浦島太郎
うらしまたろう・・・その物語、とくにタマテバコの解釈に多くの人が頭を悩ませている。しかし事実はこうなのである。この話は、決してザンコクな悲劇ではない。うらしま・・・が開けたタマテバコは「人生の意味」・・・と言ってよかろう。うらしまは、もちろん自分の人生を悔いた。
一般に語り伝えられている、この話では、あたかも、その後、うらしまが虚無的に静かに一生を終えたかのごときに人はイメージしてしまう。しかし、うらしまは、「人生の意味」の箱・・・を開けた後、もちろん自分の人生のセンタクを悔いに悔いた。数日、彼は自分の人生が何だったのか沈思黙考した後、意を決し、自分の人生を私小説に書き始めたのである。自分の失敗談から同じあやまちをしないでほしい・・・との老婆心から。それだけではない。彼は懐かしさから竜宮城や、そこで過ごした、楽しかった日々を当時の心にもどってコクメイに美しく描いた。そしてハキョクのおとずれた時の自分の苦悩をも・・・ツルゲーネフの「初恋」以上の迫真力で。彼の書いた小説が今伝わっている「うらしまさん」・・・である。うらしまは、書いているうちに涙が出てきた。いつの間にか、もうそこには、書いている自分の存在さえなかった。手だけが勝手に動いていた。しかし、書いているうちにうらしまの心の内には、なんと言おうか・・・そう、悲壮たるこうこつさ・・・とでもいうような感情が生まれはじめていた。彼はものに憑かれたかのごとく書いた。最後のほうでは、多量のビタミン剤を飲み、喀血しながら山崎という女性に助けられながら書いた。その一遍の小説を書き終えた時、彼は、「できた」と言って絶命したのである。その話は多くの教訓を含んでいた。
少年易老学難成。
一寸の光陰かろんずべからず。
明日におしえを聞かば、ゆうべに死すとも可なり。
人生は一行のボードレールにしかない。
男子たるもの女の甘言には決然とこれを断れ・・・等である。
乙姫は、実はうらしま・・・のような男と何度も楽しい時を過ごしているのである。彼うらしまは多くのに男の一人にすぎない。乙姫は、うらしまがタマテバコを開けることによって年をとらないのだが、彼女はそれで幸せなのか・・・といったらそうではない。乙姫がこのような奇矯なざれごとをしているのは実は海の神の命令なのである。はたして彼女は幸せか? ちがう。本当は彼女は一人、かけがえなく愛し合える男と一回の実人生を送りたい・・・と思っているのである。タマテバコをうらしまが三日あけなけば彼女の命は逆に絶たれてしまうのである。「あけないでくださいね」という彼女の目には切実な悲しみがこめられている。
ちなみにカメはどうしたか。カメも海の神の命令で演じている一匹の役者にすぎない。もちろんカメはイスカリオテのユダのように首をつったりしない。なぜ海の神がこのようなことをさせているのか。それはもちろんわからない。ただ聖書にはこう書いてある。
「主なる神を試みてはならない」
浦島太郎