彼女はとてもぎぼ

 だるまさんが転んだは十を数えるためにあるんだよ。彼女がいつか教えてくれたことだ。輪の端っこでみんなを眺めていたぼくにそう声をかけてくれた。その日から彼女がぼくのすべてになった。すべてというのは、すべて投げ出してもいいという意味。
 ノックを二回すると細くドアが開いて、その隙間から顔が覗く。「どうぞ」釣られて入った先にある急な階段を、いたずらに駆け上がる彼女の膨らんだスカートに置いていかれないように登っていく。ちょうど十段。いつも心の中でだるまさんが転んだと唱える。
 突き当りのドアを開けると花束のようなにおいがして、そこはぼくが思う女の子の部屋そのものだった。非日常さは何度来ても慣れず目のやり場に困る。なにを見ていても勘繰られてしまう気がして。たったひとつ、オルガンの上には浮かれたぼくを現実に戻してくれる銀色のだるまが置かれていた。洋風で揃えた家具の中で異質な存在感を放つ和に、気づいてはいたけど未だ触れられずにいる。聞いてしまえば、ぼくたちの関係が終わってしまうような気がして。
 出されたクッキーを食べて、他愛もない会話をした。十一時にご飯を食べると負けた気がする、みたいなこと。たったそれだけのことでぼくらはずっと並んでいられた。お寺の鐘が鳴ると彼女は玄関先までぼくを送ってくれた。
 彼女の家で会うのは月に一回程度だった。にも関わらずぼくは、ぼくの知らない彼女のことを考えたことがなかった。意識したのはだるまに両目が入っていた時。ひと月ぶりに嗅ぐ花の匂いが変わっている。願いが叶ったのだ。その願いが、なんなのか知りたかった。
「最近なにかいいことあった」遠回しに聞くと、彼女は首をひねった。鉛筆を回そうとしてその大半を落としていた。拾うたびに長い髪が揺れて、後付けの石鹸の匂いが部屋の匂いに混じった。体育の後教室。
「ふわっふわのな、甘い、卵の食べてん」今度はぼくが首をひねる番。
「なあにそれ」「よう知らんけど、ホットケーキ言うらしいわ」
 ぼくは、彼女が身振り手振り伝えようとするそのふわふわな甘いものを想像した。シャボン玉のようなものだろうか。飛んだり跳ねたりするのだろうか。
「食べたことないん」「うん」
 そのあとも彼女はホットケーキの話をし続けた。同じ卵で出来ているのに、目玉焼きとは全然違うなんて言って。彼女がこんなに意気揚々と話しているのを見るのははじめてだった。甘いものに目がないことは知っていたけど、それにしても頬が赤い。銀のだるまと両目が合う。ぼくはこれ以上の追求をやめた。そうしていつも通り、陽が完全に落ちる前に家に帰った。家に向かう最中に彼女の溌溂とした顔を脳に刻み込んだ。
 すぐに部屋に入ってその余韻に浸ろうとするぼくを、その日は母の声が止めた。
「今日はリカちゃんといたのかい」
 ついさっきまで一緒にいたのに、母のその剣幕からぼくはいいえと言ってしまった。言いながら、この嘘はのちに後悔することになるような気がしていた。
 母はぼくに黒い服を着るように言った。青いズボンの気分だったのにそんなのお構いなしだった。
「顔を見せておいで。落ち込んでいると思うから。なんて言えばいいかわかる?」そうしてぼくに封筒を握らす。どうして彼女の名前が出るのかわからなかった。
「あんな小さい子遺して、これからどうしていくんだろうね」
 さっきの道を反対に駆け抜ける。心臓の音が合図。夜に見上げる彼女の家は、昼間と違う建物みたい。花束の匂いは線香にかき消されていた。お揃いの黒い服の大人たちの間に、揺れ動く金色の髪が見えた。
「ケンジくん、また来たん」ぼくの名前だ。彼女に呼ばれるためにつけられた。彼女は変わらない様子だった。それは蛙を十匹捕まえた時や、新しい人形を買ってもらったことを話す時と全く同じ、澄ましていて凛とした顔。卵のお菓子(名前はわすれてしまった)の話をしていた時よりは、落ち着いた顔。
「だいじょうぶなの」大人たちから引き剥がし、小声で尋ねる。しばらくなにも言わない時間が流れた。「ぎぼだから」気っ風のいい声。ぼくにはその言葉の意味がわからなかった。想像するしかなかった。お母さんに会えなくなる。自然と涙が込み上げてきた。悲しいの、もっと上の悲しみ。
 彼女はいま、とてもぎぼ。
 咄嗟に抱きしめていた。やわらかい肌が首元に当たった。そうしてすぐに突き放され、平手打ちに遭った。しくじった、思った時にはもう遅かった。彼女がものすごい形相でこっちを見ていた。その目は許さないと伝えていた。制御ができなかった。目の前の守りたいものを抱きしめておかないことが、ぼくには。
「トイレ」後ろ姿を追えずひとりになったぼくは受付で預かった封筒を渡してお辞儀をする。このたびはごしゅうしょうさまでした。言えた。出て行こうとすると、彼女がまたぼくの名前を読んだ。もうカラッとした表情だった。
「来月引っ越すことになったんよ。うんと遠く、きっともう、ケンジくんとは会えないところ」

 黒い服のまま居間に突っ伏す。頭の中ではスライドショーのようにいつかの彼女が流れる。はじめて声をかけてくれた日、重ねた逢瀬、卵のお菓子について語る高揚した顔、ぼくを非難する目。
 外で人の声がして、すりガラスごしに灯が見えた。ソーっと窓を開けるとさっきの黒い服の人たちの列が家の前の道の遠くに見えた。中に金髪が見える。大きく引き伸ばされた写真を胸前で持っていた。遠くを見て、心ここに在らずといった感じ。考えているのはホットケーキのことだろうか(思い出した!)。
「野辺送りだよ」母は言った。先を照らす高灯籠の明かりがうつらうつらして、あの一角だけ浮世離れしている。あの黒服の集団はきっと、そのままどこか違う世界へ行ってしまう。
 ぼくは案じた。見つかればぼくも仲間だと思われて、別世界に連れて行かれてしまうかもしれない。エプロン姿の母。ぼくもぎぼになる?瞬時にしゃがむ。世界中で一番小さくて静かな生き物になる。黒い服を脱ごうにもボタンがほつれた糸に引っかかってなかなか取れない。
 近づいてくる。音が聞こえる。母は目を閉じていた。ぼくは息を止める。どれくらい止めたらいいのだろう。心の中で唱える。だるまさんが転んだ。

彼女はとてもぎぼ

最後まで読んでくれてありがとうございました。

彼女はとてもぎぼ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-09

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