四面楚歌

岡田純は、医者である。医学部を卒業してから、ずっと精神科医として、やってきた。精神科医は、みな、精神保健指定医の国家資格を取る。精神科医は精神保健指定医の資格を取って、初めて一人前の精神科医となる。彼は、ある田舎の病院に、精神保健指定医の資格を取ることを条件に、ある精神病院に就職した。しかし、院長は、したたかな人間で、彼に指定医の資格を取らせない。ようにする。それは、指定医の資格を取って、病院をやめられて、より良い病院に就職することをおそれて、であった。

とうとう、彼は、院長の、したたかさに我慢できなくなり、その精神病院をやめた。
それで、眼科クリニックの代診のアルバイトをやって、収入を得ることにした。精神病院の給料は、それなりに、良かったが、金があると、つい使ってしまうので、預金通帳の残高は、増えることはなかった。

純は、以前から、眼科クリニックの代診のアルバイトをかなり、やっていた。眼科クリニックといっても、コンタクトショップに隣接した、コンタクトレンズの処方をするだけの、眼科である。スリットで角膜に傷がないか、結膜に、炎症がないか、調べるだけの、簡単な診療だった。コンタクトレンズに関連して起こる、角膜の傷、や、アレルギー性結膜炎、などの患者も、割合は少ないが、いて、その時には、点眼薬を出す。コンタクトに関係のない、麦粒腫(ものもらい)、や、角膜異物の患者も、たまに、来ることもある。しかし、その程度である。もちろん、白内障の手術や、緑内障の治療などは、出来ない。し、手術器具も無い。なので、医療界では、コンタクト眼科をアルバイトでやっている医者を、ニセ眼科医などと、言っていて、あまり、評判は、良くない。しかし、背に腹は変えられない。医師免許を持っていれば、何科をやってもいいのであり、違法なことをしているわけでもない。なので、彼は、コンタクト眼科のアルバイトを、始めた。

ある時、コンタクト眼科と提携している、コンタクトレンズの小売りを、全国的に展開している、コンタクトレンズ小売りの、会社の社員が、診療中に、やってきた。こんど、盛岡に、コンタクトレンズの小売店を、出店する予定なので、そのため、隣接の眼科クリニックも、作る。なので、そこの院長になってくれないか、という相談だった。彼は、以前にも、コンタクトショップに隣接した眼科クリニックの院長になって、くれないか、という、誘いを受けていた。しかし、週5日か、最低でも4日やってくれ、という条件ばかり、だったので、すべて、断ってきた。彼は、拘束されることが嫌いだったし、週、4日、働くのは、嫌だった。しかし、今度は、週2日、土曜と日曜だけ、やって欲しい、と言ってきた。彼は、やることにした。とりあえず1年間やってみることにした。土曜の朝、まだ日が明けない頃に、家を出て、始発で、行き、盛岡には、9時50分に着く。クリニックは、土曜は、10時~19時までで、その晩は、盛岡駅前のホテルに泊まり、日曜は、10時から17時30分までである。そして日曜の診療が終わると、上りの東北新幹線で家に帰る。家には、10時くらいに着く。

近くに、コンタクトショップがあり、そこから眼科クリニックに受診を紹介する。
以前は、コンタクトショップの中に、小さな眼科クリニックを開設しているケースもあったが、これは、本当は、法的に問題があるのである。それで、厚生省が、全国のコンタクト眼科クリニックの一斉監査をして、厳しくなり、コンタクトショップと、眼科クリニックは、場所を、分けるようになったのである。コンタクトショップの店員や、アルバイトが、診療日である、土日に、クリニックに来て、近視の度数や、乱視の有無を調べ、患者(というか、客)の要望も聞いて、適切なコンタクトレンズを処方する。院長は、角膜に傷がないか、結膜にアレルギー性結膜炎がないかを、スリットランプで、調べる、だけである。5~6回も、やれば、もう慣れて、出来る簡単な仕事である。

患者は、一日、20人くらい、来る。院長室(診察室)は、戸があって、検査の場所とは、分かれている。患者が来ない時は、彼は、本を読んだり、勉強したり、何かを書いたりしていた。コンタクトショップの、検査と会計をしている、スタッフは、正社員か、アルバイトで、ほとんど、みな、女だった。検査も、そう難しくはなく、数回、コンタクトショップの正社員に教えてもらえれば出来る程度のものである。彼は、彼女らとは、朝の挨拶と、仕事の事務的なことしか、話さなかった。彼は、女と話をするのが、苦手だったし、院長室で、本を読んでいる方が気楽だった。からである。スタッフは、客がいない時は、一人で、客が増えてくると、コンタクトショップから、もう一人、助っ人として、やって来て二人でやる。彼は、スタッフとは、事務的なことしか、話さないので、その人が、正社員か、アルバイトかは、わからない。

ある時、かわいいスタッフが、入った。
彼女は、かわいいアルバイトだった。診察室からも、受け付けの二人の声は聞こえてくる。小さい声でボソボソ話していると、話の内容まではわからない、が、多少、大きな声なら話の内容がわかることもある。純は、女とは話さない主義なので、女の社員とは、事務的なことしか話さない。なので、新しいスタッフが入ってきても、相手の名前を聞くこともないし、新しいスタッフが、アルバイトなのか、正社員なのかを聞くこともない。しかし、仕事の様子で、アルバイトなのか、正社員なのかは、だいたいわかる。アルバイトは仕事も、ケアレスミスがあるが、正社員は、仕事に対しての責任感の自覚があるから、ケアレスミスが少ないのである。
彼は、今度、来た人は、アルバイトだと推測した。しかし、診察室から、聞こえてくる会話を聞いていると、彼女がどういう人なのか、疑問に思うことがあった。慣れてるスタッフが、彼女に、事務と検査の仕方を教えるのだが、教えるスタッフは、彼女に、「あなた。仕事の覚えが早くていいわよ」とか、一つの事を覚えただけで、「よく出来たわね」とか、誉めるのである。こういう誉め方は、相手をバカにした誉め方である。そもそも、上から目線の発言である。彼女が中卒なのか、高卒なのか、短大卒なのか、それは、全くわからない。しかし、大学卒とは考えられない。よくて高卒であろう。そして、彼女は、おそらく学習障害か、何かの精神的疾患があるがあるのだろうと推測した。ただ学習障害といっても、それは程度の軽いもので、社会生活はちゃんと出来る、という、そういうような境遇の人だろうと彼は推測した。学校でも、物覚えが悪くて、いじめられたのではなかろうか、と推測した。

クリニックの受け付けでは、患者が多くて、スタッフが二人の時と、患者が来なくて、スタッフが一人の時があった。彼女が一人でいる時、何かの本を読んで勉強しているようだった。何の勉強なのかは、わからない。ともかく、一心に勉強している立場の人なのだから、何かの専門学校生か、大学生か、公務員になるために公務員試験の勉強か、あるいは宅建の試験とか、花屋になるためのフラワーアレンジメントの勉強でも、しているのだろうと、彼は推測した。ともかく何の勉強なのかはわからない。なので、本当になりたいものがあるのだから、アルバイトだろうと推測した。

眼科クリニックは、大体、一日、20人くらいだが、日によってバラつきがあり、20人以上、来ることもあれば、2~3人しか来ない時もある。
その日は、ほとんど患者(というか客)が来なかった。
彼は、彼女がどんな境遇の人なのか知りたくて、話しかけてみた。
彼女は、受け付けで、静かに、何かの本を読んで勉強していた。

「あなた。アルバイトでしょ」
「いえ。正社員です」
「ええっ。いつからですか?」
「今年の春からです」
彼は、彼女がアルバイトだと確信していたので、驚いた。
「あなた。おとなしい人ですねー。僕は、アルバイトや正社員の人、多く見てきましたけど、あなたほど、おとなしい人は、初めてですよ」
「いえ」
彼女は、照れくさそうに微笑んだ。
「あなた。人生で、怒ったことって、ありますか?」
彼女は、あまりにも、人が好さそうなので、そんなことを聞いてみた。
「・・・」
彼女は、また照れくさそうに黙ったまま微笑んだ。
「僕は、いつもは、おとなしそうにしてますけど、怒る時は、物凄く怒りますよ。人格が豹変するくらい」
「先生は空手が出来ますから・・・」
「ええ。出来ますよ」
そう言って、彼は、サイドキックして、正拳逆突きを彼女に見せた。
「空手の気合い、見せてあげましょうか?」
「ええ」
彼女は、ニコリと笑って答えた。
「いやー」
彼は気合いをかけた。気合い、といのは、見た目は、大声で叫ぶことであるが、これは空手をマスターした黒帯にしか出来ないものなのである。空手の動作が身について、体が空手特有の筋肉の締め方が出来ているから、腹から、大きな声を出せるのである。一回で咽喉が嗄れてしまうほどのものなのである。
「凄いですね。先生は、空手、何段なんですか?」
「無段どころか無級です」
「そんなに、凄いのに、どうして無段なんですか?」
「僕は、道場に通わず、一人で練習したからです。僕は、組織に属するのが嫌いなので、一人で訓練したからです。空手には、多くの組織がありますが、どこかの組織に属して、昇級試験や昇段試験を受けないと、段位は、もらえないんです」
「そうなんですか。でも、先生は歳より、ずっと若く見えます。何か運動して鍛えているんですか?」
「ええ。週に一回は泳ぐように心がけています。他には、テニスとか、筋トレとかもしています」
「凄いですね。どのくらい泳げるんですか?」
「2kmでも3kmでも泳げますよ。やろうと思ったら、5時間くらい続けて泳ぐことも出来ますよ」
「クロールで、ですか?」
「ええ」
「凄いですね」
「ははは。でも、僕は、ゆっくり泳ぐので、たいして疲れませんよ」
彼は、速く泳ぐことも出来たが、速くバシャバシャ泳ぐのは、彼は嫌いだった。いかに、水を荒立てないで、スーと静かに泳ぐ方が、美しいと、思っていたからである。彼は魚になりたいと本気で思うほどのロマンチストだった。魚は、水の中をスーと泳ぎ、水面をバシャバシャ荒っぽく泳いだりはしない。それに、速く泳ぐよく、ゆっくり泳いだ方が、有酸素運動の効果が出る。彼は、市営の温水プールに行くと、大体、2時間くらい泳いだ。その2時間で、脂肪が燃焼されて、体重は1~2kg減り、上腕と大胸筋が目に見えて太くなった。それは持久力の赤筋である。
「歳をとって、老けてしまうか、どうかは、本人の意志ですよ。僕は、タバコも吸わないし、酒も飲みません。運動もして、食事も腹一杯は食べません。常に適正体重になるように心がけています」
彼女は微笑みながら、黙って聞いていた。
「剛ひろみって、知ってるでしょ?」
「ええ」
「彼は、実年齢は、高いのに、若く見えるでしょ」
「ええ」
「それは、彼は、老けないように努力しているからですよ。ジムで筋トレもしてますし、食事も、適正量だけ食べて、バカ食いしたりしないで、生活も規則正しくしているからですよ」
「そうですよね。あの人は、60歳、越してますよね」
「えっ?」
彼は、驚いた。
剛ひろみ、は、50代後半である。彼の関心は、学問や芸術の方にばかり向かっていて、芸能人のことは詳しくない。しかし、若い女の子なら、芸能界の事情には詳しいから、剛ひろみ、が60歳以上ではなく、50代後半であることは、知っているはずだ。おかしいな、っと彼は彼女に疑問を持った。
それで、彼は、とんねるず、のことを聞いてみようと思った。
石橋貴明も、年齢の割には、老けていない、からだ。
とんねるず、は、みなさんのおかげです、や、ねるとん紅クジラ団を長くやってきて、あれは面白くて視聴率が高かったし、お笑い芸人では、日本で一番クラスだし、彼女は今、社会人一年生だから、中学生や高校生の時に、みなさんのおかげです、や、ねるとん紅クジラ団を見て知っているはずだ。
それで彼は彼女に聞いてみた。
「とんねるず、って知ってるでしょ?」
「いえ。知りません」
彼は吃驚した。
「とんねる、なら知っています」
彼女は平然とした表情で、そう答えた。
(なに、トンチンカンなこと言ってるんだ?)
と思って、彼は眉間に皺を寄せた。
「いしばしたかあき、って知らない?」
彼は聞いた。
「あっ。私。日本の芸人のことは、よく知りません」
「日本の」、という言葉と、「芸人」、という言葉で、彼はピーンときた。
日本人なら、タレントを、「芸能人」と言って、「芸人」とは言わない。
まさか、と思いつつも、それでも一応は、確かめる質問をした。
「あなた。日本人でしょ?」
「いえ。違います」
彼は吃驚した。
「じゃあ、一体・・・」
彼が言い終わらない前に、
「中国人です」
そう言って、彼女は、胸のプレートを見せた。
プレートには、「王夢キ」と書かれてあった。「王」は日本人の苗字ではない。中国人の苗字である。(野球の、一本足打法の王貞治に王安石)
彼は人づき合いが苦手で、特に、女とは、話をしないので、新しいスタッフが来ても、名前を聞くこともしないし、名前を覚えようともしなかった。
「国籍は中国なんですか?」
「はい」
「生まれたのは、どこですか?」
「満州です」
「どういう経緯で日本に来たのですか?」
「高校までは、中国で過ごしました。高校を卒業して、日本の大学に入りました」
「どこの大学ですか?」
「東北大学の教育学部の心理学科です」
「東北大学っていったら、国立で偏差値が高くて、凄いじゃないですか」
「・・・」
彼女は、誉められて、照れくさそうに笑った。
「兄弟は、いるんですか?」
「いえ。いません。私が生まれた時は、中国は、一人っ子政策でしたから」
彼女は、急に豹変したように真面目な顔つきになって、ことさら早口に言った。兄弟がいない一人っ子は、兄弟のいる者に対して、劣等感を持っているものである。彼女の口調から、それが、明らかにうかがえた。それと同時に、彼は、彼女が自分の生まれた時の、自国の政府の方針を知っている博学さに驚いた。さすが東北大学出である。彼は、子供の頃は、自国の政治について全く興味を持っていなかった。物心ついてからは、テレビのアニメと、漫画を、観ていただけ、くらいである。

小学生になって、やっと、その時の総理大臣の名前と顔を知るようになっただけである。しかも、総理大臣は、なにやら日本で一番、偉い人、というような、漠然とした理解しかしていなかった。
「あなた。日本語。上手いですねー。今まで、てっきり、日本人だと思っていました」
彼は、あけすけなく、彼女を誉めた。
「いえ。そんなに」
彼女は、誉められて、また照れくさそうに笑った。
彼は、冷え症で、血行が悪く、自律神経失調症で、腰痛や肩凝り、で、ちょっと運動をすると筋肉痛になり、特に冬は、マッサージ店に行くことが多かった。もちろん女のマッサージ店の方が彼は好きだった。彼の家の周辺には、車で10分で行ける範囲の所にマッサージ店が、わりと多くあった。マッサージ店には、セラピストが、日本人のと、中国人のとが、半々くらいだった。もちろん、彼は、日本人の店の方が良かった。だが、日本人のマッサージ店は、中国人のマッサージ店より、料金が高い。というか、同じ料金でも、中国人の店の方が、施術時間が長いのである。なので、その時の状況や気分で、中国人のマッサージ店と、日本人のマッサージ店とを、変えていた。なので中国人の女と、話すことが、結構あった。そして、これはもう法則とまで言っていいほどなのだが、日本語が上手い中国人ほど、誠実で優しいのである。中国人は、日本語の上達度と性格の誠実さ、は、ほとんど正比例していた。それは、真面目な中国人は、日本語を身につけようと、一生懸命、努力するが、不真面目な中国人は、努力しようとしないから、いつまで経っても日本語が下手なのである。それでも、日本語のかなり上手い中国人でも、やっぱり、言葉の端々に日本語としての不自然さが出てしまうから、中国人であることは、わかるのである。
そこへいくと彼女の話す日本語からは、全く、中国人の匂いがしなかった。というか、気づかなかった。というか、気づけなかった。だから、彼は、てっきり彼女が日本人であると思っていたのである。
それで、やっと、しかし一瞬で、彼は彼女の素性に対する様々な疑問を、全て理解した。
彼女は、学習障害なんかではなく、中国から日本の大学に留学してきたのだ。そして、日本の企業に就職したのだ。日本語は難しい。日本人は、生まれた時から日本語で話して育ってきたから、日本人にとっては、日本語は簡単である。しかし、客観的に見れば、世界の言語の中で、日本語ほど身につけるのに難しい言語はない。その難しい日本語を使って、日本という外国で、日本の仕事を覚えるのは難しい。先輩のスタッフが、上から目線で、子供を誉めていたのも、納得がいく。もっとも、彼女のおとなしそうな性格も加わっているのは、もちろん、であるが。彼女は、頭の中では、母国語である、中国語で物を考え、中国語で物事を認識して生きているはずである。高校卒業まで中国で生活していた、というのだから。
「いやー。あなた。日本語、上手いですねー。私。てっきり日本人だと思っていましたよ」
彼の彼女を見る目は、一気に尊敬に変わった。
「・・・」
彼女は、誉められて、照れくさそうに微笑した。
彼女の日本語があまりにも上手いので、彼女は、本当に中国人なのかという、猜疑心まで起こってきた。
それで、それを試すように、彼はキョロキョロと周りを見回した。壁に貼ってあるポスターが目についた。ポスターには、大きな字で「眼科で定期健診を受けましょう」と書いてある。
彼は、それを指差して、
「これ。中国語で読んで下さい」
と彼女に言った。
彼女は、それを見ると、ほとんど、数秒の間も置かず、
「ジン ティエン コォ ジュン メン ロー」
と、流暢な中国語で言った。
といっても、彼は、中国語は、全くわからないので、それが正しい訳になっているのか、どうかは、というより、何を言ったのかは、サッパリわからない。ただ、いかにも、あの、アクセントの上げ下げの激しいヘンテコリンに聞こえる中国語っぽい流暢な発音なので、まず間違いないだろうと確信した。
しかし、これは、彼女にとっては、難しくはないだろう。
日本人にとっては、英文を和訳するのは、難しくはない、が、和文を英語に変換する英作文は難しい。異国語の文章を母国語に変換するのには、たいして頭は使わない。ただ彼女の母国語が中国語だということを確認できた。

というより、彼女は日本語と中国語の二つの言語の完全なバイリンガルなのだ。もしかすると、彼女は日本では、頭の中で、日本語で物を考え、物事を認識しているかもしれない。
それで、
「あなた。ものを考える時、日本語で考えていますか?それとも、中国語で考えていますか?」
と聞いた。彼女は、
「それは、中国語で考えています」
と笑って言った。
「あなた。頭いいですねー。私より頭、いいですよ」
彼は、あけすけに彼女を誉めた。それは、もちろん、お世辞ではなく、彼の本心だった。
「そんなことありません。お医者さんの方が、ずっと頭、いいです」
あけすけに誉められて、彼女は、照れくさそうに苦笑して言った。何を持って頭の良さを比較できるのか。それは一概には言えない。先天的な知能指数の高さや才能や記憶力。努力する能力や、志の高さであるIQ、などが関係しているからである。
ただ、もし彼女が、医学部に入っていたとしたら、彼女は、間違いなく、留年せずにストレートで医学部を卒業できて、現役で医師国家試験にも通ったことは疑う余地がない。と彼は確信した。クラスでも、かなり上位の成績で卒業できただろう。
「医者なんて、覚えてしまえば、頭なんか使いませんよ。知的な仕事でも、何でもないですよ」
彼は、そう言った。
その発言には、謙遜の気持ちは全くなかった。国公立の医学部の偏差値は高い。それは、医師という仕事が、人の命を扱う仕事だから、頭が、しっかりした人間でなくては、ならない、という、厚生省の、おそろしく間違った認識からである。確かに、医学部に入ったら、医学のことは、一通り勉強して、理解していなくてはならないが。しかし、いざ、卒業して、国家試験に通って、医者になってしまうと、医療は、習うより、慣れろ、の面が圧倒的に強く、別に、頭の良さ悪さ、は、関係なく、頭の悪い人間でも、医療は、出来るのである。

数か月後。
彼女は、コンタクト会社の北京支店に赴任することになった。
このコンタクトレンズ小売りの会社は、他の企業、同様、中国への進出を、計画していて、もう、すでに、中国に、二店舗、出店していた。
「先生。色々と有難うございました。私、中国の北京支店に行くことになりました」
と彼女は言った。
こうして、王夢キ、は母国の中国に帰った。
「先生。中国は、いい所ですよ。一度、おいで下さい」
と彼女からメールが来た。
その頃、中国では、長い、戦国の時代が続いていた。韓、魏、趙、斉、燕、楚、秦、の七国である。それを、ようやく、秦の、政が、天下をとった。政は、自らを始皇帝と名づけた。始皇帝は、徹底的な、中央集権的政治で、国をまとめた。焚書坑儒も行った。始皇帝は、悪人か、善人か、といえば、必ずしも、権力欲の権化だけとも言い切れない。中国を、まとめる意志に燃えていた。貨幣や軽量単位の統一。そして、徹底的な中央集権国家にするために、儒教を否定し、法治国家にするために、法家の韓非子の教えだけを、国教とした。日本でも、織田信長は、天下取りの野望だけ、ではなかった。長く続いた、室町時代の戦国の乱世を終わらせた、という点は、評価できる。しかし、そのために、信長に逆らう者は、女子供、延暦寺の僧まで殺した。もっとも、延暦寺の僧は、聖なる宗教者ではなく、僧の横暴は目に余るものがあったのも事実である。信長と始皇帝は、そういう点で、似ている面がある。
しかし、始皇帝の政治は、長く続かなかった。始皇帝の専制政治に不満を持った、者たちが立ち上がったのである。その一人が農民の劉邦である。劉邦は、農民仲間で、始皇帝を倒して、新政権を樹立した。
「先生。今、中国に来ないで下さい。劉邦という者が、天下をとって、中国は、今、政情不安定です。泥棒や殺人などの犯罪が頻発しています。私の家も、コンタクトショップも、危険な状態です」
と彼女からメールが来た。
彼は、これを黙って見ていることの出来る性格ではなかった。
「これから、中国へ行きます」
彼は、そうメールに書いて、中国へ行った。
彼は、北京空港に着いた。彼女の家の住所は、知っていたので、すぐに、タクシーに乗り、彼女の家に行った。
久しぶりの体面に、彼女は、涙を流して喜んだ。
「先生。コンクとショップも、暴漢たちに荒らされて、潰れてしまいました。私の父と母も、殺されてしまいました」
と彼女は、泣きながら彼に縋った。
「そうか。権力を手にすると、皆、人格が豹変するからな。ここは、劉邦と戦わねば、なるまい」
彼は、おもむろに、そう言った。
彼女の家柄は、劉邦と対立する項羽の家柄で、親族、家臣も、彼女の家系を支持する者も多かった。
王夢キは、中国では、虞美人と呼ばれていた。
「みな。立ち上がろう。劉邦の独裁を許してはならない」
彼は、広場で、皆に呼びかけた。
彼に賛同する者は、多かった。
しかし、劉邦の軍隊は強かった。
とうとう、彼と、彼女は、故郷の、楚の国へ帰った。愛馬、騅、を連れて。
「まだ、楚の国の民は、我々に味方している。劉邦など、ひとひねりだ」
と彼は言った。
決戦にそなえていた、ある夜のことである。
城の回りから、楚の歌が聞こえてきた。それは、城の四面から聞こえてきた。
「楚の劉邦~は~千代に八千代に~さざれ石の~いわおとなりて~こけのむすまで~♪」
彼は、驚いた。戦い、というものは、全て、勝ち目のある方につくものである。
「何ということだ。劉邦は、とうとう、楚の国を制圧したのか」
彼は驚嘆した。
「王(虞美人)さん。もう、おわりだ」
「そうですね。先生」
「敵の手にかかって、なぶものになるよりは、自害するしかない。しかし、劉邦の敵は私であって、あなたには関係がない。劉邦軍と戦わず、城を明け渡し、私が自害することを、条件に、劉邦に、君の助命を頼んでみよう」
彼は、そう、王夢キ、に言った。
「先生。そんなこと出来ません。わざわざ、私を心配して、危険をおかしてまで、中国に来て下さったんですもの。それに、劉邦は、農民の成り上がり者です。私の家柄に憎しみを抱いていて、そんな和議の取り決めをしても、守らないことは、明白です。私もご一緒します」
虞美人は、そう言った。
「それに、劉邦の第二夫人の、呂妃は、残忍な性格で、敵を人豚にする、と聞いています」
「人豚って、何なんですか?」
「両手、両足を切断し、目を潰し、便所の中に入れて、糞を食わせて、生かせ、敵に、死ぬより、辛い生き地獄を味あわせる、ことです」
「何と残酷なことをするヤツだ」
「ですから、私を殺して下さい」
「そうか。それでは仕方がない」
彼は、項垂れて肯いた。
「先生。先生は剣術の達人です。どうか私の首をスパッと刎ねて下さい」
そう言って王夢キは、彼の前に膝まづいた。
しかし彼は、王夢キを殺すことは、どうしても出来ない。
ここで、彼は、おもむろに歌を、即興で作って、おもむろに歌った。
「力、山を抜き、気は世をおおい。天に利あらず、騅ゆかず。騅のゆかざる如何すべき。虞や虞や、汝を如何せん」
その歌は流暢に城の中に響いた。
騅とは、彼の愛馬である。
「先生と死ねるなら、本望です。わざわざ、私を心配して、危険をおかしてまで、中国に来て下さったんですもの」
こうして彼と、王夢キは、自害した。



平成26年11月26日(水)擱筆

四面楚歌

四面楚歌

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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