カバの歯磨き係

  

  【求人】
   カバの歯磨き係
   35歳まで。資格不問。動物(特にカバ)が好きな方。
   応募:電話連絡の上、履歴書持参又は郵送
   みつはし動物園(カバ動物園)
   電話:××××××××××××
   住所:××××××××××××

 その求人広告は新聞の片隅に小さく載った。しかし、あえて仕事内容を「カバの歯磨き係」とした園長の狙いが的中し、その広告は口コミで話題となった。
 みつはし動物園は、日本一のカバの飼育数で知られている。求人広告にわざわざ括弧書きで「カバ動物園」と付記しているのは、初代園長の名を冠した地味な園名は忘れられ、地元では「カバ動物園」で通っているからだ。
 日本動物園水族館協会に加盟している動物園は八十九箇所(注:平成二十二年九月時点)。そのうちカバを飼育しているのは二十九箇所で、飼育数は通常一頭か二頭、多くて三頭程度だ。
 カバを飼育するには大きな池が必要であり、大食いなので餌代もかかる。同じ動物を何頭も揃えるよりはバラエティに富んでいた方がよいから、二頭もいれば十分なのだ。繁殖に成功しても子供は他の動物園に譲ってしまうことが多い。
 それなのに、みつはし動物園にはカバが六頭もいる。園長が大のカバ好きであることと、六頭を余裕で飼える大規模な飼育施設を備えているためだ。
 初代園長が動物園建設のため購入した広大な土地に、元々大きなくぼ地があり、それをコンクリートで固めて大きな池をこしらえた。つがいで飼い始めたカバは広々とした敷地ですくすくと育ち、繁殖にも成功した。初代のカバは寿命で死んでしまったが、二代目が二頭、よその動物園から受け入れたカバが二頭、三代目が二頭と、次第にその数を増やしてきた。
 みつはし動物園は看板やパンフレットにカバのマスコットキャラクターを使いはじめ、数年後にはすっかりカバ動物園の愛称が定着した。カバの飼育場の前には大きな広場があり、日除けのパラソルを備えたテーブルとベンチが並んでいる。軽食を販売するパーラーもあり、客はホットドッグやアイスクリームを食べながら、愛嬌のあるカバの振る舞いを眺め、のんびりとすごしている。
 カバをメインにうたっているが、みつはし動物園の呼び物はそれだけではない。象やキリンもいるし、鳥類や爬虫類の種類もなかなかなものだ。創業からもうすぐ四十年を迎えるが、設備は手入れが行き届き、古びた感じはない。
 十三年前、不況のあおりを受け収益が最悪の状況におちいった時期に、初代園長の健康上の理由から長男が経営を引き継いだ。
 二代目園長が真っ先に手をつけたのは、園の改修工事だった。閉鎖も危ぶまれる状況の中、莫大な金額を銀行から借り入れ、全面的な改修工事を行った。
「動物園は子供達に夢を与える場所だ。お化け屋敷みたいに古ぼけていてはいけない」
 これが新園長の信念であった。初代園長はとても生真面目な人柄であったが、反面慎重すぎるきらいがあり、大胆な改革ができなかったのだ。
 改修工事が終わると客は徐々に増え、収益は黒字になった。新園長はその後もレストランやミニ遊園地を作るなど積極的に改革を進め、みつはし動物園は経営危機を乗り切った。
 今では地元で人気の動物園で、祝祭日やゴールデンウィークには家族連れで賑わっている。経営は決して楽ではないが、みつはし動物園は人材に恵まれている。不景気や少子化の影響で閉鎖に追い込まれる動物園が多い中、みつはし動物園は職員の努力で地道な運営を続けていた。

 求人広告を出してから、事務の桜井は問い合わせの電話応対に追われていた。
「いいえ、仕事の内容は、カバの歯磨きだけではありません。もちろん歯磨きもやりますが、餌やりとか掃除も業務内容に入っています。はい、普通の飼育係と一緒です。求人に"歯磨き係"と書いてあったのは、他の園では歯磨きをしないところもあるので。以前イベントとして歯磨きを実施したら反響が良かったものですから、当園では今後客寄せを兼ねて毎日歯磨きをしようと考えておりまして、そのための増員なんです。カバのストレス解消にもなりますし。あ、応募なさるのですね。それでしたら履歴書をこちらへ送付してください。当園に持参することができるのでしたら、その際に詳しい就労条件の資料もご提供できます」
 桜井は電話を切ると、ふう、と溜息をついた。幼稚園生の息子がいながらも、「女であることを忘れないキャリアウーマン」を目指している彼女は、いつも姿勢よくイスに腰掛け、雌鹿のような気品を備えている。しかし、今日は度々の電話で仕事が進まず、不機嫌なオーラを発していた。後ろから三橋園長が声をかける。
「また応募の問い合わせかい? 動物園の飼育係なんて、募集してもなかなか集まらないものなのに、大人気だな」
「今日はこれで十本目の電話ですよ。園長の"歯磨き係"が効いたんですね。そのうち本気で応募しそうなのは二人くらいですけど。ひやかしの電話が多くて、まいってます」
 桜井は園長への苦情をにじませてそう言った。いつもはきちんと片付いている彼女の机の上に、伝票や書類が積み重ねられている。
「たくさん応募があれば、いい人材が見つかるさ。桜井さんには苦労かけるけど、すまないね」
 園長はきれいに刈りそろえられた自慢のあごひげをなでながら言った。
 ひげは立派だが、百獣の王ライオンに例えるには、この園長はいささか貫禄が足りない。経営手腕は確かなのだが、冗談とおしゃれが好きで、子供のように好奇心旺盛な目をしている。例えるなら虎といったところだろうか。

 締め切りまでに十四通の履歴書が届いた。動物園の飼育係への応募にしては、異例の数と言えた。楽な仕事ではないのだ。
 書類選考を任された副園長の古賀とカバの飼育係の中沢が、会議室に集まった。
「古賀さん、どうしましょうか。半分ずつ見ていきますか?」
 積み重なった封筒を前に中沢が聞いた。
 中沢はこの園に勤めるようになって六年になる。入った当時は小動物を担当していた。目端の利く中沢はいつもリスザルのようにせわしなく動き回って動物達の世話を焼いていた。
 そのため園長に「こいつは使える」と見込まれ、鳥類、爬虫類、中型動物と、園の全ての動物を順に担当させられた。今はカバを中心に大型動物を見ている。園全体のことをよく理解している中沢は、ベテラン飼育員からも一目置かれていた。
「どうせ二人とも目を通さんといかんだろう。中沢君が先に見て、私に回しなさい」
 古賀はみつはし動物園の最古参で、創業間もない頃から初代園長の右腕として働いてきた人物である。数々の苦難を乗り越えて培われた豊富な知識と経験は、彼にマントヒヒのように深遠な瞳を与えている。温厚な人柄と相まって、皆の信頼が厚い。
 とうに還暦を過ぎているのだが、園長のたっての願いで園に残ってもらっている。ブルドーザータイプの園長も、古賀の意見だけは神妙に聞く。みつはし動物園のご意見番的存在である。

 二人は上から順に、履歴書に目を通していった。最後の十四通目の封筒の封を切り、書類を取り出した中沢の手が止まった。貼られた証明写真をまじまじと見つめる。
「古賀さん、この人、カバに似てないですか?」
 差し出した履歴書を古賀が受け取り、老眼鏡を掛けたり外したりして写真を見る。
「うん、ボブにそっくりだ」
 ボブはみつはし動物園で一番大きなオスのカバだ。今年で十六歳になる。中沢がイスのキャスターを滑らせて古賀の横に並び、履歴書をのぞき込む。
 へたくそだが丁寧に書かれた文字が並んでいる。線が太く文字がでかい。ボールペンでこんな太い線が書けるのかと思うような字だ。
 氏名、柴田達郎。年齢、三十歳。学歴、工業高校卒。職業は二度変わっているが、ここ五年間は引越センターで働いている。
 資格・免許の欄。普通運転免許の他に、学生時代に取ったと思われる溶接などの免許がいくつか。趣味・特技は空欄。健康状態は良好。
 不採用にしてもいいような内容だったが、志望動機だけが眼を引いた。

【志望動機】
 私は、カバが大好きです。私は、カバの気持ちが分かります。
 カバの歯磨き係に、向いていると思います。

「……古賀さん、僕、この人に会ってみたいです」
 中沢がぽつりと言った。
「そりゃいかんよ、中沢君。女子職員を選ぶのに、器量で選ぶようなもんだ。顔がカバに似てるからって、そんなんで飼育員が務まるわけがない」
「でも見て下さいよ、この志望動機。別紙につらつらと動物への思いをしたためてきた人は、他に何人もいます。でも、“僕はカバの気持ちが分かります”なんて書いてるの、この人だけですよ」
「それだけじゃ弱いな。面接は私や君だけじゃなくて、園長も参加されるんだ。他の人は、牧場で働いたことがあったり、動物園に勤めてた経験があったりするのに、この人だけそういった経歴が何もない。この間まで引越しセンターで働いていた人に飼育係が務まるか? 面接で園長に、何でこの人を選んだって聞かれたら、何て答える?」
 正論だ。古賀副園長はいつも冷静で、困難な状況のときでもたえず的確な判断を下す。
「それじゃあ、書類審査落とすんですか? 柴田さん……」
「私も会ってみたいよ、この人は。でも園長もお忙しいし、面接する以上は推薦する理由がないと」
 言葉が見つからず、中沢は黙った。なぜか、この人には会わなくてはならない気がする。カバ動物園と呼ばれるうちの園が、「カバの気持ちが分かる」と言っている人を無視してはいけないのではないだろうか。
 古賀も本音はそう思っているのか、履歴書を放り出すことができない。新聞のチラシから掘り出し物を探すように、表にしたり裏にしたりして眺めている。
「……中沢君、きみ、ユニック(クレーン付きトラック)の免許持ってるか?」
 古賀がぼそっと聞いた。
「僕は持ってません。塚越さんだけですよ、持ってるの。この前の台風の後、トタン屋根がふっ飛んだプレハブを撤去したじゃないですか。そのとき塚越さんがユニック借りて来て操作してたんですよ。無免許じゃないですかって聞いたら、ペーパーだけど持ってるって」
「この人も免許持ってるな。塚越さんもいい年だし、もう一人くらい扱える人がいた方がいいんじゃないか」
 中沢の顔が明るくなった。
「じゃあ、柴田さんも書類審査オーケーですね! でも、いいんですか。そんな推薦理由で」
「園長が何か言ってきたら私が引き受けるよ。情にもろいな、私も」
 机の上に履歴書がふた山になって置かれている。右が合格組、左が不合格組の山だ。古賀は右の山に履歴書を放った。不合格が五人、合格が九人で決まりのようだ。

 みつはし動物園の事務所の会議室にテーブルとイスが並べられ、面接会場がセッティングされた。園長と古賀と中沢は、会議用テーブルに並んで座った。面接を受けに来た応募者は、隣室で待っている。
 事務の桜井が盆に茶を乗せて入ってきて、園長らにそれを配った。
「桜井さん、応募者の人たちは全員そろってる?」
 園長が聞いたが、桜井はぼうっとしていて、聞き逃したようだった。
「桜井さん?」
 園長がもう一度声をかけ、桜井はやっと反応した。
「は、はい! 何でしょう?」
「どうしたの、ぼうっとして。応募者はそろった?」
「はいはい、来てます、来てます。みなさんお待ちかねです」
 桜井はいつもはキャリアウーマンらしくキリリとしているのだが、何か心ここにあらずといった感じだった。
「お待ちかねってもこともないだろ。様子が変だね、隣で何かあったの?」
「いいえ、何もないです。ただちょっと……」
「ちょっと?」
「ほんとに、何でもないんです。失礼します」
 桜井はそそくさと面接会場を出て行った。園長は何だかな、と言って頭をかき、古賀と中沢は顔を見合わせた。

 面接はスムーズに進んでいった。七人目は下馬評ナンバーワンの高城氏だ。
 高城は以前動物園で飼育係をしていた経験があり、主にキリンと象の世話をしていた。勤めていた動物園にはカバもいて、その面倒を見たこともあるという。受験するのに二年の実務経験が必要な飼育技師の資格まで持っていた。若く男前で、草野球が趣味だと言う体は、競争馬のように均整が取れ、逞しい。園長も感心して高城の話を聞いていた。
「――それでは、これで高城さんの面接を終わります。隣の控え室に戻って、八番の方に声をかけていただけますか」
 中沢がそう言うと高城は席を立ち、ドアの前で振り返り一礼して、静かにドアを閉めて出て行った。作法としては百点満点だ。礼儀正しいし受け答えもハキハキして、高校球児のようにさわやかだ。そして何よりも動物園での勤務経験があるのが大きい。これ以上の人材はいないように思えた。
 園長や古賀は何も言わないが、内心決まったな、と思っていた。園長は求人広告の効果があったと、密かにほくそ笑んでいた。
 コツコツとドアがノックされた。次の面接者は例の柴田だ。中沢が「どうぞ」と入室を促す。
 ここは「失礼いたします」とひとこと言って入るのが礼儀だが、柴田はものも言わずドアを開けた。そして、入ってきたその男の姿を見て、三人は絶句した。
 履歴書の写真など、まだ人間らしく写っている方だった。中沢は一瞬、園で一番小さな三歳のカバ、ポン助が入ってきたのかと思った。園長も古賀も、あんぐりと開いた口を閉じることができない。
 柴田は成人男性とは思えないほど背が低く、ずんぐりとしていた。その顔は、人間よりもカバに近かった。
 背が低いくせに、顔はA4の紙よりも大きい。肌は黒檀のように浅黒く、小さな両目は顔からはみ出しそうなほど離れている。
 顔のパーツのほとんどが、ほぼ同じ平面に属していた。鼻はつぶれて大きく横に広がり、平面からなるべく突き出さないように努力しているようだった。
 口はCDが飲み込めそうなほどでかい。思い切り口を開いたら顔が上下に分かれそうだ。
 耳は、そんなところに耳孔があるのかと思うほど上の方に付いていて、横にピンと張り出している。
 体つきはというと、これがまた立ったカバに等しい。身長は百五十センチくらい。胸板が恐ろしく厚く、ドラム缶のようだ。MRIにかけたらほぼ真円に近い断面図が得られるだろう。
 手足は餅つきの杵のように太く短い。髪はボサボサの縮れっ毛で、面接だというのにうぐいす色の作業着を着ていた。
 面接官の三人はしばらくあっけに取られて柴田の姿を眺めていたが、一番肝が据わっている園長がハッと我に返り、柴田にイスをすすめた。
 柴田はヒョコヒョコと、それこそカバのように歩いてちょこんとパイプイスに座った。足が床に届いていない。
 園長は、なるほど、さっき桜井の様子がおかしかったのはこれか、と納得した。
 三人は互いにちらちらと視線を絡ませた。視線には「誰が最初に話すんだ?」という意味が込められている。結局一番若い中沢が口火を切らされた。
「ええと、これから、柴田さんの面接を始めたいと思います」
 柴田は、はい、と初めて声を発した。低い声だな、と中沢は思った。
「柴田さんは、隣県に住んでおられますね。採用が決まったら、住まいはどうされますか」
「今のアパートは引き払って、この近くに引っ越すつもりです」
 驚くほど低く、温かみのある声だった。チューバの音域だ。地方の訛りを含み、あわてずゆっくりと話す。誠実な人柄が感じられた。
 履歴書の内容を確認する質問がいくつか続いた。やはり動物に接するような仕事をしたことは無いようだった。
 中沢がチラリと園長に視線を送る。「園長からも質問してください」という合図だ。園長は咳払いをひとつして、三人が一番知りたいことを聞いた。
「柴田さんは、これまで動物にかかわる仕事をされたことが無いそうですが、それなのにどうして、この求人に応募しようと思われたのですか? それと、履歴書に“この仕事に向いていると思います”と書かれていますが、飼育にかかわる仕事のご経験が無いのに、どうして向いていると思われるのか、そこのところをお聞かせください」
 古賀副園長と中沢は、ぐっとつばを飲み込んで、柴田の反応を待った。柴田は一度、すう、と息を吸い込んでから、穏やかな声で話し始めた。


 僕は見てのとおり、カバにそっくりなので、小さい頃からカバ、カバと言われていじめられてきました。
 幼い頃はそんなに気にもしていなかったのですが、小学校に上がると、いじめはだんだんひどくなりました。
 僕は名前が柴田なのですが、柴田じゃなくてカバ田だ、と言われ、まともに名前で呼ばれたことはありませんでした。学校ではいつも仲間外れにされ、女の子たちも「気持ち悪い」と言って、僕に近寄ろうともしませんでした。
 カバだから水が好きだろうと、バケツで頭から水をかけられたり、泥団子をぶつけられたりして、いつも汚れた格好で家に帰っていました。僕はカバが心底大嫌いになりました。
 僕は毎日、母の膝で泣いていました。泣きながら、こんな風に生まれてこなければよかったとか、死んでしまいたいとか、そんなことを叫んでいました。今から思うと、母はとても辛かったろうと思います。
 両親も、このままではいけないと思ったのでしょう。ある日曜日の朝、父は僕に、「動物園に行こう」と言いました。
 僕はそれまで、動物園に行ったことがありませんでした。両親がカバに会わせないように気を使っていたのです。
 僕は、像やキリンやワニなど、カバ以外の動物は大好きだったので、大喜びで「行きたい、行きたい」とはしゃぎました。あまり賢い方ではなかったので、動物園にはカバがいるかもしれない、ということまで頭が回らなかったのです。
 動物園には、サルやアリクイやダチョウなど、たくさんの珍しい動物がいて、僕は檻の前でいちいち歓声をあげ、上機嫌でいました。
 大型哺乳類の区域でカバの看板を見つけ、やっとここにはカバがいるのだということに気付き、僕は泣き出しました。両親に騙されたような気持ちになりました。
 来た道を戻ろうとする僕を父は抱き上げました。僕は大声で泣き、足をばたつかせましたが、父は無理やりカバの檻の方へ連れて行きます。檻の前へ来ると、僕は父の胸に顔をうずめて、何も見ないようにしました。父のシャツは、涙と鼻水でどろどろになりました。
 いくら泣いても、父はカバの檻の前を動こうとしません。僕は泣き疲れて、父の胸からそっと顔を離しました。鼻をすすりながら、僕はそろそろと後ろを振り向きました。
 涙でにじんだ目に、とっても大きくて、茶色い丸いものが飛び込んできました。最初、それが何だか分からなくて、僕は両手で目をこすり、涙をぬぐいました。
 それは、カバのお尻でした。それが僕とカバの初めての出会いです。カバのお尻は僕の想像を遥かに超えて巨大でした。タンクローリーを後ろから見ているようです。僕は度肝を抜かれ、ピタリと泣きやみました。
 あまりに大きなカバのお尻に仰天していると、カバは切り株のように太い足をのそのそと動かし、向きを変え始めました。動物なのだから歩いたりするのは当たり前なのに、僕はそんな巨大なものが自分で動くということにひどく驚きました。
 当然ですが、カバは縦に見るより、横から見た方が大きく見えます。カバが向きを変えるにつれ、ただでさえ巨大な体は、急速にその面積を広げていきました。
 水を入れた風船のようにぷよぷよのお腹が、動くたびにたぷんたぷんと揺れます。カバはちょうど真横を向いてとまりました。映画館のスクリーンのように、僕の視界はカバでいっぱいになりました。
 僕は抱かれていた父の手から抜け出し、柵にとりつきました。後から知ったことですが、そのカバは○○動物園の当時二十三歳のオスで、名前はジョニーといいました。体重は二千七百キロで、動物園で飼われているカバでは、最上級に大きいものでした。
 僕はさっきまで大泣きしていたことも忘れて、カバに釘付けになっていました。両親はきっとあきれていただろうと思います。
 飼育係のおじさんが、一輪車に餌を乗せて運んできました。リンゴやジャガイモ、キャベツなどが山盛りに積まれています。
 僕があまりに熱心にカバを見つめていたので、飼育係が気を効かしたのでしょう。おじさんは、僕の目の前に一輪車を停めました。お腹を空かせたジョニーが、のそりのそりとこちらに歩いてきます。その体はとてつもなく重そうで、大きなシーソーに僕の家とカバを乗せたら、家の方が飛び上がってしまうのではないかと想像しました。
 ジョニーは、僕の一メートル前までやってきました。大きな顔が眼の前に迫ります。肌は茶色くザラザラとしていて、しっとりと湿っていました。あごには長いひげが雑草のように生えています。黒い瞳は深く澄んでいて、とても優しそうでした。
 飼育係がリンゴを手に取ると、待ち構えていたジョニーがガバッと口を開けました。ピンク色の、途方もなく大きい口の中に、バナナのように長い牙が何本も生えています。僕は柵をギュッと握りました。カバが大きく息を吸ったら、口の中にひゅーっと吸い込まれてしまいそうな気がしたのです。
 飼育係のおじさんが、リンゴをカバの口に放り込みます。リンゴはたったのひと噛みで粉々になりました。続けて、二、三個まとめてリンゴやジャガイモを放ります。カバはそれらをピーナッツのようにこともなげに噛み砕きました。
 おじさんがリンゴを一個、僕に渡してくれました。僕は大きく振りかぶり、カバの口に向かってリンゴを投げました。不器用な僕ですが、その時はうまくカバの口にシュートできました。ジョニーはおいしそうに僕のリンゴをたいらげてくれました。
 おじさんはキャベツを丸ごとカバの口に投げ入れました。キャベツまで丸ごと食べるとは思っていなかったので、どうなることかと見ていたのですが、カバは平気でそれを噛み砕き、あっさりと飲み込んでしまいました。ジョニーが機嫌よく耳をくるくると回すと、水しぶきが僕の顔に飛んできました。
 一輪車に積まれた餌を食べつくすと、カバは再び大きな体を揺らしながらのそのそと歩いて、池の中に身を沈めました。僕はそれでも飽きずにカバを見続けていました。
 どのくらいそこにいたのか自分ではよく覚えていないのですが、両親の話だと二時間余りカバの檻の前から動かなかったそうです。帰りの車では、僕は頭の中がカバでいっぱいで、ふわふわした気持ちでした。
 家に着くと、両親は前もって買ってあったカバの本を出してきました。子供向けの本でしたが、写真がたくさん載っていて、カバの生態が詳しく書いてありました。
 父はじっくりと時間をかけてそれを読んでくれて、僕は学校の授業よりもずっと集中してそれを聞いていました。もう、すっかりカバのとりこになっていたのです。

 翌朝、学校へ行くと、いつものようにいじめっ子たちが僕を取り囲み、カバ田、カバ田と言ってからかいはじめました。
 僕は胸を張り、大きな声で「バカにするな! カバはすごいんだぞ!」と言ってやりました。いじめっ子たちは、いつもと違って堂々とした僕にたじろぎました。
 それから僕は、カバは最大で自動車二台分の体重になることや、口が百五十度も開くこと、五分間も水に潜っていられることなど、昨日本で学んだことを教えてやりました。いじめっ子たちは感心して聞いていました。
 授業開始のベルが鳴り、先生もやってきたので、カバ講義はいったん中断しました。休み時間になると、いじめっ子たちの方から僕の方へ集まってきて、もっと聞かせてくれと言いました。
 僕は得意になって、カバはおとなしそうに見えて実は気性が荒く、縄張り争いで死ぬまでケンカすることもあることなどを説明しました。
 カバが獰猛であることは、僕にとってカバを嫌いになる理由にはなりませんでした。むしろ、いつもいじめられている弱っちい僕が、本当は強いんだと、関係もないのに同一視して、生まれ変わったような気になっていたのです。
 その日のうちに、いじめっ子たちの僕を見る目が変わりました。仲間はずれにされることもなくなり、それどころか彼らから一目置かれるようになりました。
 僕をよく知らないやつが、「お前、カバに似てるな」なんて言ってくると、ちょっと前まで僕をいじめていた友達が、「バカヤロウ! こいつスゲエんだぞ!」と言い返してくれました。
 一応、本当にすごいところもあるのです。僕は仲間たちの中でも、一番力持ちでした。僕は人一倍不器用なのですが、腕相撲なんかすると、相手が二人がかりでも勝つことがあったくらいです。
 カバが好きになった僕は、それからも両親にせがんで、たびたび動物園に連れて行ってもらいました。何度もカバと顔を合わせていると、カバの方も僕を覚えてくれるようで、僕が来ると近寄ってくるようになりました。
 目と目をじっと合わせていると、カバの気持ちが分かるような気がしてきました。いえ、それは気のせいじゃなくて、本当に気持ちが分かるようになってきたのです。
 今日は機嫌がいいとか、悪いとか、お腹が空いているとか、暑いとか、そういうカバの気持ちが伝わってくるようになりました。カバがムズムズしているので、飼育員よりも先に、肌に寄生虫が発生しているのを見つけたこともあります。
 僕は、引越しの仕事をしてきたので、力が強く、体力もあります。四百リットルくらいの冷蔵庫なら一人で運べます。大型獣の飼育は大変な作業だと思いますが、僕ならぜんぜん平気です。
 だから、僕はカバの歯磨き係に向いていると思います。動物の飼育は初めてですが、カバのためなら、一生懸命勉強して、役に立てるようになりたいと思います。どうか、僕を雇ってください。よろしくお願いします。


 柴田の長い話はそれで終わった。三人はすっかり呑まれてしまい、その後は特に質問も無く、彼の面接は終わった。
 次に最後の九人目が来たが、三人はさっぱり集中できず、面接はひどく短い時間で終わった。
 経歴も大したことはなく、柴田の後でなくても落とされていたような人だったからよかったようなものの、ろくな質問もできず失礼をしてしまったな、と中沢は思った。

 最後の面接者が帰ると園長は頭を抱え、「あ?」と長く声を伸ばした後に「どうしよう」と付け加えた。
「古賀さん、どうしましょう?」
 副園長に助けを求める。
「どうしたもんでしょうなあ、園長。柴田さんがいなければ、すんなり高城さんに決まりそうなんですが」
「予算的に二人雇うのは無理だし。中沢君も罪作りだなあ。書類段階で落としてくれてれば、悩まないですむのに」
「ぼ、僕の一存じゃ……」
 中沢が反論しようとしたとき、ドアが少し開いて桜井が顔をのぞかせた。
「面接者の方々は、みんな帰られました。あの、柴田さん、どうでした?」
「何だよ、桜井さんまで気にしてるの? あれ応募者じゃないよ。ポン助が紛れ込んでたんだよ」
 園長が冗談で返す。
「いやあ、すごい話を聞かせてもらいましたよ。桜井さんも後でゆっくり中沢君から聞くといい。さて、園長、ここでどうこう言っても始まりませんよ。実技試験が終わってから考えましょう。口では何とでも言えますからね、実際歯ブラシを持ってみるまで分かりゃしませんよ。面接の合格者、誰にします?」
「……中沢君、誰がいい?」
 考えるのが面倒になったのか、園長は中沢に振った。
「七番の高城さんは文句無く合格でしょう。あと、二番の瀬戸内さんは牛舎での勤務経験がありますから、大型動物に慣れています。五番の小宮さんは飼育にたずさわったことは無いですが、子供の頃から動物園で働くのが夢だったというので、思いが強いですね。要領が良ければ、可能性あります。あと……八番の柴田さん」
「推薦理由は何だね」
 園長が意地悪く聞く。
「……本当にカバの気持ちが分かるのか、見てやりたいと思います」
 古賀がワハハと笑った。桜井も手を叩いて喜ぶ。
「じゃあ、柴田さんも合格ですね。良かった」
「ありゃりゃ、桜井さんも柴田さんのファンかよ。どうなってんだ、最近はあんなのが流行なのか?」
 園長があきれ顔で言った。古賀副園長が場を締めにかかる。
「私も中沢君の言った四人でよいと思います。園長、他に気になる方はいますか?」
「どうせ高城と柴田の一騎打ちだろう。いいよ、その四人で。中沢君、面接者が家に帰ったころを見計らって電話連絡しなさい。気を持たせないように、不合格者から先に連絡するように」
 園長ら四人が事務所に戻ると、誰もが柴田の合否をたずねた。カバ動物園だけあって柴田の人気は高かった。
 中沢が集まったみんなに面接の様子を詳しく再現して聞かせ、事務所は一時間ばかり柴田の話で盛り上がった。

 実技試験は面接から一週間後の休園日に行われた。
 カバの檻の前に試験官の園長、古賀、中沢の三名と、面接の合格者四名が集まった。全員作業着姿だ。その他にも柴田目当ての野次馬が多数。桜井をはじめとする事務員が数名、小動物や爬虫類の飼育係も仕事をサボって見に来ていた。
 面接者を横一列に並ばせる。柴田だけ異様に背が低く、小学生が一人混じっているようだ。バインダーを手に中沢が実技試験の要領を説明する。
「お集まりいただきありがとうございます。これから、今日の実技試験の説明をさせていただきます。試験者はカバの檻に入って、カバの歯磨きをしてもらいます。ご存知でしょうが、カバはおとなしそうに見えて、たいへん気の荒い動物です。試験の最中は、私がそばについていますので、何かあったときは私の指示に従ってください。私が逃げるように言ったときは、素早く走ってこの柵を乗り越えてください。この試験は単に歯磨きができるかどうかを見るだけではありません。大型獣に安全に接することができるか、カバの状態を見て的確に正しい判断を下すことができるか。それらを総合的に評価します。カバに無理に口を開かせて歯磨きをしても良い評価は得られませんから、注意してください。機嫌を損ねると暴れだすこともありますから、くれぐれも無理はしないようにお願いします。リンゴなどの餌も用意してありますから、それを使って口を開かせてもいいです。それでは、何か質問はありますか?」
 小宮がシューズで来てしまったのでゴム長靴を貸してもらえないかと言った。中沢は見学していた爬虫類係に指示して持って来させた。他には質問も無かったのでさっそく実技試験が始められた。順番は面接のときと同じ、瀬戸内、小宮、高城、柴田の順だ。
 瀬戸内にトイレ掃除用のようなブラシが渡された。中沢が先に柵を乗り越え、瀬戸内が続く。瀬戸内は中くらいの大きさのカバを選び、そろそろと近づいて行く。なるほど牛舎で働いていただけあって、大型獣との距離感を心得ているようだ。見ていて安心感がある。
 しかし、なかなかカバに口を開けさせることはできなかった。声をかけたり、餌のリンゴで釣ろうとするが、カバは警戒して口を閉じたままだ。十分ほどが過ぎて、カバが目の前でブラシを振り回されるのにイライラしてきたのを中沢が感じ取り、そこで終了させた。瀬戸内は悔しそうな表情を見せた。
 二番手の小宮はヒヤヒヤして見ていられなかった。まず柵を越えるなり、濡れたコンクリートの上で滑って転んでしまった。中沢が肩を貸して起こす。
 カバに近づくのもおっかなびっくりなので、恐怖感がカバに伝わってしまい、よけいに警戒された。闘牛士と牛の間の距離のように、カバが突進するのにちょうど良い距離でうろちょろしているものだから、中沢の判断で早々に試験を中止した。動物が好きなのは分かるのだが、体がついて来ていない。
 次は期待の高城だ。長身の高城は柵をひらりと乗り越えた。何をしてもさまになる男だ。
 物怖じせず、すたすたとカバに近づいていく。前の二人のせいで少し気が高ぶっているカバたちが、「また来た」といった感じで迎える。しかし、高城が堂々としているものだから、「こいつはちょっと違うな」とでも思っているのか、カバたちはおとなしくしている。
 首尾よく一頭のカバの鼻先まで近づくことができた。しかし、歯ブラシをかざしても口を開けようとはしない。高城が相手でも警戒は解いていないようだ。
「おい、ちょっと口を開けてみろ。気持ちいいんだぞ」
 話しかけたり歯ブラシを振って見せたり、いろいろ試すがカバは口を開けない。業を煮やした高城は中沢にリンゴをくれるよう頼んだ。
「ほら、リンゴだぞ」
 手にしたそれを鼻先にかざす。カバは素直にがばっと口を開いた。ここで歯ブラシを突っ込んだりすると逆上して暴れかねないので、高城はリンゴを口に放った。カバがそれを噛み砕く。
 機嫌が直ったのか、次に高城が歯ブラシを目の前に持っていくと、今度はのったりとした動作で口を開けた。すかさず歯ブラシを突っ込み、ブニブニとした口腔の奥にある臼歯を磨いた。カバは気持ち良さそうに口を開いている。
 上下の奥歯を磨き終わると、高木は前に並んだ牙も丁寧に磨いた。
「よし、きれいなったぞ。おりこうさん」
 高城が満足げにそう言うと、カバは口を閉じ、尻を向けて池に向かった。同じようにして高城は他の二頭のカバの歯を磨いた。さすが動物園での飼育経験があるだけあって、大型獣の扱いに慣れている。
 中沢が実技試験の終了を告げると、見物客の間からまばらな拍手があった。まばらなのは、高城の手際に関心はしているものの、柴田ファンが多いためだ。桜井は手を叩かず、順番を待つ柴田の背中を遠くから心配そうに見つめていた。
 いよいよ柴田の番だ。柵の高さは一メートルほどだが、それでも柴田の胸くらいまである。柴田は意外に身軽な動作でヒョイと乗り越えた。
 面接のときと同じうぐいす色の作業服に、膝下まである白いゴム長靴。柴田は中沢から歯ブラシを受け取り、塗れたコンクリートの上をゆっくりとカバ達に近づいていく。大型獣にまったく恐れをなしておらず、その様子はベテラン飼育員のようだった。
 新たな挑戦者に気づいたカバ達がいっせいに視線を向ける。柴田は数メートル手前で足を止めた。何もせず、ただ立ったまま、一頭一頭を順に見ている。
 すると、カバ達がのそのそと立ち上がり、柴田の元へ集まってきた。餌を持っているわけでもないのに、カバ達は調教された動物のように従順に寄ってくる。六頭のうち五頭が、柴田を中心に半円を描いて並んだ。ボブだけは池の中から目と鼻を出して、遠くから成り行きを見守っている。
「よし、みんないい子だ。歯磨きするぞ、口開けろー!」
 柴田の野太い声が響く。拡声器を通したように大きな声だ。カバ達がいっせいに口を開く。柴田はピンク色の口腔と白い牙に取り囲まれた。それは壮観な眺めだった。見物人の間から「おー!」と歓声が上がる。柴田の後ろに控えていた中沢はあまりの驚きに声も出ず、顎が落ちそうなほど口をあんぐりとあけていた。
 柴田は一番右のカバから歯を磨き始めた。桃色の肉隗に埋もれた奥歯をゴシゴシと磨く。奥歯が終わると前歯と牙も丁寧に磨いた。園長と古賀は腕を組み、感心して柴田の仕事ぶりを眺めている。桜井もあまりの見事さに驚き、口に手を当てて見つめていた。
 一頭目を磨き終え、隣のカバに移る。初めてのはずなのにもう十年もこの仕事をやっているかのように手馴れている。
 柴田は奥歯を磨くとき、力が入るようにとブラシを短く持つので、頭がカバの口に入ってしまいそうになる。牙で噛まれたりしたらただではすまないから注意すべきなのだが、中沢は声をかけられないでいた。それはカバと柴田の信頼関係を疑うようなことに思えた。
 柴田は全く危なげなく五頭のカバの歯磨きを終えた。観客の間から惜しみない拍手が沸き起こった。歯磨きが終わるとカバ達は機嫌良さそうに、それぞれ樹の陰や池の中など、お気に入りの場所に帰っていった。
「柴田さん、お疲れさまです。見事でしたね」
 中沢が心からの賞賛を込めて柴田をねぎらう。
 興奮気味の中沢の言葉を、柴田は風が揺らす木立ちの音のように聞き流した。彼は池から出て来ないボブを気にしていた。
「柴田さん、ボブは放っておいていいですよ。最近機嫌が悪いんです。構うとかえって拗ねてしまいますから、そっとしててください」
 中沢がそう言っても柴田は聞こうとしない。
 みつはし動物園自慢のバスケットコートほどもある大きな池の隅っこ、そこはボブのお気に入りの場所である。カバはもともと縄張り意識の強い動物であるが、ボブは仲間のカバにその場所を譲ったことがない。広い池の中でもそこは一番深くなっており、百二十センチくらいの深さがある。ボブは水面から目と鼻をのぞかせて、柴田達の様子をうかがっていた。
「……中沢さん、オレ、ちょっと見てきます」
 柴田はトコトコと池に近づいた。
「ボブ、なに拗ねてんだ? ちょっと上がって来い」
 声をかけてもボブは動こうとしない。代わりに鼻息をブフーと吐いて、耳をくるくると回した。そのあとも柴田は何度かボブに声をかけたが、結果は同じだった。
「柴田さん、もう……」
 試験を終了しようと中沢が声をかけたとき、柴田はゴム長靴のまま池の中にざぶりと足を踏み入れた。
 あっと思ったが、止める間もなく柴田はざぶざぶと池に入っていく。水は急激に深さを増していくが、柴田は長靴に水が入るのも作業服が濡れるのも構わず、アフリカの原住民が川を渡るように当然な顔をしてまっすぐボブに向かって進んだ。
 小学校高学年くらいの身長しかない柴田は、池の深みまで来るとかろうじて肩が出るくらいまで水に浸かっていた。ボブは仲間のカバが近寄ってきたかのように彼を迎えいれた。
「ボブ、どうした? 虫歯でもあるのか? 口ん中見せてみろ」
 ボブの顔をピタピタと叩きながら柴田は言った。他の受験者がやったら即座に注意するところだが、中沢はもう何も言わないことに決めた。代わりに何かあればいつでも池に飛び込めるように、携帯電話と財布をポケットから出して地面に置いた。柵の外で心配げに二人を見守っている高城も、同じようにポケットの中のものを出して、そばにいる小宮に預けた。
 顔を叩かれてうるさげにボブが口を開いた。柴田が口の奥まで頭を突っ込んで口の中を覗き込む。
 ぞっとする光景に見物客の間から思わず小さな悲鳴が漏れる。桜井も思わず両手で顔を覆った。園長と古賀は一瞬緊張で身体を強張らせたが、中沢に全てを任せることにした。
 口腔の検分を終えると柴田は頭を出した。見物客がホッと息をつく。
「口ん中は何ともないな。何が気に入らないんだ?」
 口を閉じたボブの顔を柴田はそっと撫で、彼らはしばらく見つめ合っていた。
 静かだった水面が、急に大きく揺れた。ボブが水中を移動し始めたのだ。
 体重の重いカバは、陸上より水中の方がずっと身軽に動く。ボブは水を掻き分けて柴田の背後へ回りこんだ。大きな波が立ち、肩まで水に浸かっている柴田は波に翻弄されてうまく身動きがとれない。
 柴田は池の隅っこ、コンクリート壁の角に追い詰められ、ボブの巨体で逃げ場を失う格好になった。ボブは体の側面を柴田に押しつけるようにして、壁に向かって進んだ。柴田は逃げることができずどんどんコンクリートの壁の方へ押しやられていく。
「柴田さん!」
 中沢は叫んで池に飛び込んだ。高城も柵を乗り越え池に走る。
 カバの巨体に押しつぶされるのは車に轢かれるのと同じだ。あのままボブと壁に挟まれてしまったら、確実に死んでしまう。中沢は必死で水を掻き分けたが、水を吸った服が邪魔で思うように前に進めない。彼は柴田の好きにさせすぎたことを後悔した。高城も池に飛び込んだ。
 見物客から大きな悲鳴が上がった。桜井が柵を握り締め「柴田さん!」と叫んだ。悪戦苦闘している中沢や高城よりもボブの方がずっと動きが早く、園長と古賀はもうダメかと息を呑んだ。
 すると、嵐の海のようにざわついていた池が、不意に勢いが無くなった。波音は静まり、すみやかに水面が凪いでいく。
 ボブは壁から五十センチのところで止まっていた。柴田は壁とボブの間で首まで水に浸かっていたが、無事だった。中沢と高城がやっとボブに追いついた。
 中沢の前でボブはゆっくりと向きを変え、柴田の正面に向き直った。訴えるような目で彼を見つめる。勢いよく鼻息を吹き出すと、水しぶきが柴田の顔にはねた。柴田は顔を振って水をはらい、じっとボブの目を見つめ返した。
「……柴田さん、ボブを刺激しないように、ゆっくりこっちに来てください」
 中沢が小さな声で柴田に指示するが、柴田はボブから目をそらそうとしない。高城がそれを緊張した目で見ている。
 何かの合図のように、ボブが少しだけ顔を左に向けた。柴田がそれに合わせ水中を少し移動する。ボブがまた鼻息を吹いた。
 柴田が何かに気づいたように、水面を覗き込んだ。
「これか?」と言って大きく息を吸い込み、ためらいなく水に潜る。
 驚いた中沢の前にゴム長の両足がざばっと顔を出した。逆さになって水底を探っているようだ。と思ったらゴム長も水中に没した。しばらくの間水面を乱すものはなかった。唯一柴田の吐く息だけが泡となってはじけ、水面に波紋を広げていた。
 見ている方の息が苦しくなってきたころ、ようやく柴田がざばーっと波しぶきを上げて顔を出した。見物人から安堵のため息が漏れる。
 柴田は両手に畳一畳ほどの大きさのトタン板を持って、頭の上に掲げていた。鉛色をしたそれはベコベコにひん曲がり、周囲は錆びてギザギザに尖っていた。
「あ! アレ、熊の檻の隣にあったプレハブの屋根ですよ!」
 塚越がトタン板の正体に気づいて叫んだ。設置から二十年が経ち老朽化が進んでいたプレハブの屋根は、二週間前の台風で吹き飛び、行方不明になっていたのだ。
 いくらカバの足が丈夫でも、こんな硬くて尖ったものを踏んでは良い心地はしないだろう。ボブはお気に入りの場所である池の隅に突如現れた邪魔者を不快に思い、機嫌を悪くしていたのだ。
 柴田がトタン屋根を抱えて池から上がると、見物客から拍手が沸き起こった。ずぶ濡れの作業着姿で手を振ると、拍手が一層大きく鳴り響く。中沢と高城もずぶ濡れで池から上がった。
 ボブも池から姿を現し、テクテクと歩いて柴田のそばによって来た。そして、歯磨きを催促するように、大きな口をがばっと開けた。


 実技試験終了から一時間後、園長と古賀、シャワーを浴びた中沢は、面接の合格者を決定するため会議室に集まっていた。桜井もお茶を持ってきた後、さりげなく会議室に残っていた。
「それでは、園長も古賀さんも、柴田さんで決まりですね。僕も柴田さんがいいと思います」
 園長が大きくうなずく。
「高城さんはもったいないが、うちはカバ動物園だからなあ。うちはうちの特色として、柴田さんを選ばんといかんだろう。まあ、まじめそうな人だし、よく働いてくれると思うよ」
 古賀も園長に同意する。
「そうですね。他の動物園なら高城さんを選ぶでしょうが、うちはカバのことを第一に考えるべきだと思います」
「高城さんはどこの動物園に行っても大丈夫だと思うけど、求人が見つかるかどうかだな。動物園の求人なんて滅多に無いからなあ。うちも中沢君以来の採用だし。動物園以外の職場で落ち着いてしまったらもったいないなあ」
 釣り損ねたでかい魚のように、園長はいつまでも高城のことを惜しんでいた。
「園長、これは私からの提案ですが、柴田さんと高城さん、両方採用してはどうです。人件費の件でしたら、私はもう歳だし、そろそろ身を引かせていただきますよ」
 まるで天気の話のように古賀はさらりと言った。突然の申し出に、園長をはじめみんなが仰天した。
「こ、古賀さん、何を言い出すんです。私はそういうつもりで言ったんじゃないですよ。古賀さんにはまだまだ園に残っていただかないと……」
「そうですよ。うちの動物園のことを隅から隅まで知っているのは古賀さんしかいないんです」
 園長と中沢があわてて引き止めるが、古賀は平然と話を続けた。
「いや、これは、思いつきで言ってるんじゃなくて、ずっと前から考えていたことなんです。中沢君をはじめ、若い人たちが立派に育ってきているのに、いつまでも老いぼれが残ってちゃいけないってね」
「老いぼれだなんて、そんな……」
 古賀を尊敬している中沢が悲しそうな声で言う。
「塚越さんなんかもとっくに五十を超えているし、そろそろ若い人を入れて世代交代をはからなくちゃならない。そこへ柴田さんと高城さんという有望な人材が来てくれたんです。見逃す手はないですよ。中沢君は六年目だが勉強熱心で、もう立派にベテラン並みの仕事ができるようになっている。後のことは彼らに安心して任せられます。私は、園のお荷物にならないうちに、いとまを頂かせてもらいますよ」
 熟慮した上での決断だった。園長も中沢も言葉がない。桜井がこらえ切れずぽろぽろと涙を流した。
「……分かりました。そこまで園のことを思ってくれていたのですね」
 園長が声を絞り出すように言った。
「お気持ちは十分に承知いたしました。これから、若い人たちの力を借りて、ますます園を発展させていけるように、全力を尽くします。これまでのご尽力に、心から感謝いたします。ありがとうございました」
 園長は深々と頭を下げた。その背を古賀がねぎらうようにぽんぽんと叩く。園長はうつむいたままポケットからハンカチを出して涙をぬぐった。湿っぽさを嫌う園長には珍しいことだったが、顔を上げたときには、目は赤いものの、いつもの元気な表情に戻っていた。
「でも、古賀さん、このまま動物達と縁が切れると思ってはいけませんよ。困ったときにはいつでも頼らせてもらいますからね。携帯電話の番号が変わるときは、連絡してくださいよ」
「こりゃ参ったな。すんなりと隠居させてはもらえなさそうだ」
 古賀が頭をかきながら笑った。中沢と桜井も笑って、会議室は笑い声につつまれた。

 七月下旬、夏休みの最初の日曜日。天候に恵まれ、ふり注ぐ陽の光が園の緑や花を色鮮やかに照らし出している。みつはし動物園は今年一番の入場者を迎え、賑わっていた。
 十一時前になると、カバの檻の前には人だかりができていた。カバの歯磨きの予定時刻なのだ。
 柴田が歯ブラシを持って姿を現すと、待っていた客達から歓声が沸き起こった。大人たちは「柴田さーん!」と声援を送り、子供達は興奮して「カバ田ー!」と呼びかける。柴田は手を振って声援に答えた。様子を見に来た中沢と高城が、柴田に暖かい視線を送っている。

 柴田が勤めるようになってから、カバの歯磨きは毎日の恒例となった。通常は毎日十一時に行い、繁盛期には追加で午後にも実施する。子供達は例外なく喜んだし、何より柴田はカバのそばにいるだけで呼び物になった。
 目先の利く園長は、これは話題性があると判断し、新聞やテレビなどに取材に来るよう働きかけた。号令一つでカバ達がカパカパと口を開ける映像がテレビで放映されると、みつはし動物園の名は全国に知れ渡った。柴田はカバそっくりの風貌と飾らない人柄が視聴者に受け、茶の間の人気者になった。
 しかし、十分な宣伝効果が得られたと判断すると、園長は柴田がメディアに露出することをピタリと禁じた。一時的なブームで終わらせないようにするための配慮であったが、これが功を奏して、柴田見たさに客が動物園に詰め掛ける結果となった。

 今日も柴田は歯ブラシを掲げ、カバ達に号令をかける。
「さあ、みんなー! 口開けろー!」
 カバ達がいっせいに大きな口を広げ、ピンク色の口腔と白く立派な牙をむき出しにする。カバの檻は、大人達の拍手と子供達の歓声につつまれる。夏の日差しを浴びながら、柴田は今日も張り切って、カバ達の歯を磨いている。



   おわり

カバの歯磨き係

カバの歯磨き係

文庫本で30ページくらいの長さです。動物園が舞台の物語。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-04-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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