占い館に足をはこんでみた。白髪の老いた占い師が偉そうに言った言葉がある。
(上から目線の男で、特に先の尖った靴を履いて、財布を後ろのポケットに入れている男は女の敵である、離婚率が高い、別れた方がいい、)と占いの流れで言ったのだ。私の心は笑っていた。
(昔の俺だな、由恵と始めて日比谷公園でデイトをしたとき、由恵は俺の後を雪の下駄のようについてきたっけ、上から目線だった。】

話は由恵との結婚に戻る。
吉松が由恵にプロポーズした。
二階の部屋で、連絡帳代わりに二人で使っていた、単行本を返しに来たとき、(俺はお前を嫁にする)と偉そうに言った。えっ、言った瞬間彼女は振り返り急ぎ足で階段を降りていった。動転しているようすだっった。部屋の窓から夕日がが差しこんでいた。

義兄の親戚の娘との見合いを断り、まだいく日も経ってない頃だ。吉松は両親に由恵と結婚すると注げると両親は即座に反対した。
傍らにいる、母は(由恵さんの、髪の形が気に入らない)と言う。吉松は母の本音は義兄の親戚の娘だと信じているから反対の狼煙だなと一蹴した。
彼女は当時、流行っていた、髪をちょんまげみたいに高くして茶髪だったのだ。
親が反対しても効く捨吉ではない。あ、そうですか。と思うだけで貴兄の善意を無駄にした。
しばらくして吉松の意向で由恵は店を辞めて笹塚にある家具屋に勤める事になった。
義兄や、両親や、店員達の耳目を浴びるのを避けたのだ。髪の色も元の黒毛に戻っていた。
日が経つに連れ両親も二人の間にくさびを打ち込むのは無理だと判断紙たのか結婚の段取りを、気にするようになっていた。
吉松は川崎の居酒屋で独立すると宣言して、義兄や、両親に賛同を求めた。義兄は自分で経営したい店を吉松に奪われるのだからいい気持ちであるはずはない。しかし反対はできない。なにせ、跡取り息子だからだ。義兄の妻の栄子は独立には反対だ。義兄が酒の販路拡大を狙って、問屋から融資を受けて開業資金を用立てしから、反対なのだ。亭主を庇うのは当然だ。姉が居酒屋吉富の経営に反対するので吉松と口論になり姉に、手を上げてしまった。
(バカ野郎、二人で酒屋を継げば文句無いだろう、俺が居酒屋をやる、文句あるのか)と怒鳴ってしまったのだ。この一言で姉は義兄と友に会社を伸ばそうとする夫婦の構想は、壊れたと思ったのか、それからは顔を合わしても何も言わなくなった。
こうして、吉松は株式会社吉富の社長に収まったのだ。
捨吉は川崎の居酒屋吉富の近くにアパートを借りて住むようになり、家具屋に勤める由恵も休みの時に訪ねた来るようになっていた。両親も倅と同じ道を歩く事を望み、中野の店を義兄に譲り、武蔵小杉の東急団地に住むことになった。行く行くは吉松夫婦もここで暮らすことになるのだ。
結婚式には、義兄と姉は、出席を拒んだ。吉松のこれまでの行動に憎たらしく思っていたからだ。特に居酒屋吉富の代表を父親も巻き添えにして吉松の名前に書き換え指したことが、その原因だった。

結婚式は明治記念館で行われた。その日の夜に新幹線で、その日は熱海の晴観荘に行った。交通公社の伊勢志摩コースだ。
結婚指輪は当日に渋谷東急の急ごしらえで、指輪のサイズがわからなくて後日、本人が来てサイズ合わせをするという慌てぶりで、プラチナの適当な指輪を買って、式に間に合わせた。それでも由恵は怒らなかった。
結婚式は結婚資金が足らなくて一年まとうと由恵に相談したのだが、吉松の気が変わるといけないと思ってか、拒否をされ、それなら何とかするぞと、安上がりにするため会場費を参加者に振り分けして、間に合わせ、いわゆる会員制みたいなもんだ。吉松の縁者、参加者は呆れて文句も出なかった。
新幹線の東京駅に見送りに来てくれた人達が、花束やお菓子を二人に贈ってくれた。バンザイ、バンザイと大声で手を上げるのは昔の兵隊を戦地に送る光景を見ているようで、客席の視線を浴びて恥ずかしそうにしている新婚夫婦だった。
3泊4日の伊勢志摩コースの最終日に吉松は、由恵の所持金を聞いた。7万円あると言う。
(新婚旅行は一度だけだから、その金で奈良、京都を回って帰ろう)と言い出した。この頃には、川崎の居酒屋吉富の経営は義兄から吉松に代っていたが、回転資金はゼロからのスタートだったので余裕はなかったのだ。
義兄は吉松が強引に独立宣言をして、店を奪い取ったと思っていたのだろう、義兄の酒場経営の夢を奪った男としか思っていないはずだから、運転資金など置いていくはずないのだ。
由恵は黙って金を手渡した。
(心配するな、金はすぐかえす。日銭が入るから)と吉松は何も語らすの由恵に言った。
計画性のない、大雑把な金の使い方は金の苦労を知らない男の証でもあった。
京都の南禅寺で豆腐を食べたり、奈良で鹿とセンベイで戯れたりして川崎に戻った夜、高校の友達二人が会いに来た。吉松の帰りを川崎のサテンで待っていたのだ。
ロクサンとケンジだ。
赤いショートパンツの、ケンジが、
(ロクサンが競馬で100万儲けた、今60万ここにある、何処か遊びに行こう
(ほう、凄い、どうせアブク銭だ、記念に皆使おう)と言うことになり三人は、新婚旅行から、帰って来たばかりなのに由恵を二人が暮らしているアパートに先に帰えした。
この時の由恵の心境は忸怩たるものがあったはずだ。無口でアパートに戻る由恵は淋しげだった。
吉松は、由恵に暗に
(男には男の付き合いがある、時には恋女房でも冷たくしなければならない事もあるのだ)と自分の胸に都合のいいように解釈させていた。
吉松は(彼奴等、結婚をやっかみやがってバケツで水かけに来たようなものだ)ど静かな夜になるはずの二人の世界を諦めた。

夜の横浜は夜は華やかだ。名のある高給クラブが揃っている。
夜景の映える港の奥まった路地にクラブモンテカルロがある。その日は暇らしく薄暗いホールには人影が少なかった。
三人は中央のソファに陣取りホステスを3人指名した。顔が嫌に輝いていた。金粉かな。ロクサンは日本橋の経理会社の息子で税理士試験を目指しているが、あまり勉強していない、ケンジは蒲田の布団屋の息子だ。皆、小遣いには、不自由なく、賭け事は好きな連中だ。ケンジは父の葬儀の時、大井競馬場に行くし、ロクさんは居酒屋吉富の、二階にある麻雀屋に通う男だ。
不真面目三人組といってもオバーな表現ではない。そんな仲良し3人組だから、ロクサンの、競馬で儲けた60万は、使い果たそうと言っても止める奴はいない。競馬で儲けたとは言え60万は大金だ。万札を、オステスの、胸の中に押し込んだりしないと金が減らないのだ。酒席はいつの間にかホステスが、10人ほどに増えていた。若気のいたりと言えども上気を逸した一夜であった。
深夜に川崎に戻り、二人はタクシーで自宅に帰り、捨吉は芳恵に酔いながら謝罪をした。
(高校の友達は気さくでいい、競馬で稼いた60万みな使い果たしたよ。ロクサンが競馬で稼いたと言わなければ分からないのに、人のいい性格だから黙っていられないのだ)そう言い終えると布団に潜り込んでねてしまった。酒の匂いがする部屋だった。

友達が100万競馬で儲けた事実は若い経営者に罪な灯りを置いて行く事になり、後に賭け事を資金繰りに使用する事になるのだ。この時はまぐれ当たりで済ましていたが、博打は魔物だと言うことを思い知らされる事になる吉松だ。

商売は、順調に行って、由恵も店の手伝いをこなし夫婦仲良く働いていた。数年過ぎて吉松には長男、長女と、子供に恵まれ、両親も武蔵小杉の、田園風景になれ、母は膝を患いながらも近所に友達もできて、平和な暮らしが、続いていた。

しかし、良い時ばかり続く事はないのが世の中だ。
話は最後の祭りあたりの居酒屋吉富が閉店に追い込まれる時まで遡るが、義兄が払うべき譲渡資産税を、父が払うようになり、父は資金の、全てを武蔵小杉の土地の購入にあてたため、支払う金がなく、吉松がその返済をするようになったのだ。そのため、順調に行っていた、居酒屋の経営に無理が生じて自転車操業に陥り挙句の果てに、辿り着いたのが賭け事だ
まるで、山から転げ出した石だ、やがて、転げ落ちる力も無くなり、川の岸辺で、見動き出来なくなり、途方に暮れているようなものだった。
その川の岸辺が、最後の稲毛神社の祭りなのだ。白足袋を脱ぎ、祭り半纏を脱ぎ、店を閉める覚悟をした、あの時なのだ。

落ち目の三度笠は誰も見向きもしない

吉松の最後の祭りが終わった。
待ち構えていたのは借金返済をどうするかという厳しい現実だ。
愉快で楽しい話もしたいが何も無い。落ち目の三度笠は誰も寄り付かない。

祭りの翌日はどんよりとした曇り空だった。吉松は同じ商店街の裏にある雑居ビルの階段を重い足取りで登って行った。
二階は忍野組の事務所だ。40歳ちかい組長の山本さんとは賭け麻雀のメンバーであり、飲み友達だ。彼の経営するクラブにも時折顔を出す。事務所の中に入ると二人の若い衆と何やら打合せえをしているようだった。
山本さんが(どうした、吉さん、まあ、座って、おい、誰かコヒー入れろ)と若い衆に声をかけながらソファに吉松を呼んだ。
吉松は重い口を開いた
(水道屋の加藤が、間違いないからというので手形を貸したのだが、期日まで返してくれないのですよ。不渡りに出来ないので、金貸しの海野さんから借りて、その返済が明後日に迫っているので、家を処分するまで200万用立てしてもらえないかと思ってね)
金貸しの海野は延長は効かない、俺が金に困っているのをよく知っているいるので、トイチでならいいよ、というので仕方なしに借りたのですよ、不渡り出したらオシャカだから)
(あいつは返さないと店の前で大きな声を出して、恥をかかせるからな。近所迷惑を平気でやらかすから、嫌われものだ。彼は知らない男ではないから間に入り、話してもいいけれど、どっちにしても金はかかる。あいつも商売だからな、俺は借りをつくりたくないし)
と切ない返事だ。暫く腕を組みながら
(トイチだけど話付けておくよ、知らない吉さんではないからな、俺の兄貴分に話すから間違いない、200万だな、ところで店の方は大変らしいな。店は元気がなくなると客が逃げていくもんだ、ここのところ店は寂れていると聞いてるが大丈夫なの。1人若くて威勢のいい板前がいる、吉富のあのメニューでは客が呼べない。遅れてるさ、もっと手の混んだ生きのいいもの出さなきゃだめだ。渋谷で俺の友達の店で働いていた男だ、彼はいい腕しているから、役にたつよ、給料はすぐ払わなくていい。本人もしばらく店の状況を見たいだろうから)
吉松は山田には金銭の借りがない。彼との金の動きは競馬を含めあらゆる博打を間にした関係だけだ。博打は現金、小切手だけが信用状だ。

吉松は板前の件は了承して、兄貴分と言う種田さんを訪ねた。
和風の瓦葺きの門を抜け、広い玄関に入ると、飴色の上がり框の側に凛とした50年配の男が立っていた。
(話は聞いている)渋い声で言った。
一言、言っただけで紙袋に入れた金を渡してくれた。コマゴマした話は一切なしだ。あとは礼を述べて吉松はそこを離れた。
歩きながらその道の大物は貫禄が違うなと思っていた。
暫くして山本さんから呼び出しがかかった。
話の内容は、金貸しの海野と相談したら(居酒屋吉富の経営を海野に任せたらどうだ、兄貴に借りた200万円は海野が払うから帳消しにもなるし。もう、やる気はないのだろう)と、相談された。
吉松も、険しくなるばかりの経営状態だから、今年の夏祭りを最後に店を辞める気持ちでいるので話に乗る事に決めた。
しかし、辞めるからには店が賃貸物件のため、名義を変えなければならない。そこで(譲渡権利ではないから売りに出すことはできないし)と頭を抱えると
(名義はそのままでいいではないか、そんな事どこでもあるさ)と云う。吉松は、有限会社吉富の代表権を海野に変えれば、社長が交代しただけだから賃貸契約はそのままで済むはずだと思い、社長交代を提案して店は吉野に譲る事になった。

開店から11年、生活の糧として運営してきた居酒屋が経営破綻したけれど吉松は落胆してはいなかった。借金返済の重荷は背負って行くことにはなるが、居酒屋の経営は義兄の業務拡大の流れから生まれたもので、最初から居酒屋をやりたいと気持ちは吉松にはなかったらむしろこの代表権譲渡は吉松の将来を考えると都合が良い話でもあった。(俺が居酒屋を本心からやるとすれば料理学校を卒業して、板前修行から始める、居酒屋を始めからやりたい希望は無いのだか、義兄との対抗上居酒屋を経営をやらざるを得なかった)と思っていた。しかし吉松はやり始めた以上繁盛させないと生活出来ないから一発奮起して周りの居酒屋に対抗しようと頑張っていた。県のフグ調理師の試験を受験したり、板前を雇っては教えてもらったり、調理師の免許を取得したり、彼なりに頑張ってきたのである・ふぐ調理師は試験中に指を包丁できりその場で不合格だったが挑戦する意欲はあった。ふぐ調理師の試験当日、審査員は居酒屋吉冨の商売敵店の社長だった。吉富と目と鼻の先にあるフグ屋だ。内緒で願書を出していたので、これはもうダメだ、ちょっとのミスで落とされるなと思っていたが、焦ってしまい、指を少し切って、その場で中止となった。吉松が調理師に向いていない証であると自分なりに納得していた。
この11年の思い出の中には、川崎球場のボックスシートを、3席購入して、太陽ホエールズの応援に夢中になり、料理以外の事に関しては一人前だった。
閉店する事で精神的な、重みが一つ減って少し気が楽になった吉松は、闇金融の借金は済んだが銀行、仕入先などの借金が済んだわけではないから先ず武蔵小杉の家を早急に売却することにした。家の売却を妻の佳恵に伝えると返事はない。呆然として言葉も出ないのだ。
数日して、由恵は親戚の銀行に勤める叔父を連れてきて吉富の経営状態を吉松から聞きただした。
救えるものなら融資をするつもりでいたのだ。
だが、暴力団。金貸し。博打、と言う言葉が、連続して出てくるので、ここまで乱脈経営をしているならば立ち直れるはずがないと、融資の話は霧の如く立ち消えた。
両親には事情を説明して納得してもらった。納得というよりも、強引な説得だ。老いた両親にこれといった対策なとあるはずがない。吉松に遵うしか道はないのだ。
決定的な親不孝である。
母親は膝が悪く、となりの奥さんと仲良しで、別れるのが辛い、引っ越しなど出来ない、何とかならないのかと目に涙を浮かべながら懇願していた。70歳の母は戦後、酒屋とは名ばかりで品薄の時代にタドンを作り店で売っていた。母の出生地は天草で、魚と炭しか売るものが無いらしくタドン売りは自作だった。吉松は幼少ながら、母の口元に手ぬぐいを巻き口元だけが黒ずんでいて、腰を屈めながらタドンを作る光景を見ている。あの懸命に家族を支える母にこの倅だ。世間ではよくある話だが、涙を流す母を慰めもせず、他人事の様に母の心を打ちのす自分は本当にこの優しい母の子供なのかと疑っていた。吉松のしでかした家屋敷を売るという行為は母には命を削る事になっていた。


 【数年経って母親は引っ越し先の練馬のマンションで亡くなった。
亡くなる前の日に母の入院先に見舞いがたら、家族四人で初参りに高尾山にでかけた。御神籤を引いたが4回連続で凶が出た、5回目に中吉が出たので止めた。
子供が見ているので凶を続けるわけには行かない。まして、その年は、工事現場の日雇仕事だから、なんとかこの世界から脱出しようと願っていたから4凶は納得できないでいた。
占いを信じているわけではないが、巡り合わせは人間のパワーでは確認できない天の声だと思っている。凶が出たら反省を促す吉が出たら慢心するなとの声だとプラス思考に考える吉松だから凶は何か反省する事でも起こるのではないかと危惧していた。
善行の見当たる行為は皆無だし、悪行ならば思い当たる節がいくつもあるから、ドカンと引いた4凶は吉松に何かを予感させていた。

4凶は翌日に現れた。
高尾山の帰りに両親に新年挨拶に練馬の引っ越したマンションに行った。両親は孫にお年玉を上げたいはずだから、子供のためにお年玉を貰いに行ったに過ぎない。
親不孝の倅の顔など見たくはないだろうが孫の顔は観たいし、子供もジジババに会ってみたいはずだ。その日の午後母のにいる病院をたずね子供達と10分ほどベットに横たわる母と面会をして父のいるマンションに戻った。その日夜のことだだった。
病院から母が危篤状態だとの連絡があり吉松が一足先に病院に駆け付けた。持病が悪化していたのだ。母は口も開けす、静かな眠りの世界だった。時折タンが絡むのか咳をしたが昏睡状態であった。夜の12時頃だった。
(おい、ばあさん、吉松だよ)と声をかけても返事が無い。
しばらくして母は倅の名は言わす孫の名前を小声で言った。(修一か)それが最後の母の遺した言葉だった。
傍らにいた医院長がご臨終ですと、小さく頭を下げて戻って行った。
高尾山薬王院の御神籤は当たったのだ。天が(お前みたいな親不孝な男でも、身体が弱り動けない母は御神籤によって引き合わせてくれたのよ)と。
無事に葬式も済んで吉松は弟の信二と二人で、カラオケに行った。近くにサテンが無いからである。弟とも二年ぶりだ。吉松が会いたくても弟は吉松に会いたくないのだ。理由は簡単だ。兄貴の電話は(金を貸してくれ)ばかりだから、愛想をつかされていた。母の葬式の日はやはり、兄弟だった。
歓談の途中捨吉はやおらマイクをとり、(信二、俺この歌、唄うと涙が出るんだ、二番がいい)
と歌いだした、なんと高浦健の唐獅子牡丹だ。
(ーーーーーーつもりかさねた不幸の数をなんと詫びようかおふくろに、背中でないてる唐獅子)捨吉は歌の途中で涙が止まらのだ。目立つのが苦手な弟は苦笑いをして、生ビールを干した。

母がまだ元気なころだ。母を悲しませた家はすぐ売れた。すぐ売れるわけだ。ノミ行為の競馬の掛け金の負金が600万程のある。ヤクザのノミ行為とは別のルートだ。他にも借金があるから相場より少し安く売りに出したからである。
両親には1000万円渡して弟の住む近くの、練馬区のマンション引っ越ししていった。足らない分は姉弟で出し合ったらしい。

吉松たち家族は川崎警察署前のマンションに引っ越ししていった。

彼の借金は県の事業資金や競馬、競輪、競艇等々だけではない。会社役員として企業に投資をした事がある。まだ居酒屋吉冨が盛業のころだ。
昔の浪人時代に家庭教師だった赤澤先生が国立の大学医学部を卒業してその後、医学部の教授となり、赤澤先生が絶対に売れる市場はあると断言するので先生が発明した医療機器を販売するために市場調査のため、まずは大学医学部にデモンストレーションをすることになり吉松一人で訪問したのだ。吉松も居酒屋吉冨の経営は本来の希望した職種ではないし、この医療機器に関心を抱き、勝負師吉松は馬券を買う心理で一発勝負を賭けたのだ。医学部教授が薦める機器だからと信じたのだ。
そのために車を購入したり、二つ月程かかるデモンストレーションを実行するための経費など300万ほど投資をしたが、大学医学教授や研究員は興味を見せるが、殆ど門前払いが実情であった。赤澤先生はそれでも吉松を大学医学部に車を走らせた。結局製品は相手にされず失敗に終わり、赤澤先生ともいざこざが起こり、疎遠となっていった。
また、鳶職で会社社長小山はマージャン仲間で人の良い男がいた。その小山に頭を深く下げられ吉松仕方なく100万の手形を貸して、結局鳶職は金が工面出来ず、仕方なしに吉松の銀行口座から100万をおとすことになったり、他にも貸した金が戻らない事がしばしばあった。
これらの借金は由恵はしらない。今、吉松の経済音痴というのか情けない男のために家を売却する始末になっていた。お人好しは馬鹿の代名詞だ。

店は金融業を経営する男に渡り、仕入の未払金も土地の売った金で清算を済ませた。競馬のノミ行為の借金700万も払った。
700万は今ではも大金だが、負けが込んでくると金銭感覚が麻痺に落ちって高額を賭けるのだ。1レース50万とか。ノミ行為を受けるの側も必死にだ。博打の負けは逃げるわけにはいかない。一生負い目を背負って生きていかなければならないからだ。
ノミ行為はご法度の世界、出るとこ出ればチャラにもなるが、男がすたる。てな諸々の事で家の売買金の全てが消えていった。
荒療治が済んだが保証協会やら、友人の借入金がある。その金は慌てて返すことは無い。返済の交渉は上手くいった。商店街の会長さんが今迄の吉松の商店街に対する貢献度を覚えていてくれたのか、どうだかわからないが、親交があったのは事実なので、その縁で商工会議所に勤めないかと生活を案じて就職の話を持って来てくれた。有り難い話だが、まだ借金が残っているせいか給料の打算が動きお断りをする事にしてしまった。
今から思えば頭を冷やして正面からアタックすればよかったと思うこともある。
世の中、生きていると良い連鎖も悪い連鎖もあるものだ。 
悪い連鎖が思わぬところで火種となっていた。

 突然見知らぬ男が引っ越し先の警察署前のマンションに夜,
訪ねてきた。どこからか吉松の住所を聞き出してきたのだ。
(あんたが振り出した不渡り手形がある。どうしてくれるのだ、金額は2000万だ、俺は善意に第三者だ)と真面目腐って脅迫をした。
心当たりが無い捨吉は、男の言われるまま、店の近くの深夜喫茶で話を聞くことにした。夏の盛りで蒸し暑い夜の10時頃だ、男は32.3歳でサラリーマン風だ。要約するとこんな具合だ。
(あんたが払わないなら親に払ってもらう、こっちは被害者だ)と口早にたたみかけてきた。
吉松は(手形を見せてください)と言ってもよかったのだが、何故か言わなかった。
言えば見せてくれたかも知れないが、おそらく見せないだろうと思ったのだ。見せれば降り出した覚えのない手形だからそのまま目の前の警察に行かれたら犯罪に繋がるからだ。
吉松はこれからこの男に難癖を付けられて付きまとわれるのは面倒だと思った。誰かに相談するための時間稼ぎにしようと思い、要求通り親に会わせ約束をした。そんな大金は親に無いのはわかっているので毅然と断るはずだと思っていた。事の決着を早く済ませたい吉松はゴタゴタ反論しても、執拗に迫ってくると思ったのと見覚えのない事で降り回はされるのは煩わしいからだった。
練馬のマンションについたのは11時頃だ。男はドア越しに、(息子さんが振り出した手形が不渡りになり、会社が倒産した、全部返せとは言わないがなんとかしてもらいたい、私は被害者だ)だと父に詰めょった。すると、ドアチエンをつけたまま、二人の姿を見るやいやな、煩わしい二人を追い払うように声を上げて
(倅はとうに勘当している。私とは関係が無い、そんな金払う事は出来ない、帰ってくれ)とドアを閉めてしまった。吉松の思うとおりだった。またここで親不孝を重ねたことになる。
男は(あんたも親不孝だな、でも、これで諦めたわけではないからな、200でも300万でもいいから、明後日までつくれよ、あのサテンで夜10時に待っているからな、)と言って帰っていった。
翌日の夜約束のサテンに行った。
この日は居酒屋吉冨の代表は退いたが、完全撤退をするまで一月の猶予期間があり業者の債権処理なので店に出ていた。
この手形事件を仕組んだのはおおよそ推測ができた。おそらく、金貸しの海野一派の誰かが、引き渡した時の吉松の親が土地を売上財産があると推察して、不渡手形を善意の第三者と名乗り脅しにかけたと吉松は推察していた。
男は吉松に言った。
(どうした、金は用意できたか)
(できない、もう破産してるようなもんだ、俺を相手にしてくれるところなどない)と素っ気なく言うと、声を大きくして
(俺は、善意の第三者だからな、持ってくるまで、諦めないぞ、できないときは大阪に連れていく、土方でもして稼いでもらうのさ、俺は警察など怖くない、これから話をきいてもらうため警察に行くか)
吉松は捨て身になって言い放った
(わかった、大阪に連れていくなら連れていけ、いま店に行って柳刃を持ってくるから俺を指していけ))と開き直ると、
(わかったよ、俺は諦めないからな、またくるぞ、こうしてくるだけで金がかかるのだ。)と言ってその日は帰っていった。
吉松はこの手形取り立ての一件で身内に相談をした。何故ならば、こう執拗に絡まれると今後まともな仕事についても職場まで来て騒がれる事もあると思ったからだ。最後は100万でもいいよと言いかねない男だ。
身内に相談に乗ってくれそうな人間は新宿で歯科医をしている、三女の夫しかいない。後はこの様な暴力団まがいの話を受けれる親戚はいなかったのだ。いないというより吉松と関係があると言う事を避けていたからだ。その点、高村 誠先生は剛毅で男くさく、空手の国際審判員と空手の一派の役員をしているたくましい歯科医だ。彼は某警察署の刑事をしている森本さんを紹介してくれた。暴力団の事、ノミ行為、拳銃とか犯罪に吉松が巻き込まれていないかなど丁寧に話を聞いてくれた。勿論、吉松の手形の一件の事も聞いてくれたのだ。吉松は少なからず安堵をして電車に乗った。それから一週間ほど経ったある日、その男が警察に別件で捕まったと聞いた。多分県警から聞いたと思う。

店の引渡しの日に手形事件など俺は関係ないという顔をした海野がきて言った。勿論、後ろであの手形男を操ったのは誰だかわからない。
(居酒屋吉冨で奥さん雇ってもいい、板前の森田もいいよ)と親切心で言ってきたが、
(それはできない、森田は自由だが)と即座に答えた。海野はつぶれかかっている吉松の妻由恵がおそらく、愛想をつかし離婚するのではないかと考えていたに違いない。
金貸しの海野は、由恵と森田が吉松が麻雀屋で賭けマージャンに凝っているとき二人で店を切り盛りして来たというのを見てきているし、森田からも聞いているので、吉松が店の閉店と合わせてが消えてくれれば全てが治まるはずだった。
さらに、 由恵は二人の子供を抱えてどう生きていくべきか悩んでいたので、吉松が由恵から離れていけば森田と結婚せざるを得ないだろう思ったのだ。

暫くして、由恵と吉松は由恵の実家である茅野に行くことになった。
 実家の周辺は田畑で囲まれて、家の前には大きな欅がありその側に祠がある閑静なところだ。由恵と知り合った頃はこの家の近くに流れる川で泳いだ事もあった。当時は、茅葺きで、トイレも外に有り、暮らしの様子がそれとなく肌に感じていた。吉松が始めて訪ねたときは家の風呂釜が壊れていて臨時に用意された風呂に入った。その風呂は道ばたに台を置いてドラム缶造りでスノコの上にむしろを敷いて、そこで裸になったが、寒々と冷気が肌に突き刺さり震えたのを覚えている。今は木造瓦葺きの家屋になっていた。
 吉松にとって茅野は思い出のあるところだ。
中学3年の夏休みに担任の先生の止めるのを振り切って同級生4人でこの地の蓼科山に登ったことがる、二泊三日のテント生活だ。最後の日に馬に乗って白樺湖めくりをして楽しいだ後、さあ、バスで茅野駅迄行こうとしたら、友の一人がバス代を払うと帰りの電車賃が無くなると云う。仕方なしに皆で茅野駅迄歩くことにした。中学生のやることだ、費用などギリギリだ、立て替える金など無いのだ。バスも遠距離を走るから高額なのだ。山道を歩きながら吉松は、嫁にするならこの辺りの嫁がいい、東京のコンクリートジャングルで暮らすより、山に囲まれた自然の中で暮らせるしな、と想いをよせながら山道を下っていた。由恵は、偶然にもこの地の生まれだ。

二人が茅野に行ったのは、店が救えるものなら融資をしてもいいと、吉富の経営状態を調べに来た由恵の叔父が、余りにもひどい経営状態と由恵の将来を危惧して、離婚させた方が良いのではと実家の親戚達に話しかけ、今日は二人の真意を聴くために呼び出された日なのだ。
由恵の兄は父親を早くになくして、祖父と母の3人暮らしで、代々の僅かな土地を大事に守ってきた真面目な男で、博打のバの字も知らない純な人だ。近くの製造会社で働きなが家族を養っていた。その兄と、姉夫婦、母の姉弟と、その父にあたる、長老が畳の広場に座って、捨吉夫婦は長老の目の前に座らせられた。
辺りが静まると、長老は開口一番
静かな声で言った。

(由恵、お前、今ここで吉松さんと別れるなら、小さな家を建ててやる、子供の面倒も見てあげる。ただし今、ここで吉松さんの所へ、戻ると言うなら、二度とここへは戻って来るな、どうする、直ぐ結論を出しなさい)と由恵に迫った。由恵は小声で(吉松さんの所に行きます)と返事をしたのだ。
その声を聞いた吉松は何となくホットした。離婚話のことなど由恵から聞いていなかったし、あっそうか、と嬉しくも悲しくもない不思議な感情だった。筵の上に座らせた罪人みたいなものだから、良いも悪いもないのだ。由恵の決断に従うしかない。
この件もこれからも歩かされるだろう、悪の因縁の道行きを思うと一つの通過点にしか思えないら感動は無かったのだ。

川崎に戻り由恵は取引先の八百屋さんの紹介で住んでいるマンションな近くにある焼肉屋で働くことになった。
居酒屋吉富から縁が切れた吉松は浮遊粉塵のように己の身の置き場所を考えながら彷徨っていた。たどり着いたのは身に染みる東京競馬場だった。僅かな金しか無い、6万位だ。競馬場で次の仕事を考えると言う不届き者だ。まだ、反省していない。
摩訶不思議に競馬の配当金は40万になり、この際欲をかいて翌日も行った。
欲の塊だ。散々歩いた博打街道だから、少々の田舎の説教など、その時だけで、遊興癖は治らない。ギャンブル依存症につける薬は無い。この金が増えれば明日が見えると言う考えが悪魔のステッキが呼び込む厄介な病気だ。切羽詰まると平常心など見え無くなる魔物が支配する世界になる。
翌日は負けて残りの金が8万あった。普通ならこの金もつぎ込むのだが、ストップがかかった。当たり前だった。残された最後の金だ。明日の事を思うと流石に使えないのだ。仕事が見つかった時の交通費やらだ。この時由恵との離婚を真剣に思うようになった。恥ずかしくて合わす顔がないからだ。都落ちがよぎっていた。縁の深い土地から逃げたかったからだ。
吉松はその金を持って八王子から東京行きの電車に乗り込んだ。家に帰る気力も無いのだ。こんな苦しい時に競馬をやる男など家庭に帰る資格など無いと己を地獄に突き落としていたのだ。
兎に角少し頭を冷やそう、自分を見直そうと、都合よく考え二、三日なら金も持ちそうなので旅に出る事にした。行き先は決めす、ぶらぶらの彷徨い旅だ。辿り着いたのは信楽焼きの里だった。どうしてこの里に辿り着いたのか決め手はない。なにか心が癒やされる魂を探していたのかもしれない。信楽焼の里は道の両側に焼き物が所狭しと並んでいた。特にタヌキの焼き物は里の名物らしく客を招いているようにおもえた。歩いて、歩いて、また歩いている吉松がいた。
この信楽焼の里で土を捏ねて陶芸家になるのは難しだろうな、と夢を見ている吉松だった。でも、陶器運びの運転手ぐらいなら俺にも出来るだろうと、アレコレ考えながら、ショウウインドウに置かれた信楽焼の作品を見て歩いていた。
この時ばかりは吉松の心は赤ん坊のように澄み切っていた。特に目に付いたのが大きな壺だ。釜の熱に耐えた渋い色合い、たくましい息づかい。派手さは無いが存在感がある。
目を凝らして壺を観ていると頭の隅から家族の顔が吉松を呼んでいた。
小さい子供わ抱える由恵も、どうしたら良い暮らしが出来るかを真剣に考える余地などない。目の前の金になる焼肉屋の、パートを、こなすしかないのだ。昼は昼でスーバーのレジ係だ。
吉松は信楽焼を、見ながら家族の事を思い出していた。
流れによっては離婚をして、この地で生きようと考えたが、信楽焼を観ているうちに、家族の住む街に戻ろうと思うようになった。
この俺でも子供達の防波堤位はできるだろうと思ったからだ。

家を無くし、店を無くし、信用と失った吉松だが、家族は細い糸で何とかたもっている。
身から出た錆だが、ガレ場の石が転げ落ちるように、最後はスピードを増し岩にぶつかり粉砕したようなものだ。ここまで落ちると、生きていく術を探すにも探しようがない。そんな中にあって、一つの光が吉松を呼んでいた。罪のない子供が親父を戻ってこいと言う無言の光だ。
川崎のマンションに戻ることにした吉松は子供たちのためなら何でもして働こうと決心したのだ。
川崎に戻って最初に訪ねたのは忍野組の事務所だった。借入金はないが、博打の縁ができているし、世間から嫌われている仲間でも良いことも悪いこともあり親しい会話の出来る仲間だった。このしがらみから身を引くため挨拶に行った。
なにもわざわざ博打を止めて堅気の世界で出直すと言いに行かなくてもいいのだが、自分に対するケジメだった。
事務所の階段を上がりながら吉松は、南妙法蓮華経と頭で唱えていた。彼らを恐れていたのではない。自分の意気地の無さが解っているので、また、引きずり込まれるのではないか、その弱気な意志に負けないように南妙法蓮華経と唱えて行ったのだ。別にアーメンでもいい、天に自分の、意志を報告して、これからの行動を見ていて貰いたいからだ。
ケジメを付けないと、今までの付き合いの流れが断ち切れないのだ。
山本組長と吉松の二人はソファに座り話しだした。
(色々お世話になりました、文無しだけど、何か仕事を探します。もう金無し草だからね)
(そうか。これからどうする、仕事ならあるよ、板金屋だけど、金にはなる)
(いや、その事てきたのですが、賭け事からもう、足をあらいますよ。ワザワザ言いに来なくてもいいのですが、何かと世話になりましたから、ケジメの意味でね)
(吉松さんは人が良いからこの世界では駄目だ。スッカラカンになったからには、カタギの仕事をしてやり直しだな)
人良しで正直者はヤクザの卵にも、なれないのだ。吉松はその道に入ると思っていないが、山本さんからの誘いも無かった。
これで一つのケジメがついた。
もう二度と彼らの世界は覗かないと決めた。挨拶に行かないとまた、どちらかとなく縁ができて、博打依存症の手軽な金儲けに走り、身動き出来なくなるからだ。
吉松は37才になっていた。

甘い汁が身についていたから1からやり直すことは泥沼から這い上がるようなものだ。
川崎駅周辺繫華街での11年間の吉松の暮らしぶりは離れ小島に流れ着いた小舟が更に磯の荒波に揉まれて二度と大海原に出られないほどの損傷を負ったようなものだった。
吉松のこれから始まる人生は生きる事だけで頭がいっぱいだ。
まず、新聞を見て時給のいい、新橋の焼肉屋で働いた。夕方から朝までだ。
韓国人のオナーで芸能人も来る評判の店だ。
将来を見据えて、皿洗いから、調理場に移り、キムチ、骨付きカルビ、グッバ、トンチミ、などのし込みを身に着けた。
やがて、オーナーが横濱伊勢佐木町に支店を出すことになり、韓国人のママが頭で、吉松はマネジャーとして伊勢佐木町支店にいくことになっていたが、店の契約が不調に終わり話は消えた。それを期に焼肉店を退社した。焼肉のレシピを覚えただけヨシと思う吉松だった。一年間の修行だったが身にについて感謝だった。
また、深夜まで働くのに疲れていた。
吉松の家族は川崎から町田の閑静な街にに引っ越した。家賃が安いからだ。新聞の折込広告の募集欄は吉松の宝物であり、羅針盤でもあり、命綱だった。毎日のように広告を見ては就職先を探していた。その広告の中に回転寿司の募集広告を見て近くの回転寿司に就職した。
仕事の内容は皿洗いとベルトコンベヤーににぎり寿司を乗せる単純作業が主だった11時閉店だが後かたずけが一時間ほどかかるので帰宅すると12時頃になる。元居酒屋吉冨の大将が皿洗いだ。哀れだが、そんな泣き言は何の役にも立たない。働き過ぎて小指をベルトにはさみ傷害保険を使ってもらい養生したこともある。
就職して一年過ぎるころ、常務取締役に勤務ぶりを褒められ近い将来は店長候補だとおだてられ、店長にされると責任が増える、ノルマもあるはずだと思い、長いは無用だと身を引いた。辞職をした。
吉松には夢があった。
(今の俺は世を忍ぶ仮の姿だ、仕事は何でも良い。絵描きは無理だかせめて独立して、ちっぽけな城を築きたい)と思っていたから、見動き出来なくなりそうな仕事は敬遠していたのだ。
小さな店という城があると吉松の暮らしの影に隠れている趣味で油絵を描きたいと思う事が実現できるからだ。趣味でいいのだ。
油絵を描き始めると由恵に(お金にならないことはやめて、部屋も汚れるから)と怒られるのは見え見えだから、静かに腹の底にしまってあるのだ。
いつかは描く時間が取れる日が来ると思い、働く時間もなるべく縛られない様に気配りしていた。それでも昼間は由恵が仕事に出ているので、その間絵が描けるチャンスは時々あった。

仕事は身体がきつくても、パートの時給の高い所を選ぶようになっていた吉松は次なる職場を見つけた。町田の近くにヒリピンパブだ。
時給千五百円で夕方から朝6時頃までだ。吉松はいきなりマネジャーをやらされた。ワイシャツに黒のチョッキと蝶ネクタイでホールを歩き回るのだ。
暗いホールで喧しい音の洪水だ。ほとんどの時間を客席に向かってホステスの動向に視線を巡らし客からの注文があると駆け足で注文を聞きに行く。フルーツの注文が入ると、皿にてんこ盛りのフルーツを持って暗い通路を歩き回されるのだ。するとホステスが食べたくなくても、それを見て金のなる木が飛び込んで来たと言わんばかりにお客にねだる(ねー私も食べたい、ねーいいでしょう)
金を吐き出させる脚本が出来ている。金儲けの器に見えるフルーツのてんこ盛りだった。
ホステスの寝床を拝見させてもらった。社長が何故わざわざ吉松に見せたのかはわからない。
タコ部屋同然、稼ぎにきているからとは言え気の毒だ。母国の家族に仕送りをする女がほとんどで、我慢をしてるのだろうが、搾れるだけ搾り取る会社の姿勢に愛想が切れ始めていた。
客の中にはどこのドラ息子か知らないが一晩五万円ほど使う男もいる。ピーチャンと呼ばれ女の子の人気者だ。人それぞれの思いはあるだろうが一晩50000円とは呆れるばかりだ。だが人の事は言えない。博打で50000円はざらに使っていた自分より少しはましな人間だ。
ホステスの点呼から始まり、客の指名の成績、簡単なショウタイムの打合せ、など、暗闇を見つめている様だが気の抜けない仕事だ。社長は暗闇にぽっんとお地蔵様のように客の入りを計算しているのか、ただ立ちすくんでいる。
仕事は夕方からで、それまでの間は家で由恵に部屋が汚れるとか、怠け者よばりを恐れずに安い絵の具で絵を描いたり、数千円持ってパチンコの前に座りタバコをふかしたりして時間の来るのを待っている生活だった。
パチンコに負け、家に帰ろうとして電車賃をボケットから出したら10円足りないで徒歩して帰った事もある。大の男がこのざまだ。
学友は医師になったり、大手の製薬会社に務めて安定した暮らしをしているのに吉松は交通費の足らない分の10円玉を見つけるため線路づたいに赤い10円玉探だ。
、ひと月ほど経って吉松のハートが動き出した。(俺の居場所はここではない。絵描きになりたい夢はあるが、そんなことは夢のまた夢の世界だ。才能があるのでは無いし、ただ自分の世界に居られるのが絵の醍醐味だった。
(せめて人に拘束されない自由な世界を探そう、人間搾取の世界からおさらばだ)とヒリピンパブを退職をした。古びた自転車通勤ともお別れだ。

次は夜泣きそばの引き売りだ。
赤い提灯がビルの谷間に人を呼んでいた。厚木の駅前で屋台を引く親父さんが冬の寒い時期に駅前の薄明りを頼りに腰を曲げてラーメンを売っている。吉松は屋台の椅子に座り中華そばを注文して声をかけた
(親父さん、俺もこの仕事やりたいのだが、どうすればいいのかなー)聞いてみた。親父さんは面倒な奴がきたなと目を反らして作業を続けていたが手を止めて話しかけてくれた。
(兄さんが屋台をやりたいのか、料理の経験はあるのかい)
(居酒屋を道楽のし過ぎでパンクした。10年はしていたが)
(そうですか、もったいないことしたね。軽自動車を貸すからそれで引き売りだな。調理の経験があるなら心配ない、スープの元は統一するために同じものを扱うが、これを自分で作ったスープで薄めるだけのことだ)てな事で、翌日から夜泣きそばを始めることにした。親父さんの住まいは相模大野の古びたアパートだ。路地の電柱の傍に親父さんが使う屋台が葦簀でおおわれていた。
一階の部屋の前が作業場で冷蔵庫や軽自動車がおいてある。親父さんは肉屋で鶏がら、豚骨を買って、豚骨はハンマーでたたき割り、ネギの頭の青いところはスープの仕込みに使いチャーシューは店の品を使えなど細かく指導をしてくれた。万端整え夕方の街に出陣だ。川奈吉松は一度はこの仕事をやってみたいと考えていた。そのわけは、小学校時代に実家近くの笹塚駅前通りに福寿というラーメン屋に腹が減ってはよく食べに行き、大きな寸胴に湯煙を立てていたスープと丼いっぱいに盛られた細麵が今でも忘れられないからだ。それ以来吉松の頭にあるラーメンは昔ながらの中華そばというイメージで、スープは江戸っ子好みの醬油味、余計な具は入れない単純ラーメンを良しとしていた。ラーメンは海より深し、美味いラーメン出来れば何でも出来ると言う専門家もいるのだと思っていたから挑戦する意欲が満々だったのだ。
吉松は、夜の仕事に縁がある。
軽自動車に寸胴鍋を積んで油汚れのある机代わりの年季の入った折りたたみ板を積み、ラーメン玉を引き出しのある、木箱に入れて夜遅くまで頑張る決意だ。帰りは自転車で帰るので深夜便も0kだ。
赤提灯は車に揺られて笑っているようだ。運転したはいいけれど、どこで営業を始めるか迷うのだ。やはり、夜泣きそばは明かりの消えた夜がにあいそうだと思った。回転すし屋と比べれば客の喧騒に気を取られないし、車で移動できるし、自由を拘束されないので、職場環境は吉松にとっては最高の精神状態だ。車は商売する適当な場所を探して街並みをゆっくりと引き回すのだがこれがなかなか難しい。車道に止めるわけもいかないし、そのことで頭を使う仕事なのだ。
国道の傍らにある空き地に車を止めたが、中々お客が来ない人通りの少ない商店街の片隅に移動して営業を始め客待ち我慢をしていると、お客様がぼつぼつと集まってきた。一杯500円のラーメンは5,6人分さばけた。こうして初売りの感触を掴んだ吉松は公園の脇に車を停めたり、裏道を静かに夜泣きそば文化のあのチャルメラの音色を流していった。
吉松はこの雰囲気が好きでよく流していた。何となく哀愁があり、競争社会から放り出された者の故郷とでも言いたい気分でいた。こうして夜泣きそば屋は日に日に売上げを伸ばしていき、生活費は一日手取りで12000円程の目安がつくようになっていた。

 そんなある日、大和駅前が区画整理できれいになり、駅前交番改装されていた。その交番に隣接して僅かな空き地があったので、歩道を渡りその空き地に車を止めて営業を始めた。夕月夜というのか、暗くなる寸前だった。赤いラーメンの灯りが目に映る頃だった。
車はとなりの交番から二メートルも離れていない、吉松は交番から(移動しろ)の注意が来たら移動をすればよいと度胸据えての営業だった。
2,3のお客様が折り畳みの机の前に座った。
その時だった、案の定、交番から若い警官が来て、(この場所は道路交通法違反だから、立ち退いて下さい)との警告だ。当たり前の事だ。歩道横切って止めてあるのだ。
(すいません、暇で稼ぎがないもので、ついついこの場所なら0kかと思って。お客様が終わったらどかします)と言うと警官は渋々引き返した。
次のお客様が来た、川崎で知り合った飲み友達だで親友の武田さんだ、吉松より3歳年上の男だ。知り合いの彼女を連れていた。訪ねてきたのは偶然だった。夜泣きそばを始めたことは伝えておいたが、この交番の横にいるとは本人も面喰っていた。
(川奈さんらしいね、あんたぐらいしかこんな事考えつかないよ。交番の横に車を止めるなんて)そう言って二人は席にすわった。別の男性のお客様が3人きて、もう座るところがない。
5人分の玉を、れまな板に叩き付け、玉は元気よく飛び跳ねている、やがて、沸騰した寸胴に入れられ滑らかに泳ぎだした。
警官は横目で観ながら客の引くのを待っている状態だ。丼り5つを並べ、スープをいれて、いよいよ玉をすくう時がきた。玉は一塊となってすいすいと泳いでいる。
取っ手のある金網ざるでこの玉を5つに分解させなければならない。なかなか5つだと分解が難しい、一つ二つなら、歌でもうたいながら出来るが、平均に丼にいきわたらないので苦戦していると武田が笑いながら口を挟んだ。
(おいおいラーメン伸びちゃうよ、焼鳥焼くのと訳が違うからね、でもよくやるよ、この親父はつい最近まで川崎で居酒屋をしていたからね、味はうるさいよ)と冷やかしながら、隣の客に安心感を送ってくれていた。
(大丈夫、えーと、こちのほうが少ないかな、まあ、こんなもんだ、はい、おまたせ)と無事に盛ることができた。
警官は合間を縫って吉松に自動車免許の提示を言ってきた。どんな人間か不信感を抱いたに違いない。素直に差出して、もうすぐかたずけて帰りますといい、実際にこの場所から出たのは、2時間ほど過ぎていた。
暫く夜泣きそばも続いたが、そば屋の社長さんが、継続してやりたいなら、組合員になって貰いたいと言う。組合費も払うことになるとも言う。昔の的屋組合だ。
どうしても夜泣きそばがやりたいわけではない、どちらかだというと、一度はしてみたい仕事の一つの選択だったから、この機会に辞める事にした。今は的屋というと組合もできて安心して商業活動ができるけど、昔気質の吉松は的屋になると別に場所代がとられるのではないかと暗いイメージを抱いていたから二の足を踏んでいた。それに、川崎の商業組合で役員となりその経験からbb(お前は組織に入ると必要以上に動いてしまう癖がある。お人良しだから、やめとけ、まドツボにはまるぞ、家族もいるしな、由恵には当てにされてはいないけど、また由恵の頭痛の種を作るのか)と自分に問いかけがあったからだ。

さて、次なる職場は、やはり新聞広告を見て選んだ渋谷駅近くの東日物産株式会社と言う総合警備会社で、近郊の公的機関の食堂部門も請け負っていた会社だ。
有楽線のガード抜けた雑居ビルの3階に50坪の事務所を構えていた。
面接に行くと吉松と年齢にさほど差のない男が出て来てソファーに川奈吉松を座らせて面接が始まった。
彼は催事部門の企画推進部長の肩書きのある名刺を差し出し、近郊の管理を請け負う食堂の一覧を説明した。男の名前は鈴木寛一郎という人で凛とした姿で応対してくれた。
採用決定通知は一週間ほどしたら連絡をしますというので吉松は
(それでは遅すぎます、私はみっともないが金が無くて仕事を早く決めたいのです)と言うと部長は(しばらく待ってください、社長に相談してきます)と言って五分ほどで戻って来た。
結果は今晩から船に乗って新島に行ってもらいたい、渋谷区が開催する二泊三日の抽選で選ばれた家族が泊まる宿泊施設の料理を作る仕事だという。
吉松は新島行きを即答した。45日間の長旅だ。建築現場の飯場仕事でも不平は言わない覚悟だから、宿泊施設のある保養所と言うので満足だった。
東海汽船の新島行きは夜12時頃東京湾でた。
同行したもう一人の板前は原田と言って歳は同じ位だ。神田の天麩羅屋を辞めてきたと言う。おとなしい無口の男だ。
翌朝新島港につき迎えの管理人の案内で保養所についた。
大きなゲートを入ると手入れされた庭が広く、植え込みの中には色濃い枝を広げた木々がバランスよく茂っていた。砂利石を歩いて行くと洋風の二階建ての宿泊施設があり、食事の出来る広いホールスベースは別棟になっていていた。
吉松達が住む部屋はそのホールに隣接した建屋の二階の、八畳間だ。窓が広く海の香りがする。
翌朝から20名の宿泊しているお客様の朝食から仕事についた。
朝食は定番のアジの干物、納豆、卵、おしたし、焼海苔、アサリの味噌汁などだ。
昼はカレーライスで、夜は刺し身、小鉢、煮物、天麩羅などで、予算の割には派手盛りだ。
滞在二日目の朝飯が終わり休憩を取っていると原田がここを辞めて東京に帰ると言い出した。
前日の夜原田と吉松は仕事を終えたあと調理場で口論したのだ。原因は、吉松の口の効き方が気に入らないらしい。
調理場は板長が調理の段取りを手元に指示して成り立っていると聞く。そんな習慣があることは聞いてはいたが、鈴木部長は急いでいたのか原田が板長だとは聞いていない吉松は(刺身の切り方が遅い、煮物の味付けが甘すぎる)だの自分が板長と意識してるのではないが、ついつい居酒屋吉冨の店長癖が出て命令調になっていたのが原田を傷つけたらしい。本人は口数の少なく、目立たない男だから反論できないでいたらしくストレスが溜まって帰りたくなったようだ。
原田は内心では(俺は神田の少しは名のある天ぷら屋の板前だ、そこいらの居酒屋と腕が違う。お前の仕事は料理じゃない。こんなやつとは仕事は出来ない)と言いたかったのだと、吉松は思った。
それと、吉松は己の調理方法は基本ができていないから、修行が足らずそこを見透かられての辞職だと思った。
原田はこれから45日の長期に渡り寝泊する事を考えると、少し乱暴で、口答えのする相棒と暮らす事は耐えきれなかったのだろう。
原田と入れ替わりに鈴木部長が新島に来たのだ。
彼は20歳代で川崎の繫華街でホステス20名位雇ってクラブ経営をしていたと言う事は面接のときに彼の口から出ていたので親近感があった。吉松が居酒屋を閉店した時と時期がほとんど変わらないのだ。
また、彼のクラブは居酒屋吉冨の近くで経営していたのにお互いに気が付かないでいたのである。彼はクラブを閉店してから、東京のホテルの板場で西洋料理を主に仕事をしていたという。
二人は八畳一間で寝起きをするようになった。原田と違い鈴木部長は先輩だ。板場の事はハイハイと指図通りに動いていればその日は過ぎていった。日にちが過ぎていくのにつれて二人の間に垣根は無くなり、施設のおんぼろ車に乗って島見物や、くさや工場の異臭のすごさに関心したり、月を見ながら露天風呂に興じたり、川崎時代の鬱陶しい世界から脱出している自分をみて、路傍の石も場所を変えれば素直な石に見えるもんだ。と別世界にいる己をみつめていた。

部屋の窓からの夜の光景は満天の星空が多かった。
朝は6時頃起きてお客が食事を始める頃は昼の仕込みをするのだが、昼は定番のカレーなので、比較的に昼時まで休憩時間がある。
カレーは鈴木部長の調味料が効いて評判が良い。吉松は言われるまま寸胴の中の具を焦がさないようにかき回すだけだった。
休憩時間は自分たちで工夫して生まれるので、その時間を利用して、新島に特有の天然石のコーガ石を車で探しに行っては庭に持ち込み、倉庫からノミやかカナズやらの工具を持って来てはそれぞれ、気のおもむくままにコーガ石を彫刻をする事が多かった。
この頃二人は会社の肩書きで呼ぶことはやめていた。それほど人間臭い友人になっていた。
鈴木さんは亡き母に捧げるとか言ってお地蔵様に挑戦していた。吉松は、流浪する良寛さまを想って、托鉢僧を作品にしていた。
大きなコーガ石から掘り下げていくのだが、大きな石が削りすぎて段々小さくなっていく良寛様の作品をみて鈴木さんは大笑いだ。
朝昼晩深夜まで、布団に入るまで二人は40日暮らすわけだけだから互に尊重しながら暮らしていた、最後は兄弟の様になっていった。
鈴木さんの母親は医者で彼も母の恩恵をうけ育ちのいい坊ちゃんコースだ。姉は宝塚の個性的なスターで人気者だと言う。
彼女の写真を見せてくれたが、今は疎遠になっていて会う機会がないという。
鈴木さんは日大芸術学部卒でカメラマンとして独立したが作品に恵まれず廃業をしたという。吉松が受験代を払い込んだが、試験自信がないので受験をしなかった憧れの大学の卒業生だった。
彼とは学業は別として、吉松と芸術の感性が似ているのだ。
コーガ石を暑い日差しの中で汗を拭きながら掘り続ける二人を見ると、話が合わないはずがないのだ。彼は彫り込んで仏像を岩手の母の故郷に送ったと言う。二人は夏の暑さをしのぐため寝るときはステテコ姿で寝る。眠たくなるまで水割り焼酎を飲んで川崎時代の思い出話に心を弾ませていた。胸襟を開いていたから、何でも語るのだ。吉松の居酒屋吉冨の転落話をすると、彼も似たような話が出てくるのだ。おまけに、悪の道にも共通部分がそっくりだった。
一言で言えば鈴木さんもバカラ博打で深みにはまり、川崎のナイトクラブを傾きさせ、最後は隠れた暴力団の仲間に韓国に招待を受けて金を賭けて大負けして、挙句の果てに親にまで借りて借金を返したという。誰かさんにそっくりだ。勿論吉松だ。世の中には似たような奴もいるもんだと大笑いする二人だった。敗残兵の歩く道は一つしかない。それは原点にもどり、二つある心の道で重たい道を選択することだ。それが早道だ。ともっともらしい人間が言う言葉に納得をしていた。
会社からは毎年ここの宿泊施設は赤字だという。なんとかしろとの社長の指示を受けていた鈴木部長は吉松に相談をして来た。
吉松は居酒屋吉冨で薄利多売を宣伝文句して繫盛させていたので仕入帳を睨んで赤字脱出を計画実行した。
先ずは、刺身を板場でさいて盛り付けしていてのを、1人前の原価を魚屋に指示して、それを1人前ずつ、パットに分けて持ってこさせた。これでロスもでなくなり、仕入原価が掌握できて、赤字は少なくなった。他にもてんぷらに現地に沢山ある明日葉を使ったり、波止場で二人で釣り上げた小鯵を唐揚げにしたり、南蛮漬けにしたりして、最後にはトータルで赤字にはならないで黒字にして利益を産んだ。それにはこんな料理の工夫もあった。
二人の新島における料理は味だけではない、芸術性はお客様の間で評判を博していた。
二泊三日のコースで来るお客様の最後の夕餉は、凝っていた。
別に特に美味しい料理を出すという話ではない。盛り付けだ。
吉松が近くの丘から集めてきた節目つきの竹の葉を盛り付けに使い、皿には砂浜で集めてきた白い砂を僅かに敷いて、アルコールを含ませ、その上に鳥のホイル焼きを載せて出した。晩餐が始まると、予定通りラウンジの灯りを徐々に暗くしていき広い食堂は月明りだけになるのだ。やがて鈴木さんと吉松が現れて二人でライターで皿の白砂に点灯するのだ。お客様は絶妙な明かりに時を忘れる様だった。
お客様のお別れの言葉に昨夜のパーティー素晴らしい、来年もきます。という感謝の言葉をもらった。
もっと、それと、付随して前の日の夜はお化け大会を企画して喜ばれたこともふくんでいた。お化け大会の企画は渋谷区のスケジュールにはない。二人のアイデアであった。退屈な夜を感動させる狙いだった。
食事が終わるとお化け大会参加者は片付け終わったホールに集まった。子供、大人の参加者で20名ほどいた。
お化け大会は裏山の階段のある山道で行われた、道の最後に段ボールがおいてあり、その箱の中のリボンを持ってくる仕組みになっいていた。
始まる前に約束事など注意事項を鈴木部長が伝えるとホールの明かりは静かに消えていった。
2,3分間があいてから、鈴木部長がどこで覚えてきたのかしらないがマイクからゆっくりと哀しい声のナレーションをながしはじめた。
(昔々これからみなさんが通る道の大きな木の下そばに小さなかやぶきの家がありました。その家にはやせ細って、今にも折れそうな腕のおばあさんが住んでいました。おばあさんは何も悪いことしていないのに村の人たちから悪い魂がついているおばあさんだから話すと不幸になると言われて今にも壊れそうな粗末な家に追い出されてしまったのです。魚がとれなくなったり、雨が降らなくて作物が取れないのもあのおばあさんがいるからだと。おばあさんはその家で瘦せこけて死んでしまいました。それからは毎年丁度今頃かな・夏の暑い夜になると、私は悪いことなどしていません、悪霊などありませんとお化けになってでてくるのです。今では村の人の誤解も解けておばあさんに謝って丁重に敬ってお化けになってでてきませんが、時々みなと会うのが楽しいらしく、でてくるのです。もしかすると今日かもしれません、では行ってみましょう、一人で歩かないでね、お父さんお母さんと手をつないでね)とか5分ほど鈴木部長の間のある渋い声でナレーションが流れるのだ。
鈴木さんと吉松は仕事の事などをすっかり忘れて童心に戻っていた。二人の過去の悪行などどこかの国の話だと他人事のように想い
悦になっていた。
ホールの入口から庭をすぎると
鬱蒼と木々が立つ道幅の狭い道が緩やかな階段条に上に伸びている。闇の中に裸電球がポツリポツリと寂しげに微かな灯りを燈していた。
そんな闇明かりの木々の間からノコギリで木を切る音がする。まるで人の首を切り裂く様に聴こえる。こんなに闇にノコギリの音がするはずないからだ。
ノコギリで木を切る役は鈴木さんだ。200メートル程のお化け道の最後にダンボールが置いてあり、その中には水の入った容器があり、水の中の石ころを持ち帰るのがルールだ。
ノコギリの音が幽かに聞こえる所の木の裏からお化けのおばあさんがでた。吉松だ。
髪の毛は白い粉で真っ白だ。片目の目の周りは墨で塗られ、白衣はケチャップが塗られ血だらけだ。手は軍手が血で染まっている。

(おばけだぞー勉強しないと食べちゃうぞー?)とか子供達を脅かした。子供達は嬉しいのやら、恐ろしいのやら、声を上げて楽しんでいた。
海水浴のクルーは海水浴だけではないので大喜びで渋谷区の担当者も来年もよろしくお願いしますと言ったか言わないかわからないがそんな噂も流れていた。
二人はしばし我をも忘れて童心に戻っていたのだ。
新島に来たクルーは家族連ればかり、普通に暮らしていれば我々もお客様の立場で家族団欒の幸せを楽しめたと二人で自問していた。
海の家は無事に終了した。鈴木部長は会社の都合で一日早く戻っていった。飛行場で別れるとき、吉松はうっすらと涙をためていた。
この涙は鈴木部長のお陰で半人前の吉松に文句一つ言わないで、丁寧に指導してくれた感謝の涙であった。
暇な時間を割いて、石仏を二人で作品に仕上げ、それを通してあれやこれやと禅問答のような心の掃除もついでにできたような気持ちに対する涙でもあった。吉松と鈴木さんは一尺足らずの石仏らしき作品を、海の家の庭に記念品として無断で置いてきた。再会することはないだろうが、二人は海を隔てたところから、監視されてるようなものだ。
その後彼との付き合いは陰ひなたなく続いた。その中でも吉松が暇に任せた描いた油絵を、引っ越しするため処分しなければならなくなり、大した絵でもないのに
鈴木さんは俺が預かっておくと言ってくれたのだ。10号と30号が5、6枚だった。さぞかし奥様が怒っていると思う。
彼も油絵を描くようになっいていた。
吉松は、鈴木部長が去った翌日、小型飛行機で新島空港を飛び立った。眼下には砂浜を遮る崖が両手を広げたように毅然と立ちすくんでいた。

府中の空港に近づくと小型飛行機は大揺れに揺れた。待っているのは家賃が数ヵ月滞っている町田の2dkのマンションだ。
家主の農協がやんやの催促で凍てつく家に戻るのだ。45日の竜宮城生活は終わり、超えなければいけないハードルがまちうけていた。
由恵は近くのスパーで働き、子供たちは小学、中学生になって、元気に飛び回っているはずだ。
その頃の由恵は吉松が何処で、何の仕事をしているかは無関心だった。どこに行っても長続きしないから本人にただしても意味がないのである。
金さえ持って来ればどこでなにをしてようが関係無いのだ。餌を持ってこない雄は要らないのだ。正に天命にあっている。恋愛など要らないのだ。正解だ。

東京に戻り三日間の休みが過ぎ会社に出勤した。鈴木部長は千駄ヶ谷の能楽堂で既に勤務に付いていた。吉松は事務所の時田管理部長に呼ばれ新島保養所を黒字にしたので労いの言葉をかけてくれた。鈴木部長は川奈吉松の機転で経費を減らすことが出来たと時田部長に報告をしていのた。
事務所の時田管理部長から次の勤務地は府中の森にある体育館の中のレストラン梢の支配人として行ってくれと言われた。ここも毎年赤字だということだった。現場のレストラン梢を視察した後、部長にレストランの人事権を預けてもらえませんかと電話で言うと電話に出てきたのは東田社長だった。社長は70歳ぐらいで小柄だ。いつもグレーの作業服をきている。噂ではワンマン社長だと言う。
(赤字をへ減らすには人事権を任せてもらわないとやりにくいです)と言うと、社長は(よし、わかった、それでいい)と間髪入れず答えてくれた。この瞬間から吉松の決定すべき事項は社長と直接会話になった。社長に信頼されるとやることはやらないと相手にされなくなると吉松は単純に考えて仕事に打ち込んだ。
先ずはレストランの赤字の原因を探すため5人いるパートさんと板前さんのその日の流れを二日ほど観察をした。
レジ担当のお客様係の川田さんは38歳小柄で顔立ちもよく愛想の良い女性だ。吉松が旨いそばを食べたいなと言う(しっているわよ、行きましょう、自転車いけるから後ろに乗って)と気軽に吉松を自転車の後ろにのせて大國魂神社前の日本蕎麦屋に連れて行ってくれた。
(可愛いし、素直、客受けもいこれは残すべきバートさんだ)とおもった。だか、日が立つに連れ他のパートさんの話だと帰るとき板前さんにビールを無料で提供していた事を聞き出し、残念ながら川田さんは辞めてもらうことにした。注意して反省すればいい事だと思ったが、見てみぬふりの出来ない吉松は別れるのには惜しいが断行をした。
彼女の退社によりスタッフは身が締まり仕入れ、シフト、残業など改革が進んだ。パートの吉田さんは毎週と言っていいほどマスカットを(吉松さんは葡萄が好きだと聞いているから)と持ってきてくれた。彼女はメニューの運び屋さんから川田さんのいたレジ係になっていた。
川田さんのビールの一件は吉田さんのリークだった。影に隠れて女の戦いがあるとはしらなかった。
吉田さんと吉松はお互いこの、レストランを去っても仲良し中年組で、数年後に妻の由恵が不可思議な吉松の行動を見抜いて、爆弾をまた落としたが、吉松の機転と言うか素早い対応で危機を脱出出来た。男と女は計算出来ない不思議な魅力がある。

新島でコンビを、組んでいた鈴木さんが、軽い脳梗塞で新宿の順天堂大学病院に入院して10日程過ぎていた。その前にやはり自宅で暫く静養していたので僅かなボーナスでもは鈴木さんには出ないと聞いていた。
中小企業の宿命だ。零細企業に近い会社だからボーナスが出る事に驚いた吉松だか、鈴木さんに出ないとは新島で世話になった友人として忍びないと思い社長に電話で直談判した。社長曰く、近々退職してもらうとの意向だ。入社して一年も経過していないし、身体が資本の仕事だからやむを得ないのだ。
この頃鈴木さんは部長の肩書はなく管理部の一員になっていた。吉松は電話で言った。
(社長、鈴木さんにもボーナス出してくださいよ、いま入院中だし
だめですか、彼の仕事は私が責任取りますよ。彼には料理の腕がある、社長は知らないだけだ。)と食い下がり、ではお前が責任取れと言われ、彼を府中のレストラン勤務に付くことになった。
彼は喜んでくれた、わずか8万円だが。吉松もわすか15万円だっだ。
数日経てから鈴木さんは府中のレストラのマネージャー兼厨房付きとして勤務してきた。
吉松は関東広域のエリアマネージャーとして当時6件程の施設の食堂管理を任された。
調理人は仕入れの値段を誤魔化して業者からリペートを貰う者まいるので不正を監視する仕事と無駄を無くすのと、新プランの作成が主な仕事だ。何人かは吉松の、網にかかり辞めていった。

この頃は、崎のマンションから、町田のつくし野駅近くにある閑静な農協のマンションに移っていた。家賃が安いからだ。 
仕事の変わり身の速さは季節のように位置を変えていた。
 そんな振り子のような仕事の変化の中にあっても合間を見つけては金にならない油絵を描き続けていた。
姪の紹介で、二科展の元審査委員の先生を紹介してくれて、中野のアトリエに行った事がある。
ご指導頂ければありがたいからだ。広いアトリエには、畳2枚程の絵が制作途中であった。
ハシゴの上に乗りながら、描かくようだ。
某先生は、全く親切ではない。紹介されたから仕方なしに会ってあげたと言う感じだ。
次回来るときは作品を持っていらっしゃい、といっても良さそうだか、ただ、絵の具の収納箱を見せてくれたり、筆の種類を見せるぐらいで、用事があるからとばかりに追い返された。
この印象はもしかすると絵に対する己の無知が働いていたのだと外に出て思っていた。
絵の具をしまう引き出しの中は一色だけだ満員だ。己の絵の具は一色500円程度のやつだ、それも無くなれば買いに行くという粗末なもんだ。先生は尋ねられたら返事でもしてあげようと思っていたけれど、あまりにも程度か低いので話す言葉さえ見失っていたに違いない。相談、歓談どころでは無いのだ。親切心がないと、卑下する自分か情けないのだ。何を相談して良いのかも解らないのだ。
そんな吉松でも絵の道楽挑戦は、続いていた。

反省もどこえやら、やくざ屋さんに戻ろうとしたが断られた。

 しばらくして、生活苦を何とか乗り越えようと新聞広告で選んだのが不動産会社だった。
広告を見ていて、ふと頭に浮かんだのは俺の人生はパチンコと同じで打った玉がアチコチの釘に跳ねられ幸運の穴に入ろうとしたら釘に弾かれ幸運を逃しほ、又歳を重ねるように下の穴をめがけて跳ねて行く、最後はもう夢も希望も無い地獄穴に落ちて行く。地獄に落ちる前に何処かの幸福の壷に落ちないかと賢明にもがいて玉を見ていると己の化身ではないかと薄笑いを浮かべていた。
前に話した那須高原の土地売買をしてた時、仕事の合間に不動産取引主任者を修得していたので、それを使って見ようと考えたのだ。
那須高原販売では巧妙な仕組みが隠されていて、お客様に高額な値段で売りつける商法たから不動産会社で働くのをためらっていたのだが、この世界は良い物件にぶつかり、運が良ければ、まとまったお金が入ることもあるので、ちまちまと職場を渡り歩き思った金も入らないので勝負に出ることにしたのだ。

新聞広告は一郎にとっては神様だった。
山根不動産会社は渋谷の並木通りに面した雑居ビルの4階にある。社員は社長も入れて3人の小さな不動産屋だ。社長は金田と言い40歳前後の太めの男だ。
一郎は入社して一月半が過ぎるころに初めてマンションにの販売に成功したが、歩合給なので手取りは25万円程度だった。
営業経費は自分持ちになるため、もらった金額は今までの職場とそんなに変わらないのだ、むしろ下がっている気もしていた。

 山根不動産の入口の廊下を挟んだ正面に東海商事株式会社があった。
そこの社長は富山という40.4.5歳位の男で髪の毛をフラットに七三に分けたブルーのスーツが似合う男だ。インテリヤクザ風の雰囲気のある気さくで親しみのある雰囲気をかもしだしていた。
彼は時々階下の喫茶店で、川奈一郎を誘ってはコーヒーを奢ってくれた。お互いに時間を持て余す仕事の内容だからかもしれない。

ある日、富山社長が山根不動産会社にやってきてソファーに座り一郎を見て話しだした。金田社長も相席をした。
富田社長は不動産会社の金田社長とは日頃から親交があるようで気さくに話しかけていた。
富田社長が笑い顔半分で
(川奈ちゃんこの不動産会社に勤めても金にならないよ、うちに来ないか、物件はよく出るぞ)と突然言うのだ。
いくら山根社長と親しい間柄とはいえこの会社は物件が出ないから辞めて、うちの会社にこいと言う話だ。
側にいる金田社長は反論するわけではなく、含み笑いをして小さな声で(それはないでしょう)というだけだった。反論出来ない理由があるのかも知れない。
一郎は、不動産は一般的に情報量が少ないと仕事にならないのは常識だから、二つ返事で転職を決めた。辞職をして数秒後には目の前の東海商事に移ることにしたのだ。言うほうも言うほうだが、受ける一郎も俺もはどうかしている可笑しな男だと思った。
辞めた会社から三歩、歩いたら前が新規に勤める東海商事株式会社だ。
呆気なく川奈一郎に退職されてしまった金田社長は引き止める事はしなかった。力の差と言うか、富田社長が闇の世界の人間と解っていたから不満でも断り切れないのだろうと一郎は思った。
初めて入る事務所だ。
入口の壁に東海商事株式会社と、ひと目、観ただけでは信用できそうな会社にみえる立派なアクリル製の看板だ。
富山社長は不動産会社の社長さんと呼ぶには派手過ぎていて一郎は疑わしいとは感じてはいても不動産情報は多い方が良いに決まっている。
だまし騙されの世界もあるし、徒労に終わることもある。東海商事から出る物件はこの雰囲気から察して地上げ屋か競売物件の処理か、破産がらみの物件を扱うのかなと思っていた。
一郎は物件を見分ける眼力が自分にはあると自信を持っていたので冒険含みの入社だった。
売買物件の良し悪しも大事だが、紹介してくれた人間の信頼感が成功させる最初の問題だと考えていた。
不動産取引は千に三つの世界が世間の相場だ。
盛り場の高給サテンに朝早くからたむろしている人の中には地上げ屋仲間がけっこういるものだ。一郎もこの会社と縁ができると地上げ屋の仲間に入る事になるのかなと不安を抱えながらの決断だった。地上げ屋にも多々種類あり、一郎の地上げ屋は暇人がサテンで御茶をつまみにして幽霊物件をああでもない、こうでもないと、一攫千金の夢を追う男のことだ。ブラジルの山奥で金鉱探しに夢中になるならず者世界みたいものだ。
富田社長の憎めないスカウトに誘われて勤める事にしたものの、すぐには金にならない地上げ屋をも覚悟をしての就職だった。

真向かいの東海商事のドアを開けると、いきなり目に飛び込んで来たのは、真紅のジュータンだった。真っ直ぐ敷かれていた。
何だこれ、どこかの怪しい組の事務所ではないのかと思った。十坪ほどの事務所は清潔感もある。
さらにジュータンの正面には木製の立派な机がデンとある。社長が座る黒革の椅子の奥には孔雀の羽が広がり、まるでヤクザ映画の1場面だ。
富山社長は笑みを浮かべて、ソファに川奈一郎を呼んだ。
(決まった給料は払えないが色々金になる話は有るので悪いようにはしないさ)と言った。この事務所の雰囲気から観れば固定給を払う雰囲気はない。危ない連中が集まり仕事を組み立てていくらしい。不動産会社の免許もないし、事務員が常駐している気配もない。一郎は拾われてきた猫ののようにあちこちを見たり覗いたい、匂いをかいたりしていた。
富田社長は
(まずその地味なスーツは取替よう、金なら心配しなくていい。今から仕立て屋に電話するから。夕方には来るよ、それまでにこの、小切手をビルの管理室まで届けてくれよ。家賃だ、先付けだけどね、)
一郎は心の中で
(思っていた通りだ、ここはどこかの組の事務所だな、まあ、それも良いだろう、川崎で組の事務所に気軽に出入りしていたし、巻き込まれる事はあるまい。俺みたいな嘘をつけない性格はヤクザの世界では戦力にはならないのは実証済みだ。そのうち仕事をするのには返って邪魔男になってやがてお払い箱だ。ヤバイ事は、臭いでわかるしな、
自分さえしっかりしていれば問題無いだろう、それに少し前まで名古屋でヤクザ志願までしたことがあるし、まんざら縁のない世界でもない、金を掴むには度胸もいるからな、資本なして商売を始めようとするには多少なの危険は仕方ないだろう、博打よりマシだ)と自分に納得させていた。折角、平凡な暮らしが見え始めたと言うのに、わざわざ危ない道に飛び込んだのだ。
一郎はこの事務所に勤めたのは半分やけっぱち気味になっていたこともあり、その縁のやらせる技だと思っていた。
(俺の行く末はどうなるかわかるはずが無い。今行く道は多分、悪の道だと思う、それならそれで上手く泳げはなんとかなるさ)
悪い事の出きない性格は変えようにも変えられない。
富山社長もその辺は分かっているようで、いまのところ一郎を組み組織に入れようとかの雰囲気ではない。ただ、彼は川奈一郎を気の合いそう男が飛び込んできたなと思う程度だったと思う。
一郎は短い付き合いの中で富田社長は人情味のある人間臭い男だと直感で感じていた。ヤバイ稼業と承知の上で飛び込んだのは彼の男の生きざまに共感出来るところがあるからに違いない。

一郎は銀行取引ができない身分になってからは事業意欲がなくなっていた。世間一般は銀行に信用無くした者は資金調達が難しくて事業を起こす事は難しいと考えられていたから再出発の夢を捨てていたのでこの得体の知れない事務所であっても何か夢を掴むチャンスが起きるかもしれないと思っていた。従ってこの異様な雰囲気のある事務所でも違和感はなくたそがれた男にはオアシスにも見えるのだ。
新島の童心に戻った一郎はここには居なかった

夕方になり渋谷の洋服屋が来た、
富山社長とは付き合いがあるらしく、二人の会話は飾りが無い。
だが、注文が取れるので喜んで飛んで来たとは思えない顔つきだ。メガネがずり落ちヨレヨレのジャケットだ。仕事場から飛んで来た感じである。富田社長は
(彼の服だ、俺と同じような明るいのがいい。そうだ、ブルーらろラメがいい。金は来月払うから)
真面目そうな仕立て屋さんは、心配気な顔つきで、
(前の分も、あるんですよ)と渋々言いながら一郎の体型の寸法を取り始めた。富山社長は(前の支払いは月末払うよ)と含み笑いをしていた一郎はこの仕立て屋さんは断り下手のか気の弱さを感じていた。おそらく仕立て代は払うだろうがいつのことやらという感じだ。

 翌日から一郎はヨレヨレ気味のスーツをやめて、派手めの白いジャンバーを着て行くようにした。スーツの変わりがないからだ。
事務所についたのは打ち合わせ通り11時頃だった。特にこれと行った仕事はなrい。近くの中華料理店でランチ定食をすませると彼の行きつけのサテンに行き雑談だった。

妻の由恵は一郎が何処に行こうが関係ないという、相変わらずの無視している世界に生きていた。
一郎が何していようか関心を持ちたいはずだが、それを許すハートは子育てに追われていて持てないのが実情なのだ。単純で原始的な暮らしは彼女が懸命に生きている証であった。雄の一郎は満身創痍でジャングルに獲物探しにけもの道をゆくジャッカルみたいなもんだった。

数日がすぎても事務所で待機していても金になるような仕事話は全くないのだ。土地にまつわる仕事の話は最初からないのかもしれない。一郎は吉冨社長を吉富さんとよぶようにした。
不動産にまつわる話は少しはあると思ったがその気配すらないのがその理由だ。ここは不動産屋ではないから無理もないと思いながら、そのうち金になりそうな不動産情報が入るだろうと期待を寄せて毎日東横線に乗り通勤をしていた。
月最低20万位稼げないと暮らしができない一郎だが焦る素振りは一度も見せなかった。
なんとかなるだろうと言う気楽な心がここでも役に立っていた。

富山さんは電話に出ることが多く、仲間と何やら連絡をしている。金になりそうな情報を交換しているのだ。彼は電話の内容がどんなものかは言わない。一郎に配慮しているようすだ。堅気の男に話す内容ではないと思っていたようだ。
事務所で雑誌を見ていた一郎に富山氏社長が声をかけた。
机の引き出しから名刺を取り出し一郎に見せた。
金字と黒字のコントラストのいい名刺で、日本では名だたる暴力団の名前が印刷されていた。
堂山組若頭と肩書にあった。吉富さんは名刺をすぐにポケットにしまった。
川奈一郎はその名刺を見て薄笑いをして(へー、やっぱりね)と答えた。暴力団の名刺を見せられて驚くような真面目な男ではないし、彼もその名刺の力で一郎を何とかしようとは思ってもいない。(もう。川奈ちゃんは俺が何者か察しているだろうから、一応名刺を出して紹介したのさ)という軽い意味合いであった。
10日ほどで仕立て屋のスーツが届いた。248000だと。一郎はたまげた。こんな高額のスーツは着たことがない。
早速、着替えてみた。
白いワイシャツは絹仕立て薔薇の模様が薄く隠れている。ネクタイは小豆色で赤が濃い。その上にブルー色で光沢のあるスーツだ。派手だが品がいい。一郎はヤクザに変身していた。本人も気に入って壁際にある鏡で体を動かしていた。
頭は新島からの経済的な五分刈りだ。
(おお、よく似合うよ、モテるぞ)と富山社長は、微笑みながら冷やかしていた。

その日はこのブルーのスーツを着て六本木散歩だった。二人連れで歩くと目立つのだ.
どう目立つかと言うと、俺たちはヤクザだと言わんばかりの服装だからだ。
上が良くても下の靴が貧弱だと男がすたると、富田さんは靴屋に入り一郎の靴を整えてくれた。
黒の先の尖った靴だ。一郎は一段と不良男に変身していた。
六本木通りの中央あたりにピンク色のパラーアマンドが一際目立っていた。
大の大人二人は、アマンドの二階に座りチョコパフェを注文した。同じブルーで流行りのラメ入りスーツを着て背のあるチョコパを笑いを添えて口に入れているのだ。まるで小学生だ。 周りの女の子がストローで可愛く飲んでいる二人の姿を見て、あの二人馬鹿みたいと言わんばかりに時折二人を見ては可愛く笑っていた。

夕方になり、二人は四谷の雑居ビルの2階にあるスナックバーを訪ねた。まだ、開店前だ。
(川奈さんは、外で待っていてくれ、俺はこのマスターと話があるので)
とドアを開けて中に消えた。
彼は一郎を、今のところ仲間に引き入れようとは思っていないようだ。どんな職種も適職があるようにヤクザ道にも素質がある。その点、一郎は不適格者だ。今回は本人にヤクザ志望動機がないし、金に縁のある話が飛び出さないし、家族のことや、競馬や過去の仕事の話程度で話題性のない、興味を沸かせない話が多いので相手にされていないし、あるいは相手にするには役不足だと感じていたと思う。

しばらくして、スナックバーから、一人の男が出てきて、植え込みのあるベンチに座っている一郎を確認するとすぐ店中に消えた。
どうやら富田さんは借金取立にきたようで。一人より二人の方が威圧感があるのか一郎を見張り役に利用したと直感した。
頭は五分刈りので薄めのサングラスをかけた一郎はスナックバーの建屋の門の壁際に片手をついてタバコを吸っていた。まるでヤクザ映画の一場面のようだ。薄暮の西の空にはカラスが数羽遠くに消えていった。
仕事の内容は後になっても彼に聞かなかった。
(そんな事解っているだろう)と言う返事が来るだけと思うからだ。
取り立ての用件が済んで富田さんは歩きながら一郎に5万円をわたし、目黒のアパートに住む女房に届けてくれと頼まれた。
生まれたばかりの子供がいて動けないからよろしく、俺は赤坂にいる女がガスで自殺未遂をおこして、病院に入院しているので様子を見に行くから、といって住所と電話番号を教えて足早に走り去って行った。
一郎は、東急の、目黒駅で降りて彼の嫁さんに電話入れて、必要な品物があったら買って行きますよと、言うと(わざわざすいません)と言って道順教えてくれた。
住まいは目黒通りから一本奥まった道の、路地を抜けた木造アパートだった。
ドアを開けて出てきた奥さんは近所の何処にでもいる普通の人だ。少し無理しているのか、顔に元気が無い、言葉も弱く病み上がりなのかも知れない。
一郎は、富田さんから妻は産後間もないので外に出られないと言うのを聞いているので、近くのスーパーから、野菜、肉、魚をみつくろって持っていって上げた。彼女は何度も頭を下げてお礼の言葉を言っていた。
その、帰り道、一郎はあの奥さんは何の縁で富田さんと夫婦になったのだろうかと想像していた。
(今。富田さんは自殺未遂の、おそらく愛人とおぼしき女の見舞いに行っている。華やかな夜の世界で生きる女だ。それに比べて本妻は何処にも派手さは見つからない。自分のかみさんと同じだ。富田さんも派手に立ち回っているが、やはり、帰るところはこの小さな家なんだな)
と思っていた。一郎は何か彼と共通するものがあるように思えて心が和んでいた。
共通する何かとは何かと考えてみると悪人だとか善人とか人は区別したがるがそれは形を見ているだけで人はみな優しい心を持っているのだ。
一般的にはヤクザは世間から嫌われ者だけど、それだけでは理解できないもう一人の優しい吉富さんがすぐそばで生きているのだ。

一郎は妻の由恵にはヤクザまがいの事務所にいるとは言っていない。由恵は夫がどこで働いているかも聞きもしない。これは愛の沈没状態だか、さっぱりしていて一郎には都合が良かった。

ある晩捨吉は富田に連れられて赤坂の某有名な、クラブに行った。芸能人も、よく来るフルバンドの店だ。レミーマルタンを囲み捨吉を含め四人がソファに席を埋た。カット頭で黒のジャンバー、一人は茶色系のスーツ姿だ。
薄暗い席にオステスはいない。むづかしい話をしているようだ。捨吉が、口を挟む話題ではない。
後で吉富さんが教えてくれたのだが、席の二人は別々の組に属する幹部ということだった。
むづかしい話が済むと、そのうちの一人が気楽に話始めた。
(この辺りの劇場に仕出し弁当を売っている会社の女社長に頼まれたのだが、会社が倒産して今晩、債権者がくるそうだ、恐ろしくて眠れない、誰か助っ人できる人いないかな、5万円だ)と話し出した。誰も返事がないので、捨吉が名乗り出たのだ。彼にしてみれば、何でもこなして、家に金を入れないと子供達家族が生活が出来ないのでやるしかなかった。それにしても、この仕出し屋の女社長も一郎と同じで居酒屋吉富の修羅場が再現されているようで世の中には似た者同士は居るものだと、苦笑いをしていた。
夜の12時
過ぎに仕出し屋の女社長の自宅に着いた。そこは渋谷にあるマンションの五階だった。
専務と名乗る若い男が、捨吉の到着を待っていてお茶を入れると、細々なこと言わないで去って行った。女社長は捨吉に債務の仔細を言うのでも無く落ち着きなく独り言をいっていた。一郎は彼女の愚痴を聞いても疲れるので横になりながら(そこに立派な仏壇があるではないか、其処でお経でも唱えていれば少しは休まるよ)とぶっきらぼうに言った。廊下の奥にある仏壇は背丈が一間ほどある立派な造りをしていた。五百万だと言う。

こんな時は潰れた社長といくら話してもラチが開かないものだ。問題は債権者が来ても話合いをして解決の糸口を探すしかないと思ってるので落ち着いて構えていた。社長はしばらくおどおどと辺りの書類を片付けていたが、いつの間にかどこかに消えた。
一人になった捨吉は暴力団が来るのも想定しながらつまらない深夜テレビを観ていた。
四時頃一人の四十歳前後のスマートな女がきた。話を聞くと、保険屋さんらしい。
社長が不在なので話にならないのか、コヒーを入れてくれたあと世間話をして帰ろうとしたら、男が来た
明け方だった。
富田さんの友達だちの西川さんだ。ヤクザ風の40代の目の鋭い男で武闘派だ。西川さんは前に事務所で富田さんから紹介されていた。
(話は富田から聞いたもんで来たよ、誰も来なかったか、もう、)
かえっていいよ)
と5万円の入った袋を渡して、そばにいる保険屋さんの女性と話し始めた。
捨吉は、深夜の用心棒など、初めてで、我ながら度胸がいいと無事にすんでホット胸をおろした。
結局は債権者は女一人だけで強面の男は一人もこなかった。

一郎はある日の夕方サテンで富田さんと歓談していてふと思いした様に川崎の金貸し海野の話をした。
居酒屋吉富の一件だ。富田さんはこれは店を乗っ取らたのと同じだと思い込んだのか川崎にこれか行こうと言い出したのだ。
一郎はもう解決していることだし、それよりも海野は川崎でスナックバーをしているので遊びに行こうと誘いをかけてた。
富田さんは居酒屋吉富の件が解決していると一郎が言っても彼としては人の好い川奈ちゃんのことだから何処かに脅迫されている形跡がないか、もし、そうだとすれば仕事になる、俺の出番だと思っていたようだ。
スナックバーリノは川崎の繫華街の外れにあった。開店前でカウンターの中にはには若い男がグラスを拭いたり準備をしていた。
一郎は事前に電話をいれていた。
(今晩、早めにリノに飲みに行くよろしく、お客さんを一人連れていく、彼は、堂山組の幹部の人だ。よろしくね)という電話だった。
二人はカウンターでよもやま話をして1時間ほど過ぎたころ海野が若い者4,5人連れてやって来た。ドアを開けた瞬間は興奮しているようだった。
海野は居酒屋吉富を乗っ取ったとおもっているのだ。一郎を二階に挙げておいて上手く梯子を外して店を乗っ取ったから、その仕返しにヤクザを連れてきて仕返しに来たのだ勘違いをしていのた。
一郎は乗っ取られたとは思っていないのだ。結果的には海野が店の経営者に納まり一郎は本意ではない居酒屋経営から脱出出来てホットしていたのだ。世間の物差しで見れば金貸しに金を返せなくてやむを得ず店を明け渡したとなるが、一郎の物差しでは賃貸契約や業者の負債等々で居酒屋経営は辞めたいが辞められのでいたのだ。海野への店の引き渡しは正常な譲渡ではなくても渡りに船なのだ。
彼らはそれぞれ喧嘩でもするような姿で乗り込んできたのだ。運動靴に土方が着るような作業着だ。
一郎は富田さんをカウンター席から紹介をした。富田さんは事前に引き渡しの件を一郎から聞いていたのでただ暇なので寄ったまでだといい、得意な裕次郎の演歌を楽しく歌っていた。
(霧が流れてーむせぶよな波止場ー)富田さんの渋い声を聞いている金貸しの海野は二人が脅しにきたのだと思って戦闘服を着こんで暴力沙汰も覚悟していたようだが拍子抜けしていたが、若い衆を帰して自分もカラオケの輪に加わってきた。
一郎の本音は生涯学習と思う油絵世界があるから自由を獲得して悦になっているのであった。だが絵では暮らしていけないので、あちこちと餌を求めて徘徊しているのであつた。
金貸しの悪のパワーを利用して己の道を開いたものだった。


その後も仕事らしい仕事はなく東海商事会社は捨吉にしてみれば実のな名前だけの商事会社だった。富山社長にとっては総会屋等々多種多様な交際があるので価値はあるのだろう。自由とと金の両立を企てる一郎には土台無理がある。まして極道になりきる勇気はないし困った者だ。
彼は闇の仕事だか人柄は良い人で離れるのは寂しさもあったが、手持ちの金も僅かになり富田さんに理由を話して辞めることにした。
富山社長にしてみれば、川奈捨吉という男は自分の歩む世界と外れていたので仕事をさせなかったかもしれない。正直者使えない、かえって危険な男だといわれる世界でもあるからだ。

東海商事を寂しくさった一郎は暫く家で時間をつぶしていたが、ある夜しばらくぶりに油絵が描きたくなった。
一郎は絵に一つのこだわりを持っていた。それは辛いときほど絵が活きていると言う自己流の想いだった。
深夜だ。狭い部屋の寝布団の脇に新聞を幾重にも重ねて絵の具を置いて描いた。
由恵に見つかると何を言われるかと恐る恐る寝しずまった頃を見計らってだ。夜遅くまで自画像を描いた。筆は止まることを知らないのだ。翌朝は昼は仕事に行くと嘘をついて絵に向かっていた。由恵は仕事でいないから都合がいい。
そして翌日も翌日も筆を動かした。深夜に自画像は出来上がった。
しばらく目を集中して絵を睨んでいると自画像が喋り出したように観えた。
(お前、良くそんなインチキな絵をよく描けるな。お前の胸に手を充ててよく観てみろ。違うだろう。お前はそんな正直な綺麗な顔をしているはずが無いだろう)と無言で一郎を睨みつけるのだ。一郎は絵に答えた。
(これは自画像ではありません。おっしゃるとおりこの絵は偽物です。本当の私は家族を支える事さえ出来ない男です)とその自画像を裏返しにして壁に立てかけた。後日、自画像が怒っているように見えてしまうので筆で消してしまった。
絵は嘘をつかない。それ以来、絵を描く時の心の姿勢は自然体でなるべく向かうようになって行った。今度、俺の描く自画像はおそらく欲望、堕落、裏切り、偽善の塊がのたうち回り、目の玉はどんよりして目標が定まらない目付きで、口は半開きで、得体の分からない自画像にならなければならないと想像ていた。あの、正直で、優しい目を描けるのはもしかすると死の直前かも知れないと思ったりしていた。

間もなく例の仕事の玉手箱の新聞広告で調べておいた川崎の住宅展示場にある丸吉建設に応募して、則採用された。ブルーのラメ入りスーツの五分刈りヘアスタイルだ。
六本木界隈を歩いていた時と同じだ。他の営業マンと比べると派手で異彩だ。スーツらしき物はそれしかなかったから仕方ないのだ。展示場で見学者にこの会社の特異な構造などを説明して契約してもらう仕事で捨吉は、完成予想図を描いてあげるので喜ばれた。
ところが三月も経たない内にこの会社が自転車操業でパンク寸前だとわかった。営業マンたちは動揺した。契約着手金をもらっているので完成まで会社が存続していられるのか心配なのだ。会社が倒産しても営業マンには直接責任はないが一つの契約にはお客様との信頼関係で結ばれているので他人事ではないのだ。
捨吉もその中の一人でもしもの時は建設会社を変えてまでして工事が継続できないものかと心配していた。

吉富さんは、時々捨吉のことが気になるのか電話をくれた。友人として付き合っていたので、パンク寸前の丸吉建設の事も話していた。
(参りましたよ、勤めた会社がパンク寸前で、また何か仕事を探さなくては)と。
しばらくして富田さんから静岡県の建設会社、伊東建設の菅田常務を紹介するから話を聞いてもらいたい、と言うので、久しぶりに赤絨毯の事務所に富田さんを訪ねた。
菅田専務は、小柄で頭の切れそうな、飛び職人風の様の男だ。富田社長、菅田専務と三人で話し合いになった。話を要約すると
(営業マンを口説いて工事の新築でも途中の建築契約でも契約を反故にして、伊藤建設と再契約してもらうようにしてくれないか、営業マンのお礼は一件あたり10万円即渡します)ということだった。
建築依頼者は一度に建築費を払う事は無い。工事の進行に応じて住宅金融公庫から定期に支払われるからだ。完成すれば残金が伊藤建設に入るので採算は取れるのだ。また他の金融機関も国の制度資金と遜色がないのでほとんどで、取りはぐれはないのだ。
伊東建設は建設途中からの工事になるが、それでも利益は出ると言うので捨吉は六人程いる営業マンに契約変更計画を促す行動を取ることにした。
営業マンに話す前に伊東建設が、建てた現場を見に行くことにした。信用調査だ。菅田専務はそれは当然だと捨吉を伊豆半島周辺の現場を案内してくれる事になりった。
案内当日、伊東建設の事務所兼自宅に社長の小室さんと面会した。
眼光鋭い65歳で中背の渋い男だ。
社長の存在が確認取れた捨吉は言葉少なめに挨拶をして菅田専務と事務員と称する田辺春子さんとを同行して現場に向かった。彼女四十そこそこで明るく、歯切れのよい女性だ。
工事中の建築現場を見たかったが今は無いという。会社は休眠状態で仕事かないのだと言う。
それではと言う事で比較的新しい完成現場を見させて貰った。実際に建てたかどうかは施主に説明を受けたわけではないが菅専務の工事用語や工事の流れを説明してくれる情熱から建築に対する姿勢は本物だと認識をした。
営業マンも捨吉と同じ視点を持っているはずだから後日、展示場で伊東建設の話をして、完璧な同意ではないが五人の営業マンの理解を得た。
展示場の丸吉建設は社長と専務が展示場にも顔を出さなくなり倒産は時間の問題という噂が仕切りに流れ出していた。しばらくして工事現場の動きが止まり破産が確実となった。
その頃は営業マンが抱えていた工事途中の施主が八人程いたが、施主と話を上手にまとめて一件の新築工事と残存工事を行う契約を伊藤建設と済ませていた。当然の如く菅田専務も施主と面談して契約していた。
菅田専務は今後の工事を上手く運ぶには捨吉のパワーが頼りになると思ってか、川奈一郎夫婦を伊東温泉に呼んでくれた。
一泊の温泉だが夫婦で温泉に行くなど新婚旅行以来の出来事だ。由恵は喜んで来たわけではない。菅田専務が是非二人で来て下さいと言うものだから妻の由恵強引に説得するしかないのだ。彼女は子供を両親に預け渋々やって来た。
彼女は捨吉と湯に浸かって極楽とんぼになるほどの精神的な余裕など無い。夫婦であっても他人同様だ。二人の愛の言葉は既に死語であった。
専務の菅田専務の指揮のもと工事か始まった。現場事務所は武蔵小杉に構え、一級建築士の森田は伊東建設から、二級建築士の渡辺は丸田建設の倒産を節目に伊東建設に転職してきた。
捨吉が契約した藤が丘の建屋は急勾配の傾斜地にあり、基礎工事が難題だったが、菅田専務の猿のような機敏な活躍で無事に完成した。菅田専務と出会った場所が闇世界の事務所だけに不安があったが、場数を踏んでる菅田専務の実力をこの目で見て感心するばかりであった。
(川菜さん、この工事は建屋の費用より基礎工事の方が金がかかったよ。な~にこんな事もあるさ、ところで川奈さんうちの会社の常務にならないか、営業力抜群出し会社を伸ばして行こうよ、大した給料払えないが)と飯を食いながら言ったのを覚えている。
その後給料も出るなら由恵も少しは安心できるだろうと、よく考えず常務になる事を承知した。よし、この機を捉えて不動産も扱い一旗上げるかと期待を抱いたのだ。
建屋の工事は苦労しながらも進んで行った。半年を過ぎたころ施主の意向で遅れ気味だった一戸を残して完成していった。
 
 だが、安心していた工事に問題が起きた。
下請け業者への支払いが滞っていたのだ。業者に支払う金が無くなると建築士達も当然工事が進まなくなるので不満タラタラだ。ここで捨吉は菅田専務に支払いは出来るはずなのにどうして下請けに払わないのかと詰め寄った。
下請業者は建築士の知り合いや、営業マンの知り合いもいる、捨吉には知り合いのハウスクリーニング屋がいたから詰め寄るしかないのだ。
数日して小室社長が武蔵小杉の事務所に来て捨吉に話しかけた。
捨吉は業者の未払金はどうするのか、支払ができないなら場合によっては施主の最終金を止める、その話を施主に話すと言うと、小室社長は怒り出した。
(おい、川奈、お前は会社にイチャモンつけるのか、これ以上踏み込むとただでは済まないぞ)と脅しをかけだのだ。下手な芝居だがチラッとナイフの様な物が見え隠れしていた。
捨吉は黙って臆することなく話を聞いていた。小室社長の言い分は菅専務が施主が喜ぶような工事を進めたため思わぬ材料や手間がかかり未払い金が発生してしまった。なんとかするから、騒ぎ立てするなと言い訳をした。
これ以上抵抗すると小室社長の眠っていた昔の癖が出ると危険だと察知してその場を引き下がった。前から小室社長は只者では無いと菅田専務からそれとなく聞いていたので、引き下がったのだ。
捨吉もこの仕事は普通の正常な感覚ではできない、建築を深く知った者ではないと工事途中で契約を解除させ、残りの残工事で利益を出す工事会社はハイエナに近い会社だと思はずにはいられなかった。
工事が中途からだから、こんがらがった糸をほごすようなもので、怪しい男も出て来てもおかしくないと踏んでいたがやはりだめかと気落ちしていた。
(仕方ないな、別に俺が社長ではないしどうにもならん、せめて残りの工事だけは終わらせたい、菅田専務は何とかするからと言って業者を、説得してくれるだろう)と気持ちを入れ替えたのである。
しばらくして捨吉と、二人の建築士は夜遅く迄仕事をしていた時、11時ごろだ。電話が鳴った。
電話に一郎が出ると電話の声は泣いていた。金庫番の田辺春子からだった。
(川奈さんごめんなさい、ゴメンナサイもう、会社を、回していくお金がない、私達はもう事務所にもどらない、代表印は専務の引き出しに入れておいたから、あとよろしくお願い。迷惑かけてゴメンナサイ)そう涙ながら電話は切れた。理由も何もない、一方的に泣いて謝って切れたのだ。
一郎は(やられたな)と思うのも同時にこれから起きる債務返済の事がきになっていた。
(やられたな)の意味は、こうして逃げるのは最初からこの工事は仕組まれていて一郎は鵜飼の鵜で美味しいアユを吐き出されたのだ。と思うからだ。そう思っても施主の残工事はまだ残っていた。
田辺春子と菅田専務は武蔵小杉にアパートを借りて一緒に住むようになっていた。工事現場の指揮を執るには補佐する田辺が必要だったのだ。電話が、切れた後二人とは音信不通となり残された捨吉と、建築師の3人になった。伊東建設から来ていた森田は残りの工事があり現場監督としては逃げるわけにはいかないと言う。渡辺建築士も同じく残工事があり辞める理由にはいかないのだ。もちろん先月から給料はストップだ。
捨吉も同じだ。給料なしだ。
二人の建築士は真面目だった。捨吉は建築士魂を見せつけられていた。残された3人はなんとか施主の希望を叶えたいと業者を説得し工事を止めないようにと、施主には倒産の実情を話し少しでも追加資金を出させる努力をしていた。
捨吉は工事を終えて代金を貰えない業者達に会社破産を通知して債権者会議を連絡した。
連絡したその日の夜、早くも債権者がきて金になりそうな事務用品を引き上げて行った。残った物は2つの机と電話位だ。
翌日債権者会議が行われた。
七、八人が集まって来たが皆さん罵声を浴びせる元気もなく、未払い金は諦めるしかなかった。登記簿謄本にはおそらく会社は抹消されているはずだ。債権者が社長を呼んで来いとの騒然とする事がないのと、残された三名が給料無しで苦悶しながら頑張る姿を観ていてこの残された連中も債権者の一人と思えていたのだろう。

詳しい負債金額は事務担当の田辺春子が菅田専務の指示で動いていたからこの二人しか解らない。
菅田専務とは一年ぐらいの付き合いがあったが最初から計画して倒産させたとは思えない。何故ならば残った負債金額が工事金額と比較すると最終的の負債額は数百万と考えられるからだ。おそらく資金繰りがうまくいかないで逃げ出したのだと思う。田辺春子が泣いて逃げたときは計画的に会社を潰したと思ったがあの涙は真っ当な涙なのだと思うようになってきていた。
債権者会議と言ってもきたのは数社だけで、木材の仕入れとか、大工工事だとかの金額のはる業者は来ていない。もしかすると本社でやりくりをしてたのかも知れない。形だけの川奈捨吉常務は金の出し入れをしていた当事者ではないので業者は責任追及をできないのだ。馬鹿な男だ、うまく騙されて常務になってと思っている業者もいるはずだ。
債権者会議の中でレンガ工事を受け持った利川レンガ店の社長が突然稀有なことを言い出した。
(ここにいる三人はここの所、給料無しで、最後の最後まで頑張ってきた。工事監督の森田と渡辺の給料は一月分だけ俺が出す、川奈さんは常務だから無理だ。施主も工事の行方を気にしているだろうから残りの工事は仕上げよう)と言い出したのた。
武士の情けというべきか、世の中にも立派な社長がいるものだと頭を下げた。彼には未払金が270万円もあるのにだ。
その言葉に感動したのか、債権者の口は更に静かになった。諦める以外方法がないのである。残工事は施主には迷惑かけられないという職人魂で無事に終えることができたが、中には残工事の代金を施主と話合いで解決した業者もいたが建築士が無償で任務を果たそうとする姿勢に、何かを感じていたのかも知れない。
その後、去るように、逃げるように消えた菅田さんと、春子さんはどこでどうしてるのだろう。
伊豆の七滝で仲居でもしてるのかも知れない。愛想のいい屈託の無い人で、いつも菅田さんと言い争いをしていた健気女だった。
菅田さんは小柄で義侠心のある古い人だった。いつも小声で語りかけていた頭の切れそうな人だった。

伊豆の真ん中辺りにある中川で深夜に鮎を一網打尽というのか、密魚に連れられて放冷箱に鮎やヤマメを満杯にして帰った事がある。地の漁師さんには申し訳ないと思うが、足元を避けるように流れ行く清流に映る月のシルエットは忘れる事ができない。
あの当時は誤解、偏見。絶望、希望と回転木馬の様な世界に喘いでいた関係だったが、もし会えるなら、、、、、そういう男だ
生きる術は休むことを教えない。伊東建設の顛末が終わると一郎は一人静かな世界はないだろうかと思いついたのが(えーやきいもーいしやきーいもー焼き芋ー)だった。

町田駅近くのスパーの夕暮だった。
買い物客で賑やかだ。正面入口から少し離れた電柱の側に軽自動車が煙突から煙を出している。
焼き芋釜で木材を燃す川奈一郎の顔は燃える炎に照らされてあめ色に染まっていた。
(一発勝負と勇んで始めた渋谷の不動産。何かの縁でヤクザ紛いの道玄坂、そしてながれて伊豆半島、生きる舞台は数々あれど町田の煙が懐かしい)歌の文句じゃあるまいし、生きる舞台を次々と移していた捨吉の挑戦は甲斐性なく破れ、次の策と思いついたのが一人舞台ができる焼き芋屋だった。
もう直ぐ日が暮れる。買い物客は足早に焼き芋屋の車を通り過ぎていく。車の上には手製の赤い提灯が俺が主人公がと言わんばかりに辺りを照らしている。赤い提灯は建築現場によくあるカラコンだ。やきいもと書かれた字は一郎が書いた芸術作品だ。
一郎は人の流れに構わず黒ずんだ軍手で釜の焚き木を風通しよく並べ替えている。薪の火が人を呼び込みことを知ったのは焼き芋屋での事だった。
神代の時代から火は、人間にとって恐ろしくもあり、ありがたくもありその存在感は絶対的だ。
その火に人が惹かれて目を移してくれる。この時間は火が主役になる。焼き芋はその信じているかて焼き芋に興味を抱くのだと一郎は信じている。
(エー焼き芋ー石焼きー芋ー焼き芋ー。ポッカポッカの焼き芋だよー甘くて美味しい焼き芋だよー早く来ないといっちゃうよー)軽自動車の屋根の小さなスピーカーから落ち着いた渋い声が客を呼んでいた。
このスピーカーから流れる一郎の口上は中学に通う悴にが嫌がるのを無理やり頼んで作らせた録音テープだ。スピーカーはホームセンターで9000円買った安物だがこの焼き芋屋の車によく似合う。

(おじさん、焼き芋2つちょうだい。いくら)
買い物袋を片手抱いた子連れの主婦の声が掛かる。
(はいよ、大きいよ、2つで800円)野球帽を被り、どこからか持ってきた厚手のコマーシャル入り前掛け腹に締め、薄汚れのジャンバー姿の一郎が紙袋に入れて渡した。
(えー高いわよ、まけて、ねーいいでしょ、おじさん)
(いい女にそう言われれば後には引けねー分かったよ、お姉さま、はいよ、もう一つおまけだ)冗談もおまけの一つだ。
捨吉の焼き芋は目方売はしない、面倒くさいからだ。それとこの芋は自宅の近くにあるスーパーの八百屋さんの主任さんが芋に少しキズがあるので売れないからと一山いくらで売ってくれるので仕入れが安くてすむからだ。人様には言えないが主任さんが機嫌がいいと(いいよ、金は)の一声がかかることもある。一山はその日によって違う。一日分の仕入はこれも内緒だが1000円ほどだ。だからといって傷物は一郎の良心が許さない、傷は芋の先端にあるから丁寧に切り落とすのだ。
スパーの八百屋さんの主任は五十前後の男でいつも一郎に
芋を売ってくれる人だ。ある日一郎が裏の物置場で魚屋が捨てた空き箱の薄い板を焼き芋を焼く板に使うため一枚づつ集めている時に(おい兄さん、傷が少し付いて売り物にならないから良かったら持っていきな芋)と声をかけてくれた。主任は働き盛りの男がゴミ箱を漁って板切れを集める姿を見て、(この男はなにか訳ありの男だ。気の毒に)とおもっていたと思う。彼の仕草や言葉の中に優しさが感じられるからだ。
同情に甘える一郎では無いが、時折あの主任の顔が忘れることなく浮かんで来るのは一郎には人の情けを深く刻んでくれていた。

二千円程売れるとスーパーのお客様も夕餉時でまばらになる。日頃はここから車を246の国道を東に走り溝の口辺りをスローで運転する。路地裏をよく回る。
狭い道幅で街路灯がぽつんと灯りがともり、庭の植え込みがほんのりと照らされるころが焼き芋がとくに売れる場所だ。
焼き芋屋の音色は両側の家並み聞こえるだけではなく、その家の奥にある道にまで聞こえるのが理想だ。
一郎はこんな道を売り歩くとき軽自動車をゆっくり走らせる。スローで走るとエンジンのダイナモが損傷するので神経を使うのだ。中古の自動車だからだ。

この焼き芋自動車は溝の口辺りの梨畑を走らせていた時にすれ違った焼き芋屋の車運転していた青木さんから買った車だ。
この車を買う前はやはり新聞で焼き芋屋募集中の広告を見て働きだした八王子の森の中にあるその会社の貸車だ。燃料別で一日分2000円とられる。この貸し自動車を運転している時に青木さんと出会ったのだ。
同業の好でお互いに車を留めて話を始めた。芋の仕入れはどうとか、あの道はよく売れるとか、タバコを吸いながらの歓談だ。
青木さんは40歳位で黒のハンチングを被り、上から下まで黒のスタイルだ。その青木さんが、焼き芋車を安くするから買ってもらいたと言うのだ。理由は熊本の実家に戻りたいと言う。お父さんが嫁を世話してくれたと言うのだ。
一郎が今乗っている車がその車だ。一日2000円の車借り代も助かるし30万を10回払いでという口約束で購入したのだ。
焼き芋釜はゴミ捨て場から拾ってきた洗濯機を青木さんが工夫して作った釜だ。彼は昼間は街の工場に勤めるエンジニアだと言うから自作の釜ができたのだ。
スピーカは壊れて使えないと言う。暗闇が迫る溝の口の梨畑から別れた二人は数日後、長津田駅の近くの道路で焼き芋屋の車の引き渡しを受けた。

夕暮れの登戸の路地裏での事だ。一郎の好みの道路だ。道幅の小さい、電線がたるんでいて忘れられたような一つの街路灯が人恋しそうに僅かな灯りをともす静寂な道でのことだ。
そんな雰囲気のある路地から二人の小学生の姉妹が駆け足でお芋ちょ~ダーイと手をあげなら車を止めた。雑草の茂る庭のあるトタン屋根の小さな家から出て来たのだ。
はいよー、と声をかけ軽トラックから降りて声をかけると、妹のお嬢ちゃんが片手を広げて50円玉一つを元気よく差し出した。妹の顔はにこにこしている。姉は一歩さげて、はづかしそうに一郎の顔をみていた。
捨吉はうーんと息を止めながら返事をしながら釜の蓋を開き焼き芋2つを取り出し渡した。
(お母さんお父さんは仕事かなー)
(うーん、そう)
(いつも何時ごろ帰ってくるの)
(九時ごろ)
(じゃー夕ご飯はまだだね、よし、もう一つおまけだ)
姉妹は手を、振りながら足早に家に戻って行った。
捨吉は、自分の家族を思い出していた。
(俺もあの子供の様に辛くて寂しい思いをさせていると思うと我が子のように見えてきたのよ)となにか良いことでもしたような嬉しい気持ちになっていた。
そろそろ帰る夜の10時頃、長津田の駅裏に木々に囲まれた小さな小料理屋がある。辺りは暗く一軒家の店だ。時々田園都市線の線路を走る音が去っていく。このポツンとある小料理屋は、一郎がこの辺りを廻るとき立ち寄る店だ。赤提灯が心を揺するように見えるのが不思議だ。飲みに入るのでは無い、外でスピカーから小さな音で(やきーいーもーえーいしやーきーいもー)と焼き芋屋が来たと知らせるのだ。すると、毎回、小さな紺の暖簾を分けて中年の女将らしい人が出てきて、(今日は暇!二千円だけね、ごめんね)とか言って焼き芋を買ってくれる上得意様なのだ。雨の振る日など三千円が三万円に見えるのだ。
その帰り道に新築一戸建ての家が並ぶ道がある。
深夜に近いから音を落としてユックリと廻るのだ。
ある日の事だ。
暗闇から家の門塀の入口でパジャマ姿の若い奥様風の女性が焼きいもを買いに来た。(オジサン、お芋頂戴一つだけ、200円でね)
カチンと捨吉の悪い気が目を覚ましてしまった。
(お客様、今何時だと思っているのですか。もう12時近いんですよ。こんな立派な家に住んでいて200円は無いでしょう。他の焼き芋屋から買えば)と
滑らしてしまったのだ。
呆気に取られたネグリジェさんはそこそこと戻って行った。悪い言葉を吐いたが水商売なら深夜料金はが加算されているのだ、深夜なら1000円ぐらい買う気持ちになれ、食べきれないのなら翌日みんなで食べろとと言いたかったのだ。身勝手な考えだ。どっかに癇癪玉が眠っている一郎だった。
商売下手がここにもでていたのだ。僻み根性もあった。ひと昔はこの家にに負けない家に住んでいたから博打の形に取られ家を失った己の馬鹿さ加減に呆れて出てしまったのだ。惨めな思いがそうさせたのだ。捨吉は己の器の小ささに呆れていた。

焼き芋のし込みは田園地帯の片隅で一時間歩道かけて仕込む。
焼き上がるまで、助手席で油絵を描く事もある、描きかけの油絵だ。由恵に反対されるが、かってに筆が動くのだ。
なにかの本で読んだことがある。あの絵描き大家の赤富士を描いた林武も若い頃は夫婦で焼き芋では無いけれど、薬?かな、何かの引き売りをしたと本か何かで記憶している。そんな感覚で絵を描くことを自分なりに正当化していたのだ。
焼き芋屋も、車に乗って売り歩く立ち食い蕎麦屋と同じで停める場所に苦労する。一郎は夕方の遅い時間から本格的に動き始めるので、それまではスパーか人通りのある商店街の邪魔にならない場所で車を停めて音を静かに落として客待ちをする事が多かった。
客待ちの間は助手席に移動して油絵の続きを描き始める事が多い。
何で絵を描くのかと自問するのだが絵が売れて暮らしていければ勿論最高だとは思っているが、銀座のグループ展、日展、二科展などけじめの落選をしているので、人を感動させる絵は俺には無理だと自覚している。でも描いているときは我を忘れて夢中になれるところが快感だ。上手く描く技術もない、行き当たりばったりで筆を走らすだけだけど、これがいい。因縁を捨てて解脱をした心境に近づくと勝手に思っているからだ。

妻の由恵は焼き芋屋になるのは大反対だ、世間体もあるし、少しは世間体を考えて普通の仕事を望んでいたが、捨吉には何を言っても無駄だと諦めていたのだ。
焼き芋屋の、宣伝テープは学校から帰ったばかりの倅を部屋に閉じ込め録音テープを作って貰った事は前に話したが、焼きいもー焼き芋ー、、、、、と、何度も声の音程を変えたり、この音は哀愁がこもっていないから芋が売れないだろうとか、もう少し長めに録音してくれとか、出来上がるまで時間が掛かり普段は物静かな、倅も呆れて、いい加減にしてくれと怒る程の傑作なのだ。
ある日、倅が近くの学校から戻っくる帰り道で友達二人と歩いているところを捨吉は発見して、運転する焼き芋屋のスピカーから、
(オーイ裕介)と声を出すと倅は横道に消えて見えなくなった。
なぜだと一瞬考えたが納得した。
(あいつは、親父が焼き芋屋でこのあたりを引き売りしていると思われるのが恥ずかしいのだ。思春期だからな、悪いことしたな)と己の軽率さに呆れていた。倅の裕介は俺の親父は焼き芋屋だと自慢して友達にいえるわけがないだろう、もう少し自慢出来る仕事につけよ、と言いたいはずだ。(でもなー倅よ、お前大人になったらなぜ親父は焼き芋屋をしていたのかの謎を自分の力で解る時が来るはずだ)
と責任回避みたいな言葉を自分にぶつけていた。

夕方のある日、一郎は多摩川の土手沿いにある県道を川崎西口にむかっ焼き芋屋の車で走っていた。すると後ろから来た乗用車が並走して大きな声で(おい、車もえてるぞ)と言っても去って行った。一郎が慌てて車を停めて石焼き芋の釜を見ると釜の側に積んである木材が燃えているではないか。車の荷台に飛び乗り燃え盛る火を捌いて消したのだ。消し終わると右折して競馬を管理する馬屋の近くの人気のない道に座り込み、タオルで汗を拭いていた。
ある時はガソリンが切れてスタンドに立ち寄りタンクに近づこうとするとスタンド係が大声を上げて両手でストップかけながらか(なにしているのだ、だめ、だめ、入ってはいけない)と運転する一郎を遮った。(火事になるだろう)と話しかけてきた。そうか、そうだ、これは危険だと慌ててその場を去って行った。落ち着きがないのは昔からだが、常識を忘れるほど頭の中は何かを考えていて冷静になれなかった。
夜も更けて12時ごろには家路につく。釜の中の火を消すのだが、かなりの材木の残り火赤く燃えている。農協賃貸マンションの側に野川と言うなの川が流れていてその川の橋の上からの車を停めて窯から残り火のある焚き木を川に投げ込むと音を立てて消えていく。
釜の中は燃えカスがのこるがこれは自然消滅ということでマンションに隣接する駐車場にいれるのだ。由恵はこの駐車場に焼き芋車を入れるなと言う。夫の仕事が恥ずかしという。余った焼き芋は早く帰れた時は隣りの人にあげるのだが、この行為も妻は怒るのだ。
売上は20000円ぐらいで、ガソリン代を引いてもまあまあ暮らしていけた。焼き芋屋という暮らしの手段は家族からは早く止めてくれコールだった。
焼き芋屋は春になると終わりを告げる。ポカポカ陽気では売れないからだ。どうしても軽トラックでノンビやりたいなら網戸の張替えが業界の相場だ。竿や~竿竹。
もうそんな時代では無い。
物干し竿はプラスチックで良いのが出回っているので販売は大変だと思い焼き芋屋を辞めることにした。

次は西武線東武練馬駅の近くにある食品を扱う東山物産会社に勤めた。気合入れて勤めたが、家から遠くなって通うのに苦労するだ。最初の仕事は駅でよく見かける駅の階段付近で干物や、塩辛、佃煮などを売る仕事だ。屋台風にレイアウトしてある机一つで商いだ。思っていたどおりの数字が上がらない。声をあげて通行人向かって呼び込みをするのだが、中々振り向いてくれない。歩合給だから売上額が少ないと食っていけないので、この商売は時代遅れだ辞めるための理由を正当化していた。そんなマイナスの気持でいるころ会社から催事場の移動が提示された。次の催事販売は吉祥寺のスパーで全国寿司大会の催事だった。同行したのは先輩の小林さんである。小林さんは催事にむかう車中で海苔巻きに使う海苔を忘れていることに気がついて海苔を取りに会社に戻るという。一郎は戻ると開店時間に間に合わないので現場に直行しようと提案をして、そのまま催事会場に向かった。
一郎には奇策があった。会場に着く5店舗のすし屋が開店準備に取り掛かっていた。
店頭の商品台に大きなシャリを切るタライがある。それを逆さまにして、その上に檜の青い葉を重ねてジャンボイナリ寿司と名前をつけてを50個ほど乗せて販売をしたのだ。
大きいイナリの皮にシャリを埋込み、その上に青チソを敷いて、その上にイクラ、ウニ、イカ珍味、すじこ、鮭フレーク、松前煮など、北海の海の幸を、のせたのがジャンボイナリ寿司である。これが珍しいのか飛ぶように売れた。
機転を利かした一郎の顔は晴れやかだった。
それからは独自で勉強をしたり
職人さんに教えてもらったり、
失敗を重ねながら、おはぎやみたらし団子、お赤飯などに挑戦して実力をつけて行った。
だが飽きっぽい性格は直しようがない。この、催事で得たものは小林と言う男だけとも言える。彼は野心家で催事の仕事をしているが、強引に自分の企画を押し通すパワーは見習うものがあるのだが自信過剰でイマチイチついていけない。特に社長が予算オバーだと言っても、社長を説き伏せてしまう強引なところがあった。
もしかすると小林の企画する催事は一郎の何気なしに言う参考意見をベースしていたと思えるので催事で採算が合わず社長から叱責を受けていても彼を責めないでいた。
あるデパートで北海道物産展に一区画借りて北海道の珍味を集めて参加することになり、小林は陳列ケースを商品を目立つようにしないとお客様の関心を呼べないと社長に進言して陳列ケース購入したことがある。この時の売上額が想定以下で社長との間に溝が出来て信頼関係も怪しくなっていた。
暫くして小林の金銭管理に不信を抱いた社長は彼を首にしてしまったのだ。一郎も小林が辞めるならと、彼と同時に会社を去ることにした。会社は一郎の辞意を引き留めたがそれに応じなかった。
理由は小林がいなくなると、彼の立案した催事販売に一郎は実労部隊の一員として付いていたから戦友みたいなものだ。彼にたいして同情心もあって、このまま会社に残ってもやる気が起きないからだ。時には泊まりがけで仕事に精を出す二人だったので別れる事は男といえども一抹の寂しさがあった。
金も大事だが少々荒っぽいが小林の生き様に共感を覚えていたので一郎なりの筋を通したと義理人情を大事にしたが、裏を返せば、我慢の足りない飽きっぽい性格が露呈していたのだ。
その後、小林とは連絡が取れなくなった。新潟の長岡の嫁さんに会いに行ったのかもしれない。

 次のアクションは身体を張ればできると交通誘導員だ。洒落でも、棚から牡丹餅はないと自分に言い聞かせているけれど何回も立ち上がるのだが牡丹餅はつかめないでいる一郎はまた腰を上げた。もしかすると手を上げて棚の牡丹餅を取って食べてみると自分好みの甘さでないから又別の牡丹餅を探しているのかもしれない。
朝8時から夕方5時までが基本で夜勤だと夜8時から明け方5時までだ。世の中少しは便利になってきた。失業と言う事が少なくなってきたからだ。食って行くだけならなら心配いらない。微生物はどこでも繫茂出来るのだ。

 国道246線の田園都市線藤が丘の近くだった。工事用のサーチライトが闇の国道を照らしている。アスファルトフニッシャー、大型トラック、大型ローラーなど土木工事の機械が点在して、スコップを手にした作業員たちが真冬の一般車両を遮断した道路で働いていた。ロープで結ばれたカラコンの灯り行列を作り道路を照らす。熱いアスファルトが表層をうめていく、機械音、オイルの臭気が辺りに流れ、白煙が烈しく踊る。防寒着をつけた作業員は汗だくだ。捨吉は一般車両が入らないように、赤い光を放す誘導灯で車を捌いていた。この光と影と人間と機械が一体になって深夜の冬空で映し出されるイベントは心を揺らす。絵になるのだ。この道路工事現場は人間を描いた迫力のある映画を観ているようだった。

府中の高幡不動の警備は朝までの夜勤だった。月光で暗闇の墓が薄気味悪い。社の床下も見回りする。深夜にひっそりと静まる細い参拝道を一人で懐中電灯を頼り巡回して歩くのだ。
社務所の見回りに行くと作業台の机の上に家内安全、交通安全 身体健全らしき祈願札の朱印がいくつも並んでいた。
一郎は警備記念にそばにある和紙にこの朱印を捺印していこうと思ったが、此処は神仏の聖地である事を思い出し、良心が邪魔をして断念をした。
警備員の仕事は多摩川花火大会、スーパーの深夜警備、時には山の中、川の淵など多岐に渡った。
ただ、警備会社から言われた司令に従い毎日が過ぎていく生活はまるで働き蟻が忘れ去られた木の下で黙々と葉っぱの残骸を運ぶ姿に自分を映していた。

どこの警備をしていても給料が上がらない仕事だからいつまでもやって行く仕事では無いと最初から決めていたので次の仕事探さねばと考えていた。
 一度、銀行に不渡手形を出すと世間の信用はがた落ちで事業をしたくても相手にしてくれなのが世間の相場だから、身体は頼りになる資本だった。
この頃は確か42,3歳ごろで踏ん張りも効いてた。捨吉の勝手な哲学は(今やっている行動は世を忍ぶ仮の姿だ、俺の生きる場所はここではない、いつかは見つかるはず)というやつだ。この警備の仕事をこなしていると知り合いから懐かしく連絡があった。食品催事会社いた頃の友人からだ。
吉祥寺の後楽物産に勤めていた時の友人で催事マネジメントをしていた小林から仕事の話が舞い込んだ。舞い込むと言うより、こんな話が有るのだけれどどんなもんか、と言う話だった。
小林と捨吉は同年齢だ。吉祥寺の食品催事をスパーや、デパート、駅ビルで、寿司や各地の特産品を扱う後楽で知り合ったあの小林だ。仕事の縁は人の縁、人の縁は社会の縁と思い込んでいる捨吉は人の批判にもめげづに骨を埋める職場を探すため転職を重ねていた。
この行楽産会社に入りたての頃は駅の階段の上で干物売りをやらされた。屋台に紺の布地に白抜きの暖簾を下げて通行人に、声をかけながら売るのだ。小林は会社の販売マネージャーだから、さほど売上のない干物売りより固定給のある寿司販売店の方がいいだろうと配慮をしてくれた男だ。その後小林と催事販売でコンビを組むようになり、二人は会社の粗末な寮で過ごしたのたで気心は知っていたの彼の相談に乗ってみるかと思ったのだ。
 
歯科医院に設置する機器の販売だと言う。株式会社デンターノという零細企業というか当時はやりの技術開発ブームの一翼を担うため大手のk造船会社が資金を出して設立した会社だと言う。環状八号線の蒲田駅寄りの国道に面した4階建の二階に10坪程の事務所を構えていた。
小林の話によると営業社員を募集しても来ないし、長続きしないので山根社長と女専務の岸と工事担当の男と事務担当の女性が一人いるだけだという。
当時は日本国中に技術革新という潮流があってk造船の企画部長をしていた岸専務の兄が時代の波に乗り遅れないようにとデンターノに資金提供の道を開き販売実績がついたらk造船会社で売り出そういう期待の医療機器なのだが、中々浸透していかないでいた。そんな時に小林がこの話を聞いてきて売れるものなのか捨吉に相談をしたわけだった。
蒲田駅のサテンで落合ってカタログを見ながら二人はどちらかとなく話に熱中していた。
(確かに歯科医院は歯を削るときに出る切削粉塵で汚れているよな、先生の健康と患者さんの健康を考えれば必要な医療機器だ。まだ使用している歯科医院は全国で二件だけだというのも面白いではないか、それも専務の兄の歯科医院とその先生の紹介者だという)
(本格的に売り出してから半年も経過しているとのことだ、それでも売れないとは、大丈夫かな)
(医療機器で国の許可も下りているのに売れないとは機器のアプローチのやり方に問題がありそうだね、)                 (営業のやり方が真面目過ぎるのではないの、陳列棚に置いているようなものでアクション不足だな。突撃だな、どうせ俺たちは中地半端な人間だ、ここいらで真剣にやってみよう)ということで山根社長と女専務に面会をして、営業に強い2人が入社したと大いに喜ばれた。特に履歴書を見てどうこう言うわけでもないし、二人を丸吞みにしたようなものだった。
小林と川奈一郎は働き盛りをこの会社と歩むことになる。二人は百戦錬磨とは言わないものの、歯科医は個人的には世間ずれしていない紳士が多いのではないかと読んで将棋倒しのように一つずつ丁寧に押していけば何とかなると勝機をみいだしていた。機器の必要性と、なんでも販売の原点である情熱だと思っていたからだ。
小林も一郎もそれまでは運動会のパン食い競走のような
その日のパンを求めて走っているようものだから少しはレベルの高い仕事に有りついて気は少しづつ昂り始めていた。
早い話が世間に認知される仕事とは無縁の世界で生きてきたからである。

社長の山根が考案したのは、歯科医医院の診察室が切削粉塵で汚染されているので、その粉塵をバキュームで除去する装置だ。歯科医院の診療台のそばのポールからジャバラで自由自在に操れるようにしてアクリルの吸引口をつけた、構造的には単純な装置である。特許は歯科医院専用の医療機器だということだお思う。
 山根社長はダンスも上手くカラオケ大好き人間でちょび髭の似合う男だ。
捨吉と小林の二人は販売方法を練り、先ずはその医療機器デンターノのデモンストレーションを歯科医師会でやろうという事になった。
山根社長と女専務の岸さんも乗り気になり二人共、固定給ブラス歩合で各地の医師並びに歯科医師会にデモンストレーションを始める事にした。
二人には営業トークには自信があるから業績は苦戦しながらも月に二件位契約が上がっていった。中古のワゴン車に機材をつんでデモンストレーションを行い理解を深めて人間関係で信頼をつくり、あの手この手でせめて行くから成績もいいのだ。
事務所でお金の管理をするのはほとんど岸専務だ。彼女は山根社長を兄の勤める会社に紹介をした人間だから経理をガッチリ押さえている。社長は技術専門にデモンストレーションに同行したりしているが、中々の遊び人だ。時々我ら二人を癒してくれているのか分からないが蒲田の昔から行きつけの小さなクラブに連れていってくれたので、そのあたりの様子はうかがえるのだ。社長と岸専務は愛人関係に見えるときもあるし、金銭レースのライバルにも見える。クラブでは二人で好きなダンスを仲良くしていたと思えば帰りの自家用を運転する社長に向かって(社長はもう少し二人を身らなって外に出てデモンストレーションに行ってください)とかの愚痴をこぼしてい社長が気に障るような言葉を平気でいっていた。
専務の岸さんは派手な衣装が好みで深紅系の普通の感覚では着れない服が好みのようだった。目立ちのいい美人系だ。その上に男勝りで歌も上手だ。そんな光景を度々見せられていると公私混同した会社運営ではないかと思っているが、小林と捨吉は会社の金銭状況など関係無いと割り切っていた。
社長は医療機器を発明して特許を持っているのだから、少しは金を自由に使わせろという気持ちがあったのだろう。
社員は6人の小さな会社だがそれぞれ個性を出して活気はあった。医療機器の名はテンターノと言う歯科医院にふさわしい名前だ。
診療室のチェアーの脇にプラスチック製のデザインのきれいな吸引器を備え付けダクトで外のブロアーに接続するだけの工事だが、吸引器が山根社長の特許になっているので歯科医師会から注目をされているのだが、一台取り付けるのに150万ほどかかるので、医師も中々踏み込んでこないのだ。
業績が上がっているのは小林と捨吉のセールストークが巧といえないこともないのである。
大手の歯科医院機器メーカーは医師の反応を慎重に見据えていた。デンターノのが売れてくればk造船も本格的に部門を独立させて販売に一郎力を入れてくるに違いない。だから今が会社の命運をかける時期であるのだ。

妻の由恵は、焼き芋屋より固定した金が入るので文句は言わなくなったが、過去の転職実績が重みとなっていて、いずれは辞めるだろうと思っているから会社の成績がどうのこうのと言う会話はこの夫婦には無縁だった。
二年程過ぎて、業績は段々、歯科医師会に浸透していき、山根社長と捨吉と小林は歯科医師会の会合に出ては居並ぶ歯科医の前でデンターノの説明をこなしていく旅が続いていた。

ところが順調に推移していた所に重大な問題が発生した。山根社長がガンで入院してそのまま帰らぬ人となってしまったのだ。
社長と捨吉の関係は垣根のない会話で仕事をしてきたので、落胆は大きくて、もうこの会社に残る必要もないと閃光の様に頭をよぎってきたのである。社長という人間は一度は自分の築いた電気関係の会社を潰しているから一郎にとっては同じムジナというわけではないが親近感があった。、横柄ではない、それに遊びなれているし、品格もある、捨吉にしてみれば一言で表すならば演歌の花道ではないが、男に惚れたというやつだ。だから(お前は金よりも意地を通す奴だな)とそれらしき言葉をエール代わりに送ってくれていたから、思い出話は印象に残るのだ。
こんな事もあった。
生前、捨吉と社長はよく歯科医院にクロージングにでかけた。信濃、越後、山形など主に東北各地を転戦していたとき、旅の途中で夜になると見知らぬスナックに飛び込んではカラオケ三昧だ。小布施に泊まった時は雪が降っていて小さなスナックはお客がいなくて貸切状態だった。ホステスなどいない一人ママの店だった。誰もいない事を口実に二人で100曲ぐらいは歌いつくした。(ママさんごめんね)といいながら演歌の花道は延々と続いたのだ。勿論、主役は山根社長だ。このころから自然と小林は専務派、一郎は社長派と別れてきていた。
店思い出はつきないが、山根社長は入院中に工事を担当している身内の吉田さんを通して、この会社の跡を継ぐ気はないかと社長に言われてきたと一郎に言付けを預かってきた。捨吉は、作業服姿のの吉田だに告げた。
(俺は無理だよ、会社を切り回す金もないしな、話してくれた事は有り難いが社長によろしく伝えて)と素っ気なく断りをいれた。
捨吉は、これからはコンピューターの時代だ。おそらくこの医療機器デンターノも繊細なチップに囲まれて使い勝手のいい製品が2,3年もすれば登場するはずだと思っていたし、この製品は小さな町工場で作られているので到底、太刀打ちできなくなる時が来ると予想していた。いずれ、この会社は大手の歯科機材メーカーに淘汰される時が来ると予想していたので社長は受けられないというのが断りの理由であった。捨吉は、社長の亡き後、会社を退職した。何故かと言うと、山根社長のいない世界は一郎してみれば無味乾燥でしかないからだ。契約をあげて、山根社長が喜んでくれる表情が一郎の生き甲斐だったのだ。それに加えて社長と専務が金銭的な事でいがみ合い主導権争いをしていて小林は岸専務に味方をしていたこともある。小林は一郎と違ってデンターノを独立して新潟で営業する夢を持っていたので、機器と金を管理する岸専務を無視することは出来ない関係だった。
ある年の真冬、社長が一月の早めに契約できると来ないかと言うのだ。大晦日がそこまできていた。
どうやら社長と専務でいつものように金の奪い合いをしているらしい。金庫番の専務が金を出さないので困り果てているらしい。デンターノの開発には女専務の岸さんの兄が社長のアイデアに賛同して勤める会社から開発資金を出させたのでそれだけの発言力は持っているから、対立もよくおきていたのである。

専務はどうだ?社長はこうだ?と悪口がどことなくきこえてくるから、本当に金が足りないとは思えなかったが、どちらかと言えば社長派の捨吉は(やるだけ、やってみます、正月明けに木島平の椎名歯科医院にクロージングかけますよ)
と返事をした捨吉だった。
(お前、木島平といえば雪深いところだぞ、大丈夫か)と社長の自宅の炬燵に二人で入りながら話し込んでいた。どうやら社長の息子の住宅資金らし。会社と言っても製品はともかく、経理は甘いのだ。小売商店のようだ。
捨吉は、そんな運営でも口出しはしなかった。
木島平は正月三日についた。歯科医院の医院長もまさか三日に来るとは思ってもいなかったはずだがだが、年末の執拗な捨吉のアポイントに負けて、最後は雪深いから、気を付けていらっしゃいと気配りをしてくれた。

木島平は快晴だった。
空は真っ青に眩しく、近くの小高い山並は木々の間から顔をだし、小さな神社の脇の3つのお地蔵様は赤い頭布を被りその上に雪が積もっていた。のどかだった。(絵になるな、そいいえば信州には縁がある、あのタバコ屋のおばさんは般若心経の世界を描くと煙草を売りながらそう言っていたけれど、どうしているかな、ここから小布施まではどのくらいかかるのかな)と歯科医院のオープン時間を待つ乗用車の中で思い出していた。
 
小布施のタバコ屋さんは古い情緒のある街並みのはずれにあった。タバコ屋の二階が歯科医院だ。
捨吉は去年の春にデンターノ設置工事でこの歯科医院に泊りがけで来ていた。このタバコ屋さんでタバコを買ったとき窓越しに100号の仏像の絵を見て(大作ですね)と声をかけると(興味があるの?)と声をかけてくれた。
(ええ、好きで描いているだけですよ)
(もし描いた絵があるなら見せて、近く長野市で展覧会があるのよ、出してみない、私、理事をしているから)と言う。
(恥ずかしいですよ、そんな)と照れ隠し笑いをすると、展示する作品が足らないのか執拗に参加を薦めるので2枚の10号を観てもらことにした。
一週間後、機器の調整、集金などで歯科医院に再訪したときに作品を観てもらったのだ。
(これはかっぱ橋ですね、味がおるわよ、これはどこの高原かしら)と褒めてくれて長野美術館の展示コナーに飾られた。
そんな思い出のある小布施だったからこの木島平にいても懐かしく思っていた。
木島平の正月契約は捨吉の熱意に負けたのか無事済んだ。
東京に戻ると直ぐに一人で暮らしている山根社長のマンションに行き契約にまつわる話をした。ドテラ姿で髭面な顔は俄に微笑んでいた
捨吉はこの嬉しそうな屈託のない喜ぶ姿に触れだけで雪の山道に車を走らせたのだ。だから社長の死はショックで目標を失って、残ってまで働く気力がないのだ。まるで糸の切れたタコのようなものだ。
小林に別れを告げた。
小林はデンターノに惚れていて、まだまだ伸びると、専務の指揮するか会社を離れて実家の新潟から山形県酒田市に独立して会社を設立した。会社名は東北デンターノと言う。地元で社員を採用して活動を始めていた。岸専務は山根社長のの跡を引継ぎ社長になり残った営業マン3人で会社を継続していった。機器の発注は岸社長が仕切っているので小林とは取引があることになる。
 
 捨吉はその後、叔父が運営する鴨居にある水道屋の下請け仕事を手伝っていた。神社の水道工事だが、側溝工事もあり、40階段を両手にセメントを入れたバケツを持って階段を半日ほど昇り降りさせられた。日当10000円だ。
ある日、溝の口の住宅街にある一軒家が浄化槽を設定することになりこの仕事を請負でもらった。肉体だけが頼りだ。請負金額は30000円だ。はい、と返事はしたが、いざ穴掘りを始めると初めてだから、中々穴が掘れないのだ。掘り進んでいくと掘りやすい土ばかりではない、頑なにスコップを受け入れない。やっとのおもいで浄化槽が入れる穴ができたが、今度は寸法道理に穴を掘ったはずなのに浄化槽が収まらない。西の空には夕焼けが笑っていた。
仕事がない日は家で油絵を描いていた。絵を描き始めると由恵は部屋が汚れるかどっかに行って、と怒鳴るし我慢するしかない。もう直ぐパートに出かけるからそれまでの辛抱だ。頭の中が迷走している。、
数日すると、今度は一軒家新築の雨水桝の設置の仕事が来た
浄化槽まで深く掘らないが、勾配を付けないと水が道路の桝まで流れないから、穴掘りを進める度に勾配を計測しなければならないのだ。
こんな専門家でも大変な工事を素人のくせに受けてしまうのだ。絵の描ける日があるから、困難でもやり遂げざる負えないのだ。良い仕事の知恵が浮かぶまでダラダラとキャンバスとにらめっこだ。芸術は金とパワーがないと成功しないと思うこの頃だった。
山根社長が亡くなって二月程すぎたころ、酒田の小林から連絡があり、海も近いし、山もある、絵を描くにはいいところだ。デンターノの営業のアルバイトをしながら酒田に遊びがたら来ないか、手間賃は払う、奥さん泣かすわけいかないでしょ。と美味しい誘いを受けて、地獄に仏と言いたいが、もうデンターノはやらないとといった手前おいそれとは返事ができないはずなのだが、小林は他人ではない、友達だから行くしかあるまいとつまらない言い訳を考えて行くことにした。
東北デンターノの二階に飾る100号のえを枠を外して、丸めて、木枠は分解して宅急便で送った。小林が折角描いたのだから、この事務所に飾るというので持参することにしたのだ。小林は俺を営業に呼び込むために痒いところに手をいれてきたのだ。
新潟から北陸本線に乗ると越後平野は雪景色だった。酒田駅に着くと海からの風がうなっていた。
小林が車でむかえ迎えにきてくれ二人は酒田駅のそばにある食堂に入り互いに笑みを浮かべて再会を喜んだ。酒田は駅前だけが数件の食堂、居酒屋があるだけで淋しい町だと定食屋で小林が言う。寝場所は二階にある会社の事務所に隣接する10畳の和室で小林と同室であるという。
車で店を出て県道を走ると道の両脇は除雪された雪でうめられていた。通り過ぎる街路灯が何故か寂しくみえる。
その日は部屋に隣接している風呂につかり、疲れを取ると僅かな歓談で8帖の部屋で寝た。
翌日の朝、器用な小林は簡単な朝食を作ってくれていて、文机で食べ終わると事務所を案内してくれた。
10坪の事務所は二階建ての洒落た洋風木造つくりだ。一階は倉庫、二階は事務所だ。
八時半になると社員がきた。紹介されたのは、地元テレビ局をやめた26歳の伊藤君、40歳のがソロンスタンドに勤めていた三原君、職安から紹介されてきた29歳の妻帯者の斎藤さん、地元農家で造り酒屋を辞めてきた27歳の佐藤君の4人で皆さん地方特有の真面目の塊だ。
小林は捨吉を皆の正面に座らせて(私にとっては大切な友人でこのデンターノの販売には東京では一番実績のある川奈さんです、歳は私と同じ42歳で美人の奥さんがいます、油絵を描くのが趣味で酒田に来たのも山居倉庫とか日和山公園だとか写生をする傍ら、皆さんに同行して歯科医の上手なアポイントの取り方、クロージングの会話の仕方などの師範として酒田に来てもらいました。、長くいてもらいたいのですが東京に用事もあるから一月位滞在します)とかうまいこと言っていた。その日は晴天で三原君の運転でとセールスに出た。
この仕事は歯科医とアポイントが取れるかどうかで勝負は決まる、歯科医は診療中は手をはなせない。その上にデンターノですと言っても門前払いは常識だ。それで見本を見せて指導してもらいたいのが小林の本音だ。歯科医師を先生と思うと怖気つくから友達か、親戚の人と思い込んで飛び込み練習とクロージングを教えてもらいたいとのことだった。
とは言っても特別な術があるわけではないので今までの経験を種に工夫するしかないと思いながら車の助手席に座って三原君のハンドルに任せて山道を走って行った。歯科医師会の名簿を見ながら山形、秋田、新潟、北海道と東北地方の歯科医師を訪ねるのだ。泊りもある。
この日は三原君任せだからどこに行くかも知らない、そのうち歯科医師につくだろうと気軽に車窓から見事な羽黒山系の山並みを観ていた。
昼が近い。(三原君、昼飯、どこか適当な場所あったら車とめよう)と言うと
(この辺りは適当な食堂はないですよ、どこでもいいですか)車は出羽三山の間を走っていた。月山の近くだという。(どこでもいいよ)と返事をすると暫くして車は止まった。山間にあるすき家風の店だ。土塀に囲まれ瓦屋根の入口の暖簾をくぐると玉砂利が目に入ってきた。その先の玄関をくぐると、立派な上り框がある。暫くすると小麦色に朱色の帯をつけた和服の仲居さんが愛想よろしく席を案内してくれた。庭の見える広間に座った捨吉は仲居さんの持ってきたメニューを見てびっくりした。写真を見ると山菜の漬物のオンパレードなのだ。昼飯時間でもそれに炊き込みご飯がつくだけだ。これがこの店を知る人が知る料理らしい。
山間にポツンとある一軒家だが三原君によると有名なお店だという。
捨吉には料理がどうのこうのではないのだ。料理に興味を抱いているわけではないのだ。持ち合わせている金がすくないから、支払いを気にしていたのだ。手持ちの金は15000円ぐらいしかない。小林のところへくれば何とかなるだろうと思っていたからだ。小林は過去にも捨吉に食べ物で金を支払わせてことはない、という実績があるから、エイ、ヤッと気合で酒田にきていたのだ。
会計は8000円程になるように計算をして無事に店をでた。味などすっかり忘れて、塩味だけがのこっていた。
車の中で捨吉は三原君に言った。
(珍しいものありがとうね。俺はね、ハンバーグ定食か、ラーメンでいいからな、普通の定食で十分だ、これからもあることだからよろしくね。俺は堅苦しい事が嫌いでね、ざっくばらんな男だよ)というと、ハンドルを握りながら顔をゆがめていった。
(いや、小林社長の紹介を聞いていて川奈さんは偉い人だと思っていましたから、それなりに店を選んだのですよ)と言って笑い出した。
(えらくも、偉くも何でもないさ、それに会社も小さな会社だ。小林社長とは長い付き合いで気心がしれているから酒田に来たまでさ、仕事は応援するけどね)
(そうなんですか、デンターノで働くのは嫌なのですか)
(そんなことないさ、縛られるのが嫌いなのさ、小林社長みたいに独立して販売に専念出来る性格ではないのさ。彼みたいに年がら年中電話しっぱなしの営業を見ていると疲れるよ)
彼は、機材の発注、金の心配、歯科医との打ち合わせ。工事の段取り、人手の問題、東京本社との競争など、好きな仕事でなけれこなせないほどの頑張り男なのだ。でも彼は捨吉がその気になれば、営業の集中力は自分以上で多彩な攻め方を持っている男だと思っているのだ。捨吉は当時、小林をライバル意識で見ていたから負けるわけにはいかないと日頃から思っていた。まして亡くなった山根社長派を自負していたので当時の岸専務と気脈の通じていた小林に負ける訳にはいかない立場であった。今は、社会の海原を彷徨う様なヨットのようで風任せの捨吉だった。

(川奈さんはデンターノの将来をどうみているのですか、将来性がありますかね)
(ないとは言えないさ、既に2,30件ほど歯科医院にデンターノは採用されている、大学の歯学部にも設置された。問題は歯科医にもっと多く浸透していかないと社会的な認知は貰えないんだ。それまで頑張るということだと思う)
(山根さんは絵が得意なんですね、今度この辺りの景色のいいところを案内しますね)と言ってハンドルを握りなおした。
(俺の行く道は小林社長と同じではないんだよ、本音は好きな絵を描いて生きていきたいけれど大家にでもならないと食っていけないからこの道は諦めている、才能もないしね、だからこうして少しでもデンターノを歯科医院に設置してもらうよう頑張っているのさ)三原君は理解不能なのか怪訝な顔でいた。
三原君曰く、酒田は陸の孤島というのだ。大きな産業がないから若い人間が働く場所が少ないとう、あっても本間ゴルフぐらいだという。捨吉が思うのには東京から来た歯科医院の医療機器を販売する会社と聞いただけで若い人間は優良会社に勤めることが出来たと思っているようだ。
少なくともデンターノにいる青年は真面目で純な人間だ。一郎は彼らに比べると海千山千の世界を綱渡りのように生きてきている。小林も含めて東北デンターノのトップが彼らを指導していく資格はあるのだろうか、と一郎は自問をしていた。(俺が酒田に来たのはデンターノの販売を手助けをしながら報酬をもらい、東北地方をめぐりながら捨てられない油絵を描く魂を活かすことだった。こんな贅沢でレールからはみ出している男が彼らの前で能書きを言う羽目に立った以上、真剣にならざるを得ない。やるだけやつて見よう)と三原君との会話の中で自分を位置付けしていた。
一郎は親友といえども小林の行動について一抹の不安を催事販売の時から持っていた。(この男は才覚のある事は認めるが急ぎすぎるため不安感が付きまとうし、ダメだとわかるとすぐ舟を乗り換えるのに長けている男だ。この酒田の若人も最後に辛い思いをしなければいいのだが)と危惧していた。それだけに一郎の気持ちは早くデンターノの販売方法について彼らに教えていかないと、この酒田の地から東京に戻れないと決心せざるを得ないでいた。それと、このデンターノの普及についても、ぼんやりと一郎は不安を抱えていた。一郎の悪く癖に将来を見すぎて足元をみないのだ。
このデンターノの将来を見据えたとき、技術革新は切っても切り離せないと思う気持ちだ。技術を担当する人材がいない、どう手当てするか予算も考えもないのでデンターノに深くかかわることはないと決めていたのだ。だが、酒田にきてしまったからには小林のデンターノ販売における情熱を信じて、先のことは考えずに動くときめたのである。
寒河江の歯科医院に着いた。

捨吉は三原君に止めてある車の中でアプローチのイロハを話しだした。
パンフレットは郵送するな、訪問した時、見たけど要らないと断る材料にされるからだ。まずは、受付嬢だ。ほとんど先生はアポなしではあってくれない。だから訪問をするのだ。初めから電話でアポをとることは禁止だ。名刺を出すときは臆してはいけない。医師といえど普通の人に名刺をだす気持ちで行くことだ。
(初めまして。東京のデンターノという歯科医院の医療機器をおさめている会社の者ですが、多忙のところ先生に少し話を聞いてもらいたいのですが)と自然に入ればいい。
歯科医の答えは、忙しい、要らない、出入りの業者を通してくれ、というのが常識だから、その時は素直に引き下がり窓口の歯科衛生士に、何時ごろお手すきになられますか、と聞くことだ。教えてくれたら、その時間に再訪だ。一番確実に会えるのが購入してくれた先生の紹介をもらうことだ。アプローチには決め手などない。先方が倒れるまでせめるのだ。根気だよ。
運が良くて会えたならば試しに一度使用してみてくださいと、デモンストレーション用の簡易なデンターノを一週間位使用してもらうことだ。と当たり前の事を伝えた。実際に捨吉も医院に入り実践して見せた。
一通りの社員の指導が終わると、歯科医師会に乗り込み先生たちが集まる日にちを聞き出してはデモンストレーションを仕掛けていった。
業績は厳しい状況であったが、先生の性格にもよるが、デモンストレーションに負けて購入する先生も出て来てくれて、その先生のお陰で販路は広がりつつあった。(
あすこの先生は診療室がクリーンなる機器をを取り付けた)という患者さんの声も大事なことだった。それでも東北デンターノは経営が厳しそうで、先生から入金されると給料に回されるようで小林社長は東京の岸社長と機器の支払いでもめていた。

事務所の入り口の側面に100号の捨吉が持ち込んだ油絵が飾られた。宅急便で分解して運んだ絵だ。
数年前に妻由恵の故郷の八ヶ岳牧場から眺めた八ヶ岳の絵だ。諏訪展覧会で落選した絵だ。哲学がないとか、開催の会長さんが後日教えてくれた絵である。哲学がないということはどうゆうことなのかと、自問するのだが、わからないまま処分も出来ないので分解して保存していたのだ。
当時を振り返ると、完成させたいばかりに力で描いた事を思い出した。人がどう思うとか、何かを伝えたいとかの感性は皆無だった。もしかするとそれらが会長さんが指摘してくれた(哲学がないとい)うことなのかと思ったりしていた。
毎年飛来する最上川に生息していた白鳥が事務所の空を回っていた。別れを惜しむように何回も飛び回っていた。酒田の浜で拾い集めた白い老木の枝を姉に送ろうと段ボールにも詰た。
三ケ月程滞在をした捨吉は酒田に別れを告げて東京の町田の自宅に帰ることにした。小林に世話になるなら自由気ままの行動は許されないからだ。一つや2つの契約には結びついたから、借りはない。

この頃は社員はそれぞれのルートを確立していているから余程のことがない限り同行しないで済むようになっていた
小林社長は釧路、帯秋田と一人の社員を自分の専属にして連れてまわり、それなりの成績を上げていたので一郎と会う機会も無くなり、デンターノは順調に見えてからだ。
留守番は女性佐藤さんだけで間に合うから、小林社長と連絡を取り合い帰ることにした。


【長々とデンターノの生い立ちを書いたが本題はそれではない。小林社長が素直な社員を残して逃げ出したのだ、残された子羊の行方だ】

半年ほどすると再び小林社長から酒田に来てもらいたいと要請があった。理由は帯広の工事が増えて手が回らないと言う事だった。事務所にいて
捨吉は東京に戻ってから再び警備員に戻っていた。今度は室内の警備員だ。電話がきたのはそのころだ。
酒田についたのは夏だった。妻の由恵はどこえ行くのか尋ねてこない。何処へ行ってもお金の種類は変わらないと現実的な暮らしが染みついている。
事務所には三原君と佐藤さんがいた。なんとなく活気がないのだ。小林は相変わらず帯広だと言う、佐藤さんの話だと宿泊費も相当かかっているという。不穏な空気だ。経費をかけて売り上げを伸ばすのは小林の得意技だからだ。
三原君も捨吉に何か話したそうに落ち着かない。佐藤は5時になり帰宅した。
三原君は急に思いつめた結果なのか、話があるのですかと切りだした。
(川奈さんは小林社長の親友ですよね)
(そうだよ、それがどうした)
(実は佐藤さんが言えないので僕に言ってもらいたいというので話すのですが、小林社長から頼まれて佐藤さんの主人の名義で住宅資金を250万円借りて社長に渡しているそうです。すぐ返せるからというので、貸したそうです。社長に催促してもらえないかというのです)
(えっ、噓だろう、なんでだ。契約は順調だと小林から聞いているけど)と捨吉は驚愕して三原君に言った。
(それがですね、経理内容がさっぱり解らないのです。社長は細かく佐藤さんに記録を取らせていないから。250万も運転資金ということで、すぐ返すと言う事だったそうです、給料もいひと月遅れていて皆、心配しているのです)
(わかった、これから、どうなっているのか電話をする)と言った。三原君も連絡が取れるまで事務所に残った。
夜遅くなって連絡が取れた。
電話のやり取りはこうだった。
(佐藤さん名義で250万借りているらしいが。そんなに資金が足りないのか、彼女は返済が実行されていないので心配しているが)
(契約出来ても運転資金が足らなくて、すぐ返せると思ったが出来なくて迷惑かけている。なんとかすると伝えてください)
小林は運転資金をいとも簡単に手に入れていたのだ。酒田の純な社員なら社長からの相談事は無下に出来ないはずだ。一郎にしてみればどんなに苦しくても純な女を巻き添えにすることは許せないのだ。
捨吉は彼の行動パターンに前から不安を持っていた。
(川奈さん、大丈夫ですよ、もう少しで契約がとれますから)と小林はいうけれど一郎は信用出来なかった。
東京の物産会社にいたときも必ず売れると判断して、北海道の珍味を、大量に仕入れて、そのためのショウケースも余分に注文して失敗して、社長から批判をあびて、それがもとで退社している。
事業には
周密果断大胆不敵の戦訓もあるように綿密に作戦を練って、きめたら思い切って突っ込めと言う意味だが彼には突撃精神は申し分無いのだか、成功するまでの経費を湯水の如く使う様に見えるのだ。
小林のデンターノに対する営業力は抜群で彼のノートには歯科医のデータで埋め尽くされている。だが総合的に見ると汚れを知らない社員にまで金を借りさせる事は企業としてはしてはならないと判断せざるをえないのだ。佐藤夫婦から借りた250万円が一郎の信用を無くして、運転資金がどうのこうのということは弁解しかなかったのだ。
捨吉は電話を続けた。
(もう。終わりだな、この会社は潰す、それのほうが皆、新たな目標に向かっていける。それでいいな)
小林は電話の先で沈黙していた。
もしかすると小林は一郎を再度酒田に呼んだのは会社整理のために呼び戻したのではないかと疑った。彼は一郎が会社整理には様々な経験しているのを知っているからだ。小林は250万借りてでも会社継続を考えていたようだが一郎は契約がそう簡単にとれないのを知っているし
(お任せします、会社の印鑑は引き出しに入っています、私はこの足で東京の岸社長のところに戻り策を相談します。また電話入れます、迷惑かけてすいません)と言い残すと電話は切れた。側にいた三原君は呆然としていたが(彼女の250万はどうなるのですかね)と言った。
(心配するな、明日から俺が営業に歩く、その利益で必ず返す) と言うと本人も同行すると言ってくれた。
事務員の佐藤妙子は当時29歳で目のくりっとした美人で心根の優しい女で、捨吉が単身できているので、地産のおかずを持ってきてくれたり、時には休日の時など車で日和山公園とか、白鳥の飛来地など案内してくれていた。
三原君は41歳独身で嫁さんにするなら彼女みたいな女性が良いと、日頃から言っていた。
捨吉と三原君はこのまま佐藤を見殺しにできないのだ。まして小林さんの友人ですね、と言われた以上、己のプライドが許さないのだ。(やってやろうじゃないか、営業力では小林には負けない自信がある。デンターノを売りさばいて250万は必ず佐藤夫婦にもどしてやるぞ)と気合を入れていた。
可愛い佐藤さんの哀しい顔は見たくないし、見せてはいけないと言う使命感は三原君にも伝わっていた。彼も給料なしで一郎とコンビを組む事を申し込んできた。
捨吉は翌日の朝から倒産の手続きを始めた。社会保険の解除、未納家賃。電気、水道、印刷屋等だ。トラブルは無い。三原には家賃の安い、バラックでもいいから直ぐ探せと指示をした。捨吉は自分の店の倒産を経験しているから、その捌きは見事だった。

この事務所を離れて新たな事務所は三原君が探してきた家賃2万円の屋根がトタン葺きで二間のぼろ家だった。その家は佐藤さんの住んでいる家の近くで松林の中にポツンと一軒だけある。5分も歩けば海岸だった。一郎はここに電話を引いて佐藤さんに留守番をお願いした。東北デンターノの残りの社員はじ自主的に退社して行った。ここに引っ越して直ぐに警官がきて一郎に尋問をして来た。怪しい男がこんなところで何をするのか、心配だからだ。この家は外から見ると吉田兼好が好んで住みそうな寂れた家だから不穏に思われてもしかたないとと思った。
三原君と一郎は見込み客名簿を見て信州小布施に行くことにした。この家から3日目には旅立ちだ。車は三原君の車を使いトランクにはデモ用の医療機器を積んで出発をした。佐藤さんは赤ちゃんを連れながらの留守番だ。
小林との連絡はその後もなかった。おそらく東京に出て岸専務と次なる展開を模索してるはずだ。彼は酒田は川奈一郎に潰された。もう少し我慢してくれたら良い数字ができたはずだとこぼしていると思っていた。
二週間ほど経過をして酒田の事務所を閉鎖した。
なぜならば歯科医院の見込み客、紹介客が自然と長野に集中して来て車で酒田に戻るのは経費がかかりすぎるからだった。長野市内にある平屋のトタン葺きだ。三原君も覚悟を決めて長野にとどまることになり、戦意は更に上がっていった。
どぶ板作戦は日の目を見て契約は御代田と小布施で上がり250万円の返済の目途がついて二人は
佐藤さんの喜ぶ姿が浮かんでいた。
一郎は三原君と居酒屋で一杯やって祝杯を上げた。その時の会話は金ではなかった。
(三原君よ、お前さんも男だね、可愛い女を見捨てないでよく頑張ったよ)
(さすがに川奈さんは友人の小林さんも佐藤さんも見捨てなかったですね。これでデンターノとは私は別れるけれど、年賀状は必ず出しますからね)
こうして一郎のデンターノを巡る一齣は終わりを告げた。
二年ほど過ぎて小林から電話がきた。
蒲田駅の近くにマンションを借りて西社長と結婚をして暮らしているという。デンターノは近くのビルの一階を借りて手広く業績を上げていると言う。どうやら酒田から戻った小林は西社長を助けて会社を大きくしたようだ。一郎が事務所を見渡しただけで20名程の社員が遅くまで働いていた。
暫くして一郎は蒲田の事務所を訪ねた。
岸社長は開口一番
(小林から聞いているわよ、酒田の佐藤さんに相当お熱を上げていたみたいね)
(あ、あ優しい女だった)と事の成り行きを深く話す価値もないと、たばこに火をつけた。

外は寒い。マフラーを軽くまいた一郎は駅の改札で切符を買うとポケットに手を入れ足早にホームに消えた。

酒田から戻り次なる仕事を考えないといけないのだがその気ににならないのだ。狭い部屋にこもり、親父の残してくれたレコードを鑑賞していた。明治、昭和の唱歌だ。早春賦、月の砂漠 武田節 等々だ。特に早春賦は春先に酒田の日和山公園に佐藤さんが案内してくれた晴れた日を思い出していた。植え込みの中には有名人の石碑があり、その先には日本海が観える。唱歌の音色は和やかにすごした酒田からの褒美かもしれない。唱歌を薄暗き部屋で新聞を薄ら読みしながら
それは同時に一郎が酒田を離れる最後の日に三原君、佐藤さん、早めに退職をした富田君 伊藤君、たちが駅前の小さな居酒屋で食事をしたあとに、酒田の駅にホームで一郎が乗った列車が消えるまで見送りをしてくれたことなどの思い出のバックミュージックのようだった
 暫くして、また絵を描き始めると毎度の通り由恵は口もきかない。部屋が汚れるとか言うが、本音は金にならない事は止めてくれと言うことだ。そのくせ、以前に二科展に応募作品を運ぶ時、娘と共に60号の絵2品を自宅からつくし野駅までの坂道を運んでくれたこともあるのだ。母子仲良く大きな絵を抱いて坂道を運ぶ姿を後ろから観ている捨吉は(あいつはどこまで行っても俺を憎めないのだな)と小さな感謝をしていた。
作品は見事に落選したが、いい経験をさせてもらった。何を言いたいのか自分でも解らない絵だった。

 新宿のデパートで山岳美術展が開催されている広告を見て鑑賞に行った。その時に知り合いなった山岳美術同好会の50歳位の女性が(今年の秋、この会の会長さんが奥入瀬に写生に行くので参加を希望するなら紹介しますから)言ってくれたので、参加することにした。
会長さんの名前は吉本さんといい63歳ぐらいの男で画歴も豊富と聞いていた。その先生のそばで油絵を勉強できることはときめき以外なかった。その日に打ち合わせをして、同行は捨吉一人だった。一人と言うことは、もしかしたら先生の世話係だなとも思った。

一週間の旅で奥入瀬渓谷だ。吉本先生は捨吉が来る数日前から自家用車できて国民宿舎に滞在していた。
夕方捨吉が国民宿舎にバスで到達して畳部屋に案内されて、一息ついたあと、先生から部屋に電話が入り、夕食を誘ってくれた。
先生は捨吉に気配りしてくれているのか、えびフライ定食でいいかいと言うので、はい、と返事をした。750円だ。ビールなし。先生はビール付だ。
展示会で会長と歓談したときに、捨吉との会話の中に貧乏くさいなにかを感じていたのかもしれない。と我が身を、振り返っていた。
その時の歓談の内容は個展暦なし。展覧会ほぼ無し、スタジオなし、なしなしずくめ、早く言えば俺は素人だと話していたのだ。
持参した絵の用具は、クサカベの絵の具12色。テレピン1.キャンバス10号2など最低量の用具なのだ。
夕食時の話は絵は線で描くのではない、点で描くとのだと教わった。確かに膨らみや暖かさが出るように思えた。絵に関する話題は相手が素人の捨吉だから、興味が沸かないのか、後は先生の金に纏わる儲け話で、日本橋に貸ビルがあるとか、株が上がったの下がっただの捨吉にしてみれば、つまらない話で終始した。
絵描きは金に縛られると感動する絵は描けないとバカ見たいに信じている一郎には時間の浪費以外何でも無かった。この考えは的を得ていない。好きな事をするのは金には関係ない個人の、自由だからだ。そう、わかっていても一郎の絵を描く姿勢は金には縁が無いのが本物だと曲解していた。
それに、僻みもあった。
翌朝は宿舎の階下の倉庫もどきのホールに案内されて吉本先生が描いた100号の絵を見せて貰った。
奥入瀬渓谷の岸辺に栄える雑木と、渓流の絵だ。未完成だか筆のタッチ勢いがあり、枝ぶりも深い。鑑賞のお礼を済ませると先生の車に同乗して奥入瀬に向かった。小一時間で渓谷につきお互いに絵を描く場所を求めてバラバラに行動を開始した。
紅葉には少し早いようだ、中途半端な時に巡りあった。国民宿舎なは予約を取っていたから仕方ない。でも、磐や苔石や倒木の周りをあたかも自分の庭の様に飛び回る水流には眼が吸い込まれて行く様だ。
捨吉はキャンバスを抱えながら絶好の位置を探すため、石をよけ、石を歩き、石を捨て、水を避け水を追いかけ、水に嫌われしながら、ボジションに座った。
イーゼルが落ち着かない、なんとかキャンバスを載せることができると、描きはじめた。
構図が勝負だと言うことは実感しているので素直に描けた。構図が駄目だと途中で飽きるし、手直しするようになるので単純な構図にした。
きつい流れの脇には湿っぽい小道か走り散策する人が歩いていた。夕暮れが近くなり、るし先生と待ち合わせた時間に車に戻り宿舎に帰った。
二人でアジフライ定食を食べなが、話題は絵のこのではなく、昨日と同様、株と貸店舗の金の話はばかりだ。(ああ、それはいいですね。金にはもう心配いりませんね。絵に専念出来て羨ましい 絵描きなるには金も必要ですね)とか、面白くともなんともない話題だ。筆使いとか、ペンディングオイルの特徴とか、聞き出そうとしたが、そんな初歩的な事はまさか聞いて来るとは思ってもいないのか、話題は会長先生の資産運用の話で終始した。
よくよく考えて見れば写生に来ると言うことはそれなりの経験を積んでいるだろうと会長は思っているはずだから、捨吉が知りたい事など質問する方がおかしいのである。
奥入瀬渓谷の写生を現場で完成させる事は無理があった。
絵の具の乾き加減や塗り具合によって思う通りに描けないのだ。
当然と言えばその通りだが、なんとか完成させたい気持ちで奥入瀬に来ていたから己の経験不足を痛く感じていた。
翌日も一人、渓谷の石の傍らに佇んで写生をした。
結局は構図と辺りの光加減と、倒木の息遣いらしきものをキャンバスに記録した様な出来上がりで写生は終えた。
翌日も滞在しようと計画はあったが、会長さんとの夕飯時の会話が億劫になりそうなので、一足先に帰る事にした。
翌朝捨吉は、奥羽本線に乗っていた。東京行きではない。
一年ぶりにデンターノ医療機器いた仲間の佐藤と、三原に会いたかったからだ。
捨吉には酒田の暮らしは思い出深い土地なのだ。
あの警官に不審がられて潜んでいた、海辺の松林にあるボロ屋での生活は今では愛おしく感じるのであった。二間の畳部屋で小さなコタツを、三原と佐藤で250万奪還作戦をねった苦悩のボロ屋だからだ。
佐藤さんは、毎日のように昼のおかずを持って来てくれたり、部屋の掃除をしてくれたり、由恵と疎遠になっているから、女性の親切さは独り善がりではあるが、身体に愛おしさの烙印を押していた。
男が不良で、妻に切られる寸前の男は自然の流れで優しくしてくれる女を愛おしく想うのは当然の成り行きだ。恋心の片道切符だが、それはそれで一郎を、元気にしてくれていた。
列車は奥羽の山間をく練りながら走る。
捨吉は酒田に着いたら二人に電話をしようと思っていたが、ためらっていた。
なぜならは、250万を取り戻して上げた事を自慢しに行くようなものだからだった。
酒田に降りた捨吉は夕方のひと時をスケッチを描いた最上川の石段に座り目の前の山居倉庫を眺めていた。数隻の船が風にゆられていた。
電話するかしないか迷っていたが、綺麗な自分なりの思い出はそっとしておこうと、連絡をするのをやめた。
歌の文句ではあるまいし、昔の流行り歌を口むさんだ。
(かわいいあの娘は汚れを知らぬ、俺がいたのじゃ棘をさす、未練心はさらさら無いが、なぜか、涙が出て止まぬ)の一節だった。
三原も佐藤も富田も皆いいやつだった。彼らの素直な心が壊されそうになり、世間の波間に晒されて汚れのついた俺がこんな事で役に立ったとはお釈迦様でもご存知あるまいと悦にる捨吉だった。
新潟発の新幹線は定刻に上野に着いた。

上巻了
次回予告
雪の北海道を劇団の切符を売りに学校を囘る。
その後運命を決めた宿り木を見つける。

デッキに上ると漆黒の空だった。東京を出たサンフラワーは間もなく苫小牧に着く。遠くに小さな明かりが揺れているようにみえる。あの灯りがこれから始まる出発点だ。
捨吉は奥入瀬か戻ると職探しを始めた。ある日、朝日新聞の就職欄を見ていて劇団の営業マンの募集広告に興味を抱き応募して採用され、冬の北海道の小中学校に劇を見せるための営業にいくためにはサンフラワーに乗船していたのだ。

徳利 童歌(上巻)

転職人生だったが結局は俺の魂が贅沢に出来ていただけだ。神よありがとう。波乱万丈だっだが太陽のようにあちこち観させてもらった。

徳利 童歌(上巻)

東京酒屋の長男として生まれる。脱藩。逃げ出す。 以下、生かされる為転職の連発。 転職リスト上巻(酒屋の小僧、焼き鳥屋 不動産会社 警備員 水道工事 焼肉屋 回転寿司 建築会社 半端ヤクザ 自衛隊 バーテンダー 博打屋 劇団営業 焼き芋屋 夜泣きそば 食品催事屋 新聞配達 レストラン )下巻(托鉢 易占い 絵描き 似顔絵 )回転転職屋の悲喜こもごも、笑いと涙のブロムナード。 転職とは天がくれた夢の杖

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2021-09-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 最後の夏祭り
  2. 流転
  3. 深夜のバーテンダー
  4. 大政、小政で居酒屋大繫盛も
  5. 落ち目の三度笠は誰も見向きもしない
  6. 反省もどこえやら、やくざ屋さんに戻ろうとしたが断られた。
  7. 7
  8. 8