とある携帯業界の日常

牧野健市

  1. 1月 プロローグ
  2. 2月
  3. 3月
  4. 4月
  5. 5月 エピローグ

1月 プロローグ

《平成19年1月》

 細長く幅の狭い、うなぎの寝床のような部屋だった。一組の男女がソファーに腰掛けて向き合っている。男女の年の差は一回りほどだろうか。二人とも俯いたまま微動だにしない。
 先に沈黙を破ったのは、年下の20代半ばらしき女性だった。
「社長、金額は幾らだったのですか?」
 緊張のあまり粘着質になった生唾を嚥下する音が、狭い室内に響く。それをかき消すように、男がワザとらしく咳払いを1、2回。
「彼が先月使った通信費は約102万円。キャリアは我々に全額負担させるつもりだ」
 先ほど飲み込んだ生唾が体内で変換されたかのように、女性の見開かれた目蓋から涙がにじみ出る。
「私、全額支払います。だけど今そこまで貯金がないんです。月々のお給料から少しずつ引いて頂ければ……」
 社長と呼ばれた男は、泣き濡れる女性に遠慮するように、小窓の隙間から外の景色を眺めた。田舎の幹線道路は片側だけ混雑している。帰宅の途に付く勤め人で賑わう時間帯だった。
 男は女性にゆっくりと語りかけた。
「君には1円も払わせない。そして、これまで通り勤めてもらうつもりだ」
 男は相手の反応を見ながら頷きかける。
「でも、それじゃあ会社が……」
「心配ない。それぐらいの蓄えはある」
 自らに言い聞かせるように唇を噛みしめた。
「新卒でこの会社に入社して約4年、根気良く働いてくれた。ボーナスも毎回寸志程度で、申し訳ないと思っていたんだ」
 男は軽く歯軋りしつつ俯いた。
「今後同じようなミスは避けてほしい。ただ俺としては、この会社で働くことが何よりの返済になると考えているよ」
「すみません、本当に申し訳ありませんでした!」
 彼女の瞳の上に涙の第2幕が形成されていく。男はうなだれる女性の肩にそっと手を添えると、カーテンで目隠ししてある出口から部屋を出た。
 部屋を出ると、約10メートル平米のスペースが眼前に広がっている。その周囲はガラス張りの壁で覆われており、白茶けた床が夕日を照り返して、こんがりとしたオレンジ色に染まっている。
 接客用のパソコンの前に、スーツ姿の青年が不安気な面持ちで座っている。座礼を寄越してきた彼に会釈を返すと、ガラス扉の前に立つ。
 年代物の自動扉が床との摩擦音を奏でながら渋々左右に開く。狭い隙間から室外に出ると、電動式看板のスイッチを入れた。
 腰の高さほどの看板は派手な黄色の光を発した。その中央には白抜きで『レッドモバイル』と印字してある。携帯3大キャリアである事を示す看板が、夕日とのツートーンカラーを成して燦然と光り輝いていた。

2月

 久野啓子(ひさのけいこ)27歳は、レッドモバイル戸園店の店長である。
 小柄な体格だが、全身から快活なオーラが溢れており外観以上の存在感がある。円らな丸目とマッシュボブの髪型がボーイッシュな印象を加味していた。
 店長暦は3年。同店舗で7年以上の勤務経験を有しており、携帯業界ではベテランと言って差し支えないだろう。
 啓子は駐車場に止めた原付のメットを座席下に押しんだ。手探りでブルゾンのポケットをまさぐり、キーホルダーを探り当てる。休日明けの軽い足取りで店の入口に駆け寄り、鍵を開ける。自動扉は作動しておらず手動で扉を開く。
 まだ誰も出社しておらず明かりもついていない。バックヤードに荷物を置くと、まずパソコンの電源を立ち上げた。
接客用のカウンターに3台、バックヤードに1台。それぞれ店舗IDとスタッフ用のパスワードを入力し、さらに指紋認証をクリアしなければ動作しない。個人情報を扱う端末なので、セキュリティーが厳重になっているのだ。
 タイムカードをバックヤードの機器に挿入すると、9:12と印字された。さすがに出社が早すぎたかな、と小首を傾げる。だがそう思ったのも束の間、作動させたばかりの自動扉が摩擦音で軋む音が聞える。
「ごめんくださ~い。もう開いているかしら?」
 バックヤードと店頭を遮るカーテンの隙間から覗き見ると、杖を持った老婆が自動扉の前で首を左右に振っている。
「どうぞ~。大丈夫ですよ」
 開店は10時からなのだが応対する事にした。右手で空調のスイッチを入れながら、左手で黄色のスカーフを調整しつつ店頭に出る。その時、老婆の後ろからスーツ姿の男性が現れた。
「久野さん、僕が対応します」
 声をかけてきたのは副店長の鮫島だ。抱えたコートの裾を踏みそうになりながら入店してくる。
「あらあら、この前の人じゃない。朝早くから助かるわぁ~」
 ひいきのスタッフを捕まえて、老婆の機嫌は上々だ。鮫島が数日前に新規獲得した顧客だったのだ。
「どうぞ、おかけくださいませ」
 来客をカウンターへ案内すると、啓子は店外の掃除を始めた。2月後半の朝の外気は容赦なかった。啓子はとめどなく沸きあがる鳥肌を片手で揉み潰しながら箒を動かす。
 店内の様子が気になったのでそっと覗くと、どうやら鮫島がメールの使い方を説明しているようだ。老婆の手には年配者向けのカンタン携帯があった。
 店内へ戻ると、老婆が椅子から立ち上がろうとしていた。
「最後に一つだけご案内したいことがあります」
 鮫島が立ち上がって再度老婆へ着座を促す。
「有害サイトへのアクセスを無料で規制できるサービスがあります。加入をお勧めしたいのですが、いかがでしょうか」
「でもねえ、私インターネットなんか見ないから。やり方も解んないし……」
「使いやすい公式サイトにしか接続できなくなるので、今後安心できます。完全に無料ですしね」
「そうねえ、そこまで言ってくれるのなら。申し込んじゃおうかしら」
 やや強引な勧誘だったが、結局サービス加入の手続きへ移行したようだ。
 料金プラン変更などの〔情報変更〕は、代理店の貴重な収入源の1つだ。1件につき数百円の収益が委託元のキャリア『レッドモバイル』から入ってくる。来客者にメールの使い方だけ教えてそのまま返すのと、1件でも変更を行なうのでは、積み重なれば大きな差が出る。鮫島の収益へのこだわりは社内随一だった。
「おはようございます。今朝も早いですね」
 客を見送った鮫島が啓子に向き直った。
 副店長の鮫島遼一(さめじまりょういち)34歳は、中途入社で在社歴は1年ほど。前職は保険の営業マンだったらしい。社長の意向で最近副店長への抜擢となった。
 端正な面立ちだが、幅の長い眼は常に左右に睨みを利かせているような威圧感がある。その目元にマッチしたスクエア型の眼鏡が彼のトレードマークである。
 細長い印象の毛髪を整髪料で丁寧に撫で付けており、青年らしい若々しさは感じさせない。冷徹な雰囲気の彼は、スタッフの引き締め役となっていた。
「私、昨日休みだったんだけど、鳥飼(とりかい)さんの様子はどうだった?」
「割と普通だったような。少なくとも以前みたく落ち込んではいないです」
 店舗スタッフの鳥飼摩梨(とりかいまり)がおかした大失態は、スタッフ間で目下語り草となっている。
 啓子の4歳年下の鳥飼の在社歴は約3年。病弱な体質でなければ今頃副店長の座におさまっていただろう。座学に秀で、豊富な知識を活かしてあらゆる業務をそつなくこなす。普段はケアレスミスも少なかったのだが、今回は運悪く多額の損失を出してしまった。
 彼女の犯したミスは〈ムービークリップ〉と呼ばれる定額の動画見放題サービスの付け忘れである。機種変更と同時に同サービスを受け付けたのだが、この際、申込用紙の〔当月適用〕のチェック欄を見逃したのが原因だった。
 ほんの数週間で利用されたパケット通信費は、なんと100万円以上に上った。端末を購入した高校生男子が映像コンテンツを多数ダウンロードし、通信費が膨れ上がったのだ。
 定額になっていると思い込んでいた彼は、翌月の請求書を見て顔面蒼白となった。そのまま請求書片手に店舗に乗り込んできた際に、店舗側のミスが発覚した。
 請求金額が莫大な金額に上ったこともあり、委託元のキャリア『レッドモバイル』と、販売代理店『有限会社ライズレイ』の間では幾度も話し合いが行なわれた。結局全額『ライズレイ』が負担することとなったのだが、社長は今でもこの件に納得していない。交渉中は「せめて折半にしたい」と漏らしていたが、キャリア側は全く折れなかった。
 ほんの1箇所、チェックを入力し損ねただけで100万円以上の損失が出てしまう。利用料金をコントロールする事の危うさをスタッフ全員が再認識した出来事だった。
 被害総額を鳥飼に請求せず全額会社が受け持った事は、店舗スタッフの社長に対する忠誠心を喚起した。啓子としても、より強固になった団結心を武器にこれから迎える繁忙期を乗り切る心づもりだ。
 清掃を終えて身なりを整えた啓子の元に、鮫島が1枚の履歴書を持ってきた。
「この子ですか、最終面談まで進んだ子は。今日ですよね」
「ええ」と、短く頷いた啓子が、受け取った履歴書を再チェックする。
 履歴書には若い女性の証明写真が添付されており、氏名欄には【児玉浩美(こだまひろみ) 22歳】と記載がある。やや丸みがある字体だが丁寧にまとめられている。
「現在『コミックだらけ』でアルバイト中、ですか。本屋務めのようですが、携帯業界の経験は問わなかったんですか」
「あなたのときもそうだったでしょう? 接客に向いてそうだから、私は採用に前向きだけど。後は社長次第ね」
 写真で見るかぎり朗らかな笑顔は好感が持てる。しかし、ひょうたん型の輪郭はひょうきんな印象が先立つ。
 レッドモバイル戸園店は、現在社長を含めて5名のスタッフで運営されている。社長の御国は土日祝日のみのヘルプ要員である。今回3,4月の繁忙期を睨み、増員という運びになった。
 このショップがある戸園という街はやや独特な立地条件にある。イメージとしては、台形の中央にある平地に住宅街が密集している感じだ。市街地から戸園に出入りするためには、勾配が急な坂道を必ず越えねばならない。交通の便も良くないので、他の地域から孤立している感があるのだ。
 店舗周囲を団地やマンション等の集合住宅で囲まれており、来客には恵まれている。ショップにとってさらに好都合だったのが、最大のライバルとなりうる家電量販店が存在しないことだった。
「そろそろ外の旗立てましょうか」
 腕時計が10時近くを指しているのを見て、啓子が鮫島にオープンの準備を促す。平日の午前中は来客が少ない事が多く、今日は繁忙期に向けて申込書の社判押しに励むつもりだった――。

――同日午後1時50分。ガラス張りの自動扉を律儀にノックしようとしているスーツ姿の女性を鮫島が見つけた。感度が悪い自動扉がディレイをかけて左右へ開くと、女性のゲンコツがむなしく空を舞う。
「こんにちは。面接の方ですよね?」
「はいっ、児玉浩美と申します。お仕事中に失礼しますぅ」
 彼女は姿勢を正して挨拶した。ぽっちゃりとした胴体がゼリーのようにプルンと震える。
「社長がまだ来ていないんですよ。こちらでお待ちいただけますか」
 ボコボコになったソファーを手の平でなめしながら、鮫島が案内する。丁度その時、駐車場に車が止まる音が聞こえた。社長の白いセルシオを視界の端に捉えると、鮫島はバックヤードに向かう。
「久野さん。面接の方と社長がセットで到着です」
 鮫島が目隠しのカーテン越しに報告する。啓子は野菜炒め弁当をかきこんでいる最中だった。
「うがいだけさせて。面接、私も同席するから」
 接客中の久野を後回しにして、先に鮫島が昼食をとったのが響いたようだ。
「分かりました。表は僕に任せて下さい」
 売り場に戻ると、スーツ姿の社長が入店してくる。
「お疲れさま~。今、そんなに寒くないじゃん。少し空気の入れ替えをしよう」
 挨拶を返した鮫島が自動ドアのスイッチを切る。
 社長の御国は輪郭が濃いワイルドな風貌だが、優し気な目元がマイルドに中和している。齢は40過ぎだが、前髪を長めに残したソフトモヒカンが若々しい雰囲気を醸成していた。
「ごめんね、遅くなって。啓子ちゃんは?」
 御国が鮫島に問いかける。
「どうぞ! 大丈夫です~」
 バックヤードから啓子の大声が響き、同時に机を引きずる音も聞えてくる。面接用の即席応接セットをこしらえようと、一人奮闘しているのだ。
「鮫島君は表を見ていて。面接の方、私について来て下さい」
 先に社長がバックヤードへ入り、児玉がその後に続く。
「すみません、バタバタしちゃって」
 準備を整え終えた啓子が、社長と児玉を交互に見やる。
「私、児玉浩美と申します。本日は宜しくお願い致します」
 引きつり気味の頬に緊張を刻んだ児玉が腰を折る。
「私は『有限会社ライズレイ』の社長、御国誠(みくにまこと)と申します。どうぞ、座ってください」
 児玉はカーテン側の下座に一礼して腰掛けた。社長と啓子がその対面に座る。
「最終面談という形ですが、私は採用に関しては店長の久野に一任している。今日は当社の事をより深く知ってもらったうえで、あなたにここでやっていく意思があるか確認したい」
 朗らかな微笑を浮かべて話を紡ぐ。
「ご存知かもしれないが、ほとんどの携帯ショップは各キャリアの直営でなく、我々のような運営代理店が経営している。ようするに、ここにいる久野店長も他のスタッフも、レッドモバイルの社員ではなく『ライズレイ』の社員なのだ」
 話を振られた啓子が児玉に目配せする。
「新規獲得すれば1件につき幾ら、また機種変更だと幾らと、手続き毎に販売手数料がキャリアから当社に入る。その収益で代理店は成り立っているわけだ。手数料の金額はスタッフに伏せている店舗もあるが、当社は全てオープンにしている。数字を意識して動いて欲しいからね」
 無言で頷く児玉の両肩が耳の近くまでせり上がっている。社長を前にして緊張しているようだ。
社長が茶封筒から2枚の書類を取り出す。
「これが当社の組織図と、就業条件の誓約書だ。まず、組織図に目を通して下さい」
 児玉が受け取った組織図はいたってシンプルなものだった。
「当店のスタッフは現在計4名。私も忙しい時にはヘルプに入る。ちなみに経理も営業も全て私がこなしている。経費を浮かす為にね」
 この点については啓子も感心している。社長は行動力と実務能力を兼ね備えた人格者であり、尊敬できる上司だった。
 その御国が悪戯っぽい表情で児玉に問いかける。
「ちなみに、今携帯はどこを使っているの?」
「すみません、シルバーモバイルを使っています。採用いただけたら、レッドさんにMNPするつもりです」
 気まずい沈黙が室内の時を止めた。
「あはは、今流行ってるからねぇ。別にあやまることはない、入社後も特に強制しないから、どこを使っても構わないよ。勉強さえしてもらえればねぇ」
「実際、他キャリア製を使っている者もいますし、問題ないですよ」話を振られた啓子が明快に受け応える。
 くだけた表情を真顔に戻し、御国が話の締めに入る。
「携帯の販売と聞くと、クリーンで煌びやかなイメージが先行する。だけど、実際には泥臭く厳しい業界だと覚悟して臨んでほしい。次々登場する新サービスを覚えねばならないし、客からのクレームも多い。加えて個人情報を取り扱う仕事だから、細心の注意を払って業務に携わる必要がある」
 このあたりの話は1次面接で啓子から伝えてある。社長もそれを承知で2本目の釘を刺しているのだ。
「全て踏まえたうえで、この会社でやっていけそうですか」
「はい、是非お願いします」
両肩にせり上がっていた緊張感は、腹の下に押し込んでいた。
「そのシルバーモバイルが、今我々の“最大のライバル”なんだよね?」
「はい。繁忙期は気を引き締めて臨まないと、前年割れどころでは済まないでしょう」
 話を振られた啓子が即席の模範解答を返す。
「じゃあそのためにも、児玉さんに活躍してもらわないとね」
 店の前の道路を挟んで向かいにあった弁当屋が潰れ、3大キャリアの一画である『シルバーモバイル』のキャリアショップができたのはつい最近のことだ。それ以来、新規契約、機種変更の数がじわりと減少している。思わぬ伏兵の出現にライズレイの面々の心中は穏やかではない。
「採用の最後の詰めは二人でするから」と社長に言われ、啓子は店舗へ戻った。表では、鮫島が男子学生二人を相手に接客をしている。
啓子が目と鼻の先のライバル店を見据えると、その店内のスタッフと偶然目が合った。赤色と銀色の見えざる火花が、道路の中央で激しく衝突した。



 2月8日、関東国際フォーラムの巨大ホールにて【シルバーモバイル株式会社・中長期目標発表会】が開催されていた。ホールの全5000席を埋め尽くした参列者のほとんどがスーツ姿のビジネスマンだが、私服姿の招待客も散見される。 
『シルバーモバイル』は、日本国内第3位のシェアを誇る携帯電話事業者である。
 創業当初は、企業買収だけが話題の本業不明の会社だった。外資系キャリアの日本法人を買収し、携帯電話事業に本格参入したことが大きな転機となった。斬新な料金プランやCМなどの積極的な営業攻勢が実り、またたく間に純増数1位の常連となる。
 安価な料金設定は多くのユーザーの支持を獲得し、いまや日本を代表する大企業として認知されている。その中でも強烈な個性で注目を集めているのが、社長の佐田松泰成(さだまつたいせい)である。
 ほんの数名でスタートした零細企業を、大胆な発想と行動力で営業利益国内5指に入るほどの大企業に成長させた原動力である。鋭角な細目と高い鼻の組み合わせが、狡猾な狐を連想させる。ワントップの重責を担うこの58歳は、今まさに時の人となりつつあった。
 壇上ではその社長による単独のプレゼンテーションが行なわれている。
「シルバープランの真の狙いは法人需要の刈り取りでした。日本のビジネスシーンを下支えする役割を担う事。今や多くの企業様と緊密な関係値を構築しております」
 今まで2時間近く、ぶっ続けで話している者とは思えない声の張りだった。体内で燃焼する野心が、彼の声帯に力を与えている。
「ついにスマートフォンの独占販売権取得の算段が立ちました。我々は日本の携帯業界に革命を起こします。旧態依然とした他キャリアは、なす術なく敗れ去るでしょう。ついに政権交代の時が来たのです!」
 現在、日本では折りたたみ携帯のみ販売されている。スマートフォンの通信定額料を獲得するために、通話料にメスを入れた佐田松の先見は正しかったのだ。
「今から数十年後、我々は世界でも有数の大企業の仲間入りをしていることでしょう。そのためのビジョンも、この中にあります」
 佐田松が得意げに自分のコメカミを人差し指で2回突いた。
「次回の事業報告では、株主の皆様に良い報告ができそうです。本日は多数のご参集、ご静聴、まことにありがとうございました」
 プレゼンの終了を確認した参列者たちが、一斉にスタンディングオベーションで佐田松を讃える。万雷の拍手で会場が揺れる中、ホールの端に寄りかかったスーツ姿の二人組が面倒くさげに口を開いた。
「ここまで恥ずかしげもなく自賛できる神経にはほとほと感心するよ」
 中年男性コンビの片割れが揉み手のような拍手をする。
「まったくだ。ライバル会社の関係者を自社のイベントに参集するとは、どんな神経をしてるんだか」
 白髪が目立つもう一人が同意を示す。
「喧嘩仲間の顔が見たくなったんじゃないか。もっともこちらから挨拶に行こうとも思わないが」
 二人は携帯電話業界の最大手『カイザーモバイル』の中間管理職である。社長と名刺の交換をした事があるというだけで、このイベントへ招待されていた。
「だが、外資系キャリアの買収は先見の明があったと言わざるを得ないだろう」
 シルバーモバイルが数兆円を投資し外資系キャリアの買収を行なった際は、同業者から冷笑を浴びた。莫大な負債を抱えて自己破産まっしぐらと思いきや、その後の躍進には目を見張るものがある。MNP開始までにはしっかり体制を整えられ、高を括っていた競合他キャリアは貴重なシェアを奪われたのだ。
「負債を返済し終えたら、次はレッドの買収に着手するかもしれんぞ」
「冗談だろう? だがレッドと連立政権を組まれたら、シェアはうちとほぼ五分になる。うかうかしてられんな」
 加入者のシェアはレッドが上だが、営業利益はシルバーが上回る。全くありえない話ではない。
「面白い仮説だ。我々の料金体系とレッドの強力なインフラが手を組めば、双方の弱点を補完でき、理想的なパートナーとなるかもしれない」
 カイザーの管理職コンビが訝しげな目を背後に向ける。そこには先ほどまで壇上にいた佐田松社長が佇んでいた。
 まったく予想外の展開に二人の口が半開きになる。佐田松社長は驚愕する二人を意に介せず、自分だけの世界に浸っていた。口元に手を当てたまま微動だにしない。先ほどの買収話を真に受けて、真剣に検討しているのだろうか。
「た、大変失礼致しました。謹んでお詫び申し上げます」
 平身低頭の二人の台詞がシンクロする。
「別に謝る必要は無いですよ。ありきたりな罵詈雑言には関心がない」
 佐田松が細長い目を湾曲させ余裕の笑みを作る。
「私にはいつもいかがわしい形容詞が付きまとう。非常識だとか、大ホラ吹きだとか。だが、遠くない未来には皆前言を覆すことになる」
 大言壮語をあくなき情熱と明晰な頭脳で実現させてきた者の言葉には重みがある。彼は有言実行が常だが“有言”と“実行”の間には2,30年のタイムラグがある。研ぎ澄まされた先見の明を最大の武器としてきたのは間違いない。
(まずは赤色を銀色に染め上げることから始めよう。全てはそこからだ)
佐田松は黙って踵を返すと、周囲の取り巻きと共にその場を後にした。 



 一人暮らしの自宅ベッドで目覚めた啓子は、帰宅後にうたた寝してしまったことに気が付いた。鏡を見ると、カールがかかったショートボブに派手な寝癖がついている。爆発の中央にある自分の顔を一瞥すると、制服をベッドに脱ぎ捨てて浴室へ向かう。
 暖房が効いていない真冬の気温を体感する事で、寝ぼけ頭が覚醒していく。空腹を覚えたので、湯船には浸からずシャワーだけで済ます。
 キッチンの鍋を覗くと、先ほど帰ったばかりの母親が作り置いたグラタンが湯気を立てていた。ダイエット中である事を思い出し、海老を中心につまみ上げて皿に盛る。冷蔵庫の余り物を総動員してツマミセットをこしらえると、缶ビールを鷲掴みにしてコタツ前に陣取った。
 熱いシャワーで茹で上がった体を、キンと冷えた炭酸が心地よく通りすぎていく。
 ひと通りツマミをやっつけると、頭は自然と仕事モードへシフトする。現在の店舗スタッフは能力も性格も一長一短だが、店舗全体ではうまく欠点を補い合い、バランスを保っていた。接客が得意なのか、それとも豊富な知識を武器とするのか。新人の児玉はどのカテゴリーに属するのだろうか……。
 頬杖を突いてベッドを仰ぎ見ると、無性に物悲しさが込み上げてくる。付き合っている彼氏とは最近ほとんど会えていない。互いが仕事で忙しく、時間が噛み合わないのだ。
今年の繁忙期は修羅場になるだろうと、啓子は予想していた。社長は多くを語ろうとしないが、最近キャリアが代理店への手数料を出し渋っているのは、日々の収益計算から明白だった。その上で競合店も登場している。
 順風を受けていないのであれば、スタッフ全員で力強く漕ぎ出すしかない。スタッフのミスを取り返し、さらにプラスアルファの業績を残さねば、会社の存続すら危うくなるだろう。
 啓子は缶ビールの残りを流しに注ぎ込むと、新人用のマニュアル作成のためにパソコンを立ち上げた。



「おはよーございまっす!」
 ご機嫌なイントネーションで出勤してきたのは、アルバイトの的野哲平(まとのてっぺい)だ。
 小柄でダックスフンドに似た容姿は愛嬌があるが、同時にヤンチャな内面も見え隠れしている。
 彼はスタッフ内で唯一10代の若者であり、勤務歴半年未満の準新人だ。押しの強い接客で成約率の高さが売りだが、集中力散漫でうっかりミスが多い。試用期間が過ぎた今もアルバイト待遇のままであった。
啓子はいまだに彼の教育係であり、児玉の研修は傷心気味の鳥飼に任せることになった。
「ちょっとぉ~、遅いんじゃありませんこと? 社長殿」
 時計は10時をわずかに越えている。開店は10時だが、その準備のために出社は9時40分までと決められていた。
「いや、社長まではなってない。副社長ぐらいでしょ。だって、2分しか遅れててないもん……痛たたたっ!」
 自称副社長の耳を軽くつまんで、バックヤードへ連行する。タイムカードを印字し終えると、説教タイムの始まりだ。
「朝定時までに出社して、開店準備をするのは当たり前のことです。今日から新人が入社します。先輩として、見本になるように振舞って下さい」
「ごめんなさい。今後気を付けます」
 落ち込んだ様子の彼の長髪は、気持ち張りがなくなったように見える。
「ほらほら、旗ぐらい立ててちょうだい。行った行った!」
 的野を屋外へ追い払うと、カウンターを清掃中の鳥飼に声をかける。
「鳥飼さん、さっき渡したマニュアル無理やり使わなくてもいいから、自分の好きなように教えてね」
「でも私、人に仕事を教えるのって苦手だから、有効活用するわ」
 色白の美人顔に儚げな微笑を浮かべて鳥飼摩梨が応えた。痩せぎす未満の痩身は病弱な身の上を連想させる。実際に強度の喘息持ちなのだが、発作が出ていないあいだは問題なく働けるのだ。
 彼女の細長い睫毛が物憂げな八の字を描いているが、表情は穏やかだ。失態のショックからは立ち直りつつあるようで、啓子は安堵した。新人の教育が気分転換になってくれれば幸いである。
 新人の児玉は朝1番に出社して、バックヤードで座学に勤しんでいる。啓子は児玉の隣の席に浅く腰かけた。
「スカーフの巻き方上手じゃない。髪型もそんな感じで問題ないから」
「鳥飼さんにならったんですよぉ。まだすごく時間がかかります」
 児玉は三つ編みの先端をいじりながら、照れくさそうにした。赤色のリボン型のスカーフは、児玉の朗らかなイメージにぴったりだった。
「勉強の調子はどうですか」
「う~ん。要点を先に覚えたいのですが、どこが重要かも良く分かりません」
「じゃあまず、料金プランから覚えてください。あらゆる接客の基本となる知識だからね」
 携帯電話についてはさほど詳しくないと言う児玉だったが、元々詳しい方が珍しい。自分のペースで覚えてもらって構わないのだが、繁忙期を間近に控えているので、気持ち早いペースで戦力になってほしかった。
「じゃあ皆集まって。もう10時になるけど、急いで朝礼をしましょう」
 カウンター付近に全員を招集して朝礼を開始する。スタッフがメモ帳とボールペンを用意する様を見て、児玉もそれに見習う。
「おはようございます。皆さんご存知の通り、今日から新人の児玉さんがシフトに入ります。研修役には鳥飼さんを抜擢しましたが、スタッフ全員でフォローして下さい。では、早速挨拶を」
 手振りで促すと、半歩前に出た児玉が口を開く。
「今日からお世話になる児玉浩美です。携帯業界は初体験ですが、理解を深めて皆さんの力になりたいです。どうぞ宜しくお願いします」
 常識的な所信表明に全員が拍手で応える。協調性の高さが垣間見れ、皆の頬がゆるむ。
「引継ぎなど特にありませんかね……では、本日も1日宜しくお願いします」
「宜しくお願いします!」
 スタッフの復唱が終わると、各自、書類やFAXのチェックを始める。啓子はパソコン前に陣取り、今月の収益チェックを始めた。
 月の半ばで約80万円の収益。月に200万円いけばトントンに近いと社長から言われており、危機感を禁じえない数字だった。しかし元々、2月は年間を通してもそれほど成績が良い月ではない。来月、再来月が勝負時であり、それは皆が承知していた。
「いらっしゃいませ」
 鳥飼の可憐な声が来客を告げると、全員が復唱しつつ先言後礼で頭を垂れる。作法を知らない児玉が、ワンテンポ遅れて頭を下げた。
「どうぞ、おかけ下さいませ」
 鳥飼が研修用のマニュアルを片付けながら、来客者をカウンターへ招いた。
 朝一の来客者は20代前半らしき男性だった。パリッとしたジャケットをジーンズでカジュアルダウンしており、いやに垢抜けた印象を受ける。 
「料金プランの見直しをしてほしいんですが」
 男性の第一声に反応して、啓子が児玉に話しかける。
「ちょうど良かった。鳥飼さんの接客を見ていて下さい」
 タイムリーな来客に便乗して、児玉に格好のお手本を見せるチャンスだ。頷いた児玉が、遠慮がちな蟹歩きで鳥飼に擦り寄る。
「かしこまりました。では、ご本人様と確認できる物をご提示ください」
 男性客が鳥飼に免許証を提示する。
「ありがとうございます。続けて、こちらの受付メモにお名前、住所、生年月日、およびお持ちの携帯電話番号の記入をお願いします」
 用紙を受け取った鳥飼は、免許証と照らし合わせつつパソコンに情報を入力する。確認を済ませると接客用の総合カタログを開いた。料金プランが載っているページは毎月ほぼ同じで、素早くそのページを開く。
「お客様は現在プランMでご利用のようですね。無料通話分は足りていますか」
「仕事用の携帯を持ってから、こっちではほとんど話さなくなった。1番低いSSにしてもらえるかな」
「基本使用料は確かに安くなります。その代わり、貯まっていた無料通話が4000円までしか繰り越せなくなります。その点は問題ございませんか?」
 意表を突かれた男性客が軽く頭を抱える。
「そう言えば結構余ってるんだよなぁ……。じゃあ、とりあえずS、ぐらいで」
「かしこまりました。料金プランの変更は、来月1日から適用となります」
 鳥飼が契約内容変更届けに記入を促す。その間も、鳥飼の補足説明は続いた。
 帰り際、男が折りたたんだメモ紙を鳥飼に手渡した。彼は鳥飼の耳元で何かを囁くと、意味ありげな目配せを投げかけつつ退店した。
 呆然としている鳥飼に啓子が話しかける。
「知り合いだったの?」
「いや。メアドを渡すから、連絡を欲しいと。デートの誘いを受けました」
 鳥飼の頬紅が気持ち濃くなったようにも見える。だが初めてのことではないので、あしらい方も心得ているだろう。
「嬉しくないことはないけど、今後しつこくされるとちょっとね……」
 美人で気が弱そうな鳥飼は、男性客に色目を使われることがよくあるのだ。
「これだけ衆人環境の中で、よくもまあ……」
 的野は男性のアグレッシブさに舌を巻いている。
 啓子も同意を示すあきれ顔で児玉に話かける。
「ところで児玉さん。参考になりました?」
「料金プランを変更するだけなのに、ここまで話が複雑になるとは思いませんでした。勉強になりますぅ。それに、お客さんにデートに誘われるなんて、憧れちゃいます」
 啓子が苦笑を浮かべる。
「もし誘われても返信厳禁よ。ちょうどいい機会だから、プランの説明から教えましょう」
 鳥飼の提案で児玉に研修を始める。
「あなたも少しは見習いなさいよ」
 啓子が細めた横目で的野を睨む。
「分かりました。俺も後で、鳥飼さんをデートに誘おうっと」
「こらこら。見習うのはそっちじゃないでしょ」
 的野が鳥飼に不器用なウインクを送る。それを丁重に無視しつつ、カウンターでは真剣にロールプレイングが行なわれている。
「こいつも一緒にお願いします」
 啓子は的野の両肩を抑えると、無理やり児玉の隣に座らせた。



 東京赤坂の上品な路地裏にある料亭の一室で、還暦を越えて久しい大物二人が旧交を温めていた。目と鼻の先に永田町の国会議事堂や首相官邸があり、耳をすませば隣室から国政談義が聞えてきそうだ。
「いいかげん、他人の褌で相撲とるのはやめてほしいもんだ。連中は昔から、全く進歩が見られない」
 揃えた箸で斜め前の空中を突きながら愚痴ったのは、カイザーモバイル株式会社の代表取締役、堤秀文(つつみひでふみ)だ。頭が異様に大きく、台形の頭頂部をホームベースと揶揄されている。常識的かつ社交的な人物として知られているが、今は酒が回って地が見え隠れしている。
「シルバーさんは、キャッシュを事業拡大のための先行投資に充てたいのでしょう。手前勝手に商売がやれるのは、うらやましい限りですな」
 堤に招かれた総務副大臣の原田正邦(はらだまさくに)が分析めいた事を言う。わずかに残った白い前髪をきちんと七三に分けており、彼の几帳面さが窺い知れる。
 昔からインフラ整備に金をかけず、その度にカイザーモバイルの設備をうまいこと利用しようとするライバル会社に対し、堤は苛立ちを隠せない。
「まあそのあたりは厳重に注意しておきましたよ。きちんと事前協議をするように、とね」
 原田が厳かに発言すると、すかさず堤が原田の杯に酒を注ぐ。
「なんだ、酒がぬるいな。熱いやつを持ってこさせよう」
「堤さん、私はぬる燗でも結構ですよ。それにあなたとの会話で、充分体は火照っています」
 堤たちが本日2回目の乾杯をする。
「ところで原田君。例のSIMロック解除の件、実施の見通しはたったかい」
「ええ。閉鎖的な日本の市場をオープンにするために、必要なことでしょう。端末メーカーもより存在感を増すことになる」
 現在、携帯電話端末は各キャリアと紐付けされており、電話番号が入ったSIMカードを他キャリアの端末に入れ替えて使用することはできない。そのロックを解除できるようにすれば、ユーザーは自キャリア以外の端末を自由に利用できるようになる。
「元々SIMカードの存在意義は、端末を選ばずに電話番号を利用するためにあるのだから、あるべき姿に戻すべきだろう」
 堤が刺身をひっくり返して両面に醤油を染み込ませる。
「海外ではSIMロックは限定的に設定されているケースが多い。日本もグローバルスタンダードに見習うべきではないですかねぇ」
 原田が酒をすすりながら同意を示した。
 カイザーモバイルの最大の狙いは、シルバーモバイルが独占的に販売予定のスマートフォンのSIMロック解除である。高速、大容量が売りのスマートフォンだが、脆弱なシルバーモバイルのインフラでは接続の安定性に懸念がある。
 競合他社としては、スマホ販売権はなくとも利用通信料は欲しい。そんな都合良い要求をかなえてくれるのが〔SIMロック解除〕なのだ。先ほど“他人の褌で相撲を云々”の批判を展開したばかりだが、例え二枚舌を非難されようと合法的にやり遂げれば問題ない。堤はそう踏んでいた。
「うちでは来年の春モデルから、全機種SIMロック解除に対応しようと考えている。総務省の意向に沿って、ね」
 堤が太い眉を怒らせて原田に睨みを利かせる。
「堤さんにはかないませんなぁ。別に凄まなくとも、総務省の公式見解として発表しとるでしょうが。まあ解除と言っても、レッドさんは電波方式が違うからどうしてもその恩恵を受けられない。このあたりの公平性が課題ですな」
 レッドは蚊帳の外、シルバーは端末だけ提供して利用料金は搾取される。カイザーの一人勝ちだからいいんじゃあないかと、堤は心中で本音をぶちまける。だが、総務省に露骨な援護射撃を求める訳にはいかない。今日はあくまでも旧友との親睦を深めているだけであり、ダーティーなスタンドプレーに走るつもりは毛頭ない。王者カイザーモバイルは昔も今も清廉潔白であり続けるべきだろう。
「この前、部下がレッドのイベントに参加したとき『赤色が銀色に乗っ取られるかも』という仮説を展開したらしい。話を聞いていた佐田松さんがその気になっていたと言っていたよ。ありえる話だと思うかい?」
「そんなことになったら大変だ。御社はなんとしてもシェア5割を維持しなければなりませんな。でないと、ねじれ国会になってしまう」
「人聞きの悪いこといいなさんな。ルールを決めるのはあんた方だろうが」
 堤がすぼめた口から日本酒交じりの唾を撒き散らす。
「心配無用です。いざとなれば〈同社間通話無料〉という切り札が残っているじゃないですか。そのためにカードを切っていないんでしょう?」
「同社間通話無料だぁ? ネズミ講みたいな戦略は不要だ。皇帝はどっしりと玉座に腰を下ろしておけばいいんだ!」
酔いが回った堤の豪語は呂律が回っていない。
「レッドさんも、これで目の上のたんこぶのうざったさが少しはわかっただろう」
「今にして思えば、彼らの方がはるかに“フェアなライバル”というイメージがありますね」
 箸を置いて姿勢を楽にした原田が堤の言に同調する。
「シルバーモバイルが非常識に見えるのは、社長の佐田松さんが破天荒だからでしょう。凡人には思いもよらぬ戦略を考案なさる方ですからねぇ」
 原田が中立の立場を貫くため、詭弁じみた意見を述べる。
「最近はこういった純和風の料亭も少なくなってきていると聞くよ。若い政治家先生の料亭離れが進んでいるらしい」
 さすがに言い過ぎたと思った堤が、今さらながらに話題を変える。
「日本の伝統文化を守るためにも、年一ぐらいは飯を食いに来るのも悪くないですな。そろそろお開きにしましょうか」
 窓から見える道路沿いには黒塗りの高級車が並んでいる。皆、団塊の世代の重鎮たちの帰りを待っているのだろうか……。
「原田さん。便所に行って来るから、悪いが少し待っていてくれ」
 堤はアルコールでふらつく足に力を込めると、先に二人分の支払いを済ませるために席を立った。



「児玉さん、スタッフID取れたんだ。これで本格的に接客に入れるね」
 朝一でパソコンを立ち上げる児玉に啓子が声をかける。
「鳥飼さんが休みなので、代わりに僕が研修しましょう」
 鮫島の提案に啓子が頷く。児玉はやや不安げな面持ちだ。鮫島の冷徹な雰囲気に気押されているのだろう。
「料金収納をさせても構いませんか」
「理解度に合わせて進めて下さい。どこまで教えたか鳥飼さんに引き継ぐように」
「わかりました」と手短に答えた鮫島が、児玉をカウンターへ誘う。
「請求書は持って来ていない設定で、僕の携帯料金を収納して下さい。受付メモの記入、来確の提示。そして請求金額の確認、という流れです」
 スタッフの受付を何度も見ていた児玉がスムーズにキーボードを叩く。
「この時、必ずお客様の契約内容に目を通して下さい。変更できる項目があれば必ず提案するように」
 料金収納の受付だけでは収益はたかが知れている。プラスアルファの受付を引き出すスキルがスタッフに求められていた。
「例えば、この〔レッドフレンド〕の空きが1件ある点とかですか?」
「そうです、そうです」と、鮫島がおざなりな拍手で彼女を称える。
「あとは習った通りにやれば大丈夫。レジ経験もあるから、問題ないかな」
 児玉の筋の良さを認めた鮫島が満足げに頷く。すると、自動ドアが軋む声が聞えてきた。
「いらっしゃいませ」
 スタッフ全員で来客者を迎える。
「姉ちゃん、やっちまったよ」
 作業服姿の初老男性がしょぼくれた顔で歩み寄る。啓子は書類の整理を中断して来客者を出迎えた。
「ドボンだよ。完全に俺が悪い!」
 接客用の椅子にドスンと腰を下ろし、ストレート型の携帯電話を差し出す。外装を水滴が覆い電源が入っていない様子だ。
「だいぶ長く使ってらっしゃいますね。良ければ機種変更をお勧めします」
「ああ、もう新しい奴にするよ」
 啓子の提案にしぶしぶ二つ返事を寄こす。
「昔みたいにゼロ円のやつないの? 何にも付いてなくていいから」
「それはできかねます。機種変更後は、今より月々安く使えますから、元は取れますよ」
 総務省の指導で分離プランが導入されてから、啓子たち現場のスタッフはその説明に苦慮していた。従来まで機種代金無料だったものが、今では最安でも2万円前後。その代わり、月々の基本使用料は1000円近く安くなる。丸2年使えば、2万円以上利用料金が浮くのだから、実質機種代無料のようなものなのだが、ユーザーにそれを理解させることは困難を極めた。
「俺だって別に納得してないわけじゃない。だって、簡単携帯を長年使って、毎月高い料金支払っていたら不公平だよ。若造が使うリッチな携帯代を爺さんばあさんが払うこたあねぇ」
 話を聞いた啓子が思わず破顔する。この客は本質を理解しているようだ。
ラミネートされた価格表を眺めていた初老男性が、啓子に質問する。
「ねえ、水と衝撃に強いやつとかないの?」
「かしこまりました。一機種のみございます」
 啓子はカタログを開き、商品見本を手渡した。
「俺の同僚が持ってるやつとそっくりだわ。それの新しいやつなんかね」
「前のタイプも似たデザインなので、可能性はあります」
 それはガッシリとした外装の折りたたみ式電話だった。モックをひっくり返しながら検討を重ねた初老男性が意を決した。
「これにしよう。仕事が土木だからこの方が長持ちするだろう。もっとも今回は洗濯機に落としちまったんだけどな」 
「ありがとうございます。分割と一括、お支払いはどちらになさいますか」
「一括で。ポイントは全部使ってちょうだい」 
 財布の中身を確認した客が、ついでに免許証を手渡す。その後は具体的な手続きに入った―――。

―――機種変更完了後、啓子が最後の説明をする。
「前の機種は電池を外して乾かして下さい。電源さえ入れば、データ転送できる可能性があります」
「今までご苦労だった。南無阿弥陀仏」
 初老の客は、仮死状態の携帯の前で拝むように両手を合わせる。
「これ、お仲間に自慢してくるよ。印籠のように見せつけてな」
 真新しい携帯をゲットし機嫌も良くなったようだ。支払いを済ませた彼は、長靴から泥を撒き散らしながら帰っていった。
「前来た時は文句タラタラだったのに、すっかり丸くなって良かった」
 鳥飼がモップで床を清掃しつつ、啓子に話しかける。
「前も来ていたんだ。まあ、昨日の敵は今日の友と言うしね」
別にお客さんは敵でも味方でもないのだが、イメージが俗っぽい諺となって口の端からこぼれてしまう。
「きっちり収益を落としていったのだから、よしとしましょう」
 鮫島が彼らしい意見で話を締めくくる。
「では機種変更のロープレをしましょうか。児玉さん、向こうに座って下さい」
 鮫島が児玉をカウンターへ促す。啓子はそれを見つつ、鮫島の収益第一主義が新人を洗脳してしまわないか、少し不安になった。



 高層ビル街の周囲を多数のビジネスマンが闊歩し、細長い列を形成していた。彼らが吸いこまれていくビルは、携帯業界国内第2位のシェアを誇る『レッドモバイル』の本社だった。
 その中層階にある大会議室で、繁忙期に向けての最終販売戦略会議が終わったところだ。サービス企画部課長、井上光(いのうえひかる)は、熱気冷めやらぬ室内で自作の資料を見直していた。
「春商戦はもう始まっている。まだまだ外は寒いがね」
 井上に声をかけたのは、同社社長の沖田雄太郎(おきたゆうたろう)だ。50代後半だが、豊かな頭髪を薄いブラウンに染め、垢抜けた印象作りに成功している。笑顔が地についており、温厚で素朴な人柄が彼の求心力を支えていた。
「今年の繁忙期は負けられません。純増1位を何としても奪還します」
 会議で発言した内容を反復する井上に対して、沖田が眼鏡越しの目を優しげに細める。
 まだ40代の井上の頭にはやけに白いものが目立つ。顔が20代に見えるほど若作りなので、余計に頭髪が目に付いた。それは常に他人に気を配り、自己を犠牲にする気質が気苦労を倍化させてきたからである。クレーム処理を率先して担当し、現場からここまで栄達してきた苦労人に、社内の皆が信頼を寄せていた。
 サービス企画部就任以来、決定打となるような施策を打ち出せていないことが井上の悩みの種だったので、今回は革新的なサービスを考案できたとの自負がある。
現在の携帯業界では、新サービスには他社が即追随する。しかし、同社間通話定額サービスのみ明確な差異があった。
 その大きな転機は、シルバーモバイルが創業開始時に展開した料金プラン〈シルバープラン〉である。午後9時から翌日午前1時以外の時間帯、完全に同社間の通話が無料となるという画期的な料金設定に、業界全体に激震が走った。
 これに対して、競合他社は追随に二の足を踏んだ。今にして思えば、このタイミングで同等のサービスを被せるべきだったと井上はつくづく思うのだ。買収のために大借金をしているシルバーにプレッシャーをかけ、困窮に追い込むことができただろう。
 だが、過去を省みて『こうすれば良かった』と振り返るのは誰にでもできる。すでに十分な加入者を確保したシルバーモバイルは、その収益力を活かして海外から人気のスマートフォンを導入し、その人気に拍車をかけるつもりだ。
「彼らに余計な体力を付けさせたツケは大きかった。機を逃した感は否めない」
 沖田がカーディガンの襟元を弄りながら悔恨の意を吐き出す。
「そう悲観することはないでしょう。我々には〈レッドフレンド〉という独自の武器がある。強力な通信インフラと共にまだまだ戦えますよ」
 眉間の皺をV字に刻みつつ、井上が力説する。
〈レッドフレンド〉とは、月額500円のオプションサービスだ。指定した3件のレッドモバイル携帯への発信が24時間無料になる。いまだに競合他社が追随していない独自のサービスであり、同社の生命線でもある。
「シルバーモバイルのスマートフォン先行販売は極めて大きな脅威だ。我々も交渉中だが、同じ土俵に立つのはまだ先の事だ」
シェアはレッドが上だが、シルバーの勢いを考えるとうかうかしていられない。純増数が毎月少しずつ彼らを下回っており、その差も開いていっている。巷で噂になっているシルバーのレッド買収劇も次第に現実味を帯びてくる。
「それにしても、同社間通話無料が業界に定着してきたのに、カイザーさんは動かないな」
「彼らの主義なのでしょうね。大多数与党だからこそ動きづらい部分なのでしょう」
 沖田の疑問に井上が答える。
 MNP開始時には草刈場と化し、レッドが一泡吹かせたかつての好敵手だが、現在は鉄壁の守りを誇っており、解約率は業界最低の水準を堅持している。利用料金を下げずにユーザー数を維持できる経営手腕には脱帽せざるをえない。
「カイザーモバイルの最大のライバルはあくまで我々だ。下を気にせず、上を向いて戦おうじゃあないか」
 沖田が井上の肩に手を置き、グッと力を込めた。頷いた井上だが、その頭髪がさらに白くなったように見えた。



 九州国際会館の他目的ホールで、大々的な新商品発表会、及び、これから迎える春商戦の販売戦略の周知が本日行なわれる。
プレゼンテーション開始までまだ15分ほど間があるが、会場前の広場には数十人の人だかりができていた。市内の代理店関係者が参集していたのだ。
女性スタッフは店頭用の制服で来ている者も多く、ここまで大人数が一同に会する様は新鮮な光景だ。
「久野さん、久しぶりね」
 スーツ姿の女性が啓子の後方から声をかけてきた。
「あら、樋口さん。どうもご無沙汰しています」
 啓子の顔が自然とほころぶ。
 樋口は啓子より5歳ほど年長だが、きびきびした動作でそれを感じさせない。切れ長の目元にやわらかなカーブがかかった眉毛のバランスが良く、整った頬の輪郭とあわせて知的な印象を醸し出している。スレンダーなスタイルに細身のスーツが良く似合っており、外観、内面ともに、啓子が目標とするワーカイザーマンの理想像なのだ。
 レッドモバイルの社員である樋口は、以前戸園店を担当していたラウンダーである。担当店舗はローテーションしていくので、今は彼女も別の店を受け持っている。
 販売員として勤務経験がある樋口は、ショップスタッフの目線で考えてくれる良き相談相手だった。
「この子が入ったばかりの新人です。よろしくしたって下さい」
 啓子の後ろに隠れていた児玉がちょこんと飛び出して挨拶する。
「戸園店に配属されました、児玉浩美と申します。よろしくお願いします」
「そんなに改まらなくていいのよ。私はもう担当でもないし」
 両手で恐縮の意を示した樋口が二人に問いかける。
「頑張ってね、と、わざわざ言わなくても頑張る子かな?」
「その通りです。どこかの誰かさんと違って」
 豪快にくしゃみをする的野の姿を連想して、児玉の笑顔が弾けた。
「今日もお店に寄ってきたみたいね」
「店は鮫島に任せてきました。そこまで忙しくなかったので」
 啓子が胸元のスカーフの位置を直しながら言った。 
 児玉はシフト上休みだったが、啓子が誘ってみると二つ返事で飛びついてきた。
「会場、先に入ってどうぞ。春モデル触れるわよ」
 樋口が二人の背中を押して会場内へ促す。
「発売前の新商品が見れるなんて、感激ですぅ」
「しっかり勉強して、他のスタッフにも伝えてね」
 啓子が児玉を先導する。
 広々としたレセプションルームの出入り口付近に、長机が数本並べてある。机にはそれぞれ端末のメーカーが陣取り、実機を使ったデモンストレーションを行なっている。
 児玉はいつの間にか姿を消していた。
「あ、やばい。単カタ回収しないと」
 啓子が自分のすべきことを思い出す。新機種の実機に後ろ髪を引かれつつ、什器に備えられた単品カタログをビニール袋に仕舞いこむ。集め終えた時点で、今まで暗かった正面壇上に照明が灯った。
「そろそろ説明会始まるみたい、座りましょう」
 メーカー広報の説明に聞き入る児玉の袖を引っ張る。
「すみません。興奮しちゃって、周りがぜんぜん見えてなかったです」
「別にいいわよ。でも説明会は落ち着いて聞きましょう」
 中央正面付近の席に腰を下ろした二人が談笑を交わす間に、備え付けの席が参加者で埋まっていく。
 席上に置いてあった資料に目を通していると、壇上にスーツ姿の男性司会者が現れた。
「皆さんこんにちは。只今より新商品説明会を開始いたします」
 長机の周囲にいた数名がこそこそ着座する。その様子を見守った司会が、タイミングを見計らって話を始める。
「本日は販売業務でお忙しい中、当説明会にご参加いただきまして誠にありがとうございます。さっそくですが、お席に用意した資料をご覧ください」
 静かな会場内に、資料をまさぐるカサカサという乾いた音が響く。
「そちらに記載があるように、報道発表前の新商品に関する情報は、関係者以外への告知は厳に謹んで頂くよう、お願い申し上げます」
 《関係者外秘》という透かし文字が印字されている。児玉は無言で頷いていた。
「当説明会を通して、弊社と皆様のグリップ強化を実現したいと考えております。では、端末メーカーのソリッド様に、最新春モデルの紹介をお願いいたします」
 流れるような動作で身を引いた進行役が居た場所に、紹介を受けたソリッドの青年広報マンが登壇した。
「販売店のスタッフ様及び代理店関係者様には、いつも弊社製品をご拡販いただきありがとうございます。私、株式会社ソリッドの商品企画部、併世三楚と申します。宜しくお願いいたします」
 軽く頭を下げた併世が話を続ける。
「では、正面投影をご覧下さい」
 大型プロジェクターに新端末の映像が映し出される。ソリッドお得意のサイドスタイルの液晶画面から、スポーツカーを運転する有名女優の立体映像が飛び出してきた。会場中には大きなどよめきが巻き起こる。
「ご覧の通り、こちらの端末、4・2インチフルワイドVGA液晶の裸眼立体視に対応しております。今回はなんと、レッドモバイル様が得意とするナビ機能にも対応しました」
 ユーザーからも非常に評価が高い〈レッド助手席ナビ〉の画面が立体感抜群のホログラム映像で表示される。参列者たちからも感嘆のため息がもれた。
「このように建物の裏や奥行きもリアルに実感でき、視認性、実用性ともに素晴らしいレベルに達したと自負しております」
「すんごい未来的よね。使ってみたくない?」
「私もたまに運転するから、ハンズフリーで使えたら最高ですぅ」
 戸園店のコンビが小声で興奮を示す。
 その後、細かなスペックの説明やプロモーションムービーが終わると、再び司会がマイクを取った。
「ソリッド様、ありがとうございます。売価は高めになりそうですが、販売員の皆様には割賦購入のご案内を徹底していただき、販売につなげて下さい。つづきまして、大阪マグネシウム様にご登壇願います」
 司会の声に誘われたのは、大柄な女性だった。底抜けに明るい笑顔は、子供向けの番組にでも出てきそうなキャラクターだ。
「皆さんこんにちはっ。大阪マグネシウムの吉塚です。今日は張り切って自社製品をPRしちゃいます」
 跳ねる語尾に合わせて軽くジャンプする。いささか演技じみた躍動感に、参加者のテンションがわずかに下がる。
「さてさて、今回私どもが用意した端末はこちら。ポケットフレンドです」
 吉塚が大げさな身振りで片手に持った小さな端末を指差す。丸みのあるフォルムの折りたたみ携帯の様だ。
「こちらの機種の最大の特徴は……見えますでしょうか? この様に折りたたんでポケットに格納できるところです」
 周囲から感心と笑いのざわめきが起こる。折りたたまれた携帯電話がポケットに挟み込まれていた。
「ポケットからはみ出る部分、結構おしゃれに見えるわね。デザイン悪くない」
「しっかり止まるなら、お子様も安心ですぅ」
 啓子と児玉が感嘆の声を上げる。
「この様に、ポケットからはみ出る部分の外装デザインには非常にこだわりました。存在感を主張するビビッドなイエロー。こちらがメインのカラーとなります」
 吉塚が補足説明を差し挟んだ。
「レッドモバイル様だけの強み、といたしまして、ポケットフレンドを連鎖獲得のフックとして、ご家族全員の囲い込みに活用いただきたいです。販売店様には、積極的なご拡販を宜しくお願いいたします」
 司会と吉塚が並んで一礼すると、参列者の周囲で見守っていた支社の従業員から小さな拍手が送られる。それにつられて、参列者たちの間にも拍手のさざ波が広がった。
「続きまして、大注目の新料金プランについてご説明いたします、前方投影をご覧下さい」
 巨大スクリーンに極太のゴシック体で〈レッドプラン〉という赤文字が映し出される。これが新料金サービスの呼称らしい。
「本サービスの概要を説明いたします。料金設定は月額1000円。レッドプラン同士の国内通話を24時間完全に無料といたします」
 サービス内容の大胆さに、本日最大のどよめきが巻き起こる。
「なお本日の16時よりプレスリリースが始まるので、是非お客様にもお伝え下さい。攻めに守りに使えるはずです」
 手元資料のページをめくった司会が説明を続ける。
「弊社は6年連続でお客様満足度NO1を獲得し続けてきた実績がございます。電波状況や提供コンテンツなど、後発のシルバーモバイル「より一日の長がある。その点を踏まえ、今拡販期におけるMNP獲得のトリガーとしてご活用ください」
 力強く握り締めた右拳を斜め上に突き出した司会の姿は『シルバーから回線を奪い取るぞ』という強烈な意志表示だ。
「今年の拡販期はレッドプランをフックに、MNP獲得の最大化を実現します。今後1、2ヶ月は多忙を極める激戦が待っております。最大の成果を挙げるべく、全社を挙げて戦っていきましょう。以上で説明会を終了させていただきます」
 参列者から大きな拍手が送られる。下げた頭頂で拍手を受け止めた司会が、満足げな表情を浮かべる。
 直後に交わされる雑談は自然と熱を帯びた。
「これはびっくりでした。結構前から知っていたんでしょ?」
「やっと言えるって感じ。今まで隠すの大変だったもの」
 啓子の問いかけに樋口の表情が弛緩する。
「だけど、通話をどんどん無料にしちゃって大丈夫なんですか? ぜんぜん儲からなくなるんじゃないかな……」
 児玉が疑問を差し挟む。
「同キャリア同士であれば、通話時に余計な費用がかからない。他社との通話だとそうはいかない」
「アクセスチャージ、ですね」
 樋口の説明を啓子が端的にまとめる。
【アクセスチャージ】とは、事業者同士がネットワークを接続した場合、ユーザーから通話料を徴収する事業者がもう一方の事業者に支払うネットワーク使用料のことである。通称『事業者間精算料金』とも呼ばれている。
例えば、レッドユーザーがカイザーユーザーと通話する場合、着信側のカイザー側の網を利用するため、カイザーモバイルに対してレッドモバイルがアクセスチャージを支払う必要があるのだ。
「だから他の携帯会社とは無料にできないんですねぇ。勉強になりますぅ」
 説明を聞き終えた児玉が、樋口に感謝の意を示す。
「それはそうと、お腹がすきました。どこか寄っていきませんか」
「とりあえず喫茶店に寄ろうか。腹が減ってはなんとやら、よ」
「お店は大丈夫なの?」
 樋口が問いかける。
「そのぶんは的野が頑張るから大丈夫。あいつ遅刻ばっかりだから、たまには二人分働かせましょう」
 残務がある樋口に別れを告げると、啓子たちは揃って支社を後にした。



「なんなのこれ。ひょっとして、まったくやる気なし?」
 夕方になり啓子が店に帰ると、なんと的野がカウンターで爆睡しているではないか。総合カタログを両手に持った状態で舟を漕ぐ様はさながらコントのようだ。
 バックヤードから出てきた鮫島が両肩をすくめる。
「昨日徹夜でゲームをやっていたらしいから、今ダウンしているんでしょうね。しかし器用な眠り方だ」
 鮫島が携帯で的野の様子を撮影し始める。
「これはただの起こし方じゃ気がすまないなぁ」
 意地悪そうな思案顔を浮かべた啓子は、バックヤードへネタ探しに行った。的野の携帯ゲーム機を持って売場へ戻ってくると、ゲーム機本体からデータ保存用のスティックを抜き出す。コップに水を注ぎ的野の前に置いた。
「ほらほら~。早く起きないと、大切なデータが消えちゃうわよ」
 なみなみと注がれた水の上でスティックをヒラヒラさせる。
「うわあああああっ! 俺の1400時間が~っ!!」
 的野の寝ぼけまなこがショックで見開かれる。大慌てでスティックをふんだくった。
「そんなに遊んだの? 少しはその時間を、携帯の勉強に当てなさいよ」
 居眠りを指摘するつもりが話題がすり替わってしまう。
「これでも読んで、目を覚ましてね」
 説明会で回収してきた新商品のカタログを、的野と鮫島に手渡した。
「うわ~、これが最新機種か」
 幸い、的野覚醒のきっかけとなったようだ。
「それ、持って帰ってもいいけど、お客さんにはまだ言わないでね」
 人差し指を立て、口が軽い的野に注意を促す。
「私はこれがよかったなぁ」
 啓子がソリッドのナビ携帯を指差す。
「凄いですね、これ。本当にホログラムが見えました?」
「実機は少ししか見ていないけど、確かに立体視できたわよ」
 啓子は従業員販売が待ち遠しかった。スタッフは学習のために、定価より安価に機種を購入できるのだ。
「大マグロの本気きた~。購入決定だろこれ」
 ポケットフレンドのカタログを見た的野は大喜びだ。風変わりな一品を好む、マニアな気質を刺激されたらしい。
「あと、これが1番の重大発表。二人とも目を通してくれる」
 発表された新料金プランの資料を鮫島と的野に手渡す。素早く内容を把握した鮫島の声のトーンが上がる。
「これは凄いっ。MNPのみならず、2台目需要にもきっちり対応できるはず」
「確実に店の数字に繋がるでしょう。母体のレッドが心配だけどね」
 腕を組んだ啓子が唇を引き結ぶ。
「料金系のサービスもだいぶ煮詰まってきたわね。さすがにこれ以上の割引は厳しいでしょう」
「シルバーの動きに興味がありますね。今回のサービスからは“真似できるものならやってみろ”という気概を感じます」
 鮫島が揚揚と語る。
「ネットでもすでに告知されているらしいの。来店されるお客様には新プランをお伝えして、解約防止に役立ててね」
「分かりました。さっそく、ポスティング用チラシの手配をしておきます」 
 鮫島がレッドの公式サイトの確認を始め、的野は新商品のカタログを楽しんでいる。店内は来客者がおらず、店外も人と車の動きは緩やかだ。
 今日はまだ新規契約が1件しか獲れていない。普段ならプレッシャーが掛かるはずだが、店内には弛緩した雰囲気が漂う。このころはまだ、来月から怒涛の嵐が吹き荒れる事になろうとは、誰も予測できなかったのである。



 夜の繁華街はたった今目覚めたばかりの様相を呈していた。イルミネーションの光と人の影が交差して、カラフルなモザイク模様を形成している。
 狭い車道を車が埋め尽くし、御国はその間を縫うように歩く。周囲には独特の生ぬるい空気が充満しており、御国は不快感を禁じえなかった。
 通り沿いには居酒屋や風俗店が乱立している。目当ての店を探しながら練り歩くと、いかがわしい客引きに声をかけられた。
 ネオンライト看板の『激屋スクラップ』という店名を見て、目的地であることを確信する。御国は分厚いガラスドアを引いて店内へ入った。店内はジャンク品で満たされていた。精密機械の成れの果てが雑然と展示してある。
 御国の目を引いたのは携帯電話の白ロムだった。各キャリアの真新しい端末が、ショーケース内に多数展示してある。その中でもレッドモバイルの最新機種の数があからさまに多い。
 カウンターではエプロンをかけた従業員が、固定電話の子機を片手になにやら喚き散らしている。
「大昔の商品だからいちいち動作確認なんかやってられないんだよ、ボケッ。あとマンションからパックてきた銅線、さっさと捌くルートを見つけとけ。この前ニュースでやってたぞ」
 聞かれてはまずい内容のオンパレードだろうが、客がいること自体気が付いていないのだ。御国はそのカウンターへ近づいた。
「おいおい。俺が来たことはわかっているのか? そんなことだと、商品も抜かれ放題だぞ」
 非常識な会話を断ち切る様に大声で話しかける。従業員は怪訝そうな顔を崩して、御国に目配せした。
「すまん、知り合いが来た。また連絡する」
彼の発した“知り合い”という言葉に一抹の寂しさを感じる。
 ジャンク屋『激屋スクラップ』の店長、鶴田(つるた)英(えい)二(じ)は、御国の高校時代の後輩だった。鶴田とは部活の後輩の中でももっとも気が合い、社会人になってからも年に数回は呑みに行く仲だった。だがここ数年の鶴田の転落をきっかけに、二人の仲はギクシャクしつつある。
 鶴田は地元の工業大学卒業後、就職した家電量販店で携帯電話コーナーの責任者となった。そこで、キャリア側から代理店経営の話を持ちかけられ、独立起業してシルバーモバイルショップのオーナーとなる。
 だがしかし、店舗の経営はうまくいかずに店は起業後2年たらずで閉店。会社は倒産し、彼は多額の借金を抱えた。結婚まもない妻は不倫相手と同棲中。結婚生活も形骸化している。
 このジャンク屋で働きだした鶴田は、以前の彼とは別人のように様変わりした。以前は姿勢正しくフォーマルなスーツが似合う男だったが、今の彼は猫背で、染みだらけのエプロンが板に付いている。
 顔に張り付く卑屈な笑顔は自信を失った者のそれだった。頭髪と髭を不精に生え散らかしたその様は、薄汚いこの店に似合いのルックスだ。元々手先が器用で精密機械に明るい彼は、この店で働くことを「第二の天職」と嘯くが、充足感は感じていないだろう。
 昔の友人は皆彼から離れていったが、御国は無視しなかった。鶴田は投資に失敗しただけで、根本的に仕事ができない人間ではない。30代後半の若さで再起を諦めてほしくなかった。
「ところであの端末、どうやって手に入れた? 最新機種もあるじゃないか」
 顎をしゃくった御国が、先ほどの白ロムの出所に探りを入れる。
「紛失時リカバーサービスだよ。いやぁ、あれで相当数抜かせてもらったよ。あんな隙だらけの契約形態じゃあね。レッドは脇が甘すぎる」
〈紛失時リカバーサービス〉とは、文字通り携帯電話をなくした際に同等の機種を安価で入手できる、レッドモバイル独自の保証サービスである。月額500円のオプション料さえ払えば、再購入時の費用をかなり抑えることができるのだ。
 この点を悪用して、新規加入後即紛失したことにする。新端末を安価で購入後旧端末を白ロムとして売りさばく手法が横行した。
 携帯電話事業者が提供するサービスには、常に大勢の悪党が目を光らせている。ほんのわずかでも付け入る隙があれば、容赦なくたかられる事になるのだ。
「こんな違法まがいのやり口が、いつまでもまかり通ると思うなよ」
「大丈夫、大丈夫。お前のとこからは抜いていない。そもそも、キャリアショップはマークがキツイんだ。量販しか狙っていないよ」
 この店舗で販売されている中古の携帯電話の中には〔赤ロム〕と呼ばれる使用不可能の端末も混ざっているはずである。
 大々的な端末の不正取得を把握したキャリアが、違法に入手した端末を使用不可能にしているのだ。御国が以前見たことのあるこの店のスタッフは、パッと見、チンピラまがいの人物ばかりだった。クレーム処理は、彼らが強引な手法で行なっているのだろうか……。
“裏切り者”または“卑怯者”という言葉が脳裏を過ぎるが、言ったところで詮がない。自分の店に実害が無いといっても、胸糞悪くなる話だった。
「ダチなんて、量販店からソーラー充電器を大量にパクッてきて、それを転売しているんだから。俺なんかまだマシな方さ。表向きはルールに従っている」
「そんな友人とはとっとと縁を切ってしまえ。いつかお前もとばっちりを食うぞ」
 白ロム入手のために携帯電話の契約を行なう実行犯はブラックリストに載せられる。不正に雇った人間を、携帯電話数台と引き換えに使い捨てているのだ。真っ当な正義感の持ち主なら、誰でも憤りを感じるやり口である。
「例の話だが、これから迎える繁忙期に向けて、外販の人員が不足しているんだ。お前なら業界の経験も長く、適任だと思ってる」
 御国は最近鶴田を自分の会社へ誘っており、今日もそのためにこの店に足を運んでいた。この店に居続ければ誰でも駄目になるという確信がある。鶴田の量販店時代の働きぶりは評価が高く、そうでなければ、シルバーモバイルから引き抜かれなかったはずだ。その秘めた自力を、まっとうな道で発揮して欲しかった。
「固定給もあるから生活は心配ない。忙しいときには、俺の店も手伝って欲しいんだ」
 鶴田が逡巡する素振りを見せる。
「新入社員に携帯を売りつける仕事か、気が進まないね。それに俺は、店舗販売しか経験がない」
「俺が獲得した契約のクロージングだけでも構わない。契約内容の最終確認と記入済み申込用紙の回収。問題なくやれるだろう」
青白い顔に苦い悲しみを湛え、鶴田がつぶやいた。
「俺はもうキャリアの犬になるのは御免だ。都合よく使われているだけさ。お前も早くそのことに気が付けよ」
 鶴田は通信事業者に対して、根強い不信感を抱えている。
 立ち上げ当時のシルバーモバイルは、他キャリアと比較して店舗数が少なかった。そこで、先行するカイザーとレッドに追いつけ追い越せと、勢い任せで受付カウンター数を増やしていった。
 いくら順調に伸びていたシルバーとはいえ、元々契約者数の母数が少なかったこともあり、閑散とした店舗が徐々に目立つようになる。その後、採算の合わない店舗は順次縮小、閉店という運びになり、鶴田の会社も同様の憂き目にあう。中には裁判沙汰になったケースもあるらしい。
「あいつらは『必ず儲かるから』と言って勤め先の電気屋から俺を引き抜いた。だが実際に客足が伸び悩むと、なんのフォローもなしに放りだしやがった。人の人生をなんだと思っていやがる!」
 鶴田が苦渋の表情でカウンターに拳を叩きつける。血色が悪い顔が怒気でゆがんでいた。
「リスクだけ背負わせて、自分たちは一切責任を取ろうとしない。そういうキャリア側のやり口には確かに問題がある」
 御国も激昂する鶴田に同意せざるをえなかった。
 御国の『ライズレイ』が抱えるレッドモバイル戸園店は、爆発的に儲かっていたわけではないが、売り上げは堅調に推移していた。大きめの駐車場を持ち住宅街の只中にあるので集客は悪くない。
 だがその立場も徐々に揺らぎつつある。代理店縮小の方針に合わせて、徐々にキャリア側が手数料を出し渋り始めたのだ。
「連中は年間で数千億もの純益をあげているくせに、その分を代理店に還元しようという気はさらさら無い。店を作り過ぎたから潰そうとしか考えていない」
 鶴田の主張は御国にとって現在進行形の話であり、けして他人事ではない。
「お前の言い分は間違っちゃいない。だけど、そろそろ感情的になっても無意味だと気が付いていい頃だぞ」
 御国が猛る鶴田を静める。
「この店がお前の終着点でいいのか? 今のお前は一時的な挫折で熱くなっているだけだ」
「社長様の説教、ありがたく拝聴しました」
 鶴田が長身を折り曲げて、恭しく頭を垂れる。ワザとらしいその所作を見ると、説得が彼の心には届かなかったことがよくわかる。
「気が変わったら、いつでも連絡をくれ。待っているからな」
 鶴田の毒気に当てられた御国は、最後に弱々しく声をかけた。
「次中洲に来るときは、ネクタイぐらい緩めとけよ。浮いてるよ、あんた」
 鶴田がネクタイを摘み上げる真似をしながら、歪んだ笑みを向けた。
 店を出た帰り途で、御国は旧友が異世界の住人となったことを痛感していた。言われた通り、襟元からネクタイを引っ張り出すと、氷点下に近い外気がその中に滑り込み、身震いが体を突き抜けた。

3月

 3月1日の朝9時20分。レッドモバイル戸園店で、恒例の朝礼が始まろうとしている。的野を含めた全員が集合しており、寝ぼけ眼の者もいない。
「皆さん、おはようございます」
 啓子の挨拶に対し、皆が背筋を伸ばして復唱する。
「本日より、年間でもっとも来客数が多くなる3月に突入します。しっかり案内して、新規、機種変更の成約に結び付けましょう。また、1日に2台以上の同時契約で、こちらの携帯ゲーム機を進呈します」
 ゲーム機の箱を持ってスタッフに周知する。連鎖獲得には持って来いのネタである。
「いいなあ。俺も携帯買おっかな」
 的野が緊張感の欠けた台詞で場の空気をぶち壊す。啓子が横目で睨んで牽制した。
「今月から売価、施策等変更点が多いので、きちんと把握してください。先ほど送ったメールに、目標台数等の詳細が載っています。これから忙しくなるので、誤案内がないよう各自確認を徹底してください」
 的野以外のスタッフは緊張感が2割増しになっているようだ。よけいな台詞や仕草は一切なしで、啓子の話に聞き入っている。スタッフたちの無言の連帯感に満足感を覚えた啓子が話を紡ぐ。
「児玉さんは、新規、機種変更、プラン変更、料金収納は受付できます。できる仕事はどんどん振って、経験を積ませてください」
 児玉は充分に計算できる戦力となっていた。案内のスピードがやや遅いが、その分確実性を重視する性格のようだ。
「早いですよね。まだ入って一月足らずでしょう」
 鮫島が児玉の成長を讃える。
「分からないところもまだまだあるので、フォローをお願いしますぅ」
 児玉が照れ隠しの台詞をこぼす。
「では接客の体制を整えましょう。本日も1日宜しくお願いします」
 朝礼を終えて皆が所定の位置につく。啓子もバックヤードのパソコン前に腰掛け、今月の販売目標を見直した。
 携帯デビューを迎える学生客が多い3、4月は、MNP以外で純新規獲得を見込める重要な時期となっている。また、当然2年契約の更新月を迎える者も多く、他社を利用中の家族の連鎖獲得も見込める。
 テレビでは学割を中心とした携帯各社のCMが毎日ひっきりなしに流れている。画面上では、有名俳優が若者の関心を引くために、歌に踊りに大忙しだ。
「店チョ~。『激オチ君』がいらっしゃいました」
 カーテンの合間から顔を出した的野が報告する。ふざけた物言いに眉をひそめながらも、啓子は表に出る。
「店長、おはようございます。早すぎましたかねぇ」
 まぶしい朝日を後光に現れたのは、レッドモバイル九州支社の営業、大久保だ。『激オチ君』とは的野が付けたあだ名で、太く吊り上がった眉毛と力強い目元が某メラミンスポンジのパッケージとそっくりだからである。
 大久保が筋肉質な太い体躯を揺らし、のしのし向かってくる。啓子は挨拶を返しつつ、散らかったバックヤードを急いで片付けようとした。
「ああ、いいですよ。そのままで」
 大久保が狭い出入り口からバックヤードへ体をねじ込む。ソファーにドッカと腰を下ろすと、先回りした児玉が缶コーヒーを差し出した。
「おおっ、児玉ちゃん。仕事が早いねぇ」
「すみません。缶コーヒーなんですけどぉ、許してください」
「うふふ」と、くだけた笑みを浮かべた児玉が退席する。支店の研修で面識があったようだ。
「今日は支店も1時間早く開きました。朝礼を終えて、車をすっ飛ばして来ました」
 大久保は複数の店舗を担当している身だが、その中でも戸園店は数字を見込める店舗だ。支店詣の初っ端に乗り込んできたのは、期待の表れである。
「新規目標300台ですか。ぶち上げましたね」
 大久保が手にした書類には、啓子が提出した今月の目標が記されてある。通常100台前後のぺースなので、2倍以上の実績が必要だ。
「250必達と考えています。在庫もたくさん用意してもらったから、これぐらいはやらないと」
 啓子が販売用の端末が並んでいる棚を指し示す。
「繁忙期は元々専門店の比重が増す時期です。子供に初めて携帯を持たせようとする親が、腰を据えて説明を聞きたいという表われでしょう」
 常にバーゲンセールのような家電量販店では、叩き売りされてしまうという懸念があるかもしれない。
「新規1円機種、継続いただきありがとうございます。弾はあるだけ用意しますんで、バンバン売ってください!」
 一括1円機種はキャリアの利益になりにくいので縮小する方針となったが、繁忙期も重なったこともあり、代理店の裁量で継続する運びになった。ただし、定価から値引きしているので、当然その負担は代理店にかかる。
 そうまでして新規契約にこだわるのは、その後のアフターケア、例えば機種変更やプランの変更で戻りがあると踏んでのことである。契約住所が店舗と近い客に〔地元割〕という特典をつけようという案が検討されたことすらある。
 また、キャリアへの印象点を稼ぐという名目もある。結局キャリアは新規契約を取れる店舗を重要視する。現在進行中の代理店生き残り戦争において、優位性を保つには背に腹を変えられない事情があるのだ。
「1円機種は台数限定で用意します。今年は手ごわい競争相手もいますから、負けられません」
 売り場へ歩を進めていた二人の目が、自然とライバル店のレッドモバイルショップへ向く。その店内は多数の来客で賑わっていた。
「レッド何とかなんて、ド~ンとぶっ飛ばしちゃってください」
 大久保が競合店へバズーカ砲を打つ仕草をすると、側で見ていた的野が笑いながら両手を叩く。
「おや、的野君。まだ社員になってないの?」
「そうなんですよ! ちょっと、言ってやってくださいよ」
 指さされた啓子が、腕を腰に当てて反論する。
「繁忙期に活躍してくれたら社長に言ってあげてもいいわよ。そうね、一人で新規100台くらいは売ってくれないとね」
「それぁあないよ。あんまりだ」
 店内にスタッフたちの笑顔が弾ける。大久保は敬礼の真似事をしつつ去っていった。
 その入れ替わりで車が1台駐車場に乗り付けた。中からは、セーラー服姿の女子学生とその両親らしき人物が降り立ち、店舗へ向かってくる。
「お、1発目か」
 無駄口を叩く的野に対して、啓子がゲーム機の箱を指し示して接客を煽る。連鎖獲得の格好の的であり、スタートダッシュのチャンス到来だ。スタッフ全員が背を伸ばし、完璧な先言後礼で来客者を出迎えた。



 カウンターには先ほど来店した親子が陣取り、結局啓子が対応している。3月最初の客ということもあり、確実に自分で獲得しようと決めたのだ。
「通信費は毎月4500円を上限に設定できますが、いかがでしょうか」 
「ああ、その通信費の定額は要らないです。というか、ネットは使えないようにして下さい」
 隣に座る娘が、目を見開いて抗議の意を示す。
「ちょっとちょっと、何でなの! 酷いじゃん」
「なんでもクソも無い。毎月5000円近くも通信費に使うなんて贅沢だ。お父さんが学生の頃なんて、一月の小遣い500円だったぞ。公立の高校に行くまで我慢しなさい」
 高校の前にわざわざ「公立の」と付ける父親は抜け目がない。目前の啓子はお構いなしに親子喧嘩が続く。
「だって、皆使ってるよ。うちだけ使えんかったら恥ずかしいやん」
「大体、何でわざわざ携帯の小っさい画面でネットをする必要があるの? 家のパソコンでしなさい」
 携帯デビュー前に立ちふさがる父親に娘も四苦八苦だ。噛み合わない二人に、温厚そうな母親が助け船を出す。
「だったら、機種を1円で買えるものにして、その分通信費を使えるようにしたらどうかしら」
 それを聞いた父娘が揃って渋顔になる。
「ええ~、このピンクの前から狙ってたのにぃ……」
 母親の台詞に便乗して、接客中の啓子が提案をする。
「こちら当店のみの特価なのですが、分割金なしの1円でお出しできます。同じスライド型でお色もピンクです。いかがでしょうか」
 娘と父の間に差し出された商品見本に、家族3人の注目が集まる。
「う。これ可愛いかも」
 彼女の本命は機種代金約3万円するが、こちらは1円だ。しかし、カメラの画素数をはじめスペックは落ちる。
「画素数が少し落ちますが、それでも300万画素はあります。写真を携帯電話本体で見る分には充分な性能です」
「それでも毎月5000円かかる方が高い」
「レッド学割に加入いただければ、1年間は2000円引きでご利用いただけます」
 難色を見せる父親に、啓子がさらなる提案をかぶせた。
「う~ん。どうする?」
 父親が妻に問いかける。
「私、これにする」
 娘が父に先ほどのモックを差し出す。強面の父親が降参顔になり、渋々頷いた。
「じゃあ、その学割でお願いします」
「いやった~!」という嬌声と共に、娘が母とハイタッチを交わす。
「通話料はきちんと抑えなさいよ。話し過ぎたら、小遣いカットされちゃうわよ」
 母が父を立てるようにやんわりと注意を促す。
やっとこ成約という運びになりそうだが、ここまでですでに20分近く浪費している。今後の説明も遅々として進まないだろう。
「家族連れは時間がかかるわ……」
 バックヤードに端末を取りにきた啓子が鮫島に愚痴る。
「しかし、店長が口火を切ってこそ、皆のやる気も盛り上がります」
鮫島にしてはおどけた口調で啓子を焚き付けた。
 注文された端末を持って売場に戻ると、多数の来客で皆が対応に追われていた。バックヤードの鮫島も売り場に飛び出てきた。
 活況を呈する店内を見るとやる気が込み上げて来る。今日は社長に良い報告ができるだろう。啓子は親子連れの前に戻ると接客を再開した。



「店長、念のために書類のチェックをお願いします」
「はいはい。本確のコピーは?」
 接客中の啓子の隣の席で、児玉が新規契約を受けつけていた。それとなく聞き耳を立てていたのだが、特に不自然な点は無い。
「家族割の住所は確認しました?」
 保険証と住民票のコピーを持って来た児玉が相槌を打つ。
「じゃあFAXするだけね。後は審査に時間がかかることを伝えてください」
 いそいそと動き出した児玉を背に、啓子もレッドプランの加入手続きを終える。
 登録待ちの客がいったん店を離れたところで、児玉が啓子に質問する。
「ところで前から思ってたんですが、この賞状はいったい何ですか」
 児玉が頭上の壁に飾られている賞状を指差す。
「これは《プロフェッショナルスタッフ》と言って、キャリアが主催する社内資格の合格賞状よ。児玉さんにも受けてもらうから、頑張って勉強してね」
「試験って、どんな問題が出るんですか?」
「総合カタログの内容が主だけど、他社の問題も出る。しっかり勉強しないと受からないよ」
 明確な他社比較をできるスタッフを育成することが、キャリアの狙いの1つだ。知識さえあれば、他キャリアの弱点をピンポイントで突けることがある。
「しかもこれに受かると、なんと手当てが月1万5千円もついてくるのよっ。頑張ってね」
「これは凄いです! 俄然やる気になりますぅ」
 両拳を握った児玉が太めの体を振るわせる。児玉が賞賛の眼差しで再度頭上を仰ぎ見ると、3人分しかないことに気が付いた。
「的野さんは受かってないんですか」
「彼、総得点は足りていたけど、カイザーが駄目で足切りになっちゃったの。さすがに少し気の毒だったわ」
 たとえ総得点が足りていても、分野ごとの点数が一定に達していないと不合格になってしまうのだ。特に他社の問題は鬼門である。
「あいつにとって資格手当は死活問題ですからね。次は死に物狂いで取りにくるでしょう」
 鮫島も啓子の意見に同感のようだ。
「僕も前回はギリギリだったから、次回は早めに勉強しようかな……」
 独り言のようにつぶやきながら、鮫島が定位置のバックヤードに戻っていく。
 一度受かっても年一の更新試験に受からなければ資格が剥奪される。携帯電話のアップデートのように、スタッフも脳内の情報を更新し続ける必要があるのだ。
 その時、書類の束と固定電話の子機を持った鮫島が売り場に駆け込んできた。
「児玉さん受付の方、審査で引っ掛かりました。お客様名義のカイザーモバイル携帯で未納が見つかったようです」
 鮫島の報告に児玉が肩を落とす。
「電話でお伝えしてきますぅ……」
 鮫島が電話の子機を手渡す。
「こればかりはしょうがない。また次があるわよ」
 啓子の励ましに対して、微苦笑を浮かべた児玉がバックヤードへ移動する。
「児玉さんはいけますよ。問題ない」
 辛口の鮫島がめずらしく太鼓判を押す。
「長く続けてくれればいいけどね……」
 啓子が冷ややかに答える。
 携帯販売は好き嫌いが分かれる仕事だ。児玉も覚えたての今ぐらいが1番楽しい時期かもしれない。だが、勤続期間1年ほどで辞めるスタッフが多く、長期就業者が少ないのが現状だ。深刻なクレームを一度受けただけで辞めていくスタッフも多い。
この仕事は“合う者”にとっては、奥が深くやりがいのある仕事なのだ。啓子はもちろんフィットしているし、天職に近いとの実感がある。その感覚をスタッフと共有するためにも、新人にも楽しく働いて欲しかった。
 啓子は売場へ出ると、児玉を昼食に誘った。



 新製品発表会と合わせて代理店への戦略周知が終わり、レッドモバイルの社長である沖田は、やきもきした気持ちで社長室に座っていた。繁忙期の間中こんな浮ついた気分が続くのかと思うと、先が思いやられる。
 冷めたコーヒーにチビリと口をつけると、内線が鳴った。
「社長、シルバーが動きました。そちらへ向かいますのでサイトの確認をお願いします」
 受話器越しにサービス企画課井上の興奮気味の声が聞えてくる。沖田は受話器を置くと、秘書にコーヒーを2つ頼んだ。
「ご覧のとおり、買収したPHSで対抗してきました」
 井上が勢い良く社長室に乗り込んでくる。非礼だが、沖田もいちいち咎めない。
「早いよ。まだ開き中だ」
 答えた沖田はマウスを操作中だった。レッドモバイルのホームページにアクセスすると、件の新サービスの詳細を確認する。サービス名〈ブロンズプラン〉と表示されていた。
 サービスの内容はこうだ。
【PHSを月額980円で持てて、さらにシルバーモバイルとPHS間の国内通話が24時間無料となる】
「そうきたか。やはり一筋縄ではいかんようだな」
 椅子の背にもたれかかった沖田が苦々しげに唇を曲げた。
 沖田の脳裏に佐田松の顔が一瞬浮かんでは消えた。この対抗策を考案したのは、十中八九あの古狸だろうと瞬時に察っしたからだ。
「レッドに乗り換えられるぐらいなら、子飼いのPHSの純増を手助けしようという魂胆です。サービス対抗に便乗して一石二鳥を狙うらしいやり口です」
 自身の解釈を述べた井上が、秘書が運んできたコーヒーに口をつける。味を楽しむというより、単なる水分補給のためだろう。
「2台持ちだと解約抑止にも繋がると踏んでいるのだろう」
 沖田の鋭い分析に井上が頷く。解約時に2台分の契約解除料金が掛かるのは、ユーザーにとって痛いはずだ。
「これだけの対抗施策を24時間足らずで実行に移すとは。相変わらずスピーディーで抜け目がない」沖田が口元を歪めてうつむいた。即断即決で他社に主導権を与えないというスタンスには敵ながらあっぱれである。
「ピッチの独立性は極めて希薄なものとなりつつあります。今後はシルバー内の一ブランドという形で存続していくでしょう」
 井上の言う通り〈ブロンズプラン〉の登場でその流れはより顕著になるだろう。沖田はPHSのホームページを確認しつつ井上に問いかける。
「カイザーモバイルの動きはどうだ」
「ないですね。同社間通話無料、という言葉は彼らの辞書に記載がないようです」
 井上が簡潔に答える。
 他のサービスに対してはチョコチョコ追随してくるカイザーモバイルだったが、同社間通話無料に対しては頑として不動を貫いている。
「シェア5割を維持している間は動くつもりがないでしょう。しかし、今回は少しばかり痛い目にあわせたいですね。MNP開始時のように」
「そんな殿様商売がいつまでも続くと思うなよ。一泡吹かせてやろう」
 二人の意識はカイザー狩りに向いており、それを共有していることを確認すると、話を切り上げた。



 レッドモバイル戸園店では、繁忙期に向けて売り場作りが行われていた。新商品のモックが届き、鳥飼がそれを丁寧に什器にセットしている。
「前々から思っていたけど、どんな機種でも一目見ただけでレッドの携帯だってわかるから不思議よねぇ」
 独り言めいた鳥飼のつぶやきに児玉が反応する。
「レッドは少し玩具っぽいけど、可愛いから好きですよぉ。カイザーの携帯は大人っぽくて偉そうな感じがします」
 それと合わせて「シルバーは安っぽい外観の癖にやたらと高機能」という評価が一般的なのだ。
 来客者がいないカウンターでは、児玉がカラフルな手書きのポップを描いている。それを見た鳥飼が手を止めて声をかける。
「ふ~ん、上手ね。普段から描いているの?」
「あたし漫画とかアニメとか好きなんですよぉ。前の店でもPOP作りしていたから、こういう仕事はお任せください」
 児玉が嬉しそうにマジックで宙をなぞった。
 突然バックヤードから的野が売り場へ飛び出してきた。その背中からは太鼓を叩くような鈍い音が断続的に聞えてくる。
「痛たたたっ。暴力反対、背骨が折れるっ」
的野の悲鳴が背中に伝わる振動で痛々しくエコーする。 
「こんな漫画みたいなキスマーク初めて見た。ほんっとありえない」
 叩き疲れた啓子は呆れ果てていた。
 事の発端は、的野が首筋に赤いアザを付けて出社してきたことだった。出会い系サイトをエンジョイした経緯が発覚し、怒り心頭の啓子が折檻を食らわしたのだ。
「そんな非常識な行動をとっていると、いつまでも給料上がらないわよ」
 鳥飼が的野を軽蔑の眼差しで突き刺す。
「う~ん、それは困るな。エンゲル係数が高くて経済が破綻しそうだから、店長になってボーナスをたんまりゲットしたい」
 ウェットティッシュで首筋をなぞるが、濃厚なキスマークは中々消えない。
「エンゲル係数って、大体食費にいくら使ってるの?」
 新製品のモックを磨きながら、鳥飼が問いかける。
「月4万くらいかなぁ……。プラス洋服が2万円。交際費が4万円。んで、給料が手取り10万だから、親に借りるしかなくなる」
 指を折りながら数えていた的野が、悲しげな面持ちになる。
「何じゃそりゃ。保険代も払えないじゃない」
 突っ込みどころ満載の的野の金銭感覚に、周囲は呆れ果てた様子だ。
「まずはいかがわしい交際費を事業仕分けして削ることね」
 言い捨てた鳥飼は、付き合ってられないとばかりに店作りの作業に戻った。
「そう言えば、児玉さん彼氏はいるの」
 唐突に啓子が聞く。
「いないから募集中です。だけど、この店で社内恋愛なんてありえませぇん」
 周囲とも打ち解けてきて、気兼ねなく話すようになった児玉が断言した。
「ふ~んだ。そんなこという奴はこうだ」
 ふてくされた的野が、児玉が愛用している円座のクッションを頭にかぶって挑発する。円座の中央から的野の長髪が飛び出し、奇天烈な外観になっていた。
「ちょっと~、やめてくださいよ。それ、探してたんですよぉ」
 児玉が立ち上がって的野の頭に手を伸ばす。それをひらりとかわした的野は、回転しつつ児玉の周囲にまとわりつく。
「名付けて“シャンプーハット星人”。そう簡単に地球人につかまるわけにはいかんな」
「子供じみた悪戯はやめなさい。児玉さんは痔持ちなんだから、それが必要なのよ」
 余計な一言を添えた啓子を、児玉が横目で睨む。
「お尻の手術は痛いんですよぉ。だから、恥ずかしいとか言ってられませんけどね」
 的野から円座をひったくりながら児玉が言う。
「そんな事より、これを見てくださぁい。決定的瞬間の撮影に成功しました」
 一転して活気付いた児玉が、自分の携帯のディスプレイを皆にひけらかす。見るとそこには、鮫島が腰に手を当てて瓶牛乳をラッパ飲みしている姿が映し出されていた。背景には市街地の遠景がのぞいている。
「これは傑作だっ! だけど、鮫島さんの普段のキャラを知っている俺らにしか価値がわからないよな」
「一番の味噌はこのツンと立てた小指でぇす。鮫島さんがいずれオネエへの道を爆走する予兆でしょうか。とても心配ですぅ」
 児玉の指摘に写真を確認した的野が爆笑する。
「休日返上でストーカイザーした甲斐がありましたぁ。お陰でおいしい画が撮れましたよ」
「んな妙なことする暇があったら、とっとと彼氏を作れよ。この写真はナイスショットと言わざるをえないけどな」
 にやついた児玉と的野が笑いあう。
 場に漂った弛緩した空気を引き締めるべく、啓子が的野に命令する。
「とりあえず今日1日、あなたはバックヤードに籠もってなさい。ちょうど破棄が必要な書類が揃っているから、シュレッダーよろしく」
「ええええっ! アウトドア派の俺にはあまりにもきつい仕打ち。今から100均でネックウォーマーを買ってくるから許して」
「ネックウォーマーを巻いた携帯ショップの店員なんているかっ! 出入り禁止にしないだけありがたく思いなさい」
 的野が啓子にバックヤードへ押し込まれると、他のスタッフから拍手で見送られた。

 郊外のコーヒーショップのチェーン店内に喫煙者用のスペースがある。そこに座した二人の客は、荷物を開いた席に置いてスペースを占拠していた。それでも店側が注意しなかったのは、客が少なかったからであろう。
「プレミアムホットのラージを2つお願いします」
 横幅の広い体をちょこんと小さな椅子の中央に乗せた客が、小柄なウェイトレスに注文する。席上の彼がわずかに体をよじると、椅子の足に負荷がかかり悲鳴のように軋んだ。
「すみません。少し話が長くなりそうなんで、勝手に頼んじゃいました」
 来客者の一人はレッドモバイル店舗担当営業の大久保だった。台詞とは裏腹に、少しも悪びれた様子は見受けられない。隣の椅子に置いたやたらと大きなビジネスバックから資料の束を取り出して、対面の御国に手渡す。
「御国さんは私と同世代だから話し易いですよ。ご高齢のおじさま方は一筋縄ではいかない」
 今日の会話には、おそらく他人に聞かれたくない話題も混じるだろう。喫煙席を占拠したのは大久保の確信犯だった。
「現在キャリア間のシャア争いでは大苦戦を強いられています。この苦境でも、ライズレイさんには奮闘いただいており、誠にありがとうございます」
 両手を膝について窮屈に腰を折る大久保に対して「やめてください」と御国が恐縮する。
「目と鼻の先にライバル店ができても、粘り強く売り上げを堅持しておられる御社を、弊社でもモデルケースにしようと考えています」
「久野を始めとするスタッフの尽力の賜物です。褒めるなら、彼女たちを褒めてやって下さい」
 御国は運ばれてきたコーヒーの片方を大久保に差し出す。
「いや、ライズレイさんは賢明ですよ。社内資格の手当てを満額スタッフに還元しているのですから。全額代理店で頂戴しているケースなんてザラにありますからね」
「スタッフの努力で獲得したものなのだから、スタッフに還元するべきです」
御国を引き立てる大久保に対して、常識的な見解で受け応える。
「御国社長から何か話しておきたいことはないですか。今のうちにまとめて聞いておきますよ」
 御国はコーヒーで湿った舌で前歯の裏を舐めながら不満を吐き出す。
「割賦販売が始まって以来、説明事項が増えて受付時間は倍増した。それなのに収益が下がるのはおかしいと、うちのスタッフが口を揃えて言っている。その点は改善されないんだろうか」
 大久保が頷きながら切り返す。
「新料金プランの提供が、ユーザーのみならず代理店様の救済にもつながるとお考え下さい。私どもが得る料金を大幅に削る分、契約が取りやすくなる訳ですから」
 ありきたりな模範解答を寄越した大久保に対し、御国は何も言えなかった。
コーヒーのラージを飲み終えた大久保がおかわりを注文している。外見どおり水分を大量に必要とする体のようだ。
「では、そろそろ本題に入りましょうか」
 周囲を見渡した大久保が真剣な面持ちになる。極端な前傾姿勢になり、御国の目前に面積の広い顔面を突き出した。
「今からする話は、絶対に内密にしてください。社員にも家族にもです。万が一、他の代理店の耳に入ると大変な事になる。いいですね?」
 大久保の垂直に立てられた太い指は、小ぶりの鼻を全て覆い隠していた。
「噂になっている、代理店選別淘汰の話。あれは全て事実です」
 常に大声の大久保の声のボリュームが極端に落ちた。にもかかわらず、ゆっくりと相手の耳に流し込むように話すので、御国はしっかりと聞き取ることができた。
「その中でも戸園店は“残す方”に入っています。これは今後の発展性を加味した上で支社が決定した事項です。今日は社長に安心していただくために、ここにお呼びしたんですよ」
 最近の収益体系の傾向を分析すれば、自ずとそのことは理解できる。〔ボリュームインセンティブ〕すなわち、販売台数が一定数に到達すると入ってくる手数料が、極端に大きくなっているのだ。その代わり、1台あたりの成約手数料は少なくなっている。
 元々来客者数が少なく、新規獲得数が少ない店舗には大打撃だ。強者を擁護し弱者に厳しい方針を示すキャリアには、代理店各社から激しい非難の声が上がっている。
 だがキャリア側とすれば、露骨に「あなたの店舗は存在意義が薄いので閉店して下さい」とは、口が裂けても言えない。多少あざとくとも、手数料の体系を調整して無言のメッセージを送る他ないのである。
 大久保は同じ口で“切る方”の店舗にも「ご拡販、ありがとうございます」とのたまっているのであろう。
“残す方”か……。では、鶴田の店舗は“切る方”に選別されてしまったのだなと、御国は認識した。たとえキャリアは違っても、方法論は変わらないだろう。薄々感づいてはいたが、明確に伝達されると改めて不快感が湧き上がる。
「今後はロケーションの良い店舗しか残さない方針です。駐車場が広く、来客者数が多い店舗。ちなみに戸園店はその双方を満たしています。今は苦しい時期かもしれませんが、あと少しの辛抱です」
「あと少し、というのは“残さない方の店舗”が音を上げて潰れてしまうまで、ということですか?」
 御国がおしぼりを両手で絞り上げながら、大久保を睨めつける。その迫力に気押されて、大久保の体がわずかにのけぞる。
 結局大久保はその問いに答えを返さなかった。
 大久保は、資本主義の非情な原則に対して良心の呵責を禁じえない御国に対して、好印象を受けていた。インセンティブ確保のための不正契約などが横行している代理店には、なにより法令順守の精神が求められる。御国のような人物が経営者であれば、その点はある程度安心できる。
 料金プランの激しい値下げ合戦で、ユーザーから入ってくる利用料金は下がる一方だ。キャリア側としても、無駄な店舗はなくして経費を落とさねばならない。成長曲線が上向きだった昔は、将来性を見込んで残していた店舗もあった。しかし、競合他社が増えて大幅な利用者増が見込めなくなった今、大鉈を振るうときが訪れたと判断したのだ。
「店舗数が減れば、その分残った店舗には手厚い待遇を用意できる。スタッフの数も増やせますし、給料も引き上げることができる」
 大久保が握手のために差し出した右手を力強く振るわせる。条件反射でそれに応えようとした御国は、差し出した手を途中で引っ込めた。
「これからも共に歩んでいきましょう。良きパートナーとしてね」
 大久保の台詞に対し無言で一礼した御国は、コーヒー代の伝票を持ってカウンターへ向かった。



 夜7時を超えてピークの時間帯を過ぎたにも関わらず、いまだに店内には多くの来客者がたむろしていた。その客たちはカウンターで接客を受けているわけではなく、皆ソファーに腰掛けて雑誌を読んだり、退屈そうに商品模型をいじったりしている。
「今、審査中の新規、何件あるの?」
 バックヤードで端末の初期設定をしていた啓子が、鳥飼に声をかける。
「これを合わせて5件ですね。しかも全部シルバーからの乗り換えなんですよ。私、こんなの初めてです」
 啓子が審査中の新規申込用紙を確認すると、全ての用紙にばらばらの苗字が記されてある。家族ごとの転出ではなく、別々の個人からの申し込みだということだ。
「不備があると時間制限に引っかかるかもしれない。申込用紙は私が再チェックします」
 啓子は申込用紙の束をデスクの上できれいに揃えた。
「あと、今日残業ごめん。かなり遅くなるかも」
 両手を合わせて謝る啓子に対し、鳥飼がはにかんだ微笑で応じる。再びバックヤードに戻った啓子は、キーボード上でリズミカルに指を躍らせる。
 本日の現時刻までに獲得した新規契約は8件。さらに審査中の5件が成約すれば、合計13件の新規契約が獲得できる計算だ。契約件数もさることながら、もっとも異例な点は、うち10件がシルバーモバイルからの転入だという点だ。
 最初に啓子が対応した客が「急に通話ができなくなった」と言い、MNPを申し出たとき、はじめは端末側の問題だと思ったのだが、同様の症状を訴える来客者が複数来店し、電波障害が現実味を帯びてきた。
 パソコン横に無造作に横たわっていた業務用携帯端末が着信音を奏でる。ストラップをつかんで引っ張り寄せると、着信ボタンを押して耳を傾けた。
「お疲れ様です。久野です」
「ああ、お疲れ様。今日は売場に出られなくてすまない。調子はどう」
 ディスプレイを見ずに電話に出たので、御国の声に安堵する啓子。
「今日はMNPの調子がすごくいいんですよ。シルバーの電波の調子が悪いみたいで。なにか聞いていないですか?」
 問いかける啓子に対し、意味ありげな沈黙を挟んだ御国が応える。
「本当にそれが原因なのかい。転入が多くなったのは」
「今のところは、ですね。受け付けたスタッフが口々に言っていますから。キャリアから公式の発表があったわけではないから、社長が知っているかなと思って」
 尋ねた啓子の耳に車の走行音が聞えてきた。社長は車内でハンズフリー通話をしているようだ。
「今から早急に店に向かう。大体2、30分で着くから。裏処理大変だろう?」
「私、お昼食べてないんですよ~。それに、まだ審査中が5件ぐらいあるから、そっちが上がるかも心配です」
啓子は首を傾げた状態で話しつつ、手のスピードは緩めなかった。
「着いたら裏処理すぐ交代するから。じゃあ切るよ」
 今までも一時的に電波状況が悪くなったことはある。しかし、ユーザーの転出を招くほど長期に渡るケースは過去になかったのではないか。啓子は目前の仕事に忙殺されながらも、頭の端で電波障害のことを考えていた――。

――全ての来客者を捌き終えた頃、御国が戻ってきた。
「遅れてごめん。車がけっこう混んでいて、なかなか進まなかった」
 社長は乱れた頭髪を片手で整えながら、土産の肉まんを啓子に差し出す。
「で、何台出た?」
「今日は12件です。1台時間制限に引っかかったけれど、それは明日、朝一FAXします」
 啓子は肉まんに喜びを表しつつ、心なしか得々と答える。
「いや~、大漁大漁! レッドプラン様々ですね」
 店内のゴミ拾いをしていた的野が大口を開けて笑う。
「明日以降はその家族の連鎖獲得を見込めるな。念のため、在庫を多めに発注しておこう。レッドには俺から状況を説明しておくよ」
 興奮気味の御国の言に、肉まんを頬張った啓子がうなずく。 
「そういえば、肉マンってニンニク入ってなかったっけ」
 的野がいやらしい横目で啓子を見やる。
「確かにニンニクは2日残るというけど、大丈夫! 姫は空腹なのじゃ。いちゃもんをつけるでない」
 御国が袋から取り出したホカホカの肉まんを差し出す。的野は「へへ~」と言いつつ恭しくそれを受け取った。



『戸園町全域に発生したシルバーモバイルの電波障害は、依然解決の糸口をつかめていません。九州総合通信局と警察が協力し、現在も鋭意調査中とのことです』
 夕暮れ時の閑静な住宅街に多数のテレビクルーが押し寄せている。その周囲にやんやと展開する野次馬たちからは、並々ならぬ熱意が感じ取れた。普段、屋外にアナウンサーの声がこだますることなど、滅多にない土地柄なのだ。
 運動公園の駐車スペースに黒色のワゴンが列をなしている。これらは全て、総合通信局が準備した不法局探索車だった。屋根と内張りの間にアンテナが設置されており、外観はごく普通のアマチュア無線車のようだ。
 公園の一角に、警官と電波調査部隊の一部が集結している。制服警官と作業服姿の調査員の混成部隊は、いやでも地元民の目を引いた。
 不法局探索車内の後部座席にあるノートパソコンに、ワンセグの映像が映し出されている。無言で報道番組を見つめる3つの双眸には、3者3様の表情が浮かぶ。
 今回起こった事件について、初動捜査の報告と今後の展望を話し合うという名目で、当事者の幹部クラス3名が車内に集結していたのだ。
「念のため確認しておくが、この期に及んで電波障害が、自然発生したものと誤認していないでしょうな」
ぎらついた上目使いで他の二人を交互に睨みつけたのは、シルバーモバイル九州支社の営業部課長、甲斐田(かいだ)だ。獰猛な熊を思わせる巨躯の持ち主で、周囲に猛烈な威圧感をまき散らしている。
「通信障害が発生する時間帯を考慮に入れれば、自然発生の線は極めて薄い。貴社のシルバープランで無料の時間帯のみ通話不可能になっているのだから」
 なだめる様に話を紡いだのは、九州総合通信局の電波適正利用推進員、安河内(やすこうち)だ。細長い人参の様な顔が引きつり、肉付きの悪い頬が軽く震えている。甲斐田のような体育会系タイプは苦手らしい。
「シルバーモバイルに強い敵対心を持っていると、断定して間違いないでしょう。挑発的、と申しましょうか……」
 補足的な説明を行なったのは、九州中央警察署の生活安全課課長の稲村である。ツルリとした五分刈りなので、ぎょろりとした目玉が際立っている。彼はあくの強い他の二人と比べて、落ち着いた様子の制服警官だ。
 電波障害を自然発生と錯覚させるためであれば、わざわざ時間帯を区切るような真似はしない。犯人は、電波障害が故意の仕業であること喧伝しているのだ。敵意むき出しの悪意を再確認し、甲斐田が太い両肩から怒気を吹き上げる。
「今回の件、まず何が起こっているのかと、解決策。この2点を簡潔にまとめてくれ。素人でも分かるように噛み砕いてだ」
 甲斐田の質問を受けた安河内が、軽い咳払いの後に説明を始める。
「通信妨害の仕組みは単純です。携帯電話と同じ周波数帯の電波を発生し、基地局からの制御信号に混信を与えているのです。すると、携帯電話の受信部がそれを正常な信号と間違えて受信して、結果的に通信ができなくなる」
 話を聞く二人が無言で頷き続きを促す。
「携帯の電波を遮断する装置は市販されていますが、犯人はそれを改造したものを配備しているのでしょう。当局の監視システムは、妨害電波の出所、そのおおよその位置を確認しています。その装置を全て撤去、または無効化することが本事件の抜本的な解決策となります」
 舌のすべりが過剰に良くなった安河内の独演が続く。
「これが戸園の周辺地図です」
 安河内がパソコンに地図を表示させる。白を基調とした地図上には赤色の円が複数ある。
「赤色のサークル上に、原因となる妨害電波射出装置があります。精度は数十メートル単位。当局の固定探索局が割り出したデータです」
 腕時計を確認しつつ、稲村が今後の予定を述べる。
「この円内にローラーをかけていく。今日中に住民の許可を得て、明日の昼過ぎ以降に決行予定です」
 対策本部が導き出した解決策は、対象地域の一斉調査だった。その為の機器、人員の配備はすでに完了している。
「こういうときのための総務省だろうが。ここで活躍できなければ、ユニバーサルサービス料なんて誰も支払わなくなるぞ」
 捨て台詞を唾と共に吐き出した甲斐田が、肩を怒らせて立ち去っていった。
「大口法人への謝罪行脚中に立ち寄ったようですね。不機嫌なのも無理は無い」
 稲村が苦笑しつつ肩をすくめた。
「難癖の行き場が無くて、とりあえず我々にぶつけてきたんでしょうよ。プレッシャーをかけて物事を解決する悪癖がついているようだ。ああいうタイプは仕事仲間にしたくないものですな」
 厄介者の後姿が遠ざかるに連れて、安河内が語る本音が声高になっていく。場の雰囲気に嫌気が差した稲村は、無言でその場を辞した。



「あっ、FAX来てる」
 啓子の台詞を聞いた鮫島が、届いたFAX用紙を急ぎ確認する。
「昨日の電波障害、本物でしたね」
 FAXに目を通した鮫島が、啓子の前に置いた。
「21時から翌1時間は通話可能という点がいかにも怪しいですね」
「ええ。電波障害が人為的にもたらされている可能性は高いでしょう。レッド狙いの強い悪意を感じるわ」
 鮫島の洞察に対して啓子も同意を示す。
 21時から翌1時までは、シルバーモバイル最大の武器〈レッドプラン〉で通話無料にならない時間帯である。ちょうどこの時間帯だけさけて通話不能になるということは、悪意を持ってキャリアを狙い撃ちしている証拠と言える。
「これは大きなチャンスですよ。最大限活かすべきです。私たちが良心の呵責を感じる必要はどこにもない」
 鮫島が眼光鋭く力説する。彼の性格なら当然そう考えるだろう。しかし、啓子は人の弱みに付け込んで契約数を伸ばすことに抵抗を覚えていた。
「そうですよ。ほらほら、家族連れゲットしたよ。ゲーム機一番乗りぃ!」
的野が昨日獲得した家族連れの申し込み用紙をひらひらさせている。
「込書を雑に扱わないで! 開店の準備、まだ終わってないでしょ」
 啓子は的野を売場へ追い払うと、真剣な面持ちで鮫島と向き合う。
「需要があるのであれば、しかるべき準備はします。在庫も用意したし。ただし、レッドからの乗り換え希望者に対して、できれば電波障害は一時的なものである可能性が高いと伝えてほしい……」
「……久野さんの話、今回は同意しかねます。あなたのことは認めていますが、相変わらず、人が良すぎるのが最大の欠点ですね」
 眼鏡のブリッジの真上に深い皺を刻みつつ、鮫島が反論を述べる。
「そこまでしてライバル社を擁護する必要はないでしょう。そもそも、シルバーモバイルは今まで自社のインフラ整備に消極的だった。そのツケを、どこかで払わないと、根本的な意識改革はできないでしょう。今回の件はいい薬です」 
 弱々しく吐息した啓子の表情は冴えない。いつもは勝気そうな眉毛から鋭角なラインが消えている。
「あなたを不愉快にするつもりは毛頭ないが、よく考えてください」
 語気を抑えた鮫島は、話を切り上げると売場へ戻っていった。啓子は頬杖を突き、誰も居ない壁側に遠い眼差しを向けていた。
 鮫島が入社して間もない頃、啓子と鮫島はよく意見を戦わせていた。『自分ならこうする』という明確な行動指針を持つ鮫島とは、激しい口論をしたこともある。
 共に働く期間が長くなるにつれ、次第に鮫島の方が啓子の意見に従順になっていった。働きぶりを間近で見て、啓子の能力と責任感の強さを徐々に認めていったのだろう。啓子の方も、彼の性格を他のスタッフにはない得がたい個性だと認識して、次第に認め合うようになったのだ。
 今回のケースは鮫島が言うとおり、躊躇なく新規契約を獲得すべきなのだろう。このまま気持ちを固めずに、ぐらぐらした心境で接客に入るわけにはいかない。
 啓子が店内の様子を窺うと、自動扉の前に10人近い人だかりができているのが見えた。
「店長。これって、皆シルバー絡み?」
 的野が狼狽気味の様子で啓子に意見を求める。
「可能性はあるでしょう。中には下見だけって人もいるかもしれないけど……」
 目を見張った啓子が瞬きを止めてその光景を見やる。
「在庫は夕方の3時頃に入ってくる予定です。予約も積極的にとっていきましょう」
 鮫島が朝礼代わりの号令をかけると、周囲の二人がそろって動き出す。
 時計の針が10時をさす1分前、ガラス越しのプレッシャーに負けた的野が扉を開錠する。開業時の盛況を超える、怒涛の一日が始まろうとしていた。



「あれっ。まだ携帯つながらない」
 怪訝な表情で制服姿の女子学生が唸った。彼女が手に持った携帯電話には、まばゆいばかりのビーズがたっぷりデコレーションしてある。
「メールは駄目なん? 確かめてみーよ」
 相手のディスプレイを覗き込みながら、もう一人の女子学生が言う。
「メールも駄目だった。ユカリはどうなん」
「あたしのレッドつながるよ。やっぱシルバーやけん駄目やないと~」
 ユカリはそう言うと、ディスプレイの電波マークを相手にひけらかす。
 色黒で大柄なユカリが胸を張ると、異様な迫力がある。付属品だらけで容積を増した携帯も、彼女が持つと普通のサイズに見えるから不思議だ。
「くっそ~、頭来た。解約してやろうかな」
「でもマリエ、2年契約結んどるやろ。多分解約金掛かるよ」
「それなら2年以上使っとうけん大丈夫」
「いいや、2年ごとにある更新月やないと解除料かかるよ。知らんかったと?」
 得意げに話したユカリは意外と携帯通だった。常に3大キャリアのカタログをチェックして、友人たちの良き相談役となっているのだ。
「マリエそんな話ぜんぜん聞いてない。バーリチャクくない、それって。店員に文句言ってやろ」
 契約時は機種だけ決めて、説明は上の空で聞いていたことなど忘れたことにするつもりだ。
「あたしの彼氏もシルバーだけど、ぜんぜんつながらない。上りも下りも駄目なのか……」
 事態の深刻さに気が付いたユカリがうなだれる。
「ちょうどいいや。キツネに直接文句言おっと」
 二人は高校の情報処理演習の授業を受け終えたばかりで、目前のデスクトップパソコンでSNSにアクセスするところだった。むろん教室ではご法度だがお構いなしだ。
 SNSをする著名人は多いが、その中でもシルバーモバイルの佐田松は飛びぬけて熱心なことで知られている。普段は男性歌手グループの追っかけよろしく、特定の相手のつぶやきしか見ないマリエたちだったが、珍しく別人にアクセスする新鮮さに興味津々だった。
 SNSは佐田松及びシルバーモバイルに対する批判のメッセージで埋め尽くされていた。ページが不特定多数の悪意で目まぐるしく更新されていく。
「ひょっとして、これって戸園だけなんかな」
 高速で更新されていくメッセージを注視していたユカリが言った。
「これっておもしろそうやん。あたしも言ったろ」
 言葉の波に便乗して、にわかの愉快犯となったマリエがキーボードを叩く。アイシャドウの下の瞳が、陰湿な加虐心で燃え上がる。
『アタシ、親指族の族長なのに、携帯つながらなくて皆に示しがつきません。ドーしてくれるんですか、コレ』
 批判の文面に、マリエの語呂の乏しさがもろだしになってしまう。だが、直後の予想外のレスポンスに二人は目をむいた
『すみません族長。すぐに復旧させるので、しばしお待ち下さい』
「ええ~っ! マジで」
「まさか本物の社長? 嘘やろ」
 勢い良く立ち上がったマリエの短いスカートが跳ね上がり、パンツが丸見えになる。
 そのメッセージは、たった今佐田松から送られてきたものに違いなかったからだ――。

――所変わって、シルバーモバイル本社の社長室。佐田松の指がキーボードの“I”を離れると、非難一辺倒だったSNS上のメッセージが賛否に二分されていく。それを見ても(やれやれ)という、呆れに近い感慨しか浮かばない。
『ユーザーと直接対話するもっとも身近な社長』というポジションを獲得するため印象作りに勤しむ佐田松だったが、焼け石に水をかけるような単調作業には嫌気が差していた。
 最初に電波障害の報告を受けたときは高を括っていた。多くのユーザー同様に、いつもの基地局の不具合だと考えたのだ。しかしそれが長期化するにともない、見通しが甘かったことを痛感しつつある。
 保守担当責任者は、戸園近辺の基地局には不具合は発生していないと言い張っている。同時に地元の電波を監視していた総合通信局から、何者かによる意図的な妨害である可能性が高いという報告が入っていた。
 SNS上で好き勝手に毒を撒き散らすネット上の住人が、犯人と同様の愉快犯めいて見えるのが腹立たしい。原因が何者かによる工作だという点は、ごく一部の関係者を除いては知らない状況のはずだが……。
『おい、化け狐。冗談も休み休み言えよ。こちとら携帯がつながらずに仕事にならないんだ。親指族なんか放っとけ』
『みんな、こんな糞キャリMNPで脱出しようぜ。カイザーかレッドだったらまず安心だ。レッツエスケープエブリワン!』
 中傷的なコメントが佐田松の胃酸を煮沸させる。我慢しながらつぶさにチェックしていたが、それも限界に達した頃、そのメッセージが表示された。
『突然だが、お宅の基地局に爆発物を仕掛けた。妨害電波発生装置をひとつでも撤去してみろ、ドカンだよ』
 佐田松の形相が一変した。同時にSNS上も疑問の言葉で溢れかえる。
『悪戯自重しろ。いくらなんでも笑えねーよ』
『でも現場には警官みたいなのがぞろぞろ。これって本物やないと?』
 報道協定終結下での情報漏れはあり得ないはずなので、単なる当てずっぽうとは考えにくい。しかしひょっとすると、佐田松に対して内心で反抗心を持つ身内かもしれない。そう思いかけたとき、同一人物から2つ目のメッセージが届いた。
『嘘だと思うのなら、妨害電波の発信源の数を当ててやろうか。18だよ。すでに撤去した2つは数に含めないで数えた場合だがな』
 コメントを確認するなり、佐田松は犬のストラップを掴んで携帯電話を手繰り寄せた。当然現地への確認のためだ。
「本物なら動けない。厄介なことになったな……」
 リアルにつぶやいた佐田松は、眉間の皺を人差し指で強くなぞった。



 朝1番から始まった戸園店への来客者の波は、昼過ぎにピークを迎えていた。
 カウンター前の椅子はすべて埋まっている。スタッフの数が足りずに、1対2、もしくは1対3での応対を余儀なくされている。電話問い合わせもひっきりなしで、スタッフはてんてこ舞いだ。
「お客さま。もしご了承いただければ、2組同時にご説明をしたいのですが、構いませんか」
 啓子が目前の家族連れ2組、計5名を前に提案をする。普段ならとらない手法だが、現状では仕方がない。
「お客さまの個人情報はけして表に出しません。個別の対応が必要な段になったら、仕切りを立てますので」
「早く済むのなら別に構わないよ」
 父親二人に承諾を得た啓子がさっそく説明に取り掛かる。基本事項の説明を終えた後は2組に分けるつもりだ。
 来客者用のソファーには窮屈そうに4人の大人が座っている。その一人ひとりに、鳥飼が作ったばかりの即席の整理券を配っていく。
「データ転送の時間などで、多少お渡しが前後するケースもありますので了承下さい」
 鳥飼が店内の喧騒に負けないよう、声を張った。
 バックヤードでは御国が受付の処理を担当していた。表でスタッフが受け付けた新規、機種変更の処理とデータ転送をパソコンで行なう。新規契約の半数はファックスで登録し、契約センターからの連絡を待っている状況だ。
「こりゃあ回らん、大変なことになったね」
 バックヤードに端末を取りに来た的野を見て、御国が声をかける。的野が苦笑しつつ売場に戻ったとき、出入り口で鉢合わせになった鳥飼が驚きで目を丸くした。
「あっ、ごめん。それさっき予約の電話入ってる」
 鳥飼が手の平を合わせて的野に詫びを入れる。
「参ったな。この機種一台しかないんだよなぁ……」
 そう言いつつも、的野は端末を棚に戻して客の説得を始めた。その一部始終を聞いていた啓子が、接客を中断してバックヤードへ向かう。
「鳥飼さん、何で予約の電話が入ったらすぐにフセンを張らないの。そういう当たり前のことができないようだと、また手ひどいミスをするわよ」
 うなだれる鳥飼に対し、啓子は強い調子で非難する。
「すみません、気をつけます」
 鳥飼は端末に予約済みのフセンを貼ると、肩を落として売場に戻っていった。
「啓子ちゃん、今のはちょっと棘が利きすぎだろう。特に鳥飼さんは休みを返上して来てくれているのだから」
 御国が啓子をやんわりと諭す。彼はスタッフを傷つけるような叱責を好まなかった。
「すみません。私、ちょっとテンパッテました」
 多忙からくる興奮を怒気に変えてしまったことに気が付き、啓子がうなだれる。。
「久野さん、お客さまがお待ちです」
 啓子は声をかけてきた鳥飼に先ほどの態度を詫びると、なかば戦場と化した売場へ戻っていった。



 閉店後の店内、カウンターとバックヤードには申込み用紙の控えが散乱していた。売場の待合スペースも、読み散らかされた雑誌などで雑然としている。
 その中で、スタッフ全員ゼンマイが切れた人形のように動きが止まっている。嵐が去った後の静けさを堪能している様だ。
 人心地ついた鮫島が、かすれた声で皆に呼びかける。
「ともかく、込書の控えを集めて契約数を確認しましょう」
 鮫島の発言をきっかけに皆がもぞもぞと動き始める。
 バックヤードの事務机に今日はじめて腰掛けた啓子は、収益計算を開始しようとしてやめた。時刻はすでに午後9時半を超えており、このままだと帰りが11時過ぎになってしまいそうだったからである。
「新規の件数だけ社長に報告しましょう。入力は明日に回します」
 接客スペースに顔を出して皆に伝えたとき、両手に買い物袋を抱えた御国が入店してきた。
「プリンターのインク、ギリギリで買えたよ。それ以外にも必要そうなものを買ってきた」
 閉店ぎりぎりまで店内作業を手伝っていた御国だが、インクが切れそうになり急遽買い出しに向かったのだ。「きちんと発注しとくべきだった」と反省の弁を述べつつ、インクの補充にかかる。
「久野さん。入力と締めは俺がしておくから、予約分の発注が終わったらきょうは上がっていいよ」
 いつもなら遠慮するところだが、今日は御国に甘えることにした。
「皆、レジ閉めが終わったら上がって下さい。今日は本当にお疲れさまです」
 啓子の労いの言葉に皆の頬がわずかに緩む。
「結局何件出たんだろう。新規」
 休み返上で出勤してきた鳥飼が疑問を差し挟む。
「大体30件ほどと思うけど、良く分からない。けど、今日の数字は九州内で1位だったらしいよ」
 啓子の言葉に、皆が「おお!」という歓声を上げる。今までにない獲得件数だったが、まだそのことを喜ぶ余裕がない。
「コピー機に本確忘れがないかも確認しといて」
 指示を受けた的野がのろのろと動き出す。珍しく口数が少ないが、それも無理はない。彼は今日1日で10件以上の受付をしているのだ。
「皆、昼も食べていないから元気が出ないだろう。本当に今日は帰っていいよ」
 御国の言葉を受け、スタッフたちが帰り支度を始める。この調子だと明日以降も来客は多いはずだ。御国の言葉は、スタッフの体力を温存したいという気持ちの現れだろう。
 啓子が歯抜け状態になった在庫棚を仰ぎ見ていると、御国に声をかけられた。
「端末が足りない分は大久保さんが何とかしてくれるらしい。彼、ちょっと興奮していたよ」
 啓子はうっすらと微笑んだ。予約数を加味して発注数を考えるが、なかなか決定できない。いつまで電波障害が続くか予測できないからだ。
 驚異的な売り上げ増は、新サービスの効果や時期的なものもあった。だが、根本的な原因はシルバーモバイルの電波障害だろう。高収益となる他社から乗り換えが多いので、代理店としてはホクホクである。
 裏腹に、フェアではない売り上げという認識が啓子の表情を曇らせる。電波障害が人為的な仕業だとする噂が流れている点も、啓子の罪悪感を募らせる要因となった。
「数字が出た事は素直に喜んでいい。何もやましいところはないのだから」
 様子を見かねた御国が啓子を励ます。
 スタッフたちが帰路につく。それを見送った啓子は、道路の対面にあるシルバーモバイルショップに目をやった。すでに電気は消えていたが、その看板が夜の闇に紛れて鈍く光っているように見えた。



 御国は再び繁華街へ足を運んでいた。全く電話がつながらない鶴田に直接会いに行くためである。メールも送っていたがこちらもレスポンスがない。
 強く降りつける雨が原因で人通りは少ない。靴のダメージを最小限に抑えるために、水溜りを避けながら歩く。
 目的地である『激屋スクラップ』がある雑居ビルには迷わずに到着した。店内に入ると、都会の雨と汗が混じった饐えた匂いが御国を出迎えた。まっすぐカウンターへ向かうと、外国人のレジ番がエプロンをかけて本を読んでいた。
「こんばんは。鶴田さんはいますか」
 御国がスローペースで問いかける。彼がカウンター上に広げていた本が、日本語学習用であることに気付いたからである。
「ツルタさんはヤメられまタ」
 外国籍の従業員が、分厚い唇から片言の日本語を発した。これで精密機械の説明を客にできるのだろうか、という素朴な疑問が湧き上がる。
「アなたは、みクニですカ?」
 その問いに、御国が無言でうなずく。
「みクニには、これワタす、イわれてマス」
 折りたたまれたメモ紙を渡されると、すぐさま開いて内容を確認する。そこには汚い手書きの文字で9桁の数字が記されていた。
「このナンバーの意味は何か聞いていないか? それとも用紙を渡し間違えたとか」
 御国の質問に対しドレッドヘアの従業員はかぶりを振り続ける。
「ツルタに渡すように言われた?」
 メモ紙を目前でヒラヒラさせながら問いかけると、ドレッドヘアの動きが縦に変わった。これ以上彼とコミュニケーションをとる意味を見出せず、御国は店を出た。
 御国には鶴田が店を辞めたという事実が、悪い予感的中のフラグが立ったように思えてならない。もし妨害電波を仕掛けた犯人が鶴田だとしたら、彼の破滅は確実だろう。
 帰路の途中、渡されたメモ紙に再度目を通そうとポケットから取り出す。そこに垂れてきた雨水を自分の涙と錯覚した御国は、思わず目元をぬぐった。



「ありがとうございますぅ。またお越し下さいませ」
 接客を終えた児玉がお客さんを見送る。先言後礼も見違えるように様になっている。
 しかし、カウンターには先ほど使用した申込用紙が出しっぱなしにしてあった。見咎めた啓子はそれを勢い良くひっくり返すと、児玉を叱りつける。
「個人情報が載った用紙をカウンターに置きっぱなしにしない! いいですね」
「はいいっ。すみませんでした」
 鋭い剣幕で叱られた児玉が居住まいを正す。
「出たよ、久野さんの奥義‘畳返し’が」
 店の隅で様子を見守っていた鳥飼が、側にいる鮫島に耳打ちする。
 啓子は個人情報が載った用紙が表向きで置いてあると、その場で勢い良くひっくり返す癖がある。他のスタッフからは‘畳返し’と命名されていた。
「あんなに勢い良く裏返したらビックリするだろうに」
「私たちはあれで教育されてきたから。意識付けるには効果的よね」
 鮫島と鳥飼が小声でひそやかに意見を交わす。
 個人情報保護の重要性は年々大きくなっている。万が一大規模な流出を招けば、多額の損害賠償の発生や、営業停止のリスクすらある。
「でもまあ、説明はとても分かりやすかったよ。この調子で頑張ってね」
 啓子の称賛で児玉が明るい表情を取り戻した。
「私も早く一人前の正社員になりたいですぅ。そして、ここで長く働きます」
 児玉の決意表明に鮫島が応える。
「その意気ですよ。あなたなら万年バイトの的野より先に社員になれます。僕も不況だから転職はしません。久野さんもそうでしょう?」
「社長は好きなだけ居ていいと言うけど、どうだか。最年長の店責は70を超えているらしいけどね」
 啓子がそう答えると、周りの3人が興味津々で話に食いつく。先ほどまでの陰鬱な雰囲気はどこかへ消え去っていた。



「ぶわ~っくしょい! ういっ」
 豪快なくしゃみをもろに浴びた初老の男が、思わず手の平で顔を拭う。手の平についた粘着質な唾液を恨めしげに見た彼は、くしゃみの発生源に罵声を浴びせた。
「源さんそりゃないだろう。たまに店に来てやったのに、ひどい出迎えだな」
「誰か俺の噂話をしてやがるな。遠距離口撃を仕掛けるたぁ、卑劣な奴だ」
 総白髪の老人が、人刺し指で鼻をこすりながら一人ごちる。
 くしゃみをぶっ放した老人は、秋吉(あきよし)源蔵(げんぞう)77歳。レッドモバイル与那国島店の店長である。後期高齢に差し掛かっているが、富士額の生え際からは短髪の白髪がびっしりと生え揃っている。常にへの字に結んである口元からは、彼の頑固さが垣間見えた。
 レッドモバイルのショップスタッフの中ではぶっちぎりの最年長であり、キャリアの社員からは‘孤島の最長老’とあだ名されている。携帯ショップが欲しいという住民の強い要望の実現時、販売員がどうしても必要となった。そこで、すでに定年を迎えていた秋吉に白羽の矢が立ったのだ。
 元経理責任者の経験を買われて抜擢されただけあり、一通りの業務は難なくこなす。気が強すぎてマイペースな点が玉に傷だが……。
「とりあえず座れよ秀次郎。熱茶でも出してやるから飯にしようぜ」
源蔵はそう言うと、唾液にまみれた秀次郎にポケットティッシュを手渡した。秀次郎は後頭部の白髪をシャリシャリ撫でながらそれを受け取る。彼は源蔵の数少ない友人の一人だった。
「今日は別に昼飯を食いに来た訳じゃない。簡単携帯の調子が悪くってさあ。修理に出してくんねえか」
「修理だあ? んなことやってたら、俺のレト味噌が冷めるだろうが! 飯を食いおわってから出直してきやがれ」
 源蔵節の直撃をもらった秀次郎が天を仰ぎ見る。
「毎月500円余計に支払ってるから、ただで修理できるんでないの。ほら、確か紛失時リカバリさポってやつだべ」
「リカちゃんさポ……それって何だったっけか?」
 源蔵が大ボケをかます。満足に勉強しない上に物忘れが激しいので、最近脳みそが軽量化していると嘯いていた。
「本州のレッド社員が、交通費を出すから研修に来いってうるさいんだけど、面倒くせえんだよな。俺、勉強は中学で卒業済だから」
 中卒で定職に就いた源太が自嘲気味に吐き捨てる。
「島の若い者は皆本州に行っちまうもんな。ここは源さんに粘ってもらうしかないよ」
 カウンターに置かれた沢庵をポリポリやっつけながら秀次郎が言う。
「修理に出してもいいけどよ、本州のメーカー宛に送るから、確実に1ヶ月以上はかかる。それよりも機種変えしないか。最新機種が勢ぞろいよ」
 季節は春を迎えているのに、昨年の夏モデルしか展示していない。埃をかぶったプライスを見た秀次郎は、素っ頓狂な声を上げた。
「4万だぁ? ボッタクリもいい加減にしろよ源さん!」
「違うよ、それは分割で払えるんだ。それに、月の電話料金も少しばかり安くなるから安心しな」
 弁当をがっつく手を休めて源蔵が解説する。飯を食べながら接客する様は、キャリアの社員が見たら絶句だろう。
 何やかや言いつつも、源蔵はこの仕事を気に入っていた。定年を越えても役割があることは素晴らしい事だとしみじみ実感する。長く働くには寿命の方も粘り腰が必要だが、今のところその心配もなさそうだ。
 源蔵は箸を白飯の上に垂直に突き刺すと、機種変更の申し込み用紙を棚から取り出した。



 残務を終えた御国は、そのままバックヤードのソファーに深く身を沈めていた。時刻は21時を越えており、店内には誰もいない。本来なら家族が待つ家に帰るべきだが、今は無性に一人になりたかったのだ。
 手元の携帯電話のテンキーを何気なく撫で回していると、ふと、ひらめいたことがあった。スーツの胸ポケットに手を突っ込み、しわくちゃになったメモ紙を引っ張り出す。
 携帯電話の説明書の、レッド国際電話サービスの欄を開く。記載がある国番号に、メモ紙の数字と一致するものがないか見比べた。すると、マレーシアの国番号と一致したのだ。
 その番号を付加して鶴田へ発信する。呼び出しのコール音は10回前後で止んだ。御国は耳たぶに携帯を押し付けて、スピーカー先の様子を窺う。
「気が付いたようだな。さすがに代理店1つ背負っているだけのことはある」
 鶴田の第一声を聞くと、堰を切ったように質問が飛び出す。
「戸園地区で起こっているシルバーの電波障害。仕掛け人はお前だな」
 御国の口内に生唾がジワリとにじんだ。
「ご明察。番号の意味に気が付いたら、教えてやろうと決めていたんだ」
 鶴田が吹っ切れたように明快に答える。
「自分が何をしているかわかっているのか。妨害電波と爆弾騒ぎで戸園の街は大混乱だ。一体どう責任をとるつもりだ」
 取り乱した御国が矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
「もし俺とお前の繋がりが明らかになったら、あらぬ疑いをかけられるかもしれんな。せいぜい気をつけることだ」
「そんなことはどうでもいい。何故戸園を標的にしたんだ? 他にもターゲットになる地域はいくらでもあったはずだ」
 しばしの沈黙が落ちた。
「どうせ連中に仕返しするなら、ついでに誰かの助けになりたかったのさ。そこでお前の事が思い浮かんだ。正直、経営苦しかっただろう?」
「余計なお世話だ! 俺がそんな汚い助力を喜ぶと思うか? 見損なうなよ」
「くっくっく、その性格は良く分かっているよ。まあそう興奮するな。お前の鼻息がノイズになって、話が良く聞えない」
 鶴田は真剣に御国を窮状から救おうなどと考えて行動に及んだ訳ではなく、言うとおり、“ついで”だったのだろう。
「妨害装置を撤去したら基地局を爆破すると言っているが、あれは本気なのか」
「ああ、もちろんあれはブラフだよ。なんの仕込みもしていないしな」
 鶴田はあっさりとそう答えた。気楽な論調なので、御国には真偽を推し量ることができない。
「なら何故あんな脅しをかけるんだ。自分の立場がますます危うくなるだけだろうが」
「ある筋から、シルバーから金を抜こうという相談があったのさ。株が絡むので、時間稼ぎが必要だったわけだ」
 得々と持論をぶちまける鶴田の声色には、陰欝な響きがあった。
「誰も俺を裁くことはできない。正当な復讐を粛々と行っただけだからな」
「逃げ切れないぞ。お前に安住の地はない。それに、逃げ切ったところでなんになる。 自分の人生に対して後悔はないのか」
「ギャンブルの掛け金を他人に出させておいて、負けたら知らん顔という厚顔無恥な真似は金輪際やめろと言いたかったのさ。これは何もシルバーモバイルに限ったことではなく、多くの代理店を統べる大企業全てに当てはまる論理だと思うぜ」
 昔の口調に戻った鶴田が粛々と語る。
「今回の事件でキャリアの体質が露になり、世論のプレッシャーが強まるだろう。今でも飼い殺しにされている店舗のオーナーたちに少しでも救いの手が差し伸べられれば、と真剣に願うよ」
 御国は無言を通した。事件で被害を受けた者の立場を思いやると、一部でも肯定の言葉は述べたくない心境だった。
「俺は日本のことが好きだった。もう一度だけ、桜を拝む事ができれば御の字さ」
 御国は今の通話を、携帯電話の機能を利用して一部始終録音していた。この内容は警察に聞かせることになるだろう。
 “友を売る”という罪悪感はほとんどない。鶴田は相応の事をしているし、御国は自分の身と、なによりも会社を守らねばならぬ身だ。
 しばらく無言の携帯電話からは、遠く海外にいる鶴田の寂寥の思いが伝わってくるようだ。話を続けたいという気持ちを振り切ると、御国は静かに切電のボタンを押した。



 シルバーモバイル社が管理する掲示板【銀色ちゃんねる】は、電波障害発生直後から事件に関するスレッドが乱立し、悪意に満ちた言葉の炎で炎上していた。
『相手が愉快犯であれ、付け込まれるような隙がある方に問題がある。日ごろからあくどい商売やってるからだろ』
『いい加減にしろよ、化け狐が。とっとと復旧しろ』
『だけど、元凶は犯人だろうこれ。迷惑千万なヤローだ』
『CMばかりに金をつぎ込んで、いつまでたっても設備投資をしないからこうなるんだ。自業自得だね』
『所詮、ヤスカロー、ワルカローの駄目キャリじゃん。カイザー使ってる俺勝ち組』
 元々シルバーモバイルには、悪名高い金の亡者というイメージが先行している。ネット上の匿名の愉快犯は、その印象に付けこんで掲示板に油を撒き散らしているのだ。週刊誌やワイドショーにも毎日のようにとり上げられ、シルバーはほぼサンドバック状態である。
 電波障害の実害は、戸園一帯の3万人弱が被っている。さらに風評被害が広がり、九州全域でレッド離れの兆しが見え始めている。
 啓子が掲示板のタブを最小化すると、ディスプレイ上に今月の収益計算表が表示された。まだ月半ばだが、新規契約数は当初の目標の250件を優に超えていた。このままのペースでいけば、収益は着地400万円の大台に達するだろう。戸園店過去最高の実績だ。
 啓子は一人バックヤードのパソコン前に佇んでいた。冷えきった弁当の残りを箸でつまむと、ゆっくりと口に運ぶ。味のしない米粒を舌先で転がしていると、ふいに横合いから声をかけられた。
「今日も大漁だったようだね。計算代わろうか」
 いつの間にか御国がすぐ側にいた。売場への出入り口付近の壁に、腕を組んで寄りかかっている。
「いえ。もう事務仕事は終わっていますから」
「じゃあ、早く上がったほうがいい。皆は先に帰っているじゃあないか」
店は30分ほど前に閉店している。啓子は昼間の喧騒から解放されてもぬけの殻になっていた。
「上の空だけど、なにかあったの?」
 御国の問いに対して、俯き加減の啓子が小声で話を始めた。
「最近の好調に納得がいかないんです。まるで他人の弱みに付け込んでいるようで、気持ち悪いって言うか……。数字が出ている事は喜ばしいことなんですが」
「レッドモバイルの顧客満足度は今年もナンバーワンだったらしい。各種コンテンツに料金プラン。もちろん通話品質もくわえて、総合的に評価されてのことだ。提供しているサービスにはもっと自信を持っていい」
 御国の話はもっともだが、この場合、話のすり替えと言われても仕方ないだろう。啓子は、シルバーモバイルの電波障害でユーザーがレッドに流れていることを言及しているのだから。
「もちろん自信は持っています。だけど、今回は自力で作った数字ではない事は、良く分かっています」
 あくまでも話を逸らさない啓子に対して、御国があらたまって声をかける。
「正々堂々と戦って勝ちたかったわけだ」
「もっとガップリ四つに組み合って、豪快な上手投げでひねってやりたかったな、と」
 中腰になった啓子が相撲取りの真似事を披露する。その目元は笑っていなかった。
「だけどもし、五分五分の状態で戦ったら、今年の繁忙期は敗れていたかもしれない。すでに上手は取られていましたから」
 キャリア間の勢いでは、レッドはシルバーに圧倒されていた。店舗スタッフが最大限努力しても覆せない差というものがあるのだ。
「最善を尽くして敗れたのであれば納得がいったと思います。でも、今回は不戦勝のようなものでしょう」
 御国が啓子の後ろ姿を見ると、アンバランスに左の肩が下がっていた。啓子が落ち込んだときに見せる、昔からの癖だった。
「これだけ忙しい中できっちり店が回っているのは、君たちの日々の積み重ねが活きた結果じゃないか」
 慰めの言葉を啓子に向けた御国が、決意を秘めた厳しい表情になった。
「悪いけど、今後しばらく店に入れないかもしれない。その間は皆で力を合わせて頑張ってほしい」
 啓子が物問いたげな眼差しを御国に向ける。
「必ず、戻ってくるから……」
 そう言い置いた御国は、意味深な表情を湛えたまま静かに立ち去っていった。



 九州中央警察署前には、報道関係者が扇状に包囲の輪を作っていた。その肩にかけられたテレビカメラは、さながらロケットランチャーのように出入り口付近を狙っている。
 彼らのターゲットは、現在警察署内で事情聴取を受けている御国誠だった。
参考人としての出頭だが、電波障害事件の鍵を握っているという。さらにレッドモバイルの関係者らしいという情報が漏れ聞えており、報道陣のモチベーションに火を付けていた。
 報道陣から隠れるように、駐車場の端に1台の車が停められている。その車は外装にアニメ絵が派手にペイントされていた。ボンネットにロボットの顔面、フロントドアにはそれに搭乗する主人公が描かれている。
「なるほど。君が会社に車で来ない理由がわかったよ」
 助手席の鮫島が片手で頭を抱えつつ唸った。
「自重してたんですぅ。毎日店の前に停まっていたらまずいかな、と……」
 か細い声で答えた児玉が運転席で硬直した。
 戸園店は駐車場が広く、従業員も車で出社していいことになっているのだが、児玉が遠慮していたのは極めて常識的な判断と言えるだろう。
 御国が事情聴取を受けていることを聞きつけた児玉たちは、店の営業が終わってから警察署に駆けつけてきた。シフト上休みの啓子と的野は来ていない。
「久野さんどうしてるだろう。多分、心配でやきもきしてるだろうな」
 後部座席に深く腰掛けた鳥飼が、のんびりとコメントする。彼女は横長い目を細めてぐったりしていた。今日も店が忙しく、接客疲れが抜けていないようだ。
「しかし君ねぇ、この車のペイント何とかならないの? なんなら車自体買い直したほうがいいんじゃない」
 助手席で居心地悪そうに佇んでいた鮫島が、説教がましく自論を述べる。
「この車とは今まで人生の苦楽を共にしてきました。廃車なんてありえませぇん」
「この車こそ人生の“苦”の原因になりうるだろうに……」
 鮫島の表情は暗いままだ。悪名高い‘痛車’に乗らねばならぬ展開に、我慢ならないのだろう。
「私たちが乗っていることがマスコミにばれたらやばくない?」
 後部座席から身を乗り出した鳥飼が、もっともなコメントを述べる。素性がばれたら格好のネタにされるのは間違いない。
「確かにそうだ。児玉さん、くれぐれも慎重に行動してください。こんな車に乗っている様を放送されたらとんだ赤っ恥ですよ」
 鮫島のあんまりな言い草に、むくれた児玉が怒りのクラックションを鳴らす。鮫島は降参顔で静かになった。
「社長に何度も電話しているけど、繋がらないんだよね~。今頃怖い警官に絞られているのかしら」
「きっとカツ丼に夢中になって、電話に出られないだけですよ」
 児玉の冗談に鳥飼が吹き出す。同時に待機していたマスコミが動き出した。照明がいっそう明るくなり、カメラマンたちの動きが忙しくなる。
 警察署の出入り口から御国が現れると、マスコミが包囲の輪を縮める。容赦なく炊かれるフラッシュが、散弾のように御国の全身に降り注いだ。
「このままここに隠れていてもラチがあきませぇん。突撃しましょう」
 悪役を演じる御国を救わんと、痛車が発進した。
「ちょ、待っ。何をするつもりなんだ」
「社長を連れ出すに決まってます。今日はそのために来たんですよ」
 目を座らせて断言した児玉がアクセルを踏み込んだ。
「な、なんだこの車は?」
 けたたましいクラックションが、マスコミたちの喧騒を打ち消した。フェイント気味に直前まで加速した車の動きにつられて、報道関係者が散りじりになる。ほぼ寸止めで目前に止まった異様な車に、絶句した御国が棒立ちで立ちすくむ。
「社長。お迎えに上がりました」
 運転席から得意げに顔を出した児玉に対して、フラッシュの嵐が襲う。
「警察署付きの記者クラブにネタにされる日が来るとは。こんなことなら、おとなしく家に帰っておけばよかった……」
 まるで検挙された犯人のように、鮫島がスーツで頭を隠している。だがカメラのフラッシュは、アニメロボットのペイント周りを集中的に狙っていた。その様子を、まんざらでもなさそうに児玉が見やる。
 後部座席から車に乗り込んだ御国が、鳥飼の横の席に座った。車は小回りを利かせて反転すると、前方を塞ごうとするマスコミを器用にすり抜けて走り去った。
「被疑者ではなく単なる参考人なのだから。そこまでする必要はないのに」
 疲れ果てた様子の御国が声を絞り出す。
「すまない。今は疲れているから、説明は明日の朝にきちんとする。犯行に関わっているわけではないから、その点は安心してほしい」
 その点は言わずもがな。スタッフ全員が御国の無実を信じていた。
「でも今の行動って、妨害電波を撒き散らす愉快犯の仲間みたいね」
 鳥飼の余計な一言に絶望した鮫島が、再びスーツに頭を包む。
「すまないついでに、このままレッドモバイルの九州支社まで行ってくれないか。呼び出しがかかっているんだ」
 今回の痛車乱入騒ぎで、キャリアには始末書を書かされるかもしれない。御国はその文面を真面目に考えていたが、あまりにも馬鹿馬鹿しくて保留することにした。
 帰宅ラッシュで混雑する道路で信号待ちをしていると、児玉を除くスタッフ全員が羞恥心に襲われた。車の外装の事をすっかり忘れていたのだ。全身をコスプレして街中を闊歩している様なものだ。
 目前の信号が青に変わると、痛車がピンク色の残像を残して颯爽と走り去った。

4月

 御国が事情聴取で明かした内容が公表されると、レッドモバイルと御国本人に対する批判が一斉に噴出した。事実関係をよく吟味せず、表面的な印象だけで判断する大衆と、それを煽るマスコミにスケープゴートとされたのだ。
 しかし、憶測で報道されていた情報がより真実に近づくにつれて、世間の御国たちに対する非難は縮小していった。
 最終的に世間の矛先が向いたのはシルバーモバイルだった。犯人の動機が判明し、身から出た錆だと認識されたからである。電波妨害の実害も合わせると、目も当てられない惨状を呈する事となった。
 犯人の動機から、携帯会社の代理店運営にもスポットが当たった。
収益を出し渋り、不要になった店舗を足切りする実態が明らかになった。無秩序な経営計画のリスクを一身に背負わされ、倒産に至った代理店子会社の実例が赤裸々に暴露され、大衆からも同情の声が上がった。
 各キャリアは経営体質の抜本的な見直しを計ると宣言。ユーザーだけではなく、取り巻く人々全てを大切にするというメッセージを発して、ネガティブキャンペーンに必死で抵抗した。ユーザーを含む大衆は冷ややかな視線を送りつつも、今後の改善に期待を寄せた。
 犯人と目された鶴田英二(つるたえいじ)は、現在も海外に潜伏中であり、依然として消息がつかめていない。日本から追跡班を海外に派遣するほか、現地警察にも協力が求められた。まさに全世界に手配の網が掛かった格好だ。
 御国が持ち込んだ鶴田との会話の録音は、重要証拠として取り扱われる運びとなる。特に鶴田の身辺には徹底した調査が及び、4月後半には、鶴田英二が九州戸園地区シルバーモバイル妨害電波事件の実行犯と断定された。
 録音に吹き込まれた鶴田の発言には信憑性があると判断され、待機していた爆発物処理班の本格的な調査が実施に移された。その結果、爆発物の設置が虚偽である事が判明する。
 延び延びになっていたローラーが実行に移され、問題の妨害電波発生器は一網打尽にされた。装置は、主にPHSの簡易アンテナに擬態化していた事が判明する。
 シルバーモバイルの解約騒ぎも収束し、繁忙期も過ぎた携帯業界は静けさを取り戻した。世間の関心もほどほどに落ち着き、レッドモバイル戸園店にも平穏な日常が戻ってきたのだった。



 九州タワーの展望室にスーツ姿の男性2名が佇んでいた。
 周囲には数組の若いカップルのみ。だが、黄昏時を迎えつつある夕刻の色彩に二人の淡い色のスーツが溶け込み、けして場違いには見えない。タワーから見える街の全景に二人はしばし心を奪われていた。
「犯人が単なる愉快犯ではなく、元代理店社長だった点がクローズアップされて、シルバーモバイルにとっては踏んだり蹴ったりですよ。なにせ、元身内が犯人だった訳ですから」
 井上が長い沈黙を破った。
 約1ヶ月半に及ぶ『シルバーモバイル電波妨害事件』は、ついにその幕を閉じた。今回の件で、携帯キャリアと代理店間の問題がクローズアップされて、報道各社がこぞって取り上げている。代理店淘汰戦争の被害者の大胆な復讐劇という、前代未聞の珍事に注目が集まっているのだ。
「例の代理店社長は無実だったようで何よりだ。もしわずかでも関与があれば、事態は複雑になっていただろう」
 沖田が渋い表情でつぶやいた。レッドモバイルにとって唯一の懸念がクリアになり、同社の皆が胸を撫で下ろしていた。
「文字通りの対岸の火事に、うっかり巻き込まれるところでした。しかし今回の件、まったくの他人事ではありません」
 遠慮がちに咳払いした沖田がさり気なく周囲に目を配る。
「本日社長に進言したいことは、現在極秘裏に進められている弊社の代理店淘汰計画、あれを打ち止めにするべきだということです」
 沖田の言に、朗らかな社長の地顔に暗い影が差した。
「今回の繁忙期を終えて、さらに全国で16店舗が撤退を表明しています。もう充分でしょう」
「しかし君、最低でもあと50は削るべきだと言う意見が大半を占めているんだぞ。今後、残った代理店が経営の足かせにはならないのか?」
 軽く頷いた井上は、考え抜いた頭からゆっくりと台詞を吐き出した。
「我々は常に“お客様のために”というスローガンを掲げて本業界で戦ってきました。同様に、共に働く仲間たちも重要だと認識するべきです」
 力説する沖田の姿が熱を持ち、暮れなずむ九州の街を背景に赤い輪郭を描いていた。
「代理店を経営する中小零細企業の社長の中には、それこそ人生をかけて店を構えている者もいます。そして彼らも家族を抱えている。我々の都合で路頭に迷わせるわけにはいきません」
 仕事一筋の井上は自らが家庭を抱えているわけではない。だが、思いやりに満ちた彼の言葉には説得力があった。
「言いたい事は良くわかった」
 空を仰ぎ見ていた社長の視線が、はるか地上へと落ちた。
 代理店淘汰は極秘裏に進められていたが、今回の事件をきっかけに周知の事実となっている。マスコミの取材が自社に及ぶのは時間の問題だった。現実問題、これ以上強引な経営のスマート化は難しいだろう。
「ここに来たのは単なる観光以上の収穫があったようだ。今の話、会議で主張されても冷静に判断できなかっただろう」
今回の件を他の社員が知れば、井上のスタンドプレーだと野次るだろう。沖田はこの件を胸の内に秘めておくことにした。
「元々我々の目標は、業界内で過半数以上のシェアを築くこと。その為には今の店舗数ぐらいは必要だ。今後は現有戦力を維持して戦っていこう」
 握手を求める社長の右手を、井上が両手でしっかりと握り締めた。
「君にはもう一度現場に戻って欲しい。自分の目で見て、何をすべきか考えて私に伝えて欲しい。そのうえで店舗側も納得できる収益体系を確立しよう」
「承知しました。やはり私にはサービス企画は似合わない部署でした。手始めに、代理店の不正契約に一斉にメスを入れます。情変リスト1枚たりとも見逃しません」
 井上は情理で代理店保護を訴える一方で、経営者としては厳しい姿勢を貫くつもりだった。収益体系の確立には今までの現場での経験が活きるだろう。経営者と代理店、互いが完全にフェアな形で新たな船出を迎えるのだ。
 展望台から見える景色が色を失い、夜景にすり替わっていた。二人は地上に点在する小さな赤色のライトを愛しむ様に眺めていた。



 仕事明けの午後8時半過ぎ、啓子は近所の古びた商店街にいた。
 車1台がやっと通れるほどの1本道を、早歩きで進んでいく。道の両脇にある居酒屋や定食屋に、会社帰りのサラリーマンが吸い込まれていく様が横目に映る。彼らが1杯引っ掛ける前のウキウキ感で、夜の街の空気が浮ついていた。
啓子は、通行人が持つ携帯電話に目が行く習性を抑えられなかった。特に2年以上前に発売したレッドの端末だと、ついつい機種変更を勧めたくなってしまう。重度の職業病に内心苦笑しているうちに、目的の店に到着した。
 窓から漏れ出る炭火の煙に香ばしい焼肉のにおいが混じり、口の中にヨダレがにじみ出る。今日は炭火焼肉屋で『繁忙期・戦勝祝賀会』を開催する運びとなっているのだ。店の締めを任せられた啓子は最後に合流する予定だった。
「いらっしゃいませ~。ご予約はされていますか」
 店に入るなり、快活な笑顔の女性店員に出迎えられる。その後ろで皿を片付けていた男性店員が啓子の姿を確認すると、半歩前に出て挨拶を交わした。
「いつもありがとうございます。会社の方、奥でお待ちですよ」
「お邪魔します。久々に美味しいお肉をやっつけにきました」
半年置きの常連となっていた啓子が、顔見知りの店員に案内される。店内は軽快なBGMで活気に満ちており、箸が進む雰囲気作りに腐心しているのが分かる。
「いよっ。ボスのご到着なり~」
 的野がジョッキを掲げて啓子を迎える。啓子が席に着くなり、気を利かせた店員が生ビールを持ってきた。
「なんという仕事の早さ。誰かさんとは違いますね」
 鮫島が的野の方を見やりつつ突っ込みを入れる。
「鮫さん、そこで俺を出さないで下さいよ~。いじめは職場オンリーでっ!」
 皆、修羅場だった繁忙期を乗り越えた開放感で、気持ちが晴れやかになっているようだ。
「久野さん、お疲れさま~」
 隣に座った鳥飼からジョッキを合わせ、順番に1回り乾杯を済ますと、啓子は一気に大ジョッキの3分の2を飲み干した。
「う~ん。この味は、サッポロのプレミアムね」
 唇の端についた泡を舌で味わいながら、ビールの銘柄を当てる。
「すっげ。なんでわかるの」
 とっさにメニュー表を取った的野が、啓子に尊敬の眼差しを向ける。
「啓子姉さんが飲んベえだからよ」
 茶化した鳥飼に対して、啓子はアヒル口を突き出してむくれた表情になる。
「カルビを絨毯のように並べるっ!」
 肉奉行役となった的野がトングで肉を並べていく。啓子が到着するまで焼くのを遠慮していたようだ。七輪に肉と野菜が盛大に飾られていく。
「じゃあ最初の肉が焼きあがる前に、手短に挨拶をしようか」
 外で煙草を吸っていた御国が席に戻ってきた。
「皆。迷惑かけてしまって本当にすまなかった」
 席に座った御国が開口一番頭を垂れる。その顔には濃い疲れの色が滲んでいた。事件は解決したが、マスコミの取材攻勢は現在も衰えていないようだ。
「迷惑なんてかかってないですよぉ。忙しい中、裏処理をしていただき助かりました」
 スタッフ全員が御国に真剣な眼差しを向ける。
「俺自身が犯行に関わったわけではないが、完全に誤解なしの世間の目を期待するのは虫がよすぎるだろう。今後戸園店に対する風評被害が出るかもしれない」
 御国の悲観的な見解に対して、啓子も同意せざるをえなかった。犯罪者の家族や友人が色眼鏡で見られるのは、致し方ないことだろう。
「フェアでない収益が上乗せされたのは確かだ。だけど、これだけ多くの来客を捌けたのは、店長をはじめ、スタッフの日々の修練のたまものだろう。皆、良く頑張ったよ」
 社長が始めた拍手に合わせて、スタッフも手を叩き、互いの健闘を讃えあう。その拍手がおさまる頃を見計らって、御国が啓子にコメントを促した。
「日々の接客をひとつ一つ丁寧にこなしていく事で、再びお客様の信頼を勝ち取りましょう。幸い、繁忙期には大きな蓄えもできています。今日はたくさん食べて、消耗した分を補給してください!」
 盛大な拍手が止むと、皆の姿勢が食事モードに移行した。的野は早速、てんこ盛りにされた白御飯の上にカルビを次々と乗せている。
「こらこら。カルビ独占法違反で逮捕するわよ」
「そんな法律あるわけないでしょ。早いもの勝ちだよ」
 的野に対してお約束の突っ込みを入れた啓子も、今日ばかりはダイエット解禁で旨肉を平らげるつもりだ。
「何これ。うめぇ~! こんなうまい肉は、生まれて初めてだ」
「本当ですぅ。舌がとろけそう!」
 初めてこの店に来た的野と児玉が、佐賀牛カルビの初体験に感動しているようだ。
「ああ、それと忘れてた」
 御国は焼肉に伸ばしかけた箸を的野に突きつけた。
「的野君。来月から社員昇格っ」
「よっしゃ~!!」
 歓声を上げる的野に対して皆から拍手が送られる。対して、啓子のそれは振りだけで、手の平は宙を舞って空振りしていた。
「ちょっとそこの人! さては俺の昇格に危機感をもっているな? 店長の座が危うくなると……」
「んなわけないでしょう。次遅刻したら、時給500円のバイトに降格させるから覚悟しときなさい!」
「んな馬鹿な。労働基準法助けて~!」
 啓子が笑いながら拍手する間に、皆が的野と乾杯し直している。厳しい繁忙期の中、助け合いながら働いたスタッフ間には強い連帯感が芽生えていた。
 ワンランク上のスタッフに成長した仲間たちとともに、今後もレッドモバイル戸園店を盛り上げていこうと啓子は決心した。
 それにしても一山超えたあとの焼肉の味は格別だった。啓子は丁度よく焼きあがった特上カルビに舌鼓をうつと、仕事の事はいったん頭の奥にしまいこんだ。

5月 エピローグ

 ぎゅっと目を閉じると目蓋の裏に緑色の四角い光が明滅した。その光が完全に消え去るのを待ち、啓子はゆっくりと目を開く。
 目のピントが九州市街地の遠景に合い心地よい気分だった。視神経を伝って脳に喜びが伝わってくるのが分かる。それだけ電子画面に辟易していた証拠だろう。
 啓子は付き合っている彼氏と共に山腹の簡易展望台へ来ていた。らせん状の登山道の途中にある簡素な展望施設だが、無料で九州市街を一望できるので、デートスポットとして人気があるのだ。なかば休日返上で働いてきた繁忙期を終え、一息つける休日の昼下がりだった。
「にしても、こういう場所に来たいって言い出すの珍しいよな。普段はうまいものが食いたいの1点張りなのに」
「最近パソコンの入力処理に追われていたのよ。だから、アナログ的な自然に触れたいと思ったのかな」
 猫のように背伸びをしつつ、彼の疑問に答える。
 啓子の彼氏は4歳年上の31歳。厳つい風体でお世辞にもハンサムとは言えないが、聞き上手な性格は啓子との相性が良く、付き合いは4年目に突入している。
「面接受かりそうだ」
 並んで景色を見ていた彼氏がボソリとつぶやく。彼は前職を退社したばかりでフリーの身だった。
「お前、俺と結婚したいとか思うか? 仕事決まったら、プロポーズの予定なんだが」
「何、その相談。普通その相手にしないでしょ」 
 缶コーヒーを口角から吹き出した啓子が非難がましく言う。だが言葉に反して、表情には喜びらしきものが浮かぶ。
「ムフフ、あなたもそんなこと考えるんだ。ありがとう」
 そう言いつつ、現実的に結婚について考える。幾度も思案してきたことだが、携帯ショップの店長は主婦と兼業でやっていけるほど甘くはない。
「家事とかは、俺も手伝うよ。仕事のことは心配するな」
 啓子の思案を見透かしたように、彼が言う。
「じゃあここ予約しとくから。100万円ぐらいのやつよろしく」
 啓子が自分の薬指を指差しつつおどける。彼は優しげな苦笑を湛えて啓子を見つめた。
 この会話の本気度がどれほどの物なのか、当の啓子にも良く分からない。だが結婚したとしても、子供を産むまでは現職を続けられるだろう。その間に鮫島あたりが育てば、寿退社してもいいかなと考える。
 彼から市街地の遠景に視線を戻した啓子は、缶コーヒーを片手に、思わず空いた手を腰に添えた。そのまま本能に任せてグイッとラッパ飲みする。その瞬間、近くの草陰からシャッターを切る小さな音が聞えた。
                                了

とある携帯業界の日常

とある携帯業界の日常

平成19年。スマホ上陸前夜の激動の携帯業界の一幕をショップ店員目線で小説にしました。携帯業界の仕事に興味がある方や、当時働いていた方には懐かしく感じていただけるはず。リアリティはそこそこに抑え、当時の様相をやんわりと再現したつもりです。良ければお読み下さい。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-08-31

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