小説家の憂鬱

浅野浩二

彼は自称、小説家である。自称、と言ったのは、彼はまだ、一回だけ、自費出版で一冊、本を出した事はあるが、それ以来、本を出版していないからである。つまり商業出版の本を出した事が無いからである。一般の人の感覚でもそうだろうが、小説家と自他共に認められるのは、何かの文学賞を取り、書き下ろしで商業出版の本を出したり、週刊誌の連載小説で、小説を書き続け、一定のファンの読者層を獲得し、世間で知名度を博し、コンスタントに毎年、文庫本を、何冊か出し、その印税によって、生活している人を小説家と自他共に小説家と呼ぶからである。つまりはプロ作家である。そういう点からすると彼は他人が、小説家と、認めるかどうかは怪しい。
しかし彼が、小説家を自称するのは、彼にとっては、抵抗がなかった。なぜなら。確かに、彼は、世間の知名度も無いし、印税も全く無い。つまりアマチュアである。しかし、彼は、学生時代から、ずっと小説を書いてきて、社会人になっても、毎年、コンスタントに、何作か小説を書き上げて、完成させ、ホームページに発表しているからである。彼の念頭には小説を書くことしか無いのである。そして、それを毎年、続けてきているので、彼は自分を小説家と自称することに抵抗を感じていないのである。完成させてホームページに出している小説も100作以上になっている。彼は死ぬまで、小説を書き続ける強い信念を持っている。だから、彼は自分を小説家と自称することに抵抗を感じていないのである。
それに彼には、プロ作家になることに抵抗を感じている面もあるのである。彼は過敏性腸症候群という苦しい病気をもっており、そもそも子供の頃から、喘息の虚弱体質で、彼はもはや睡眠薬を飲まなければ、一日たりとも眠れず、また過敏性腸症候群によって、うつ病が頻発して起こり、とても連載小説を書きつづける体力などないことを痛感しているからである。勿論、彼も、今までに名のある小説新人賞に三回ほど、応募してみたことがある。しかし、三回とも予選にも通らずに落ちた。勿論、残念ではあったが、彼はあながち落胆しなかった。新人賞に通るためには選考委員に認められるものを書かなくてはならない。単なる面白さではダメなのである。しかも筋の巧妙さ、奥の深い視点のあるものでなければ、文学性が無いということで落ちるのは目に見えていた。そういう奥の深い、(あるいは斬新な、あるいは鋭い)視点を持っている人は幸いである。また、たとえ新人賞を一作とっても、その人の感性が世間の人に受け入れられなければ、一作作家として終わりである。
世間で名をなしている作家は自分の感性が世間の読者の感性と、一致している幸運な人と言える。振り返ってみるに、彼は、表現したいものというものを持っていた。彼は、大学に入るまで小説というものを一度も書いたことが無く、また書き方もわからず、作文から小説を書き始めた。大学で文芸部に入る事を親しい友達に誘われたが、彼はかなり躊躇した。文芸部に入るには小説を書かなくてはならない。と彼は思っていたからである。しかし、彼は誘われたから文芸部に入ったのではない。それまで彼は表現したい潜在意識が強くあったのである。ただ、小説を書く技術がないため、それは、はるか彼方の夢でしかなかったのである。大学に入って、人生の虚しさを感じ出すと同時に、表現したい欲求がどんどん募っていった。それがついに爆発したのである。文芸部に誘われていたという事も幸いした。彼は書き出した。小説など書けないから、作文もどきの小説から始めた。そして作文ではあっても、何作か作品が出来た。それ以来、彼の創作にかける情熱は、どんどん強くなっていった。たとえ作文もどきの小説とはいっても、作品は作品である。作品を書き上げて、完成させると、自分にも、作品を書く能力はあるんだ、という強い自信になった。それが創作の情熱を強めた。書きたいものがあっても、書く技術がないだけである。なら書く技術を磨けばいい。書く技術を習得するには、実際に骨を折って作品を書くことと、優れた作品を熟読することだと思った。それで彼は手当たり次第に、名作を片っ端から読み出した。そして、骨を折って作品を書いた。彼は先天的倒錯者だったので、エロティックな小説を書きたいと思っていて、また書けるとも思っていた。しかし、書く技術がない。それでも挑戦して書いてみたが、幼稚になってしまい、自分にはとても、エロティックな小説は書けないと思った。またエロティックな作品を書く事を受け入れることも出来なかった。それで恋愛小説的なものを書いた。それは、彼が書きたいものでもあり、また、書けるものでもあった。彼は恋愛小説を書いていこうと思った。大学の時には、勉強が忙しく、そのため、長編は、とても書けず、掌編小説、短編小説しか書けなかった。
彼は、小学二年生の時、一度、国語の授業の時間に創作をする課題が出されたことがある。教科書に載っていた、ある作品の続きを書いてみなさい、という課題だったが、この時、筆が走りに走った。書いていて面白くなってきて、書きながら笑ってしまうほどであった。なので、彼には子供の時から、創作の才能が十分、あったのかもしれない。それに気づき、それ一筋に夢中になって小説を書いていたなら、小学校、中学校、高校と、どんどん書く技術がついていき、プロ作家にまでなれたかもしれない。しかし、その国語の創作の授業は一回だけであって、それ一回きりで、一度の楽しみとして終わってしまった。彼には、他にも勉強やら、運動やら、遊び、やら、色々やりたいことがあった。小学生の創作なんて遊びに、価値があるとも思えなかった。もし、創作の授業が一回だけでなく、何度も行なわれたら、彼の人生は変わったものになったかもしれない。
大学生になって、やっと彼は自分の本当にやりたいものに気づき、遅ればせで不利な条件ながら、ついに決断し、書きはじめたのである。一度、火がついた創作欲は、もう燃えさかる一方だった。そもそも彼は、何かをし出すと、それにとりつかれてしまって、無我夢中で邁進する性格でもある。
彼は医学部を卒業して医者になった。医学は深い理論があり、非常に面白いものである。彼は一時は、医学に夢中になったこともあるが、やはり、自分のしたい事は、結局は創作で、それに戻った。
社会人になると、もはや躊躇いがなくなり、エロティックなものも書いてみるようになった。すると書けた。一作、書くと、それが自信となる。彼は次々とエロティックな小説を書いた。書き上げる事の喜びと、書けることの自信との相乗効果で、彼はエロティックなものにだけに焦点を当てて、書くようになった。もはや、彼は、一生、エロティックなものを書き続けられる自信がつくほどにまでなった。文芸的なものは書かなかったが、彼は作品を書いていれば、それで満足であり、またエロティックなものは、嫌々、書いているのではなく、書きたいから書いているのであり、書き上げた時には十分、満足できるからである。それに歳をとると性欲が低下して、エロティックなものは書きたくても書けなくなるのではないか、という心配のため、若く性欲がある内に、エロティックなものを書いておこうという考えもあった。
彼は精神科を選んだ。それは精神科は比較的、楽だからと思ったからである。彼は二年の研修の後、精神保健指定医の資格を取るという条件で、少ない給料で、常勤で田舎の精神病院に就職した。だが、院長はしたたかで、精神保健指定医の資格をとって辞められることを怖れ、彼に指定医の資格を取らせなかった。彼は指定医だけは取っておこと思っていたのである。精神科では、精神保健指定医という国家資格がないと、給料も低く、就職も難しいのである。医者の求人も指定医の資格があることが絶対の条件である場合が多い。つまり指定医の資格がないと、就職できないのである。何度、院長に交渉にいっても、「そのうち取らせる。そのうち取らせる」と言いながら、結局は取らせてくれない。政治家の「前向きに対処します。前向きに対処します」と言いながら、結局は、何もしないのと同じである。結局、彼は、一つの病院に医者の数が多いと、病院の評価があがるため、そのための手段として採用されたのに過ぎなかった。また学閥の強い田舎の病院で、医師を募集しても医者がなかなか医者が来ない。そのための用心のためでもある。つまりは、飼い殺しである。唯一の、医者集めの手段は、院長の出身大学の医局に、数100万、教授に渡して、「どうか医者を一年、派遣させて下さい」と、教授に頼みこむしかないのである。そこの病院は学閥が強く、彼は一人ぼっちだった。彼など、空気同様いないに等しい。そんな中、大学の医局から派遣されてきた女医だけは、彼を可哀相に思ってか、優しい言葉をかけてくれた。その頃、精神科専門医という、新しい資格を学会がつくった。そして、古参の医者は、「精神科専門医の資格のためのレポートには協力しますよ」と彼にしたたかに笑って言った。これは思いやりなんかではない。精神科専門医は、精神保健指定医と違って、学会が認めるだけの資格で、ほとんど何の権限もない。では、なぜ、そんな事を言うかというと、精神科専門医のレポートにサインすると、精神科の指導医という肩書きができるからである。つまりは、自分の事しか考えていないのである。ウソで飼い殺しにしようとする悪徳な院長、偽善者の指定医、などの集まりの病院に、もう身も心も疲れはてて、彼は病院を辞めた。それで、医者の斡旋業者に頼んで、非常勤で働いたり、健康診断や当直などのアルバイトで、やっていくことにした。また、どこの病院に常勤で就職しても、病院の院長などというものは騙すことしか考えていない医者がほとんどである。なので彼は指定医の資格はもう諦めた。
だか、常勤をやめて、時間的に自由になると、ほっとした。元々、小説を書くことが、彼の人生の一番の目的であり、指定医だけは、医師免許と同じように、精神科医として、やっていくためには、なくてはならないものだったから、それだけには何としてもこだわっていたのであるが、そのこだわりが無くなると、ほっとした。精神的ストレスも無くなり、小説もどんどん書けるようになった。指定医取得で悩んでいた時は、身も心もボロボロで、うつ気味であり、小説も書けなかった。しかし、それを吹っ切って自由になると、精神が実にリラックスした。彼は、毎日、家の近くの図書館で、朝から、図書館が締まるまで、机に向かって小説を書いた。
図書館とは、healing space of the soul とも言われる。つまり魂が癒される場所という意味である。なぜ図書館かというと、図書観の方が緊張感が出るからである。それに彼は、頚椎の湾曲が少なく、直線ぎみであり、肩が凝りやすい体質でもあるからである。
彼は小説を書いた。しかし彼には、実生活というものが、ほとんど無い。元々、内向的な性格の上、過敏性腸症候群のため、友達がいない。仮に友達を無理して作っても疲れてしまうだけである。そのため、彼の小説は、頭で考えた空想的なものが多かった。しかし、彼は、子供の時、喘息の施設に二度ほど、計三年入っていたことがあり、そこでは本当の友達が出来たし、保母さんは、憧れの異性でもあった。そういう現実の体験を元に、それからイメージを膨らませて、小説を書いた。これは何も、彼だけに、いえる事ではない。ライナ・マリア・リルケも言っているが、もし、どうしても書く事がなくなっても、少年期の体験だけは、書く事が出来るのである。
彼は机に向かって、一日中、ウンウン頭を唸らせながら小説を書いた。書いている時だけが、彼にとって幸せな時であった。不思議なことに、もはや学生時代に書けた掌編小説というものが書けなくなってしまった。掌編は、ただ短いだけの小説ではない。掌編はラストが、キリッと纏まるかが、全てであり、それが上手くいくと、掌編といえども、小宇宙、ミクロコスモスの一つの世界になるのである。学生の時、それが出来たのは、長い小説を書く時間が無く、掌編しか書けず、まさに必要が発明の母だったのである。しかし小説も、ある程度の長さを越すと、もはや、ラストをどうするか、ということは重要でなくなってくる。中身のボリュームが長い小説の、美味しさだからである。
そして、ある程度、長く書いた段階になると、もっともっと、いくらでも話が続けられることに気がついた。しかし彼は遅筆なので、一つの小説を延々と長く書くより、ある程度の所で切り上げて、次の小説を書いた。一年で、一作だけの長編というのは、さびしく、それをするくらいなら、短めの小説を五作、書きたかったからである。それは、多くの作品を書く事によって、自分に自信がつくからである。また、話によっては、長い作品を書いていると、色々イメージが沸いてくるが、中には惰性で、話がつまらなくなってくる性格のものもある。つまり、原稿用紙の枚数は多くても、キリッとラストを纏める方がいい掌編的な性格の小説もあるのである。
これのいい例がある。それは梶原一騎の漫画である。梶原一騎の漫画のほとんどは、ある所でクライマックスに達する。そこで終わりにした方が、しぶいのだが、長編の連載ということで、クライマックスの後でも、話を考えて、つづけて書かなくてはならない。例を挙げれば、「巨人の星」では、大リーグボール一号を完成した時、あるいは、花形満が、大リーグボールを打った時が、「巨人の星」の絶頂のクライマックスであり、そこで終わりにした方がいいのであるが、連載漫画は続きを書かなくてはならない。そして、クライマックスの後では質が低下しているのである。他の作品では。「夕やけ番長」は、七巻の、赤城忠治と鮫川巨鯨との対決がクライマックスであり、「侍ジャイアンツ」では、番場番が巨人とのケンカに勝った時がクライマックスであり、「愛と誠」では、高原由紀のリンチが終わった時が、クライマックスである。(もっとも、愛と誠、では、ラストが見事に決まっているが)
プロと違い、アマチュアだと、きりのいいクライマックスで、お仕舞いにすることが出来るから有利なのである。
しかし時には、新しい小説を書こうと思っても、どうしても書けない時もある。
小説を完成させて、ホームページに出した時は最高の快感であり、大得意である。だが、その後、すぐ、話が思いついてくれればいいのだが、書けないと、一日経ち、二日経つ内に、だんだん、憂鬱になってくるのである。
不思議なことに完成させてホームページに出してしまって、数日経ってからでは、つづきを書こうと思っても、後の祭りであり、書けなくなってしまうのである。これは非常に怖いことである。こんなことなら、話を切り上げないで、もっと長く話をつづけた方が良かったと、つくづく後悔することもよくあった。
作家とは、書いている時だけが生きている時であり、書けない時の作家は、まさに地獄の苦しみである、プロ作家なら皆そうであろう。哲学者のメルロ・ポンティーが言っているように、作家にとっては、今、書いている作品こそが全てであり、過去の作品は作家にとって、墓場であり、過去の栄光にいくら浸っていても何の感慨も受けない。
彼は小説を書けない時は、ブログの記事をストックとして書くか、本を読んだ。読むのは、ほとんど小説である。ただ読むのは、楽しみのためというより、自分が小説を書くヒントになる本を読んだ。また大作家の小説を読むことは、小説を書くファイトにもなる。
そういう考えで彼は、読む本を選んでいるので、必ずしも全ての本を読んでいる文学通ではない。一読して、ああ、楽しかったで、翌日になると忘れてしまうような作品は読まない。文学青年は、ドフトエフスキーとか、トルストイとかの大長編を読むが、大長編は自分の身につかない。それよりも掌編、短編で、重みがあり、ストーリーを忘れないような印象の強い作品を読む方が、自分の創作の勉強にはいいのである。
また、何も小説に限らず、ある単語や、ある場面が小説のヒントになることがある。ネタ探しのアンテナを絶えず張っていれば、小説のアイデアが沸くことがあるのである。これは何も、読書だけに限らず、日常生活で、絶えず小説のネタを探す気持ちで生活していれば、アイデアが沸くことがあるのである。インスピレーションとは、努力によって起こるのである。ボケーと待っていては、インスピレーションが降臨してくることはない。誰でも、そんなドラマになるような生活を送っているわけではない。人は、一生に一つは小説を書ける、と、よく言われるが、それは、言葉を返せば、たった一つ、というほど、人の一生に、小説になるようなドラマチックな事は起こらない、という事である。
そういうわけで、職業作家として、小説を書き続けるには、ドラマチックな事が自分に起こってくれるのを指を咥えて待っていては書けない。勿論、日常、人との付き合いが多い行動的な人は、日常の雑感であるエッセイを書く事はできる。しかし、小説は書けないし、エッセイにしても、芸術性の高いエッセイが書けるかどうかは、わからない。
そこで、プロ作家として、小説を書きつづけるには、積極的に、今や昔に起こった事件、人物などで、小説になりそうなものを、徹底的に調べて、頭を絞ってストーリーを考えて、小説に仕立てるのである。推理作家では、平和な土地に、わざと凶悪な犯罪を、頭を捻って考え出さなくてはならない。平和な土地に住んでいる人にとっては迷惑かもしれない。
彼は、以前、新宿のカルチャー教室で、「取材の仕方」という教室に出たことがある。三回の講義で、一回目は、口の悪い元、編集者で、取材の仕方の話をせず、自分の言いたい政治的な主張を乱暴にぶちまけただけだった。そのためか、二回目からは、100人いた受講者が、10人くらいに、ぐっと減ってしまった。しかし二回目からの講義は良かった。二回目は、作家の嵐山光三郎先生だった。先生は、ちやんと、取材の仕方の講義をした。彼はこんな事を言った。
「作家は、小説に限らず、何かものを書く時、取材しなくてはならず、取材の費用は自腹を切らなくてはならない。だから、原稿料が入っても、取材の費用で、差し引きゼロとなってしまう。では、どうやって収入を得るか、というと、連載した作品が単行本や文庫本になり、本が売れることによって、その印税が作家の収入源となる」
これは、全ての小説で言えることではない。小説には、取材などしなくても、資料がなくても書けるものもある。しかし、念入りな取材をして、資料を集めなくては書けない作品もある。氏は後者のような作品を書くことが多いのだろう。実際、氏の作品には、そういうものが多い。
アメリカを舞台に小説を書こうと思ったら、やはりアメリカに行かなくてはならないだろう。今は、インターネットで、画像や文献を集めることは容易である。しかし、その場所の空気、雰囲気、人々の様子、町並み、などをリアルに書くためには、実際に行って実感しなければ書けない。百聞は一見に如かず、である。だから、本格的な小説を書くためには、取材の費用を先行投資として払わなくてはならないのである。最も、海外旅行が好きで、色々な所に趣味も兼ねて行っている人は、その点、有利である。作家は何事にも旺盛な好奇心を持っていて、仕事のためではなく、どうしても調べたり、行ってみたりしてしまうような好奇心旺盛な行動的な人が有利なのである。
そういう点、彼は小説創作に不利だった。アマチュアで、収入をはじめから考えていないのだから、取材の先行投資は、小説を書くために支払うだけのものとなる。彼は小説を書くのが好きだが、取材のために、かなりの金を払ってまで、本格的な小説を書きたい、とまでは、思っていなかった。そこで、映画と同じように、安上がりで書ける小説となると、ポルノ小説となるのである。だから彼が妄想的なエロティックな作品ばかり書く事になるのも、必然の結果だった。そして、彼は妄想的なエロティックな作品を書くことに、満足しているのであるから、なおさらである。
さらに、彼は、孤独で友達がいない。孤独であるということは、小説家の良い特性ともいえるが、それは精神的な孤独であって、物理的に話し相手がいない、ということは、小説を書く上で、極めて不利である。人との会話や、付き合いは、それだけで、上手く加工すると小説になりうる可能性がある。また、一人の人間は、その人の視点で世界をみているから、つまり、一人の人間は無限の情報を持っているから、一人の友達がいるということは、自分とは違った視点の、無限の情報を持った人から、無限の情報を聞きだせるということである。そういう点でも彼は小説創作に不利だった。たとえば、ある場所から、ある場所へ車で行く時、友達は、いい抜け道を知っているかもしれない。何か困った時にも、どうすればいいかも、友達が、そういう経験をして知っているなら、教えてもらう事も出来る。近くに美味い焼き肉屋があって気がつかなくても、友達は知っているかもしれない。そういう、あらゆる事で、一人でも友達がいると、非常に有利なのである。しかし、それは、友達を情報入手のための手段として利用することである。彼は人を自分の目的のために利用することが嫌いだった。しかし、それならば、彼だって、彼という視点を持った一人の人間だから、友達が知らない事で、彼が知っている事を教えてやればいい。ギブ アンド テーク である。しかし彼は、内向的な性格で、自分の関心のある事には、熱中してしまって、知識もあるが、それ以外の世事には疎いのである。外向的な人間は、その逆で、世事には広いが、一つの事に熱中してしまう、という事がない場合がほとんどなのである。また内向的な人間は外向的な人間のように、世事の全てに、広く関心を持っていないため、話が噛み合わないのである。噛み合わない、だけでなく、疲れてしまうのである。そもそも友達との雑談というものが苦痛で、一人で自分の好きな事をしている時だけに、心が落ち着き、和らぐのであるから、友達というものを作れないのである。それに内向的な人間は無心になって遊ぶという事も苦手である。そのため彼の情報入手は、子供の頃から書店や図書館の本やネットだった。また、友達がいないと、夏休みの旅行という事も出来にくいから、ますます世間知らずになってしまう。勿論、旅行や遊びは、一人でしても違法ではない。しかし、やはり旅行は友達と行くのが楽しく、それが普通であり、一人で行くのは虚しいし、恥ずかしい。遊びも、友達とするのが、一般的である。一人でボーリングに行っても、一人で屋外バーベキューを焼いても違法ではない。しかし夏祭りも一人で行って、一人で金魚すくいをするというは虚しいものである。さらに、夏の海水浴場のナンパというものも、男二人なら、恥ずかしくはなく、友達同士の女二人に声を掛けることも出来やすいが、一人では、困難を極める。それでも、京本政樹のような超美形なら、可能だろうが、残念なことに、神は彼に、平均的な容貌しか与えなかったのである。そういうことで、一人というのは、生きていく上で、極めて不利なのである。ただでさえ、そうなのに、過敏性腸症候群が発症してからは、彼の人づきあいは、さらに困難になっていった。そもそも内向的な人間は、集団帰属本能が無いのである。
内向的な人間は、一つの事をやり出すと、それに凝ってしまい、幅広い世事に疎く、また無心に遊ぶ事が苦手なのである。
そういうことで、彼は、常勤で働くのをやめてから、ほとんど毎日、図書館で小説を書くようになった。図書館にいる時が、唯一、心の和む時間だった。
彼は、図書館で、あらゆる分野の書棚の本の背表紙を眺めるのが好きだった。出来る事なら、図書館にある全ての本を読みつくしたい衝動に駆られるのだった。どんな事にも理論がある。それを学びたいのである。しかし、彼にとっては、読むことより、作品を作ることの方が絶対的に価値が上だったので、一日中、机に向かって、小説を書いていた。彼は、遅筆で、また、体調に非常に左右されるため、一日かけて、原稿用紙一枚しか書けない時もあった。一日、原稿用紙10枚、書ければ多い方だった。また、アイデアが浮かばない時など、一日かけて、一行も書けない時もあった。それは彼が文章をスムースにつなげ、ストーリーにも頭を捻って、最高のものにしようとの、凝り性の性格のためだった。そのため彼の作品は非常にスムースに読める。彼は文体を持っていると自負していた。では、文体とは何か、というと、それは、人によって定義が異なるだろうが、まあ、文章の読みやすさ、と言っていいだろう。ひとつの文を書くと、次の文は、前の文を引き継いだものとならなくてはならない。一つの文は、次の文章を決定する。だから、次の文章は、前の文章に責任を持ったものでなくてはならない。軽い気持ちで、一文を書くと、その後の話の展開が大きく変わってしまうこともあるのである。文体にこだわると、そういう事まで起こってしまうのである。この事を雑にしてしまうと、本人には、わかっても、他人には読みにくい文章になってしまう。そういう人は、自分の書きたい事を、無考えに次々、書いて、読む人のことは、考えていない。自分の書きたい事を目一杯書いて、自己満足し、読む人は、かってにどうぞ、という、デリカシーの無い性格である。一方、文体を持っている人、特に彼のように、読まれることを、絶えず意識して書いている凝り性の人は、どうしても筆が遅くなる。そういう人は、読者を意識するあまり、自分の書いた作品が、読者に読んで欲しい、という意識が非常に強いのである。音楽には、絶対音感というものが先天的にあって、それが無い人は作曲することが出来ないそうだ。それと同様、文章にも、絶対文感というものがあって、それが無い人は、作品を書く事が出来ないそうだ。もっとも、作品を書く時に、一番大切なのは、書き手の精神的コンディションであって、精神的コンディションが良好な時は、速く書いても、文体が滑らかで、ストーリーも崩れず、見事な作品を書く事が出来る。彼の場合、過敏性腸症候群による体調不良のため、精神的コンディションが、悪い時の方が多いので、筆が遅いのである。彼も精神的コンディションがいい時は、頭より手の方が先に走って止まらない、という事も経験している。
人生の時間は限られている。その限られた時間の中で、何をするか、という決断に人間はいつも、さらされている。彼にとって、それは作品を書く事だったので、一日、原稿用紙一枚しか書けなくとも、彼は読むことより、書く事をとった。そのため、図書館にある膨大な本は、背表紙を見るだけにとどまった。残念だが仕方がない。
彼は、図書館にある、松本清張とか山本周五郎とか、その他、多作の大作家の全集を見ると、よくこんなに沢山、作品を書けたなと驚きを持って感心した。彼は一生、創作一筋に打ち込んでも、絶対、これほどまでの分量は書けないだろうと、残念ながら確信していた。それは、今までの創作のペースから考えて、どんなに無理してでも、彼らほどの分量は書けないと、残念ながら確信していた。
そして、もちろん嫉妬の感情も起こった。しかし、それは、そんなに激しいものではなかった。彼の創作の動機は、名誉欲でもなければ、金銭欲でもない。創作は自分との戦いであり、自分にしか書けないもの、そして自分がどうしても表現したいものの作品化であったからである。もっともそれは、どんな作家でも持っている感情だろう。同じジャンル、たとえば、推理小説を書く作家なら、すぐれた推理小説の大家に、質、量、において嫉妬する事もあるだろう。しかし、恋愛小説の作家が推理小説の大家に嫉妬するということが、あるだろうか。作家は自分の好みのジャンルの作品を創って表現したがっている。それが自分の価値観であるからである。特に個性の強い作品を書く作家にとっては、創作は自分との戦いだろう。だから、違う別のジャンルの作家に対する嫉妬というものは、あるだろうが、そんなに激しいものではないのではなかろうか。実際の所、それは、各作家によって異なるだろう。たとえば野球選手が、日本一のサッカー選手に嫉妬するということがあるだろうか、という疑問と同じである。野球選手は野球に価値をもっていて、サッカーには価値をもっていないだろう。作家が一番、幸福を感じる時は、自分が表現したいと思っていた作品を見事に完成することができた時であろう。ともかく膨大な多作の作家の全集を見ると、自分の創作に対するファイトは、間違いなく起こる。
そして彼は、過敏性腸症候群であり、不眠や鬱に悩まされており、創作にとって著しく肉体的、精神的、条件が悪い。彼は、キリスト教の教えにある、タラントの喩え、通り、自分に与えられたタラントを精一杯、努力して発揮する事が、自分にとって大切な事なのだと、かなり達観していた。自分は、大作家の十分の一のタラントしか、与えられていない。しかし、量は少なくても、自分に与えられたタラントを精一杯、努力して発揮することが、価値のあることなのだ、と思っていた。

そんなことで彼は、仕事のある日以外は、図書館の机に向かって、じっと座ってノートに向き合っていた。彼は、パソコンにそのまま入力して書くという事が出来なかった。これは作家の気質もあるだろうが、ワープロが使えても、ワープロで文章を書くということが、どうしても出来ない作家というが、プロ作家にもいる。長年、文章を鉛筆で原稿用紙に書いてきた習慣のため、文章を書くという脳の働きが、原稿用紙に、文字を一文字、一文字、筆に圧力をかけて、原稿用紙の升目を埋めていく、という方法と一体化してしまっているからである。そういう人には、たとえワープロが使えても、文章は筆でしか書けない。また小説のアイデアが、筆で原稿用紙に文字を書いているうちに、沸いてくる、などという習慣が身についている人には、どうしてもワープロでは書けない。ワープロで、キーを押す動作では、文章も作品も軽くなってしまい、重い、魂の入った文は、書けないという人もいるだろう。特に、ワープロが出来る前から、書いていた人には、そういう人が多い。彼も、はじめはそうだった。ワープロが使えるようになっても、今までの習慣から、どうしても文章はノートに鉛筆でしか、書けなかった。それで、彼は鉛筆で文章を書いて、それをワープロに写す、というようにして書いていた。文章を書くという脳の機能と、その手段は、一体化しているからである。しかし、だんだんワープロを頻繁に使っているうちに、ワープロでも書けるようになってきた。ワープロのキーを押す、という方法が、文章を書くという脳の機能に適応しだしてきたのである。すると一旦、ワープロで文章を書くという方法が、文章を書く脳の機能と一体化してしまうと、今度は逆に、鉛筆で、ノートに書くということは、おっくうになっていった。
彼は、小説を書く時、必ず、何冊かの、読みかけや、既読の文庫本を横に置いていた。
作家は小説を書く時、特にストーリーを考える時、何をヒントにしているだろうか。おそらく、毎日の生活の中での、何かの出来事をヒントに、それを想像の力で膨らませたり、加工させたり、変形させたりして、お話を考えているのでは、なかろうか。しかし彼には実生活というものがない。人との付き合いが全く無いのである。それで、彼は小説のヒントを、生活ではなく、虚構の小説の中に求めた。彼が小説を書き出した時の、ストーリーを考えるヒントも、小説を読むことであったが、その後も、彼には生活というものが無いため、ストーリーのヒント探しとして文学作品を読んだのである。そして、ある作品なり、作家なりが気に入ると、これは自分の創作のために、吸収することが出来ないかと、徹底的に精読した。彼の読んだ小説には赤い傍線が一杯書き込まれている。彼は小説を自分の創作の能力を広げる勉強の目的で読んだのである。彼は、日本の近代小説で、短めのものを読んだ。それは、彼の書きたいもの、書けるものの性格からして、筋が複雑に入り組んだ推理小説は、無理だと諦めていたからであり、また推理小説を書きたいとも思ってもいなかったからである。さらに、長編の推理小説は、読んで数日すれば、忘れてしまう。推理小説とは、読む人を、ハラハラさせ、面白がらせるために書かれたものであり、読むには面白いが、少なくとも彼の小説の勉強には、向かないかったからである。同様に外国の長編小説も読まなかった。外国を舞台にした小説を書く気はないからである。しかし、日本の古典は、筋は入り組んでいなくても、一文、一文に味があった。彼もストーリーの奇抜さではなく、文章や作品自体に味のあるものを、書きたかったからである。
そもそも、小説の勉強をするには、日本の古典を読むことである、というのは、よく言われる事である。
一つの作品や作家が気に入ると、彼はとことん精読した。自分にも、こういう小説なら、書けるのではないか、と共感できるような作品を見つけると、大変な喜びだった。しかし、それに習って、書こうとしてみも、やはり無理だった。彼は世事に疎く、観念ばかり肥大していて、世を描写することが出来なかったからである。やはり小説を書くには、思想を深く持っているより、世のあらゆる雑事を、幅広く知っていなくては、駄目なのである。彼は自分の創作の肥やしにならないと諦めた作家の作品は、読まなくなり、さらに別の、自分の創作の肥やしとなるような作品、作家を探した。それを見つけると、彼は、今度こそ、と一心に精読した。だが、書く段になると、やはり書けなかった。そういう風に、彼は多くの作家の作品を、次々に鞍替えして読んでいった。そのため、古典や文章の味が分かるようになった。つまり、彼は、小説を鑑賞する能力が、結果として身についたのである。
気に入った小説を横に置いておくと、自分も、こういう作品を書きたい、という創作のファイトになった。だから彼は、書く時、既読か読みかけの小説を横において置くのである。

だが、彼は、いざ小説を書こうとすると、結局は、自分の頭の中にある空想を駆使して搾り出すしかなかった。そして、一つの小説を書く事は、一つのパターンの発見だった。彼は、発見した一つのパターンを元に、別の新しい小説を書いた。そうやっているうちに、いくつかのパターンを持つようになった。

   ☆   ☆   ☆

平成21年の冬になった。
冬は彼にとって地獄の季節だった。冷え性で便秘症の彼にとって、一冬、乗り越せるかどうかは、動物の越冬にも近かった。蒸し暑い夏が過ぎ、爽やかな秋も過ぎ、日の暮れるのが早くなって、寒い日になってくると、だんだん元気がなくなって、胃腸の具合も悪くなってくるのだった。そうなると創作も出来なくなってくる。精神が活き活きとしている時には、筆がどんどん走るのだが、元気がなくなってくると、書けなくなってくるのだった。
だが、書けない時でも、書きたい気持ちは、逆に一層、強まった。むしろ書けない時の方が、書きたい創作意欲が激しくなった。
彼の家から少し離れた所に市民体育館があった。
「肉体的条件が悪いから創作できないのだ。ならば体を鍛えて肉体的条件を良くすればいい」
そう思って、彼は市民体育館のトレーニング室で、マシントレーニングをする事にした。以前から、彼は体を鍛える必要を感じてはいたが、億劫がって、やらなかったのである。だが、とうとう彼は決断した。トレーニング室は、一回、300円で、何時間でも出来る。だが、彼は、運動は、いくつか出来たが、技の訓練だけに価値があって、基礎体力を侮っていたためしなかった。彼は、今、はじめて、基礎体力を鍛える重要性に気がついたのである。それで彼は、基礎体力のトレーニングをするようになった。しかし今まで、基礎体力のトレーニングをしてこなかったため、彼の体力はサラリーマンとほとんど変わりなかった。バーベルもよう、持ち上げられないし、続かない。何より、単調きわまりない。彼には、こういう単調なトレーニングが苦手だった。というか性に合っていなかった。体育館の近くには、通年やっている温水プールもあった。そこで、温水プールで泳いでもみた。しかし、水泳もマイペースで、出来てしまう、休みたくなったら休めるので、あまり、運動したという実感は得られなかった。
そもそもマシントレーニングにしても水泳にしても汗を流さない。こういう一人でマイペースで出来る運動では、休みたい時に休めてしまう。それでは、大した運動にならない。それに単調で面白くない。もっと、汗をかくような激しい運動で、やって面白いものをやろう。そう思って彼は、テニススクールに入ることにした。テニスは、かなり以前にも、やったことがあり、ラリーがつづくほどにまでなっていたのだが。普通の人なら何でもないだろうが、持久力の無い彼には、90分の1レッスンでヘトヘトに疲れてしまい、これは、ちょっと無理だと諦めていたのである。しかも彼は、何かの集団に入るという事が、嫌いだった。それで、ネットで探してみると、スクールに入らなくても、一回、三千円で、好きな時に受けられるスポットレッスンというのをやっている所があったので、そこで、レッスンを受けることにした。そこは屋外コートだった。ので、雨が降ると出来ない。長くテニスをしていなかったが、数回、練習するうちにカンをとり戻した。今度は、技術よりも、体力強化が目的たった。90分という時間は、ちょうど良かった。終わる時には、全身、汗びっしょり、だった。プレーが終わった後に飲むスポーツドリンクは最高だった。プレーが終わって、図書館にもどってくると、心身ともに絶好調だった。ただ運動していなかったため不快な足の筋肉痛が、数日、続いた。心身は好調になるが、足の筋肉痛がつらい。だが、しかし、テニスは、彼の怠けていた心肺機能をも鍛えた。そもそも、一人きりでやる運動と違って面白い。こうして彼は、テニスを、始めるようになった。そこは車で20分の所だった。また、テニス自体が、面白くなっていった。一回のレッスンには必ず、何かの発見があった。そんなことで、彼はテニスを始めるようになった。ゴルフ場が隣接している清閑な所である。通う道には、果樹園があったり、田んぼがあったりして、図書館にばかりいる彼は、この行き帰りの風景に季節の安らぎを感じた。運転していて後ろ姿の女子高生を見ると、つい目が行ってしまうのだった。テニススクールに通うようになって、日が経つにつれ、だんだん足腰が強くなっていった。心臓も強くなり、体が丈夫になっていった。地獄の冬も難なく乗り越えられた。それまで彼にとって、冬は地獄の季節だった。アパートが断熱材が使ってなく、寒く、エアコンの暖房を入れても寒い。風邪をひくと、便秘症のため、こじらす事が多く、二週間以上も寝たままの日々が続くこともあった。腸が動かないため、食べられないし、吐き気さえ起こる。そういう時は心身まいって、熱がひくのを、一日中、布団の中で寝て待つしかなかった。
だが、その冬の12月になると、夏のような活気が起こらず、図書館で机に向かっていても、創作の筆は進まなくなった。腹痛も出てきた。
ある日ふと、彼は、ハワイに行ってみようと思い立った。それまで彼は一度も海外に行った事がなかった。遊びのため、海外に行きたいとも思わなかったからである。しかし一日、机に向かっていても一向に筆が進まない。これでは生きている時間が勿体ない。確かに図書館は暖房が効いているが、体が芯から暖かくはならない。なら、湿度が高くなく、気温が高い、この世の理想の常夏のハワイへ行ってみよう。そうすれば書けるかもしれない。一度くらいは外国にも行ってみよう。行ったら何か、小説のヒントが思いつくかもしれない。彼は思い立ったらすぐ衝動的に行動する性格があるので、彼は図書館を出て、駅の近くの旅行代理店に向かった。
旅行代理店の前には、パック旅行のチラシがたくさん並んであった。安い。ハワイ一週間、7万とある。

彼は、パック旅行に一度も行った事がないので、飛行機代と一週間のホテル宿泊費込みで、7万でハワイに行ける事が信じられないほどだった。彼は、店に入った。そして椅子に座った。受け付けの女性は広末涼子のような、きれいな人だった。
「あの。ハワイ行きたいんですけど・・・」
彼は彼女に言った。
「ご出発の日にちは、いつですか?」
広末涼子のような、きれいな女の受け付けの人が聞いた。
「今週中は、出来ますか?」
彼は思い立つと、すぐ行動する性格があるので、そう言った。
「パスポートは、持っていますか?」
広末涼子が聞いた。
「持っていません」
「パスポート取るのに10日、位かかります」
彼はパスポートについて全然、知らなかった。勿論、海外に行くには、パスポートが必要である、という事は知っていた。しかし、パスポートは、直ぐ取れるものだと思っていた。今は、十二月の中旬だから、となると、早くても年末ということになる。
「じゃあ、早くても年末になりますね」
彼は言った。
「ええ。でも年末、年始は、混みますから料金が高くなります」
そう言って彼女は、出発日と料金の書かれた表を出した。確かに、年末、年始の出発だと、同じ7日でも、20万以上と倍以上、値段が高くなる。それでは、とても行く気にはなれない。
「高いですね」
「ええ。出発日を、少しずらす事は出来ますか?」
「ええ。出来ます」
「では、6日の出発ですと、一週間7万というのが、一番早くて、あります」
「では、それでお願い致します」
こうして決まった。
「いくらでもいいですので、いくらか、前金を頂けないでしょうか?」
彼女は前金を求めた。
「どの位ですか?」
「3万円位、いただけないでしょうか?」
財布には5万あったので、彼は3万、渡した。
「病気になったり、万一の時の保険がありますが、それには入りますか?」
そう言って彼女は、その保険も見せたが、彼はそれには入らないことにした。保険料は一万近くかかり、そうやって、次々とオプションをつけていくと高くなってしまう。彼は7万できっちり、おさめたかった。
「あらかじめ円をドルに替えておいた方がいいと思いますが、空港でも出来ますが、どうしますか?」
「じゃあ、お願いします」
彼は心配性なので、万一、空港で、両替が出来ない事を心配して、あらかじめドルに替えておくことにした。
「いくら替えますか?」
「いくらくらいがいいでしょうか?」
彼は逆に聞き返した。
「そうですね。ディナーショーや、食事や、レジャーなどで、10万円くらい持って行った方がいいでしょう」
「じゃあ、10万、ドルに替えて下さい」
彼はレジャーを楽しむ気もないし、食事も、高級レストランではなく、安物で済ますつもりだったが、心配性のため、万一のため、10万、ドルに替えておくことにした。両替は別に金がかかるわけではない。ホテルは、オアフイーストホテルというワイキキビーチに近い所だった。彼女は、ホテルの地図や旅券、案内などを彼に渡した。
こうしてハワイに行く事が決まった。
彼は、急いで書店に入り、ハワイの旅行ガイドブックをニ、三冊買った。旅行用の英会話のガイドブックもあったが、パラパラッとめくってみたが、中学生程度の英会話で、ほとんど全部、知ってるので無駄なので買わなかった。彼は自転車で図書館に戻り、図書館でもハワイに関する本を持ってきた。どうせ行くなら、ハワイに関することは、あらかじめ調べ尽くしておきたかったからである。寒くて、腹も痛くて創作もはかどらない。彼はワイキキの町の道路とホテルを覚えた。色々なレジャーもあったが、それには興味がなかった。
翌日、彼はパスポートを取るために、戸籍謄本が必要なので、車で鎌倉の市役所に行った。本厚木のサティーに、パスポートを申請する所があるので、戸籍謄本を受け取ると、そのまま本厚木に向かった。パスポートは一週間くらいで出来るとのことだった。申し込みが終わると彼は家に戻った。ネットも使って、ハワイに関する情報を調べた。沖縄に以前、行った時も、行く前に沖縄を徹底的に調べてから行った。しかし、今度は外国である。言語がどうなっているのか、とか、チップはどうなってるのか、とかネット喫茶はあるのか、とかは、わからなかった。一番気になったのは、パソコンの電源である。電圧はそれぞれの国によって違い、ハワイは110ボルト、60Hzである。コンセントの差込口の二つの穴の長さが違う。ネットで検索すると、海外でパソコンを使うには、それぞれの国に合わせた変圧器が必要とあった。パソコンが使えなくては、ハワイに行く意味がない。遊ぶために行くのではなく、寒くて小説が書けないから、暖かいハワイならきっと書けるだろうと思って、そのために行くのである。彼は急いでパソコンショップに行った。海外対応変圧器というのが売ってあった。2千円少しである。コンセントの二つの差込口の長さが違うので、
「これでハワイでパソコン使えますか」
と店の人に聞いたが、使えると言ったので、信じることにした。
一週間して、パスポートが出来たので、本厚木に取りに行った。旅行代理店でも、10万円分のドルができていたので、受けとった。1ドル=約100円だから、1万ドルである。アメリカの札を見るのは、はじめてだった。これでもう準備が整った。
寒くて小説を書けないので、小説を読んだりハワイに関する本を読んだ。
そして働いたり、テニススクールに行って、テニスをしたりした。
数日して、咽喉に抵抗を感じるようになった。それが、だんだん悪化して、熱を出してしまった。急いで、かかりつけの医院に行った。インフルエンザだった。彼は秋にインフルエンザの予防接種を受けていたが、かかってしまったのである。風邪薬と解熱剤を出してもらい点滴を受けた。そして、家に帰って、布団に入って寝た。頭痛がして、だるく、咽喉が痛い。彼は頻繁にうがいをして、咽喉についているインフルエンザウイルスを早く追い出そうとした。だがなかなか、咽喉の痛みがとれない。そのため、何日も寝たままの生活がつづいた。一週間くらいして、ようやく熱が下がりだした。ちょうど、年末になっていた。大晦日の夜には、藤沢の白旗神社に行った。初詣に来ている人が何人もいた。除夜の鐘が聞こえ出した。神社では、甘酒と、味噌おでんを、ただで配っていた。これが美味く彼は三本、食べた。焚き火をしていて、木材がパチパチと音をたてながら激しく燃え盛り、真っ黒な空に金砂子を噴き上げていた。彼は、神社の階段を登り、
「今年も小説がたくさん書けますように」
と祈願した。そして車で家に戻って、また布団の中に入った。まだ、咽喉に軽い違和感があったため、熱がぶりかえさないように慎重を期したのである。熱を出したまま、ハワイへ行くのでは、何も出来ないから、ハワイへ行く意味がない。そのため正月は寝正月になった。

ハワイへの出発日の1月6日(水)になった。
夜、9時の出発だった。家から成田空港までは電車で2時間かかる。出発の1時間前には空港に着いているようにと、あったので、6時に出ればいい。だが彼はゆとりをもって、3時に家を出た。空港に着いたのは5時少し過ぎだった。彼は出発ロビーの前の椅子に座って、電光掲示板を眺めた。世界各国への飛行機が次々に出発していくのが、表示されている。長い時間、待った後、ようやく出発時間に近づいた。搭乗口が開くと彼は直ぐに入った。手荷物検査では、ハサミとペットボトルをとられた。また、しばし待って、ようやく飛行機へ乗る時間になった。ゲートから飛行機に乗るバスに乗り、飛行機に乗った。彼の席は右側の窓側だった。いよいよ飛行機が動き出した。飛行機は、滑走路の上をゆっくり動きながら、いよいよ離陸のため、加速度をつけて全速力で走り出した。彼は、飛行機が離陸する時の主翼がバサバサ揺れ、フワッと大空に舞い上がる感覚が好きだった。今回は、夜のせいもあって、離陸する瞬間はわからなかった。気づいたら離陸していた。真っ暗な空の中から、夜の町の電灯によって、下の町がまるでミニチュアの町のように見える。やがて飛行機は千葉県の九十九里浜を越えて、太平洋の上の雲の中へと入っていった。これから7時間の空の旅である。スチュワーデスは、日本語が話せない。しばしして、スチュワーデスが、ワゴンを押しながら、やってきた。
「ビーフ オー チキン?」
意味がわからなかった。隣の人が、
「機内食で、ビーフかチキンか、どっちがいいかって聞いているんですよ」
と教えてくれた。彼はチキンにした。便秘で腹が張って、食事はあまり食べないようにしようと思っていたのだが、機内食なるものは、はじめてなので食べることにした。蓋を開けると、いかにも美味そうだった。それで全部、食べた。彼は睡眠薬を飲まねば眠れないので、眠れないことは覚悟していた。やる事がないので、持ってきた、読みかけの文庫本を取り出して読んだ。体調が悪いので、なかなか読み進めない。彼は、文庫本を読んでは、真っ黒の窓の外の夜空を見た。彼は泳力に自信があったので、ハワイくらい泳いで行けるなどと思った。しかし、それは、飛行機の上から見下ろした穏やかに見える海だからであって、現実の太平洋の荒波を泳ぎ渡る事など不可能である。ただ太平洋のど真ん中で、泳いだら、どんなに気持ちが良くて痛快かと思った。機内の前方に、パネルがあって、今、日本とハワイの間のどの辺りを飛んでいるか、が表示されていた。考えてみれば、彼は国内線には何度か、乗った事があるが、1、2時間で着くが、今回は7時間である。トイレに行くため席を立ったら、かなりの客が寝ていた。文庫本を2、3冊持っていったが、もし持っていかなかったら、この単調さには、耐えられなかっただろう。本を読んでいても、退屈になってくる。長い夜中の真っ暗な空の中のフライトがつづいた。日本時間と現地時間とでは時差がある。彼は腕時計を取り出して、時間をハワイの現地時間に合わせた。ハワイには朝の8時に到着の予定である。彼は写真家がシャッターチャンスを待つように、真っ暗な夜が明けて、太陽が水平線の上に表れる瞬間を待った。6時頃である。周りが明るくなり出した。水平線の彼方に、小さなオレンジ色の発光体が見え、それは徐々に大きくなっていった。夜明けだった。感無量だった。飛行機は雲の上を飛んでいるので、太平洋の海は見えなかった。一面の雲は、まるで柔らかいベッドのようで、この上になら乗っても落ちないような気がした。ハワイに近くなってきたこの海はさぞやきれいだろうと思われた。スチュワーデスが、朝食を運んできた。わりと軽いものだった。飛行機は高度を下げていき、雲の中に入っていった。乗っかることが出来ると思っていた分厚い雲のベッドは、その中に入ってみると、やはり薄い水滴の集まりだった。飛行機はその薄い水滴を切って飛行した。高度が下がるにしたがって、青い海原が見え出した。感無量だった。島が見えた。おそらくニイハウ島かカウアイ島だろう。機内アナウンサーがあり、やがて飛行機はホノルル空港に着いた。曇り空である。着陸の音がして、飛行機が止まった時、はじめて外国に来たという実感が沸いた。税関を通り、旅行会社で指示された場所に行った。空を見上げると曇り空で少し残念だった。だが、温かい。まさに真夏である。旅行会社のバスに乗って、アロハタワーへ向かった。時間が惜しく、直ぐにホテルに行って荷物を預け、ワイキキビーチに行ってみたかった。ワイキキビーチの海水浴場を早く見たい衝動が強かった。だが、パック旅行の特典として、バス旅行、か、クルーザー乗船か、ダイヤモンドヘッドの早朝散策か、ワイキキ市内旅行の一つをただで出来ることになっていた。10時から、アロハタワーから、バスが出るという。なので、2時間待って、バス旅行をすることにした。行き先は、モルアナガーデンと、ドールプランテーションと、ハレイワである。つまりオワフ島を北西に向かうバス旅行である。モルアナガーデンは、傘のような変わった形の木がある公園で、合歓の木であるが、その木は日本のコマーシャルにも使ったことがあり、有名な木だった。ドールプランテーションは、パイナップルの観光所であり、ハレイワは、ハワイの北西の町で、サーフィンの町だった。これで、だいたいオワフ島の主要部は見れる。モルアナガーデンの、合歓の木は、確かに変わった形の木である。だが、たいして面白いとも思わなかった。次のドールプランテーションも。次のハレイワは、波が高くなることもあって、サーファー達がやってくる町だった。町といっても、道の両側に店が並んでいるだけである。男のバスガイトの説明によると、日系人で、かき氷の店を出したところ、これが売れて、今でも、その息子が店をやっている、とのことだった。また、ハレイワの町はサーファーが来るついでに出来た町である。サーフィンの場所は、ハレイワの町とは、少し離れている。サーファーのために、サーフ場へ直通する道をつくろうと役所が計画したところ、ハレイワの町は大反対した。直通道路が出来てしまうと、サーファーはサーフ場に車で直通して、ハレイワの町に寄らなくなる可能性を心配したのである。しかし、実際、直通道路が出来てもサーファーは、ハレイワの町に寄るので、心配は取り越し苦労におわった、とのことである。再びバスに乗って、ホノルルに向かった。ホノルルに着いたらホテルに荷物を預けてから、日が暮れる前に急いで今日中にワイキキビーチへ行こうと気持ちが焦った。ホノルルに着いたのは5時だった。地図を見ながら、オアフイーストホテルに向かった。まだ外は明るい。激安パック旅行のホテルだから、たいしたホテルではないだろうと思っていたが、結構いいホテルだった。部屋は7階だった。

彼は部屋に荷物を置くと、急いで、トランクス一枚で、半袖のジャケットを羽織り、サンダルでホテルを出た。ワイキキビーチを見たい気持ちが焦って、小走りに走った。地図通り、ワイキキビーチに面した高層のハイアットリージェンシーホテルの傍らを過ぎると、海沿いのカラカウア通りがあった。それを渡るともうワイキキビーチだった。5時半。まだ明るい。海水浴客はまだまだいる。はじめて見るワイキキビーチは感無量だった。ビキニの女もたくさんいる。しかし、彼は欧米人の女のビキニ姿には何も感じなかった。そもそも彼は欧米人に異性としての魅力を感じていなかった。顔にしても、日本人のような丸顔ではなく、細く狭まって、やたら鼻だけ高い。体が大きいため、尻の肉や太腿に過剰の肉がつきすぎている。乳房も、過ぎたるは及ばざるが如し、で、垂れるほど大きくなると美しくない。何でも大きければいいというものではない。戦闘機にしても、大きな物だと太って余分なものまでついてくるが、コンパクトに纏まったゼロ戦の方が美しい。それに彼女らは恥の概念がない。彼女らにとっては、見せることが、アピールすることが、価値観なのだろうが、恥じらいの気持ちが全くなくなった人には趣、もののあわれ、が無い。勿論、ハワイは観光地であり、開放的になるため、各国からやってくるのだが、それにしても、日本の女は、まだ恥じらいを持っている。このことは民族の精神構造と深く関わっている。アメリカは、男も女も互いに求め合うが、日本人は男も女も、心に秘めていても、なかなか言い出せない。夏目漱石の、「それから」にしても、向田邦子の、「あ・うん」にしても、そうである。葉隠れの恋愛観はにはこう書かれている。
「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候。会いてからは恋の丈が低し。一生、忍んで思い死することこそ恋の本意なれ」
と説いている。なので、ワイキキビーチの女には幻滅した。ビーチも、海の色は青くてきれいだが、遠浅でかなり沖に出ても背が立つ。これでは泳ぐ面白さもない。彼はビーチ沿いの砂浜を東の端から西のシェラトンワイキキホテルの辺りまで歩いた。東には、ダイヤモンドヘッドが見える。ハワイ旅行のパンフレットの典型的な写真は、この位置あたりから撮ったものである。彼はホテルにもどった。急いでパソコンを取り出した。コンセントの差込口は片方が少し長く、これでパソコンが使えるだろうかと心配していたのだが、変圧器をつなげば、問題なくパソコンは使えた。ほっとした。彼がハワイへ行った目的は、寒い日本では小説が書けなくて、温かい所なら、書けるだろうと思って、それが一番の目的だった。これで一週間、時間を無駄にしないですむ。彼はさっそく小説のつづきを書いた。やはり、寒い日本と違って、筆がどんどん進んだ。腹の痛みも消えた。日本の夏は、やたら蒸し暑く、湿度が高いが、ハワイはカラッと暖かくて、住むには最高の場所である。もしハワイに住む事が出来たなら、彼はハワイに移住したいと思った。だが、仕事がない。それが彼がハワイに移住できない唯一の関所だった。町には結構、乞食もいた。温かくて、乞食にとっても住むには理想の場所だろう。彼はあることが気になって、筆を置いて、部屋を出た。それは、このホテルにプールがあるということである。もう夜の8時だったが、急いでフロントに下りてプールの場所へ行った。プールは、小さいが四角い、十分泳げるプールだった。水深も深い。幼い毛唐の男の子と女の子が、はしゃいでいた。ワイキキビーチ沿いの高級ホテルのプールは、レジャープールばかりで、芋洗いで、混んでいて、とても泳げるものではない。彼はさっそくプールに入って、泳いだ。プールは夜9時までだった。プールから上がると、彼はトランクスに半袖で、近くのコンビニに行った。金は極力、かけないつもりだった。ので食料は全てこのコンビニで買うことにした。食べ物を見てると、どれも美味そうに見えてくる。少し大きめのサンドイッチと、ジュースとパックに入った西瓜を買った。日本のサンドイッチは、パンの耳は切るが、ハワイのコンビニのサンドイッチは、パンの耳までついていた。ホテルに帰って食べた。サンドイッチが美味い。食べたら直ぐに、小説のつづきを書き出した。12時にベッドに横になって、睡眠薬を飲んだ。だが、今までの寒い日本の冬から、一気に真夏になってしまったため、体内時計がおかしくなったのか、2時に目が覚めた。横になっていても眠れる気配が感じられない。それで、また机に向かって小説を書いた。寒い日本と違って、スラスラと筆が進んだ。やはりハワイに来てよかったと、つくづく感じた。眠気が起こらないので、時間の経つのも忘れて書いた。窓の外がうっすらと明るくなり出した。夜明けだった。時計を見ると6時である。

7日(木)の2日目ハワイの朝である。
少し眠気が出てきたのでベッドに横になった。うとうとと眠気が起こり出した。ちょっと眠って目が覚めると10時30分だった。彼は、急いでホテルのプールに行った。小説を書きにハワイへ来たとはいえ、せっかくリゾート地に来たのだから、少しは楽しもうとの思いもあった。ホテルは高級ではないわりには、プールはいい。彼は泳ぐのが好きで、ここのホテルのプールが気に入ってしまった。一日、一時間は泳ごうと思った。プールでは、昨日の毛唐の子供が二人、はしゃいでいた。足も底につかないのに、溺れずに何とか足をバタバタさせて水に浮いている。彼はプールを休みなく何度も往復して泳いだ。温水プールで泳ぐのは、つまらないが、常夏のハワイのホテルのプールでは泳ぎがいがある。プールサイドには、日光浴をしている欧米人もいる。時計がないので、時間がわからない。気持ちがいいので、つい長く泳いでしまう。そろそろ一時間くらい経っただろうと思ってプールから上がった。ちょうど一時間だった。部屋にもどってシャワーを浴びて、ワイキキビーチに行った。ホテルからビーチまでは、5分と近かった。彼は一日、一度はワイキキビーチを見ることにした。しかし欧米人のビキニ姿には、魅力を感じなかった。しかし、一時間はワイキキビーチを見た。ハワイでは、雨も降るが、スコールといってパラパラの雨ですぐ止んでしまうので、傘も、ほとんど必要ないくらいだった。ビーチに人がいる間は、ビーチに居たかったが、体調がよく、小説が書けるので、一時間くらいでホテルに戻った。帰りがけに、コンビニに寄って、昨日、食べて、美味かった、耳つきの大きなサンドイッチとジュースを買った。そして机に向かって小説のつづきを書いた。夜の12時過ぎまで書いた。少し眠気が出てきたので1時に睡眠薬を飲んで、ベッドに横になった。だが、3時に起きてしまった。眠れそうもないので、机に向かって小説のつづきを書いた。しばらくすると、外が薄っすらと明るくなり出した。時計を見ると6時45分。4時間近く、書きつづけたことになる。

1月8日(金)。三日目のハワイである。
窓から、外を見ると、最寄りのABCストアー(コンビニ)が開いている。ハワイのコンビニは、日本のように24時間やっていない。夜1時に閉まって、朝6時に開く。ハワイにはホテルにも町にも自動販売機というのもがない。少し、疲れてきて、ベッドに横になった。いつしか、うとうととなって眠っていた。起きたのは、9時40分で、2時間40分、眠れた。プールに行って一時間、泳いだ。ハワイに来たのは、小説を書くためだったが、泳いで体力をつけ、体を焼いて体を丈夫にする目的もあった。そして、泳ぎ終わってからワイキキビーチに行った。大きなヨットがいつも、止まっている。ビーチの入り口には、サーフボードを貸す人が立っている。レンタル料はいくらなのか、希望者には教えて指導料も取るのだろう。彼には、そういう、ありきたりなレジャーは全く興味なかった。ハワイのガイドブックにも色々なレジャーが載っていた。スカイダイビング、セスナ機の操縦。などである。しかし、スカイダイビングは、安全のため、指導者に抱かれてダイブするのであり、セスナ機の操縦も、当然、パイロットが同乗して、パイロットの指導のもと、操縦させてくれるだけのものだった。彼は、そういう安全な誰にでも出来る事には興味がなかった。スリルがない。金もかなりかかるとなれば、なおさらである。彼は極力、金をかけない方針だったので、レジャーは何もしなかった。ただビーチは、タダだし、ビキニ姿の女を見れるので、海とビキニ姿の女が見れるワイキキビーチには、一日、一度は行った。帰りに、ワイキキビーチの前のマクドナルドに寄った。ストロベリーシェイクを注文した。日本のSサイズが、Mサイズ以上ほどもある。シェイクだけで腹一杯になってしまうほどである。周りの欧米人は、すさまじく太っている人が多い。体重100kgは、越しているだろう。彼がハワイへ来て驚いたのは、欧米人がこんな肥満体の人々ばかりだということだった。男も女も、まるで妊娠しているかのように、でっぷり太っている。余計な脂肪の塊を30kgくらい、腹の前に抱えているようなものである。みっともない。本人も生活に不便だろう。それでもダイエットしようとも見受けられない。ああまで悲惨な体型になってしまっても、何とも思っていないように見受けられる。一体、どういう精神構造なのか。きわめて鈍感、無感覚としか、思えない。日本の女は、痩せたい願望のない女は、いないといっていいほどである。痩せたいあまり、拒食症の患者も多い。ここらへんからも日本人と西洋人の精神の違いがわかる。つまり、日本人は、恥ずかしがり屋であり、劣等感が強く、ナルシストであり、美意識をもっている。が、西洋人は、おおらか過ぎて、恥じの概念が無く、鈍感で、美意識が無い。としか言いようがない。やはり日本人はデリケートな感性なのだ。マクドナルドを出て、ホテルに向かった。コンビニでサンドイッチとジュースを買ってホテルにもどった。机に向かって小説を書く。12時すぎまで書いて、睡眠薬を飲んで1時にベッドに横になった。だが眠れない。いつまでたっても眠れない。予想外に不眠症になってしまった。ハワイに来た日には、絶好調だったのだが、だんだん、こちらの生活に慣れてきて、しかしそれは、にわか順応のため、体調がかえって崩れだしのである。眠れないので、苦しく、何か気を紛らわそうとテレビをつけてみた。が、面白いものは無かった。眠れないので気を紛らわそうと外へ出て、少し夜中のホノルルの町を歩いた。ホテルにもどってベッドに横になると、いつしか、うとうとし出した。眠りが浅いため、嫌な夢を見る。一度、起きるが、また眠る。目が覚めた時には、夜がとっくに明けて日がさんさんと、さしていた。時計を見ると、12時45分だった。

1月9日(土)。4日目のハワイである。
目が覚めてから机に向かってねばったが、寝不足で小説が書けない。そのため、2時にホテルのプールに行った。ビーチサイドに黒いビキニ姿の日本人がいた。嬉しい。彼はプールに入って泳いだ。やはり日本人のビキニ姿が彼にとっては一番、魅力的だった。彼は彼女に得意の力泳を見せたくて、休みなく泳いだ。2時間、泳ぎつづけた。水泳もランニングと同じように、ある時間、泳いで、デッドポイントを越すと、もう疲れなくなる。プールから上がり、部屋にもどって、横になった。疲れのため眠れた。その日はワイキキビーチには行かなかった。ビーチをサンダルで長時間、歩きすぎたため、足の甲の皮が擦りむけて痛かったからである。ワイキキビーチにも魅力を感じてもいなかった。だんだんハワイでの体調が悪くなって、来た日には、ウソのように消えた過敏性腸症候群の腹痛も起こり出した。少し小説を書く。その夜も眠れなかった。12時を過ぎ、3時になっても、眠気が起きてこない。気を紛らわすため、文庫本を持って、ホテルのロビーの椅子に座って、読んでみた。だが、気分が悪く、頭が冴えないため、読み進められない。ワイキキビーチの前の24時間やっているマクドナルドへ行った。3時半で、朝マックのメニューである。ストロベリーシェイクを注文する。彼は、疲れてヘトヘトになった時は、即効性のブドウ糖補給のために、マクドナルドのシェイクを飲むことが多かった。文庫本を読んでみるが、頭が冴えないため、なかなか読み進めない。仕方なく、ホテルに戻って、ベッドに横になった。眠気が起こってくれて、眠る。だが7時に起きる。不眠の時は、眠れても、睡眠時間が2時間ていどで、短く、目覚めた時の不快感はとても鬱陶しい。

1月10日(日)。ハワイ5日目の朝である。
あすの朝、ホノルル空港を出発する。もう今日がハワイ最後の日である。ワイキキビーチを見ておこうと、ビーチに行く。一時間くらいビーチを歩く。そしてホテルにもどる。旅行会社がやっているトロリーバスという市内を走るオープンバスに、滞在中、ただで乗れたのだが、そんなものに乗っても、面白くなさそうで、また時間が勿体なく、彼は一度もトロリーバスに乗らなかった。彼にとって、人生は時間との戦いだった。同じ時間を過ごすのなら、一番、有意義なことをする。彼にとって、一番、有意義なことは小説を書くことだった。それに彼は、単に遊ぶことに虚しさを感じるのだった。遊ぶことの意味がわからなかった。これは子供の頃からで、彼にとって生まれつきのものだった。学生時代も、いかなる遊びも彼を魅さなかった。彼には、麻雀に嵩じている生徒の心理が、どうしても、わからなかった。勉強は新しい事を知れるので面白い。なぜ、こんな面白い事をやらないで、麻雀などという、同じことの繰り返しが面白いのか、彼にはわからなかった。ゲームセンターも競馬も競輪も、いかなるものも彼を魅さなかった。彼には、彼らは、人生を無駄に過ごしている人にしか見えなかった。ホテルにもどると、机に向かって小説のつづきを書いたが、途中で、一番いいストーリーの選択に迷って、それが、どうしても思いつかないので、気晴らしにホテルのプールに行った。ここのホテルのプールには、小さな円形の温かいジェットバスがついていた。毛唐の子供が二人、ジェットバスではしゃいでいた。そして嬉しいことに昨日とは別の日本人のビキニ姿の女の人がジェットバスにいた。彼女は一人でジェットバスにもたれていた。彼はプールに入って、泳いだ。しばしすると、彼女がプールに入ってきた。彼は黒いゴーグルをしていたため、平泳ぎで、水中の彼女の体を見た。水中から彼女のビキニ姿のしなやかな体が見える。セクシーである。目の保養になった。2時間くらい泳いで上がり、部屋にもどった。明日の朝、9時前にホテルを出なければならないので、荷物をまとめた。その後、少し机に向かって小説の続きを書いた。夜、11時30分に寝る。が、1時30分に目が覚める。横になっていても眠れないので、文庫本を持って、ワイキキピーチの前のマクドナルドに行く。3時である。朝マックを食べる。文庫本を読むが、頭が冴えず、なかなか読み進めない。のでホテルにもどる。ホテルのロビーで本を読むが、やはり読み進めない。

1月11日(月)。帰国の日である。
いよいよ、今日、帰国である。不眠のまま、朝を迎える。空港への送迎バスは、ホテルから三分くらいの近い所である。今日でハワイとお別れとなると、さびしくなってワイキキビーチに行った。ちょうど日の開けた6時である。不眠で疲れているので、砂浜に仰向けになって、日光浴をする。一時間くらいしてからホテルにもどる。バスに乗り遅れたら大変である。そのため、彼は昨夜、ホテルの時計のアラームとモーニングコールをセットしておいた。しかし、8時に旅行会社の人から、電話で連絡があり、8時30分には、旅行会社の人が部屋にやってきた。旅行会社の人も遅刻者を一人も出さないよう細心の注意を払っていた。8時40分にホテルをチェックアウトした。そして、8時45分にバス乗り場へ着いた。彼が一番だった。結局、ハワイでは、ホテルで小説ばかり書いていた。それと、一日、一時間のホテルのプールでの水泳と一時間のワイキキビーチ散歩だった。だが、彼は、それが目的だったので、目的を予想以上に達成できて嬉しかった。ハワイへ来てつくづく良かったと感じた。また、次の冬にも来ようかと思った。別にハワイでなくても温かい所ならいいのである。しかし、ハワイはカラッと晴れていて、蒸し暑くなく、過ごすには最高の場所である。沖縄も冬でも暖かいが、風が強く、雲の日が多く、また台風の銀座通りで、気圧の変動も激しく、ハワイほどには快適ではない。パック旅行の帰りの客達が、ゾロゾロとやってきた。9時に旅行会社のバスが来た。全員、そろっている事を旅行会社の人がチェックして、バスはホノルル空港へと発車した。

高速道路を通って10分くらいでホノルル空港へ着いた。飛行機は12時発である。直ぐに税関を通って、出発ゲートの前の椅子に座って飛行機を待った。出発まで2時間半ある。慣れない土地での旅の疲れがどっと出て、一時間ちょっと眠っていた。飛行機の席は窓側だった。ともかく、旅の間、熱が出たりせず無事に済んでほっとした。ましてや、小説を予想通り、かなりの分量、書けて旅行は成功だった。彼は今まで、過敏性腸症候群のため、外国旅行は色々と困難だろうと思っていた。だが今回の旅行で自信がついた。また、寒い冬は、ハワイか、どこかの暖かい国に、旅行に行こうと思った。帰りの飛行機は、さびしくもあり、旅行が無事おわって、ほっとした気分でもあった。7時間の空の旅で成田空港に着いたのは午後7時だった。税関を通った所に両替所があった。彼は財布の中のドル紙幣と硬貨を両替所に差し出した。6日間の旅行で、ほとんど金を使ってないので、7万円くらい、円にもどせた。ただ両替できるのは紙幣だけであり、硬貨は両替できなかった。彼は硬貨を使い慣れていなかったので、全て紙幣で買い物をした。そのため、おつりの硬貨がジャラジャラあった。しかし紙幣は最低が約100円の1ドル紙幣であり、硬貨は、一番、高いのでも約25円のクォーター硬貨であるため、硬貨は、かなりジャラジャラあったが、たいした金額にはならない。アメリカの硬貨は、日本のどこの銀行でも両替することが出来ない。そのため捨てるしかない。しかし、たいした金額ではない。旅行代理店の人も、その事を教えてくれてもよかったのに、と彼は思った。直通バスで帰ろうかとも思ったが、やはり成田エクスプレスで帰った。半袖で行ったので寒い。アパートに入ると一週間、使っていなかったせいか、部屋がものすごく寒い。エアコンの暖房をつけて、風呂を沸かした。風呂に入って、温まると、ほっとした。もう10時だったので、コンビニで夕食を買って、食べて寝た。彼の布団は万年床ではあるが、やはり、自分の布団の方が気が落ち着いた。その晩、彼はぐっすりと眠った。

こうして彼の平成22年は、ハワイ旅行から始まった。
翌日からは、また、朝8時30分に起きて、9時から図書館で、小説の続きを書いた。もうハワイで大部分を書いていたので、つづきを書くのは楽だった。3日くらい書いて完成させた。ワープロで小説を書くようになった、彼の小説の書き方は、こんな風だった。まず、大まかな筋を考えて書き始める。ある程度、書いた時点で、ストーリーに迷ったら、練習として、軽い気持ちで試しに続きを書いてみる。失敗したら、書き直せばいいや、という思いで書く。しかし、軽い気持ちで書いた、練習、が結局は話の続きになってしまうのである。練習、といえども頭を捻って筋を考えて書くので、練習、が結局は続きになってしまうのである。肩の力を抜いてダメ元で、書いてみると、かえって上手くいってしまうのである。そんな事の繰り返しで、書き進めて小説を完成させた。完成させて、はじめて全文を読み直してみる。つまり読者の立場になって読んでみるのである。しっくりしない言葉は直す。ストーリーを途中から、考え直したものでは、話、全体に矛盾がないよう、はじめの方を書き直したり、伏線をつけたりする。書いている時には、きちんとした文を書いているつもりでも、書き終わった後で読み返すと、しっくり合っていない言葉というのも、見つかるのである。もっと形容詞や地の文を入れてボリュームを増やしたい、とも思う。し、もっと話を続けることも出来ると思いながらも、それをやってしまうと、きりがなくなってしまう。彼は一つの作品を長々と書き続けるより、作品の数をもっともっと増やしたいので、残念に思いつつも、区切りのいい所で終わりにする。そしてホームページにアップする。もっと形容詞や地の文を入れてボリュームを増やしたり、続きを書くことは、いつかは出来るという思いもある。ホームページにアップすると、一仕事、終えたような気になり、ほっとする。だが、一度、ホームページに完成した作品としてアップしてしまうと、ボリュームを増やしたり、続きを書こうという意欲がなくなってしまうのである。どうしても書けないのである。やはり書いている途中では気分が乗っていて、続きを書くことも出来るのだが、完成させてホームページにアップしてしまうと、それは、もはや過去の完成した作品となり、気分の乗りも途切れてしまい、興が冷めてしまい、どうしても書けなくなってしまうのである。
ともかく彼は、12月から、書きあぐねていた小説を完成させホームページにアップした。1月21日である。さらに続けて、彼は新しい小説にとりかかった。一月も小寒を過ぎ、大寒も過ぎ、これから温かくなっていくと思うと、精神的に落ち着いた。書き始めた新しい小説も、順調に筆が進んでいった。
彼がいつも通っている図書館の隣には中学校があった。いつも威勢のいい掛け声を出して野球の練習をしている。ユニフォームもきちんと揃っている上に、ピッチングマシンまである。それは野球だけではなく、軟式テニスでも、陸上競技のマットもである。金があるのだろう。というより、これが普通の中学校なのである。彼の中学は、私立で、入学者は一クラスで約40人しかなかった。しかも、豊富な部活も無く、部活は、サッカー部、バスケットボール部、テニス部の三つだけだった。創立者は我の強い性格で、野球は、チームワークのスポーツではないため、皆で協力することが大切である、という学校の教育方針に反しているという理由でつくらなかった。確かにサッカーやバスケットボールは、絶えず、皆が動いていて、プレー中は、いつでも全員、協力している、とはいえる。その点、野球は、ピッチャーとバッターの対決のように見える。勿論、ランナーが塁に出ていれば、ピッチャーは、ランナーの盗塁にそなえて、プレーは、連続してはいるが。やはり、ランナーがいない時や、いてもそうであるが、野球は、ピッチャーとバッターの勝負という個人プレーと見える。しかし野球も団体競技で、チームワークが大切なスポーツであることは、野球を知っている人なら誰だって知っている。創立者は、そもそも野球やスポーツにどのくらい関心があり、知っていたのかは、わからないが、スポーツに関しては素人で、野球も見た目で、協力し合うスポーツではない、と、おそらく思ったのだろう。入学者が少なく、月謝を上げても、経営が苦しく、部活にも、何でも、十分な予算を出せないのである。そういう彼の母校に比べると、普通の中学校の生徒は、活き活きとして見えた。若さがあり、青春の汗がある。清々しい姿に見えた。だが中学生の実態を知っているわけではないので、実際の彼らがどうなのかは知らない。教室に入り、また家に帰っても、全科目の詰め込み勉強である。大人は学生をスネカジリなどと言うが、彼は、全くそうは思っておらず、むしろ、毎日、勉強している彼らを尊敬さえしていた。社会人になって自立すれば、人間として一人前と大人は思っているのだろうが、ほとんどの仕事は、慣れてしまえば、あとは惰性であり、毎日、同じことの繰り返しであり、仕事が終われば、ズルズルしていられる社会人の方が、生活費を働き出しているだけで、だらけているようにしか見えなかった。なので彼は、一意専心、勉強に、運動に、励んでいる中学生を見ると、自分も、気を入れて真剣に生きなくてはならないと、創作のファイトが起こるのだった。

1月が過ぎ、2月になった。テニススクールは、今までやってた所はやめて、アパートに一番近い所にすることにした。理由は。今まで通っていた所は、スクールに入会しなくても1レッスン=3000円で、好きな時に受けれたからである。
拘束されることの嫌いな彼には、その点が良かったのである。
だが、レッスンはボレーの練習ばかりで、ストロークが少なく、彼はそれを不満に思っていたのである。テニスの気持ちよさはグランドストロークの打ち合いである。しかも屋外コートなので、雨が降れば出来なくなり、風が強いと、ボールが風に流されてしまう。そんな事も不満だった。しかし、新しいスクールは、屋内であり、どしゃ降りの雨が降っていても出来る。強風があっても、その影響を受けない。しかも、グランドストロークの打ち合いが多い。御意見箱というのが置いてあって、おそらくグランドストロークの打ち合いを、もっと増やして欲しいと、多くの生徒が書いて入れたのだろう。車で5分と近い。それで彼は、図書館で小説を書き続けて、ストーリーに難渋すると気分転換に80分のレッスンを受けて、また図書館にもどって、続きを書くようになった。彼が運動するのは、楽しみのためもあるが、それ以上に、足腰を鍛え、冷え性、便秘症を改善し、持久力をつける健康維持の目的の方が強かった。ランニングが出来ればよかったのだが、彼は腸が引き攣っていて、走っていると、脇腹が痛くなってくる。市民体育館のマシントレーニングは、ハードな上、単調でつまらない。短時間で手軽に出来て、体を鍛えられるとなるとテニスくらいしかなかった。そして実際、テニスで汗を流すと、足腰が強くなり、持久力もついて、足が軽くなり、歩いたり、階段を登ったりするのが、億劫でなくなるのである。駅でも、エスカレーターでなく、階段を登っても息切れしなくなるのである。こんなことなら、もっと早くから運動の習慣をつけとけば、良かったと彼は思った。今まで彼は、運動する時間も創作のために惜しんでいたのだが、心身ともに健康でなければ、創作もはかどらない。
2月の中旬になり、確定申告がはじまったので、源泉徴収票を持って税務署に行った。彼は、時間が惜しいため、あまり働かないので、年収は少ない。金より時間が大切だからである。そのため、税金が30万くらい、もどってきた。
2月に車の車検がきれるので、ディーラーに行って、車検にかかる費用を見積もってもらった。
彼は、6年前に、この車を激安中古車店で、30万円で買った。車体に大きな傷があるが、彼には、そんな事はどうでもいい事だった。大きな傷があるため、それで安くなっていて、性能には問題がなかった。それで、最低の金額で、車検を通し、今まで6年間、乗ってきたのである。車検は、12万円くらいだった。表示価格12万の激安中古車に買い換える事は面倒くさくてしなかった。表示価格12万といっても、諸経費が10万円くらいかかり、22万円になる。表示価格12万の激安車は、買った時は問題なく走れるが、何か車に欠陥がある可能性があり、乗ってしばらくすると、部品を交換しなくてはならなくなって、結局、高くなってしまう事があるからだ。彼はそれを怖れた。車検は今回も12万くらいだった。

2月が過ぎて3月になった。
温かくなっていくのはいいが、この時期になると、杉花粉が飛び始める。アレルギー体質の彼には、毎年、それが悩みの種だった。彼の花粉症は、すさまじく、くしゃみ、鼻水、鼻づまり、が一時も止まらず、小説を書くどころか、何も出来なくなくなる。だが幸い、今年は、気象庁の天気予報で、杉花粉が少ないと予想され、また、実際、花粉の飛散量が少なかった。そのため、花粉症に悩まされることが無くすんだ。もっとも、アレルギー疾患は、色々な要素が関係していて、体が丈夫だと、アレルゲンに晒されても症状が出ないこともあるのである。運動するようになって、体が丈夫になったため、鼻炎の症状が出なくなった可能性もある。

彼の通っている図書館には、パソコン専用の座席が10席あった。コンセントの差込口があり、しかもブースで区切られているので、集中するには良かった。エアコンもだいたい適温で調子がいい。しかし、この10席はすぐにうまってしまうので、彼は朝8時30分に起きて、図書館が開く9時前に、図書館の前で待っていた。他に、パソコンが使える図書館は、車で30分くらいの所にあったが、パソコンが使えるのは2席で、しかもブースの区切りも無い。さらに空調も悪く、蒸し暑い。以前、パソコンではなく、鉛筆で小説を書いていた時は、この図書館も利用することもあったのだが、パソコンで小説を書くようになると、この図書館には行かなくなった。遅く起きて、パソコンを使える10席がうまってしまうと、小説が書けない。それで、パソコンを使える、図書館を以前から、探していたのだが、なかなか、いい図書館はなかった。車を止める駐車代も、勿体ない。月に2日、図書館には休館日があった。
ある日、彼が図書館に行くと、その日は休館日で、閉まっていた。

彼は隣の市の中央市民図書館に行ってみた。車で30分くらいだった。そこの図書館は、パソコンを使える席がたくさんあった。しかし空調は悪い。しかし夜、8時までやっている。しかも、田舎のため、駐車代も一日600円と安い。さらには、図書館の隣にレンタルビデオ店があって、その駐車場がある。田舎のため、駐車しても文句は言われなさそうである。彼は、いい図書館を見つけたことに喜んだ。彼は、家の近くの図書館で、パソコン席がうまってしまった時には、その図書館に行くようになった。

小説は順調に進んだ。彼は、小説を書く時、二作、同時に書くこともあった。一作を書いていて、ストーリーに行きづまったら、もう一作の方を書くのである。ストーリーに行き詰まった時、ウンウン頭を捻っていると、疲れてしまう。そういう時は、ある時間、休んでみて、そして、あらためて創作を再開すると、いいストーリーが、いとも簡単に思いつく事が多いのである。だから、小説をたくさん書こうと思うなら、二作、同時に書いた方が、精神的に疲れないのである。しかし、一作、書いていて気分が乗ってくると、どうしても、その作品だけに集中してしまうこともある。しかし一作だけしか書いてない時は、疲れる時もある。今回は彼は一作しか、書いていなかった。なので、ストーリーに迷うと、疲れた。ストーリーに迷った時は、机に向かってワープロをじっと眺めていても、余計、疲れてしまう。そういう時は、頭を切り替えることが必要である。彼は、ストーリーに迷うと、席を離れ、図書館のロビーで、ジュースを飲んで一休みした。そうして書き進めているうちに、どんどん興が乗ってきた。これもエロティックな小説である。彼は最高なエロティックさを表現しようと意気込んだ。書いている内に彼も興奮してきた。書きながら自分の作品に興奮するというのも、おかしな話だが、そういう事はあるのである。人は誰でも、自分にとって最も興奮する性欲の状況というものがある。エッチな話なら何でも興奮するというものではない。書くということは、自分が最も興奮するシチュエーションを作ろうとするのだから、それに興奮するということは、十分、あり得ることなのである。

図書館で書いていて、あまりに興奮が嵩じてくると、精液がたまってきて、息が荒くなり、心臓がドキドキしてきて、居ても立ってもいられなくなる。そうなると、もう小説創作どころではなくなってしまう。そんな時、彼は、アパートにもどって、自慰して、激しく高まった興奮を落ち着かせることもあった。しかしエロティクな小説の創作の原動力は、他ならぬ性欲である。精液を出してしまうと、また精液が溜るまで、待たねばならない。それで、精液を出してしまった日は、書けなくなる。しかし、一日も経って、また書き始めると、だんだん興奮してきて精液が溜ってくる。エロティックな小説を書くということは、性欲を創り出すということでもある。溜った性欲のはけ口としてエロティックな作品を書く、というのが一般に言われることであるが、その逆もあり得るのである。つまり、エロティックな作品を書いているうちに性欲が高まるということもあるのである。

小説は、原稿用紙150枚を越え、そろそろラストにしようと思った。もっと長くしようと思えば、出来たが、書き出してから、もう二ヶ月近くになる。もっと、新しい他の作品を書きたくて、そろそろ終わりにしようと思った。ラストに少し手こずりながら、満足のいくように書き上げた。最高に嬉しかった。全文を読み直し、しっくりしない所を書き直し、完成させた。そして、3月半ばにホームページにアップした。ホームページにアップした時が最高の快感である。これは、長いし、いい出来だと思ったので、どこかの出版社に投稿しようかとも思った。
小説を完成させた時は、最高の快感だった。だが、予想もしない事が起こったのである。彼は気分一新して、新しい小説を書こうと思った。だが書けないのである。その理由は彼もわかっていた。それは。彼は、エロティックな小説は、もう十分、書いて、いささか満足してきたのである。それと。勿論、いくつかの構想もあったが、ストーリーは今まで、書いてきた、パターンと違う斬新なものに、したかったが、それがどうしても思いつかないのである。作家は皆、そう思っているのではないだろうか。それは作家の、脱皮して飛躍したいという気持ちである。彼はエロティックな小説を書くことには、何の劣等感も感じていなかった。むしろ、こういう作品が書けるのは自分だけ、という自慢さえ持っていた。しかしストーリーは、今まで書いてきたのとは違う斬新なものにしたかった。しかし、それがどうしても思いつかないのである。

彼は、原稿用紙100枚、前後の小説を年間10作は書くつもりでいた。そうでないと作品の数が少なくなってしまう。一年で10作なら、5年で50作である。それも、予定通り上手くいけば、のはなしである。これはプロ作家に比べると明らかに少ない。彼はプロ作家には、作品の数では嫉妬していた。プロ作家では、月、5百枚、書く人もいる。月、5百枚となると、月に300ページの長編小説の本、一冊、書けることになる。作家の筆の速さは人によって違うが、一日、80枚、書く人もいる。一週間で、長編一冊、書き上げてしまう人もいる。(最もこれは例外的に速い人の場合だが)それに比べると彼はあまりに遅筆だった。プロ作家は、週刊誌に連載小説を何本ももっている。そして、締め切りには間に合わせなくてはならない。そういうプレッシャーがあるから、脳からノルアドレナリンが大量に分泌され、質を落さずに、作品をたくさん書くことが出来るのであろう。しかも、取材し、込み入ったストーリーを考えなくては、ならない。彼は図書館で、一人の作家のズラーと並んだ文学全集を見ると、嫉妬も感じたが、超人に見えてくるのだった。自分は、一生、創作一筋に打ち込んでも、こんなにたくさん書くことは出来ない。絶対、無理である。彼は、根性、を信念としていたが、やはり、どう考えても物理的に無理である。これは、やはりプロ作家は、締め切りがあって、緊張した精神状態にあるから、書けるのだとしか思えなかった。しかし多作のプロ作家の全集を見ると、創作のファイトが沸く。

彼は二ヶ月かけて、160枚の小説を書き上げた後、さて、新しい作品を書こうと思って、机に向かったのだが、書けないのである。どうしても、今までと違う斬新なストーリーが思いつかないのである。季節は、3月下旬で、暖かくなっていくので、体調も良くなり、書けるだろうと思っていたのだが、書けない。やはり、それは、彼には、実生活というものがなく、頭を捻って空想だけで、ストーリーを考え出してきたからだろう。その限界に達したのである。彼は焦った。作家は、誰でも、自分の好きで得意なジャンルというものがある。そして基本的には、自分の好きで得意なジャンルの作品しか、書けない。自分の気質に合わないものを書く気は起こらないのである。しかしストーリーは、新しいものに変えていく。そうでなければ、書く面白さがないからである。読者にしてもストーリーがマンネリ化していくと、厭きられてもくる。谷崎潤一郎も、デビューした時は、自分の表現したいエロティックな衝動を、設定を変え、ストーリーを変え、筆の向くまま、書きまくっていった。それらはエロティックであっても、立派な純文学作品である。というより谷崎潤一郎が表現したかったのは、谷崎の生まれつきの気質である、女性崇拝のマゾヒズムである。はじめのうちは谷崎も意気揚々と、斬新なストーリーの作品を矢継ぎ早に書きまくって、発表していった。しかし、だんだん、ストーリーに行き詰まりだした。マンネリ化しだして、作品の質も、デビュー当時のものに比べると、はるかに落ちていった。ついに谷崎は、「金色の死」という作品で、ストーリーが行き詰ったことを、告白した小説まで書き出した。彼にも、そのスランプが起こり出したのである。彼は、それまで、実にたくさんの文学作品を読んでいた。それは小説を書くための勉強として、読んだのである。好きな作品、自分にも書けそうな作品、は何回も精読した。それは将来、創作に行き詰った時のために、その作品を手本として、小説を書いてみようというストック、スランプになった時のための準備でもあった。だが読むのと書くのとでは大違いだった。読んでいると、案外、簡単に手本の小説に似たような作品が書けるような気がするのである。しかし、実際に、書こうとすると、書けないのである。彼は何もエロティックな作品だけを書きたいと思っているわけではない。ストーリーのしっかりした面白い作品を書ければ、それで全く不満はないのである。たとえば、女が一人も出てこない野球小説でも、それを書ければ、それで満足なのである。だが彼は、今までエロティックな小説ばかり書いてきたため、どう書いていいかわからない。確かに、書こうと思えば、野球のシーンを書くことは出来るだろう。しかし小説とは、しっかりしたストーリーがある、面白いお話でなくてはならない。彼は、途中で、ストーリーに行き詰って、作品が失敗することを何より恐れた。実際、彼は今まで、途中でストーリーが思いつかなくなって、失敗した作品も少ならからずあった。遅筆の彼にとって、人生は時間との戦いであった。

また作家は、小説のストーリーが思いついても、今まで書いてきた作品より、明らかにレベルが落ちるとわかる作品はどうしても書く気が起きないのである。また何か、今までの作品とは違うものでなくては創作意欲は起こらない。今までとは違う作品を作り続けるという点で、作家は、やはり、「作る人」である。
彼は、図書館で毎日、ウンウン頭を酷使して、新しい小説のストーリーを考えた。だが、どうしても思いつかない。彼は、何か書いていれば、満足なのである。逆に、書けなくなったら死に等しい。彼は、ホームページに発表した小説のうち、どれかの作品で、もっとストーリーをつづけてみようかとも思った。だが、気を入れて、しっかりラストをつけてしまって完成させ、ホームページに発表してしまった作品は、どうしても続きを書くことが出来なかった。創作は、書いている時は、気分が乗っていて、作者は生き生きしているのだが、一旦、その流れが途切れてしまうと、どうしても書けなくなってしまう。彼は、後悔した。こんなことなら、完成を焦らず、もっと書き続けて、もっともっと長編にすれば、よかったと後悔した。だがもう遅い。はじめは、焦燥感が強かったが、書けない日が何日か続くうちに、だんだん精神が疲弊してきた。ちょうど白蟻が一刻一刻と家を蝕んでいくように、無駄に過ごしている一刻一刻の時間が人生を蝕んでいくのが、彼には耐えられなかった。

さらに悪いことが起きた。彼は常勤での病院勤務医をやめてから、ネットの医者の紹介業者を通して、アルバイトで働いていた。今は医者の斡旋業者が無数にある。病院や医院の代診の募集がネットに乗り、それに応募して、仕事するという形である。要するに、派遣労働の医者である。しかし、組織に所属することの嫌いな彼には、その方が気が楽でよかった。しかし、厚生省のある医者いじめの方針によって、あるアルバイトの仕事が出来なくなってしまったのである。彼は、働くのは、嫌いではなかった。毎日、一人きりで机に向かっている彼にとって、労働は人との、社会との、つながりであった。また働くことは精神に気合が入る効果があった。働くのは嫌だが、働くと気持ちが充実する、というのは誰でも感じていることだろう。しかし、仕事が厚生省の医者いじめによって、出来なくなってしまったのである。彼は精神病院の勤務医をした経験しかなかったので、出来る仕事は限られていた。法的には医師免許を持っていれば何科をすることも出来る。しかし、開腹手術をやったことがなければ、外科の当直は、募集があっても出来ない。そして、日本の医学界は封建的であり、ある科の技術や知識を身につけるためには、大学の医局の教授にお願い申して、医局に入って、薄給で徒弟的に先輩医師から、教わるしか方法がないのである。医局の拘束性は強く、自分の時間がほとんど無くなってしまう。これでは小説を書く時間がなくなってしまう。そのため彼は医局に入る気はなかった。こうして仕事もなくなり、収入も無くなってしまった。収入が無い不安も彼を悩ませた。図書館に行って、机に向かっていても、いいアイデアが生まれない。彼は小説が書けない時は、本を読むようにしていた。そのため、時間を無駄にしないようにと本を読んだ。しかし気分が落ち込んでいるので、なかなか読み進められない。単調で、はりの無い生活のため、体調も悪くなっていった。
3月が過ぎ4月になった。だが、心身の不調はさらに悪化していった。不眠になり、睡眠薬を飲んでも寝つけなくなりだした。4月は何も出来なかった。

5月になった。だが、彼は家に閉じこもりの毎日だった。うつ病で、夜中一睡も出来なくなり、昼間は、眠気で頭がボーとして、冴えずアイデアも沸かず、意欲も起こらなくなった。書けなくなった作家は死に等しい。彼はいつか、うつ病が良くなってくれることを期待した。しかし、待てども待てども、一向に良くなる兆しは見えない。本を読む気力も起こらない。もう、彼は、開きなおって、創作は一時中止して、休むことにした。そもそも、うつ病患者に対してすべきアドバイスとは、いったん現実の悩みを意識して忘れてみることなのである。うつ病患者は、真面目な性格のため悩み事を何とか解決しようと絶えず考えており、しかし、解決策はないから、いたずらに頭を酷使して疲労させているのである。いわば、自分で病気の悪循環をつくってしまっているのである。だから、うつ病になった時には、ひとます現実の悩みを忘れてしまう、ということを勧めるのである。なので、彼は自分にもそれをした。
開き直ってしばらくすると、心の重荷がとれて、精神の苦痛がなくなってきた。毎日、昼も夜も、寝巻きのまま、布団に入って寝ながらテレビを見る毎日になった。彼は子供の頃から、絶えず何かに、打ち込んで生きてきて、何もしないで怠けるという生活には苦痛と罪悪感を感じるのだった。ある日、所用があって、関内に行った。帰りに伊勢崎町に寄ってみた。伊勢崎町に行くのは久しぶりだった。横浜中央図書館に行ってみようと、京浜急行の黄金町の方へ向かって歩いた。何と伊勢崎町の商店や貸しビルで、閉店している店が、かなりあった。ここの街も何かの理由で不況になっているのだろう。中央図書館の方へ曲がると、何とストリップ劇場が出来ていた。彼は今までストリップショーというものを見たことがない。そのため、どんなものなのか、わからない。それで、一度は見ておこうと入ってみた。また、小説のヒントにもなるかもしれない。とも思った。5千円で時間の制限はない。踊り子が5人いて、音楽に合わせて、踊りながら脱いでいく。最後には全裸になりアソコまで全部、見せる。だが彼は幻滅した。音楽がガンガン鳴っていてうるさい。そこにあるのは単に、踊り子の開放感とショーのスターとしての満足感だけである。そこにはエロティシズムは全くない。そもそも、男は解放しきった女にエロティシズムを感じないのである。そこにあるのは単に物理的な女の裸体だけである。エロティシズムとは、逆説的なもので、女が隠そうとすると男は見たいと思い、女が見せたいと思うと興が冷めて見たくなくなってしまうのである。男は、女の、裸を見られることを恥らう精神や仕草にエロティシズムを感じるのである。せっかく5千円、払ったので、三時間くらい見てから、劇場を出た。かえって女に幻滅してしまって、不快な気分になった。

七月になった。だが、あいかわらず、うつ病の毎日である。やるべき事をやらないで単に遊ぶということに、彼は罪悪感を感じるのだが、何もしない毎日というのは耐えられず、土曜か日曜には、大磯ロングビーチに行った。彼は夏の女の解放的なビキニ姿が好きだった。もちろん、泳ぐのも好きである。夏にビキニ姿の女を見ないというのは勿体ない。わざわざ混む土日に行くのは、客がたくさん来るからである。だがビキニ姿の女を見ても性欲は起こらなかった。小説が書けないと自分の存在価値がないように思うからである。大磯ロングビーチでは、日曜日に、コミュニケーションパフォーマンスというアトラクションがあった。四人の女が、チアリーダーのような格好で、子供とゲームをやるのである。その中で、ユッチンというかわいい、きれいな女性がいた。彼女は非常に明るい天真爛漫な面白い女性だった。彼はユッチンを好きになってしまった。

八月になった。今年は記録的な猛暑の連続で37度を越す猛暑日がつづいた。寝苦しくて、夜は一睡も出来ない。毎日、寝てテレビを見ているだけの毎日となった。そのため、久しぶりに高校野球をほとんど毎日、見ることになった。
九月になった。だが、今年は、九月になっても猛暑日がつづいて、うつ病はつづいた。それでも、九月も半ばを過ぎると暑さが和らいできた。それでテニスをするようになった。彼は胃腸病のため、夏はとてもテニスは出来ないが、暑くなければテニスが出来るのである。
十月になった。
だんだん体調が良くなってきた。奥歯の付け根が腫れてきたので、歯医者に行った。神経をとった歯なので痛みはない。しかし、歯槽骨に黴菌が入ってしまっているので、歯科治療をすることになった。彼は歯科治療が、勿論、すべての人と同じように嫌いだった。だが、歯科治療にも楽しみがあった。それは歯科助手のきれいな女の人に、やさしく歯を掃除してもらえるのが気持ちよかったのである。歯科治療を受けた時に、パッと小説のインスピレーションが閃いた。一瞬で、全てのストーリーが思いついた。その喜びといったら、いいようがない。ストーリーが思いつけば、あとはもう、こっちのものである。ストーリーが頭にあれば描く自信はある。それで彼は、虫歯をヒントにして、小説を書き出した。体調も良くなってきて、他にも、小説を書き始めた。10月26日に、小説が完成した。タイトルは、「虫歯物語」とした。ホームページに出してしまう危険は、十分知っていたが、これは長く書き続けられる性質の小説ではない。それに、意欲が出てきて他の小説も、書いている。それで、10月26日に、「虫歯物語」というタイトルでホームページにアップした。ここに至って、やっと、うつ病が治り始めた。夜、眠れるようになり、頭も冴え、意欲も出てきた。彼は、また図書館に通うようになった。小説は順調に進んだ。今も書いている。さて、これからどうなることか。今年もあと、一月半である。と現在までを書いて、彼はひとまず筆を置くこととした。



平成22年11月15日(月)擱筆

小説家の憂鬱

小説家の憂鬱

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-01

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著作権法内での利用のみを許可します。

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