テニス小説

浅野浩二

ある海辺に近い町に一人の男がアパートに住んでいた。彼の名は岡田純。彼は、医学部を出て医者となり、ある病院に就職して働いていた。しかし彼は集団というものが苦手で、集団の中にいると緊張のため腸閉塞が起こって、呼吸が荒くなってくるのである。他の医者なら、飲み会とか、忘年会とかは楽しみだが、彼にとっては、それは地獄にも等しい苦痛だった。話す話題がないのである。また無理に話してもトンチンカンになってしまって、人から奇異の目で見られてしまった。それに彼は酒を飲めない。それで、彼は飲み会が終わってアパートに帰って、一人になると、ほっとするのである。彼は非常に観念的で、しかしそれは無理のない事で、彼ほど内向的な人間は観念的になるのは当然だった。彼にとっては、自分の観念の世界こそが、彼の本当の現実の世界であって、彼にとっては現実の社会は、人間という彼には全くわからない生物達が、うごめいている世界だった。彼にとって現実の世界は、見る対象だった。彼は人間が全くわからない、と書いたが、それは文章にインパクトを出すためであって、本当は、かなり解る部分も多いのである。だが、解らない事も確実にあった。彼は普通の人がテレビのドラマでも見るように、人間の世界を見ていた。
彼は趣味で小説を書いていた。それは当然で、小説というものは何を自由に書いてもいいのだから。小説という自分の理想の世界を創り出して、その中で彼は、登場人物にかなり自分をたくして、想像の世界で、楽しく生きていた。勿論、彼は他人の書いた小説も読んだ。彼には、書いている時と、読んでいる時だけが、心が休まる時だった。しかし他人の書いた小説の登場人物に完全に感情移入するのは、難しい。それは当然であって、小説を書く人は、その人の好みの人物を書くのだから、自分の好みと全く同じ人物というのは、他人の小説を読んでも、なかなか見つからない。だから、彼は、小説を読むより、小説を書いている時の方が幸せだった。
また、彼は現実の世界に生きられない、と書いたが、それはその通りだが、彼は過去の世界には、生きることが出来た。それは過去というものは、もう固定されてしまって、動かないのだから、今、生きている人間とは上手く喋れなくても、過去の人間に対しては、話しかけても、相手が話し返してくるという事は無いのだから、安心して話しかけられるのだった。過去の人間になら変な事を話してしまっても、相手の感情を損ねるという事に心配する必要もないのだから。
彼は、泳げて、たまにプールに行く事もあった。しかし水泳というのは、孤独な運動である。彼は、手塚治虫の、「海のトリトン」のような世界に憧れて、水泳を始めたのだが、そして本当に海で魚のように生きようと思っていたのだが、やはり現実的には、そういう事は不可能だとわかったのである。
彼は夏を愛した。夏は海の季節だからである。そして、よく海やプールに行った。それは、もちろん泳ぎたいためだが、それ以外に大きな理由があった。それは、ビキニの女性を見るということである。彼は、ビキニの女性を眺めるのが、物凄く好きだった。それ以外でも、彼は町を歩いている時、よく女性を見た。勿論、彼はスケベだが、単にそれだけの理由ではなかった。彼は女性を見ると心が落ち着くのである。彼は女性を母親のような感覚で見ているのである。これは、大人の女性は、勿論のこと、中学生の女の子、さらにはランドセルを背負った小学生の女の子にも、母親を感じていた。それは彼が優しい母親の愛を受けずに育ったからである。そのため彼は母親の愛というものに飢えていた。
またレジャープールで、親子が楽しんでいる光景を彼は、非常に羨ましい思いで見ていた。自分も、妻をめとり、自分の子供が出来て、楽しい家庭ができたら、どんなに素晴らしいだろうと彼は思った。しかし彼は、可愛い、やさしい、彼の理想の女の子が生まれてくる事を望んだが、現実には、彼の理想に合わない、性格の悪い男の子が生まれてくるかもしれない。しかも、仮に理想の女の子が生まれてきたとしても、女の子は、女の子のままではいない。すくすくと育って、やがて大人になってしまう。彼は、それが嫌だった。彼にとっては女の子は、ずっと中学生のままでいて欲しかったのである。しかし、現実には、そんな事は、ありえない。だから彼は、結婚しないのである。そして理想と思って結婚した妻も、時間とともに歳をとる。彼は、それが嫌だった。彼は時間というものを憎んでいた。さらに、彼は、今までの人生経験で、人間というものが、この人こそは理想の人だ、と思っても、長く見ていると、嫌な面が見えてきて、幻滅する経験を非常に多くしていた。ほとんど全部の人間が、そうだ、と言っても過言ではないといっていいほどだった。そのため、彼は結婚しないのである。しかし、彼は、やはり、親子連れで、プールで楽しんでいる光景を見ると、自分も結婚していれば、よかったと、つくづく思った。しかし、それは、笑顔で楽しく遊んでいる一瞬の光景だけ、つまり家族というものの理想の一瞬だけ見ているから、きっと、そういう風に羨ましがる気持ちが起こるのだろう。まあ、ともかく、そういう光景を見ると、自分も家庭を持ちたいと思い、それが強い欲求となって、小説で家庭を作ってみたりしていた。
彼女にしてもそうだった。彼はアツアツの男女のカップルを非常な羨望の目で見ていた。彼は可愛い彼女が欲しかった。しかし彼は、今までの人生経験で、この人こそは理想の女性だと思っても、長く見ていると、ほとんどの場合、嫌な面が見えてきて、幻滅してきたのである。そして彼は、男女の付き合いに、煩わされたり、自分の人生の時間を使う、ことに、わずかな時間ならいいのだが、長い時間を使う事を非常に嫌っているのだった。そして彼は、女と話したこともあるが、女と話しても退屈してしまうだけだった。むしろ、男の教養のある人や学者と学問のことを話す事の方が、彼にはずっと楽しかった。そういう人と学問の事を話すのなら、いくら話し続けても厭きなかった。それに比べ女と話しても、時間の無駄だ、と感じてしまうのだった。彼は限られた自分の人生の時間を、そんな無駄な事に使いたくなかった。そんな事をする時間は、小説を書くなり、読書するなりしたかった。そういう理由もあって、彼は女と付き合えないのである。
しかし運動をしないで、毎日、座っている生活のため、肩凝りや腰痛が起こり出してきた。また、ある時、公園の芝生で、高校の時は、出来た、肩跳ね起き、をしてみると、高校の時のようには、きれいには出来なかった。彼は筋力、体力が落ちている事を知り、愕然となった。これではいけない、と思って彼は運動をはじめようと思った。彼は市立体育館にトレーニング設備があったので、マシントレーニングをしてみたり、温水プールで泳いだりしてみた。多少は、効果はあったが、一人でやる運動というのは、マイペースで出来るので、休みたくなったら休めるので、あまり運動の効果は感じられなかった。第一汗をかかない。

それで彼はテニススクールに通うことにした。彼は高校の時、や、その後も、時々テニスをしていて、テニスはかなり上手く出来た。しかし、彼は入会して定期的に通うという事が嫌いで、また時間の制約もあって、やりたい時だけ、やれる所はないかとインターネットで探してみた。すると車で15分くらいの所に、スポットレッスンという形で、好きな時に、一回、3千円で90分のレッスンに部外者としてスクール生と共に参加する事が出来るテニススクールを見つけた。やった、と彼は喜んだ。そして、時々、そこに通うようになった。そのスクールは、土日は、男も多いが、平日は、ほとんど、おばさん、というかママさんばかりだった。彼は、土日に行くこともあったが、平日に行くこともあった。
しかし、おばさん、ばかりの中で一人、若い可愛い人がいた。勿論、彼は一目で彼女を好きになってしまった。彼女は矢沢さんと言った。

しかし彼はいい歳をしてウブで女の顔を見る事が出来なかった。そのため、彼女を見ても、その人かどうか分からず、あの人、矢沢さんかなと思って、じっと見てしまう事が、時々あった。彼女のテニスの技術はかなり上手かった。しかしフォームが小器用に完成されてしまって、もうそれ以上に伸びそうにはなかった。彼は、その人のテニスの上達が止まっているのを、かわいそうに思った。彼には、彼女にとってのテニスの位置づけが、わからなかった。もし、上達など、しなくてもよく、試合を楽しみたいのなら、テニススクールに通わなくても、友達やサークルで、コートを借りてテニスをするのではないだろうか。彼女は彼と違い、友達もいるだろうから。美人のつらさは、ジロジロ見られる事のつらさである。多くの人は、フォームが小さく完成されてしまうが、彼は大きなフォームという事が、意識にあるため、テニスの感をとりもどすと、彼女より上手くなってしまった。しかし、彼はそれがつらかった。彼にはテニスなどどうでもよかった。彼は小説を書く事が人生の目的の全てで、テニスは体を鍛えるためだった。彼は小説家としては、大きなものを目指していたが、テニスは、体力を落さないための手段に過ぎない。しかし、彼の性格はあらゆる物事において、大きく作ろうとするので、それは学問でも、小説でも、運動でも。そのため、彼は自分が彼女より上手くなってしまう事がつらかった。せめてテニスという遊びの中くらいでは、理想など高く持たずに、勝った、負けた、という事に、無心で喜べる小市民になりたかった。しかし彼は、技の上達という事が頭にあるので、試合を嫌って、試合をしている時でも、上達よりフォームの完成ということを考えてしまうのだった。

彼は、彼女に、変な誤解を与える事を心配した。彼は彼女に楽しい人生を送って欲しいと思っていた。彼は彼女がしゃがみこんだ時、彼女の裸を想像してしまった。彼女は、一体どんな生活をしているのだろう。朝ごはんは何を食べたのだろう、とか。子供の頃はどんな子供だったのだろかとか。彼はリンゴの皮むきのように、打ち合いを続けたくて、サービスも相手が打ち返しやすいように打った。試合でも、相手が打ち返しやすい所に打った。それで、とうとうコーチが、ある時、
「岡田さん。やさしすぎる」
と大声で叫んだ。実際、彼は優しかった。そのコーチは、試合で勝つ事に興味を持っていない彼の性格に少しイライラ感を持っていた。彼も、もっと小市民になれればいいのだが。そして小市民的、幸せを、せめてテニスくらいでは求めればいいのだが。彼は何事においても本質を求めてしまうのだった。

テニスは彼にとって、内向的な性格を治すメリットもあった。一人のスポーツでは内向的のままである。しかし、彼はユーモアも言った。ダブルスで、サービスの方になった時、みな遠慮する。日本人はシャイである。みな、「どうぞ」と相手に譲り合う。彼は機転が利くので、「ジャンケンして勝った方がサービスをしましょう」と言った。彼は、そういう機転が利くのである。それを彼女も、次の機会に、するようになった。彼女は策略家で、試合では勝とうとするので、優しい彼に目をつけて、彼を狙った。勿論、彼も精一杯、守った。しかし、彼は彼女のショットにしてやられると、微笑ましい喜びを感じた。彼は彼女にマゾヒスティックな思いを持っていたからである。勿論、精一杯、守って、片八百長でわざと、負けるという事はしなかったが、彼は試合で勝つ事に興味を持っていなかったので、そして、それよりフォームが乱れる事を嫌ったので、結果として、彼女にしてやられる事も時々あった。勿論、彼は、誰に対しても優しい。スポーツは人間の、いやらしさを消す。好きだの、嫌いだの、顔がいいだの、悪いだの、スポーツをしている時は、そんな人間のつまらない感情が洗い流されてしまうのである。仕事が終わったら、同僚と酒を飲んで上司の悪口を言い、会社の休み時間は他人の中傷ばかり、休日はパチンコで一日を終えるサラリーマン。それに対しスポーツをする人には、およそ、そんな人はいない。テニスを熱心にする人が、人を騙す悪い仕事をするだろうか。勿論、スポーツをする人に悪人はいない、などという極論は言えない。しかし泥棒がランニングを毎日の日課とするだろうか。確かに逃げる時の脚力を鍛える効果はあるだろう。しかしそんな事をしている泥棒など、いるだろうか。上手くても、上手くなくても、無意味な事に汗を流し、勝つ事に喜び、上達しない事に、つらさを感じ、まさに人間の本能に忠実に、そして人生という無意味なものに、真剣に生きている、それは素晴らしい人生の送り方の縮図ではないか。そして、相手と触れる事なく、相手と心が通じ合う。隠そうとしても、テニスをすると、その人の性格がわかってしまう。ある時、彼女は、彼に、「ありがとう」と言った。ラリーが続くよう、彼女が打ちやすい所ばかりに返し、彼女がオーバーした球も、全力で走って、強引にラリーが続くようにしたからだろう。
見かけから、彼女は彼がおよそニヒリストでインテリで高等な研究に打ち込んでいて、テニスなど馬鹿馬鹿しいと思っていそうな人間であることは、彼女は雰囲気から、わかるだろう。しかし彼はテニスを熱心にやった。ドロップショットも遠くの球も全力で追いかけた。彼女には彼が、なぜテニスを一生懸命やっているのか、わからなかっただろう。
しかし、彼のようなインテリが自分のやっている、つまらない事に本気で一生懸命に参加している。それは、つまり、彼女のしている事が価値のある事であると、彼女は感じたのだろう。彼女は嬉しそうだった。さらには、彼が、彼女に会いたさにテニススクールに来ている、というか、彼が彼女と会うと、顔には出さずとも、彼が嬉しがっている事も彼女は感じているだろう。その出会う回数が、月に1~2度で、それが彼がストーカーでなく、彼女に気を使っているとまで彼女は思っているだろう。何も言わなくても彼女は彼の心をかなり分かっている。言葉を交わさないで通じている心の交流だった。彼は彼女を好きだし、彼女も彼に行為を持っていた。彼は彼女に会う度ごとに、ドキドキした。
ある時のレッスンが終わった後、彼女はためらいがちに言った。
「あ、あの。また来られますか」
「え、ええ」
「うれしいです。岡田さんは優しくて打ちやすい所に打って下さるので、とてもやりやすいんです」
「ぼ、僕も、スクールに好きな人がいるので来ます」
彼は、ふざけた性格のため、時に、こういう突拍子もない冗談を言うのである。
「だ、誰ですか。その人は」
彼女は、それは自分で、彼は、愛の告白を遠まわしに言ったのだと思ったのだろう。目を丸くして食いつくように聞いた。純は焦った。
「や、山野コーチです。ぼ、僕、山野コーチが好きなんです。だからまた来ます」
彼は見えすいた誤魔化しを言った。彼女は、愛の告白を聞けずに、寂しそうに相槌を打った。
「そうでよね。あの人、面白いですから」
そんな事で彼は彼女と別れた。

ある時のレッスンの後の事である。
彼は車に乗って、図書館に戻り、小説のつづきを書こうと思った。すると後ろから誰かが声を掛けた。彼女だった。
「あ、あの。岡田さん」
「は、はい。何でしょうか」
彼は緊張して答えた。
「あ、あの。車の鍵が見当たらないんです」
「そ、そうですか。それは困りましたね。ここに来た時には車にロックしましたよね」
「ええ」
「じゃあ、この近くにあるはずです。探しましょう」
「いえ。よく探してみたんですが、見つからないんです」
「そうですか。じゃあ、JAFに連絡しましょうか」
「いえ。いいです」
「どうしてですか」
「私、JAFに入ってなくて、お金がないんです。それにドアは開けられてもキーは、貰えないでしょうから」
「そうですね」
「あ、あの。岡田さん。厚かましいお願いで申し訳ありませんが車に乗せていただけないでしょうか。家の鍵はありますし、家には車のキーの合鍵が置いてありますから」
「わかりました。じゃあ、お送りします。どうぞ、お乗り下さい」
そう言って彼は助手席のドアを開けた。彼女はラケットを持ってチョコンと助手席に座った。
「では、行きますよ。場所わかりませんので教えて下さい。そこを右とか、左とか、言って下さい」
「ええ」
「じゃあ、発車します」
彼はエンジンをかけて車を出した。彼女は、言われたように、交差点の前に来ると、「そこを左にお願いします」とか、「そこを右にお願いします」とか言った。この人間カーナビは実に便利だった。知らない商店街を通った。彼はいつも決まった場所しか行かないので、
「へー。こんな所に街があったのか」
と思い知らされる思いだった。彼女のアパートに着いた。
「ああ。岡田さん。どうも有難うございました」
と言って彼女はアパートの中に入って行った。彼は車の中で彼女を待った。彼女はすぐに降りてきた。彼女が純を見つけると、純は彼女に手招きした。彼女は小走りに純の車の所にやって来た。純はサイドウィンドウを下ろした。
「車のキーありましかた?」
「ええ」
「それは良かった。じゃあ、テニススクールまで送りますよ」
「あ、有難うございます」
純は助手席のドアを開けた。彼女は、助手席のドアにチョコンと乗った。
「じゃあ、行きますよ」
と言って純はエンジンをかけた。
「僕、道おぼえるのが弱いんで、また、右とか左とか言って下さい」
「ええ」
純はアクセルペダルを踏み込んで発車した。彼女は純に言われたように、「そこを右」とか「そこを左」とか、行く時と同じように示した。しかし、彼女に言われなくても、ほとんど道はわかった。すぐにテニススクールの駐車場に着いた。
「有難うございました」
彼女は礼を言って車を降りた。そして自分の車の所に行って、ドアを開け乗った。彼女の車はサニーだった。彼女はエンジンをかけた。車がゆっくりと動きだした。純は彼女が去ってしまってから、家に戻ろうと思っていたので待っていた。彼女が車の中から手を振って前を通り過ぎるのを、笑顔で手を振って別れるつもりだった。だが、彼女の車は純の車の前で止まった。彼女は車から降りて、急いで純の所にやって来た。そしてコンコンと窓をノックした。純は急いで窓を開けた。
「ど、とうしたんですか」
純は疑問に思って聞いた。
「あ、あの。岡田さん。本当にどうも有難うございました」
「いえ。別に」
「あ、あの。お礼をしたいんですが・・・」
「いいですよ。そんなに気を使わないで下さい」
「でも私の気持ちがすまないんです」
純はちょっと虚空を見て考えた。純は、こういう譲り合いで相手の好意を頑なに受けとらないでいる光景が嫌いだった。相手の好意はお礼を言って素直に受け取ればいいと純は思っていた。それで言った。
「わかりました。ありがたくお礼を受けとります。お礼というのは何でしょうか」
「あ、あの。どうか私の家で、御飯を召し上がっていって下さい。手によりをかけて作ります」
彼女は顔を真っ赤にして言った。
「わかりました。では行きます」
純は微笑んで言った。
「では私のあとについてきて下さい」
そう言って彼女は車に戻った。彼女が発車したので、純は、そのあとを追従した。もうこれでスクールと彼女のアパートへの道は三回目である。純は、もう道順を覚えてしまっていた。だが、彼女は途中で、ある信号のある交差点で別の道に入って行った。どうしたのだろう、と思いつつも純は彼女のあとについて行った。其処には大きなスーパーがあった。彼女はスーパーの屋上に入っていって屋上の駐車場に車をとめた。純も彼女の隣に車をとめた。彼女は車から出て、純の車の窓をコンコンと叩いた。純は窓を開けた。
「あの。純さん。お買い物をしたいんです。申し訳ありませんが、待っててもらえないでしょうか」
「ええ。いいですよ。僕に気にせず、ゆっくり時間をかけて買い物して下さい」
「あ、ありがとうございます」
そう言って彼女はパタパタと小走りにスーパーの中に入って行った。純はカーラジオのスイッチを入れた。東京FMの音楽に心を任せた。10分くらいして、彼女が大きく膨らんだビニール袋を両手に持って戻ってきた。
「あの。何にしようかと迷ったんですけど、すき焼きにすることに決めました。よろしかったでしょうか」
「ええ。僕、すき焼き、大好きなんです。嬉しいです」
「よかったわ」
そう言って彼女は自分の車を開けて、買い物袋を助手席に置いて、エンジンをかけた。車が動き出したので純も彼女の車に追従した。そして彼女のアパートに着いた。

彼は近くの駐車場に車をとめた。彼女はアパートの前の駐車場に車をとめた。彼はすぐに彼女の車の所に行った。
「荷物、僕が持ちます」
「あ。有難うございます」
そうして彼は彼女の後についてアパートに入り、彼女の部屋に入った。
「すぐに食事の用意をしますわ」
そう言って彼女は買い物袋をキッチンに持って行って、俎板の上で、豆腐だの葱だの牛肉だのを切り出した。
家の中に洗濯乾しが、かかっていて、それにパンティーとブラジャーがかかっていた。彼は思わず興奮して、そっとその間近に来て、しげしげと、それを眺めた。そこに彼女の女の部分がいつも触れいていると思うと彼は、激しく興奮した。
「女はどうせ、下着を20枚くらい持ってるだろうから、一枚くらい無くなっても分からないだろう」
彼はそう思って、そっとブラジャーとパンティーを洗濯乾しから、取り、自分のバッグの中に入れた。
「やった」
彼は家に帰ったら、思うさま、パンティーを貪り嗅いで、彼女の女の匂いを楽しもうと思った。そして家宝として、大切に一生、とっておこうと思った。彼は、女を女神様だと思っているから、手を触れるのも畏れ多くて出来ず、また、したくなく、女神様の触れた持ち物に一番、興奮してしまうのである。こういう心理はフェティシズムと呼ばれているが、彼はそれが病的に強く、まさに性欲の対象の目的が本来の物と異なっている性倒錯者なのである。

そのうちにジュージューとホットプレートの音がし出した。
「純さん。ホットプレートが温かくなりました。お食事にしますから、こちらにいらして下さい」
彼女が呼びかけた。純はキッチンに行った。食卓の上には熱くなったホットプレートが置いてある。その横に、豆腐、牛肉、白瀧、葱、白菜、うどん、などの食材と醤油、砂糖、日本酒、味醂、などの調味料が置いてある。純は卓上のホットプレートを挟んで、彼女と向かい合わせに食卓についた。
「はい。純さん」
そう言って彼女は、小鉢と生卵を純に渡した。

純は卵を割って小鉢に入れた。彼女は熱くなったホットプレートに牛脂を入れ、肉を入れた。肉がジュッと焼ける音がした。彼女は、醤油に砂糖を混ぜて、鍋に入れた。そして白菜や葱、豆腐なども入れていった。純は思わず生唾を飲み込んだ。
「さあ。純さん。肉が焼けましたよ。固くならないうちに、食べて下さい」
言われて純は焼けた肉を小鉢にとって食べた。
「おいしい」
純が言うと、彼女はニコッと笑った。
「お肉。とても美味しいですよ。矢沢さんも食べて下さい」
だが、彼女は白菜や葱ばかり食べて肉を食べようとしない。
「いえ。純さんがうんと召し上がって下さい」
彼女はそう言ってニコッと笑った。時間がたつと固くなってしまうので、仕方なく純がどんどん食べていった。結局、純が肉を全部、食べてしまった。
「あー。美味しかった。ご馳走様でした。どうもありがとうございます」
純は、腹をポンポン叩いて礼を言った。彼女は照れくさそうにしている。
「あの。純さん」
「何ですか」
「純さんのフォーム、美しくて羨ましいです」
「いやあ。そんな事ないですよ」
純は心にもない謙遜を言った。
「矢沢さんだって、テニス上手いじゃないですか」
「ええ。でも、私、上達が頭打ちになってしまって、もうこれ以上、上手くはなれません」
純は言葉が無かった。矢沢はつづけて言った。
「やっぱり、初心者から見れば、上手くて羨ましく思われるかもしれませんけど、上達が止まってしまって、フォームが、自分の満足いくような形でなく、固まってしまうと、つまらなくなってしまいます」
純は言葉が無かった。矢沢はつづけて言った。
「私、もうテニスやめようかと・・・」
「それは勿体ないです」
純はあわてて、まくし立てた。
「僕はフォームは多少、きれいかもしれませんが、体力が無くて、90分やると、もうヘトヘトです。僕がテニスをやっているのは、勿論、テニスが好き、という理由もありますが、それ以上に、体力をつけるためなんです。僕は市民体育館でマシントレーニングとか水泳とかも、たまにしますが、やはり一人でやる運動はマイペースで出来てしまうので、ダメですね。休みたくなったら、いつでも休めるんですから。その点、テニスは疲れても、90分はみっちり、やらなきゃならないですからね。いつもレッスンが終わった後は僕は汗ぐっしょりです。他の運動では、汗をかきません。僕は、子供の頃から喘息で、おばさん達より持久力がないんです。矢沢さんのように持久力がある人が羨ましいです」
「そうだったんですか。たまに練習中に岡田さんがポケットから、小さな吸入器をシュッって吸ってるので、あれ何なんだろう、何かの病気の薬なのかな、と思っていたんです」
「そうです。あれは喘息の吸入薬です」
「やっぱり、そうだったんですか」
彼女は納得した顔で純を見た。
「岡田さん。私どうしたら、もっとフォームがきれいになれるでしょうか」
「そうですね。僕は、運動では何でも、体全体の力で打とう、という意識を持っています。器用な人は、早く運動が完成しますが、小さなフォームになってしまいます。一方、神経質な人は、大きなフォームという事が頭にありますから、上手くなるまでに、それだけ時間がかかります」
「では、フォームというのは、その人の性格によって出来るんですか」
「ええ。そうだと思います」
と言って純は水を飲み、一休みしてから話をつづけた。
「それと、もう一つの要素があります」
「何ですか。それは」
「それはテニススクールの練習法です」
「どういう事ですか」
「つまりですね。スクールでは、あまりにも試合偏重の練習メニューにしてまっています。早い段階から試合をします。しかし、それはよくないと思います。試合は確かに、楽しいですし、勝つと嬉しいです。しかし、そうすると試合で勝とうという事を意識した小さな、安全な、そして、セコい打ち方になってしまいます。大きなフォームつくりを意識しながら、試合でも、勝とうとする事は、極めて困難だと思います。それなので僕はあまり試合は、好きじゃないんです。試合をする時は、勝ち負けは、どうでもいいから、フォームを崩さないようにと心がけているんです」
「そうなんですか。随分、複雑な事を考えているんですね。私なんか、そんなややこしい事、考えてませんでした」
「それと、テニスをしてもう一つ面白いことがあります。それは、一回のレッスンでは、臨機応変に、その時に最も適切な行動をとる、頭の切り替えが、要求される、ということです。一回のレッスンで必ず何かの発見があります。それはコーチのアドバイスであったり、生徒同士の打ち合いを見た時だったり、試合の時だったり、にです。発見し、考え、学び、そして、最終的には楽しい感覚が起こる。まるで僕には、人生の縮図のように思うんです。試合も結局、相手との勝ち負けではなく、自分との戦いだと思うんです。それが面白いんです」
「ふーん。そうですか。ところで岡田さん。一つ聞きたいんですけど、よろしいでしょうか」
「ええ。何でも答えます」
彼女はニコリと笑った。
「岡田さん。私の事、どう思ってたのでしょうか」
純は一瞬、真っ赤になったが、堂々と答えた。
「勿論、好きです。二人きりだから、言っちゃいますが、おばさん、ばっかりの中で、矢沢さんのような、きれいな人がいて、まるであなたはスクールの花だと思っていたんです。スクールに行く時、今日、矢沢さん、来てるかなって、すごくドキドキして、いると、やったー、と凄く嬉しかったんです」
「そう聞くと私も嬉しいです。岡田さんは、無口で何を考えているのか、わからなかったもので、最初は怖かったんです」
「ははは。僕も正直に言いますが、矢沢さんは、警戒心の強そうな人なので、きっと、そんな事、思ってるんじゃないかと思ってたんです。矢沢さんが短いスカート姿でコートにたったら、素晴らしいな、って思ってたんですけど、矢沢さんは、恥ずかしがり屋だから、そんなことは、まずありえないとも確信していました。でも、矢沢さんがいるだけで、嬉しかったでした。特に、運動の邪魔にならないよう髪を輪ゴムで束ねている顔が、とても可愛らしかったでした」
「まあ、そうだったんですか」
「ええ。女の人は、運動する時でも、お洒落する人が多いですけど、まあ自慢のロングヘアーを運動中もアピールしたいんでしょうけど、矢沢さんは、髪は運動の邪魔と思って、束ねていたんでしょうが、そういう無造作さが、可愛いなと思っていたんです。いわば髪フェチでしょうかね」
と言って純は、ははは、と笑った。
「そうだったんですか。でも嬉しいです。私、テニス上達が止まってしまって、もう止めようかと思っていたんです。でも、岡田さんと話していて、やっぱり、つづけようと思います」
「そうですよ。つづけて下さいよ。僕も矢沢さんが、やめたら、さびしいですよ。あれだけ出来れば、もう十分じゃないですか。それに、テニスはフォームがどうのこうのより、非常にいい運動になるじゃないですか。ランニングは単調で地味な運動ですけど、テニスは技術が必要で、また試合は面白いじゃないですか。上達にはさっき、試合偏重の練習はよくない、と言いましたけど。小さな事、つまらない勝負に全力を尽くして戦い、勝って喜び、負けて口惜しがる。この人間の本能に忠実に一生懸命になる、という事こそが素晴らしい事だと僕は思っています」
「岡田さんから、そういう言葉を聞くと凄く嬉しいです。岡田さんは、小説家ですから、形に残る作品を書く事だけに価値があって、テニスなんて、遊びだと、馬鹿にしているんじゃないかと思っていたんです。でも、岡田さんの今の言葉を聞いて、私もテニスをつづけようと決めました」
「そうですか。それは良かった。また矢沢さんと会えると思うと嬉しいです」
彼女はニコッと笑った。
「ちょっと待ってて下さいね」
そう言って彼女はキッチンから出て行った。

しばし、隣の部屋でゴソゴソ音がした後、彼女は戻ってきた。純は彼女を見て、うっ、と声を洩らした。何と彼女は白い半袖のテニスウェアに、短いスカートのテニスルックでラケットを持って来たからだ。髪は輪ゴムで束ねている。純は、一瞬で勃起した。
「す、素敵だ」
純は嘆息した。
「ふふふ。私も本当はこういう姿で、プレーしてみたかったの。でも、スクールには、男の人もいるでしょ。だから、恥ずかしくて、とても、そんな事できなかったの。でも、スポーツ用品売り場を通った時、思わず買っちゃったの。それで、時々、家でこれを着て鏡を見て、一人で素振りして楽しんでたの。おかしいですわね」
「いやあ。そんな事ないですよ。素晴らしいですよ。まさに矢沢さんにピッタリ似合いますよ。まるで矢沢さんのために作られたテニスウェアのように感じます。そこらの、おばさんが、そのテニスウェアを着ても全然、ダメですが、というより、むしろ目の毒というか、公害というか軽犯罪ですが、矢沢さんのような人が着てこそテニスウェアもその真価を発揮するというものです。杉山愛より格好いいですよ。テニスウェアのメーカーと提携して、テニスウェアのモデルになれば、絶対、売り上げが伸びますよ」
純は賛辞の限りを尽くした。
「ふふふ。本当は私もちょっぴり、自慢してたの。でも恥ずかしいから人前では、着れなくって。でも、こうして純さんに見てもらえて、凄く嬉しいわ」
「うーん。矢沢さん。あなたのその姿は芸術です。そんな美しい姿を誰にも見せないなんて勿体ない」
彼女は、煽てられて、ふふふ、と笑ってラケットを持ってヒュンと素振りした。スカートがめくれて、純は思わず真っ赤になった。彼女も見られても、平気というか、むしろ、セクシーさを披露しているようだった。彼女は数回、素振りをした。数回目に彼女は後ろの椅子にぶつかって、あっ、と言ってステンと転んだ。
「だ、大丈夫ですか」
純は転んだ彼女の元にすぐ行った。
「だ、大丈夫です」
彼女は言った。立っていてもただでさえ、見えそうな短いスカートである。座るとハッキリとスカートの中が見えた。思わず純は真っ赤になって目をそらした。
「でも少し、足首を捻っちゃったみたいなんです。少しベッドで休みます」
彼女は言った。
「そうですか。そうした方がいいです」
「ええ」
「では、肩を貸しましょう」
そう言って純は彼女を、そっと立たせ、ベッドに横たわらせた。ベッドはフカフカで、彼女が乗ると、その重みで少し沈んだ。それは、まるで、真珠貝の中の真珠のようだった。憧れの女性が短いスカートのテニスルックで、布団の上に横たわっている。しかも、ここは彼女の家で、二人きりである。勿論、純に激しい劣情が起こった。いっその事、ベッドに乗って彼女に抱きついてしまいたい衝動にかられた。しかし純は、女の弱みにつけ込む事が嫌いだったので、激しい劣情を我慢した。
「矢沢さん。湿布薬はありますか?」
「い、いえ」
「そうですか。それでは薬局に行って買ってきます」
そう言って純が立ち上がろうとした、その時である。

彼女はわっと泣き出した。
「どうしたんですか?」
「岡田さんのような優しい礼儀正しい人が、まだこの世にいるので嬉しいんです」
「よく意味がわかりません。何かあったんですか?」
「じ、実は・・・」
と言って彼女はしゃくりあげながら語り出した。
「や、山野コーチがプライベートレッスンをしてくれる、と言ってきたんです。絶対、上手くしてやると。私は嬉しくなりました。しかし私だけエコヒイキするところを他の生徒に見られると、よくないから、私の家でフォームを直してやる、と言ったんです。私はコーチの言う事は最もだと思ったのでコーチを家に入れたんです。コーチは初めは、膝の曲げ具合だとか、正しいスイングとが、細かくフォームの注意点を言ってくれました。しかし、だんだん、やけに太腿とか尻とかばかり触るようになっていったのです。私は、おかしいなと思い出しました。すると、突如コーチは私に襲いかかってきたんです。コーチは、まるで飢えた野獣のように私をベッドに押し倒すと、ハアハアと興奮した息遣いで、私の服を脱がせたんです。『ふふ。一度、君をこうして抱きたいと思っていたんだ』と言って、彼は私の体を散々もてあそびました。そして最後に、裸の私の写真を撮って、『ふふ。これでいつでも、この写真をネット上にばらまけるな。名前と住所と電話番号を添えて』と思わせ振りな事を言って去っていったんです。スクールに行かなければ、インターネットに私の恥ずかしい写真をばらまく、という意味でしょう。ですから私は、あのスクールに通い続けているのです」
彼女は語り終えた。純は怒りで手がプルプル震え、拳を握りしめた。
「あいつ。善人面してるけど陰ではそんな事してたのか」
純は彼女の濡れた瞳を優しくハンカチで拭いた。
「矢沢さん。僕にまかせて下さい。今度、あいつにレッスンの後、シングルスのサシの勝負を申し込みます。僕なら、あんなヤツに勝てる自信があります。勝てたら、もう二度と、あなたにそんな事をするな、と厳しく言ってやります。彼も皆の見ている前で生徒に負けたのを見られれば、もうデカイ顔も出来ないでしょう」
「あ、ありがとう。岡田さん。頑張って、ぜひ勝って下さい。私が救われる道はそれしかありません」
「まかせて下さい」
「でも、彼はウィンブルドン二連続優勝ですよ」
「ウィンブルドンが何です。僕が絶対、負かしてやります。正義は必ず勝つのです」
純は自信に満ちた口調で言った。その目は、ウィンブルドンなど、いや、どんなに強い敵であろうとも、この世のいかなる強敵をも恐れない真の男の勇気で輝いていた。


平成21年11月22日(日)擱筆

テニス小説

テニス小説

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-09-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted