良質

・壁は橋になる


 直感として得る良さが良い、この良さは何ものにも代え難いと強く思った。この瞬間が堪らなくて足を運んでいたのだと改めて思った。だから、感銘を受けたという点ではこれまで見てきた展示の中でベストだと結論づけた。
 限られたものがあれば人の心を打つ作品が出来上がるという単純なものではないだろう。彼らはそんなことを狙ったりする余裕もなかったと各プロフィールから読み取れる。増山たづ子さんが撮影された写真の年代は私の幼少期と重なっていたから、当時の因習のようなものは母を通してありありと思い出せる。「家」という概念の存在感が十分にあったと私は感じていた。そこに嫁いできた者はそれを支えるべきだという認識もまだまだあったと記憶している。そんな中で夫が戦地から帰還しない。それでも帰りを待った。その時の思いが滲み出る増山たづ子さんの言葉にも展示会場で出会える。老木に向けた共感と沈むかもしれない村の記録を夫のために残そうと始めた写真による記録。十万カット以上の撮影で残した風景や村の人々に認められる郷愁を街中で育った私は感じた。その笑顔を見る度に私が生まれ育ったあの頃のことばかりが甦ってくるのを止められなかったからだ。あんな風に笑ってばかり、あんな風にポーズを決めて写るのが楽しかった。そのことばかりを思い出した。同時代の日本国内に見られた風景の素描があったのなら、増山たづ子さんが被写体に向けた眼差しがそれである。増山たづ子さんはそう生きた。その結果としての写真たちだった。限られたものなどどこにも認められない。見出していたのは外から見ていた私に他ならない。だから「そんな郷愁など錯覚だ」と断じるために浮かべた内心の言葉こそ、私は撤回すべきなのだ。
 ジョナス・メカス氏の作品もそうだと思う。カタカタと途切れがちに記録するフィルム映像に溢れる愛を氏は行間に閉じ込めるのではなくて、大切に収めた。それが氏の日常だったから。写される人たちが、写す氏の姿に返すもの全てが氏と送る日々そのものであったから。用いる道具のすべてを肯定する愛。不満や不安がないのではない。歴史的悲劇が落とす影は同時に氏が生きた個人史だ。クローズアップされるものが手の届く範囲のものであって然るべき、氏の映像作品にある親密さを観て何度そう思ったことか。それに心打たれる理由も、私の中にあることが嬉しかった。
 日々信仰に生きたシルヴィア・ミニオ=パルウエルロ・保田さんが時間を見つけては形にした作品群にあるモチーフは明らかで、後述するズビニュク・セカル氏の抽象作品と対照的だった。確かに一心に目指すという点で信仰と作品づくりは似るように思う。真剣味が作品に宿るのも必然なのだろう。しかし、その真剣さが見る人にどれだけ伝わるか、信仰という共通点を持たない人にどれ程の意味を与えることができるのか。保田さんにはその技術があったと感じた。だが、技術だけが感動の生みの親でないことは同じ『Walls&Bridges』の展示会場を構成する東勝吉さんの絵画を見れば気付ける。東勝吉さんの絵に認められる素朴さは、東さんが八十三歳から老人ホームで絵を描き始め、木こりを引退するまで絵画を学んだことがなかったという背景によって齎される贔屓目ではない。そう思える「由布雪」の佇まいがある。二枚で並び、版画のような味わいで黒の自然に雪を被せる。高い技術による再現性はないだろう。東さんが思い描いた一度の軌跡だと思った。目が不自由になっていったという紹介もあったと記憶しているから、東さんは本当に思い描いて筆を動かしたのだ。どれだけ信じて描いていったのか。九十歳で亡くなる前に筆を置き、これまで描いてきた絵を貶めたくないと述べたとされる東さんの思いがそこに窺える。東勝吉さんは最後まで生きて、描きたい絵を描いた。
 信じる思いを計量する基準なんてない。保田さんの場合、作品を作る手を止めたところが偶々、芸術作品を鑑賞する人の目に適う水準に至っていた。それが結果としての保田さんの信仰の現れとして見る者に写る。しかし、それは本当に結実した思いなのだと他人の私が代弁したくなる。保田さんの手によって生まれた素描ですら私には魅力的だった。奥に掲げられた修道女の像とその真反対に設置された足の彫像についても記したい。ケースの中にある二本の足は足首から上が存在しない。そして、アクリルケースの向こうには両手を広げて祈る修道女の像が遠くに見える。その修道女の像には足がある。だから、さきの彫刻によって象られなかった主の存在のなさが強く思いを語る。それだけで完結していないのが保田さんの作品だった。それらは見つめる者を待ち続けているから示唆的な吸引力があり、会場内の片隅で生きた熱を発する。
 ズビニェク・セカル氏は反ナチス運動に関わったことで強制収容所に投獄された。期間は四年間、恐らく酷い拷問も受けていたと紹介されていた。この事実を氏のアーティストとしての歩みに置かないことは、やはり難しい。拷問器具に対する拷問と命名された作品の細部にわたる異形さは、叫びすぎて聞き取れない悲鳴の塊のようで苦しい鑑賞を強いられた。とても濃い内容だった。氏の作品は内部に向けて入れ込んだ構造を持ったり、中央に差し込んだ板の木目で全てを表したりと抽象的ではある。しかし同じ抽象彫刻でも、イサム・ノグチ氏の手がける作品に感じ取れる声なき声とはまるで違う。ズビニェク・セカル氏の表現には紙面いっぱいのメッセージ性が保たれている。書いても書いても書きたい対象を語れないのなら、それは書くために用いている言葉が足りない。書きたいことを余すところなく書き切ろうと思うのなら、その要求に応えられるものを用いて表現するのが妥当だ。そのために書く行為から離れることが必要になることもあり、形象をどこまでも捨て去る必要が生まれることになる。それがただ抽象的な表現だっただけで言いたいこと、表したいことは何一つ減りはしない。メッセージ性を決めるのはその内容の量と質だ。だから氏の作品が伝えるものがそこに横溢しているのは当然で、表現の抽象性は氏が選ぶべき言語の問題に還元される。ただそれだけのことに過ぎない。そのようにして、ズビニェク・セカル氏はどこまでも語ったのだと思う。氏の知ったことと、最後まで信じようとしたものの全てを。
 「白い十字架」と命名された作品に組まれた長方形の木片は下から突き上げられるように並べられ、枠の中心より少しばかり上部でより細かく組まれる。木片同士の境目は左右対称、しかし上部と下部に嵌め込まれたものだけがその長さに違いを見せる。バラけた元の十字架を拾い集めて組んだように写るパターンが訴えるものを形而上学的な神とは呼べない。スパイラルな運動を真上から見たような印象は一点に消失する予感を秘めているのだから尚のこと、神という名で呼べない。それは氏の心身から発せられた力強いものだ。個人的に始められた信仰にかける他人の言葉など蹴散らされて然るべきだ、作品を前にして私は私にそう言い聞かせた。
 芸術とは何だろう。
 この問いに対する何かのヒントになればとここ最近、ギャラリーなどに足を向けたりした。情報を得ようという意識が強かったせいだろう。芸術に対して辟易している自分に気付いた。それで少し距離を置こうと考えていたところに出会えた彼らのあり方は、この問いに対する答えを出そうとすること自体の無意味さを浮き彫りにする。そう思ってしまう。ここまで書いてきた言葉も結局は、以下の感想に取ってつけたような格好つけでしかない。
「良い作品はいい。だって、良い作品なんだから。いいから見てみなって。その理由がすぐに分かるよ。」
 主観的で、誰かと議論できる客観的な論理を根こそぎ引っこ抜いたようなこの感想。これが私の原点であり、芸術表現が大好きな理由なのだから。彼らの表現に倒された壁に寝そべって堂々と、高らかに、あちらに向かって宣言する。私という基準を突き立てて。
「感情を巻き戻す無駄な努力。これらに伴う快感が喩えられたもの。それを好きに楽しむ私自身、それらをひとパックに閉じ込めた玉手箱。それを開けてしまったあの主人公として私は事情を説明しなければならない。永遠を与えられた者として。是非とも証言させて欲しい。」
 これが、私にとっての芸術なのだ。



・ 春夏秋冬


 ハッと息を飲む自然描写の了解は西洋絵画では感じ取れない。人の心情を投影できる近しさ、生き物としての地脈を感じてしまうのも本邦の文化ならではと思ってしまう。花下遊楽図屏風に描かれる賑やかさもそこを基点に生き生きして見えたし、四季花鳥図屏風の両隻にある生命力はより深く根付いた視線の力があった。琳派のデザイン性を遺憾なく発揮する夏秋草図屏風をあんなに接近して見れるとは思っていなかったし、その裏であの二体の鬼神が存在していたから、許された撮影を躊躇う理由はない。秋草図屏風も同様、両隻の地肌の輝きに負けない花姿である。見返り美人図の真価は直に見ないと駄目だった。紋様に皺を寄せる彼女の曲線美を知れる焦点がそこでようやく合った、私の節穴っぷりをここに披露する。極め付けは白縮緬地梅樹衝立鷹模様が施された振袖。あの衣装は見事という他ない。あれを若衆が着て辺りを闊歩していたかと想像すると格好良すぎだ。いずれも国宝、重要文化財に指定された名品ばかりである。
 『春夏秋冬/フォーシーズンズ』はこれらの名品とコラボレーションし、乃木坂46のメンバーがパフォーマンスを映像で表現する。各ブロックで組まれたインスタレーションの工夫もさることながら、彼女たちのダンス表現も各作品のポイントを踏まえたものとなっていて、例えば両隻のいずれを入れ替えても絵が繋がるようにほぼ同じ高さで描かれた秋草図屏風の特徴を抽出し、頭上のディスプレイのいずれにも現れる生田絵梨花さんの華麗な表現は角度を変えた優美な世界として左右双方で繋がっていた。また三百六十度の導線を確保されたインスタレーションにおいて、白縮緬地梅樹衝立鷹模様を構成する鷹が乗った衝立の数どおりに分割されたディスプレイに写る梅澤美波さんのパフォーマンスを統覚するのに必要な視点を、振袖の背でバラけるように衝立の中に描かれた梅樹と同じく、鑑賞する私たちが見出さなければならない。そうすることで振袖に施されたデザインの見事さにも目を向けられる。そういうイントロダクションも兼ねた映像表現となっていて、これもまた見事であった。眼鏡を要しない3D映像を体験する技術面での面白さもある。
 現在のアイドルの評価基準にはいつでも会えるという身近さに加えて、所属する音楽業界に身を置く者としてパフォーマンス面の見事さも重視されていると私は見ている。半可通として記せば、ももいろクローバーが注目されるようになって、かかる評価軸が見直されたのではないかと思う。だから、人気を博す乃木坂46さんのメンバーのパフォーマンスを不安視してはいなかった。実際には、先に記したインスタレーションの素晴らしい工夫と相まって見応えのある表現となっていた。そんな中で、植松松園の手による焔を表現した遠藤さくらさんのパフォーマンスは特筆に値する。源氏物語の一節を飾るあの妖艶さを彼女が体現していたと感じたからだ。一目で分かるアイドルとしての可愛さが翻る笑みが真に迫る程に壮絶で、振り乱される黒髪と紫に染まった白地の衣装の激しさが最後まで恐ろしい。振り向くたびにいずれかの「彼女」に出逢ってしまう一角の展示はお勧めである。
 密になるのを心配していたが、展示構成との関係で特に混雑しやすい場所を入り口から天井まで吹き抜けとなっている箇所に設けたり、テキパキとして要点を踏まえた説明を繰り返し、来場者を誘導するスタッフさんの手際の良さもあって予想よりスムーズに鑑賞できた(最後のグッズ販売は致し方ない混雑として我慢できる)。安全面への配慮も窺えた良質の展示である。
 古今の表現へと安心して足を向けられることを、観覧した者の一意見として最後に述べる。

良質

良質

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-07

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