羽化

 何日も同じような日が続いた。
 おんなじような制服を取っ替え引っ替え、それはクリーニングにまだ出してないから、着て行ってはいけなかったんだった、とか、それでも着て行ってしまって、自分の体臭がなんだか気になってみたりとか、変化といえばそんなもので、同じような時間割を、同じように繰り返し、同じような1日を、同じように過ごす、そんな繰り返しだった。


 玄関のドアを開けて、廊下に足をついた瞬間、なんだか足の底が冷たいと思った。足の底が冷たく感じて、なんとなく不思議に思って、もう片方の足を、脱いだ靴から板の間に移そうとした時、それまで体重を支えていたもう片方の足が、バナナの皮を踏んだ時みたいに、つるっと滑って、後頭部を強く打った。

 それが一つの変化だった。起き上がって、周りを見回したら、視界の四隅が、黒く霞んでいる。薄目を開けて周りを見回しているような、そんな感じだった。それが二つ目。

 手にベトベトのなんだかよく分からない液体がへばり付く。見ると、それは真っ直ぐお風呂場に続いていた、
 僕以外に、この部屋に、何かがいるのか、それとも、僕が朝何かをしようとしてそのままほったらかしにしてしまったのか、そのどっちかだったのだけれど、前者だったら、本当に怖いので、無理矢理自分が何かしたかったんだけれど時間がなくてそのままほったらかしにして行ったのだろうと思い込む。

 実際、僕は特に変わったことは何一つしていない。いつものように支度をして出かけただけだった。
 ベトベトとする液体はなんだか知らないけれどよく滑る。スケートボードに初めて乗せられた時みたいに、前に進もうとしても思うようにいかない。
 そもそも立ち上がろうとしても全く起き上がれないことに気がついた。

 
 それはなんだか蜘蛛の巣みたいだった。蜘蛛の巣というか、蟻地獄というか、何れにしても、それは僕に想像できることではなかった。前もって準備しておけることでもなかったし、これからどうこうするにも、捕まってからではもう意味がない。

 僕は全く身動き取れなくなって、ベトベトになった顔を腕で拭いながら、ちょっと長めにため息をついた。

 このまま死ぬんじゃないか、携帯もさっき転んだ時に、遥か彼方の居間のほうまですっ飛んでしまったし、何かに引っかかりそうなものもなければロープの代わりになるような物もない。立ち上がろうにも立ち上がれない。困った困ったと軽く呟いてみる。どうにも、他に何か動くような感じはしない。すでに何かが通り過ぎた後なのか、そもそも僕がそうしたくてそうしたのか、少なくとも、このままでは大変なことになる。

 大変なことになるという感じはなんとなくするんだけれど、大変なことを今更どうにかして変えることも出来ないし、どうしようにもどうにもならない。

 動こうにも動けないし、ここから脱出するには、どうしても誰かの助けがいる。すっと誰かが僕の体を押してぬるぬるの液体の水溜りから外に出してくれさえすれば何とかはなると思う。

 
 それで、終わった。
 明日になれば何にかしら変わると儚く思いながら、昼なのか夜なのか全く分からない暗い空間で目を閉じる。
 こんなことになるくらいなら、せめてカーテンを開けておくべきだったと思う。

 
 
 この部屋の前の住人は、ガンツというお爺さんだった。何があったのかはよく知らないのだけれど、この部屋から隣の部屋に引っ越した。その訳をガンツさんは教えてくれなかったし、僕も何だか聞くに聞けず、朝にすれ違った時とかは、普通に挨拶をするくらいだった。
 こんなことになるくらいだったら、聞いておくべきだった。
 そもそも、ガンツさんはどうやってこのヌメヌメから脱出したのか、それとも、前の時はこんなこと起こらなかったのか、どっちかなんだけれど、考えたところでどうしようもないからやめた。

 昔、マトリックスという映画であった、この世界自体が全部仮想現実みたいなもので、今ハマっているこのヌメヌメは、一種のシステムエラーみたいなものだったらいいのにと思った。
 そうすればすぐにメンテナンスが入って修正されるだろうし、僕も明日から、普段と変わらず生活することができるのに、そんな確証はどこにもないし、明日世界が滅亡すると言われても、明日僕が死ぬと言っても、そんな確証は多分ない。きっとない。

 

 「多分苦労すると思うよ」
 ガンツさんは最初にあった時、そんなことを唐突に言ってきた。この部屋の事態を知っていたのか、それとも、長年の経験で何となく察したのか、わかばを吸い込んで吐き出し、少し咳き込みながら言った。
 「そのうち分かる」
 
 黄ばんだタンクトップと紺色の作業ズボン、何かの組合で貰ったのかもしれない泥で黄ばんだ緑色の野球帽、腕は深いシワとたるみで骨の輪郭が分かるぐらいまで萎んでいた。

 「なんでガンツさんなんです?」
 しゃがみこんでタバコを吸っていたガンツさんは、不思議そうに僕を見上げた。
 「いや、その、名前は、なんでガンツさんなんです、本名とか」
 「訳のわからんこと聞くなあ、と思ったら、そういうことか」

 近所の小学生がそう呼び始めたこと、自分も気に入ったからそう名乗っていることを話したけれど、肝心の本名だけは、教えてくれなかった。

 そっかぁ、が口癖だった。
 明日偶然、扉を開けてくれないかと内心思っているのだけれど、多分来ないと思う。最近全く合わなかったし。



 新聞配達のスクーターが走る音が聞こえる。そんなに起きていてしまったのかと、何となく思って、それからすぐに、当たり前かと一人腕を組む。

 こんな状況で寝ていられたら、むしろすごいんじゃないかと思う。

 死ぬのが怖いから生きる。死ぬのが一番平和で簡単な方法なのだけれど、死んだ先に何があるのか、考えるだけで怖い。怖いから生きてる。死なないように生きてる。
 最低限死なないように、生きていたはずだったのだけれど、こうなっては、もうどうしようもない。

 蜘蛛みたいな死がやってくる。ジュルジュルと肉を溶かされてゆっくり噛み砕かれ、消化される。
 その前になんとか脱出したい。出来れば夜が明ける前に。もがけばもがくほど、ズルズルと訳のわからない方向に向かって進んでいく。

 
 困った困った。
 何日経ったか、僕の額が、ビリビリと音を立てて破れ始めた。
 その罅は真っ直ぐ体の中心を真っ二つにした。
 むくむく、黄色い羽が蕾みたいに力なく垂れ下がる。
 
 黄色いアゲハ蝶だった。
 結構大きな複眼と、二本の触角が視界を覆った時、ああ、そういうことだったのねと、何だかしんみり納得して、やがて乾き切った黄色い羽を上下に揺らして、強めの風を巻き起こして、天井を突き破り、空にフワフワと浮かんでいくアゲハ蝶を見上げながら、そういうことかよ、と少しがっかりして、飛び去ったアゲハ蝶と、その向こうにぼんやりと青く光る青空を見上げ続けた。

羽化

羽化

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-06

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