故郷の南

未央

     1

 僕が生まれたのは世紀末だった。もし、もう十年あるいは二十年早く生まれていたらどうだったろうか。七〇年代にはすでに世紀末を感じていたのだろうか。当時の写真や雑誌、あるいはテレビやラジオなどを調べてみても、その当時の世の中の空気感まではわからない。そういうムードが高まっていたのか、微塵も感じさせなかったのか、メディアが仕掛け始めていたのか、断片的な情報でしかわからない。それは悲しみ。
 しかし、世紀末に生まれたから、世紀末を肌で感じることができたのである。次の世紀に、例えば二〇〇三年に生まれていたら、二〇九〇年代まで世紀末は来ない。それまで生きられる保証もない。それを幸運だと感じるか不幸だと感じるか何も感じないか、どんな人間になるかは僕がその時代に生まれなかったのでわからない。その時代に生まれた別の誰かは僕ではなく別の誰かなので、感じ方を推し量ることはできない。
 西暦など人間が勝手に決めただけの数字で、たまたま僕が生まれたのが一九九一年だっただけだ。西暦を定めたときに、今日が西暦一年の一月一日だとすればまた違う数字になっていただけのこと。西暦が定まったのは、五二五年らしく、それまでの西暦一年から西暦五二四年は概念でしかないらしいが、そこにも本当は世紀末が五回あったはずだ。しかし、西暦がなかったのだからそんなこと考えにものぼらない。まだまだ太陽が地球の周りを回っていた時代なのだ。
 そして重要なのはたまたまその年に生まれてしまったということだ。九一六年でもなく一九八四年でもなく一六〇〇〇年でもなく、一九九一年だった。しかたのないことだ。自分ではどうしようもないことだ。もう少し早く生まれていれば……、遅く生まれていれば……。そんなことは、この時代に生まれたから感じてしまうのだ。
 一九九一年というのは、きっと未来だったはずだ。ずっと昔には。ニュートンには想像もつかなかった時代だ。人類が引力に逆らって月にとっくの昔に到達していた時代になろうとは。生まれたときすでに人類は月に到達していて、そのくせ荒唐無稽な予言が世間を賑わす時代になっていた時代が来ようとは。昔のSF作家が想像した核の戦争は起きずに、ベトナムでも湾岸でもキューバでも核は落ちなかった。残念ながら。
 世紀末はまだ世界をよく知らない無垢な子供時代に訪れてしまう。知っている世界など小学校の中だけだった。一クラス四〇人の牢獄。毎日同じ人間と顔を合わせ、右に習えを強要する。枠線の中に収めようとする。少しでもずれたら大気圏に突入できずにはじかれてしまうのように。はじかれずにうまく馴染んでしまう子どもたちは資本主義の奴隷に育っていく。日本人は島国に閉じこもっているから心が狭いのだ。そう思っていた。集団からはみ出すものを排斥する。不良品だとサ。大人の言うことを正しく聞く善良な子供が善良な人間なのだろうか。まさか二〇世紀も終盤になってこんな教育を続けていたとは残念でならない。大人たちは大人が決めた大人にとって都合の良い世界に子どもたちを馴染ませようとした。管理された人生を送るようで、昔のSF作家が想像した未来に少しでも似ていることが少しだけ救いなのかもしれない。そういう作品からなんの教訓も得られていない救いがたい人間たち。
 でも子供はその世界しか知らないから、それが奇妙とは思わない。その世界でしか育っていない大人も奇妙とは思わない。知らない方が幸せなこともある。そんな大人になってしまえたら良かったのかもしれない。
 新しいクラスはいつも四月から始まってしまうので四月は嫌いだった。不安だった。海の向こうでは九月から新しい学年が始まる世界があるらしい。そんなことは知らない方が良かったのだ。嫉妬してしまうから。桜の花と春の陽気とが不安をかき立てる。ようやく馴染んできた気がする四〇人の牢獄から見知らぬ四〇人の牢獄へ移される。強制的に。怖かった。三月までは同じ空間で少しでも声を交わしたことのある誰かが、見知らぬ誰かと声を交わして僕なんかのことなど忘れてしまうのだ。結局その場限りの一時的な関係。また好奇の目。見知らぬ目。見知っていた誰かが見知らぬ誰かと見知っていた嫉妬にも似た感情。
 なにかを一から始めようとする、期待感と高揚感があるらしい四月の空気が嫌だった。どうして新しく何かをスタートしなくてはならないのだ。新しいもの、次の段階、そんなものを求める向上心が、どうせそんなものは期待したとおりにうまく行くはずもないとわかってしまうから、気持ち悪い。期待させるだけさせておいていつもめちゃくちゃに壊されてしまう。せっかく作った砂の城はいとも簡単に踏み潰されてしまう。ようやく手に入れた貴重な本はすぐに燃やされてしまう。僕はそういった強大な力を打ち倒す力を手に入れることはできなかった。世間知らずの天才が、自ら編み出したと思った解法は二〇〇〇年前に古代ギリシャですでに発見されていた。なんて馬鹿げた話。そんなことは本を読めばすぐにわかることだった。しかし本を手に入れられないなら、たどり着くのは困難なはずだ。しかし、たどり着くまでの過程で手に入れるものがあって、結果だけが全てではない。むしろ結果になんて興味がなかった。意味がなかった。せっかく努力して作り上げた作品も、ほんの一瞥の後、すぐに関心を失われてしまうのだから。図工の授業で描いた絵も工作も。子どもが説明しようとしているのに、聴いているフリをしているだけで、耳を傾けようとしないで、洗濯物をたたむ父。食器を洗う母。子育てをする親はどこにもいない。そうやって育った子どもは、自分のなしたことの説明をする能力を身に着けずに大人になる。そもそも何かを説明していい人間か、そんな存在する必要のない判断をしなければならなくなってしまう。そして説明するのも苦手になり、相手に飽きられないように早口で短く話すことしかできなくなった。一瞥してくれたその瞬間にしか人間は僕の言葉を聞いてくれたりはしないのだと勘違いしてしまう子どもなのだから。
 一瞥してくれるかすらもわからない新しい他人に出くわしてしまうのが四月。
 新しい環境では世の中が変わると期待しているのか人類。無駄な期待にあふれるのが耐え難く四月は嫌いだった。

     2

 冷夏だった。暖冬だった。猛暑だった。豪雨だった。地震も起きた。世紀末らしくなってきた、ように思うが、世紀末など関係なく天変地異は起こる。人間はそれに耐えて生活できるようにできている。冷夏のまま氷河期が訪れてしまえばいいのに。それでもきっと生活は続く。
 暑かろうが寒かろうが夏はやってくる。六月。段々と不安が募る月。うるさい蝉の声。強い日差し。火照った肌は不快だった。そんな予感が恐ろしく、しかも水泳の授業が始まる。そんなつもりの六月。
 憂鬱でしかたがなかった。どうして水泳の授業などしないといけないのだろう。海になど近づかないのに。川には死ぬために落ちるのだし。
 水の中に入ることがそもそも気持ち悪かった。消毒された水は気持ち悪かった。醜い身体を見られることが恥ずかしかった。きれいとは言えないへそや太ももの大きなほくろが恥ずかしくて水泳の授業が嫌だった人々は多くいるはずだ。泳げるとか泳げないとかそういう問題ではなく、自分の身体を笑われるのが怖いと思う。そんな生徒は大勢いたのに、水泳の授業を強要する。休むと補講があって結局入らないといけないハメになる。大怪我でもしてしまえばよかった。骨を折ってギプスを巻きつけて見学している人が羨ましかった。連日の大雨で、地震で、授業がなくなってしまえばいいと思った。夏が来るだけで憂鬱になってしまう。一年にはたった十二ヶ月しかないというのに、六月から七月にかけてをうんざりすごすことになる。大人の言い分もあるだろうが、子供の感情だってある。そして、その恥ずかしいと思う感情こそが子どもなのだ、とどこかで思ってなおさら恥ずかしさを感じた。
 そして夏が終わる。
 夏が終わってしまう寂しさを歌った歌に僕は泣きそうになってしまう。どうしてだろう。あんなに早く終わってほしいと強く願った夏が終わることは嬉しいはずなのに。寂しさなんて感じないはずなのに。うんざりした潮の匂いも波の音も、夏が去って誰もいなくなった砂浜では違う世界に見える。自分を苦しめた強い日差しや蝉の声からの解放を、喪失感と勘違いしているのだろう。ついこのあいだまであったはずのものがなくなることに戸惑ってしまう。冥王星のように。
 数百年後には冥王星の存在は忘れられて、一般教養ではなくなり、調べてみて初めてその存在を知るようになるのかもしれない。太陽系の第九惑星がその昔あって、冥王星と呼ばれていたらしい、と。うそやろ、そんなわけないやろ。と、雑談の種になってしまう可能性がある。夏が終わっていつの間にか長袖の毎日になると、冬への期待で夏が終わる寂しさは消え失せてしまう。
 冥王星が忘れられないためには、なにか大きな事件が起きればいい。衛星で植物が見つかったとか、小惑星の衝突で軌道が変わって木星に吸い込まれたとか。変わった軌道が宇宙の新しい法則を人類に気づかせるとか。新しいと思っているのは人類だけで、宇宙ができたときから法則はあったはずだけれど。観測技術が進歩すれば、いまだ観測されていない理論上の素粒子たちを観ることができ、知らなかった法則に気づき、新しい時代が来る。
 そうやって夏の思い出を作ることは僕にはできなかったみたいで、今まで見えなかったものを見えるようになるまでに大人にはなれていなかったのだ。そうなれなかったことが、正体不明の不安が、寂しさの正体かもしれない。
 だからといって九月が好きなわけもなく。四月に次いで、二番目に嫌いな月だった。もちろん二学期が始まるからであったり、運動会があったりするからだ。毎年九月はそのための練習に費やされた。人間が勝手に九月と名付けただけの時間に、人間が勝手に定着させた行事を組み込むことで、九月とはそういうものだと思わせてしまう。そうじゃなければ九月に悪感情を抱くこともなかったのに。やりたくもない運動会などという大人たちの自己満足のための行事に駆り出されて、九月が近づくたびに死にたくなってしまう。それとも、そんな行事を楽しみにしている生徒がいるのか? 自分が頑張っている姿を親に見せるためか? そういう戦略か? 子供の姿をみて喜ぶ親と親を喜ばせるための子供。そんなもの、お芝居です。うまくお芝居をやれる子どもになどなりたくない。
 リレーだ騎馬戦だ玉入れだと、何組がリード、何組が優勝だと、いつまで経っても争うことをやめない人類。他人と競わせて、競争社会を教え込ませて、資本主義の奴隷に仕立て上げる行為。僕は運動が苦手な子どもだった、とは思わない。得意ではないかもしれないが。体育の成績が悪かったのは、自分が体を動かしている姿を他人に見られるのが怖かったからだ。水泳の授業で身体を見られる恐怖と同じだ。誰も見てなどいないというのに、滑稽な動きを笑われると思っているのだ。滑稽でしょう?
 大規模な戦争はなかなかしなくなったのに、スポーツで争うのは良いのか。これがわからない。サッカーのワールドカップで国交が断絶したこともあったのに。まだ争う。経済のため? 人類のため? 誇りのため? 国のため? 自分のため? 栄光は、勝利は、誰かを救うかもしれない。けれど、その裏には敗北があって、挫折があって、苦しみもある。軍事力で支配、侵略するわけではないかもしれないけれど、騙されない。軍事力でなくても、人間には争う心があるということだ。勝つことで優越感を覚えるはずだ。負けることで、自分を、他人を呪うこともある。「戦争反対」だ、「世界平和」だと善人みたいな言葉を吐きながら、他人を傷つけ傷つけられる可能性を秘めているスポーツをやめようともしない。ただの娯楽かもしれない側面もあるけれど、危うい側面もあるとわかっているはずなのにやめない人間のそういうところは恐い。人間に向上心がある限り争いは避けられないのか。
 このように理屈をつけてしまうのは、運動が嫌いな子どもだっただけか?
 よく考えてみて、おそらくチームで争うのが嫌いなのだと僕は思うようになった。個人、あるいは団体戦ではあるが個人戦に近い競技ならそれなりに好きだと思った。サッカーや野球は十一人対十一人、九人対九人で、そういうチームで争う競技では、エースプレイヤーがいたりする。反面、誰かミスを犯すものもいる。そしてそれをフォローすることもある。僕は自分が活躍することも足を引っ張ることも嫌だった。個人の競技なら全部自分の責任になってしまう。他人のミスで敗退は受け入れがたいときもあるだろうが、個人競技なら、自分のミスなら仕方がない。誰かが活躍することで活躍できなかった誰かが惨めな思いをすることもある。僕にはそういう感情がある。そうじゃない人もおそらくいるのだろうが。
 個人競技は自分との戦いという側面も強くあってそこが好きなのかもしれない。そして、できたら一対一じゃなく、全員同時に争うタイプの競技の方が性に合っているのだろう。例えばマラソンでは全員が同時に走る。一対一対一対一対……と同じ条件で争える。チームスポーツはたいてい一チーム対一チームで、AとBが今日試合をして、次の日にAとCが試合をするなら、今日と明日でピッチの状態は違う。気温も違うし選手は一日老いている。誰かが腹痛で選手交代かもしれない。今日AとCが試合をした場合と結果は違う可能性がある。そういうところに納得がいかない。スポーツでなくとも将棋などのように一人対一人の勝負なら、完全に納得はいかないまでも、なんとか受け入れることはできる。体調管理は全部自分の責任だし、それで他人に迷惑をかけることもない。全部自分に返ってくる。いつでもその時の全力を出せるようにすればいい自分との勝負という側面は絶対ある。チームだと、連携がうまく行かなかったのは相手の責任だった場合に、自分は何も悪くなかったのにという思いが燻りはしないのかと思わないではいられない。一つのチームが完璧に一体として、ひとつの肉体のように機能することが理想なのかもしれないが、そんなことは不可能だと思ってしまう僕には向いてないだけ。他人と協調する心がわからないからだろう。

     3

 秋は再生の季節。夏に殺された精神が再び形を取り戻す。そのはずだ。いつでも心が穏やかでいられる唯一の季節のはずだ。ラジオの電波に包まれて微睡んだ季節。
 朝起きたら家の人たちは誰もいなくて、北海道へ遊びに行っていた。母親と父親と長男と三男。次男は留守番をするために存在している。なにか別の用事があったのかもしれない。行きたくないと言ったかもしれない。でも、その日にどこに行くかなど僕は知らなかった。どうして何も言わないのだろうせめてどこに行くか書き置きぐらいなんて思わなかった。それが僕の役割なのだから。同じ家にいるのに一人だけ除け者にして、家族旅行に出かける。家族ではないから旅行にはいけないのだ。旅行そのものをキャンセルするか、書き置きぐらいしていくのが常識だろうきっと。それも通用しないなら、幽霊かなにかなのだ。存在していない。再生はかなわない。
 たまたまそういうふうに生まれてしまったのだ。運が悪かったのだ。木星に衝突して地球規模の直径の衝突痕を作ったシューメーカー・レヴィ第九彗星のように。そして観測されてしまった。世紀末に。
 SL9がもたらした生命が木星で繁殖して、やがて木星人に地球が襲われる未来に生まれてしまいたかった。そこではもはや西暦などという概念もないかもしれない。水泳の授業もなく月の海で泳いでいるかもしれない。手が届かないから憧れるし、手が届かないから絶望する。
 肌を刺し殺す夏の日差しとは違う、秋晴れの空から降り注ぐ黄金の光に、木々は葉を色づかせ、実を成し、秋がそこにある。揺れる稲穂は泥臭い春の水田とは違う。徐々に冷気を身に纏った風が落ち葉を運んでいく。そこにいたい。甘い芳香を放つ植物に囲まれて穏やかな心を取り戻す、偉大な季節。太陽と地球の距離が徐々に離れることを日に日に実感する。長くなる夜に、微睡んだ、あの幸福はどこへ行った。
 秋がこんなに無色になったのはいつからだろう。
 薄暗い部屋で、隙間風の声を聞きながら、何度手首を切る妄想をしたか覚えているか。
 右手に持った鋼鉄のペンで、左の手首を突き刺した。古い傷跡の隣に孔を開けた。ナイフで指と指の間に切れ目を入れて、夕立の後の空に見たアダムスキーの乗組員に擬態する夢を見る。意識を取り戻し、固まった血を丁寧に剥がす。滲み出す黒い血液。きれいに切らないと、組織の潰れたギザギザの傷口は痒みを伴う。白い肌の中に、傷口の付近だけ赤く熱を帯びる。縫い合わせなくても、やがて傷口は再生しようと動き出す。どこからか運ばれた血液が、血漿成分が、出血を止め、破れた血管を修復し、新たな皮膚を作り始める。薄桃色の新たな皮膚は、命だ。意思とは無関係に再生する命。あるいは命の唯一の意思。生に向かう力。僕たちはいまだにそれすら操れないでいる。
 そう思っていたのに。
 時代は変わる。二十一世紀になってしまう。もう後戻りのできない時代はすぐそこまで来てしまっている。
 遺伝子をいじれば細胞を死に向かわせることができる。幹細胞が新たな臓器を作る。やがて記憶を変え、作り、秋に色を取り戻し、空間も時間も支配する時代が来る。そんなものはあっという間だ。次の世紀末までにできなくとも。
 色をなくした秋をいつまでもそのまま、色のないままにしていてほしいと願う僕の心までも、操れる日が来ようとも、秋は秋のままであってほしい。
 何度も突き刺した幻覚のペンを右手に握りしめて、秋を生き延びた。

     4

 冬は美しすぎて、このまま永久に冬であってほしいと僕は願った。
 地球と太陽の距離が夏に比べて少し遠いだけで、こんなにも変わってしまう。遠く極地ではほとんど日の昇らない暗黒の冬が来る。地球が二十三・四度傾いていなければこうはならなかった。北回帰線も南回帰線も違う場所にあった。地球が傾いているおかげで、南半球では、夏至が冬に、冬至が夏に訪れる。文明が北半球に偏っていたからこんなちぐはぐな現象が起こった。新たな言葉もあるらしいが、夏至という言葉はそのまま残ってしまった。冬なのにsummer solsticeと言う。変わらないものは変わらない。
 よく考えれば、どうして冬が好きなのか、考えたこともなかった。そして、それを説明することは困難なことだった。思考の言語化は僕にとっては(あるいは他の人にとっても)困難で、だから僕たちはこうしてがむしゃらに文字を紡いでいくのか。
 決して幼い頃の美しい思い出があるわけでもない(と思っている)のに。他の季節がつらすぎて相対的に冬が好きなのか。水泳の授業で肌を見られるのが恐怖だった人には肌を隠す冬の服の方が平常心でいられるからだろうか。言い訳のような理由を探しても答えなんてない。冬になればわかる。
 知れば知る。知らなければ知りようもない。
 それが生きるということだ。

     5

 一番最初の記憶は、三歳ぐらいのときのものだ。キャンプに行って、そこで転んで怪我をした。その写真が家に飾ってあった。電子レンジの台の上。誰かが語って聞かせる。誰かに語って聞かせる。何度も繰り返し見た写真。何度も繰り返し聞いた話。いつしか写真の中の人物を自分だと錯覚し、そんな出来事が実際にあったと錯覚し、一番最初の記憶だと錯覚していた。本当にその記憶は自分の記憶か?
 疑え。
 写真の中の人物が見ている景色を本当に自分は見たのか? 同じ空気を吸ったのか? 流した血は自分のものだったか? 三歳児の顔が成長して今の自分の顔になると想像はできない。面影が残っているからといって、本物とは限らない。
 そんな記憶には騙されない。
 四歳か五歳のとき、家のリビングのドアのガラスを割って怪我をした。左手の手首にはその時縫ったあとが残っている。これは言い逃れできない。左手に残っているのだから。消えずに残るそれを幻覚だと言うのは無理がある。幻覚の傷跡を創造するほどには未だ至れずにいる。
 ガラスを割った時の記憶はある気がする。しかし血を流した記憶はない。痛みで泣いていたのかも憶えていない。病院まで運ばれたのも憶えていない。途切れた記憶の、次がわからない。しかしそんなもの普通は憶えてなどいないのだ。衝撃の大きな出来事の前後なんて。混乱して当然なのだ。貿易センタービルに飛行機が突っ込んだ映像を見たのが朝なのか夜なのかもわからない。平日で朝起きたらテレビで映像が流れていた。その後学校に行った。気がする。平日かどうかも知らない。子どもの記憶はその程度だったのだろう。だから本当の出来事か不安になる。夢で見た景色に何度も出会って、夢で何度も行ったのか、現実で行った記憶が夢に出てきたのか。そのどちらもかどちらでもないのか。夢で見た気がする記憶の中の映像を勝手に作り出しているのか。初めて見たのに既視感を覚えるのは。
 泣かなくて偉かったと大人は言う。おとなしく手術を受けたらしい。痛みや恐怖で暴れることもなかったのか。麻酔のせいを子どもに言い聞かすための方便か。麻酔のせいで憶えていないのか。縫った後にカーゼや包帯を巻いてもらっている時の記憶もない。あるはずはない。そんな光景を丁寧に描写している小説はあまりにフィクションだと思った。子供の頃の感覚を思い出して想像して書くことはできるけど、実際に子供の記憶や意識がそんなに細かいところまで届くとはよほどのこと。幼い子どもの時分の、回想としての描写は逆にリアリズムを欠く。ありえない。今度の007は宇宙に行くとポスターで謳っているのと同じ世界。宇宙にまで敵を追っていくなんてスパイも大変だなとしみじみ思う映画ではなく、娯楽としての映画である。だから子どもの頃の記憶はフィクションを盛り上げるための演出に過ぎない。
 そう思え。
 どこまでが本当かわからないなら、全部本当にしてしまえばいい。全部ウソにしてしまえばいい。誰にもわからない。楽しかった悲しかった嬉しかった苦しかった痛かった傷ついた記憶は、その感覚だけが残る。具体的なエピソードなど、フィクションじゃない限り正確に写し取ることはできない。子供時代の記述と、大人になってからの回想が一致しないほうがリアルなのかもしれない。痛かったことはより痛く、嬉しかったことはより嬉しく、思い出したいものだ。
 感覚は覚えている。正確な程度ではないかもしれないけれど。
 同じ本を読んでも初めての感動ほどは感動しない。より感動するかもしれない。違う感じ方をするかもしれない。でも、初めて読んだときに感動したことは覚えている。「憶えて」いるのではない。
 感覚も記憶と同じように偽りだすかもしれない。今はまだわからない。今はわからなくても、明日にはわかるかもしれない。

     6

 中学生になった僕は、相変わらず、暗い少年だった。
 部活のみんなと帰っても、自分だけは自転車通学だったことが疎外感を与えた。同じ小学校なのに。道路一本隔てた地区だから、それだけで。徒歩通学より自分は優れた(?)立場にいたはずなのに、劣等感を覚える僕だった。
 自転車の後ろの荷台にかばんをゴム紐でくくりつけるのも、最初は苦手だった。僕はまだサイズの大きいだぼだぼの制服に着られていた。かばんの中にはきれいな教科書たちとお弁当がいる。頑張ってくくりつけたはずなのに、途中で紐が外れてかばんを落としてしまう。赤信号で停まった車に見られていて恥ずかしかった。近視で、他人の顔など見えないはずなのに、停まった車からの視線を感じていた。風もなく、時間が止まったようだった。動くものは自分以外にない。自分だけが止まった時の中で動いているようだった。一人だけ動いている僕をみんなが眺めていた。セリフも話の展開も知らずに舞台の上に放り出された。観客が心配そうに見守る反面、面白がってもいる。そんな単純なこともできない自分に嫌気がした。そして、それを恥ずかしいと思う心が悲しかった。なんともない顔をして、やれやれとテキパキとかばんをくくり直せばよかった。そんな人間になるには僕は幼すぎた。まだまだ子どもだった。
 何を恐れているのだ。
 不安神経症だとか強迫神経症だとか、簡単に人々は言う……そんな世の中ではない。そんな言葉を知っていても、特にこの国の人間には偏見がある。二十一世紀になっても脱却できないまま。それはこの国の人間の精神に染み付いた呪いのようなもの。いまだに呪いのことを信じている。そんなことはないと言う人はいるだろうけれど。無根拠な物事を口では否定しても信じているだろう。A型の人は几帳面な性格だ? 今日の牡羊座の運勢は? お盆に死者が帰ってくる? ベクトルは違えど大なり小なりそんなことを信じている。信じていないと口にするが、「4」番のない駐車場はどういうわけだ。なんとなく? 縁起が悪い? それが呪いだ。人々の魂にこびりついている。
 信じるべきものを見誤っていないか? 挙げ句には地下鉄にサリンがばらまかれる。そして人々はそんな事を忘れる。冥王星が忘れられるのとどちらが早いだろうか。呪いは覚えていても、出来事は簡単に風化する。時代が変わって、調べればわかることは調べなければわからないことになる。憶えていなくていいものが増えていく。今どき、インターネットに全部書いてある。忘れてなどいないと言いに来たあなたは、さっき電車で隣に座っていた人間に殺されるかもしれないなどと思ったか? そんなバカな。
 百年後にも日本人は恵方巻きを食べているだろう。神戸の地震の記憶も記録の中だけになる。たぶんそれでいいのだ。
 中学に三年も通うと、自転車にかばんをくくらなくなる。前のかごに入れる。あるいは背負う。中身はそれなりにぐちゃぐちゃ。大きく成長したものだ。初々しかった一年生はどこに行ったのだ。ある程度、他人の目を気にしなくなれたのだろうか。ただ同じ環境に慣れただけで、違う環境に行けば他人の視線を感じるはずだ。呪いなのだから。

     7

 タツミというのが彼女の名前だった。彼女は同じ部活の女で、僕にとってはたぶん初恋だった。恋だと当時は思っていなかったかもしれないが。彼女はどう思っていただろう……。
 僕らの町は東を川に、西を山に挟まれた、瀬戸内海に面した小さな町で、海沿いには工場が立ち並んでいた。
 僕たちは部活が終わると、いつも同じ顔ぶれで帰っていた。そこにタツミがいるのが不思議な気がした。おとなしい女の子だった。笑った顔など見たこともない、冷たい印象を与える少女だった。後輩からも怖がられていた。何を考えているのかわからなかった。少なくとも僕には。その一方で、その集団に僕自身がいることが不思議だった。部活の仲間、たしかにそういったつながりはあるけれど、僕には居心地が悪かった。いつもではないけれど、そういう思いを感じていた。自分がいる場所ではないと感じていても、一匹狼にもなれず、臆病だった。一人でいることは怖い。他人の視線が気になるから。みんなが笑っているから。他人といても、その中で自分は自分の役割を演じられているか不安だった。彼女なら一人でいても平気そうだった。孤高の存在の方が似合っているように思えた。僕とは反対だと思った。金星が地球とは逆方向に自転しているように。僕たちは集団の中で不釣り合いな存在同士だったけれど、方向が逆だからバランスは取れていたのかもしれない。
 同じ場所にいても、二人で会話をすることはほとんどなかった。誰かの話に賛同して言葉をかわしても、直接彼女と話すことはない。お互いに不思議な存在だったはずだ。クールな彼女は僕のことをどう思っているだろうと考える日もあった。彼女の視線が気になってもそれは気のせいだった。僕のことを見ていたことなどなかった。今思い返せばそれが恋だった。誰も見てなどいないのに、誰かに見られていると思っていた僕を、彼女は、見ていないと信じられたということは。それは一種の安らぎだと今ならば思える。
 休みの日にはみんなでカラオケに行ったりもした。カラオケに行っても彼女が歌うことはなかった。誰かが歌っている横で口ずさんでいるだけだ。誰がどんな音楽を聴くのかなんて、中学生の僕には興味がなかった。自分はこんな音楽を知っているんだぞと勝手に自分一人で悦に入っていた。海の向こうから届くラジオの電波は僕に音楽を教えてくれた。海の南、見知らぬ土地。未知の世界から電波は届く。
 それは夏のことだった。大嫌いな夏。河川敷で、みんなで花火をした。きっと美しい思い出だったはずだ。今となってはよくわからない。水辺には霊がいっぱいいるらしい。誰かがそんな話をする。川や海で溺れた人々の無念が渦を巻いているのか、水辺の事故を防ぐための方便か。今そこに誰かおったで、と彼女が珍しく冗談を言う。真面目な顔で言うから、「お前が言ったらホンマにおるみたいやんけ」と誰かの言葉に「ええコンビやん」と誰かの声。そのまま二人がカップルになったりはしなかった。鮮やかな花火と、花火の煙と、煙が目に入ったと涙が出ると言う女の子にそれを笑う男の子。美しい思い出だった。それで良かった。草むらの中に死体などないし、タバコを吸っているやつがいても、大人たちに見つかって怒られもしなかった。ただ、人数が違うような気がした。何度数えても同じなのに。一人多い気がした。左側に、彼女の隣に視線を感じて、無意識のうちにそれをカウントしていた。冷静になって考えたら増えてなどいないのに、ふとした瞬間に人が多い気がしてならなかった。人は幻覚だとかホームレスがいたとか霊の話をしたからそんな存在がいる気がしただけとか言うけれど。本当にそうだったのだろうか。
 次の日、登校すると、昨日一緒だった一人が体調不良で休んでいた。それだけのこと。
 次の日も休んでいた。
 次の日も。
 結局一週間休んで復帰した。彼女はメグミだかそんな名前だった。漢字は思い出せない。妙子だったかもしれない。
 その彼女は部活をやめた。たまに廊下で会っても気のない返事しか返さなくなった。どうしてしまったのかわからないが、人生には色々ある。あの夜、牧田に告白してフラれたとかそんな噂を聞いた。違う人だったか。所詮噂だ。それに他人が干渉することではない。そうやって僕は逃げた。
 それから僕たちは一緒に帰ることが日に日に減っていった。塾があるからと本当か嘘かわからない事を言ってみんなばらばらに帰った。来年は受験生だからしかたないと自分に言い聞かす。誰かと一緒にいなくても平気なフリをできるように僕は少しだけ成長していた。
 ある日のこと、秋だったと思う。タツミと一緒に帰ることになった。たまたまだ。その日は部活もなかった。彼女と何を話せばいいのかわからなかった。黙って歩いた。僕は自転車を押して。
「ねぇ」
「ん?」
 僕はよく見えない目で一瞬だけ彼女を見た。いつものタツミだった。キレイな顔で前を向いて。僕から見える横顔は、夕陽が照らす横顔は、やはり何を考えているかわからない。自分から話しかけておいて彼女はそれきり続きをなかなか話さない。
「アームストロング船長は月面を何歩、歩いたと思う?」
「知らない」
「うん。私も知らん」
 僕は彼女の隣を何歩、歩いたのだろうか。
「月に行ったら数えてくる」
 そんな冗談を返す。
「ありがとう。約束やで」
「うん」
 それで良かった。そんなことが幸せなことだとは中学生にはわからない。
「冥王星が惑星じゃなくなるらしいで」
「そうなん?」
「なんか、冥王星みたいなサイズの星とか結構見つかって、惑星と同じに扱うんはやめるかもしれへんみたいな」
「そうなんや」
 それから試験の話や好きな教科や嫌いな教科の話をして帰った。普通の中学生みたいだった。きっと普通の中学生だった。その日から時々一緒に帰ることがあった。恋人ではないし、大親友でもない。ただの友だちかもしれない。たぶんそうだった。彼女こそが本当に友だちだと思える人間だった。
 僕は公立の高校へ進学し、彼女は私立の高校へ進学した。積極的に連絡を取ることもなければ、会うこともほとんどないだろう。少しだけ寂しいと思った。そもそも連絡先など知らなかった。でも会おうと思えばいつでも会えると思った。中学の同級生と会うのは煩わしいから、学区の中でも少し遠い公立の高校を自ら選んだのに、何を寂しがるのだろうか。自分でそうしたのだ。自分で選んだことだ。望んだ生活は手に入ったか? 起きて、学校に行って、帰ってきて、寝る。食事も摂る。本も読む。排泄もする。音楽も聴く。時々彼女のことを考えて自慰をする。映画を観る。空想をする。川を眺める。
 いつの間にか一人ぼっちは平気だった。クラスメイトと会話したり、遊びに行ったり、そんなこともたまにはした。放課後に古本屋で漫画を立ち読みするのが楽しみだった。
 部活仲間だった妙子は同じ高校で、二年生のときに同じクラスになった。初日に、目が合って、やあ、よろしくと僕は微笑みを返したが彼女は何も返事をしないでそっぽを向いてしまった。僕のことなど忘れてしまったのだろうか。そんな顔ではなかった。行事や何かで近くになるとき、徹底的に彼女は僕を無視した。そんなに嫌われているのか。僕がいったい何をしたというのだろうか。何も心当たりはなかった。僕は自分が存在していると思いこんでいるだけで、実はとっくに死んでいて霊と化しているのかもしれない。そして彼女には僕が見えてしまっている。
 そしてとうとう彼女に呼び出された。ひどく蒸し暑い日だった。
「ずっと訊きたかったんやけど」と久しぶりに僕に発せられる彼女の声は、まごうことなき妙子だった。
「なんでメグミの葬式に来んかったん?」
 ?
「葬式?」
 なんのことだ。
「一月! 一月にあの子は死んだ」声を荒げて、怒りのこもった目で僕を見る。戸惑う僕をよそに、にらみつける。「知っとるやろ!」
 知らないよ。
 妙子との間には川が横たわっている。
 僕は何も言えないでいた。死んだ? あの子が? そんなこと、一月、なんで、しんだ? いつ?
 そんなこともあるだろう。人生なんだから。
「知らんかったん?」
 妙子は確実に僕と同じ川を見ている。
「……うん」
 かろうじて僕はそう言った。
「なんで」
「なんでってなに。知らんもんは知らんやろ」
 誰もそんなこと教えてくれない。ほらやっぱり僕に友だちはいない。お前たちがそうやって裏切るから誰も信じられなくなるんだぞ。
 メグミはあの夏の夜、あの花火をした河川敷のある川に落ちた。といっても橋の上からではなく、コンクリートで固められた堤防からだった。目の前に川は流れているのに、そこまで近づいたメグミ。そこで誤って、足を滑らせるなどして川に落ちた。なんのことはない。それだけだった。すぐに近くにいた一人が気づいて彼女を助け上げた。服は濡れてしまったが、怪我らしい怪我はないように見えた。
「大丈夫?」と声をかけた妙子。
「うん。びっくりした」と答えるメグミは震えていた。平気なふうを装いながらも。自分のドジで落ちた恥ずかしさから強がっていると、それだけだと妙子は思った。
「あほやなぁ。風邪引くで」と誰かの声。
「こんなに暑いから大丈夫やろ」と言う声も。
 その日は結局それで、それぞれ家に帰った。「風邪引かんようにな」という声に応えるメグミは確かに笑っていた。
 しかし、翌日から学校に来なかった。僕の知っての通り。心配した妙子が電話をかけても「大丈夫だから」と弱々しい声が返ってくるだけだった。明らかに大丈夫じゃないのに、それ以上尋ねるのも迷惑だと思った。メグミの恥ずかしさを感じる心を妙子はわかったつもりだった。一週間も学校を休むほどだとは想像はできなかったが。
 一週間後、学校に現れたメグミは、「川の中に溺れとる子どもがおったから、助けようと思って。でも、子どもに引っ張られて自分が落ちた」そう言っていた。今度は傍目には大丈夫な顔で。それは足を滑らせて川に落ちて、熱を出して寝込んでいたという羞恥心から出た言葉だと勝手に決めつけた。みんなを心配させまいとして無理に明るく取り繕っているようだった。その時のメンバーはみんなそう思い、そっとしておくことにした。僕もその話を聞いていたはずだと言う。本当か?
 最初はそうだった。それで良かった。ただの青春の一ページ。若き日の恥ずかしい思い出。
 それから徐々にメグミは学校を休み始めた。以前から毎月つらそうにしていたから、今回もそれだと楽観的に決めつけた。生理痛が激しいことは楽観的に済ませることではないけれど、いつもと変わらぬ光景だと、そういう意味では、誰も何も気にしなかった。
 しかし休みがちになったメグミは、もともと少なかった口数が更に少なくなって、昼食も残すようになった。顔色も悪いのに、誰も気づかないフリをした。それなら僕と同罪じゃないかお前も。
 部活にも現れなくなった。一人メンバーが減っただけで、居心地の悪さを誰もが感じていた。何も感じていないフリをしていた僕以外は。
 本当に彼女は心霊体験をして、何かに怯えていたんじゃないかと、何人かは考えた。もちろん何人かというのは僕以外の人間だ。そのうちの女子二人でそれとなく尋ねてみたが、満足のできる答えは返ってこなかった。「ちょっとね……」と曖昧な返事。「おうちが」と明らかな嘘をついた。本当に家庭の問題も何かしらあったのかもしれないが、それだけとは信じられなかった。友達だから、そんなことはお見通しだった。
「それとも、信じたげるんが友達なん?」
 そんなこと、友達のいない僕に訊かれても困る。
 心配ではあったが、妙子には妙子の人生がある。他の誰かには他の誰かの人生がある。受験生だからとそれぞれの道を歩みはじめる。
 メグミも高校へは進学したが、それでも休みがちで、二学期からは学校に来なかった。そして今年の一月に死んだ。
 妙子はそこまで話すとうつむいて黙った。妙子の沈黙。昨日までの僕と妙子の間の沈黙とは種類が違う。
 僕が最初に思うこと。
 脈絡は?
「その前に。タツミを牧田に取られてもええん?」
「……なにそれ」
「タツミと仲良かったやんか」
「そんなんじゃない」
「あっそ」
 妙子は軽く握った拳で校舎の壁を一定のリズムを刻むように叩く。軽く、とんとんと。苛立ちを僕に見せつけるように。軽蔑したように川を見下しながら。僕はというと、何もありはしない空間に幻の浮遊物を作りそれを眺めているフリをしていた。決して妙子の顔は見ない。川の向こうにいる。
 牧田は以前からタツミに気があったらしい。一度フラれて気まずくなってしまった。そのせいで一緒に帰らなくなってしまった。そんなこと僕は何も知らなかった。知っていても何も感じないフリをしていただろうが。二人は高校が同じになったことで、近づき始めたらしい。そんなこと伝えてどうするんだ。当人たちの好きにさせればいい。うまくいくとも思わないし、彼女に色恋沙汰は似合わない。それは僕の願望であったが、彼女への感情に気づいたわけでもなかった。でも、彼女だって十六歳の女の子なのだから何がどうなるかわからない。タツミは僕のことをどう思っていた? 僕に対して何かしら感情があったから牧田を選ばすに僕と一緒に帰ることを選択したのか? それはうぬぼれ過ぎか。メグミはどうだ? 妙子は? 一緒にいたのだから、そういうふうに考えたことがないとは言えない。しかし所詮それだけだろう。何も起こりはしない。僕なんかになにか起こりうるはずもない。
 そう信じていたのに、唐突に奇妙な感覚に襲われる。なんだろうこの感じは。メグミに何かを言われた。思い出せない。そして僕は彼女を突き落とした。違う。違う。川に落とした。違う。何かが違う。もうひとり、誰かの声。なんだ。
 僕の知らない何かが、僕の知らないところで起こる。
 そういうのはうんざりだった。妙子は何も知らなかった僕のことを哀れんでいるけれど。僕が何も知らなかったことに驚き呆れ戸惑い、怒りをどこにぶつけたらいいのかわからないだろうけれど。
 妙子の顔にメグミの顔が重なって映る。お前が殺したと僕に言う。わからない。なにも。それが幻聴かどうかも判断ができない。彼女の死因も誰も教えてくれない。
 それから一月して(その日も雨だった)、見知らぬアドレスからメールが届く。タツミに近づくなと。近づくなもなにも中学を卒業してから一度も会っていない。生きているのか死んでいるのかも知らない。ドッペルゲンガーか別人格が僕の与り知らないところで彼女に会っているのかもしれない。そうだとしたら迷惑だからやめたほうがいい。彼女の隣に感じた視線の誰かさんよ。
 僕が一体何をしたというのか。自分でも記憶を封印してしまうほどの出来事があったのだろうか。僕も一緒に川に落ちて頭を打ったり昏睡状態で脳の一部にダメージがあったのだろうか。そのせいで、水泳の授業で水に入る虞を手に入れてしまった。川に落ちた記憶がフラッシュバックするから。いつしか、それより以前から、水を恐れる子どもだったことに記憶は改変されてしまう。新たな王朝が前王朝を歴史書に悪し様に記すのように。

     8

 今でも思い出す。そんな思い出せない記憶を背負っていることを。存在しない誰かがいたという感覚を。それは永久にわかることもないし、説明することも不可能だろう。彼らは誰一人として僕の人生とは関わりのない人物になってしまった。全くの疎遠だ。そういえばそんなやついたな程度にも思ってもらえない。死んだのがメグミなのか妙子なのかもわからない。インターネットにも書いていない。
 未知の世界は未知のままであり続けるよう願った。故郷の南の未知の世界から届く電波は未知の世界のままでいい。もちろん、実際には四国があるだけだ。徳島県から電波は発信されている。そんな事知っている。でも、僕は四国に上陸したことはないし、これからも決して上陸はしないだろう。知らないままでいれば、未知のままであり続ける。知ってしまわない方が良いこともある。幻滅したり虜になったりしてしまうこともある。知ってしまうと未知の世界というアイデンティティが失われてしまう。月の裏側に永久に想いを馳せ続けていたい。その方がロマンがある。気づいてしまったら、見つけてしまったらそこに存在してしまう。存在することすら知らないのは恐怖か。恐怖を感じることすらないのか。
 知ってしまったものは忘れてしまえばいい。思い出すことのないように、全くの無にしてしまえばいい。そんなことは不可能だと知りつつもそう願う。あれはなんだったかと、『あれ』を考える時点で無ではない。自分の都合のいいように忘れたこと。忘れずにいるはずなのに忘れてしまったこと。そう考えることすらなくなってしまえ。夏の喧騒は冬には忘れてしまっただろう? 冬は心地よかっただろう?
 でも、自分が小惑星を発見したらきっと妙子とか名付けてしまうだろうことにうんざりする。
 ならばどうすればいいか。
 忘れるためには脳を破壊すればいい。記憶領域にアクセスできないようにしてしまえばいい。ロボトミーのように、壊してほしい。脳にダメージを与える方法はいくらでもあるのに、もちろん僕は入水を選んだ。間違いなく。脳の器質的な損傷を目指すなら、やり方はいくらでもあるのに。串刺しなら死んでしまう可能性があるから? 死んでしまっては脳の破壊が完了したか、わからない。自分では確認が不能になる。それに、外見的な大ダメージは美しくないから? 他人の目を気にしているのだ、まだ。また。死体になっても。もはやこれは病気ではなく呪いで、呪いを解くには科学を用いることはできない。醜い死に様を晒して笑われるわけにはいかない。そんなことではまた復讐の種が増える。入水なら文学的で美しい……? わからない。文学者が入水したらセンセーショナルな死で、忘れ去られるのに冥王星より年月がかかる。だからそれもいけない。文学者ではないけれど。
 それに死んでしまっては失敗である。それは赦されない。西門さんの来世にご期待くださいではいけない。
 僕はイメージする。
 柔らかい水が脳を壊す様を。落ちた川の水が世間の喧騒を遮って、孤独。きっと安らぎを覚える。もちろん苦しみもある。しかし我慢することには慣れている。我慢して偉いって子どもの時のように僕を褒めておくれ。そうやって育った子どもは、我慢することは偉いことだと錯覚してしまう。また呪いだ。僕の頭に、身体に、染み付いた呪い。我慢する必要のないことだって世の中にはいくらでもある。ブラック企業だ過労死だ鬱だ飛び込みだって言葉が踊る。新聞の上で液晶の向こうでインターネットで。嫌なら逃げても構わないのに、この国はそれは悪だと教育してきた。いつだって落伍者を笑う。子どものころから、受験だ就活だと競争を強要して、自由競争こそが資本主義だと言い訳にして、脱落者を嘲笑う。誰も笑ってなんかいないのに幻聴が聴こえる。ようやく就職した企業で、大量の残業と親友になって重圧に耐えかねる。逃げてはいけないと勘違いする。自分ひとりがいなくなっても誰も困らないのに。それに困るなら困ってしまえばいい。他人に迷惑をかけていいのだ。自分の人生だから。仕事辞めます? 自分の人生だろちゃんと考えろ? そう思うなら、他人の人生に口を出すんじゃないよ。ちゃんと考えろってなんだよ。そんなに必死になって生きる必要などない。ただ生きる。それでいいのだ。資本主義者はだれもそんなことは教えてくれない。自分の保身のことを考えている。会社のことを考えている。社会のことを考えている。それがそんなに偉いことか。基本的人権を尊重しろって憲法に書いてあるって習っただろう? いつまで経っても世紀末をやっているのかこの国は。こうして水の中で過去を振り返っていると記憶が流れ込む。ライフスペース事件が起きるようなのが世紀末だったのだ。そして世紀末の終末思想、ノストラダムスの大予言と僕の生まれる前から、七十年代から世間を賑わしていたのだ。その時から人類はなにか変わったか? まだ残業をしている。一時間の残業代がいくらかは知らないけれど、その一時間でできる他のこととどちらが価値があるだろう。料理ができるポール・オースターの小説が読める子どもを作れる遺書を書けるロシア語の勉強ができるただ歩く。その一時間すら奪われる。世界の終わりが来るのに、自分の人生のマネジメントぐらい自分でしたいものである。
 だから我慢する必要などないのだ。その呪縛から逃れることが第一に大切なことだ。空気を奪われる苦しみ、肺に水が侵入する苦しみは苦しみじゃなくなる。やがて、鼓膜を圧する水も不快ではなくなるだろう。角膜の表面を撫でていた水の刺激にも慣れる。充血した目が浮かび上がらせた血管は植物の根のように伸びている。やがて根は水を取り込む。隙間から侵入した水が眼球を包む。それでも視界は生きていて、皮膚の表面に小さな泡があるのを見ているはずだ。皮膚が産毛が水を弾き、なめらかに水がまとわりつくのを拒むのが見える。肺からこぼれた空気の塊が昇っていく。見上げた先はどんな色だろうか。晴天で、白く輝く太陽光線が屈折して届く? 揺らめいている優しい光が見える。曇り空で静寂かもしれない。雨が川面を叩きつけるかもしれない。地球より大きなクレーターをつくる。さっきまで雨だったものが川になり、大洋に注ぎ空に昇って循環するまでに生命は何度、輪廻を転生するだろう。
 自分が落ちる名もなき川のことを考える。
 たとえばそれは四国にあるのかもしれない。四万十川。吉野川。見たこともない川は実在するのだろうか。伝聞の中にしか流れていない。台風による大雨で増水した川の映像、流される橋。暴風雨の中リポートする使命。潮岬に来ています。僕は行ったことがない。あるいは中国の砂漠に、雪解けの水がつくる世界で一番美しく儚い川かもしれない。砂漠は生きているのと同じように川も生きている。大陸の、海と見紛う川かもしれない。ラプラタ川のように。歴史の母、長江や黄河やチグリス、ユーフラテス、そしてナイル、インダスあるいはライン。その流れとつながっている水の中にいる。美しい川の映画『リバー・ランズ・スルー・イット』、僕はブラッド・ピットのような笑顔を作れる。釣りの名手になれる。
 その川が流れるのは見知らぬ土地なのに、知っている。
 侵入した水が肺を圧迫する。脳を圧迫する。プチプチと肺胞が潰れ、透明な水に血が混じる。生まれたばかりのそれは初め紐状で、やがて巻雲のように伸び、薄れ、消えたように見える。冷たい川の水が心臓の熱さに温くなる。やがて浸透した水は静脈と動脈の区別なく流れる。もはや左右に心臓が分かれている必要もない。胎児の頃を思い出したように、卵円孔があった時の血液の流れを思い出せ。体内に生まれた川に意識は溺れ、水面に身体が浮いていく感覚を忘れる。水面から出た際、自分の意志とは関係なく吸い込む空気が、肺に入って、体内の水とせめぎ合う。空気の勢いに押し出された水は、その勢いでようやく脳に到達する。白質を湿らせ、灰白質と区別がつかない色に染めていく。その湿らせ方は、絞れば水の塊がボタボタ落ちるスポンジの濡らし方とは違い、ほんのり、湿らせるだけだ。じわりと。じわりと。濾紙に一滴垂らした水滴を思わせる。少しの水でもしっかりと拡がっていく様は。雨上がりに濡れたアスファルトが乾いて晴れた空にその色を奪われていく。そうして気づけばもとの見知ったアスファルトの色に戻る。
 何事もなかったように。
 意識を取り戻したときに世界は変わって見える。そう思いたい。しかし、変わったかどうかすらわからない方がいいのだ。記憶をなくした新しい自分は今までとは違う人間なのだ。水が引いたときに、記憶をもっていってしまえばいい。
 それが僕の復讐なのだ。
 達成した感覚、感情は残る。僕は出来事を忘れる。やつらには残す。

     9

 人は苦しみを忘れない。忘れさせない。泣いたフリをしてみせろ。
 自分の愚かさを嘆け。
 僕が正気になれたのはもう一人の妙子のおかげだった。いや、初めから一人だったのかもしれない。彼女がいてくれたらいいと過去を改変したのかもしれない。それはともかく、大学で出会った妙子という女は髪が長かった。中学の妙子はショートヘアーだったのに。長い髪を明るく染めて……運命の女っていうのはもっと、闇のような黒髪だと思っていた。
「なんでサイモンって名前なの」
「知らないよ」ていうか名字だし。
「やっぱりサイモン&ガーファンクルから?」と楽しそうに話す彼女はどう見ても妙子だった。妙な女だった。
「なんで妙子なん?」僕が逆に訊く。
「ライブ・ア・ライブっていうゲームがあるでしょ」
「うん」
「そういうことだよ」
 どういうことだよ。
 関西弁じゃない妙子は異世界の住人だった。故郷の南ではなく、東京の方の人だった。神奈川だって言ったじゃんと何度ツッコまれたことか。僕にとってはそんなことに変わりはなかった。神奈川も東京も。名古屋も愛知も。釧路と小樽も。どこか遠いどこかだ。
 妙子はいい女だった。僕に酒の味を教えたのは彼女だった。
 だいたいいつもファミレスや安い居酒屋に僕を連れて行って、日付が変わる直前まで飲んだ。ギリギリで終電に乗って僕は帰った。帰りの電車の中で僕は何度彼女の名をつぶやいたことか。妙子。愛しの妙子。麗しの妙子。
 最初に出会ったときから妙子は奇妙だった。大学の実習で同じグループになった。そんなことはありふれた出会いかもしれない。しかし明らかに僕を見ていた。僕の自意識過剰ではなく。本当の意味で。僕のどこに魅力を感じたのやら、初めて会話した日からいきなり隣りに座ってズケズケと話しかけてきた。なんだこいつと僕が思ったのも束の間、きれいな字だねと褒められた。
「別にきれいじゃないよ。癖が強い」と言う僕に、「字がきれいな人は歌がうまい」とかいう謎の理論を展開し、挙句の果てにはカラオケ行こうよとナンパされた。正直に言うと、初めは怖かった。僕とは住んでいる世界が違うと感じた。木星からの侵略者はきっとこうやって僕の心に侵入してくるんだろう。
 妙子の本心が知りたかった。何度も話しかけてくる彼女は、いつの間にか気にならないわけはなかった。僕の意識領域の大半を占めていて、彼女の侵略は成功した。
 妙子はいつもひとりで喋っていた。僕にはわけのわからないことを。僕はただ頷いていただけだった。無口な僕を相手にして、一体何が楽しいのか、さっぱりわからなかった。醸造酒と蒸留酒の違いを何度も説明されているうちに勝手に知識が身についてしまった。二人で山崎の工場見学に行こうと言ったのは社交辞令なのか? 多趣味な彼女は線路幅の話をして、在来線の線路を標準軌に変えただけで、走っているのは在来線と同じところだから山形新幹線には踏切があるなんて言われても乗ったこともなかった。彼女は僕の知らない世界を僕にもたらした。いつか一緒に山形新幹線に乗って、雪国に行くんだと思っていた。雪国に行くのは上越だと彼女は言いそうだ。そうやって僕に知らない世界を見せた彼女は偉大だった。妙子の世界。永久不変の。
 妙子の世界は赤色だった。いつも赤い服を着て、赤みがかった髪で、赤ワインを飲んだ。きっと、真っ赤な血が流れているんだろう。見たことはないけれど。
 一度、日付が変わって終電を逃した日、妙子は僕を部屋に招き入れたことがある。Tシャツに着替えた妙子はベッドに寝転んで、僕の頭を抱き寄せた。僕に自分の鼓動を聴かせるように、自分の心臓に僕の耳を押し当てて。妙子の香りがした。Tシャツ越しに伝わるやわらかく温かい妙子の肌。下着もつけていない。先端の突起が固くなっているのが目の前に見える。しばらくそうして僕を抱きしめていた。心臓の鼓動を聴きながら部屋を眺めた。彼女の部屋には小さな本棚とオーディオがあるだけだった。テレビもない。ゲームもない。ライブ・ア・ライブはどうしたんだろう。ポール・オースター、アンナ・カヴァン、リディア・デイヴィス、コードウェイナー・スミス、サリンジャー、オルハン・パムク、カタカナばかりだった。日本人作家の本は横溝正史だけだった。妙子の匂いにこの部屋は染まっていた。僕には触れてはいけない光のようであり、僕だけが触れることを許された場所だった。妙子の鼓動は僕を安らかな気持ちにさせた。覚めきっていない酔いのせいで、視界がぐるぐる回る。妙子の心臓と回る視界。そのままどこかに落ちていってしまいそうだった。それが安らぎの正体だった。どこまでもゆっくりと落ちていくこと。沈んでいくこと。
 こうして橋の上で思い出せる。蘇る。もっと深く彼女に沈んでいける。
 やがて彼女の手は僕の身体をまさぐる。指先で、身体を左右に分けるように、正中矢状面で切り裂く。のどから、胸を下る。そのまま下へ。股間へ至り、ズボンの上から、固くなった僕のそれをなでる。それだけだった。彼女はそれ以上を求めなかった。僕が身体をひねろうとしても、抱きしめて離さなかった。このままでいて、と言う彼女の唇を塞ぐこともなかった。無理矢理にでも彼女の服を脱がせばよかったのかもしれない。背中に火傷の痕があるとか、胸に、他人に見られたくない刺青でもあるのか。それを許されない僕は他人だったんだろうか。しかし、それが全てではない。妙子のすべてを知って本当のぬくもりを手に入れなくても、本物のぬくもりがここにある。肉体だけの関係より深い絆だってある。そうだろう? 愛しの妙子。
 いつの間にか妙子は泣いていた。僕は、身体に回された手をそっと握った。初めて触れた妙子の手は僕の心を満たしてくれた。今この瞬間の妙子の手に触れられるのは僕だけで、他の誰でもなかった。僕がいて妙子がいる。想像を絶する宇宙の大きさと時の流れの中で、こんなに素晴らしいことはない。銀河系には二千億の恒星があって、その銀河は千億ぐらいあるのだ。地球から太陽の次に近い恒星ですら光で四年かかるところにあるというのに、このバカでかい宇宙で、同じ空間に、目の前に妙子がいる。真っ赤な血の。
 そのまま僕たちは眠ってしまった。翌朝、妙子は何もなかったように、昨日のことはすべて冗談だと言うように普段どおりだった。
 そしてまたいつもの生活。
 普通の風景。
 日常の動作。
 それが何になるのだろう。
 気がついたら彼女は学校に現れなくなっていた。まただ、どうしてみんな現れなくなってしまうのだろう。弘明寺の実家に帰ったという噂を聞いた。「ぐみょうじ」がどんな字を書くのか、僕は知りすらしなかった。あんなに一緒にいたのに、僕たちは互いの連絡先も知らなかった。知る必要を感じなかったから。いつでも学校に行けば会えたし、予定していなくとも、飲みに行こうぜと彼女は僕を誘った。ただのクラスメイトだった。友だちでも恋人でもなかったのかもしれない。よくわからない不思議な距離感が心地よく、お互いそれに甘えていたのだ。少なくとも僕は。いつまでもそのままでいられると思っていた。JPOPの歌詞みたいな感情だった。そんなものが実在するとは知らなかった。
 なにか大きな病気でもしたのかもしれない。家族の誰かが亡くなって、家を継ぐものが彼女しかいなかったのかもしれない。急なことで誰にも何も言えなかったのかもしれない。どこぞの男と結婚でもしたのかもしれない。子どももできて、僕には申し訳なくて言い出せずに黙って去ったのかもしれない。僕に遠慮することなんてないのに。恋人ではないのだから。そうだろう? そうやって自分に言い聞かせないと、僕は壊れてしまう。連絡先も知らない手を繋ぎもしない、危うい関係だからといって、妙子の喪失なんて考えたことはなかった。自分のそばにいてくれるものだと思っていた。妙子は僕を必要としてくれていると思っていたし、同時に、僕も彼女を必要としていた事を知る。妙子の隣では、他人の目など気にならなかった。お互いの目にお互いが、お互いしか映っていないことは明らかだった。確信していた。
 僕はそうやって、いつものように目を背けて、僕の頭の中に住むなにかが記憶を消し去る。そう仕向けた。受け入れがたい、忘れたいことは忘れてしまえ。受け入れがたいことなのかもわからない。本当のことはもはや失われてしまって忘れてしまって手遅れだった。死んだのかもしれない事故かもしれない自己かもしれない僕がひどいことをして悲しませたのかもしれない。彼氏が五人も六人もいて、僕は切り捨てられただけかもしれない。彼女がいなくなった途端に正気を失ってしまって、月の大洋に取り残されたように西も東もわからない。
 見ろこの哀れな男を。
 無様で醜い。
 みんな笑っている。
 それはある種の精神病の幻聴の類だって? 病名なんてなんでもいいけれど、そんな言葉に騙されるものか。
 取り戻しに行かないといけないのだ。
 妙子のもとへ。

     10

 それはもちろん、僕にとっての妙子が、妙子にとっての僕ではなかったのかもしれない。僕のウヌボレで、彼女にとっては通り過ぎた風景の一部だったかもしれない。
 妙子の影を探してフォークナー短編集を読んだ。僕にはよくわからなかった。小説を読むときに、キャラクタの顔をイメージして読めない僕には、難しかった。小説の中の登場人物は人間のフィギュアをとっているけれど、顔は曖昧だった。あくまで普遍的なイメージとしての人。イデアとしての人。どこかの誰か。その物語のその人物のはずなのに。僕にとってはみんなだいたい同じようなものだった。大雑把に男性女性はわかる。老人や子供もわかる。でも男は男で、男Aや男Bは確かにいるけれど、金田一耕助や等々力警部は記号で、明確な固有名詞として顔をもって僕の頭ではイメージされない。イメージされたとしても、頭の中にいくつかある男AかBかCかは知らないがそのどれかだ。役者の顔が浮かぶわけでもない。日本人なら、いつもの親しみのある男Aでいいけれど、外国人ではそうはいかない。顔をイメージできないから、誰が黒人で誰が白人でというのがはっきりしない。あくまで文章として、記号としてこの人は白人として頭の中に記録しているけど、肌の色などわからない誰かが浮かぶ。文章を読んでいて頭の中にゲイリー・オールドマンがイメージされるわけではない。違う国の小説だと、どういう時代背景で、どういう関係性で、と丁寧に読まないとわからない。南部がどうだ、奴隷がどうだ、繊細な時代の流れの中で彼らの立ち位置を作者も正確に知ることはできない。そういう読み取り方、描き方は面白みでもあるし、そんなことわからなくても、背景など関係なく胸に訴える感情が描かれていたりして感動することもある。しかし突然に黒人を侮辱する言葉が出てきても、それが主人公のことを指しているのだと気づかずに混乱することもある。そこにきて初めて主人公の肌の色に注意を払う。もちろん作者が意図的に描写しなかった場合もあるだろうし、僕が文脈などから読み取れなかっただけかもしれない。フォークナーの短編集ではその現象が僕によく起こった。白人であること黒人であることに言及されると、混乱が生じて、今までのストーリーをもう一度洗い直さないとわからなくなってしまったんじゃないかと思い始めて、そのキャラクとは白人だと、イメージし始め、何度もこいつは白人、白人、とそんなことに意識が向かって文字を追ってもただ字を追っているだけになってしまう。人の形があって、肌は白、髪は茶? かな? と考えて、そのイメージが消えてしまわないように意識し始めてしまう。さっきまで見えていたものが目を離したすきに見つけられなくなってしまう。ゲシュタルトの喪失が起こる。月を見てうさぎがいるだとか蟹がいるだとかさっきまでは、ああこれがこうでなるほどと思っていたのに、パッと目を離してもう一度見るとすぐにはうさぎも蟹もイメージはできない。月を見つめたまま、川のせせらぎや風の動きに意識を向けるのは難しく、キャラクタのイメージを固定したまま、ストーリーを追えなくなる。脳のメモリ不足。顔のイメージと話の流れを同時に処理するには、人の形をしたなにかでいい。顔に漢字で「金田一耕助」や「ジェイソン」「ナンシー」と書いているぐらいでいい。さらに文章そのものにあらゆる技巧を凝らしてあったり、しかも英語ではこういう言い回しがあって云々と訳者注まで頭をまわさないといけない。手の動きの描写があれば手だけイメージできればいい。どんな手かなんてイメージするのは脳が疲弊する。豊かな想像力なんて養えなくていい。節くれ立った手なら、手に、「節くれ立った」と書いているのをイメージしてもいい。ある意味では豊かな想像力なのか。
 それはきっと僕が他人の顔を見るのが怖かったからで、妙子以外の人間の顔を見て話すことができなかった人間だからだ。故に、顔を見て話すことができる相手は妙子なのだ。妙子Aか妙子Bかはともかく。
 他人に顔を見られることの恐怖は、他人の顔を見ることの恐怖だった。相手の顔を見て、相手の世界に切り込めば、対等に戦わないといけない。殴られたらちゃんと殴り返さないといけない。優しくされたら優しくしないといけない。僕は逃げる。顔を見ていないから、僕に優しくしたと僕に声をかけたと知らぬフリをする。相手がこちらに向かってなにかしていることを、相手の視線を認めないことで僕には関係のないことにしてしまう。僕程度の人間は他人と対等に向き合うことはできない。対等に切り合うことができない。一方的にやられてしまう。完全なる手合違い。一滴も酒を飲めない人間がアル中とどちらが多く酒を飲めるか競うようなものだ。対決がそもそも成立しない。
 妙子の顔はいつでも思い浮かぶ。右耳のほくろまで。
 そのくせにあの日の妙子の涙の理由などもわからない。
 彼女の本棚にはフォークナーもトルストイもなかった。安部公房も夢野久作も。あったのはなんだ。わたしの名は赤。
 全く知りもしない国の小説を読むのは面白いと言った。名前しか知らない国に、こんな時代があって歴史があって街があって生活があって文化があって、想像通りだったり想像とは違ったりで。今まで知らなかった世界をひとつ知ることは喜びだと。でも、そんな世界にも共感できる感情があったりして、文化が違っても同じ人間であることに驚かされる。同じ感情を共有できる。悲しいことを同じに悲しめる。逆に価値観が違えば同じ体験をしても正反対の感情を抱くこともあるだろう。だから人間は面白い。
 僕はマイナス思考だから、同じ体験をしても、負の側面を背負ってしまうだろうと考える。一人でいることは自由で縛られない反面、孤独で妙子のぬくもりを探してしまう。僕は縛っていてほしいのだ。一人で雪国に行っても虚しくて悲しくて寂しくて死にたくなる。嬉しい感情が一あったとしても、悲しい感情が二億あったら悲しいのだ。一の喜びを喜んでいることを他人に見られる十の恐怖があればそれは恐怖になる。顔の見えない誰かは、未知の驚異。ためらいなく振るわれる無自覚の侵略。無辜の暴力。木星帰りのウイルスに蹂躙されてわけもわからず滅びる人類。未開の地で核兵器。幾億倍にも膨れ上がる恐怖。反面、顔が見えてしまえば、明確な敵になってしまう。自分を狙う敵から逃れられないなら、その人が敵だと初めから知らずに殺されてしまえばいい。確実に敵になってしまった顔がそこら中にあれば、身動きも取れない。地雷原と知っていては踊れない。路上を真っ直ぐ歩くのと、貿易センタービルの間の綱の上を真っ直ぐ歩くのは違う。
 僕と妙子は違うからわかりあえる。わからないから知ろうとする。わからないものは恐怖だったはずなのに、彼女に関してはそうじゃなかった。
 もっと知ればよかった。もっと知りたいと思った。
 今更。
 小説の中に妙子はいない。記憶の中に彼女はいるのだ。
 知らないことは思い出せない。忘れてしまったことも。忘れてはいけなかったことも。忘れることで目をそらして、自分を守ってきた哀れな少年じゃなければこんなところにいなくてすんだのに。
 川に落ちた同級生の名前は? 冬の思い出は? 本当は夏が好きなのに目をそらしていないか? あの日告白されたのは僕で、タツミにしか興味のなかった僕は川に突き落としてそんなことをしてしまった自分に動揺して錯乱していなかったか? それは記憶か妄想か。相手も関係を壊さないために霊のせいだとか言わないか? 死因も思い出せない。高校生の妙子が言っていたはずだ。その彼女は本当に妙子という名前だったか? 僕のせいだと思いたい反面、事故や病気だと思いたい。誰も死因を教えてくれない奴らなのだ。葬式の日も。僕のせいで死んでしまえばいい。そうじゃない、と優しく声をかけて騙されて偽りの安心を手に入れされろ。そうして僕を笑うのだ。
 僕はイメージ通りに川に落ちていく。そこに戻れば答えはある。そう思いたい。それ以外に考えられなかった。妙子に会える最後の手がかりは川の底にしかない。誰の声も聞こえない水中なら聞こえるはずだ。
 以前は忘れるためにイメージした川の底に、思い出すために飛び込んだ。死の前に走馬灯のように人生が駆け巡ると誰も死んだことがないのにそんなことを信じている。

     11

 電波のぬくもりは、懐かしい。往年の名曲を往時のあの人が歌っている。誰かの聴きたかった曲、誰かに届けたかった曲、本邦初公開の新曲。本邦初公開を「宇宙初オンエア」と読むあの世界。いつまで経っても未知の世界。海の向こう。
 全国三十八局ネットもあれば、ローカル番組もある。昔よく聴いたAMは、地方局の自主制作番組は減ったとどこかで聴いた。実際はどうなのかは知らないが。時代は変わる。でも電波を使い続けていることは変わらない。
 1269キロヘルツの。
 そんな四桁の数字をいつまでも覚えている。
 無駄な知識。必要のないもの。でも必要なもの。
 いつの間にか憶えてしまっていつの間にか忘れてしまった常連のラジオネーム。同級生と同じだ。タツミが名字なのか名前なのかもわからないのだ。南東を示すことはわかる。南東にあるのはなんだ。潮岬か?
 ラジオを聴きながら微睡んだあの頃は本当にあったのか。水底にあった誰かの記憶が混ざっていないか。
 全部勘違いかもしれない。集団幻覚かもしれない。めちゃくちゃな強引なご都合主義の解決編はない。フェアなミステリ小説の中に生きているわけでもないのだから。
 親友のジャックダニエルが尋ねる。
「妙子の声は聴こえたか?」
 電波に乗って?
 妙子って誰だ。
 誰なんだろういったい。
 僕は、だれだ。

故郷の南

故郷の南

『国境の南、太陽の西』という小説が好きだがそれとは特に関係はない。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-09-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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