泳ぐ理性
金はあればあるだけ良いらしい。
そうだな、とも思うし、そうかな、とも思う。それが事実かどうかはさておき、ありすぎる金は周りをだめにしていくことだけは確かだと悠太は知っている。
「あんたは毎月三十万もらってるでしょう。ボーナス付きで」
文羽家には莫大な金を持つ大伯父がいる。つまり、悠太の祖母の兄である。
大伯父は起業して軌道に乗せるとすぐに会社を売り、それを元手に投資と株で使い切れない金を得た。
「毎日世話に来てんだから、そのぐらい当たり前でしょ。そっちだってこの前、ようこちゃんの進学お祝いに二百万もらってるの私、知ってるわよ」
『使い切れない』のが問題だった。
「二百? ちょっと! うちは百万しかもらってないんですけど!」
妹、弟から。姪、甥、はたまたその子どもたちから請われるがままに金を貸し、金を出す。子どもがいないどころか結婚もしていない大伯父は、今でも増え続ける資産を持て余していた。
「あんたのとこは二千万、兄さんから借りてるんだから」
おかげで一族は皆、金銭感覚が狂っている。
醜い争いを止める気のない大伯父は、親たちに連れてこられた子どもたちに千円札をせっせと握らせている。
俺は働かずに生きていくと宣言した、小学五年生になったばかりのたくやを生み出してしまったのは、少なからず大伯父に責任があるだろう。その発言を褒め讃える親戚たちは救いようもなく根から腐っていた。
一生懸命がんばらなくても、いざというときは大伯父がなんとかしてくれる。いずれ遺産が入ってくるから大丈夫。安泰だと、この世をなめきった考えが巣くった人間はどうにも踏ん張りがきかないらしい。事業をすれば赤字を出して借金を抱え、やたら転職も多く、ことあるごとに金の無心にやってくる。
ありすぎる金は毒物と同じで、じわじわと蝕んでいきもう後には戻れない。
ついには一万円札を撒き始めた大伯父と、子どもを押し退け這いつくばって一万円札を懐に入れる大人たち。それを真似する子どもたち。
帰りたかった。
ここはこの世の地獄だ。
そう、大学の授業料を借りにきた悠太も地獄を作るパーツのひとつだ。
両親に「どうせ有り余ってるんだから」と大伯父の家に送り出されて、周りからも「もらえるもんはもらっとかなきゃ損」なんて言われてその気になって来たものの、この金を拾ってもいいものか。
拾えば、悠太も“ああ”なってしまうのだろうか。鬼の形相で誰彼構わず殴ってでも金を取るのだろうか。
しかし「金はあればあるだけ良い」のではないのか。使えるものはなんでも使えとよく言うじゃないか。必死で拾うべきか。
考えても考えてもまとまらない。
思考を止めたくて上を見ると、大伯父の飼っている空中熱帯魚が頭上を泳いでいた。
やれ誰かに足を踏まれただの、髪を引っ張られただのやかましい広間のそこだけ、一点だけ静かだ。
伯母の甲高い声も従兄弟の罵声も遠のいていく。
赤に黒のまだら模様。尾びれの先は真っ赤だった。どぎついまでの色味は、少し趣味の悪い大伯父の好みだとすぐにわかる。しかし、下品ギリギリで留まっていた。
何にも干渉されない空中で進んでは、くるりと向きを変えると、長く薄いひれが残像のように遅れてついていく。 広がったかと思えば急に縮まり畳まれて、絡まったかと思えばスルリとほどけていく。どれひとつとして同じ形はなかった。
悠太の体から力が抜けていく。
帰ろう。
広間を出て振り返ると、一万円札の舞う阿鼻叫喚の地獄絵図が切り取られていた。
その頭上を泳ぐ空中熱帯魚。それこそが彼らの理性なのかもしれないと思った。
泳ぐ理性