私の知らない世界
私の望んでいた世界は、こんなものだったのでしょうか? 冷たくて、凍えそうで、心の穴がぽっかりと開いたような。それでいて、どこか優しくて、温かくて、誰かたった一人横にいられるだけで幸せだと感じられる、そんな世界だったのでしょうか? 自由を求めて走り続け、恋い焦がれ続けてきた世界は、はたしてこんなにも残酷で、悲しい、だけど優しいものだったのでしょうか?
第一話
願い事なんて、たった一つだけだった。
多額に資金を違法ではあったものの、私のいる研究所では貰っていた。私は文句なんて何一つ言えない立場だったから、ただ黙って日々を過ごしていた。元来、この国で科学技術関連の資金とやらは、本当にごくわずかなものらしく。倹約家でもあり、奥さんの言いなりと化していて、この件研究所で有名な彼は、こんな少ないお金で最新技術の開発なんぞできるはずがない、と嘆き悲しみ、ついには違法に違法を重ねて、現在に至る。
技術に関しては十年以上は余所との研究所の差があると言われているここは、外の世界では夢物語として謳われていた出来事が現実と化する。証拠なんて私が、いつでも証言することができる。なんせ私は人が造りし人、人造人間であるから。私は生まれてすぐに命の灯を消すこととなった。原因は上手く呼吸ができなかったらしいが、ここの研究所で働いている人たちのおかげで、私は今を生きることができる、この世に生きとし生けるものとして存在することできるのだ。だからと言ってこんなことを世間一般さまに、公に告げて良い筈がない。私がこの世に存在できる理由はただ一つ、違法に違法を重ね、現在の技術があるからこそなのだ。『外に情報をもらさなければ、研究所以外の人間は誰も気がつくはずがない』は、この研究所での暗黙のルール。だから私はこの研究所から外の世界に一歩も出たことがない、私という存在を研究所が隠しているから。
「はい、今日のメンテナンスは終了、このノートをボスに渡してね?」
白衣に身を包んだ大塚さんはとても美人さんだ。三二歳で、容姿端麗、才色兼備の彼女は、同性でもある私から見ても、十分美しい容姿を持っている。だけど、こんな彼女にも欠点があり、「彼氏を本気で募集中!タイプは年収四千万以上で、高学歴、料理が出来て優しくて、包容力があって、さわやかイケメンさんで年下」と言うのだから、独身と言われても、大いに納得ができる。今時そんな条件を満たす男の人がいるはずがない、と思うのは私だけだろうか?
「分かりました、このノートをおじい・・・・ボスに渡すんですね」
「うん、よろしく。わたし、あの人苦手なのよ」
よろしくね、と言って次の仕事に取り組む彼女。
本当に美人で頭も良くて、男の人であれば三度見は間違いなし、の顔なのに彼氏を本気で募集中だかとか、お酒大好きでかなり強い彼女が女子力アップのために男の人の前では、なぜかアルコール度の低いカクテルを飲んだりだとかしているからこそ、余計に彼氏もできなければ結婚もできないのでは?なんてことを考えてしまうのは私だけではないはず。
普段、本当に誰に対しても優しい大塚さんは、この研究所ではすっかりとお姉さんポジションだ。新入りには鬼のように角を生やして怒ることはないし、人造人間である私にたいしても、一定のラインであれば、他の人たちと平等に扱ってくれる。だけど、入ってまだ半年も経っていない新人さんに男女問わずぎゅうぎゅう抱き着くのはどうかと思う。今も大塚さんがいる場所を見れば、この研究所に入ってきたばっかりの男の人に「聖くん、ほっぺたぷにぷに、すっごく柔らかいし、かわいい」とか言って、じゃれあっている。彼女はまだ知らない、どうして自分にパートナーが一度もできないでいるのかを。これじゃおじい様ことボスにも避けられるわな、などと考えながら研究室をこっそりと抜け出すように逃げる。
私のいる研究所には、ボスと呼ばれる人が二人いる。
一人は大塚さんと同級生の東山さん。倹約家で、奥さんの言いなりと化していて有名な人だ。まだ若いのにこの研究所の実質の長を務めているから、みんなからボスと言われている。
もう一人は西条さん。御年六五にもなる彼は、若くして亡くした奥さんのためにと思ったのか、再婚はせずに、たった一人で4人の娘さんを立派な女性へと育てた。今では娘さんたちは世界各地で散らばりながら、絶賛活躍中らしい。なので、この研究所で働く人たちは皆、彼のことを父上様と呼んでいる。私も一応、西条さんから助けてもらった身なのだから、彼のことを父上様と呼ぶのが相応しいのだろう。だけど、御年六五歳になる西条さんに対して、私は今年で一五になるから、五十も年齢の離れた男性に向かって父上様とは言い難く、おじい様と言っている。
五分ほどで西条さんの部屋についた私は扉をノックする。
「おじい様失礼します、0777です。いらっしゃりますか」
私に名前など与えられていないし、与えられるはずがない。私はこの研究所では貴重な実験体なのだから、いちいち名前など付けていられるほど余裕がないということらしい。いつもであればすぐに返事をしないおじい様だけど、なぜかこの日に限って、数秒足らずでガチャリと扉が開いた。本当に珍しく、一体何があったのか、なんてことを考える暇もなく、おじい様は部屋の奥からひょっこりと顔を出した。
「いらっしゃい、なあちゃん・・・ああ、大塚からの書類だろう?中へお入り?」
おじい様は本当におっとりとした人で、どうしてこんな人が違法に違法を重ねてまで、と思ってしまう。家庭菜園が趣味で、家と研究所の庭には大根から始まり、人参、ジャガイモ、カボチャなど、多くの野菜畑が出来上がっている。最近は茶摘みにも興味があるらしく、自分が摘んだお茶の葉を使っては、研究所にいる人たちに感想を求めてくる。これが本当においしいのだから、全く迷惑とは思わないし、むしろ楽しい。
「今日はアールグレイティーとアーモンドのクッキーだよ、お食べ」
西条さん専用の研究室には小さな机があって、こじんまりと小さなバスケットの上にクッキーが盛りつけられ、机の上には二人分の紅茶が注がれている。
「・・・・・で、でも・・」
おじい様の飲み物は本当においしいし、食べ物だって、お店で買うよりかは遥かに良い、と舌が肥えている大塚さんが言っていた。だから間違いなんて、ましてやこれを食べたら私はどうにかなってしまうのでは、とあまり勘違いはしたくはない。
だけど何かあってからでは遅いのだ。たとえば、たとえばの話。もしも私がおじい様の作ったお茶とクッキーを口にしてしまい、科学技術の優れたこの研究所であったとしても、手にはおえられない出来事が起こってしまったら? この時の責任を取るのは誰だろうか、私の感情がコントロールできなくなって街に被害を与えたら、この研究所で違法に違法を重ねたことが公に知られることはないのだろうか? 嫌な予感が頭の中をいっぱいにしたとき、おじい様は大きく笑われた。
「なあちゃんは、本当に優しいね・・・安心してお食べ? これを食べたからと言って、キミがパニック障害を起こすことも、我々のやっていることが公に知られることも、まずありえないし、第一にもうメンテナンスなんてものは必要ない。そもそも、本来であれば学校に行かせることだってできる」
あまりにも突然すぎた西条さんの告白に、私はぽかんとしてしまった。何かあったらいけないから、と口々に私のメンテナンスを行う大塚さんと東山さん。学校に行くことも禁じられ、外に出ることもできない私に、大塚さんはいつだって外の世界のことを話してくれた。学校に行けば面倒な課題ももれなくついてくるだとか、先生がどうとか。東山さんに関しては恋愛事が多かったような気がするのは、気のせいだろうか? しかも主に失恋ものが。だけど、私が学校に行きたいと口にすれば二人は口をそろえて「何かあったらいけないから」と言う。
「だって・・・東さんと大塚さんが、毎日最低でも5回のメンテナンスは必要だって」
「・・・・・ああ、それね、嘘だよ・・・・あの二人は心配性だからね・・・・・何よりもこの書類が証拠」
と言っておじい様は先程私が渡したノートを見せる。
「えっと・・・これは?」
「あの二人は本当に心配性だからね、君が万が一何かあった時の予防策として、睡眠時間を削ってまで研究とメンテに没頭しているんだ。もう必要なんてないのにね」
と言って笑いながらおじい様はアールグレイティーを飲むおじい様。だけど私はどうしてか、心の中では罪悪感がいっぱいで。理由なんてわかってる、東山さんと大塚さんの苦労を全て否定していたからだ。人造人間なんていらない、普通の女の子になりたい、学校に行きたい、外の世界に行きたい。だけどこの願いは、二人の苦労をさらに増大させるものでしかないのに。こんなことして何が楽しい? 私は此処まで心が冷たい人ではないでしょう? ぼろぼろと泣いていると、小さなポケットからそっとハンカチを出してくれたおじい様。
「あの二人も、キミの成長を心の奥底から望んでいるんだよ、キミに渡したノート、それは君の成長日記。だからもう、泣くのはお止めなさい?」
私はまだまだ未熟で、ただ知らないだけだった。私自身が高望みをすればするほど、誰かの浪費が大きくなっていくことに。私がこうして平然と呼吸をすることができるのは、裏で誰かが気の遠くなるような努力や苦労、頑張りをしてくれているからこその産物だということに。私が知らないだけで、誰かが私のことを心の奥底から、必要以上に心配してくれているのを。
第二話
西条さんの研究室で大泣きした私は、優しさ満点のアールグレイティーとクッキーを頂いて、これからのことを考えていた。東山さんと大塚さんが私のことをちゃんと必要以上に考えてくれている事はよくわかったし、ちゃんと理解もした。西条さんが見せてくれたあのノートには、二人が交代制で書いたと思われる筆跡だった。おそらくあのノートは何代目なんだろうか、ひょっとしたらメンテナンスが要らなくなる前からしっかりと書かれていたのだろうか? だとしたら、私は二人の気持ちを全く眼中に入れることなく、自分の願いばかりを思っていたこととなる。とんでもない馬鹿だ、人の気持ちを無視して自分の気持ちを最優先として考えるなんて。
「はあ、どうしようか」
とぼとぼと下を向きながら歩き、ふと窓辺を見た。青い空には小さな鳥が飛んでいる。ごく普通の事なのかもしれないけど、ちょっと前なら「あんなにも小さな鳥が大空を自由に羽ばたいているのに、どうして私は」と考えてしまうだろう。だけど今なら違う考えができる、どうしてあんなにも小さな鳥はしっかりと大空をまっすぐと飛ぶことができるのに、私は自分の意思すらもまっすぐと決めることができないのだろう、と。ふと、視界の中に入った男の子に、私は目を丸くした。私がいる研究所は同じ敷地内に大きな病院を抱えている。だから別に自分とほぼ同級生と思われる男の子がいたって、別になんとも思わない。風邪を引いて病院に来たといっても人は納得するだろうし、入院してるけどなにか問題でも、と言っても人は納得するだろう。
だけど、彼はきょろきょろとあたりを見渡してはここがどこかを確認しているようで。アレは誰がどう見て迷子だろう、おまけに地図を見ては首を傾げている。これは仕方ないよね、と思いながらも、心の中で大塚さんと東さんに謝りながら、大きな病院の廊下で行き場が分からない男の子の肩をやさしく叩く。私なら迷わず目的地まで行くことができるし、ほんの少しなら彼の道案内人なることができる。
「ねえ、迷ったの?」
自分と大きな年齢差はないだろうと思われる男の子に話しかけると、彼は予想以上に驚いてしまったようで。くるりと振り返れば、大塚さんが瞳を輝かせながら抱きつくだろうな、と簡単に予想ができる彼が困ったように言った。年上のお姉さまが好みそうな、男の子なのに女の子みたいにかわいらしい顔立ちに、女の私と大して差はないだろうなと思う小さな身長。異国の血が入っているのか、ほんの少しだけ目の色が薄い、ような気がする。
「・・・あっ、えっとさ、出口ってどこ?」
とても言い難そうに呟いた彼の言葉。そうか、ここは無駄に敷地面積が広いから、彼が戸惑うのも無理はない。この敷地のことを良く知っていて、新人として入ってきた研修生さんですら、目的地と真逆の部屋に行ってしまうことがある。だから、きっとこの場所を初めてきた彼にとっては、この研究所兼病院は迷路でしかないのだろう。だけど私にとっては、迷うはずもない。だってこの場所で何年と過ごしてきているのだから、迷ってしまえばただの馬鹿でしかない。いくらなんでも自分の家で迷子になる人間なんていない、と信じたいけど、この広大な敷地と最新の設備が整ったこの場所が、私にとっての家だから、迷うはずなんてない。
「ここってさ、年々増改築を繰り返しては複雑かつ敷地面積を広大にしていってるから、迷わないほうがおかしいよ、安心していいよ。出口までなら案内してあげるから」
さすがに毎年毎年懲りずに敷地面積を倍以上にし、さらに、複雑化していく理由までは彼に教えることはできなかった。理由なんて簡単なもので、というのも、この研究所での研究成果を外へ洩らさないためだ。研究成果と結果を外に洩らしてしまうと、ここで違法に違法を重ねた手法が外に知れ渡ってしまう。なにより、一番恐れているであろう『わたし』という存在が知られてしまう。『わたし』という存在が外に漏れ、違法に違法を重ねた手法でいただいたお金が世間一般様に知られては、研究者としての立場だけではなく、社会的地位が損なわれてしまう、と東さんは深刻そうに言っていた。だから私は言えなかった、年々莫大なお金をかけてまで増改築を進め、広大な敷地面積をどうして得なければならないのか。
だけど彼は不思議に思わなかったらしく、むしろほんの少しだけ顔を赤くして「それじゃあ、お願いします」と小さく言った。
「お名前を、お伺いしてもよろしいですか?」
私と彼は一歩ずつ前へと進んでいく。
「名前・・・松藤秋晴(まつふじあきはる)・・・・・」
「へえ・・・・・」
と言って、私は馬鹿なことをしてしまったと後悔してしまった。私は一度死んだ身で、名前なんてものがないのだ。いつも『コードネーム』で呼ばれてはいるものの、本名で呼ばれることはないし、戸籍上、私は存在しないのだ。名前イコールコードネームの私は、アキハルくんにまさかコードネームを教えるわけにはいかないし、だからと言ってこの場で、しかも即興で名前を考えられるほど、私に想像力はなかった。私がよほど下を向いて深刻に考えていると彼は勘違いをしてしまったのだろう、「教えられないよほどの事情があるのであれば、良いよ、教えなくても。その代わりお嬢って呼ぶから」と笑いながら言う彼に、失礼ながらも大塚さんが飛んで喜び鼻血を噴出させそうな笑顔だな、などと思っていた。別に彼女が年下の男の子を好むことはないだろうとは思うけど、だからと言って今のは大塚さんであれば鼻血を噴出させた後にぎゅうぎゅう抱きつくだろうな、などと考えてしまった。
「・・・お嬢がパジャマ姿なのは、やっぱりこの病院で入院してるから?」
突然の質問に、さすがの私も声にならない声を出してしまった。現在の私の格好は、水色を基調とし、青色でくまさんがいっぱい描かれていて、検査のときも楽なようにと前ボタンがついた子供向けパジャマだ。さすがに『人が造りし人間、人造人間だから』とか、『メンテナンスでいちいち服を脱ぐぐらいなら、ボタン式の服か和服を着たほうが楽』とかは言えなかった。
「まあ・・・・・・・入院といえば、入院かな?」
実際は検査(メンテナンス)ばっかりだけど。
「体悪いんだ?」
「そうだね・・・・・・・・実際はあまりよろしくはないんだってさ、元気なんだけど」
「病気って、そんなもんでしょう?」
「うん、そんなもの、かなあ?ってアキハルくんはどうして病院に?」
ふと言ってしまった言葉に、私は瞬時に全身から血の気が引く思いをした。ひょっとしたら、こんなことを話すぐらいだから、もしかしたら彼はさきほど重い病気、もしくは完治が困難とされる難病を医師から、宣告されてしまったのかもしれない。もしかしたら、海外に行かなければ治らないような、思い難病を、彼は患ってしまったのだろうか? ふらふらと歩くアキハルくん、何とかしてでも気分をマイナスからプラスへ移行させたい。どれだけの難病であったとしても、この病気を克服したい。だからこそ負の気持ちから正の気持ちへと切り替えたい。だけど一向にマイナスからプラスへと気持ちは変わってくれない。どうしたらいいか分からず、さらにこの研究所の最大の秘密を守るために、年々敷地面積を広大させてしまった為、ひょっとしたら初めて来た病院内で迷うアキハルくん。心の中では不安と両親が待っているだろうから早く合流したいけど、自分が今どこにいるかすら分からない焦りでいっぱい。こんなときに私と出会い、うっかり私が『アキハルくんはどうして病院に?』なんてことを言ってしまう。完全なる馬鹿だわ、東山さんも、おじい様も、大塚さんもあきれるぐらいの馬鹿だわ。
「ごめんなさいっ、わたし、何も考えずに・・・・・」
私は立ち止まって、頭を深く下げ、アキハル君に謝った。私は悪いことをしたのだから当然頭を下げ、彼に謝るべきなのだ。だけど彼が口にした言葉は予想外のもので。
「・・・・・えっと、何を勘違いしたのかは知らないけど、4年と半年ぶりに東京から京都に帰ってきたら、なぜか不良グループに絡まれて。喧嘩が終わって、気がついたらすごい怪我してたから、従兄の兄貴がいるここに来て治療してもらったってだけだけど」
平然と言う彼に対して、私は思わず情けない声を出してしまった。
「えっと、特別大きな病気にかかってたとか、そんなんじゃないよ?」
あっけらかんと言うアキハルくんに、私は呆然と立ち尽くしてしまった。研究所と病院の間で立ち尽くすことなんて、双方を行き来している人間からしてみれば邪魔で迷惑以外何でもないのだけど。だからといってあまりにも突然すぎるし、予想もしていなかった彼の言動に、まさかと思わないはずがなかった。だって、あれだけ頭の中で深刻なことを考えてたのに、いざ聞いてみたら不良グループに絡まれて怪我したなんて、正直馬鹿すぎる行動としか思えなくて、私は吹き出すように笑ってしまった。どうしても似合わなさすぎるのだ、アキハルくんからしてみれば、大塚さんのような年上のお姉さまから告白ラッシュが相次ぐだろうと思われ、さらにはほぼ同年代だと思われる私が見ても純粋にかわいいと思えてしまう彼が、まさか不良グループに絡まれて喧嘩だなんて。私の横でぷんすか怒っているアキハルくんは、どこからどう見ても私よりも一回り幼い子供。一体いつぞやぶりだろうか、これだけ涙を流し、お腹を痛めながら笑ったのは。
「お嬢、いい加減にしろ」
顔を真っ赤にしながら笑う私を制止しようと頑張っているアキハルくんだけど、私の渦巻く笑いが止まるはずもなく。笑いが収まったのは、暫くしてからだった。また一歩と歩みを進めながらも会話を進める私とアキハルくん。
「へえ、じゃあ、4年と半年間だけ東京の学校に行ってて、ごたごた起こして強制退学くらったから、こっちに戻ってきたんだ?アキハルくんって意外とバカ?」
病院内を散策するように歩く私とアキハルくん。
「・・・・うーん、勉強とスポーツはできるのに行動が馬鹿、とはよく従弟の兄貴から言われる」
困ったように言うアキハル君は、どこかしら可愛さがあふれ出ていて。きっと大塚さんだったら『今晩は帰さないから』などと危ない発言をしているだろうな、などと本人のいないところで勝手に妄想を膨らませる。だけど、ふと思った疑問に私は抑えきれなかった。
「学校って、楽しいの?」
きっと普通の人が聴いたら、「この子はそんな幼い頃から病院にいるのか」と思うだろう。だけど、私からしてみれば学校も行ったことがないし、友だちも、うんと年上の人しかいない。一応漢字の読み書きもできるし、そろばんの扱い方もマスターしている。学校で習うものは一応ボス、東山さんから教えてもらっているし、何の不都合もない。だけど気にはなっていた、学校という場所がどういったところなのか。
「うーん・・・・・・校則があるから窮屈ではあるけど、友だちがいたら退屈はしないよ? それに、いろんな人たちと触れあうことができるから、自分の視野がいかに狭いかっていうのがよくわかる。教師然り、生徒然り・・・ってね?」
上を見上げながら言うアキハル君。きっと彼の意見は間違いではないのだろう。先月入ってきた新人さんに同じ質問を問いただせば、アキハルくんと同様の答えが返ってきたから。
「ふうん、楽しそう」
「勉強は好き嫌いが激しくわかれるけど、慣れてしまえば3年だろうが6年だろうが、本来ならばどうってことないんだろうけどね」
本来ならば、と付け加えたのが彼らしさを現したのだろう。だって、彼は本来ならば5月の平日に病院にいる年齢の人ではないから。強制退学をくらい、故郷へと帰ってきたから、不良グループに絡まれて怪我をしてしまったからたまたまいるだけのお話。突然だった、秋晴、と彼の名を呼ぶ声がした。
「悠斗(ゆうと)、それに馨(かおる)まで」
アキハルくんの悪友とやらだろうか、彼らは見事なまでのデコボココンビだ。
「なんだ、迎えに来てくれたのか?」
にやにやとしながら言うアキハルくんは、今まで一緒にいたアキハルくんで。少なくとも不良に絡まれて喧嘩をしたという彼ではなかった。
「まあな、お前さんの事や、ぜえったいに迷っとうやろうって馨がな」
と言ってへらへらと笑う、背の高くてひょろひょろとしていて今にも倒れそうなのがたぶん悠斗くん。ちょっと関西弁なまりなのが気になるけど、お兄さん気質が何処からかあふれ出している。お兄さんというよりも頼りのないお父さんといった感じだ。
「だって、悠斗だって言ってたじゃんか、秋晴は筋金入りの馬鹿で方向音痴だって」
おそらく私とアキハルくんよりも5センチ以上身長が小さいのが馨くんだ。真っ黒な髪と瞳は、アキハルくん同様の顔の持ち主で、よく言えば年上のお姉さまから好まれてもおかしくはない顔立ち。悪く言えば童顔になる。本当に三人そろえば、驚くほどのデコボコトリオだということがわかる。
「あれ?そちらの御嬢さんに案内してもらったんだ?」
馨君はどこの出身だろうか? 私を見ては綺麗な標準語で言うけれど、少なくとも関西圏出身の方だろうか?
「ああ、お嬢、ありがとう」と言って私の頭を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でまわすアキハルくん。どうしてだろう、この撫で方、どこかで私、されたことがあるような気がする。
第三話
大塚さんは今日も今日とて、バリバリ働く。変な要望と高すぎるハードルさえ存在しなければ、今頃余裕で勝ち組宣言をしているであろう人物。頭がいい割にはなぜか学歴まで良くて、しかもお家もそこそこ良いらしいから、あまり彼女とかかわったことのない人間からしてみれば、本当にどうして結婚をしていないのかが気になると思う。
「はい、今日はここまで」
本当に必要なのか全く分からない検査を終えたこの日、大塚さんの視線はいつにもまして恐ろしかった。言葉では表しにくいのが難点なんだけど、背筋が凍るというか、本能が危険だと叫んでいるというか、自分の身が危ないと直感が警告している感じ。
「ナナ、聞いたよ」
鉄板営業スマイルとはまた違った笑顔で言う大塚さんに、私はベッドの端へと、自然と移動をしてしまった。
「な、何をです?」
まさか先週、黙って大塚さんのお気に入り京都名物八つ橋を食べてしまったことだろうか。大塚さん、関西圏の人間じゃないから、なぜか八つ橋が大好きなんだよね、いや、美味しいよ、八つ橋。もしくは西条さんが言っていた、意味のない検査を私が知ったという情報が大塚さんの耳にまで届いてしまったのだろうか? 大塚さんだけでなく東山さんにまで届いて、さらには夫婦間の問題にまで発展したとかなったら?
「どうして仕事内容は大したことないのに、いっつも帰りが遅いのよっ・・・まさかほかの女の人と一緒にいるんじゃないんでしょうね」とむきになる奥さんと、
「違うんだ、本当に浮気じゃない、信じてくれ」と嘆き頭を下げる、研究所ではそこそこ偉い地位にある東山さんだが、実は奥さんにだけは頭が上がらない。どれだけ説得しても全く信じてくれない、一昔前で言う平民でそこそこ大きい商家出身の奥さんに、どうすれば良いか全く分からずに頭をひたすら下げていく東山さん。こんな東山さんは可愛いけど、私の所為ともなれば話は大きく変わって来るわよね。
「アンタさ、松藤ん所の餓鬼に話しかけられたんだって?」
私はあんたは奥手だと思ってたけど、まさかそんな大物を釣るとは、などと感心している大塚さんを見て、自分の予想と現実がまた大きく外していることに気がつく。
「まあ、道案内だけですよ・・・というか、なんで大塚さんがアキハルくんのことを知っているんです?」
胸がチクチクと針を刺されたように痛むけど、気のせいだろうということにして、大塚さんの質問に答えると、彼女は目を丸くした。
「・・・・・・あんた、京都に何年いるつもりよ・・・ってそうよね、あんた、外の世界に一歩も出たことないのよね。そりゃ知らないはずだわ・・・・ヒガシイが『アキハルが嬉しそうに家に帰ってったから』って言ってたから、おかしいと思ったけど・・・あんただったらあり得るわ」
私はまさかありえないだろうと思い、冗談めいたことを口にした。
「アキハルくんのお家って、けっこうなお金持ちだったりします?」
「ううん、お金持ちなんてレベルじゃないよ・・・そうね、アンタにも分かりやすく言えば・・・・・・元々は日本で事業をしてた爵位の高い華族なんだけど、財閥解体を見込んで、欧州に長いこと会社を引越しさせて、つい最近まで欧州で事業展開やらやってたら、いつの間にか欧州でも結構な知名度を持つ会社にまで発展してしまって。もう欧州と日本の企業の架け橋役を任せても良いんじゃないのかってぐらいの大きさよ・・・・これ、けっこう京都府内じゃあ、知らない人間はいないってぐらい大きな金融会社なんだよ」
『0777観察日記帳』と表紙に書かれたノートに、すらすらとシャープペンシルを走らせていく大塚さんは説明と仕事を終えたのか、ノートを閉じて、また恐ろしい瞳で私を見てきた。
「そんなのはどうだって良いのよ、重要なのはここからよ」
「はっ?」
「なんで外の世界に一歩も出たことのないあんたが、ドのつくお金持ちで、しかも跡取り息子と一緒に歩いていたのかってことが問題なのよ。たしかに京都に戻ってきたとは聞いてたけど、だからってなんであんたなのよ」
私の肩を持ってがこがこ揺らしてくる大塚さん。ちょっと待って、大塚さんががこがこ揺らすのは良いけど、一応細心の注意を払わなくちゃいけない私を、こんなに乱暴に揺らしていいの、なんて思う暇もない。私一応この研究所じゃ最大の秘密となる生き物なんだけどな、なんて考える時間すら与えてくれないのが大塚さん。
「私なんて理想の男なんていないのに、どうしてあんたは、収入は云千万以上が確実、顔も良いし、家柄もばっちり、おまけに頭まで良い男に魅入られてるのよ」
がこがこと揺らしてくる大塚さん。違う、大塚さんの言う理想の男がいないわけではない。ただ、ごく少数過ぎて見つけるのがかなり困難ってだけだ。今時大塚さんの求める人間が現れたら、私は両手を叩いて祝福する。これ以上は止めてくれ、本当に気分が悪くなりそう。
「おい、もうやめてやれ・・・ナナは一応貴重な材料なんだ」
しっかりと大塚さんの腕を掴んで説得するのは東山さん。若くして妻子持ちの彼が大塚さんを説得すると、彼女は何かを諦めたらしい。東山さんって時々すごいパワーを持っているような気がする。だって、今だってそうだ。おそらくあの暴走しきった大塚さんを止めることができるのは、東山さん、彼一人ぐらいだ。
渋々とノートを持ってどこかへと行く大塚さんの背中を見て、私は座っていたベッドから床に立って、しっかりと東山さんに頭を下げた。
「助かりました、ありがとうございました」
「いや、良い・・・それよりも、ナナ、お前は一体どんな手を使ってあのバカの機嫌を良くしたんだ?」
「馬鹿って・・・アキハルくんの事ですか? 私は普通に道案内をしただけですが」
「バッカ野郎、アイツが普通の道案内であれだけテンションが高くなるかよ。昨日はまじで怖かったわ」
初めてアキハルくんに会ったとき、たしかに言っていた『従兄の兄貴がいるここに来て治療してもらったってだけ』と。もしかしたらいとこの兄貴とは、と考えた私の読みは、今度こそ間違いではないと思う。普通に考えて、東山さんの息子さんは、今年の四月に小学一年生として、入学式があるから有給を取らせてくれと噂になったぐらいだから。アキハル君にとって東山さんはいとこ関係なんだ。
「・・・アキハルくん、普段はおとなしい男の子なんですか?」
もしかしたら、なんて思いながら言った私だったけど、東山さんからしてみれば驚きの発言だったらしく。目を真ん丸にして、長いため息のあと、はっきりと言った。
「なんでだよ・・・・・・良いか、アイツが大人しいなんてカテゴリーに入ったら、全人類が清らかでおとなしい人間になるって・・・・休日はいっつも怪我を作って帰ってきては、俺の親父、つまりアイツのお祖父さんと喧嘩してるし・・・学校がどうとか、本家の跡取りとして云々とかって」
つまりはやんちゃボーイなんだ、と東山さんは言いたいんだと思う。だけど、東山さんが身内の話している時は、どうしてかいつも悲しそうな瞳をしていて。家族って良いよな、なんて思った時だった。
「・・・・・・ねえ、東山さん?」
「うん、どうした? 未成年のくせに、大塚みたいに伏見までひとっ走りして日本酒買ってこいってか? お前はまだ早いよ?」
「・・・・・・・・ううん、違うの、私って、両親いたよね」
ぴたりと動くことをやめた東山さん。だけど私は自分の事しか頭になくて、続けて言う。
「だって、私は一回死んだ身なんでしょう? だとしたら、私を産んでくれた両親が存在するんだよね? だけど私、一度も両親を見たことがないよ・・・・ねえ、これってさ」
「ナナ、もうお前、部屋に戻れ」
いつもよりも低い声の東山さん。どうしてだろう、私は当たり前のことを言ったつもりだったのに。
「・・・・東山さんは、知ってるんだね?」
私が両親について全くと言っていいほど思い出せないこと。思い出したくても、気がつけばこの施設にいた私にとって、両親の写真もなければ、形として残る物もないので、思い出せないこと。東山さんは絶対と言っていいほど知っている、私の両親を。無理をしてまで聞くことはいけないのだろうか、知りたいと思うことは、これほどまでにいけないことだろうか? 私はどうしても彼らのことを知りたかったから、東山さんが着ている白衣をぎゅっと掴んで、彼に訴えた。
「どれだけ失望したって構わない、どんな事実であったとしても絶対に受け止めるから、だから」
教えて、と言おうとした時だった。後ろで何かが落ちる音がした。ノートが数冊ほど、バサバサと床に落ちてしまった音。研究室の出入り口付近では、驚いた表情の大塚さんの姿。普段は長い髪を後ろで一つにお団子括りをしている彼女だけど、仕事を終えたのか、もしくは本日は合コンとやらでもあるのか、やたらとお洒落にしていた。滅多に見ない大塚さんの、気合の入ったメイク。大塚さんは基が良いから、たとえ異性に会おうともほんの少しのメイクで良いんだろうけど、今日は余程の行事があるのか、ばっちりと決めている。彼女に見合う色のワンピースに、お気に入りだと自慢げに言っていたブランド物のバッグ。椿の形をした髪飾りは、どこか悲しそう。
いつも一緒にいるはずだった。本気で「年収四千万以上で、高学歴、料理が出来て優しくて、包容力があって、さわやかイケメンさんで年下の人とお付き合いしたいわ」なんて、ありもしない幻想を抱いて、いつも私が「そんな人いないよ」なんて、冗談を交えたりしながら笑う相手だった。少なくとも私は信じたくなかった。まさかぽろり、と大塚さんの事を「おかあさん」と言いそうになったなんて、どれほど天と地がひっくり返ったってありえないのに。
第四話
私がやったことが馬鹿だったと後悔したのは、高校卒業をあと数カ月と控えた時だった。
「えっ? 受験をやめたい?」
友人の東山に相談した。アイツはなんだかんだで良い人だから。異性で、男友達だけど、良いやつだから、私が困ったときは真っ先に相談していた。
「カナにしては珍しいな」
こいつは推薦組だから「楽勝」なんて言って、今は悠々と毎日読書タイムでもしているらしい。羨ましい、私なんて親が厳しいから、いっくら公立でも有名な学校だろうが、私立でも名の知れた大学だろうがお構いなしだ、実力勝負一本で行ってこいの一言だ。おかげさまで、とでも言うべきか、私の成績は全国模試だといつも上位だった。家はそこそこ裕福だからお金にはあまり困っていないし、上の兄貴はどっかに行った。行方不明になったとか、家出をしたとか暗い意味ではなくて、私も良くは知らないけど、
『あいつらの言うことなんてもう聞きたくない』
と言って、小さなショルダーバッグ一つで欧州へと行ってしまった。これを人は家出と言うのだろうが、私の家ではなぜか家出とは言いたくないようで。世間様の風当たりとか、白い眼とか、一番気にする両親だからだろうな。
「珍しい、のかな?」
良いのか悪いのかはわからないけど、世間様やらの目をやたらと気にする両親のもとで育てられた私は、成績優秀運動神経抜群にまでなった。料理は自慢できるほど得意じゃないし、裁縫だって不得手の類になる。女の子らしいことと言えば何もないけど、一応生物学上は女。子どもの頃から「がくしゃさん」になりたかった私は、東山にとある理由で大学受験をやめたいのだけれど、両親になんて説得したらいいのかが分からない、と相談することにした。
「だってお前さ、餓鬼の頃から学者さんになるって言ってたじゃんか。営業してる父親見てあんな仕事に就きたくないとかって」
東山とは幼稚園のころから一緒で、男女の隔たりというものが普通はあるはずなんだけど、なぜか私たちには存在しなかった。男女の隔たりが存在しない原因は分かってる、東山があまりにも女遊びが激しいから、私が東山を一人の男として見ることをやめた、これに限る。
「そりゃそうなんだけどね、でもね・・・・」
もうこうなってしまった以上受験はできない、と呟くように言うと、東山は飲みかけのお茶を私に手渡した。これを飲めと言うのだから、こいつは本当に馬鹿だ。そして、私も何のためらいもなく口をつけて飲むのだから、東山以上の馬鹿だ。
「・・・・・・うま・・・」
「すぐ近くの自販機で買ってきた。新作って書いてあったから気になって・・・・それで、なんで大学受験をやめたいんだ? お前さん宅って、言うほど貧乏じゃねえだろ?」
「・・・・うん、家は貧乏じゃないし・・・学力が足らないってこともない、今のところ、志望校は全部合格圏内」
「だったら、なんで?」
ほんの少しの憎しみと、理解できない気持ちいっぱいで言う東山。きっとこいつならどれだけ私が馬鹿なことを言っても、絶対に笑わないでくれる。私は大きく息を吸って、東山に今の私の身体に起っている変化を言う。
「・・・・・・・わたしね・・・」
私はものすごく軽い口調で、今自分の身体の異変について相談した。こういった事は、普通、同性の友達や親に言うべきなんだろうけど、馬鹿にされることを、私はどこかで知っていたから、東山に相談することにした。
月一のものが、もう5ヵ月も来ないことに気がついたのはつい最近のこと。それまで私は忙しい受験勉強に日々の時間を使っていた。目指すは全国的に見て有名な京都の旧帝国大学。国立学校出身の学者さんなんて魅力があると思ったのだ。苦手だった古典も何とか東山に教わって8割キープをしていた。数学や理科目については勉強をしなくても9割は取れていたから、努力をしてまで手を付けることはなかった。だけど東山と私の力だけでは、私の成績はこれほどまでに伸びなかった。
「カナちゃんって本当に頭いいよね」
私が第一志望とする学校に通う、中高と同じ部活動だった先輩が、私の勉強をみてくれた。
「何言ってるんですか、先輩が丁寧に教えてくれたから、ここまで成績が伸びたんですよ」
先輩は先生になりたいという、高校の先生に。だから先輩と私の時間さえ合えば、こうして勉強を教えてもらえる。この時間が窮屈な家庭環境の中で生きていく私にとって、心安らぐものとなっていた。大げさだろう、たかが10余年しか生きていない女子高校生が、たった一人の男の先輩と一緒にいられる空間や時間が、これほどまでに心安らぐなんて。だけどこれは本当のお話。きっと私はこうして勉強をみてもらっている間に、自分でも気がつかないうちに先輩のことを好きになっていたんだと思う。両親に褒められたくて頑張って勉強していたんじゃない、先輩、たった一人に褒めてほしくて、普通かもしれないけど寝る間も惜しんで勉強していた。
だからいつもの放課後、先輩から勉強を教えてもらっていて、突然勉強と全く違うことを言われた。
「僕さ、来週の明けぐらいに、留学するんだ」
一瞬、英語を勉強していたから、先輩が私の出来なささを見かねて答えを言ってくれているのだと思った。だけど今やっている長文のものは、男の人が二人で神話を語っていたら、空から天女のごとき美しい女性が舞い降りてきたという変わったお話。どこにも留学なんて単語が無くて、どれだろうと思って探していた。
「ああ、違うよ、英文のじゃなくてね、僕が留学するんだ」
ぴたりと動きと呼吸が止まった。意味が分からなかったから。
「えっ? だって先輩は国語の先生を目指しているんでしょう? なのにどうして、留学なんかを?」
私は意味が分からずに、ただ先輩を見ていた。
「うん、国語の先生になれたら良いよね・・・・でもね、ただ学校に行って先生になるだけじゃだめだと思うんだ。自分でいろんなものを見ておきたいんだ、そして感じていって、自分の目で確かめたほうが、ただ学校で学んだ先生よりももっと素晴らしい先生になれると思うんだ」
瞳から涙がこぼれそうで、怖かった。泣いたらダメだと、何度も自分に言い聞かせる。
「そ、それじゃあ、もう会えないの・・・?」
「ううん、会えないわけじゃない、きっとどこかで会えるよ。
君が僕のことを好きだと言ってくれれば、僕はカナのことを忘れないから」
優しく振れた唇に、私は身をゆだね、先輩が望む行為をした。
「お前さ、常識的に考えろよ、馬鹿じゃねえの?」
私は先輩と離ればなれになってからの五か月間、何も考えずにただ勉強をしていた。先輩と同じ大学に入りたい、もう一度先輩と会いたい、先輩にちゃんと自分の気持ちを伝えたい。この一心で頑張った五か月間だった。だから気がつけば月一に来るであろうものが来てないことに気がついたのは、つい最近のこと。
「はああ? あんた何言ってんの?」
東山なら絶対に馬鹿なことは言わない。アイツはなんだかんだで女遊びをして騙したりはするけど、汚い言葉を使えば相手が傷つくことを知っているから、絶対に使ったりしない。何よりも、東山は私にとって、私の両親よりも良き相談相手となるから。もしも私が「市販の検査薬で試したら、妊娠してるって分かったから、大学受験をやめたい」なんて両親に言ったら、怒りが頂点に達して、どうなることかわったもんじゃない。だから、東山に相談して、どうしたら良いのかを聞いて、第一声がコレだ。
「いや、普通にさ、常識的に考えろよ・・・お前さ、カズ先輩に騙されてるって」
「そんなわけないもん」
「いやいやいや、カズ先輩はやめとけって言ったのに、お前、忠告聞かなかっただろう? まったく、自業自得・・・・・あの先輩、頭は良いけど、第一に大学なんざ行ってねえよ」
「えっ?」
ウソだ、と思いたかった。東山は絶対に嘘なんか言う人間じゃなくて、嘘を言うのは自分から体を求めてくる、だらしのない女の人だけだって言ってて。信じられなかった、カズ先輩が喜んでくれるのがうれしくて、先輩に会えることを期待して。もしも騙されたというのであれば、私が頑張ったこの五か月間は一体何だったのだろうか?
「だって、先輩がこのメモ紙をくれたよ、ここが留学先の家だからって、外国の住所」
これが何よりの証拠と言わんばかりに私は東山に、先輩からもらったメモ紙を渡す。すると東山はメモ紙を数秒ほど見ては、自身の部屋にあったノートパソコンを開いては、何かを検索し始めた。
「ねえ、ひがしい、何をしてんの?」
「もうちょっとだから待ってろ」
一体何が始まるのか分からなかった私は、ただパソコンの画面を見つめながら、キーボードをカタカタと打っている東山。私はただ不安だった、カズ先輩が東山の言うように、私をだましているなんて思いたくなくて。
数秒後、東山は私を手招きしてから「ここにこのメモ紙に書かれてある文字を入力してみろ」と言った。パソコンのディスプレイに写るのは、機会にめっぽう弱い私でも知っている、某検索画面が映しだされている。私は機械関係に関しては強い、東山みたいに早く文字入力をすることはできないから、おじいちゃんたちぐらいのペースで文字を入力し終わってやっと一息。相変わらずの入力スピードっぷりに短くため息をこぼした東山は、出てきた画面に誇らしげに言った、詰まる話がこういうことだ、と。
ウソだ、と信じたかった。
「そんなわけないよ、だって、先輩は」
パソコンのディスプレイに表示されているのは『error』と『検索の結果、一軒も一致されませんでした』の文章だけ。
「先輩はいつだって優しくてかっこよくて、自分の相談相手になってくれた、ってか・・・・あの人からしてみれば、カナ、お前は良いカモだっただろうな。そこそこいい家庭に生まれて、全国模試をやれば上位に食い込み、抜群の運動神経。おまけに他人を疑うことのない純粋さを持ってるんだから。多少自分がウソを言ったって、相手が疑う心を持っていないんだから、疑われる必要性がまるでない」
東山は何の疑問も持たずに、ましてや自分はこの事を知っていたかのような素振りを見せながら、スクールバッグの中に入っていたお茶を一気に飲み干した。どうしたら良いかわからない、これからたった一人で、これからの道を歩いていかなければならない。自業自得だと、東山のように言う人もいるだろうけど、私からしてみれば、突如襲った不幸に、目の前が真っ暗になった。私は幼い頃から望んでいた「全く知らない人にまで笑顔を振りまいて営業をしたくはないから、学者になる」という目標が、一瞬にして目の前から消え去ってしまった。カズ先輩だって、私が学者になるから勉強を教えてと言えば、喜んで勉強を教えてくれた。難しい問題が解ければ、頭を撫でて「やったね」と一緒に喜んでくれた。私はカズ先輩と一緒の大学に入りたくて、この五か月間、頑張ってきたはずだった。だけどこの仕打ちがこれなのだ。
ぼろぼろと流れる涙に、東山ほうが早く気がついて。胸の痛み、突然閉ざされた道、親に怒られるとかではなく、騙されたことの苛立ち。
「ちょっ、カナ?」
慌てる東山に、私は言葉を口にした、ごめんなさい、と。何度も、何度も口にしては、あの時騙された自分を呪った。私のお腹の中には、もう一つの小さな命が存在する。私がまだ、自分の事すらもきちんと出来ていないのにもかかわらずに、だ。騙されたことに悔しい、なんて思ってはいない。あの時、私がもしもほんの少しだけでもおかしいと思っていたら、私は今、幼い頃からの夢がこんなところで閉ざされるはずがなかったのかもしれない。
「馬鹿を言わないでちょうだい、貴女は一体何のために府内一の公立学校に通っていると思ってるの? 妊娠した、なんて馬鹿言わないで、大学受験をして結果を出しなさい」
東山が、俺も説得に入るからと言って両親に今晩、今の私の体の変化について言おうとした。
さすがに父親にまで一緒に説得してもらうのは悪いと思った。なんせ父親が家に帰ってくるのは夜の十時で。こんな遅い時間まで東山を巻き込んで説得するなんて、私からしてみれば意味深すぎた。これじゃあ、お腹の中にいるのは東山のと私の子どもで、二人は大学へは行かずに結婚するので許可をくださいと言っているのも同然だ。だけど東山は言ってくれた、「自分はちゃんと忠告したつもりだったけど相手が忠告を聞かなかったら、別にそれは言ったことには含まれない」と。とりあえず、専業主婦の母親をどう説得するかが問題で、とにかく下手に隠したってお腹は膨れるのだから、だったら正直に説明したほうが良いのでは、ということで、正直に話すことにした。すると、この一言が返ってきた。
「そりゃ私は馬鹿だよ? 府内一の学校に通えて、模試もいい結果を残せていたからって浮かれてて、このザマだ。だけど、これは本当なんだ」
信用してもらえるはずがないということは百も承知。だけどあとでうんと怒られるのは、騙された私だけだ。部活動が一緒だった人全員に聞いたけど、カズ先輩の居場所が分かる人は一人もいなかった。いたとしても私と同じ住所を聞いた人ばかりで。
普段私が正座をすれば五分ともたないけど、今日ばっかりは仕方がない。頑張って足がしびれようとも、正座をするしかないんだ。
「おばさん、本当なんだ・・・こいつ馬鹿だから、変な先輩に騙されて、それで妊娠して」
東山、アンタは本当に無関係で、私は馬鹿だからあんたの忠告も聞かないで。だけど東山はまるで自分がいけなかったかのように、自分がしでかした過ちを何とか赦してもらえるように、頭を下げていた姿は、私の心の中で何度も謝罪を繰り返すように促した。違うんだよ、お母さん、本当に悪いのは私一人だ。東山はいつだって「カズ先輩は止めとけ、あの人は何かがおかしい」って言ってくれた。すると私たちの願いが届いたのか、お母さんは持っていたコップを机に置いて、すっと立ち上がった。わかってくれたと思ったのは私たちの勘違いだった。彼女はいきなり立ち上がっては、一瞬何が起こったのか全く分からなかった。
「アンタの所為よっ、アンタと私たちの子が一緒にいるから、この娘が変になったんじゃないっ。アンタはどう責任を取ってくれるのよっ、私たちの大切な希望の女の子なのよ?」
ぱん、なんて生易しいものじゃなかった。思いっきり右腕を振り上げて頬に当てなければ絶対にならないような音と、普段目にすることのないほど怒り狂っている母親の姿に、私は悪寒を抱いた。怒っているのは見ればわかることだし、何よりも、東山はどちらかというと無関係な人間だ。自分が忠告したのに相手が聞かなかったのは、自分が言わなかった事と等しいなんて、無理に自分を責める言葉と同じだ。違う、東山は悪くなんかない。だけど怒り狂った母親は理性を失ったようで、東山を殴る蹴る。止めて、と言いたいのに声が出ない。東山は何も悪くない、私が全部悪いと言いたいのに、伝えることができない。どうしたら良い、どうしたら母親の暴走を止めることができる?
ふと、私の視界に真っ黒な電話が入った。ウチの人間はなぜか機械に弱い人間ばかりだから、ファックス機能搭載とか、あまり凝ったものまで家に置いてしまっては、使うこちら側が使いこなせないのだ。これで人を呼んで母親の暴走を止めよう。私はすっと立ち上がって、だけどはっと我に返った。まただ、と思った。私はいつの間にか人に頼ってばかりいる。しかもほぼ無意識に、自分じゃできっこないと決めつけては、他者に頼って解決してもらおうとしている。今回の件だってそうだ、東山に相談せずに自分で両親に「妊娠したから大学受験をやめたい」と言うことだってできた。だけど実際にやらなかったのは、私自身の無意識的な己に対する甘えと怠慢。ぐっと手を握りしめて、きっと小さな声だっただろう、だけど東山は全くの無関係だってことを証明したかった。忠告を言っておいて、私が彼の言葉を信じていなかったから、殴る蹴るの暴行を加えられて。これではあんまりにも東山が可哀想だったから、叫んだ。
「もうやめてっ」
普段だったら感じていた足のしびれも臆することなく、私は立ち合がって母親の暴走する右手にしがみついた。母親が離せだとか、アンタはうちの子どもなんだ、こんな変な人間と付き合うなとか。とにかく普段の母親を知っている私からしてみれば、一体誰なんだと思うほどの口調で。だけど言わなくちゃいけなかった、東山は悪くなんかない、悪いのはすべて私なんだと、だからもうこれ以上は止めてくれ、と。
「悪いのは、私だから、東山は、何度も注意したの、あんな人は止めとけって、だけど私は馬鹿だから、だから、だまされて、こんな体になって、だから」
もうやめて、と言ったかったけど、瞳から流れる涙に、私は言葉なんて出てくるはずがなかった。口からこぼれ落ちるのは、心から伝えたい言葉じゃなくて、後悔や嗚咽で。ぴたりと止まった右腕に、私は伝わっただろうか、と思った。むしろ、これで伝わらなかったら、どうやって説得をすればいいのかが全く分からない。病院に行って検査をすればいいの? 保護者が付き添いじゃなきゃ診察できないんじゃないの? もしもこの状態が改善されなかったら、子どもは捨てるの? ぐるぐるとマイナスの思考が回る中、母親が自分で手を止めたのではないことに気がついたのは数秒後。母親の後ろには、なぜか父親の姿。
「カナ、お前は頭がいいから応急処置の仕方ぐらいは分かるだろう? 東山君に応急処置をしてやりなさい、救急箱の場所ぐらいは分かるだろう、食器棚の横にあるから」
私はまさかと思ってはっと時計に目をやれば、時刻はまだ七時を半ほど過ぎた頃。まだ夜の九時にはなっていないから、本来であれば父親が返ってくるはずの時間ではないのだけど。だけど今の私からしてみれば父親が何時に帰ってこようとも、どうでも良かった。これ以上東山の怪我が深刻にならないように、父親に深く頭を下げてから、慌てて彼を自室へと移動させる。
「ごめんなさい、私が馬鹿なばっかりに」
自室へと東山を運んで、昔学校で教わった通りに応急処置をこなしていく。救急箱から取り出した消毒液とポーチの中に入っていたピンセットを取り出して、赤紫色に晴れた箇所に一階から持ってきていた保冷剤を包んだタオルを当てる。だけど一ヵ所なんてもんじゃなくて、下手をすれば十はあるから、忙しくて。全てお前の責任、なんて言われれば返す言葉なんてない。全ての責任は私に存在するのだから、東山は何も悪くなんかない。
「いって・・・・もう少しやさしくしろって・・・・それに、これはこっちが言い出したことなんだから、カナは悪くないだろう・・・・・・まあ、騙されたのはどうかと思うけど、日本全国のトータル的に見れば、言うほど珍しくもないだろうし」
「・・・・・ねえ、それって励ましてない」
習ったように包帯を巻いていって、湿布を張って、とにかく喋るよりも倍速く手を動かす。下では母親が叫んでいる、せっかくの子どもを、とか、あの子があんな変なことを言いだしたのはあの子と一緒にいるからとか。こんな会話、東山には聞かせたくないんだけどな。仮にも彼は私が馬鹿だからこうして被害にあったわけだし、彼を被害に合わせたのは一階で叫んでいる母親だし。だけどこんな言い訳が発狂して理性さえも失いかけている母親に言ったとしても、どれだけ信じてくれるだろうか? 一割信じてくれたらいいほうなんじゃないのかな、なんて思っていると、東山が突然私のお腹に触った。一瞬何事かと思って蹴飛ばしそうになったけど、ゆっくりと言った。
「本当に、いるんだよな・・・?」
誰が、と言いかけて、問いかけるまでもない質問に口を閉ざし、ただ首を縦に動かした。生理不順というものがあるらしいが、いくらなんでも五ヵ月はないだろうし、市販の検査薬であればしっかりと反応が出たのだ。だから首を縦に動かしたつもりだったんだけど、東山は何かを納得したようで
「だったら、俺、その腹ん中にいる子どもの養育費、少しだけど出すわ」と爆弾発言をした。
「はあああ? あんた何言ってるの? 馬鹿じゃないの? アンタせっかく偏差値も高くて有名な大学受かったんでしょう? しかも推薦入学で。何、大学行かないの? あたしそんなこと許さないよ? これ以上は自分から巻き込まれることは」
許さないよ、と本来ならば言いたかった言葉が、喉の奥で消えかかった。東山の瞳はいつになく真剣だった。あの、東山が、だ。女遊びばかりしていて、テスト勉強もろくにしないで、おまけに宿題もしないで、だけどテストじゃなぜか私よりも成績が上位で、クラスのムードメーカーで、いつもへらへらと笑っている。長年、と言っても十余年ほどだけど東山と一緒にいた私でさえ見たことのない真剣な瞳だった。
「・・・・・気持ちだけ、受け取る。これ以上、誰も巻き込みたくないもの、騙されて、アンタの忠告も聞かないで、自分の我が儘ばっかりを優先していた私の咎であれば、上等よ、受けて立つわ」
「ふざけんな、お前・・・・・もしもお父さんまでもがあんな反応を取ったりしたら、一体どうやってお腹の子を育てるつもりだよ」
ごもっともだ、反論なんて出来やしない。だけど、東山のお家は良い所だ。東山はいい加減なお兄さんの変わりとなるべく、戦前から続く商家の跡取りとなる人物なのだ。しかも東山のお家は、たった一代、つまり東山のお父さんがたった一人で立ち上げたお店なんかじゃない。代々続く、府内ではかなり有名な会社なのだ。今は欧州の独国に本店を置いてるけど、近々、日本の京都に本店を置くらしい。なんでも現在の社長さん、つまり東山のお父さんが和風の文化に強く惹かれたとかどうとかで。だから、もしも東山が「大学を行かずに知り合いの女が騙されて妊娠したから、お腹の子どもの養育費を払うために就職するわ」なんて言ったりしたら、東山家の末裔までの恥となる。東山にこれ以上お世話にならないために、私はたった一人であってもお腹の子を育てなければならない。無謀だとは知っていても、やらなくちゃいけない。
「だったら、やってみるがいいさ、出来っこないから。第一に金が上から降ってくるはずもないんだからさ、一七や八ぐらいの年齢で、餓鬼一人満足に育てられるはずがないだろう? 大人でさえも難しいんだ、その手伝いをしてやるってんだ」
「いらないよっ、これ以上東山に手伝ってもらうわけにはいかない」
「だったら、どうやってたった一人でやるつもりだよ、お金はどれぐらいあるんだ? 一人につき大体二千万は必要なんだぞ? 教育費だけでも。それから別途でどれぐらいかかるかわかってんの? お前、ちゃんと育てられるのか?」
東山が言っていることは間違ってなんかいない、正論だ。私みたいな馬鹿で年齢がまだ餓鬼扱いの人間が、子供を満足に育てることができるのかと言われれば、応えはすぐに出てくるはずなのに、私は馬鹿だから、認めたくなかった。だから言おうとした、アンタの手伝いなんかいらないって。
だけど突然開いた扉に私だけではなく、私の前に座っていた東山までもがびっくりしたようで。
「お前らちょっといいか? なんで俺がカナの出産に反対してると勘違いしてるわけ?」
ネクタイを緩めながら言う父親の姿に、私は呆然としてしまった。
「ど、どうして、反対しないんです?」
東山も疑問だったのだろう、もちろん私も疑問に感じているけど。すると父親ははっきりと言った、
「だって、カナは今まで十分頑張ってきたし、学校や模試の成績を見れば一目瞭然。ましてや勉学だけでなく運動にまで力を入れてる。しかもここ数年間の話じゃない、小学校からの話だ。お前がもしも本当にお腹に子供がいて、その子を産みたいというのであれば、こっちは反対なんかできない。なんせ初孫だからね」
私のお腹に指をさし、笑いながら言う父親。意外だった、絶対に妊娠を反対させられるだろうと思っていた私と東山からしてみれば、本当に意外だった。
「で、でも、まだカナは一八にもなっていない未成年者ですよ? 本当に良いんですか?」
東山が身を乗り出すかのように言う。私だって思うことは同じだ、直前になって産むのをやめなさいとか、おろしてやっぱり学校に行きなさいとか言うんじゃないのか? もしかしたら変な薬を飲ませて、途中でお腹の子ども事殺すつもりだから産んでも良いと言うつもりなんじゃないんだろうか?
「うん? だってさ」
父親はへらへらとしながら言った。
「カナは一度言い出したら、いうこと聞かないでしょう?」
にっこりと笑って言った父親に、私と東山は呆然とすることしかできなかった。私は京都府内でも有名な国立大学一本を目指す受験生で、「将来は学者さんになるんだ」なんて、小さい頃から言っていた私を、何の抵抗もなく受け入れてくれた父親。てっきり私は「ふざけるな」とか「おろせ」とか言われるかと思っていた。だから父親の言葉は、意外すぎて、ほんの数分だけ時間を忘れてしまっていた。
第五話
最新科学技術第一研究所。私はそこで不思議な日記帳のようなものを発見した。
「直筆からして、大塚さんかな?」
ファインダーに綴じてある何枚ものルーズリーフに、私は思わず時間を忘れて読みふけっていた。この日記帳のようなものには東山さんの名前が載っていたけど、私は一つの物語として読んでいて、気がつけばまだお昼には早いんじゃないのか、と疑ってもおかしくはない時間帯だったのに、いつの間にか空はオレンジ色をしていた。最新科学技術第一研究所なんて、名前は立派だけど、本当はここが資料庫であることを知っている人は、一体どれだけいるんだろう。今までの成果や、イケナイコトが外部に洩れないように、他者の目を搔い潜ることのできる場所のこと。この研究施設に数年単位でいなくとも、この部屋に入ることはできない。ならばなぜ研究員でもない私がこの部屋に入ることができたのか、なんてすぐに答えられる。
実は東山さんに「私の両親が誰なのかを教えてくれ」と頼んで、たまたま大塚さんとばったり目線を合わせた時のこと。大塚さんは何かを思い出したかのようにバタバタと慌てて何処かへと行ってしまった。
「0777、お前の両親どんな人か知りたいか?」
東山さんは私の目をじっと見つめて言った。
「きっと知らないほうが幸せだと思うけど、それでも知りたい?」
こんな質問、言われなくたって答えは決まってる。
「どんなつらいことになったとしても、自分で選んだ道だけは絶対に後悔しないをモットーにしてる私だよ? 何言ってんの」
すると東山さんは笑いながらポケットの中から鍵の束を私に差し出した。
「最新科学技術第一研究所、お前なら場所は分かるだろう? 部屋の一番奥の本棚に青色のファイルがあるから、見つけると良い。お前の両親のことがそれにすべて書かれている」
はっと顔を上げた私に、東山さんは私の頭を乱暴に撫でまわすと大きな欠伸を一つかましては、自分の研究所へと戻っていった。
こうして最新科学技術第一研究所のカギを手に入れた私は、東山さんの言われたように、部屋の一番奥の本棚にある青色のファイルを発見しては、今まで読んでいた。どこかの甘く、いまいちピンとこない物語に、私は本当にコレに両親のことが書かれているのか、と不思議に感じた。
「そもそも、東山さんが言ったファイルって、本当にコレなの?」
私は青色のファイルを閉じて、本棚をもう一度確認する。本棚にはさすが最新科学技術第一研究所と名前がつくだけはあって、ずらりと研究成果の報告書がまとめられたものや、私には理解できないなんちゃら細胞の応用、人体との電気応用などなど。私は生憎こういったものの理解には苦しむから、ファイルに手をのばして読んでみようとも思わない。本棚をじっくりと眺めること数分。東山さんの言っていた「青色のファイル」はどうやら私が今手に握っている物だけらしい。
「だけどな・・・」
果たしてこれには、本当に自分の両親のことがしっかりと書かれているのだろうか、なんて思ってファイルを持っている手の力を緩めてしまったのがいけなかった。バサバサ、とファイルの中から何かが落ちてしまったのだ。
「あ・・・・やってしまった」
おじい様から頻繁に言われていたのに、どうして私はしっかりと守ることができないんだろうか。『なあちゃんはちょっとうっかりしてるから、常に気を張っていろとは言わないけど、もう少し気を付けておいたほうが良いと思うよ?』おじい様からちゃんと言われていた言いつけすら守れないで、一体何が守れるのだろうか、などと考えながら腰を下ろし、ふと視線の先に入った物。
「なんだろう、これ・・・・?」
後ろには私のコードネーム「0777」が記入してある。しかも消えないように油性だろう、黒のペンでしっかりと。多分これも大塚さんの直筆なんだろうけど、と思って手帳のようなものをひっくり返す。
私は、胸が苦しくなった。おじい様が言っていた、メンテナンスなんて必要ないって。だけどこれはメンテナンス云々なんかじゃない。私が今まで知らなかったから、気がつかなかったから。どうして、とすら思えなかった私への罰だ。どうして大塚さんが寝る間も惜しんで私の面倒を見てくれていたか? どうしてあの時、ずっとただの研究員だと思っていた女性(ヒト)を、お母さんと呼びそうになったのか?
この日の合コンは最悪だった。全員ただの身体目的じゃないの、人の胸元ばっかり見やがってこのドスケベ野郎。
「カナさんって、すっごいスタイル良いね」
男から言われても嬉しくもなんとも思わない言葉に、適度な言葉で返す。
「そんなことないですよ」
もちろん、鉄板スマイルだけど、内心では「消え失せろカスが」なんて思っていることを表へ出さないようにすることを、細心の注意を払いながら。
「本当にカナって男に興味ないんですよお、無茶な要望ばっかり言っててえ」
アルコールが3パーセントしか入っていない飲み物を、どうしてお前らは一時間以上も飲み続けることができるんだ、と思う。きっと女子力云々だとかほざいているんだろうけど。この女たちは男の人たちと遊んでばかりいる連中だ。高校の卒業式当日に出産した私は、周りから見れば「一足早く男遊びを始めた人間」と周囲から認定されてしまった。だからか、髪をキャラメル色に染めた人間からこの日のように「人数が足らないから合コン来てよ」と言われる。ふざけるな、と思う。私の理想は合コンなんて安っぽい場所にいるはずがない。どこかの高貴な人達が集まるパーティーにいる素敵なヒトなのだから。
耳元には貴金属いっぱいつけた、見るからにバカっぽい猿・・・もとい、男たちはこれまた猿・・・女たちと一緒に馬鹿祭りをする。嫌いだ、こういった空間は。これじゃあ、私たった一人が浮きまくりじゃないか。たった一人、自分で言うのもなんだけど、清楚系に満ち溢れたワンピースにお団子ヘアー、珍しく滅多につけない銀色の腕時計に、初収入で購入したネックレス。一方で下品なぐらいに短いスカートにがっつり胸元が開いたキャミソール。おそらくお持ち帰りされることを望んでいる連中ばかりの中、たった一人清楚系お嬢様ですよ、はありえない。バリバリ浮いてしまった。今回の合コンに出席しているメンバーの女の子は、私を除いて全員、爪や髪の毛先までしっかりと念入りにしている。
帰りたい、というか帰らせろ。私は自分の娘のことが気になって仕方ないんだ。誘われた時、正直に「娘がいるから、合コンとかは良い」と断ればよかったのだ。長いため息をこぼしては後悔するばかり。今頃あの子はお腹を空かせていはいないだろうか。今日の晩御飯の当番は、本当なら私だったけど、無茶を言って東山に押し付けてしまった。アイツ料理上手いんだよね、もうお店開けちゃうんじゃないの、ってぐらいに。だけどあの子、「東山さんの作った料理は嫌い、嫌なものばかり食べさせようとするから。大塚さんの作った料理のほうが美味しい」なんて、嬉しいことを言ってくれる。
「ねえ、カナの番だよ」
こんな合コンの場で私が真剣に何か物事を考えていたのがいけなかったんだと思う。突然誘ってきた女(顔も名前も知らない)が、突然私の肩をゆすっていってきた。
「えっと・・・・・?」
だからいきなり私の番だと言われても、私が一体何をすればいいのかが全く分からない。すると横に座っていた男が(猿みたいだ、髪も木みたいな色をしているし、首輪つけてるし)私の腕を掴んでにやりと笑って言った。人の腕を掴むな、私の腕を掴んでいいのはあの子だけだ。
「やだなあ、王様ゲームだよ」
「おっ・・・・?!」
冗談じゃない、なんで子持ちの私が王様ゲームなんてものをやらなくちゃいけないんだ? 第一に私は娘がいるんだぞ、お前らと違って、純粋で無垢で可愛らしい、目がぱっちりとしてて、黒髪ロングに色白の超絶美少女が。なのになんで私が王様ゲームなんてしなくちゃいけないんだ。カンマ単位で考えた私は、これしかないと思った。店員さんには悪いけど、私は研究所に可愛らしい娘を残しているんだから。
「ごめん、私仕事あったの思い出したから」
普段早口言葉は舌を噛んで当たり前の私だからゆっくりとした口調で言っているつもりなんだけど、この時にゆっくりと喋っていたらサル(メス)に捕まってしまう。膝の上に置いていたカバンを握って、場所がお座敷だったことに感謝し、ジャンプして、場所を移動する。グラスや料理が乗っている机を飛び越えるなんて行儀が悪いことは、百も承知。だけど、耐えられなかった。一万円を机の上に置いて帰ろうとすると、
「仕事なんていいじゃない、今日ぐらいはさ」と、馬鹿な発言をするサル(メスその二)から言われてしまった。
「アンタは馬鹿なの? 私はあんた達サル共と違ってちゃんと働いてお金を頂いている身分なの。おまけに子どももいるから、サボれないし、そこの一万円、好きに使って良いわ」
すると私の腕を捕まえたサルは、予想通り力を弱め、呆然としてしまった。この隙に逃げるが勝ちだと判断した私は、店員さんに頭を下げてお店を後にした。後ろで耳障りな声が聞こえたけど、気にしたら負けだ。伊達に高校時代、いろんな部活動の先生から勧誘された身体能力をお持ちではない。今でもばっちり現役だ。
メイクが崩れるとか、ヒールの高いパンプスだと走りにくいだとか、全く気にすることなく国道を走って数分。なんでこういう日に限って、これを履いてきてしまったんだ、と後悔しながら走って目的の研究所について、
「はっ? どちら様?」
と、いつもなら「奥さん、おはようございます」とスマイルを見せてくれる警備員さんから言われたのもいい思い出。きっと私だって気がついていない。
「と、特別科学医療施設で、研究員をしている、大塚佳奈です・・・・す、みません、が、入れてください・・ネームプレート・・・中に忘れて・・・・・」
特別科学医療施設で働く人間には、必ずネームプレートというものを持ち歩かなければならないんだけど、時々いるんだ。私みたいに職場が知られたくない人間が、ネームプレートを持ち歩かずに外に出てしまうことが。こういう時、ちゃんと警備員さんに自分の名前と働いている場所を言えさえすれば、中に入れてくれる。かたん、と小さな音が聞こえたけど、今の私からしてみればどうでもいいことで。走ってきたからか、やたらと心臓が煩い。気のせいだろう、吐き気がするぐらい嫌な予感がするのは。
「えっ? カナさんですか? こりゃあ、失礼しました」と言ってあっさりと中へ入れさせてくれる警備員さん。ここの警備員さん、研究員の人たちの顔と名前、一応は覚えているらしいから、本人が自分の名前と職場を言えば、嘘か本当かどうかがすぐにわかるらしい。
中へ入ると、真っ先に向かったのは最新科学技術第一研究だ。夜の研究所なんて、ヒールの高いパンプスで走れば音が響く、不気味なぐらいに。研究所の前に着くと、私は硬直した。扉が開いていた。まさかと思う、この場所にあるのは超のつく極秘資料ばかりだ。おまけに私が高校時代から書いていた日記帳まである。青いファイルが目印のやつ。もしもあのファイルをあの子が見ていたりしたらどうしよう、なんて思っていると、
「お前のチビに鍵渡したぞ、たぶんだけど、お前の日記見た」
突然後ろから聞こえた声に私は驚きながら振り向くと、当然かのように言いきった東山の姿。
「な、んで? だって、成人するまでは絶対に教えないでおこうねって・・・あの子、父親がいないって分かったら、きっとショック受けるから、からせめて成人するまでは親のことを黙っておこうねって、ナナには言わないでおこうねって」
二人だけの約束のはずだった。私があの子、ナナを産んで、呼吸が上手く出来なくて一回命を落として、ここの技術で再び生きる人間となった時、東山と交わしたはずだった。なのにずっと親友だと思っていた東山はこうも簡単に裏切りやがった。
「おかしい・・・」
「おかしいのはアンタ方よ、どうするの? もしもあの子が傷ついたりしたら」
「違うわボケ、ナナがそんなことで傷つく神経しとるわけなかろう? どっかの誰かさんと一緒で馬鹿みたいに頭がお花畑なんやから、それよりも研究所が荒らされとる」
前半は怒りいっぱいの言葉、後半は失望いっぱいの言葉。って、東山、今研究所が荒らされてるって言わなかった? 研究所の中にずかずかと入っていく東山の後を追う私。
「・・・・・うそ・・・」
信じられなかった。全な警備、まさか一番の要であるここが荒らされるなんて信じられなかった。ナナはこんな乱暴なことをするはずがない。たった一つの真実が信じられなくて、部屋にある物すべてをひっくり返すような馬鹿な真似をする女の子じゃない。不法侵入、この言葉が脳裏に浮かんだ。カナ、と私を呼ぶ東山の声。
「腹、括るぞ」
万全な警備に甘んじていた私たちがいた、絶対なんてありえないと研究員なら知っていたはずなのに。研究所から無くなっていた資料はすべて知られちゃいけないことばかりだった、ナナに関すること、この施設が違法に手を染めていること。これらの全てが、この研究所から無くなっていた。私はゆっくりと首を縦に動かした。
第六話
遠い記憶の中、誰かが言っていたのを思い出した。
『京都の朝は寒いよね』
紺色のコートにふわふわの髪をまとめることなく、おろしている女性。彼女のことを私は覚えていないけど、あのファイルの中身を見てしまった以上、何とでも言える。どうして私が今まで疑問に思ったことがなかったのかが不思議なぐらい、とても簡単な疑問。私の両親は今どこで何をしているの? ほら、とても簡単な事なのに、どうして私は今まであの研究所にいて、思わなかったの? 普通なら、両親が、少なくとも片親どちらかが自分のもとにいなかったらさみしい、とか、悲しいとか、本当は思うはずだった。思わなかったのは、私が機械人間だから? 人が造りし人間だから? ううん、違うとはっきりと言える。あのファイルを見てしまった以上、こうもはっきりと言える。
あのファイルから落としてしまったモノは母子手帳。母親の名前には大塚さんの名前。母子手帳なのに子供の名前には、空欄。名前なんて書かれていないけど、変わりに私のコードネームが書かれていた。
「どうして、こんなにも寂しいの?」
考えなくたって分かる、つまりは私の母親は大塚さんで、父親がいないということ。だって、母子手帳の中身をいくら見たとしても、私の父親の名前は書かれていなかった。一瞬だけ、ひょっとしたら東山さんなんじゃないのかな、なんて思ったけど、私と東山さんの共通点なんて、血液が通っている人間であることしか変わりはない。東山さんがグロテスクなものを好めば、私はとことん乙女心満載のきらきらしたものを好む。ここら辺は大塚さんとほとんど同じ。トキメキもの万歳。
京都の見たこともない路地裏で、ただ一人しゃがみ込む私。に今まで何も言わなかった大塚さんや東山さんに対しての怒りがあるわけではない。むしろ彼らには、私が頭を下げなくてはいけない。勝手に施設を飛び出したりしてごめんなさい、今までありがとう、これからもどうかよろしくお願いします、って言わなくちゃいけない。だけど私が寂しいと思う原因の一つに、自分自身への感情がある。
どうして今まで気がつくことができなかったのか、これほどまでにも近くにいたのに。普通であれば気がつくことに、私はできなかった。大塚さんや東山さんがあれほど、私のために寝る時間も削ってまで頑張ってくれていたというのに。私は西条さんから聞いていたはずなのに。
ふわりふわりと積もる雪は、まるで私のようだ。すっと立ち上がって、今の季節を知る。もう、あと何日もすれば世間様一般ではくりすますが始まるらしい。いつもは東山さんが奥さんや御嬢さんを呼んでは研究所にいるメンバーで、近くのケンタッキーで購入した鶏肉を頬張ったり、トランプをしたりしていたな、なんて思ったり。大塚さん、そういや全敗してたよな、なんて思いながら空を見上げて、驚いた。
「お嬢、なんでこんな時間にこんなところに?」
マフラー巻いてコートをしっかりと着ているアキハルくんが、なぜか路上裏で、和風柄の傘をさして呆然と立ち尽くしていた。私は我慢なんてできなかった。吐息は白く、今の気温が低いことを示している中、私はなりふり構わずアキハルくんに抱きついた。
「ちょっ、お嬢っ、何を」
たぶんアキハルくんはいい迷惑だろう。いきなり私に抱きつかれているのだから。好きな人がいたらごめんね、将来を誓い合っている人がいたら、私を真っ先に怨んで良いよ。口から出た言葉は、大塚さんや東山さんだけではなく、西条さんやあの研究所で働いていた人たちや、アキハルくんに向けてのもの。
「ごめんなさい・・・わたしは、馬鹿だから、ほんとうに・・・ごめんなさい」
アキハルくんは優しい。普通、どこかの御曹司様レベルで、裕福な家庭で育てられていたら、きっともっとプライドも高くて、私みたいな人間が触れることも嫌うんじゃないのかな、と考えるのが一般的だと思う。震えながら泣いている私を、嫌がることなく優しく包み込んでくれた。
「それって大丈夫なの? 研究所に携わる人間以外には知られたらいけない書類が盗まれたって」
大丈夫なわけがない。きっと知られた数時間後には府内だけではなく、全国各地で知る人続出となる。
泣きじゃくる私をアキハルくんは「家が近くだから」という理由だけで私をお家へ招待してくれた。普段だったら絶対に、金持ちの家に上がらさせていただくんだ、と心から喜んでいたけど、今となっては喜びの欠片すら消失してしまっている。
私はどうしようもなかった。冷静さを失った私は、アキハルくんにすべてを話した。私が一度は死んだ身であること。再びあの研究施設で生き返ったこと。だけどあの研究所ではイケナイコトに手を染めてしまっていて、公に技術のことを後悔してしまったら、研究員の人たちの立場が危ぶまれること。私はたった一人ではどうしたら良いのかが全く分からなくて、だけど東山さんに相談をしようと思っても、出来なかった。恐怖心が私の判断を左右させたわけではない。ただ、なんとなく、東山さんに相談してはいけないような気がした。西条さんは、本日曾孫さんを見に欧州へと旅立ってしまい、私のとった行動は、
アキハルくんにどうしたら良いのかを聞くことだった。
もちろん、彼が部外者だってことは知っているけど、外部に漏らしちゃいけないことも、百も承知。だけど、分からなかった。これからどうすべきなのか、私は研究員の人たちを救うために何をしたらいいのか? アキハルくんは、私の話を疑うことなく、しっかりと相槌を打ちながら聞いてくれた。
「大丈夫、じゃない・・・と思う。もしも公に後悔されたりしたら、東山さんも、大塚さんも、みんな・・・・・・・」
考えるだけで嫌になる。もしも、が頭の中から離れないのだ。もしもあの時自分がしっかりとしていたら? 一か八かで良いから、大声を出していたら? 廊下に設置していた火災警報器を鳴らしていたら、研究員の人たちは立場が危うくなることはなかった? 負の連鎖がとまらない私は、いつの間にかぼとぼとと大粒の涙を流していた。どうしたら良いのか分からない、はいつの間にかアキハルくんの耳にも届いていたようで。はあ、と長いため息をつかれてしまった。
「警察・・・・・は、無理か・・・ナナさんの存在自体が公に知られたらいけないわけだから、迂闊に身元を明かすわけにはいかないし・・・・どうすべきか」
すっと立ち上がったアキハルくん。すると、どこからかバスタオルを差し出して、優しく言った。
「これ以上悩んでいても、何の解決策にもならない。だったら思いっきり遊ぼう?」
ねっ、と賛同を促す。何度も言うけど、私は人が造りし人間なんだ。大塚さんが「絶対に外には出るな」と何度も口を酸っぱくして言っていたのを、忘れているわけではない。これ以上、研究所の外で迂闊にふらつくわけにはいかないんだけど。
「・・・・・・遊ぶって・・・ギャンブル?」
「おっ? やりたいの? でも残念ながら日本国内にギャンブルってたしかなかったよ」
「でも遊ぶって」
アキハルくんは確かにさっき言った、これ以上悩んでいても、何の解決策にもならない。
だったら思いっきり遊ぼうと。
「何もね、遊ぶっていうのは、ギャンブルだけじゃないんだよ」
嬉しそうに言うアキハルくん。私は彼の言っている意味なんて、理解できなかった。
「つまり、研究所で極秘として扱われているナナさんを遊ばせたいけど、二人じゃあ意味深すぎるから俺らも来い、とな?」
朝の10時。京都駅周辺は、さすがに通勤通学時間を過ぎて、人がいると言えば、観光客や時間遅くに登校する大学生がちらほらいるぐらいだ。ただいま絶賛不機嫌の馨くんと、どこかしら嬉しそうに私とアキハルくんを見る悠斗くん。どうしてだろう?
「まあ、長い付き合いだし良いけどさ・・・・俺の親父、一応警官ってことは覚えておいてね? ナナさんのことを言うつもりはないけど」
ウインク下手くそな悠斗君の父親は警官なのか、なんて呑気なことまで考えられるほどまで落ち着いてきた私。やっぱり少しぐらいは外を歩いてみて正解だったのだろうか?
「だけどさ、地元案内って・・・・どうなの?」
不機嫌丸出しの馨くん。髪に寝癖をつけている辺り、おそらくアキハルくんが無理やり起こしたんだろうと思う。寝ている最中、本当に申し訳なかったな、なんて思う。
「わ、私ね、研究所の外を出歩いたことが無くて」
東山さんも大塚さんも同じことを毎日言っていたから、研究所の外は一体どんな世界なんだろうか、とか学校ってどんな場所なんだろうかとか、毎日考えながら過ごしていた。暗い女の子、なんて言われたってへっちゃら。実際に私は明るい女の子、なんて言葉が似合わないって知っているから。
だけど私がこんなこと言えば三人はぴたりと動きを止めて、目線を下へと向けた。
「そっか・・・外に出たことないか」
「学校にも通えん、か」
「ゲーセン知らない、人との触れ合いと言えば研究員のみの生活・・・どこの地獄」
ぶつぶつと三人そろって言うものだから、私はどうしたら良いのか分からなくて。十数秒後、不機嫌丸出しだったはずの馨君は首を大きく縦に動かして「ナナさん、どこに行きたい?」と言ったのだ。
「どこ・・・・とは具体的に?」
「いや、どこでも」
「どこでも・・・・?」
急にこんなことを言われても困る。どこに何があるかすら分からない私が、どこに行きたいと言えるはずがない。この土地、すなわち京都が日本の昔の首都だったことぐらいは知っているけど、あとは全く知らないのだ。こんな状況でどっかに行きたいと言える方が不思議なんじゃないのかな?
「って言ってもナナさん、今まで一度も外に出たことがないから、どこに何があるかとかわかんねえだろ・・・ここはベタに清水とかさ、祇園とか・・・・・?」
首を傾げて言う悠斗くん。
「お前らさ、本当に地元っ子? もう少しさ、歴史が分からない人間でも楽しめるような場所とかさ、思い浮かばないわけ?」
呆れ返るように言うアキハルくん。
「だって、京都って歴史の街じゃんか」
悠斗くんと馨くんが声をそろえて言うけど、私の限界はかなり近い。というか、もう吹き出しそうで怖い。いつだったか、東山さんが『何も思い浮かばないときはそこら辺をぶらぶらと歩いていると、ふとした時にネタが思い浮かんで、これだってなる』って言ってたの。
「良いよな、お前は・・・こういう時、『海外出身者なんでわかりません』って言えて」
不満をぶつけるように言う悠斗君は、本当に同じぐらいの年齢の男の子なのかと思ってしまう。顔を赤くして、頬を膨らまして、まるで私よりもうんと小さな男の子が、可愛くも怒っているようで。だからこそ、限界だった。ぶはっと噴出したと同時に三人の視線が私に集まるのを感じたけど、今まで我慢していたモノが一度にあふれ出てしまった。
「あっはははは、おっかしい」
お腹を丸めて笑う私に、数秒だけきょとんとしていた三人だったけど、途端に不満を言い始める。一体何がおかしいのかとか、そこまで笑う必要はないだろ、とか。特にアキハルくんが言う、ナナさんは笑いすぎだって。だけど一度笑い出してしまった以上、簡単には止めることが出来なかった。
たまたま京都駅に来ていた観光客の人たちは、私たちを物珍しげに見ている。別に視線なんて研究所で慣れっこだから良いけど、なぜかこの4人でいると、本当に心から安らぐような気がして。
「どうだった? 初めての京都観光は」
三人で一日中京都の観光名所を回っては食べていた私たち。夕方になり、芸子さんのお姉さんと妹さんを持つ馨君は人手不足だからと、綺麗な和服に身を包んだお姉さんに引っ張られるようにお店へ。悠斗君は、
『ウチ、親が警察やってるって言っただろう? それで門限がめちゃくちゃ厳しいから』
と言って走って家へと帰っていった。
「すっごく楽しかった。こんなに楽しかったの初めて」
大塚さんが日本史を教えてくれていたから、どの建物がどういったものなのかとかは、名前を聞いただけですぐにわかった。
「・・・普段研究所とかじゃあ、やっぱり実験ばっかり?」
ちょっと躊躇ったかのように言ったアキハルくん。これは、親切心も兼ねた気遣いってもの?
「うーん・・・・・ばっかりってわけじゃないよ・・・三カ月に一回ぐらいはお休みがあるから、その日は一日読書とか」
「・・・・文字読めたんだ」
ぴたりと動きを止めたアキハルくん。驚くのも無理はないと思うけど、だからって反応がちょっとオーバーな気がする。
「うん、研究員の人たちが教えてくれるの・・・・・気前がいい時とかは、余所の国の言葉とかも」
東山さんは『勘弁してくれ、俺は一生日本にいるんだ』と言って教えてくれないし、大塚さんは『わたしパス。英語苦手なのよね』と言って、結局西条さんが教えてくれる。こうして考えてみると、今日が初めてほぼ同年代の人たちと一緒に、長い時間を過ごしたと思う。今まではどちらかと言うと、二十代後半からの人間がどうしても接する時間が多くて、私と同年代ぐらいの人と長時間一緒にいることはありえなかった。そうこうしているうちに、すぐにアキハルくんの家についてしまった。もう少しでよかったから、時間が増えてくれたらうれしかったのにな。
「ああ、そうだ・・・・ナナさん元気になったみたいだから、お礼にこれあげるから、目つぶってて」
にっこりと笑いながら言うから、なんだろうと思って目を閉じてみる。オレンジ色の夕陽が差し込む中、そっと唇に触れたモノ。分からないはずがなかった。いつも以上に早くなっていく鼓動は、多分異常を知らせるものではなく、女の子であれば正常を知らせてくれるもの。不思議と、嫌悪感は抱かなかった。これは、私が女の子としての自覚が乏しいから、ではないと思う。
「・・・・この事は、二人だけの秘密ね」
私の唇に人差し指を当てて言うアキハルくん。何度も首を縦に動かす私を見て、何かを納得したのか、大きな門をくぐって「またね」と言って家の中へと入っていった。
今まで感じることもなかった。というよりも、感じるはずがなかった。心が温かくて、どこか恥ずかしくて、女の子として成長したと知らせてくれる感情。私はこの感情に、どのような名前を付けようか?
第七話
アキハルくんの家からどうやって帰ったか、なんて覚えていない。ただなんとなく道を歩いていただけ。
「奪われちゃった」
普通はもっとオーバーなリアクションを取るべきなんだろうけど、あっという間過ぎて、ただ首を縦に動かすしかなかった。数分は経っているであろうというのにもかかわらず、なぜかしっかりと覚えている。普段、アキハルくんみたいな財閥跡取り息子さんって、こういうことに慣れているのだろうか?
「・・・だったら嫌だな」
アキハルくんは数年間東京にいたらしい。ということは、そういった、例えば平気で好きでもない男の人と付き合ったり、手を握ったり、あるいはキス、もできるような女の子とのお付き合いもするのだろうか? 男だったらこれぐらい普通なんだろうか? だったら、一定のライン以上の事は? たしかアキハルくんは外国生まれだったはず。いつだったか、新人の研究員さんがまだ幼かった私に言っていた、身体の関係を持つならば外国の人とが良い、と。日本人は下手くそ、外国、特に西洋の人は上手い、と。近くにいた東山さんに『餓鬼に変なことを吹き込むな』と一蹴りしていたけど。だったら、西洋出身にあたるアキハルくんは、もう経験済みなんだろうか? だったらどんな女性と? やっぱりスタイル抜群で、お胸様が大きくて年上の人だろうか? 上に乗られて、『今夜は帰さないわよ』なんて甘い言葉に乗られて、一線を越えてしまったのだろうか? だとしたら、幻滅してしまいそう。
「・・・・・・って何考えてんの、そもそも付き合ってもないのに何でこんなことを」
首を横に何度も降っては正気をしっかりと保つように、自分に言い聞かせる。
「帰ったら、ちゃんとごめんなさいを言って、どういうことかを説明してもらう。これが私なりの考えなんだから」
周囲の視線にすることなくガッツポーズをとって、ふと見上げた大空に呼吸さえも忘れた。本来ならば夕陽色に染まる大空に、大きな黒煙がモクモクと立ち上がっていた。どくん、と嫌な予感がした。
「・・・・・まさかね・・・」
まさかとは思いたい。だって研究所の横には病院だってある。しかも同じ敷地内にあるから、いくらなんでも無謀すぎる。だったらこの胸の中に走る嫌な予感は一体何なんだろうか?
「ねえ、ひがしい? ちょっといい?」
東山が決心をしてこの研究所全てを燃やすことに、私は反対はしない。奥の地下に、ナナしかわからない場所に資料をどっさりと隠しておいた。いくら建物が燃えると入っても、計算上だと、あの部屋までは火が届くことはない、と東山が言っていた。
「あん? 今くっそ忙しいんだよ」
「それじゃあ、聞くだけにして」
ガソリンをそこらじゅうにまき散らして、ポケットの中に入れていた着火マンとライターを取り出す。急遽呼ばれた研究員も、腹をくくったらしい。各自研究室で好きなだけお酒を飲んでは、最期の晩餐会状態だった。手にしていた着火マンとライターを床に投げつける。
「たぶんだけどね、私ね」
「ああ、なんだよ」
「東山のこと、ずっと好きだったんだと思う」
ぴたりと動きを止める東山。そりゃそうだ、だって幼稚園の頃からずっと一緒で、私が馬鹿やって家庭崩壊させた時も、西条先生にナナを診てくれと血相変えて頼み込んだときも、ずっと一緒だった。しかも、東山は現在妻子持ち。
すると、くるりと振り返って言った。
「言うのがおっせえんだよ、馬鹿が」
ほんの少しだけ顔が赤い東山の言葉が、全く分からなくて。だけど突然抱きしめられた体で、何もかもが分かった気がした。東山には奥さんもお子さんもいる。でも、もしももっと早くに言っていたら、きっと私と東山は結ばれていた。遠くであの子の声がして、振り返ったけど、落ちてきた大きな火の塊で、私たちはこの世から消えた存在となった。
第八話
私が望んでいたことは、こんな事だったのだろうか? 「研究」や「最高機密」の二つから無援の状態となる「自由」とは、こんなにも悲しいものなのだろうか?
足早で研究所に戻った私は、愕然とするしかなかった。研究員の親族と思われる人たちが、ただ燃え盛る施設の前で号泣していた。消防の人たちに「私の子どもを助けてくれ」と嘆く、母親と思わしき人物。泣き崩れる人、耳にいつまでも残るほどの悲痛な叫び声。木材が燃える音。何かの化学物質が融合され、消しにくくなりつつある炎を懸命に消化しようとする消防士さんたち。嫌になる。ここは何度も言うけど、最先端をいっている医療施設を備えた科学研究所。そうそう簡単には消えるはずがない。おそらく巻き込まれたら余計に被害が出ると思われた病院内に入院している患者さんたちは、他の安全な場所に移動しているのだろう。良かった、彼らは無事なのだ。
「良かった、お前さんは助かったのか」
突然聞こえた声に、思わず肩が震えた。
「おじい様」
どうして? だっておじい様は海外旅行中じゃあないの? どうして日本にいるの? こんな疑問でいっぱいだった私の考えが、おじい様には筒抜け状態だったのだろう、にっこりと笑って教えてくれた。
「あれはな、カナさんから頼まれていたんだよ・・・ナナにだけは絶対に本当のことを言うな、先生だけでも、ナナのことが世間に知らされる前に、どうか逃げてくれってね」
とても後悔しているおじい様の顔は、なぜか理由を聞いてはいけないようで。私は今までおじい様と何度もご飯を食べたり、お茶をしたり、時には相談にも乗ってもらったけど、今のおじい様の顔は見たことがなかった。
「ナナちゃん、ゴメンな、お前さんがまだ赤ん坊で、カナがまだ二十歳にもなってないときに、突き返せばよかった。この研究所では命をつなぎとめることなど出来ない、死者蘇生なんて夢物語だと。お前さんら親子には、辛いことをさせて、本当に申し訳ない」
私の手をしっかりと握って、プルプルと震える身体で、深く頭を下げ・・・・はいそこ、じっと見ない。これは見世物じゃないの。最近流行のスマートフォンでパシャパシャ写真を撮らない。あと、お嬢さん方が使ってるやつ、クソ末端として有名よ、この情弱め。
「そんなことない、わたしはここで、こうして生きていられて幸せよ? ここの研究所の技術があったからこそ」
アキハル君とも出会えた、と言いかけた言葉を抑え込んだ。胸の奥で、何かが動いている。覚えていないはずの記憶が、ほんの少しずつだけど、動いている。空色のエプロンに、お玉を片手に持って、もう片手を腰に当てて、私を見ては呆れている。
『まあたナナはっ! ピーマン残すなって言ってるでしょう?』
『まあまあ、カナ・・・・ナナも分かってるって』
研究資料を眺めながら言う東山さん。このころの私はたぶんまだ、十にも満たないほど、幼い女の子だったはず。
『好き嫌いは許さんっ! そもそも、栄養価の高い野菜を残すとかどういうことよ? ナナ、しっかり食べなさい』
『ピーマンまずい』
『カナ・・・・餓鬼が好き嫌いをなくす方法として・・・・』
この後のこと、しっかりと覚えてる。東山さんが私の鼻をつまんで、箸で取ったピーマンを無理やり口の中へと入れたんだっけ。口が閉じたと同時に、手で口を押えて『さあ、ごっくんしろ』って言って。以来、息苦しさを食事中に出くわさない為にも、私は多少の無理をしてでも苦手な食べ物を食べるようになった。
頭の中にノイズが流れる。がががって、砂嵐みたいに。
『お母さんと・・・お父さんが、離婚して・・・・絶対に私の所為だ』
小さい頃の記憶ばかりだ。
『まあ、おじさんだけでも賛同してくれたんだからさ、ありがたいと思うしかないよ』
泣きじゃくる大塚さんに、何とかして支えようとする東山さん。私、どうしてだろう、こんな光景、見たことがないはずなのに知ってる。
また、砂嵐が流れる。
『先生っ、お願いします・・・・お金ならば将来、必ずお返しいたしますっ・・・・なのでどうか、せめてこの子の命を』
深く頭を下げては何度も願いを言う彼女。紺色のコートに白のマフラーからして、季節は冬。よく見れば、そこら辺の屋根には真っ白な雪が積もっていて。
『カナさん・・・・お願いだ、頭をあげてくれ・・・』
『お願いです、どうかこの子の命を助けて・・・私なんてどうなったって良いからっ』
地面は濡れているのにもかかわらず、服に水分がどんどん染み込んでいくのに、彼女は息絶えた小さな赤ん坊を抱きかかえながらおじい様にお願いを何度も申し込む。私は知っているんだ、この女性のことを。
「・・・・・ごめんなさい」
私が産まれてこなければ良かった。そしたら、彼女は、私の母親はごく平凡な女の子から女性になっていた。必要以上に苦しむことはなかった。
「いきなり何を言うんだい、ナナちゃん? 君のお母さんだって、君が今まで生きてきたからこそ、ここまで頑張れるんだってよく言ってたよ?」
謝るのは私の方だと言って、私の手をしっかりと握るおじい様。こんなはずじゃなかったと、ここまで後悔することは、果たして愚かだろうか? 私の本当に望んでいたことは、こんな事だったのだろうか? 普通の女の子みたいに学校に行って、友達作って、放課後に雑談なんかもしながら、帰りにパフェを食べたりして。テスト前になったら、みんなで近くのファーストフードにこもってテスト勉強。あわよくば恋人なんかも作って青春を謳歌する。
だけど今の私の状況はどうだろう? たしかに「自由」ではあるんだ。研究と、おそらく今後しばらくの間は研究と最高機密の二つから解放され、私はちょっとだけ普通の女の子になれる、はず。だけどこれは、本当に私が望んでいたモノ?
「・・・・・・ちがう、こんなこと、望んでなんかいない・・・わたしは」
はっと、気がついてしまった、きっとこれは罪なんだ、と。大塚さん、お母さんや東山さんが寝る間も惜しんで私のことを考えてくれていたのに、私は今以上の幸せと自由を望んでしまった。その結果として私のもとにやってきたのは「不幸の自由」なんだ。西条さん、と後ろから声がして、思わず私も振り返ってしまった。
「これは、一体どういうことだ・・・・・?」
メンズ用のシルクハットにしっかりと着こなされた黒のスーツ。おそらく愛用していると思われる杖からして、大分高齢のおじいさんなんだろうな、なんて、普段の私ならば絶対に考えていたであろうことを、この時はなぜか考えることが出来なくて。ただ、おじいさんのお髭がとても立派だった。
「ああ、源垓(げんがい)さん・・・・か、良い所に来たよ、松藤の坊主も」
松藤の坊主、で私ははっと気がついて、立派なお髭をしたおじいさんの後ろにアキハルくんがいることに初めて気がついた。謝罪をしなければならない、私がうっかりしていたから、貴方のいとこのお兄さんが自殺行為をしてしまったのだと。私が西条さんから言われていたように、私たった一人で行動を判断せずに、周囲の意見を尊重していたら、おそらくこんなことにはならなかったのだから。
「あ、あのね」
謝ろう、許されることではないけど、ちゃんと頭を下げよう。軽蔑されるだろう、お前のせいで、って。
「辛かったよね」
だから、アキハルくんからこんな言葉が出るとは思いもしなかった私は、呆然としてしまって。どうして彼が私に向かって「辛かったよね」なんて言うことが出来るの? だって彼はいとこのお兄さんを失ったんだよ? 私は本来ならば、どれほどのことを言われても、どれほどのことをされても、全く不満を言える立場の人間ではないのに。アキハルくんは私の頭の上に手を置いてゆっくりとやさしく、私の頭をなでると、自分の着ていた上着を脱いでは、私の肩にそっと掛けてくれた。
「どんな形であろうとも、自分の実の母親を失って、ちゃんと言いたいことも言えずに」
もう私は限界だった。涙でぐしゃぐしゃになった視界を、アキハルくんは持っていたタオルでぐしぐしと、少しだけ乱暴に拭い取ってくれた。多分、私は気がつかなかっただけであって、すぐ近くにあった幸せや自由に目も触れずに、ただ無理でどうしようもない、遠くの幸せにだけ憧れていたんだ。アキハルくんは、小さく「うん、これしかない」とだけ言っては私の頭から手を放して、西条さんに言った。
「おっちゃん、ナナのこと、俺のお祖父さんに話して、俺が面倒を見ても良いよね?」
たまたま近くにいた消防の人もアキハルくんの言った言葉が聞こえていたようで。持っていたホースを床に落としては、遠くにいた上司らしき人から「お前はなにをしとるんじゃい!」と一喝されていた。消防の上司さんと同じ気持ちだった西条さんとお髭の立派なおじいさんは、一瞬だけアキハルくんの言っている意味が分からなかったらしく、ぽかんとしていたけど、数秒後には二人ともため息をこぼしていた。
「いっくらんでも・・・・・・お前さん所の家柄はようわかっとるけどな、そりゃあ、おじいさんが許さんぞ?」
わかってる、私だって産まれてこなきゃよかったって、何度も思ったもの。
「ああ、あそこは格式高い娘しかお前さんにはやらんし、認めんかろう? それを、なあ?」
と言って私を見たお髭の立派なおじいさん。だからわかってるってば。私がどんな生まれの人なのかってことぐらい。だけどアキハルくんは言ってくれた。
「じっちゃんが言ってた、兄貴が万が一死んだりしたら、俺に会社の権限の全てを託すって。俺の娘、母さんがあんなろくでもなしと付き合うことになったから、せめてお前さんだけでもまともな道を歩んでくれって。名も広いあの会社を継いだら、少しは両親よりも満足な生活ができるって。俺にとってはつらいかもしれないけど、会社を継ぐこととになったら、米国留学は必須になる。ナナさん、まだ日本の技術じゃあ、不測の事態が起こった場合は何も対処ができないけど、医療が発達してる国だったらなんとかなるんだろ? だったら、俺がじっちゃんに引き取るように話して許可をもらう」
二人に対してはっきりと告げたアキハルくんに、私の視界はまた涙で前が見えないぐらいぐちゃぐちゃになっていく。私は最低な人間だ、大塚さんの、お母さんの将来だけでなく、東山さんやあろうことか、アキハルくんの将来性にまでヒビを入れてしまったのだから。するとおじい様と「お髭の立派なおじい様」はほんの少しだけ首を傾げた。二人の目には多分、アキハルくんのおじい様が私を引き取ることに関して、果たしてしっかりと許可をくれるであろうか、ということ。「お嬢ちゃん」と「お髭の立派なおじい様」は言った。
「あの家は格式高いお家柄だということは、知っとるな?」
わざわざ私と同じ目線で言ってくれたおじい様に、私は首を何度も縦に動かした。知らないはずがない、お母さんがあれだけ羨ましいと言っていたのだから、かなりのものなんだろう。おじい様は数秒間だけ私の瞳を見て、小さく「こりゃどうしようもないな」と言った。
「アメリカやったらどうにかなる聞いたから、私が引き取ろうとしたが、どうやら無理らしいな。松藤の坊主、お前さんにちょっと言っておきたいことがある」
すると「お髭が立派なおじい様」はアキハルくんの側に寄って、何やらひそひそと話し始めた。たぶん、私が聴いてはいけないことなんだと思う。ふと、おじい様を見れば、不安そうな顔をしていた。わかってる、アキハルくんのお家がどれだけ格式高くて、だけど私は育ちがあまりよろしくないから、もしかしたら向こうのお祖父さんお祖母さんに嫌われてしまって、暇を出されてしまうのでは、と心配をしてくれているのだと思う。
「大丈夫です、おじい様が心配するようなことは、何一つありませんよ」
ほんの少しだけ強がって、無理をして笑う。耳にいつまでも残るんだ、すぐ横で「もう消すのは無理だ」と叫んでいる消防隊員の人たちの声と、すぐ近くで泣き叫ぶ女の人たちの声が。ぼふっと、急に視界が真っ暗になった。どうしたのか、なんて思わなかった。ほんの時々だけど、西条さんは私をこうしてくれる。本当に、優しい人。
「真横で、まだカナさんたちが出てきてもないのに、大丈夫なわけあるか。今だけなら、うんと泣いたって許される。お前さんはいつだって優しい、誰かの気持ちを最優先して。今だってそうだ、私の気持ちばかりを考えて。今だけなら良い、自分の我が儘を言ったって、誰も咎めはしない」
パキ、パキと燃え盛る炎に、消防隊員の人たちの諦めの声も大きくなる。私はぐっと涙をこらえていた。こんなところで泣いたってどうしようもない、こんなところで泣いたら、先が思いやられるって。だけど、限界は案外近くて、がしゃん、と燃え盛っていた炎は木材を丸呑みにし、床へと強く叩きつけた。大人たちの悲鳴、仲間の死に涙ぐむ消防の人たち。私は、どうすることもできず、ただ西条さんの手をしっかりと握って言った。
「ごめんなさい」
「というわけで、ウチで引き取りたい」
火災から数時間後、全てのものが焼け落ちて、警察の取り調べから解放されたのは、早朝の五時半ごろだった。源垓おじい様は、本当に私を引き取りに来る気満々だったらしく、私がアキハルくんのお家に行くと言えば、顔を真っ青にし、心配だからついていくと言った。優しいおじい様だな、なんて思っていたら、横でこっそりと教えてくれた。源垓おじい様、実は若かりし頃は軍人で、かなりのお偉いさまだったらしい。今は戦前に婚約したおばあ様と一緒に、ゆっくりと残りの人生を楽しんでいるようで。
「御嬢さん、名は?」
噂には聞いていたけど、アキハルくんのお家は本当に大きい。別に今が初めて来たわけではないのに、大きな門と、立派な和風庭園を見た時には、さすがにどこの時代劇のセットですか、と言いそうになった。
「・・・・大塚ななみです」
この家の家督にあたるアキハルくんのおじい様とご対面するのは、今日が初めて。私を引き取るにあたって、おじい様の許可がどうしても必要らしい。アキハルくんにとって、お祖父さんお祖母さんが、ご両親代わりになるらしい。しっかりと東山さんに叩き込まれた礼儀作法で、お座敷で、正座を崩すことなく頭を下げる。こういう時、しっかりと習っていて良かったねって思うよね。もしも習っていなかったら、今頃首が吹っ飛んでいたかもしれないし。アキハルくんのおじい様の奥にあるのは、なぜか日本刀らしきもの。現在ではたしか、そういったものって持つのには良いんだけど、資格がいるって聞いたことがあるんだよね。アキハルくんのおじい様がもしも、資格を持っていたら、私は間違いなく「ウチの孫にそんな育ちも悪く礼儀もなっておらん馬鹿を嫁にさせるか」と怒り狂って、日本刀で斬り付けられそうだ。
ふむ、小さく言うおじい様。怖いです、非常に怖いです。今にも斬りかかってきそうなほど怖いおじい様に、私は最早、百獣の王ライオンが逃げ遅れたシマウマを今にも食べてやらんこともない状態。じっと私の目を見ては、もう一度小さくふむ、という。これで一体何が分かるのか、と言いたいけど、今言ったら確実に殺される。おじい様の後ろにある日本刀で確実に斬られる。
まだお母さんを失って数時間もしないうちに、まさかこんな目に合うとは思いもしなかったけど、ここで弱音を吐いてしまえば、私はこれから生きていくための場所がないのだ。
「うん、良いよ?」
けろりと笑って言ったアキハルくんのおじい様に、ついアキハルくんまでもが驚いてしまった。
「じ、じっちゃ・・・・・・・・?」
「その子、ウチで引き取るんだろ? だったらいいよ? 養女でもなんでも。うちにはろくな娘がいなかったからねえ」
するとアキハルくんのおじい様は大きな声で、豪快に笑った。どういうことだろう、もっと厳しいことを言われると思ったら「ふむ」を二回言っただけで終了とはな。しかも拒否ではなく許可が下りた。ぱっと近くにいた西条さんと源垓おじい様を見れば、自分たちは何もしてないの表情。何度か首を横に振っただけで。近くにいたアキハルくんのおばあ様もくすくすと笑う。
「しっかし、またえらい別嬪さんをつれてきたねえ? 一体誰目に似たんだか」
くすくすと笑うおばあ様。別嬪さんって、意味は分かるけど、一体ダレのこと? 呆然とする私に、突然抱き着いてきたアキハルくん。
「一緒に住めるぞ、やったな、ナナさん」
嬉しいと言えば嬉しいけど、こうやって突然抱き着くのはどうなんだろうか? やっぱり外国育ちだから、スキンシップとやらが日本人とは違って、大胆なんだろうか?
その日の晩、私は早速部屋をもらった。自室というやつだ。おば様とおじ様から大変気に入られた私は、おばあ様から目が飛び出るほど高い和服を頂いた。理由としては、おば様とおじ様が大変気に入ったから、だそうです。あとは髪が長いから。腰までのびる黒髪を持って、ふと思った。
「髪、切ってしまおうか」
はっきり言って、今まではお母さんが髪を乾かしてくれた。だけどこれからは一人で髪を乾かしたり、髪を結いあげたりしなくちゃいけない。はっきり言って、手先が不器用な私に、髪を結ぶことなんて、自信がない。はあ、と長いため息とともにこんこん、とリズムのいいノック音がした。どうぞ、と言えばすっと襖を開けたのは、私を引き取ってくれると言っていくれたアキハルくんだった。
「どう? 部屋、狭くない?」
わざわざ見に来てくれたのか、と思うと、ほんの少しだけ嬉しさが増す。ざっともう一度部屋を見渡す。六畳一間の、一人用の部屋にしてはちょうどいい広さ。ましてや、私みたいにあまりアンティークとか、おしゃれな洋服とかに興味のない人間からしてみれば、十分すぎる広さで。大丈夫だよ、と言えばアキハルくんは安心したのか、にっこりと笑って、開きっぱなしだった襖をゆっくりと閉めて、私に近づいてきた。落ち着いて聞いてね、と前置きをしたアキハルくんは、すうっと息を吸って言った。
「今年の秋に、アメリカに行くよ。向こうでね、留学をするんだ」
突然、とは言えない発言に、私はゆっくりと首を縦に動かした。だって、アキハル君が留学するって、いつか言ってたもの。
「じっちゃんたちとの条件だったんだ、ナナさんを引き取る約束として、向こうに留学して、会社を継ぐこと。俺の両親がさ、遊び人だからって、会社は継がないで、今は、生きてるかどうかも分からない状態。じっちゃんも、実の娘がまさかあれだけの馬鹿だとは思わなかったらしくて」
ずいぶんと自分の親に向かって言いたい放題だ。
「・・・・うん」
「だからさ、ナナさんもさ、出来ればいいんだ、一緒に来てほしいんだ。同じ学校に、とは言わないけど、アメリカに」
時計の針が、ちく、ちくと動く。私は顔を下げて、ゆっくりと考える。私はどうしたいんだろうか、なんて求められたこと、あんまりなかった。学校に行けるだけでもうれしい、友だちが出来るだけでもうれしい。
だけど、今はもう、もっと高望みをしてしまっている。
「良いよ、頑張ろう?」
顔を上げて、にっこりと笑いながら言うと、アキハルくんは意外だったようで。けど私の頭を撫でて、強引に奪われた唇。こういうの、なんて言うか知ってる。東山さんが言っていた、好きでもない人とするようなものじゃない、と。だったら、アキハルくんは好きでもない人と出来るの?
「覚悟してね?」
私の耳元で優しく言うアキハルくんに、不謹慎かつ失礼ながらも私は彼に引き取られることに、後悔してしまった。やっぱり源垓おじい様に引き取られた方が、よっぽど良かったのでは、と。
私の知らない世界