女と

赤井かさの

 男は今、窓越しに自分の過去を見ている。心のフィルムを巻きなおし、静かに記憶を辿ろうとする。さも神の鼓動を聞こうとするかのように、耳を澄まし、静寂を確かめ、その中に記憶を辿ろうとする。月日は川面に漂う帽子のように滑らかに流れた。日記帳にしるされた女の後ろ姿を、記憶と日付が追いかけていく。月日はいつの間にか俺を残して無言で通り過ぎてしまった。おどけたパントマイムのうちに喪失してしまった道化師の素顔のように。振り向くと、これまで歩いてきた道に、過去の自分の影が枯葉となって舞い落ちていくのが見えた。追憶の果てに置き忘れた手紙。揺らめく記憶の切れ端をつなぎ合わせてみても、女の輪郭はぼやけたまま色あせるばかりだ。ドラム缶のなかで酸にゆっくり溶けていくマネキンのように、降り積もる雪が足跡を消していくように、女の姿が月日の経過に外形を失っていく。蛇口からしたたり落ちる水滴のような時間。未来に歩を進めるごとに、背後に見える女の姿は後方に小さくなっていく。気が遠くなるほどの潮の満ち引きを繰り返し、時は流れた。回想のページをめくる青い顔。あいつはまだ生きているだろうか。俺と女との空間が際限なく広がっていく。悪魔が眠っている女の肩を揺する。蜜のなかに固まってしまった時間、銀の壺に閉じ込められしまった時間。ハイヒールのかかとが折れて、女の靴音が永遠に途絶えた。砂時計から、血の雫にも似た最後の赤い砂粒が舌におち、脈打つ女の秒針がすでに凍りついているとしても‥‥‥そうだとしても構うものか。死が黒マントをはおってやって来ようが、それでも俺は女の後ろ姿を追走しつづける。記憶の外側にある膨大な宇宙の時間。俺の思い出の外側に入り組んだ悠久の迷路に、消えた女の後ろ姿をどこまでも捜し求めるのだ。
 あんた、住んでるとこ追い出されたそうね、とその女は話しかけてきた。
「困ってるんだったら、少しだったらウチにおいてあげてもいいわよ」
                     

「月日は流れ、わたしは残る」といつかアポリネールを気取ってみたい、と学生のころ思った。だが人生はそんな甘いもんじゃない。男はすでに高齢者と呼ばれていて、そんな美しい詩が書ける感性などとっくに枯れていた。夕陽は黄昏に沈みゆくばかりだ。「高齢者でも老いぼれと言われるよりはまだましか」と現状にどっぷり浸かっている有様である。文学青年ならしっくりくるが、文学爺さんではサマにならない。生きていくということは、少しずつ死んでいくということだ。老境に入るにはまだまだ早いと思うが、始まりには必ず終わりが来る。終わりが来るから始まりもある。いくら見栄をはろうが、この世の中、常なるものは何ひとつ無い。連戦連勝で輝かしい栄光をつかみ、いま得意の絶頂にある者も、時の流れにいつかは負ける。
 ところで、人は老いていくほどに想い出とともに生きていくんだそうだ。そういえば男も短い間だが、遠い昔女と暮らしていたことがある。暮らしているというより養ってもらっていたというべきか。これはその女との、残っている記憶の断片を、ミレーの油彩画よろしく落穂拾いしただけの話だ。なんで読んだか忘れたが、バーナード・ベレンソンという人が、60歳を過ぎた者の書くものは二番煎じのお茶だ、と宣っていたらしい。だったら古稀が近づく男の書くものは何だ? 白湯か? 残念だが、若い頃ように中身の濃いものを書く力は残っていない。水っぽくなることは目に見えている。それでも高齢者福祉の一環かなんかと思って、お情けで一人でも、二人でも読み流してくれれば有り難い。
 男は地味な地方の公立大学の学生だったが、父親が急死したため尻に火がつき、気楽な学生生活がままならなくなった。人は経済的苦境に立たされると、誰でも金の前にひれ伏し、何をやらかすか分からない。「溺れる者は藁をも掴む」とか「貧すれば鈍する」とか昔の人はうまく言ったものだ。事もあろうに「一発屋で構わない、小説書いて一山当てればこのピンチは脱せる」とイチかバチかの愚かな妄執にとらわれ、やがて生き埋め状態で身動きが取れなくなってしまったのである。多少なりとも本が売れれば急場しのぎにはなる、うまくいけば学業を放り投げ作家稼業に転身できるかもしれないなどと虫のよいことまで考えた。そんな能天気な発想は「井の中の蛙大海を知らず」とか「捕らぬ狸の皮算用」とか、ことわざをいくら並べても足りないぐらいで、ただ呆れかえるばかりだ。この世の中、濡れ手で粟なんぞそんじょそこらに転がってはいない。要するに若気の至りで欲に目がくらみ判断を誤ったということである。けれども御当人は図々しくバンドワゴンに乗ったつもりになっていた。
 流行りすたりは世の常だ。今でこそそんな無駄骨に終わることにうつつを抜かしてと思うが、当時はまだ小説が売れる時代だった。こういう一攫千金の夢を追う山師的連中は至る所にいて、男がたまたまその一人になってしまったということだ。助かる道はこれしかない、と変な強迫観念にとりつかれてしまった方が悪いのである。現実はそんなもんじゃない。遠目には美しい景色も、近づくほどに幻滅を味わわされるとしたものだ。幻滅だけですんでいるうちはまだいいが、深みにはまるとそれだけではすまなくなる。合せ鏡に迷い込んだ光のように、出口が見つからず二度と外に出られない。とくに男が行こうとしていた場所は。

 女は風俗嬢だった。女は男のバイト先で働いていた。不思議な女だった。規格外の女だった。普通の女のイメージとかけ離れていた。女としてのリアリティーがあまりに感じられないので、描写がするのがとても難しい。自らをインテリ娼婦と称していた。自慢しているのか卑下しているのか分からない。娼婦かどうかは別として、えせインテリの雰囲気が垣間見えたのは確かだった。例えて言えばこんな具合だ。「カラマーゾフの兄弟の『大審問官』のパートはすごい、俺は十回読み返した。才能もあそこまでいくと恐れ入るな」などと普通の女に言えば、たいてい「バッカじゃないの」と白い目で見られるのがオチだ。だがその女は「それ、本の何処らへんに書いてあんのよ、長ったらしくて分かんないわ。話のネタに読むから教えてちょうだい」とインテリっぽい興味の示し方をした。
 女の話は機知に富んでいて、風変わりで面白く、いつも詩的だった。男は世の中にはずいぶんと賢い女がいるもんだな、とさえ思った。女の経歴については何度も聞いたが、いっさい取り合ってくれなかった。それどころか本名すら教えてくれないのだ。玄関ドアのネームプレートに名前無し。郵便物を見ればわかるとも思ったが、郵便受けもガッチリ鍵がかかっていた。名前を知らなくても別に困るわけではない。なんとなく腑に落ちない気持ちも残るが、店での源氏名は知っているので、男はこだわらないことにした。
 女は器量好しとはいかなかった。化粧で若づくりしているのでよく判らないが、少なくとも男より十歳以上は年上だった。娼婦と称するわりにはアフターや枕はしてないように見えた。それでも夜の世界でキャバやってけるのだから、いろんな言葉や表現をあっちこっちから仕入れて話術を磨き、特定の客を惹き寄せていたり、ヘルプ要員に徹したりしていたのかもしれない。最初は敬語を使ってよそよそしかった男も、その術中にはまり、知らないうちに恋人どうしのような砕けた話し方をするようになっていた。
 女の部屋は地震に遭った後の学校の図書室のようだった。国内外の詩集、小説、雑誌からパンフ、ガイドブック、手引書に至るまで訳の分からない活字の山が散乱していた。読んだら元の位置に戻せばよいものを、お世辞にも整頓された部屋とはいえない。女は「エントロピーはほっておくと増大していくから仕方ないわ」と男には意味不明なことをつぶやくだけで、乱雑な部屋を見られても平気の平左だった。「読むのは嫌なことを忘れるためよ、別に読書が好きなわけじゃない、睡眠薬や精神安定剤みたいなもんよ」とよく言っていた。女は若い男を自分の部屋に招き入れているのに、緊張の素振り一つ見せず、リラックスし放題だった。女は男をアンタと呼び、男も女をアンタと呼んだ。男が女にアンタなんておかしいが、そうだったんだからしょうがない。

 男が一作目を書き終えたのは、広さ三畳の狭い学生アパートの一室だった。男に本格的に幻覚が見え始めるようになったのは、ちょうどそのあたりからだ。極度の緊張状態で部屋にずっと閉じこもり、眠る時もその緊張がぬけなかったせいで、男はそれまでも明晰夢を見ることがよくあった。夢であることを自覚しながら夢を見るというアレである。胡散臭い話ではあるが、さらに男は夢遮断法という独自のメソッドを編み出し、いろいろ試行錯誤を繰り返すうちに夢のあらすじを意図して変えることすらできるようになっていた。また一瞬脳裏にその場と無関係な映像がフラッシュバックすることもよく経験した。ただしそれが自分の脳がつくり出したもので、現実でないことの区別は明らかについていた。確かにこれだけでも毛色の変わった人間であることは認めざるを得ない。
 だがそれにしても、一作目をある出版社の新人賞に応募した頃から、現実と区別がつかないほどの超リアルな幻覚があらわれ始めたのには驚愕した。ほら吹き呼ばわりされたくないが、ホントのことだから話す。かなり有名な小説家たちが、ある時はぼろアパートの通路に、ある時は手洗い場や出口に突っ立って男を見つめているのである。衝撃で視界が折れ曲がったような気がした。何人もやってきたが、ただ見つめているだけで男が彼らと言葉をかわしたことはただの一度もない。やって来た訳も言わず沈黙しているのは俺が黙っているからか、それとも言わぬが花だからか。都会の雑踏を歩いていて、偶然すれ違ったというのなら話は分かる。しかし著名で多忙な作家たちが、わざわざ男のぼろアパートに遠路はるばるピンポイントでやって来るというのは、どう考えてもおかしい。やって来る理由も目的も分からないではお手上げだ。投稿しては一次選考でポシャるの繰り返しで、落胆と心労のループにはまっていた男は、「ノイローゼの挙句、ついに狂ったか」とみっともなく取り乱し、奈落に突き落とされた。開かないパラシュートを背負い、超スピードで墜落しながら、広がりゆく夜の底を見ているような不安を感じた。降下とともに口に流れ込む薄墨色の空気が、やがて肺全体を黒く染めてしまうかのような暗澹たる不安を。
 普通の人が夢を見ているときは、それが夢であることには気づかない。だから目覚めているときの出来事が実はすべて夢だったとしても、同じようにそれに気づくことはないだろう。一方男は普通の人と違い、明晰夢を見ることができる。もし目の前に出現する作家たちが、たんに夢の中の登場人物に過ぎず現実でないのなら、必ず見抜くことができるはずだ‥‥‥‥このように男は、不安と恐怖を乗り越えようともがいた。亡霊たちがそんなに生易しいものでないことも知らずに。
 そんな中、男は女と遇った。いよいよ命運尽きたと観念していたところ、不思議なもので、その女と遇ってからというもの幻覚はほとんど現れなくなってしまったのである。一緒に暮らすようになってからはなおさらだ。幻覚も男と女の間にわって入るほど野暮ではなかったということだ。とりあえず男は胸の奥の暗闇を一気に吐き出したような気持ちになった。女はそれだけでも恩人なのだが、その後恩人を通り越して大恩人になる。ちなみになぜ一緒に暮らすようになったかというと、男が学生アパートを追い出されたからだ。その経緯は追ってお話しすることにする。

 ベッドの上で汗まみれの二つの肢体がもつれ合う。髪の毛のように絡まる二人の体。夜のギョロリとした巨大な目玉がその様子を見おろしている。舌の上でとろけるバターの塊のような濃密な時間が流れる。退屈の向こう側に性への渇望が吠えた。女のネグリジェの腰に皺が寄り、繊維の山脈をつくっている。それが手の甲に浮き出た男の骨の隆起とつながって、荒涼とした大地を走っている。
 耳元で囁く女の息づかいが雫となり、男の耳奥に垂れ落ちる。生ぬるい息が唇から漏れ出て、濡れた筆先のように男の耳をなぞる。よく聞こえない、何を言ってるのかい? 闇の湖面に朱墨をたらした女の唇の動き。とろけるルビーの唇。女の唇は濡れ、ガラスを挟んでいるように冷たい。冷たく濡れた微笑。
 女の首筋に骨が浮き出る。骨にはりつく銀幕の肌の乾き。指でふれると人形のなかに仕組んだバネの先端が肌を破ってとび出てきそうだ。しなった首から水茎を折るようなか細い骨の音がした。女の肌には真綿の滑らかさが溶け込んでいる。プリズムを通した光のように女の皮膚の下を虹色の血液が流れている。雨のアスファルトの路面に車のテールランプが尾をひくように、女のマニュキュアの爪が、闇に沈んだ男の背中を赤く濡らして滑っていく。女の動作の一つ一つが飴玉のように引き伸ばされ、視界をゼラチン状に固める。白く浮き上がった女の裸体に男の指先の神経の糸が絡まる。窓からのぞく三日月に男の触手がツタとなって絡まる。三日月の先から雫がしたたり、そのまま女の頬をすべる涙になる。糸で吊られた磁石が揺らぎ、女の髪が砂鉄となって反り返る。女の体を走るコイルに、男の指がめり込み、粘つく電流の帯がからまる。
 磨き上げた蝋人形の足首の丸みのような、女の肩のカーブが俺の手のひらの中で滑る。氷球を掴む時の流れ。二人の心が透明になっていく。ガラス管を通して俺の手首から女の手首へ血が流れる。管の先から耳をそばだてると、聞こえるはずのない女の脈拍が聞こえてくる。のぞき込むと、向こうに灰色の心臓の伸縮する動きが見えた。心臓の音を時計の針が刻んでいる。熱湯のように煮えたぎった男の欲望が、女の体にまんべんなく降りかかり、鉄のように硬直した背中をしならせていく。狂気が三角錐の頂点で踊っている。目を閉じると天と地が目まぐるしく入れかわり、宇宙が回転していた。星屑の渦の中に二人が抱きしめ合ったまま吸い込まれていく姿が見える。体内の何十兆もの細胞が宇宙の中に吸い込まれていくのが見える。
 コンクリートに打ち上げられたクラゲのように、女は透き通ったネグリジェのまま、ベッドのうえに溶けていた。浮き沈みする女の起伏は、暗く優しい夜の街並み。闇に眠る女の裸体は、柔らかい光の毛布にくるまれて淡い灯りに照らし出される。男の無数の分身が、枯葉のように乾いた無数の精子の屍となって、女の体にうず高く積みあがる。揺れる水鏡のなかに無数の男の影が沈んでいく。
 

 もう話したことだが、男は学生アパートに住んでいた。アパートといっても三畳間のワンルームが鶏小屋よろしく並んでいるだけだ。三畳のうち一畳が寝床スペースの小上がり、半畳が靴置きスペースであったので、実質の可動域は半畳である。立って半畳寝て一畳を地でいく世界だ。当然トイレ、風呂は共用である。貧乏学生の多いあの時代でも一階はガラガラで、二十部屋のうち二部屋しか埋まっていなかった。一階は鼠が出るからだ。男はこの狭い住まいを気に入っていた。静かで邪魔の入りにくい環境が作業場として好都合だったのである。ひと気のない一階が好きという点で男と鼠は馬が合った。男はこの間借り部屋を小説工房と呼ぶことにした。画家や彫刻家が作品を少しずつ創りあげていくイメージにあやかろうと思ったのだ。
 一階にはもう一人だけ鼠と馬が合う変わり者がいて、﨑田といった。どうせ偽名だろうから、ここで名前を出しても構わないだろう。風貌は作家の夢枕獏を若返らせて長髪にしたら﨑田になるといった感じだ。﨑田は学生ではなかった。最初は夜間の学生だろうと思ったが、昼ずっといるばかりでなく、夜もずっといる。そこで学生名簿を調べたところ、そんな名前はなかった。男は「コイツ、学生でもないのに学生のフリして安い学生専用アパートを渡り歩き、生活費をうかせている苦労人かもしれんな」と一目置くようになった。とりあえず一人ぐらい俺に似た相棒がいたほうが目立たなくていい。
 﨑田が鼻歌まじりに派手なバスローブをはおって風呂にいく姿をよく見た。自由奔放なローンウルフ気取りか。男は小説を書く時間がおしいと風呂に入らなかったので、チョークの粉をふりかけたように髪にフケが浮き出ていた。男は﨑田の背中を見つめながら、お前さん変人のわりには結構綺麗好きなんだなと舌打ちした。郵便受けなんだろう、英語辞書の紙ケースをドアに貼り付け、そこに油性マジックで「﨑田」と書き込んでいた。何かの偽装工作のつもりなんだろうか、サッパリわからない。「﨑田は実は二線級の作家で、あまりにも売れないので出版社に調査要員として雇ってもらって、俺を偵察に来てるんだ」とか「某国の工作員で何かよからぬの諜報活動をしてるんだ」とか男は自分勝手にあれやこれや奇想天外なストーリーをつくりあげ、面白がった。
 ある日、部屋のドアをノックする音がした。なかなかノックがやまないので、根負けして開けると﨑田だった。
酢に浸したような、ふやけた表情をしている。
「一階に二人しかいないだろう、いつか話でもしたいと思っていたんだ」
 﨑田の部屋は几帳面に片付いていた。古本で足の踏み場もない男の部屋とは大違いだ。男が大学に出席していないことは﨑田も知っている。「俺、学校さぼってるんですよ、籍なくなってるんじゃないかと不安で、一昨日イングリッシュ先生の講義受けました。まだ首はつながってるようで」と照れ隠しに切り出すと、﨑田は「きみ、そんなことも知らないのか。彼はフランス人なんだ、フランス語ではイングリッチと発音するんだ、イングリッチ先生だ、笑われるぞ」とぶっきらぼうに言ってきた。がさつな奴だ。威圧する者は恐れている。いったい俺の何を怖がっているんだろうか。ともあれ男はフランス人がhの発音が苦手だというのは何かで読んでいたので、なるほどそうかもしれん、コイツは只者ではない、苦労人の上に博識なのかもしれんなと緊張した。無教養がバレたら恥だ。油断大敵、ここいらで当てつけ気味にジャブでも打っておくか。
「でもフランス語に最後がshで終わる言葉なんてあるんですかねえ」
 すると﨑田は、ああ、腹が痛てえ、すごく痛えと急に寝転がってしまった。ストレートパンチをくらった反応だ。まさかエアジャブが効いたわけじゃあるまいな。尾籠な話だが、あまつさえ屁までした。臭いうえに空きっ腹で頭がフラフラしてきた、また何かの幻覚が出てきたら大変である。男は長居は無用とばかり、早々に退散した。どうやら笑われるべきは、知ったかぶりでエエ格好しいの御両人のようだ。﨑田とはもっといろいろ他にも話したはずだが、全部わすれてしまった。映像として今記憶に残っているのはこのシーンだけだ。
 大事件が起こった。ノックする音がする。ノックするのは﨑田と家賃督促の管理人しかいない。﨑田なら開けてくれと外から大きな声を出すはずだ。男は居留守を決め込んだ。しばらくするとノックはやみ、ドアの隙間から紙が差し込まれた。簡単にいえば「大家が立ち退きを強要している、ついては決起集会を行うので、大学〇〇室に午後4時に集合されたし」といった内容のメモ書きである。生き胆をぬかれた気分だ。折も折、男は留年で奨学金を打ち切られ、土壇場に追い込まれたばかりだった。立ち退けって? 貧乏学生を追い出すなんて罪作りもいいところだ。これは災難だ。小説工房はどうなるんだ、文無しで青息吐息の俺にどうやって生きてけってんだ。茫然自失となった男よそに、小ネズミが古本の山の間を嬉しそうに走り回っている。最初は気持ち悪かったが、慣れてくるとそうでもない。ネズミはじっと見てみると意外と可愛らしい顔をしている。いつしかネズミは男のペットになっていた。
 久々に大学の門をくぐったので何だか懐かしい気がした。会場は狭い部屋で、立錐の余地もないとはこのことだ。男はあの二棟のむさ苦しいアパートにこんなにも学生がいたことに驚いた。﨑田も会議にでてきてるはずだが、ざっと見渡すが見つからない。いかに変人といえども、はみ出し者同志のよしみで、いてくれた方が何となく気丈夫だ。集会の発起人は別棟の二階に住む学生だ。万が一にも迷惑がかかるといけないので、このリーダー格の男をAと呼ぶことにする。Aは共産党市議と並んでひな壇に坐っていた。腕組みして口を一文字に結んでいる。怒り心頭、腹の虫が治まらないといった面持ちだ。頭の中で鉄球が憤怒の炎に焼かれている。他の学生も切実な問題だけに模様眺めというわけにはいかない。立ち退きなど不届き千万と鼻息が荒い。殺気だっている。下火になって久しいが、学生運動が華やかなりし頃の決起集会もこんな雰囲気だったんだろう。
 市議のスピーチが始まると喧騒の波はおさまり、時化が凪になった。講義では居眠りしそうな面々も、自分のすみかが危ういとなれば切迫感から真剣に聞き入るのは当然で、やがて市会議員の雄弁さに魅了された。男はここに共産党書記局長の不破哲三あたりがほんのちょっとでいいから顔をみせてくれれば一件落着、勝負ありだな、と現実ばなれした想像に胸をふくらませた。‥‥‥君たちには居住権というものがある、わが共産党は虐げられる君たち若者の味方だ、と市議が締めくくると盛大な拍手がわきおこった。学生らは馬鹿の一つ覚えで「居住権、居住権」と言い合っている。他に言葉を知らないのか。なかには「立ち退き料せしめて焼け太りだあ」とこすっからいことを言ってる奴もいるにはいたが。そうだ、共産党と居住権が僕たちを守ってくれる!‥‥‥何だか分かったような分からないような居住権という言葉に単細胞どもは酔いしれた。今どきの若者がこれを見たら、開いた口が塞がらないだろう。﨑田がいるなら丁々発止と渡り合うはずだが、なぜか木の葉蝶のように目立たなくしていた。借りてきた猫だ。さすがに強気の﨑田も、大学生でもないのに大学の一室で、しかも大学生に囲まれた中で侃々諤々やる勇気はなかったようだ。
 ひとしきり議論とも言えない不毛なわめき合いが終わるといよいよ真打登場、Aが取りをとった。
「僕はたとえ最後の一人になったとしても決して諦めない。みんな、団結しよう。団結は力だ。ありとあらゆる方法で徹底的に抗戦しようではないか」と意気軒昂にぶち上げている。学生たちはAの演説にも聞き惚れた。大拍手だ。こうして決起集会は激情型の盛り上がりを見せて終わったのである。
 男は小説は語学と同じだと信じて疑わなかった。多く聞いて多く読まなければ外国語が話せないように、できる限り多く読まなければ一定レベルの小説も書けないと考えた。俗にいう「インプットなくしてアウトプットなし」である。大家との交渉は薄らトンカチどもに任せておけばいい、それよりも一冊でも多く読まねば‥‥‥。ということで、男はいくらドアが叩かれようが知らぬ存ぜぬを決め込んだ。二階で大声で言い合っている声も幾度となく聞こえたが、よそ事だ。耳栓をして、相変わらず早朝から夜中までたくさん読んでは少し書くの巣ごもり生活を続けた。頼りになるAもいるし、共産党市議までバックアップしてくれてるんだ、学生側が負けるわけがないと高をくくり、大船に乗ったような気分でいた。
一か月ぐらい経っただろうか、いつものようにドアを叩く音がする。毎度のことなので頬かむりしていると、「俺だ、俺だ。﨑田だ、開けてくれ!」と大きな声がする。相変わらず無遠慮だ。
 﨑田はただならぬ様子だ。屑鉄を溶かして練り込んだような顔色をしている。
「大変だ、Aが今荷造りしてここを出ていった。残ってるのは俺たち二人だけだ」
二人だけ? 呆れ果てて、顎がチューインガムみたいにビューンと床まで伸びちゃうんじゃないかと思った。ロープを切られた空中ブランコの気分だ。皆と交わらず、自ら望んで蚊帳の外に身を置いていた報いがきた。あれだけ気炎をあげていたのに、みんな何に恐れをなして消え去ったんだ。極道がやって来て、蜘蛛の子を散らしたわけでもあるまいに。とんだ肩透かしである。まさかあの弁が立つAまでが音をあげるとは。これは見込み違いもはなはだしいぞ。どうせあざとく、しこたま立ち退き料をせしめたに違いない。Aの演説にのぼせ上がって拍手までした俺はなんだったんだ。だいたいあの市議もどこに雲隠れしているんだ。君子豹変す、か。男は負け惜しみで、「さすが人をリードしていく御仁は機を見るに敏で、逃げ足もお速いこと」と当てこすった。もとはと言えば、Aや市議に心をわしづかみされ、その言葉を鵜呑みにしてしまった方が悪いのである。﨑田は「ああ、忙しい、忙しい」とわめきながらドカドカ自分の部屋に戻っていった。二、三日後に朝トイレに行く途中、﨑田の部屋のドアを見ると、郵便受け兼表札がわりの、あの紙ケースは無かった。﨑田もついに降参だ。
 男はその後もたった一人で厚かましくアパートに居残り、昼夜小説三昧の日々を送った。﨑田がドロンしてしまった今となっては、死が迎えに来るのを待つ末期患者の心境だ。とても背水の陣で居直る気持ちにはなれない。男は自分の影法師にもおびえそうなほど気弱になっていた。考えてみれば、﨑田にしたって、もともといるはずのない人間がなぜかひょっこり現れて、またいなくなっただけのことなので、文句の言えた義理ではない。
 ある日の底冷えする午後のことである。廊下の向こうから各部屋のドアの窓ガラスを叩き割る音が聞こえだした。音は不気味な足音とともに次第に大きく、こちらに近づいてる。廊下の空洞を走り抜け、頭蓋骨に反響し、増幅されていく音。濃密な時間が経過する。フラスコのなかに一滴一滴、指の先から垂れ落ち血液。時計の針が回転し、刻々と意識に傷跡を残していく。耳奥に響く鼓動が死の扉に向かう足音と重なる。男は恐怖に鳥肌がたった。やがて足音がドアの前で止まる。地軸が錆びつき自転も止まる。同時に時間も停止した。凍りつく背筋。氷の中に閉じ込められた時間。体じゅうの血が固まり、サラサラした赤い砂のように脆く崩れ落ちていく。万事休す、ついにその道の者がやって来たか。
「オイ、この部屋だけはまだ住んどるから割っちゃいかんぞ」
「あん? まだ音をあげず、粘っとる奴がおったんか」
「管理人の話じゃ、この部屋の華奢で気の弱そうな奴が、一番しぶとくて一筋縄では行かないんだとよ、人は見かけによらないな、困ったもんだ」
 彼らは聞こえよがしに悪口をいうと、ほどなく去っていった。どうやらヤーさんではないようだ。なんとか命拾いした男は、この期に及んでも往生際悪く言い訳を取り繕った。‥‥‥誤解しないでくれ、粘り勝ちを狙ってたわけじゃない、俺が居座ったのは、ただ小説工房を奪われたくないのと家賃滞納のまま夜逃げするのが怖かったからだけなんだ‥‥‥しかし悪あがきも、もはやここまでだ。
 大家は学生アパートから少し離れた邸宅に住む中年女だった。レンコンの切り口を連想させる、やけに目立つ鼻の穴をしていた。どこにでもいそうな平凡なおばさんだ。﨑田は大家が送り込んだスパイなんじゃないかと一時勘繰ったこともあったが、実際に大家に会ってみる限りとてもスパイを潜り込ませて動向を探るような人には見えない。﨑田は別のところから何かの事情で送り込まれたような気もしないではないが、疑い出すとますますキナ臭く見えてくるのが人の性だ。いまさら詮索したところで始まらない。
「ここには市営モノレールが通るんです。学生さんたちをイジメてるんじゃないんですよ。わたしの家だって取り壊されるんです。たまってる部屋代チャラにしてあげますから、出てってくださいな」
 魚眼レンズを通したように、なぜか大家の鼻だけが引きのばされて見える。鼻の穴の大きさが気になって話が耳に入ってこない。おまけに男は、突っ張っていても相手から下手に出られると途端に腰砕けになる、よくあるタイプだった。
「ご迷惑をおかけしました。立ち退きます」とあっさり承諾すると、やっと厄介払いできた大家の顔から、なみなみと注がれたように笑みがあふれ出た。
 木造二階建ての二棟のアパートの解体は、油圧ショベルの活躍で二日もかからなかった。途方に暮れた男は腑抜けのようになって、たった一人で様子を眺めていた。コールタールのようにねっとりとした倦怠感がある。重たくのしかかるこの先への不安が、意識の水面にしたたり、どろどろした雨雲のような奥底に沈んでいく。解体したあの廃材の山をどうするんだろう。てっきり適正に運搬撤去するんだろう思っていたところ、重機が前に大きな穴を掘り、そこに丸ごと落とし込んで埋めてしまった。あんなことして国の法律にふれないんだろうか。だけどもうそんなことなんてどうでもいい、男はカロリー不足で意識が朦朧としていた。頭に浮かぶのは、食うや食わずで買いそろえた足許の古本の処理と小ネズミの安否のことばかりである。
 当時いたところは、日本でもっとも反社会的組織の巣くう都市の一つだった。普通なら二の足を踏むところだが、袋小路に追いやられた男は、背に腹はかえられず、苦慮の末に実入りのよい風俗関係でバイトすることにした。もっとも電話番号どころか住所すらない今の男に、もともとまともなバイト先が見つかろうはずはないが。バブル期前の景気が上向きの時代だったおかげで、飛び込みで即雇われた。風俗の男店員といえば黒服とかボーイとか格好いいイメージがあるが、男に任されたのは清掃、買い出し、洗い物と、要は便利屋兼雑用係である。接客はさせてもらえなかったが、常連客が要求する物のパシリは男の役目だった。さすがにポン引きとはいかなかったものの、大学関係者や学生に見られやしないかとビクビクしながら、ハッピを着て呼び込みもした。何とも嫌な感じのする、癖の強い従業員やホステスも複数いたが、オーナーの店長には気に入られた。皆から顎で使われていたのにもかかわらず、口ごたえもせず、従順に黙々と働いたからだろう。ワンマン店長は義侠心の厚いストレートな人柄だった。飲みだすと猥雑なおしゃべりが延々と続くのが玉に瑕だが、男のことを坊やと呼んでかわいがってくれた。太平洋戦争で中国に侵攻したこともある、ヤカン頭のお爺さんなので、孫のように思えたのかもしれない。
 バイトが決まっても相変わらず男は流浪の身だった。大学の学生課にいけば住みかを斡旋してくれただろうが、大学に行かなくなって久しいこともあって、なぜか足が向かなかった。正直に吐露すれば、みみっちい話、一か月五千円の三畳間借り代が、その時とてつもなく高額に思え、惜しかったのだ。雑用のため他の店員より早く出勤するので、店で仮眠もとれた。そろそろ暖かい季節になりはじめ、古本も処分した男は身軽で、もっぱら市役所近くの勝山公園を家がわりにした。
 当時公園には球体の、妙なかたちをした噴水があった。ベンチの上で寝袋にもぐりこみ、目の前の噴水の音を聞きながら眠った。噴水の音は、夜海辺の宿に寝転がり、遠くの海鳴りに耳を澄ます気分にさせてくれた。そこから店には歩いていけるので通勤費はゼロだ。仕事が終わるのが深夜だから、寝ていても目立たない。アウトドアライフも乙なものだ。警察官に不審者扱いされるのではないかと気にはなったが、幸い職務質問の類を受けることはなかった。当時は路上生活者を狙い撃ちする悪童もいなかった。「小説書くより、こっちの方がよっぽど楽しいな、何よりバイト代が入るので餓えなくて済むのがうれしい」などと男は心地よい仕事の疲労と若干のアルコールで、とても懐かしい思い出の柔らかな両手に抱きかかえられているような気分だ。久しぶりに桃源郷にいる心持で眠りにつける。以前はなかなか眠れなかった。今は目を閉じると、意識の谷間に落ち込むように急に深い眠りがやってくる。明晰夢から徐々に解放されていったのもこの頃からだ。このまま永遠に目覚めたくないとすら思った。それでも朝はやって来る。早朝散歩をしている優しいおばあちゃんが、ときどき食べ物をくれたりした。
 田舎に残している母のことを考えると、やたら肩身の狭い思いがして、胸が痛んだ。今はこんな体たらくだが、終わりよければ全てよしにしてみせるから、こらえてくれ‥‥‥という気持ちだった。母はこんな有り様を知っても「こっちのことはいいから、やりたいようにやりなさい」と言うに違いなかった。それが分かっているだけに、自分の情けなさが辛かった。今は妙なかたちの噴水も寝ていたベンチも公園から撤去されて、影も形も無い。

 あんた、住んでるとこ追い出されたそうね、と女は話しかけてきた。
「困ってるんだったら、少しだったらウチにおいてあげてもいいわよ」
 働きはじめて一か月近く、男の人となりを陰から観察していたであろうことは分かる。そういえばこの人は「食べなさあい」と店の残り物をタッパーに入れて渡してくれるホステスの一人だ。普通女は慎重で、警戒心も強く、付き合うべき相手は、自分に名のりを上げた男の中から選ぶ。我関せずの男に居候してもいいなどとは言ってこない。男は女にどうしてこんな風采の上がらない者にそんなによくしてくれるんだと聞いた。
「人畜無害だからよ。こういう仕事して、男をいっぱい見て、嫌な思いもいっぱいすると、実は物足りないぐらいの男が一緒にいてベストだって分かってくるのね。それと慈悲、分かるでしょ、仏さまの慈悲」
 抹香臭い、変な答えだった。まだ二十歳そこそこで世間知らずだった男は、「女性はこと異性に対してはソロバン勘定でしか行動しない、何か得することがなければ近づいてなんか来るものか」といった偏見を持っていた。そのため、こうもストレートに無償の善意を見せつけられたことに困惑したのを覚えている。なにか魂胆があるのか? それともたまたま二人のチャンネルの周波数が合ったのか? 遠くて近きは男女の仲だ。捨てる神ありゃ拾う神あり‥‥‥とりあえず男は神様に拾ってもらうことにした。女のそのときの表情と言葉は、五十年近く経った今でも、昨日のことのように鮮明に男の記憶に焼き付いている。今ならその表情と言葉が、追いつめられた者への深い思いやりと優しさから漏れ出たものだったことが身に沁みて分かる。
「あのね、いっしょに住むってことは他言無用よ、この業界に足を踏み入れたんだから、それぐらいは知ってるわよね」


 雨がくまなく流れおちる窓ガラスの向こう、明るい照明を背に女が手招きしている。赤いドレスを着ており、その姿がアイスキャンディーか何かになって、雨水といっしょにとろけ落ちていくかのように見える。
「鍵はかかってないわ、開けて」
 中からくぐもった声がした。ドアの取っ手はなめらかな握りで、少女の足首を感じさせた。ナイフで闇を切り取ったようにドアが開き、隙間から部屋の明かりが流れ出た。
 部屋の中は足の踏み場がなかった。どれが必要なものでどれが不必要なゴミなのか分からない。住まい全体がガラクタの詰まったゴミ箱になっている。何もかも一緒くたに存在する混沌の世界だ。乱雑な部屋には慣れっこだったが、それにしてもとても人をこれから迎え入れようとする部屋ではない。居住スペースはかなり広いのだが、カオスのおかげで泥に埋まっているような息苦しさを感じる。帰宅したばかりかもしれないが、美しい赤ドレスだけがやけにこの場所から浮いている。掃き溜めの鶴にでもなったつもりか。
「この部屋、ぼくが片づけましょうか」
「だめ。本とか動かしちゃうと何が何だか分からなくなっちゃうから。それにアンタの仕事、そんな痩せっぽちじゃきついでしょう。今からは無理なんじゃないの? やり始めたら大変よ。休みにいっしょにね、やろう。気が向いたらいつか」
 気が向いたらいつかって、これって人骨の山のなかにいるのと大して変わらないんじゃないのか? 放心して目の焦点をしばらく宙空ぶら下げていると、女が仏頂面で言った。
「何なの? 嫌なの? ここが」
 気まずさが、嫌な苦味となって頭の芯をしびれさせる。
「いえ、滅相もない、恩人にむかって」
 女は微笑んだ。歪んだ口許がひんやりとした影に濡れ、夜に接吻されたかのようだ。
「まあ、恩人だなんて大袈裟。だったら、そこら辺の端っこ片づけて寝床スペースにして。それとも手っ取り早くあたしと一緒に寝る?」
「えっ?」
 思いがけないその言葉に、頭に急に角がはえ出た気分だ。いくらなんでも早すぎやしないか。女性はその気になるのに時間がかかるんじゃなかったのか。それとも俺をからかっているのか。
「ま、いいわ。鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス‥‥‥」
 舌にのせると溶けてしまいそうな、薄く透けた女のドレスのなめらかなオブラート。その肩越しに濡れそぼった俺の折り畳み傘が、玄関の隅っこで蝙蝠さながら、済まなそうにうずくまっているのが見える。 
 仕事で疲れていたとはいえ、若かった頃の話、ホトトギスはその日のうちに鳴きだした。

 男と女がベッドの上で、滑らかな二つの炎となって絡み合う。この夜の底、二人の手足が森に密生する樹々の枝や幹のように不思議な湾曲を描きながらもつれている。女の化粧の匂いが周囲の空気を甘く濁らす。女の吐息が白い粉となって、男の心の深淵に沈殿していく。二人の動きがストロボの点滅の内にパラパラ漫画のように分解されて流れる。水底の砂をすくうように、女の髪の一本一本が指の間をすり落ちる。時計の針が一刻一刻、その髪を絡み取っていく。お前は密度の濃いこの時間を堪能してくれているだろうか。
 女の角膜に窓ガラスをつたう雨水のブルーが映っている。マスカラで塗り固められた睫毛が、海面に揺れる人影となって、ブルーの表面に漂う。女の瞳が夜に眠る花のように閉じる。瞼の薄皮が、花びらを噛むように、欲望の花粉で俺の舌先をしびれさせる。女の瞼は綿のように柔らかく、絹のように透き通る。瞼の薄膜の裏に眼球の海原がふくらみ、俺の親指の腹にその滑らかな動きの感触をつたえる。涙に浮かんだレンズが太陽の輪郭をうつすように、俺のぼやけた顔がお前の水鏡に浮かんでいるのだろうか。
 夜の波が真昼に焼けた砂浜の熱を奪うように、俺の冷たい手のひらの愛撫が、女の肌のぬくもりから生命を吸い取っていく。注射針で抜き取られる血液そのままに、真っ赤な生命を吸い取っていく。乳房が雪を固めたように白く、俺に手のひらの熱に輪郭が溶け落ちていく。女の乳房が俺の手のひらの中でたわんだ青い水の球体になる。水を入れたビニール袋のゆらぎ。
 蛇が水面を泳ぐように、女はその身を俺の腕の中でくねらせる。頭の中が限りなく真空に近づき、俺の腕のなかの宇宙に女の白い肢体が漂う。俺は女神の心臓にでも触れたのか。動物と化した男女の触れあう肌の間をぬって、血のしたたる生命の地下水が、下腹部へと渦を巻きながら流れおちる。ジェットコースターの回転する天と地の底へと流れおちる。気が狂いそうなほど遠い宇宙の果てへと流れおちる。無数の人々の吐き出す怨念や悲嘆、歓喜や慟哭、あらゆる感情が凝集した暗雲の坩堝へと流れおちる。


「本名は? いいかげん教えてよ」
「マリリン・モンロー」
「じゃ、俺はケネディだな、ちょっと頼りない大統領だけど、まあ、いいか」
「もしかしてジャクリーン・オナシスかも」
「あの悲劇のヒロインだね、かわいそう」
「そういうとこが甘いのよ、アンタは。すぐ狡い大人たちに刷り込まれて、操られて、いいように利用されて。真実なんてどうだか分かったもんじゃない」
「そうかなあ」
 ドライヤーの熱風で女の髪がふくらむ。吹き上がる黒い流れが広がる鳥の翼になる。
「で、あんた小説書いてるとか言うけど、どうやって暮らしてくつもり?」
「そりゃ、金がなくなったらバイトするのさ。今はね、小説は小休止。食ってくだけなら、どうにかなるよ」
「まあ、何作か書けば、うまくはなっていくでしょうね。でもその人のむき出しの素質は一作目に一番あらわれる。一作目がダメならダメね、やめちゃいなさい」
「そんなあ。そりゃ、ないよ。博打うって一山当てなきゃあ、生きてけない」
「いつだったか、何かの新人賞に応募するって、しこしこ小説書いてた人が、実は泥棒をしてたという話があったでしょう、かなり年いってた人。あんたは大丈夫なの?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。俺はうまくやるから」
 女はくわえ煙草に火をともす。一瞬、光るボールを両手に包み、唇に触れさせたかに見える。女の吐くタバコの煙が、灰をなめているかのような、いがらっぽさを俺に喉にからめる。
「仕事は慣れた? 店長はアンタを気に入ってるようだわ。店長はああ見えて、なかなか腕利きなのよ。手広くやって、だいたい成功してる。でもあたしは生理的にダメ。あいつ、踏み潰したシルクハットみたいなチビでしょう。頭はバーコードだし。この前なんか黒いスーツを着てヨチヨチ、がに股であるくのよ。まるでペンギンだわ、漫画にでも出てきそうな、お喋りペンギンよ。あのスケベ丸出しの長話は、いいかげん勘弁してほしいわ」
「俺も小男じゃないか」
「違うわよ、そういうこと言ってるんじゃないの、ルックスのことじゃないの。外見はどうでもいいの、男の外見なんて最初だけよ。雰囲気よ、雰囲気のこと言ってんの」
「雰囲気? 金じゃないの? 女にとって男はさあ。男そのものに惹かれるのは、月内に決まって訪れる燃える数日間だけ、後の日は金。女優とか、アイドルとか、女子アナとか、ああいうセレブたち見てれば分かるよ。やっぱり巣にいっぱい餌をもってきそうな雄を選んでるよね」
「分かってないわねえ、全然わかってない。女のうわべだけしか見てないわね、若いからしょうがないけど。あたしは巣なんて作らないし、そんなのいらないもん。打算で動いてロクなことはないわよ。損得にこだわらないほうが、最後には損して得とることになるのに。そんなことも分からないのかしら、あの人たち。自分ではうまくやったと思ってるだろうけど、遺伝子のパペット人形になってるだけよ。自分の遺伝子をより安全かつ確実に子孫に残すために、何から何まで操られてる。おまけに本人はそのことに全く気づいてない。自分の意思でぜんぶ選んだと思ってる。本当は好きでもない人を好きだと錯覚させられてるだけなのに。ずっと後になってそれが分かっても、後の祭りね」」
「単純に世渡り上手で賢いんじゃない? たとえば俺なんかより」
「そりゃ、アンタよりは賢いわよ、女なんだから。でもあの人たち、短いスパンでしか物事を見てない。だいたい玉の輿ばっかし狙ってるバカ女が多すぎるのよ。いざ玉の輿が実現してごらん。幸せになるどころか、たいてい不幸せになる。『何でこうなっちゃうの、ぜんぶ夢や幻だったじゃん』で終わる。当り前よ。人にすり寄って、せしめたものは幸福とは言わない、人生のお荷物って言うの。低いところから二人で努力して積み上げていくものでなきゃ幸福とは言わないのよ。それより何の話だったの? そう、あたしが言いたかったのは、あのジジイ店長のことよ。少しは枯れればいいのに何あれ。老いて益々お盛ん、どうなってるのアレ。七不思議よ.」
「そうかなあ、俺にはよくしてくれるけどな。こいつはワシの子飼いにするってよく言うよ。こいつは大日本帝国陸軍から赤紙もらった時のワシとそっくりだってね」
「へえ~そうなの」
「お先真っ暗で、おどおどして、どうしたら分からなくて、プレッシャーで今にも自殺しそうなところがだって。ちょっと言い過ぎだな」
「そうねえ、確かに言えてたかも。アンタね、心がね、なんとなく小っちゃな貝殻のなかに閉じこもってる感じ。誰にたいしても正面からでなく背中から話しかけてくるみたいな」
「俺ってそんな風に見えてたんだ」
「アンタ、まるで暗闇を嬰児のように背中にせおって歩いているように見えたわ。そこまでわざわざ土俵際に追いつめられなくてもいいのに、って感じ。鈍感ジジイのわりには言い得て妙ね。あんな糞ジジイでも、亀の甲より年の功かあ。当たってるわ。アンタ、小説書くこと楽しんでた? 小説なんてたくさん読めば、誰だって書きたくなるもの。読むのが楽しければ書くのも楽しいはずよ。辛いのに我慢して読んでるから、書くのも辛くなるのよ。アンタの人生哲学ゆがんでない? 好きでもないことを無理してやろうとするから、あんなふうに無気力でノイローゼ患者みたいになるのよ。あたしなんて、嫌なことも少しはあるけど、今日はどんな人が来るんだろう、いい男だったら儲けものでウキウキ、変態でもハラハラドキドキして楽しい、ってなもんよ。 『嫌なことでも我慢して努力するのは尊い』というのはジジイの発想。馬鹿をこき使って自分は楽してやろうという輩が仕掛けた罠だわね。楽しくなければ、やめちゃいなさい。でないと、ずる賢い奴らにヤラれてしまうわよ」

 女はいつの間にか寝息を立てていた。寝返りをうち、こちらに向けた女の汗まみれの裸の背中に、小さな虫が潰れて付着していた。窓の外、薄い雲を透かして月が見える。闇の中に浮かんだ青白い顔。あたかも墨を溶かし込んだ瓶の底に月がはりついているかのようだ。やがて雲が風に流れ、月はレモンの切り口になった。眠気で意識が遠のくにつれて、レモンの切り口が車輪に変わる。車輪にロープがまき取られていく。ロープの先が俺の首に絡まり、息苦しい。俺の体が月に向かって引き上げられていく。夢の世界に入りつつあるのが分かる。夢と分かるということは、これは明晰夢か。ナイフはどこだ。明晰夢ならロープをナイフで切ることができるのに‥‥‥女が耳元で囁く声がする。小さな声で聞き取れない。おかしい、お前は眠り込んでいるはすだが。何だって? 何いってるのかい?
「あたし昨日、つめたい月に触れて指を切ったの」

 朝ぼらけの中、精液を流し込んだように街全体がミルク色に煙っている。ビルや道路やまばらな人影、消え残った外灯や車が全て、すりガラスを透して見る一枚の絵画となっている。かき氷が溶けていくように男は徐々にめざめた。薄明りが隣で横になっている女を縁取っている。陽光の透明なナイフが大地にはりついた夜を引き剥がしていく。夜が糸巻きにまき取られ、闇に横たわった巨人が目覚めるように、朝が都会にやって来た。銀のテーブルクロスが悪夢をおおい隠す朝。日差しが透き通った声を出している。少女の声帯のように、朝が震えて見える。朝もやに漂うように女の肌も霞んで見える。光の包装紙にくるまれた脚。朝の花びらが開き、朝がお前の唇をおおう。
 カーテンを開けると部屋に日光の銀の水が流れ込む。鏡の破片が花弁さながら、四角く区切られたまばゆい舞台に舞い踊る。朝の氷柱の幾つもの先端が、蜘蛛の巣の張った俺の肺臓の奥に光の条を刻む。部屋に流れ込む陽光、やがて闇をたっぷり吸い込んだ女の瞼がカサブタを剥がすようにもどかしく開いた。
「寝起きは体が硬くてポキポキいいそうだね。骸骨の体操だ」
 コリコリと心地よい歯ごたえがするような関節の軋みを感じながらそう話かけると、
「そうねえ、寝っ転がってばかりいるから、関節がポキポキきしんで、骸骨の体操だあ」
 女は嬉しそうに、意味不明な「骸骨の体操」という言葉をオウム返しに繰り返した。上機嫌の目覚めだ。起きた女の顔側面には枕の布目の跡がつき、肌が木綿豆腐になっていた。
「牛乳飲んでいい?」
「いいわよ。あたしのものはアンタのものだと思って。ちゃんと賞味期限、確かめるのよ。牛乳は栄養があって、背も伸びるって言うし」
「もう手遅れだよ」
「それはそれは、まことに残念でございました」
 冷蔵庫から牛乳瓶を取り出し、一息で飲みほす。
「爽快だ。朝を丸ごと飲みほした気がするよ」
「洒落たこと言うじゃない」
「なにしろ小説家様を目指しているくらいだからね」
「まだ、そんな寝言いってんの。阿保らしい。いいかげん目覚めたらどう?」
 まずいことを言ってしまった。言葉が気に障ったのか、少々おかんむりのようだ。フタぐらい閉めておけばいいのに、ちょうどこの位置から脱衣場の洗濯機の中がのぞいて見える。最初は泡か何かと思ったが、よく見ると入れっぱなしの下着だった。血色の抜けた、とろけかけの幾つもの死体を浮かべているかのようだ。
「あのね、難しい話になっちゃうけど、ナポレオンのね、『人を動かす二つのテコは恐怖と利益だ』っていう有名な格言があるでしょう。今のアンタにそのまんま当てはまっちゃう。アンタ、小説が認めてもらえないことを恐れてるでしょう。『認めてくれなかったらどうしよう、認めてもらえなければ後がない、お先まっ暗だ』なんて考えてるでしょう、実際はそんなことなんかないのに。自分で自分を欺いてる。そんでもって、もう一方では小説で儲けてピンチから脱したいと思ってる。これがうまくいってアブク銭が入れば人生ウハウハだ、たっぷり楽ができるぞ、と信じ込んじゃってる。今のあんたほど操りやすい人はいないわ。格好の餌食よ、気をつけることね。狡猾な人たちはそういうところを狙ってるんだから」
「朝っぱらから随分と頭が回転するなあ、いきなりアイドリング無しの急発進。すごいねえ。寝ぼけててよく分かんないけど、それって、ずるい人は弱さを目ざとく見つけて突いてくるってこと?」
「そうよ。心の弱みにつけこんで、甘い汁を吸いに来るの。人ってのはね、自分がすがってる相手には騙されやすいものなの。悪人はしがみついてくる心の弱さにつけ込んで、操ったり利用したりする。あんた今、相手を頼りにせざるを得ない状況に、自分で自分を追い込んでるのよ、食い物にされたいの?」
「ああ、そういうことは分かってる、分かってる、子供じゃないんだから」
「アンタは子供よ。分かってないわ、全然。こういうことよ。子供を殴る親がいるわね。殴られると痛いから子供は泣く。すると親は腹がたち、さらに殴る。それでも子供は立派な親だと思う。自分を愛してるから愛の鞭を振るうんだと。どうして? そう思わないと親に依存する自分が生きていけないからよ。自分の命を親に握られてるから、そう思わないと心が壊れちゃうの。親は子供のそういう心理を読んでしゃぶりつくしている。今のアンタの立場は、そういう子供と同じ。親は自分のイライラのはけ口で殴ってるだけなのに」
「大丈夫、大丈夫。俺はそっち系の新書、片っ端から読んでるから、そういうことは分かってる、ちゃんと分かってる」
「なんで急にそっち系の新書って話がでてくるのよ。そっち系ってどっちよ」
「心理学系っていうのか、精神分析系っていうか。小説読むのもう限界、ってときに気晴らしに読むんだ」
「ほんとに読んでんの? 何かトッポイ言い訳にしか聞こえないけど」
「字面を追ってるだけで内容を理解してないってのはあるかも知れないけど。まあ、それで大丈夫だよ、いくらかでも残るものがあれば」
「大丈夫な訳ないでしょう、本だけ読んで実際に何にも経験してないんじゃあ。でもどうしてアタシ、新書なんか話題にしてるのかしら。そうよ、アンタが急に飛ぶからよ。アンタが何を読んでたかなんてどうでもいいの。あたしが言いたいのは、アンタが小説に対してカルト教団の信者みたいになってるってことよ。カルトはまず、自分の将来に不安そうな人をチョイスする。教団に興味を持たせ、引き入れた後は、ますます自分がいつどうなるか分からない精神状態に、あらゆる方法で寄ってたかって追い込む。彼はそのうち教祖に認められることだけが自分の安全を確保する道だと心理誘導される。やがて心身を荒廃させてもなお、教祖に気に入られることが唯一の人生の目的になってしまう、一巻の終わり。洗脳のイロハのイね。アンタの場合は自分で自分を洗脳しちゃってるから、もっとタチが悪い。アンタ、自分の小説が皆から気に入られて、世間に認められることを人生の目的にしようとしてるでしょう、正直に言いなさい」
「どうしてそうなっちゃうのかなあ、いくらなんでも小説とか出版社とか文壇とかいうのと、カルトとは違うでしょう。飛んじゃってるよ。前提のないところから無理やり結論を引き出してる。決めつけちゃあいけないよ。頭ん中で理屈がアクロバットしてない? 困っちゃうな」
 日差しがすいぶん奥まで部屋に入り込んできた。視界にびっしり鏡の破片をはりつけたような陽光が、さらに窓から流れ込んでくる。光の糸で紡がれた銀色の膜が窓ガラスを覆っている。光に浮き上がる塵が視界に銀の砂をまぶしている。風に震える産毛と見まごう細かな塵。銀の砂が女の素脚の輪郭を曖昧にする。眩しさを背にした女のむき出しの脚、どこからがボディでどこからがオーラなのだろう。 ‥‥‥それにしても、こんなに頭のいい女だとは思わなかった。俺が馬鹿すぎるのか。ヘタに言い争いを挑もうものなら、ヘコまされてばっかりになるな。
 踏みつけるからか、洗うのが面倒なのか、豚の尻のように汚れたシーツが何枚も部屋の隅っこに捏ねてある。あらためて言うが、散らかり放題のあの本や雑誌の山は何なのだ。昨日の夜はここまで目立たなかった。朝の光が現実を丸裸にしたのだ。コイツは本当に女なんだろうか。女の姿をしたオッサンなんじゃなかろうか。眼から下水が流れ出してくるような汚い部屋と言ったら失礼が過ぎるが、筋金入りのゴミ屋敷ではないか。竜巻が通った跡のような、瓦礫と化したこの被災地をいかにして復興したものだろう。早くも男は、女がいない間にどうやって片づけてやろうかと、頭の中で計画を練り始めた。
「あら興奮して言いすぎちゃったかしら。ただのたとえ話よ、たとえ話‥‥‥アンタがどう思おうが許しちゃう、でもあたしにはそう思えるってこと。別に責めてるわけじゃないのよ」


「この車どうしたの?」
「安く貸してくれるところがあるんだ、バイト代はいったから恩返ししようと思ってね」
「いい心がけじゃない」
「どこに行きたい?」
「う~ん、海かな、山かな。どこでもいいわ、任せる。今んとこアンタといると楽しいから」

 歩むにつれて地面と風景がめくれ、銀紙をかぶせた砂浜が現れた。踏みしめるごとに、足底に固まった砂が乾いたパンのように崩れる。砂ぼこりが舞い上がり、薄っすらと綿毛が生えているかのように見える。やがて砂はうねりはじめ、大地の顔に微笑を刻む。女はハイヒール手に持って裸足のまま歩き出している。海風に派手なドレスが体にはりつき、そのラインが露わになっている。汗のふき出た額には前髪がはりついている。砂にめり込む足裏。海辺に浅く埋まっていた貝殻で足を切ってしまった少年のイメージが浮かぶ。白っぽくふやけた肌に一条の線。しばらくしてそこから血がにじみ出てくる、痛そうだ。‥‥‥なあ、ヒール履いて歩いた方がいいんじゃないか、歩きにくくても。
 広大な海の青い顔。押し寄せる波の皺。青いシーツの揺らぎ。砂浜にガラス板を擦りつける波音。砂を洗う波音はどこか大観衆の拍手の音に似ている。沖から冷風が運ぶ大自然の息吹。海風の透明な笑い顔。濃霧に浮かび上がった海坊主の姿のように、二人の影法師が細長く伸びている。
「いい天気ねえ。体のなかまで青く染まってしまいそうだわ」
 女の肌を海の青さが洗う。女の髪のゆらぎが潮風を運び、その唇は砂浜の熱い吐息を誘う。海は水平線近く無数の陽光の粒子で覆われ、砂漠のように見える。海一面が反射する大理石でできているかのように見える。海一面が電気を帯びた紙のように見える。
「ねえ、海がどうやってできたか、知ってる?」
「さあ、どうだったかなあ。理科かなんかで習ったと思うんだけど、出てこないなあ」
「むかしむかし、ある男が歩いていると、そこは森だったの。そしてね、その男はそこで、木に果実のようにぶら下がっている青い頭を見つけたのよ。男はぼんやりと、不思議そうにその頭を眺めてるのね、そう、眺めてるの。すると頭が次第にブクブク膨れ上がっきて、やがてその男を飲み込んじゃって、それでもどんどん大きく広がっていって海になったの。そうなの、正真正銘ホントの海よ。青い、青い本当の海」
 水平線から静かに視線を手前に戻すと、太陽光線のまばゆさが払われ、海は本来の青さを取りもどし、波打ち際はダイヤモンドを散りばめた青い絨毯になった。海面のところどころ、人魚の鱗を想わせる銀の光片が砕けている。手品師の白い紐が宙にうねりを描くように、押し寄せる波のアウトラインが、女の瞳に白蛇の動きを刻む。海の表面を這うなめらかな水影。
 青くて広いこの海の水平線の向こう側に真実の自分がいて、その心霊がはるか大海を渡り、海のこちら側にいる肉体だけの虚構の俺に囁きかけてくるかのような気がする。女だってきっとそうに違いない。傍らにいるこの女はたんなる抜け殻に過ぎず、心は海の向こう側にあるのだ。女はいま俺の肩に寄り添いながら、同時にこの腕をすり抜け遥か彼方にいる。だからやけに現実味がないんだ、海の底に潜って海上の音を聞いているように。
 太陽を縁取る光の襞がライオンのたてがみのように震えている。モーターボートが海の青いカーテンを裂いて進んでいる。海鳥が翼で風をたたきながら飛んでいる。半開きの女の唇からのぞく闇。その暗闇のなかに海鳥が飛び去り、消えていく。遠方に望む浜辺の波打ち際のあたりには、踏み荒らされた花畑のように、色とりどりの水着姿の人々がひしめいている。さんざめく波音。男はその光景に孤独を感じた。砂浜に横たわった白骨が、単調に寄せては返す波頭にゆっくりと崩壊してゆく映像が浮かんだ。
「俺が死んだら火葬場なんかでなく、死骸を誰もいない無人島のこういった浜辺に捨ててくれたらいいなあ。死骸は風雨にさらされ朽ち果てて骸骨になり、骸骨は風化して砂になり、その砂もやがて波にさらわれて、俺は完全に自然の一部になるんだ」
「孤独ね、せっかくアタシがいてあげてるのに」
「ごめん」
「いいのよ、気にしないで」
 生温かい風の指先に髪を撫でられ、気持ちよさそうに女は目を閉じた。長いつけ睫毛が風に踊り、光の粒がそこに跳ねる。砂浜の表面を靄の産毛がおおっている。女の頭がオレンジ色のボールとなって太陽と重なる。水平線を描く密集した光の弦が、どんどん近づいてきて、俺の指に絡みつき切り落としてしまいそうな気がしてくる。光に透かした爪のように海は半透明で、さざ波がささくれ立っている。潮風は俺の唇に、傷口を舐めるような乾いた血の味を残していく。透明な巨人のまばたきが海の果てからここまで風を運んでくる。腕の産毛が潮風に逆立ちなびく。帯電したセルロイド板で肌をなぞられる感触。
 太陽の光の金粉が溶け込んだ海、そこに沈んでいく自分の背中のイメージが見える。唾液の白泡を絡ませながら、荒波の舌が反りあがり、海のため息が生温かい風となって顔にあたる。濡れたテープが人形の首に巻きつくように、湿った風が肌に吸いつく。女の息のような甘い風が、砂浜を這い、足元に舞う。銀のガーゼで覆ったように陽光の反射に光る海。それは巨大なレンズ、地球という生命体の膨らんだ眼の表面だ。
 しばらく二人はその場にいた。何も話さなかったが、時はあっという間に過ぎた。お前といると時間が経つのを忘れてしまう。砂時計の容器に閉じ込められて、落ちる砂に埋もれていくかのようだ。そろそろ日が傾きはじめ、太陽のとろけかかったドロップ飴が、水平線に向かってうねる青い波の舌に絡み取られていく。ウイルスにただれた喉の粘膜を赤い球体が滑り落ちていく。ヨットの帆先に空に浮かぶ巨大な赤くただれた太陽が触れている。
「どうして俺なんか住まわせてくれたの?」
「かわいそうだからよ。あたしの眼の中にアンタの命の蝋燭が今にも消えそうに映ってたの。ちょっと気障かしら」
 気障すぎるよ‥‥‥そう言いかけた途端、生暖かい風が脇をすり抜けたと思うと、ふいに女の唇が俺の唇に重なった。長い髪が筆となって頬を撫ぜた。まるで南国のヤシの葉が風になびき、耳元で囁いたかのように。
 夕凪の静寂に二人の影が沈んでいった。

 対向車のヘッドライトの光芒が、闇から伸びて二人の体を白黒に裂いた。林檎を真っ二つに割る細長い果物ナイフのような光。まぶしさに閉じた目の裏側に、残像が光の輪となって一瞬浮かび、ゆっくり消え去っていく。月暈の残像。
 アスファルト道路を自動車の影が暗く澱んだ水のように流れ過ぎていく。移動撮影とともに後方に遠のいていく動画。映写機のフィルムに巻取られていく周囲の景色。心象風景が粉々に裁断された感光写真となって、フロントガラス前方の消失点へと吸い込まれていく。まるでブラックホールだ。
 濁り酒を透かして見る月のように、後方の厚い霧の層を通してぼんやりとした二つの光球が近づいてきた。車が迫って来たようだ。かまわず制限時速ぎりぎりいっぱいの運転を続けていると、背後から何台ものヘッドライトの目玉が連なって追いかけてくることになった。数珠つなぎか。安全運転が過ぎるかな。
「俺ね、あんまり普段、運転しないのね。借り物の車だし、事故っちゃ悪いから、ずっとこういう感じでいくよ。勘弁」
「アンタのそういうとこ、好きよ」
「どういうとこ?」
「飾らない人っていうのかな、自分を大きく見せそうとせずに、正直にありのままを出すとこ。免許取り立てのくせに、格好つけてスピードバンバン出す馬鹿なアンちゃんがいるでしょう。得意になって酒かっくらって、煙草をスパスパやってる不良中高生とおんなじだわ。それでモテると思ってるんだから幼稚ね」
「幼稚かあ。手厳しいね」
「あのね、車の乗り方ってその人の人生観だと思うの。前に車がいるというだけで気に入らなくて、やたら追い抜こうとする。逆に追い抜かされたら頭にきて、抜いた車のお尻にどこまでもピッタリはりつく。そんなことしてたら、そのうちどこかで事故っちゃうのに。いつも他人と比べて競り合ってばっかし。他人との関係が上か下かだけで人生の快不快や満足不満足が決まっていく、そんな生き様で生きている人がいるのね。この生き様が遭わないですむ災難を引き起こす。勝負なんかしなくてもどうってことないのに、やみくもに勝ち負けを争う。そのうち心がヘトヘトになって、なんだか生きていくのが辛い。気づくと、張り合うことに疲れてメンタルがやられかけてる。俺の方が才能あるのに、どうしてコイツが‥‥‥って誰かさんみたいに苦しむ。この気持ち、いったい何処へ持って行けばいいんだ、なんて」
「ちょっと待って、それって俺のこと? さっきから事故に遭わないように安全運転してるじゃない。俺ってそういう人間だよ。いま褒めてくれたばかりじゃないか」
「さあ、どうでしょうかねえ、いつまで持つか。もっと崖っぷちに立たされたら。アンタ、普段、自分が息しているってこと意識してないでしょう」
「まあ、誰だってそうだね」
「それと一緒よ。心の奥底ではやりきれない思いが渦巻いてるはずよ。アンタが普段そのことに気づいてないだけで」
 後続車のハイビームが濡れた長い指のように闇に白く伸び、後ろから俺の首を挟み込む。光芒のレール。闇のステージとスポットライトの照射。クラクションを軽く鳴らして後続車が一台追い越すと、つづいて車が次々追い越していき、ノロノロ運転の二人の車だけが闇に取り残された。白鳥の首のような道路が、山並みを滑らかにくねっている。闇がうねる。ヘッドライトの光が夜の肌にメスを入れるように、その闇を切り取っていく。注意しながら運転していると、
「ねえ、聞いて?」
「あいよ」
「アンタはお父さんが死んでしまったとき、自分が母親一人支えることのできない、ふがいない人間だということをとことん思い知らされ、とても不安になり、自己嫌悪に苦しんだ。そういうときは多かれ少なかれ力のある何かにすがりたくなる心理が働くもの。自分が弱い立場にあることを知っていれば、なおさらネ。アンタは目の前を通過するものは何でも、自分を無力感から救ってくれる素晴らしいものに見えてしまう。なぜかというと、過度の不安や自己嫌悪で心身がダメージを受けないように、脳がそういうふうに制御してしまうから。すると、あるとき目の前に小説というものが現れた。 『これだ、これが俺が無力な人間でないことを証明してくれる』とアンタは錯覚して飛びつく。ホントは小説でなくてもよかったの、無力感を軽くしてくれさえすれば何でも。たまたま目の前を小説が通り過ぎただけの話よ。そうなるともう、恋は盲目。アンタは実際の相手をよく観察しないまま、心の必要性にしたがって、相手を自分の理想像に合うように作り替えて、信じ込もうとする。頭の中で相手を非現実的に理想化して、文学とはかくあるべしなどと悠長なことを言いだす。むこうは商売してるだけなのに迷惑な話よ。その結果、こうあってくれという願望を現実に無理矢理あてはめて、疑うことも危ぶむこともしないから、後でひどい目に遭う。首ったけになっていた分だけ、現実を見せつけられ失望したときの打撃も大きい」
 お見事。本人ですら気づいていなかったことを、どうしてこの女はやすやすと言い当てることができるのか。目から鼻に抜けるとはこのことだ。お腹に俺の心を身ごもっているかのようだ。最初はあんたに何が分かるんだぐらいに聞いていたが、こうズバリと本質をつかれると頷かざるを得なくなってしまう。
「どうしちゃったの? 黙りこくっちゃって」
「いや、別に」
「人って、自分のことだから分からないはずはないと決めつけてるけど、意外に分かってないものなのよ。鏡に映った自分と握手したくてもできないでしょう。それと同じ。眠ってるときに見る夢のあらすじを変えられないでしょう、自分の頭で創ってる夢なのに。それと同じよ」
「俺、変えられるよ」
「何、夢を?」
「うん、夢見てるときに、それを強制的に遮断する仕組みで」
「え? どこのインチキ学者がそんなファンタジーを言ってたの? 最高、面白すぎ。ウケる!」
 女はキャッキャッと笑い出した。よく笑う天真爛漫なやつだ。いつの間にか雨が降りだしていた。フロントガラスが溶けかかった氷塊の表面そっくりに変わっていく。隣に並走していた列車の線路が枝分かれして、その尾灯がレールを朱色に浮き上がらせながら霧の向こうに消えていった。疾走する車。フロントガラスに雨水が打ち当たり、風圧で扇状に流れ広がる銀の鱗を描く。薬品に浮かぶ脳の表面のような路面の凹凸がハンドルに振動を与える。闇のなかに信号機の一点の灯りが見えた。眼の裏側の赤い染み。その下に何かの立て看板があるが、視界が雨に流れてはっきりしない。アルコールの沁み込んだ角砂糖が、スプーンにのって炎に包まれているのを見るかのようだ。
「今のアンタを支配している一番つよい感情を当ててみようか」
「なんだ、怖いな。俺の頭ん中なんて分かるのかい? あたしとヤリたいんでしょう、なんてのはダメだよ」
「まあ、それもあるかも」
「やっぱりそれか、当たらずとも遠からずだけど」
 横から割り込んだオートバイに乗った女の長い髪が、ヘルメットからはみ出し、風に打ちなびいている。雨のアスファルト路面に単車のテールランプがにじんでいる。霧雨の表面に残る一滴の血液の染み。水面におちて赤い花弁を広げる雫の輪。
「それではお答えします。アンタには不安がある。ズバリ、お父さんの死にともなう金銭上の将来不安よ。もしアンタを本気で陥れてやろうと思う人がいたら、それを見逃がすわけはない。足許を見て、どれぐらいの塩梅で突っついてやれば、こいつはマグロ船に乗るかなって計算してる。あんた、甘ちゃんだから心配なのよ。まさかの坂、っていうでしょう。人生、一寸先は闇。そういう坂はいくらでもあるの。肝に銘じておきなさい。でないと骨までしゃぶられちゃうから」
 車のガラス越し、街の灯火が彩色された煙となって、後方に滑っていく。小倉にだいぶ近づいたようだ。遠方に繁華街の明かりに白んだ夜空が見える。どこかオーロラに似ている。オーロラに向かって少女が痩せた両腕を差し出すように、走路がゆるやかにカーブを描きはじめた。実は運転しているのは自分自身ではなく、夜闇が黒子となって後ろから操っているだけ。そんな気がしてきた。女の言葉に動揺してしまったからか。いつのまにか路上には人影が数多、木の葉のように揺らぎはじめていた。道路が無限に続く一本の筒に見える。路面を射光する照明灯がずっと先まで等間隔にアスファルト道路を縁取っている。男にはそれが洞窟に吸い込まれていく松明の炎に見えた。


 赤い傘の女が前を歩いている。コートの襟に無数の細かな水滴が付着する、冷たい雨の中を。冷たい雨が透明な針となって、空を縫って落ちてくる。厚い曇りガラスのような無機質な煙雨の層。視界が螺旋の渦に吸い上げられていくような、灰色の空。街のさまざまな色は雨ににじみ、ぼやけている。ストッキングに垂らしたインクの雫と色の撹拌。傘をつたう雨粒に映る、丸く歪んだ街の光景。女の印象的な後ろ姿が、霧を吹きかけた鏡に映り、ぼんやりと都会の銀幕に像を結ぶ。静かだ。雨が都会の喧騒をすべて洗い流している。
 この情景はどこかで見た。いつ何処で見たかは思い出せない。だが必ず見たことがあるのは確かだ。長い、長い筒を通して見る過去のある情景。
「変なこと言うけど、以前どこかで遇ってないか?」
 女は答えない。
「いつ何処で遇ったかは覚えてないけど、遇ったことがあると思うんだ、ずっと、ずーと昔に」
 赤い傘が振り向いた。雨に濡れた女の髪が蛇腹にひろがり、炎を吹き消した後のマッチ棒の匂いがほんのり漂った気がした。
「人ってね、覚えてることの他に、いっぱい経験してるの。想い出の外側にもいっぱい出来事はあるのね。でも安心して。アンタの心の底にいるホントのアンタは全部覚えてるから。それ追っかけてみる? 前世にまで行くことになるかもしれないけど」
「一度も経験したことのない想い出を懐かしめと? 前世?」
「デジャヴじゃないわよ。アンタ、雪がいっぱい降った次の日の朝、窓からアタシの後ろ姿を見てた」
「袖振り合うも多生の縁ってこと? 言ってることの意味が分からないな」
「あたしが分かってるからいいのよ」
 都会は大理石の表面のような静けさに包まれていた。都会は死んだ石亀のように、あるいは夜の海に浮かぶ孤島のように静止していた。


 暗い空が小刻みにまばたきをしている。窓の外、雨は勢いを増した。透き通った雨の鞭が地面を強く叩いている。大気の如雨露から流れ来る水の糸。水滴がはじける水銀の虫になり、電線を小刻みに伝い流れている。大粒の雨が向かいのトタン屋根をパタパタ鳴らしている。巨人の角膜に触れたかのように、部屋の空気が水分をふくみ、ガラス板を流れ落ちる液体そのままに、足許に重々しく沈殿していく。肌にはりつく濡れた髪の湿気。
「俺、あんたと逢う前、だいぶイカれてたんだ。それも心が不安定とかいうレベルじゃなくて、映画みたいな場面が突然パッと目の前に出てきたり、絶対にいるはずのない人が、そこに見えっちゃたりする。あるときなんか遠藤周作がおれの間借り部屋の前に立ってるじゃないか。なんかでっかい人でさあ、かわいそうな奴だと言わんばかりの眼差しをドアに向けていた。ま、ただ俺がそういうふうに感じたってことだけど。またあるときは大衆食堂で吉行淳之介がいた。焼肉定食なんかを食いながら、興味深そうにチラチラこっち見て俺を観察してるんだ。おかしいだろう、第三の新人のうち二人も目の前に御登場なんだぜ。おかしいけど、これがリアルなんだな。リアル過ぎてとても他人の空似で片づけられない。今もたまに変なこともあるんだけど、あの時ほどじゃない」
「大御所じゃないの。ほかにも来たの?」
「〇〇、それから△△や◇◇も」
「そんなに来るようじゃねえ、ちょっと心が病んでるかも‥‥‥」
「統合失調症っていうだろ、幻覚がいっぱい見えるそうじゃないか。一時的かもしれないが、あれになってたんじゃないかと思ってね」
 女は崩れそうな廃墟みたいな、可笑しくてたまらないといった表情で言った。
「違うわよ、幽霊をみたのよ。邪なことばっかし想像してるから、悪霊が憑いて霊が見えるようになったのよ。あたしと出会えたから浄化されて、悪霊が近づきづらくなったのね、感謝しなさい」
「遠藤周作も吉行淳之介もまだ現役でピンピンしてるよ、幽霊扱いされたらたまんないじゃないか。おい、何だ、そんなに馬鹿にしたように笑うなって」
 女はまだ完全に笑いの仮面を脱ぎ捨てていない。妙に中間的な表情のままだ。うつ伏せになった娼婦の下腹のように周囲の空気はまだ暗く湿っている。水に浸したネッカチーフの湿気が、徐々に体に絡みつく。マニキュアの爪につままれたタバコからは、アイシャドウと同じ色の煙が立ちのぼっている。タバコを白くて細い魚のようにしならせてしまいそうな湿気。女がおもむろに話しはじめた。
「彼らは実際にやってきた。そういう仮説はどう? 人を騙して操る基本の一つは、相手に自分は特別な人間だと信じ込ませること。詐欺師は『特別なあなただからこそ、こういう話を持ってきました。他の人に言ったところで豚に真珠ですから』と自尊心をくすぐって騙す。できる商売女は思わせぶりな態度で客を釣る。けっして自分から付き合ってあげるとは言わない、黙って見ているだけ。だけど仕草や表情で巧みに『あなたが好き、あなたは特別よ』というサインを送り、男をその気にさせる。彼女らは自分が特別だと勘違いしそうな馬鹿な男を虎視眈々と狙っている。本心は金を貢がせることだけ。黙っているのは、後から『騙したな、金返せ』と言われても『私はあなたが好きとも、お金もってこいとも一言も言ってない、あなたが勝手に持って来たんでしょう』と言い逃れするため。それと同じじゃないのか。やってきた作家さんは黙って見てるだけ。やっぱり同じだ。思わせぶりでアンタをたぶらかして、もっとも有利な条件で何かに利用するつもり。馬鹿なアンタは、作家が来てくれるぐらいだから俺の作品は相当なものだ、俺は特別だ、一次で落とされたのも何か深い意味があるに違いないと思い込む。この『思い込ませる』というところがポイントよ。人は受動的に他人から聞いたことより、能動的に自分が思い込んだことを信用するから。後から多少の疑念がわいても、なかなか否定できない。ずるい人たちは巧みにそこを突いてくる。ところが、青写真ではそうなるはずが、結果はまるで逆。アンタは自分が特別だと思うどころか、自分は統合失調症なんじゃないかと悩む始末。豚はぜんぜん木に登ろうとしない。なんだ、こりゃ。絵師は誰だ。おい、予定した筋書きと違うじゃないか、誰がこんないいかげんな図面を書いた!」
「あんたが絵師って言ってるのは、人を操るスキームをかく人のことだよね。自分とつながりのある者を相手の仲間のふりをさせて送り込み、彼を使って遠隔操作でターゲットを意のままに心理誘導しようとしたりする、アレのことでしょ。劇場や店舗に客を装ったサクラを紛れこませて、客たちをヤラセでうまく心理誘導してやろうといろいろと計略をめぐらす人のことだよね。会社なんかでよく聞く話だ。でもそんなサクラみたいな奴、俺んとこに来たかな。ちょっと待ってよ、アイツか? そういえば、アイツも学生のふりをしてたな」
「誰よ」
「いや、こっちの話。まさか絵師の送り込んだ使者があんただってことはないよね」
「そうかもよ」
「やめてくれよ」
「でも考えてみて。アンタを心理誘導して利用しようとするにしても、コストのわりにベネフィットがほとんどない。作家が講演とか取材とか何かのついでに、たまたまやって来たとしてよ、アンタを何に利用しようと言うのよ。たとえばアンタにゴーストライターできる? こういうコンテンツや枚数で、この作家さんの文体で、この作家さんが書きそうな感じのものを書いてください、って言われてできる?」
「それは、ちょっと無理だな」
「無理でしょ。そんな筆力ないでしょう。他にあなたからどういう甘い汁が吸えるというの? したがって作家たちが実際にやってきたという仮説は却下。あり得ない。アンタは幻覚を見たの。でも真面目な話、そんなことはよくあるの。おじいちゃんがね、病気になってお腹に水が溜まって、食べれなくなったのね。医者にみてもらったらいいんだけど、貧乏で金ないしね、最後の最後まで病院にいかなかった。そしたらそのうち爺ちゃん、窓から落ち武者がのぞいてるとか、お化けがそこにいて殺されるとか夜中に悲鳴をあげるのね」
「それってセン妄とかいうんじゃなかったかな、なんかで読んだことあるぞ」
「人間たべないで衰弱して栄養失調みたいになると、みんなそうなるわけ。あんたガリガリの骨皮筋右衛門だったでしょう、脱ぐと体が薄っぺらでウエハースみたいなんだもん。まるでインドヨーガの苦行者よ。あんまり食べてなかったのね、だからとりあえずあんた、あたしに感謝しなさあい。まあ、ただの脳の誤作動だからそんなに心配しなくていいんじゃないの?」
 外はいよいよドシャ降りだ。滝の雨がコンクリート面に打ちあたり、乳白色に視界がけむる。床に落ちて砕け散るガラスコップの雨粒が、破片となって眼前に舞う。空から目玉が幾つも落ちてきて、地面を透けた毛虫のように這いずり回る。水を切るナイフの青い軌跡、雨にとろける夢。雨が透明な長い髪を振り乱している。大きな穴の開いたバケツの雨。狂った噴水のような雨。暗い空の顔が口から反吐をはき、どす黒い雨を地にたたきつけ暴れている。
 突然雷が灰色の空に波形を刻んだ。雲と雲が擦れ合う、静電気に触れた不快感。こめかみの青白い血管が天空のスクリーンに浮き上がる。ややあって雷鳴が黄金の雄たけびを上げた。ゼンマイのように渦を巻く音。バスドラムを思い切り踏んだ時の音。雨の透明な弦を雷光の尖った爪がはじくと、巨大な暗雲の声帯が雷鳴となって地上に響きわたる。世界が一つの筒状の楽器となり、空気のビブラートが鼓膜を震わす。ドラム缶に満たされた水に浮かぶ帆船、鼓膜がその水面のように揺れる。風をたっぷり含み、はち切れんばかりにはためく船の帆のように揺れる。
 テレビにはステージ上で歌う歌手が映し出されている。そのバックには歌に合せて激しく踊るダンサー達。色とりどり光の帯が彼女たちの露出した四肢に巻きつく。色絵の具の光が汗に滲んで、ぐしょついた体の奥に沁みこんでいく。鮮やかな蝶が羽をひろげるように、ステージは七色に染まっている。
「ねえ、苦しまぎれにこう考えてみたんだ。実は俺が知らないだけで、小説家を目指している連中のなかには俺と同じような経験をしてる人が結構いるんじゃないかってね。高度な経営判断が働いて、作家さんたちにそういうおかしな役回りを押しつけてるなんてことは言わない。だけど寺山修司が平凡な一般家庭のアパート敷地内を執拗にうろつきまわり、警察沙汰になったって、最近の週刊誌がすっぱ抜いてるだろう。みんな虚言癖を疑われたくなくて黙っているだけで、似たようなことは一杯あるじゃないかなあ、俺が狂ってたわけじゃなくて。なかには『作家さん、せっかく来てくれたのなら印税で一杯おごってくんない』ってな図太い奴もいたりしてね。なあ、どう思う? あんた、物知りなんだからさあ」
「しつこいわねえ。さあ、どうかしら。それがほんとなら、出版社も作家さんも明るみに出たらバツ悪いんじゃないの? そんなことして何の旨みがあるのかしら。現実的じゃないわね、おとぎ話よ。遠藤周作が来たっていうの昼なの? 夜なの?」
「昼だよ」
「昼? だったら周りの学生たちが気づくでしょう、そんな大作家が来たら。テレビにも出てたでしょう、狐狸庵先生とかいって。知らない人なんていないわよ。あんた学生寮みたいなところに住んでたんでしょう、みんなどうして騒ぎ出さないわけ? 誰か気づくでしょう。なんで周りの誰かに確認しなかったの? お前も見たか? って確認すれば白黒はっきりするでしょう。はっきりすれば、そんなに大袈裟に悩まなくてすんじゃうのに」
「一階は俺しか住んでいなくて」
「えっ? 誰もいなかったの?」
「鼠がいたから‥‥‥」
「鼠なんていてもダメよ。鼠がいても、しゃべれないから証人になれないじゃないの。馬鹿いわないで」
「いや待てよ、アイツもいたかな、ひょっとしたらアイツが陰から糸を引く黒幕だったりして。段取りつけた張本人はアイツか?」
「だからアイツって誰よ」
「いやいや、こっちの話だって。女性じゃないから」
「そんなこと分かってるわよ、あんたが女を連れ込める器じゃないことぐらい。作家さんたちがなんかの酔狂でやって来たとしてよ、妙なのはアンタがアンタだとどうして区別できたのかしら。そこ学生アパートで、学生がぐちゃぐちゃしてるんでしょう。あんたの顔や体格知らないと、誰が誰だか分からないじゃない」
「知らないよ。どっかで撮られたんじゃないの、ビデオカメラをカバンの中に忍ばしてる人に」
「なんで撮るの?」
「取材かなんかで」
「アンタを?」
「分かんないよ」
「じゃあ、大作家たちはなんで来るの?」
「面接試験もどきじゃないか」
「なんで面接するのよ」
「友達になりたいのかな、それとも怖い物見たさか」
「やれやれ、荒唐無稽もそこまでいくと大したもんね」
 驟雨だったのかもしれない。いつの間にか雨は止んでいて、流れ込む夕陽がベッドのシーツに赤い紙をはりつけている。もうそんな時間になっていたのか。女といると時の流れが速い。黄昏時の光の筆が窓ガラスをなぞり、その向こう側は銀メッキされた世界に変じる。銀はやがて朱色になって、窓ガラスに夕陽にとろけるイチゴジャムが塗られた。四角く区切られた窓ガラスに血液を垂らす夕焼けの光、壁にかかった絵画のようだ。
 女は立ち上がり、テレビを消して、振り向きざま男にむかって言った。
「あんた、ちょっと目つぶってみて」
「なんだよ、藪から棒に」
「いいの、やんなさい。リラックスしてえ‥‥‥肩の力抜いてえ‥‥‥深呼吸してえ‥‥‥目をつぶったまま想い描いてくださあい。空の高い、たかあ~い雲のうえに神様と悪魔がいます。想い描いた?」
「うん、想い描いた」
「ちゃんと神様と悪魔の顔まで思い描くのよ。悪魔と神様は上からアンタを見おろしています。悪魔は言いました。わたしはコイツが苦しんでいるのを見るとうれしくてたまらん、もっと自分を追いつめる考え方をして、どんどん苦しめ、もっと自分をいたぶりまくれ。それにたいして神様は言いました。わたしはこの人が平穏で安らいでいるところが見たい。やめましょう、そんな自分を苦しめる考え方。事実がどうかなんて関係ない、どうあがいてもその事実をあなたは変えられないでしょう。もっと自分に優しくして。あなたはどう考えたら自分が安らかになるか知っているはず。自分の一番安らぐ考え方を選んで。悪魔さんを喜ばせる考え方はしないで」
 女の声はゆっくり流れ、それでいて透明で優しくかった。頭蓋骨の裏側が洗われ、心が漂白されていくような声。天井から雨水がしたたり落ち、女の言葉一つ一つが雫の一滴一滴となって、俺の額に当たる。手足の感覚が失せていき、その末端から自分自身が次第に夜の闇に溶け込んでいく気分だ。体がゴンドラに吊り下がったまま、宙に浮き上がっていく。ぶらつく両脚の間に深淵を感じながら。意識がこの部屋をぬけ、都会の夜空を漂い、海を越え、水平線の彼方へ消え去っていく。やがて全ての色彩を洗い流した雪景色のように頭の中が空っぽになり、いつしか男は眠りにおちていた。
「はい、目あけて。少しは気が楽になった?」
 脳細胞がすべて殺菌されたような爽快感がする。
「楽になった、なんだコレ、おれ眠っちゃったの。催眠術? 暗示療法かなんか? すごく単純な話なのに」
「まあ、あたしにかかればこんなもんよ。なにも現実と折り合いつけることなんかないのよ。おとぎ話でいいじゃない、苦しくない方を選びなさい。そいでね、ここがポイントなんだけど、神様も悪魔も雲の上でなくて、心のなかにいて‥‥‥」
「ジキルとハイド、ペルソナとシャドウだろ? 有名な話だから知ってるよ」
「それ、ちょっとあたしが言いたいのとは違うんだけどなあ。まあ、いいわ。そっちはいいわ、あたしが言いたいのはこっち」
「こっちって、どっちだよ」
「神様と悪魔はこの地上にも実際にいるのよ。外から見てるだけじゃ、簡単には正体はわからない。神様の方はほっといていい。ほっといても、よくしてくれるから。だけど悪魔には気をぬかないことよ、食い物にされちゃうから。それからもう一つ、あんた、もう既にその悪魔に遭っているかもしれなくてよ」
 レースのカーテンが心臓のように風にふくらみ、またしぼむ。上空から巨大な蝙蝠傘がおりてきたように周囲が暗くなってきた。夜が冷たい爬虫類の影となって、大地を腹這い、やってくる。空に墨を流し込んだような夜が。大宇宙が瞼を閉じるような夜が。
「ともかくね、今の瞑想、自分一人でもできるでしょう。ストーリーは自分で好きなように作ればいいわ。自己暗示は繰り返すことが大事、それと深呼吸。姿勢をただして、力をぬくこと。起きた時と寝る前に毎日やりなさい、もう公園で寝なくていいんだから」
 一瞬、脳裏に電流が走り、その後じわじわと胸の奥が温かくなってきた。
「見てたの? それで俺を‥‥‥」
「バレたか」
「隠れて見てたのか‥‥ありがとう、ほんとに」
 女はポッと頬を赤らめた。
「隠れて見てたのが悪魔でなくてよかった、神様の側にいる人で」
「それ最高の褒め言葉よ、くすぐったい、褒めすぎよ」
 女はうれしそうに眼を糸にして微笑んだ。よほど照れているのか、ヒビの入った鏡に映った顔のように、その笑いはぎこちなく見える。
「生き仏だ」
「いいったら、もうヤメて」
 夜のコートが色づいた大気を包み込む。巨大な蝙蝠傘がひろがって闇が空全体をおおった。うるんだ眼を細めると、星の光が四方に垂れて、傘に浮き出た骨をつたって流れおちた。


 井筒屋の屋上から見下ろした世界は昆虫か小人の世界のように感じられる。金襴緞子の眼下には、風に散らした煤となった無数の人影が、アスファルト道路に躍っている。ポップコーンのように手を繋いで跳びはねているカップルもいる。薄暑の下、照り返しで棒状にのびる道路が熱に膨張して歪んだガラス細工に見えてくる。心臓がハート形の切り絵になり、ビルの上からヒラヒラと舞い落ちていく。俺はあてもなく宙に浮かぶ、たよりない赤い葉っぱだ。
 足許に映し出された影が光の糸に縫われてしまったかのように、体がこわばって固くなる。たいして高度感はないのに、どうしちゃったんだろう。目まぐるしく動く都会、その時間の歯車の噛み合わせに、無数の人々の影と日常が絡み取られていく。
「俺、田舎に長いこと住んでたからさあ、都会にいるとね、こう、なんか小っちゃな箱にね、閉じこめられているような息苦しさを感じるんだよ」
「小倉ってそんなに都会かしら。小ぢんまりしてるけど‥‥‥やっぱり都会といえば都会かあ」
 オレンジの太陽が女の眼のなかに溶けていく、湖の底のように深い眼のなかに‥‥‥
「もっとデカいとこに住んでたことあるの?」
「まあね」
「それ、どこ?」
「言わない」
「相変わらずの秘密主義だなあ、それもいいけど」
 屋上からは小倉の街並みが一望できた。雲がそのふくよかな裸体を空の青いベッドに横たえている。見上げる空の色は目眩を感じさせる。水中から見あげる光が揺らめく海面、そしてその向こう側にある色。その色は無限に遠くにあった。空にぽっかりと穴が穿たれ、そこに男の体が吊り上げられていく。自分の瞳孔に自分の体が吸い込まれていくかのようだ。
「アンタ、どんな小説書いてたの?」
「なんて言うかなあ、やたらヘビーで、やたら濃い味でタフなやつ。水っぽい、毒にも薬にもならないもの書いても仕方ないでしょ。せいぜい選考者に好印象あたえるだけで」
「とんでもなく絶望的で暗いやつでしょう。はじめてアンタを見た時の、あの強烈な暗さで分かるわよ。主人公がとことん追いつめられて、最後に死んじゃうっていうのでしょ」
「ああ、あれはしょうがない、助けてあげたかったけど、小説のなかの俺のアバターがさ、死ぬって言うこときかないんだ」
「アバターって何よ」
「分身っていうのかな、なんかそんな感じ」
「何語なの?」
「サンスクリット語かなんかじゃないかな、俺、そっち系のディープな、インドや仏教の神話や寓話、好きでよく読んだから」
「英語でしょう、響きから言って」
「知らないよお、あんたでも分からないことがあるんだな」
「アンタ自身は死なないわよね」
「当り前じゃないか、そんな繊細な人間じゃないよ」
「死なないって約束してくれたら、それでいいの」
「約束だなんて大袈裟な、俺なんか死ねってみんなから罵倒されても、図々しく最後の最後まで生にしがみつくよ」
「死にたいなんて言うやついるでしょ、馬鹿みたい。せっかく生きてるのにもったいないわよ。死のことを考えたいなら、墓ん中で死ぬほど考えればいいの、もう死んでるけど」
「そうそう、俺はさ、死にたいなんて弱音を吐かず、こう粘土細工かなんかみたいに、黙って自分の死をこね上げるな。死って通過点だろ、死んだ後に向こう側から自分の作品を鑑賞するんだ、得意げにさあ」
「なに、それ。でも何となく分かったような気がするのは、アンタの変が伝染してあたしも変になっちゃったのかしら」
「人は予定されうる死を憎悪しながら、予定されうる生のなかに死んでくからだよ」
「誰の言葉?」
「俺」
「どうりで意味不明だと思ったわ」
 紅をさしたエナメルの唇が笑う。カラスの足跡が目立つ。
「俺の場合、日常と非日常の間に無数の中間的迷路があるんだ。それで意味不明になっちゃうの」
「続くわね、いかれた言葉のオンパレード」
「君、真理というのは拒絶された鏡のことだよ」
「ねえ、もう、ちょっとついていけない、アンタのいうことシュール過ぎるわ。狂人の会話よ」
「だろ? こういう深い意味があるのかないのか分かんないところがいいんだよ。ダダから引き継がれたシュールレアリスム。彼らはちゃんと意味が分かって作品を創っているんだろうか。ギョーム・アポリネール、しびれるねえ、病みつきになりそうだ」
「乗ってきてるとこ悪いけど、なんか食べない?」
 二人は屋上の売店でソフトクリームを買った。二人でいると時の経つのがはやい。いつの間にソフトクリームを売り出す季節になっていたのだろう。空には太陽が、溶鉱炉の中の鉄球のようにギラギラと煮沸している。また目眩がしだした。今度は青空が渦巻きながら落ちてくる。目を閉じると、透きとおった夢のように音が消えた。白昼のイルージョン。ビルの屋上から身を投げた自分の背中がゆっくりと下降し、地面に砕けて、マネキンさながら首や手や足が胴体からぬけて、スローモーションで周囲に飛び散る。
「ソフトクリームみたいにグルグル渦を巻きながら踊りたいわ。フワーって広がる真っ白なドレス着て。頭の上に空から虹色の羽根がついた光の矢がいっぱい落ちてきて、あたしに綺麗な帽子をかぶせるの」
 女は回転しながら踊る真似をした。スカートが水道から流れ出る水の筒のように、ねじれて腰にはりつく。ソフトクリームみたいに踊るというのはどういう踊り方なんだろう。空から光の矢が落ちてくる? そっちだって意味不明で結構いっちゃってないか?

 階下にエスカレーターにのって降りていく。女の話だと貴金属類売り場のフロアーがあると言う。赤い手すりの平行線の行きつく先にプラスチック樹脂の通路が続いている。透明な血管のなかに二人の体が溶けて、流れ込んでいく気がする。貴金属売り場のガラスケースが、宝石類の並んだ色彩豊かな空間を切り取っていた。さっきから水に葉っぱを浮かべたように女の視線が、ジュエリーやアクセサリーの上を漂っている。眼鏡のレンズにはじける雨、その雨に滲んだ繁華街のネオンサインがすべて小箱に詰まっている、そんな感じの小宇宙だ。
「女ってどうしてそんなに指輪が好きなのかなあ」
「関係を縛りつける、ってことかしら。縄や鎖と一緒よ」
「そうか、なるほど。指輪は結婚の象徴だからね、結婚で縛られたいわけだ」
「違うわよ、旦那を縛りつけたいのよ」
「買ってやってもいいよ、一番安いのだったら」
「アンタが?」
「うん」
 とつぜん女は噴水にふき上げられるピンポン玉のように笑い出した。
「自惚れるのにもほどがあるわ、スカンピンのくせして。それにそんなこと女を目の前にして言うことじゃないのよ。まあ、しばらくは食べさせてあげるから。一人分も二人分も食べるだけならおんなじよ。出来の悪い召し使いを住まわせてるぐらいに思ってるから」

 グラスの中のカラフルな色合いに俺の顔が揺らいでいる。グラスの底から炭酸の気泡が上昇する。自分に向かって無数の気球が浮かびあがってくるかのようだ。ハイボールに漂う氷を頬張り噛み砕くと、口奥に花吹雪が散った。強い酒で溶岩の塊が喉を通過していく気がする。カウンターにこぼれた液体で輪を描いていると、それがだんだん首吊りの輪に見えてきた。天井で揺れる赤い照明が、指でひきのばされた液体の輪にはじける。舌の上で赤い頭がとろけていく。いつか見た時代劇の腹切りシーンの、傷口から周囲に飛び散る鮮血の色、白壁にいくつもの赤い斑点を付着させるあの血しぶきの色。
「学生さん、まっぴる間から大学サボって、油売ってるの、いけないねえ」
 マスターらしき男がカウンター越しに話しかけてきた。
「僕は学生じゃないですよ。だいいち学生なんて嫌いだ」
「そうかい? 何となくそういうふうに見えるけどな、学生さん」
「だから僕は学生じゃないったら」
 暗くなる前から飲みすぎたようだ。アルコールに弱い男は、窓の外に建ち並ぶビルがぐにゃりとこちら側に折れ曲がり、押し潰してしまいそうな気がした。転倒したときに見る視界。周囲が積み木細工となって崩れ落ち、転がりまわって逆さになる。すっかり酩酊してしまった。眼下には針金細工のように無秩序にいりくんだ路地。都会は火を噴いて笑う仮面か。都会が炎の塊となって砕け散るのを、上から見下ろしているかのようだ。思わずグラスに残った氷片を口に含み、唾液の海にゆっくり溶けていく流氷を想う。
「世の中には二通りのタイプがいるのね。ある人は高すぎる夢を死ぬまで全力で追い求める。追い求めるけど夢が叶うのは稀。もう一人は自分の生きている長さのことを見積もって、夢はほどほどで諦めて、自分の手の届く範囲で人生を目いっぱい楽しもうとする。どっちが賢いかしら」
「自分を犠牲にして必死でもがいても、夢を果たせぬまま事切れちゃうってことかあ。あ~あ、見果てぬ夢、情けないなあ」
「それならまだいいの。もっと悲惨なのは、たまたまマグレで夢が実現した、けど、いざ実現してみると、私が目指していたのはこの程度の代物だったのか、っていう失望よ。自分を削りに削って費やしたあの時間と労力は何だったの、ってね。気づいたときはもう遅い、片足を棺桶に突っ込んでたりしちゃうかも」
 グラスに満たされたブランデーの水平線に夕陽が沈んでいく。女はぜんぜん酔っていない。話していることがまともだ。商売柄なのか、もともと酒に強い体質なのか。こっちは頭がフラフラしてちゃんと理解しているか怪しいが、どうやら小説を諦めさせたい意図が透けて見えることだけは確かなようだ。

 表に出るとドロドロと溶けかけた金属の太陽が、綿雲におおわれていた。空が淡い茜色に彩られている。氷イチゴを食べたあとの子供の舌の色。西の空が血に染まったガーゼに覆われた。ストッキングに滲みこませた赤インク。女の動作は、夕映えを背に跳びはねる子供の影のように軽い。都会の隅々まで赤い絨毯が敷かれ、林立するビルのガラスに夕陽のカラーフィルムがはりつく。ガラスの切り口に付着したばかりの薄暮の血液が、街全体に朱をたらす。
 角膜にワインをたらしたような夕焼け。天空の巨大な瞳に血の涙が流れる夕焼け。陽光が旋盤で宙に舞う細かな金屑に見える。充血した眼球のように西の空が赤く染まった。夕陽に染まった街が、脈打つ鼓動に赤く揺れ動く。西の空には落陽が、壁に投げつけたトマトようにひしゃげて見える。赤ペンキに浮かべたクラゲの頭が、周囲に夕陽の波紋をひろげていく。揺らぐ樽のなかで震える葡萄酒の湖面。
‥‥‥俺は妄想の中にこの街を殺そうとしているのか? この街は水鏡に映っている像に過ぎず、現実ではない。この光景は実際にあるのではなく、脳内の幻影なのではないか。いま見えているものは明晰夢のなかでお前がつくり上げたものだ。お前はこれが夢だと気づいている。すべて近づけば消える蜃気楼だということを‥‥。
 二人は沈みゆく太陽と自分とが糸で結ばれているかのように、ゆっくり歩きだしていた。赤い大気の手袋が二人の後影をつかみ、地平線の向こうに引きずり込んでいく。濡れた女の唇のように、わななく夕陽。腐りただれた果肉を空に押し広げたようだ。夕陽の波が押し寄せ、虚空にぶら下がった二人の頭蓋を洗う。黄昏に染まった静脈の路面が格子状に大地の白肌を走っている。夕陽は天空の唇から垂れ落ちる血液だ、それが涙に変じ眼前に流されている。残照が黒幕を血液に浸し、闇の色と混ざっていく。空がセロファン紙を何枚も重ねていくように次第に暗くなっていく。

「ねえ、夜ってどうやってできたか知ってる?」
「ああ、またそのパターンね」
「血に飢えた蝙蝠たちが、ひしめき合って太陽を覆い、夜を造ったのよ」
「今回はそれだけ?」
「ガス欠みたいね、補給しないと」
「俺、もう無理、飲めないよ」
「なに言ってんの、これからじゃないの。姉御についてきなさい。飲めない人に飲めなんて言わないわよ。飲まないんなら、お伴だけでもしなさい」

 そろそろ足許から夜の闇が這い上がってくる時刻だ。陽光が地平線の向こうに逃げ去り、夜の帳につつまれていく時刻。昼がどんどん小さく白いマッチ棒の頭ほどの大きさになり、やがて夜の背中の陰に隠れてしまう時刻。銀細工の街が夕日の炎にゆっくり焼かれ黒ずんでいく。都会には夕と夜の間に束の間、脱色される時がある。光と翳が明と暗だけに色分けされ、一瞬モノクロ写真となる時がある。都会が一面、巨大な白黒クロスワードパズルになる時がある。眼の下の淡い隈のように、人の輪郭が無彩色におちくぼむ‥‥‥そんな時。今がその時だ。
「俺の思考って、いつでもお人形さんの関節みたいにスッポンって抜け落ちちゃうんだ。いつも考えがブツブツに途切れちゃう。Aのことを考えていると、途端にBのことが気になりだし、それでBのことを考えだすと今度はAのことが気になるってな具合に。なんて言うのかな、いつも心の端っこが洗濯物みたいに黒ずんで汚れている、なんとも歯がゆい感じ。分かるかなあ」
「あたしだって同じよ。脳みその中に何千、何百の小人たちがいて、みんな好き勝手なこと言いだすの。だから決められなくて困っちゃう」
「そうそう。やることなすこと裏目ばっかりだ」
 女は鼻歌まじりに節をつけて話す。
「あたしの未来は永遠の風車、グルグル回って、グニャグニャ曲がって、どうなっちゃうか全然わかんない~」
「堂々巡りの俺の人生、自分で自分の墓穴、掘っている~ウ」
 続けて男も節をつけて嘆いてみせた。
「なんか大きなものに、いいように操られている気がしてね、俺」
「みんなそうよ、特にアンタみたいに若いのはね、みんなブラブラ、操り人形になってもがいてる」
「わかんないんだよなあ、何にどう操られてるのか、空振りばっかで、さっぱり分からん」
「分からんじゃなくて、分かり過ぎてるのよ。たいてい筋書きはアンタの思ってるとおり。だけど認めたくなくて意識することもできない。それで魂がきりきり傷んで、苦しいのよ」
 洞穴の奥に人工着色されたひしゃげた顔がひしめいている‥‥‥それが都会の夜のイメージだ。イルミネーションの無数の筒が毒蜘蛛の足のように、数え切れない顔の上を這いまわり、酔っ払いのゾンビどもが反吐を唇からたらして徘徊する。これが俺のイメージだ。金管楽器に息を吹き込むように、風が不協和音を奏でながら、ビルとビルに挟まれた狭い路地を通り抜ける。死面が微笑むように、夜の顔が俺の顔に重なる。屋上から見る夕景は、散らばった魚のはらわたが静止して廃油に浮かんでいるように見えた。夜の訪れとともに、繁華街が極彩色の孔雀の羽を広げていく。夜空を焼く電飾の密集。都会の顔に塗りたくられたカラフルな化粧。

「いつも思うの。あたしの体がガラスみたいに透きとおっていたら、裸になってナイトスポットを駆け回り、そこいらじゅうのネオンサインを映してみたいわ。いろんな色が水のように肌をすりぬけるの」
 女はそう言うと、買ったばかりの白い薔薇の花をネオンに彩られた河に投げ入れてしまった。もったいない。なんだか琵琶法師芳一の耳朶が、地獄の血の池に落ちていくのを見ているかのようだ。連なった街のライトが、水をたっぷり含んだ、不思議な光るボールのように、河面に浮かんで揺れている。河面はなめらかな磁器の光沢を示す。都会の夜空には星がない。そのかわり数限りない街の灯火や窓明かりが河面に映り、もう一つの夜空をつくっている。満点の星がすべて河のなかに落ちてきたかのようだ。
 夜を映した鏡の中に無数の都会のネオンサインが着色されたガラスの破片となって吸い込まれていく。気の遠くなるほど深い闇と天然色の渦。街がつくりだす色彩豊かな光のデコレーション。ネオンに彩色された空気が、少女の髪に炎を灯し薔薇の花飾りを被せる。歓楽街という舞台上で、フットライトの光芒が行きかう人々の脚を舐めまわしている。ネオンサインが色とりどりの明かりの風船となって路面を跳ね回っている。電光看板の多色光がガラス玉となって女の瞳に跳ねている。時刻にしたがって色を変える海のように、墓の下の死面が、イルミネーションの波に洗われる。墨で満たされた湯船に浸かっているような湿っぽい夜気にふれる。夜の闇とネオンの渦、それは悪魔の冷たい血液に彩られている。絡まりながら朽ち果てていく過密都市に浮き出た無数の血管のスペクトル。

 ボトルからグラスへウイスキーが琥珀色の螺旋をつくりながらに落ちていく。不思議な放物線を描き出すスクリュー状の流体。なみなみと注がれた小麦畑の穂のうねり。グラスの側面には街のネオンが海に沈みゆくひしゃげた夕陽のように、垂れ落ちる。ネオンに赤く染まる雨粒。ポタリ、ポタリと潤んだ眼に赤絵具を垂らしている。薄暗い店内、動く照明が女の肌に斑の影を走らせている。人工衛星から見る月面の映像のようだ。
「あんたを妖精にして、あのウイスキーの瓶に閉じ込めて、窒息死させてやろうか」
「え?」
「いやいや、ゴメン、あんたを興奮させるための言葉のサービスだよ」
「どこでそんなの習ったの? 店にやってくる変態連中の影響受けちゃダメよ、話半分に聞いとかなくちゃ。そういうの嫌いなタイプじゃないけど、アンタが言うと悪趣味。厚かましく感じるわ。」
「やっぱ鬼瓦みたいな怖い顔した人が言わなきゃ、興醒め?」
「馬鹿! そういう事じゃないの、分かんないのかしらねえ」
「自分のことインテリ娼婦だって言ってたじゃない、だから‥‥‥」
「娼婦っていうのは、あたしは楽しいことや気持ちいいことは貪欲に、最後までしゃぶり尽す女ですって意味よ。やりたいことは今やれ、すぐやれ、全部やれ」
「ふ~ん、変なの」
「どこが変なのよ。いのち短し、恋せよオトメよ‥‥‥もう乙女じゃないから、ちょっと照れくさいけど」

 背後の並木が街のライトに照らされて、路面に枝の影をのばし、やせ細った老婆の黒手袋が、後ろから二人のの頭を掴む。アルコールの表面に無数の影法師が揺らいでいる街。コートの襟を立てたようなビル壁に挟まれた、入り組んだ都会の迷路。街灯のあかりが綿毛となって柔らかく広がり、コンクリート製の闇の地肌を撫でている。
 女の眼に映る街の照明が、夜空に浮かぶ月に変じ、降下していく。揺れる川面に映る月、黒髪に落ちた黄葉のひとひら。都会は千紫万紅あやなす光の花の密集だ。そして都会の光の密集を取り巻いて、その向こう側には死人のように冷たい夜の静寂が茫々と横たわっている。そこには見れば見るほどさらに深く沈下していく闇があるばかりだ。
 月光は青い水のように冷たい。外灯が眼下の暗闇から抜け出たように、俺たちの肩に明かりの白い手をのせている。女の顔が光の水面に枯葉になって落ちる。その輪郭はダイヤモンドで切ったように鋭く背景から浮き出ている。女の肌が街路照明に映える、あたかも朝の光の眩い白さ。ネオンに染まった塵が、水面に揺れる花粉のように空気中に揺らめいている。女の涙に潤んだ瞳のなかに街が七色に染まって浮かんでいた。揺れ動く灯火の影、それが魚の鱗や砂丘の風紋となって女の肌の上で踊る。斑の影が女の顔を這う。電飾が女の肢体に光の塗料を吹き付ける。怪しげな光線とその影が、女の長い髪を切り落としているかのように見える。
 街に浮かぶ一つ一つの灯火の明かり。闇に無数の煌めく目玉が吊るされて、こちらを睨んでいるかのようだ。おびただしい数の顔が頭上から二人を見下ろしているような気がする。都会には数えきれないほどのビルがあり、一つ一つのビルには数えきれないほどの窓があり、その窓の内側から数えきれないほどの顔が二人を見下ろしているような気がする。都会の人工的な光源に照らし出され、スベスベとした水銀の被膜におおわれている無数の顔が。
 張り巡らされた暗渠。都会の血管には黒光りする漆色の血が流れている。血は、羊カンの表面や、外灯の光をにじませ雨水を流す夜の舗装道路や、割れたビール瓶の切り口や、脂ぎった肝臓や、黒マニュキュアを塗った爪や、エナメルブーツや、鏡面に映る黒装束や、海面に突然あらわれた鯨の背中や、洗車したばかりのフロントガラスを透して見る夜空や、わずかの光を反射して揺らめく井戸の底や、水滴の流れ落ちるレインコートや‥‥‥それらの光沢を示しながら、血管の中を流れている。


 女は紙人形のように体を折り曲げて吐いた後、地面に座り込んで動こうとしない。泥酔してしまったようだ。青白い死人の顔をしている。糸ミミズが這っているように白目が充血していた。
「無茶飲みするからだよ。飲むペースが速すぎたんじゃないのか」
「ド素人が知った口きくんじゃないの。おしっこしたくなったじゃないの」
「色気もくそもないな。はて、ここら辺に公衆トイレはないし、困ったな」
「ウ~ン、漏れちゃいそう、漏れる」
「俺、人が来るか見といてやるから、そこらでやっちゃいな」
「人から見られてるのを想像したら興奮して、したくなくなった」
「何だ、嘘だったのか。阿保らしい、心配して損した」
 俺は背中をさすってやる。すると女はまた吐いて、吐しゃ物が指の間からはみ出て、服を汚した。
「おい、ホントに大丈夫なの?」
 女は薄笑いを浮かべて、「あたしの喉ん中に指突っ込んで、もっと出して」と言った。
「きったねえ、そんなこと自分でやってくれよ。味噌も糞も一緒になっちゃうじゃないか」
「嫌、やってくれなきゃあ、もっと優しくして、優しくしてよお、あたしの坊や」
 片腕に頭をかかえ、指をすり込ませた。生臭さにこちらまで吐き気をもよおした。女の舌は唾液と汚物にまみれている。イソギンチャクをつまんでいるようで何だか嫌な感触だ。舌を指でさすったが、嘔吐物は出てこない。唾液が甘くもつれた糸となって、粘っこく指にからみついてくるだけだ。仕方なく指をさらに奥にすべらせると、女は眉に皺をよせて咳き込んでしまった。白く濁った唾液が桃の汁のように唇から流れ落ちている。充血した目から涙があふれ出ている。ちょっと不安になってきた。
「ねえ、だいじょぶなの? ゲーゲーやってごらん、ゲーゲーと‥‥‥何だ、ちっとも出てこないよ。水飲まんといかんのじゃないか。水ガブガブ飲んで、どっかで休まんと。もうちょっと勘弁。誰かに見られたら、変質者が女をいたぶっとると間違えられるかもしれないし‥‥‥」
 言い終わる前に、またゲボッと口に突っ込んっだ指の間から吐しゃ物があふれ出て、袖口を汚した。手をぬくと女の唇の端から唾液の糸がもう一条、垂れた。
「あたし、死にたいよお、殺して、殺してよ。犬っころみたいに、ヒイヒイ言わせて殺してよ」
「何、やさぐれてるんだ、まったく」
 女が殺せと言うときは、経験則でアレの催促を意味していた。今日はその気になる日なのかもしれないが、悪臭でとてもじゃないがヤル気はおきなかった。一応服の上から乳房を愛撫してみたが、女の苦しそうな表情は消えない。だいいち、ここは都会の路地裏、やること自体犯罪行為だ。肩に手をかけ、ゆっくり歩きだそうとする。
「あたしのこと嫌いになったんでしょう」
「馬鹿らしい」
「かわいそうだから情けをかけてあげたのに、初めからもてあそぶつもりだったのね」
「ふて腐れるなよ、それはこっちのセリフじゃないの?」
「このクソ馬鹿野郎! 畜生! 復讐してやる。末代まで呪ってやるから覚悟してちょうだい」
「ちょっと、もう疲れちゃったから。いい加減にしてくれよ」
 ずいぶんとご機嫌斜めだ。破れかぶれで手がつけられない。女のマンションに帰ったら務めは果たすつもりだが、体がちゃんと言うことをきいてくれるだろうか。これだけ世話になっているのだから、せめて誠意だけでも示さないといけない。とりあえず誠意を示して、そのうちアルコールがぬけてくれば、多少は腹の虫もおさまってくれるかもしれない。確かにあんたは目いっぱい人生を楽しんでるな。おっしゃる通りだ。


「知能指数とか学力がとびぬけて高いんで天才って言われてるのは一杯いるよ。けど、いくら優秀だからって、そんな人、条件がちゃんと整えば出来ちゃう。そんなの人工的に培養された天才だよ。俺なりに言えば、せいぜい種なしスイカ程度の代物で、注射打てばいくらでも出来ちゃう。そんなの食っちまえば消化されて糞になっちまって‥‥‥あれ? 例えがよくなかったかな、何か妙ちきりんになっちゃったな」
「面白いわよ、突飛すぎてて。あんたもお喋りが好きになってきたのね。はじめて見たときはハイとイイエしか言わない石地蔵さんだったんで、この子、大丈夫かしらと思ったんだけど。でも種無しスイカは薬を注射して作ったりなんかしませ~ん。コルヒチン処理して染色体の数を変えて‥‥」
「何それ? コルヒチン?」
「いいわよ、そんなこと知らなくても。ほら、続けて。聞いてあげるから」
「そういう、ありきたりの天才じゃなくてね、狂気のともなった天才は別格なの。百年に一人出るか出ないかって感じ。まさに奇跡のスイカ、猿まねしたり、盗もうとしたりしても絶対に無理。黄金の輝けるスイカ。黄金のスイカは誰にも食えないからな。食ってやろうと噛みついた途端、歯がかけて‥‥‥あれ? また変てこになった、スイカなんかに例えるからややこしくなるんだ。要するに正真正銘の天才というのはドストエフスキーみたいな人だと言いたいわけ」
「ドストエフスキーが好きだわねえ。あんなのどこがいいの? あの延々と続く長ったらしいセリフ? それとも罪と罰みたいな、しつこいゴテゴテの心理描写? アンタのことだから、さだめし心理描写に惚れこんでるんでしょうね。前にも言ったでしょ、みんなが読んでるものをいくら読んだって駄目って。みんなと同じ土俵で勝負してるようじゃね。もっとニッチなの探さなきゃ。あんた、ダレル読んだことある?」
「ダレル? 聞いたことないな、ダレルってダレ? わかんないからダレてしまう‥‥‥なあんちゃって」
 しまった。葡萄の中身を皮から出すように軽薄な駄洒落が口からすべり出てしまった。言ったあとで何だかツラの皮がはぎ取られたように恥ずかしくなった。女はそんなこと気にも留めない。すべる前にスルーされてしまったようだ。
「ロレンス・ダレルだわよ。そういうマイナーなのを読まなきゃあ。ダレルのアレクサンドリア四重奏でも読みなさい。そしたら少しはユニークなものが書けるから。何よ、アンタ、ダレルも知らないの。あきれた。モグリじゃないの」
「だから、いつまでたっても日の目を見ませ~ん」
「それ、モグリじゃなくてモグラでしょう」
「モグラちゃんは、いつまでたっても野に埋もれたままなんです」
「阿呆くさ、下らなさ過ぎて笑っちゃうわ」
 鏡の向こうに、まだ女の化粧の匂いが残っている。唇に紅をはく白く細長い指と、化粧顔の屈託ない笑いが残っている。三面鏡が映し出す夜の都会の無数の窓ガラス。閉じかけの三面鏡の内、交錯する無限の空間に女の姿が、荒海にのまれる花びらとなって裂けては散る。鏡のなかにある女の青白い顔。女は唇を紅でなぞっていた。唇がとろけた口紅とともに闇に落ちていく。男はそっと手をのばし、その赤い時の流れをなぞった。
「化粧してると、なんだか心の中まで化粧しているような気になるわ」
 女は洗濯機の水槽に脱いだ赤いパンティを投げ入れる。いま買ってきたばかりの新品だ。はいてみて気に入らなかったのだろうか。下着は綿菓子のような洗剤の泡に花弁となって浮かんでいる。
「ねえ、読んだ人なら誰でも気づくんだけども、『カラマーゾフの兄弟』のなかに芥川龍之介の『蜘蛛の糸』とおんなじ話が出てくるんだ、知ってた? もっともドストエフスキーのほうは数行サラッと書いてるだけなんだけどね。そこでだ、ここがミソなんだけど、俺だったらそんな上から蜘蛛の糸がおりてきて、なんてのじゃなくて、天国から地獄にたらされた縄梯子の中間で主人公が首を吊る話にしちゃうな。そっちの方が、ぶっ飛んでて面白い。もうすでに死んでる人間が首を吊る、死んだ人間がさらに死んだら、さてどうなるかってね。第一地獄から第二、第三地獄に降格か、はたまたどんでん返しで極楽に行っちゃったとかさ、クレージーで面白いだろう、ワクワクドキドキしない?」
 蝶がひらひら飛んでいるような女の微笑はそのままだ。目尻に小じわがよっている。化粧を終えた女の付け睫毛は垂れ幕を下げたように長く、涙袋に影の爪先をおよばせている。何を考えてるんだろう。「また一つ覚えのドストエフスキー出してきてバカなこと言いだした、コイツは 」とでも思ってるのか。男は自嘲気味に頭を掻きながら様子をうかがった。
「不気味?」
「全然。そんなテイストの物語は吐いて捨てるほどあるわよ」
「俺って悪魔的だろう。書き出すとそうなっちゃうんだ」
「よっぽど追い込まれていたのね。悪魔的って言うけど、せいぜい雪原に一人取り残されて、凍え死にかけて泣いている小悪魔的少女って感じかな、かわいいもんよ」
「まあ、こんなオカルトチックなセンスだから、いつも一次選考で落とされるのかもなあ」
 女は堪えきれず笑い出した。顔がおもちゃ箱をひっくり返したように崩れた。
「あんたみたいな坊やが小説家ねえ。何回応募しても空振りね。なぜだか教えてあげましょうか」
「ん?」
「字がばババッチイからよ。読まされる方は見るだけでうんざり、二、三ページくらい読んでシュレッダー行きね。ボールペン習字でもやりなさあい」
「オイオイ、冗談いわないでよ。こっちは何か技量に欠けたところがあるからだと真剣に悩んでるんだから。当選作と自分のを比べて、分んないなあ、どこがどう劣っているんだろう、そんなに違わないのにな、出すたびにペンネームを変えるから選考する人の印象が薄くて、しっかり読んでもらってないんだろうか、なんてね」
「世間はそんなもんなんですう。どこが劣ってるって聞いたら、全部だって言われるわよ」
「そんなもんなの?」
「どれが優れた作品でどれが劣ってるかなんて、主観でしょう。あんたはドストエフスキーに心酔して天才だと言う、あたしはあんなの何処がいいのって思ってる。小説に良いも悪いも、出来不出来もないわよ。人が違うんだから、上手い下手、好き嫌い、そんなの見方が違うに決まってるじゃない。それを、ここがどう、あそこがどうって言いあっても白けるだけよ。むこうも商売だからね、売り上げのばして利益もあげなきゃいけないでしょう。こんなのにコストかけて本にしても需要はないよね、ってプロが判断した、ただそれだけのことよ。あんた、心のどこかで猫どもに小判の値打ちが分かるかって思ってない?」
「そこまで慢心しちゃいないよ」
「プロを舐めちゃダメよ、それでご飯たべてるんだから。何ならどうして落としたか東京まで聞きに行ってみれば。交通費どれだけかかるでしょうね。行っても会ってなんかくれないわね、そんな馬鹿にいちいち会ってたら時間がいくらあっても足りないでしょう。それとも電話する? うちの電話は使わせないよ。小銭ジャラジャラ、山のように持って公衆電話からかける? まあクレーマー担当にまわされるでしょうけど」
 雨のつたうボックスのガラスの向こう、電話をかけている男の背中が、画像となって一瞬脳裏をよぎった。舌下に真珠を埋め込むように、意識に異物が入り込んでくる。
「あんた、物事を、単純って言ったらいいのかしら、当たり前といったらいいのかしら、こう、筋道立てて考えることができないようね、まるで夢見る女の子ね。小説の世界って過当競争でしょ? 一作書いて何千万も儲けた人がいるぐらいだから。誰かが早めに若い才能の芽を摘んどこうと、裏から手を回したんだぐらいに考えときゃいいんじゃないの? そう考えれば自尊心だけは保てるでしょう。まあ、あんたがそんなスゴイ人のわけないけど。自分を中心に置いて考えるから、世の中が正しく見えなくて苦しいのよ。あんた中心に地球は回ってないのよ」
 女の言葉はちょっと侮辱的だが、なぜか頭の中で絡まった毛糸がほどけていくような気持ちもする。地に足がついているからか。もちろん実際のところは確認のしようもないが、蜃気楼を追いかけてるような俺の妄想よりよほど得心がいく。
「向いてないわ、全然。あんた、今のバイト自分に向いてると思う? あんたには客商売は無理。小説家なんて客商売みたいなもんでしょう、媚を売って読んでもらって、媚売って本にしてもらって、もっと媚売って買ってもらうわけでしょ、あたし達みたいに直接客をもてなさないだけの話で。そんなもんになったら、もっともっと不幸になるわ。売れなくて、食べれなくて、もっと頭が変になって、もっともっと不幸になる」
「媚売るって、そんな言い方しなくても‥‥営業努力とかなんとか」
「売るから買うんでしょう。あたりまえじゃない。大事なことだからオブラートに包んだ言い方はしたくないの」
 どうしちゃったんだろう。理性が積み木のように崩れていく。女はリラックスし放題、ベラベラしゃべりたい放題だ。さっきから俺の思考は大時計の歯車が錆びついたように停止したままだ。まったく反論できない。この論破オバサンめ。等身大の姿見にはりつく裸体の女。若い男に見られていてもアッケラカン。いつまで自分の体に惚れぼれしているつもりだ。これから仕事に行くんだろう、服ぐらい着たらどうだ。寒くないんだろうか。
 死人の手を握っているような冷気を感じながら、俺はあの鏡を通り抜け、その向こう側に逃げ込んだ。無機質な感触が背中から這い上がり唇を凍らせる、ある冬の夜のこと。解体されたはずのあの小説工房の狭い一室で、俺は一人裸電球の下でペンを握り、今この光景を描写している‥‥‥
都会の夜の小部屋で、裸の女が等身大の姿見に肌をはりつけ、体温が冷たい鏡の表面に逃げていくのを感じている。あえぐ息が鏡を曇らせ、唇がその上を這い、唾液と口紅のかすれた色を描き残す。女は蛇のようにその身をくねらせ、髪の毛が扇状に広がり揺れる。女は何か大きくて野蛮な腕によって上空から夜の底へ、あるいは深い洞穴の闇に、吊り下げられていることを想う。氷のような冷気が足先から這い上がってくるその場所に‥‥‥
 ほら見ろ、俺はまだ書くことができるじゃないか。この程度の表現力ではお粗末すぎてプロとして通用しないというのか。それでもなお言葉とイメージは滾々と湧いて出る。これらは皆、陳腐で手垢のついたガラクタに過ぎないのだろうか。あるいはもともと何をどう書くかなど、小説家になるのに大して重要なことではないのか。
「いつまでたってもアンタみたいな人は見る側、演じる側にはまわれっこない。でも、そっちの方が楽だと思わない? アンタは羊飼いじゃない、羊なの」
「羊?」
「そうよ、アンタは羊飼いに操られる羊の群れの一匹よ。操られてることに全く気づかず、『これが俺の生き様だ』って粋がって青草ばっかり食べてる。本当は選ばされたのに、自分が選んだ道だと思っちゃってる。そのあげく体じゅうの毛を刈り取られて丸裸になるの。毛は生えてくるわ。だからジンギスカン料理にされちゃう前にやめちゃいなさいって。自惚れてる人ほど騙しやすい人はいないわ。嵌められちゃうわよ。思い上がりにつけ込まれて、いいように操られて、最後には泣きをみるの。いい? 平凡な今のアンタがアンタにとってベストなのよ。いま以外のどんな人になったとしてもアンタにとってはワース。気づいてないけど、いつか必ずそれが分かるときが来る」
「俺ってそんなに平凡?」
「平凡そのものよ。超安定志向が似合ってるわ。アンタはトンビなのにタカのつもりで生きている。これまで何千人、何万人もの人が投稿して踊らされたピエロになってる。アンタはそんなありふれたピエロの一人でしかないの。男の場合は、もっと浮世離れした人じゃなきゃ面白いものは書けないわよ。アンタに今必要なのは場所を変えること。おんなじ場所にいていくら悩んでも堂々巡りよ。居場所を変えなさい。そうだ! 公務員になったらいいわよ。公務員だったら媚びてお金儲けなくてもいいわよ。親方日の丸にビジネス原理はいらない、ピッタリよ。いろいろ種類があるから、勉強したら、いくらあんたでも一つぐらいはひっかかるんじゃないの。コツコツやることね。手当たり次第受けてみたらどう? 受験資格に年齢制限あるんでしょう、呑気な人ねえ。ぼやぼやしてると受けられなくなっちゃうよ。小説で人生棒に振っちゃうつもり? 訳の分からない思わせぶりに振り回されてちゃダメ、地に足を据えて地道に生きていかなくてどうするの。アンタは現実を冷めた目で見ようとせず、頭の中で創り上げた理想郷を見ている。相手を見ているんじゃなくて、自分の心の中を見てる。夢を壊したらかわいそうだと思って言わなかったけど、アンタが目指してる場所は、アンタが考えてるほど美しいところでも甘いところでもないの。アンタなんか雑談のネタにされてるぐらいがオチよ。あのサイコが性懲りもなくまた変なもんを送って来たんですよ、なんてね。楽屋落ちにされて笑われてるだけよ。それでも話題にしてもらってるだけマシかしら。公務員になってから、うまくいったら儲けものぐらいの気持ちでまた書いたらどう? その時はたぶんアンタはもう書かないだろうけどね」


 夢の中。窓ガラスの向こうで顔色のよくない女が笑っている。いつの間に外に出たんだ? ここは二階じゃなかったか。ガラスを挟んで何か話しているが、声がくぐもってよく聞き取れない。水中で口を開閉しているようだ。庇に吊るされた風鈴が揺れているが、その音も聞こえない。狭い箱に閉じ込められてしまったような気持ちだ。青いボールが次第に色を失いながら、闇に転がり落ち、心の天秤が平衡をくずして揺れはじめる。
 夢だったか。目を覚ますと口のなかが塩味で粘ついていた。歯周病が進行しているのだろうか。舌のうえにバターがのっているような気がする。こうしてベッドに寝転がっていると、静か過ぎる女の部屋に自分の呼吸音だけが妙に意識されて耳にからんでくる。自分の体の中に別の誰かが生きていて、そいつの呼吸音が耳の奥から聞こえてくる‥‥‥そういった不思議な感覚だ。吐く息がアルコールのように生ぬるく、ゆっくりと空中に浮遊していくのを感じる。視界が天井を突き抜け、宇宙に続いていくのを想う。
 頭蓋骨の底にポタポタと雫が落ちるように、通路の床をたたくパンプスの響きが、次第に大きく、こちらに近づいてきた。ベッドに仰向けに寝ころんだ足先の向こう、ドアが開き女の姿が現れる。ドアの向こうはまばゆい光、それは剣となって俺の眼窩の闇を射抜く。光が眩しいのは眠り込み、いま眼をあけたばかりだからだ。女はパンプスを脱ぎ捨てるや、何を思ったのかクルクルと回転しながら近づいてくる。バレリーナの伸びきった脚。円を描くコンパス。踊っている。風に震える炎のように赤いスカートも踊っている。カールした髪も肩の上で踊っている。女のしなやかな脚がフロアーを跳ねまわっている。ピアノの鍵盤上に躍動する白い指。女の乳房も独自の意思を持っているかのように揺れている。ドレスの裾がひろがりストッキングが伝線しているのが見えた。踊りながら何かを小声で歌っている。よく聞くとテネシーワルツだった。その姿は廊下の照明を背負い、ドレスの内側が透けている。急に女が俺の足首を掴んだ。長くて黒いマニキュアの爪。天井の豆ランプの薄明かりが女の手の骨と血管を浮き立たせ、影が周囲に鋭角的な切り込みを入れている。
「とりあえず開けっ放しのドア、閉めたら?」
 何も答えない。
「おそかったね、大変だった? ちょっと心配したよ」
 女の顔は青く、柩の蓋をずらして死者の顔を覗き込んでいるようだ。心ここにあらず。中身をぬいた卵の殻を天井から吊り下げるように、目線が宙に漂っている。
「昨日あたし、怖い夢見たのよ。知らない部屋の扉を開けると、部屋の中央にガウンを着た男の人が、安楽椅子で揺れてるの。だけどその男の人、首がないのよ、なくなってるの。その人、アンタなの。あたしにはそれがアンタだって分かるのよ、顔がないのに」
 表情が銅板に彫り込まれたかのように固まっている。女の顔は虚ろで、魂をぬかれた空っぽの部屋になっている。意識がどこか知らない異国の、崖の上にある小さな家に閉じ込められているかのようだ。
「見つけた、ここにいたのね。ロッキングチェアーみたいに揺れてたのね」
「何が?」
「アンタの首」
「えっ?」
「わたしの指に糸をからませてえ‥‥‥糸の先にあんたの首、こんなとこにいたのね、ブラブラ揺れて、指がしまってきて痛い」
 まともではない。厚い鉄の扉を挟んで、見知らぬ誰かと話している気がする。女の顔はますます青白く、雷に照らし出された墓石の色だ。唇も毒にひたしたように血の気が失せている。
「恐ろしいこと言わんでくれ。ヤーさんに変なの飲まされたのか。店の男たちが守ろうとせんなら、怖い客からは逃げてくれ」
「あらあら、優しそうなおっちゃんよ。これを飲むと、たっぷり血をすった吸血鬼みたいにね、カーッと喉の奥あったかくなって、いい気分になれるよ、って言うから、飲んだらゲーッよ。なんか喉の奥から小人の死体をうじゃうじゃ引きずり出しているって感じなのねえ」
 一応会話が成立した、ひとまず安心だ。ほっとする。ほっとするのも束の間、
「あんた小説書いてるっていうけど、いまアンタがしてることは、自分のはらわた食って生きていく化け物がすることよ!」
 どういうわけか女は大声でそう喚いた。何の脈絡もなく、急に俺の小説の話になってしまっている。これは相当やばい、いってしまってるぞ。
 沈黙。ややあって、女は再び話はじめた。
「あたしの股間から内臓がとろけ出していくみたい」
「なに訳わからんこと言ってんだ。俺の小説の話はどうなった? あんたの言うことはちゃんと聞く、もう金輪際書かない。だからもう寝ろ。それともお医者さんにみてもらうか? 夜間もやってるとこ知ってるから、気持ち悪いんなら、今から連れてってやる」
 女はお構いなしで話し続ける。こちらの言う事が全く通じていない。目のまえに吊り下がった操り人形と話をしているかのようだ。女は俺の顔を見ているが、本当に見つめているのは、俺の網膜に映し出される自分の姿ではないのか。
「あたしの頭のなかでガラスの廃墟が崩れていくの。その砕けた破片が内臓を刻みながら、どんどん下方の闇に落ちてくわ。キラキラ光ってて綺麗。下の方はまるで宇宙みたい。あたしの血で染まって、ほんのり赤い宇宙。あんたの口の中にとろけ込んでくドロップみたいな宇宙。あんたの舌の上にあたしの体の一部がのってる。子宮よ、あたしの子宮。あんたの舌の上で唾液とまじりながら溶けていく子宮」
 あまりにも哀切なこと言いだすので、思わず女を抱きしめていた。だがもはや時すでに遅く、閉じた目の裏側に、女の青白い魂が、どうあがいても手の届かない闇の底に沈んでいくように思えた。
 夜の海に浸したように、女はベッドにぐったりとしていた。添い寝していた男が、夜半ベッドから抜け出そうとすると、女は男の手首をつかみ、離そうとしなかった。死にかけた兵士が虚空にすがりついている様子に見えた。男は抜け出すのをやめ、そのままずっと女の手を握りしめたまま朝まで眠った。


 このまま女を放置しておくことはできない。かといって男に事態を解決する力はない。座視することは男一匹、沽券に関わる。やむなく男は店長に相談することにした。多少不安は残るものの、頼れる人物が他にいないため仕方がない。なぜだか知らないが店長は独身だった。よほど羽振りがいいのだろう、瀟洒な邸宅に一人住まいだ。インターフォン越しに「ぜひ相談にのっていただきたいことがありまして」と言うと、「大人しいお前がやって来るとはどういう風の吹き回しだ、遠慮はいらん、施錠してないから入ってこい」と返してきた。
 店長はいつになく機嫌がよい。昼間から酒の臭いがした。なるほど、それで機嫌がいいのか。だらしない姿でソファーに寝ころんでいた。男の姿を見ると大あくびした。テーブルには飲みかけのグラスとウイスキーが置いてある。全く経営者然としていない。女はやり手と言っていたが、こんなオーナーでよく会社がまわっていくなと呆れた。店長の自宅はムッとする空気で充満している。部屋の隅のどこかに腐臭を発する小動物の死骸が放置されているかのようだ。女を連れ込んで事をすました直後かもしれない。
「そうなんです、客から変なもの飲まされてるみたいなんです。話してることが支離滅裂で」
「あん? シリメツレツ?」
 ニコニコしていた店長の顔から表情が雪崩さながら、滑り落ちる。
「えーと、言ってることが何が何だか訳が分からないんです、なんかトリップしちゃってるみたいで」
 店長は眉をひそめながら言った。
「おい、お前、告げ口はいかんぞ、告げ口は。人の道に反する。アイツは根っからの不思議チャンで、話してることは夢物語だらけだ。メルヘン女なんだよ、それが普通なんだ、いつもああなんだ。坊やをからかって面白がってるんだ。女ってのは腹んなかに赤いカレンダーが入ってるからな、周期的に狂う日もあるのさ。で、坊やはアイツがラリってたちゅうのを誰から聞いたんだ、ガセだと思うが、ほんとに薬物やってるとなったら、こりゃ、聞き捨てならんぞ」
「いえちょっと、それは‥‥‥」
「まあいい、ワシにまかせとけ、まかせておけ。どうせあの野郎だろう、ひょろーっとした紳士面の。売春とドラッグは和気あいあいだからな。そっち方面のワルだろう。落ちそうなのを物色してたのかもしれんばい、なんせアイツはブスだからな。ペテン師は誠意のお面をかぶってやって来るんだ。ワシの眼は節穴じゃないぞ、あんな不細工をいつも指名するからおかしいと思ってたんだ。土地のもんじゃないな、新幹線かなんかで来るんだろう。東京か、横浜か‥‥話し方でバレバレよ。あのイカレ野郎が、よくもうちの店の大事な商品を。よし、こんなときのために高い見かじめ料払ってるんだ。電話一本だ、電話一本で工藤組の若いのが日本刀もってやってくるぞ。怖いぞお。ギロッとにらまれて『洞海湾に沈められたいんか、コラ!』って怒鳴られてみい、そら、縮み上がるぞ。ちょっと締め上げてもらえば吐くだろう。面白くなってきたな、こりゃあ見ものばい。ま、ホントは洞海湾みたいな分かりやすいとこに沈めるわけないけどな。とにかくワシは、奴の脳みそが海に漂い、小魚か海ドリかなんかについばまれるのを希望いたしますので何卒よろしゅうお頼み申し上げます、ってな心境だな」
 だいぶ酔ってるようだ。言ってることがかなりグロくてエキセントリックだ。その過激な内容に男は、両手両足に鉛の球がくくりつけられ海底に沈んでいく自分の姿を連想してしまい、嫌な気分になった。それにしても口を開けば、ふたこと目にはブス、ブスと、俺の大事な恩人を何だと思っているんだ。
「なんかな、神さま仏さまのでっかい手がな、天の上でスイッチをひねって、あいつの命のヒューズがバチッととんじゃえばいいんだ。うん、ポエジーだ、今日はなんか頭が冴えとるばい。自慢じゃないが、ワシは地頭がいいんだ。そこいら辺のインテリとは訳がちがう。自慢じゃないが、ワシは商才もあってなあ。このヤカン頭のフタを取ると、ナイスなアイデアがバネ付き人形みてえに飛び出てくるんだ、うん」
 いつもと同じで、店長は話題が全く違うところにどんどん飛んでいく。覚悟はしていたが、出勤時が近づくまで長ったらしい阿保話に付き合わなければならない。
「ホステスを見てみろ、きらびやかな所で働いていても、やっぱり女は生活者だよ。花より団子だ。女は男が好きなんじゃない、男の持っているものが好きなんだ。馬鹿な客どもはそれが分からず、夢見心地で呆けて金を落としていく。とくに女慣れしてない堅気者は、自分を通してホステスを見るから女の本性がまったく分からない。好き放題現ナマを引き出せるATMに成り下がっている。金を積んで愛を買おうとする男に、どこの女が惚れるというんだ。惚れたふりして金をふんだくろうとしてるだけばい。水商売してない普通の女だって似たようなもんだ。だが不思議チャンだけは違う。あいつはそんな、こすっからい所がまるでない。まったく計算しないんだよ。そこがアイツのすごいところだ。七不思議だな。顔がブスだから心でバランスをとってるのかいな。ワシがアイツを買ってるのはそこだ。アイツがラリってたとはなあ。悲しいよ。よほど辛いことがあったのか。ポリ公に嗅ぎつけられたら商売に大打撃だが、まあ見捨てたりはせん。きついお灸はすえてやるがな」
 錆びついた歯車や滑車の回転、ブランコの鎖のきしみ、扉の開閉と蝶番の音。この騒がしい話し方は、ふとそんな不協和音を想いださせる。さらに句読点のないモノローグは続く。
「このまえワシはかわい子ちゃんの赤くテカテカ光る唇を噛んじまったんだ。わざとじゃないぜ。興奮しちまってよう、物の弾みってやつだ。じじい、切れたじゃないのって怒ったこと、怒ったこと。でも口紅の甘ったるい味のする皮膚を破っちゃうとな、血の塩っぽい味が舌をしびれさして、おめえ、あの歯ざわりは死ぬまで忘れられんわ、ちょと坊やには刺激が強すぎるか、変態すぎて」
 店長は腹を揺すって哄笑した。いつの間にかテーブルの上のウイスキーは空にになっていた。酔いが回って勢いづいたのか、男に戸棚にある年代物のウイスキーを開けるよう命じる。
「だらしないオーナーだって軽蔑しなさんなよ。朝おきたら二日酔いでね、頭がフラフラでな。重油のなかにいるみたいに、周りの空気が重いんだ、ワシとしたことが。だから迎え酒やってるということだ。ちゃんと理由はあるんだよ。おい、ワシだけ飲むのも気が引けるから、坊やも飲め」
「いえ、わたしは‥‥」
「かたいこと言うな、ワシが坊や坊やって呼ぶからって、未成年じゃないんだろう」
「今から仕事いかなければならないので」
「仕事って、お前なんか店にいてもいなくても変わらないじゃないか。ちょっとだけやれ」
 あまり勧めるので、口をグラスつける程度に飲んだ。満腹なのに無理やりケーキを口に押し込んだ感じだ。電流の糸が舌に巻きついたような味だ。「どうだ、ジョニー・ウォーカーは違うだろう」とうれしそうだが、こっちは海水を飲み込んだように喉がひりつくだけ。豚に真珠で、もったいない話だ。
「女ちゅうのはな、強欲で、金もってる男をやたらチヤホヤする動物だがな、意外とみんな情は深い。『わしゃ、もうだめだ。ワシの血管は蝋で固められたストローみたいになっちまった。血管のなかに血の赤い砂がこびりついて、瘤をつくってしまっとるからのお』って泣きついてみい、同情してサービスが違ってくるぞお。これが金以外に、爺さんがもてるテクニックだな。そいから落とし上げで褒めるのもいい。芸能界やマスコミみたいに上げ落としじゃいかんぞ、茶の間は大喜びだが、本人はカンカンだ。けなしてから褒めるんだ。『君の胸の厚みは薄っぺらだが、乳輪は立派だ、唇もポッテリちゃんだね』って言ってやるんだ。男は顔や背の高さじゃない、坊やもモテたかったらテクニックを磨かんと駄目だ、ジゴロなみのテクニックをな」
 店長の顔の皺は、まるまる太った動物の腹の皮のたるみのように深い。白塗りのピエロが笑った時にできる皺だ。アルコールがますます回り、スケベ話はピークを迎えている。
‥‥‥‥「女は狐や狸みてえに化粧でばけるからな。そういうオイラもこの前、狸の尻尾みてえに、アレがパンツからポロッと出ちまってよお」‥‥‥「アレのセックスの仕方はなっちゃない、犬畜生なみだ、腰んなかにモーターが入っとるんばい。いつまでもだらしなくチンチン鴨々しやがって」‥‥‥「あいつらか。あいつらはいかん。いただけないな、あいつらのセックスの趣味は食卓のうえで排泄するような代物だ」‥‥‥‥
 血を抜かれたように頭がぼんやりとして、全身の力もぬけている。言葉の断片が入ってくるだけで、もう何を話しているのか分からない。このつまらな過ぎる話はいつまで続くのだろう。パーキングブレーキを解除しないまま車を走らせているように、時間の進み方がおそい。
 ソファーに腰かけた店長は、見事な太鼓腹がさらに突き出て目立つ。腹のなかでゴムチューブでも膨らませているのか。店長はいま机の横の、どうやらボッティチェリのヴィーナス誕生をモチーフに作られたらしき石像オブジェを撫でながら話している。
「いま目に掛けてる可愛い子ちゃんの肌は、この大理石だぞ。クレオパトラの肌を切り取って来て貼り付けたみたいな滑らかさだ。それに見てみろ、このミルクの表面のような白い艶、これと同じ、おんなじなんだよ。涎がでるな」
 墓石を折ったような歯が店長の口から覗く。男はさっきから上の空だ。話の内容を素通りさせたまま頷き、カラ相槌を打ち続けた。頭の中はスケベ話を追うでなく、これから仕事にいく飲み屋街のイメージが映像となって流れている。
‥‥‥店のある路地裏はスカートの奥のように暗く湿っている。奥からドロリとした粘液がしみ出てきて、餓えた動物がそれを舐めにやって来そうな気がしてくる。夜の巨大な唇が、その黒々とした渦の中に、頭からまるごと吸い込んでいく。胃袋にはったコールタールの膜をアルコールが溶かす飲み屋街。夜ごと踊り狂う骸骨の、さんざめく饗宴がとりおこなわれる。廃墟の粉っぽい空気、それがそのまま歓楽街のよどんだ空気となる。聖徳太子が印刷されているストリップ劇場のビラは、地下道の隅に丸めて捨ててある。路地裏のドラム缶、揺れる油の表面には鼠の死骸が浮かんでいる。汗と油と土の臭いの沁み込んだ労働者の背中が行きかう通り。側溝の泥水に捨てられた煙草の吸い殻。豚の腐肉か鼠の糞でも鼻の穴におしこまれたような悪臭が漂う通り。酔っ払い同士の喧嘩で、公園の錆びた鎖に血糊が付着する街‥‥‥‥
「おい、大丈夫か」
 店長が真顔でのぞき込んでいる。なんだかシャキッとして見える。酔ったふりをしていただけで、あれは全部演技だったのか? たとすれば、大した食わせ者だ。
「なんか目の焦点が合っとらんぞ。いい酒でも子供が飲むと毒なのか。悪かった。それにしてもアルコールに弱いな、坊やは。今日は店に出ずにそのまま帰っていい。だけど最後に真面目な話をするから、それだけは聞いて帰れ。なに、若い奴らには全員、この話をしてるんだ」
 店長は今まで道化を装っていたのか? 油断させて相手の懐に入り、急所をうつ。これは全部戦略か? 凄腕というのは、こういうところを言うのだろうか。
「坊やは戦争に行ってみたいか」
「そんな、戦争に行きたいと思う人なんていませんよ」
「いや、いるんだ」
「からかわないで下さい。誰でも命は大切です。僕だって大切です」
「そりゃ大切さ。だが人の命を奪ってやりたいと思ってる奴もいるだろう。ワシは戦争に行ってるから、そういう奴が一杯いることをよく知っている。今は平和だろう。平和のなかに安住している奴にそういうのは多い、戦場で言えば、自分は安全な所にいて命令するだけの奴らだ。人の命を取ることばかり考えて、自分の命がなくなるかもしれないのを、そいつらは忘れているんだ。苦労話の押し売りはしたくないが、わしは中国で死にそうになったし、日本兵の悪魔の所業もいっぱい見ている。人間、とことん追いつめられると何をしだすか分からん。悪魔の所業をやらされなくて、ほんとうによかった。ワシは運がいいよ。やらされていたら今頃、年甲斐もなくスケベ話で大笑いなんかしてられないところだった。目立たないが、あれで気がふれちまった奴は一杯いるんだ。坊やも追いつめられてたな。なんで追いつめられてたかは知らんが、地獄を経験したワシには分かるんだ。坊やのは、どうせ大したことじゃなかろうが、心の奥底の獣が暴れ出さんように、ちゃんと手綱を取って、これから先の長い人生を渡りきれよ。獣は檻に閉じ込めて飼いならし、決して外をうろつかせないようにしろ。説教じみたことをいうようだが、坊やはワシとそっくりだからな。ワシの人生も後どれだけあるか分からん、とても大事なことだから言わせてもらったぞ。頼んだよ」

 歓楽街の喧騒にまぎれて、知らないうちにヤクザは店に入っていた。日本刀を持ったヤクザはひょろっと長身で、猫背でうつむき気味に立っている。ヤクザといえば恐れを恐れとも感じさせない不敵な面構えを想像するが、違っていた。その顔は水に溶かした灰を塗ったように青白く、まさに死面だった。ワインの底に沈んでいくルビーのようなくすんだ目をしていた。その姿は地下からの強力な磁力で先のねじ曲がった長い釘に見える。砂鉄に突き刺さったあの長い釘に。
「爺さんはどこだ」‥‥‥その低く響く言葉は、一瞬にして男を遠いどこかの鉄の扉の向こうに閉じ込めた。血液をなみなみと注がれた男の心臓が、ブラブラと釣鐘のように揺れ出した。がたいの大きい黒服がそれに何やら答えると、影が黒豹と化して、闇にまぎれて素早く動いた。男は羽を痛めた鳩のようにおびえたままだ。
 ヤクザが店に入ってきたのは、ちょうど美人だが性悪なホステスが、男が言い返せないのをいいことにまた因縁をつけに来た時だったようだ。「ずるい者は人の心の弱さに目ざとい」を絵に描いたようなホステスだ。入ってきたのに気づかなかったのはそのためだろう。性悪ホステスはヤクザの長く尖った小指の爪をじっと見つめ、うっとりした表情をしていた。顔見知りなのかもしれない。無理に例えれば、首すじにふれる刃物の感触を想像し、狂気じみた昂ぶりを覚えているといった表情だ。女は強い男の傍にいるだけで女性ホルモンがよく出るそうだ。強さに惹かれる属性があるのかもしれない。強い男に注射をうたれて興奮するのはご自由だが、弱い者いじめの副反応がでるようなら倒錯趣味もほどほどにしてもらいたい。
 あせった男は「清掃中」の表示スタンドを置いて、トイレに身を隠すことにした。トイレ掃除は男の仕事だ。雑用係の役得である。情けない話である。例の客と恩人の女は店内にいるのに、今まで修羅場を踏んだことのない男は、心臓の壁面を冷水がつたい落ちるような恐怖に為す術がない。赤ちゃんの拍動を聞くかのようにトイレの壁に耳を押し付け、固唾を呑んで外の様子をうかがうばかりである。
 小一時間ほど経っただろうか。不思議なことに、その間誰もトイレを使用する者はいなかった。その場にいた客を全員追い出してしまったのかもしれない。恐れ恐れ扉を開くと、店長が平然と突っ立っていた。怒られると思ったが、「坊やはよく働いてくれるな、今日は特別にもう上がっていいぞ」と意外な言葉が待っていた。見わたす限り店内で大騒動があった雰囲気はない。女のことが心配で後ろ髪を引かれる思いだったが、今さらどうにもならないので、お言葉に甘えて帰ることにした。

 部屋に戻ってきた女はケロッとしていた。麻薬特有の禁断症状もない。とんだ濡れ衣をかけてしまったようだ。何か聞き出そうかとも思ったが、告げ口している手前、とても言い出せなかった。くだんの客が無事であることを願う。幸い今のところ洞海湾に人が浮かんだというニュースはない。店の従業員たちもその後、いつもと変わったところはない。狐につままれた気分だ。良心の呵責から後に店長に謝りに行くと、前回同様「ワシにまかせておけ」の一点張りだ。それでもしつこく謝り続けると、「麻薬みたいなマッポが絡んでくるような一大事に、坊やなんぞが関われるはずがない。子供は黙っとれ!」と一喝されてしまった。しらばっくれている。男に火の粉がかからないための優しさか、それともこんなこと日常茶飯事でぜんぶ忘れてしまっているのか。何であれ、目をつぶっておく方がよさそうだ。


 そのとき男は、女の部屋に引き寄せられる何かの力を感じた。なんとなく女のところに行かなくてはならないという強迫感がある。まるで女の部屋に自分の心臓を置き忘れてきたかのように。
 ドアを半分開くと、隙間からベッドに横たわっている女の姿が見えた。暗い部屋に死んだアザラシのようにじっと動かずにいる。いま何かの影が一瞬、ベッドに横になっている女の腹の上にうずくまっていたんじゃないか? いや、気のせいだ。湿気を含んだ肌が冷たくて重そうだ。眠っているのだろうか。寝ころんだ女のむこう、窓ガラス越しに街路灯が見える。その灯りが闇にくるまれた女の体の輪郭を白く縁どっている。昇りくる朝日が山脈の稜線を縁取るのにどこか似ている。
「明かりを消して。あたし静かになりたいの、明かりを消して」
 玄関の土間から照明をつけた男に女はそう叫んだ。
「ごめん、暗かったから。ちょっと早く帰ってきちゃった」
「そうなの、なんで?」
「なんかね、とつぜん怖くなったんだ。あんたが死んじゃうんじゃないかって。俺っておかしいよな。死んじゃうわけないのに」
「そう。虫の知らせかしらね。実はちょっぴり死にたくなっちゃったんだ、ちょっぴりね」
「みんな、そうだよ。誰だって死にたくなるときはある。俺の顔見たら少しは楽になったろう」
「そうね、アンタの間の抜けた顔見たら、なんでこんなに悩むのかって馬鹿らしくなった」
「それ、俺がアホだってことか。喜んでいいのか、シュンとなるべきかどっちなん?」
 女の顔に笑みが戻った。血色が青から赤にリトマス紙のように良くなっていく。
「妊娠したらお腹の中に湖ができるの。そこに赤ちゃんがぷかぷか浮かんでる。湖なのになぜか海みたいに塩分を含んでてえ、日なた水みたいにあったかいの‥‥‥」
 女が問わず語りに呟いている。
「できたのか」
「ううん、残念だけど、とっても残念だけど」
「なあんだ」
 すると、男の素っ気ない言い方がいけなかったのか女が堰を切ったように号泣しだしてしまった。
「あたし昨日、赤ちゃんを堕す夢をみちゃった。とっても悲しい夢。真下に広がる暗い底に、人形みたいな‥‥‥縫いぐるみみたいな赤ちゃんが沈んでいくのよ。あたし、それをずっと、ずーっと見おろしてたの」
 こいつも過去にいろいろ悲しいことがあったんだな、と男はたまらなく愛おしく感じた。多分その耐えきれない出来事を思い出して苦しんでいるのだろう。女が過去を隠したがるのはそのせいだ。何かあったにせよ、俺がずっと守ってやらなければ‥‥‥‥
「あたしね、涙の中でうまれたの。そう、真珠みたいに」
「わかった、わかった。たいじょうぶだ、俺がついてる、だいじょうぶだ」
 女の涙に夜の闇がゆっくり染み入っていく。眼の中に静かに月を溶かし込んでいくような涙。その瞳からこぼれ落ちた涙の一粒が、男の胸奥の朽ちはてた枯木の闇に静かに沁み込んでいく。男の腕が波となって女の背中を包む。今にも折れてしまいそうな脆い背中を。女の頬をつたう涙を男の唇がたどった。
 何十年も経ってしまった。男は今、あふれたその時の涙の泉に、そっと思い出の小舟を浮かべている。


 石頭もついに翻意した。女が正論を言うから説得されたのではない、女を愛するようになってしまったから説得されたのだ。ことほどさように男は理でなく情で動く人間であった。しぶしぶ調べてみると、当時の公務員試験は緩くて、どれも30歳ぐらいまで受験資格があった。彼らは就職にあぶれた学生たちや、低賃金のフリーターや、クビになって行き場がなくなった人たちを、何とかすくい上げようと精一杯譲歩しているんだな、大した度量だ、さすが全体の奉仕者だ‥‥‥と早とちりしたことが翻意の理由である。そこまで馬鹿で単純だったのかと今さらながら言葉を失うが、若いということは誰しもそういうことなのかもしれない。
 男はバイトをやめ、女のマンションも出て、ためた金で部屋を借りた。学習塾の二階の激安三畳ひと間だ。受験するのに愛欲におぼれている場合ではないからである。女は「好きにすれば?」とあまり気にしているふうでもなかった。たくさん読めばいいものが書けるというのは幻想だった。しかし思考がワンパターンの男は、このたびも「中央官庁のキャリアになるわけじゃない、こんなの質より量だ、一問でも多くの問題に目を通してる奴が勝つんだ」と性懲りもなく考えた。インプットなければアウトプットなしをモットーに古本をやたら分量だけは読んでいたおかげで、男には活字に対する抵抗がなかった。人生、何がどこでどう役立つか分からない。学力不足でチンプンカンプンなまま、難解すぎて面白くない小説を読んでいるつもりで公務員試験の問題集を読んだ。解くのでなく、ただ読んだ。もちろん市立図書館や大学の図書館や書店の立ち読みでだ。高価な問題集を何冊も買いそろえる金はない。ただひたすら読むだけなので、行き付けにある問題集をぜんぶ読み尽くしてしまうまでにさほど期間は要しなかった。一回だけでは心もとなかったので、同じものを三回繰り返し読んだ段階で、ぼちぼち試験を受けはじめた。試験というからには専門書を読み込むのが王道だろうが、結局一冊も読んでいない。突っ込んだ問題を出されたら、お手上げだ。
 とはいえ問題集の乱読は効果てき面だった。ツキもあったんだろうが、勝率がことの外よいではないか。女の言うとおりだった。素直に聞き入れてよかった。たしかに文学賞と公務員試験では競争倍率が比べものにならない。けれども落選で何度も心が折れ、とことん打ちのめされていた男は、この程度の作業量で果実がどんどん落ちてくることに正直、拍子抜けの感すらあった。いい時代だった。今だったらこんなに調子よくいくことはないだろう。
 一つのことに執着して他が見えなくなってしまうと、もっと合理的な生き方があるのに、それを潰して、計り知れない時間と労力をドブに捨ててしまう羽目になる。買っても買っても痛い目にあう株に、どうしてあんなに固執したのか。もっと早く気づいて、さっさと損切りすべきだったのだ。気づかせてくれた女は大恩人である。男は受かった中で一番気楽そうな職種を小狡く選んだ。ただし東京が勤務地となりうるものは最初に外した。
 久かたぶりに女のところへ採用の内示を受けたことを知らせに行った。女は「そう、よかったね」とそっけなく言っただけで、むこうを向いたまま目を合わせてくれない。しばらく見ないうちに女の後ろ姿は前よりだいぶ痩せて、憔悴しているように感じられた。男は少しぐらい喜んでくれてもいいのにと思った。
「今日つかれてるの、悪いけど帰ってくれない?」
 それが男が聞いた女の最後の言葉となった。

「えっ、あなた、サキタさんの御主人じゃないの? えらい若い旦那さんだと思ってたんだけど。一緒に引っ越したんじゃなかったの?」
 男は聞き覚えのあるその名に心臓が口から飛び出るかと思った。階段を踏み外したような唐突感だ。
「旦那さんじゃなければ、あなたは?」
「ただの同居人です」
「ああ、そういうことね。かわいいツバメちゃんかあ。ケバい人だったから‥‥なるほどね。おっと、失礼」
 人を不愉快にさせる、小馬鹿にしたような言い回しだ。家主はニヤついている。
「サキタというのは本名なんですか?」
「知らないですよ、住民票とってもらったわけじゃないから。オタクが知らないくらいなのに、どうして私がわかるんですか? 契約書にはサキタって書いてありましたよ」
 意気消沈だ。肩を落として腰かけると、椅子が御菓子でできているかのように崩れてしまう気がした。額縁にスッポリとはまっていたはずのアイツとの日常が、床に落ちて砕けた。目が点になるとはこのことだ。けれども同じ姓などいくらでもある。男は驚きこそすれ、とりあえず偶然の一致ということで片付けた。学生アパートにいた﨑田は偽名だった。こちらのサキタも偽名でないとどうして言えよう。それより気になるのは、女が行方をくらましたことだ。女性には故意に逃げて男性に後を追わせたがる一面がある。かたい仕事についちゃったもんだから、愛の強さを確かめたくて俺に追いかけるよう仕向けてるんじゃないか‥‥‥男も最初、都合よくそう考えた。だがすぐにそれが思い上がりだということに気づいた。女はそんなまどろっこしい恋の駆け引きをするようなタイプではなかったからである。もしそうだとすれば、手掛かりの一つや二つ、分かるように残しておいてくれたはずである。男は見切りをつけられたのだ。馬鹿さ加減に嫌気がさしたのか、別に男ができたのか。もしかしてその男とは﨑田ではあるまいな、まさかもともと二人は別居中の夫婦だったのでは? 俺は不倫の片棒かついでたのか? 大変だ、そんなの笑い話にもならないぞ。
 職場にも行ってみた。かつてのバイト先だ。女はそこもやめていた。男はそれ以上追わなかった。それどころか、風俗嬢と暮らしていることがバレたら採用取り消しになるんじゃないかという無知蒙昧な不安が、むくむくと湧き上がってくるを感じた。さらに、残酷にも「子供ができなくてよかったな」とまで考えたのである。人は選択を迫られる時、その本性がわかる。何とちっぽけな人間なんだろう、結局自分が一番大切なのだ。本当に愛していたのではなかった、愛した気になっていただけだったのだ。そして、それは一生涯消えない後悔として男に残ったのである。
 時が経ち、親方日の丸の仕事にも慣れたある日の午後、男は女のある言葉を思い出し、愕然とする。
「あたし昨日、赤ちゃんを堕す夢をみちゃった。とっても悲しい夢」‥‥‥夢ではなかったのかも知れない、俺の子供ができてたんじゃなかったのか、と。今ふりかえれば確かに徴候はあった。言ってほしかった、迷惑をかけたくなかったのか? 知らないうちに俺は、そんなに大きな傷を人の心に負わせていたのか‥‥‥男は生涯ほかの女と結婚すべきではないと思った。いや、と言うより、したくなっても踏み切ることができないだろう自分の将来が見えた。

 気楽な職種を選んだつもりが、いざ働いてみるそうはいかなかった。気楽そうに見えたのは外からつまみ食い式にのぞき込んでいたせいだ。一つ例をあげればこうだ。コスト意識が薄いのは公務員の特質上ある程度仕方ないとしても、それが度を超していた。採用されて間もない頃、節約して予算を残すと、上司から雷が落ちた。予算を減らされたらどう責任を取るんだ、予算は使い切るもんだバカモン、等々‥‥である。それでも、どうせ部署内を引き締めるために、いちばん盾つきそうもない俺を選んで、スケープゴートにしているんだろう、と最初は高をくくっていた。断れない気弱な人を狙って保証人を頼み込む腹黒や、反撃してこない優しい子をさがし出してイジメの餌食にする悪ガキのやり口と同じだと。組織というものは、往々にして職場規律を保持するためにそういう理不尽な作為がまかり通るものだと想定していたからである。ところが違っていた。上位機関の審査や監査事務局からも同様の理由でこってり油を絞られたのである。どうやら彼らは上から下までこれが適正な職務遂行のあり方だと信じ込んでいるらしい。国民の血税を節約して何が悪いのだろう。頭が悪いと言われればそれまでだが、未だに釈然としないままだ。今はどうか知らないが、公務員の常識は世間の非常識、当時これは当たっていた。こんなことだから、潔癖すぎる公務員が板挟みに遭い、たまに自殺してしまうこともあるんだろうな‥‥‥その頃よくそう考えたものだ。
 いつの間にか飼いならされて、節約は自分の懐だけに限ろうと考えるようになっていた。安月給を節約でコツコツ貯めて、どれだけ短い年月でリタイアすることができるかということだけが関心事となった。全体の奉仕者にふさわしくない者が、公の職について税金のおこぼれを頂戴して暮らしていくことに、負い目がなかった訳ではない。そのせいかどうか、男はあえて枝や葉に擬態する昆虫のような職員となった。「休まず、遅れず、働かず」を地で行く職員となった。天罰だろうか、そんな低空飛行のわりには、とくに二十代、今でも思い出したくない出来事が、他にも仕事に関連して幾つも起きた。これも男に志たるものが全くなかったせいだろう。志など人を安い給料で滅私奉公させるため、狡い奴らが目の前に吊るす人参だと決めつけていた。志に支えられていれば、嫌な相手にも黙ってじっと耐えるだけでなく、へたれパンチの一つぐらいは繰り出せたはずだ。要するに、物を書かせてみても、お堅い仕事をやらせてみても、その程度の人間だということである。
 こうしたなか男は、三十代を前にして県職でおそらく一番ストレスが少ないであろう部署に異動することに成功した。ストレスが少ないということは、軽んじられすぎて目立たないということでもある。男が使えない奴だったおかげである。ドングリの背比べに躍起になる上昇志向連中が大半を占めていたおかげである。
‥‥‥‥やれ香車だ、桂馬だと駒どうしが張り合ったところで何になる。実際に将棋をさしているのはお前じゃない、はるか上の人たちだろう。駒を動かす人たちにとっては歩だろうが飛車だろうが大差はない。歩も飛車も役割分担で、どちらもいてくれなければ組織に穴が空いて困るのだ。きっと神様と人間との関係も、これと同じ図式に違いない。神様がいたら、下界の人間たちの競い合いを見て、きっと同じように考えるだろう。おいおい、人間ドラマの演出をするのはお前じゃない、ワシなんだ。ちゃんと配役通り演じてくれなきゃあ‥‥‥男はそう呟くと、ようやく落ち着くべきところに落ち着けたことに満足した。その後はよく眠れる平穏な毎日を歩ませてもらうことになる。
 ともあれ、二十代のブルーな期間を割り引いても、あれやこれや所詮コップの中のちっぽけな嵐。小説家になろうとすることを想えば、いずれサラサラせせらぎの人生である。どうしてあの時、作家になろうなどと、あんな労多くして功少なしの骨折り損をしていたのか。あのまま夢を捨てていなければ、世渡り下手で要領の悪い男のこと、飛んで火にいる夏の虫で、どんなに悲惨な未来が待ち受けていたかわからない。周りをうろつきまわる亡霊どもにいつまでも悩まされながら、ワーキングプアで働き続け、挙句の果ては世捨て人にでもなり何処かで行き倒れる。よしんば思わぬ展開で小説家になっていたとしても、仕事の重圧で若くして癌になるか、はたまた書けなくなって自殺するか、行き着く先はそれぐらいが関の山だろう。どのみち今頃はくたばっていたに違いない。
 男は宮仕えし始めた後も諦めきれず、しばらくの間は「小説など働きながらいくらでも書けるさ」と自分の素質を信じようとした。いや、その言い方は正しくない。最初から自分には素質がないことに気づいていた。だがずっと気づかないふりをしていたのだ。自分を直視できず仮面をかぶり続けると、いつしか仮面が自分の素顔のように思えてくる。心の奥底では分かっているのに意識して目をそむけていただけだった。人たるもの、そんなに長く自分を欺きとおせるものではない。時の流れに逆らえる者など誰一人としていないのだ。嫌でも自分が特別でない、その他大勢の一人であることを認めざるを得なかった。黙劇のなか観客誰一人、気に留めることのなピエロの帽子であることを認めざるを得なかった。                             
学生の頃あれだけ山のように小説を読んだのに、どういう中身だったかどれもこれも全部忘れてしまった。人の記憶力なんてこの程度のものなのか。男はそのうち一行も書かないばかりか、読めなくもなっていった。休日習慣から小説を買うには買うのだが、どれも数ページで飽きて、気づくと寝転がってテレビの漫才に高笑いしていることの繰り返しだ。すっかりルーズなカウチポテト族になりはてていた。途中で匙を投げた小説は二度と読まれることはなかった。
 ‥‥‥漫才師と小説家はどこか似てるな。新陳代謝がどんどん高まっていく業界。多くのキラキラ光る才能が使い捨てカイロよろしく、熱がさめたらお払い箱だ。やれ何とかコンクールとか何とか賞とか騒いでいるが、そんなの手間をかけず魚を釣りあげるための釣り針にすぎない。食い散らされるのも知らず、釣り上げてもらったと喜んでるんだから。どっちみち消耗品の山から一つか二つ飛びぬけた奴が残ってくれれば儲け物の世界だろう。もっともそう言うお前さんも、応募総数を増やして賞の値打ちを高めた、捨て駒の一枚に過ぎなかったじゃないか。気づかぬうちに賞の宣伝に一役買う一兵卒に志願していたとも知らずに‥‥‥男はそう吐き捨てると、人生最悪の選択をしようとしていた過去の自分を憐れんだ。引かれ者の小唄ぐらいしか卑屈になった心を晴らす術がなかったのである。幸せな者ほど幸せに気づかない。こういう上から目線の物言いができるのも、男がいま不幸でないことの証だ。定職につかずバイトでぎりぎり食いつなぎながら長く継続的な努力をしている人もいるだろう。そういう人には棚ボタが落ちてくることを願うが、毎月固定給という棚ボタが確実に落ちてくる男には、それを言う資格はない。
 今はどうだか知らないが、当時は作品だけでなく他のいろいろな要因によっても賞は決まっていったのだろうな、と男は最近考えている。それにもかかわらず、あれだけの冊数売り上げてみせるマーケティング力、目利き力、その他諸々に敬服した上での話だ。全部が全部そうだとは言わない。ゲスの勘繰りというやつかも知れないが、当時はそういうビジネスモデルが一番効率的だと経営判断される場合もあったのではなかろうか。手間やコストを省いてもそんなに売り上げに影響しないなら、そっちを取るのが自然だろう。別にそれがよいことだとも悪いことだとも思わない。かの小泉内閣ですら、タウンミーティングに来てほしくない活動家や団体職員を、フェアな抽選によるものだと偽り、意図的にふるい落としていたことが発覚したではないか。ましてや民間企業がすることだ。不公平だと怒る人もいるだろうが、誰だって七面倒な人や得体が知れない人と一緒に仕事はしたくない。作品の評価なんて主観だから、都合でいくらでも捻じ曲げられる。もしかすると「フリーランスでもちゃんと生きていけるシタタカな人を選んであげないと」という優しい配慮もあったのかもしれない。いや、やっぱりそんな配慮をするほど出来た人なんているはずないか。
 ともかく、まだインターネットも普及しておらず、マニアがようやくニフティのパソコン通信をしはじめた頃の話である。携帯電話を使っている人もほとんどいなかった。そんな時代に、地方に住み、ツテも後ろ盾もなく、作品を売り込む熱意も、営業のノウハウも、タレント性のカケラもない者がせっせと賞に応募する。それって勝負は書き始める前から決まっていないか? 劇は始まる前から終わっていた。はなから出る幕などなかったのではないか? 引き立て役の頭数を一人増やすことだけが唯一の役目だったんじゃないのか? たとえばここに作家と歌手と役者と芸人を並べて、作家だけ別枠だと? 全部エンターテインメントじゃないか。地の利を得てなければ、せめて図々しいまでの世渡り力ぐらいなけりゃ‥‥‥‥男は今そう考えている。
 名だたる出版社の商売の仕方に、ド素人がどうこう言える立場にはない。もしそうだとしても見抜けなかった方が馬鹿なのだ。選ぶ側の気持ちは知る由もないが、そうであろうとなかろうと男の作品は一次選考で落ちていた気がする。自分が書いた作品なので愛着はあるが、ダメなものはダメなんだろう。力のないことを何かのせいにするほど落ちぶれたくはないものである。むしろ後からじっくり考えなおしてみると、しょっぱなからバッサリ切り捨ててもらえたことに感謝したくなるほどだ。もし一作でも一次通過していたら、未練たらしく長々と愚行を繰り返し、ただでさえ貴重な、若き日の膨大な時間を空費することになっただろう。
 大昔のことなので営業妨害になるとも思えないが、部外者が根も葉もないこと言うな、と万が一にもお叱りを受けることがあれば、失礼しましたと頭を下げる。証拠を示さなければ手も足も出ないし、もともと手も足も出すつもりなんかないからだ。けれども、もはや完全に別世界に住む男は、どうやらそう考えたまま死んでいくことになりそうだ。面従腹背と受け取られても仕方がない。無責任な言い方だが、そう考えた方がいろいろな事が胸にストンと落ちるからである。この思いはちょっとやそっとで変えようがない。大切なのは事実ではないのだ。理でなく情で動く出来損ないにとっては。
 若い頃は世間ずれしておらず、そんなふうには考えなかった。「もしや」という気持ちが皆無だったわけではないが、「まさか」という気持ちが圧倒した。前提を当たり前だと信じ込み、疑うことすらできなかった。自分に都合の悪いことには全部フタをしていたためだ。天動説のように自分を世界の中心に据えて、何もかも都合よく考えていたのだ。俯瞰で見おろすことができず、理屈がぜんぶ我田引水なのだ。
 お前は物書きには向いていない、今ならこのことがよく分かる。もし向いているなら、公務員になって食べていけるようになってから、ただの一行も書いていないのはどういうわけだ。外野席からガタガタ好き勝手に言ってるだけ。女の言うとおりになった。見透かされていた。そうだ、俺はもともと書くことなんて好きではない。苦しいだけだったじゃないか。才能もヘチマもあるか。思い出せ。そもそも金に困りはてて藁をもつかむ気持ちで書き始めただけだったんだろう。
 時の流れは容赦ない。時間の経過とともに全ては風化する。虚勢を張っていた男も、今では小説を書いていた頃が生まれ変わる前の出来事のように思える。絵葉書のなかの風景のように思える。何か代わり映えのしないものを必死でいつも書いている、鏡に映したような俺の生き写しがいて、そいつを遠くから傍観している‥‥‥そんな感じだ。たぶん男がそういう役割でこの世に生まれ出ていないからだろう。あの頃、死に物狂いだったのは本人だけで、世間さまが周りからこれを見たら、ママゴト遊びをやっているぐらいにしか思わなかったことだろう。
 これでよかったんだ、これがベストだったんだ。男はそう思った。小説を書いていた期間が人生最悪の期間であったことは間違いないが、振り返れば果てしなく長く思われるその期間も、実際には意外なほど短い。若い頃は時の流れがゆっくり感じられるとはいえ、こんなにも短かったのには驚かされる。苦しみが時を濃密に感じさせたからだろうか。こんな短い期間で蟻地獄からぬけだせたのも、女との巡りあわせがあってこそである。神様から見捨てられていなかったとしか言いようがない。しかも、どうあがいても認めてもらえない者の気持ちをたっぷり学ばせてもらった。それだけでも生まれてきた甲斐がある。学んでいなければ、「こんな要領の悪い馬鹿がいてねえ」と人柄のいい人を笑いものにして、皆で盛り上がるような人間になっていたかもしれない。こっちのほうが、マグレで賞の一つや二つ取るより儲けは大きいのではないか。
 椅子が一つしかなければ、無理して座った人より座らない側でいたほうが、長い目でみれば幸せなのでは‥‥‥‥そういう人生のカラクリとでもいうべきものも、ようやくこの年になっておぼろげながら見えてきた。一握りの勝ち組が幸せで、大多数の負け組が不幸せ‥‥‥‥どうだろうか。人はみんな老いぼれて病気になって死んでいくんだろう。てっぺんに立っていても必ず落ちる。俺は落差のある人生より平坦な人生のほうがいい。競い合わない方が楽、共食いは嫌だ。相田ミツヲの「まける人のおかげで勝てるんだよなあ」という有名すぎる言葉があるが、「負ける人の仲間に入っていたから最終的に得しちゃった」というパラドックスもこの世にはある。福は残り物のなかに探せばいいのである。
 若い頃あれだけ不公平だと思った世の中も、思い返せばそれほど不公平ではない。人生は行って来いだ。正直者が馬鹿を見るように思わせてはいるが、長い年月を経てみれば、正直者はいつしか利口を見ていたのに気づく。優しくすれば優しくされ、傷つければ傷つけられ、苦痛には快楽が、悲しみに喜びが。長い目で見れば人生の天秤はつり合っている。ほんの僅かの狂いもない。
 幸い公務員というお堅い仕事をいただいてから、幻覚らしきものは一切出てこなくなった。男は当初、こう自分を無理に納得させていた。「女の言う通りだ。心が歪んだのは環境要因のせいだ、食べてなかったので脳内情報を伝える神経伝達物質が十分つくれなかっただけだ。あれから何十年もたっている。これから悪夢がやって来るとしても、せいぜい今わの際か臨死体験するときぐらいだ」と。
 真実は分からない。だが知らない方がいい真実もある。それを知らせるかどうかは神様が決めることだ。長い間、男は待った。そして月日の流れに、関わったであろう者のほとんどが消え去ってしまったとき、もう一つの可能性もあったことに気づくのである。女の言うことにも、間違いがあったのではないか。そう、お見込みのとおりである。どうやら人生には思いもよらない真実が一つや二つは仕掛けられているものらしい。まだ五十代前半の頃である。男は職場の集団検診の場で、遠い昔あの学生アパートで会ったであろう、ある人物と再び対面したのである。一期一会であるはずのものが、一期二会に化けてしまった。それが全くの偶然なのか、企図されたものなのかは断言できないが、街の雑踏でたまたま見かけるのとは訳が違う。あの時の﨑田が場違いだったように、福岡県職員しかいるはずのないその場所にその人はいた。あのシーンをこんな形で再体験することになろうとは。朝目を覚ますと、自分の体がどこかに消えていたとでもいった、なんとも道理に合わない複雑な気持ちだった。最初は他人の空似か脳内現象の一種だと信じ込もうとした。出版界にその才を認められた者が、遠い昔に門前払いされ続けた凡人を前に、訳もなく差し向かいで座り、こうして見つめあっていること自体、絵として不自然だからだ。
 だが今はあの時と違いむしろ栄養過多で、神経伝達物質が滞るなんてことはない。百歩譲って仮にこれが夢の中の出来事であったとしても、明晰夢を見れなくなって久しい男には、これが夢だと見抜く力などあろうはずはない。しかも本当かどうか知らないが、職場の同僚から「妹です」と紹介までされたのだ。男は不意を食らって一言も話すことができなかった。結局二人は、目を合せはしたが互い言葉をかわすことはなかったのである。それはあの時と同じだ。違っているのは、これが幻覚でなく現実だと確信できることである。男は悩み続けたジグソーパズルの全てのピースが埋まっていくのを感じた。地球が逆回転し始めたように時が過去へさかのぼり、徐々にあの日々の映像が蘇る。そもそもあれは、そんな亡霊もどきの代物じゃなくて、実はぜんぶ生身の人間だったんじゃないのか? 
 だが誰も信じてもらえないことを、いくら小説の中の話だからといって、ここでわめき散らしてみても生産的でない。今は東京スカイツリーを一瞬にして目の前から消してしまうマジックもあるくらいである。しょせん素人にはトリックは見抜けない。最後に笑うのはいつもマジシャンのほうだ。プロにかかれば、生身の人間を亡霊にすることも亡霊を生身の人間にすることも造作ない。よしんば謎解きできたとしても、当のマジシャンが種明かしに協力してくれるとも思えない。「大昔のことを、だからどうなんだ」と言われても困る。どっちにしろ今となっては、関係者の言う事が食い違うので真相は藪の中だな、ぐらいで落ち着く話だ。
 いっそ全部バーチャルリアリティーの仮想現実であってくれればスッキリする。こだわるようだが、なぜ意味もなくやって来るのかという最後のピースだけが、埋まらないからである‥‥‥‥小説を書いて出していたのは何十年前の話? 今さらこんな出涸らしの茶に何の用があるのだろうか。公務員が言うのはおこがましいが、それでも商売が成立するのか。百歩譲って、仮に俺に作家に足を運ばせるほどの価値あったとしたら、なんで全部一次選考で落ちてしまうのだろう。たぶん今求められるのは、価値は価値でも利用価値だな。だったら俺にはそんなものないはずだが。はるか昔、お口に合わず廃棄した食材を再利用するつもりなのか。なるほど出し殻をふりかけにするレシピはある。だが何もここで、あえて薄汚れたぬるま湯を追い焚きすることもないだろう。水を入れ替えて沸かしなおせば済むことだ。秀作を量産できる、生きのいい若者がいくらでもいるんじゃないのか? 乾いた雑巾からもさらに搾りだそうというのは無理スジだよ。それとも猿回しのエテ公あつかいしているのか。それなら辛うじて見世物としての価値はある。とはいえ一寸の虫にも五分の魂だ。痩せても枯れても男一匹、いくらなんでもそりゃあんまりだ‥‥‥‥。
 おとぎ話に付き合うのもここらあたりにしておこう。人というのは、こうやって黙りこくって殻に閉じこもってしまうと、心の中で一杯お喋りしだすからいけない。自分が自分にひたすら話し続けて何になる。これが限度だ。悪いが、訳の分からない思わせぶりは勘弁してくれ。かつて女が言ったとおり、こんな他愛のないことで自分を傷つける考え方をするのはご法度である。もう事実がどうかなんてどうでもいい。屁理屈と被害妄想と有害な感情の上に、さらに屁理屈と妄想と有害な感情を上塗りしていく。そんなふうに頭の中を自動思考の落書き帳にしたところで、何の精神的利益にもならない。
 男にはもう当時のような繊細な感受性はなかった。あるのは鈍感力だけだ。昔とは別人である。あの頃のように錯乱するどころか、すぐに「知らぬが仏」モードに入った。こういう時の危機管理は、涼しい顔で頬かむりすることだ。詮索せずに知らないままでいるのが一番である。何も知らないから、関わろうにも関われないよ、そっちはそっちでお好きなように、せいぜい楽しくやってくれ。こんなの長ったらしい退屈な映画を見せられていたと思えばいい。いったい何処にアタフタしろと言うのか。
 若い頃どうしてこんな下らないことにあれほどこだわり悩んだのか。そこまでもろいガラスの感受性だったのか。繊細な感受性の持ち主でなければ、なかなか魂を揺さぶるものは書けない。どうしてだろう。かすれゆく記憶を辿る限り、そのレベルに達するものが書けていたはずなのだが。誰一人評価する者がいなかっただけのことか。一作落ちるたびに足許が崩れ落ちたお前。お前は思う、自分の価値判断の物差しはそこまで狂いに狂っているのかと。若いから自己愛が強いのは分かるが、そんな詰まらないことで大袈裟にヘコむのはよせよ。評定の目盛りが試験官と多少ずれていようと、それがどうした。お前の作品を赤の他人がどう値踏みしようが、そんなことに依存するな。自分さえ満足していれば他人様がどう思おうが知ったこっちゃないじゃないか。お前が書いた小説だろう。大切なことは他人がどう思うかでなく、お前がどう思うかだ。小説を真に品定めできるのは誰でもない、お前自身だ。よく見てみろ、大地は盤石で揺るぎない。はるか過去にさかのぼり、この鈍感オヤジが、一人ぼっちの哀れなお前に言ってやる、「俺は苦しみぬいたお前を知っている、俺だけは体を張って評価してやるぞ」
 思わぬ再会からも随分と年月が経過してしまった。当時は着想段階だったバーチャルリアリティーも、今では若者たち中心に映画やゲームで現実となっている。男は今こう考えている。おとぎ話程度の出来事だったのなら、ずっとVRゴーグルをつけて夢の世界を見ていたことにしてしまえば、ゴーグルを外すだけで全部チャラだ。みんな夢の登場人物だったことにしてしまおう。どうせ誰しも臨終の折には、人生すべての出来事が夢のまた夢になってしまうのだから、と。最後のピースを埋めたい気持ちがなくなったわけではない。だが夢ならストーリーが多少トンチンカンでも咎めだてする人はいない。いくら長い夢であろうといつかは目覚めが来る。目覚めれば、すべてから解放され、いずれ全ての出来事の意味も分かるだろう。月日は流れ、俺は残った。今はただそれだけで十分だ。他はもうどうでもいい。砂浜に刻んだ足跡は、どうせ波に洗われ消えてしまう。大切なのは過去でなく今だ。あの時の自分は等身大のスクラップブックに貼り付けたまま、時の河に沈めてしまえ。
 そろそろ本格的に母の介護が必要になるだろうことを見越して、また過去から決別するためにも、再会から程なくして男はあっさり仕事を辞めて田舎に帰ることにした。わざわざ再び御出まし下さったおかげで、辞める潮時がつかめたということだ。未練たらしく四の五の言う前に、ともかくここから離れよう。空間的距離は心理的距離でもあるからだ。もともと女がいなければ就いていたかどうかも分からなかった職業である。ためらいはなかった。「まだまだ居座れるのに、もったいない」とか「無責任な奴だ」とかいう声をよそに、二十五年という公務員にしては長くもない、かといって短すぎることもない期間で苦役にピリオドをうった。
 限られた人生で、ながながと働いて奴隷の時間をいたずらに増やすことのほうが、よほどもったいないじゃないか。働くために生きてるんじゃない、生きるためにやむなく働いているんだ。しょせん仕事は金稼ぎ。働くことがそんなに尊いのなら、鶏舎のケージで死ぬまで黙々と産卵させ続けられるニワトリの方が、人なんかよりずっと尊いではないか。職場は体のいい刑務所だ。出所できるのに自らすすんで刑期をのばし、ストレスで限られた寿命を切り売りする人たち。彼らは長期にわたって心理誘導され続けた犠牲者か、もしくは心理誘導することで甘い汁を吸う、あちらの側にいた人間かのどちらかだ。そしてこのような構図は、この社会全体にも当てはまる‥‥‥‥随分と威勢がいいが、これが男の表向きの言い分である。さすがにそれを口に出す勇気はなかったが。
 辞めた本当の理由は、母を介護しなければならないものの、今とても仕事を途中で放り出せる状況にない、というジレンマにこのさき陥るのを恐れたためだ。キャリア制のある国家公務員と違い、地方公務員はほぼ全員年功序列のエスカレーターに乗る。定型的な仕事しかしない年齢のうちはいくらでも歯車の代えがきくので問題はないが、でくの坊でも年をとれば、簡単には投げ出せない責任ある役職に異動するリスクは高まる。甘く見ていることほど決まって裏目に出るものだ。独身だった男は介護を誰かに任せることはできない。それでも、まさかの坂は無慈悲にやってくる。損切りできるうちに損切りしておかなければ、いつ窮地に立たされるか分からない。お前は小説にのめり込んだ若い頃の二の舞を演ずるつもりか! 本音はそこにあった。
 世のため人のために働いている殊勝な人たちをふくめて、結局神様は私たちの魂が向上するのを願って仕事を与えているんだろう。仕事をすることで魂が汚れていくのに気づいたら辞めたほうがいいのかもしれない。採用当初から、爪に火をともす粗衣粗食の質素な暮らしを続けていたため、年金が出るまで介護をしながら何とか食いつないでいける目算はあった。他人に傷つけられさえしなければ、下の下の生活で十分だといつも考えているので、もし介護期間が長引いたとしても年金だけで暮らしていける自信もあった。
 そうこうするうちに本格的に母親の介護がはじまった。介護は大変だという。確かにそうなのだが、若かりし頃のあの泥沼に比べれば、今の多少の不自由さなど物の数ではないと男には思えたのである。たかだか餓えながら駄作を書いて何度もはねられた程度の話を、針小棒大に扱うつもりはない。だが介護中なぜかあの時の様々なシーンが高速度再生のように去来して、「あの頃はひどかったなあ、あれに比べればこれぐらい‥‥」と励ましつづけてくれたのだ。
‥‥‥失意のどん底にあったあの頃が、こんな形で慰めになって戻ってきてくれようとはな。もしかすると俺は自分の人生の設計図を全部書き上げてから、この世に生まれ出てきたのかもしれない。作家になるというあの間の抜けたチョイスも、生前の俺がこの時のためにわざわざ仕組んだ、人生ストーリーの伏線だったのかもしれない。生前に人生ストーリーを書いた魂、真実の自分とでもいうべきその魂は、今も俺の心の奥底のどこかに潜んでいるはずだ。生まれる前にも己の来世の小説を書いていたとは、とことん懲りない奴だね、あんたは‥‥‥男はセン妄に苦しむ母の手を何時間も握りしめながら、ふとそう呟いた。
 この世で何をどう選んで生きていこうが、結局ぜんぶ生まれる前に書いたシナリオ通りだ。自分にとってマイナスの筋書きを書く馬鹿がどこにいる。この世に生まれることができたということは、生前俺が書いた人生小説を神様が読んで太鼓判を押したということだ。神様が選考した作品だけは100パーセント信頼できる。これがベストだ。これ以外のいかなる選択もワースでしかない。今ここにいる自分こそが人生のあらゆる可能性のなかで最高峰だ。過去起こったことも、これから起こることも全て自分にとってベストである。その時はそう思えなくとも、長い目で見れば必ずそうなる。
 慣れてくると、意外なことに介護が楽しくなった。生まれてはじめて生き甲斐というものを知り、大袈裟でなく歓喜の日々を送った。これか、これだったんだ。ようやく神様が教えようとしていたことが、男には見えた。亡くなった後は、ただひたすらに母への感謝だけが残った。神様からお借りした母という愛情のかたまりを、再び神様のもとにお返しする時が来たということだ。嘆き悲しむ必要はない。母もまた生前自分が書いたシナリオどおり死んでいったのだから。この死に方が母にとっても、また男にとっても一番よいと考えてシナリオを書いたはずである。男は他者の苦しみを癒すことは、自分の苦しみも癒すことなのだと学んだ。母の命は自分の命よりも大切だった。命よりも大切なものが消え去った今も、こうして俺は命を永らえている。なんか変だが、それでもいいんだろう。
 さらに月日が流れ、鈍感力に加えて老人力が白髪よろしくチラホラ目立ち始めていた。若い頃は小説家になることが見果てぬ夢だったが、今はポックリ死ぬことが夢になっている。あの頃竜宮城のように魅力的に思えた小説の世界も、玉手箱をあけて白髪頭になってみれば、魑魅魍魎の跋扈する近寄り難い世界としか思えない。同じ刺繍でも表側から見るのと裏側から見るのではこうも違ってくるものか。どうやら真実はそのまん中あたりにありそうだ。結果見え見えの小説と違って、ポックリの方は狭き門ではあるが可能性は十分ある。死は依怙贔屓せず全員公平にやってくるからだ。年齢的に死神はまだまだやって来ないだろうが、小説の一件で少しでも運命に貸しをつくっているのなら、今度こそ何とか夢を実現させてらいたいものだ。前の晩まで介護なしに生活できて、翌朝起きてみたら霊になって自分の死体を見下ろしていた、というのが理想である。さて、はたしてどういう筋書きになっていることやら。
 母親が亡くなり、贅沢に時間を使えるようになってから久しい。ふいに女のことを思い出し、頭から離れなくなった。なんとか居場所がつかめないものかと、一度興信所の所在調査にたよったことがある。忘れていてもいい、迷惑だと言われても構わない、せめてもの罪滅ぼしになればと、面と向かってお詫びとお礼の気持ちを伝えたかったのだ。
 人探しですか、もちろんやってますよ、うちの得意とするところです、と最初は商魂たくましいスタッフも、写真もない、年齢も曖昧、名前もホントかどうか分からないでは消極的にもなる。
「お客さんから頂いた情報も限られておりますし、なんせずっと昔のことですのでねえ、雲をつかむような話でして。何か手掛かりとなる確かなものでもあれば。最近ではプライバシー保護のハードルもありますし。まあ頑張ってみますがご期待にそえるかどうか‥‥」
 結果はお察しのとおりである。
 最近二人で住んでいたあたりをググってみた。案の定、時を隔てて様変わりしており、何処がどこだかまるで分からない。姿をまともに残しているのは井筒屋と紫川だけだ。女は幻だったのだろうか。いや、肌のぬくもりは確かに覚えているので、間違いないと思う。それにしても観音菩薩か死んだばかりの父親が、女の姿に形を変えてこの世に出現し、男を救けようとしてくれたのではないか、そもそも女自身が釈迦がたらした蜘蛛の糸の化身だったんじゃないかなどと、あれこれ現実離れしたことを考えてしまうのはどうしてか。なぜあの時、あの絶妙のタイミングで女が自分の前に現れたのだろう。どうしてもそれが単なる偶然だとは思えないのである。女はあえて女性の本能とは真逆の生き方を自分に課していた。男を受け入れてくれたことも、そして男から黙って去っていったことも。女はすでに、死んでいても何らおかしくない年になっている。破滅的なあの生き様からして、もう死んでいる公算が大きい。それでも男は、孫を抱いて笑っている女の姿を思い描き、それが現実であることを祈るのだった。

あんた、住んでるとこ追い出されたそうね、とその女は話しかけてきた。
「困ってるんだったら、少しだったらウチにおいてあげてもいいわよ」

                                     (了)

女と

女と

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-09-07

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