Of L[R]ight 3/3
大抵はひかりに祈る。朝日、夕日、夜は街灯だ。理由はないが何となく神と呼ぶことにした。だがそのために異端扱いされずに済んだ。やつらが神と呼ぶのは唯一の存在だった。唯一であり、この世の全て。「彼」への信仰心を持つことで、生命が保障されていた。
「空を飛びたい。飛行士でいさせろ」
これしかないと思った。勘だ。
綱渡りのように息を詰めて歩く想像をした。そんな余裕がまだあるのか、と自分で驚いた。
崇拝の対象の差異を隠せたのはたった偶然だ。神、という一つの単語が、そこに含まれるものを覆った。ひかりを、覆った。
ひかりに最も近いのは空だと疑わなかった。得られるのは安いカタルシスだと思い知ってなお空の上で祈った。他者への愛とやら自愛とやらが幾度も上書きを繰り返しても、幼い頃からの祈りの作法は忘れられなかった。
叶わない。救われない。分かっているならばなぜ祈る?
刹那の幸福を得るために信じたのではなかった。幼い、泣きたくなるほどの単純な理由で、神を選んだ。
あのうつくしさに、焦がれたのだった。
雑草に霜が降りた。西の山脈は既に雪化粧を終えている。
「全く静かでない静電気だな」と溜息をついたヒカリは、不用意に触れて倒してしまった木の幹に座っていた。折れた部分が真っ黒に焦げている。甚だしい空気の乾燥の影響らしい。
野晒しとなったジャンクの部品を弄る、その指先だけが陽光に溶けていた。剥き出しのそこへ、なぜだか釘付けになってしまう。
かつて祈っていた対象。焦がれていたものがここにある、居る。
触れられる。
翻る指先は、動かすたびに濃度を変える。そこへ手を伸ばすと、ヒカリは大袈裟なまでに身を引いた。その拍子に体勢を崩し、滑るように木の幹の裏側に落っこちる。すぐによじ登ったかと思うと、思いきり眉を釣り上げて詰め寄ってきた。
「何をする? 焦げるじゃあ済まされないぞ」
「なんだろう。触りたかった」
曖昧な返事をすると、ヒカリは大きく舌打ちをした。
「消し炭になっても構わないのか?」
「違うけど、何となく触りたかったんだよ」
「そういう欲は邪魔だ」
「欲は重たいもんな」
「そうだ。そんなことばかりしていると飛べなくなるぞ」
「―そうなったら、諦めもつくかな」
自分の喉に手を当てた。骨を通してではなく、単に鼓膜を通した音声だった。自分の声だと思えない。しかしだからこそ、これが本心なのではないか、とも感じた。
「諦め?」
落としたナットを拾おうとした手が、ヒカリの姿に遮られる。
「諦められるのか? 変な電波でも受信したか」
「…………」
「いずれにせよ、君の意志で諦めがつけられるというのなら嘘だ」
「言い切る根拠は。君がそう思いたいだけじゃないのかい」
「だって僕の知っている君はいつだって、空を手放そうとはしなかった」
「それだけだろ」
「僕は―僕は、君の空ならば何だって知っているよ」
「俺の名前も知らない癖に?」
ヒカリの表情が固まるのが分かった。言い過ぎた、と思ったが、遅い。
「ああそうだ僕は知らない、君がそれだけ隠すのだからさぞご立派なお名前なのだろうね! 僕の思う君が諦念を口走るのだって知らなかったよ、所詮はその程度さ! 間違っている、君の思う君も、僕の思う君も間違っているということだろう。嘘だらけだ。嘘の空なんか僕は欲しくないのに」
「本当の空が良い、ってか」
「そうだ。君もだろう」
「……分からないよ」
「っこの、この期に及んで、」
「何が正しいのか分からない」
夜を飛び続けること、真昼へおちること。
無関心を貫くこと。
祈ること。焦がれること。
正しいものなど、存在するのか?
「僕は君の―……っ!」
と、ヒカリが不意に遠くをきつく眇めた。俺もグラスをかけてそちらを見、簡易テントの陰に隠れる。話し声と足音は二人分だ。腰の拳銃に手を添えたところで、彼らの身に付けている腕章が目に入った。手を外し、ヒカリにも視線で合図を送る。ゆっくりと前に出た。
「ハロー、『空を拓きし彼の者の名は』?」
「『暁の息子、雷のグリフォア』。……大尉! 無事でしたか!」
「やっと見つけた! おい、大丈夫か!」
当たりだ。同じ部隊に所属している同期と後輩が駆け寄ってくる。彼らは感極まったように言葉を継げずにいたが、こちらも同じだ。
「にしても、よくこんな……うお! ひっでぇーなんじゃこのヒコーキ! めっためたのぼっこぼこっつーか、跡形もねえな」
「大尉、お身体は? その、悪い噂がたっていたもので」
「なんとか。一人じゃないのも良かったのかもしれないな」
首を捻る二人の前でヒカリを呼び寄せた。しかし、逃げ水のような揺らめきしか見えない、とますます困惑させてしまった。
「疲れてんのか? それとも憑かれたんか」
「疲れちゃいるけど、そうじゃなくて」
「……」
「ええと、その、いるんだ。話し相手が」
気がふれたと思われないうちに説明を止めた。すぐ耳元でヒカリが忍び笑いを漏らす。
「恐らく君にしか見えないよ、僕は」
それから二人に、現在何がどうなっているかを説明してもらった。俺が運ぶ筈だった物資は代替機が運搬し終えたらしい。やつらは通信の切れた地点を中心に、その周辺の捜索を任せているという。人員が限られている上にこの天候だ。二人の顔にも疲労が浮かんでいた。
「ゆえに現在、大尉の立場を知っているのは、こことお上くらいです」
「大事な道具を回収しろってことか」
「ああ、それなんだが」
同期がちらりと後輩を見、身体ごと俺に向き直った。
「おまえが行方不明になった直後だ。俺の部隊が飛んだんだ。北西の都を爆撃した」
さ、と自分の顔が青ざめていくのが分かった。
「酷かった。ひどかったよ。街が消えた」
同期には傭兵として各地を転々としてきた経験がある。その彼がこう言うしかない惨状が引き起されたのだ。
だからこっちには戻るな、と彼は言った。
「でも……戻らないと皆が」
「いいえ。皆、逃げるんです。大尉も一緒に」
「……どういう」
「ぼくを含め、飛行部隊の大半は入って日が浅いでしょう? こんなところにまで若造を引っ張ってこないといけない時点で、この国がどうなるかはもう見えているようなものです。この争いで得たものなん、て、……その、す、すみません」
「はは。いいよ、慣れた」
故郷がとうにないことは、皆に知られている。
「それに」
同期は防寒着を脱ぎ始める。太陽が差し、辺りの霜や氷は溶けていた。
「ロクに空も飛べないようじゃあ、飛行機乗りになった意味がないんでな。地面の上は物足りねえ」
「それは、……お前らしいね」
新技術が開発されるごとに飛行部隊の出動は減っていた。維持費用に見合う対価を得られないためだと聞いたことがあった。時代に合わないものは切り捨てられる。空が奪われる。
物資輸送機としての役目を果たすばかりだったこの部隊が、今になって再び戦闘機に乗ったということは、と考えを巡らせる。そこへ自分が居なかったのは偶然か、何らかの意図によるものなのか。後者だろう。まるで、青い閃光無しでの実力を計っているいるようではないか。
「とはいえ、一旦は地上を行くぞ。通信傍受や磁場の影響も考えられる、基本的に連絡はナシだ。落ち合う場所だけ決めて、あとは互いを信用して行動するのみ」
複数の線が書き込まれた地図に指を滑らせる。集合することになっている地点は、ここからそう遠くない。
「大尉はぼくたちと行きましょう」
「……俺を誘き出そうとしてるんじゃない、って証拠は」
「これで証明できますか?」
と、後輩は胸元を大きく開けて右の首筋をむき出しにする。入隊時に必ず彫り込まれる入れ墨、翼と神を組み合わせた意匠が、盛り上がった傷で見えなくなっていた。神へ刃を向けたも同然とされる行為だ。下手をすれば、人生を剥奪される。
「なんだ。おまえ、オレの真似か?」
「持ちかけられたときにはとっくに、です」
「……阿呆が二人……」
見せかけだとしても、信仰を捨てるのは容易いことではない。
それは、俺もよく承知している。
「分かった。……でも、考える時間が欲しい」
勿論だと二人は笑い、黙っているヒカリの方向に呼びかける。
「見えなくて悪いな。こいつを無事でいさせてくれてありがとう」
ヒカリは一つ頷いた。
煙草は神聖な儀式の際にしか見たことがなかった。だから初めは嗜好品として消費するやつらが不謹慎に思えたし、今でもその感覚はある。
「きみの同胞には随分と手を焼いたものだよ。所属と経歴を述べなさい」
「今は通信特務課。その前は第零部隊で、青い戦闘機に」
「…………青い?」
「青い閃光」
その場にいた全員が目の色を変えた。自分の名が知れ渡っていることに驚きはしなかった。どころか、当然だとも思った。
「青い閃光の正体が貴様か。妙な呪術を使うという」
「……っ、はっははは! 呪術?」
二律背反。非科学的なものは信じないんじゃないのか?
「このご時世にある訳がないだろう。斬新な考え方だね。俺にしてみれば、命を無作為に奪う貴方達の技術のほうが妙に思える。最も、それほど高度な科学力とやらを持っていたところで、行為は極めて稚拙で、低俗極まりないようだが」
「貴様、何を!」
「やめておけ」
場を一瞬で静めたのは、老木のような風采の男だった。神の姿を刻んだ杖で床を突き、俺を見据えた。
「何故そこまで淡々としていられる」
「昔から、表情が顔に出ないと言われるんでね」
「腹の底では?」
「言わないといけないのか? 貴方の頭をもってしても、理解できない?」
「……空に戻れと言われたらどうする」
「喜び勇んで」
「よろしい。では、きみの信仰は?」
二人は別の場所で野宿をすると言っていた。やけに重装備だったので問題はないだろう。
「明日の朝までこうしているだなんて、君の仲間は余裕があるね。気が変わって逃げるとは思わないのだろうか」
「信頼してもらってる証拠だ」
太陽は辛うじて水平線に引っかかっていた。「暗くなる前に」とヒカリを機体のそばに呼び寄せる。橙色の中に一瞬溶けた姿は、木陰でまた確かな輪郭を形づくった。
「俺はあいつらの計画に乗る。……考える時間、なんて言ったけれど、腹は決まってる」
「改めて言わずとも。君の表情で分かっていたよ」
「お前も来るよな?」
言うと、ヒカリは身体を震わせた。
「……無理だ」
「できないことじゃない。何か、ほかの光源とお前とを隔離してさ。確か積荷の中にランタンもあった。それの中に」
「無理なんだ。もう変われない」
防水シートで覆った積荷から目を上げる。
「テールランプに潜んでいたときとは違うのだ。僕はこれ以上の変質には耐えられない。君と同じ姿でしかいられない」
ぼんやりとした人間のかたちで、ヒカリは笑う。
「あの嵐から助かったのを、単なる幸運や偶然と捉えているのではあるまいね。確かに皆のように剥がされはしなかったが、僕も寸でのところで留まったに過ぎない。君の機体を支えるのに、ちょっぴり怪我をした」
「怪我って」
「分からないのかい。分かろうとしていないのかい? 何かに乗って遠くへ行くのは無理だ、と言っている。……ここでお別れだ。僕はひかりの一部に戻る。おかしかったものを元通りにする。ああ、お節介にも日陰のみを通って行くなど考えないでおくれよ。それは間抜けがすることだ。ひとのように君と過ごせて、僕は存外に楽しかった」
ヒカリが右手をコックピットに掲げる。金属と強化ガラスが真っ赤に溶け出し、ずぶり、と音を立てて陥没した。
「おい! 何するんだっ」
「万が一どこに隠れていたか見付かっては不都合だろう。僕が壊しておいてやる」
熱波に押されて近付けない。吹き飛ばされ、積荷の山に突っ込む。各部分のつなぎ目がレーザー線で切断されていくのが土埃越しに見えた。
両翼が外される。夕焼けよりも眩しい熱で、ほどけてゆく。
「待て、やめろ! まだ、」
グラスをつけて走った。ちらりとこちらに向けられた顔はすぐ正面を向く。衣服が焼け焦げたが構わない。ヒカリと揃いの、無骨な手袋を嵌めた手で、その両腕をつかんだ。
「離してくれよ! もう要らないのだろう!」
無理やり下ろさせた手の平からは青白い火花が散っている。髪の毛にあたる部分も同じ色をまとって、空気をはらんだように浮き上がっていた。
「君が飛ぶのに! これは要らない!」
「何も言ってないだろうが!」
「言わなくたって同じさ! 置いていく癖に!」
「いいからもう止せ!」
「いやだ―っ」
「やめてくれ」
放たれていた熱が、瞬時に引いていく。
「そんなこと、してほしくない」
感電の危険は既に頭から抜け落ちていた。抱き締める。震えるヒカリの身体を目一杯支えた。自分と同じあたたかさを感じた。
「傷つくのはお前じゃないか」
「……それで君も傷付いてしまえ」
「俺はいくら痛くても良い」
「嘘だ」
「嘘なもんか。……お前も行ける。飛べる、一緒に飛ぶんだ」
テールランプの軌跡に、夜空の凍てつく星々に。どんな場所にもひかりはあった。惰性と呼ばれようといくら謗られようと信じてきた。多くは望まない。少なすぎるのが丁度良い。
ただ、うつくしいものを、うつくしいままに留めておきたかった。
「夜、飛ぶから。真っすぐに。そこに、お前もいないと」
首に回された腕に力がこもる。やわらかで、眩しい。
「僕がいないと駄目かい」
「だめだね。一人の空はだめだよ」
「宥めているつもりだな? 君はずっと一人だったろう」
「一人じゃない。二人だ」
「いいや一人だ。一人きりだ」
「同じだ。共有できるのはお前とだけなんだ」
ヒカリは腕を外した。支える俺の腕に、手袋の切れ端をまとわせた両手が乗る。さっきの高熱に耐え切れなかったのだろう。もうひと組、残っていただろうか。
「僕は君の空が好きだ。君が、すきだ」
俺に似せていたはずのヒカリの姿かたちが歪んでゆく。誰とも似ているようで誰とも似ていない表情は、曖昧で不完全だ。だが、ゆるりとはにかむさまは、はっきりと見て取れた。
「だから連れて行って。昼の粒子に紛れた僕を見つけてくれ」
身体が離れる。しじまに立つヒカリはいっそう明るい。
祈るべき姿だ、と思った。
焦がれてきた、ひかりだ。
「当たり前だ。信じられる限り何だってしてやる。だからお前は、」
涙も忘れんばかりのうつくしさを、
「僕は僕だ。君のことがだいすきな」
夜に浮かぶ尾翼のひかりであることを、やめないでくれ。
橙と灰から生まれた濃紺がすべてを染め上げれば、ひかりの時間が訪れる。その静けさを裂いて空を往こう。それが祈りで、願いだ。
ついに届いた葉書を見せると、例外はない、と祖母は口元を引き結んだ。
「たとえ身内だとしてもね、身内だからこそ、特別扱いしちゃあいけないね」
地上を離れても決して忘れてはならないことを繰り返された。幼い頃にそうしていたように、成人を迎えた今になってもなお、小さな子供に言い含めるように。
ひとを傷付けることばは使わないこと。ひとでなくとも、誰かの大切にしているもの。それが路傍の石であっても神であっても、罵りの文句を唱えてはならないこと。自身の祈りをおろそかにしないこと。祈りは感謝だ。この世に生きている以上、何ものかに負うところがあって生きていられるのだと、忘れてはならない。
何を思い浮かべるか、つまり祈る対象は何だって良いと聞かされて育った。自分が信じられるものならば。
星。散歩道で拾った白い石。秋の花。川のせせらぎ。自然のものが殆どだった。時には木彫りの像などを見かけたが、違う、と幼心に感じていた。
祈れば全ての物事が好転するなどと考える甘さは許されなかった。祈りの無力さは知っていた。だが同時に、自己陶酔の心地良さを拒絶しきることはできなかった。その場凌ぎの行為を、断ち切ることができなかったのだ。
「いいかい。名前を簡単に知られちゃあいけないよ」
それは数多くあった約束ごとの中でも、必ず守るべきものとして教わっていた。
「信頼のおけるひとや、自分を好いてくれているひとから名前を呼ばれたら、力が湧いてくる。反対に、お前を嫌っているひとから呼ばれた名前は、お前から力を奪ってしまう」
まじないで、のろい。
呟くと、彼女も首肯した。
「奪うだけでないよ。もともと力を持っているひとは、相手の名前を使って縛ることだってできるんだ。名前で支配をもくろむのは昔からおなじみのやり方さ。だからお前は名前を大切にしないとといけないよ。いいね」
「―ははあ、成程ね」
それで君はかたくなに名前を教えてくれない訳だな、と不服そうにヒカリは言う。
「祖母がその、前に言っていた魔法使い?」
「うちの婆さんだけじゃない。他にも魔法が使える人は沢山いた」
「へえ。じゃあ、青い閃光、と呼ばれるのはどうなのだ。それも君の名前だが」
「どうとも。呼びやすいように呼んでくれて構わない、と言ったところかな。でも、俺をどう表すか、その方法によって俺はそういうものとして存在する気がする、というか」
「意味不明だ」
「……だから突き詰めれば、まじない、のろいのことなんだ。人の名もことばである以上」
「僕が君に馬鹿と言い続ければ馬鹿になる、と」
「可能性は無きにしも非ず」
「つまり」
「やめろ」
「オーケイ。それで、君が青い閃光と呼ばれることによって、君は青い閃光でいられる、そういうことだろう」
「俺がどうであるか、決めるのは俺じゃないから。よその誰かの評価や目線で、俺は俺になる」
「だから呪いか。名前に、縛られる」
「そう。俺が長いこと負けなしでいられたのは、そのこっ恥ずかしい名前のお陰かと思うと、まぁ、複雑ではあるけどね」
くすくすとヒカリは笑った。
「恥ずかしいと思っていたのか」
「そりゃあそうだ。あんまり子供じみているよ。まさか俺が自分で名乗ってると思ったのか?」
「いいや。だって僕は君のことなら何でも知っているよ。面白おかしく、新聞記者がそう書きたてたのが最初だった」
「趣味の悪いことにね」
お互いに頷く。ただの飛行機乗りが英雄視される状況の不自然さにも、そう過剰な称賛を浴びせる空気の幼稚さに気付かぬ愚かさにも辟易しているのは、どちらも同じだ。
そういえば、とどこか気だるげにヒカリは口を開く。
「魔法使いとはどういう意味だ? ことばの魔法とでも言うつもりだったのかい。まさか、超的な力を使える人間がこの時代にいるわけもない」
昔は居たけれど、とヒカリは付け加えた。あちこちに住み着く中で見てきたものを思い出したのかもしれない。人間ひとりの持つ時間の何千倍も、いやそれ以上を有しているのだ。それだから、ヒカリは、ひかりだった。
「そうだな。たとえば、雑草を薬にする方法を知っているとか、誰もが忘れてしまった弔いの儀式を覚えているとか、所詮はその程度だ。……なかでも祈りのことばは。呪いのことばは、本物だった。そういうことだよ」
のろい、と繰り返し、ヒカリは唾を飲み込んだ。
「ことばは道具だ。人間の思考を伝達するためには、からだの動きや表情だけじゃ足りない。だから人間の道具以上の意味はないのだと言う学者もいる。
だけどそれだけか? ここから離れた島国では、ことばに魂が宿るというらしい。それだけじゃない。神聖なもの、忌避されるべきものの名を口にすることが憚られるのはなぜだ。かつて領地争いが繰り広げられていた頃、主人以外に真名を明かさないのが決まりだった、それはなぜだ。こんなにもことばを恐れ、崇めているのに、それでもただの道具だと言い張れるか。俺にはできない。呪いのことばを知っているから。ことばは道具じゃない。魔法そのものだ」
転んで作った擦り傷に効くのは膏薬よりもことばだった。森へ捧げる供物は粗末でも構わない、だけど祈りは粗末にしてはならない、ときつく言いつけられていた。
お前の名前は、お前をこの世に留めておくためのものだよ、空に行ったとしてもね。人間に鳥のような羽根はないから、必ず地上に戻ってくるんだ。名前は、要るんだ。
「じゃあ、もしなくしてしまったら? 名前がなくなったら?」
残酷な答えが欲しいのではなく、好奇心、純度の高い疑問が口を開かせたに過ぎなかった。いま、名前を思い出すことのできない状況を何と呼ぶべきか、口にするのも恐ろしかった。ことばによって、疑念が真実へと固定されてしまう気がした。
「本当の名前は何と言う」
「教える義理はない。秘密だ」
「けち臭いな」
「お前だって。そもそも名前はあるのか?」
「ないよ。僕達、ひかりの一部は個々に存在する必要がないもの。だから僕は借り物の見た目に借り物の名前でしかない。しかし君は違う。大尉だとか、飛行機乗りだとか、青い閃光だとか、僕はそうしたふうには呼びたくないのだ。僕の知っている君は、そうした呼び名では表せないもの。誰かが、誰かの目が措定した君じゃない、僕だけの知っている君を、呼びたい」
「それはそれは。でも教えないよ。ひとの名前は本質なんだ。どんな呼び名よりも強い力を持つものだ。お前が相手でも教えてやれない」
「ずるいな。君はずるい」
「そういうことじゃなくって」
「だって、誰にも独占させないのだろう。ずるいに決まっている」
「お前、知ってるんじゃないのか。俺の名前」
言うと、ゆるゆると首が左右に振られた。
「嘘だ。知ってるんだろ」
「どうしてそう思う」
「……何となく」
「言いがかりだ」と、ヒカリは笑った。
「もし知っているとしても言わないよ。君はいま重すぎるから、名前をちょっと払ってやるのが良い。名前に縛られたら飛べなくなるよ。これ以上、空を失いたくはないだろう」
青い閃光という名が枷になるのなら、捨て去ってしまえば良い。
そう言われているようで、思わず苦笑した。
「なっ何を笑う」
「いや。心配してくれてるのかと思うと、なんだかおかしくて」
「しんぱっ……っち違うからな! 僕は君から空がなくなるのが惜しいというだけだ。別に君自身の心配をしている訳ではないからな」
「はいはい」
信じていないだろう、とヒカリは頬を膨らませる。ヒカリ、と呼ぶと、じっとり睨むような目線を向けられた。
「お前をひかりと呼ぶのが俺だけだとしたら、それは俺だけのお前の名前か」
「馬鹿を言え」
挑発的とも思える強い目線で、ヒカリは言い返す。
「名前だけじゃない。僕は、君のひかりだろう?」
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